生来、友人の多い方ではなかった。
気質が少しおっとりとしているというか、悪く言うとノロマなところがあった。そのせいか集まって人と話していると、話の流れに少しついていけなくなって、場の雰囲気を損ねることが多々あった。
両親はそんな私に、それは決して悪いことではない、ゆっくりと物を感じられるのは良いことだと教えてくれた。今はもう流行病で逝ってしまったが、私には勿体ない人格者の両親だったと思う
そんな私だったが、物心がつくかどうかくらいの幼い頃、仲の良い友達がいた。
二回りくらい年上であったが、明るい髪の色の女の子で、いるだけでその場に花が咲くような、愛嬌のある少女だった。
よく庭先で遊んでもらっていた。
縁側に座って、お手玉だとか手まりだとか、本当に子供らしい遊びに付き合ってくれていた。
何故私なんかの相手をしてくれるのかと聞くと、良く似た人が身近にいて、他人だと思えないそうだ。似ているのが見た目の話なのか気質なのかは聞きそびれてしまった。
ある日、いつものように庭先で遊んでいると、彼女は私の顔を覗き込んでこう問いかけてきたことがある。
「ねぇ、何か欲しいものはある?」
その台詞は、何でも私の願いを叶えてくれるような、不思議な説得力を持っていた。
西洋に願いを聞く魔神の話があると聞いたことがあるが、きっとこんな風だったのではないか。彼女はまるで御伽噺の登場人物のように思えた。
「何で?」
「私たち友達でしょう。友達のために何かしてみたいなって」
「そうだなぁ……」
何を答えたかは覚えていない。答えていないのかもしれない。思い出そうとしても、記憶は煙を掴むように指の隙間からこぼれてしまう。
というより、大人になってから彼女の存在自体を忘れていた。きっと記憶の奥底に封じてしまっていたのだろう。
店の前どころか、通りにすらほとんど人影がない。冷たい風が店の中まで入ってきて、私は身を縮めた。
表の「かんざし屋」の看板が傾いてることを思い出して憂鬱になった。修理を頼むようなお金はない。
もうすぐ暮れだ。借りたお金を返さなければならない。
ここ数年、飢饉が続いている。一年くらいなら皆、そういう事態を想定して蓄えがあるのでどうにかなる。
しかし数年も続けば、非常に貧しい生活を強いられる。何となく、里全体に厚い雲がかかったような、どんよりとした雰囲気を感じる。
こういう時に街で一番割りを食うのは、うちのかんざし屋のような奢侈品を扱う店だった。
人々が生活を切り詰め始めると、贅沢品を買い控えるところから始まる。幸いにして両親が残してくれたツテで、祝い事のためと言って買っていく客はいるが、それでも経営は完全に限界を迎えていた。
風の噂では、小さな芝居小屋を取り仕切っている気の良い旦那が、借金を苦に首を吊ったと聞く。自分もいずれそうなるのかと思うと、他人事ではなく、ただ恐ろしかった。
先月から借金の返済のために、高利貸しに借金をしてしまった。借金の返済のために借金をしたり、複数の場所から金を借りるようになったら終わりだ、と何年も前に客が冗談混じりに言っていたことを思い出した。あの時はまさか自分がこんなふうに追い詰められるとは思ってもみなかった。
正直、もうお金を返せるアテがない。借金取りから逃げようにも、狭い幻想郷には逃げ場なんてそうそうない。芝居小屋の旦那のように首を吊るしかないのだろうか。
自死の中でも首を吊るのは比較的苦痛が少ないと聞くが、縄に自分の首が食い込み喉が潰れるところを想像すると、臓腑がずしっと重くなったような、厭な恐怖を感じる。両親もいなくなり独り身であるのだから、受け継いだ店を守れないことを除けば、死ぬこと自体をそれほど気に病んでいるわけではない。でも痛いのは嫌だ。でもきっと、どの死に方を選んでも苦しいのだろう。
「お金が欲しい……」
店の番台に額をくっつけるように突っ伏して、震えた唇からそんな台詞が漏れ出る。側から見ればあまりに情けない様子だっただろうが、それは切実な願いだった。
「へえ、中々品揃えが良いわね」
ばっと面を上げると、明るい髪の色をした少女が店の中を見回していた。随分と高そうな服を着ている。少し離れて見ても、良質な生地を使っているのがわかる。
里にはもっと大きなかんざし屋もあるので、彼女のようなお洒落な女性は、普通はそっちを利用するはずなのだが。
「これとか、中々面白いわね」
彼女が手に取ったのは白い花と風ぐるまをモチーフにしたかんざしだった。風ぐるまの部分は回転ようになっている。
「ああ、ウチは大量生産に拘らず、丹精込めて一つ一つ手作りするので、そういった手の込んだ装飾ができるんですよ」
動揺しながらも、今まで何回も客にしてきた説明を口にする。
あんな情けない声で「金が欲しい」と呟いたのを聞かれてはいないだろうか。変な汗が出る。
「これいくら?」
「えっ……あっ」
かんざしが売れたのは久しぶりだったものだから驚いてしまった。しどろもどろになりながらも値段を伝えると、彼女はパンパンになったがまぐち財布からお金を取り出した。
彼女が番台の側に近づくと、随分と甘い匂いがした。強めの香水を使っているらしい。
「良い店ね」
「ははぁ、これはどうも……」
私の曖昧な返事はほとんど耳を貸さず、彼女は店を出た。私はその背中をぼけっと見ていた。
しかし店先で振り返って、彼女はこう口にした。
「お金が欲しいの?」
「えっ、あ」
やはり聞かれていたのだ。私は顔から火が出そうだった。人様にあんなところを見られるだなんて、何てみっともない。両親が生きていたら何と言うか。
