Coolier - 新生・東方創想話

妹は硫黄と共に

2023/05/11 23:57:53
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「しかし、ゴー・トゥ・ヘル・キャンペーンなんて本当に使えたんだな……」
 怨霊の蘇我屠自古が幽霊でも見たような顔で呟いた。どこぞのブームに便乗したのが丸分かりのキャンペーンを、偏屈なここの住民が取り入れるとは未だに信じ難い。しかし向こうで鍋と向き合う青白くて半透明な店主の笑顔を目の当たりにしては認めるしかなかった。ここは本当に地上の客を受け入れているのだ。
「私が嘘をついた事なんて今まで無かったでしょう?少なくとも屠自古さんには」
「そうだそうだー。青娥はいつでも誠実だぞー……そうだったか?」
 毎度のように話の発端、いや元凶となる邪仙の、青娥娘々こと霍青娥。そのお供として付き従うキョンシーの宮古芳香。怨霊、邪仙、死体の物騒トリオが訪れていたのは何の変哲もない居酒屋だ。ただし、立地だけは少々特殊なのを除いて。
 地底の奥深く、妖怪の中でも指折りの厄介者が隔離された旧地獄。硫化水素の悪臭が漂い、悪鬼悪霊が辺りを徘徊する温泉街がその場所である。まともに考えれば観光に訪れるなど到底不可能な危険地帯だが、逆に言えばまともでない実力者ならば来られるのだ。
 怨霊も食い物にするキョンシー、死体と霊魂を意のままに操る邪仙、そして怨霊そのもの。三人は怨霊も地獄の鬼も恐れない。
「何であれ……遠すぎる! いくら霊体でも気分的に飛び疲れたわ。それに道中で鶴瓶落としとか岩に襲われるしさ。あの岩は何なんだよ」
「ああ、あの岩さんは皆から生き物のように扱われたおかげで本物の意思を持ったらしいですよ」
「……石だけに!」
 屠自古が愚痴り、青娥が眉唾を言って流され、芳香が便乗する。三人の会話は基本このパターンである。今は印象が岩以下のキスメを憐れむべきだろうか。
「まあまあ、まずは乾杯しましょ。疲れて喉も乾いた時にはビールですよね」
 丁度良く、ジョッキとビンの乗ったお盆がふわりふわりと三人のテーブルに飛来した。ポルターガイスト現象をウエイターとして使う斬新な居酒屋という評判。青娥がこの店を選んだ決め手もそれであった。
「……私でも無理なのに器用な幽霊だな。まあ、やるか。芳香はコーラでいいんだよな?」
「うんむ。シュワシュワして甘いのがいい!」
 三人はそれぞれ泡立つ黄金と赤褐色の液体を手に取った。それまでは不機嫌そうだった屠自古も酒を前にして一気に表情が緩む。いや、死ぬほど苦労ばかりして忘れかけていたが、この朗らかな顔こそが本来の彼女なのだ。この顔が見たくて青娥も酒を飲みに来たのである。
『乾杯!』
 ひとたびジョッキに口が付けられると、その中身はあっという間に三人の胃袋へと消え失せていった。
「くぅ~っ! 私はこの一杯の為に生きてたんだよ!」
「死んでるけどなー!」
 屠自古と芳香の死人コンビが空になったジョッキを片手に力強く叫ぶ。一気飲みしたせいか、彼女の頬は既に赤く染まっていた。屠自古が死をジョークの種にするのは本当に機嫌が良い時だけなのだ。
「……ほんっと、屠自古さんは酔うの早いですわねえ」
 青娥は困ったような笑みを浮かべつつ、次の酒をメニューから吟味し始めた。この勢いではあんまり強い酒を選ぶのは危険だ。楽しい時間が台無しにならないように、なるべくアルコールの弱い一杯がふさわしいだろう。

「……しっかし、太子様も布都も連れないよなあ~!こんなにいっぱい酒が飲める機会を蹴るなんてさあ」
 青娥からこれにしておけと渡された緑茶ハイをぐびぐびやっていた屠自古の口から、次第に神霊廟の欠席者二名への不満が漏れ出してきた。
「まあ仕方ありませんよ。豊聡耳様に邪念だらけの場所はお耳が痛いでしょうし、旧とはいえ地獄ですもの」
 無断で唐揚げ全体に満遍なくレモン汁を振り撒きながら、青娥が嗜める。この場に居ない二人、豊聡耳神子と物部布都。神子はそもそも死を強く恐れて仙人となっている。まさに死を連想させる地獄は『君子危うきに近寄らず』で遠慮された。布都も太子様を一人にはさせておけんと居残りを決意した。なお、これは後から自分だけ置いて飲みに行かれたと愚痴られない為でもある。
 実のところ、青娥も戦闘準備をきっちり整えて旧地獄に来ている。仙人の肉を狙って周りの客がいつ襲ってきても、迎撃する気構えは出来ていたのだ。邪仙はゲテモノ判定なのか、あるいは地獄の猛者ですら関わりたくないのか、幸いにして一人も狙う者は出てこなかったのだが。
「あの方たち、今頃はお寺の女の子でも引っ掛けてヨロシクやってるんじゃないですか?」
「それだよなあ! 仏教を踏み台にしといてあいつらどんだけ二枚舌なんだよなあ!」
「こらこらー。あいつらはいかんなー、屠自古なー」
 主君への反乱はさしもの芳香も口を挟まずにいられない。さりとて彼女もなるべくレモンがかかっていない唐揚げを選んで反抗していたりする。
「でも……ふふ。私は屠自古さんと一緒にゆっくり飲めて、これはこれで嬉しく思ってますよ?」
「お、おう……何だよ急に! こっ恥ずかしい事言いやがって! この……このぉ!」
 屠自古には青娥のアクアマリンのように透き通る純粋な瞳を直視できなかった。顔の赤みは酒か照れか、あるいは両方か。普段は邪仙に苦労させられてばかりの屠自古だが、飛鳥の時代から現在に至るまで、ここまで長い付き合いの人物は他に居ない。それは逆も然りで、私欲の為なら家族まで捨ててきた青娥も、キョンシーを除けばここまで面倒を見てやった人間は他に居ない。今や神霊廟の皆は絶対に捨てられない、自分の一部とも呼べるものにまでなっていたのだ。
「はい、芳香もここに居ます。よろしくお願いします」
 二人だけの空間を作りかけていたところに芳香が冷や水をぶっかける。そんな折だった。

