「お前さん一体どうやってこんな所に……って、なんだ妖怪か」
人影が見えたから声を掛けてはみたものの、よく見てみるとそいつには普通の人間には本来別な部分に付いているはずの耳──形からしてイヌ科の物──が頭から生えており、更には人間に無いはずの尻尾まで付いている。何故尻尾が見えているのかというと、別にそういった手の込んだ衣服を身に着けているという訳ではなく、単純に服を着ていないのだ。
つまり、今私の目の前には犬の耳と尻尾を付けた全裸の女が居る……という事になる。残念なことにとても飾りには見えないが、もし万が一、いや億が一にも仮に人間だとしてこんな所にこんな格好をしたやつを妖怪扱いして文句をつける奴がいるだろうか。いや、いない。誰が何と言おうとこいつは妖怪だ。妖怪だということで私は話を続ける事にする。
「その様子じゃここの決まりも知らねえんだろ。今回は見逃してやるからとっとと去ね」
あまりにも一方的で高圧的な物言いであるが、それに対して女は何か言い返したりすることもしてこない。だがその代わりに立ち去ったり、その場から動こうという素振りも見せなかった。
「……いいか。うちはな、ここの頭でっかちで口うるさくて面倒くせえ天狗共と長ったらしくてややこしくて面倒くさい条約を交わさせられてんだわ。なんでお前さんがここにいるとえれえ面倒くせえ事になるんよ。だからな、そうなる前に出てってくんねえか?」
幾分か分かりやすい様に言い変えてやっても、その女はただじーっとこっちを見て幼子の様に首をこてんと傾けるだけであった。その動作を見た瞬間、私の脳裏に嫌な想像がよぎる。
「まさか、お前──」
と、思わず口をついた所でその女は元気よくわん、と返してきた。ああ、困った事になった。話せないぞこいつ。最悪の予想が当たってしまった。妖怪なんてもんをいちいち助けてやる気はさらさら無かったのだがこうなると話が変わってくる。
こいつがいくら犬並のへっぽこ頭だとはいえあの融通の利かない頑固で偏屈な石頭の天狗共が妖怪を見逃してやるわけがない。私が拾ってやらなければこいつはおそらく生きていけないだろう。もし仮に人間ならば適当に山を下りさえすれば勝手に里に帰っていくだけで済む話なのにこいつには一から教え込んで育ててやらなければいけない。
困った。非常に困るし非常に面倒でかなりの間考え込んだのだが一度気付いてしまった事を見なかったことには出来ず、とりあえず一旦家まで連れていくことに決めた……のだがここで冷静になってしまったが故に大変重大な事実に気づく。
私はこれから全裸の女を家に連れて行かなければならないのか?別に秘境も秘境のこんな所で誰かが見ているわけでもないが非常に問題のある絵面では?
それに気づいてからは鈍牛の様に遅かった思考速度は打って変わって周りの時が止まったかと思う程目まぐるしい速度で働き、私の脳が導き出した答えはまさしく人攫いの如く鮮やかに女を担ぎ上げ全速をもって帰路につくことだった。
家が見えた途端私は糸の切れた人形の様に地面に倒れ込み女を下ろす。当の女は何かの遊びだとでも勘違いしているのか目を輝かせて息も絶え絶えの私の周りをぐるぐると回っている。
思わず手が出そうになったが今の状況だとどうやっても全裸の女にあれをする最悪な絵面にしかならないので必死に我を抑えて家から適当な服を取ってきて着せてやる。女は特に嫌がることもしなかったのでひとまずは安心したが、これからの苦労を考えると思わず大きな溜息が口から漏れ出てしまった。
「まずは言葉──の前に発音からだべか。あって言ってみ、あ、って。……わんじゃねえんだわんじゃ」
「いいか、飯はこーやって椀をもってこー箸を使ってなって、あーやっぱりやりやがった。そんな食い方したら顔が汚れっからすんなって。ほら、拭いてやるけこっちけぇ」
「うるせえな!そんなに鳴いてちゃ寝れねえだろうが!……しょうがねえ。こっちの布団入れてやるけ大人しく今日はもう寝れ」
「いーろーはーにーほーへーと」
「おーい。影狼。風呂沸いたから先入れ」
「はーい」
影狼と呼ばれた女は地面に書いていた文字を足ですり消し持っていた木の枝を放り投げ、家へと戻る。そしてなんの淀みも無い動作で服を脱ぎ一人で風呂場に入る。
影狼……あの女が来てからちょうど一年くらいだろうか。初めはかなり苦労すると考えていた予想は大きく外れ、並み以上の速さで学習していき人が生活する上で行う一般的な動作というものは既にこなせる様になっていた。言葉もまだ少したどたどしい部分もあるが会話という形で意思の疎通をおこなう分にはもう問題無い程だ。
