「賃上げを要求します」
「はぁ……」
小悪魔は唐突にそう言った。主人であるパチュリー・ノーレッジは気の抜けた返事しかできなかった。
彼女はいつもどおり、薄暗い大図書館で椅子に腰掛けて本を読んでいた。すると紅茶を運んできた小悪魔が急にそんなことを言ったのだ。
「ああ、そういえばそんな時期ね」
少し遅れてパチュリーは理解した。
小悪魔と交わした使い魔の契約の更新日が今日だったのだ。
魔法で結ばれる契約は、普通の契約以上に途中での契約変更や破棄が困難だ。したがって待遇を良くしたいのであれば、更新の時期を狙うしかない。
「忘れてたんですか?私たちが初めて出会った日でもあるんですよ?私なんかカレンダーに丸を付けて指折り数えているのに……」
恋人の記念日みたいな扱いだなとパチュリーは思ったが、喜ばせるだけなので胸中に秘めておくことにした。
「前回からもう20年経ったのね」
普通の人間なら人生の四分の一程であろう時間を、パチュリーはもう年末か、と言うくらいの調子で呟く。
使い魔との契約方式は多岐にわたる。金持ちにして欲しい、ムカつくあいつを痛い目に遭わせろだとか条件を達成したら終了するものもあるし、雇用契約に近いものもある。パチュリーと小悪魔が交わしている契約は後者であった。
もっとも熟練した魔女であれば後者のことが多い。困難な望みほど自分の魔法で何とかするべきであり、悪魔に頼るというのは自分の力量不足を認めるに等しい。したがって強い魔女であればあるほど、面倒な作業をさせる雑用として悪魔と契約するに留まるケースが多い。
「今の契約内容で何か不満があるの?」
小悪魔は司書として働き、パチュリーは彼女が図書館の本を読むことを認め、更に魔力を分け与えるというのが主な契約内容だった。
もっとも、それだけの内容なのに契約書は分厚い。悪魔は自分に有利に働くよう願い事を曲解したり、余計なことをしたりする。よってそれを避けるために細かい条件を定めなければならず、どうしても契約書は長大になりがちである。
「私の契約内容、最初にパチュリー様と結んだものから全く変わってないんですよ。いい加減今の私に見合う内容にしても良いじゃないですか」
「そうだったかしら」
「そうですよ」
小悪魔がぷくーっと頬を膨らませたので、可愛い子ぶるなと睨むと「可愛いんだから良いじゃないですか」と言い返された。パチュリーはため息をついた。
かつてパチュリーは図書館の雑用や身の回りの世話を任せるため、本好きの低級の悪魔を雇った。
勿論パチュリーであれば72柱などの有名どころと契約することも可能だが、そうすると待遇が高くついてしまう。この手の雑用程度であれば、それに見合った安く済む低級の悪魔に任せる方が理に適っている。
したがって大した力も持っていなかった小悪魔と契約したのだ。
しかし契約当初よりも小悪魔は強くなっている。スキルアップしたのでキャリアアップが必要になってきたのだ。
小悪魔が成長したのは、パチュリーとの契約による影響が大きい。
交わした契約は魔法図書館の管理だ。代わりに本を自由に読める権利と、パチュリーから魔力を供給するという契約内容になっている。指折りの高等な魔女であるパチュリーの魔力は良質だ。その魔力が供給され続けた結果、小悪魔は悪魔として成長を果たした。
弾幕ごっこで例えるなら、出会った頃は道中の雑魚敵程度だったが、今は中ボスを務められる程度になったというところだ。
「待遇改善を求めるのは勝手だけどね、クビにしたって良いのよ。他の悪魔と契約しても良いし」
「ええ。でもその悪魔が紅魔館で上手くやっていけると思いますか?」
その台詞を聞いて、すぐ無茶を言い出す我儘な友人や、ちょっとわんぱくなその妹の顔がパチュリーの脳裏をよぎった。
