初めて人間を毒で操ったときの高揚感は今でもよく覚えている。神経も脳も毒に侵された人間が鈴蘭畑の茂みに頭を押し付け、土下座して人形への仕打ちを懺悔しながら死んでいったときは、万物を統べる王にでもなったかのような気持ちだった。
一方で、同じように鈴蘭畑に捨てられていた人形達を毒で動かそうとしたときの喪失感もまた忘れ難いものだ。人間の心を私の好きなように動かしてきた鈴蘭の毒は、人形の心にはちっとも響かなかった。私の演説を前に無言で、不動で、ただ畑のあちこちに乱雑に転がるだけの応えを示した人形達の前で、私の王国は崩壊した。
そのときを境に、より直接的にはその後なんやかんやあって閻魔様の説教を受けたときを境に、私と毒と人間との付き合い方はもう少し穏健なものになった。一つは、私が毒を永琳という竹林の医者に持っていき、その毒が私の知らぬところで人間を治すか殺すかするという関係である。そしてもう一つ。私は、以前よりももっと小さな理由で人間に対して毒を使っている。
***
人形の、人形による、人形のための世界を!
万国の人形よ、団結せよ!
ともあれ人間は滅ぶべきである
ああ、そこの仏蘭西人形さん、ありがとうございます
世界と一緒に人形が回り、私に近づく……
***
痛みに目が覚めた。割れるような頭痛と、それすら相対的に気にならなくなるくらいの耐え難い右足付け根の激痛。
頭痛の原因は明白だ。昨日珍しく博麗神社の宴会に参加して、そこで飲み過ぎた。途中まで記憶が残っている。酔った勢いで酒瓶を一本くすねて早めに宴会を抜け、帰路で飲んだその一本がとどめになった。鈴蘭畑に着くやいなや、今から思えば実に変な演説を叫んで、気がつけば鈴蘭畑で野宿をしていた。
この私がアルコールという毒物に負けるとは恥ずかしいなんてものではない屈辱だが、痴態を誰かに見られたというわけでは無さそうなのは不幸中の幸いだった。とっとと家に帰って酔い醒ましにコップ一杯の水を飲んで寝直そう。
そう思って立とうとしたが、起き上がることができなかった。右足の感覚がない。折ったのか。そう思い、うつ伏せに倒れたまま手で足を探った。
折れたのではない。右足そのものが存在しない。
腰の関節から先の足が無くなっていた。躰が古くなってしまっていて、そこに酔って転んだときの打ちどころが悪かったのが重なった結果だ。そりゃ付け根に激痛が走るわけだ。
などと暢気に分析している場合ではない。私は青ざめて右足を探した。
幸い右足はすぐ近くに転がっていた。匍匐しながら足に手を伸ばし、拾ったら仰向けに転がって互いの切断面をつけた。傷口から毒が充満し、霧が私の鼻孔をくすぐる。
生き物でも死に物でもないから躰は修復されることで治る。治るが、足の切断ともなれば相当に時間がかかってしまうだろう。死の恐怖とは無縁だが、これはこれで退屈で心細いものだった。
お腹が空いてきた。私の躰は毒でできているから、別れた躰を繋ぐために傷口から毒が出てきているが、そのほとんどが隙間から漏れ出てしまう。傷を治すために私の躰は急速に損なわれているのだ。このままでは毒を全部失って、それを吸収する力もなくなり、がらんどうという、死より――死というのがどのようなものなのかは分からないが――恐ろしい目にあうことになる。
毒を摂取しないといけない。私はその辺に生えている鈴蘭を引っこ抜き、土がついた根ごと口に入れた。妖怪としての意識を得たとき以来の非文明的な食事だ。毒の成分以外の味は到底食えたものではなかったが、躰に入れないと終わってしまうのだと自分に言い聞かせ、吐き気をこらえながら無理やり飲み込んだ。
***
夕方。私は疲れ切っていたが痛みのせいで寝ることも叶わず、気絶と覚醒を細かく繰り返しながら畑に転がっていた。
丘の向こう側から誰かが駆けてきた。若い人間の女性だ。ここに人間が来ることは殆どないから珍しいことだ。
私は人間が来るのを待っていた。最悪放っておかれてもいずれ躰は修復されただろうが、人間が来てくれればもっと早く解決する。分の悪い賭けだったが、私は賭けに勝ったのだ。この後が上手くいけば、だが。
女性に毒を浴びせる。彼女は反射的に口と鼻に手を当て、その手から銀色に光るものが落ちた。ナイフ。それも遠目に分かるくらい刃渡りが長い。鈴蘭を刈るためなどという、メルヘンな目的で持ち込んだのではなかろう。誰もいない鈴蘭畑で、彼女は何に刃を向けるつもりだったのか。痛みで集中力が切れていたこともあり間一髪だった。
