Coolier - 新生・東方創想話

ネジ

2023/02/03 16:37:01
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 蓮子は薄暗い部屋の中でカメラに顔を近づけていた。
 蓮子の右手にはプラスドライバーが握られている。このカメラは故障していた。更に言えば、これは蓮子のカメラではない。メリーから修理を頼まれたカメラなのである。
 メリーのカメラは、黒色でやや大型の一眼レフカメラだった。きょうび、一眼レフ形式のカメラなど、早々見ない。確かにレトロ趣味というのはどの分野においてもある。レコードと蓄音機という組み合わせが、それぞれの発明から四百年以上経ってなお現役ということからも明らかである。ただ、機械に比較的疎いメリーが一眼レフカメラを愛用しているというのは、改めて考えてみると、やや意外といえた。
 もっとも、専門部品がふんだんに使われる製品であるカメラを普通に直せるのだから、自分も大概だと思った。シャッターが切れないと聞いて分解したところ、電子部品が壊れていたので交換する。正規部品そのものは蓮子も持っていないので、同機能の代替品になるが。メリーもそれによって不具合が起こりうることは理解して、それでなお自分に託してくれる。それでどうにもならなければ電気修理屋行きになるのだろうが、これまで数度修理して不具合は起きていない。そのまま修理を重ねて、部品の大半が別物になっても、自分達のこの機械に対する認識は「一眼レフカメラ」のままなのだろう。
 同一性の哲学について思いを馳せつつ、蓮子はカメラの外装を閉じた。最後に修理が成功していることを確認するため、写真を一枚撮ることにした。
 撮影対象は自分の部屋にした。修理できていることの証明のために、写真のデータは消さずにメリーに渡すので、対象は選ばなければならない。この部屋にメリーを呼んだことは何度もあるから、部屋そのものを写すことには何の問題もない。特別差し障りのあるものも置いていない。折角なので自撮りしようなどというナルシストな発想は考えもしなかった。一番無難で合理的な判断として、ただ部屋の中心にレンズを向けてシャッターを切った。
 ストロボの光が蓮子の視界を襲う。メリーの一眼レフが特別本格派仕様というのもあるのだが、こういう機能がうっとおしくなるのも旧来型のカメラが衰退した原因だよなあと蓮子は思った。
 視界の下の方で、何かがストロボの光を反射した。反射の原因は、机の上に転がっていたカメラの部品の片付け忘れのようだ。
 それはネジだった。弄った内部部品にネジが使われるパーツは無かったので、外装を留めるネジと予想した。大きさも、外装のネジの規格と一致する。蓮子は空いているネジ穴を探してカメラをくるくると回した。
 しかし、三回転半回して観察しても、ネジがあるべき穴の全てに、それが刺さっているように見えた。
 蓮子はカメラを置いた。ネジが足りないのなら兎も角、ネジが余るというのは妙なことで気になりはするが、本題はカメラが治っているかどうかということであり、それは達成されているのだ。蓮子は明日メリーに会うときの、話題のタネができたと思うことにした。





「ちゃんと治っているわね。ありがとう」
 メリーは蓮子から返してもらったカメラのシャッターボタンを押しつつ、お礼を言った。肝心の電源を入れておらず、ボタンの押し心地だけでは本当に治っているのかどうか判別がつかないのでは、と蓮子は思った。もっともカメラを治したのは他ならぬ蓮子自身だから、電源を入れて確認するように忠告しても、電源が切れた正常なカメラをいじるか電源が入った正常なカメラをいじるかの違いでしかない、ということは分かっていた。ここは行きつけのカフェテラスだった。撮影を禁じている店ではないが、急に一眼レフカメラのシャッターが切られる音と光が現れたら客が驚いてしまうかもしれない。メリーの行動は機械の動作確認という意味では無意味だが、社会的常識はある行動だと言えるのかもしれない。
「まあ、カメラは治ったんだけどね……」
「ん? 何か問題でもあったの?」
「これを見てよ」
 蓮子はコーヒーカップを置いて、ポケットからネジを取り出した。
「ネジね」
「カメラを治したら、一本余ったのよ」
「刺し忘れたんじゃない?」
 メリーはカメラを顔に近づけて回し始めた。
「私も何度も確認したけど、カメラにはちゃんとネジが嵌っているの」
「そのようね」
 カメラ側にネジの不足が無いということは誰が観測するかに影響されない客観的事実である。三回ほどカメラを回してメリーはその事実を確認し、カメラを置いた。
「交換したパーツは蓮子が持っていたジャンクなんでしょ? 引き出しから取り出すときにネジが混ざったんじゃない?」
「交換したのは電子部品だけれど、電子部品とネジは別の引き出しに保管してる。絶対ありえないとは言わないけれど、混ざる可能性は低いね」
 メリーは確かに、と思った。機械いじりが趣味な理系大学生としては比較的珍しく、蓮子は物の管理に関してはマメなのだ。時間にはルーズなくせに。
 蓮子はネジを手にとって、自分の頭頂部に近づけた。
「もしかしたら頭のネジなのかも」
 メリーは睨みつけるかのように目を細めて蓮子の顔を見た。蓮子がメリーの表情の変化に気がついている様子はない。
「そうなのかもね」
「やめてよメリー。冗談きついんだから」





 冗談などではない。
 結界というものは存外にあいまいで、ちょっとした操作によりあっけなく開かれる。特定の場所にある墓石を1/4回転させるだけで開く。翻って、今回蓮子はカメラのネジをどれだけ回した? 手に持ったドライバーを何回転させた?
