二十代目御阿礼の子、稗田阿庭
は、自分の書斎で書き物をしていた。他に誰もいない部屋に、キーボードを叩く音だけが鳴っている。
「夜も遅いというのに、精が出るわね」
阿庭はぎょっとして後ろを向いた。この書斎には自分以外だれもいないはずだ。阿庭自身が集中したいので極力部屋に入らないでくれと、使用人にも伝えている。
誰もいないはずの部屋にいたのは一人の金髪の少女だった。紫色のドレスを羽織り、白い長手袋と靴下を履いている。
「貴方は誰ですか?」
阿庭は警戒して、やや怒気を込めた口調で尋ねた。実のところ、彼女の正体は予想がつく。八雲紫。大妖怪にして幻想郷の賢者の一人。過去の縁起に絵や写真として記録された姿とも一致するし、その神出鬼没さはまさしくスキマ妖怪のそれである。しかし、人間だろうが妖怪だろうが、勝手に部屋に入ってくる見知らぬ人に友好的に接する義理はない。
「私は八雲紫。幻想郷の賢者ですわ。お久しぶり」
はじめましてではないのかと、阿庭は記憶を辿った。確かに言われてみれば、自分が三歳のときの御阿礼の子生誕の儀に紫も――そのときはドレスではなくて道士服を着ていたが――参列していた。しかしそんな、それこそ自分が御阿礼の子でなかったら絶対に覚えていない程度の繋がりで知り合いを気取るのは図々し過ぎではなかろうか。一言の挨拶すらあのときは交わさなかったのだ。
「文字通りの意味で顔を合わせたことはあれど、お久しぶりなどと馴れ馴れしくする関係ではないはずですが」
「つれないわね。今後私とそういう関係になりたいとは思わないのかしら」
「仲良くなりたいと思うのだったら、玄関からきちんと手順を踏んで私の部屋に入る程度の礼節は持つべきです。貴方程の人ならそのくらいできるでしょう。仮にも幻想郷の賢者ならば」
「はいはい」
紫は阿庭の忠告を聞き流しながら戸棚を漁っていた。そして急須と湯呑みを見つけるとポットで急須にお湯を注ぎ始めた。
「なにくつろごうとしてるんですか」
「いい茶葉が手に入ったのよ。貴方の在庫に手は出さないから心配する必要はないわ。余りはおすそ分けするわね」
「そうじゃなくて、今の話を聞いたら、今回は出直してもっと常識的な時間にもっと常識的な手順で来ようとなりません? 普通」
「嫌よ。私は今貴方に用があって来たんだから」
紫はズズズという音を静かに立てながら淹れた緑茶をすすっていた。本当に急ぎの用事なのか疑わしいものだと阿庭は思った。
「はあ。用というのは?」
「現代風に言うなればチュートリアル。貴方の使命の確認と、最初に覚えておくべき知識の伝達よ」
「私の使命とは、幻想郷の歴史を記録することですよね」
「御名答」
「確かに明日から縁起編纂のための調査を始めようと思っていたところでしたが、態々前日に来るということは監視でもしていたんですかね」
紫は生暖かい目を阿庭へと向けていた。
「監視していたんですね。しかし、益々訳が分かりません。なぜ稗田の関係者でもなんでもない貴方がその『ちゅうとりある』とやらを担当しているんですか」
「それはね……」
紫は指を鳴らした。その瞬間に、阿庭の目の前の空間が裂けた。阿庭は裂け目から無数の目がこちらを覗いているのを見て背筋が凍った。金縛りにあったかのように阿庭が硬直していると、裂け目はそれが猛獣の口であるかのように開いて阿庭を飲み込んだ。
裂け目の内側は虚無だった。阿庭は大量の目だけが漂う不気味な世界ではないことに一瞬安堵した。だが、数分も経って何もないということの恐ろしさを理解した。
この空間には色も地面もない。自分がどこを向いているのか、固定されているのか落ち続けているのかすら定かではない。目を閉じたときに見る暗闇ともまた異なる。寝ているときの暗闇には自分の思考が映っているが、ここにはそれすらない。御阿礼の子の記憶力をもってすら、浮かんだ思考は浮かべたそばから溶かされていく。この世界には思考のとっかかりになるものが皆無なのだ。せめて目だけでもあってくれと思うようになっていた。
私は今死んでいる。回らぬ思考の中で、阿庭はぼんやりとそんなことを考えていた。
視線の上の方に、あの裂け目のようなものが見えた気がした。それは音よりも、阿庭の認識よりも遥かに速く向かってくる。この裂け目が吉兆か凶報か判断できる前に、阿庭はもう一度裂け目に飲み込まれた。
そして、阿庭は自室へと戻った。冷や汗で服が体に張り付き、寒さを覚えて震えた。ふと横を向くと、紫が微笑を浮かべている。
「何をするんですか!」
「だからチュートリアルよ。妖怪は人間を恐怖させるもの。それは一番大事な前提なの。貴方が世の中に出る前にこのことは覚えておかないといけないからね」
「そうですか。でも、貴方は非常識で悪意のある妖怪として記録しますからね」
「妖怪は人間から畏れられてこその存在。だからそう記録されるのは構わないのだけれど、毎回誤解された書き方をされるわねえ。こんなにも親切にしているのに」
「私には前代までの記憶は殆どありませんが、ご先祖様のお気持ちは心中お察しします。貴方の親切の仕方には悪意が透けて見えるのですよ。どうせ今も分かってて言ったでしょう?」
「貴方は覚り妖怪か何かかしら」
「私は御阿礼の子ですよ。当然人間です」
阿庭は二度と彼女に会いたくないものだと思ったが、腐れ縁になるというか、今後も度々この賢者と顔を合わせなければならないのだろうという予感があった。だからせめて今日くらいはさっさと別れたい。彼女はパソコンの電源を落として寝る準備を始めた。
「あらあら、そんなに急く必要はないのではなくて?」
「お帰りを。私は忙しいのです。さっきも言いましたが、明日から縁起の編纂のための活動を始めるのですから」
「御阿礼の子が三十年程度しか生きられなかったのも今や昔。医療も発展して人並みに生きることができるようになったのだから、もっとゆっくりと生きればいいじゃないの」
「歴史を記すという使命の前では等しく須臾です」
「そう、そこまで言うなら止めないけど……。折角の節目の代なのだし、今回は節目に相応しい代になりそうなのだから、ゆっくりと今生を楽しんでは?」
「は? それはどういう……」
節目に相応しいとは。その預言が良い意味でなのか悪い意味でなのか。その答えこそ今紫から聞き出したかったが、質問を終える前に、紫はあの裂け目の向こう側へと消えてしまっていた。
「全く、嫌な奴」
阿庭は一人愚痴た。
***
「ああ、すみません。態々お茶まで出していただいて」
「お礼は良いからとりあえず休みなさいな。そんな体力ないんだったら、車なり馬車なり出してもらえば良かったのに」
阿庭は博麗神社に来ていた。自分の代の幻想郷縁起編纂。第一弾として博麗の巫女へと話を聞きに来たのである。
「出してもらえるところまで送ってもらってこれなんですよ。あぜ道みたいな小型車すら通れないような道を十五分くらい歩いてそこから長い階段を登って。苦行か何かですか」
意気揚々と出発したは良いものの、その旅路は阿庭にとっては決して平穏なものではなかった。一息ついてなお、彼女は肩を激しく上下させ、冷茶に対して途切れ途切れに息を吹きかけている。
「それを体力がないっていうのよ」
「神社が幻想郷の東端にあるというのも良くないのですよ。やむを得ないとはいえ。もう少し真ん中に建っていてくれたら苦労しなかったのに。貴方も不便だと思いませんか?」
「そうかしら?」
巫女はそんなこと考えてもみなかったと言いたげにキョトンとしていた。
自分の体力の問題を抜きにしても、客観的に見て博麗神社の立地は悪い。阿庭はそう思う。
大昔、幻想郷が外界から結界により半ば隔絶されて数百年程度経過するまでの時代に遺された記録では、幻想郷は「狭い」という認識が主流だった。しかし、その時代においてすら博麗神社の立地が悪いという不満がしばしば記述されてきた。
千年の時を経て、幻想郷は巨大化した。人里一つとっても、大はビルが立ち並ぶコンクリートジャングル、小は幻想郷成立当時から変わらぬ未舗装の道路と長屋で構成された時代街に至るまで、あらゆる建築様式の街区が組み合わさった小国家の域に達した。それ程までに人々の認識が多様化したということでもあり、また、余りにも多くのことが忘れ去られたということでもある。
結果、結界の最縁部に位置する博麗神社は相対的により外側へと追いやられた。だが、それにも関わらず立地に対する不満の声は減少した。実際の運営という面においても、紛争解決の負担を一個人に押し付けているという構造が明らかに不健全であるように見えて、博麗の巫女を必要とする異変が急増するということもなく、システムは変わらず維持されていた。
「『平穏』が幻想入りした」と冗談交じりに言われることもあった。その真偽は兎も角として、幻想郷は確かにそれなりの平和を謳歌し続けていた。
「最近起きた異変について話を聞かせてください」
「そうねえ。今年の春に幻想郷中に花が咲き乱れて……って、これは異変ではなかったわね」
「そうですね。六十年に一度、そういうことが起こるそうです。もっとも花とは死者の魂が宿った姿なので、外の世界では戦争のような、多くの人が亡くなる禍があったのかもしれませんが」
だから、事件を追おうとしてもこうした世間話めいた盛り上がりにしかならない。自分は良いが、天狗なんかは商売上がったりなのではなかろうか。
「閻魔もそんなこと言っていたわね。誰も彼も、知っていながら事前に教えるということをしてくれないんだから困っちゃうわ」
「閻魔様ですか。御阿礼の子として、一度お会いしたいものですね」
「私はもうお腹いっぱいよ。説教臭さに足が生えているみたいな奴だったわ。そもそもあんたが教えてくれていたらあいつに会わなくて済んだのに」
「今年の春だとまだ知らなかった頃なので、私は無罪ですよ」
「あっそう」
巫女は今となってはどうでも良いやと言いたげに素っ気ない返しをして、机の上の煎餅に手を伸ばした。彼女にとっては、過去の異変よりも今目の前にあるおやつの方が重要らしい。
「他に異変みたいなことって起きていませんか?」
「ないわよ。そもそも異変になるくらい大きな出来事だったらあんたも覚えているでしょう?」
「それもそうですね。じゃあ巫女の勘で気になる出来事とか」