──がらら。
 また来店者が一人。丁寧で物静かな玄関の開け方は、粗暴な酔っぱらいだらけの店内ではかえってその異質さを強調していた。それまでは酒を豪快に溢しながら飲んでいた妖怪達が喉を鳴らし、顔色を変える。血の池も針山も恐れぬ化物が、たった一人の客に恐れおののいているのだ。その客、小柄で陰鬱な表情を浮かべる少女は妖怪達の反応にも慣れっこのようで、他の客を意にも介さず店主前のカウンター席に腰を落ち着けた。
「……いつものをお願いします」
 少女はくたびれたような静かな声だったが、静まり返った店内には不思議とよく通った。万が一にも粗相があってはならないと思っているのか、店主は戸棚の端に鎮座する金字の酒を慎重に取り出す。いかにも高そうな酒を常飲しているらしい少女への気後れなのか、安酒で酔いどれていた客達は波風を立てぬようにそそくさと会計を済ませてしまうのであった。
「……あらあら、急に静かになりましたね」
 残ったのは少女をよく知らない青娥たち物騒トリオのみとなった。
「私達とあのお嬢ちゃん一人だな。私の推理では只者ではないと見た」
 推理しなくても寺子屋の児童すらそう思うだろう。屠自古は酔っているのである。
「ふんふん。せっかくのいい匂いが台無しだなあ」
 外から血生臭い風が吹き込んだからか、細切りにした芋が揚がる光景を眺めていた芳香が残念そうにぼやいた。芳香にとってはご注文のフライドポテトの方が重要なのだ。当の少女は三人を意にも介さず高い酒をちびちびと飲んでいる。それをじれったく思ったのだろうか、屠自古は四杯目の酒をぐいっと飲み干しておもむろに席を立った。
「おーい! そこのお嬢ちゃん、一人よりこっちで飲もう! その方が絶対楽しいからさぁ!」
「屠自古さん!?」
 さしもの青娥も顔を青くした。この怨霊はそんなに社交的だったのか、少女の正体に気付いていないのか、自分が先ほどゆっくり飲めるのが嬉しいと恥ずかしい事を言ったのは何だったのか。そんな思いが入り混じる。なお、答えは単なる酔いすぎである。
「……貴方は、邪仙のご友人の、蘇我屠自古ですね」
 驚くことに少女は初対面のはずの屠自古をフルネームで呼んできた。少女を不気味がるには十分な要素である、のだが。
「おーすげえ! この子私の名前を当てやがったぞー? 私も有名になったもんだなぁっはっは!」
 これである。普段の屠自古なら邪仙の友人と言われるのも嫌がるポイントのはずで、少女もそれを狙ったのだが酒乱には通じなかった。
「うちの屠自古さんがすみません。この子、ちょっとお酒に弱いもので」
 いつもと立場が逆転して悪ガキの保護者と化した青娥がぺこりと頭を下げる。こんな事を言うのは何年、いや何百年ぶりかしらとあまりにも遠い記憶を遡った。
「……ほう、邪仙にも子がいた時代があったのですか。これは意外です」
「長生きするといろいろ有るものですわ。そうでしょう、覚妖怪さん」
 数本の管で本体と結びついた赤い眼球が、微笑を浮かべる青娥の視線と交差する。
少女の名は古明地さとり。地霊殿という屋敷に住まい、旧地獄を管理する立場にある大物だ。他人の心を読んでトラウマを抉る第三の眼の能力を持ち、地獄の怨霊からも恐れられる凶悪な存在なのである。
「……いいですよ。本当に一緒に飲みたいのであれば、私は構いませんよ」
 さとりは彼女特有のふてぶてしい笑顔を地上からの珍客に向けた。
「うわぁ、本気ですか……」
 青娥が口をへの字に曲げてため息をつく。死神だって笑っていなす青娥が明確に拒絶的な表情をするのは非常に珍しい。それ程に心を読んでくる存在というのは忌み嫌われるものなのだ。本来は。
「っしゃー! 飲め飲めー!」
「のまのまいぇー!」
 屠自古がさとりの肩に腕を回して横に座らせ、芳香が伸ばした腕で大げさな拍手をする。酔っぱらい怨霊と脳が腐ったキョンシーは何も恐れなかった。
「……一杯、いただけますか」
 この光景には青娥も腹をくくるしかなかった。空になった自分の杯をさとりご注文のお高い酒に寄せる。どうせ同席するならば、お前の酒も俺の酒。それぐらい貰わないと割に合わない。
「貴方も、思っていたよりずっと苦労していますね」
 そんな腹の内を読んでか、さとりは苦笑混じりで酒瓶の中身を青娥の杯に注いだ。


「──じゃあゴー・トゥ・ヘル・キャンペーンはお前が始めたんだな! 良いじゃんよ!」
「そうなのですよ。うちの猫、お燐というのですが、その子がチラシを持ってきてうちでもやってみようと。地獄も今は死人の処理が追い付かなくて拡張工事の費用が……」
「んー? むー……なんかその猫、知ってるような知らないような気がするぞ!」
「芳香も会ったことあるわね。死体集めが仕事の猫ちゃんよ。ご主人様の為に一生懸命働くいい子だったわ」
四人は酒のパワーもあってか意外にも和気藹々と卓を囲っていた。さとりに嫌な事を言わせる暇も無いほど屠自古が質問攻めにしていたおかげでもあるが。
「ところでよー、さとりは人の心が読めるんだろ。それってどんな感じなんだ? 今から私はジャンケンをするけど手は読めるのか?」
「こちらはグーで私の勝ちです。そうですね……頭の中に直接声が響くと思ってください。動物だと願望の映像が脳裏に浮かぶような感じでしょうか。面倒な能力ですよ、切ろうと思って切れるものでもありませんし」
 さとりは熱燗をくいと一口舐めると諦めたような薄い笑みを浮かべる。
「でも、心を読める能力は便利で素晴らしいと思ってるんでしょう?」
「……驚きました。貴方も心を読めるのですか」
「そういうのが得意なのは私の弟子の方ですけどね。さとりさんは顔から一目瞭然で分かりやすいですよ」
 青娥とさとり。それぞれの派閥の曲者同士が冷笑を交わし合う。心を読む妖怪と行動が読めない邪仙。二人の相性はお互いに天敵レベルなのかもしれない。
「……青娥さんの心は特殊ですね。まるでマトリョーシカのようです。層構造になっていて、今考えているような表面的な感情は分かりますが、深層心理の前に頑強な壁があって入れません」
「ええ、そうでもないと命がいくら有っても足りませんから」
 青娥を始め、仙人には生きすぎた罪を償わせる為のお迎えが来る。死の使いは肉体そのものより心を狙う方が多いので、青娥は自然と心に何重もの壁を作る術を身に着けていたのだ。それは過去の思い出したくない記憶を封印するのにも役立っている。
「……そうですか。それに芳香さんも変わってますね。体は一つなのに心が二つ、三つ、十、二十……いいえ、まだまだ。それぞれがバラバラで、雑音だらけのラジオ放送のようで聞き取れません」
「そうだぞー。我々には仲間がいっぱいなのだ」
 芳香はフライドポテトを口に咥えながら胸を張る。『キョンシーの修復には本人以外の体も使います。その肉体の記憶が影響しているのでしょう』と、青娥がさとりにだけ分かるように心で解説した。
「ねえ、さとりさん?」
 青娥はここまでの話から一つの結論を出した。
「貴方が我々との相席を承諾したのを今も疑問に思っているのですが、もしかしてその辺りに起因しているのでは?」
「……さて、どうでしょうね。私にだって打算抜きで誰かと飲みたい気分の時もありますよ」
 さとりは面白くなさそうな顔で杯を豪快に煽った。
「何だ、打算があるのか? いいぜー、この屠自古さんが聞いてやんよ。言ってみなーほれほれ」
「ほれほれー!」
 顔を寄せる屠自古と芳香の、酒と油臭い息がさとりを包み込む。来ると分かっていても対処のしようがない、ペットとはまた違う距離の詰め方に困惑していた。
「あの、別に打算と言うほどの事でもないですが、お聞きしてもいいのなら……」
 酒乱のパワーには敵わない。心を読めることもあってそれまでは受け身のさとりが、初めて自分の方から話を切り出した。