 そう、蓮子に修理を依頼したカメラには結界ができていた。あのカメラは結界暴きに行く度に撮影に使っていた。行き先というのは大抵「そういう」場所だから、カメラが現実と幻想の境界面へと変質するのは必然と言えた。
 例えば、壊れる直前の写真は竹林で撮ったのだが、ここには妖狐が出るという噂があった。未明、暗い竹の群れの中に火の玉のようなものが見えてシャッターを切った。現像した写真を見て絶句した。そこには火の玉が、「写っていなかった」。蓮子も火の玉を見たと証言していた。私個人の見間違いなどではない。証明できないが故に、これはまさに狐につままれたかのような怪異となったのだ。
 大昔の日本人は写真を魂が抜かれるとして忌み嫌っていたらしい。その心理はある意味で的を射ていた。魂は流石に言い過ぎだが、想いはカメラや写真に吸収される。写真を見たときに思い浮かぶ記憶は、脳内記憶だけで想起したそれに比べると主観性が薄れてだいぶ客観に寄っている、というのがその証拠である。
 蓮子はそうした想いの集合体の結界を暴いた。その拍子に、頭のネジが一本外れたのだろう。もっとも、そのネジは俗説的な、「外れたら馬鹿になる」という類のものではない。現実という基盤に、蓮子を繋ぎ止めていたネジである。
 メリーの目には、蓮子自身の現実性が薄れ結界の構成要素になりつつあるのが見えていた。しかし、カフェの場でそのことを殊更に指摘しようとはしなかった。





 それから一週間後の深夜のことだった。
 メリーは、突然電話がかかってきて叩き起こされた。こんな時間に電話をかけてくる非常識は、メリーの知る限りでは三人しかいない。二人はメリーの両親。海外に住んでいて時差があるのだが、そんなことはお構いなく、彼らにとって常識的な時間、つまりメリーにとってはたいそう都合の悪い時間帯に連絡を寄越してくることがしばしばある。
 そしてもう一人は宇佐見蓮子。彼女はただただ非常識で、今回の電話の主でもある。
「もしもし?」
「ふぁあい。メリィ? 起きてるぅ?」
「起きてるじゃなくて、起こされたのよ。今何時だと思ってるの」
 メリーは苛立たしく応対した。電話口の向こうから聞こえる蓮子の声が極めて眠そうなことが、互いの安眠を踏みにじって電話をかけてくるという、蓮子の非常識性を際立たせており、メリーの不快を強めた。
 その苛立ちの種は「ちょっと待ってね……」と呟いて、部屋内の物を漁るような音を立て始めた。「どこやったっけ」という声が聞こえるので、時計を探しているのだと思われる。
「えっとね……。二時半ね」
「そうよ。午後じゃなくて午前、深夜の二時半。というか、わざわざ時計探さなくても空見たら時間分かるでしょ」
 蓮子が今時計をどこに置いているのかは分からない。前にメリーが蓮子の部屋を訪れたときから変わっていなければ、壁掛け時計のような探さなくても良い場所にある、ということは少なくとも無かったはずである。蓮子の能力があれば、どう考えても時計を探すよりもカーテンを開けて窓の外を見た方が早い。何故蓮子はそうしないのかという疑問が不満を上回り、メリーは蓮子を叱る気が失せていた。
「えー。気が向かないのだけれど」
「なんでよ。そんな面倒くさがりでも、自分の能力に自信が無い性格でもないでしょうに」
「仕方ないわね」
 蓮子は観念したかのような声で返事をして、続いてカーテンを開ける音が聞こえた。
「二時三十二分」
 正確だ。そして、メリーは時間を確認するために画面を見ていて気がついた。そもそも携帯に時刻表示があるのだから、時計を探す意味も、能力を使う意味もなかった。最初から気が付かなかったあたり、二人とも疲れていたらしい。
 しかし、続く蓮子の発言は、一時的に疲れを忘れさせるのには十分な破壊力だった。
「あるいは、十二時七分」
「は?」
「二つ時間が見える。夜と昼間」
 ズレが半端であることから、例えば日本標準時と協定世界時が見えているといった時差問題ではない。蓮子は一つの星空に、文字通り二つの時間を見ている。それがありえないことは、文系のメリーですら分かる。
「時間は一つでしょ。何? 二つの時間が見えるって」
「時間は全宇宙で同一の概念ではないわ。特殊相対性理論においては運動系ごとに異なる時間が存在するとされて、これを固有時と……。いや、メリーの言うとおりね。今回のような場合において、二つ時間が見えるなんてことは本来ありえない。ありえないはずなのに起きてしまっている」
 蓮子はあくびをした。
「寝不足なのよ。時間が二つ見えるせいで」
「何で時間が二つ見えたら寝不足になるのよ」
「一種の時差ボケ。だって、今みたいに見た目深夜でも、時間の半分は昼間だし、逆に昼に外を歩いていると、もう寝る時間だって目が告げてくるのよ」
「空を見るのが駄目なら、治るまで引き篭もったら? どうせ春休みだし、そんなに外に出なきゃいけない用事はないでしょ」
「メリー。私も最初はそうしようとしたわ。でもね、意外と外出の用事って多いのよ。物を買いに外に出たり、ごみ捨てに出たり。私には引き篭もりは向いていなかったわね。それに、寝てたら治る、みたいなものじゃないでしょこれ」
「それもそうねえ」
 蓮子が想定しているような用事なら、メリーが買い出しやごみ出しを代行することで当面は何とかなりそうではある。ただ、それがずっととなると話は別だし、共に倶楽部活動をする相方が引き籠もりというのは、メリーにとっても好ましいことではなかった。
「何か心当たりないかしら」
「見てみないとなんとも。それに、私も今とっても眠いの。どっかの誰かさんのせいで睡眠時間削られたし。昼過ぎでいい? 日本標準時の」
「助かるわ」
 蓮子はメリーに感謝して電話を切った。





 メリーは蓮子に、一つ噓をついた。
 蓮子の異常については、直接見なくとも心当たりがある。蓮子に異常が起きていることは、カフェでカメラを受け取った段階で既に気が付いていた。いや、それ以前にあのカメラを渡したこと自体が、蓮子の目に起こることを予感してとった行動でもある。
 一つの空に二つの時間が見える。現実世界から乖離しつつある蓮子。メリーは、一つの仮説を思いついていた。 一つの世界に二つの時間、なのではなく、二つの世界に二つの時間。これで辻褄が合う。