「街角の世論調査めいてきたわね。多分あんた、歴史家より記者の方が才能あるわよ」
「残念ながら私は自分の好きで職業を決めれる身分ではないので」
阿庭はこれは失言だったと思った。自分の話相手である博麗の巫女もまた、好きでやっている職業ではないのだろうだから。
しかし巫女は特に気にもしていないようだった。阿庭は巫女の暢気さに感謝した。
「それらしいことと言えば、終末論の噂が流行っていることね。異変って程じゃないでしょうけど」
確かにそれだけでは異変とは言い難い。終末論というのはことあるごとに、場合によっては世界が滅ぶ予兆などないときにすら流行る。余りにも頻繁に流行るのか幻想郷縁起に終末論が流行ったということが事件として記述されることはないが、歴代御阿礼の子が個人的に遺した日記には書いてあることがある。御阿礼の子も人の子、終末論を面白おかしく噂したいこともあったのだろう。
「他愛のない噂ですね」
「そうね。ただ個人的に引っかかることがあって」
「というと?」
「終末論とは別に、『麒麟を見た』という噂があちこちで上がっているのよ」
「麒麟ですか。幻想郷は広いですし、外の世界で忘れ去られたものが流れ着くのですから、そうした幻獣の一匹くらい普通にいるのでは?」
「あんたくらい歴史に詳しいなら知ってるでしょうけど、これまで幻想郷ですら麒麟の目撃事例は無かったのよ。それに、『麒麟を見た』とみんな言っているけど、目撃者が語る姿形の説明は尽くバラバラなの」
「群盲が象を撫でるが如く、特徴の一部分しか言わないからそうなるのでは?」
「目撃者の証言が全部正しいのなら、角がある牛みたいな動物で、たてがみがある馬みたいな動物で、鼻が短い豚みたいな動物で、牙が生えた犬みたいな動物ということになるわね。牛、馬、豚、犬全部に似ている動物ってなんでしょうね」
「なんでしょうねって。そんな他人事で良いんですか?」
「だって私はまだ見てないから本当に他人事だし。引っかかる気がするってだけで異変でもなんでもないんだから、私の出る幕じゃないわよ」
博麗の巫女とは代々こんなものなのかもしれないが、この暢気さが幻想郷の平穏を生み出しているのかもしれない。ただ阿庭には噂もまた記録すべき歴史に思えたので、縁起の編纂ついでに調査をすることにした。
***
命蓮寺。幻想郷においてはかなりの歴史を持つ、由緒正しいお寺である。阿庭は縁起の編纂の為と、昨今の噂について思うところがあるという理由からここを訪れることにした。
この寺はかつては人里の外れに位置していたらしいが、人里が拡大するにつれて飲み込まれてゆき、今では街中の寺という装いになっている。信者の大半が人外の妖怪寺でありながら、人里の中にあることを許されているのである。長い年月をかけて人妖の関係が変化してきたことの象徴と言えるのかもしれない。
そんな崇高な考えは抜きにしても、この立地の良さは阿庭にとっては非常に有り難かった。博麗神社もこのくらい家に近かったら楽なのにと思いながら門をくぐった。
「ようこそ。お待ちしておりました」
来て早々に挨拶をされた。声だけを聞いて、ここの住職かと思ったが、相応の立場にいるにしては、発音や話し方に、敬語を使い慣れていないかのようなぎこちなさがある。誰だ? と思いつつ、阿庭は声の方向を向いた。
鉤爪のような羽に蛇が巻き付いた三叉槍。正体を隠さずに縁起で描かれていた姿そのままなのは、彼女なりの配慮なのだろうか。声の主は封獣ぬえだった。
確かに阿庭はぬえと話がしたいという言い方でアポをとっていたので彼女が寺にいる事自体はむしろ当然である。ただ相当ひねくれた性格という評判でもあったので、普通に出迎えに来るとは予想していなかった。
むしろ、それこそが驚かせるための彼女の策略だったのだろうか。ぬえは面食らっている阿庭を楽しそうに見つめて、「立ち話もなんですし、客殿の方に」と案内した。
客殿に着いても二人きりだった。お茶出しすらぬえ自身がしている。存外に手際は良かったのだが、どうにも彼女は信用ならないところがある。ぬえには申し訳ないが、阿庭はお茶には口をつけないことにした。どこかの神社のように、来るだけで脱水しかけるような道のりではなかったのが救いだった。
「住職さんはおられないのですか?」
「急に法事が入りまして他の方は全員出かけているのです。貴方との用事もあったので、私が留守を預かっています」
「そんなに畏まらなくても良いですよ。普段通りの口調で結構です」
ぬえは丁寧語で話すことにあまり慣れていないようだった。聞く機会はそれなりにあるからなのか一応話せてはいるのだがやはりぎこちない。聞いてて不憫に思えるし、ある種の気持ち悪さのようなものも感じてしまう。
「それじゃあ遠慮なく。それにしてもさ、度胸あるよね。こんな妖怪しかいない所に一人で来るなんて」
ぬえは嘲笑した。素直に感心している面もなくはないのだろうが、そちらの感情はせいぜい二割といったところだろう。
「勇気と無謀との違いは理解しているつもりですよ。寺の教義として不殺がある以上、貴方もそう易々と私に手出しすることはできないはずです」
「そうね。確かに『寺では』不殺だわ。でも『うっかり』寺の外に出てしまうことがあるかもしれない」
ぬえは立ち上がった。
「まだ帰るつもりはありませんが」
「存外に鈍いわね。そもそも『不慮の事故でここに来ることができなかった』ことにしてもよいのよ。それが嘘かどうか断定できる第三者はここにはいない」
まだ昼過ぎというのに、客殿は暗闇に包まれた。ツグミが鳴くような声が響き、赤紫色の光弾が回っているのが見える。
あれはわざと外すように撃っている。阿庭はそう思った。自分の動体視力は信用ならないが、ぬえに殺意はないという感情分析は信用してもよいだろう。
それしてもここには思考のとっかかりになる事象がちゃんとある。なんと居心地の良いことか。全く怖くないというのは言い過ぎだが、それでも阿庭は割に落ち着いて座っていた。
阿庭の落ち着きに興ざめしたのか、ぬえは攻撃を止めた。
「妖怪を怖がらないとは……」
「正しく恐れることが重要なのです。実は少し前にもっとえげつないことをされまして」
「人のこと言えないけどあんたにそんなことする奴……。あー、あんたも苦労してるのねえ」
ぬえは察して同情の目を阿庭に向けた。あの賢者の困ったちゃんぶりは幻想郷中で有名らしい。
「それに、あくまで妖怪の本質とは人間を恐怖させることで殺害はその一手段でしかない。鵺という妖怪が直接的な暴力ではなく恐怖そのものを武器にしているということは予め勉強しています。まして貴方は一応仏門に入っているのですから」
「はー。人間ってのは知恵を巡らせて対策をたててくるんだから質が悪いわ。確かに端
からあんたを殺すつもりはなかったよ。聖にも悪いし」
ぬえは本殿の方を見て、少し寂しそうな顔をした。
「折角来たんだし、ついでに聖に挨拶していく?」
「ついでだなんてそんな。それも重要な目的でしたよ」
それは本心からの発言だった。聖白蓮。死を恐れ、魔術を用いた肉体強化により永遠に近い生を得ていた僧侶。だが、前代の御阿礼の子は、彼女が自己を延命させていることに悩みを抱いていることを記録していた。そして、御阿礼の子が空白となった百五十年の間に、彼女は死を受け入れ、静かにこの世を去っていた。阿庭は本殿に、墓前に手を合わせる形でしか、聖に会う手段がない。
***
「彼女はどんな気持ちで死を迎えたのでしょうね」
阿庭は線香に火をつけながら呟いた。
「安らかな死に際だったらしいわよ。私は不真面目にも寺にあまり行っていなかったから伝聞の形でしか知らないけど」
「羨ましいですね。私は死ぬことが怖いですよ」
阿庭の発言に、ぬえは少し驚いたような顔をした。
「意外ね。あんたは大概動じない方だと思ったけど」
「慣れの問題ですよ。死に慣れることなんて、蓬莱人か妖精でもなければありませんから」
「そういうものなのかね。ま、死が怖いというのは若いことの証拠よ。聖だってお婆ちゃんになったから死を怖がらなくなったんだし」
彼女の場合は死の恐怖を克服したから老化するようになったのであり、因果関係が逆ではないかと阿庭は思ったが、ぬえの発言自体は彼女なりの気遣いと素直に受け入れることにした。
「話は変わるのですが、ここに来たもう一つの理由は貴方にお尋ねしたいことがあるからなのです」
「確かにそう聞いていたわね」
「麒麟の噂はご存知ないですか?」
ぬえはああそれならと肯定した。
「こんなところだし、『麒麟を見たのだけれどどうすれば良いのか』という相談は結構来るのよ」
「貴方はあくまで相談を受ける側と」
ぬえはケタケタと笑った。曰く、修行僧として相談に答えることができるほどには徳を積んではいないと。そんな不真面目自慢はどうでも良いのだと阿庭は心の中で思った。
「単刀直入に申し上げると、私は麒麟の正体は貴方なのではないかと疑っているのです」
「まあ、そう思うよねえ」
「麒麟の、姿すら定まらぬ様は実に『ぬえ』的です」
ぬえは自身の姿を変えた。牛のような馬のような、豚や犬の要素も孕
む奇妙な獣。伝聞された麒麟の特徴をつなぎ合わせているが、阿庭にはその動物が麒麟だとは到底思えなかった。
「推理が当たっていたらあんたにとっては楽だったんでしょうけれど、残念ながら違うわ。私はあくまで目撃情報を聞いたことがあるだけの部外者よ」
ぬえは巨大な角笛でも鳴らしているのかというような、くぐもった声で答えた。阿庭は麒麟の声を知らない。今自分の眼前にいるような得体のしれない生物ならきっとこういう声で鳴くのだろうが、やはりそれは麒麟の声ではないのだろうと思った。
「確かに貴方が麒麟で、麒麟のことを知っているのならば、もう少し納得のいく姿に化けるでしょうね」
「私は化けていないよ。正体不明に変じて、あんたがそれを勝手に『麒麟のような何か』と思い込んでいるだけ」
阿庭は一本取られたと思った。本気で死の恐怖を与えてくることはしないだけ昔よりは丸くなったのだろうが、人を惑わせるその才能は紛れもなく大妖のそれだ。
前途多難だ。自分は麒麟の正体について確固たる認識を抱くに至っていない。こんなことで真相に辿り着くことができるのだろうか。阿庭は溜め息をついた。
「お困りのようね」
