「じゃーん。見て見てー」
「……」
朝食を終えて、片付けや掃除など家事を適当に済ませ、いざ余暇の時間だと畳にどっかり腰をついて読みかけの本を手に取り開いてものの数分。鬼人正邪の目の前が突然真っ暗になった。
何も見えない。が、背にべったりと押し当てられた着物の感触と、その下にある肌の柔らかさ。そして、耳元で囁かれる甘ったるい声にはよく覚えがあった。天邪鬼である自分にここまで馴れ馴れしく接してくる奴などひとりしかいない。ひとりでたくさんである。
「なんか見せたいならもうちょっと離れろ」
余暇に水を差されるのは如何ともしがたいが、悲しいかなとうに慣れきったことである。
正邪は特に振り払おうとせず、しかし現状への不満を淡々と表明した。
「こりゃあ失敬。えへへ」
目の前がぱっと明るくなった。
声の主、少名針妙丸は正邪から少し離れ、背後からぐるりと正面へ回り、ちょこんと腰を下ろした。両手を後ろに回して、何やらもじもじとしている。曲がりなりにも由緒正しい血筋を持つ姫君であらせられるくせに、どこでそんな小悪党じみた媚びた仕草や言い回しを覚えてくるのだろうか、と正邪は時々不思議に思う。
「焦らされるのは好きじゃないぞ」
「まぁまぁそう言わないで。改めまして……じゃじゃーん」
針妙丸は手に持ったそれらを扇状に広げて見せつけた。
「……ふむ」
吐息のような声を漏らして、正邪は目を細めた。
アビリティカード。近頃にわかに流行り始めた蒐集品である。
誰も彼もがこれを巡って盛んに取り引きを行っており、それが日に日にエスカレートしていって、近頃では闇市すら開かれているらしい。らしい、というのは正邪にとってこれらの情報がすべて風の噂からの伝聞であることを意味する。「みんなが夢中になっている」とでも聞いたら手をつけたくなくなるのが天邪鬼なのだ。
とはいえ、こうしてずらりと枚数が並べば流石に壮観である。見たところ、おそらく百枚近くあるだろう。
「……よくもまぁ、そんなに沢山集めたもんだ」
呆れ混じりの感嘆が、口をついて出た。
珍しく素直に褒められたのがよほど嬉しかったのか、針妙丸はにいっと口角を吊り上げて、
「ね、凄いでしょ? ひとつずつ見てみてよ!」
正邪にカードの束を押し付けた。
「見たいなんて言ってないけど」
と言いつつ、正邪は初めて手に取るカードの物珍しさの誘惑に負けて、ぱらぱらと目を通してみる。
一枚手に取り、裏表。手触りからして紙質や加工がしっかりしている。古本などと違ってちゃっちくない、というのが率直な感想である。元より人から人へと渡ることを想定して、ある程度丈夫に作ってあるのだろうか。
黒地に波紋のような円い意匠が描かれた裏側と、様々なイラストが大きく描かれた表側。イラストの下には短く文章が添えられており、どうやらこれが『カードの名前と得られる能力』であるようだ。
「これはわかさぎ姫で、こっちは霊夢の。これは私の打ち出の小槌で……。んでもって次はうわ、あの変態のか……」
やはり頼んでもいないのに勝手に主観だらけの音声ガイドがついてくる。紹介するならせめて名前くらいちゃんと呼んでやれよ、と正邪は『あの変態』のカードを見つめて思う。宇佐見菫子という名前はどこかで聞いた気がするが思い出せない。怖いもの知らずの針妙丸にここまで言わせるのだから相当やばい奴なのだろう。
変態はさておき。それとなく察しはついていたが、カードはそれぞれ人妖を直接的なモチーフとした物であるらしく、正邪にとっても見知った顔が少なからず見受けられた。イラストをよく見てみると印刷された物とカードに直接描かれた物が混在しているが、好意的に捉えるならばこういった粗も含めて流行り物の味である。闇市の件も含め、アビリティカードは元締めの思惑などとうに飛び超えているのかもしれない。
誰もが見知った顔がイラストとして記号化され、同一の規格に落とし込まれている。おまけに集めれば集めるほど弾幕決闘で優位に立てるともなれば、なるほど流行っているのも頷ける。
「よくできてんなこれ……」