私は影狼が風呂に入っている間に夕飯の準備だけして置き、最後の調理だけの状態にして風呂を上がった影狼に後を任せて私も風呂に入る。
「……うん。もう大丈夫だな。芯も残ってねえし上手いもんだ」
「ほんと!うれしい」
唯一抵抗のあった火の扱いももう問題無い。これならもし一人になったとしても人並みに生きる事はそう難しくないだろう。会話の練習も兼ねて私はこのまま話を続ける。
「なあ、影狼や」
「うん?」
「おめえ、自分が妖怪だってのはもう教えたな?」
「うん」
「そうだな、その体になる前というか、ここに来るまでに何か覚えてることはあるけ?ちっとでもいいさ」
「ここに来る……?ねむのに会う前のこと?」
「そんな感じだ」
「う~んと……人と一緒に住んでた。」
「ほう」
「私何かに足を挟まれて痛くて動けなかった。それでその人が来た時も逃げられなくて捕まったの。それで家に連れていかれて檻に入れられちゃってどこにも行けなかった。だけどごはんは食べられたしそのうち足が痛いのも無くなった」
まあこれは予想通りだ。というより人に飼われていなければこれまでの行動の説明がつかない。影狼はあまりにも人に慣れ過ぎている。野生で生きていれば私の姿を見た時点で逃げ出すなりなんなりしていたはずだ。まあ、それを踏まえても相当な甘ちゃんなのではないかと思うが今は置いておく事にしよう。
「足が良くなってからは檻から出してもらって柵があったけど外に出る事も出来た。だけどある日おひさまが昇っても出してくれなかったしごはんも出てこなかった。その次も、その次の日もいくら待っても出してくれなかった。
だからなんで出してくれないのか分かんなくて暴れたり何度も体をぶつけたりしてたら檻が壊れたみたいで外に出られたの。それでその人を見つけたんだけど吠えても何をしてもその人は動かなかった。それに舐めてみたらいつも手が暖かかいのにその日は冷たかった。だから、どうしたらいいかわかんなくって」
「そうか。……なあ、影狼よ。妖怪はどうしてなるかって話したの憶えてるけ?」
「えっと。未練とかつよい想いがあると妖怪になる」
「そうだ。お前さんはそれでどうしたかったんだ?」
「どうしたい……もう一度あの人に会ってみたい。会って話がしたい。何で出してくれなかったのか。何で動かなかったのか。知りたかったから。そうだ、だから私は人になりたかったんだ。ねえ、ねむの、私はあの人に会いたい」
「……残念だがそれは出来ん」
「なんで!」
「住む世界が違うんだ。この辺に、いやこの山に人なんか住んでねえ。おそらくだがお前さんの前の記憶は幻想郷に来る前の話だろう。ここと前の世界は行き来できねんだ」
「……でも、もしかしたら」
「それに、もし居たとしても会えんだろう。そいつはもう死んでる」
「死んで……?」
「人が一日中動かねえなんてなんかあったに決まってる。人間なんてあっけなく死ぬもんだ」
「でも、私はその人に何もしてないし、血も出てなかった」
「死ぬのなんて何も怪我だけじゃねえ。病気で死んだりもする。冷たかったんだろう。体が。死ぬっていうのはそういうことだ」
「そんな……じゃあ、もう会えないの」
影狼の瞳がみるみると潤んでいく。私は影狼から目線を外さずに首だけを小さく傾けて頷く。影狼は堪えきれない様に下を向き、その拍子にぽたっ、と水滴が垂れる。それは2滴、3滴と続き、段々と早くなっていく。
「私は、何が起きたかわかんなくって、嫌われたのかって、怖くって、だから、人になれば、わかると思って、頑張って、憶えた、のに、私は」
いよいよ水滴は止まらなくなり、嗚咽さえ混じり始める。
「わたしは、ただ、あの、あったかい、てに、もういちど、なでて、ほしかった、だけで、それだけで、よかった、のに」
影狼からはもうそれ以上の言葉は出てこない。私はそんな影狼をしばらくじっと見据えていたが、顔は動かさず、目の動きだけでわずかに視線を逸らし、影狼の泣き声にすらかき消されそうな程の小さい声で
「泣くんじゃないよ。人間なんかの死んだ別れたでいちいち泣いてちゃ干物になっちまう」
独り言の様に、自分にさえ聞こえていればいいという風に、そう呟いた。聞こえたのか聞こえていないのか、影狼は押し殺した声で泣き続け、私もそれ以上は何も言わず、温くなった飯を口に運ぶ。
「入っていいぞ」
