演奏が終わる。クララが舞台から退場する。
そして幕が下りる。
パパにクララはあの後どうなったのか、尋ねてみる。
クララはお菓子の国でずっと幸せに暮らしたんだよ、と返ってくる。
いつもそこで私は目が覚めるのだ。
クララはきっと今なお夢の世界で幸せに過ごしているにも関わらず。
「くるみ割り人形、ですか?」
私が少し驚きを隠さずにそう述べると、眼の前の初老の男性は私に、ええ、と答える。
「プリズムリバーご姉妹の皆様には、いつもお世話になっております。ルナサさんにもいつもご足労頂いて。それでこんなことを申し出るのは色々と勝手だとは思うのですが……」
「私の方は全然構いませんけど……」
私は満更でもない調子でそう答えた。
ただ、私の内心はひどく複雑だった。
水の中に深く潜ったような、そして息継ぎを許されないような、そんな感覚。
くるみ割り人形。
この幻想郷でその言葉を再び聞くことになるとは思ってもいなかった。
もう二度と聞くことはない、もう二度と浮かび上がることもない、そう思っていたのだから。
その日、人里の一角にある孤児院でのソロの演奏会を終え、帰ろうとしたときに孤児院の院長さんに呼び止められた。
いつもだったら、孤児院での次の演奏会の予定を打ち合わせして終わりのはずだった。
しかし、その日は違った。
院長さんは私にお疲れ様です、と述べた後、いつになく真剣な顔を作った。
「まだまだ先なんですけど、クリスマス・チャリティーコンサートのご相談がしたくて……」
ついこの間終わったばかりのそのイベントのことを、こんなにすぐ早く聞くとは思ってもいなかった。
どういうことなのだろうか?
「まだ2月ではないですか? 少し気が早すぎるのでは……」
「いえ、今回はお早めにご相談したくて……すみません、今回は長きにわたる準備が必要になると思いまして、早めにご相談させていただきました」
「そういうことであれば……」
毎年、私たちプリズムリバー三姉妹、最近では堀川雷鼓も混じっているけど、その3人ないし4人はクリスマスの時期に開催される、チャリティーコンサートに出演している。
出演者は様々だ。秦こころさんであったりとか草の根音楽隊であったりとか、まあ、色々。無論人間の腕自慢のど自慢も出演したりする。
出演料はもちろん無料だ。その代わり、入場料やカンパは孤児院のクリスマスプレゼントであったりとか運営資金であったりとかに充てられる。
自分で言うのも何だけど、私たち目当てでコンサートに来る人もそれなりに多いのではないかと思っている。
クリスマス、という文化が幻想郷に根づいたのもそれほど昔ではない。
それこそ本格的に流行りだしたのは、あの吸血鬼たちがやってきた辺りではなかろうか。
それ以前から私たちは、その文化自体には通暁していた。
なにせ西洋でのクリスマスの重要性は東洋のそれを遥かに凌駕する。
だけど、私たちはクリスマスを祝うことをしていなかった。
チャリティーコンサートで忙しい、ということは大きい。
でも、きっと私がクリスマス、というイベント自体を好きではないのだ。
「それで、くるみ割り人形って言うと、あの、チャイコフスキーの、ですよね?」
院長さんから出てきた、その曲目を私は繰り返す。
「ええ、ご存知かとは思いますが、バレエ組曲です」
「……理由を聞かせていただいてもいいですか? いや、別に嫌だとか、そういうのではなく、ただ単純に気になって」
「孤児院の子たちの発案、なんですよ」
「といいますと?」
「いや、いつもお世話になっているけど、自分たちも今回は何かチャリティーコンサートでやってみたい。お芝居でもいいけど、せっかく一流の演奏家の方々がおられるんだから、オペラとか、そうじゃなくともバレエみたいなものをやってみたい、そう言うんですよ。それでクリスマスシーズンにピッタリのバレエ曲といえば『くるみ割り人形』だということになって」
まあ、たしかに『くるみ割り人形』はクリスマスの夜を舞台とした曲目である。
主人公が少女、ということもあり、筋書きもおとぎ話みたいなものであるから、確かに上演されれば小さい子でも楽しめるだろう。
だけど、話はそう簡単ではない。
「バレエですか……」
「難しいのはわかっております」
「いや、私たちの方は大丈夫なんですけどね……」
実際、妹たちとか堀川雷鼓ほどの腕前があれば、あの難曲であろうとも演奏すること自体は難しいことではない。
問題は子どもたちの方だ。
「バレエ、というのは幼少期からの厳しい鍛錬が必要な身体芸術です。失礼ですが、たった一年足らずの練習でなんとかなるものでもないかと……」
「仰る通りです。ただ……」
院長さんはそう応える。
「立派なバレエなんかではなくてもいい。私はただ、子どもたちに何かに取り組んでもらいたいのです。それは私たちがやらせるのではなく、他ならぬあの子たちが自分でやりたいといったことでなくてはならない。そしてその目的のために懸命に練習した、それはあの子たちにとってなによりも貴重な財産になると思うんです。それが傍から見て、それほど立派なものではなくとも」
そう強く述べる。
まいったな、孤児院の子どもたちはいつも私たちの演奏を、誰よりも真剣に聴いてくれているのは重々承知だ。
だけど、だからこそ、簡単に首を縦に振るわけにはいかなかった。
それはもはや私たちだけの問題ではないから。
「……私は一人の芸術家です。ですから、厳しいことを言いますが、人に見せても恥ずかしくのないもの、を共演する方々には要求しております。それはたとえ子どもたちであっても変わることはありません。いえ、あの子たちだからこそ、私は他の人たちに求めるように、彼らにもそれだけのものを要求します」
院長さんはその言葉を聞いて、ため息をつく。
「やはり、難しいですか……」
「いえ、そう断ずるわけではないです。普通のバレエが難しくとも、何かしら方法はあるはずです。……私の方も考えてみます。私たちもいつもお世話になっておりますし、それにあの子たちが発案したことでしょう? なるべく協力してあげたい、そう思うのは私も同じです」
私は思い出す。
演奏が終わったときのことを。
万雷の拍手、というにはいささか数が足りない、あの温かい拍手を。
今日はソロだったけど、何人で来ても、いつだって彼らは拍手をしてくれる。
演奏会というのはいつも楽しいものばかりではないと私は思っている。
リリカなんかが来たときは結構彼らも楽しめている感じがする。
それはリリカと見かけ上の年が近い、ということもあるし、鍵盤楽器は比較的わかりやすい音色を響かせてくれる。
私はというと、自分で言うのも何だけど、そんなに人付き合いの良い方ではないし、演奏する楽器は弦楽器だ。
それこそ今日のようなヴァイオリンのソロ演奏の良さが分かるほどに育っている子がどれほどいるのだろう?