「ええ。困りついでに正体不明の第一人者たる貴方に助言を請いたいのですが、麒麟の正体とはなんだと思いますか」
「正体不明の存在の正体を探る。これほどまでに愚かしいことも早々ないわね」
ぬえは嘲笑した。
「それはそうなのでしょうが」
「ま、なんとなくだけど、麒麟は正体不明になろうとしてそうなっているんじゃないとは思うわ。むしろ本人は正体に気がついて欲しいけれど、見る人が勝手なイメージを押し付けているといったところかしらね」
「その心は」
「私を差し置いて正体不明を名乗るなんて許せないわね」
声は笑っていたが、その目は彼女にしては珍しく嘘偽りを全く含まない真っ直ぐなものだった。恐らく今、幻想郷の誰よりも麒麟の正体を知りたがっているのは彼女なのではなかろうか。
***
「6月7日。未だに終末論の噂は囁かれ続けている。困ったことに、『まもなく世界が滅亡する』というあやふやな設定でしか伝達されておらず、そのまもなくがいつ訪れるのか、とんと見当もつかない」
阿庭は日記をつけていた。終末論に言及しているが、これは現在進行形で起こっている事件を備忘録的に記録するために必要な処置であって、断じて聞きかじった話を広めたい野次馬根性からではない。彼女は自分にそう言い聞かせながらタイプを続けた。
「他、麒麟の噂についても追っているが、こちらも雲をつかむかのようで全く進捗を得られていない。ただですら終末論の噂を追うのに忙しいのに、別の噂話が流行るというのは勘弁して欲しい」
「ま、多分その二つは繋がっているのでしょうけどね」
自分が打ったのではない文字列が突然画面に出現したことに、阿庭は困惑した。しかし、キーボードの上で自分のものではない腕が二本触れて、それを辿ると腕は空間の切れ目から生えていた。犯人が判明したことで、困惑は呆れへと変わった。
「また貴方ですか……」
裂け目が阿庭の背中側に後退し、紫が全身を現した。
「気が付いてもらえなければ、気の利いた助言も空虚な独り言でしかないのよ」
「気が付いてもらうにしても、普通は玄関のインターホンを鳴らすくらいの穏当さに留めるものですよ。貴方がやっていることは窓ガラスを壊して新聞を投げ入れるみたいなものです」
「怖かったのかしら?」
「迷惑だ、と言っているのです」
阿庭は苛立っていた。紫の迷惑さにというのが一番大きな原因だが、もう一つ、実際紫は重要な情報を持っていて助言に価値はあるのだろうと容易に予想できることもストレスとなっていた。望む望まざるに関わらず、紫と会話を続けるという選択肢しかないのだ。
「はー。気が乗らないですが、終末論の噂と麒麟の噂とが繋がっているということについて、ご教授願いましょうか」
「賢明ね。結論から言えば、麒麟の噂も一種の終末論よ」
「何を言っているのですか。麒麟は瑞獣でしょう」
阿庭は外の世界の歴史や古典にもそれなりに詳しい。噂の麒麟が外の世界で語られるそれと同一かは怪しいが、同じ名前を持つ以上幻想郷の麒麟も縁起が良いものと考えていた。
「中国に、麒麟が瑞獣ではなかった故事が一つある。『春秋』の最後に登場した麒麟よ」
紫は、その故事を諳んじた。
西のかた大野に狩りす。叔孫氏の車子鉏商
麟を獲たり。以て不祥と為して以て虞人に賜う。仲尼これを観て曰く「麟なり」と。しかる後、これを取れり。
(春秋左氏伝)
「麒麟は確かに瑞獣かもしれないが、吉報を伝えるに値する君子がいて初めて現れる。しかし、孔子が春秋を記した時代は戦国時代。儒教が説くような仁徳の王などいない。それなのに麒麟は現れた。現れるべきでないときに現れたの。孔子にとっては想定外の大事件だったのね。彼は大きくショックを受けた。自分がしてきたことの正しさすら疑うほどに」
「獲麟」とは、物事の終わりを意味する単語でもある。それは、この故事を最後に孔子は筆を折り、歴史書『春秋』が完結したからなのだと紫は続けた。
「つまり、貴方は麒麟は終末の象徴だと、そう考えているのですか?」
「単なる偶然にしてはできすぎているからね。ま、ヒントは与えたのだから、後は自分で考えてご覧なさいな」
「私はあくまで偶然だと思いますが。確かに必然性を疑いたくなるが、現状『麒麟が現れたから世界が滅ぶ』などのような直接の関係を示唆する噂は立っていません。一旦無関係のものと仮定するのが筋なはずです」
阿庭は紫を疑っていた。自分でも疑り深い性格だとは思っていたし、紫が全くもって信用に値する奴かと問われれば、その答えは否である。しかし、そうした漠然とした疑念とは別に、紫は何かを隠しているのではないかという、具体的な予感があった。
恐らく彼女は麒麟が終末の象徴だと信じるに値する、明確な証拠を知っている。
「『偶然にしてはできすぎている』以外の理由があるのではないですか」
「それを貴方に教える義務はないわ」
紫はいつもの煙に巻くような言い方ではなく、非常に事務的な口調で答えた。これでは理由があることを暗に教えているようなものではないかと阿庭は思った。しかしその一方で、この話し方を使い始めた者から情報を引き出すことは困難を極めるということもまた、阿庭は知っていた。
「貴方は私の代が、節目に相応しい代になると言っていた。このような状況になることを予見していたのではないですか?」
「それは時系列を取り違えているわ。終末論も麒麟の噂も、貴方が誕生したときには既に起こっていたことよ。私は予見していたのではなく、あるがままの事実から感想を述べただけ」
「麒麟は兎も角として、終末論など幾度となく話の種に登るものです。もし噂ならば、特別な異変でもなんでもない、ただの日常です。紫さん、終末とは、ただの噂なのですか? 幻想郷はどうなるのですか?」
「言ったでしょう? それを貴方に教える義務はない」
紫は吐き捨てるように告げて空間の裂け目の向こう側に消えた。阿庭は呆然と裂け目が閉じるのを眺めていたが、ふと我に返ってパソコンの画面の方を向きなおした。紫が書いたと思しき文がさらに挿入されている。
「一つ助言をしておくわ。麒麟が捕獲されることなどないとは思わないことね。なぜならこれは異変で、異変というのは必ず解決されるものなのだから」
結局、何故紫がそう思っているのかは分からぬままだが、理由は何にせよ紫は獲麟はなされる、つまり世界は終わると確信しているということは分かった。
阿庭は紫が何だか可哀そうに思えてきた。
自分だけ世界の終わりを知っているとして、その理由を他人に伝えるかどうか。自分なら伝えないだろうと阿庭は思った。大混乱のもとになりかねない。まして紫は幻想郷の賢者という立場なのだから、なおさら自分の行動が幻想郷にもたらす影響の大きさは慮るだろう。多分賢者の間で終末に関する情報は共有されていている上で、緘口令が敷かれているのではないだろうか。
理由を探ろうとしたときに、紫は酷く不機嫌になり、そしてそのまま帰ってしまった。会話をしているときは自分が余りにも図々しく聞くものだから嫌気がさしたのかと阿庭は思ったが、紫という妖怪に対する知識とこれまでの印象から改めて考えた結果、そうではなかったのだと思い直した。紫は基本的には相当な教えたがりなのだ。相手が知りたくもないようなことまでグイグイと言ってくる。いつもの彼女なら自分の推理に対して、喜んで答えを提供してくれただろう。それをしてくれなかったのは口封じがされていたからで、言いたくても言えないもどかしさに苛立って耐えられなくなった。そう考えた方が筋が通る。だからわざと理由があることまでは容易に察せられるような言い回しをしたり、口を破らない範囲での置き書きを残したりしたのだ。
縛られている。阿庭は紫に対してそういう印象を持った。なまじ立場と能力があるから色々なことを知れてしまう。知りたくないことも知らなければならないし、知った情報を自分の好きなようにすることもできない。能力は兎も角として、性格という面から判定したときに賢者という役職は彼女にとっては相当不向きなのではなかろうか。彼女は不確定な未来に思いをはせることも殆ど許されていない。自分だけが知っている情報を元手に世の中をかき乱すことも賢者という範囲内でしか許されていない。いつも胡散臭く困った妖怪を演じているのは八割方本人の性格なのだろうが、窮屈さに対する足掻きという側面も少しだけあるのだろうかと阿庭は思い始めた。
しかし、御阿礼の子たる自分にそんなことを思われるのは紫としては大層心外だろうな、と阿庭は自嘲した。自分だって好きで御阿礼の子になったわけではない。それを仕方がないことと割り切るにしても、自分が御阿礼の子という立場の中で、どれだけ自由を得ているのか怪しいものである。少なくとも幻想郷縁起の執筆を始め、終末論の噂を追い始めて以来、休みらしい休みすらとっていなかった。試しに明日は執筆をしない日にするか。そう呟いて、阿庭は布団を敷いた。
布団の中で、紫や自分の境遇は脇に置いておいて、会話で得た情報の意味そのものを改めて反芻する。その過程で、阿庭は会話中紫に抱いていた疑問が逆転したことに気が付いた。
会話中、阿庭は紫がなぜ世界の終わりを確信しているのかという理由を「教えないのか」が疑問だった。しかし、紫の立場を考えれば知っていても教えないのは当然のことだった。ならば、あの時抱くべきだった違和感は、どうして紫は世界の終わりを確信しているというところまでを「教えたのか」であるべきだった。社会を混乱させたくないのならば、世界の終わり自体を否定してしまうのが一番だ。半端に情報を提示した理由……。
「なぜならこれは異変で、異変というのは必ず解決されるものなのだから」
阿庭は布団を跳ね上げた。紫が最後に残した文の一節が画面を飛び出して自分の方に迫ってくるように思えた。
あの文章は彼女が世界の終わりを確信していることの補強だけではなかった。文字通りの意味で麒麟の噂は他愛のない流行なのではなく、異変なのだと宣言している。その結果何が起こるか。
噂ならば態々記録に残したかどうかは疑問だ。これまでの御阿礼の子がそうしたように、自分が数刻前にそうしたように日記につけるくらいはするかもしれないが、それはあくまで趣味の範疇に過ぎない。しかし、これが異変となれば歴史記録の一つとして残さなければならない。御阿礼の子の使命として。
