「『プロジェクト担当者の代わりに報告書を持ってきて欲しい』と、飯綱丸様のお言葉です」
「はあ?」
「『はあ』ではなく『はい』でお願いいたします。我が主の厳命ですよ射命丸どの」
大天狗の遣いはこんこんと述べる。
その日の文は有給休暇だった。人里と博麗神社を巡ってオフを満喫する予定が台無しだ。舌打ちしかかったのを何とかこらえる。天狗社会を動かす大天狗の一人、飯綱丸が相手では口答えも無駄だった。
「内容は?」
「山社会発展に貢献する建造工事、とでも言いましょうか。詳しくは報告書をご覧ください」
「それって私が関わってない仕事ですよね? 監督者は誰なんです」
「飯綱丸様でございます」
文はその名にキナ臭さを覚えた。
飯綱丸龍と文には奇妙な縁がある。向こうから縁がやってくると言うべきか。
飯綱丸は直属でもない文にやたら臨時任務を押しつけてくるのだ。過去に合計三桁近い数の仕事を任され、守矢神社騒動で駆り出された一件なんか印象深い。
その大天狗が主導するプロジェクトに呼び出された。休暇中に。文は狐を睨みつける。
「とにもかくにもお早めに。幻想郷最速を名乗る貴方に、我が主も期待しておいででしょうから」
すまし顔の狐はしっぽをふりふり、玄関先からとんずらした。文はすぐさまドアを閉め、もたれかかって皮肉っぽく口を歪めた。
「はてさて、何をさせられるのやら」
『プロジェクト担当者の代わりに報告書を持ってきて欲しい』。
この伝言を“おつかいを命じられた”と捉えるのは呆れるほど三流と言える。おつかい程度なら飯綱丸は手駒の狐に任せるだろうから、文にしか割り振れない仕事があるに違いない。
飯綱丸が関わる時、文はその言動の裏を読むことが体に染みついていた。そうしなければ自分を守れないと知っていたのだ。
「やりますか」
栗色のジャケットを脱ぎ、タンス戸から山伏風の衣装を引っ張り出す。白黒を主体に赤のワンポイントカラーがシルエットを引き締める、伝統ある天狗の礼装だ。帯や袖のゆとりを利用して団扇の他に取材道具の持ち運びも可能としたのは文らしい愛嬌だった。一本歯下駄を履き終え、振り返った先の姿見を確認する。
「貴方の腹積もり、今日こそ完璧に当ててやろうじゃないの」
梅雨明けの重い空気を跳ねのけて文は天を駆った。
***
鼻高天狗の事務所で報告書を回収した文の向かう先は山頂ほど近い飯綱丸の邸宅だった。群青の瓦屋根を張り巡らせたその建物は雲海に寝ころぶ巨大な龍を思わせる。
龍の口をくぐっても例の管狐は現れず、文はこれ幸いと屋敷を進んだ。その間も報告書チェックは忘れない。息は白み爪の隙間に針を詰められるような極寒だったが、文はページにびっしりの文字を臆せず読み連ねていく。
飯綱丸の意図を当てるためなら遠慮も気後れも必要ない。目と手がやっと休まったのは執務室の目前だった。
「ふう、読めた」
蒼白色の爪先を揉む文の顔は興奮に赤らんでいる。今回の“読み”は手ごたえがある。的中だろうとほくそ笑む顔はしかし、湯冷めしたように強張った。
「……貴方はやはり恐ろしい人だ」
文はひざまずき襖を開けて平伏した。
「失礼いたします」
「よく来たね。顔を上げなさい射命丸」
ストーブの吐く熱に混じり、威厳を蓄えた声が通る。縦長十六畳の最奥では青の天狗が薄い笑みをたたえて肘をついていた。
革張りのデスクチェアに桐を削ったダークブラウンの役員机がよく目立つ。和室らしからぬ内装は飯綱丸邸の特色で、大天狗きっての改革派の気質を見事に吸収している。手招きされるまま文は机越しに侍った。
「急に代理で呼び出してすまなかったねぇ。非常に助かったよ」
「大天狗様のご命令ですから即座に参ります」
「ハッ、部屋の前で油を売ってても即時参上に入るのか?」
「……急ぐようにと遣いの者から釘を刺されましてね。ですが身なりも整えない内にどうしてお会いできましょうか?」
お付きの狐を暗に非難する態度を飯綱丸は一笑に付した。
「悪かった悪かった。今度振替で休暇をやろう。時間休ね」
「半日で」「欲張らないの。二時間出します」
「二時間ですか」
「許してくれる?」
「え、ええ、まあ」
ここに来るまでの時間を計算し、儲けものかと引き下がる。わざわざ有利な条件を渡すのが気になったが流石の飯綱丸も休日出勤させた負い目があるのかもしれない。配下の管理には手を抜かない人だった。
「ならこの話はおしまいだ。それで、見せてくれる?」
挨拶もほどほどに飯綱丸の瞳が鋭い光を灯す。文の背筋も自然と伸びた。
「こちらが先日河童に発注した工事に関する報告になります。お納めください」
「ああご苦労」
飯綱丸が読み始めるなり、場の空気が何倍にも濃くなった。ストーブの熱が強まる一方、頭の芯はよそよそしいほど冷たい。緊張で喉を締め上げられそうだった。
しかし、答え合わせの時は近づいている。文はその時が待ち遠しく、目も逸らさずに立ち続けた。やがて飯綱丸は唸り声と共に報告書を机に放った。
「……散々工事の進捗を早めろと言っておいたのに。鼻高の管理がここまで低廉だったか」
「むしろ鼻高の見立てが甘かったと言うべきかと。彼らは河童の根城まで降りてきませんし、河童たちの性格もまともに把握していないでしょうから」
大天狗の柳眉がすっと上がる。
「中身を読んだの?」
「いけませんでしたか?」
「まさか! 感心したんだよ」
読みこんだのはあくまで飯綱丸を出し抜くためだ。からりとした笑みを送られ、文はぎこちなく礼を述べる。
「とはいえ納期は納期だ。今回はー、ああそうだ、河童のリーダー格に指揮を執らせているんだったなぁ」
関係者一覧に記された“河城にとり”の名前をなぞって飯綱丸は冷笑を浮かべた。
この大天狗は、利益のロスに厳しい。天狗社会に害を為すなら必ず報復を与えるともっぱらの評判で、少し前のアビリティカードビジネスでも協力者の神様と裏切り合って疎遠になったとか。
知り合いのにとりが詰められる姿を想像し──文は上司の顔をさっとのぞきこんだ。
「よろしければ私の方から勧告処置を行います」
「それは。都合が良いことだが。頼めるの?」
「……初めからそれを狙ってお呼びになったのでしょう?」
熱視線が交わった。文の紅茶色の瞳には期待と自信がこれでもかと溶けこんでいる。そして、知り合いへの情も。
飯綱丸は文がにとりを庇うと見越して呼んだのだ。ノロマな現場の尻を叩く手間が省けて都合が良いから。ついでに尻叩きの効果も上がるだろう、と。
文の回答は飯綱丸のドライさを声高に主張していた。その含意に気づかぬ大天狗ではない。
「くっくく」
飯綱丸はこもったように笑うと報告書を脇によけた。
「では任せよう。下がってよろしい」
お前の正解だ。
上司の言をそう受け取り、文はさっと離れて頭を下げた。ここで得意げな胸の内を見せては賢くしたたかな天狗にあらず。
「射命丸」
だから力んだ頬を隠せるうちにさっさと退室したかったのだが。
襖に手を掛けいざ退室というところで文は仕方なく振り向いた。飯綱丸は相変わらず頬杖をついて、しかし声は先程よりも格段に透明で。
「戌の初刻に訪ねる。それ以降は空けておいて」
ニコニコと盃を煽る仕草を文に見せつけた。
愕然とする。
呼び出しの理由は二つあったのだ。
今日こそは暴いてみせたと、伸びきっていた鼻を叩き折られる。
「……承知しました」
とっさの返事はそこが限界で、文は執務室から転がり出ると努めて静かにその場を去った。朱色の紐で飾られた肩先がひゅんひゅん風を切る。
また届かなかった。ぶんどった二時間の代休も『飲み付き合い』という仕事用に許されただけ。興奮の熱冷まし役となるはずだった床板の冷感は、文をみじめにさせるばかりだった。
***
「さあて何瓶いこうか」
文の足音が遠のくのを聞き届け、飯綱丸は軽快にデスクチェアへ寄りかかった。気分はすでに数時間後に旅立っているらしい。
「飯綱丸様はあの者と飲みに行くんですよね」
声の出どころは腰。飯綱丸の携帯する試験管ハウスからぽんっと管狐の典が飛び出した。飯綱丸の右腕として奔走もとい暗躍する典だが、主人の膝にくっつく姿は甘えたがりのペット同然だ。飯綱丸もそれを分かっていてか、典の狐耳を指でふにふにとこね始めた。
「今更駄々っ子はなしよ。お前の分の晩飯はたんまり用意していくと約束したじゃないか」
「ええ。ご飯はたくさんもらいますし、飯綱丸様のご決定にも口は挟みません」
典は頭を撫でられながらはちみつ色の瞳を陰らせる。
「でも感じたでしょう? あいつは飯綱丸様の考えを見抜いた気になって偉ぶってましたよ。それも毎回毎回! 不敬じゃないですか」
「はは、あいつは考えが顔に出るからねぇ。今回は嫌な役を押しつけてしまったから、あいつと私はおあいこなんだ」
「不問にするの?」
典は身を乗り出した。
「それが適当だろう。留守番しっかりね」
優しい声色に金毛の耳がへにょりとしおれた。
事の過程より結果を重視、使えるものは使うのが飯綱丸龍という天狗だ。それゆえに同族でもない典を側近につけ、積み上げた実績の塔を振りかざして今の地位を盤石にした。
その彼女が『文が適任』だと判断したのだ、正しいに決まっている。理屈で言えば、そうなるのだが。典には主人の行動が『文に知り合いを庇う余地を与えた』ように見えた。
「……同じ結果なら、いやそれ以上の結果を、私だって届けられるのに」
しっぽを主人の足首に巻きつけて、典はいつもの何倍も小さく囁いた。
*******
文は服も着替えず九天の滝上流を飛んでいた。河童への是正勧告のためだ。
V字の水しぶきを後ろに散らしながら渓流の道を低く低く猛進する。岩で砕けた水泡が時々文の体を濡らした。耳障りにはためく礼装の袖も、徐々に迫る大瀑布のとどろきも、文は気に留めなかった。
「まだすべて理解するには足りないのか」
文はあの大天狗の容赦ない策謀を臨時任務のたび目の当たりにしてきた。指示に逆らったことはない。縦社会という鎖もあるが、それ以上に飯綱丸の指示がまこと理に適っていて反対する隙がなかったのだ。
しかしそのうち恐ろしくなった。自分で考え行動しているつもりでも、すべてが他者の目論見通りなら自由意思はあるのか? 都合よく操られているだけではないのか?
巨大な鳥籠を大空と信じこむほど虚しいこともない。
文が飯綱丸の思惑を当てたがるのは、要は一種の抵抗だった。
古来より妖怪の持つ恐ろしさとは“分からない”恐怖に由来する。であれば、言動に隠れた意図を暴き“分かって”やれば、飯綱丸という大妖を理解の檻に閉じこめることができるのだ。
「貴方を暴ききる。必ず」
どうどうどうどうと落水の音が強まる。はやる感情は速度に転化し、文は黒翼を剥き出して滝壺へ身を投げた。
落ちる!
その瞬間、翼で空を叩き舞い上がる。風圧でめくれ上がった波が川辺で機械を弄るにとりをぶっ叩いた。
「ひゅいっ!?」
水色のツインテールがびしょ濡れになる。にとりは岸に座りこんだままブルブルと首を振った。
「ぺっぺっ! クソがっ、誰だよ──」
顔を上げたその表情が凍りついた。逆光に照らされる天狗様の礼服を目撃してしまったからだ。しかしすぐ目が慣れるとにとりはホッとした様子でレンチを放り出した。
「打ち水はもっと丁寧にやってよ」
「あらら、これはすみません、考え事してたもので。貴方に話があるのだけど時間ある?」
文は固い濃灰色の岩肌に音もなく降り立った。
「珍しい服だからか知んないが、いつになく藪から棒だね。どうしたのさ」
「ああ、大天狗様に、お会いした帰りだからね」
自分の格好に気が回った文は顔をしかめた。盃を傾ける仕草の飯綱丸が脳裏をかすめる。
「河童に頼んだ工事が遅れているとのことで、その調査と改善の仕事に来たんですよ。何があったんです?」
文はあえて天狗ではなく、記者らしい口調でにとりに相対した。
「何か? 何って言われても」
「ファニーなアイディアが浮かんだってんで新しい発明を作ってたんですよー! ぜひ取材してやってください!」
「ちょ、おい!」
二人の真横の岩壁の奥──秘密の河童工房から、陽気な声が答えた。目に見えてにとりが慌てだす。
「の、納期は守りますからどうか大目に見ていただけませんかねぇって、旦那に言っといてよ頼むよ」
緑帽子を目深に被ってにとりはヘコヘコする。天狗の発注を脇に置き、発明にかまけていたのが遅れの原因というわけだ。
ボロを出したにとりを見逃すほど文は愚鈍ではないし、付き合いも短くない。相棒であるカメラを診てもらうくらいに信用もしていた。
「現状改善に必要なのは原因の根治です。何故遅れているのか話せますか」
機械とにとりの間に割りこむようにして文はしゃがみこんだ。まごつくにとりに、さらに詰め寄る。
「話してくれます?」
「……いやそれが、ダサい話で。話すけど大天狗様にはごまかしてくれよ。あの人今回の仕事はやたらと急げって怖いからさ」
「それで急がない河童も肝が太いですこと」
緊張をほぐしてやろうと苦笑する文に、にとりは頬をかいた。
「旦那の依頼額はうまくて割の良い仕事だったし、金儲けはでっかいモチベではあるけどねー」
にとりは弄っていた機械に目をやった。金属光沢激しい箱にはボタンやレバーがおびただしく貼りついて近未来感を漂わせる。にとりの顔つきがキッと尖った。
「でもさ、たかねの奴が市場の神と手を組んで新しいことおっぱじめようとしてんだよ? 闇市でたんまり稼ぎやがった後で!」
たかね──山城たかねは河童と張り合う妖怪・山童のリーダーだ。ほんの少し前にも、にとりと個人的なひと悶着があったと聞く。
「それで対抗心が芽生えたと?」
「対抗心、か。そうなのかねぇ」
「思うところがありそうですね」
文の言葉に、にとりは川を眺めた。天高い陽をギラッギラに反射する清流はまるでサイダーだ。眩しそうに目を細めてにとりは語り始める。
「今回の旦那の工事はカードビジネスで育った山の経済網を、もっと発展させたいってことで始まったらしいんだけどさ」
「ええそうね」
「そういう商才とか経済って山童の連中のがお似合いなんだよ。河童はエンジニアだし作って売る以上のことも簡単に思いつかない。なのに旦那は我々を指名したんだ。普通考えられない」
「山童が闇市で利益を得た分、仕事から干された……と?」
にとりはためらいがちに頷いた。
「多分たかねも分かってる。それでいて旦那の前の破談相手とねんごろしてるんだ。アイツの進めてることは虫がいいことだろうけど、まあ貪欲なんだよ。負けてらんないじゃん」
龍鱗のようにこまごまと輝く川面がにとりの表情を照らし出した。
「全然ダサくないじゃない」
にとりがポッと茹で上がったのを文は小さく笑った。
河童も山童も一応は天狗の傘下、という関係だ。工房の奥からは賑やかな声とマシーンの稼働音が聞こえてくる。時折鳴り響くやかましい金属音も面白い営みの一部分だ。
刺激し合う関係。ライバル。それも異種族同士で。
組織行動を是として縦社会を築く天狗とは根底から違う。身内で固まりがちの天狗にとって、自由奔放な河童のマネジメントは難しいミッションだったろう。
──では任せよう。
あの大天狗はそんな任務をえらく自信満々に言い渡したのだ。文は透き通った青空を静かに見上げた。
「どしたの?」
「……いえ、まあ最終的に遅滞なく結果を提出できれば上も文句はないでしょう。『河童は技術開発に余念がなく、天狗に大いに貢献するだろう』とでも報告しときます」
「んあ、ありがと」
「工期はちゃんと短縮してくださいね? でないとあの人に干されます」
全力で頷くにとりに「頼みますよ」と文は念を押し、袖の下からペンとネタ帳を引っぱり出した。立場の転換とぴったり重ねて。
「それはそれとして、ね、この大仰な機械が何に使えるか気になるのですよ。取材よろしいですか?」
***
世界が鮮やかな橙色に変わり、そこに赤が差し薄紫や黄が溶けていく。山の峰が真っ赤にキラキラと燃えている。何十万回と見送ってきた夕焼けでもその日最後の色彩豊かな空模様に飽きた試しはない。
「ふふっ、ほんとヘンテコな機械」
取材記録を書き留めたネタ帳を見返しながら文は飛んで家路についていた。
「『内部でキュウリを缶詰加工しながら余ったヘタを銃弾に変えて撃つ移動砲台』……字面だけで意味不明で最高。あっははは!」
妖怪の山が笑い声に震えた。ネタはやはり未踏の領域から掘り当てたものこそ面白い。引きこもり新聞に同じ芸当は無理だろう。ご機嫌な文の表情は見る間にしぼんでいった。
「このまま推敲に取り掛かりたいのになぁ」
すでに太陽は半分が沈み、飯綱丸との飲みの約束が近づきつつある。これが宴会ならまだマシなものを、約束はおそらく飯綱丸と一対一。酒がマズくなる未来しか浮かばない。
「あーあ。ん?」
自宅の真上まで帰ってきた文は異常に気がついた。彼女の家は集落からは少し離れた場所にあり、来訪者自体が稀なことだ。
そのはずが、艶やかなしっぽと狐耳を持ったそいつが、玄関扉にもたれかかっている。文は舌打ちし、咆哮にも似た音と速度で土に落ちた。
「何の御用でしょう。飲みのお誘いが消えでもしました?」
「こほっこほっ、いいえ主人の伝言ですよ。服装は普段着で構わないとのことです」
「あらそうですか」
服の土埃を払う典を尻目に、文は無駄に下駄を鳴らして一歩出る。主人の命令が済んだなら帰れと、厄介払いの態度を隠そうともしない。
