殺してやりたい、と思った回数なんて数えるのも面倒になった。
怨霊の身となってから、或いはそうなる前から。ずっと、ずっと、ずっと、ずっとだった。
眠る必要のない身体となった私の前で、そいつはいつかも分からぬ目覚めを待って呑気に眠っている。私はそれをずっと見つめながら、千年以上の永い時に流された。
好機なら目の前にずっと転がっているのになぜやらないのかと、そもそもの元凶が呆れとからかい半分に何度も問いかけた。挙句は私に刃を手渡して促す事すらもあったが突っぱねてやった。
だが、もし本当に手に掛けようとしたなら、あいつは逆に止めたのではないだろうか。割れてしまった壺は元に戻らない。これ以上お気に入りの壺が割れるなんて、奴が許すはずはない。何より割れた壺も大事にする奇人、それがあいつでもあるのだ。
蘇我の血が殺せと叫喚する傍らで、また別の蘇我の血が殺すなとわめき散らす。矛盾する二つの声、それは今も私の中で呪詛として渦巻いているのだ。
「屠自古さんも本当、難儀なお人よねえ。あっちは傷付けたくないからって私にはいくらでも面倒をかけてもいいと思って?」
「まあな。元はと言えばお前の蒔いた種だし」
「まあなじゃないんですよ」
そもそもの元凶が大げさな身振りでやれやれと息を吐く。天から見放された仙人の霍青娥、こいつさえ居なければ私はとっくに来世の来世の来々々世ぐらいを謳歌していたに違いない。もっとも、まともな生物に成れている保証はどこにも無いのだが。
「峠は越えたはずだけど、意地悪を言うからもうちょっと縛っておくわね」
「勝手にしろ。夜明けにはまだ早いだろうしな」
石造りの牢獄みたいに暗く狭い部屋。一枚だけある扉も鉛の板をそのまま取り付けたような無骨な物で、辛うじて空が見える換気用の小窓だけが時の流れを教えてくれる。その中央に置かれた寝台に私は横たわっていた。
暗い時こそ亡霊たる私の本領が発揮されるところだが、しかし霊らしい活動にもさほど興味が無いのだ。
夜は寝て、朝に起きるのが人だ。死んで千年経っても私は人でなしになりきれない。
「実はですねえ」
青娥はわざとらしくポンと手を打った。大体ろくでもない事しか言わないが、このにやけ面をした時はいつにも増してろくでもない。
「せっかく動けないということで、今宵はスペシャルゲストをお呼びしているんですよ」
案の定すぎて、怒る気も失せる。
「お前はこれが客人に見せられる姿と思ってるのかよ」
「お生憎ですがこの姿だからこそなもので。それに今更気にする間柄でもないですし。さあ、入りなさい」
その手を扉の取っ手にかける。いかにも力仕事とは無縁の華奢な手なのに、重々しい金属扉は油でも塗ったかのようにするすると横にずれた。
「……失礼致す」
「ふ、ッ……ゥ……!」
体も蒸発しそうな焦熱が自分に満ちる。声にならない私に代わって空気がバチンと悲鳴を上げる。
普段ならともかく、今は、今だけは、こいつを見たくも見られたくもなかったのだ。
「はい、落ち着いて呼吸を整えて。布都ちゃんも、どこか焦げてない?」
「なんの、焦がすなど日常茶飯事ですからな」
物部布都。他でもない、私を殺した奴。そして共に豊聡耳神子にお仕えする同士であり、掛け替えのない存在。
「そんなに怖い顔しないの。いずれはこういう日が来るのも分かっていたでしょう」
「ならせめて予告しろ。こっちだってあるんだよ、心の準備とか」
そう、いつかは来るかもしれないのだ。いつも私を看てくれる青娥が居なくなる時が。そうなったら代わりに頼めるのは二人しか居ない。主たる太子様か、目の前に居るこいつか。でも、そんな日が来るなんて考えたくもなかった。
「布都、これを見た感想は?」
「……熱いのに寒気がします。私がこれを生み出してしまったのですな。全身が赤黒く変色しておりますが、定期的にこの状態へ?」
「そうね、怨霊の気が強まるとこうなるの。眼を逸らさず直視なさい、これでも抑えてる方だからね」
自分で言うのもなんだが、今の私は紛れもなく悪鬼悪霊か、それ以上の化け物なのだろう。このような姿を受け入れてもらえる自信は到底持てなかったのだ。
「改めて言うけれど、死者に関わる術は穢れを厭う天界にとって邪法扱いよ。教えるけれど、それを行使するかは布都次第。自分の道は自分で選びなさい」
「今この場に居る事が、私の選択で御座います。これは贖罪だとか、責任感では決してありません」
布都は、私と青娥の顔を交互に見比べて口を真一文字に結ぶ。それでいい、罪滅ぼしなんて答えたら消し炭にしてやるところだった。
「宜しい。それでは教えてこなかった邪仙の部分を貴方に伝えます。私に続きなさい」
青娥は札の上から私に手を当てた。さらに布都がその横に手を置く。二人の気が私の中に流れ込んでくる代わりに、私の怨嗟が二人へと流れていく。
布都も青娥同様、私という穢れに蝕まれた。それに対して恨みの代わりに満ちる感情は何なのか。歓喜か、憤怒か、哀嘆か、悦楽か。全くの別物かもしれないし、或いは全てなのかもしれない。自分でも分からないのだ。
「死人が抱く生への妄執はとても強力なの。だから下準備として自己へ術式を施し……次に外部からの……」