紫は自分を道連れにしたのだということに阿庭は気が付いた。世界の終末を知る賢者の側に稗田阿庭という人物を引き入れた。
「今回は節目に相応しい代になりそうなのだから、ゆっくりと今生を楽しんでは?」
確かに節目に相応しい。歴史の最終章なんて、これ以上のものはないだろう。しかし、「ゆっくりと今生を楽し」むなど、皮肉もいいところではないかと阿庭は憤慨した。自分は寿命が三十年だろうと人並だろうと歴史の長さの前には等しく須臾だと反論したが、現実には残りの歴史の短さの前には等しく永遠だ、というのが正しい反論だった。三十年だろうが何年だろうが、この世界には過ぎた長さだったのだと今になって理解した。酸素が欠けた部屋で蝋燭を灯そうとするようなものだ。蝋燭としての寿命がどれほど長くても、最後の蝋を燃やす前に部屋の酸素が尽きるのならば蝋燭の長さに意味はない。
蠟燭の火が消えたとき、その先には何が残るのだろうか。紫に隙間の向こう側に落とされたときに体験したような虚無なのだろうか。阿庭は改めて身震いした。何となく素直に目を閉じて夢の世界に行ったらそのまま世界が虚無に包まれてしまいそうで、その日は殆ど眠ることができなかった。
***
寝ようが寝まいが朝は等しくやってくる。阿庭は眠い頭を顔を洗うことでどうにか覚醒させ、朝食を摂って自室に戻った。
今日は休みにするつもりだったのだが、急に休みを決めたこともあり、やることが思いつかない。阿庭は何か閃かないかと部屋を見回した。
そこに、パソコンの側に、彼女はいた。女中が掃除にでも入ったのかと一瞬思ったが、女中にしては若すぎる。そして、普通の少女にしては不釣り合いな角とたてがみが、彼女が人間ではないということを示していた。
麒麟だ、と阿庭は思った。どの目撃証言とも特徴は一致しない。角は生えているが牛の形かと言われると違うし、たてがみはあるが、馬のそれよりももっとモコモコとしている。鼻は人のそれだし、牙が口から覗いているということもない。牛とも馬とも豚とも犬とも似ていない。そもそも動物ですらなく少女なのだが、それでも彼女こそが麒麟なのだと確信していた。
「麒麟、ですよね」
「……ええ」
「いつからこの部屋に、そしてなぜこの部屋にいるのですか?」
「それは……」
麒麟の少女が発する声は震え、かすれていた。普通の声は出せないのかと阿庭は疑問に思ったが、すぐに疑問の答えが示された。
彼女は血の塊を吐き出した。麒麟はパソコンの方を向いていたが、そのキーボードが血で赤く染まる。
「血が」
「麒麟とは然るべきときに、然るべき者のもとに出現します。今が然るべきときであり、皆さんが然るべき者であるのでこうして姿を見せているのです」
麒麟は阿庭の懸念に被せるように答えた。その間にも喀血は続く。麒麟は阿庭と話しながら打鍵しているが、手の震えに加えて落ちる血が盤を乱雑に叩くせいでまるで意味のある文字列を作るに至っていない。
「然るべき者が『皆さん』、私に限らないということは、それこそ幻想郷中に姿を見せたのですか」
「御名答。流石、察しが良いですね。貴方は一等相応しい方のようだ。最後に選んだ甲斐があるというものです」
この麒麟である少女、物腰こそ柔らかだが、その微妙にぼかした話し方がどことなく八雲紫に似ている。阿庭はそう思った。
阿庭は麒麟の肩越しにパソコンの画面を見た。麒麟はメールソフトを開き、送信先のアドレスを打ち終えて件名を打ち始めているところだった。アドレスは阿庭が知らぬものだったが、ローマ字読みすることで紫のアドレスであるということは容易に予想がついた。阿庭は麒麟とは紫ではないかと疑い始めていたのだが、今麒麟が必死に意思疎通を試みている先がその紫であるらしいという事実から、同一人物説は否定された。
しかし、ここまで似ているのなら、紫が教えてくれなかった疑問を麒麟は教えてくれるのではなかろうか。
「麒麟の噂が真実だとは分かりました。ところで、巷で流行っている終末論、あれも事実なのでしょうか」
「ああ! 私としたことが重要なことを忘れておりました! そうです、外の世界における最後の人間が危篤となっています。彼女の死をもって歴史は終わるのです」
麒麟は相変わらずケホケホとむせていたが、血は吐かなかった。容態が安定したのか、あるいは最早吐き出すほどの血が残っていないのか。紫との通信も終えていたようで、ぐったりとした顔で伏せた。
「良かった。これで私の使命を果たすことができた……」
麒麟は目を閉じた。使命という言葉と麒麟の血色を喪っているにも関わらず安らかな表情に、阿庭は凍りつくような感情を覚えた。
「使命を果たして、それで貴方はどうなるのですか?」
「『御阿礼の子』である貴方がそれを聞くのですか。愚問ですね。今までの貴方達と同じですよ。もっとも今回が終点になるでしょうが」
麒麟は一貫して無抵抗だ。体力が残っていないというのもあるだろうが、それ以前に心がもう好きにしてくれという感じなのだ。捕まえればそれで歴史は終わる。
阿庭は正直なところ一瞬躊躇した。歴史が終わったらあの何もない世界に自分は囚われてしまうのだろうか。閻魔も彼岸もない死後の世界というのが自分の予想通りなのかどうかは分からないが、少なくとも紫が見せたあれより良い世界とは思えなかった。阿庭は恐怖しており、それは正常な反応だった。
「……助けて! 病人が!」
それでも阿庭は大きく息を吸い、叫んだ。目の前で人が、少女が一人倒れている。世界や歴史の終わりという壮大過ぎて凡人の理解が及ばない話よりも、目の前の人の生き死にの方が阿庭にとってはよっぽど優先されるべき事件だった。それは単なる虚栄に過ぎないのかもしれないが。
使用人達の慌てた足音に囲まれながら、二人は話す。
「無駄な努力ですよ。歴史は終わるのですから。それに、私はもう悔いなど残っていません」
「私が後悔するのですよ。人並みに生きると言われていたのに二十歳を迎える前に世界ごと滅ぶなんて、詐欺もいいところじゃないですか。私は世界が滅びない方に賭けます。どうせ妖怪なのなら私よりは長生きするのでしょう? 私が死ぬまでの少しの間、付き合ってもらいますからね」
「御阿礼の子の使命はどうしたのですか」
「御阿礼の子である以前に、私は一人の人間です。人間には生きたいように生きる権利がある」
「まさか御阿礼の子の口からそのような言葉が聞けるとは。傑作ですね。生きてみるものだ」
そう言って、麒麟は意識を失った。阿庭は慌てたが、幸い弱いながらも呼吸はあるようだった。
阿庭はふとパソコンの画面を見た。メールは送信済みになっており、本文は空欄、件名に「麒麟です」とだけ書かれていた。
***
永遠亭の集中治療室。本来は面会謝絶なのだが、何故か阿庭は立ち入りが許可されていた。当然防護服完全装備という条件付きでだが。
麒麟は一命をとりとめた。なんせ部屋に入ってきた稗田家の使用人達も、永遠亭のイナバ達も尽く麒麟の外観を見誤るので救命もてんやわんやだったのだが、阿庭の「彼女は少女だ」という発言が鶴の一声となって、不思議とそれを境に全員麒麟を正しく認識することになった。
「なんで貴方にだけ、私の姿が正しく見えるのですかね」
麒麟は阿庭に聞いた。だが、その理由どころか、麒麟が少女であるという自分の認識が正しいのかすら未だ阿庭には分かっていない。
「妖怪って、事物の象徴という面があるでしょう? 貴方、麒麟とは、歴史の象徴でもあるの。この子ほど歴史に真摯に向き合ってきた人はいないのだから、そりゃ彼女には正しく認識できるわよ」
紫が会話に割り込んできた。阿庭は「面会謝絶ですよ」と怒ったが、紫は大丈夫よ、と言った。何がどう大丈夫なのか阿庭にはさっぱり分からなかったが、何故かその言葉には妙な説得力があり、阿庭は紫用の椅子を取り出した。
「分かるような分からないような、ですね。それはそれとして紫さん、世界、滅びませんでしたね」
麒麟は残念そうな顔で呟いた。もっともその残念さに、阿庭と即興で交わした賭けに負けたから以上の理由はないだろうが。
「外の世界最後の人間は亡くなったわ。これ以上外の世界で何かが忘れられるということがなくなるから、このままにしていれば刺激を失った幻想郷は緩やかに衰退していくでしょうね」
「どうせこのままにはしないのでしょう?」
「阿庭、よく分かっているじゃない。結界の内側にいる意味も最早ないから、明日にでも結界をいじって新生地球社会の再始動といくわよ。このままなんて退屈だもの」
「外の世界にいくらか派遣するやり方でも良かったのでは?」
「核戦争後の世界に住みたいのかしら? あれはあと五百年は閉じ込めておかないと駄目ね。これからは平穏が現実で争乱が幻想の世界よ」
「ああそれで今年の花の異変が」
阿庭は自分の世界が滅ばなかったことは素直に喜んだが、外の世界の結末に少しやるせない気持ちになった。
「この子はこれからどうするのかしら」
紫は麒麟の今後の処遇を聞いた。元々歴史の転換点を伝えては消える存在だったのを無理やり捻じ曲げたので、彼女の居場所がない。阿庭は自分の行動に一切後悔はしていないが、彼女の将来を考える責任はあると感じていた。
「稗田家で食客として居てもらおうと思っています。歴史の家庭教師くらいにはなるでしよう」
「くらい、とは失礼ですね。歴史といえば、貴方の将来も安泰ではないのですよ。幻想郷の仕組みが変わった以上、妖怪が新しく現れるということも暫くはないでしょう。世界は終わりませんでしたが、歴史の方はある意味終わったのです。御阿礼の子も貴方が生きているうちに廃止になるかも」
「私は私で好きに生きますよ。記者にでもなってみますかね。少し前に、記者に向いていると言われたのですよ」
阿庭は自慢気に言った。が、当の麒麟は自分で聞いておきながら、阿庭の答えの内容にはさほど興味がないようだった。
「そうですか。それと阿庭」
「なんですか」
「林檎の皮を剥いてくれませんか?」
麒麟は稗田家から差し入れされていた果物の籠を指さした。
「まだ絶食中でしょうに」
阿庭は呆れた。
は、自分の書斎で書き物をしていた。他に誰もいない部屋に、キーボードを叩く音だけが鳴っている。
「夜も遅いというのに、精が出るわね」
阿庭はぎょっとして後ろを向いた。この書斎には自分以外だれもいないはずだ。阿庭自身が集中したいので極力部屋に入らないでくれと、使用人にも伝えている。