だけれども、彼らはいつだって真剣に耳を傾けてくれている。
そんな彼らの言葉だ。私の方もそれにふさわしい態度で受け止める必要はあるし、だからこそ、安請け合いすることはできなかった。
「私の方も何か良い案がないか考えてみます。なるべく、そちらのご希望に沿うような形になればなと」
「ありがとうございます、ルナサさん。リリカさんとメルランさん、それに雷鼓さんにもよろしくお伝え下さい」
院長さんはそう言って頭を下げた。
家に戻ると私は棚から年代物のレコードを取り出し蓄音機にセットし、針を下ろす。
ノイズの混じった音色が黒色の円盤から奏でられる。
随分と長い間、録音された音楽を聴く、ということをしていなかったように思われた。
古ぼけたソファーに腰を下ろし、音色の響きに身を任せた。
「あら、姉さん、これ、なんて題名だっけ?」
二階から降りてきたメルランが私にそう尋ねる。
「くるみ割り人形。チャイコフスキー作曲のバレエ組曲」
「そうそうそれそれ。でもどうしたの? 姉さんがレコードで何か聴くなんて」
「いや、今年のクリスマス・チャリティーコンサートの演目の候補に上がっててね。孤児院の子たちが演じるという形になるみたいだけど」
「へえ。でも古典的なバレエの組曲でしょう? お遊戯会レベルならまだしも、そう簡単にいくとは思えないんだけど」
「それはそうだ。だから今私も思案中」
私がわざとらしく頬に指を当ててみせると、メルランはクスリと笑った。
「いつものことじゃない。それに姉さんはいつだって考えすぎるんだから」
「悪かったね、お前みたいに単純じゃなくて」
私はこれまたわざとらしく口を尖らせてみせた。
「あ、姉さん、帰ってたんだ。どうだったの? 演奏会は?」
いつの間にかリリカも降りてきていたようだ。
「まあ、いつも通り。みんな結構楽しんでくれてたよ」
「それは良かった。でも、姉さんの音色をちゃんと理解してくれる子、どれくらいいるのかな」
「リリカの演奏の方が人気あるんじゃないかな」
「姉さんの音楽を理解するには、色々と人生経験が必要だからね―」
リリカはそう軽口を叩く。
もっとも本気で言っているわけでもないだろう。
姉妹であると同時に、私たちは時を同じくして生を受けた存在だ。
今までの時間に差などあるはずはない。
そこにあるのは、外見、性格、ないし演奏する楽器の種類、それに伴う音楽性の違いぐらい。
あるいは、元々の記憶の断片の数、その程度だろう。
「それでこの曲、どうしたの? くるみ割り人形でしょ? チャイコフスキーの」
「ああ、メルランには言ったけど、今度のクリスマス・チャリティーコンサートでの演目にどうかって、院長さんが言ってきてね」
「へえ、私は別にいいけど」
「向こうはあの子たちが演じる、という形にしたいらしくて。元々はあの子たちが言い出したことらしい」
「いいんじゃない? 私はそういうの、大事だと思うよ」
リリカは軽くそう言ってのけた。
まったく。リリカらしいな。
「私はそう簡単に承諾はできなかったんだ」
「姉さんのことだから、どうせ共演するなら立派なものじゃないと嫌だとか駄々こねたんじゃないの?」
「そこまでは言ってないけど、当たらずとも遠からず、といったところかな……」
「姉さんさ、ちょっと考えてみなさいな。あの子たちはずぶの素人よ? 素人に多くを求めるのも酷じゃない?」
リリカの言うこともある面ではもっともだ。
それは私よりもあの子たちと親密な関係を築いているリリカだからこそ、の意見のように思われた。
芸術、というのはどんなものであれ鍛錬を要するわけであるが、その鍛錬の目的がその結果にあるのか、それとも過程にあるのかで力点を置くべき箇所は異なってくる。
だからこそ音楽や美術はしばしば教育に取り入れられてきたわけである。
ゆえに、リリカの意見は院長さんと同じく、あの子たちの成長を見届けたい、という思いに依るものなのだろう。
そして生憎私は過程よりも結果の方にずっと多くの重きを置くという質であった。
「……私は姉さんに同意かな」
メルランはそう静かに告げた。
いつもの彼女らしくない、そう思う。でもその静けさは返って彼女の真剣さを強く表していた。
「やっぱり素人がバレエなんて無理がある。無理をして形にならなかったらそれこそ本末転倒よ。……そりゃ、姉さんやあんたがヘマをすることはないけど、演奏だけ立派で動きが伴っていなければ、ヘマをするよりも質が悪いわよ」
リリカはそれを受けて黙り込んでしまった。
ちょっと悪いことをしたかな、と感じてしまう。
もっとも、心の底では私たちの思いはきっと通底しているのだ。
それは自分たちの演奏に抱くプライドであり、姉妹の間での信頼であり、そしてあの子たちへの思いである。
ただどこに重きを置くか、の違いでしかない。
そしてリリカは顔を上げる。
「……そりゃ、私もあの子たちが最初からうまくできるなんて思ってないよ……でも、それは誰だってそうじゃない。私はあの子たちにやらせてあげたいよ……」
「…………」
私は気の利いた言葉を返せなかった。
それはきっとリリカだからこそ言える言葉、だった。
リリカは三女だ。
無論私たちは生まれたときを同じくしているから、いわば名目上の三女、と言っても良かった。
しかし彼女にも姉、であった時間はあった。
リリカは私たちに比べたら面倒見が良い性格だと思っている。
それは今は末の妹であり、同時にかつて姉であった、ということが少なからず影響しているだろう。
私はずっと姉であったから妹が姉に抱く気持ちはわからないけど、姉は弟や妹のことをいつも心配し、気にかけるものだから。
「……バレエ、というのが問題なのかもしれない。例えば、ミュージカルみたいに普通のダンスなんかを主体としてみたらどうだろう?」
「それ、いいんじゃない?」
メルランはそう答える。
「まあ、もちろんダンスだって決して簡単なものじゃない。うまくやろうと思ったらどちらも非常に難しいし、素地と鍛錬は必要だろう。ただ、クラシックバレエよりはまだ少し敷居は低いと思う」
「でも大丈夫? 元あるバレエ組曲からミュージカル風にするんだったら新しく台本とか書かなきゃいけないけど」
メルランは心配そうに私にそう尋ねる。
「……そこは私がなんとかするよ。私が無理に言い出したことだから」
正直あまり自信はなかった。
私は今までずっと弓と弦を握ってきた。ペンを持ったことなんてほとんどない。
くるみ割り人形は約二時間ほどの曲目だ。決してすぐ終わるものではない。
登場人物は主人公の少女であるクララ、くるみ割り人形に姿を変えられていた王子、お菓子の国の女王である金平糖の精など様々だ。
筋書き自体はそこまで複雑なものではないが、登場人物ごとの台詞はきちんと割り振る必要がある。
しかし、私の心にあったのはそれだけではなかった。
他ならぬ『くるみ割り人形』を扱う、ということ、それが私の中で多くの位置を占めていた。
翌日。私は人里を訪れる。
目的は二つ。孤児院と鈴奈庵だ。
最初に訪れた孤児院で、院長さんは私の提案に快く賛同してくれた。
それで孤児院の子たちにも聞いてみたところ、そちらの方が良いのではないか、という返答が返ってきた。
おそらく先日私が話した諸々の事情は院長さんの方から既に説明があったのだろう。
ほっと胸を撫で下ろす。
しかしそれは私の両肩に新たな責任が委ねられた、ということも意味していた。
鈴奈庵にはたまに訪れている。
借りるのは私たちぐらいしかいないというのに、わざわざ古い楽譜なんかを扱ってくれているのだ。
外の世界で忘れられたものが流入しやすいという性質上、おそらくはある一時期に流行りその後廃れた流行歌だったりするのだろう。
それでも、そういった俗っぽい曲は外来の音楽というものに馴染みのない幻想郷の住人にとっては十分刺激的であるようだ。
コンサートなんかでアンコールがかかるのも古典楽曲よりもむしろこちらの方だったりする。