「射命丸どのは今のご自分の立場が当然約束されたものとお思いですか?」
典は扉に体を押しつけて文を見上げた。
「私はそう思いません。同族びいきが根強いこの社会において、あの方だけが私を重用してくださる。得がたい幸福を賜っていると私は理解しているのですよ」
「着替えたいから早くどいて欲しいのだけど」
「飯綱丸様は慈悲深い御方です。射命丸どの」
笑みすら浮かべて弱小妖怪が食い下がる。管狐の言葉に乗せられるのは馬鹿だ。馬鹿だが、文はぎゅっと眉を寄せた。
「あの方は恐ろしく賢い。厄介者に操り糸を付ける手腕とか、まさしくね」
呼び出しては仕事を投げつけてくる飯綱丸を想起する。
「そのように恐れずとも見惚れれば良いではありませんか、それがあの方の御業ですよ」
「術を介して従うケモノに我々の支配構造は理解できませんよ」
「感謝なさいと申し上げているんです。山社会のために心を砕く主が、貴方お一人を気にかけておられる」
「社会のために気にかけているのでしょう? それを囲いこみだと言っているんです」
文はフンと鼻を鳴らした。飯綱丸は山を預かる大天狗としてすべてを規則正しく順行させている。星のようにあれ、と皆々に課す。
組織の維持発展には必要なことかもしれない。だが窮屈だ。迷惑だ。気持ちが悪い。
典は細身を折り畳んで牙を見せた。
「口を慎まれよ」
「頼み事なら順序を心得たらいかが?」
妖怪としての力量は天地の差。管狐に勝てる道理はない。しかし気の強さは互角であった。狐と鴉の最悪極まる空気を青い雷がほんわりと裂いた。
「まったく麓は暑いなあ、日暮れでこれか」
背後の声に文は振り向いた。
夜を先取りした黒外套がはためき、黄金の肩当ては夕日を集め、尚のことまばゆく威光を散りばめる。ぬぐった額の汗すら星屑のようだ。
「飯綱丸様っ!」
典は冷戦を放り捨てて文の横をすり抜けた。
「典、ずっと帰らないから探したよ。お前がいないと大事な留守番がいなくなってしまうでしょう」
「ぐすん、申し訳ありません」
「よしよし。戻るついでに一つ頼まれて欲しいんだけどね」
あざとく鳴くペットの頭を、腰をかがめてまで撫でている。あの狐とはどこまでも見えている世界が違うのだと文は軽蔑の目で流した。飯綱丸は自分の外套と肩当てを脱いで典の細腕に押しつける。
「これを任せる。しっかり持って帰りなさい」
「ふふふっ……、はあい」
典はしっぽを振り回し肩当てを抱きこみ外套を雨ガッパのように被って、たったかたーと駆け去った。小さな背中は夕暮れに溶けこんですぐ見えなくなった。
「あれなら典はまっすぐ家に帰るし、寂しがらずに過ごせるだろうよ」
独り言らしいそれを、放置した管狐が山で騒ぎを起こさないように仕事を与えて縛ったのだと文は解釈した。
「さて、着替えて行こうか。案内を頼む」
「お言葉ですが、私には飯綱丸様のご身分にふさわしい料亭へお連れすることなど到底」
「射命丸」
大天狗は身軽になった肩を指した。気を張るなと言いたいんだろうが文は退路を断たれた形となる。歩み寄る飯綱丸は体格で勝り、文を余裕で見下ろした。これでも下駄の歯は文の方が長かった。
「初めてのサシだ。いらぬことは考えず無礼講で楽しもうじゃないの」
「はははは。お気遣い感謝いたします」
気さくに肩を叩かれ寄せられ、文は顔を引きつらせる。長い長い夜の始まりだ。
*******
真っ白い月が淡い輪光を放ち、灰色の雲が濃紺の闇にたなびいている。青のワンピースと白黒の洋装が翼を広げてはるか空を切り裂いていた。人里の灯を通過する。
「おや?」
文に追随する飯綱丸は楽しげに語尾を上げた。
『人間かぶれの変わり者』と身内にからかわれるあの文が人里に出向かない。翼を焦がす期待の視線を羽ばたきでごまかし、文は目当てに辿り着いた。
魔法の森入口近くの手狭な空き地にぽつんと屋台が一つ。『八目鰻』の筆文字が泳ぐ赤提灯をあごで示した。
「あそこです」
「ふむふむ、では」
流星が二つ、草むらに落ちた。虫は一斉に沈黙し、よどんでいた熱気も風の刃で吹き散らされる。天狗の降臨に逃げ出さなかったのは屋台と店主だけだった。この道十数年、妖怪・夜雀の店だ。
「こんばんはミスティアさん」
「いらっしゃーい。……あれ、そっちの人は見たことない気がする」
「はじめまして。飯綱丸と言います」
店主ミスティアに首をかしげられ、文の陰に潜んでいた彼女はにこりと微笑んで暖簾をくぐった。
「部下の射命丸がいつも世話になっています。この店がうまいと聞いたので一度足を運んでみたかったのですよ」
「そうなの? うれしーい」
「……こほん。それにしても店主殿は顔なじみの客をよく判っていらっしゃる」
「ま、まあねっ」
「その覚えの良さと心配りに感心致しましたよ。馴染みの客を大切にするお姿は、商売人の私としましても参考にさせていただきたい」
「まあね!」
ミスティアの羽が可愛らしく揺れた。記憶力を褒められることは元より忘れっぽい彼女にとって心根に届く賞賛だったのだろう。胸を張るミスティアに飯綱丸は笑みを深める。
「神は細部に宿ると言います。店の経営もお忙しいでしょうに、一体どのような取り組みを──」
「ミスティアさん。ひとまず“いつもの”ください。二人分で」
「あ、はーい。えーと取り組みは、そうねっ、メモを忘れないこと!」
二人に割りこむ形で文は横から注文を投げつけた。自分の行きつけの店なのに上司に舵取りされたくない。そんな前のめりの焦りがなかったと言えば、嘘になる。
「注文ありがとうね?」
「……お気になさらず」
「ふふふ」
会話もフェードアウトし、飯綱丸は三つ横並びした席の真ん中に座った。迷いない振る舞いに文は怪訝な顔をしたが、渋々右の端の端の端に詰めて腰を下ろす。
「はいお通しです」
ものの一分で簡単な軽食が差し出される。小鉢に盛られた枝豆をぷちぷち噛みながら文は左隣に神経を尖らせた。
飯綱丸は小鉢そのものを見定めているらしく、藍色の麻の葉柄をじっくりと回し見て台に戻した。
「悪くない店だ。器の細部もケチ臭くない」
「お気に召したようで何よりです」
ミスティアへの声掛けは単なるお世辞でもなかったらしい。
お通しの次は酒盛りの主役がご登場。一升瓶と一合枡がドン、ドドンと二人の面前に並べられた。瓶に至っては十本もある。これでも酒豪妖怪の天狗にかかれば水よりたやすく呑めてしまう酒量だった。
「店主殿、ここは良いよ、また日を改めてお話が聞きたいね。ぜひご留意いただきたい。お願いできますか?」
「任せてよっ。ふふん、今日は楽しんでくださいね」
「ええ。そうさせていただきます」
飯綱丸に手を振り、ミスティアは看板メニューを準備しにカウンターの向こうに消えた。
「なつのそらぁ♪ よるのなみぃ♪」
バシャン、ビチャッ、ビチビチッと生々しい音が響く。屋台の奥で店主が桶の八目鰻と格闘しているのだ。どでかい唄がひっきりなしに聞こえるあたり、ミスティアは相当ご機嫌らしい。
奇祭のような歌と光景に紛れて文は飯綱丸に耳打ちした。
「彼女が記憶力を気にしてること知ってたんですか?」
「ああ、話しぶりから何となく察せたよ。覚えに自信はなさそうだが分からないと開き直ってもいなかったし」
「……なるほど」
人をそそのかす管狐の主人にしてデタラメ新聞で遊ぶ鴉天狗たちの大将、それが飯綱丸龍だ。言葉から匂い立つ真意を見抜くのはお手の物というわけだ。
飯綱丸は酒瓶のコルクを抜くと部下の分、自分の分と順に注ぎ入れた。
「まあ、あくまで理由の半分ね」
「は?」
憮然とする文をニッと笑い、飯綱丸は一合枡を軽く突き合わせる。「もう半分はお前の新聞よ」と、そのまま喉を鳴らして飲み干した。
それはつまり、日頃から文の新聞に目を通しているというわけで。ちゃちに済まされた乾杯が急に恐ろしくもこぞばゆくもなり、文もちびりと喉を潤した。
「一記者の紙面を、よくご存じで」
「お前の文々。』は人間にも浸透している稀有な新聞だからね。覚えが良いのは当然でしょう。良くも悪くも」
甘じょっぱい醤油ダレの香りが屋台を包む。串に刺された八目鰻の切り身が木炭の上でチリチリと身を焦がし、垂れた脂からじゅわりと煙が上がった。
「しかしねぇ、巫女の観察日記じゃあ面白がる天狗はいないよ。購読数に繋げる点から見て無駄が多い」
「私は私が面白いと考える出来事を追求しているに過ぎません。それが私のスタイルですし譲歩する気もない。むしろ外の空気が持てはやされるよう社会の方を変えてくださいよ」
カウンターを叩く鬼気迫る勢いを飯綱丸はにこやかに受け止めた。
「善処しよう。凝り固まった思想や体制は動きづらくて敵わんからね。お前もそう思うでしょう?」
む、と言葉に詰まった文はじっと視界の隅に思考を集めた。
「私は、新聞大会で賞を取れるなら、それで構いませんから」
「あら。そうか」
飯綱丸は明らかに盛り下がった声で二杯目を注いだ。
どうせ演技だ、と文は心の中で吐き捨てる。私のもとで志を共にしないか、とでも誘ったのだろう。都合のいい駒が手からすり抜けたとでも思ったに違いない。
無自覚に絡め取られる危機感と白星をあげた高揚感のままかきこんだ酒はやたらと辛く、文は咳こんだ。
「はいお待ちどお、蒲焼きだよー」
「ごほっ、いただきます」
「かたじけない」
白磁の長皿に串刺しの蒲焼きが一人四本配られた。かの月の大地を征服したと伝え聞く人間国家の旗を思わせるような、堂々たる佇まいだ。流石は看板メニューといったところか。
ちぢれてそり返った照り焼きの身に炭火の燻し具合が加わって唾を誘う。くるくると串を回せばたっぷりタレのかかった肉がダイヤの輝きを煌めかせた。
飯綱丸はおそるおそる、文は迷いなくかじりついた。
弾力ある赤身肉からは脂があふれ、コクのある甘辛ダレと噛み合うと夢心地の舌触りを生みだす。ごくりと飲みこめば炭火の残り香が名残惜しく口を包んだ。
風味のクセが強いが、それがどうしておつまみに最高だ。大酒呑みの二人して一合枡にちびちび口をつけつつ、なめらかで血の気みなぎる味を堪能した。
「こんなに美味いとは知らなかった!」
「へへ~そうでしょ」
はしゃぐ飯綱丸を横目に、文は塩もみキュウリに冷奴など提供の早いメニューを立て続けに注文していった。
食事はもう十分だった。それでも飲み食いに口を動かせば飯綱丸との問答も少なく済む。文にとってはそちらの方がよほど重く見るべき課題だったのだ。
旨そうにがっつく飯綱丸に微笑を送り、文はまたミスティアを呼び止めた。
*******
「新聞で思い出したよ。お前、アビリティカードだ。お前はあれをついぞ記事にしてくれなかったね。いやはや残念よ」
徐々に食も細くなり「酒を補充しに行く」とミスティアが店を離れたタイミングでこれだ。対策もいよいよ限界か。文は顔をしかめて腹を決めた。
「残念も何も、天狗はごまんといるのに私だけカードになってるんです。警戒くらいしますとも」
「その様子なら取材はしてくれたようね」
「麓の世情を見るばかりではありませんから」
図らずも飯綱丸を出し抜けていたことに文は笑みを隠して酒をすする。手持ちの分はこれで空になってしまった。
「お前が関心を持って調べる確信はあった。記事にまとめて宣伝させて、人里への販路拡大の布石にしようとかいろいろ練っていたんだけどねぇ」
飯綱丸は椅子にもたれかかり手遊びのつもりか枡を揺らす。酒に映りこむ彼女の像が歪み、赤提灯の灯が散乱した。
「まあ過ぎたことだが、お前は記事にしなかった。お前の言を借りるならアビリティカードは面白くなかったということ?」
「それは」
文は言葉に迷った。らしくなかったからだ、飯綱丸が。
畳んだビジネスに執着せず全く別の策を打ち出していくのが、文の知る彼女だ。管狐を扱えるのもそんな性分あってのことだろう。彼女の問いが今後に活かすつもりのアンケートなら理解できた。
だが今、飯綱丸が漂わせているのは寂寥の念だ。過去への思いだ。文を躍起にさせてきた合理性の塊のような才人はそこにいなかった。
見てはいけないものを目撃したような……それとも見たくなかったものか?
文は惑乱した。
「少し、かじった程度ですが、興味深かったですよ。カードの組み合わせを試す者やらコレクターやら、賑わってもいましたし」
言葉を慎重につまみながら隣をうかがう。静けさが肌にへばりつく。やかましい店主の唄をこれほど恋しいと思ったこともなかった。
文は懐からネタ帳を取り出し、最奥に眠らせていた一枚を引っ張り出した。
偉そうなポーズの黒い人影(おそらく文を模している)が赤い下駄を履いたイラストが描かれたそれはアビリティカード『疾風の下駄』──文をモデルに、飯綱丸が作ったカードだ。カドが削れてくたびれた様はカードビジネスの凋落を黙して語っていた。
「まだ持っててくれたとはね。驚いた」
「貴方がこの程度で驚くわけないでしょうが」
「ほう」と飯綱丸の顔が厳しくなる。
「何が、不満だった?」
「不満くらい出ますよ。これが弱い弱いとあちこちで言われていたんですから」
平然と言い捨てられたクレームに、遅れて屋台の天井がどっと揺れた。
「く、あっはははは! なんだそんなことか!」
「はあ!?」
「可愛らしいねぇお前は」
「的外れですッ」
頭を貸しなさい。やめてください。よしよしと伸びてくる腕をコバエのようにはたき落とした。
実際、このカードの評価はよろしくなかった。
『疾風の下駄』は回避に特化した尖り性能がウリだ。幻想郷最速を名乗る文に肉薄し、多少の被弾もごまかせるほどに突き詰めた、圧倒的な、抜きんでた速さ。
しかし元から素早い天狗にはさして新鮮味がなく、他の人妖では目が追いつかず事故のもと。博麗の巫女にも「すっごく使いにくかった」と不満をぶつけられ、カードの値段も下がりに下がって散々な思いをしていた。
それでも文が手放さなかったのは仮にも自分の姿を冠した“恥”が他人に渡るのを嫌ったからだ。
「天狗の威信が傷つくのを危惧したのです。天狗自体弱いなどと万が一にも我々が見くびられては困ると思い、独自で回収に勤しんでいたのです」
拡大誇張した真実を平然と語る。眉を上げた飯綱丸がわざとらしく相槌を打った。
「だから記事にしなかったと。他の理由もあるでしょう? 賢いお前のことだもの」
「……む」
文は唇を曲げた。天狗らしい狡猾な笑みをたたえて、飯綱丸はどうかしたかと首をかしげてくる。得意げな様子も見せずに余った酒を勧めてくるのを文はすげなく断った。
──飯綱丸様は慈悲深い御方です。
固く見つめてくる黄金の瞳。思い出された管狐の囁きが心に毒を撒いた。
「そんなはずがあるもんですか」
小さく、小さく零して、すっからかんの酒に代えて唾を飲みこむ。自分の理解は間違っていない。飯綱丸の言動が証明している。たかがペットの戯れ言だ。
心を見透かされた不快感に紛れ、文はかすかに“いつもの飯綱丸”との直面に安堵していた。
***
そのうちミスティアが帰ってきて飯綱丸が新しい酒を注文する。屋台が賑やかさを取り戻し始めると、カウンターに横たわったままの『疾風の下駄』に青い腕が触れた。
「私はね、この性能が実にお前らしいと思ってるんだ」
「私らしい?」
「すこぶる速くて使いにくいところとか、まあそっくりじゃないか」
「使いにくいですか」
「自覚がないの?」
飯綱丸が苦笑いする。そうではなく、使いにくいと知ったうえでこんな恥晒しな設計にしたのか。そっちの方が問題ではないか。
「お前の仕事ぶりは信頼しているよ。成果はきっちり収めている。今日任せた河童の相手も上手くやってくれただろう」
「報告はまだしていませんが」
「信頼していると言ったでしょうに」
青い腕がカードのふちをゆっくりなぞる。
「結果を出す以上は優秀だ。たとえ腹にどんなものを抱えてようとね」
コツ、と指がイラストの文を叩く。文の背筋が粟立った。
「いつからですか」
「お前は顔だけは正直だ。分かりやすかったよ」
なんてことだ。文の瞳は痙攣したままカウンターに留められた。確かめるように自分の頬をぺたぺた触る。狐がウザく絡んできた段階で悟るべきだった。
「安心なさい。何故お前がそんなことを繰り返すのか詮索する気はないよ」
「それは、興味がないからですか?」
飯綱丸はカラカラと笑って酒を二人分注ぎ直した。
「業務に支障が出ないなら目くじらは立てないさ。河童どもとお前はそこが違う」
あの管狐がこの場にいたら「飯綱丸様は寛大だ、お優しい」と褒めそやすのだろうな。文はざらついた心で想像する。
しかしだとしたら、その寛大さは無関心が根っこだ。飯綱丸は天狗社会への貢献度合いを物事の尺度にしている。合理主義の女天狗が持つにふさわしい価値基準と思えば文の胸の空虚さは幾分か和らいだ。
「分からないと言えばあいつもそうだったな」
「あいつとは?」
「千亦だよ。カードビジネスの協力者として見繕った市場の神でね、私を出し抜こうと噛みついてきた豪胆な女だった。ああまで骨のある神と初めから知っていれば……ハハ、もっと違う付き合いから始めて良かったものを」
やたら雄弁なのをごまかすように飯綱丸は酒をかっ食らう。その視線の先は徐々に遠くなり、文と逆を向いてしまった。鴉がすかさず追いかける。
「違った付き合いをしたらどうなってたんです?」
「それは当然、ビジネスが長続きしただろうね」
キッパリと言い切られて文は眉根を寄せた。『ビジネスが長続きした』?