 メリーは夢を通して幻想の世界へと入り込むことがしばしばあり、そこで流れる時間は、現実世界のそれとは全くの別物であることを知っていた。メリーには蓮子の目は無いので、漠然と時間の進む速さが違うとか、寝たのが夜なのに幻想世界が昼だとかいう違いしか認識することができなかったが。
 蓮子は、半分の目で現実世界を、もう半分の目で幻想の世界を見ているのだ。これはあくまで比喩的な意味で、片目を閉じても見える空は二種のままだろうが。重ね合わせ、と言うべきなのかもしれないが、メリーは量子物理学者ではないので、その表現が合っているのかどうか分からない。
 蓮子に自分の仮説を伝えてあげるべきだったのかもしれない。カフェの場で伝えていれば、こんな深夜に叩き起こされることもなかったはずである。確かに、カフェの場で伝えなかったことは結果論である。蓮子の能力が変化することは意図していたが、それによって蓮子が弱ることは正直予想外だった。しかし、先程の電話で蓮子の事情を知りながらもできるアドバイスをしなかったのはあまりにも冷酷すぎたという後悔がある。不眠症と言っていたし、今からでも折り返しの電話をかければ出てくれるだろう。メリーは充電に刺しなおした携帯に手を伸ばした。
 だが、携帯に手が触れたところで思い直した。蓮子が新たな力を得るように仕向ける、そして、その結果起こることには可能な限り干渉しない。そう決めた初心を貫くべきだと考えたのだ。





 事の始まりは、放棄された人工衛星トリフネを探索し負った怪我からメリーが回復したころに遡る。
 トリフネの出来事を境に元に戻らなかったことが一つだけある。目の力だ。トリフネの怪物が何かしたのか、その後の治療の影響か、事件後のメリーの境界を見る目はその力を増していた。メリーはそれを嬉々として蓮子に告げたのだが、蓮子はとても悲しそうな顔をした。メリーは後になってそれとなく、どうしてそんな顔をしたのかと問いただした。「メリーがどこか遠くへ行ってしまうような気がした」というのが蓮子の答えだった。
 メリーにとって、これは心外だった。蓮子の発言をそのまま解釈するならば、彼女はメリーに、自分と同じ地点にまで戻ってくることを望んでいるということになる。幻想の目を獲得しつつあるメリーに対して、現実の世界で生きろ、と言っているのだ。それは、秘封倶楽部の、二人の理念とは真っ向から対立している。幻想を拒絶し、臭いものに蓋をする、科学世紀ディストピアへの堕落だとメリーは感じた。
 あるいは逆に、メリーが抜け駆けしていることへの妬みなのかもしれない。メリーの中の蓮子は、メリーが蓮子の目を羨むのと同じように、自分の目に嫉妬していた。嫉妬の感情からも、あの表情と発言は導き出され得る。
 蓮子の心理の一部を埋めていたのが、メリーが人間の常識から外れつつあることへの否定だったのか、それとも羨望だったのか。メリーにとって、それは知ろうと思えば、ただ一言聞けば明らかになる秘密だった。しかし、メリーはそれを探ろうとはしなかった。前者に答えが確定してしまうことを恐怖していたのだ。
 交友関係というのは、それが親友と断言できる程深いものであったとしても、文字通り全てをつまびらかにすることを強制はしない。むしろ、おおっぴらにしては破綻する秘密というのを互いに隠しながら秘密以外を共有するのが人間関係である、とすら言える。秘密を持つことに対して、「こんなことが知られた程度で関係が破綻すると思っていたのか! お前の中での友情は、所詮その程度だったのか!」といった類の怒りを向けることは物語の定番だが、それは、その秘密が偶々明かしても問題のないものだったという、ある種の生存バイアスでしかない。そして、蓮子がメリーに秘している、「自分がメリーの目をどう思っているのか」という問いは、恐らく明かしてはいけない方の秘密なのだろうとメリーは考えていた。
 だからメリーは蓮子に結界を孕んだカメラを渡した。そして、それを弄った蓮子が予想通りに現実の基盤から一部乖離していたのを見たときにメリーが覚えた感情は、懸念ではなく安堵だった。蓮子はメリーと同程度、いや、メリー以上に幻想の段階へと突入した。それは、「蓮子がメリーの人外じみた目をどう思っているのか」という問いの終焉を意味する。蓮子はもう、メリーが自分を置いていってしまうことに怯えなくてもよい。メリーが自分以上の力を持つことに嫉妬しなくてもよい。
 理由はどうあれ、「宇佐見蓮子はマエリベリー・ハーンとは少し別の形で、幻想を見る力を持つことができました。めでたしめでたし」で良いではないかとメリーは思っていた。再三蓮子の異常に口出しする機会はあったのにしなかったのも、メリーの中で蓮子が変化したことは物語の結末部分だったからである。
 しかし、どうも蓮子の中では、これは物語の導入のようだった。蓮子は理由を知りたがっており、さらには恐らくはその能力を厭い、親友メリーに調査と解決を依頼している。助けに行くことはメリーとしてもやぶさかではなかったが、蓮子が人外化しつつあるという事象への反応に見解の不一致があることだけがメリーには不満だった。





 午後一時。メリーは約束通り、学生アパートの蓮子の部屋を訪れてインターホンを押した。いつもよりも蓮子の反応が返ってくるのが遅い。メリーは蓮子がついに倒れてしまったかと危惧したが、幸い少ししてドアが内側から開けられた。
「ああ、メリー、来てくれてありがとう……」
 ドアが開いたときの「幸い」という感情の前に、「不幸中の」と付け足すべきだったとメリーは思った。彼女の目の前にいる蓮子は、数十歳は老けたかのような弱々しい声を発していて、その両目の下にはくまができている。
 部屋に通されたメリーは周りを見渡した。意外と綺麗なままだが、メリーが見知った蓮子の部屋よりは少し散らかっている。時計を探したとき、あるいはそれよりやや前のときから、部屋を片付け直す気力が蓮子からは失われていたようだった。このまま放置していたら、早晩本人の状態に見合った部屋に崩壊してしまっていただろう。
「メリー、ごめん。そっちに座らせて」
 蓮子はメリーの隣に座った。
「カーテン、遮光にしとけば良かった」
 今日は晴天で、南向きの窓からは、プライバシーを守るには十分だが光は拒まない程度の厚さのカーテンから、日差しが差し込んでいる。二人はそれを背にして座った。薄っすらと見える空すらも視界に入れたくないのか、日光そのものが駄目なのか。いずれにせよ、蓮子は相当重症なようである。