誰もいないはずの部屋にいたのは一人の金髪の少女だった。紫色のドレスを羽織り、白い長手袋と靴下を履いている。
「貴方は誰ですか?」
阿庭は警戒して、やや怒気を込めた口調で尋ねた。実のところ、彼女の正体は予想がつく。八雲紫。大妖怪にして幻想郷の賢者の一人。過去の縁起に絵や写真として記録された姿とも一致するし、その神出鬼没さはまさしくスキマ妖怪のそれである。しかし、人間だろうが妖怪だろうが、勝手に部屋に入ってくる見知らぬ人に友好的に接する義理はない。
「私は八雲紫。幻想郷の賢者ですわ。お久しぶり」
はじめましてではないのかと、阿庭は記憶を辿った。確かに言われてみれば、自分が三歳のときの御阿礼の子生誕の儀に紫も――そのときはドレスではなくて道士服を着ていたが――参列していた。しかしそんな、それこそ自分が御阿礼の子でなかったら絶対に覚えていない程度の繋がりで知り合いを気取るのは図々し過ぎではなかろうか。一言の挨拶すらあのときは交わさなかったのだ。
「文字通りの意味で顔を合わせたことはあれど、お久しぶりなどと馴れ馴れしくする関係ではないはずですが」
「つれないわね。今後私とそういう関係になりたいとは思わないのかしら」
「仲良くなりたいと思うのだったら、玄関からきちんと手順を踏んで私の部屋に入る程度の礼節は持つべきです。貴方程の人ならそのくらいできるでしょう。仮にも幻想郷の賢者ならば」
「はいはい」
紫は阿庭の忠告を聞き流しながら戸棚を漁っていた。そして急須と湯呑みを見つけるとポットで急須にお湯を注ぎ始めた。
「なにくつろごうとしてるんですか」
「いい茶葉が手に入ったのよ。貴方の在庫に手は出さないから心配する必要はないわ。余りはおすそ分けするわね」
「そうじゃなくて、今の話を聞いたら、今回は出直してもっと常識的な時間にもっと常識的な手順で来ようとなりません? 普通」
「嫌よ。私は今貴方に用があって来たんだから」
紫はズズズという音を静かに立てながら淹れた緑茶をすすっていた。本当に急ぎの用事なのか疑わしいものだと阿庭は思った。
「はあ。用というのは?」
「現代風に言うなればチュートリアル。貴方の使命の確認と、最初に覚えておくべき知識の伝達よ」
「私の使命とは、幻想郷の歴史を記録することですよね」
「御名答」
「確かに明日から縁起編纂のための調査を始めようと思っていたところでしたが、態々前日に来るということは監視でもしていたんですかね」
紫は生暖かい目を阿庭へと向けていた。
「監視していたんですね。しかし、益々訳が分かりません。なぜ稗田の関係者でもなんでもない貴方がその『ちゅうとりある』とやらを担当しているんですか」
「それはね……」
紫は指を鳴らした。その瞬間に、阿庭の目の前の空間が裂けた。阿庭は裂け目から無数の目がこちらを覗いているのを見て背筋が凍った。金縛りにあったかのように阿庭が硬直していると、裂け目はそれが猛獣の口であるかのように開いて阿庭を飲み込んだ。
裂け目の内側は虚無だった。阿庭は大量の目だけが漂う不気味な世界ではないことに一瞬安堵した。だが、数分も経って何もないということの恐ろしさを理解した。
この空間には色も地面もない。自分がどこを向いているのか、固定されているのか落ち続けているのかすら定かではない。目を閉じたときに見る暗闇ともまた異なる。寝ているときの暗闇には自分の思考が映っているが、ここにはそれすらない。御阿礼の子の記憶力をもってすら、浮かんだ思考は浮かべたそばから溶かされていく。この世界には思考のとっかかりになるものが皆無なのだ。せめて目だけでもあってくれと思うようになっていた。
私は今死んでいる。回らぬ思考の中で、阿庭はぼんやりとそんなことを考えていた。
視線の上の方に、あの裂け目のようなものが見えた気がした。それは音よりも、阿庭の認識よりも遥かに速く向かってくる。この裂け目が吉兆か凶報か判断できる前に、阿庭はもう一度裂け目に飲み込まれた。
そして、阿庭は自室へと戻った。冷や汗で服が体に張り付き、寒さを覚えて震えた。ふと横を向くと、紫が微笑を浮かべている。
「何をするんですか!」
「だからチュートリアルよ。妖怪は人間を恐怖させるもの。それは一番大事な前提なの。貴方が世の中に出る前にこのことは覚えておかないといけないからね」
「そうですか。でも、貴方は非常識で悪意のある妖怪として記録しますからね」
「妖怪は人間から畏れられてこその存在。だからそう記録されるのは構わないのだけれど、毎回誤解された書き方をされるわねえ。こんなにも親切にしているのに」
「私には前代までの記憶は殆どありませんが、ご先祖様のお気持ちは心中お察しします。貴方の親切の仕方には悪意が透けて見えるのですよ。どうせ今も分かってて言ったでしょう?」
「貴方は覚り妖怪か何かかしら」
「私は御阿礼の子ですよ。当然人間です」
阿庭は二度と彼女に会いたくないものだと思ったが、腐れ縁になるというか、今後も度々この賢者と顔を合わせなければならないのだろうという予感があった。だからせめて今日くらいはさっさと別れたい。彼女はパソコンの電源を落として寝る準備を始めた。
「あらあら、そんなに急く必要はないのではなくて?」
「お帰りを。私は忙しいのです。さっきも言いましたが、明日から縁起の編纂のための活動を始めるのですから」
「御阿礼の子が三十年程度しか生きられなかったのも今や昔。医療も発展して人並みに生きることができるようになったのだから、もっとゆっくりと生きればいいじゃないの」
「歴史を記すという使命の前では等しく須臾です」
「そう、そこまで言うなら止めないけど……。折角の節目の代なのだし、今回は節目に相応しい代になりそうなのだから、ゆっくりと今生を楽しんでは?」
「は? それはどういう……」
節目に相応しいとは。その預言が良い意味でなのか悪い意味でなのか。その答えこそ今紫から聞き出したかったが、質問を終える前に、紫はあの裂け目の向こう側へと消えてしまっていた。
「全く、嫌な奴」
阿庭は一人愚痴た。
***
「ああ、すみません。態々お茶まで出していただいて」
「お礼は良いからとりあえず休みなさいな。そんな体力ないんだったら、車なり馬車なり出してもらえば良かったのに」
阿庭は博麗神社に来ていた。自分の代の幻想郷縁起編纂。第一弾として博麗の巫女へと話を聞きに来たのである。
「出してもらえるところまで送ってもらってこれなんですよ。あぜ道みたいな小型車すら通れないような道を十五分くらい歩いてそこから長い階段を登って。苦行か何かですか」
意気揚々と出発したは良いものの、その旅路は阿庭にとっては決して平穏なものではなかった。一息ついてなお、彼女は肩を激しく上下させ、冷茶に対して途切れ途切れに息を吹きかけている。
「それを体力がないっていうのよ」
「神社が幻想郷の東端にあるというのも良くないのですよ。やむを得ないとはいえ。もう少し真ん中に建っていてくれたら苦労しなかったのに。貴方も不便だと思いませんか?」
「そうかしら?」
巫女はそんなこと考えてもみなかったと言いたげにキョトンとしていた。
自分の体力の問題を抜きにしても、客観的に見て博麗神社の立地は悪い。阿庭はそう思う。
大昔、幻想郷が外界から結界により半ば隔絶されて数百年程度経過するまでの時代に遺された記録では、幻想郷は「狭い」という認識が主流だった。しかし、その時代においてすら博麗神社の立地が悪いという不満がしばしば記述されてきた。
千年の時を経て、幻想郷は巨大化した。人里一つとっても、大はビルが立ち並ぶコンクリートジャングル、小は幻想郷成立当時から変わらぬ未舗装の道路と長屋で構成された時代街に至るまで、あらゆる建築様式の街区が組み合わさった小国家の域に達した。それ程までに人々の認識が多様化したということでもあり、また、余りにも多くのことが忘れ去られたということでもある。
結果、結界の最縁部に位置する博麗神社は相対的により外側へと追いやられた。だが、それにも関わらず立地に対する不満の声は減少した。実際の運営という面においても、紛争解決の負担を一個人に押し付けているという構造が明らかに不健全であるように見えて、博麗の巫女を必要とする異変が急増するということもなく、システムは変わらず維持されていた。
「『平穏』が幻想入りした」と冗談交じりに言われることもあった。その真偽は兎も角として、幻想郷は確かにそれなりの平和を謳歌し続けていた。
「最近起きた異変について話を聞かせてください」
「そうねえ。今年の春に幻想郷中に花が咲き乱れて……って、これは異変ではなかったわね」
「そうですね。六十年に一度、そういうことが起こるそうです。もっとも花とは死者の魂が宿った姿なので、外の世界では戦争のような、多くの人が亡くなる禍があったのかもしれませんが」
だから、事件を追おうとしてもこうした世間話めいた盛り上がりにしかならない。自分は良いが、天狗なんかは商売上がったりなのではなかろうか。
「閻魔もそんなこと言っていたわね。誰も彼も、知っていながら事前に教えるということをしてくれないんだから困っちゃうわ」
「閻魔様ですか。御阿礼の子として、一度お会いしたいものですね」
「私はもうお腹いっぱいよ。説教臭さに足が生えているみたいな奴だったわ。そもそもあんたが教えてくれていたらあいつに会わなくて済んだのに」
「今年の春だとまだ知らなかった頃なので、私は無罪ですよ」
「あっそう」
巫女は今となってはどうでも良いやと言いたげに素っ気ない返しをして、机の上の煎餅に手を伸ばした。彼女にとっては、過去の異変よりも今目の前にあるおやつの方が重要らしい。
「他に異変みたいなことって起きていませんか?」
「ないわよ。そもそも異変になるくらい大きな出来事だったらあんたも覚えているでしょう?」
「それもそうですね。じゃあ巫女の勘で気になる出来事とか」
「街角の世論調査めいてきたわね。多分あんた、歴史家より記者の方が才能あるわよ」
「残念ながら私は自分の好きで職業を決めれる身分ではないので」
阿庭はこれは失言だったと思った。自分の話相手である博麗の巫女もまた、好きでやっている職業ではないのだろうだから。