乗る乗らないは別として、気が向きさえすれば流行の分析自体はそこそこ真面目に行うのが鬼人正邪という女である。
「でしょー?」
こいつは絶対わかってないよな、と聞き流しつつカードを見ていくと、
「ん……?」
唯一、正邪の視線を強く引きつけるカードがあった。
ひらり布
布に隠れて攻撃をやり過ごす鬼人正邪の能力
「おい。なんだよこれ」
正邪が眉をひそめると同時に、針妙丸は待ってましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべる。
「さっすが正邪ぁ。よく見てらっしゃる」
「誰だって疑問に思うだろうさ、自分のだぞ。カードにしてくれなんて頼んじゃいないし」
「えー何その顔。ぱーっと有名になった、って感じがしていい気分じゃない?」
針妙丸は「ぱーっと」の部分で目一杯に両手を広げたまま小首を傾げた。小さな身の丈にコンプレックスを抱いているせいか、針妙丸は感情が昂ぶったときに身振りも声もやたら大きくなるなるきらいがある。これもまた、正邪にとっては慣れたことであった。
脳味噌すっからかんで浮ついた事ばかり宣う阿呆をひとまず捨て置いて、正邪は自分の名が書かれたカードを改めてまじまじと見つめた。言いたいことが頭の中でこんがらがっている。
思考を整理する。
ひとつ。何故アビリティカードに自分の名が刻まれているのか。そもそもカードが闇市で取引されるほど人気があるということはつまり、カードに描かれた内容も自ずと重要視されているはずである。人気者のカードにこそ需要があるはずなのだ。ましてや自分は天邪鬼。それも指名手配され、あわや命を狙われすらした嫌われ者ではなかったか。そんな奴のカードをわざわざ拵えるなど余程の物好きか、或いはタチの悪い嫌がらせであるとしか思えなかった。己の与り知らぬところで見知らぬ誰かに好かれている、という可能性など考えるだけで鳥肌が立つので意図して頭から閉め出す。とにかく、カードの取引で儲けたいならば天邪鬼など扱う必要がないのだ。紙とインクと労力の無駄である。
ひとつ。百歩譲って自分をカードにするのはいいとして、何故ひらり布なのか。確かにひらり布には先の逃避行で世話になったが、それは他の道具も同じであって、これだけがまるで鬼人正邪の代名詞であるかのように取り沙汰される理屈がわからない。これではまるで『天邪鬼は逃げてばかりの臆病者だ』と暗に喧伝しているようなものではないか。
眉間を押さえ、鼻から薄く溜め息を吐く。
まぁ、ひらり布ではなく他の道具を取り上げられても同様に不服に思っていただろう。要は『どうせ私の名前を出すなら道具ではなくちゃんと私をカードにしろ』という話である。実に巧妙且つ回りくどい嫌がらせだと思うし、そうでなければ私をよく知らない奴が数合わせで適当に拵えたハズレカードに違いない。できれば後者であってほしいと切に願う。
「ねぇねぇ、何か気づいたことない? そのカード」
思索に耽る正邪の意識は、針妙丸の呼びかけで現実に引き戻された。
こちらの反応を伺うような、妙な期待が入り交じったにやけた視線を向けられている。
「……ああ」
気づいたことなどごまんとある。
更に言えば、針妙丸の妙な自信に満ちた態度からして、このカードの出自はつまりそういうことだろう、と正邪はおおよそ確信した。全部針妙丸のせいだと考えれば、諸々の疑問もなるほど合点がいく。こいつはそういう女なのだ。
ただ、タネが割れたところで不満なことに変わりはない。
正邪は少し考えて、
「……このカード、誰が作ったのかは知らないけどさ。きっと私のことをよく知らない奴が適当に作ったんだろうなぁ、って思ってさ」
素知らぬ顔でおちょくりを入れてみた。
「はぁ? なんでそう思うのよ」
予想だにしない返事であったか、針妙丸は一転して不満を露わにする。
お、乗ってきた乗ってきた。
正邪は内心ほくそ笑みながらも、表向きは平静を装いながら、
「だってさ、ひらり布はあくまで道具であって私の能力じゃないし。そこの区別もついてないような奴に遊びのダシにされたと思うと悲しくなるね。私だって、あることないこと好き勝手にレッテル貼られれば傷つくんだ」