顔も上げずにネムノはそう口を開く。足音も何も聞こえなかった。風すらも今日は戸を揺らす程にも吹いてはおらず、それほどに静かな夜であった。
それなのになんの予兆も無く唐突に出てきた言葉よりわずかに遅れて戸を叩く音がする。その声を掛けられた戸外の相手もこんなに早く許可が出るとは思ってもいなかったのだろう。叩こうとした2度目を止めきれずにわずかにとん、と戸に触れる音がし、わずかな静寂をはさんでから勢いよくがらりと戸を開け、
「いやーすいませんねえお食事中に」
とその訪問者はさも自然体とでもいう風に入ってくる。先ほどの間から、姿は見えていなくともこの訪問者は明らかに狼狽していた事を示している。こいつもこんなわざとらしいあいさつをしたのはそのことを察しているからだろう。それを理解した上で見かけだけでも平静を保とうとしているのだ。
「不可侵を言い出したのはそっちじゃないのか。なあ、天狗よ」
影狼と話していた時とは数段低い声でネムノはそう言う。その声は実際に温度が下がったのかと思えるほど冷たく鋭いものであった。
「ネムノさんのお怒りは至極当然でもっともなんですがね、今回はネムノさんとお連れさんの為に来たんですよ。なんでお話だけでも聞いていただけませんかね?」
「連れ?」
そういってネムノは影狼の方を見る。当の影狼はというと、初めて見る訪問者に面食らったのかまだ鼻こそすすってはいるが泣き止んで二人をきょろきょろと交互に見ている。その影狼を置いてネムノはその訪問者を見直して話を進める。
「どういうことだ?」
「いやですね、うちとの条約にはネムノさんが一人で居住する事に我々天狗は介入しないという事になっているんですよ。勿論だからといってですね、こちらもちょっと誰かと一緒に居るだけで違反だなんて言うつもりは無いですよ。ただですね、お連れさん妖怪ではないですか。人間なら仮に生きたとしても精々百年程度ですからこちらも目を瞑れるんですけども、流石に妖怪となると問題になってしまうんですよねえ」
「影狼がか?」
思わずはっ、と鼻で笑ってしまう。つまりこの天狗はこんな影狼を危険だと言っているのだ。
「流石天狗様だな。臆病さは段違いだ」
「そりゃそうですよ。勇敢と無謀とを履き違えていた奴らは皆いなくなりました。だから今天狗は山を統べているんです」
「そうかい。で、どうしろってんだ」
「簡単な話ですよ。そのお連れさんを別な所に住まわせればいいんです」
「断ったら?」
「そうなったら条約を破られたという対応をせざるを得ないですね」
「そうか。断る」
「やっぱりそうですよね……今なんと?」
「断るって言ったんだ」
「……あのーですね。対応と言いましたけどそれがどういうことか理解していますか?戦争ですよ。天狗とあなただけとの。それをわかっているんですか」
「ああ、かまわねえよ。いつでも来な」
「ネムノさん。あのですね……、それは、それはただの無謀ですよ。いくらネムノさんだって天狗全員なんて相手に出来る訳ないでしょう。どうでもいいじゃないですか。そんなただの野良妖怪。それよりも我々と――」
「黙れよ鳥公。こいつはな、人が死んだ事もわかんねえ愚かもんで、人と会えねえくらいでべそをかく程甘ったれな、うちの娘だ」
「……分かりませんね。どうしてなんの繋がりも無い野良なんかにそこまでしてやるんですか」
「それが分かんねえからお前らはお山の大将にしかなれねえんだ」
「……」
「分かった。出ていく」
二人の沈黙を破ったのは影狼だった。
「いいんだぞ影狼。こんな奴のいう事なんざ聞かんでええ。うちがなんとかしてやるけ」
「いいの。私はもう一人でも生きていける。それに私も外を見てみたい」
「本人が言ってるんですよ。それでいいじゃないですか」
「……本当にそれでいいのか。影狼」
「うん」
「そうか……。……なあ、文」
「っ!はい。なんですか」
「こいつの住む場所を一緒に探してやってくんねか」
「はぁ!いや、あのー、それは」
「簡単な話なんだろう?」
「うーーーん。確かにそれは言いましたけども」
「じゃあ来んでもいいぞ。来ねえなら代わりにうちがお前ん里まで迎えに行ってやるけ」
「わかった!わかりましたよ!貸しですよ!貸し!」
「あんがとな」
「いいですよ、もう。なら明日の朝でいいですか」
「ああ、わかった」
「では、また明日」
私のああ、という返事を最後に天狗は飛び去って行く。影狼を見ると居心地が悪そうにもぞもぞとしている。