「こんにちは」
私がそう呼びかけると、奥から女の子がぱたぱたと出てくる。
「ルナサさんじゃないですか。新しい楽譜、入ってますよ」
本居さんはそう言って棚の方に手を伸ばす。
「ああ、すみません、今日は楽譜じゃないんです」
「珍しいですね、何か読まれたいんですか?」
本居さんは物珍しそうに私の顔をしげしげと見つめてくる。
「くるみ割り人形、という題名の本を探しているんです」
「くるみ割り人形、ですか? えっと、著者の名前とかわかります?」
「ううん、ごめんなさい、チャイコフスキーが曲をつけた、ということぐらいしか分からなくて」
「ということはおそらく外国の本ですね。……わかりました、ちょっと探してみます」
本居さんはそう言うと奥の方に引っ込んでしまった。
どのくらい待っただろうか。本居さんが戻ってくる。
手には一冊の古ぼけた本があった。
「おそらく……これがそうだと思います」
私は本をそっと受け取った。
黴や埃の匂いが固い表紙やページの至る所から漂ってくる。
随分と年代物の本らしい。なにせ、ページも表紙もぼろぼろで、気をつけて扱わないと本自体がばらばらになってしまいそうだった。
表紙には、『Histoire d'un casse-noisette Dumas père』と書いてある。
「……これは多分、英語ではないですね」
私はそう呟く。
英語なら『The Nutcraker』とでも表記してあるはず。
中のページを見ても、アルファベット表記で英語を思わせる単語はいくつかあるけれども、それがフランス語かドイツ語か、はたまたイタリア語か、まではわからない。
「すみません……私もどこの国の言葉かまではよくわからないんです。でも、おそらくこれだと思います。題名は『くるみ割り人形の物語』だそうです」
「日本語で書かれたものは見つからなかった、ということですか?」
「日本語の外来本はだいたい把握しているんですけど、おそらく入ってきてはいないかと……」
「……わかりました、ありがとうございます。お借りしてもよろしいですか?」
「ええ。……ねえ、ルナサさん、もしよければ、理由、お尋ねしてもいいですか?」
本居さんの目は少しきらきらしていた。
興味津々、というだけではないように思えた。
彼女自身、その本がそこにある、ということを知らなかったのだろう。
幻想郷に流入してくる外来本、というのは決して多くはない。
特に洋書は外の世界でも流通量が元々少ないだろうから、こうやってお目当ての本が見つかる、ということはかなり珍しいことなのは想像に難くない。
無論、数が少ないからこそ、すぐに店の中から見つけ出すことができたのであろうが。
「今年のクリスマス・チャリティーコンサートでくるみ割り人形のミュージカルをする予定なんです。それで台本を書くために原作を読んでおきたくて」
「孤児院の、ですか?」
「はい。あの子たち、自分で演じたい、って言うんです」
「私もたまに小さい子向けにお話の読み聞かせに行ったりしてますから、あの子たちのことはよく知ってます。ミュージカルか……いいなあ……憧れる……」
本居さんはどこかうっとりした様子だった。
「私、ミュージカルって見たことないんですよ。外来本でたまに読んだことがあるぐらいで。ルナサさんは見たことあるんですか?」
「私も実は見たことはないんです。まあ、子どもたちのやることですから、それこそプロと比べられたら困りますけど」
「でも幻想郷にはいますよ? ダンサーも歌手も、演技指導ができそうな方も」
本居さんはそうすかさず返してくる。
「ええっと、どなたのことで?」
「阿求が幻想郷縁起で最近書いてたんです。摩多羅隠岐奈さんのバックダンサーズのこと。それにいつもわかさぎ姫さんとこころさん、チャリティーコンサートに来てくださってるじゃないですか」
まいったな、これじゃ私は責任重大じゃないか。
まあ実際、わかさぎ姫さんとこころさんについては心の片隅に留めていた。
だけど、私にとっても全く門外漢の分野であるダンスが目下一番の懸念であった。
ダンスの指導もできる方がいるのであれば上手くいく可能性はグッと上がるだろう。
そう考えると、クラシックバレエよりも確かにこちらを選ぶのは良策に思える。
でもこころさんとわかさぎ姫さんはともかくとして、摩多羅さんに頼みに行くのは正直ちょっと気が引ける。
……どうしたものだろうか。
「……でも、楽しみにしてます。頑張って欲しいです、あの子たちにも、もちろんルナサさんたちにも……まあ、本当はミュージカルを見てみたいってだけなんですけどね」
本当にまいったな、これじゃますます責任重大じゃないか。
本居さんの目の輝きを見ると私は嫌でもそう思わざるを得なかった。
翌日私は紅魔館を訪れる。
紅魔館の面々は芸術を解する方々が多く、呼ばれて演奏をすることはよくある。
長命な方も多く、当主は一般人であれば眠くなるような古典楽曲にも耳を傾けてくれるから、私としては腕の奮い甲斐があるというものだ。
レミリアさん以外にも色々な方がおられ、それぞれ音楽の趣味嗜好は微妙に異なっているから、いつもは三姉妹で来たり雷鼓を連れてきたりすることも多い。
洋館の入口を抜け、エントランスホールに入ると十六夜さんが出迎えて下さる。
ちなみに十六夜さんの好きな曲はワルツのような曲である。
「あら、こんにちは、ルナサさん。今日はお一人ですか?」
「ええ、すみませんね、突然お邪魔してしまって」
「いえいえ、こうやってそちらからわざわざ出向かれるということは、なにか特段の用事がおありなのでしょう?」
「はい。パチュリーさんに御用がありまして」
「かしこまりました。今図書館にいらっしゃるのでお呼びしてまいります」
十六夜さんはそう言うとさっとエントランスから出ていった。
しばらくして、パチュリーさんを連れて戻ってくる。
近くに寄ると、かすかにあの本と似たような匂いを感じる。
その匂いは本、というものをそれほど読まない私にとってはある種新鮮なものであった。
「珍しい、あなたが私に用だなんて、どんな風の吹き回し?」
「すみませんね、パチュリーさん。わざわざご足労いただいて」
「私は別にいいけど……図書館に籠もりきりだと健康にも良くないし」
パチュリーさんはメヌエットのような音楽を好んで聴く。
彼女もまた、芸術を解する方の一人である。
「ちょっとこの本を見ていただきたいんです」
私はそう言ってあのボロボロの本を取り出した。
ふわりと本が私の手から離れ、パチュリーさんの目の前にふわふわと浮かんでみせる。
パチュリーさんは真剣な眼差しで、ページに触れることなく本を繰る。
まあ、直接触るとますます劣化するのは目に見えているから、パチュリーさんのそのやり方は理にかなっているとは思う。
「鈴奈庵で借りてきたんですけど、私には読むことができなくて……それでもしかしたらパチュリーさんだったら分かるかなって」
「これは……『ハシバミ割り物語』ね、アレクサンドル・デュマ、ああ、大デュマの方の。原語版だなんて随分と珍しいものをもってきたじゃない」
「読めるんですか?」
「ええ。フランス語はそこまで得意じゃないけど。でもどうしたの? こんな古い本借りて」
「クリスマスにある孤児院のチャリティーコンサートで、くるみ割り人形を元にしたミュージカルをやろうか、みたいな話になっているんです。それで台本を書くために原作を読んでおきたくて。でも日本語版が見つからなかったんですよね……」
「それなら私が読んでおくから、明日来てくれないかしら? 大体のお話の流れ、伝えてあげる。ミュージカルだからそのまま使う、ということはないでしょう?」
「ありがとうございます、助かります、本当に」
本当は自分で翻訳でもすればいいのかもしれないけど、文法もわからない未知の原語を辞書片手に翻訳するのはあまりに大変だろう。