おおよその本心を淀みなく、すらすらと言ってのけた。
「む……」
先とは一転、針妙丸は怯んだように一歩身を引き、口をつぐんだ。
効いてる効いてる、と正邪は心の内でいよいよ調子づく。
そもそも『自分が正邪のカードを作ってあげたこと』をなりふり構わずアピールしたいなら、レプリカ小槌のカードでも拵えて「私とお揃いだね」とでも言ってきそうなものである。が、そこまで露骨に寄せてこないあたり、日常的に無闇矢鱈と距離の近い針妙丸も、最低限の線引きや羞恥心を持ち合わせているわけである。そこをうりうりとつついてなじって、おちょくってやるのが楽しいのだ。
正邪はやはり、まったく平坦な語調を崩さず、
「なぁ針妙丸。もしこのカード作った奴に会ったら『センスねーよ、って正邪が言ってた』って伝えておいてくれないか?」
ひらり布のカードを差し出した。
「~~~~~~~~ッ!」
針妙丸は声にならない唸り声を上げながら起ち上がると、着物の裾を翻してダバダバと地団駄を踏むように床を蹴って走り去っていった。
だだ広い居間にぽつん、と。正邪ひとりだけが残された。
「さて、続き読むか」
と、正邪はカードの束を脇に置き、代わりに本を手に取った。「そういえば栞挟んでなかったな、あいつが来たせいで」と小さくぼやきながら、古ぼけて痛んだ頁を指でなぞって読みかけの続きを模索する。十余秒ほどかけてそれを見つけて、読書を再開してから更に十秒ほど経ったあたりで、
「正邪ぁ!」
針妙丸が声を張り上げて居間に飛び込み、猛烈なスピードで正邪の側まで駆け戻ってきた。
正邪は字を追いつつ、横目だけで一瞥する。相当に急いで行って戻ってきたのか、針妙丸は顔を真っ赤にして、ぜいぜいと肩で息をしていた。汗の滲んだ手には真っ白なカードと、紐で束ねられたペンが握られている。
少しの間を置いて、いくばくか呼吸を整えたか。針妙丸は、
「急いで文句言ってきたよ! 正邪のカード作った奴に! そしたら『そこまで言うならお前が作ってみろ』ってさ!」
未だ上気した声で、ぶちまけるようにまくし立ててきた。
正邪は淡々と、
「嫌だよ。勝手に何言ってんだか」
とばっさり切り捨てたところで、しかし針妙丸が勝機を見出したような、不適な笑みを溢していることに気がついた。嫌な予感がする。
「なんだよニヤニヤして。気持ち悪い」
「いや、正邪はいつからそうやって自分で動かないくせに文句だけは一丁前のかっこ悪い奴になっちゃったんだろうなぁ、って」
ぶちり、と。頭の中で何かが切れる音がした。
正邪は本を閉じて静かに床に置き、
「気が変わった。寄越せ」
「はい。どうぞ」
差し出された白いカードとペンをひったくるように奪い取ると、正邪は針妙丸に背を向けてカードを描き始めた。
「やっぱり正邪はそうでなくっちゃ」
「うるさい。せっかく描いてやってるんだから黙って待ってろ」
「はいはい。じゃあ背中借りるよ、疲れたし」
勝手にしろ、という正邪の返答を待たずして、針妙丸は振り返って座り、正邪の背に寄りかかった。
「……」
「……」
浮き出た背骨と肩甲骨が時折動いて己の背を擦る感触に、針妙丸は一抹の安堵を覚えた。正邪は考えが詰まったのか時折ペンを止め、しかしそう経たないうちにまた動かし始めていた。つるりとしたカードの表面をペン先が走る音を耳で追っていくうちに、針妙丸のまぶたはどんどん重くなっていく。そうして針妙丸の意識が微睡みに溶けて消えようとしたあたりで、
「できた」
正邪がすっくと立ち上がった。同時に、針妙丸は思い切り後ろにこけて後頭部を強打して「ぎゃあ」と悲鳴を上げた。
針妙丸は頭を押さえながら、寝転んだままで正邪を見上げて、
「急に動かないでよ!」
「私がどうしようが私の勝手だろ。ほらよ」
「いたっ」
針妙丸の顔面にぺちん、とカードが降ってきた。
「自信作だよ」
満足げな正邪の声を受けて、針妙丸はカードを顔面から遠ざけた。
空白だったカードには、円環を描いた赤と青の矢印が描かれており、その下には、
世界をひっくり返せ!