「……おめえが自分で決めたんならうちはなんも言わんよ。もっかい聞くぞ。本当にいいんだな」
「うん。私、もっといろんな事を知りたい」
影狼は真っ直ぐに私の目を見て言う。私ははぁー、と溜め息半分に一息ついてから立ち上がる。そして箪笥の方へと歩いていき、引き出しを上の方から引いて中身を確認していく。それを下の方へ段々と繰り返し、一番下の段の奥の方から一着の服を取り出す。それは白が上で赤が下に分けられ、スカートの裾や袖口を黒くしてふちの様にあつらえてあるドレスだった。
「影狼。これ、ちょっと着てみれ」
「え?うん。わかった」
「……よし、大きさは問題ねえな」
「どうしたの?こんなきれいなの」
「おめえにやるよ」
「えっ!いいの!」
「いいんだ。ただ持ってるだけよりそいつもその方がいいべ。ほら、寝る前に脱ぎな」
「やだ!これ着て寝る!」
「おめえな、そんなん着てっと寝にくいぞ」
「いいの!」
「……しょうがねえな。なら、もう寝る準備すんべ」
そう言って私たちは布団を二つ引き、お互いの布団に入る。
「ねえ、ネムノ」
「なんだ」
「……一緒に寝ていい?」
「……入りな」
「うん。」
火も消えて窓から入るわずかな月明りの中、影狼は私の布団に入ってくる。すうっと外の空気が通った後、自分のものでない熱を横に感じる。
「ねえ、ネムノ」
「なんだ」
「……あったかい」
「……そうか」
朝日が顔に当たる。いつも通りの朝だ。いつも通り布団を片付け、いつも通り朝飯を食べて、そして、いつもはしない準備をする。準備と言っても、もう長い事山に住んでいる為、影狼に渡せる物なんて昨夜の服くらいしか無い。なので今の私に出来ることなんて精々その日の昼飯を持たせるくらいだ。
「いいか、人間にもな、悪い奴はいるんだからほいほい付いてくんじゃねえぞ」
「うん」
「妖怪なんてもってのほかだぞ。ろくでもねえのばっかりだ」
「うん」
「変なもん食うなよ。汚れた手で飯食うなよ。寝るときは腹を出すなよ。あとはな――」
そう言いかけた所で上空に黒い点が視界の端に見える。その点は見る見るうちに大きくなり、そのまま音も立てずに着地する。天狗が約束通りに迎えに来たようだ。
「お、もう準備出来てますか」
「なんだ、ちゃんと来たのか。それじゃあな、影狼。達者でな」
「うん」
と返事はしたものの、影狼はその場を動こうとしない。誰も声を発さずにしばらくの間沈黙が流れる。どうした、と声を掛けようとした所で影狼が私に抱き着いてきた。咄嗟の事で一瞬固まってしまったが、私も影狼の方へと手を回す。
「ありがとう」
「ああ」
「たくさんおしえてくれた。いっぱい、いっぱいもらった。ありがとう」
「ああ」
「いってきます」
「元気でな」
そう言うと影狼はばっと離れてこちらの顔も見ずに駆けていく。文がこれでいいのかという様にちら、とこちらを見たが私が何も言わないでいると文も何も言わずに影狼の方へと付いていく。
これで私の非日常は終わりを迎え、いつも通りの日常が返ってくる。振り返るといつも通りの見慣れた我が家がある。何度も見た、いつも通り、何の変哲もない、そのはずなのに――
ああ、だから連れてくるのは嫌だったんだ。また、夜の寒さに耐えなければいけない。
「ちょっと、ちょっと。あなた何もわかんないんでしょう?案内より先に言ってどうするんですか」
「うん」
「うんじゃなくてですね……まあいいでしょう。ここから一番近いのは森ですかね。まあ妖怪なら問題ないでしょう。まずはそこから回ってみましょうか」
「……うん」
「はーあ。とんだ貧乏くじですよ。さっさと見つけないとまた徹夜で記事探す羽目に……いや、まてよ……これを記事にすれば……ねえ、影狼さん幻想郷回って見たくないですか?よければ私が案内しますよ。その代わりと言ってはなんですけどそのお話を記事にしてもいいですか?」
「……」
「ああ、そうか新聞もご存じで無いんですね。そこから説明しましょうか。まず新聞っていうのはですね、ってなんで泣いてるんですか。ははーん、分かりましたよ。これが家族との別れって言うものでしょう。我々天狗だって進歩してるんですよ。それをネムノさんったら、あんな言い方しなくたっていいじゃないですかねえ。そうだ、ネムノさんって住んでるとどんな感じなんですか?ていうかぶっちゃけた話ネムノさんの弱点みたいなのありません?」
「……うる、さい」
「そんなこと言わずにぃ~。ちょっとだけ!さきっちょだけでも!」