「まあ……馴染むのは中々大変でしょうね」
「でしょうでしょう!」
小悪魔は胸を張った。
別にパチュリーとしても小悪魔を解雇する気は特にない。むしろ解雇したら他の紅魔館の面々は激怒すふことだろう。
ただあまりの高待遇を求められても困るので、一応他の選択肢もあるという選択肢を示し、釘を刺したかっただけだ。
「で、魔力だけじゃなく賃金でも出せば良いの?お小遣いならレミィの気まぐれでちょこちょこ貰ってると思うけど」
「私が求める契約内容はですね……」
小悪魔は居住まいを正した。そしてこほん、とかしこまって口を開いた。
「朝昼晩3回ずつ抱きしめてください。強く」
「は……?」
パチュリーは自分の使い魔の放った言葉の意味がわからず、呆気に取られた。何かの暗喩なのかと思って小悪魔の方に目を向けると、まっすぐで曇りのない瞳をしていた。
「意味がわからないし、絶対に嫌なのだけれど……」
「まあ聞いてください」
小悪魔は眼鏡をかけた。エリート社員がプレゼンをするときのような、自信に満ちた表情をしていた。パチュリーは既に半ば呆れて、自分が住んでいるのはこの魔法図書館なのも忘れて「帰りたい」と心の中で呟いた。
「こんな清楚な私ですが、こう見えても遠縁ですがサキュバスの血が入っています」
「普通清楚って自分で言わないわよね」
パチュリーを無視して小悪魔は話を続ける。
「しからばパチュリー様を手籠にして精力を奪いたいという欲求は当然抱えているのです。しかし、流石にセッ……性行為まで求めるとクビになってしまいます。したがって熟慮に熟慮を重ねた結果、パチュリー様がギリギリ飲める妥協点としてハグによる精力吸収という妥協点を見出したのです!」
謎の演説に呆れ果てたパチュリーは、とりあえずパチパチと控えめに拍手した。小悪魔はふんぞり返った。
「まあもう正直アナタが何を考えててもどうでも良いけど、嫌なものは嫌よ」
「どお゛じてっ」
「気持ち悪いから泣く演技はやめなさい。精力取られるなんて絶対嫌よ」
パチュリーは体が弱い。多少であっても、精力を吸い取られるのは命の危険がある。拒否するのは当然だった。
「じゃあ精力は良いんで抱きしめるだけで良いです!もっと甘やかしてください!!」
「え……何かヤダ」
「おおお……ううう……」
拒絶された小悪魔はその場に崩れ落ちた。メガネが床に落ちる。
本音は単にハグして欲しいだけだった。精力吸収という難題を突きつけてから、軽めの要求をするという戦術のようだったが、パチュリーはにべもなくその要求を切り捨てた。
「ふふふ……」
小悪魔はぬらりと立ち上がり、テーブルに手をついた。
「流石はパチュリー様……まだ魔法による契約で縛られている私は、ストを打つことすらできません……よくわかってらっしゃる」
「そういやそうね」
パチュリーは何ら戦術的なことをせずただ拒否しているだけなのだが、小悪魔は勝手に主人を評価した。
そもそもパチュリーは労使交渉において何か特別なことをする必要はない。熟達した魔女が交わす魔法契約においては、雇用者側が圧倒的に有利なのである。
「ではこうしましょう」
小悪魔はパチンと指を鳴らした。
金属音にも似た音が連続して鳴り、おびただしい数の魔法陣が展開される。それは魔法図書館の本棚を取り囲んでいた。浮遊する本棚にすら展開されたそれは、見る者によっては壮観な景観に見えたかもしれない。
「私がもう一度指を鳴らせば、爆発を起こします」
そして小悪魔はあらかじめ用意していた分厚い契約書をテーブルに叩きつけた。そして緊迫した面持ちでこう告げた。
「それにサインするだけです。そうすれば貴女の大切なものは無事に帰ってきます。なぁに、一日三回抱きしめてくれるだけで良いんです。安いものでしょう」