使用者の靴下や足袋の裏表をひっくり返す鬼人正邪の能力
「…………名前のわりになんかしょぼくない?」
「どうせたくさんカードがあるんだ。一枚くらい意味のないカードがあったっていいだろ?」
ふふん、と正邪は鼻を鳴らした。
「いや、実質的に無意味なカードなら結構あるし」
「えっマジ?」
「ほんとほんと。しかも使用者のって、誰が使うのよこんなの。見向きもされないでしょ」
「だからそう書いたんだよ。しかも私が使ってもノーリスクだし」
「真冬でも素足にサンダルで寒くないの?」
「寒い」
「バカじゃないの?」
「なにおう」
ふたりはそのままの姿勢でひとしきり言い争って、
「…………ま、いいや」
唐突に、針妙丸が上体を起こして起ち上がった。
「ありがと。感謝してる」
顔の横でふりふりとカードを振りながら、針妙丸は告げた。
「はぁ」
なんとも釈然としない表情の正邪に向けて、針妙丸は、
「じゃ、出かけてくるね。夕飯までには戻るからっ」
晴れ晴れとした表情で振り返り振り返り手を振りながら、城の外の青空へと飛んでいった。
だだ広い居間にぽつん、と。また正邪ひとりだけが残された。
「……なんか上手いこと乗せられた気がする」
まぁいいか、と正邪は不貞腐れ気味に呟いて、針妙丸が消えていった空をぼうっと見つめた。雲ひとつない空はどこまでも青く澄んでいて、それがなんとも言えず腹立たしく感じた。
「ったく……」
そのまま正邪は腰掛け、腰元に置いていた本を手探りだけで探った。
本の代わりに、針妙丸が残していったカードの束が手に触れた。
◆◆◆
からりと戸を開け放った瞬間に底冷えする風に全身を包まれて、鬼人正邪はぶるりと身を震わせた。今年の冬は例年と比べて特に冷え込みが厳しい。もしも野営を強いられるような状況であれば、たまらず音を上げていたかもしれない。そういった『もしもの自分』を思い浮かべては、一応定住の地を固めた今の選択はこれはこれで間違いじゃなかったのかもな、と正邪は思う。
「ま、そのせいで洗濯物が増えたわけだが」
正邪はぺたぺたとサンダルを鳴らしながら庭を歩いて行き、物干し竿の近く、ふたつ並んで置いてあるタライの前で立ち止まった。タライには両方水が張られており、その一方にはふたりぶんの衣服が沈んでいる。
飯と宿の恩義、などというつもりは毛頭ない。
かつて従者として取り入っていた頃の数少ない名残として、正邪は針妙丸と家事を折半している。惰性で続けている、と言ってしまえばそれまでであるが、実際帰る場所がなかった頃は日ごとの風呂や洗濯もままならなかったわけである。何事もふたりぶんこなす必要があるとはいえ、毎日小綺麗にしていられるのは正邪としても願ったり叶ったりであった。
「さっさと終わらせますかね、っと」
と、正邪は緩慢な動作でタライの間にしゃがみ込んだ。最近開発されたという河童印の漬け置き洗剤は『どんな汚れも川流れ!』と謳うだけあって実に便利で、匙一杯で着物から下着まで布地を問わず痛み色移りその他諸々ノートラブルで賄える秀逸な代物である。
もっとも、冬場の水の冷たさばかりはどうにもならない。「お湯使ってもすぐ冷えちゃうんだよなー」とぼやきながら、正邪はしかし慣れた手つきで衣類を水に通して洗剤を落とし、物干し竿に通してゆく。
洗濯物がみるみる減っていく。汚れは漬け置きでほとんど落ちているので、正邪はひとつひとつを特別注視することもなく次から次へと流れ作業で処理していって、
「ん?」
唐突に手を止めた。触り慣れた針妙丸の着物の下に、何か違和感を感じたからである。余計な手間取らせやがって、と正邪は小さく毒づきつつ着物の中を漁って、
「……ああ」
納得と溜め息の中間のような声を漏らした。
服の中に、アビリティカードの束が入っていたのだ。
もう少し正確に言うならば、『アビリティカードであった物の束』である。
洗剤を含んだ水に漬かっていたせいか、描かれていた内容は滲んで色が混ざり合って、今はもう到底判別できそうにない。しかもダメ押しとばかりにカード同士がくっついている。カードの原理など解らないが、こうなった以上は元の機能など望むべくもないだろう、と正邪は確信した。
「……インク移りとかはないな。よし」
正邪は洗濯物を一通り確認してから、ぽい、と束をそのへんに投げ捨てた。