字面通りに受け取ればいいのに、染みついた癖が余計な深読みを促す。
アビリティカードの話をした飯綱丸の“らしくない”顔を思い出して、そういえば今回の工事もカードビジネスの遺産の延長線上にあったと思い出して。今の言葉にも“らしくない”背景を邪推する。眉間のシワは黙々と深くなった。
「話が逸れたけど、こいつは別に弱くない。時と加減を間違えなければ最高のパフォーマンスを魅せてくれる。ね、お前らしいでしょう?」
「そこまで言うのなら使いこなせますよね」
返還された『疾風の下駄』を文は直接突き返す。カードを見て文を見て、飯綱丸は鼻で笑った。
「残念だけど無理ね」
「なっ……」
「市場のルールを覚えてる?」
そして呆れたように文の眉間を指で押す。あやっと鳴いたのをかき消すように文は患部をさすった。
「取材中に聞きました。でもとっくに廃れてると思ってましたが」
「そんなことはない。千亦の決めた法はずっと生きている。カードが取引され続ける限りずっとね」
アビリティカードの取引には面倒なルールがいくつも存在した。その一つが“金銭を介した交換でしか取引できない”というもので、これを破れば魔力を宿した娯楽品は紙クズに成り下がった。奪ったり譲ったり拾ったりでは駄目なのだ。
「この理はカード発明者の私にだって破壊できない。だからそのカードを託されても、ねぇ」
紙クズ確定の道具には利用手段もない、と言うのだ。理屈は分かるがしかし飯綱丸に勝ち逃げされた気分で腑に落ちない。懐に仕舞うことも押しつけることもできず、文は“恥”を手のひらで持て余した。
『疾風の下駄』にひたり、と薄いものが重なり合う。同じサイズ、同じ魔力、文のとは異なりご丁寧に透明スリーブに入れられている。飯綱丸はイタズラっぽく笑った。
「つまりトレードすれば問題ないというわけだ」
重ね合わされたそれは、アビリティカード『大天狗の麦飯』。飯綱丸の能力を封じこめたカードであり、パワー強化と同時に周囲の弾幕を消し去る無駄のない性能から人気の高いカードだった。茫然と口を開ける文に飯綱丸は喉を鳴らして笑った。
「ごめんねぇ、手放すには少々惜しかったからお前の反応を見たかったの」
指に挟まれた『大天狗の麦飯』がひらひら踊る。
「お前のカードを使いこなしてみせろ、だったか? いいとも。ただしそれだけじゃ味気ないからお前にも付き合ってもらうよ」
「……」
沈黙を好意的に受け取った飯綱丸は爽やかに左手を挙げた。
「店主殿、一番上等な酒を二升」
「はいよー」
「ちなみにどんな酒かな」
「ふふ、雀酒っていうお酒で──」
飯綱丸とミスティアが盛り上がる横で、文は着々と決意を固めていた。なし崩し的に得た、この千載一遇の機会を逃すものか。
「ミスティアさん。お酒はあの盃に注いでもらえますか」
「え、あの盃? お二人とも天狗だから大丈夫だろうけど、あれは……」
「お願いします」
文の真剣な眼差しに押されたミスティアはカウンターの裏から巨大な酒器をよいしょと持ち出した。両腕でやっと抱えこめる大きさの立派な朱色の盃だ。高級料亭でも滅多にお目にかかれないだろう器がまさか二人分。流石の飯綱丸も感嘆の息を漏らした。
「これはどういった経緯で?」
「萃香が昔持ちこんだんですよ。私と飲み比べをするためにってね」
文の答えに、珍しく飯綱丸の表情が崩れた。なみなみと一人一升分の酒が大杯に満たされる。
「前祝いにちょうどいいでしょう。飯綱丸様もそのために良い酒を注文なさったのではないですか?」
「……なんだ、お前も乗り気そうで良かったよ」
飯綱丸は歯を見せると盃を重たそうに支えた。文もそれにならう。
「では射命丸。乾杯」
「乾杯」
器を両手持ちにして腹に流しこんでいく。こぼさないように角度を整えてじっくりと。上等酒にふさわしく甘い舌触りが喉を愛撫する。惜しみもせず一口で飲み干した飯綱丸は冬の温泉に首まで浸かったような声を上げて口元をぬぐった。
「いやあ実にうまかった。なあ……ん?」
横の席に文がいない。酒はきっかり平らげてあり濡れた器の底が優しく光っている。
「飯綱丸龍様」
文の声は屋台の外からだった。両腿をそろえた清潔な立ち姿で飯綱丸の真後ろに佇んでいる。生真面目な顔つきは酒の影響をかけらも感じさせない。文は堂々と言い放った。
「貴方に、スペルカードルールに準じた決闘を申しこみたい」
*******
決闘の場に選ばれたのは屋台から西に少々飛んだ、短い草生い茂る小高い丘だった。人妖の気配も痕跡もない。真夜中の湖面のような静けさをたたえた決闘場を、淡い虹色の月光が包んでいた。
「最適なロケーションじゃないか。お前は本当に山外の知見をよく蓄えている」
飯綱丸は丘のてっぺんから辺りを見回すと、取引したての『疾風の下駄』を服の下へ収めた。
対する『大天狗の麦飯』は文の胸ポケットの中だ。魔力を補充した証にポケットから虹色の光が漏れ出している。
「しかし不思議ね。非好戦家を自称するお前が“決闘”と銘打つとは。私は遊びに留めて構わなかったのに」
「それが礼儀かと思いましたので」
「ハッ、お前が今更礼儀とは! ……いや、待て」
飯綱丸は腕組みしてじっと考えこんだ。礼儀ねぇと呟きながら時間をかけて言葉を咀嚼する。
「お前にとって此度の勝敗が、何か、重要な意味を帯びてそうね」
「意味の中身は気になさらないんですか?」
「なんだ思わせぶりな。尋ねてほしいの?」
「眼中にないと助かりますね」
「あっはっは! では私が勝ったら聞かせてもらおうかな。そちらの方が興が乗る」
飯綱丸の瞳が赤熱する。文と対照的に彼女は大の戦闘好きだった。機嫌よく身だしなみを整え始めたのは、戦いの前準備のつもりなんだろう。文は自身の胸のカードをじいと見つめた。
(貴方への理解が正しかったか、今日ハッキリさせようじゃない)
偶然か必然か、転がりこんできた飯綱丸のカード。そして自己表現の作品とも言えるスペルカードを撃ち合う戦いを交える。カードを使いこなし勝利した暁には、それこそ文は飯綱丸を理解できたと言えるはずだ。
飯綱丸に褒められるつもりはない。自分の力を見せびらかす気もないし並び立ちたいわけでもない。見下したいわけでもない。
乗り越えるのだ。飯綱丸という存在への恐怖を。
「ルールを示し合わせておこうか。第一にスペルカードの攻略は時間切れのみ、使用枚数は一枚としよう」
話しかけてくる飯綱丸はそれまでの興奮を巧妙に隠していた。最も自信ある一枚を相手に制限時間丸ごと向かい合わねばならない、実力が浮き出る明快なルール。文は了承した。
「第二に、何でも良い、胴に一発先に当てた方を勝ちとしよう」
こちらは変則的。引っかかる言い方だった。
「何故胴体に絞るのです?」
「うっかり手やら足やら出そうじゃないか。うっかりね」
飯綱丸は楽しそうに拳を開閉させる。三脚も装備していないくせに満面の笑顔だった。
「はあ、貴方らしいと言いますか」
「お前にも悪い話じゃないでしょう? 体術は得意分野のはず」
「さあどうだったやら。久しく戦ってませんから」
「力を秘匿する姿勢は美徳だ。でもね、射命丸」
飯綱丸が背を向ける。大股で離れていくその背を注視し、文は紅葉をかたどった団扇を腰のベルトから抜き払った。
「手加減無用だ」
それが前口上となった。
文は後方に飛び上がり地上の飯綱丸目がけて扇を薙ぐ。
まずは小手調べ。五つの円弾が横一文字の軌道で射出される。文らしい速攻にして高速の連撃だ。
飯綱丸は涼しい顔でそれらをあしらい一気に飛び立つ。そのまま片手を掲げて返しの弾幕を展開した。
青白く発光する星型弾が巨大五芒星を成したと思えば、その一粒一粒が崩れシャワーとなって文を襲う。吸いついてくるような弾の挙動は思い当たりがあった。
(追尾弾か)
翼にみなぎらせていた力を緩める。
この手の弾幕はこちらの居所を狙い撃つように降ってくる。裏を返せば弾の誘導が可能で、基本の対処法は十分引きつけてから小刻みな動きでかわすことだ。
求められるのは瞬発力ではなく、じっくりした正確さと集中力にある。幻想郷最速に釣り合う反射神経を持つ文からすれば難しい相手ではない。
高速と低速。対極の弾幕を二人は撃ち合い続けた。
しかし余裕ぶることなく、文の瞳孔は飯綱丸を追っていた。
(こんなトロくさい弾幕で終わらせるような人じゃない)
天狗の一番の武器は、速さだ。
飯綱丸に至っては文の能力が注ぎこまれた『疾風の下駄』を持っている。あの大天狗のことだ、手に入れた超高速を腐らせるようなロスはしない。
(どこで使ってくる?)
文の思考は先を見据えていた。悪く言えば目の前の応酬をおろそかにしたのだ。
風の乱れを感知するにも一瞬、遅れが生じた。
「────は!?」
飯綱丸の接近を目鼻の先にまで許し、直後地上に突き落とされる。張り手か何かを受けた左肩が潰れた悲鳴を上げた。肩はセーフだ、まだ戦える。
「ぐ」
噴き上がる衝撃波。着地後の痺れが文の膝を駆け上がる。だが風と羽を操って無理くり果たした両足着地だ、膝は伸びきり尻もち必至の体勢で、そこに間髪入れず空気が唸る。
大上段から文の腹に振り落とされるそれは脚だ。かかと落としが迫っていた。
「ちっ!」
文は右手で団扇を振るった。飛びのいたって間に合わないと反射的に理解していた。
地面を叩いた天狗の団扇は暴風をほとばしらせ、風のかたまりが膨れ上がる。ビュウ!と煽られ文は体ごと左方に吹き飛んだ。
「……っぺ」
土を吐き出す。
もうもうと煙が晴れると、文のいた場所は円形の破壊痕ができていた。湿っぽい表面の土が丸ごと抉れ、ちぎれた草の根が折り重なっている。
足技一発で、これだ。避けたのは英断だ。もし受け止めようと構えていたら……考えただけで腕がヤク中みたく震えた。
「重い……」
「オイ、私だって女のなりをしてるんだぞ?」
体重の話は禁句だ、とズレた冗談を交える飯綱丸。ユーモアをくるんだ表情はまったく段違いの貫禄を帯びて文を吠え転がした。いまだ動揺から抜け出せない文には抜群の精神攻撃だ。心の揺らぎは妖怪の最たる弱点だった。
飯綱丸に釘づけになり、衣服の汚れも忘れて文はふらりと立ち上がる。
(ありえない。私より速く動けるわけがない)
力で劣っても速さなら負けない。たとえ相手がカードの力を借りても己の反射神経を上回りはしないと、文は絶対の自信を抱いていた。
でなければ『疾風の下駄』に負ける自分こそが恥の汚名を被る。それだけは、あってはならないのに。
「私がお前より速く動いたと思ってる? 違うな、お前がなまったんだ。遅い弾ばかり見たせいで」
文はハッと息をのんだ。飯綱丸の行動が綺麗に繋がる。
それは速さで勝る文を出し抜く策略であり、精神的優位を得る盤面制圧であり、『弾幕を放つ最中は高速移動できない疾風の下駄』の弱点を打ち消す立ち回りであった。
どこまでいっても抜け目がない。飯綱丸は呵々(かか)と笑った。
「手加減無用と言ったんだ。私だけ手を抜くわけがないだろう!」
両手を広げて声高に発する絶対的強者。
裏返って、それは挑発だった。「お前も本気を出したらどうだ」と、文を追い詰めようというのだ。
「フン、言われるまでもなく」
脱臼寸前の左肩を回し、文は不敵に大見得を切った。
妖怪はこの程度すぐ癒える。傷を庇うなら空に戻るべきだが飯綱丸は許さないだろう。それに何より、文も蹴りには自負があった。
(得意分野で二度も後れを取るものですか)
心が揺らいで弱るなら、反対に確固たる意志は何物をも斬り裂く剣となる。
文の闘気を感じ取ったか、戦闘狂は糸切り歯を舌で掬い舐める。文はスカートについた泥を乱雑にはたいた。
三十メートルの間合い。その直線状に茂る草花は、一瞬でコマ切れになった。
爆風が遅れて丘全体に伸びる。音が動作に出遅れる。それは移動物体のスピードが音速超過の域に達する証だった。遠く、森に沈む魔女たちの家が鈍く震撼した。
「──ああ、お前はこうでなくてはなあ」
飯綱丸はほくそ笑んだ。脇腹に迫った文のスネを腕で防ぎきって。
文は二発蹴りこんでいた。三十メートルを瞬間で詰め、左脚で腿を、体をよじり次いで右脚で胴を狙った。
『疾風の下駄』は反応速度まで向上させない。本来速度で劣る飯綱丸が凌げたのは、防御ただ一点に集中したからに違いない。
(私を煽っておきながら随分冷静ね)
戦況に応じて攻めと守りを切り替える柔軟な手腕。大局を俯瞰する視座の高さは一朝一夕で身につかないだろう。
飯綱丸の智略は、やはり文を阻む高い壁であるのだ。今この時も。
それでいい。
彼女はやはり、文がその腹を読もうと日々思考を研磨させる、あの飯綱丸龍なのだ。
一畳分の距離を取る文。ぴんと張った姿勢は彼女自身が弦のようで、頬の横に構えた扇はまさにつがえた矢じりであった。
「貴方を打ち倒して私は正しかったと証明する!」
扇が空を貫く。
からくも避けた飯綱丸を一歩、二歩と後ずさらせ、そこに回し蹴りをねじこむ。低い重心から突き出された靴底は飯綱丸の芯を捉えていた。が、防刃ベストのように固く編まれた腕に阻まれ押し戻される。
上体をひねり宙返り。畳みかける。文はその身を竜巻にして攻めたて続けた。並の人妖では目視不可能の斬撃の嵐だ。
飯綱丸に反撃は許さない。スピードと反応速度で上回る文が決めきれないのは、飯綱丸が守備に徹しつつカードの力を引き出しているからだ。
ならば『疾風の下駄』の制約で弾幕は打てない。速さで押せばいつか必ず隙が生まれる。盤面の支配者は文のように思われた。
「どうしたッ、もっと、来いっ!」
風圧で裾を裂かれながら飯綱丸は挑発を繰り返す。後退を続けているのはどっちだ。戦闘狂め。内心毒づく文の瞳もまた高揚に燃えていた。
靴の一本歯がめりこむ勢いで踏み出し、右脚を後ろに引き絞る。
対する飯綱丸は青の衣に巻きつく白い腰帯を抜きとった。長細い布をピンッと両腕で引き伸ばし、両脚を斜め左右に開く。相変わらずの防御の構え。たかが薄っぺらい帯一枚と文は侮らなかった。彼女が無駄な一手を打つわけない。
(怪しげなあれは触れないように──)
振り子刃のごとく脚を振りぬく。布の守りの外から切り崩すため腰を狙う。
「甘い」
白い帯が突如うねりくねった。蛇を思わせる挙動で文の右足首に飛びかかる。巻きつかれた部位は途端に感覚が消えた。動かせない。
混乱する文は地べたに引き倒された。
「ぐッ……!」
背中を強打する。飯綱丸が一瞬でのしかかってきた。文は胴体を狙ってきた腕を掴み取るのに精いっぱいだった。
「その帯は鳥を縛る呪物みたいなものよ。鴉天狗にもこれは効くでしょう?」
丸腰と見せかけ暗器を使って強襲。まさか初めから狙っていたのか。
文は飯綱丸を押し返そうともがいた。
仰向けじゃ羽は使えない。団扇は横に弾かれた。両腕は塞がり右脚は帯に巻かれて動かない。唯一まともな左脚も馬乗りにされていて機能しない。徐々に腕力と体格差が浮き彫りになり、文の肘がミシミシと屈し始めた。
(力じゃ押し負ける……!)
「勝負ありか? つまらん幕引きよ」
飯綱丸の長髪が頬に垂れた。文は歯を軋ませる。押し切られる寸前、文の手の甲が胸ポケットに縋った。
「ん?」
「ぐ、アアアっ!」
『大天狗の麦飯』から虹色が弾ける。文は手のひらに結集する魔力のまま飯綱丸の腕を振り飛ばした。右方へなぎ倒すように。わずかでも飯綱丸を左半身からどかせば十分。そしてそれは叶った。
一瞬を突いて左脚を脱出させアバラに蹴りこむ。威力がなくても問題ない。被弾を嫌った飯綱丸が飛びのいたところに必死に拾った団扇で暴風を食いこます。同時に足首の帯を柄で斬り捨て、飯綱丸に飛び蹴りをみまった。
「うおッ!?」
体勢を崩していた飯綱丸は受け流しきれない。ドオン! ドオンッ!と二発大音量をとどろかせて土煙の奥に吹き飛んだ。文は深追いせずにその場で腰を低く落とす。
「────やっぱり!」
直後青い光弾がこれでもかと襲いかかった。追撃を寄せつけないための飯綱丸の抵抗だ。身をよじってそれらをやり過ごし空中へ逃げる。上を取るのは重要だ。戦略的にも、天狗のプライドとしても。
飯綱丸がゆらりと姿を見せた。
「良い一撃だった! 私のカードで破壊力を高めた蹴り……、うまかったよ」
抉れた腕から血をしたたらせ喉を鳴らす鴉の長。そのくせ理性の光は瞳に煌々と宿しているのだから、文は怖気がした。半壊した腕もすでに修復まで秒読みだ。体力も気力もこの大天狗には底がないのか?
(まずい)
文の視線は余裕なく手持ちのカードに注がれた。『大天狗の麦飯』がススをかぶったように黒ずんでいる。再びカードが彩度を取り戻すまでざっと一分半、再使用は不可能だ。こめかみに汗が滲む。
(あの人がこの好機を見逃してくれるわけがない)
攻防一体の万能カードの消費は手痛い。先の状況では使うしかなかったものの、文の戦略は大きくすぼまる。飯綱丸に攻勢に転じるチャンスを与えてしまう。
それもきっと、苛烈な攻撃が来る。文は団扇の柄を強く握った。
歯をのぞかせた飯綱丸が同高度に迫る。風の刃を何十と放ったが地表に押しとどめきれない。カードを利用した流麗な身のこなしはたやすく文と水平距離まで接近した。
「射命丸。すべてが調和し順行する理想郷を見せてやろう」
スペルカードが高々と宣言される。
──虹光『光風霽月(こうふうせいげつ)』──
宣言からコンマ一秒、虹と星が脈動した。
飯綱丸の周囲から七色の星が吐き出される。虹のレーザーは四方八方から棘のように伸びて夜闇を焼き払う。圧倒的高密度の弾幕の檻。
宙を刻々と逃げ回る体一つ分の隙間だけが、文に許された居場所だった。
「あぶな……ッ!」
後方に胴を飛び込ませると鼻先をバリバリと閃光が走った。腕にも腰にもレーザーの熱がヒリつき、灼けついた大気が肺に殺到する。
すなわち恐怖の注入だった。肉と魂を圧迫する光と音を、抑圧と呼ばずして何と言おう。息つく間もなく文の居どころは焼き崩されていった。
(こんなのまともに避け続けるなんて冗談じゃない!)
八方に張り巡らされる威嚇に耐え、文は身をひるがえす。どうも避けきれずシャツの裾が焦げたらしい。
とっさに盗み見た胸の虹色はいまだ淡く、己の判断力に頼るほかないと告げる。先の近接戦で力をふるった反動が色濃く出始めていた。嫌な汗が背中を伝う。
ジィッと蝉の断末魔を立て、次は靴の一本歯が片方消し飛んだ。足はなるたけ折り畳んで的を縮めていたはず。文はみるみる顔を青くして飯綱丸を探した。
虹と星に囲まれた大天狗の天幕は、約三十度上空に展開されていた。
“上空”だ。文は気づかぬ内に空の支配を奪われていたのだ。
瞳が揺れる。じわりとせり上がるレーザー群を注視しながら文は上昇した。早く飯綱丸と同じところまで──。
(くそ! 遠い!)