「──話は単純でして、私の妹を見ませんでしたか?」
「妹ってこいしさんの事ですよね? また地上に出ていかれたのかしら」
「ええ、おそらくは」
 さとりの妹、古明地こいし。姉とは逆に心を読む力を封じた代わりに誰からも読めなくなった妖怪だ。
 いつぞやの宗教戦争の際には、神霊廟でも特に理由のない弾幕勝負が繰り広げられた。だから青娥や屠自古もその存在は知っている。
「今回は事情が特別で早急に連れ戻したいのですが、如何せん何をしているのか分からない子ですので……」
 無意識の能力を手に入れたこいしは意識して探せるものではない。行動の大部分を読心に頼っているさとりは勿論、誰の予測も通じる相手ではないのだ。
「それで、お前は最初から諦めて一人で飲んだくれかー? 酷い姉ちゃんだなーおい!」
「……妹を見た人が居る事を期待して来たの。一人で探し回ってへとへとじゃあお酒の一杯も飲みたくなるでしょう」
「そりゃ悪かった。お姉ちゃん頑張ったな! 世界一のお姉ちゃんだよ!」
 笑ってさとりの背中をバンバンと叩く屠自古の対面で、またまたうちの屠自古がすいませんと青娥の心が笑っていた。
「んーで、残念だが私は見てないな。二人もだよな?」
「危険な子ですし、見たら最優先で対処してますわ」
「お前が言うなと言いたいが、まあ確かに」
 歯に衣着せぬ言い方だが、屠自古も邪仙に同意せざるを得なかった。気付いたら後ろに居て刃物で刺してきたと布都や神子も証言している。ホラーである。
「私は見たぞ!」
 そこで声を上げたのは芳香である。死体である彼女ならば何か別の世界が見えていたのかもしれないと、さとりも期待するのであったが──。
「あれはそう、おやつをずんだ餅にするかバームクーヘンにするかで悩んでいた、あの暖かな春の日……」
「ええ、半年前のようですね」
 今は秋である。離れすぎていて参考にならない。さとりのサードアイも落胆でびよんと前に落ちた。
「しかし、こいしの姿を見たのは確かのようです。断片的ですが心の一部にありました」
「よく覚えてました。偉い偉い」
「うぇへへへー」
 青娥に撫で回された芳香が向日葵のような笑顔を咲かせた。やっぱり、似ている。芳香はこいしに近い心の持ち主だ。その飼い主である青娥も自由奔放で無邪気さと残酷さを併せ持っている。この二人なら、もしかしたらもしかするかもしれない。さとりはそう判断した。
「……駄目元で聞きますが、妹の捜索にご協力願えたり……しませんか?」
「駄目です。観光客に何を期待しているのでしょうか」
 青娥の答えは取り付く島もないものだった。妖怪とそれに味方する者に厳しいのは、ご馳走として肉を狙われるのが仙人だから当然なのだが。
「さとりー、お前よー、確か探偵業もやってるんだろ?妹の居場所ぐらい自分で推理できないのかよー」
「そうだそうだー」
「うっ……」
 好意的だった屠自古もそこまで面倒を見てられない。芳香も屠自古のうざ絡みへソーダ片手に追従する。
 三人の予定は二泊三日の温泉旅行。この後は旅館の温泉でくつろいでから夕食を取るつもりなのだ。無意識でうろつく妖怪の捜索などしたいはずもなく。
──なので、さとりは最も手っ取り早い手段に出た。
「ここのお金、全部出しますよ?」
 金である。

「やってやんよ!」
「屠自古さん!?」
 この変わり身の早さ、この怨霊はいつから狸になったのか。実は屠自古に化けている妖怪寺の狸ではないかと疑うも、近寄った時のピリピリ感は紛れもなく蘇我屠自古その人だ。
「屠自古さん貴方、私はそのような現金な子に育てた覚えはありませんわよ。娘々悲しい……!」
「はー? お前の教育の賜物だよ! 家族の為に必死な奴を見捨てられるかー!」
 これがさっきまで妹の事ぐらい推理できないのかと言っていた人物でなければ、青娥も少しは素直に聞けたのだが。
「この後はお泊まりですね。そこも出しますよ?」
「むむっ!」
 屠自古の目がさらに光った。今回の二泊三日旅行、どうせ神子に請求するからと調子に乗った青娥が一番良い宿を取っていた。キャンペーンでなければ目眩がするようなお値段の宿代が浮くなら願ったり叶ったりだ。
「お土産に旧地獄饅頭と温泉卵はいかがですか。美味しいですよ。これもお好きなだけ差し上げますよ」
「むむむ!」
 芳香も口から涎を垂らした。この程度の出費ならポケットマネーでも十分に事足りる。地霊殿の長、旧地獄の支配者はそれほどの財力を持っていたのだ。もはや心を読むまでもない。さとりですら表情で屠自古と芳香が陥落したのは分かった。残る一人、この中で最も曲者で度し難い青娥も、こうなってしまっては分が悪い。無理にごねて場の空気を悪くする方が愚と判断せざるを得なかったのだ。
「……こいしさんを見つけた暁には、宿とお土産代がタダ。いいでしょう、奢っていただくからにはそれぐらいは協力致しましょう」
「よく言った!」
「青娥、大好きー!」
 拍手喝采。死人二人はまだ何も始まっていないのにエンディングのような喜びようであった。