この魔法図書館全ての本を人質にとった小悪魔は、芝居がかった声色で、口角を釣り上げて微笑む。悪い顔だった。
彼女はこの日のために数ヶ月前から準備していた。一世一代の仕込みであった。
その要求を突きつけられた魔女は————紅茶に口をつけていた。焦る様子は一切見られない。
「なっ……本がどうなっても構わないって言うんですか!」
パチュリーはゆっくりとした所作で、ティーカップをソーサーに置いた。
「できるわけないわ」
「何故そんなことが言えるんですっ!」
パチュリーはふっと微笑んだ。
「だって私の知っている貴女は、私と同じくらい本を愛してるもの。本が傷つくような真似、できやしないわ」
小悪魔は膝から崩れ落ちた。本日二度目だった。
その様子を見たパチュリーは「こいつ面白いなー」と思った。日に三回はごめんだが、年に一回抱きしめるくらいなら構わない気もしてきた。
「流石はパチュリー様ですね……」
完全敗北だった。しかし、小悪魔は不思議と清々しい表情をしていた。
何故なら、これほどまでに主人が己のことを理解してくれているとわかったからだ。使い魔を道具としてしか見ていないのなら、こんな風に信頼されることもない。
それに「自分と同じくらい本を愛している」というのは最大の賛辞でもあった。書を愛するパチュリーが、自分に比肩するほど本を愛していると認める存在など、そうそう存在しないだろう。
「あと何か勝手に盛り上がってるみたいだけど、貴女との契約に、この図書館の本を傷つけないことも含まれているからね?」
「えっ、そうなんですか?」
「悪魔なんだから契約書はちゃんと読みなさいよ……もし本を爆破するような真似したら、身体が八つ裂きになっていたでしょうね」
「ヒっ……」
小悪魔の喉から情けのない小さな悲鳴が漏れた。
もし彼女が男性か両性具有であったなら、金玉がひゅんとなっていただろう。
「ハァ……私の負けです」
「面倒だから前回と同じ内容ね」
「はーい」
そう言われた小悪魔は、どこからともなくもう一束の契約を取り出した。
「契約期間のページだけ書き換えたものです」
パチュリーは契約書の束をパラパラとめくると、小悪魔の目を見てこう聞いた。
『誓って?』
彼女はその言霊に魔力を込めた。小悪魔もそれを感じ取る。
嘘をつくことはできない。
少しだけ緊張した雰囲気になる。小悪魔は言葉を噛み締めるように、丁寧に答えを口にした。
『ええ、誓って』
「よろしい」
パチュリーが指を鳴らすと、ふわりと羽ペンが彼女の手元に舞い降りる。インク壺に羽ペンを浸した後、彼女は契約書に向かい直る。
ゆっくりと、羽ペンの先が契約書に近づいていく。その様子を小悪魔は固唾を呑んで見守る。たった数秒のその時間が、小悪魔は永遠のように長く感じた。
そして羽ペンが契約書にあと数ミリで触れるところで、パチュリーは手を止めた。
「あ、そうだ。咲夜が新しい茶葉を仕入れたというから、後で貰ってきておいてね」
「はははいっ!?ああ紅茶ですねっ。はい!」
わかりやすく狼狽える小悪魔に、パチュリーは冷たい眼差しを向けた。小悪魔の全身から冷や汗が噴き出る。
「……」
「……」
彼女は露骨に目を逸らした。
パチュリーが契約書を人差し指でトントンと叩く。すると蛍光色の光の粒子が少しだけ舞い、空白の部分に魔法で隠されていた文章が現れた。
そこには小悪魔の先ほどの要求が載っていた。
パチュリーは深くため息をついた。
「まあ、正直粗があるからバレてたけどね」
本当は揺さぶりをかけるまでもなく、契約書に細工している魔法の存在をパチュリーは感じ取っていた。わざわざゆっくりペンを持ったり、小悪魔のリアクションを確かめたのは、彼女の茶目っ気であった。