しかし巫女は特に気にもしていないようだった。阿庭は巫女の暢気さに感謝した。
「それらしいことと言えば、終末論の噂が流行っていることね。異変って程じゃないでしょうけど」
確かにそれだけでは異変とは言い難い。終末論というのはことあるごとに、場合によっては世界が滅ぶ予兆などないときにすら流行る。余りにも頻繁に流行るのか幻想郷縁起に終末論が流行ったということが事件として記述されることはないが、歴代御阿礼の子が個人的に遺した日記には書いてあることがある。御阿礼の子も人の子、終末論を面白おかしく噂したいこともあったのだろう。
「他愛のない噂ですね」
「そうね。ただ個人的に引っかかることがあって」
「というと?」
「終末論とは別に、『麒麟を見た』という噂があちこちで上がっているのよ」
「麒麟ですか。幻想郷は広いですし、外の世界で忘れ去られたものが流れ着くのですから、そうした幻獣の一匹くらい普通にいるのでは?」
「あんたくらい歴史に詳しいなら知ってるでしょうけど、これまで幻想郷ですら麒麟の目撃事例は無かったのよ。それに、『麒麟を見た』とみんな言っているけど、目撃者が語る姿形の説明は尽くバラバラなの」
「群盲が象を撫でるが如く、特徴の一部分しか言わないからそうなるのでは?」
「目撃者の証言が全部正しいのなら、角がある牛みたいな動物で、たてがみがある馬みたいな動物で、鼻が短い豚みたいな動物で、牙が生えた犬みたいな動物ということになるわね。牛、馬、豚、犬全部に似ている動物ってなんでしょうね」
「なんでしょうねって。そんな他人事で良いんですか?」
「だって私はまだ見てないから本当に他人事だし。引っかかる気がするってだけで異変でもなんでもないんだから、私の出る幕じゃないわよ」
博麗の巫女とは代々こんなものなのかもしれないが、この暢気さが幻想郷の平穏を生み出しているのかもしれない。ただ阿庭には噂もまた記録すべき歴史に思えたので、縁起の編纂ついでに調査をすることにした。
***
命蓮寺。幻想郷においてはかなりの歴史を持つ、由緒正しいお寺である。阿庭は縁起の編纂の為と、昨今の噂について思うところがあるという理由からここを訪れることにした。
この寺はかつては人里の外れに位置していたらしいが、人里が拡大するにつれて飲み込まれてゆき、今では街中の寺という装いになっている。信者の大半が人外の妖怪寺でありながら、人里の中にあることを許されているのである。長い年月をかけて人妖の関係が変化してきたことの象徴と言えるのかもしれない。
そんな崇高な考えは抜きにしても、この立地の良さは阿庭にとっては非常に有り難かった。博麗神社もこのくらい家に近かったら楽なのにと思いながら門をくぐった。
「ようこそ。お待ちしておりました」
来て早々に挨拶をされた。声だけを聞いて、ここの住職かと思ったが、相応の立場にいるにしては、発音や話し方に、敬語を使い慣れていないかのようなぎこちなさがある。誰だ? と思いつつ、阿庭は声の方向を向いた。
鉤爪のような羽に蛇が巻き付いた三叉槍。正体を隠さずに縁起で描かれていた姿そのままなのは、彼女なりの配慮なのだろうか。声の主は封獣ぬえだった。
確かに阿庭はぬえと話がしたいという言い方でアポをとっていたので彼女が寺にいる事自体はむしろ当然である。ただ相当ひねくれた性格という評判でもあったので、普通に出迎えに来るとは予想していなかった。
むしろ、それこそが驚かせるための彼女の策略だったのだろうか。ぬえは面食らっている阿庭を楽しそうに見つめて、「立ち話もなんですし、客殿の方に」と案内した。
客殿に着いても二人きりだった。お茶出しすらぬえ自身がしている。存外に手際は良かったのだが、どうにも彼女は信用ならないところがある。ぬえには申し訳ないが、阿庭はお茶には口をつけないことにした。どこかの神社のように、来るだけで脱水しかけるような道のりではなかったのが救いだった。
「住職さんはおられないのですか?」
「急に法事が入りまして他の方は全員出かけているのです。貴方との用事もあったので、私が留守を預かっています」
「そんなに畏まらなくても良いですよ。普段通りの口調で結構です」
ぬえは丁寧語で話すことにあまり慣れていないようだった。聞く機会はそれなりにあるからなのか一応話せてはいるのだがやはりぎこちない。聞いてて不憫に思えるし、ある種の気持ち悪さのようなものも感じてしまう。
「それじゃあ遠慮なく。それにしてもさ、度胸あるよね。こんな妖怪しかいない所に一人で来るなんて」
ぬえは嘲笑した。素直に感心している面もなくはないのだろうが、そちらの感情はせいぜい二割といったところだろう。
「勇気と無謀との違いは理解しているつもりですよ。寺の教義として不殺がある以上、貴方もそう易々と私に手出しすることはできないはずです」
「そうね。確かに『寺では』不殺だわ。でも『うっかり』寺の外に出てしまうことがあるかもしれない」
ぬえは立ち上がった。
「まだ帰るつもりはありませんが」
「存外に鈍いわね。そもそも『不慮の事故でここに来ることができなかった』ことにしてもよいのよ。それが嘘かどうか断定できる第三者はここにはいない」
まだ昼過ぎというのに、客殿は暗闇に包まれた。ツグミが鳴くような声が響き、赤紫色の光弾が回っているのが見える。
あれはわざと外すように撃っている。阿庭はそう思った。自分の動体視力は信用ならないが、ぬえに殺意はないという感情分析は信用してもよいだろう。
それしてもここには思考のとっかかりになる事象がちゃんとある。なんと居心地の良いことか。全く怖くないというのは言い過ぎだが、それでも阿庭は割に落ち着いて座っていた。
阿庭の落ち着きに興ざめしたのか、ぬえは攻撃を止めた。
「妖怪を怖がらないとは……」
「正しく恐れることが重要なのです。実は少し前にもっとえげつないことをされまして」
「人のこと言えないけどあんたにそんなことする奴……。あー、あんたも苦労してるのねえ」
ぬえは察して同情の目を阿庭に向けた。あの賢者の困ったちゃんぶりは幻想郷中で有名らしい。
「それに、あくまで妖怪の本質とは人間を恐怖させることで殺害はその一手段でしかない。鵺という妖怪が直接的な暴力ではなく恐怖そのものを武器にしているということは予め勉強しています。まして貴方は一応仏門に入っているのですから」
「はー。人間ってのは知恵を巡らせて対策をたててくるんだから質が悪いわ。確かに端
からあんたを殺すつもりはなかったよ。聖にも悪いし」
ぬえは本殿の方を見て、少し寂しそうな顔をした。
「折角来たんだし、ついでに聖に挨拶していく?」
「ついでだなんてそんな。それも重要な目的でしたよ」
それは本心からの発言だった。聖白蓮。死を恐れ、魔術を用いた肉体強化により永遠に近い生を得ていた僧侶。だが、前代の御阿礼の子は、彼女が自己を延命させていることに悩みを抱いていることを記録していた。そして、御阿礼の子が空白となった百五十年の間に、彼女は死を受け入れ、静かにこの世を去っていた。阿庭は本殿に、墓前に手を合わせる形でしか、聖に会う手段がない。
***
「彼女はどんな気持ちで死を迎えたのでしょうね」
阿庭は線香に火をつけながら呟いた。
「安らかな死に際だったらしいわよ。私は不真面目にも寺にあまり行っていなかったから伝聞の形でしか知らないけど」
「羨ましいですね。私は死ぬことが怖いですよ」
阿庭の発言に、ぬえは少し驚いたような顔をした。
「意外ね。あんたは大概動じない方だと思ったけど」
「慣れの問題ですよ。死に慣れることなんて、蓬莱人か妖精でもなければありませんから」
「そういうものなのかね。ま、死が怖いというのは若いことの証拠よ。聖だってお婆ちゃんになったから死を怖がらなくなったんだし」
彼女の場合は死の恐怖を克服したから老化するようになったのであり、因果関係が逆ではないかと阿庭は思ったが、ぬえの発言自体は彼女なりの気遣いと素直に受け入れることにした。
「話は変わるのですが、ここに来たもう一つの理由は貴方にお尋ねしたいことがあるからなのです」
「確かにそう聞いていたわね」
「麒麟の噂はご存知ないですか?」
ぬえはああそれならと肯定した。
「こんなところだし、『麒麟を見たのだけれどどうすれば良いのか』という相談は結構来るのよ」
「貴方はあくまで相談を受ける側と」
ぬえはケタケタと笑った。曰く、修行僧として相談に答えることができるほどには徳を積んではいないと。そんな不真面目自慢はどうでも良いのだと阿庭は心の中で思った。
「単刀直入に申し上げると、私は麒麟の正体は貴方なのではないかと疑っているのです」
「まあ、そう思うよねえ」
「麒麟の、姿すら定まらぬ様は実に『ぬえ』的です」
ぬえは自身の姿を変えた。牛のような馬のような、豚や犬の要素も孕
む奇妙な獣。伝聞された麒麟の特徴をつなぎ合わせているが、阿庭にはその動物が麒麟だとは到底思えなかった。
「推理が当たっていたらあんたにとっては楽だったんでしょうけれど、残念ながら違うわ。私はあくまで目撃情報を聞いたことがあるだけの部外者よ」
ぬえは巨大な角笛でも鳴らしているのかというような、くぐもった声で答えた。阿庭は麒麟の声を知らない。今自分の眼前にいるような得体のしれない生物ならきっとこういう声で鳴くのだろうが、やはりそれは麒麟の声ではないのだろうと思った。
「確かに貴方が麒麟で、麒麟のことを知っているのならば、もう少し納得のいく姿に化けるでしょうね」
「私は化けていないよ。正体不明に変じて、あんたがそれを勝手に『麒麟のような何か』と思い込んでいるだけ」
阿庭は一本取られたと思った。本気で死の恐怖を与えてくることはしないだけ昔よりは丸くなったのだろうが、人を惑わせるその才能は紛れもなく大妖のそれだ。
前途多難だ。自分は麒麟の正体について確固たる認識を抱くに至っていない。こんなことで真相に辿り着くことができるのだろうか。阿庭は溜め息をついた。
「お困りのようね」
「ええ。困りついでに正体不明の第一人者たる貴方に助言を請いたいのですが、麒麟の正体とはなんだと思いますか」
「正体不明の存在の正体を探る。これほどまでに愚かしいことも早々ないわね」
ぬえは嘲笑した。
「それはそうなのでしょうが」
