その桜色の小雪を桜吹雪と呼ぶには、風は穏やかに過ぎた。
手のひらに受けた欠片は、ほぼ透明に近い水に溶ける。雪の華は、花ではない。
如月某日。
旧暦でなく新暦の2月とあって、桜が咲くにはまだ早い。
自分が今初めて産まれたような気分で、雪の薄く散り敷いた地面の上に立ち尽くしている。広い荒野、疎らな木立、寒々しい景色を前に、寒いわけだな、と他人事のように思った。
ああ、寒いのか。
雪が、降っているんだ。
納得は、後から遅れてやってくる。かじかんだ指を温める、吐息は白く曇った。
ちらつく雪が、白くない。なのに、その桜色の小雪は、さも当然のようにして、誰にも文句を言われないで、空の上から降ってくる。
桜の色の雪の華。〝怪奇現象〟と言って差し支えない光景。
「この風景を、よく見ておきなさい」
まだ小さかった頃、紫様に連れて行かれて、どこか遠くのほうに出掛けたことがある。
情操教育の一環だったのだろう。紫様は度々、幼い私を白玉楼から連れ出して、別世界の風景を見聞きさせた。
それでいて、紫様は多くを語ることを好まない。
私も人間の言葉には慣れていなかったから、口数は極端に少ない。この奇妙な雪は何なのか、あって然るべき質問も立ち消えた。
幽々子様のお友達。たまに屋敷に来る誰か。知らない相手との距離感を掴みかねていると言えば、人見知りの子供っぽくて微笑ましいんだろうか。
つんと、鼻の奥に知った臭気を感じ取る。溶けた雪を口に含むと、ほんの微かに鉄臭い。
直観的に、色付いた雪の正体を理解する。──つまりこの雪空の下には、死体が埋まっている。様子からすると、昔の合戦場あたり。
長じてから知った胡乱な知識によれば、紫陽花の花の色は土壌が酸性かアルカリ性かで変わるそうだ。酸性では、よく見かける淡い紫色。アルカリ性では、血を吸ったような薄紅色。
一般的な人間の血液のphは、弱アルカリ性だとか。
紫陽花の植え込みの中で、もし一か所だけ花の色が違っているなら、ひょっとしてその下には死体が埋まっている。
もっとも、アントシアンとアルミニウムがどうだとかで、赤い血を吸い上げて花が色付くような空想は、空想に過ぎないのだけれど。もっとも、重ねて付け加えるのなら、八雲紫に招かれた場所では、科学的には胡乱な空想も意味を持つのかも知れない。
薄い雲を透かす陽の光でも、見上げると目が眩む。ぼやけた雲と雪の、ぼうっとして曖昧な光彩。全体の風合いは桜色の光に包まれているような……そう、ような、としか言いようがない。何色をしているとはっきり言い切ってしまったら、あの光が本来持つ儚さを取り零すからだ。
ジョウロの水に、数滴の血を垂らす。その水を与えて育てた紫陽花が、もしも空想の通りに染まるのだとしたら? 雪空の色は、そんな色。
雪の結晶それ自体は、白いのだろうか。ただ、空と土を巡る水は、かつて自分が血であったことを覚えている。水の記憶の名残りとして、鉄錆びの香りを残している。
香りを、色として纏う。共感覚的な作用で、そう視える者には、血を溶かした薄い赤として目に映る。
「色付いて見える?」
「はい」
言葉少ない問いに、返事もまた一言だけ。
秘められた意味合いは通じていた。恐らくだが、雪の怪異が視える『条件』は、血や死への嗜好だ。健常者には、ただの白い雪としか見えない。
幼い私は無垢さゆえの見識で、現象の本質を、ほぼ正確に見抜いていた。
「命は、生きている方がおかしいと思うのです」
好ましい風景を前に、つい、呟いていた。
血の味に、人の死を連想した。初めて人を斬った日の記憶も、鮮烈に甦る。先代を斬った時も、そうするのが自然だと思ったからそうしたのだった。
「命は、死んでいるべきなんです」
これは、半分死んでる半人半霊の病気のようなもので、先代も同じだったそうだ。私の中にも、不自然や不条理を正しくなる、人として当然の気持ちがある。
静謐な墓所が好ましい。全世界、この状態になって欲しい。こんな自分は異常だと自覚する傍らで、薄暗い願望が、決して異常でも稀有でもない、人間の普遍的な願望だという確信を抱いてもいる。顕在的か、潜在的か、その程度の違い。
命が生きていることが、純粋に疑問だった。たぶん私は、人を殺すために生まれてきた。
紫様は、その性根を変えられないことを分かっていたんだと思う。
「人を、殺しても良い」
どこか、超えてはいけない一線を超えるようにして、紫様はそう言った。
諦めたのだ。紫様は、私に人の良心を教え諭すことを諦めた。
魂魄妖夢が殺人鬼になることを認めてしまっている。
「生きている人間を厭うなら、それでも良い」
人が死ぬのも、命を奪うのも、生き物が不完全でどうしようもないのも、それは仕方が無いことなんだ。諦めて。
だけど。だからその命が、美しいものであれ。
命は、醜くない。
紫様は直接的にそうとは言いたがらない。だけれども、諄々とそう言い含められていることだけは理解できた、つもりだ。
だって、雪が綺麗だったんだもの。
「──はい、分かりました。師匠」
小さく頷くと、紫様は向こうの方を向いて、傘で顔を隠した。
たぶん、照れていたんだと思う。
ひさかたの
空より花の散りくるは
その如月の、桜白雪
手のひらに受けた欠片は、ほぼ透明に近い水に溶ける。雪の華は、花ではない。