近頃はめっきりアビリティカードの噂も聞かなくなったな、とふと思い返す。『この世界にあったほうがよい物、面白い物』として日常に根差し、故に誰も話題に挙げなくなったか。はたまた単に皆から飽きられ、廃れていったか。正邪にはその顛末などわからないし、どうでもいい話であった。
流行り物の末路など、おおよそその二通りである。
こつん、と。
ほとんど無意識に動かしていた指がタライの底をついた。
正邪はタライの中を改めて見渡して、その端に一対の足袋を見つけた。今日の洗濯はこれで最後である。つまみ上げてジャブジャブと水を通して引き揚げたところで、足袋が裏返しになっていないことに気がついた。
「…………」
正邪は少し考えてから、
「裏表にして出せっていつも言ってんだろ。ばぁか」
楽しげにひとりごちつつ、足袋の裏表をひっくり返した。
バレットフィリア面白かったです。 終
「……」
朝食を終えて、片付けや掃除など家事を適当に済ませ、いざ余暇の時間だと畳にどっかり腰をついて読みかけの本を手に取り開いてものの数分。鬼人正邪の目の前が突然真っ暗になった。
何も見えない。が、背にべったりと押し当てられた着物の感触と、その下にある肌の柔らかさ。そして、耳元で囁かれる甘ったるい声にはよく覚えがあった。天邪鬼である自分にここまで馴れ馴れしく接してくる奴などひとりしかいない。ひとりでたくさんである。
「なんか見せたいならもうちょっと離れろ」
余暇に水を差されるのは如何ともしがたいが、悲しいかなとうに慣れきったことである。
正邪は特に振り払おうとせず、しかし現状への不満を淡々と表明した。
「こりゃあ失敬。えへへ」
目の前がぱっと明るくなった。
声の主、少名針妙丸は正邪から少し離れ、背後からぐるりと正面へ回り、ちょこんと腰を下ろした。両手を後ろに回して、何やらもじもじとしている。曲がりなりにも由緒正しい血筋を持つ姫君であらせられるくせに、どこでそんな小悪党じみた媚びた仕草や言い回しを覚えてくるのだろうか、と正邪は時々不思議に思う。
「焦らされるのは好きじゃないぞ」
「まぁまぁそう言わないで。改めまして……じゃじゃーん」
針妙丸は手に持ったそれらを扇状に広げて見せつけた。
「……ふむ」
吐息のような声を漏らして、正邪は目を細めた。
アビリティカード。近頃にわかに流行り始めた蒐集品である。
誰も彼もがこれを巡って盛んに取り引きを行っており、それが日に日にエスカレートしていって、近頃では闇市すら開かれているらしい。らしい、というのは正邪にとってこれらの情報がすべて風の噂からの伝聞であることを意味する。「みんなが夢中になっている」とでも聞いたら手をつけたくなくなるのが天邪鬼なのだ。
とはいえ、こうしてずらりと枚数が並べば流石に壮観である。見たところ、おそらく百枚近くあるだろう。
「……よくもまぁ、そんなに沢山集めたもんだ」
呆れ混じりの感嘆が、口をついて出た。
珍しく素直に褒められたのがよほど嬉しかったのか、針妙丸はにいっと口角を吊り上げて、
「ね、凄いでしょ? ひとつずつ見てみてよ!」
正邪にカードの束を押し付けた。
「見たいなんて言ってないけど」
と言いつつ、正邪は初めて手に取るカードの物珍しさの誘惑に負けて、ぱらぱらと目を通してみる。
一枚手に取り、裏表。手触りからして紙質や加工がしっかりしている。古本などと違ってちゃっちくない、というのが率直な感想である。元より人から人へと渡ることを想定して、ある程度丈夫に作ってあるのだろうか。
黒地に波紋のような円い意匠が描かれた裏側と、様々なイラストが大きく描かれた表側。イラストの下には短く文章が添えられており、どうやらこれが『カードの名前と得られる能力』であるようだ。
「これはわかさぎ姫で、こっちは霊夢の。これは私の打ち出の小槌で……。んでもって次はうわ、あの変態のか……」
やはり頼んでもいないのに勝手に主観だらけの音声ガイドがついてくる。紹介するならせめて名前くらいちゃんと呼んでやれよ、と正邪は『あの変態』のカードを見つめて思う。宇佐見菫子という名前はどこかで聞いた気がするが思い出せない。怖いもの知らずの針妙丸にここまで言わせるのだから相当やばい奴なのだろう。