辿り着けない。許されない。自慢の翼は望んでもいない空中散歩を満喫させられる。
文は奥歯を噛んだ。
この決闘は終始飯綱丸のペースで進んでいる。彼女の思惑を当てるどころかこちらが弄ばれる始末。昼間は過去一番の読みの手ごたえすら感じていたのに、今となっては逆に遠ざかっているようだ。文は飯綱丸を見上げる。焦りに侵された表情にヒビが入った。
「これ、は?」
空には輝く陣が描かれていた。
飯綱丸に上を取られて弾幕を見上げる構図になった影響だろうか。とにかく文はこの時初めて『光風霽月』の全体像を知った。
レーザーが飯綱丸を中心に五角形を描く。それらは収縮と拡散を繰り返すようにして回転していた。レーザー発射の隙間を縫って星々が円状に飛ぶ。無作為にも思えた弾道は秩序の下に集っているようだった。
他の一切の光を塗り潰し、弾幕の華が夜空に咲き誇っていた。
「きれい……」
ほんの一瞬、見惚れていた文はハッとして灼熱の花びらを決死に避ける。
視界の左端。離れた先に広い空間が生まれた。距離も推し量らずバネの瞬発力で滑りこむ。囲みにかかってくるレーザーを次々くぐり抜け縦横無尽に弾幕の渦中を飛び回った。
(さっきより避けやすくなってる?)
文は自分に混乱していた。飯綱丸が手抜きするはずないし、特別なことはしていない。見つかる隙間に体を入れる──ごく基本的な弾幕の避け方だ。突破方法も何も講じることなくあれほど苦戦した『光風霽月』と渡り合っている。
「やるじゃないか! 動きが変わったぞ」
飯綱丸の弾んだ声が耳に届く。そちらに意識を向けたい衝動をぐっとこらえ、文はゆっくりと空気を取りこんだ。弾幕の嵐に目を細める。
「落ち着け観察。観察よ」
取材と思え。レーザーの軌道とその仕組みを掴み取るのだ。視覚と風の流れに集中しろ。
一度立ち止まり俯瞰できれば、利発な頭脳はすぐ正解に辿り着いた。
このスペルカードには法則性がある。自然界の花が黄金比で形づくられるように、美しさにはやはり一つの調和があった。
レーザーの合間に流れる星々を避けてすぐ飯綱丸の周囲に目を光らせる。細い光線が五芒星を作り出すのを見て文の思考は確信に至った。
(星の頂点がレーザーの開始点なんだ)
右に傾いた五角の星が浮かび、各頂点から火花が彗星のように弧を描いて噴き出す。
(火花は左回りにしなって、レーザーはそこを中心に右回りに撒かれる。なるほどね)
分析の通り、五本伸びた火花の尾を起点として熱線が順々に炸裂する。文は先んじて動き出し、大きなスペースに自信をもって突っこんでいった。スペルカードの法則を看破したからこそ可能な、大胆な位置取りで鮮やかな回避を連発する。
もはや文の動きは“見てから躱す”を超越し完璧な予見を可能としていた。
飯綱丸の策をついにその手に収めたのだ! 文の胸は高鳴った。
「これならいける。勝てる。勝てる! やっと!」
多幸感で背中が張り裂けそうになる。ゾクゾクと喉が震える。物を広く捉えれば難しいことではなかった。
ここに至るキッカケが空を奪われ自分の格下ぶりを痛感した瞬間というのは屈辱だが、しかしもうどうでも良かろう。
華々しい光の繭に包まれた飯綱丸を“水平に”目で追いかけた。その横でレーザーが文にかすり傷一つ与えられず泳いでいく。
焼きつけろ。貴方に、高みに届く────。
次の瞬間、ぺらり、はらり。レーザーの束は紙吹雪のように細々と散った。
星の煌めきを盛大に振り撒いて『光風霽月』が終わりを迎える。スペルカードの時間切れを告げる焦げた大気の香りを、文はいっぱいに吸いこんだ。
「……」
頭が急速に冷えるのを感じた。
レーザー光の残像が闇夜のあちらこちらに漂って見える。耳の奥では熱線の発射音がすすり泣いている。
やがてそれらも消えてしまうと文の世界には完全な黒が戻った。ぶわりと全身が総毛立つ。月や星明かりに気がつけないほど文の思考は沈み、高速で回転していた。
(私は思い違いをしていた?)
光風霽月。心が澄み切ってわだかまりのないこと、転じて世が上手く治まっていることを意味する。
その意味通り、文の心は澄み渡った。代わりに溜まっていた感情の膿を噴き出して。
──スペルカード一枚を避けた程度で何を勝ち誇るのか?
──盤面は常に飯綱丸が有利だった。何も勝てていない。
──そもそも飯綱丸が合理的なだけと誰が言った?
──その振る舞いも、単なる一側面にすぎないのでは?
──ちっぽけな努力だ。
天狗の団扇が右手をすり抜け落ちていく。
それは、いつか気づき、どこかで目を背けていた現実だった。
文は顔を覆った。めまいがした。
「素晴らしい動きだったよ。翼を封じて仕留めるつもりだったのに、よくぞこらえた」
穏やかな賛辞が、まさに墜落しかかっていた文を吊り上げた。
飯綱丸の色白い美貌が暗闇にぼんやりと浮かんでいる。黒い大地も山脈も空も、目の前の怪物の巨躯であるように錯覚した。
「攻めてこないのですか」
文の声は萎縮していた。
「私らは命の奪い合いをしているわけじゃない。対話が実りを生むことだってあるさ。私はずっとお前と飲んでいる気分でいるよ」
飲んでいる気分。飾らない返答に文は途切れ途切れに笑いながらうつむいた。
「……お前からはごっそりと気が抜けてしまった。ついさっきまで活火山を思わせるほど煮えたぎっていたとは信じがたい。一体どうしたの」
「私は勝敗にこだわる理由を失ったのです」
丸ハゲの丘が眼下に広がる。激しい戦闘の痕跡とかすかに立ち昇る植物の青臭さが文の絶望を刺激した。
飯綱丸を理解しようとした文の努力は間違っていなかった。飯綱丸の切り札を躱しきるだけの結実も果たした。しかしそれだけだ。それほどの結果を出せて、それだけだった。
合理的な飯綱丸に恐怖していたんじゃない。それすらも一部にすぎない、途方もなく、巨大な飯綱丸が怖かった。格の違い。次元の違い。星空の向こうの宇宙に思いを馳せて後悔するような恐ろしさ。
“分からない”恐怖がのしかかる。文の拳が力なくとかれていく。
「射命丸。お前にとって新聞とはなんだ」
「は」
顔を上げる。
「山の外の話、人間の話題。あげく巫女の日常やら。一見取るに足らないような日々をお前は書き続けているでしょう? 変わり者と呼ばれても身内ウケを捨ててでも。何故だ?」
「は……?」
意味が分からず文は固まった。決闘と何の関係がある? さっきは私の新聞観を踏みつけにしたくせに?
「教えて欲しいわ。お前の内実に私も興味が出てきた」
そう付け足して飯綱丸はくすぐったそうに微笑んだ。
まさか、気持ちをほぐそうと計らったのだろうか?
やっとそこに思い至り、文は錆びついた頭脳のザマを自覚する。唇の端が痛々しく張りつめた。自らの劣化と強者の風格に打ちのめされそうになる。
「急に興味が湧くものなのですか」
「うん、お前の戦いぶりを見るうちに段々とね。毎日記事のためにあちこち駆けずり回ってるようなお前には共感されづらいかな」
「そういうことでは……」
疑いは空振りに終わる。シラを切ったかあるいは素なのか。こんな問答ですら彼女の意図を断定できなくなっていた。
(まあ何が狙いにせよ、私にはどうにもできないか)
「私は人という存在を面白いと思っています。面白いから書くだけです」
文は観念して真正直な答えを返した。
「人間にも価値のある人材は、まあいるだろうが、お前は何を面白いと思う?」
「彼ら彼女は短い命です。簡単に死んで簡単に移ろう。でも、いやだからこそ変化を絶やさない」
「変化?」
「変化に晒されているからこそ彼らは常に未知なのです。昨日とはまた違う姿、明日にはまた違う面を見せてくれましょう」
意外そうに目を丸める飯綱丸に文も熱が入った。拳を握る。前のめりになる。
「私はその未知が────」
文の語りが止まった。パチパチと、何度も、まぶたが煩わしくなるほど自覚的にまばたきを繰り返し、絞り出した。
「“分からない”ことが、面白いのです」
ひう、と風が走り抜けた。
千年以上幻想郷で暮らしてなお、文はたゆまぬ取材活動を続けている。その源泉こそかつて閻魔に説教されたほどに旺盛で、“分からない”を面白がる心──好奇心だった。
(忘れていた)
翻弄される恐怖、侵される恐怖、絶対的強者への恐怖に潰されて、忘れていた。
飯綱丸とのやり取りを、無駄に考えず楽しんだっていいのだ。
胸からあふれ出す虹の輝きにそっと触れる。まだ再使用はできないはずが、褪せていた心に不思議と活力が戻る気がした。
「私にとっての変化とは、天狗社会が恒久的繁栄を成し遂げるための手段だった。改革派などと言われるけど結局は不変のために変化を受け入れているにすぎない」
飯綱丸が重々しく口を開く。その語り口は“らしく”ないものだった。
「お前は変化そのものを楽しんで、慈しんでいるのね」
「私は思い違いをしていたよ。お前は私の意見をよく汲み取ってくれたから、似た考えなのかとばかり」
「それはっ」
飯綱丸が文を制し、
「私が勝ったら聞かせてくれ」
そう言って笑った。
現状は変わっていない。相変わらず飯綱丸に思考を読まれているし、彼女の持つ途方もなさに[[rb:慄 >おのの]]いて半ば防御的に視野を狭めた過去も、残り続ける。
それでも理解を諦めたくない。
変わったのは文の認識だった。
「……感謝いたします」
「何を言う、質問に答えてくれたのはお前の方じゃないか」
文は頭ひとつ分高度を落として飯綱丸の瞳を捉えた。
「私の全力で、貴方に勝ちましょう」
「ほう。ほうほうほう、それは良い。楽しみだ。ちょうどお前の『麦飯』も復活したようだしね」
にこりとする彼女に応えるつもりで文は天高く飛翔した。飯綱丸は特に妨害もせず、正面から文のスペルカードを受けきる気らしい。
文はぐるりと幻想郷を一望した。人里の一画がひっそりと明かりを灯している。紅い館は騒がしそう。東の神社はとっくに寝静まっているらしい。ここまで穏やかな風の調べは久しぶりだった。
「ふう……」
はるか真下に飯綱丸がいる。ひょっとして天地が逆転していて向こうが空、なんてことも。突飛な妄想が浮かぶくらいには飯綱丸を見下ろせている気がしない。一方で強い焦りも湧いてこなかった。
「私に興味を持って話しこんでくれたのか、カードの魔力回復を待って楽しもうとしたのか。その両方なのか」
文は軽やかに鳴いた。
「本当分からない人ね」
スペルカードを宣言する。奥の手中の奥の手を。
文は魔力を全身にほとばしらせて夜を駆った。飯綱丸のはるか頭上を飛び交って鋭利な小型弾をとめどなく降り注ぐ。
文の姿は右へ、左へ、右へ左へ右へ左右左右左右右右右────。
加速度的に生物の限界にのめりこんでいく。最高速に達した文の体は赤い閃光と化した。
──『無双風神』──
空を席巻する弾幕の滝が優雅に流れ落ちていく。飛び回る文本人の荒々しさなど全く感じさせない。ゆったりした翡翠色の挙動は柳の花火を思わせ、夏を先取りした風情すら味わわせた。
その難易度は極悪だ。幻想郷最速のフルスロットルは、飯綱丸でさえ目視が追いつかない。それゆえ先を見据えた回避行動を許さない。弾は無尽蔵にばら撒かれ逃げこめる空間も限られている。
その理不尽さと引き換えに、繰り出せる時間は十数秒が頭打ちだった。それ以上は体力的に後が続かない。無心で闇を往復する文の視界に、弾幕に囲まれる飯綱丸が目に入った。
まだ被弾していない。上手く体を使い、難しい隙間は『疾風の下駄』でカバー。動きを最小限に留める堅実なプレイを展開していた。
(もっと速く!)
弾幕の密度は速度に比例する。
文は宣言したのだ。全力を出すと。勝ってみせると!
翼を発現させ空を叩く。弾幕の物量はさらに膨れ上がった。
「ぐ……む!」
「はぁ……っ! はアッ……!」
上も下も苦悶にあえぐ。飯綱丸の夜色の長髪が切り裂かれ青色の袖に弾幕痕が貫通する。フリルが散り散りになる。文にそれを知る余裕はなかった。
(もっと、もっと! 速く!)
文の瞳はまだ赤々と踊っていた。無双と付く以上、速さで並び立つ者はない。自分を超えられる存在は自分自身しかいない。
『再起不能』の文字が脳裏をよぎったが振って捨てる。筋繊維の悲鳴を聞きながら文は舞った。一秒が何百倍にも引き伸ばされる。血が沸騰するのが分かる。戦いを好む彼女の気持ちに文は少し近づいた気がした。
ピキリ。時間の断層がずれたような、終わりの音は唐突だった。
「あ────」
弾幕が出せない。時間切れ。避けきられた。
(まだだ)
必死に撒いた光弾も今にすべて消える。消滅まで二秒とかからない。
(まだ!)