家に帰るとリリカが声をかけてきた。
「どう? 姉さん」
「孤児院の子たちは了承してくれた。あと、原作も手に入った。読めないからパチュリーさんにお願いしたけど」
「へえ、姉さん、頑張ってるじゃない」
「……ねえ、リリカ」
「どうしたの?」
「私たちって、ずっとクリスマスを祝ってきてなかったよね」
リリカは一瞬黙り、それから口を開く。
「まあ……チャリティーコンサートで忙しいというのもあるしね」
いや、本当はリリカだってわかってるはずだ。
私たちはクリスマス、という行事が本当は好きではない。
メルランは今ここにいないけど、あいつもおそらくは心の底ではそう思っている。
「でも……クリスマスなんて別に祝う必要はないわ」
リリカはそう冷たく告げた。
その冷たさは普段のリリカには似つかわしくないものだった。
「うん……私もそう思うよ」
私はその冷たい調子に共鳴するかのようにそう呟いた。
その日の夜。
私はまたあの夢を見ていた。
クララが舞台から退場し、幕が下りる。
クララはどうなったのか、パパに尋ねる。
尋ねているのは他ならぬ私なのだろうか? そうであるようにも思われるし、そうでないようにも思われる。
クララはお菓子の国でいつまでも幸せに暮らしたんだよ、とあの答えが返ってくる。
そこで私は夢から覚めるのだ。
その日、パチュリーさんは図書館に私を招いてくれた。
巨大な図書館にはハードカバーの古びた本、それこそあの本のようなものが大量に収蔵されている。
私はその光景に思わず圧倒されてしまった。
「とりあえず一通り読んでみたわ。ついでにくるみ割り人形の上演史も調べてみた」
「ありがとうございます」
「まあ、バレエ版と原作ではそんなに変わることはないみたい。クリスマスの夜に叔父さんからくるみ割り人形をプレゼントされた女の子が夢を見る。そこでくるみ割り人形はネズミの王様と戦って、勝利する。それでくるみ割り人形が王子様の姿に変わり、原作では人形の国、バレエ版ではお菓子の国に招待するっていう感じね」
「クライマックスはどんな感じなんでしょうか?」
「それがバージョンによって結構変わっている。原作では夢から覚めた少女は、叔父さんが連れてきた甥の青年と出会い、彼がくるみ割り人形だった、というオチ。チャイコフスキーが曲をつけたものでは、夢の国で終わり。1934年のワイノーネン版では夢から覚める、というオチがついた。……まあ、くるみ割り人形自体、結構色々な演出がなされている作品みたい」
「つまり、元の曲では夢から覚める、というオチはないわけですか?」
「そうなるみたい。『くるみ割り人形』は1892年にロシア帝国のサンクトペテルブルクにあるマリインスキー劇場で初演された。1909年にも同じ劇場で再演されたみたいだけど、チャイコフスキーのオリジナルと比べて大した変更点はないわね」
私は押し黙った。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
「まあ、それはいいとして、これ、良ければ使ってみて」
小悪魔さんが何か書かれた紙の束を持ってきて私に手渡した。
「これは……なんでしょうか?」
「時間があったからあのお話、翻訳してみたの。まあ、役に立つかどうかはわからないけど……」
「助かります、本当に」
「いえ、……私ももしかしたら観に行くかもしれない。楽しみにしてるわ」
パチュリーさんの目の輝きは本居さんのそれを思わせた。
二人共に本を愛する、という共通点があった。
だからこそ、本という媒体では得られない何かを求めているのだろうか。
私はあまり本を読まない。
本、というのは一種の記憶媒体である。
フィクションであれノンフィクションであれ、作者の頭の中にある世界をそこに記録する。
その書かれたものを読むとき、まるで夢をみているようである。
だけど、私は未だに夢から覚めていないのだ。
きっと私に似つかわしいのは、音楽という即物的な、一瞬にして燃え上がり、次の瞬間には消え失せる、美しさなのである。
それこそが夢、と呼ぶにふさわしいはず、そう思っている。
「演技指導、ですか?」
こころさんは私の言葉にそう返す。
その顔から感情をうかがい知ることは難しい。
「ええ。こころさん、いつもチャリティーコンサートに出演してくださっているから、もしよろしければお願いできるかなと」
「まあ……私のやっていることはお芝居とかミュージカル、とはまたちょっと違いますけどね」
「難しいでしょうか?」
「基本となる動き、というのはある程度共通していると思います。私も最近はどちらかというとお芝居みたいな感じの作品を演じたりもしていますから。おそらくは大丈夫かと……」
私は彼女にお礼の言葉を述べる。
「いつも助かってます。こころさんがチャリティーコンサートに来てくださって」
「いえ、孤児院の子たちも観て下さってのことですから」
表情を変えることはないけれども、彼女の言葉の奥には少なからず喜びが見受けられた。
『心綺楼』の公演以来、こころさんは観客に面白さが伝わりやすい、それでいて芸術性を損なわない演目を模索しているようだ。
感情豊かな彼女であるからこそ、観客の反応には人一倍敏感であるように思われる。それが子どもという素直な存在なら尚更である。
それが良いものであれそうでないものであれ、きっとこころさんは率直にそれを受け止め、柔軟に演目の改良に取り組んでいるのだろう。
無論それはこころさんの演じる能力が優れているからこそのものだ。
ある意味で彼女は私たちと非常に似通っており、そしてきっとまた別の部分では私は彼女と異なるのである。
「演技のコツ、みたいなものはありますか?」
「そうですね……まず、演技、というのはわざとらしくてはいけません。だから矛盾していますけど、嬉しいという感情をウレシソウに表に出して表現するのは二流の役者のやることです」
なるほど。彼女は決して感情を表に出すことはない。
ただ、身の振り方と台詞の調子とお面で伝えるだけである。
それが却って微細な感情を伝達することにつながっている、ということだろうか。
「まあ……ミュージカル、ですから、感情を表に出してもらわないと困るとは思いますけどね」
私が見た、あの舞台はどうだっただろうか。
クララはどういう顔をしていただろうか?
そこまで考えたところで、私は頭からその思いを振り払った。
「歌の指導ですか? 良いんでしょうか? 私なんかで?」
わかさぎ姫さんは私の突然の頼みに目を丸くした後、にっこりと笑ってそう述べた。
湖畔は私たちの練習場でもある。
そして彼女は私たちの演奏に合わせてたまに歌を歌ってくれるのだ。
観客のいない湖畔のコンサート、である。
「いつもチャリティーコンサートに来てくださってありがとうございます」
私はそう述べてお辞儀をする。
「聴いてくれる人、そのかけがえのない方がいてくださるのはありがたいことですから」
わかさぎ姫さんはそう述べる。
心の底からそう思っている、心の底から歌を愛している、私はそう受け止めた。
「……ねえ、わかさぎ姫さん」
「えっと、なんでしょうか?」
「歌を歌っているとき、どんな気持ちなんですか?」
「ええっと……そうですね、私は歌を歌っているときは、すごく満ち溢れた、幸せな気持ちになるんです」
わかさぎ姫さんは胸に手を当て、目を閉じてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
いつもの繊細な歌とはまた違う、しっかりとした、芯のある声で。
「私は力も弱いですし、弾幕にしてもきれいなものを作り出すこともできません。でも、いや、だからこそ、私にとって歌、というものは私を他ならぬ私であらせてくれるんです」
幸せな気持ち、か。
私はあまりそんなことを考えたことはなかった。
誰のために演奏をしているのか? 誰も聴いていなくとも演奏することはできるのか?