「早速だけれど、メリーにお願いがしたい」
 蓮子は机の上に置かれた、あのときのネジを自分に近づけた。
「やっぱりさ、このネジは私の頭のネジだと思うのよ。治して」
「いや無理でしょ」
「何で無理だと思うのさ」
「何でって……。人間の体は機械じゃない。それに、蓮子は機械を治すことを趣味にしているかもしれないけど、私に人間を治す趣味は無いのよ。専門にしても、相対性精神学はそういう学問ではないし」
「質問を変えよう。これは、何だと思う?」
 蓮子はネジをメリーの目の前に突き付けた。蓮子の目は充血していてその上くまができているというひどい有様だが、それでもなお鋭く光っていた。カフェのときのように表情の変化を見逃してくれるということは、今回はないだろう。
「これが私の頭のネジということそのものを、メリーは否定しなかった。常識的に考えれば頭のネジなんてただの比喩なのだから、普通は『無理』じゃなくて、『馬鹿げている』という反応になる。メリー、貴方には何が見えているの?」
 睡眠不足であるにも関わらず、プランクの再来を自称するだけあってその頭の回転の速さは健在である。メリーは観念して、見えているものを話した。
「私の現実性が薄れている……。だとすると、これがネジの形に見えるのは、現実に自分を繋ぎとめていたものという抽象的な概念の具現化ということなのかしら」
 蓮子はメリーの話にショックを受けたというよりも、むしろようやく合点がいったという反応だった。
「このネジにも結界ができているということでOK?」
「そうね。でも、どうせ蓮子のことだから、次は『この結界を暴きましょう』とか言うんでしょ?」
「その通りよ。何か問題でも?」
「暴くには小さすぎるのよ。如何せん一本のネジではねえ」
 メリーは結界を暴くこと自体には賛成だった。秘封俱楽部とはそういうものというのもあるが、今回に限っては結界を暴くことが自分たちにできる唯一の治療と直感していたためである。問題はその手段である。
「一個方法を思いついたけど、確認の必要があるわね。蓮子、悪いけど家から物を取りに行きたいから、少し待ってくれる?」
「構わないわよ」
 蓮子は肯定の意思としてその場に寝転がった。人と会うときや人間として生活するのに最低限必要な活動以外では、こうして過ごしていたのだろう。メリーの目には、蓮子が人として腐りかけているように思えた。その危機感の無さが、逆にメリーを急かした。
 メリーは自転車を急ぎ足で漕いで、蓮子の部屋と自宅を往復した。復路では、メリーの首に一つの道具が掛かっていた。あのカメラである。
「きっかけがこのカメラを修理したこと。で、このカメラにも結界ができているから、二つの結界が同じ場所に繋がっているのならば代替として使える。ネジ借りるわよ」
「どうぞ。でも、カメラでも結局小さいじゃん」
 蓮子は、横になったまま腕だけテーブルに上げて、ネジをメリーの方に転がした。
「部品と全体なのだから大違いよ。それに、カメラなら私の目より大きい。私の目を直接使って結界を暴くことができるのだから、カメラを介してできない道理が無い」
 メリーはネジとカメラを横に並べて、同時に見た。雰囲気としては、ほぼ同じ場所に通じているように思える。若干の光景の違いはあるが、多分誤差だろう。
「大丈夫そうね。行く?」
「行きたいけど、要は夢の中ってことよね。はっきりとは分からないけど、まだせいぜい夕方ぐらいじゃない? 私は良いにしても、メリーはそんな変な時間から寝て大丈夫なの?」
「春休みでサークルの相方もこんなんだし、明日も大した用事は無いわ。それに、昼夜逆転は大学生の華よ」
「今の私が言っても説得力無いけど、だいぶクズね。まあそれなら」
 蓮子とメリーは顔を見合わせて苦笑した。
「おやすみなさい」





 結界の向こう側は廃屋の様だった。部屋の中央に木製の、所々が虫に食われた仏像があるのが目に付く。家というよりもお堂のようだ。フローリング技術が無い古の時代の産物らしく、その床板には塗装が無く、木材の素材の色である薄灰色をしていた。
 室内は暗いが、窓穴から日光が入ってきており、全く見えないという程ではない。
「メリーの目から見て、この仏像はどう?」
「ただの仏像ね。何かの境界になっているようでもない。あと、これは蓮子にも分かると思うけど、長い間手入れされていないわね。ここは廃屋みたい。って、あら」
 蓮子の顔を見て、メリーは少し驚いた。蓮子の顔、特に目の周りは、くまもできていなく充血もなく、寝不足のそれには見えない。
「こっちだとだいぶ健康そうね」
「例えばだけど、骨折しているときに見る夢だからといって、夢の中でも骨が折れているとは限らないでしょ。夢の中ならある程度自分に都合が良い体調になるように、人間ってのはできているのよ。でもまあ」
 蓮子は忌々し気に窓の方を見て、それから目を背けた。
「こっちでも星を見て見える時間は重なっているのよねえ。現実でも夢でも、0か100じゃなくて、50:50の視界なのだからたちが悪い」
 明け方の時間帯のようで、メリーの目でも、まだ完全に明るくなりきってはいない空に、一等星が数個輝いているのが見える。そもそも蓮子の場合星と月を見るという二点においては超人的な目の良さを発揮するから、昼間だったとしても同じような不満をこぼしていただろうが。
「私が時差ボケで倒れる前に探索を済ませちゃいましょう。とりあえずここからは出た方が良いわね」
 蓮子はそう提案して、メリーもうなずいた。仏像以外に大したものはない部屋だ。ここにいても情報は得られまい。
 外からお堂を見ても、森の中にある掘立小屋のような建物という以上の印象は受けなかった。そう、二人はどこかの森の中にいる。さらに言えば、お堂の周りに道らしきものが一切ない。安置されている仏像の様子や埃すら出ない部屋内の様子から、お堂がもう使われていないということまでは二人にも分かっていたが、道の痕跡までも消えてしまっているというのは予想外だった。笹や低木が大量に生い茂っている原生林を踏破するのは、生身の、それも登山用の装備を一切持っていない人間にはあまりにも無謀である。探索開始の瞬間から、二人はお堂とその周囲にできた半径五メートルほどの空き地に閉じ込められてしまっていた。
「これは、出直した方が良いわね……」