変態はさておき。それとなく察しはついていたが、カードはそれぞれ人妖を直接的なモチーフとした物であるらしく、正邪にとっても見知った顔が少なからず見受けられた。イラストをよく見てみると印刷された物とカードに直接描かれた物が混在しているが、好意的に捉えるならばこういった粗も含めて流行り物の味である。闇市の件も含め、アビリティカードは元締めの思惑などとうに飛び超えているのかもしれない。
誰もが見知った顔がイラストとして記号化され、同一の規格に落とし込まれている。おまけに集めれば集めるほど弾幕決闘で優位に立てるともなれば、なるほど流行っているのも頷ける。
「よくできてんなこれ……」
乗る乗らないは別として、気が向きさえすれば流行の分析自体はそこそこ真面目に行うのが鬼人正邪という女である。
「でしょー?」
こいつは絶対わかってないよな、と聞き流しつつカードを見ていくと、
「ん……?」
唯一、正邪の視線を強く引きつけるカードがあった。
ひらり布
布に隠れて攻撃をやり過ごす鬼人正邪の能力
「おい。なんだよこれ」
正邪が眉をひそめると同時に、針妙丸は待ってましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべる。
「さっすが正邪ぁ。よく見てらっしゃる」
「誰だって疑問に思うだろうさ、自分のだぞ。カードにしてくれなんて頼んじゃいないし」
「えー何その顔。ぱーっと有名になった、って感じがしていい気分じゃない?」
針妙丸は「ぱーっと」の部分で目一杯に両手を広げたまま小首を傾げた。小さな身の丈にコンプレックスを抱いているせいか、針妙丸は感情が昂ぶったときに身振りも声もやたら大きくなるなるきらいがある。これもまた、正邪にとっては慣れたことであった。
脳味噌すっからかんで浮ついた事ばかり宣う阿呆をひとまず捨て置いて、正邪は自分の名が書かれたカードを改めてまじまじと見つめた。言いたいことが頭の中でこんがらがっている。
思考を整理する。
ひとつ。何故アビリティカードに自分の名が刻まれているのか。そもそもカードが闇市で取引されるほど人気があるということはつまり、カードに描かれた内容も自ずと重要視されているはずである。人気者のカードにこそ需要があるはずなのだ。ましてや自分は天邪鬼。それも指名手配され、あわや命を狙われすらした嫌われ者ではなかったか。そんな奴のカードをわざわざ拵えるなど余程の物好きか、或いはタチの悪い嫌がらせであるとしか思えなかった。己の与り知らぬところで見知らぬ誰かに好かれている、という可能性など考えるだけで鳥肌が立つので意図して頭から閉め出す。とにかく、カードの取引で儲けたいならば天邪鬼など扱う必要がないのだ。紙とインクと労力の無駄である。
ひとつ。百歩譲って自分をカードにするのはいいとして、何故ひらり布なのか。確かにひらり布には先の逃避行で世話になったが、それは他の道具も同じであって、これだけがまるで鬼人正邪の代名詞であるかのように取り沙汰される理屈がわからない。これではまるで『天邪鬼は逃げてばかりの臆病者だ』と暗に喧伝しているようなものではないか。
眉間を押さえ、鼻から薄く溜め息を吐く。
まぁ、ひらり布ではなく他の道具を取り上げられても同様に不服に思っていただろう。要は『どうせ私の名前を出すなら道具ではなくちゃんと私をカードにしろ』という話である。実に巧妙且つ回りくどい嫌がらせだと思うし、そうでなければ私をよく知らない奴が数合わせで適当に拵えたハズレカードに違いない。できれば後者であってほしいと切に願う。
「ねぇねぇ、何か気づいたことない? そのカード」
思索に耽る正邪の意識は、針妙丸の呼びかけで現実に引き戻された。
こちらの反応を伺うような、妙な期待が入り交じったにやけた視線を向けられている。
「……ああ」
気づいたことなどごまんとある。
更に言えば、針妙丸の妙な自信に満ちた態度からして、このカードの出自はつまりそういうことだろう、と正邪はおおよそ確信した。全部針妙丸のせいだと考えれば、諸々の疑問もなるほど合点がいく。こいつはそういう女なのだ。
ただ、タネが割れたところで不満なことに変わりはない。
正邪は少し考えて、
「……このカード、誰が作ったのかは知らないけどさ。きっと私のことをよく知らない奴が適当に作ったんだろうなぁ、って思ってさ」
素知らぬ顔でおちょくりを入れてみた。
「はぁ? なんでそう思うのよ」
予想だにしない返事であったか、針妙丸は一転して不満を露わにする。