小悪魔もパチュリーの側に仕えて長いので、魔法の腕は中々のものになっているはずだった。そこらの魔女よりはよっぽどの使い手になっている。しかしまだ師でもある主人には遠く及ばなかったようだ。
「ぐう……」
小悪魔は残念そうに呻いた。
悪魔は契約を重んじるが、一方であの手この手で契約を曲解したり不利な内容で結ばせようとする生き物でもある。彼らと契約する際、警戒しすぎるということはない。
パチュリーがゴミを飛ばすように契約書にふっと息を吹きかけると、隠されていた文字が紙から離れてふわりと飛んでいく。そして手でぱっぱと紙面を払った。
「じゃあこれからもよろしくね」
こうして契約は更新されて、二人の付き合いはもう二十年は最低でも続くことが確定した。
「はぁい……」
残念そうに小悪魔は返事をした。
そしてパチュリーは小悪魔に契約書を渡した。すると彼女はニヤリと笑った。
「それでは今月の権利を行使します。パチュリー様、抱きしめてもらえますか?」
「は?」
呆気に取られるパチュリーをよそに、小悪魔は魔法図書館の照明である宙を漂う蝋燭の一つを引き寄せる。
そして契約書の一ページを蝋燭の灯火で炙った。すると「月に一回雇用者は被雇用者を抱きしめること」という文字が浮かび上がった。
「あっ……このっ……!」
パチュリーは狼狽えて声を上げ、椅子から立ち上がりそうになる。小悪魔はにんまりと微笑んだ。
契約期間が掲載されたページの裏面に、彼女はレモン汁で加筆したのだった。
「魔法の力量比べじゃ勝てませんからね。古典的でアナクロな方法であれば意外と通るんじゃないかと」
出し抜かれたパチュリーは額に手を当てて、深々とため息をついた。彼女の負けであった。
もちろん先の魔法による文言の隠蔽は必死になって施したものだ。しかし本気で魔法による隠蔽を行なったからこそ、そちらに注意が行って、本命のオーソドックスな手段が通りやすくなる。
レモン汁で書かれた文言を有効とするのか議論の余地はあるものの、パチュリーは素直に敗北を認めることにした。
そして一点気になったことを小悪魔に聞いた。
「ちなみに、何で日に三回から月一回に妥協してあるの?」
「日に三回だと流石に本気で嫌がられてしまうかと。パチュリー様がその気になれば、だいぶ手間でしょうが契約の書き換えくらいはできるでしょう」
条件を厳しくし過ぎれば、パチュリーは本気で契約破棄に取り組むだろう。だから契約破棄の手間よりは、契約をそのまま受け入れる方が良いと思わせるギリギリのラインを小悪魔は踏んだのだ。
「まったく……ずる賢くなったわね」
小悪魔は「へへへ」とはにかんだ。ずる賢くなったとは使い魔に対しては褒め言葉だ。
主人を出し抜こうとするくらいの気概と知力がある方が、使い魔としては優秀な証である。
使い魔と魔女の関係は様々だ。ビジネスライクな関係の間柄も多いが、二人の場合は、小悪魔がまだ魔法もロクに扱えない頃からの付き合いだ。手塩にかけて育ててきたと言っても良い。
ある意味娘の成長が見れたようなものだ。出し抜かれたことは悔しいとはいえ、一方でパチュリーはどこか嬉しそうにも見える。
「ほら、するならさっさと来なさい」
パチュリーは目を逸らしながら、渋々小さく両手を広げた。
小悪魔は自分の主人の胸に飛び込んだ。
小悪魔の描写が可愛くて良かったです。
作者さん比で少しだけ、いつもより文章が滑らかでないような気がしたのですが、感覚的なものなので気のせいかもしれません。
読んでいて先が大体読めて、その期待を裏切らない展開、やはり王道はいいものでこうあるべき。
誤字報告
むしろ解雇したら他の紅魔館の面々は激怒すふことだろう。
やはりこあパチュは良いものです
必死になってる小悪魔がとてもよかったです
面白かったです。