 居酒屋を出た四人の鼻を、腐卵臭がツンと突く。旧地獄の歓楽街は硫黄泉と血の池地獄の生臭い匂いに満ちている。それに道行く鬼達の酒臭い吐息もちょっぴりと。三人のような『変わり者』でなければ、キャンペーンがあっても普通の人間は来ようと思わない。
「まずはさとりさんのお家にお邪魔しましょうか」
一行が向かうは地霊殿。犯人は現場に戻ってくるではないが、実はこいしがもう帰っている可能性も無きにしも非ず。居なくても本人が向かいそうな場所の手がかりくらいは掴めるかもしれない。それに地霊殿も見てみたかったし、と。
 ところで、時間が経てば胃の中の物は次第に下へ落ちていく。幽霊にどこまで胃腸があるのか不明だが、新たに入ってくる酒が無ければ屠自古の酔いも当然冷めてくる。つまり、居酒屋を出た直後までは饒舌だった屠自古も、今では一言も喋らなくなっていたのだ。
「……何で私、あんな事を言ってしまったんだろう」
 該当するものが多すぎてあんな事がどんな事なのかさっぱり分からないが、とにかく屠自古の顔は赤から一転真っ青になってぶるぶると震えていた。
「えーえー、全部屠自古さんのせいです。さとりさんに声をかけたところからぜーんぶ、ね」
 青娥は屠自古に肩から覆い被さり、両手を胸部の豊かな膨らみに伸ばした。迷惑料である。
「やめい!」
 震えが電気エネルギーとなって青娥に襲い掛かる。青娥はにゃあんとふざけた笑顔にいやらしい手付きで屠自古の周囲を飛びまわった。
「……仲がよろしいのですね。さあ、着きましたよ」
 さとりが紹介するまでもなく、他の古風な家屋よりも二回りは巨大でおどろおどろしい洋館、地霊殿が一行の前にそびえ立っていた。

「さとり様、お帰りなさい! こいし様は見つか……ってないみたいですね」
「ただいま、お燐。つまりこいしは帰ってきてないのね。こちらは私が招いた人達だから攻撃しちゃ駄目よ」
 さとりのペット、火車の火焔猫燐が人の姿で主を出迎えた。動物達の中で最も賢く、戦闘力も折り紙付きのさとりの右腕だ。
「あー! 青娥ー、こいつ見た事あるぞー!」
 芳香が手をぶんぶん振り回してお燐の存在をアピールする。
「貴方を連れて行こうとした猫ちゃんよ。その節はどうもね」
「あら、死体のお姉さんじゃないですかー。いつも余った死体のお裾分けありがとうございます!」
 青娥はキョンシーや邪術に使った死体の余りを融通し、お燐は引き換えに地獄由来の貴重な原料を提供する。何かと面倒が多い死体確保の為、二人の間には密かな取引関係があった。
「……動物臭いな」
「そうねえ。夏場の腐乱死体よりはマシですけど」
 臭気が苦手な屠自古は鼻を摘まみながら眉間に皺を寄せた。それはペットを室内飼いしている家の宿命である。躾をしても排泄の類いを完全にコントロールするのは無理だ。お燐やゾンビフェアリー達に掃除はさせているものの、籠った匂いは簡単に消えるものではなかった。
「あ、ほら、モルモットですよ屠自古さん。貴方ってこれのアニメが好きだったわよね?」
「ああ? お前が勧めるから見てただけで別に好きなわけ、じゃ……!」
 青娥が廊下の端で丸まっていたモルモットをひょいと拾い上げて屠自古の鼻先に移動させた。地獄暮らしのおかげか怖いもの知らずのようで、屠自古にも全く怯えず彼女の匂いをぷいぷいと嗅いでいる。
「あ、あ……」
 普段はピリピリしているせいか動物が寄ってこないのに、この子は逃げない。屠自古の中でモフモフしたい欲求と可愛いもの好きを隠したい羞恥心が交錯してショート寸前だ。触れるか触れないかの所で指と唇が微動を繰り返し、そして青娥はその奥で笑いを必死に堪えていた。
「……後でいくらでも触らせてあげますから、とりあえずこいしの部屋に行ってもいいですか?」
「そ、そうだな! 早くこいしの手掛かりを見つけないとな!」
「うおー、突撃じゃー!」
 芳香がぴょいんぴょいんと大股で飛び跳ねると、屠自古も無理やり体を回れ右させて逃げてしまう。後に残されたモルモットは不思議そうに青娥の顔を見上げていた。
「ほんと、可愛いお方ですこと」
 そのふわふわな背中を一撫してから床にそっと下ろし、青娥も屠自古の後に続いた。

「こちらです」
 薄緑のハート型プレートが取り付けられたドアの前でさとりが止まる。廊下を挟んだ対面には桃色のハート型付きドア、こちらはさとりの部屋なのだろう。
「……念の為言いますが、必要以上の捜査は駄目ですよ? タンスを開けて服を持っていくとか」
「わーかってるって。こっちのろくでなし仙人はちゃんと見張っといてやるから安心しな」
 口調に反して生真面目さが売りの屠自古が、へらへらとろくでなし仙人を指差した。
「失礼ですねえ。皆さんが見てる前で空き巣なんかするわけないじゃない。まったくもう……!」
 青娥が口をとんがらかすが、誰も見ていなければやると言っている以上は信用性など皆無である。
「あ、ちょっと……!」
 さとりが制止するのも聞かず、ぷんぷんと頬を膨らませた青娥が先陣切って勝手にドアを開けてしまった。