人影が見えたから声を掛けてはみたものの、よく見てみるとそいつには普通の人間には本来別な部分に付いているはずの耳──形からしてイヌ科の物──が頭から生えており、更には人間に無いはずの尻尾まで付いている。何故尻尾が見えているのかというと、別にそういった手の込んだ衣服を身に着けているという訳ではなく、単純に服を着ていないのだ。
つまり、今私の目の前には犬の耳と尻尾を付けた全裸の女が居る……という事になる。残念なことにとても飾りには見えないが、もし万が一、いや億が一にも仮に人間だとしてこんな所にこんな格好をしたやつを妖怪扱いして文句をつける奴がいるだろうか。いや、いない。誰が何と言おうとこいつは妖怪だ。妖怪だということで私は話を続ける事にする。
「その様子じゃここの決まりも知らねえんだろ。今回は見逃してやるからとっとと去ね」
あまりにも一方的で高圧的な物言いであるが、それに対して女は何か言い返したりすることもしてこない。だがその代わりに立ち去ったり、その場から動こうという素振りも見せなかった。
「……いいか。うちはな、ここの頭でっかちで口うるさくて面倒くせえ天狗共と長ったらしくてややこしくて面倒くさい条約を交わさせられてんだわ。なんでお前さんがここにいるとえれえ面倒くせえ事になるんよ。だからな、そうなる前に出てってくんねえか?」
幾分か分かりやすい様に言い変えてやっても、その女はただじーっとこっちを見て幼子の様に首をこてんと傾けるだけであった。その動作を見た瞬間、私の脳裏に嫌な想像がよぎる。
「まさか、お前──」
と、思わず口をついた所でその女は元気よくわん、と返してきた。ああ、困った事になった。話せないぞこいつ。最悪の予想が当たってしまった。妖怪なんてもんをいちいち助けてやる気はさらさら無かったのだがこうなると話が変わってくる。
こいつがいくら犬並のへっぽこ頭だとはいえあの融通の利かない頑固で偏屈な石頭の天狗共が妖怪を見逃してやるわけがない。私が拾ってやらなければこいつはおそらく生きていけないだろう。もし仮に人間ならば適当に山を下りさえすれば勝手に里に帰っていくだけで済む話なのにこいつには一から教え込んで育ててやらなければいけない。
困った。非常に困るし非常に面倒でかなりの間考え込んだのだが一度気付いてしまった事を見なかったことには出来ず、とりあえず一旦家まで連れていくことに決めた……のだがここで冷静になってしまったが故に大変重大な事実に気づく。
私はこれから全裸の女を家に連れて行かなければならないのか?別に秘境も秘境のこんな所で誰かが見ているわけでもないが非常に問題のある絵面では?
それに気づいてからは鈍牛の様に遅かった思考速度は打って変わって周りの時が止まったかと思う程目まぐるしい速度で働き、私の脳が導き出した答えはまさしく人攫いの如く鮮やかに女を担ぎ上げ全速をもって帰路につくことだった。
家が見えた途端私は糸の切れた人形の様に地面に倒れ込み女を下ろす。当の女は何かの遊びだとでも勘違いしているのか目を輝かせて息も絶え絶えの私の周りをぐるぐると回っている。
思わず手が出そうになったが今の状況だとどうやっても全裸の女にあれをする最悪な絵面にしかならないので必死に我を抑えて家から適当な服を取ってきて着せてやる。女は特に嫌がることもしなかったのでひとまずは安心したが、これからの苦労を考えると思わず大きな溜息が口から漏れ出てしまった。
「まずは言葉──の前に発音からだべか。あって言ってみ、あ、って。……わんじゃねえんだわんじゃ」
「いいか、飯はこーやって椀をもってこー箸を使ってなって、あーやっぱりやりやがった。そんな食い方したら顔が汚れっからすんなって。ほら、拭いてやるけこっちけぇ」
「うるせえな!そんなに鳴いてちゃ寝れねえだろうが!……しょうがねえ。こっちの布団入れてやるけ大人しく今日はもう寝れ」
「いーろーはーにーほーへーと」
「おーい。影狼。風呂沸いたから先入れ」
「はーい」
影狼と呼ばれた女は地面に書いていた文字を足ですり消し持っていた木の枝を放り投げ、家へと戻る。そしてなんの淀みも無い動作で服を脱ぎ一人で風呂場に入る。
影狼……あの女が来てからちょうど一年くらいだろうか。初めはかなり苦労すると考えていた予想は大きく外れ、並み以上の速さで学習していき人が生活する上で行う一般的な動作というものは既にこなせる様になっていた。言葉もまだ少したどたどしい部分もあるが会話という形で意思の疎通をおこなう分にはもう問題無い程だ。