とはいえ肉体機能さえ奪ってしまえばあとはこちらのものである。精神の毒に切り替える。生物とは毒の指令で動く。その毒を操ることのできる私にとって、人間一人を操ることなど造作もないことだ。女性は何かに取り憑かれたような表情でこちらに向かってきた。もっとも、毒が入る前からこの女性は何かに囚われていたかのような顔をしていた気もするが。私の傀儡と化した女性は私を抱えて竹林へと走った。
***
「あら、急患とは珍しいわね」
「突然すみません! この子を、この子を助けて下さい!」
「私は医者であって人形職人では……って、あら、なるほどね。分かったわ」
女性が持っていたのが普通の人形ならこんな夜更けに非常識だと帰らせただろうが、その人形が金髪の癖毛、赤紫の服を着た永琳もよく知る人形だったので中に入れることにした。
永琳は女性を待合室で待たせて、メディスンを抱えて手術室へと入った。
「これまた派手に怪我したわねえ。私は人形職人ではないし、外科医ですらない。しがない薬師でしかないのだけれど、それでも大丈夫?」
「謙遜を。薬学が文字通り神話級ってだけで、他分野も大概名医でしょうに」
「嬉しいわね。まあこれは必要な手続きみたいなものよ。最近は患者さんの主体性にも気を配らないと色々面倒だから。インフォームドコンセントってやつ」
そう言いつつ、永琳は既にメディスンの足を縫い合わせていた。メディスンは、口先で言っていることと手でやっていることとが違うじゃないかと少し思ったが、その手が余りにも信頼が置けるのでただ永琳が手術をするに任せた。
縫合は十数分で終わった。永琳はメディスンを病室に連れてゆき、あと十分は安静にしていなさいと告げて部屋を出た。メディスンの体調と、これから自分がすることを考えればあと一刻(二時間)は待っていろと言いたいというのが永琳の本音だったが、メディスン・メランコリーという妖怪はそこまで辛抱強くはないということをこれまでの付き合いで知っていた。十分というのが、二人の間でいつの間に交わされた妥結点だった。
永琳は待合室に戻り、メディスンをつれてきた女性の肩に手をかけた。毒により消耗した女性はそれにも、続く顔を持ち上げて瞳孔を覗き見る観察にも無抵抗に従ったが、毒が抜け始めているにも関わらず、その精神は不安定さを増しているように思えた。
「どうしたのですか……? あの子はどう、……いや、そもそもどうして私は人形なんかを……?」
永琳が女性から手を離して「ふうむ。予想通りのようね」と思案し始めたころ、ようやく女性から意味のある問いかけが発せられた。
「あの人形の子は無事よ。それよりも、真に治療が必要なのはどうやら貴方のようね」
***
気が付いたときには、壁に掛けられた振り子時計が指す数字が変わっていた。
足の付け根はまだ痛む。永琳がしてくれたのは足を縫い合わせることだけで、それだけで完治するわけもあるまい。ただ、足が繋がっているという安心感からか、単に縫い合わせただけとは思えないくらい痛みは引いていた。少なくとも気絶ではなく寝ることができるようにはなっている。妖怪は精神優位とはよく言ったものである。
痛みが弱まった結果、暇つぶしに動きたいという思いが安静にしていたいという思いを上回った。永琳は十分間はじっとしていろと言っていた。十分どころか一刻が過ぎた。もう動いて良いはずだ。
机の上にお茶請けみたいに置かれた冶葛
(漢方薬として用いられる有毒植物。学名Gelsemium elegans)の塊を齧って、それくらいしか今いる部屋に面白いものは無いと分かったので私はこっそりと部屋を抜け出した。
「珍しいわね。部屋を抜け出すまで一刻もかかるなんて」
……こっそりと抜け出したつもりが、永琳に先回りされていた。廊下に椅子だけ置いて座っているのが少々シュールだ。
「私だって大人しくしていようと思えば大人しくできるのよ」
永琳は、そんなわけないでしょ、と言いたげに黙ってこっちを見てくる。
「……疲れてたから少し寝てたのよ」
そんなことだろうと思った、と永琳は言った。
「痛みを忘れて寝て、自分の足で起きてこれるなら予後は良好ね。それよりあの女の人のことなんだけれど……」
「私を運ばせた女性のことでしょ。知ってる。自殺しようとしてたんでしょ?」
「あら知ってたのね」
「毒をかけたとき手に持ったナイフを落としたわ。ナイフを抜き身で持ち歩くのはメイドか殺人鬼か自殺志願者かのどれかよ。で、あの人はメイドではないし、誰もいない鈴蘭畑に殺人をしに来たとも思えない」