文は空中で身をよじり方向を真下へ矯正する。限界近い飛行の連続でボロボロの体は激痛で応えた。四肢の末端から骨がほつれて裂けそうだ。歯を食いしばって文は空を蹴った。
自分の弾幕に紛れた突貫攻撃。文字通りの捨て身だった。
翠色の暴雨は相手が誰だろうと容赦なく牙をむく。翼の羽根は蜂の巣にされ文の肩も続々と引き裂かれた。それでも飛ぶ。飛ぶ。ケジメをつけるために。
一秒の半分も使わず文は大空を駆け下りた。
「────は」
飯綱丸が『無双風神』の終幕を悟ったその時、頭上の弾幕の向こうから風が唸るのを聞いた。それが文だと確信した飯綱丸はあごを上向けて、青ざめた。目の前の壁には頭一個分の隙間もない。突っこめば天狗と言えど間違いなく、大怪我する。
弾幕の切れ目から血走った目が覗いた。
「よせ!」
飯綱丸が手を伸ばした矢先、二人を隔てる壁が丸ごと消えた。
全身を晒した文の片手は胸ポケットに触れていて、もう片方は──飯綱丸の胸ぐらを掴んでいた。超速の一撃だったにも関わらず文の拳は新雪が乗っかったような軽さで、飯綱丸は心底動揺した。
『無双風神』攻略から一秒と少し経って。弾は残らずはじけ飛んだ。
同時に文もびたりと止まる。腕もひしゃげ、棒切れのようになって落下する体を飯綱丸が抱きかかえた。傷だらけの羽に手が添えられた。
「お前の強さと勇気に敬意を表する。射命丸文」
目を閉じた文の顔はゆるい笑みを浮かべているようだった。
*******
「起きたか」
目を開けると飯綱丸が文の顔を覗きこんでいた。まだ新鮮な土の香りが鼻をつく。月はまだ高い。起き上がろうと手をつくと激痛が全身を巡って、文はうずくまった。
「無茶をするな。お前は気絶までしたのよ」
「……ああ」
ようやく頭が回り出し、文は自分の状況を巻き戻って考える。
あの時、文は『大天狗の麦飯』の第二の力、周囲の弾幕を消す力で奇襲をかけたのだ。普通越えられなかった弾幕の壁を破壊して、そしてルール上の勝ちを得た。自分を制止する悲痛な声が最後に届いたのを覚えている。
文は痛まないよう庇いながら首を傾けた。
「私のカードはどこです」
「二枚ともある。『下駄』の方は、被弾して壊れてしまったけどね」
飯綱丸は穴だらけの袖からカードを取り出して文に見せた。確かに『疾風の下駄』は側面が射抜かれて黒コゲになっている。カードイラストでひと際目立っていた赤い下駄を判別するのも厳しい。破損に加えて魔力が空っぽになったせいだろうと飯綱丸が分析を述べた。
つまり彼女は途中からカードの力を借りず、そしてその力を引き出し尽くして『無双風神』を避けきったのだ。
(すごい人だ)
文は胸のすく思いだった。
「『麦飯』はお前の物として、『下駄』はなあ」
「『下駄』は私が引き取りたいです。壊れてしまったなら取引なしでも構わないでしょう?」
「ふふ、いいのか? 手放したがってたんじゃない?」
「いただきます」
ニヤリとした飯綱丸は『大天狗の麦飯』を収納するスリーブに『下駄』を一緒に入れて文の隣に置いてくれた。礼を言う文の声色もハリが戻りつつあった。
「私ね、貴方を理解したかったんです」
「それはまた随分と気取ったねぇ。でどうだった、何か掴めたか?」
「いえ。余計に遠ざかりましたよ」
飯綱丸は「そうか」と空を見上げてそれ以上聞いてこなかった。たったあれだけの言葉で伝わったとしたら、本当、どうなっているのやら。
深い群青色の天蓋には星が何千何万とまたたいている。外の世界でもあれらすべては観測し尽くせていないそうで、文は当然だなとどこか誇らしい気持ちになった。
「射命丸」
「なんでしょう」
「明日から働けそう?」
「え。勘弁してください」
「ははは! 冗談よ冗談。丸一日休みを出してやるからしっかり骨を休めなさい」
飯綱丸は文の頭をぽんぽん叩いて髪がクシャクシャになるまで撫でた。
あの決闘に勝てたと文は思っていない。飯綱丸が勝利にこだわって文を気遣ったりしなければ『無双風神』にすら至れず負けていただろう。
文は高い高い空を見上げた。
飯綱丸とは真に相容れない部分もある。本当の意味で恐ろしく冷酷な側面も持った人だと、蓄積した経験が知っているから。
それでも。
「もし次また機会があれば、今度は飲み屋さんに案内されたいですね」
雄大な星空に手を伸ばして文は微笑んだ。
「はあ?」
「『はあ』ではなく『はい』でお願いいたします。我が主の厳命ですよ射命丸どの」
大天狗の遣いはこんこんと述べる。
その日の文は有給休暇だった。人里と博麗神社を巡ってオフを満喫する予定が台無しだ。舌打ちしかかったのを何とかこらえる。天狗社会を動かす大天狗の一人、飯綱丸が相手では口答えも無駄だった。
「内容は?」
「山社会発展に貢献する建造工事、とでも言いましょうか。詳しくは報告書をご覧ください」
「それって私が関わってない仕事ですよね? 監督者は誰なんです」
「飯綱丸様でございます」
文はその名にキナ臭さを覚えた。
飯綱丸龍と文には奇妙な縁がある。向こうから縁がやってくると言うべきか。
飯綱丸は直属でもない文にやたら臨時任務を押しつけてくるのだ。過去に合計三桁近い数の仕事を任され、守矢神社騒動で駆り出された一件なんか印象深い。
その大天狗が主導するプロジェクトに呼び出された。休暇中に。文は狐を睨みつける。
「とにもかくにもお早めに。幻想郷最速を名乗る貴方に、我が主も期待しておいででしょうから」
すまし顔の狐はしっぽをふりふり、玄関先からとんずらした。文はすぐさまドアを閉め、もたれかかって皮肉っぽく口を歪めた。
「はてさて、何をさせられるのやら」
『プロジェクト担当者の代わりに報告書を持ってきて欲しい』。
この伝言を“おつかいを命じられた”と捉えるのは呆れるほど三流と言える。おつかい程度なら飯綱丸は手駒の狐に任せるだろうから、文にしか割り振れない仕事があるに違いない。
飯綱丸が関わる時、文はその言動の裏を読むことが体に染みついていた。そうしなければ自分を守れないと知っていたのだ。
「やりますか」
栗色のジャケットを脱ぎ、タンス戸から山伏風の衣装を引っ張り出す。白黒を主体に赤のワンポイントカラーがシルエットを引き締める、伝統ある天狗の礼装だ。帯や袖のゆとりを利用して団扇の他に取材道具の持ち運びも可能としたのは文らしい愛嬌だった。一本歯下駄を履き終え、振り返った先の姿見を確認する。
「貴方の腹積もり、今日こそ完璧に当ててやろうじゃないの」
梅雨明けの重い空気を跳ねのけて文は天を駆った。
***
鼻高天狗の事務所で報告書を回収した文の向かう先は山頂ほど近い飯綱丸の邸宅だった。群青の瓦屋根を張り巡らせたその建物は雲海に寝ころぶ巨大な龍を思わせる。
龍の口をくぐっても例の管狐は現れず、文はこれ幸いと屋敷を進んだ。その間も報告書チェックは忘れない。息は白み爪の隙間に針を詰められるような極寒だったが、文はページにびっしりの文字を臆せず読み連ねていく。
飯綱丸の意図を当てるためなら遠慮も気後れも必要ない。目と手がやっと休まったのは執務室の目前だった。
「ふう、読めた」
蒼白色の爪先を揉む文の顔は興奮に赤らんでいる。今回の“読み”は手ごたえがある。的中だろうとほくそ笑む顔はしかし、湯冷めしたように強張った。
「……貴方はやはり恐ろしい人だ」
文はひざまずき襖を開けて平伏した。
「失礼いたします」
「よく来たね。顔を上げなさい射命丸」
ストーブの吐く熱に混じり、威厳を蓄えた声が通る。縦長十六畳の最奥では青の天狗が薄い笑みをたたえて肘をついていた。
革張りのデスクチェアに桐を削ったダークブラウンの役員机がよく目立つ。和室らしからぬ内装は飯綱丸邸の特色で、大天狗きっての改革派の気質を見事に吸収している。手招きされるまま文は机越しに侍った。
「急に代理で呼び出してすまなかったねぇ。非常に助かったよ」
「大天狗様のご命令ですから即座に参ります」
「ハッ、部屋の前で油を売ってても即時参上に入るのか?」
「……急ぐようにと遣いの者から釘を刺されましてね。ですが身なりも整えない内にどうしてお会いできましょうか?」
お付きの狐を暗に非難する態度を飯綱丸は一笑に付した。
「悪かった悪かった。今度振替で休暇をやろう。時間休ね」
「半日で」「欲張らないの。二時間出します」
「二時間ですか」
「許してくれる?」
「え、ええ、まあ」
ここに来るまでの時間を計算し、儲けものかと引き下がる。わざわざ有利な条件を渡すのが気になったが流石の飯綱丸も休日出勤させた負い目があるのかもしれない。配下の管理には手を抜かない人だった。
「ならこの話はおしまいだ。それで、見せてくれる?」
挨拶もほどほどに飯綱丸の瞳が鋭い光を灯す。文の背筋も自然と伸びた。
「こちらが先日河童に発注した工事に関する報告になります。お納めください」
「ああご苦労」
飯綱丸が読み始めるなり、場の空気が何倍にも濃くなった。ストーブの熱が強まる一方、頭の芯はよそよそしいほど冷たい。緊張で喉を締め上げられそうだった。
しかし、答え合わせの時は近づいている。文はその時が待ち遠しく、目も逸らさずに立ち続けた。やがて飯綱丸は唸り声と共に報告書を机に放った。
「……散々工事の進捗を早めろと言っておいたのに。鼻高の管理がここまで低廉だったか」
「むしろ鼻高の見立てが甘かったと言うべきかと。彼らは河童の根城まで降りてきませんし、河童たちの性格もまともに把握していないでしょうから」
大天狗の柳眉がすっと上がる。
「中身を読んだの?」
「いけませんでしたか?」
「まさか! 感心したんだよ」
読みこんだのはあくまで飯綱丸を出し抜くためだ。からりとした笑みを送られ、文はぎこちなく礼を述べる。
「とはいえ納期は納期だ。今回はー、ああそうだ、河童のリーダー格に指揮を執らせているんだったなぁ」
関係者一覧に記された“河城にとり”の名前をなぞって飯綱丸は冷笑を浮かべた。
この大天狗は、利益のロスに厳しい。天狗社会に害を為すなら必ず報復を与えるともっぱらの評判で、少し前のアビリティカードビジネスでも協力者の神様と裏切り合って疎遠になったとか。
知り合いのにとりが詰められる姿を想像し──文は上司の顔をさっとのぞきこんだ。
「よろしければ私の方から勧告処置を行います」
「それは。都合が良いことだが。頼めるの?」
「……初めからそれを狙ってお呼びになったのでしょう?」
熱視線が交わった。文の紅茶色の瞳には期待と自信がこれでもかと溶けこんでいる。そして、知り合いへの情も。
飯綱丸は文がにとりを庇うと見越して呼んだのだ。ノロマな現場の尻を叩く手間が省けて都合が良いから。ついでに尻叩きの効果も上がるだろう、と。
文の回答は飯綱丸のドライさを声高に主張していた。その含意に気づかぬ大天狗ではない。
「くっくく」
飯綱丸はこもったように笑うと報告書を脇によけた。
「では任せよう。下がってよろしい」
お前の正解だ。
上司の言をそう受け取り、文はさっと離れて頭を下げた。ここで得意げな胸の内を見せては賢くしたたかな天狗にあらず。
「射命丸」
だから力んだ頬を隠せるうちにさっさと退室したかったのだが。
襖に手を掛けいざ退室というところで文は仕方なく振り向いた。飯綱丸は相変わらず頬杖をついて、しかし声は先程よりも格段に透明で。
「戌の初刻に訪ねる。それ以降は空けておいて」
ニコニコと盃を煽る仕草を文に見せつけた。
愕然とする。
呼び出しの理由は二つあったのだ。
今日こそは暴いてみせたと、伸びきっていた鼻を叩き折られる。
「……承知しました」
とっさの返事はそこが限界で、文は執務室から転がり出ると努めて静かにその場を去った。朱色の紐で飾られた肩先がひゅんひゅん風を切る。
また届かなかった。ぶんどった二時間の代休も『飲み付き合い』という仕事用に許されただけ。興奮の熱冷まし役となるはずだった床板の冷感は、文をみじめにさせるばかりだった。
***
「さあて何瓶いこうか」
文の足音が遠のくのを聞き届け、飯綱丸は軽快にデスクチェアへ寄りかかった。気分はすでに数時間後に旅立っているらしい。
「飯綱丸様はあの者と飲みに行くんですよね」
声の出どころは腰。飯綱丸の携帯する試験管ハウスからぽんっと管狐の典が飛び出した。飯綱丸の右腕として奔走もとい暗躍する典だが、主人の膝にくっつく姿は甘えたがりのペット同然だ。飯綱丸もそれを分かっていてか、典の狐耳を指でふにふにとこね始めた。
「今更駄々っ子はなしよ。お前の分の晩飯はたんまり用意していくと約束したじゃないか」
「ええ。ご飯はたくさんもらいますし、飯綱丸様のご決定にも口は挟みません」
典は頭を撫でられながらはちみつ色の瞳を陰らせる。
「でも感じたでしょう? あいつは飯綱丸様の考えを見抜いた気になって偉ぶってましたよ。それも毎回毎回! 不敬じゃないですか」
「はは、あいつは考えが顔に出るからねぇ。今回は嫌な役を押しつけてしまったから、あいつと私はおあいこなんだ」
「不問にするの?」
典は身を乗り出した。
「それが適当だろう。留守番しっかりね」
優しい声色に金毛の耳がへにょりとしおれた。
事の過程より結果を重視、使えるものは使うのが飯綱丸龍という天狗だ。それゆえに同族でもない典を側近につけ、積み上げた実績の塔を振りかざして今の地位を盤石にした。
その彼女が『文が適任』だと判断したのだ、正しいに決まっている。理屈で言えば、そうなるのだが。典には主人の行動が『文に知り合いを庇う余地を与えた』ように見えた。
「……同じ結果なら、いやそれ以上の結果を、私だって届けられるのに」
しっぽを主人の足首に巻きつけて、典はいつもの何倍も小さく囁いた。
*******
文は服も着替えず九天の滝上流を飛んでいた。河童への是正勧告のためだ。
V字の水しぶきを後ろに散らしながら渓流の道を低く低く猛進する。岩で砕けた水泡が時々文の体を濡らした。耳障りにはためく礼装の袖も、徐々に迫る大瀑布のとどろきも、文は気に留めなかった。
「まだすべて理解するには足りないのか」
文はあの大天狗の容赦ない策謀を臨時任務のたび目の当たりにしてきた。指示に逆らったことはない。縦社会という鎖もあるが、それ以上に飯綱丸の指示がまこと理に適っていて反対する隙がなかったのだ。
しかしそのうち恐ろしくなった。自分で考え行動しているつもりでも、すべてが他者の目論見通りなら自由意思はあるのか? 都合よく操られているだけではないのか?
巨大な鳥籠を大空と信じこむほど虚しいこともない。
文が飯綱丸の思惑を当てたがるのは、要は一種の抵抗だった。
古来より妖怪の持つ恐ろしさとは“分からない”恐怖に由来する。であれば、言動に隠れた意図を暴き“分かって”やれば、飯綱丸という大妖を理解の檻に閉じこめることができるのだ。
「貴方を暴ききる。必ず」
どうどうどうどうと落水の音が強まる。はやる感情は速度に転化し、文は黒翼を剥き出して滝壺へ身を投げた。
落ちる!
その瞬間、翼で空を叩き舞い上がる。風圧でめくれ上がった波が川辺で機械を弄るにとりをぶっ叩いた。
「ひゅいっ!?」
水色のツインテールがびしょ濡れになる。にとりは岸に座りこんだままブルブルと首を振った。
「ぺっぺっ! クソがっ、誰だよ──」
顔を上げたその表情が凍りついた。逆光に照らされる天狗様の礼服を目撃してしまったからだ。しかしすぐ目が慣れるとにとりはホッとした様子でレンチを放り出した。
「打ち水はもっと丁寧にやってよ」
「あらら、これはすみません、考え事してたもので。貴方に話があるのだけど時間ある?」
文は固い濃灰色の岩肌に音もなく降り立った。
「珍しい服だからか知んないが、いつになく藪から棒だね。どうしたのさ」
「ああ、大天狗様に、お会いした帰りだからね」
自分の格好に気が回った文は顔をしかめた。盃を傾ける仕草の飯綱丸が脳裏をかすめる。
「河童に頼んだ工事が遅れているとのことで、その調査と改善の仕事に来たんですよ。何があったんです?」
文はあえて天狗ではなく、記者らしい口調でにとりに相対した。
「何か? 何って言われても」
「ファニーなアイディアが浮かんだってんで新しい発明を作ってたんですよー! ぜひ取材してやってください!」
「ちょ、おい!」
二人の真横の岩壁の奥──秘密の河童工房から、陽気な声が答えた。目に見えてにとりが慌てだす。
「の、納期は守りますからどうか大目に見ていただけませんかねぇって、旦那に言っといてよ頼むよ」
緑帽子を目深に被ってにとりはヘコヘコする。天狗の発注を脇に置き、発明にかまけていたのが遅れの原因というわけだ。
ボロを出したにとりを見逃すほど文は愚鈍ではないし、付き合いも短くない。相棒であるカメラを診てもらうくらいに信用もしていた。
「現状改善に必要なのは原因の根治です。何故遅れているのか話せますか」
機械とにとりの間に割りこむようにして文はしゃがみこんだ。まごつくにとりに、さらに詰め寄る。
「話してくれます?」
「……いやそれが、ダサい話で。話すけど大天狗様にはごまかしてくれよ。あの人今回の仕事はやたらと急げって怖いからさ」
「それで急がない河童も肝が太いですこと」
緊張をほぐしてやろうと苦笑する文に、にとりは頬をかいた。
「旦那の依頼額はうまくて割の良い仕事だったし、金儲けはでっかいモチベではあるけどねー」
にとりは弄っていた機械に目をやった。金属光沢激しい箱にはボタンやレバーがおびただしく貼りついて近未来感を漂わせる。にとりの顔つきがキッと尖った。
「でもさ、たかねの奴が市場の神と手を組んで新しいことおっぱじめようとしてんだよ? 闇市でたんまり稼ぎやがった後で!」
たかね──山城たかねは河童と張り合う妖怪・山童のリーダーだ。ほんの少し前にも、にとりと個人的なひと悶着があったと聞く。
「それで対抗心が芽生えたと?」
「対抗心、か。そうなのかねぇ」
「思うところがありそうですね」
文の言葉に、にとりは川を眺めた。天高い陽をギラッギラに反射する清流はまるでサイダーだ。眩しそうに目を細めてにとりは語り始める。
「今回の旦那の工事はカードビジネスで育った山の経済網を、もっと発展させたいってことで始まったらしいんだけどさ」
「ええそうね」
「そういう商才とか経済って山童の連中のがお似合いなんだよ。河童はエンジニアだし作って売る以上のことも簡単に思いつかない。なのに旦那は我々を指名したんだ。普通考えられない」
「山童が闇市で利益を得た分、仕事から干された……と?」
にとりはためらいがちに頷いた。
「多分たかねも分かってる。それでいて旦那の前の破談相手とねんごろしてるんだ。アイツの進めてることは虫がいいことだろうけど、まあ貪欲なんだよ。負けてらんないじゃん」
龍鱗のようにこまごまと輝く川面がにとりの表情を照らし出した。
「全然ダサくないじゃない」
にとりがポッと茹で上がったのを文は小さく笑った。
河童も山童も一応は天狗の傘下、という関係だ。工房の奥からは賑やかな声とマシーンの稼働音が聞こえてくる。時折鳴り響くやかましい金属音も面白い営みの一部分だ。
刺激し合う関係。ライバル。それも異種族同士で。
組織行動を是として縦社会を築く天狗とは根底から違う。身内で固まりがちの天狗にとって、自由奔放な河童のマネジメントは難しいミッションだったろう。
──では任せよう。
あの大天狗はそんな任務をえらく自信満々に言い渡したのだ。文は透き通った青空を静かに見上げた。
「どしたの?」