私は影狼が風呂に入っている間に夕飯の準備だけして置き、最後の調理だけの状態にして風呂を上がった影狼に後を任せて私も風呂に入る。
「……うん。もう大丈夫だな。芯も残ってねえし上手いもんだ」
「ほんと!うれしい」
唯一抵抗のあった火の扱いももう問題無い。これならもし一人になったとしても人並みに生きる事はそう難しくないだろう。会話の練習も兼ねて私はこのまま話を続ける。
「なあ、影狼や」
「うん?」
「おめえ、自分が妖怪だってのはもう教えたな?」
「うん」
「そうだな、その体になる前というか、ここに来るまでに何か覚えてることはあるけ?ちっとでもいいさ」
「ここに来る……?ねむのに会う前のこと?」
「そんな感じだ」
「う~んと……人と一緒に住んでた。」
「ほう」
「私何かに足を挟まれて痛くて動けなかった。それでその人が来た時も逃げられなくて捕まったの。それで家に連れていかれて檻に入れられちゃってどこにも行けなかった。だけどごはんは食べられたしそのうち足が痛いのも無くなった」
まあこれは予想通りだ。というより人に飼われていなければこれまでの行動の説明がつかない。影狼はあまりにも人に慣れ過ぎている。野生で生きていれば私の姿を見た時点で逃げ出すなりなんなりしていたはずだ。まあ、それを踏まえても相当な甘ちゃんなのではないかと思うが今は置いておく事にしよう。
「足が良くなってからは檻から出してもらって柵があったけど外に出る事も出来た。だけどある日おひさまが昇っても出してくれなかったしごはんも出てこなかった。その次も、その次の日もいくら待っても出してくれなかった。
だからなんで出してくれないのか分かんなくて暴れたり何度も体をぶつけたりしてたら檻が壊れたみたいで外に出られたの。それでその人を見つけたんだけど吠えても何をしてもその人は動かなかった。それに舐めてみたらいつも手が暖かかいのにその日は冷たかった。だから、どうしたらいいかわかんなくって」
「そうか。……なあ、影狼よ。妖怪はどうしてなるかって話したの憶えてるけ?」
「えっと。未練とかつよい想いがあると妖怪になる」
「そうだ。お前さんはそれでどうしたかったんだ?」
「どうしたい……もう一度あの人に会ってみたい。会って話がしたい。何で出してくれなかったのか。何で動かなかったのか。知りたかったから。そうだ、だから私は人になりたかったんだ。ねえ、ねむの、私はあの人に会いたい」
「……残念だがそれは出来ん」
「なんで!」
「住む世界が違うんだ。この辺に、いやこの山に人なんか住んでねえ。おそらくだがお前さんの前の記憶は幻想郷に来る前の話だろう。ここと前の世界は行き来できねんだ」
「……でも、もしかしたら」
「それに、もし居たとしても会えんだろう。そいつはもう死んでる」
「死んで……?」
「人が一日中動かねえなんてなんかあったに決まってる。人間なんてあっけなく死ぬもんだ」
「でも、私はその人に何もしてないし、血も出てなかった」
「死ぬのなんて何も怪我だけじゃねえ。病気で死んだりもする。冷たかったんだろう。体が。死ぬっていうのはそういうことだ」
「そんな……じゃあ、もう会えないの」
影狼の瞳がみるみると潤んでいく。私は影狼から目線を外さずに首だけを小さく傾けて頷く。影狼は堪えきれない様に下を向き、その拍子にぽたっ、と水滴が垂れる。それは2滴、3滴と続き、段々と早くなっていく。
「私は、何が起きたかわかんなくって、嫌われたのかって、怖くって、だから、人になれば、わかると思って、頑張って、憶えた、のに、私は」
いよいよ水滴は止まらなくなり、嗚咽さえ混じり始める。
「わたしは、ただ、あの、あったかい、てに、もういちど、なでて、ほしかった、だけで、それだけで、よかった、のに」
影狼からはもうそれ以上の言葉は出てこない。私はそんな影狼をしばらくじっと見据えていたが、顔は動かさず、目の動きだけでわずかに視線を逸らし、影狼の泣き声にすらかき消されそうな程の小さい声で
「泣くんじゃないよ。人間なんかの死んだ別れたでいちいち泣いてちゃ干物になっちまう」
独り言の様に、自分にさえ聞こえていればいいという風に、そう呟いた。聞こえたのか聞こえていないのか、影狼は押し殺した声で泣き続け、私もそれ以上は何も言わず、温くなった飯を口に運ぶ。
「入っていいぞ」