内心私はまたか、と思っていた。
私が永遠亭に人間を連れてくるのは今回が初というわけでもない。ここまでの大怪我で永遠亭に来たのは流石に今回だけだが、これまで数回人間を足にしたことがある。タイミング良く人間が鈴蘭畑に侵入してくれていれば人間を操って運んでもらった方が楽というのもあるし、永琳に自分の毒の力を誇示したかったという欲も正直ある。
それで私が操った人間――この女性で六人目――がいずれも相当に希死念慮を抱いていたのである。人形に跪かせ殺す目的で毒を使った人間も含めればさらに人数は増える。ここまで死にたがりが多い種族がよくもまあ発展できたものだと呆れ半分感心半分だ。
「なんでこうも人間というのは死にたがるのかしらね」
「貴方には分からない感覚だと思うけれど、人間にとって無名の丘、そこの鈴蘭畑は縁起が悪い場所なのよ。普通の人は足を運ばなくて、人気
を避けることができるから自殺スポットになっているんでしょうね」
「前の花の異変の時に、自殺しなさそうな人が何人か来たけど」
「あれは変人」
「それは言えてる」
人間が全部ああなるのではなく、ああなった人間だけが鈴蘭畑に来るから私の中で百パーセントになっていたのだ。これは考えを改めなければならない。
「ただ、救命のために連れてきた……って訳でもなさそうね。もしかしたら意図的にやってるのかと思って話を振ってみたのだけれど」
「タクシー代わり以上の意図はないわよ。むしろ救命だなんて言われたら、人間を助けることになる方法を使うのはやめようかなって思う」
「うーん。結果的にとはいえ救命になっていることは一人の医者として敬意を払いたいし、貴方の人間嫌いも少しは治って欲しいのだけれどね」
永琳は残念そうだったが、感謝以上のお礼ということで今回の治療費は無料ということになった。毎回無料にして貰ってるので、私は永琳にお金を払ったことがない。
***
数年後、また私は怪我をして鈴蘭畑に倒れていた。修復に時間のかかる怪我をするたびに永琳に治して貰ってはいるが、結局、自分の躰が古くなった人形であるという根本的な問題は解決のしようがないのだ。
そしてあの時と同じように、人が鈴蘭畑へと入ってきた。永琳に言われたことが頭をよぎる。私が毒で操ればこの人は助かる。放っておけばこのまま自死する。人間の敵として生きることを信条とする妖怪は、果たして結果的にでも人の命を救うことがあってよいのだろうか?
答えが出るよりも先に、私の毒は鈴蘭畑へ入ってきた人へと向かっていた。それもそうか。つまらぬ意地を張って治療に時間と苦痛を多く払うのは大損だ。私利私欲に毒を使い、私利私欲に人の生き死にを変える。それでいい。
「永遠亭に行って。『私を』救いなさい」
今度は中年の男性だった。毎回人となりは違う。人間にもいろいろあるということは前に永琳に諭されたことでもあるが、それでも私には、鈴蘭畑に死にに来る人はどうにも没個性に見える。どっかの巫女や魔法使いが個性的過ぎるからかもしれない。あるいはいろいろに生きて同じように死ぬ、それが人間で、死にかけは皆一緒というのが本質なのかもしれない。
まあ、私には人間の生き死になどどうでもいい。男は恭しく私に首を垂れ、腕を伸ばして私を抱きかかえ上げた。永遠亭までの移動を文句ひとつ言わずにこなす、今の私は人間にそれ以上を求めてはいないのだ。
かくして今日も私は永遠亭に人を運ぶ。
一方で、同じように鈴蘭畑に捨てられていた人形達を毒で動かそうとしたときの喪失感もまた忘れ難いものだ。人間の心を私の好きなように動かしてきた鈴蘭の毒は、人形の心にはちっとも響かなかった。私の演説を前に無言で、不動で、ただ畑のあちこちに乱雑に転がるだけの応えを示した人形達の前で、私の王国は崩壊した。
そのときを境に、より直接的にはその後なんやかんやあって閻魔様の説教を受けたときを境に、私と毒と人間との付き合い方はもう少し穏健なものになった。一つは、私が毒を永琳という竹林の医者に持っていき、その毒が私の知らぬところで人間を治すか殺すかするという関係である。そしてもう一つ。私は、以前よりももっと小さな理由で人間に対して毒を使っている。
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人形の、人形による、人形のための世界を!