「……いえ、まあ最終的に遅滞なく結果を提出できれば上も文句はないでしょう。『河童は技術開発に余念がなく、天狗に大いに貢献するだろう』とでも報告しときます」
「んあ、ありがと」
「工期はちゃんと短縮してくださいね? でないとあの人に干されます」
全力で頷くにとりに「頼みますよ」と文は念を押し、袖の下からペンとネタ帳を引っぱり出した。立場の転換とぴったり重ねて。
「それはそれとして、ね、この大仰な機械が何に使えるか気になるのですよ。取材よろしいですか?」
***
世界が鮮やかな橙色に変わり、そこに赤が差し薄紫や黄が溶けていく。山の峰が真っ赤にキラキラと燃えている。何十万回と見送ってきた夕焼けでもその日最後の色彩豊かな空模様に飽きた試しはない。
「ふふっ、ほんとヘンテコな機械」
取材記録を書き留めたネタ帳を見返しながら文は飛んで家路についていた。
「『内部でキュウリを缶詰加工しながら余ったヘタを銃弾に変えて撃つ移動砲台』……字面だけで意味不明で最高。あっははは!」
妖怪の山が笑い声に震えた。ネタはやはり未踏の領域から掘り当てたものこそ面白い。引きこもり新聞に同じ芸当は無理だろう。ご機嫌な文の表情は見る間にしぼんでいった。
「このまま推敲に取り掛かりたいのになぁ」
すでに太陽は半分が沈み、飯綱丸との飲みの約束が近づきつつある。これが宴会ならまだマシなものを、約束はおそらく飯綱丸と一対一。酒がマズくなる未来しか浮かばない。
「あーあ。ん?」
自宅の真上まで帰ってきた文は異常に気がついた。彼女の家は集落からは少し離れた場所にあり、来訪者自体が稀なことだ。
そのはずが、艶やかなしっぽと狐耳を持ったそいつが、玄関扉にもたれかかっている。文は舌打ちし、咆哮にも似た音と速度で土に落ちた。
「何の御用でしょう。飲みのお誘いが消えでもしました?」
「こほっこほっ、いいえ主人の伝言ですよ。服装は普段着で構わないとのことです」
「あらそうですか」
服の土埃を払う典を尻目に、文は無駄に下駄を鳴らして一歩出る。主人の命令が済んだなら帰れと、厄介払いの態度を隠そうともしない。
「射命丸どのは今のご自分の立場が当然約束されたものとお思いですか?」
典は扉に体を押しつけて文を見上げた。
「私はそう思いません。同族びいきが根強いこの社会において、あの方だけが私を重用してくださる。得がたい幸福を賜っていると私は理解しているのですよ」
「着替えたいから早くどいて欲しいのだけど」
「飯綱丸様は慈悲深い御方です。射命丸どの」
笑みすら浮かべて弱小妖怪が食い下がる。管狐の言葉に乗せられるのは馬鹿だ。馬鹿だが、文はぎゅっと眉を寄せた。
「あの方は恐ろしく賢い。厄介者に操り糸を付ける手腕とか、まさしくね」
呼び出しては仕事を投げつけてくる飯綱丸を想起する。
「そのように恐れずとも見惚れれば良いではありませんか、それがあの方の御業ですよ」
「術を介して従うケモノに我々の支配構造は理解できませんよ」
「感謝なさいと申し上げているんです。山社会のために心を砕く主が、貴方お一人を気にかけておられる」
「社会のために気にかけているのでしょう? それを囲いこみだと言っているんです」
文はフンと鼻を鳴らした。飯綱丸は山を預かる大天狗としてすべてを規則正しく順行させている。星のようにあれ、と皆々に課す。
組織の維持発展には必要なことかもしれない。だが窮屈だ。迷惑だ。気持ちが悪い。
典は細身を折り畳んで牙を見せた。
「口を慎まれよ」
「頼み事なら順序を心得たらいかが?」
妖怪としての力量は天地の差。管狐に勝てる道理はない。しかし気の強さは互角であった。狐と鴉の最悪極まる空気を青い雷がほんわりと裂いた。
「まったく麓は暑いなあ、日暮れでこれか」
背後の声に文は振り向いた。
夜を先取りした黒外套がはためき、黄金の肩当ては夕日を集め、尚のことまばゆく威光を散りばめる。ぬぐった額の汗すら星屑のようだ。
「飯綱丸様っ!」
典は冷戦を放り捨てて文の横をすり抜けた。
「典、ずっと帰らないから探したよ。お前がいないと大事な留守番がいなくなってしまうでしょう」
「ぐすん、申し訳ありません」
「よしよし。戻るついでに一つ頼まれて欲しいんだけどね」
あざとく鳴くペットの頭を、腰をかがめてまで撫でている。あの狐とはどこまでも見えている世界が違うのだと文は軽蔑の目で流した。飯綱丸は自分の外套と肩当てを脱いで典の細腕に押しつける。
「これを任せる。しっかり持って帰りなさい」
「ふふふっ……、はあい」
典はしっぽを振り回し肩当てを抱きこみ外套を雨ガッパのように被って、たったかたーと駆け去った。小さな背中は夕暮れに溶けこんですぐ見えなくなった。
「あれなら典はまっすぐ家に帰るし、寂しがらずに過ごせるだろうよ」
独り言らしいそれを、放置した管狐が山で騒ぎを起こさないように仕事を与えて縛ったのだと文は解釈した。
「さて、着替えて行こうか。案内を頼む」
「お言葉ですが、私には飯綱丸様のご身分にふさわしい料亭へお連れすることなど到底」
「射命丸」
大天狗は身軽になった肩を指した。気を張るなと言いたいんだろうが文は退路を断たれた形となる。歩み寄る飯綱丸は体格で勝り、文を余裕で見下ろした。これでも下駄の歯は文の方が長かった。
「初めてのサシだ。いらぬことは考えず無礼講で楽しもうじゃないの」
「はははは。お気遣い感謝いたします」
気さくに肩を叩かれ寄せられ、文は顔を引きつらせる。長い長い夜の始まりだ。
*******
真っ白い月が淡い輪光を放ち、灰色の雲が濃紺の闇にたなびいている。青のワンピースと白黒の洋装が翼を広げてはるか空を切り裂いていた。人里の灯を通過する。
「おや?」
文に追随する飯綱丸は楽しげに語尾を上げた。
『人間かぶれの変わり者』と身内にからかわれるあの文が人里に出向かない。翼を焦がす期待の視線を羽ばたきでごまかし、文は目当てに辿り着いた。
魔法の森入口近くの手狭な空き地にぽつんと屋台が一つ。『八目鰻』の筆文字が泳ぐ赤提灯をあごで示した。
「あそこです」
「ふむふむ、では」
流星が二つ、草むらに落ちた。虫は一斉に沈黙し、よどんでいた熱気も風の刃で吹き散らされる。天狗の降臨に逃げ出さなかったのは屋台と店主だけだった。この道十数年、妖怪・夜雀の店だ。
「こんばんはミスティアさん」
「いらっしゃーい。……あれ、そっちの人は見たことない気がする」
「はじめまして。飯綱丸と言います」
店主ミスティアに首をかしげられ、文の陰に潜んでいた彼女はにこりと微笑んで暖簾をくぐった。
「部下の射命丸がいつも世話になっています。この店がうまいと聞いたので一度足を運んでみたかったのですよ」
「そうなの? うれしーい」
「……こほん。それにしても店主殿は顔なじみの客をよく判っていらっしゃる」
「ま、まあねっ」
「その覚えの良さと心配りに感心致しましたよ。馴染みの客を大切にするお姿は、商売人の私としましても参考にさせていただきたい」
「まあね!」
ミスティアの羽が可愛らしく揺れた。記憶力を褒められることは元より忘れっぽい彼女にとって心根に届く賞賛だったのだろう。胸を張るミスティアに飯綱丸は笑みを深める。
「神は細部に宿ると言います。店の経営もお忙しいでしょうに、一体どのような取り組みを──」
「ミスティアさん。ひとまず“いつもの”ください。二人分で」
「あ、はーい。えーと取り組みは、そうねっ、メモを忘れないこと!」
二人に割りこむ形で文は横から注文を投げつけた。自分の行きつけの店なのに上司に舵取りされたくない。そんな前のめりの焦りがなかったと言えば、嘘になる。
「注文ありがとうね?」
「……お気になさらず」
「ふふふ」
会話もフェードアウトし、飯綱丸は三つ横並びした席の真ん中に座った。迷いない振る舞いに文は怪訝な顔をしたが、渋々右の端の端の端に詰めて腰を下ろす。
「はいお通しです」
ものの一分で簡単な軽食が差し出される。小鉢に盛られた枝豆をぷちぷち噛みながら文は左隣に神経を尖らせた。
飯綱丸は小鉢そのものを見定めているらしく、藍色の麻の葉柄をじっくりと回し見て台に戻した。
「悪くない店だ。器の細部もケチ臭くない」
「お気に召したようで何よりです」
ミスティアへの声掛けは単なるお世辞でもなかったらしい。
お通しの次は酒盛りの主役がご登場。一升瓶と一合枡がドン、ドドンと二人の面前に並べられた。瓶に至っては十本もある。これでも酒豪妖怪の天狗にかかれば水よりたやすく呑めてしまう酒量だった。
「店主殿、ここは良いよ、また日を改めてお話が聞きたいね。ぜひご留意いただきたい。お願いできますか?」
「任せてよっ。ふふん、今日は楽しんでくださいね」
「ええ。そうさせていただきます」
飯綱丸に手を振り、ミスティアは看板メニューを準備しにカウンターの向こうに消えた。
「なつのそらぁ♪ よるのなみぃ♪」
バシャン、ビチャッ、ビチビチッと生々しい音が響く。屋台の奥で店主が桶の八目鰻と格闘しているのだ。どでかい唄がひっきりなしに聞こえるあたり、ミスティアは相当ご機嫌らしい。
奇祭のような歌と光景に紛れて文は飯綱丸に耳打ちした。
「彼女が記憶力を気にしてること知ってたんですか?」
「ああ、話しぶりから何となく察せたよ。覚えに自信はなさそうだが分からないと開き直ってもいなかったし」
「……なるほど」
人をそそのかす管狐の主人にしてデタラメ新聞で遊ぶ鴉天狗たちの大将、それが飯綱丸龍だ。言葉から匂い立つ真意を見抜くのはお手の物というわけだ。
飯綱丸は酒瓶のコルクを抜くと部下の分、自分の分と順に注ぎ入れた。
「まあ、あくまで理由の半分ね」
「は?」
憮然とする文をニッと笑い、飯綱丸は一合枡を軽く突き合わせる。「もう半分はお前の新聞よ」と、そのまま喉を鳴らして飲み干した。
それはつまり、日頃から文の新聞に目を通しているというわけで。ちゃちに済まされた乾杯が急に恐ろしくもこぞばゆくもなり、文もちびりと喉を潤した。
「一記者の紙面を、よくご存じで」
「お前の文々。』は人間にも浸透している稀有な新聞だからね。覚えが良いのは当然でしょう。良くも悪くも」
甘じょっぱい醤油ダレの香りが屋台を包む。串に刺された八目鰻の切り身が木炭の上でチリチリと身を焦がし、垂れた脂からじゅわりと煙が上がった。
「しかしねぇ、巫女の観察日記じゃあ面白がる天狗はいないよ。購読数に繋げる点から見て無駄が多い」
「私は私が面白いと考える出来事を追求しているに過ぎません。それが私のスタイルですし譲歩する気もない。むしろ外の空気が持てはやされるよう社会の方を変えてくださいよ」
カウンターを叩く鬼気迫る勢いを飯綱丸はにこやかに受け止めた。
「善処しよう。凝り固まった思想や体制は動きづらくて敵わんからね。お前もそう思うでしょう?」
む、と言葉に詰まった文はじっと視界の隅に思考を集めた。
「私は、新聞大会で賞を取れるなら、それで構いませんから」
「あら。そうか」
飯綱丸は明らかに盛り下がった声で二杯目を注いだ。
どうせ演技だ、と文は心の中で吐き捨てる。私のもとで志を共にしないか、とでも誘ったのだろう。都合のいい駒が手からすり抜けたとでも思ったに違いない。
無自覚に絡め取られる危機感と白星をあげた高揚感のままかきこんだ酒はやたらと辛く、文は咳こんだ。
「はいお待ちどお、蒲焼きだよー」
「ごほっ、いただきます」
「かたじけない」
白磁の長皿に串刺しの蒲焼きが一人四本配られた。かの月の大地を征服したと伝え聞く人間国家の旗を思わせるような、堂々たる佇まいだ。流石は看板メニューといったところか。
ちぢれてそり返った照り焼きの身に炭火の燻し具合が加わって唾を誘う。くるくると串を回せばたっぷりタレのかかった肉がダイヤの輝きを煌めかせた。
飯綱丸はおそるおそる、文は迷いなくかじりついた。
弾力ある赤身肉からは脂があふれ、コクのある甘辛ダレと噛み合うと夢心地の舌触りを生みだす。ごくりと飲みこめば炭火の残り香が名残惜しく口を包んだ。
風味のクセが強いが、それがどうしておつまみに最高だ。大酒呑みの二人して一合枡にちびちび口をつけつつ、なめらかで血の気みなぎる味を堪能した。
「こんなに美味いとは知らなかった!」
「へへ~そうでしょ」
はしゃぐ飯綱丸を横目に、文は塩もみキュウリに冷奴など提供の早いメニューを立て続けに注文していった。
食事はもう十分だった。それでも飲み食いに口を動かせば飯綱丸との問答も少なく済む。文にとってはそちらの方がよほど重く見るべき課題だったのだ。
旨そうにがっつく飯綱丸に微笑を送り、文はまたミスティアを呼び止めた。
*******
「新聞で思い出したよ。お前、アビリティカードだ。お前はあれをついぞ記事にしてくれなかったね。いやはや残念よ」
徐々に食も細くなり「酒を補充しに行く」とミスティアが店を離れたタイミングでこれだ。対策もいよいよ限界か。文は顔をしかめて腹を決めた。
「残念も何も、天狗はごまんといるのに私だけカードになってるんです。警戒くらいしますとも」
「その様子なら取材はしてくれたようね」
「麓の世情を見るばかりではありませんから」
図らずも飯綱丸を出し抜けていたことに文は笑みを隠して酒をすする。手持ちの分はこれで空になってしまった。
「お前が関心を持って調べる確信はあった。記事にまとめて宣伝させて、人里への販路拡大の布石にしようとかいろいろ練っていたんだけどねぇ」
飯綱丸は椅子にもたれかかり手遊びのつもりか枡を揺らす。酒に映りこむ彼女の像が歪み、赤提灯の灯が散乱した。
「まあ過ぎたことだが、お前は記事にしなかった。お前の言を借りるならアビリティカードは面白くなかったということ?」
「それは」
文は言葉に迷った。らしくなかったからだ、飯綱丸が。
畳んだビジネスに執着せず全く別の策を打ち出していくのが、文の知る彼女だ。管狐を扱えるのもそんな性分あってのことだろう。彼女の問いが今後に活かすつもりのアンケートなら理解できた。
だが今、飯綱丸が漂わせているのは寂寥の念だ。過去への思いだ。文を躍起にさせてきた合理性の塊のような才人はそこにいなかった。
見てはいけないものを目撃したような……それとも見たくなかったものか?
文は惑乱した。
「少し、かじった程度ですが、興味深かったですよ。カードの組み合わせを試す者やらコレクターやら、賑わってもいましたし」
言葉を慎重につまみながら隣をうかがう。静けさが肌にへばりつく。やかましい店主の唄をこれほど恋しいと思ったこともなかった。
文は懐からネタ帳を取り出し、最奥に眠らせていた一枚を引っ張り出した。
偉そうなポーズの黒い人影(おそらく文を模している)が赤い下駄を履いたイラストが描かれたそれはアビリティカード『疾風の下駄』──文をモデルに、飯綱丸が作ったカードだ。カドが削れてくたびれた様はカードビジネスの凋落を黙して語っていた。
「まだ持っててくれたとはね。驚いた」
「貴方がこの程度で驚くわけないでしょうが」
「ほう」と飯綱丸の顔が厳しくなる。
「何が、不満だった?」
「不満くらい出ますよ。これが弱い弱いとあちこちで言われていたんですから」
平然と言い捨てられたクレームに、遅れて屋台の天井がどっと揺れた。
「く、あっはははは! なんだそんなことか!」
「はあ!?」
「可愛らしいねぇお前は」
「的外れですッ」
頭を貸しなさい。やめてください。よしよしと伸びてくる腕をコバエのようにはたき落とした。
実際、このカードの評価はよろしくなかった。
『疾風の下駄』は回避に特化した尖り性能がウリだ。幻想郷最速を名乗る文に肉薄し、多少の被弾もごまかせるほどに突き詰めた、圧倒的な、抜きんでた速さ。
しかし元から素早い天狗にはさして新鮮味がなく、他の人妖では目が追いつかず事故のもと。博麗の巫女にも「すっごく使いにくかった」と不満をぶつけられ、カードの値段も下がりに下がって散々な思いをしていた。
それでも文が手放さなかったのは仮にも自分の姿を冠した“恥”が他人に渡るのを嫌ったからだ。
「天狗の威信が傷つくのを危惧したのです。天狗自体弱いなどと万が一にも我々が見くびられては困ると思い、独自で回収に勤しんでいたのです」
拡大誇張した真実を平然と語る。眉を上げた飯綱丸がわざとらしく相槌を打った。
「だから記事にしなかったと。他の理由もあるでしょう? 賢いお前のことだもの」
「……む」
文は唇を曲げた。天狗らしい狡猾な笑みをたたえて、飯綱丸はどうかしたかと首をかしげてくる。得意げな様子も見せずに余った酒を勧めてくるのを文はすげなく断った。
──飯綱丸様は慈悲深い御方です。
固く見つめてくる黄金の瞳。思い出された管狐の囁きが心に毒を撒いた。
「そんなはずがあるもんですか」
小さく、小さく零して、すっからかんの酒に代えて唾を飲みこむ。自分の理解は間違っていない。飯綱丸の言動が証明している。たかがペットの戯れ言だ。
心を見透かされた不快感に紛れ、文はかすかに“いつもの飯綱丸”との直面に安堵していた。
***
そのうちミスティアが帰ってきて飯綱丸が新しい酒を注文する。屋台が賑やかさを取り戻し始めると、カウンターに横たわったままの『疾風の下駄』に青い腕が触れた。
「私はね、この性能が実にお前らしいと思ってるんだ」
「私らしい?」
「すこぶる速くて使いにくいところとか、まあそっくりじゃないか」
「使いにくいですか」
「自覚がないの?」
飯綱丸が苦笑いする。そうではなく、使いにくいと知ったうえでこんな恥晒しな設計にしたのか。そっちの方が問題ではないか。
「お前の仕事ぶりは信頼しているよ。成果はきっちり収めている。今日任せた河童の相手も上手くやってくれただろう」
「報告はまだしていませんが」
「信頼していると言ったでしょうに」
青い腕がカードのふちをゆっくりなぞる。
「結果を出す以上は優秀だ。たとえ腹にどんなものを抱えてようとね」
コツ、と指がイラストの文を叩く。文の背筋が粟立った。
「いつからですか」
「お前は顔だけは正直だ。分かりやすかったよ」
なんてことだ。文の瞳は痙攣したままカウンターに留められた。確かめるように自分の頬をぺたぺた触る。狐がウザく絡んできた段階で悟るべきだった。
「安心なさい。何故お前がそんなことを繰り返すのか詮索する気はないよ」
「それは、興味がないからですか?」
飯綱丸はカラカラと笑って酒を二人分注ぎ直した。
「業務に支障が出ないなら目くじらは立てないさ。河童どもとお前はそこが違う」
あの管狐がこの場にいたら「飯綱丸様は寛大だ、お優しい」と褒めそやすのだろうな。文はざらついた心で想像する。
しかしだとしたら、その寛大さは無関心が根っこだ。飯綱丸は天狗社会への貢献度合いを物事の尺度にしている。合理主義の女天狗が持つにふさわしい価値基準と思えば文の胸の空虚さは幾分か和らいだ。
「分からないと言えばあいつもそうだったな」
「あいつとは?」
「千亦だよ。カードビジネスの協力者として見繕った市場の神でね、私を出し抜こうと噛みついてきた豪胆な女だった。ああまで骨のある神と初めから知っていれば……ハハ、もっと違う付き合いから始めて良かったものを」
やたら雄弁なのをごまかすように飯綱丸は酒をかっ食らう。その視線の先は徐々に遠くなり、文と逆を向いてしまった。鴉がすかさず追いかける。
「違った付き合いをしたらどうなってたんです?」
「それは当然、ビジネスが長続きしただろうね」
キッパリと言い切られて文は眉根を寄せた。『ビジネスが長続きした』?