顔も上げずにネムノはそう口を開く。足音も何も聞こえなかった。風すらも今日は戸を揺らす程にも吹いてはおらず、それほどに静かな夜であった。
それなのになんの予兆も無く唐突に出てきた言葉よりわずかに遅れて戸を叩く音がする。その声を掛けられた戸外の相手もこんなに早く許可が出るとは思ってもいなかったのだろう。叩こうとした2度目を止めきれずにわずかにとん、と戸に触れる音がし、わずかな静寂をはさんでから勢いよくがらりと戸を開け、
「いやーすいませんねえお食事中に」
とその訪問者はさも自然体とでもいう風に入ってくる。先ほどの間から、姿は見えていなくともこの訪問者は明らかに狼狽していた事を示している。こいつもこんなわざとらしいあいさつをしたのはそのことを察しているからだろう。それを理解した上で見かけだけでも平静を保とうとしているのだ。
「不可侵を言い出したのはそっちじゃないのか。なあ、天狗よ」
影狼と話していた時とは数段低い声でネムノはそう言う。その声は実際に温度が下がったのかと思えるほど冷たく鋭いものであった。
「ネムノさんのお怒りは至極当然でもっともなんですがね、今回はネムノさんとお連れさんの為に来たんですよ。なんでお話だけでも聞いていただけませんかね?」
「連れ?」
そういってネムノは影狼の方を見る。当の影狼はというと、初めて見る訪問者に面食らったのかまだ鼻こそすすってはいるが泣き止んで二人をきょろきょろと交互に見ている。その影狼を置いてネムノはその訪問者を見直して話を進める。
「どういうことだ?」
「いやですね、うちとの条約にはネムノさんが一人で居住する事に我々天狗は介入しないという事になっているんですよ。勿論だからといってですね、こちらもちょっと誰かと一緒に居るだけで違反だなんて言うつもりは無いですよ。ただですね、お連れさん妖怪ではないですか。人間なら仮に生きたとしても精々百年程度ですからこちらも目を瞑れるんですけども、流石に妖怪となると問題になってしまうんですよねえ」
「影狼がか?」
思わずはっ、と鼻で笑ってしまう。つまりこの天狗はこんな影狼を危険だと言っているのだ。
「流石天狗様だな。臆病さは段違いだ」
「そりゃそうですよ。勇敢と無謀とを履き違えていた奴らは皆いなくなりました。だから今天狗は山を統べているんです」
「そうかい。で、どうしろってんだ」
「簡単な話ですよ。そのお連れさんを別な所に住まわせればいいんです」
「断ったら?」
「そうなったら条約を破られたという対応をせざるを得ないですね」
「そうか。断る」
「やっぱりそうですよね……今なんと?」
「断るって言ったんだ」
「……あのーですね。対応と言いましたけどそれがどういうことか理解していますか?戦争ですよ。天狗とあなただけとの。それをわかっているんですか」
「ああ、かまわねえよ。いつでも来な」
「ネムノさん。あのですね……、それは、それはただの無謀ですよ。いくらネムノさんだって天狗全員なんて相手に出来る訳ないでしょう。どうでもいいじゃないですか。そんなただの野良妖怪。それよりも我々と――」
「黙れよ鳥公。こいつはな、人が死んだ事もわかんねえ愚かもんで、人と会えねえくらいでべそをかく程甘ったれな、うちの娘だ」
「……分かりませんね。どうしてなんの繋がりも無い野良なんかにそこまでしてやるんですか」
「それが分かんねえからお前らはお山の大将にしかなれねえんだ」
「……」
「分かった。出ていく」
二人の沈黙を破ったのは影狼だった。
「いいんだぞ影狼。こんな奴のいう事なんざ聞かんでええ。うちがなんとかしてやるけ」
「いいの。私はもう一人でも生きていける。それに私も外を見てみたい」
「本人が言ってるんですよ。それでいいじゃないですか」
「……本当にそれでいいのか。影狼」
「うん」
「そうか……。……なあ、文」
「っ!はい。なんですか」
「こいつの住む場所を一緒に探してやってくんねか」
「はぁ!いや、あのー、それは」
「簡単な話なんだろう?」
「うーーーん。確かにそれは言いましたけども」
「じゃあ来んでもいいぞ。来ねえなら代わりにうちがお前ん里まで迎えに行ってやるけ」
「わかった!わかりましたよ!貸しですよ!貸し!」
「あんがとな」
「いいですよ、もう。なら明日の朝でいいですか」
「ああ、わかった」
「では、また明日」
私のああ、という返事を最後に天狗は飛び去って行く。影狼を見ると居心地が悪そうにもぞもぞとしている。