わかさぎ姫さんはきっと孤独なコンサートを遂行できるのだろう。
私たち姉妹は三人だ。
もちろんソロコンサートもやる。でも、私たちはきっと時を同じくして生まれ、そしておそらくは時を同じくして消え去るのだろう。
だとしたらやはり、私たち姉妹はきっと一人ではない。
私は4人目、末の妹のことを思い出した。
あいつだけは本当に一人であったのかもしれない。
そして私はそんな思いをすぐに頭の中から振り払った。
「それであいつらを貸してほしいと?」
「そういうことですけど……」
隠岐奈さんは椅子に座ったまま、肘を付き、頬に手を当てながらそう私に告げる。
「……まあいいさ。孤児の子たちだって幻想郷の住人にほかならない。だったらその役に立つのは私にしても本望さ」
「ありがとうございます」
「だがな」
「はい」
「忘れないでほしいところだ。私だってあいつらのことは大事に思ってるってことを」
あんまり隠岐奈さんの顔を見る気にはなれなかった。
やっぱりこの人は少し苦手だな。
でもきっとその言葉に偽りはない、私はそう信じよう。
さて、インストラクターは揃った。孤児院の子たちにも話はつけた。
でも、私にはもうひとり、改めて訪ねたい人がいた。
「失礼します」
「おや、ルナサさん、いかがなされましたか?」
院長さんは皺が刻まれた顔をゆっくりと崩した。
なぜだかわからないけど、私はこの人の顔をみるとすごくほっとする。
子どもたちにとってのサンタクロースのようなものなのだろうか。
「ミュージカルの件、一応ダンスや歌、演技を教えて下さる方たちには話をつけてきました」
「ありがとうございます。本当は私たちがやるべきことなのに」
「いえ、ミュージカルにしたい、というのは私のわがままですから」
「……それで、ルナサさん、わざわざ訪ねてこられたのは、それだけではないからなのでしょう?」
「よくおわかりですね」
「もしよろしければお聞かせいただいてもよろしいでしょうか? 私とて微力ですがなにか力になれることがあるかもしれません。……どうぞ、おかけ下さい」
私は、ありがとうございます、と述べて椅子に腰掛けた。
目線は院長さんと同じ高さである。
きっとこの人は、小さな子どもと話すときも腰をかがめているのだろう。
「それで……どのようなお話でしょうか」
「レイラ・プリズムリバー……私たちの末の妹です」
「そのお名前を伺うのは初めてですね。失礼ですが、お亡くなりになられた、とかそのようなところでしょうか?」
「ええ……随分と前に。レイラは私たちの妹であり、私たちの創造者であります」
「レイラが私たちを創造したとき、私たちには彼女の記憶も受け継がれました。彼女が生まれたときの父親と母親の嬉しそうな顔、彼女と姉たちの楽しい日々、そして別離の日も。しかし私たちにはわからないのです。彼女が私たちといて何を感じ、何を思ったのか。彼女が私たちを生み出したとき、彼女の記憶はささやかな感情とともに私たちにも受け継がれた。レイラは臨終の日に、私たちの手を取って、お礼を言いました。安らかな顔でした。レイラはきっと幸せだった。……100年以上前も。だからこそ、私は彼女がなぜ私たちを生み出したのか、私たちと暮らしていてどう感じていたのか、知るのが怖いのです」
「怖い、というのはなぜでしょうか?」
「レイラが私たちを生み出したのは、幸せだったあの日々を再現するためにすぎないのかもしれない、私たちと暮らしていたのも、元々の家族が恋しかったからなのかもしれない、そんなことを思うのはきっと間違っています。しかし彼女が臨終のときにおいて幸せだったからこそ、私はそう思わざるをえない。私たちの存在の縁(よすが)は今なおレイラ・プリズムリバーにあるのですから」
「ルナサさん……」
「あの日のことを未だに私は思い出します。家族で過ごした最後のクリスマスの夜、1909年、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場での『くるみ割り人形』の公演、そして帰宅後に幻想郷のマジックアイテムをプレゼントされたときの嬉しさ。そしてその後に起こることも。ヨーロッパ中を巻き込んだ大戦も、血で血を洗う革命も、私にはどうでもよいことです。私にとってきっと大事なのはレイラが何を思い、何を感じたのか、それだけなのです」
院長さんは黙って私の話を聞いていた。
何を考えておられるのか、私には窺い知ることは難しい。
どれほど時間が経ったのだろう、院長さんはゆっくりと口を開く。
「私はレイラさんがどう考えておられたのか、何もわかりません。だからきっと、ルナサさんの満足の行く答えを返すことはできないでしょう。……ただ、一つ言えることは、今度のチャリティーコンサート、絶対に成功させましょう、それがきっと、大事なんです」
「院長さん……」
「おそらくは、孤児院の子たちも同じ考えでしょう。私が常々彼らに言っているのは、受けるよりも与えるほうが幸福なのだ、ということです。ルナサさんたちは私たちにたくさんのものを与えてくださいました。だから、今度は私たちがルナサさんの手助けをしたい。……成功したところで何かの解決になることはないのかもしれません。しかし、私たちがあなた方にできることといえばこれぐらいしかない、だからこそ、必然的にこれが解答になってしまうのです」
私はその言葉を受けて黙っていた。
このことを第三者に吐露したのは初めてだった。
院長さんの答え、それはきっと私の求めている、最善の答えなどではない。
いや、もしかしたら、私は答えなど最初から求めていなかったのかもしれない。
そもそもただ一つの答えなど存在しなかったのかもしれない。
しばらくの間だった。
私はゆっくりと口を開く。
「……ええ、『くるみ割り人形』絶対に成功させましょう」
台本を書く、ということはなかなかに大変な仕事だ。
私は本居さんとパチュリーさんを頼ることにした。
二人とも快諾してくれたことはありがたい。
「ねえ、パチュリーさん、こんなに沢山の本があるんだったら私も出入りさせてほしいんですけど」
「まあ、レミィに許可を貰えれば大丈夫だとは思うわよ」
「好きなんですね、本が」
「はい、本の世界、というのは夢のようなもの。本の中であればどんなところにだって行けますし、どんな体験だってできますから」
「そうね、でも、私は本、そして本に限らないことだけど、芸術、というものは人の夢を覗き見るのとは決定的に違う点があると思うわ」
「それはなんでしょうか?」
私はパチュリーさんに尋ねる。
「感動を生むことよ。夢は夢でしかない。でも芸術に触れて生じた感情はきっとその人から誰も奪うことのできないもの、私はそう思っているわ」
私たちの音楽はたしかに感情を想起させる。
それはある種の魔力を帯びているからである。
だったら、その魔力がなければ? そうやって私たちは聴衆の感情を引き出すことがどれほどできるのだろうか?