術の効果か、小難しい話が強烈な睡魔となったか、意識が朦朧としてきた。
ただ、ぼんやりとした中でも私に触れる二人の手は温かい。それだけは確かに感じ取れた。
「……気になるなら一緒に入れば良かっただろー。何しとるんじゃい曲者めー」
私の気など意に介さぬ、調子の外れた声。
夜になれば踊り、歌う。死体とはそういうものだと本人が言っていた。だから宮古芳香が徘徊しているのは何ら不思議なことではない。ましてやここは彼女の主たる青娥の庭なのだから。
「やあ、芳香じゃないか。私は月が綺麗だからこうして眺めていただけだよ。見事な満月だろう?」
「白々しいのう、不法侵入の次は愛の告白とは。節操のない太子様でヤレヤレだぞ」
脳が腐っているらしいのに、私のことはしっかり豊聡耳神子だと記憶しているのだから恐れ入る。死人の扱いに熟達した青娥のキョンシーは一味違うといったところか。
「ふう、月が綺麗は告白の表現か。自分への誉め言葉が他人への口説き文句では月もいい迷惑だろうさ。まったく、現代の若人は随分と回りくどい。私の時代は気になる相手がいたらその晩には寝所に潜り込んでだね……」
「だったら堂々とせんかーい。青娥の話を聞きたいのだろう?」
硬い関節を器用に伸ばし、芳香は大股で私の横に跳び寄った。
詩人の心も有しておきながら言葉の駆け引きは好かないらしい。死体の時間は無限大なのだから話の結論を急く事もないだろうに。
「……回りくどい話は無し、ならば答えよう。私が教えを乞うなどあってはならないのだよ」
芳香から目線を逸らして、ちらりと小窓に目をやる。天井近くの位置なので中で何をやっているかは知りようがない。例外があるとしたら、私のように耳が良い者だろう。
「教えは乞わん、だとぉ? 今更、私は青娥の弟子なんかじゃありませーん、なんて通ると思っとるのか?」
「我が師は生涯青娥ただ一人だよ。だがね、天道を歩むと決めた私に邪法は必要無いのだ」
「……必要ないのに、ここに居る。はっはーん、さてはアレだな? 仲間外れは寂しいのだな?」
「お前と一緒にしないでくれ。私は別に寂しくなんかない」
元より仙人は孤高の存在だ。私の両腕二人が青娥に取られているくらいで嫉妬を覚えたりなんかしない。本当だ。
「まーまー心配するな。今宵は私が寂しい思いなどさせんから。ついさっき口説かれたしなー」
「だから、告白なら直球で……まあ良い、月などダシにしなくてもお前の事は気に入っているよ」
私は死ぬのが怖かった。いや、怖くない人間などおそらくいないと思う。その死を全身に纏っていながら朗らかに笑う芳香は、愚者であり賢者でもあるのだ。
「……弟子として、青娥の歩んだ道は私も知っておきたいんだよ。でもほら、私って光の聖徳王でしょ?」
「知らんが?」
「そうなの。だからほら、闇の部分まで継承したなんて思われたくないの。そういうのは布都がやるって言ってくれたの」
「じゃあそれで良いだろうのー」
「ダメ。私が青娥の一番弟子だから」
「……だから、部屋の外から盗み聞きー、と」
芳香は空気以外も出てきそうなため息をぶえっと吐き出して、尻をどっかりと庭石に預けた。足をぷらんぷらんと揺らして、真ん丸の月を仰ぎ見る。
「ばーか」
「馬鹿で結構。馬鹿になる程の熱意を持たねば道を極めるなど出来ないさ」
私も彼女に倣って石に腰掛けた。死体と一緒に月見など、昔の私では有り得ない話だ。
「……私はぁ、黙った方がいいか?」
「気にしないで。これでも昔は十人十色の声を聞き分ける神童なんて言われたものよ」
「あっそー。じゃあ一応言っとくが、青娥はきっと気付いとるぞ」
「だろうね。私の気配を感じ取れない人じゃないさ」
その上で私の思惑も分かってくれる人だ。分かった上で意地悪をするのもまた彼女なのだが、その辺りはこちらもやり返すので五分五分で。
「……邪法を扱うにあたって大事なのは何か、分かるかしら?」
「うーむ、禁忌の術でありますから、自分への跳ね返りに気を付ける、でしょうか」
「確かにそれも要注意ね。でも、もっと気を付けないといけない事があるわ。それは……」
青娥と布都の声が壁越しに伝わってくる。実践と同時に口頭での伝授も行うのは当然、しかし布都だけに伝えるにしてはいささか声が大きい。私にはそう思えた。
「余計な恨みを買わない事。死体を使うんですから」
「う、うむ。何と言いますかその……先生もそのような感覚をお持ちだったのですな」
「おバカ」
ゴツン。
硬い物同士がぶつかる音がした。きっと布都のおでこと青娥のげんこつに違いない。
「一々恨まれていたら面倒でしょう。これでも私、人から封印された事は一度も無いのよ。どこかの誰かさんと違って」
(うぐっ)
まさかの流れ弾が飛んできた。いや、これはきっと妖怪寺の尼僧に違いない。きっとそうだ。
「とにかく、追われたくなければ家族のいる死体なんかは避けて、なるべく無縁仏を使いなさい。水子にしても、今の日本だけで年間何人の中絶患者がいると思う? 毎日百人使ってもまだ半分以上残るのよ」
「望まれぬ子供が、それほど……」