「……おめえが自分で決めたんならうちはなんも言わんよ。もっかい聞くぞ。本当にいいんだな」
「うん。私、もっといろんな事を知りたい」
影狼は真っ直ぐに私の目を見て言う。私ははぁー、と溜め息半分に一息ついてから立ち上がる。そして箪笥の方へと歩いていき、引き出しを上の方から引いて中身を確認していく。それを下の方へ段々と繰り返し、一番下の段の奥の方から一着の服を取り出す。それは白が上で赤が下に分けられ、スカートの裾や袖口を黒くしてふちの様にあつらえてあるドレスだった。
「影狼。これ、ちょっと着てみれ」
「え?うん。わかった」
「……よし、大きさは問題ねえな」
「どうしたの?こんなきれいなの」
「おめえにやるよ」
「えっ!いいの!」
「いいんだ。ただ持ってるだけよりそいつもその方がいいべ。ほら、寝る前に脱ぎな」
「やだ!これ着て寝る!」
「おめえな、そんなん着てっと寝にくいぞ」
「いいの!」
「……しょうがねえな。なら、もう寝る準備すんべ」
そう言って私たちは布団を二つ引き、お互いの布団に入る。
「ねえ、ネムノ」
「なんだ」
「……一緒に寝ていい?」
「……入りな」
「うん。」
火も消えて窓から入るわずかな月明りの中、影狼は私の布団に入ってくる。すうっと外の空気が通った後、自分のものでない熱を横に感じる。
「ねえ、ネムノ」
「なんだ」
「……あったかい」
「……そうか」
朝日が顔に当たる。いつも通りの朝だ。いつも通り布団を片付け、いつも通り朝飯を食べて、そして、いつもはしない準備をする。準備と言っても、もう長い事山に住んでいる為、影狼に渡せる物なんて昨夜の服くらいしか無い。なので今の私に出来ることなんて精々その日の昼飯を持たせるくらいだ。
「いいか、人間にもな、悪い奴はいるんだからほいほい付いてくんじゃねえぞ」
「うん」
「妖怪なんてもってのほかだぞ。ろくでもねえのばっかりだ」
「うん」
「変なもん食うなよ。汚れた手で飯食うなよ。寝るときは腹を出すなよ。あとはな――」
そう言いかけた所で上空に黒い点が視界の端に見える。その点は見る見るうちに大きくなり、そのまま音も立てずに着地する。天狗が約束通りに迎えに来たようだ。
「お、もう準備出来てますか」
「なんだ、ちゃんと来たのか。それじゃあな、影狼。達者でな」
「うん」
と返事はしたものの、影狼はその場を動こうとしない。誰も声を発さずにしばらくの間沈黙が流れる。どうした、と声を掛けようとした所で影狼が私に抱き着いてきた。咄嗟の事で一瞬固まってしまったが、私も影狼の方へと手を回す。
「ありがとう」
「ああ」
「たくさんおしえてくれた。いっぱい、いっぱいもらった。ありがとう」
「ああ」
「いってきます」
「元気でな」
そう言うと影狼はばっと離れてこちらの顔も見ずに駆けていく。文がこれでいいのかという様にちら、とこちらを見たが私が何も言わないでいると文も何も言わずに影狼の方へと付いていく。
これで私の非日常は終わりを迎え、いつも通りの日常が返ってくる。振り返るといつも通りの見慣れた我が家がある。何度も見た、いつも通り、何の変哲もない、そのはずなのに――
ああ、だから連れてくるのは嫌だったんだ。また、夜の寒さに耐えなければいけない。
「ちょっと、ちょっと。あなた何もわかんないんでしょう?案内より先に言ってどうするんですか」
「うん」
「うんじゃなくてですね……まあいいでしょう。ここから一番近いのは森ですかね。まあ妖怪なら問題ないでしょう。まずはそこから回ってみましょうか」
「……うん」
「はーあ。とんだ貧乏くじですよ。さっさと見つけないとまた徹夜で記事探す羽目に……いや、まてよ……これを記事にすれば……ねえ、影狼さん幻想郷回って見たくないですか?よければ私が案内しますよ。その代わりと言ってはなんですけどそのお話を記事にしてもいいですか?」
「……」
「ああ、そうか新聞もご存じで無いんですね。そこから説明しましょうか。まず新聞っていうのはですね、ってなんで泣いてるんですか。ははーん、分かりましたよ。これが家族との別れって言うものでしょう。我々天狗だって進歩してるんですよ。それをネムノさんったら、あんな言い方しなくたっていいじゃないですかねえ。そうだ、ネムノさんって住んでるとどんな感じなんですか?ていうかぶっちゃけた話ネムノさんの弱点みたいなのありません?」
「……うる、さい」
「そんなこと言わずにぃ~。ちょっとだけ!さきっちょだけでも!」
ネムノさんの母性がとてもよかったです