「……まあいいわ。セリフ、結構あるけど、私たちも手伝うから。あんまり無理しないでね」
「私もできる限りのこと、しますから。あ、そうだ、新しい楽譜、入ってますよ」
私は本居さんとパチュリーさんにお礼を言う。
もう既に子どもたちはダンスや歌の基礎練習を始めているだろうから、なるべく早く完成させたいところではある。
4月。
最初はたどたどしかった子どもたちの演技や歌も、少しは形になってきているようだ。
台本もおおよそ完成している。
ただ、私はどうしても迷っていることがあった。
私はメルランとリリカを呼んだ。
最近は揃って演奏することも少ないから、今度のチャリティーコンサートは一緒に長時間演奏する久しぶりの機会だろう。
「姉さん、どうしたの?」
メルランは私にそう尋ねる。
「今度のチャリティーコンサートさ、孤児院の楽器でやらない?」
「えっと、それは、私たちがいつも使っている楽器でやらない、ということでいいの?」
「まあ、そういうこと」
「……理由、聞かせてもらってもいい?」
メルランは静かにそう聞いた。
「今回の主役は私たちじゃなくてあの子たちだ。だったら私たちが目立ちすぎるのは良くないとは思う。私たちの音色は魔力を帯びている、だったらフェアじゃない」
「私は反対ね」
リリカはそうきっぱりと私に告げる。
「リリカ……」
「姉さんはそうやってあの子たちに忖度するの? 姉さん、私は全く疑っていないわ、あの子たちは私たちの演奏に怯むことなんてないって……数ヶ月前だったら私もきっと姉さんに同意してたでしょうけど」
リリカのその調子に私は思わず気圧されてしまう。
リリカは言葉を続ける。
「一度さ、あの子たちに会ってみたら? そりゃ姉さんはそんな質だからそういうのは苦手かもしれないけどさ」
『くるみ割り人形』の打ち合わせで訪れるときはたまに子どもたちの歌やダンスを見学していた。
だけど誰か特定の子に会う、ということはしていなかった。
演奏が済むと私はいつもさっさと帰ってしまっていたように思える。
院長さんに用件を告げると、主役の子を呼んできてくれた。
クララ役の女の子はリリカよりも数歳ほど年上に見える。利発的。私の第一印象はそれだった。
「ルナサさんですね。私、美佳と申します。いつもコンサートで拝聴させていただいてますけど、私、ルナサさんの奏でる音色が一番好きなんです」
美佳さんは私にそう述べる。
「そう言ってもらえるとうれしいです。みんなリリカとかメルランの方が好きみたいで……」
「そうですか? 結構いますよ、ルナサさんの音楽が好きだって人。それこそ小さい子の中にだって」
「そうなんですか?」
「ええ。ルナサさんの音色は落ち着くし、美しいって言っている子、私はそれなりに知ってます。……ルナサさんが全くミスすることなく、いつも演奏を終えるのを見てすごいなって思ってるんです」
照れるな、そういうことを言われると。
「チャリティーコンサートでなにかやるっていうの、言い出しっぺは私なんですよね。それで本好きの男の子が『くるみ割り人形』とかどうだろうかって提案してきて」
「院長さんからは自分たちでなにかやってみたいって仰っしゃられていたと聞いております」
「はい、まあ、実際のところ、それは少しだけ違うんですけどね」
「といいますと?」
「自分たちでただなにかやってみるだけだったら別にそれなりにできるとは思うんです。でも、一流の演奏家の方がいるんだったら、それに負けないようななにかをやってみたい、そう思ったんです」
「つまりは、言葉はちょっとあれですけど、対抗心、なのですか?」
「……負けませんよ、私は『くるみ割り人形』の主役です。そして、王子様役だって、ネズミの王様役だって、歌を歌う子たちだって、衣装や照明の子たちも、みんなそう思っていますから」
美佳さんはそう力強く告げた。
「……私たちも無論、それに応えるつもりです」
私は思わずそう答えた。
彼女、いや、彼女たちがそんなことを思っていたこと、それは私の観察眼のなさを私に知らしめた。
そういう意味ではリリカの言っていたことは何一つ間違っていなかったのだ。
「頑張りましょう、そして、成功させましょう」
「ええ、ベストを尽くしましょう、お互いに」
美佳さんはそう私に応えた。
7月。
本番まであと5ヶ月、というところである。
その日、私は美佳さんを始めとする、子どもたちの練習を見学していた。
随分と形になってきている、私はそう思った。
彼女たち自身が一生懸命に、成功に向けて努力していることがありありと伺えた。
練習が終わった美佳さんは私に気づくとこちらの方に駆け寄ってきてくれた。
「ルナサさんじゃないですか、見学しに来てくださったんですか?」
「ええ。調子はどうなのかな、と思って」
「だいぶ形になってきた感じです。まだ細かい部分は詰めていかないといけませんけどね」
美佳さんはそう言うと私の顔をまじまじと見つめた。
「ねえ、ルナサさん、この後ちょっとお茶しません?」
「ええ、まあ、いいですけど」
「ありがとうございます」
今まであまり誰かからお茶に誘われる、ということがなかったので結構嬉しかった。
そして人里の喫茶店で私たちは落ち合う。
先程の練習着とは違う、よそ行きの格好をしていた美佳さんは私がいつも見る孤児院の子の姿とはまた違った印象を与えてくれた。
「ありがとうございます、付き合ってくださって」
「いえ、私もなかなかこういう機会、ないですから」
「前も言ったけど、私、ルナサさんの演奏が大好きなんです。どんな難曲だって、いつも完璧にこなしてすごいなって思うんです」
「ありがとうございます……そう言ってもらえると私も嬉しい」
「そういえばルナサさんってお姉さん、なんですよね?」
「ええ、リリカとメルランは私の妹です」
「私は今でこそ孤児院の中でお姉さんだけど、昔は末の妹だったんです。だから今はお姉さんの練習中ってところかな……」
「失礼ですけどお姉さんたちは?」
「みんな大きくなって孤児院を出ていきました。私たちは姉妹で孤児院に入ったんです。父も母も早くに病で亡くなってしまったから……」
「ごめんなさいね……お父様とお母様のこと、思い出させてしまって」
「いえ、いいんですよ。今は私がしっかりしないといけませんから」
美佳さんはそう言って私に微笑みを向けた。
私もがんばって笑みを返す。
「私も同じかな……あいつらには助けられてばかりですけどね」
「……ルナサさん、私は妹だったから妹の気持ちは少しは分かるんです。妹はいつだって姉に世話をかけて、そして姉に頼りきりではいけない、って思うものですから。だから、リリカさんとメルランさん、大事にしてあげてください」
「ええ、もちろん、です」
私は今はもういない、あいつにほんの少しだけ近づいたような気がした。
おそらくは、気がするだけだ。
9月。
子どもたちの歌やダンスもほぼ完成してきた、というところだ。
屋敷で私は『花のワルツ』を練習していた。
『くるみ割り人形』における一曲である。
メルランが上の階から降りてきたのを見て、私は弦から指を離す。
「どう、調子は?」
「まずまず、といったところかな」
メルランはそれを聞いて、良かった、と零す。
「姉さんの音色、相変わらずね。私には出せない音色」
「そりゃ私だってお前のような音色は出せないよ」
「でも、私たちの中で一番ストイックなのは姉さんでしょ? そりゃ魔力は私が一番だけど、姉さんは私なんかよりもずっと努力してる」
「まあね……腕を鈍らせるわけにはいかないから」
メルランはその私の言葉を聞くと、少しの間なにか考えるように目を閉じて、そして開いた。
いつもは騒々しい彼女がそんなことをするのは珍しい、私はそう思った。
「姉さんはいつだってそうなんだから」
溜息を混ぜつつメルランはそう呟いた。
半ば呆れた風でありながら、その声には私に対するある種の感情が込められているように思われた。