万国の人形よ、団結せよ!
ともあれ人間は滅ぶべきである
ああ、そこの仏蘭西人形さん、ありがとうございます
世界と一緒に人形が回り、私に近づく……
***
痛みに目が覚めた。割れるような頭痛と、それすら相対的に気にならなくなるくらいの耐え難い右足付け根の激痛。
頭痛の原因は明白だ。昨日珍しく博麗神社の宴会に参加して、そこで飲み過ぎた。途中まで記憶が残っている。酔った勢いで酒瓶を一本くすねて早めに宴会を抜け、帰路で飲んだその一本がとどめになった。鈴蘭畑に着くやいなや、今から思えば実に変な演説を叫んで、気がつけば鈴蘭畑で野宿をしていた。
この私がアルコールという毒物に負けるとは恥ずかしいなんてものではない屈辱だが、痴態を誰かに見られたというわけでは無さそうなのは不幸中の幸いだった。とっとと家に帰って酔い醒ましにコップ一杯の水を飲んで寝直そう。
そう思って立とうとしたが、起き上がることができなかった。右足の感覚がない。折ったのか。そう思い、うつ伏せに倒れたまま手で足を探った。
折れたのではない。右足そのものが存在しない。
腰の関節から先の足が無くなっていた。躰が古くなってしまっていて、そこに酔って転んだときの打ちどころが悪かったのが重なった結果だ。そりゃ付け根に激痛が走るわけだ。
などと暢気に分析している場合ではない。私は青ざめて右足を探した。
幸い右足はすぐ近くに転がっていた。匍匐しながら足に手を伸ばし、拾ったら仰向けに転がって互いの切断面をつけた。傷口から毒が充満し、霧が私の鼻孔をくすぐる。
生き物でも死に物でもないから躰は修復されることで治る。治るが、足の切断ともなれば相当に時間がかかってしまうだろう。死の恐怖とは無縁だが、これはこれで退屈で心細いものだった。
お腹が空いてきた。私の躰は毒でできているから、別れた躰を繋ぐために傷口から毒が出てきているが、そのほとんどが隙間から漏れ出てしまう。傷を治すために私の躰は急速に損なわれているのだ。このままでは毒を全部失って、それを吸収する力もなくなり、がらんどうという、死より――死というのがどのようなものなのかは分からないが――恐ろしい目にあうことになる。
毒を摂取しないといけない。私はその辺に生えている鈴蘭を引っこ抜き、土がついた根ごと口に入れた。妖怪としての意識を得たとき以来の非文明的な食事だ。毒の成分以外の味は到底食えたものではなかったが、躰に入れないと終わってしまうのだと自分に言い聞かせ、吐き気をこらえながら無理やり飲み込んだ。
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夕方。私は疲れ切っていたが痛みのせいで寝ることも叶わず、気絶と覚醒を細かく繰り返しながら畑に転がっていた。
丘の向こう側から誰かが駆けてきた。若い人間の女性だ。ここに人間が来ることは殆どないから珍しいことだ。
私は人間が来るのを待っていた。最悪放っておかれてもいずれ躰は修復されただろうが、人間が来てくれればもっと早く解決する。分の悪い賭けだったが、私は賭けに勝ったのだ。この後が上手くいけば、だが。
女性に毒を浴びせる。彼女は反射的に口と鼻に手を当て、その手から銀色に光るものが落ちた。ナイフ。それも遠目に分かるくらい刃渡りが長い。鈴蘭を刈るためなどという、メルヘンな目的で持ち込んだのではなかろう。誰もいない鈴蘭畑で、彼女は何に刃を向けるつもりだったのか。痛みで集中力が切れていたこともあり間一髪だった。
とはいえ肉体機能さえ奪ってしまえばあとはこちらのものである。精神の毒に切り替える。生物とは毒の指令で動く。その毒を操ることのできる私にとって、人間一人を操ることなど造作もないことだ。女性は何かに取り憑かれたような表情でこちらに向かってきた。もっとも、毒が入る前からこの女性は何かに囚われていたかのような顔をしていた気もするが。私の傀儡と化した女性は私を抱えて竹林へと走った。
***
「あら、急患とは珍しいわね」
「突然すみません! この子を、この子を助けて下さい!」
「私は医者であって人形職人では……って、あら、なるほどね。分かったわ」