「出直すって言っても、カメラの先はここなのでしょう?」
「言ってなかったっけ? カメラとネジの先が同じ世界の微妙に違う場所に繋がっているみたいなの。ネジの方の結界をうまく使えば、探索しやすい場所に入れるかも」
「でもネジは小さすぎるって言ってたじゃん」
「まあそれは起きてから考えましょう。それか、チェーンソーか何かをこっちの世界に持って来るか」
「力技ねえ……」
 二人がそんな相談をしていると、空から鳥が羽ばたくような音が聞こえた。いや、唯の鳥の音ならば、二人が注意を惹かれることは無かっただろう。森の中に鳥がいるのは実に自然なことだ。しかし、奇妙なことに、羽音と同時に、羽音と同じ方向から、人間の話声のような音が聞こえてきたのだ。
「あやや。何か見えますね」
「何か、とは」
「人間ですよ、人間」
「何言っているんですか。こんなところに人間がいるわけないでしょう」
「それがいるのですよ。ほら、廃寺の近く。椛の千里眼も曇りましたかね」
「千里眼だからといって、全方向常に注意が及ぶわけじゃないんです。……っと、本当だ」
「山姥ですかね?」
「山姥だとしたら、彼女らの今の流行は、だいぶエキゾチックな服装なんですね」
 最初のうちは、蓮子とメリーには、なんとなく日本語の会話が聞こえるという程度しか分からなかった。しかし、羽音と声はどんどん近づいてきて、どうも会話の主は自分たちのことを話しているらしい、ということに気が付いた。
 そして、その近づいていく速度が明らかに速い。二人が知っている鳥で、ここまで速く飛ぶことができるものはいない。危機感を覚えた二人は、目の前の隠れられそうな場所、すなわちお堂へと逃げ込んだ。
「逃げたはいいけど」
「あの様子だとここに入った所も見られているわね」
「メリー、ここの施錠はできそう?」
「鍵穴も閂もないわね。というか、ここを施錠したところで、窓が唯の穴なんだから無意味よ」
「全く、本当に忌々しい窓」
 蓮子は舌打ちした。お堂の中ももう一度見渡したが、本当に仏像以外の物が無い部屋で、身を隠すという選択肢すらとれそうにない。
「……。裏口があるわね」
 メリーがぼそりと呟いた。
「何かに追われていて逃げ込んだ建物からすぐ出る。馬鹿馬鹿しい選択肢ね。しかも、外に出たところで自然の密室に放り出されるだけ。ま、座して死を待つよりはまだまともかしら」
 蓮子はメリーの腕を引き裏口の扉へと近づいた。何か打てる手があるのならば行動する。自分達は、秘封俱楽部は、そうやって打開してきた。
「メリー、これは貴方の夢なのよね。いざというときは目覚められるように心構えをしておいて」
「『私達の』夢よ。ま、善処はするわ」
 二人は裏口を開けて、外へと踏み出した。
「夢だって分かっているのだから、せめてもうちょっと都合が良い場所に出てくれないかなあ」
果たして、そんな願いが伝わったのか、目が覚めることこそなかったものの、扉の向こうは少なくとも、森の中ではなかった。





 森の中ではない、どころか、地球上の空間とすら思えなかった。
 真っ暗な空間に光るものが散らばっている。宇宙空間だと言われた方がまだ納得がいく。宇宙との違いは三点。一点目に、この空間は生身でも平気だ。二点目に、透明な足場があるかのように空間を歩くことができる。試みに、「自分からみて高い所に行きたい」「蓮子から見て、横に九十度傾いた状態で立ちたい」と願ったところその通りになったので、主観に応じて移動ができる空間なのだろうとメリーは予想した。
 三点目に、空間に光るものは星ではなさそうだった。二人の近くで光るものと同じだとするならば、これらの光は全部、空間に浮いた扉の向こうにある光だった。ここは星が沢山ある場所ではなく、異空間に通じる扉が沢山ある場所だった。
 このことが蓮子にとっては致命的だった。すぐに空間の法則に気がつき順応したメリーとは対照的に、蓮子は吐き気を必死で堪えるかのように片手で口を抑えながら、その場に跪いた。
「空が。星が、沢山見える。気持ち悪い」
 光は星そのものではないが、多くの扉の向こうは空が見える空間に繋がっていて、蓮子の目にはそれは星に繋がっていることと同義である。蓮子にとっては、大量の時計が置かれている空間に囲まれているようなものだった。しかも、それらの指す時間は尽くバラバラで、その全てが正しい時間に思える。蓮子の正気は急速に失われつつあった。
「やれやれ、手間のかかる」
 二人の近くにある扉の一つが声を発した。二人よりは少し低いが女性の声。
「夢から覚めるべきかしら」
 メリーはそう蓮子に聞いて、舌を歯で押さえた。蓮子が首を縦に振った瞬間に、その舌を強く嚙むつもりだった。
「いや。あの言い方と、少なくとも直近の危機からは解放されたという状況からして、あれは敵ではなさそう」
 蓮子は口を押さえていた手を額に移して答えた。肉体的には完全に不調のようだが、その分析は冷静だった。
「そう。私は敵ではない。敵の敵は味方、というやつだ」
 扉がより大きく開いて、声の主が出てきた。黄色い古代の儀式装束のようなものを着て、車椅子に乗る女性。成る程その顔は穏やかで自分達に何かしようという意志は感じ取れないが、同時に全てを見透かしているような、ある種の凄みをも感じる。和製ホーキング博士、というのがこの女性への二人の第一印象だった。
「貴方の言う敵とは?」
「君達は天狗に追われていたのだろう? そのままでは面倒なことになりそうだったので、私の世界に避難させたのだ。少し前に和平協定を結んだとはいえ、本質的には私と天狗は敵対関係だからね。そう易々とここには来れまい」
「天狗? あー、確かに」
 姿を見る余裕すらなかったので、この女性の言う事が真実なのか断定はできないが、鳥の羽音と人の声を同時に発することができる存在として、天狗というのは妥当な説に思えた。
「天狗であることすら把握していなかったのか。危機感か観察眼のどちらか、あるいは両方が足りていないな。それはそうと、そこのお人はどうした?」
 車椅子の女性は蓮子に手を向けながら聞いた。
「助けてくれたのはありがたいけど、ここの扉から見える空は色々な世界のものが混じっていて気持ち悪いの。扉を閉じてくれない?」
「残念ながらそれは難しい。私達の仕事はこれらの扉を監視することなのだ。ただ対案として、空が見えない部屋に場所を移すことはできる。どのみち、君達とはゆっくりと話すべきことがあるのだ」