字面通りに受け取ればいいのに、染みついた癖が余計な深読みを促す。
アビリティカードの話をした飯綱丸の“らしくない”顔を思い出して、そういえば今回の工事もカードビジネスの遺産の延長線上にあったと思い出して。今の言葉にも“らしくない”背景を邪推する。眉間のシワは黙々と深くなった。
「話が逸れたけど、こいつは別に弱くない。時と加減を間違えなければ最高のパフォーマンスを魅せてくれる。ね、お前らしいでしょう?」
「そこまで言うのなら使いこなせますよね」
返還された『疾風の下駄』を文は直接突き返す。カードを見て文を見て、飯綱丸は鼻で笑った。
「残念だけど無理ね」
「なっ……」
「市場のルールを覚えてる?」
そして呆れたように文の眉間を指で押す。あやっと鳴いたのをかき消すように文は患部をさすった。
「取材中に聞きました。でもとっくに廃れてると思ってましたが」
「そんなことはない。千亦の決めた法はずっと生きている。カードが取引され続ける限りずっとね」
アビリティカードの取引には面倒なルールがいくつも存在した。その一つが“金銭を介した交換でしか取引できない”というもので、これを破れば魔力を宿した娯楽品は紙クズに成り下がった。奪ったり譲ったり拾ったりでは駄目なのだ。
「この理はカード発明者の私にだって破壊できない。だからそのカードを託されても、ねぇ」
紙クズ確定の道具には利用手段もない、と言うのだ。理屈は分かるがしかし飯綱丸に勝ち逃げされた気分で腑に落ちない。懐に仕舞うことも押しつけることもできず、文は“恥”を手のひらで持て余した。
『疾風の下駄』にひたり、と薄いものが重なり合う。同じサイズ、同じ魔力、文のとは異なりご丁寧に透明スリーブに入れられている。飯綱丸はイタズラっぽく笑った。
「つまりトレードすれば問題ないというわけだ」
重ね合わされたそれは、アビリティカード『大天狗の麦飯』。飯綱丸の能力を封じこめたカードであり、パワー強化と同時に周囲の弾幕を消し去る無駄のない性能から人気の高いカードだった。茫然と口を開ける文に飯綱丸は喉を鳴らして笑った。
「ごめんねぇ、手放すには少々惜しかったからお前の反応を見たかったの」
指に挟まれた『大天狗の麦飯』がひらひら踊る。
「お前のカードを使いこなしてみせろ、だったか? いいとも。ただしそれだけじゃ味気ないからお前にも付き合ってもらうよ」
「……」
沈黙を好意的に受け取った飯綱丸は爽やかに左手を挙げた。
「店主殿、一番上等な酒を二升」
「はいよー」
「ちなみにどんな酒かな」
「ふふ、雀酒っていうお酒で──」
飯綱丸とミスティアが盛り上がる横で、文は着々と決意を固めていた。なし崩し的に得た、この千載一遇の機会を逃すものか。
「ミスティアさん。お酒はあの盃に注いでもらえますか」
「え、あの盃? お二人とも天狗だから大丈夫だろうけど、あれは……」
「お願いします」
文の真剣な眼差しに押されたミスティアはカウンターの裏から巨大な酒器をよいしょと持ち出した。両腕でやっと抱えこめる大きさの立派な朱色の盃だ。高級料亭でも滅多にお目にかかれないだろう器がまさか二人分。流石の飯綱丸も感嘆の息を漏らした。
「これはどういった経緯で?」
「萃香が昔持ちこんだんですよ。私と飲み比べをするためにってね」
文の答えに、珍しく飯綱丸の表情が崩れた。なみなみと一人一升分の酒が大杯に満たされる。
「前祝いにちょうどいいでしょう。飯綱丸様もそのために良い酒を注文なさったのではないですか?」
「……なんだ、お前も乗り気そうで良かったよ」
飯綱丸は歯を見せると盃を重たそうに支えた。文もそれにならう。
「では射命丸。乾杯」
「乾杯」
器を両手持ちにして腹に流しこんでいく。こぼさないように角度を整えてじっくりと。上等酒にふさわしく甘い舌触りが喉を愛撫する。惜しみもせず一口で飲み干した飯綱丸は冬の温泉に首まで浸かったような声を上げて口元をぬぐった。
「いやあ実にうまかった。なあ……ん?」
横の席に文がいない。酒はきっかり平らげてあり濡れた器の底が優しく光っている。
「飯綱丸龍様」
文の声は屋台の外からだった。両腿をそろえた清潔な立ち姿で飯綱丸の真後ろに佇んでいる。生真面目な顔つきは酒の影響をかけらも感じさせない。文は堂々と言い放った。
「貴方に、スペルカードルールに準じた決闘を申しこみたい」
*******
決闘の場に選ばれたのは屋台から西に少々飛んだ、短い草生い茂る小高い丘だった。人妖の気配も痕跡もない。真夜中の湖面のような静けさをたたえた決闘場を、淡い虹色の月光が包んでいた。
「最適なロケーションじゃないか。お前は本当に山外の知見をよく蓄えている」
飯綱丸は丘のてっぺんから辺りを見回すと、取引したての『疾風の下駄』を服の下へ収めた。
対する『大天狗の麦飯』は文の胸ポケットの中だ。魔力を補充した証にポケットから虹色の光が漏れ出している。
「しかし不思議ね。非好戦家を自称するお前が“決闘”と銘打つとは。私は遊びに留めて構わなかったのに」
「それが礼儀かと思いましたので」
「ハッ、お前が今更礼儀とは! ……いや、待て」
飯綱丸は腕組みしてじっと考えこんだ。礼儀ねぇと呟きながら時間をかけて言葉を咀嚼する。
「お前にとって此度の勝敗が、何か、重要な意味を帯びてそうね」
「意味の中身は気になさらないんですか?」
「なんだ思わせぶりな。尋ねてほしいの?」
「眼中にないと助かりますね」
「あっはっは! では私が勝ったら聞かせてもらおうかな。そちらの方が興が乗る」
飯綱丸の瞳が赤熱する。文と対照的に彼女は大の戦闘好きだった。機嫌よく身だしなみを整え始めたのは、戦いの前準備のつもりなんだろう。文は自身の胸のカードをじいと見つめた。
(貴方への理解が正しかったか、今日ハッキリさせようじゃない)
偶然か必然か、転がりこんできた飯綱丸のカード。そして自己表現の作品とも言えるスペルカードを撃ち合う戦いを交える。カードを使いこなし勝利した暁には、それこそ文は飯綱丸を理解できたと言えるはずだ。
飯綱丸に褒められるつもりはない。自分の力を見せびらかす気もないし並び立ちたいわけでもない。見下したいわけでもない。
乗り越えるのだ。飯綱丸という存在への恐怖を。
「ルールを示し合わせておこうか。第一にスペルカードの攻略は時間切れのみ、使用枚数は一枚としよう」
話しかけてくる飯綱丸はそれまでの興奮を巧妙に隠していた。最も自信ある一枚を相手に制限時間丸ごと向かい合わねばならない、実力が浮き出る明快なルール。文は了承した。
「第二に、何でも良い、胴に一発先に当てた方を勝ちとしよう」
こちらは変則的。引っかかる言い方だった。
「何故胴体に絞るのです?」
「うっかり手やら足やら出そうじゃないか。うっかりね」
飯綱丸は楽しそうに拳を開閉させる。三脚も装備していないくせに満面の笑顔だった。
「はあ、貴方らしいと言いますか」
「お前にも悪い話じゃないでしょう? 体術は得意分野のはず」
「さあどうだったやら。久しく戦ってませんから」
「力を秘匿する姿勢は美徳だ。でもね、射命丸」
飯綱丸が背を向ける。大股で離れていくその背を注視し、文は紅葉をかたどった団扇を腰のベルトから抜き払った。
「手加減無用だ」
それが前口上となった。
文は後方に飛び上がり地上の飯綱丸目がけて扇を薙ぐ。
まずは小手調べ。五つの円弾が横一文字の軌道で射出される。文らしい速攻にして高速の連撃だ。
飯綱丸は涼しい顔でそれらをあしらい一気に飛び立つ。そのまま片手を掲げて返しの弾幕を展開した。
青白く発光する星型弾が巨大五芒星を成したと思えば、その一粒一粒が崩れシャワーとなって文を襲う。吸いついてくるような弾の挙動は思い当たりがあった。
(追尾弾か)
翼にみなぎらせていた力を緩める。
この手の弾幕はこちらの居所を狙い撃つように降ってくる。裏を返せば弾の誘導が可能で、基本の対処法は十分引きつけてから小刻みな動きでかわすことだ。
求められるのは瞬発力ではなく、じっくりした正確さと集中力にある。幻想郷最速に釣り合う反射神経を持つ文からすれば難しい相手ではない。
高速と低速。対極の弾幕を二人は撃ち合い続けた。
しかし余裕ぶることなく、文の瞳孔は飯綱丸を追っていた。
(こんなトロくさい弾幕で終わらせるような人じゃない)
天狗の一番の武器は、速さだ。
飯綱丸に至っては文の能力が注ぎこまれた『疾風の下駄』を持っている。あの大天狗のことだ、手に入れた超高速を腐らせるようなロスはしない。
(どこで使ってくる?)
文の思考は先を見据えていた。悪く言えば目の前の応酬をおろそかにしたのだ。
風の乱れを感知するにも一瞬、遅れが生じた。
「────は!?」
飯綱丸の接近を目鼻の先にまで許し、直後地上に突き落とされる。張り手か何かを受けた左肩が潰れた悲鳴を上げた。肩はセーフだ、まだ戦える。
「ぐ」
噴き上がる衝撃波。着地後の痺れが文の膝を駆け上がる。だが風と羽を操って無理くり果たした両足着地だ、膝は伸びきり尻もち必至の体勢で、そこに間髪入れず空気が唸る。
大上段から文の腹に振り落とされるそれは脚だ。かかと落としが迫っていた。
「ちっ!」
文は右手で団扇を振るった。飛びのいたって間に合わないと反射的に理解していた。
地面を叩いた天狗の団扇は暴風をほとばしらせ、風のかたまりが膨れ上がる。ビュウ!と煽られ文は体ごと左方に吹き飛んだ。
「……っぺ」
土を吐き出す。
もうもうと煙が晴れると、文のいた場所は円形の破壊痕ができていた。湿っぽい表面の土が丸ごと抉れ、ちぎれた草の根が折り重なっている。
足技一発で、これだ。避けたのは英断だ。もし受け止めようと構えていたら……考えただけで腕がヤク中みたく震えた。
「重い……」
「オイ、私だって女のなりをしてるんだぞ?」
体重の話は禁句だ、とズレた冗談を交える飯綱丸。ユーモアをくるんだ表情はまったく段違いの貫禄を帯びて文を吠え転がした。いまだ動揺から抜け出せない文には抜群の精神攻撃だ。心の揺らぎは妖怪の最たる弱点だった。
飯綱丸に釘づけになり、衣服の汚れも忘れて文はふらりと立ち上がる。
(ありえない。私より速く動けるわけがない)
力で劣っても速さなら負けない。たとえ相手がカードの力を借りても己の反射神経を上回りはしないと、文は絶対の自信を抱いていた。
でなければ『疾風の下駄』に負ける自分こそが恥の汚名を被る。それだけは、あってはならないのに。
「私がお前より速く動いたと思ってる? 違うな、お前がなまったんだ。遅い弾ばかり見たせいで」
文はハッと息をのんだ。飯綱丸の行動が綺麗に繋がる。
それは速さで勝る文を出し抜く策略であり、精神的優位を得る盤面制圧であり、『弾幕を放つ最中は高速移動できない疾風の下駄』の弱点を打ち消す立ち回りであった。
どこまでいっても抜け目がない。飯綱丸は呵々(かか)と笑った。
「手加減無用と言ったんだ。私だけ手を抜くわけがないだろう!」
両手を広げて声高に発する絶対的強者。
裏返って、それは挑発だった。「お前も本気を出したらどうだ」と、文を追い詰めようというのだ。
「フン、言われるまでもなく」
脱臼寸前の左肩を回し、文は不敵に大見得を切った。
妖怪はこの程度すぐ癒える。傷を庇うなら空に戻るべきだが飯綱丸は許さないだろう。それに何より、文も蹴りには自負があった。
(得意分野で二度も後れを取るものですか)
心が揺らいで弱るなら、反対に確固たる意志は何物をも斬り裂く剣となる。
文の闘気を感じ取ったか、戦闘狂は糸切り歯を舌で掬い舐める。文はスカートについた泥を乱雑にはたいた。
三十メートルの間合い。その直線状に茂る草花は、一瞬でコマ切れになった。
爆風が遅れて丘全体に伸びる。音が動作に出遅れる。それは移動物体のスピードが音速超過の域に達する証だった。遠く、森に沈む魔女たちの家が鈍く震撼した。
「──ああ、お前はこうでなくてはなあ」
飯綱丸はほくそ笑んだ。脇腹に迫った文のスネを腕で防ぎきって。
文は二発蹴りこんでいた。三十メートルを瞬間で詰め、左脚で腿を、体をよじり次いで右脚で胴を狙った。
『疾風の下駄』は反応速度まで向上させない。本来速度で劣る飯綱丸が凌げたのは、防御ただ一点に集中したからに違いない。
(私を煽っておきながら随分冷静ね)
戦況に応じて攻めと守りを切り替える柔軟な手腕。大局を俯瞰する視座の高さは一朝一夕で身につかないだろう。
飯綱丸の智略は、やはり文を阻む高い壁であるのだ。今この時も。
それでいい。
彼女はやはり、文がその腹を読もうと日々思考を研磨させる、あの飯綱丸龍なのだ。
一畳分の距離を取る文。ぴんと張った姿勢は彼女自身が弦のようで、頬の横に構えた扇はまさにつがえた矢じりであった。
「貴方を打ち倒して私は正しかったと証明する!」
扇が空を貫く。
からくも避けた飯綱丸を一歩、二歩と後ずさらせ、そこに回し蹴りをねじこむ。低い重心から突き出された靴底は飯綱丸の芯を捉えていた。が、防刃ベストのように固く編まれた腕に阻まれ押し戻される。
上体をひねり宙返り。畳みかける。文はその身を竜巻にして攻めたて続けた。並の人妖では目視不可能の斬撃の嵐だ。
飯綱丸に反撃は許さない。スピードと反応速度で上回る文が決めきれないのは、飯綱丸が守備に徹しつつカードの力を引き出しているからだ。
ならば『疾風の下駄』の制約で弾幕は打てない。速さで押せばいつか必ず隙が生まれる。盤面の支配者は文のように思われた。
「どうしたッ、もっと、来いっ!」
風圧で裾を裂かれながら飯綱丸は挑発を繰り返す。後退を続けているのはどっちだ。戦闘狂め。内心毒づく文の瞳もまた高揚に燃えていた。
靴の一本歯がめりこむ勢いで踏み出し、右脚を後ろに引き絞る。
対する飯綱丸は青の衣に巻きつく白い腰帯を抜きとった。長細い布をピンッと両腕で引き伸ばし、両脚を斜め左右に開く。相変わらずの防御の構え。たかが薄っぺらい帯一枚と文は侮らなかった。彼女が無駄な一手を打つわけない。
(怪しげなあれは触れないように──)
振り子刃のごとく脚を振りぬく。布の守りの外から切り崩すため腰を狙う。
「甘い」
白い帯が突如うねりくねった。蛇を思わせる挙動で文の右足首に飛びかかる。巻きつかれた部位は途端に感覚が消えた。動かせない。
混乱する文は地べたに引き倒された。
「ぐッ……!」
背中を強打する。飯綱丸が一瞬でのしかかってきた。文は胴体を狙ってきた腕を掴み取るのに精いっぱいだった。
「その帯は鳥を縛る呪物みたいなものよ。鴉天狗にもこれは効くでしょう?」
丸腰と見せかけ暗器を使って強襲。まさか初めから狙っていたのか。
文は飯綱丸を押し返そうともがいた。
仰向けじゃ羽は使えない。団扇は横に弾かれた。両腕は塞がり右脚は帯に巻かれて動かない。唯一まともな左脚も馬乗りにされていて機能しない。徐々に腕力と体格差が浮き彫りになり、文の肘がミシミシと屈し始めた。
(力じゃ押し負ける……!)
「勝負ありか? つまらん幕引きよ」
飯綱丸の長髪が頬に垂れた。文は歯を軋ませる。押し切られる寸前、文の手の甲が胸ポケットに縋った。
「ん?」
「ぐ、アアアっ!」
『大天狗の麦飯』から虹色が弾ける。文は手のひらに結集する魔力のまま飯綱丸の腕を振り飛ばした。右方へなぎ倒すように。わずかでも飯綱丸を左半身からどかせば十分。そしてそれは叶った。
一瞬を突いて左脚を脱出させアバラに蹴りこむ。威力がなくても問題ない。被弾を嫌った飯綱丸が飛びのいたところに必死に拾った団扇で暴風を食いこます。同時に足首の帯を柄で斬り捨て、飯綱丸に飛び蹴りをみまった。
「うおッ!?」
体勢を崩していた飯綱丸は受け流しきれない。ドオン! ドオンッ!と二発大音量をとどろかせて土煙の奥に吹き飛んだ。文は深追いせずにその場で腰を低く落とす。
「────やっぱり!」
直後青い光弾がこれでもかと襲いかかった。追撃を寄せつけないための飯綱丸の抵抗だ。身をよじってそれらをやり過ごし空中へ逃げる。上を取るのは重要だ。戦略的にも、天狗のプライドとしても。
飯綱丸がゆらりと姿を見せた。
「良い一撃だった! 私のカードで破壊力を高めた蹴り……、うまかったよ」
抉れた腕から血をしたたらせ喉を鳴らす鴉の長。そのくせ理性の光は瞳に煌々と宿しているのだから、文は怖気がした。半壊した腕もすでに修復まで秒読みだ。体力も気力もこの大天狗には底がないのか?
(まずい)
文の視線は余裕なく手持ちのカードに注がれた。『大天狗の麦飯』がススをかぶったように黒ずんでいる。再びカードが彩度を取り戻すまでざっと一分半、再使用は不可能だ。こめかみに汗が滲む。
(あの人がこの好機を見逃してくれるわけがない)
攻防一体の万能カードの消費は手痛い。先の状況では使うしかなかったものの、文の戦略は大きくすぼまる。飯綱丸に攻勢に転じるチャンスを与えてしまう。
それもきっと、苛烈な攻撃が来る。文は団扇の柄を強く握った。
歯をのぞかせた飯綱丸が同高度に迫る。風の刃を何十と放ったが地表に押しとどめきれない。カードを利用した流麗な身のこなしはたやすく文と水平距離まで接近した。
「射命丸。すべてが調和し順行する理想郷を見せてやろう」
スペルカードが高々と宣言される。
──虹光『光風霽月(こうふうせいげつ)』──
宣言からコンマ一秒、虹と星が脈動した。
飯綱丸の周囲から七色の星が吐き出される。虹のレーザーは四方八方から棘のように伸びて夜闇を焼き払う。圧倒的高密度の弾幕の檻。
宙を刻々と逃げ回る体一つ分の隙間だけが、文に許された居場所だった。
「あぶな……ッ!」
後方に胴を飛び込ませると鼻先をバリバリと閃光が走った。腕にも腰にもレーザーの熱がヒリつき、灼けついた大気が肺に殺到する。
すなわち恐怖の注入だった。肉と魂を圧迫する光と音を、抑圧と呼ばずして何と言おう。息つく間もなく文の居どころは焼き崩されていった。
(こんなのまともに避け続けるなんて冗談じゃない!)
八方に張り巡らされる威嚇に耐え、文は身をひるがえす。どうも避けきれずシャツの裾が焦げたらしい。
とっさに盗み見た胸の虹色はいまだ淡く、己の判断力に頼るほかないと告げる。先の近接戦で力をふるった反動が色濃く出始めていた。嫌な汗が背中を伝う。
ジィッと蝉の断末魔を立て、次は靴の一本歯が片方消し飛んだ。足はなるたけ折り畳んで的を縮めていたはず。文はみるみる顔を青くして飯綱丸を探した。
虹と星に囲まれた大天狗の天幕は、約三十度上空に展開されていた。
“上空”だ。文は気づかぬ内に空の支配を奪われていたのだ。
瞳が揺れる。じわりとせり上がるレーザー群を注視しながら文は上昇した。早く飯綱丸と同じところまで──。
(くそ! 遠い!)
辿り着けない。許されない。自慢の翼は望んでもいない空中散歩を満喫させられる。
文は奥歯を噛んだ。
この決闘は終始飯綱丸のペースで進んでいる。彼女の思惑を当てるどころかこちらが弄ばれる始末。昼間は過去一番の読みの手ごたえすら感じていたのに、今となっては逆に遠ざかっているようだ。文は飯綱丸を見上げる。焦りに侵された表情にヒビが入った。
「これ、は?」
空には輝く陣が描かれていた。
飯綱丸に上を取られて弾幕を見上げる構図になった影響だろうか。とにかく文はこの時初めて『光風霽月』の全体像を知った。
レーザーが飯綱丸を中心に五角形を描く。それらは収縮と拡散を繰り返すようにして回転していた。レーザー発射の隙間を縫って星々が円状に飛ぶ。無作為にも思えた弾道は秩序の下に集っているようだった。
他の一切の光を塗り潰し、弾幕の華が夜空に咲き誇っていた。
「きれい……」
ほんの一瞬、見惚れていた文はハッとして灼熱の花びらを決死に避ける。
視界の左端。離れた先に広い空間が生まれた。距離も推し量らずバネの瞬発力で滑りこむ。囲みにかかってくるレーザーを次々くぐり抜け縦横無尽に弾幕の渦中を飛び回った。
(さっきより避けやすくなってる?)