お、乗ってきた乗ってきた。
正邪は内心ほくそ笑みながらも、表向きは平静を装いながら、
「だってさ、ひらり布はあくまで道具であって私の能力じゃないし。そこの区別もついてないような奴に遊びのダシにされたと思うと悲しくなるね。私だって、あることないこと好き勝手にレッテル貼られれば傷つくんだ」
おおよその本心を淀みなく、すらすらと言ってのけた。
「む……」
先とは一転、針妙丸は怯んだように一歩身を引き、口をつぐんだ。
効いてる効いてる、と正邪は心の内でいよいよ調子づく。
そもそも『自分が正邪のカードを作ってあげたこと』をなりふり構わずアピールしたいなら、レプリカ小槌のカードでも拵えて「私とお揃いだね」とでも言ってきそうなものである。が、そこまで露骨に寄せてこないあたり、日常的に無闇矢鱈と距離の近い針妙丸も、最低限の線引きや羞恥心を持ち合わせているわけである。そこをうりうりとつついてなじって、おちょくってやるのが楽しいのだ。
正邪はやはり、まったく平坦な語調を崩さず、
「なぁ針妙丸。もしこのカード作った奴に会ったら『センスねーよ、って正邪が言ってた』って伝えておいてくれないか?」
ひらり布のカードを差し出した。
「~~~~~~~~ッ!」
針妙丸は声にならない唸り声を上げながら起ち上がると、着物の裾を翻してダバダバと地団駄を踏むように床を蹴って走り去っていった。
だだ広い居間にぽつん、と。正邪ひとりだけが残された。
「さて、続き読むか」
と、正邪はカードの束を脇に置き、代わりに本を手に取った。「そういえば栞挟んでなかったな、あいつが来たせいで」と小さくぼやきながら、古ぼけて痛んだ頁を指でなぞって読みかけの続きを模索する。十余秒ほどかけてそれを見つけて、読書を再開してから更に十秒ほど経ったあたりで、
「正邪ぁ!」
針妙丸が声を張り上げて居間に飛び込み、猛烈なスピードで正邪の側まで駆け戻ってきた。
正邪は字を追いつつ、横目だけで一瞥する。相当に急いで行って戻ってきたのか、針妙丸は顔を真っ赤にして、ぜいぜいと肩で息をしていた。汗の滲んだ手には真っ白なカードと、紐で束ねられたペンが握られている。
少しの間を置いて、いくばくか呼吸を整えたか。針妙丸は、
「急いで文句言ってきたよ! 正邪のカード作った奴に! そしたら『そこまで言うならお前が作ってみろ』ってさ!」
未だ上気した声で、ぶちまけるようにまくし立ててきた。
正邪は淡々と、
「嫌だよ。勝手に何言ってんだか」
とばっさり切り捨てたところで、しかし針妙丸が勝機を見出したような、不適な笑みを溢していることに気がついた。嫌な予感がする。
「なんだよニヤニヤして。気持ち悪い」
「いや、正邪はいつからそうやって自分で動かないくせに文句だけは一丁前のかっこ悪い奴になっちゃったんだろうなぁ、って」
ぶちり、と。頭の中で何かが切れる音がした。
正邪は本を閉じて静かに床に置き、
「気が変わった。寄越せ」
「はい。どうぞ」
差し出された白いカードとペンをひったくるように奪い取ると、正邪は針妙丸に背を向けてカードを描き始めた。
「やっぱり正邪はそうでなくっちゃ」
「うるさい。せっかく描いてやってるんだから黙って待ってろ」
「はいはい。じゃあ背中借りるよ、疲れたし」
勝手にしろ、という正邪の返答を待たずして、針妙丸は振り返って座り、正邪の背に寄りかかった。
「……」
「……」
浮き出た背骨と肩甲骨が時折動いて己の背を擦る感触に、針妙丸は一抹の安堵を覚えた。正邪は考えが詰まったのか時折ペンを止め、しかしそう経たないうちにまた動かし始めていた。つるりとしたカードの表面をペン先が走る音を耳で追っていくうちに、針妙丸のまぶたはどんどん重くなっていく。そうして針妙丸の意識が微睡みに溶けて消えようとしたあたりで、
「できた」
正邪がすっくと立ち上がった。同時に、針妙丸は思い切り後ろにこけて後頭部を強打して「ぎゃあ」と悲鳴を上げた。
針妙丸は頭を押さえながら、寝転んだままで正邪を見上げて、
「急に動かないでよ!」
「私がどうしようが私の勝手だろ。ほらよ」
「いたっ」
針妙丸の顔面にぺちん、とカードが降ってきた。
「自信作だよ」
満足げな正邪の声を受けて、針妙丸はカードを顔面から遠ざけた。
空白だったカードには、円環を描いた赤と青の矢印が描かれており、その下には、
世界をひっくり返せ!