「ついでに言っておくけれど、水子の術には産まれてこれなかった我が子を慰める為、キョンシーの術だって身元の分からない死体を家族の元に帰らせる為、そういった側面もあるの。決して邪な目的だけの術では無いと覚えておいて」
「全ては使う者の心次第、ですな。それはどの術に言える事なのでしょうが……」
「豊聡耳様だったら」
青娥はそこで一度言葉を切った。私に聞かせる為、ではないと思う。しかし私が居るからこそ口にしたように感じた。
「……例えばの話。さっき言ったわよね、中絶を選ぶ人がいっぱいって。仮にね、今も豊聡耳様がこの国の中心に居たとしたら、この数はもっと少なかったのかしら」
「それは、何とも……青娥殿は少ない方を望むのですか?」
「私は水子も赤ん坊も愛せますが、一般的には全ての子供が望まれて産まれる社会が理想なのでしょうね」
今、彼女はいつものように微笑んでいるのだろうか。無論、青娥だって怒れば怒りの、嘆けば悲しみの表情をする。ならば淡々と語る今はどの感情を内に秘めているのだろう。
「豊聡耳様が如何に素晴らしい御方でも、世界は一人で治めるには広すぎる。それに復活を阻む者……あの方の治世を善しとしなかった勢力も少なからず居たではないですか」
棘が私の内に食い込んでいく。
青娥は甘い香りを振りまき近付く者を蝕む猛毒を秘めた花だ。されど毒は転じて薬になるのもまた事実。適切な距離を保つのが大事、それは分かっているのだが。
「むぅん、顔が硬いぞ。私には何も聞こえんが、とりあえず私はここに居るから安心しろな?」
「……ああ。ありがとう、芳香」
芳香もおそらくは千年近い時を青娥と共にした。無数の治療を施されているはずだが、身体をぱっと見ただけではその痕もほとんど分からない。疵が目立たぬように思いやる気持ちだって持ち合わせているのだ。
「あの人は優秀ですから十人の言葉も同時に聞けて、答えられてしまいます。逆に言えば、一人一人には耳を傾けてくださらない」
「……青娥殿、貴女でも言い過ぎはある。太子様はとても真摯に私の言葉を聞いてくださいます」
「それは布都、貴方だからよ。屠自古さんだから、大事な人だから。そんなの当たり前の話ですけれどね。でも十人一緒くたに話を聞かれた側はそれで終わり。例え御答えが正しくとも、その事実がしこりのように残り続けるのかもしれない。大衆には仏教を広めて自分達だけが道教の恩恵を享受する。そんな私の提案を受け入れたのもまた太子様なのですから」
「……いい加減にしろ!」
雷のように鋭い叫びが薄暗い庭園に轟いた。
虚ろな意識も一瞬で引き戻された。黙ってはいられなかった。今は私を鎮める時間だったはず、なのにどうして青娥は涼しい顔で太子様を貶めているのか。
「屠自古さん。いい加減に、とは?」
「ふざけるなよ。そりゃ、太子様にも良くない所はあったかもしれないが、何も今それを言わなくたって!」
「スペシャルゲストが来ている今だからこそ、ですよ。だって貴方の体、またこんなに赤くなっちゃってるもの」
「く、ッ……!」
反射的に頭を持ち上げたが、そんな事は見なくたって分かっていた。私の四肢は噴き立てた溶岩のように暗い赤光を放っているのだ。
「……布都、分かるわよね。豊聡耳様の話に反応して怨嗟が増悪した、この意味が」
「我だけを恨んでおればよいものを、未だに燻ぶり続けておるのじゃな……」
いっそ死んでしまえたらどれほど楽だったろう。今だけは死にようのない体を死ぬ程恨んだ。
初めは、ほんの小さな火種だったのだと思う。ちょっとお願いを聞いてもらえなかった程度の、とてもちっぽけな、つまらない不満。それでも燃えてしまった物は勝手に消えたりしない。宗教戦争、一族の死、そして政よりも妖術に傾倒していく太子様。それらが私の焔を取り返しのつかない大きさにまで育て上げたのだ。
「呆れた事にねえ、そのくせこの人は恨み以上に貴方達を大事に思っている。それが屠自古を屠自古として留めている唯一の堰なの」
「……訂正しとけ。貴方達じゃなくて、私達だ。お前らだって入ってるんだよ」
「本当に、お人好しね。ありがとう」
私は本当に大馬鹿だ。憎んでいても好意を無かった事には出来ない、だから死んでほしくない。単純明快が過ぎて呆れられても仕方ないが、これが答えだった。
「尸解後の剥き出しの魂が怨嗟を蓄えていれば、仙人以外の何かに変貌していたやもしれぬ。せめて矛先が我に向けばと思って手を下した事に後悔は無い」
「……殺される覚悟まで有ったんなら最後まで責任を持てよ。私だって自分の選択を悔やんだ事は、絶対に無いんだから」
「責任感では無いと言ったのを忘れたか? 我とてお前が居なくなるのは嫌なのじゃ。なあに、何と言っても我らの師は青娥殿じゃからな、お前の世話方法もしっかりと学んでおくわ」
四肢の熱が引いていく。少なくとも今日は、怨恨のままに怒り狂う事は無いだろう。だけど私は怨霊で、また恨みが溢れ出す日が確実に来るのだ。
突き付けられる選択肢はいつも同じ、殺すか、殺さないか。ならば大事な人達が曲がらない限り、私もずっと一本道を歩むのだろう。
「おはよう。随分と眠そうだな」
「太子さま、おはようございます。やはり徹夜はつらいですなあ」