 車椅子の女性が扉を生成した。無から扉を生み出すことができる人間など、いや、人間に限らず無から扉を生み出すことができる物など常識的に考えて存在しないことなど二人には分かっていた。しかし、そうとしか形容できないのだ。女性が手を動かして、次の瞬間には女性と二人との間に扉が生まれていた。女性の手つきと扉の出現とが無関係と考える方がどうかしている。少なくとも、そんな非常識も有り得ると確信させるほどに常識の枠から外れた空間なのだ。
「それに、思うに、君達もまた、私に用があるのではないかな?」
 車椅子の女性は、扉の向こうから手招きをし、不敵に笑った。





 招かれた先は小さなお堂のような屋敷だった。先程の建物と同様に人が使っている形跡はないが、幾分状態は良い。矛盾した言い方だが、手入れされた廃屋の様だった。それとも、つい最近人がいなくなった建物なのか。二人はなんとなく、この建物に既視感を覚えた。そして、蓮子にとっては非常にありがたいことに、お堂には窓が無く、縁側は雨戸も含めて閉められていた。
「とりあえずくつろいでくれ。ただ、ここには座布団すらないな」
 車椅子の女性は扉を生成して、そこに腕を突っ込んだ。そして扉の向こう側から紫色の座布団を二つ取り出して、二人へ投げ渡した。
「ありがとうございます。ところで、貴方は誰なのですか?」
 蓮子が受け取った座布団の上に腰掛けながら聞いた。
「そういえば名乗っていなかったな。私の名前は摩多羅隠岐奈。神様だ。そちらの世界では摩多羅神という名前の方が通りが良いかもしれない」
 二人は首を傾げた。
「知らぬのか。まあ、私は語られぬ側の神だからやむを得ないか」
 女性は少し残念そうな顔になったが、幸い機嫌を損ねるという程ではなかったようだ。
「君達も名乗っていなかったな。素性は把握しているのだが、名前を知らないというのは会話をする上ではいたく不便だ」
「私は宇佐見蓮子と申します」
「私はマエリベリー・ハーンです。蓮子からは『メリー』と呼ばれていますが」
「蓮子にマエリベリーだな。よろしく。それにしても、宇佐見か……」
「聞き覚えがあるのですか?」
「私はね。『菫子』という名前に聞き覚えはあるか?」
 蓮子は記憶を辿ったが、はっきりと聞き覚えがあるとは言い難い。約二十年の人生で絶対に聞かないとは言い難いくらいの、とびっきりメジャーではないが滅多に使われないというわけでもないという名前だ。知り合いの知り合いに一人くらいいたかもしれない。ただ、隠岐奈が予想しているのはそうした曖昧な関係性ではないのだろう。
「いいえ」
「親族かと思ったがそうではないか。まあ、彼女と君とでは少なくとも時代が違う。通じる扉も違うから、同じ世界とも限らない」
「菫子とは何者なのですか?」
「いたんだよ。私から見てつい最近、君達から見て大昔に。君達と同じように、結界に穴を開けようとした外の世界の人間がね。君達はどうして結界に穴を開けた?」
 隠岐奈は車椅子に座りながら足を組み、頬杖をついて問いかけた。真面目に話が聞く気があるのかというふざけた姿勢だったが、その事こそが、「私は片手間で君達をどうにでもできる」という威圧を二人に与えた。
「結界に……穴を開けた……? すみません、いつの話なのか……」
 蓮子は、口中から唾液が、顔面から血が急速に引くのを感じた。メリーも同様の様で、ちらりと横を見ると、酸欠の金魚のように口をパクパクとしている。自分の口から発せられる声の震えからして、自分の状態もメリーとそう変わらないのだろうと思った。
「分からないのか、心当たりが多すぎるのか。ま、両方なんだろうな。では、一番直近の話をしよう。あの小屋には結界を通して来たんだよな。どのようにして、何故結界に穴を開けた?」
「私が、カメラの修理をして。多分その時に偶然結界に穴が開いて、私の目もおかしくなって」
「私がカメラにできた結界を見て、この結界の向こう側に行って謎を解き明かせば蓮子の目も戻るんじゃないかって……」
「ま、大体私の予想通りか」
 二人は驚いた。下手に嘘をついては殺されるかもしれないと、ありのままを話したとはいえ、その正直な話は一般的に言って荒唐無稽と評される類のものだ。隠岐奈はそれを信じたどころか、予想通りだとまで言ってのけたのである。
「知っていたのですか?」
「さっきも言ったろ。君達の素性は把握している。じゃあ次はもう少し前の段階についての質問だ。マエリベリー、君は蓮子に渡したカメラに異常があったことを事前に把握していたね?」
「? そうですね。そうでなければ修理を頼みませんし」
「機械的な異常ではない。カメラに結界ができたのは蓮子が修理する前で、マエリベリーはそのことを事前に知っていたはずだ」
 メリーは自分の心臓が一瞬止まったと思った。そうかと思えば、その直後には早鐘を打ち始めている。摩多羅隠岐奈、この結界の向こう側に存在する非常識の秘神の前では、一切の隠し事が不可能なのだ。それが、蓮子と友人を続けていくために一番秘密としておきたかった情報だとしても。
「……ええ」
「そうなの!?」
「蓮子、ごめんなさい……」
「いや、怒っているんじゃなくてびっくりしているんだけど。あのカメラ、元々そんなマジックアイテムだったの?」
「撮ったものが撮ったものだからな。最後にあのカメラで撮った写真は?」
「竹林よ。妖怪狐が出るという噂の」
「あっ、それは私が把握できていなかったな。ではその前」
「その前……?」
 二人は直近の旅行のことを思い出していた。そして、同時にあることに気が付いた。
「ここ!」
 屋敷に通された時の既視感の正体だった。建物としてはまさにここなのだ。違いがあるとするならば、旅行で訪れた件の建物は、これよりも十年は古びていた。
「そうだ。ここだ。座敷わらしが出るという噂があった屋敷。屋敷が廃屋になった直後に私達は来ているから、君達が見たのはこれよりも相当古ぼけた建物だろうが」
 隠岐奈は車椅子を少し動かした。埃が薄く積もった床板に車輪の跡がついていた。
「ここから十三年も経てば、建物は相当ボロボロだっただろう。そんなところに行くだけならともかく、『折角だから泊まってみよう』は感心しないな」
 二人は苦笑した。そういえばそんなこともした。座敷わらしが出るという噂だけ聞いて事前調査を怠ったら、なんのご加護もなさそうなあばら家で絶句した覚えがある。