文は自分に混乱していた。飯綱丸が手抜きするはずないし、特別なことはしていない。見つかる隙間に体を入れる──ごく基本的な弾幕の避け方だ。突破方法も何も講じることなくあれほど苦戦した『光風霽月』と渡り合っている。
「やるじゃないか! 動きが変わったぞ」
飯綱丸の弾んだ声が耳に届く。そちらに意識を向けたい衝動をぐっとこらえ、文はゆっくりと空気を取りこんだ。弾幕の嵐に目を細める。
「落ち着け観察。観察よ」
取材と思え。レーザーの軌道とその仕組みを掴み取るのだ。視覚と風の流れに集中しろ。
一度立ち止まり俯瞰できれば、利発な頭脳はすぐ正解に辿り着いた。
このスペルカードには法則性がある。自然界の花が黄金比で形づくられるように、美しさにはやはり一つの調和があった。
レーザーの合間に流れる星々を避けてすぐ飯綱丸の周囲に目を光らせる。細い光線が五芒星を作り出すのを見て文の思考は確信に至った。
(星の頂点がレーザーの開始点なんだ)
右に傾いた五角の星が浮かび、各頂点から火花が彗星のように弧を描いて噴き出す。
(火花は左回りにしなって、レーザーはそこを中心に右回りに撒かれる。なるほどね)
分析の通り、五本伸びた火花の尾を起点として熱線が順々に炸裂する。文は先んじて動き出し、大きなスペースに自信をもって突っこんでいった。スペルカードの法則を看破したからこそ可能な、大胆な位置取りで鮮やかな回避を連発する。
もはや文の動きは“見てから躱す”を超越し完璧な予見を可能としていた。
飯綱丸の策をついにその手に収めたのだ! 文の胸は高鳴った。
「これならいける。勝てる。勝てる! やっと!」
多幸感で背中が張り裂けそうになる。ゾクゾクと喉が震える。物を広く捉えれば難しいことではなかった。
ここに至るキッカケが空を奪われ自分の格下ぶりを痛感した瞬間というのは屈辱だが、しかしもうどうでも良かろう。
華々しい光の繭に包まれた飯綱丸を“水平に”目で追いかけた。その横でレーザーが文にかすり傷一つ与えられず泳いでいく。
焼きつけろ。貴方に、高みに届く────。
次の瞬間、ぺらり、はらり。レーザーの束は紙吹雪のように細々と散った。
星の煌めきを盛大に振り撒いて『光風霽月』が終わりを迎える。スペルカードの時間切れを告げる焦げた大気の香りを、文はいっぱいに吸いこんだ。
「……」
頭が急速に冷えるのを感じた。
レーザー光の残像が闇夜のあちらこちらに漂って見える。耳の奥では熱線の発射音がすすり泣いている。
やがてそれらも消えてしまうと文の世界には完全な黒が戻った。ぶわりと全身が総毛立つ。月や星明かりに気がつけないほど文の思考は沈み、高速で回転していた。
(私は思い違いをしていた?)
光風霽月。心が澄み切ってわだかまりのないこと、転じて世が上手く治まっていることを意味する。
その意味通り、文の心は澄み渡った。代わりに溜まっていた感情の膿を噴き出して。
──スペルカード一枚を避けた程度で何を勝ち誇るのか?
──盤面は常に飯綱丸が有利だった。何も勝てていない。
──そもそも飯綱丸が合理的なだけと誰が言った?
──その振る舞いも、単なる一側面にすぎないのでは?
──ちっぽけな努力だ。
天狗の団扇が右手をすり抜け落ちていく。
それは、いつか気づき、どこかで目を背けていた現実だった。
文は顔を覆った。めまいがした。
「素晴らしい動きだったよ。翼を封じて仕留めるつもりだったのに、よくぞこらえた」
穏やかな賛辞が、まさに墜落しかかっていた文を吊り上げた。
飯綱丸の色白い美貌が暗闇にぼんやりと浮かんでいる。黒い大地も山脈も空も、目の前の怪物の巨躯であるように錯覚した。
「攻めてこないのですか」
文の声は萎縮していた。
「私らは命の奪い合いをしているわけじゃない。対話が実りを生むことだってあるさ。私はずっとお前と飲んでいる気分でいるよ」
飲んでいる気分。飾らない返答に文は途切れ途切れに笑いながらうつむいた。
「……お前からはごっそりと気が抜けてしまった。ついさっきまで活火山を思わせるほど煮えたぎっていたとは信じがたい。一体どうしたの」
「私は勝敗にこだわる理由を失ったのです」
丸ハゲの丘が眼下に広がる。激しい戦闘の痕跡とかすかに立ち昇る植物の青臭さが文の絶望を刺激した。
飯綱丸を理解しようとした文の努力は間違っていなかった。飯綱丸の切り札を躱しきるだけの結実も果たした。しかしそれだけだ。それほどの結果を出せて、それだけだった。
合理的な飯綱丸に恐怖していたんじゃない。それすらも一部にすぎない、途方もなく、巨大な飯綱丸が怖かった。格の違い。次元の違い。星空の向こうの宇宙に思いを馳せて後悔するような恐ろしさ。
“分からない”恐怖がのしかかる。文の拳が力なくとかれていく。
「射命丸。お前にとって新聞とはなんだ」
「は」
顔を上げる。
「山の外の話、人間の話題。あげく巫女の日常やら。一見取るに足らないような日々をお前は書き続けているでしょう? 変わり者と呼ばれても身内ウケを捨ててでも。何故だ?」
「は……?」
意味が分からず文は固まった。決闘と何の関係がある? さっきは私の新聞観を踏みつけにしたくせに?
「教えて欲しいわ。お前の内実に私も興味が出てきた」
そう付け足して飯綱丸はくすぐったそうに微笑んだ。
まさか、気持ちをほぐそうと計らったのだろうか?
やっとそこに思い至り、文は錆びついた頭脳のザマを自覚する。唇の端が痛々しく張りつめた。自らの劣化と強者の風格に打ちのめされそうになる。
「急に興味が湧くものなのですか」
「うん、お前の戦いぶりを見るうちに段々とね。毎日記事のためにあちこち駆けずり回ってるようなお前には共感されづらいかな」
「そういうことでは……」
疑いは空振りに終わる。シラを切ったかあるいは素なのか。こんな問答ですら彼女の意図を断定できなくなっていた。
(まあ何が狙いにせよ、私にはどうにもできないか)
「私は人という存在を面白いと思っています。面白いから書くだけです」
文は観念して真正直な答えを返した。
「人間にも価値のある人材は、まあいるだろうが、お前は何を面白いと思う?」
「彼ら彼女は短い命です。簡単に死んで簡単に移ろう。でも、いやだからこそ変化を絶やさない」
「変化?」
「変化に晒されているからこそ彼らは常に未知なのです。昨日とはまた違う姿、明日にはまた違う面を見せてくれましょう」
意外そうに目を丸める飯綱丸に文も熱が入った。拳を握る。前のめりになる。
「私はその未知が────」
文の語りが止まった。パチパチと、何度も、まぶたが煩わしくなるほど自覚的にまばたきを繰り返し、絞り出した。
「“分からない”ことが、面白いのです」
ひう、と風が走り抜けた。
千年以上幻想郷で暮らしてなお、文はたゆまぬ取材活動を続けている。その源泉こそかつて閻魔に説教されたほどに旺盛で、“分からない”を面白がる心──好奇心だった。
(忘れていた)
翻弄される恐怖、侵される恐怖、絶対的強者への恐怖に潰されて、忘れていた。
飯綱丸とのやり取りを、無駄に考えず楽しんだっていいのだ。
胸からあふれ出す虹の輝きにそっと触れる。まだ再使用はできないはずが、褪せていた心に不思議と活力が戻る気がした。
「私にとっての変化とは、天狗社会が恒久的繁栄を成し遂げるための手段だった。改革派などと言われるけど結局は不変のために変化を受け入れているにすぎない」
飯綱丸が重々しく口を開く。その語り口は“らしく”ないものだった。
「お前は変化そのものを楽しんで、慈しんでいるのね」
「私は思い違いをしていたよ。お前は私の意見をよく汲み取ってくれたから、似た考えなのかとばかり」
「それはっ」
飯綱丸が文を制し、
「私が勝ったら聞かせてくれ」
そう言って笑った。
現状は変わっていない。相変わらず飯綱丸に思考を読まれているし、彼女の持つ途方もなさに[[rb:慄 >おのの]]いて半ば防御的に視野を狭めた過去も、残り続ける。
それでも理解を諦めたくない。
変わったのは文の認識だった。
「……感謝いたします」
「何を言う、質問に答えてくれたのはお前の方じゃないか」
文は頭ひとつ分高度を落として飯綱丸の瞳を捉えた。
「私の全力で、貴方に勝ちましょう」
「ほう。ほうほうほう、それは良い。楽しみだ。ちょうどお前の『麦飯』も復活したようだしね」
にこりとする彼女に応えるつもりで文は天高く飛翔した。飯綱丸は特に妨害もせず、正面から文のスペルカードを受けきる気らしい。
文はぐるりと幻想郷を一望した。人里の一画がひっそりと明かりを灯している。紅い館は騒がしそう。東の神社はとっくに寝静まっているらしい。ここまで穏やかな風の調べは久しぶりだった。
「ふう……」
はるか真下に飯綱丸がいる。ひょっとして天地が逆転していて向こうが空、なんてことも。突飛な妄想が浮かぶくらいには飯綱丸を見下ろせている気がしない。一方で強い焦りも湧いてこなかった。
「私に興味を持って話しこんでくれたのか、カードの魔力回復を待って楽しもうとしたのか。その両方なのか」
文は軽やかに鳴いた。
「本当分からない人ね」
スペルカードを宣言する。奥の手中の奥の手を。
文は魔力を全身にほとばしらせて夜を駆った。飯綱丸のはるか頭上を飛び交って鋭利な小型弾をとめどなく降り注ぐ。
文の姿は右へ、左へ、右へ左へ右へ左右左右左右右右右────。
加速度的に生物の限界にのめりこんでいく。最高速に達した文の体は赤い閃光と化した。
──『無双風神』──
空を席巻する弾幕の滝が優雅に流れ落ちていく。飛び回る文本人の荒々しさなど全く感じさせない。ゆったりした翡翠色の挙動は柳の花火を思わせ、夏を先取りした風情すら味わわせた。
その難易度は極悪だ。幻想郷最速のフルスロットルは、飯綱丸でさえ目視が追いつかない。それゆえ先を見据えた回避行動を許さない。弾は無尽蔵にばら撒かれ逃げこめる空間も限られている。
その理不尽さと引き換えに、繰り出せる時間は十数秒が頭打ちだった。それ以上は体力的に後が続かない。無心で闇を往復する文の視界に、弾幕に囲まれる飯綱丸が目に入った。
まだ被弾していない。上手く体を使い、難しい隙間は『疾風の下駄』でカバー。動きを最小限に留める堅実なプレイを展開していた。
(もっと速く!)
弾幕の密度は速度に比例する。
文は宣言したのだ。全力を出すと。勝ってみせると!
翼を発現させ空を叩く。弾幕の物量はさらに膨れ上がった。
「ぐ……む!」
「はぁ……っ! はアッ……!」
上も下も苦悶にあえぐ。飯綱丸の夜色の長髪が切り裂かれ青色の袖に弾幕痕が貫通する。フリルが散り散りになる。文にそれを知る余裕はなかった。
(もっと、もっと! 速く!)
文の瞳はまだ赤々と踊っていた。無双と付く以上、速さで並び立つ者はない。自分を超えられる存在は自分自身しかいない。
『再起不能』の文字が脳裏をよぎったが振って捨てる。筋繊維の悲鳴を聞きながら文は舞った。一秒が何百倍にも引き伸ばされる。血が沸騰するのが分かる。戦いを好む彼女の気持ちに文は少し近づいた気がした。
ピキリ。時間の断層がずれたような、終わりの音は唐突だった。
「あ────」
弾幕が出せない。時間切れ。避けきられた。
(まだだ)
必死に撒いた光弾も今にすべて消える。消滅まで二秒とかからない。
(まだ!)
文は空中で身をよじり方向を真下へ矯正する。限界近い飛行の連続でボロボロの体は激痛で応えた。四肢の末端から骨がほつれて裂けそうだ。歯を食いしばって文は空を蹴った。
自分の弾幕に紛れた突貫攻撃。文字通りの捨て身だった。
翠色の暴雨は相手が誰だろうと容赦なく牙をむく。翼の羽根は蜂の巣にされ文の肩も続々と引き裂かれた。それでも飛ぶ。飛ぶ。ケジメをつけるために。
一秒の半分も使わず文は大空を駆け下りた。
「────は」
飯綱丸が『無双風神』の終幕を悟ったその時、頭上の弾幕の向こうから風が唸るのを聞いた。それが文だと確信した飯綱丸はあごを上向けて、青ざめた。目の前の壁には頭一個分の隙間もない。突っこめば天狗と言えど間違いなく、大怪我する。
弾幕の切れ目から血走った目が覗いた。
「よせ!」
飯綱丸が手を伸ばした矢先、二人を隔てる壁が丸ごと消えた。
全身を晒した文の片手は胸ポケットに触れていて、もう片方は──飯綱丸の胸ぐらを掴んでいた。超速の一撃だったにも関わらず文の拳は新雪が乗っかったような軽さで、飯綱丸は心底動揺した。
『無双風神』攻略から一秒と少し経って。弾は残らずはじけ飛んだ。
同時に文もびたりと止まる。腕もひしゃげ、棒切れのようになって落下する体を飯綱丸が抱きかかえた。傷だらけの羽に手が添えられた。
「お前の強さと勇気に敬意を表する。射命丸文」
目を閉じた文の顔はゆるい笑みを浮かべているようだった。
*******
「起きたか」
目を開けると飯綱丸が文の顔を覗きこんでいた。まだ新鮮な土の香りが鼻をつく。月はまだ高い。起き上がろうと手をつくと激痛が全身を巡って、文はうずくまった。
「無茶をするな。お前は気絶までしたのよ」
「……ああ」
ようやく頭が回り出し、文は自分の状況を巻き戻って考える。
あの時、文は『大天狗の麦飯』の第二の力、周囲の弾幕を消す力で奇襲をかけたのだ。普通越えられなかった弾幕の壁を破壊して、そしてルール上の勝ちを得た。自分を制止する悲痛な声が最後に届いたのを覚えている。
文は痛まないよう庇いながら首を傾けた。
「私のカードはどこです」
「二枚ともある。『下駄』の方は、被弾して壊れてしまったけどね」
飯綱丸は穴だらけの袖からカードを取り出して文に見せた。確かに『疾風の下駄』は側面が射抜かれて黒コゲになっている。カードイラストでひと際目立っていた赤い下駄を判別するのも厳しい。破損に加えて魔力が空っぽになったせいだろうと飯綱丸が分析を述べた。
つまり彼女は途中からカードの力を借りず、そしてその力を引き出し尽くして『無双風神』を避けきったのだ。
(すごい人だ)
文は胸のすく思いだった。
「『麦飯』はお前の物として、『下駄』はなあ」
「『下駄』は私が引き取りたいです。壊れてしまったなら取引なしでも構わないでしょう?」
「ふふ、いいのか? 手放したがってたんじゃない?」
「いただきます」
ニヤリとした飯綱丸は『大天狗の麦飯』を収納するスリーブに『下駄』を一緒に入れて文の隣に置いてくれた。礼を言う文の声色もハリが戻りつつあった。
「私ね、貴方を理解したかったんです」
「それはまた随分と気取ったねぇ。でどうだった、何か掴めたか?」
「いえ。余計に遠ざかりましたよ」
飯綱丸は「そうか」と空を見上げてそれ以上聞いてこなかった。たったあれだけの言葉で伝わったとしたら、本当、どうなっているのやら。
深い群青色の天蓋には星が何千何万とまたたいている。外の世界でもあれらすべては観測し尽くせていないそうで、文は当然だなとどこか誇らしい気持ちになった。
「射命丸」
「なんでしょう」
「明日から働けそう?」
「え。勘弁してください」
「ははは! 冗談よ冗談。丸一日休みを出してやるからしっかり骨を休めなさい」
飯綱丸は文の頭をぽんぽん叩いて髪がクシャクシャになるまで撫でた。
あの決闘に勝てたと文は思っていない。飯綱丸が勝利にこだわって文を気遣ったりしなければ『無双風神』にすら至れず負けていただろう。
文は高い高い空を見上げた。
飯綱丸とは真に相容れない部分もある。本当の意味で恐ろしく冷酷な側面も持った人だと、蓄積した経験が知っているから。
それでも。
「もし次また機会があれば、今度は飲み屋さんに案内されたいですね」
雄大な星空に手を伸ばして文は微笑んだ。
※自分は未だに出来る気がしません()
今回の作品、文ちゃんの「分からない」という疑問を主題とした作品と感じました。
「分からない」から「分かろう」としてあれこれ考え動き、けれど結局「分からず」振出しに戻り、それでもなお「分かろう」と思い動く。
一見何も進んではいないのではないかと見せて、実は文ちゃんの本質をとことん考えて煮詰めて、また前を向く小説になっているのではないかと思います。結局何も分からず、進まず、むしろますます謎が強くなっていくからこそ、文ちゃんや龍様初めとした登場キャラたちが「生きている」ことが分かる。
一方でそれは龍様もしかりなのではないかと思ったり。だから本作品における龍様はやたら文ちゃんに構うし、典ちゃんは文ちゃんに負の感情を抱くのかなと思ったり。
その「分からない」「分かりたい」というぶつかり合いは戦闘シーンまで一貫してたと思います。
お互いのアビリティカードを交換してからの導入もスムーズで、序盤の目まぐるしい速度と逡巡の描写があったからこそ「光風霽月」の秩序ある全体像を見た恍惚が際立ち、本気の戦いの勢いも出しながら、どんなに迷いがあっても軸がぶれていないのが分かる。
「私らは命の奪い合いをしているわけじゃない。対話が実りを生むことだってあるさ。私はずっとお前と飲んでいる気分でいるよ」
という龍様の言葉が、やはりこの戦いの全てを物語ってますね。あくまで互いで語り合うための決闘、「手加減無用」だからこそ美しく決まった戦いだと思います。
こういう、キャラクターの顔がはっきり見える作品を目指していきたいですね。
ありがとうございました。
飯綱丸を知ろうとした射命丸でしたが、飯綱丸もまた射命丸を知ろうとしていたのかもしれないと思いました
スペルカードルールで決闘することにちゃんと意味があってよかったです
どこまでも得体の知れない、腹の読めない者に対する恐怖感の克服のための戦い。それを、相手を屈服させることではく、相手の底知れなさを受け入れることにより飲み込むということ。
”深い群青色の天蓋には星が何千何万とまたたいている。外の世界でもあれらすべては観測し尽くせていないそうで、文は当然だなとどこか誇らしい気持ちになった”という表現がこの作品の主題であるように感じました。