──チャオ!
 そう聞こえたような気がした。青娥に襲い掛かるのは無意識妖怪の独特な世界観。物言わぬ代わりにポーズで語る白骨死体である。
「……こいしが趣味で飾っている骨です。名前はポーズがそんな感じだからチャオ君だそうです」
「チャオって事はイタリア人なんですか?」
「さあ……」
 ドアを開けたら真っ先にご対面する位置に飾ってある、顔の前で手を振るようなポーズの白骨。もはや骨しか残っていないので国籍は分からないが、生前は一般的な成人男性だったようだ。人体にとても詳しい青娥は骨格や骨盤からそう判断した。
「むむぅ、肉が残ってないなら我々の仲間ではないな!」
「そうねえ、骨だけの死体は風情がないわよね。使いどころも限られちゃうし」
 芳香と青娥がそれぞれ勝手なことを言う。チャオ君で驚く客を見るのがこいしのひそかな楽しみであったのだが、相手が死体の専門家ではあまりにも分が悪すぎた。そもそも持ち主が不在なのだが。
「まあ、せっかくですし改良しときましょうか」
「おい!」
 屠自古が止める間もなくチャオ君の額に青娥のお札が貼られてしまう。

『チャオ!』
 骸骨が乾いた声でカタカタと顎の骨を鳴らした。彼(?)は今、言葉を手に入れたのだ。
「まだチャオ以外は言えないですけどね。気に入らなかったら剥がしておいてくださいな」
『チャオ!』
 チャオ君が敬礼のポーズを取った。
「良かったなー。本人は気に入ったようだぞー」
「……本当か?」
「さあ、私にも……」
 屠自古とさとりは顔を見合わせて首を傾げる。さとりですら読めない骸骨の心もキョンシーの芳香なら分かるのだろうか。もしくは適当に言っているだけかもしれない。
『……チャ、オチャ!』
「お客様にお茶も出さないとは何事だ、とチャオ君は言っています」
「早速とんちを働かせだしたぞ、この骨」
「私のキョンシー術は発展性がありますからね」
 青娥が得意げにピースすると、それに合わせてチャオ君も両手でVサインを作った。
「飲み物なら先ほど散々奢りましたので。ともかく、これがこいしの部屋です。少し……いえ、かなり散らかっていて申し訳ありませんが」
 チャオ君を強引に流してさとりが部屋の奥に手招きする。言葉通り、骸骨以外にも芸術的と言えなくもないオブジェが多数置かれている他に、動物の毛やらぬいぐるみやらが床に散乱している。
「汚いなあ……こりゃあ青娥の私室といい勝負だ」
「むぅ。あれはああ見えて片付いてるんですぅー。私は物を無くしたことありませんから」
「ズボラはみんなそう言うんだよ。この前も本棚から干からびたカステラが出てきたろ。で、それはともかく……何だ、これのこれは」
 屠自古の目を引いたのは部屋の中央に放置された何十枚もの画用紙である。色鉛筆で描かれたようだが、アートでは済まない芸術的すぎる奇怪なデザインだ。
「むー、これは……じゅーよーな手がかりの匂いがするぞー!」
 言われなくとも一番興味を引くのは間違いなくこれだろう。芳香が絵の前でトントンと上下に跳ねるのを合図にして、全員が画用紙の下へ集合した。
「それで、この味のある絵は一体どういうつもりなのですか?」
 青娥がさとりの目の前まで紙をつまみ上げた。そこには赤・青・黄の三色をぐちゃぐちゃに書き殴った背景と、その中央で苦悶する人間のようなものが描かれている。
「私にも分かりませんが……いつか読んだトラウマの心象風景に近い気がしますね。あれは確か三色の球体を持った女性に抱く恐怖心だったような……」
「確かにそんな恐ろしい生き物を悪夢で見たような気もするな……」
「奇遇ですね。私も覚えがあります」
 どうやら幻想郷に住まう者が共有する深層記憶を無意識のままに書き出しているらしい。他の絵も言いようのない不安がこみ上げてくるものばかりだ。
「勝手に見といてケチを付けるのもなんだが、どうせ描くならもっと見ていて楽しくなる絵を描いたらどうなんだ?」
「いえ、こいしは別に心の傷をほじくり返す目的で描いた訳ではなく……純粋に私の為なのです」
 さとりは紙の山から目に止まった一枚を抜き取った。桃色と緑色の短髪の少女が並んでいる。言うまでもなく本人と姉であるさとりを描いたものだろう。
「実は私、趣味でミステリー小説を執筆しているのですが、それを見たこいしが言ったのですよ。じゃあ私が表紙と挿絵を描いてあげるから本にしよう、と」
 その時のこいしの顔を思い出したさとりが、にまにまと薄気味悪い笑顔を浮かべる。
「おおおー、素晴らしい姉妹愛だなー!」
 芳香が目から滝のような涙を流した。ゾンビだからか分泌される体液の量が一々大げさだ。
「で、その結果がこちら、と。載るならミステリーではなく心理学の教本がお似合いだと思いますわ」
 青娥が拾った絵では包丁を持った少女が虚ろな目で歯を剥いて笑っていた。こいしの自画像と思えなくもないが、心に病気を抱えた子供が描いたと言われても信じてしまうクオリティだ。
「……まだ練習中だから仕方ないの。あの子が私の為に何かをしてくれるだけで嬉しいわ」
「それは良いけど、この調子じゃ絵が完成するまでに話が十本は書けそうだぞ。これは何だ、ネズミか?」

『チャウ!』
 唐突にチャオ君が叫ぶ。屠自古が持つかろうじて四足歩行だと分かる面長の生き物の絵を差して言っているようだ。
「ほら、チャオ君も違うって言ってますよ。これはアリクイでしょう」
『チャウ!』
「やっぱりこいつイタリア人じゃないな。じゃあキツネか?」
『チャウ!』
「芳香はカンガルーだと思います!」
『チャウネン!』
 三人が好き放題、チャオ君も使ってふざけ始め、そもそもがそうなのだが尚更こいしの所在なんてどうでもよくなってきた頃だった。

『チャオ!』
 急にチャオ君が正常な動作を取り戻し──。
「お姉ちゃん! 誰よそのオンナ!」
 昼ドラ染みた台詞がどこからともなく飛び出したのだ。いつから居たのか全く気付かなかったが、先の絵のように包丁を握りしめた少女が四人の後ろに立っていた。この場にお姉ちゃんと呼ばれる人物はさとり一人。したがって声の主はその妹、古明地こいしに他ならない。
「ああこいし! 急に居なくなるから私がどれだけ探したと……」
「嘘つき。さっきお店に入っていくの見たんだから。お酒臭いって事は探すの諦めてたでしょ!」
「うっ」
 図星だった。読み取った心から事実を列挙するだけで探偵を気取っていた姉より推理力がある。実は近くに居たのに気付かなかったという追い打ち付きだ。
「それと私のチャオ君が動いて喋るようになってるんだけど何これ! これはありがとう!」
「はい、どういたしまして」
 こいしは頬を膨らませてぷんぷん顔のまま青娥にお礼を言った。姉とは逆に表情筋が器用だ。
「あと、その絵はこころちゃんです! どうして分からないんですか!」
『セヤデ!』
 チャオ君も持ち主に合わせて地団駄を踏む。こころちゃんとは神霊廟組とも親しい面霊気の秦こころだ。しかしこの絵とは共通点が四本の手足しかない。言われても全く納得できなかった。