渡り廊下をのそのそと歩いていた布都が、細目でくあぁと大口を開ける。どうやら夜明けまでとことん実習だったようで、目も手も赤く腫れ上がっていた。
今日もいつものように朝が来る。しかし本当にいつもの日が来るなど有り得ない。停滞を止めた私達は常に前に進んでいて、今日は昨日と別人なのだから。
「あらあら、豊聡耳様こそ御髪がぼさぼさじゃないですか。ダメですよぉ、女の子なんですから」
「だめだめみみぃー」
布都の後ろから白々しく青娥と芳香の両名も現れる。自分が一番疲れているはずなのにこの場で誰よりも艶々している、それが邪仙というものだ。それより駄目駄目耳って何だろう。
「ああ先生、どうやら私の部下が世話になったようで。いつもそれぐらい真面目だと嬉しいのだけどね」
「んー? もしかして、ちょっと妬いてます? 妬いてらっしゃいますよね?」
欲が読めるわけでもないのにお小言の裏をしっかり読み取ってくる。青娥のこういう所が私は嫌いなのだ。
「別に。貴女を慕うのは教えを乞う者として当然ですし」
「はいはい、可愛い可愛い」
青娥は上機嫌で私の頭をわしゃわしゃと掻き回した。本来なら無礼者として打ち首にするところだが、どうせ首を刎ねても生きてそうなので特別に恩赦とする。
「……お前、太子様を犬か何かだと思ってるのか?」
屠自古だ。
一瞬、心臓が早鐘を打つ。今日の屠自古が私の知る屠自古でなかったら。そんな不安に駆られたが、そうならばこの場に現れるはずがないと自分に言い聞かせ、声の方に目を向ける。そこには、足が白く透き通ったいつもの屠自古が居た。
「えー、兎の方がそれっぽくないですか? ほら、お耳がぴょーんと。寂しくさせると死んじゃいそうですし?」
空気を読んでかあえて読まずか、青娥は私のアイデンティティたる髪を上に引っ張る。
「止めて、掴まないで。仙人にもなって孤独で死んでたまるか」
「孤独は、死ぬぞ」
傍観していた芳香が、薄ら笑いで呟いた。
「一人でも飯は食えるが、心の飢えは満たせんぞ」
死を語る芳香の声は一段と重くなる。彼女は見ているのだ、私では決して知りようのない領域を。
「はい芳香、豊聡耳様を脅かさない。そんなに飢えているようならご飯にしましょうか。布都ちゃん、手伝ってくれる?」
「承知しました。練習していたオムライスの成果を見せる時ですな」
「……玉子かけご飯を焼いてもそうはならないからね? 順番間違えないでね?」
青娥は二人を連れて台所へと向かった。本当にお節介な邪仙だと苦笑する。わざわざ屠自古と二人で話す時間を作ってくれるのだから。
「……全く、兎だの死ぬだのとあいつらは。私の分まで生きて貰わないと困りますよ」
「うん、屠自古の言葉が一番重いからね?」
「そうですか? 今の私は空気並みに軽いですよ」
「そういう話じゃないんだよ」
幽体となってからの屠自古は頻繁に死人特有の冗談を言うようになった。けど、その類は芳香や青娥しか笑ってくれないと理解してほしい。
「確かにね、私だって死ぬ気は無い。死ぬ気は無いが……死神に狙われれば万が一という事もある」
輪廻を歪めて天命以上に生きるのは罪とされている。以前青娥が水責めされたように、私にも死の使いが迎えに来るはずだ。
「だが、名も知らぬ、私の価値も分からぬ者に殺されるなど真っ平だ。だからいざという時は……屠自古、君の手で最期を迎えさせてくれ」
屠自古は、信じられない物を見たように大きく目を見開いた。
「いきなり何を言ってんですか、あんた」
一転、吐き捨てるように言い放つ。彼女がここまで他人を小馬鹿にした表情は生前一度も見た事が無かった。
「青娥に触られて頭がおかしくなりましたか? 布都を実験台にしてまで見苦しく生き延びようとしたのはどこの誰ですか」
「いや、そうなんだけど。もし死ぬなら死に様は選びたいなー、という話で……」
「青娥程度も殺せない奴らに太子様をどうにか出来るわけないでしょう。貴方がそんな情けない人だったら私は、迷わず……その首を締め上げていたでしょうね」
瞬間、背筋の凍りそうな熱を屠自古から感じた。殺意、消える事なく。彼女は今も燃え盛る炎を必死に抑えているのだ。
「そりゃあ、不満はありますよ。でも恋人だろうが喧嘩する時もあるでしょう? それでも一緒にいるのは好きが嫌いを上回るからじゃないですか。それともまさか、誰からも嫌われない完璧超人だと自覚してました?」
「そんな事は無い。そんな事は無いぞ」
そんな事は無い。ちょっぴり、思わなかった事も無いけれど。
「まあ、どうしても死にたくなったら言って下さい。化けて出たくなるほど凄惨に殺して差し上げますよ。私だけ亡霊も寂しいですから」
「ああ、覚えておこう。だけど話してみて確信したよ。やはり……好きな相手に殺されるなんて私は御免だね」
「奇遇ですね、私も好きな相手を殺すなんて御免ですよ」
誰よりも優しかった屠自古の、その柔らかな笑みは今も昔も変わらない。
彼女の熱が移ったのか、私の体もほんのりと温かくなったように感じた。
怨霊の身となってから、或いはそうなる前から。ずっと、ずっと、ずっと、ずっとだった。
眠る必要のない身体となった私の前で、そいつはいつかも分からぬ目覚めを待って呑気に眠っている。私はそれをずっと見つめながら、千年以上の永い時に流された。