如月某日。
旧暦でなく新暦の2月とあって、桜が咲くにはまだ早い。
自分が今初めて産まれたような気分で、雪の薄く散り敷いた地面の上に立ち尽くしている。広い荒野、疎らな木立、寒々しい景色を前に、寒いわけだな、と他人事のように思った。
ああ、寒いのか。
雪が、降っているんだ。
納得は、後から遅れてやってくる。かじかんだ指を温める、吐息は白く曇った。
ちらつく雪が、白くない。なのに、その桜色の小雪は、さも当然のようにして、誰にも文句を言われないで、空の上から降ってくる。
桜の色の雪の華。〝怪奇現象〟と言って差し支えない光景。
「この風景を、よく見ておきなさい」
まだ小さかった頃、紫様に連れて行かれて、どこか遠くのほうに出掛けたことがある。
情操教育の一環だったのだろう。紫様は度々、幼い私を白玉楼から連れ出して、別世界の風景を見聞きさせた。
それでいて、紫様は多くを語ることを好まない。
私も人間の言葉には慣れていなかったから、口数は極端に少ない。この奇妙な雪は何なのか、あって然るべき質問も立ち消えた。
幽々子様のお友達。たまに屋敷に来る誰か。知らない相手との距離感を掴みかねていると言えば、人見知りの子供っぽくて微笑ましいんだろうか。
つんと、鼻の奥に知った臭気を感じ取る。溶けた雪を口に含むと、ほんの微かに鉄臭い。
直観的に、色付いた雪の正体を理解する。──つまりこの雪空の下には、死体が埋まっている。様子からすると、昔の合戦場あたり。
長じてから知った胡乱な知識によれば、紫陽花の花の色は土壌が酸性かアルカリ性かで変わるそうだ。酸性では、よく見かける淡い紫色。アルカリ性では、血を吸ったような薄紅色。
一般的な人間の血液のphは、弱アルカリ性だとか。
紫陽花の植え込みの中で、もし一か所だけ花の色が違っているなら、ひょっとしてその下には死体が埋まっている。
もっとも、アントシアンとアルミニウムがどうだとかで、赤い血を吸い上げて花が色付くような空想は、空想に過ぎないのだけれど。もっとも、重ねて付け加えるのなら、八雲紫に招かれた場所では、科学的には胡乱な空想も意味を持つのかも知れない。
薄い雲を透かす陽の光でも、見上げると目が眩む。ぼやけた雲と雪の、ぼうっとして曖昧な光彩。全体の風合いは桜色の光に包まれているような……そう、ような、としか言いようがない。何色をしているとはっきり言い切ってしまったら、あの光が本来持つ儚さを取り零すからだ。
ジョウロの水に、数滴の血を垂らす。その水を与えて育てた紫陽花が、もしも空想の通りに染まるのだとしたら? 雪空の色は、そんな色。
雪の結晶それ自体は、白いのだろうか。ただ、空と土を巡る水は、かつて自分が血であったことを覚えている。水の記憶の名残りとして、鉄錆びの香りを残している。
香りを、色として纏う。共感覚的な作用で、そう視える者には、血を溶かした薄い赤として目に映る。
「色付いて見える?」
「はい」
言葉少ない問いに、返事もまた一言だけ。
秘められた意味合いは通じていた。恐らくだが、雪の怪異が視える『条件』は、血や死への嗜好だ。健常者には、ただの白い雪としか見えない。
幼い私は無垢さゆえの見識で、現象の本質を、ほぼ正確に見抜いていた。
「命は、生きている方がおかしいと思うのです」
好ましい風景を前に、つい、呟いていた。
血の味に、人の死を連想した。初めて人を斬った日の記憶も、鮮烈に甦る。先代を斬った時も、そうするのが自然だと思ったからそうしたのだった。
「命は、死んでいるべきなんです」
これは、半分死んでる半人半霊の病気のようなもので、先代も同じだったそうだ。私の中にも、不自然や不条理を正しくなる、人として当然の気持ちがある。
静謐な墓所が好ましい。全世界、この状態になって欲しい。こんな自分は異常だと自覚する傍らで、薄暗い願望が、決して異常でも稀有でもない、人間の普遍的な願望だという確信を抱いてもいる。顕在的か、潜在的か、その程度の違い。
命が生きていることが、純粋に疑問だった。たぶん私は、人を殺すために生まれてきた。
紫様は、その性根を変えられないことを分かっていたんだと思う。
「人を、殺しても良い」
どこか、超えてはいけない一線を超えるようにして、紫様はそう言った。
諦めたのだ。紫様は、私に人の良心を教え諭すことを諦めた。
魂魄妖夢が殺人鬼になることを認めてしまっている。
「生きている人間を厭うなら、それでも良い」
人が死ぬのも、命を奪うのも、生き物が不完全でどうしようもないのも、それは仕方が無いことなんだ。諦めて。
だけど。だからその命が、美しいものであれ。
命は、醜くない。
紫様は直接的にそうとは言いたがらない。だけれども、諄々とそう言い含められていることだけは理解できた、つもりだ。
だって、雪が綺麗だったんだもの。
「──はい、分かりました。師匠」
小さく頷くと、紫様は向こうの方を向いて、傘で顔を隠した。
たぶん、照れていたんだと思う。
ひさかたの
空より花の散りくるは
その如月の、桜白雪
妖夢の独特な生死感がとてもよかったです
血が蒸発して雲となり雪を降らす、という発想には脱帽です。
よくわからなかった自分の、読者としての未熟。
春が見えないと集められないだろうし。