「……まあとにかく、こいしは勝手に帰ってきたんだし事件は解決でいいんだよな? 旅館の奢りはどうなるかな」
「どちらでも良いんじゃないですか? お金を出すのがさとりさんか豊聡耳様かの違いしかありませんし」
 流石に他人の家でお絵かき観賞会をしていただけで奢ってもらえるほど世の中甘くはない。どちらにしろ自分の金ではないので青娥はどうでもいいのだが。
「いや、まだです。こいし、あんたはまだやらなきゃいけない事があるでしょ……」
「イヤ! 勝手に私の部屋にお客さんを入れて、まだ練習中の絵に好き勝手言って! お姉ちゃんも同じ目に遭わせないと言う事なんて聞いてあげないもん!」
「同じこと……?」
 まさか。さとりの背中にじわりとぬるい汗がにじみ出す。
「お姉ちゃんが引き出しにしまってるファンタジーナロー小説ばらまいてやるもん!」
 それは『異世界転生したら心を読める私が狂戦士と心を通わせてパートナーになった件。~ Third eye don't cry ~』という、タイトルだけで内容がお察しのご都合妄想小説である。あからさまに作者の自己投影が入っている主人公の少女シトリーと、一日戦わずにいると力が暴走して殺戮を繰り返す狂戦士ジークフリード(仮面の下は超絶美形)の切なくも感動的な愛と勇気と友情の痛々し『説明しないでくださいっ!』
──作者の希望によりこれまでとするが、とにかくそういった小説がさとりの引き出しに眠っていて、こいしがその封印を解こうとしているのだ。
「それだけは絶対にダメです!」
当然の反応で抑え込もうとさとりの手が伸びるが、こいしは身長相応の短い腕をするりと躱して柱の裏へ潜り込んでしまう。
「ふん、無駄無駄。運動不足のお姉ちゃんに私を捕まえられるもんですか」
 ほんの一時でも全員の視界から外れれば、こいしにはそれで十分だった。一度意識外に出てしまったこいしを再び認識するには向こうから干渉してくるのを待つしかない。そして怒りが収まらない限りこいしがさとりの前に現れることはないだろう。そう、さとりの黒歴史をばら撒き終わるまでは。
「も、もうお酒でもご馳走でもいくらでも奢りますから、とにかくこいしを止めてくださぁい!」
 さとりの惨めな悲鳴が地霊殿に木霊した。
だがそのように言われても、無意識領域に隠れてしまったこいしを捕まえるなど、怨霊だろうが邪仙だろうが──。

「ごちそうッ!」
 いや、ゾンビは違った。後方左斜め七時の方角、誰も居ないはずの場所を向く。芳香は普段から跳躍で鍛えていた脚力を爆発的に開放して、ロケットの様に突撃したのだ。
「ぐ、う!?」
 完全に油断していた背中に超スピードのキョンシー頭突きが来て、これにはこいしも悶絶して包丁を落とす。そして無防備となった胴体にすかさず芳香の両腕が巻き付いた。プロレスならこのままバックドロップが炸裂する姿勢である。
「芳香、すげぇ!」
「素晴らしいです、芳香さん!」
 全く予想していなかった芳香の覚醒に、屠自古とさとりが称賛の言葉を贈る。食べ物への執着とはここまでゾンビを突き動かすものか。もしくは単に頭突きを全力でかましたい気分だっただけかもしれない。
「はーなーしーてー!」
 こいしも何とか振りほどこうと腕を振り回すが、一度固めたキョンシーの腕はびくともせず、疲れもしない。いくら無意識妖怪でも物理的に消えることは不可能だ。もはやこいしに打つ手は無かった。
「だけど、何でお前はこいしの場所が分かったんだ?私らには全く……」
「う。それは、その……」
 ここで、分からない側のはずのさとりが言葉を詰まらせる。ここにきてバラバラだった芳香の脳内会議が一つにまとまり、その思考がさとりにも読めるようになったのである。その心とは、これだ。

「……臭うぞ、お前」
 そう、こいしは臭かったのだ。それこそが、さとりが必死にこいしを探し回っていた理由であった。
「うーむ……この臭いは二週間、いや三週間かぁ? お前、女の子としてそれはどうなのだ」
「もー、臭わないで!」
 芳香がこいしの髪に顔を埋めて鼻をひくひくさせる。
「あー……もう。だから、無意識だから平気だもん、じゃなくてお風呂には入りなさいって言ったのに!」
 こいしは最低限の生理的欲求以外を無意識側にシャットアウトし、お絵かきの練習に没頭していた。それを止めたのは画材の枯渇、つまり色鉛筆が短くなりすぎて書けなくなったから。そうなってはやむを得ず、脂でごわごわの髪の毛と垢だらけの体のままお買い物に行ってしまい、案の定と言うべきかそのまま数日ほっつき歩いていたのである。
 他でもない旧地獄の管理者である人物の妹が、風呂にも入らず悪臭を振りまいている。旧地獄の空気に洗ってないこいしの臭いが混じっているなど、姉として保護者として絶対気付かれてはならなかった。
「あー……意識すると分かるな。ここはいろいろ臭うせいで鼻が馬鹿になってたわけか」
「やめてぇ……」
 屠自古もこいしに顔を近づけて顔をしかめた。血、硫黄、酒、そして地霊殿に入ってからは動物臭。旧地獄が様々な悪臭のるつぼになっていたせいで、幸か不幸かこいしの臭いは今までバレなかったのだ。
「嗅覚を犬並みに改造してるとか言ってたからな。青娥がマッドサイエンティストだったおかげで芳香だけは気付けたんだな」
 いくら皆の意識から外れていようと決して居なくなったわけではない。無意識の妖怪が体から無意識に分泌される匂いのせいで墓穴を掘ったのだ。
「……っておい、その邪仙はどこに行った」
 屠自古の言葉で全員がはっと辺りを見回した。言われてみれば確かに青娥がいない。消えられるタイミングで一番早いのは、こいしがさとりの黒歴史をばら撒くと宣言した辺りである。だったとして、青娥は一体どこで何をしているのか。歩くプルトニウムのような人物が制御出来ない所に行ってしまう方がよほど一大事である。