「ま、なんとなくだけど、麒麟は正体不明になろうとしてそうなっているんじゃないとは思うわ。むしろ本人は正体に気がついて欲しいけれど、見る人が勝手なイメージを押し付けているといったところかしらね」
「その心は」
「私を差し置いて正体不明を名乗るなんて許せないわね」
声は笑っていたが、その目は彼女にしては珍しく嘘偽りを全く含まない真っ直ぐなものだった。恐らく今、幻想郷の誰よりも麒麟の正体を知りたがっているのは彼女なのではなかろうか。
***
「6月7日。未だに終末論の噂は囁かれ続けている。困ったことに、『まもなく世界が滅亡する』というあやふやな設定でしか伝達されておらず、そのまもなくがいつ訪れるのか、とんと見当もつかない」
阿庭は日記をつけていた。終末論に言及しているが、これは現在進行形で起こっている事件を備忘録的に記録するために必要な処置であって、断じて聞きかじった話を広めたい野次馬根性からではない。彼女は自分にそう言い聞かせながらタイプを続けた。
「他、麒麟の噂についても追っているが、こちらも雲をつかむかのようで全く進捗を得られていない。ただですら終末論の噂を追うのに忙しいのに、別の噂話が流行るというのは勘弁して欲しい」
「ま、多分その二つは繋がっているのでしょうけどね」
自分が打ったのではない文字列が突然画面に出現したことに、阿庭は困惑した。しかし、キーボードの上で自分のものではない腕が二本触れて、それを辿ると腕は空間の切れ目から生えていた。犯人が判明したことで、困惑は呆れへと変わった。
「また貴方ですか……」
裂け目が阿庭の背中側に後退し、紫が全身を現した。
「気が付いてもらえなければ、気の利いた助言も空虚な独り言でしかないのよ」
「気が付いてもらうにしても、普通は玄関のインターホンを鳴らすくらいの穏当さに留めるものですよ。貴方がやっていることは窓ガラスを壊して新聞を投げ入れるみたいなものです」
「怖かったのかしら?」
「迷惑だ、と言っているのです」
阿庭は苛立っていた。紫の迷惑さにというのが一番大きな原因だが、もう一つ、実際紫は重要な情報を持っていて助言に価値はあるのだろうと容易に予想できることもストレスとなっていた。望む望まざるに関わらず、紫と会話を続けるという選択肢しかないのだ。
「はー。気が乗らないですが、終末論の噂と麒麟の噂とが繋がっているということについて、ご教授願いましょうか」
「賢明ね。結論から言えば、麒麟の噂も一種の終末論よ」
「何を言っているのですか。麒麟は瑞獣でしょう」
阿庭は外の世界の歴史や古典にもそれなりに詳しい。噂の麒麟が外の世界で語られるそれと同一かは怪しいが、同じ名前を持つ以上幻想郷の麒麟も縁起が良いものと考えていた。
「中国に、麒麟が瑞獣ではなかった故事が一つある。『春秋』の最後に登場した麒麟よ」
紫は、その故事を諳んじた。
西のかた大野に狩りす。叔孫氏の車子鉏商
麟を獲たり。以て不祥と為して以て虞人に賜う。仲尼これを観て曰く「麟なり」と。しかる後、これを取れり。
(春秋左氏伝)
「麒麟は確かに瑞獣かもしれないが、吉報を伝えるに値する君子がいて初めて現れる。しかし、孔子が春秋を記した時代は戦国時代。儒教が説くような仁徳の王などいない。それなのに麒麟は現れた。現れるべきでないときに現れたの。孔子にとっては想定外の大事件だったのね。彼は大きくショックを受けた。自分がしてきたことの正しさすら疑うほどに」
「獲麟」とは、物事の終わりを意味する単語でもある。それは、この故事を最後に孔子は筆を折り、歴史書『春秋』が完結したからなのだと紫は続けた。
「つまり、貴方は麒麟は終末の象徴だと、そう考えているのですか?」
「単なる偶然にしてはできすぎているからね。ま、ヒントは与えたのだから、後は自分で考えてご覧なさいな」
「私はあくまで偶然だと思いますが。確かに必然性を疑いたくなるが、現状『麒麟が現れたから世界が滅ぶ』などのような直接の関係を示唆する噂は立っていません。一旦無関係のものと仮定するのが筋なはずです」
阿庭は紫を疑っていた。自分でも疑り深い性格だとは思っていたし、紫が全くもって信用に値する奴かと問われれば、その答えは否である。しかし、そうした漠然とした疑念とは別に、紫は何かを隠しているのではないかという、具体的な予感があった。
恐らく彼女は麒麟が終末の象徴だと信じるに値する、明確な証拠を知っている。
「『偶然にしてはできすぎている』以外の理由があるのではないですか」
「それを貴方に教える義務はないわ」
紫はいつもの煙に巻くような言い方ではなく、非常に事務的な口調で答えた。これでは理由があることを暗に教えているようなものではないかと阿庭は思った。しかしその一方で、この話し方を使い始めた者から情報を引き出すことは困難を極めるということもまた、阿庭は知っていた。
「貴方は私の代が、節目に相応しい代になると言っていた。このような状況になることを予見していたのではないですか?」
「それは時系列を取り違えているわ。終末論も麒麟の噂も、貴方が誕生したときには既に起こっていたことよ。私は予見していたのではなく、あるがままの事実から感想を述べただけ」
「麒麟は兎も角として、終末論など幾度となく話の種に登るものです。もし噂ならば、特別な異変でもなんでもない、ただの日常です。紫さん、終末とは、ただの噂なのですか? 幻想郷はどうなるのですか?」
「言ったでしょう? それを貴方に教える義務はない」
紫は吐き捨てるように告げて空間の裂け目の向こう側に消えた。阿庭は呆然と裂け目が閉じるのを眺めていたが、ふと我に返ってパソコンの画面の方を向きなおした。紫が書いたと思しき文がさらに挿入されている。
「一つ助言をしておくわ。麒麟が捕獲されることなどないとは思わないことね。なぜならこれは異変で、異変というのは必ず解決されるものなのだから」
結局、何故紫がそう思っているのかは分からぬままだが、理由は何にせよ紫は獲麟はなされる、つまり世界は終わると確信しているということは分かった。
阿庭は紫が何だか可哀そうに思えてきた。
自分だけ世界の終わりを知っているとして、その理由を他人に伝えるかどうか。自分なら伝えないだろうと阿庭は思った。大混乱のもとになりかねない。まして紫は幻想郷の賢者という立場なのだから、なおさら自分の行動が幻想郷にもたらす影響の大きさは慮るだろう。多分賢者の間で終末に関する情報は共有されていている上で、緘口令が敷かれているのではないだろうか。
理由を探ろうとしたときに、紫は酷く不機嫌になり、そしてそのまま帰ってしまった。会話をしているときは自分が余りにも図々しく聞くものだから嫌気がさしたのかと阿庭は思ったが、紫という妖怪に対する知識とこれまでの印象から改めて考えた結果、そうではなかったのだと思い直した。紫は基本的には相当な教えたがりなのだ。相手が知りたくもないようなことまでグイグイと言ってくる。いつもの彼女なら自分の推理に対して、喜んで答えを提供してくれただろう。それをしてくれなかったのは口封じがされていたからで、言いたくても言えないもどかしさに苛立って耐えられなくなった。そう考えた方が筋が通る。だからわざと理由があることまでは容易に察せられるような言い回しをしたり、口を破らない範囲での置き書きを残したりしたのだ。
縛られている。阿庭は紫に対してそういう印象を持った。なまじ立場と能力があるから色々なことを知れてしまう。知りたくないことも知らなければならないし、知った情報を自分の好きなようにすることもできない。能力は兎も角として、性格という面から判定したときに賢者という役職は彼女にとっては相当不向きなのではなかろうか。彼女は不確定な未来に思いをはせることも殆ど許されていない。自分だけが知っている情報を元手に世の中をかき乱すことも賢者という範囲内でしか許されていない。いつも胡散臭く困った妖怪を演じているのは八割方本人の性格なのだろうが、窮屈さに対する足掻きという側面も少しだけあるのだろうかと阿庭は思い始めた。
しかし、御阿礼の子たる自分にそんなことを思われるのは紫としては大層心外だろうな、と阿庭は自嘲した。自分だって好きで御阿礼の子になったわけではない。それを仕方がないことと割り切るにしても、自分が御阿礼の子という立場の中で、どれだけ自由を得ているのか怪しいものである。少なくとも幻想郷縁起の執筆を始め、終末論の噂を追い始めて以来、休みらしい休みすらとっていなかった。試しに明日は執筆をしない日にするか。そう呟いて、阿庭は布団を敷いた。
布団の中で、紫や自分の境遇は脇に置いておいて、会話で得た情報の意味そのものを改めて反芻する。その過程で、阿庭は会話中紫に抱いていた疑問が逆転したことに気が付いた。
会話中、阿庭は紫がなぜ世界の終わりを確信しているのかという理由を「教えないのか」が疑問だった。しかし、紫の立場を考えれば知っていても教えないのは当然のことだった。ならば、あの時抱くべきだった違和感は、どうして紫は世界の終わりを確信しているというところまでを「教えたのか」であるべきだった。社会を混乱させたくないのならば、世界の終わり自体を否定してしまうのが一番だ。半端に情報を提示した理由……。
「なぜならこれは異変で、異変というのは必ず解決されるものなのだから」
阿庭は布団を跳ね上げた。紫が最後に残した文の一節が画面を飛び出して自分の方に迫ってくるように思えた。
あの文章は彼女が世界の終わりを確信していることの補強だけではなかった。文字通りの意味で麒麟の噂は他愛のない流行なのではなく、異変なのだと宣言している。その結果何が起こるか。
噂ならば態々記録に残したかどうかは疑問だ。これまでの御阿礼の子がそうしたように、自分が数刻前にそうしたように日記につけるくらいはするかもしれないが、それはあくまで趣味の範疇に過ぎない。しかし、これが異変となれば歴史記録の一つとして残さなければならない。御阿礼の子の使命として。
紫は自分を道連れにしたのだということに阿庭は気が付いた。世界の終末を知る賢者の側に稗田阿庭という人物を引き入れた。
「今回は節目に相応しい代になりそうなのだから、ゆっくりと今生を楽しんでは?」