好機なら目の前にずっと転がっているのになぜやらないのかと、そもそもの元凶が呆れとからかい半分に何度も問いかけた。挙句は私に刃を手渡して促す事すらもあったが突っぱねてやった。
だが、もし本当に手に掛けようとしたなら、あいつは逆に止めたのではないだろうか。割れてしまった壺は元に戻らない。これ以上お気に入りの壺が割れるなんて、奴が許すはずはない。何より割れた壺も大事にする奇人、それがあいつでもあるのだ。
蘇我の血が殺せと叫喚する傍らで、また別の蘇我の血が殺すなとわめき散らす。矛盾する二つの声、それは今も私の中で呪詛として渦巻いているのだ。
「屠自古さんも本当、難儀なお人よねえ。あっちは傷付けたくないからって私にはいくらでも面倒をかけてもいいと思って?」
「まあな。元はと言えばお前の蒔いた種だし」
「まあなじゃないんですよ」
そもそもの元凶が大げさな身振りでやれやれと息を吐く。天から見放された仙人の霍青娥、こいつさえ居なければ私はとっくに来世の来世の来々々世ぐらいを謳歌していたに違いない。もっとも、まともな生物に成れている保証はどこにも無いのだが。
「峠は越えたはずだけど、意地悪を言うからもうちょっと縛っておくわね」
「勝手にしろ。夜明けにはまだ早いだろうしな」
石造りの牢獄みたいに暗く狭い部屋。一枚だけある扉も鉛の板をそのまま取り付けたような無骨な物で、辛うじて空が見える換気用の小窓だけが時の流れを教えてくれる。その中央に置かれた寝台に私は横たわっていた。
暗い時こそ亡霊たる私の本領が発揮されるところだが、しかし霊らしい活動にもさほど興味が無いのだ。
夜は寝て、朝に起きるのが人だ。死んで千年経っても私は人でなしになりきれない。
「実はですねえ」
青娥はわざとらしくポンと手を打った。大体ろくでもない事しか言わないが、このにやけ面をした時はいつにも増してろくでもない。
「せっかく動けないということで、今宵はスペシャルゲストをお呼びしているんですよ」
案の定すぎて、怒る気も失せる。
「お前はこれが客人に見せられる姿と思ってるのかよ」
「お生憎ですがこの姿だからこそなもので。それに今更気にする間柄でもないですし。さあ、入りなさい」
その手を扉の取っ手にかける。いかにも力仕事とは無縁の華奢な手なのに、重々しい金属扉は油でも塗ったかのようにするすると横にずれた。
「……失礼致す」
「ふ、ッ……ゥ……!」
体も蒸発しそうな焦熱が自分に満ちる。声にならない私に代わって空気がバチンと悲鳴を上げる。
普段ならともかく、今は、今だけは、こいつを見たくも見られたくもなかったのだ。
「はい、落ち着いて呼吸を整えて。布都ちゃんも、どこか焦げてない?」
「なんの、焦がすなど日常茶飯事ですからな」
物部布都。他でもない、私を殺した奴。そして共に豊聡耳神子にお仕えする同士であり、掛け替えのない存在。
「そんなに怖い顔しないの。いずれはこういう日が来るのも分かっていたでしょう」
「ならせめて予告しろ。こっちだってあるんだよ、心の準備とか」
そう、いつかは来るかもしれないのだ。いつも私を看てくれる青娥が居なくなる時が。そうなったら代わりに頼めるのは二人しか居ない。主たる太子様か、目の前に居るこいつか。でも、そんな日が来るなんて考えたくもなかった。
「布都、これを見た感想は?」
「……熱いのに寒気がします。私がこれを生み出してしまったのですな。全身が赤黒く変色しておりますが、定期的にこの状態へ?」
「そうね、怨霊の気が強まるとこうなるの。眼を逸らさず直視なさい、これでも抑えてる方だからね」
自分で言うのもなんだが、今の私は紛れもなく悪鬼悪霊か、それ以上の化け物なのだろう。このような姿を受け入れてもらえる自信は到底持てなかったのだ。
「改めて言うけれど、死者に関わる術は穢れを厭う天界にとって邪法扱いよ。教えるけれど、それを行使するかは布都次第。自分の道は自分で選びなさい」
「今この場に居る事が、私の選択で御座います。これは贖罪だとか、責任感では決してありません」
布都は、私と青娥の顔を交互に見比べて口を真一文字に結ぶ。それでいい、罪滅ぼしなんて答えたら消し炭にしてやるところだった。
「宜しい。それでは教えてこなかった邪仙の部分を貴方に伝えます。私に続きなさい」
青娥は札の上から私に手を当てた。さらに布都がその横に手を置く。二人の気が私の中に流れ込んでくる代わりに、私の怨嗟が二人へと流れていく。
布都も青娥同様、私という穢れに蝕まれた。それに対して恨みの代わりに満ちる感情は何なのか。歓喜か、憤怒か、哀嘆か、悦楽か。全くの別物かもしれないし、或いは全てなのかもしれない。自分でも分からないのだ。
「死人が抱く生への妄執はとても強力なの。だから下準備として自己へ術式を施し……次に外部からの……」
術の効果か、小難しい話が強烈な睡魔となったか、意識が朦朧としてきた。
ただ、ぼんやりとした中でも私に触れる二人の手は温かい。それだけは確かに感じ取れた。
「……気になるなら一緒に入れば良かっただろー。何しとるんじゃい曲者めー」