「さとりさん、ご安心を。ちゃんと確保してきましたよ」
 そんな不安に応えるように、青娥がひょっこりと部屋のドアから戻ってきた。その手に厚い紙束を握って。
「あら! 芳香ったら妹さんを捕まえられたのね。偉いわ、いい子いい子」
「うぇへへへー」
 青娥が空いてる方の手で芳香の頭を撫でる。が、そんなことより、空いてない方の手にある紙束がさとりにとって大問題であった。
「……どうして、どうして貴方が『それ』の場所を知ってるんです!?」
 それとは『異世界転生したら心を読める私が(以下略)』の原稿用紙に他ならなかった。厳重に鍵を掛けておいたはずなのにとサードアイが充血する。
「厳重な場所にあるってことで逆に分かりやすかったですよ。ばら撒かれる前に私が押さえておきました。まあ、芳香が優秀なおかげで徒労でしたけど」
 物理的なロックなど壁抜けの邪仙には無意味。やるなら龍でも神でも封印できる結界を用意するべきだ。
「そ、ソウデスカー。デシタラそれをワタシにワタシていただけないデショウカー?」
 さとりが真っ青な顔からガチガチのカタコト言葉で懇願する。鬼に金棒、こいしに刃物、そして青娥に黒歴史、である。
「ねえ、妹さん。お風呂に入りたいですか?」
「……いやだもん」
 こいしの返事は頑なだ。捕まったところで姉への怒りが消えるはずもない。ちゃんとごめんなさいして貰うか最低限同じ目に遭わないとすっきりしないに決まっている。
「はい。そういうわけなのでこれはこの場で読み上げる事にしましょう」

──は?
「は?」
 さとりには青娥の心がまるで理解できなかった。いや、理解したくなかった。
「外部に持ち出されないだけ有情だと思ってくださいな。ささ、まだ温かい内に読みましょう」
「喧嘩両成敗、ってか。やむを得ないな」
「読むなら私に任せろー。ポエムを読むのは得意だぞ!」
 青娥が机の上に原稿用紙を置き、それを皆で取り囲む。こいしを探す話のはずが、どうして自分のナロー小説を読まれなければならないのか。何としてでも阻止しようとスペルカードの中からとびっきりのトラウマになりそうな物を探すさとりであったが──。
「お姉ちゃん、諦めよう?」
 気が付けば、いや芳香がフリーになっているのだから当然だが、開放されたこいしが逆にさとりをがっしり羽交い締めにして、にっこりと微笑んでいた。あまりにも芳醇なこいし臭がさとりの意識を奪いに来る。
「うぷっ。い、いやっ。やめて、お願い……!」
 しかし現実は非情である。さとりの声などお構いなしに芳香の視線が小説の一行目に落ちた。
『私、シトリー! どこにでも居る普通の女の子。しいて違う所があるとしたら、動物の考えが分かるって事カナ~? そんな私がある日、暴走する火車に轢かれて……』
「いやぁあああああァァァ…………!」
 さとりの悲痛な叫びが地霊殿に響き渡った。


 地獄温泉良いところ。地獄に落ちたら一度はおいで。
 そのような謳い文句に誘われて、まんまと地底に降りてきた、はた迷惑な三人組。旧地獄での出会いは良いものでは無かったけれど、いい湯というのはつまらないいざこざも綺麗さっぱり洗い流してくれるものだ。
「ふい~……五臓六腑に染み渡るねえ」
 露天風呂に寝そべるようにどっぷり浸かり、屠自古は本日二度目の酒にのぼせ上がっていた。
「やだぁ屠自古さんったら、おじさん臭い」
 その横に青娥が足をちゃぷんと付ける。いつもの稚児髷を解いたふんわりとして艷やかな青髪に、熱気でほんのり赤みを帯びるしっとりと潤った肌。そっちの気は無いはずの屠自古も思わず生唾を飲む程の、桃のような甘い色香が湯気と混じり合って鼻腔をくすぐった。
「もうのぼせたか屠自古ー? まあ気持ちはよく分かるがなぁ」
 芳香が真っ赤になった屠自古を挟む形で青娥とは反対側にどぶんと飛び込んだ。大波で酒に湯が入ってしまうが、屠自古は全くお構いなしにその酒を煽って酒気帯びの息を豪快に吐き出す。
「へへっ。こんな機会、次はいつになるか分からんからな。一生忘れないぐらい堪能しとかないと」
「もう一生は終わってるけどなー!」
 怨霊とゾンビの笑えない死人ジョークが再び飛び出した。
「あら、来たかったらいつでもお付き合いしますよ。アレのコピーも芳香にインプットしてますし、またタダで……」
『私、シトリー! どこにでも居る……』
「やめとけやめとけ!」
 屠自古は例のアレを再生しだした芳香の口を強引に塞いだ。あの悲劇だけは二度と繰り返してはならない。
 未完で打ち切られていた例の黒歴史を読んだ全員が、これは絶対に再封印するべきだという結論に達するクオリティだった。それはバラ撒こうとしていたこいしすらも自らの過ちに気付くほどに、である。これを脅迫に使うのはいくら妖怪相手でもあまりに非人道過ぎる。
「まあまあ、姉妹がお互いごめんなさい出来たのは私のおかげでもありますし、そこはちょっぴりサービスを期待してもいいでしょう?」
「泣いたのもお前のせいだぞ。ま、唯一の家族なんだから仲良くしなきゃいかんよ。喧嘩別れのまま二度と会えないのは悲しいからな」
 屠自古が湯気で霞む遠くに視点を伸ばした。その先に見たのは遠い飛鳥の風景か、或いは同じ場所に行けなかった親兄妹の幻影か。

「お客様、痒いところはございませんか?」
「えへへー、とっても気持ちいいでーす」
 いや、そこには妹の頭を優しく丁寧に洗ってあげる仲良し姉妹の姿があった。どうせ最上級の宿を奢るなら自分も温泉ぐらい入っておかないと損だ。さとりは一家総出で三人に付いていくと言い出したのである。すなわちお燐を始めとする動物も一緒という事になるが、小動物大好きの屠自古が鼻息荒くぜひと頷き、青娥が苦笑いを浮かべる形でそれが相成った。
 水嫌いのお燐は地熱でぽかぽか温かい岩の上で伸びをして、地獄烏のお空は烏の姿に戻って湯の上でぷかぷかと浮いていた。流石に他の客をいきなり動物風呂と対面させるわけにはいかないと、さとりの強権によって貸し切りが実現している。屠自古の所にはかのモルモットが近寄ってきて、髪の毛をくんくんと嗅ぐ。その頭を人差し指でカリカリと掻いて、屠自古はだらしなく顔をふやけさせていた。