確かに節目に相応しい。歴史の最終章なんて、これ以上のものはないだろう。しかし、「ゆっくりと今生を楽し」むなど、皮肉もいいところではないかと阿庭は憤慨した。自分は寿命が三十年だろうと人並だろうと歴史の長さの前には等しく須臾だと反論したが、現実には残りの歴史の短さの前には等しく永遠だ、というのが正しい反論だった。三十年だろうが何年だろうが、この世界には過ぎた長さだったのだと今になって理解した。酸素が欠けた部屋で蝋燭を灯そうとするようなものだ。蝋燭としての寿命がどれほど長くても、最後の蝋を燃やす前に部屋の酸素が尽きるのならば蝋燭の長さに意味はない。
蠟燭の火が消えたとき、その先には何が残るのだろうか。紫に隙間の向こう側に落とされたときに体験したような虚無なのだろうか。阿庭は改めて身震いした。何となく素直に目を閉じて夢の世界に行ったらそのまま世界が虚無に包まれてしまいそうで、その日は殆ど眠ることができなかった。
***
寝ようが寝まいが朝は等しくやってくる。阿庭は眠い頭を顔を洗うことでどうにか覚醒させ、朝食を摂って自室に戻った。
今日は休みにするつもりだったのだが、急に休みを決めたこともあり、やることが思いつかない。阿庭は何か閃かないかと部屋を見回した。
そこに、パソコンの側に、彼女はいた。女中が掃除にでも入ったのかと一瞬思ったが、女中にしては若すぎる。そして、普通の少女にしては不釣り合いな角とたてがみが、彼女が人間ではないということを示していた。
麒麟だ、と阿庭は思った。どの目撃証言とも特徴は一致しない。角は生えているが牛の形かと言われると違うし、たてがみはあるが、馬のそれよりももっとモコモコとしている。鼻は人のそれだし、牙が口から覗いているということもない。牛とも馬とも豚とも犬とも似ていない。そもそも動物ですらなく少女なのだが、それでも彼女こそが麒麟なのだと確信していた。
「麒麟、ですよね」
「……ええ」
「いつからこの部屋に、そしてなぜこの部屋にいるのですか?」
「それは……」
麒麟の少女が発する声は震え、かすれていた。普通の声は出せないのかと阿庭は疑問に思ったが、すぐに疑問の答えが示された。
彼女は血の塊を吐き出した。麒麟はパソコンの方を向いていたが、そのキーボードが血で赤く染まる。
「血が」
「麒麟とは然るべきときに、然るべき者のもとに出現します。今が然るべきときであり、皆さんが然るべき者であるのでこうして姿を見せているのです」
麒麟は阿庭の懸念に被せるように答えた。その間にも喀血は続く。麒麟は阿庭と話しながら打鍵しているが、手の震えに加えて落ちる血が盤を乱雑に叩くせいでまるで意味のある文字列を作るに至っていない。
「然るべき者が『皆さん』、私に限らないということは、それこそ幻想郷中に姿を見せたのですか」
「御名答。流石、察しが良いですね。貴方は一等相応しい方のようだ。最後に選んだ甲斐があるというものです」
この麒麟である少女、物腰こそ柔らかだが、その微妙にぼかした話し方がどことなく八雲紫に似ている。阿庭はそう思った。
阿庭は麒麟の肩越しにパソコンの画面を見た。麒麟はメールソフトを開き、送信先のアドレスを打ち終えて件名を打ち始めているところだった。アドレスは阿庭が知らぬものだったが、ローマ字読みすることで紫のアドレスであるということは容易に予想がついた。阿庭は麒麟とは紫ではないかと疑い始めていたのだが、今麒麟が必死に意思疎通を試みている先がその紫であるらしいという事実から、同一人物説は否定された。
しかし、ここまで似ているのなら、紫が教えてくれなかった疑問を麒麟は教えてくれるのではなかろうか。
「麒麟の噂が真実だとは分かりました。ところで、巷で流行っている終末論、あれも事実なのでしょうか」
「ああ! 私としたことが重要なことを忘れておりました! そうです、外の世界における最後の人間が危篤となっています。彼女の死をもって歴史は終わるのです」
麒麟は相変わらずケホケホとむせていたが、血は吐かなかった。容態が安定したのか、あるいは最早吐き出すほどの血が残っていないのか。紫との通信も終えていたようで、ぐったりとした顔で伏せた。
「良かった。これで私の使命を果たすことができた……」
麒麟は目を閉じた。使命という言葉と麒麟の血色を喪っているにも関わらず安らかな表情に、阿庭は凍りつくような感情を覚えた。
「使命を果たして、それで貴方はどうなるのですか?」
「『御阿礼の子』である貴方がそれを聞くのですか。愚問ですね。今までの貴方達と同じですよ。もっとも今回が終点になるでしょうが」
麒麟は一貫して無抵抗だ。体力が残っていないというのもあるだろうが、それ以前に心がもう好きにしてくれという感じなのだ。捕まえればそれで歴史は終わる。
阿庭は正直なところ一瞬躊躇した。歴史が終わったらあの何もない世界に自分は囚われてしまうのだろうか。閻魔も彼岸もない死後の世界というのが自分の予想通りなのかどうかは分からないが、少なくとも紫が見せたあれより良い世界とは思えなかった。阿庭は恐怖しており、それは正常な反応だった。
「……助けて! 病人が!」
それでも阿庭は大きく息を吸い、叫んだ。目の前で人が、少女が一人倒れている。世界や歴史の終わりという壮大過ぎて凡人の理解が及ばない話よりも、目の前の人の生き死にの方が阿庭にとってはよっぽど優先されるべき事件だった。それは単なる虚栄に過ぎないのかもしれないが。
使用人達の慌てた足音に囲まれながら、二人は話す。
「無駄な努力ですよ。歴史は終わるのですから。それに、私はもう悔いなど残っていません」
「私が後悔するのですよ。人並みに生きると言われていたのに二十歳を迎える前に世界ごと滅ぶなんて、詐欺もいいところじゃないですか。私は世界が滅びない方に賭けます。どうせ妖怪なのなら私よりは長生きするのでしょう? 私が死ぬまでの少しの間、付き合ってもらいますからね」
「御阿礼の子の使命はどうしたのですか」
「御阿礼の子である以前に、私は一人の人間です。人間には生きたいように生きる権利がある」
「まさか御阿礼の子の口からそのような言葉が聞けるとは。傑作ですね。生きてみるものだ」
そう言って、麒麟は意識を失った。阿庭は慌てたが、幸い弱いながらも呼吸はあるようだった。
阿庭はふとパソコンの画面を見た。メールは送信済みになっており、本文は空欄、件名に「麒麟です」とだけ書かれていた。
***
永遠亭の集中治療室。本来は面会謝絶なのだが、何故か阿庭は立ち入りが許可されていた。当然防護服完全装備という条件付きでだが。
麒麟は一命をとりとめた。なんせ部屋に入ってきた稗田家の使用人達も、永遠亭のイナバ達も尽く麒麟の外観を見誤るので救命もてんやわんやだったのだが、阿庭の「彼女は少女だ」という発言が鶴の一声となって、不思議とそれを境に全員麒麟を正しく認識することになった。
「なんで貴方にだけ、私の姿が正しく見えるのですかね」
麒麟は阿庭に聞いた。だが、その理由どころか、麒麟が少女であるという自分の認識が正しいのかすら未だ阿庭には分かっていない。
「妖怪って、事物の象徴という面があるでしょう? 貴方、麒麟とは、歴史の象徴でもあるの。この子ほど歴史に真摯に向き合ってきた人はいないのだから、そりゃ彼女には正しく認識できるわよ」
紫が会話に割り込んできた。阿庭は「面会謝絶ですよ」と怒ったが、紫は大丈夫よ、と言った。何がどう大丈夫なのか阿庭にはさっぱり分からなかったが、何故かその言葉には妙な説得力があり、阿庭は紫用の椅子を取り出した。
「分かるような分からないような、ですね。それはそれとして紫さん、世界、滅びませんでしたね」
麒麟は残念そうな顔で呟いた。もっともその残念さに、阿庭と即興で交わした賭けに負けたから以上の理由はないだろうが。
「外の世界最後の人間は亡くなったわ。これ以上外の世界で何かが忘れられるということがなくなるから、このままにしていれば刺激を失った幻想郷は緩やかに衰退していくでしょうね」
「どうせこのままにはしないのでしょう?」
「阿庭、よく分かっているじゃない。結界の内側にいる意味も最早ないから、明日にでも結界をいじって新生地球社会の再始動といくわよ。このままなんて退屈だもの」
「外の世界にいくらか派遣するやり方でも良かったのでは?」
「核戦争後の世界に住みたいのかしら? あれはあと五百年は閉じ込めておかないと駄目ね。これからは平穏が現実で争乱が幻想の世界よ」
「ああそれで今年の花の異変が」
阿庭は自分の世界が滅ばなかったことは素直に喜んだが、外の世界の結末に少しやるせない気持ちになった。
「この子はこれからどうするのかしら」
紫は麒麟の今後の処遇を聞いた。元々歴史の転換点を伝えては消える存在だったのを無理やり捻じ曲げたので、彼女の居場所がない。阿庭は自分の行動に一切後悔はしていないが、彼女の将来を考える責任はあると感じていた。
「稗田家で食客として居てもらおうと思っています。歴史の家庭教師くらいにはなるでしよう」
「くらい、とは失礼ですね。歴史といえば、貴方の将来も安泰ではないのですよ。幻想郷の仕組みが変わった以上、妖怪が新しく現れるということも暫くはないでしょう。世界は終わりませんでしたが、歴史の方はある意味終わったのです。御阿礼の子も貴方が生きているうちに廃止になるかも」
「私は私で好きに生きますよ。記者にでもなってみますかね。少し前に、記者に向いていると言われたのですよ」
阿庭は自慢気に言った。が、当の麒麟は自分で聞いておきながら、阿庭の答えの内容にはさほど興味がないようだった。
「そうですか。それと阿庭」
「なんですか」
「林檎の皮を剥いてくれませんか?」
麒麟は稗田家から差し入れされていた果物の籠を指さした。
「まだ絶食中でしょうに」
阿庭は呆れた。
外の世界が滅んでもまだまだ続く幻想があるのだと思いました
「『平穏』が~」のくだりが伏線になっていたのも見事でした。
余韻を感じる終わり方もよかったです。
素敵な作品をありがとうございました。
読み方が間違っているのかもしれないのですが、個人的にはこの話の中の一番のテーマは『決められた役割』についてだと思って読みました。
命蓮寺周りの下りは少し寄り道に感じましたが、阿庭には麒麟が正しく見える認識の下りのためには必要かーと。
阿庭の紫への解釈が好きでした。