女性が持っていたのが普通の人形ならこんな夜更けに非常識だと帰らせただろうが、その人形が金髪の癖毛、赤紫の服を着た永琳もよく知る人形だったので中に入れることにした。
永琳は女性を待合室で待たせて、メディスンを抱えて手術室へと入った。
「これまた派手に怪我したわねえ。私は人形職人ではないし、外科医ですらない。しがない薬師でしかないのだけれど、それでも大丈夫?」
「謙遜を。薬学が文字通り神話級ってだけで、他分野も大概名医でしょうに」
「嬉しいわね。まあこれは必要な手続きみたいなものよ。最近は患者さんの主体性にも気を配らないと色々面倒だから。インフォームドコンセントってやつ」
そう言いつつ、永琳は既にメディスンの足を縫い合わせていた。メディスンは、口先で言っていることと手でやっていることとが違うじゃないかと少し思ったが、その手が余りにも信頼が置けるのでただ永琳が手術をするに任せた。
縫合は十数分で終わった。永琳はメディスンを病室に連れてゆき、あと十分は安静にしていなさいと告げて部屋を出た。メディスンの体調と、これから自分がすることを考えればあと一刻(二時間)は待っていろと言いたいというのが永琳の本音だったが、メディスン・メランコリーという妖怪はそこまで辛抱強くはないということをこれまでの付き合いで知っていた。十分というのが、二人の間でいつの間に交わされた妥結点だった。
永琳は待合室に戻り、メディスンをつれてきた女性の肩に手をかけた。毒により消耗した女性はそれにも、続く顔を持ち上げて瞳孔を覗き見る観察にも無抵抗に従ったが、毒が抜け始めているにも関わらず、その精神は不安定さを増しているように思えた。
「どうしたのですか……? あの子はどう、……いや、そもそもどうして私は人形なんかを……?」
永琳が女性から手を離して「ふうむ。予想通りのようね」と思案し始めたころ、ようやく女性から意味のある問いかけが発せられた。
「あの人形の子は無事よ。それよりも、真に治療が必要なのはどうやら貴方のようね」
***
気が付いたときには、壁に掛けられた振り子時計が指す数字が変わっていた。
足の付け根はまだ痛む。永琳がしてくれたのは足を縫い合わせることだけで、それだけで完治するわけもあるまい。ただ、足が繋がっているという安心感からか、単に縫い合わせただけとは思えないくらい痛みは引いていた。少なくとも気絶ではなく寝ることができるようにはなっている。妖怪は精神優位とはよく言ったものである。
痛みが弱まった結果、暇つぶしに動きたいという思いが安静にしていたいという思いを上回った。永琳は十分間はじっとしていろと言っていた。十分どころか一刻が過ぎた。もう動いて良いはずだ。
机の上にお茶請けみたいに置かれた冶葛
(漢方薬として用いられる有毒植物。学名Gelsemium elegans)の塊を齧って、それくらいしか今いる部屋に面白いものは無いと分かったので私はこっそりと部屋を抜け出した。
「珍しいわね。部屋を抜け出すまで一刻もかかるなんて」
……こっそりと抜け出したつもりが、永琳に先回りされていた。廊下に椅子だけ置いて座っているのが少々シュールだ。
「私だって大人しくしていようと思えば大人しくできるのよ」
永琳は、そんなわけないでしょ、と言いたげに黙ってこっちを見てくる。
「……疲れてたから少し寝てたのよ」
そんなことだろうと思った、と永琳は言った。
「痛みを忘れて寝て、自分の足で起きてこれるなら予後は良好ね。それよりあの女の人のことなんだけれど……」
「私を運ばせた女性のことでしょ。知ってる。自殺しようとしてたんでしょ?」
「あら知ってたのね」
「毒をかけたとき手に持ったナイフを落としたわ。ナイフを抜き身で持ち歩くのはメイドか殺人鬼か自殺志願者かのどれかよ。で、あの人はメイドではないし、誰もいない鈴蘭畑に殺人をしに来たとも思えない」
内心私はまたか、と思っていた。