「青娥ぁ。私なあ、何か気になったのだがあ?」
「あら芳香、どうしたの?」
「そもそもなのだが……あの店で屠自古が声をかけなければ、何も起きなかったのではないか?」
 青娥は驚いたように芳香の丸い目をしげしげと見つめていたが、屠自古も酒を飲む手がぴたっと止まっているのに気付いてぷっと吹き出した。
「そうね、正解よ。何も問題は起きませんでした」
 もし屠自古がさとりに声をかけずにいれば。さとりは一人で真っ直ぐ家に帰り、こいしもそのうち画材を持って戻っただろう。そこから風呂に入るかは怪しいが、部屋に籠もっていればそれ以上は地霊殿の外に臭いをばら撒かないはずだ。
「確かに屠自古さんのせいだけど、私はこいしさんを探すのに乗り気だった方が気になりますねえ」
「ああ? あれは義を見てせざるは勇無きなりってやつだよ」
「本当にそれだけですかあ? 今ならお酒の勢いって事で誤魔化せますよ。ほらほら、白状してくださいよ」
 青娥は手で水鉄砲を作って屠自古の頬にお湯をぴゅっと飛ばした。なるほど、酒の勢いなら仕方ない。このまま妨害されていては酒が薄まって満足に飲めないから、仕方なく思ってもない事を言うのだ、と心に言い訳をした。今はさとりの意識も妹だけに向いている事に安堵して、屠自古は渋々と口を開けた。

「……私も異変解決ってのをしてみたかったんだよ。お前たちと、一緒にさ」
 太子様と布都ばっかり外を飛び回ってズルい。自分の役割は理解していても心の片隅でそう思っていた。神霊廟の存在が明るみに出たのだから、もう地下で鬱屈と暮らさなくていい。幻想郷ならもっと自由にわがままになってもいい。太子様には敵わないだろうが自分だって世の為人の為に役立ってみたい、というささやかな望みが屠自古にはあったのだ。そして出来ればそれは、気心の知れた相手と一緒がいい。今自分の横に居る二人のような。
「ええ、おかげでとっても楽しめましたよ。ありがとう」
「結局私は何の役にも立てなかったけどな。こいしを捕まえたのは芳香で、さとりにトドメを刺したのはお前だもんよ」
「何を言ってるんですか。この結果は屠自古さんが最初の一歩を踏み出したからです。貴方の心が私と芳香を動かした。それが何より尊いの」
「屠自古、いい子! ⑪点!」
 せっかく二人が褒めているのに、屠自古は逃げるようにぷいと後ろを向いてしまった。別に嫌とかではなく、こういうのに慣れていないのだ。顔が真っ赤なのも酒と湯のせいだ。そう心の中で言い訳した。
 そんな屠自古の心情を理解しているのかいないのか、お燐達ペット一同が彼女の所に集まってくる。動物達だってあんな事が無ければ温泉になんて来られなかっただろう。言葉には出来ないが屠自古に感謝しているのかもしれない。
 青娥は何も言わず、とても大事そうに屠自古の杯に酒を注いだ。屠自古も、お返しに青娥の杯に酒を注ぐ。芳香にも一杯、キョンシーに酒はあまりよろしくないが今回は特別だ。
「乾杯しましょう、あの頃からずっと続く私たちに」
 青娥が音頭を取り、三人の杯がこつんと重なった。時代、国、人。変わったものならいくらでもある。それでも屠自古が変わらずにいられたのは、同じく変わらない人が近くにいたおかげだ。これからも新たな出会いがあるだろうが、この関係だけは決して色褪せない。

「ああ、本当に……生きててよかった!」
 屠自古が酒をまた一気に飲み干して力強く叫んだ。死んでるけど、といった野暮は今回無しだ。怨霊だろうと彼女の魂は今を全力で生きている。そこに文句を付けられる者など、どこにもいないのだから。
タイトルは要するに妹が硫黄と同じぐらい臭ってましたって意味です
石転
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100東ノ目削除
相変わらずパロネタをふんだんに織り込みながらもネタだけに甘えず物語としての面白さも担保しているのが凄いと思いました。無意識に絵を描き続け、色鉛筆が無くなったから買いに行くと、こいしの行動原理が(女の子としてどうなのかというのはともかく)納得がいくものなのが良かったです。面白かったです
3.90竹者削除
よかったです
4.100名前が無い程度の能力削除
ほっこりしました。悶絶お姉ちゃんかわいい、におうこいしちゃんかわいい
5.100夏後冬前削除
この3面子で異変解決っていうところが斬新で好きでした。異変解決っていうか命名好き勝手に暴れまくってただけでしたけど、それも含めて面白かったです。
6.100のくた削除
果たして人間と妖怪は体臭が同系統なんだろうかと言う疑問(希望)を感じつつも面白かったです
7.100Actadust削除
独特のほのぼのとした雰囲気で語られる珍道中感がほんと好きです。とくに悪い事してないのにひどい目にあったさとりん可哀そう。面白かったです。
9.100南条削除
面白かったです
一緒に異変を解決したかったという屠自古がとてもかわいらしかったです
酔って絡みまくる屠自古とフォローに回る青娥が新鮮でした
10.100めそふ削除
面白かったです。結構登場人数が多いのにも関わらず、それぞれが物語での役割をしっかりこなしており、話がまとまってるのがとても良かったなと思いました。また、神霊廟組の3人の関係性が綺麗に書かれていて、仲が良いのがめちゃくちゃ伝わってきました。本当に読んでて楽しかったです。
11.100植物図鑑削除
関係性のみならず、個々のキャラクターの内面が非常に納得させられる形で書かれていてすばらしかったです。ギャグも面白く、読んでてすごく楽しかった。そして3人から始まり、3人の絆で終わる、という構成がすごく好きです。この3人はきっとこれからも、いつまでもこうあり続けるんだろうな、と私は感慨深かった。ありがとうございました。
13.100ローファル削除
付き合いの長さと絆の深さが感じられる神霊廟の3人のやり取りに読んでいて
とても引き込まれました。
面白かったです。
14.100㍉か削除
すっごい面白かったです!
キャラが強めの青娥やこいしを出せてしっかりした小説が書けて…
尊敬します!
15.100名前が無い程度の能力削除
肩の力を抜いて読める感じが良かった!面白かった!