使用者の靴下や足袋の裏表をひっくり返す鬼人正邪の能力
「…………名前のわりになんかしょぼくない?」
「どうせたくさんカードがあるんだ。一枚くらい意味のないカードがあったっていいだろ?」
ふふん、と正邪は鼻を鳴らした。
「いや、実質的に無意味なカードなら結構あるし」
「えっマジ?」
「ほんとほんと。しかも使用者のって、誰が使うのよこんなの。見向きもされないでしょ」
「だからそう書いたんだよ。しかも私が使ってもノーリスクだし」
「真冬でも素足にサンダルで寒くないの?」
「寒い」
「バカじゃないの?」
「なにおう」
ふたりはそのままの姿勢でひとしきり言い争って、
「…………ま、いいや」
唐突に、針妙丸が上体を起こして起ち上がった。
「ありがと。感謝してる」
顔の横でふりふりとカードを振りながら、針妙丸は告げた。
「はぁ」
なんとも釈然としない表情の正邪に向けて、針妙丸は、
「じゃ、出かけてくるね。夕飯までには戻るからっ」
晴れ晴れとした表情で振り返り振り返り手を振りながら、城の外の青空へと飛んでいった。
だだ広い居間にぽつん、と。また正邪ひとりだけが残された。
「……なんか上手いこと乗せられた気がする」
まぁいいか、と正邪は不貞腐れ気味に呟いて、針妙丸が消えていった空をぼうっと見つめた。雲ひとつない空はどこまでも青く澄んでいて、それがなんとも言えず腹立たしく感じた。
「ったく……」
そのまま正邪は腰掛け、腰元に置いていた本を手探りだけで探った。
本の代わりに、針妙丸が残していったカードの束が手に触れた。
◆◆◆
からりと戸を開け放った瞬間に底冷えする風に全身を包まれて、鬼人正邪はぶるりと身を震わせた。今年の冬は例年と比べて特に冷え込みが厳しい。もしも野営を強いられるような状況であれば、たまらず音を上げていたかもしれない。そういった『もしもの自分』を思い浮かべては、一応定住の地を固めた今の選択はこれはこれで間違いじゃなかったのかもな、と正邪は思う。
「ま、そのせいで洗濯物が増えたわけだが」
正邪はぺたぺたとサンダルを鳴らしながら庭を歩いて行き、物干し竿の近く、ふたつ並んで置いてあるタライの前で立ち止まった。タライには両方水が張られており、その一方にはふたりぶんの衣服が沈んでいる。
飯と宿の恩義、などというつもりは毛頭ない。
かつて従者として取り入っていた頃の数少ない名残として、正邪は針妙丸と家事を折半している。惰性で続けている、と言ってしまえばそれまでであるが、実際帰る場所がなかった頃は日ごとの風呂や洗濯もままならなかったわけである。何事もふたりぶんこなす必要があるとはいえ、毎日小綺麗にしていられるのは正邪としても願ったり叶ったりであった。
「さっさと終わらせますかね、っと」
と、正邪は緩慢な動作でタライの間にしゃがみ込んだ。最近開発されたという河童印の漬け置き洗剤は『どんな汚れも川流れ!』と謳うだけあって実に便利で、匙一杯で着物から下着まで布地を問わず痛み色移りその他諸々ノートラブルで賄える秀逸な代物である。
もっとも、冬場の水の冷たさばかりはどうにもならない。「お湯使ってもすぐ冷えちゃうんだよなー」とぼやきながら、正邪はしかし慣れた手つきで衣類を水に通して洗剤を落とし、物干し竿に通してゆく。
洗濯物がみるみる減っていく。汚れは漬け置きでほとんど落ちているので、正邪はひとつひとつを特別注視することもなく次から次へと流れ作業で処理していって、
「ん?」
唐突に手を止めた。触り慣れた針妙丸の着物の下に、何か違和感を感じたからである。余計な手間取らせやがって、と正邪は小さく毒づきつつ着物の中を漁って、
「……ああ」
納得と溜め息の中間のような声を漏らした。
服の中に、アビリティカードの束が入っていたのだ。
もう少し正確に言うならば、『アビリティカードであった物の束』である。
洗剤を含んだ水に漬かっていたせいか、描かれていた内容は滲んで色が混ざり合って、今はもう到底判別できそうにない。しかもダメ押しとばかりにカード同士がくっついている。カードの原理など解らないが、こうなった以上は元の機能など望むべくもないだろう、と正邪は確信した。
「……インク移りとかはないな。よし」
正邪は洗濯物を一通り確認してから、ぽい、と束をそのへんに投げ捨てた。
近頃はめっきりアビリティカードの噂も聞かなくなったな、とふと思い返す。『この世界にあったほうがよい物、面白い物』として日常に根差し、故に誰も話題に挙げなくなったか。はたまた単に皆から飽きられ、廃れていったか。正邪にはその顛末などわからないし、どうでもいい話であった。
流行り物の末路など、おおよそその二通りである。
こつん、と。
ほとんど無意識に動かしていた指がタライの底をついた。
正邪はタライの中を改めて見渡して、その端に一対の足袋を見つけた。今日の洗濯はこれで最後である。つまみ上げてジャブジャブと水を通して引き揚げたところで、足袋が裏返しになっていないことに気がついた。
「…………」
正邪は少し考えてから、
「裏表にして出せっていつも言ってんだろ。ばぁか」
楽しげにひとりごちつつ、足袋の裏表をひっくり返した。
バレットフィリア面白かったです。 終
面白かったです。
正邪もよかったですが針妙丸もやたらかわいらしくて素晴らしかったです