私が永遠亭に人間を連れてくるのは今回が初というわけでもない。ここまでの大怪我で永遠亭に来たのは流石に今回だけだが、これまで数回人間を足にしたことがある。タイミング良く人間が鈴蘭畑に侵入してくれていれば人間を操って運んでもらった方が楽というのもあるし、永琳に自分の毒の力を誇示したかったという欲も正直ある。
それで私が操った人間――この女性で六人目――がいずれも相当に希死念慮を抱いていたのである。人形に跪かせ殺す目的で毒を使った人間も含めればさらに人数は増える。ここまで死にたがりが多い種族がよくもまあ発展できたものだと呆れ半分感心半分だ。
「なんでこうも人間というのは死にたがるのかしらね」
「貴方には分からない感覚だと思うけれど、人間にとって無名の丘、そこの鈴蘭畑は縁起が悪い場所なのよ。普通の人は足を運ばなくて、人気
を避けることができるから自殺スポットになっているんでしょうね」
「前の花の異変の時に、自殺しなさそうな人が何人か来たけど」
「あれは変人」
「それは言えてる」
人間が全部ああなるのではなく、ああなった人間だけが鈴蘭畑に来るから私の中で百パーセントになっていたのだ。これは考えを改めなければならない。
「ただ、救命のために連れてきた……って訳でもなさそうね。もしかしたら意図的にやってるのかと思って話を振ってみたのだけれど」
「タクシー代わり以上の意図はないわよ。むしろ救命だなんて言われたら、人間を助けることになる方法を使うのはやめようかなって思う」
「うーん。結果的にとはいえ救命になっていることは一人の医者として敬意を払いたいし、貴方の人間嫌いも少しは治って欲しいのだけれどね」
永琳は残念そうだったが、感謝以上のお礼ということで今回の治療費は無料ということになった。毎回無料にして貰ってるので、私は永琳にお金を払ったことがない。
***
数年後、また私は怪我をして鈴蘭畑に倒れていた。修復に時間のかかる怪我をするたびに永琳に治して貰ってはいるが、結局、自分の躰が古くなった人形であるという根本的な問題は解決のしようがないのだ。
そしてあの時と同じように、人が鈴蘭畑へと入ってきた。永琳に言われたことが頭をよぎる。私が毒で操ればこの人は助かる。放っておけばこのまま自死する。人間の敵として生きることを信条とする妖怪は、果たして結果的にでも人の命を救うことがあってよいのだろうか?
答えが出るよりも先に、私の毒は鈴蘭畑へ入ってきた人へと向かっていた。それもそうか。つまらぬ意地を張って治療に時間と苦痛を多く払うのは大損だ。私利私欲に毒を使い、私利私欲に人の生き死にを変える。それでいい。
「永遠亭に行って。『私を』救いなさい」
今度は中年の男性だった。毎回人となりは違う。人間にもいろいろあるということは前に永琳に諭されたことでもあるが、それでも私には、鈴蘭畑に死にに来る人はどうにも没個性に見える。どっかの巫女や魔法使いが個性的過ぎるからかもしれない。あるいはいろいろに生きて同じように死ぬ、それが人間で、死にかけは皆一緒というのが本質なのかもしれない。
まあ、私には人間の生き死になどどうでもいい。男は恭しく私に首を垂れ、腕を伸ばして私を抱きかかえ上げた。永遠亭までの移動を文句ひとつ言わずにこなす、今の私は人間にそれ以上を求めてはいないのだ。
かくして今日も私は永遠亭に人を運ぶ。
縫い合わせただけで痛みが引く人外らしさだとか、「人間とか所詮私の足代わりでしかないのだけど?」などと言わんばかりの異種族的な高慢さだとか、変なところで意地張りと実利に天秤を揺らしちゃう少女らしさとか、全編好きの塊で大変助かりました。良かったです。
読んでないのでわかりませんが、個人的には作者さんの判断通り、メディと人との会話は別になくてもいいかと思いましたが、永遠亭を訪れるまでの時間、人間の腕の中でメディは何を考えているんでしょうかねー。あんまなんも考えてないかも。
信念をとれば死人が出るので平和的ではないでしょう。ただ、かつて人間に只のモノとして扱われ恨みを抱いた妖怪が、今度は人間をモノのごとく扱い始めるというのはかなり恐ろしい心の変化であるように思います。
メディスンのキャラクター描写がとても丁寧で読んでいて楽しかったです。
妖怪が実利を取ってうまく回る幻想郷って素敵だ