「本当は何故結界に気が付いていながらそれを蓮子に渡したのか、マエリベリーに聞こうと思っていたのだが、悪意がなさそうだし別に良いか。私が聞きたいことはそれで全部だ」
 メリーは安堵した。隠岐奈という神様は非常に油断ならないが、その神様の気まぐれにより、寸前のところで秘密は明かされずに済んだのである。
「そうだな。君達から私が情報を聞くだけというのも不公平だし、私からも話をしてやろう。一連の事件の種明かしだ」
 そして、隠岐奈は気まぐれにより、自分の秘密を明かし始めた。





「蓮子。君の目を弄ったのは私だ」
「何てことしてくれたの」
 蓮子の非難の言葉には隠岐奈は全く動じなかった。むしろその言葉はメリーに刺さった。蓮子は明らかに隠岐奈の方を見て言ったのだが、メリーには面と向かって自分の好意に基づく行為を拒絶されたように思えたのである。
「君が結界に穴を開けたので、私達、主には私の同僚が結界を塞いだ。だが、結界に穴を開けることができるというのは、外の世界の、それも君達の時代においては得難い才能だ。私は君の目を使ってそちらの世界を監視することができるのでは、と考えた」
「どうしてそんなことを?」
「ここの屋敷に住んでいた座敷わらしが出て行って移り住んだ先が私達の世界なのだ。時間軸で言うと、私達の時代は屋敷から座敷わらしが消えた時代より相当昔だから、彼女にとってはタイムスリップで、私達にとっては未来人を受け入れたということになる。彼女のように未来から妖怪が来ることがあり得るのならば、他に彼女のように私達の世界への移住を希望する妖怪を探したい。そう思って君の目を窓口としたのだ」
「つまり、貴方の世界は妖怪の国?」
 蓮子は隠岐奈に尋ねた。それは、今見ているものの正体のみならず、これまでの秘封俱楽部の活動の中で二人が見てきたものがどこなのか、という謎の答え合わせをも同時に意味していた。
「あるいは神々の彼岸だな。私は君達からしたら昔の存在だが、私達の時代においても、もはや『外の世界』に人智を超えたものの居場所は殆どなかった。そこから百年、二百年経った時代なら一周回って怪異が復活したのではと、君達を見て希望を持ったのだが、実際にはそうではなさそうだな。嘆かわしい」
「えっと……。すみません?」
「君達が謝ることはない。あんな希望もない世界でよくやっているよ。むしろ謝るべきはこちらの方だな。良かれと思って幻想が見える眼を授けたはいいものの、君の眼は少々特殊だったようで、元の能力と変な干渉を引き起こしていたようだ。蓮子よ。君が望むのならば眼を元に戻すことができるが、どうする?」
 メリーは蓮子の方を見た。これは蓮子にとっても悩ましい決断だろう。できれば自分にも相談してほしい。
 しかしそれは、あわよくば蓮子を人外の側に留置いておきたいという、メリー自身の願望が大いにこもった予測だった。実際には蓮子はメリーが自分に視線を送っていることに気が付くことすらなく、ほぼ即答で意思表示をした。
「お願いします」
 蓮子はポケットからネジを取り出した。
「多分、これが私の頭のネジで、戻すのにこれが必要だと思うので、お渡しします」
 それを聞いた隠岐奈は笑った。今までも微笑んではいたが、そうした、神としての超然とした笑いとはまた別物だ。予想外の珍解答に思わず吹き出してしまった。そんな、人間臭い笑いだった。
「ハハハ。面白い発想だ。頭のネジとは洒落が効いている。ただまあ、これはそうじゃない。カメラのネジだよ」
 二人はカメラを見た。それぞれにとって、ネジの有無を精査するのは四回目になるだろうか。三回見て見つからなかった異常が四度目に見つかるなどそうそうあるはずもなく、カメラのネジは全て嵌っている。
「二人とも、蓮子が一つの空に二つの時間が見えることに気が付いたとき、どのように解釈した?」
「現実世界と幻想の世界、二つの世界が重なっているのだと思いました。そうであれば、時間が二つあることにも説明がつくので」
「そうだな。で、あれば、二つの世界が重なっているのが空だけというのも奇妙じゃないかい? つまり、これは幻想の世界にあったはずのネジなのだ」
「幻想の世界にもカメラがあるのですか?」
「持っている人はいるね。ただどちらかというと、二つの世界を無理やり繋げたことへの不具合の方が可能性が高い。ゲームで言う増殖バグみたいなものだ。そうでなければ……」
 隠岐奈は苦笑いした。ひょっとしたら鴉天狗の私物のカメラのネジが一本不足しているかもしれない。自分の過失のせいで、自分と敵対する種族に確認を取らなければならないとは。因果応報というやつか。
「ネジは預かっておくよ。まあ、ネジが無くても戻せるが。というか戻したぞ」
 隠岐奈は縁側の扉を開けた。蓮子はそこから空を見る。17時47分。それ以外のどんな時間でもない。確かに、夕陽の光が、蓮子の両目を照らしていた。





「玄関の扉を、君たちの部屋に繋げておいた」
「ありがとうございます。それじゃあ、メリー、戻りましょうか」
 メリーの反応は無かった。怪訝に思った蓮子が肩をゆすり、それでようやく気付いて、「ええ」と生返事だけ返した。そして、二人は自分たちが元居た世界に戻っていった。
 戻った時、言い方を変えると目が覚めたときには深夜になっていた。暗闇の中で、メリーがぼそりと呟いた。
「残念ね」
「私の能力が元に戻ったこと? なんでそれをメリーが残念がるのよ」
 メリーは黙ったままだった。蓮子は人の心を読むに鈍感で、メリーが不機嫌なことには流石に気がついていたが、それが何故なのかは分からなかった。
「確かにさ、私ももったいないことしたかなあとは思っているよ」
 蓮子は部屋の電気を点けるために立ち上がりながらこぼした。
「その割には即答だったようだけれど?」
 メリーは蓮子のことを気にかけるというより非難がましい声色でそう問いかけ、明かりで照らされた室内で蓮子の方を見ている顔の表情もまた同様だった。蓮子はそれに反駁したくなり口を開いたが、自分がメリーの立場だったら、その日和った選択に対し思うこともあるだろうということに遅れて気が付き、一旦口をつぐんだ。
「最初のうちは悪い気はしなかったのよ。何て面白い能力を手に入れたんだろうって。最初から邪魔だと思っていたらすぐに相談していたわよ」