「もっと私たちのこと、頼ってくれてもいいのに。私、好きよ、姉さんのそういうとこ。でもさ、私たちは姉妹なんだし、最近は雷鼓だっているんだからさ」
「お前……」
「なーんてね、柄にでもないこと言っちゃった」
メルランはそう言うとそそくさと上の階に行ってしまった。
後には私だけが取り残される。私は楽器を置いてソファーに身体を委ねた。
本番まで大分近づいた時期だ。
この間までソロでの練習が多かったが、最近は堀川雷鼓も交えて四人で練習を重ねている。
子どもたちのダンスや歌をしばらくぶりに見たけど、随分と上達していると感じた。
「まあ、僕らの指導の甲斐があったのかな」
「舞ったら。そういう調子の良いことばかり言ってるとお師匠様に叱られるわよ」
二人はそんな話をしている。
私は打楽器を叩き終えて、汗を拭いている雷鼓に話しかける。
「ありがとう、長丁場なのにいつも付き合ってもらって」
「いいのいいの。こうやってあんたたちとやれるの、すごく楽しいからさ」
雷鼓はそう言うとスティックを置き、立ち上がる。
「ルナサってさ、最近少し変わったよね」
「そう?」
「うん、音色が以前よりも柔らかくなった、そんな気がする。なんというか、力がうまい具合に少し抜けている、そんな感じ」
自分ではそんなこと気づかなかった。雷鼓も随分と耳が良いものだ。
「何かあった? ルナサと結構長い間やってるし、あんたの音色は三姉妹の中でもあんまり変わらないとは思ってたのに。リリカなんて結構波があったりするから」
雷鼓は私の眼をじっと見つめてくる。
「……いや、なんでもない」
「……そう。いいの。そういや、あんたたちと始めようとしたとき、一番強く反対したの、ルナサだったな、ってこの間、ちょっと思い出してさ」
「今は、雷鼓も入れて4人で『ホリズムリバー』だからね」
そう呟くと私は雷鼓に別れの言葉を告げてその場を離れた。
帰り途。私は演奏を覚え、楽団を結成したときのことを思い出していた。
あれは私たちを生み出した妹が亡くなった後のことであったな。
私はそのときのことに思いをゆっくりと馳せていた。
彼女と過ごした日々、彼女の臨終の日、彼女のいない風景をも。
そして私はまたしても、1909年のサンクトペテルブルク、マリインスキー劇場の観客席へと降り立つのである。
リハーサルを終える。
わかさぎ姫さん、こころさん、そして舞さんと里乃さんからOKがでる。
「ありがとうございました……今まで」
美佳さんが子どもたちを代表してお礼をいう。
随分と長かった。でもこうやって形になると今まで付き合ってきた私にとっても嬉しいものだ。
「姉さん、せっかくだから本番の打ち合わせしない?」
リリカがそう私に述べる。
私はうなずいて舞台の袖に引っ込んだ。
リリカは随分と真剣な顔をしていた。
メルランも腕を組みながら似たような顔をしている。
いつもは明るい雷鼓も同じようなものだ。
「どうしたの? 怖い顔して」
「あんまり言いたくはないんだけど……姉さんの音色、ほんのちょっとだけ、変。それが何かまでは私はわからないけど」
「リハーサルが終わった後でそれを言うのか……」
「悪かったわ。でも一番それを分かってるの、姉さんでしょ?」
リリカが溜息をつきつつそう述べる。
「今まで随分と長いこと姉さんとやってきたけど、よりによって今回の音色が一番迷いがある。どうしたの?」
メルランはそう私に告げた。
雷鼓もそれに続く。
「まあ……何か心配事があるんだったら今のうちに解消しておいた方がいいんじゃない? 私はあんまりあんたたち姉妹の内部事情までは詳しくわからないけどね」
私は気取られないように考えていたつもりだったけど、実際のところ、そう簡単なことではないのである。
あいつらにはお見通しだった。
この間、雷鼓にああ言われてから、私はずっと考えていた。
今まで考えないようにしていたこと、強いて思い出さないようにしていたこと、それを考えてしまったことで、今になってようやく溢れ出したのだ。
私は他ならぬあの、『くるみ割り人形』を演奏するのだから。
「おや、どうされましたか?」
院長さんはノックをして入ってきた私に対して穏やかに微笑みを、あのときと同じ顔を向けた。
私は椅子に座った。そしてしばらくの間黙っていた。
ゆっくりと、重い口を開く。
「私は……何に向かって音を奏でているのでしょうか? なぜ私は今まで音を紡いでこられたのでしょうか?」
「どういうこと、でしょうか? ルナサさん」
「私は今この瞬間に至るまでレイラの縁から逃れられていなかっただけなのだ、と思っていた。いや、それはきっと違う。違うのです。私は1909年のサンクトペテルブルクで未だに迷い続けている。囚われている。執着しているのです。私はあの舞台を、最後に家族全員が揃って味わうことのできたあの演奏を、『くるみ割り人形』を、心のどこかで、奥底で、自分の奏でる音色の模範としているのだから……だってあれは家族での最後のかけがえのない思い出……あのどこまでも美しく、幸せに満ちた、もう手の届くことのない、モノクロに染まった、ばらばらになり、留めねばならない、溢れ出していく、零れて落ちていく、そんな煌めき、蠢く夢の断片があったからこそレイラは幸せであり続けられたのだから……!」
院長さんは黙って聴いておられた。きっと今の私の顔は滅茶苦茶なのだろう。
そしてしばらくの後。すくと立ち上がり、私の側にまで来て屈み、私と同じ目線まで腰を落とした。
「ずっと、心のどこかでそう思いつづけておられたのですね……」
「いえ、私だけではない。きっとあいつらも、リリカもメルランも同じことを何度も思ったはず。でも私はこうやって表に出してしまった……姉、失格です」
私は下を向いた。
背中に感触が走る。院長さんの手のひらだ。
思わず体が強張り、弛緩する。
その手は、ごつごつとしているようで、とても温かい。
「すみません……思わず、小さい子にするようにしてしまって……」
「いえ……全然大丈夫です。ありがとうございます、少し……落ち着きましたから」
院長さんは私の背中からそっと手を離した。
そして口を開く。
「……でもきっと、そのことを相談する相手は私などではないです」
「院長さん……」
「あなたには今、妹さんが二人もおられる。そして楽団のもう一人の方も。だから……相談してあげてください」
私は前を向いた。
院長さんの双眸から放たれる視線が私を射抜く。
院長さんがゆっくりと立ち上がる。
私もすっと立ち上がる。
「……ありがとうございます、院長さん」
「ええ……きっと待っておられますから」
12月24日がやってきた。
河童の協力の下で孤児院の広場に特設された舞台、そこで色々なパフォーマンスがなされる。
天気も快晴で、観劇日和だと思う。
九十九姉妹の演目が終わり、いよいよトリを飾る『くるみ割り人形』だ。
私たちも舞台に立つ。
主役の美佳さんが舞台の前の方に現れ、お辞儀をする。
「皆様のご援助もありこの孤児院は今日まで存続してくることができました。だからこの舞台は私たちからの、皆様へのお礼も兼ねています。どうぞお楽しみください」
そして続々と扮装をした子どもたちが舞台の上に現れる。
クリスマスツリーの場面では皆がパーティの準備をしている。
私のヴァイオリンの音色で、この舞台の幕は上がるのだ。
私は自分たちにできるベストを尽くそう。
もう迷う必要はないのだから。
そう心に告げる。
弓を弦に置き、弾く。
空気が震え、舞台が始まる。
子どもたちがダンスを始める。
後は真剣勝負だ。
私はただひたすらに、音色を奏でる。
かつてマリインスキー劇場のステージでも同じような光景が繰り広げられたのであろう。無論相手はフルオーケストラではあるが。