私の気など意に介さぬ、調子の外れた声。
夜になれば踊り、歌う。死体とはそういうものだと本人が言っていた。だから宮古芳香が徘徊しているのは何ら不思議なことではない。ましてやここは彼女の主たる青娥の庭なのだから。
「やあ、芳香じゃないか。私は月が綺麗だからこうして眺めていただけだよ。見事な満月だろう?」
「白々しいのう、不法侵入の次は愛の告白とは。節操のない太子様でヤレヤレだぞ」
脳が腐っているらしいのに、私のことはしっかり豊聡耳神子だと記憶しているのだから恐れ入る。死人の扱いに熟達した青娥のキョンシーは一味違うといったところか。
「ふう、月が綺麗は告白の表現か。自分への誉め言葉が他人への口説き文句では月もいい迷惑だろうさ。まったく、現代の若人は随分と回りくどい。私の時代は気になる相手がいたらその晩には寝所に潜り込んでだね……」
「だったら堂々とせんかーい。青娥の話を聞きたいのだろう?」
硬い関節を器用に伸ばし、芳香は大股で私の横に跳び寄った。
詩人の心も有しておきながら言葉の駆け引きは好かないらしい。死体の時間は無限大なのだから話の結論を急く事もないだろうに。
「……回りくどい話は無し、ならば答えよう。私が教えを乞うなどあってはならないのだよ」
芳香から目線を逸らして、ちらりと小窓に目をやる。天井近くの位置なので中で何をやっているかは知りようがない。例外があるとしたら、私のように耳が良い者だろう。
「教えは乞わん、だとぉ? 今更、私は青娥の弟子なんかじゃありませーん、なんて通ると思っとるのか?」
「我が師は生涯青娥ただ一人だよ。だがね、天道を歩むと決めた私に邪法は必要無いのだ」
「……必要ないのに、ここに居る。はっはーん、さてはアレだな? 仲間外れは寂しいのだな?」
「お前と一緒にしないでくれ。私は別に寂しくなんかない」
元より仙人は孤高の存在だ。私の両腕二人が青娥に取られているくらいで嫉妬を覚えたりなんかしない。本当だ。
「まーまー心配するな。今宵は私が寂しい思いなどさせんから。ついさっき口説かれたしなー」
「だから、告白なら直球で……まあ良い、月などダシにしなくてもお前の事は気に入っているよ」
私は死ぬのが怖かった。いや、怖くない人間などおそらくいないと思う。その死を全身に纏っていながら朗らかに笑う芳香は、愚者であり賢者でもあるのだ。
「……弟子として、青娥の歩んだ道は私も知っておきたいんだよ。でもほら、私って光の聖徳王でしょ?」
「知らんが?」
「そうなの。だからほら、闇の部分まで継承したなんて思われたくないの。そういうのは布都がやるって言ってくれたの」
「じゃあそれで良いだろうのー」
「ダメ。私が青娥の一番弟子だから」
「……だから、部屋の外から盗み聞きー、と」
芳香は空気以外も出てきそうなため息をぶえっと吐き出して、尻をどっかりと庭石に預けた。足をぷらんぷらんと揺らして、真ん丸の月を仰ぎ見る。
「ばーか」
「馬鹿で結構。馬鹿になる程の熱意を持たねば道を極めるなど出来ないさ」
私も彼女に倣って石に腰掛けた。死体と一緒に月見など、昔の私では有り得ない話だ。
「……私はぁ、黙った方がいいか?」
「気にしないで。これでも昔は十人十色の声を聞き分ける神童なんて言われたものよ」
「あっそー。じゃあ一応言っとくが、青娥はきっと気付いとるぞ」
「だろうね。私の気配を感じ取れない人じゃないさ」
その上で私の思惑も分かってくれる人だ。分かった上で意地悪をするのもまた彼女なのだが、その辺りはこちらもやり返すので五分五分で。
「……邪法を扱うにあたって大事なのは何か、分かるかしら?」
「うーむ、禁忌の術でありますから、自分への跳ね返りに気を付ける、でしょうか」
「確かにそれも要注意ね。でも、もっと気を付けないといけない事があるわ。それは……」
青娥と布都の声が壁越しに伝わってくる。実践と同時に口頭での伝授も行うのは当然、しかし布都だけに伝えるにしてはいささか声が大きい。私にはそう思えた。
「余計な恨みを買わない事。死体を使うんですから」
「う、うむ。何と言いますかその……先生もそのような感覚をお持ちだったのですな」
「おバカ」
ゴツン。
硬い物同士がぶつかる音がした。きっと布都のおでこと青娥のげんこつに違いない。
「一々恨まれていたら面倒でしょう。これでも私、人から封印された事は一度も無いのよ。どこかの誰かさんと違って」
(うぐっ)
まさかの流れ弾が飛んできた。いや、これはきっと妖怪寺の尼僧に違いない。きっとそうだ。
「とにかく、追われたくなければ家族のいる死体なんかは避けて、なるべく無縁仏を使いなさい。水子にしても、今の日本だけで年間何人の中絶患者がいると思う? 毎日百人使ってもまだ半分以上残るのよ」
「望まれぬ子供が、それほど……」
「ついでに言っておくけれど、水子の術には産まれてこれなかった我が子を慰める為、キョンシーの術だって身元の分からない死体を家族の元に帰らせる為、そういった側面もあるの。決して邪な目的だけの術では無いと覚えておいて」
「全ては使う者の心次第、ですな。それはどの術に言える事なのでしょうが……」