 代わりに口から出てきた発言は蓮子自身も我ながら言い訳がましいと思うような弁明だったが、メリーもある程度納得したようで、部屋を埋めていたピリピリとした空気は少しだけ柔らかくなった。
「でも体力も気力も持たなかったわね。私はメリーじゃなかった。普通の人間には手に余るわね」
「何よ、人のことを人間じゃないみたいに」
「あら、人間とは思っているわよ。普通の人間じゃなくて変な人間だとは思っているけど」
 蓮子はメリーのそばへと近づいて、その目の周りを指でつついた。メリーは「やめてよお」と言っているが、内心悪い気はしない。自分の能力を否定しているような反応ではないことが少し嬉しかった。
「メリーは境界が見える目を持っているのに、それで消耗したりはしないよね? 何か秘訣とかあるの?」
「そんなものないわよ。生まれつきこういう体質だったってだけで。強いて言えばいっつも境界が見えるなんてことはないから、それが蓮子が貰っていた能力との違いかな」
 メリーは了解も取らずに勝手に人の目を触っている目の前の友人を眺めていた。もはや彼女は境界を有していない。もし目を合わせるたびに境界がちらつくままだったとしたら、秘封俱楽部の活動や二人の関係を続けることができていたのかどうか、ちょっと分からない。本人の意思に一切関係なく常に別世界が見えるというのは、確かに負担になるだろうとメリーは思った。もし次の機会があれば、その辺を上手くやりたいところだ。
「だよねえ。勝手に見えるのは良くないんだよ。こうさ、睨んだ時だけ境界の向こう側の時間が見えるとかさ」
 蓮子は目を細めて至近、メリーの目の辺りにピントを合わせた。
「あのさ、蓮子」
「何、メリー」
「もし蓮子が私の目を持っていたら、どうする?」
 自分でも、どうして今になってこんなことを聞いたのか分からなかった。蓮子が自分の目を見つめているのを見て、心の中まで完全に見透かされているような気分になり、全てが吹っ切れたからだろうか。ただ一つ、今を逃したらもう二度と聞く機会は訪れないのではなかろうかとは感じていた。
「さあね。私はメリーじゃないし」
 はぐらかされてしまったとメリーは思った。
「煮え切らない答えね」
「誠実に答えるならば分からないっていうしかないのよ。例えばさ、逆にメリーが私の目を持っていたら、もっと能力を有効に使えるのになとは考えたりしない?」
「そうね。待ち合わせ場所に遅刻する為じゃなくて、五分前に着くために空を見ようとは思うかしら」
「おお、辛辣。でもまあそういうことよ。仮に同じ景色を見ていたとしても、その光景に何を感じるのかは人それぞれだと思うの。……最近はメリーの視界で見ることも増えたから、その経験に基づいて、メリーと同じ感想を持つことはできないと断定して良いかもしれない」
「そこまで思っているのなら、自分が私の目を持っていたらどうするかも考えられるんじゃないの。後、私が境界を見ることができることに関してどう感じているのかも」
「今回の件ではっきりとしたわ。私は何かが起こってからじゃないと詳しく考えない性格だね。メリーの目を持ってからまた詳しく考えるわ。ま、その機会は当面訪れそうにはないけど」
 蓮子はようやくメリーの目を弄るのを止めた。境界を写したカメラのネジを回していたら能力を得たように、境界を見ている目を弄れば能力を得ることができると考えていたのかもしれない。確かに境界というのは単純な手順で開くこともあるのだが、「親友の目を勝手に弄る」は正しい手順ではなかったようだ。それに気が付いて諦めたのか、蓮子は自分の指先を残念そうに見つめていた。
「まあ、メリーが能力を持っていてそれを私にも見せてくれるから救われている面はあるんだろうけどね。さっきも言ったけど同じ光景を違う視点から見ることができるのだから。それはそれとして、妬ましいよ」
「そうでしょうそうでしょう。悔しかったら蓮子も能力を得てごらんなさい」
 メリーはフフフと笑った。蓮子から、妬ましいという言葉を引き出すことができた。蓮子に優越を得たこともそうだが、何よりも、蓮子が人間の枠から少し外れた自分に向けていた感情が、失望や懸念ではなくて羨望だったことが何よりも嬉しかった。
 結局、蓮子が持っていた「自分がメリーの目をどう思っているのか」という秘密は、明かしても何ら問題のない単純な問いだった。メリーの方で勝手に秘密だと思っていただけで、蓮子本人としては覚られても一向に構わないことだったのかもしれない。
 確かにこれは一種の生存バイアスでしかない。蓮子の考え如何によっては、互いに不審を抱き、ぎこちない感情に挟まれて秘封俱楽部も友情も破綻していたのかもしれないのだから。
「いやいや、ほんの一時間前までは私も相応の能力は持っていたわよ。隠岐奈だっけ、あの神様。ああ隠岐奈様隠岐奈様、願わくば我に加護をー」
 でも、少なくとも今回は友情にひびが入ることもなく、明日からも秘封俱楽部の活動は変わらず続いていきそうである。懸念が一つ払拭された都合の良いハッピーエンドで、私の物語も蓮子の物語も、今度こそこれで一旦お終い。
初秘封です。原作にせよ二次創作にせよメリーに人外化フラグが立つことが多いので、逆に蓮子の能力を弄りました(天邪鬼)
東ノ目
https://twitter.com/Shino_eyes
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100福哭傀のクロ削除
メリーの蓮子に対する思い「自分がメリーの目をどう思っているのか」をすごく丁寧に描いていて、ちょっと重い友情もの?としてとても楽しめました。
秘封にわかなので細々としたところは、まあそういうもんなっだろう多分、で読んでしまったところはありますが、
2人の距離感が心地よく、秘封を大事に思っているからこそ遠回りな暴き方をしてしまったメリーが素敵でした。
5.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。頭のネジを直喩で捉えるふたりの柔軟な感性と、幻想が現実に侵入してくることに少しの不安と期待をもつ蓮子が良かったです。不思議な目に対するふたりの感性の違いが表れていたように感じます。
6.100南条削除
面白かったです
蓮子の不調をいたわるようなそうでもないようなメリーとの関係が複雑でよかったです
黒幕してる隠岐奈も楽しそうでした