私は今までその演奏を模範解答としていた。それではきっとだめなのだ。今日、その演奏よりも上を目指し、その演奏よりも素晴らしいものを、生み出す必要があるのだから。
永遠に似ているとも感じられる時間。
今までコンサートで随分と弾いてきたけれども、これほどまでに時が経つのが長く感じるのは初めてだった。
それでも。
私はただひたすらに、自分の思いを音色に乗せる。
この世界を受け入れ、切り取り、加工し、演者と聴衆の元へと届けるのだ。
そして、終わる。
場面が変わる。おもちゃの兵隊たちが登場する。今度は『行進曲』である。
リリカのソロだ。
舞台の袖に控えるリリカとバトンタッチをするために引っ込む。
「姉さん、すっごく良かった。前とは全然違う」
「ありがと。でも……おまえたちのおかげでもあるからさ。次、頑張って」
「ええ」
舞台に上がる。
鍵盤に指を置き、リリカの演奏が始まった。
あの難曲をいつも通り、いとも簡単にこなしてみせる。
それでも、あいつとて姉を二人も抱えて色々と複雑な思いはあったはずだ。
リリカはその思いをあまり見せることはなかったというのに。
子どもたちのダンスの動きも精緻さを増していく。
リリカの奏でる音色に合わせながら、器用に身体を動かしてみせる。
彼らも随分とうまくなったものだ。舞さんと里乃さん、それにこころさんの指導の甲斐もあったようである。
リリカの演奏が終わり、ギャロップの音楽と『踊りの情景』へと移る。
「姉さん、頑張りましょう」
メルランは私にそう言ってにこりと微笑みかけた。
私もがんばって精一杯の笑みを返す。こういうときにこういう顔をするのはやっぱり苦手なんだ。
この場面では私とメルランの二人で演奏をする。
こうやって二人だけで演奏をする、ということはなかなかしたことがなかった。
メルランの手元がちらりと目に入る。
あいつ、昔と比べて随分と細やかな演奏をするようになったんだな。
私はそんなことを考えていた。
くるみ割り人形とねずみの王様との戦いを経てクララは、くるみ割り人形が姿を変えた王子にお菓子の国へと招待される。
その後の『雪片のワルツ』では子どもたちの合唱が入る。わかさぎ姫さんの指導は随分と上手くいったようで、見事にハーモニーを生んでいた。
さて、ここから第2幕である。
世界各国の様々な踊りの場面が入る。
さて、今度は雷鼓との演奏か。
「じゃ、ルナサ、よろしく!」
「うん、ありがとう!」
私は雷鼓にそう告げた。
雷鼓の加入に一番反対していたのは私だった。
その頃は些細なことをきっかけに三人が結構ギクシャクしていた時期だった。
私は楽団は三人で、他ならぬプリズムリバーだけでやらなければならないと思っていた。
でも、きっとそんなに凝り固まりすぎない方が良いのだろうな。
雷鼓の打楽器の音を聞いていると、実際こいつがいてくれて良かったんだな、とつくづく思う。
そして『花のワルツ』を終え、いよいよ第2幕のメインを張る曲目である『パ・ド・ドゥ』まで来た。
ここからホリズムリバー全員で演奏をする。
私たちはお互いに視線を軽く交わした。
そこには言葉などなくてもいい。
それぞれがお互いを必要とし、そして必要とされるのであるから。
演奏とともにクララと王子が踊り始める。
アダージョ、タランテラ、金平糖の精の踊り、そしてコーダへと続いていく。
その間、私たちは互いに目配せをすることもお互いの手元を見ることもしなかった。
ただひたすらに自分の演奏に邁進する。
あの日、レイラはどんな気持ちでこの舞台を味わっていたのだろうか?
その先に待ち受ける運命を知ることもなく、ただ無邪気に目を輝かせ、そして心揺さぶられたのだろうか?
私たちと過ごす日々を、彼女はどう思っていたのだろうか?
幸せだった日々を思いながら、私たちを見つめていたのだろうか?
私にはもはやわかるまい。このどこまでも深淵な世界で私にわかることなどきっと決して多くないのである。
確実なのは彼女が確かに幸せに天へと召された、ということぐらい。
結局のところ、今の私たちにできることは、あの舞台以上のものを作り上げるために、ひたすらに演奏を続けるだけなのだから。
そこには感傷など求められない。必要なのは己、そして相手を信じ続けること。
たとえ客席にレイラはいないのだとしても。
終わる。
しばらくの静寂の後、終幕のワルツへと入る。
華やかなワルツの演奏が進んでいき、踊りもますます機敏になっていく。
第2幕最初の情景が戻ってきて、いよいよ最後の曲目であるアポテオーズ、大団円である。
王冠をかぶったクララがお菓子の国の人々から祝福される。
ミツバチに扮した子どもたちが登場し、クララをまた祝福する。
クララはこうしてお菓子の国で幸せに過ごすのだ……
そして暗転。
光が戻る。
そこは元の家のクララの部屋。
目覚めたクララはくるみ割り人形を抱きしめ、幕が降りる。
「お菓子の国への訪れは一夜の夢だったのでしょうか? しかしクララはあの出来事を決して忘れることはないでしょう。いつか大人になったとき、もしかしたらクララはクリスマスのあの素敵な一夜を振り返ることがあるのかもしれませんね」
そう客席に響き舞台は終幕となった。
しばらくの静寂の後、万雷の拍手が、スタンディング・オベーションが、降ろされた幕に降り注いだ。
その拍手はいつまでも止み終わることはなかった。
カーテンコールを終え、私たちは楽屋に戻る。
「ルナサさん! やりましたね!」
美佳さんはすごく嬉しそうだった。他の役の子達、裏方の子たちも同じ顔をしている。無理もない。一年近くにも渡る練習はこうして報われたのだから。
「誇りに思ってください……あなたたちの手柄ですから」
「いえ……わかさぎ姫さん、こころさん、舞さんと里乃さん、それにパチュリーさんと小鈴さん、そして演奏してくださった皆さんのおかげでもあります」
「どう? 私たちには負けなかった?」
リリカがいたずらっぽくそう言ってのける。
「まさか。もうそんな意地の張り合いなんてまっぴらごめんですよ」
「でも、歌もダンスも、私たちの演奏に勝るとも劣らない、そう思ったわ。大したものね。一年もかけずにここまで来たなんて」
メルランはそう告げる。
「まあ、良かったんじゃない? すごく、ね……」
雷鼓はゆっくりとそう言葉を紡いだ。
「……上手くいって良かったよ」
私はそう述べた。やっと心の中に安堵が訪れた、そんな気持ちだった。
家へ帰った私はソファにどっと腰掛けた。
快い疲れだった。
おそらくはリリカとメルランも同じ気持ちなのだろう。
「……ねえ」
「ん? どうしたの、姉さん」
リリカがそう返す。
「久しぶりにさ、クリスマス、祝わない?」
「そう言うと思って準備しといたのよねー」
メルランはそう言うと奥の方からクリスマスツリーとプレゼントの箱を引っ張り出してくる。
「まったく……お前にはやっぱり敵わないよ」
「何年ぶりなのかしら。でも……いいんじゃない?」
リリカはいつになく嬉しそうだった。
「その前に一曲演奏しようじゃないか。改めてわざわざこんなことを言うのも恥ずかしいけど……メリー・クリスマス」
そう言って私は立ち上がり、ヴァイオリンを手にして奏で始めた。
リリカとメルランもそれに続く。
明日は雷鼓も呼んで共に演奏しよう。
こうして騒々しいクリスマスの夜は始まったのである。
全体として最後の盛り上がりにもっていく構成でわかりやすく、言葉の端々やタイトルのセンスがとても素敵でした。
同作者さんの『それいけ妖精合唱団』に比べると、演者?よりも視点のプリリバに重きを置いているような印象を受けて個人的にはこちらの方が好みかもです。
バレエもミュージカルもくるみ割り人形も何も知らずに読みましたが楽しめました
みんなで力を合わせてひとつのことを成し遂げる姿が素晴らしいと思いました
孤児院の子供たちだけでなくルナサ自身も変化を受け入れ成長し、
家族とともに過去と向き合っていく姿が素敵でした。