「豊聡耳様だったら」
青娥はそこで一度言葉を切った。私に聞かせる為、ではないと思う。しかし私が居るからこそ口にしたように感じた。
「……例えばの話。さっき言ったわよね、中絶を選ぶ人がいっぱいって。仮にね、今も豊聡耳様がこの国の中心に居たとしたら、この数はもっと少なかったのかしら」
「それは、何とも……青娥殿は少ない方を望むのですか?」
「私は水子も赤ん坊も愛せますが、一般的には全ての子供が望まれて産まれる社会が理想なのでしょうね」
今、彼女はいつものように微笑んでいるのだろうか。無論、青娥だって怒れば怒りの、嘆けば悲しみの表情をする。ならば淡々と語る今はどの感情を内に秘めているのだろう。
「豊聡耳様が如何に素晴らしい御方でも、世界は一人で治めるには広すぎる。それに復活を阻む者……あの方の治世を善しとしなかった勢力も少なからず居たではないですか」
棘が私の内に食い込んでいく。
青娥は甘い香りを振りまき近付く者を蝕む猛毒を秘めた花だ。されど毒は転じて薬になるのもまた事実。適切な距離を保つのが大事、それは分かっているのだが。
「むぅん、顔が硬いぞ。私には何も聞こえんが、とりあえず私はここに居るから安心しろな?」
「……ああ。ありがとう、芳香」
芳香もおそらくは千年近い時を青娥と共にした。無数の治療を施されているはずだが、身体をぱっと見ただけではその痕もほとんど分からない。疵が目立たぬように思いやる気持ちだって持ち合わせているのだ。
「あの人は優秀ですから十人の言葉も同時に聞けて、答えられてしまいます。逆に言えば、一人一人には耳を傾けてくださらない」
「……青娥殿、貴女でも言い過ぎはある。太子様はとても真摯に私の言葉を聞いてくださいます」
「それは布都、貴方だからよ。屠自古さんだから、大事な人だから。そんなの当たり前の話ですけれどね。でも十人一緒くたに話を聞かれた側はそれで終わり。例え御答えが正しくとも、その事実がしこりのように残り続けるのかもしれない。大衆には仏教を広めて自分達だけが道教の恩恵を享受する。そんな私の提案を受け入れたのもまた太子様なのですから」
「……いい加減にしろ!」
雷のように鋭い叫びが薄暗い庭園に轟いた。
虚ろな意識も一瞬で引き戻された。黙ってはいられなかった。今は私を鎮める時間だったはず、なのにどうして青娥は涼しい顔で太子様を貶めているのか。
「屠自古さん。いい加減に、とは?」
「ふざけるなよ。そりゃ、太子様にも良くない所はあったかもしれないが、何も今それを言わなくたって!」
「スペシャルゲストが来ている今だからこそ、ですよ。だって貴方の体、またこんなに赤くなっちゃってるもの」
「く、ッ……!」
反射的に頭を持ち上げたが、そんな事は見なくたって分かっていた。私の四肢は噴き立てた溶岩のように暗い赤光を放っているのだ。
「……布都、分かるわよね。豊聡耳様の話に反応して怨嗟が増悪した、この意味が」
「我だけを恨んでおればよいものを、未だに燻ぶり続けておるのじゃな……」
いっそ死んでしまえたらどれほど楽だったろう。今だけは死にようのない体を死ぬ程恨んだ。
初めは、ほんの小さな火種だったのだと思う。ちょっとお願いを聞いてもらえなかった程度の、とてもちっぽけな、つまらない不満。それでも燃えてしまった物は勝手に消えたりしない。宗教戦争、一族の死、そして政よりも妖術に傾倒していく太子様。それらが私の焔を取り返しのつかない大きさにまで育て上げたのだ。
「呆れた事にねえ、そのくせこの人は恨み以上に貴方達を大事に思っている。それが屠自古を屠自古として留めている唯一の堰なの」
「……訂正しとけ。貴方達じゃなくて、私達だ。お前らだって入ってるんだよ」
「本当に、お人好しね。ありがとう」
私は本当に大馬鹿だ。憎んでいても好意を無かった事には出来ない、だから死んでほしくない。単純明快が過ぎて呆れられても仕方ないが、これが答えだった。
「尸解後の剥き出しの魂が怨嗟を蓄えていれば、仙人以外の何かに変貌していたやもしれぬ。せめて矛先が我に向けばと思って手を下した事に後悔は無い」
「……殺される覚悟まで有ったんなら最後まで責任を持てよ。私だって自分の選択を悔やんだ事は、絶対に無いんだから」
「責任感では無いと言ったのを忘れたか? 我とてお前が居なくなるのは嫌なのじゃ。なあに、何と言っても我らの師は青娥殿じゃからな、お前の世話方法もしっかりと学んでおくわ」
四肢の熱が引いていく。少なくとも今日は、怨恨のままに怒り狂う事は無いだろう。だけど私は怨霊で、また恨みが溢れ出す日が確実に来るのだ。
突き付けられる選択肢はいつも同じ、殺すか、殺さないか。ならば大事な人達が曲がらない限り、私もずっと一本道を歩むのだろう。
「おはよう。随分と眠そうだな」
「太子さま、おはようございます。やはり徹夜はつらいですなあ」
渡り廊下をのそのそと歩いていた布都が、細目でくあぁと大口を開ける。どうやら夜明けまでとことん実習だったようで、目も手も赤く腫れ上がっていた。
今日もいつものように朝が来る。しかし本当にいつもの日が来るなど有り得ない。停滞を止めた私達は常に前に進んでいて、今日は昨日と別人なのだから。
「あらあら、豊聡耳様こそ御髪がぼさぼさじゃないですか。ダメですよぉ、女の子なんですから」
「だめだめみみぃー」
布都の後ろから白々しく青娥と芳香の両名も現れる。自分が一番疲れているはずなのにこの場で誰よりも艶々している、それが邪仙というものだ。それより駄目駄目耳って何だろう。
「ああ先生、どうやら私の部下が世話になったようで。いつもそれぐらい真面目だと嬉しいのだけどね」
「んー? もしかして、ちょっと妬いてます? 妬いてらっしゃいますよね?」
欲が読めるわけでもないのにお小言の裏をしっかり読み取ってくる。青娥のこういう所が私は嫌いなのだ。
「別に。貴女を慕うのは教えを乞う者として当然ですし」
「はいはい、可愛い可愛い」
青娥は上機嫌で私の頭をわしゃわしゃと掻き回した。本来なら無礼者として打ち首にするところだが、どうせ首を刎ねても生きてそうなので特別に恩赦とする。
「……お前、太子様を犬か何かだと思ってるのか?」
屠自古だ。
一瞬、心臓が早鐘を打つ。今日の屠自古が私の知る屠自古でなかったら。そんな不安に駆られたが、そうならばこの場に現れるはずがないと自分に言い聞かせ、声の方に目を向ける。そこには、足が白く透き通ったいつもの屠自古が居た。
「えー、兎の方がそれっぽくないですか? ほら、お耳がぴょーんと。寂しくさせると死んじゃいそうですし?」
空気を読んでかあえて読まずか、青娥は私のアイデンティティたる髪を上に引っ張る。
「止めて、掴まないで。仙人にもなって孤独で死んでたまるか」
「孤独は、死ぬぞ」
傍観していた芳香が、薄ら笑いで呟いた。
「一人でも飯は食えるが、心の飢えは満たせんぞ」
死を語る芳香の声は一段と重くなる。彼女は見ているのだ、私では決して知りようのない領域を。
「はい芳香、豊聡耳様を脅かさない。そんなに飢えているようならご飯にしましょうか。布都ちゃん、手伝ってくれる?」
「承知しました。練習していたオムライスの成果を見せる時ですな」
「……玉子かけご飯を焼いてもそうはならないからね? 順番間違えないでね?」
青娥は二人を連れて台所へと向かった。本当にお節介な邪仙だと苦笑する。わざわざ屠自古と二人で話す時間を作ってくれるのだから。
「……全く、兎だの死ぬだのとあいつらは。私の分まで生きて貰わないと困りますよ」
「うん、屠自古の言葉が一番重いからね?」
「そうですか? 今の私は空気並みに軽いですよ」
「そういう話じゃないんだよ」
幽体となってからの屠自古は頻繁に死人特有の冗談を言うようになった。けど、その類は芳香や青娥しか笑ってくれないと理解してほしい。
「確かにね、私だって死ぬ気は無い。死ぬ気は無いが……死神に狙われれば万が一という事もある」
輪廻を歪めて天命以上に生きるのは罪とされている。以前青娥が水責めされたように、私にも死の使いが迎えに来るはずだ。
「だが、名も知らぬ、私の価値も分からぬ者に殺されるなど真っ平だ。だからいざという時は……屠自古、君の手で最期を迎えさせてくれ」
屠自古は、信じられない物を見たように大きく目を見開いた。
「いきなり何を言ってんですか、あんた」
一転、吐き捨てるように言い放つ。彼女がここまで他人を小馬鹿にした表情は生前一度も見た事が無かった。
「青娥に触られて頭がおかしくなりましたか? 布都を実験台にしてまで見苦しく生き延びようとしたのはどこの誰ですか」
「いや、そうなんだけど。もし死ぬなら死に様は選びたいなー、という話で……」
「青娥程度も殺せない奴らに太子様をどうにか出来るわけないでしょう。貴方がそんな情けない人だったら私は、迷わず……その首を締め上げていたでしょうね」
瞬間、背筋の凍りそうな熱を屠自古から感じた。殺意、消える事なく。彼女は今も燃え盛る炎を必死に抑えているのだ。
「そりゃあ、不満はありますよ。でも恋人だろうが喧嘩する時もあるでしょう? それでも一緒にいるのは好きが嫌いを上回るからじゃないですか。それともまさか、誰からも嫌われない完璧超人だと自覚してました?」
「そんな事は無い。そんな事は無いぞ」
そんな事は無い。ちょっぴり、思わなかった事も無いけれど。
「まあ、どうしても死にたくなったら言って下さい。化けて出たくなるほど凄惨に殺して差し上げますよ。私だけ亡霊も寂しいですから」
「ああ、覚えておこう。だけど話してみて確信したよ。やはり……好きな相手に殺されるなんて私は御免だね」
「奇遇ですね、私も好きな相手を殺すなんて御免ですよ」
誰よりも優しかった屠自古の、その柔らかな笑みは今も昔も変わらない。
彼女の熱が移ったのか、私の体もほんのりと温かくなったように感じた。
おもしろかったー
真面目に向き合った神霊廟でした。よかったです
千年越しの感情が煮えたぎっている屠自古がとてもよかったです
ちゃんと師匠やってる青娥はいいですね
>「まあ、どうしても死にたくなったら言って下さい。化けて出たくなるほど凄惨に殺して差し上げますよ。私だけ亡霊も寂しいですから」
万が一神子を殺すことになってもなお一緒にいることは前提な、屠自古の気持ちの強さがとても好きです。