「それは……まあ」
頭をかきながら、私が下手くそな愛想笑いをすると、彼女は歯を見せて笑った。
「そうなの。わかったわ」
そのまま踵を返して、彼女は曇天の街へと消えていった。
わかったとはどういう意味なのか。私の聞き間違いだろうか。
恐る恐る店を出て通りを見てみると、寂れてほとんど人気のない、いつも通りの光景があるだけだった。
先ほどの豪奢な格好をした少女には全く似つかわしくない眺めだ。彼女が店に来たことが幻覚だったかのように感じてしまう。
しかし釣り銭の受け皿に置かれたお金と、甘ったるい香水の残り香が、彼女の来訪を証明していた。
「ごめんください」
声の方に目を向けると、店先に壮年の男性が立っていた。
「どんなものをお探しで」
帳簿を置いて、立ち上がる。
かんざし屋なので客のほとんどは女性だったが、贈り物としてかんざしを購入する男性も少なくはない。
「ああ、いや、少し眺めても良いですか」
「ご自由にご覧になってください。御用があればお声かけくださいな」
浮かべかけた腰を椅子に戻して、私は再び帳簿を開いた。
もう少し愛想良く熱心に接客した方が良い気もするが、自分がものを選んでいるときに話しかけられるのが苦手なため、あえて気を遣わないようにしている。人と話しているとどうしても浮き足立ってしまうというか、高い買い物をするときは自分で考えて買いたいという思いがある。
「すいません、これをください」
彼はあまり悩まずに、蝶々を象った派手なかんざしを買うことにしたようだ。どれを買うか事前に決めていて、それを見つけたというような感じだ。
商品を包みながら、私は話しかけた。
「誰に渡すんですか?奥さんですか」
「え、いや……はは」
彼は言葉を濁すだけで質問には答えなかった。
自分も世間話のつもりで振っただけなので然程答えに興味があるわけではないのだが、どこか挙動不審な態度は気になった。
良く考えてみればかなり派手な意匠であるから、この人の奥さんのためという線は薄そうだ(かなりの若妻であるのなら話は別だが)。娘さんの方がしっくりくる。
「お買い上げありがとうございました」
お決まりの文句には耳を貸さず、彼は背中を向けた。通りを見回してから、彼は店の外へ出て行った。
思い返せばこの客を皮切りに、うちの店の風向きが大きく変わった。
それからしばらくすると、傾きかけていたうちの店は立て直すどころか、親の代から数えても類を見ない大盛況となっていた。客足は常に絶えず、見せるために置いてある賑やかしの高級な商品であっても構わずに売れていく。
あれほどあった借金も、気がつけば全て返済し終わっていた。
何が原因だろうか。
気になることといえば、心なしか客層に男性が多いような気もする。とはいえ女性客もかなりのもので、街でうちのかんざしが流行っているような気配すらあった。
時期的にはやはり、あの明るい髪色の女の子が店に来てからのような気がする。ひょっとして彼女は座敷童で、見えないだけで我が家に居てくれているのだろうか。
「随分景気良いみたいだねぇ、アンタの店」
「いやぁ、お陰様で」
魚を扱う棒手振りが、アユを油紙に包みながらそう言った。私は差し障りのない答えを返す。
朝食を食べようとしたら家に何もなかったので、棒手振りを探して声をかけたのだ。
通りには私たち以外ほとんど人がいなかった。人気がないのは朝早いせいか、景気が悪いせいなのか。
「評判だよ。かんざし屋さんに座敷童が出たんじゃないかって」
「まあそんな……心当たりはないんですけどねぇ」
丁度似たようなことを考えていたので、内心を見透かされたような気分になって嘘をついてしまった。もっともそうでなくても、あの少女が本当に座敷童かどうかなんてわからないし、下手なことを言って変に噂になるのも困る。
棒手振りは肩に棒を乗せると、棒とそれに天秤のように吊るしてある魚の入った大きな二つの桶を担ぎ上げた。
私は彼に軽く会釈して、彼とは反対方向に来た道を戻る。相変わらず人気が少ない通りを歩いて、私は家に向かった。
もしあの少女が本当に座敷童で、目に見えないだけであるのなら、何かお供えをするべきだろうか。こういった福の神のようなものを丁重に扱わなかった結果、バチがあたる話は枚挙にいとまがない。簡易なもので良いから、何か神棚のようなものを拵えるべきなのだろうか。
確かに全てが上手くいっていると、バチがあたるだとか、何か落とし穴があるような気がする。
何だか急に不安になってきて、足元を見ながら私は歩き続けた。
そろそろ店に着く頃合いだと視線を上げると、店の前に男性が立っていた。
まだ店を開けていないので戸が閉まっているのだが、その戸に額をくっつけるかのように立っており、何だか不気味だ。
最近良くかんざしを買っている客の一人だ。前回給料の支払いが滞って手持ちがないというので、今まで沢山買ってくれていたのだからと、どうしても欲しいのならツケで構わないと言ったので良く覚えている。
ツケを返す見込みが立たなくて謝りにきたのだろうか。今は商売が上調子なので、すぐに払ってもらわなくてもそんなに問題はないのだが。
「あのう、何か御用で」
近づきながら私は彼に声をかけた。しかし返事はない。それどころか声が届いた様子すらない。耳を悪くしてしまったのだろうか。
「あの……」
近づいて肩を軽く叩いたところで、鈍い私はようやく異常に気づいた。
「ヒッ」
私の喉から小さな悲鳴が漏れ出る。気づいたら虫が手の上に乗っていたときのように、反射で手が引っ込む。そのまま尻餅をつく格好で倒れてしまった。
その男は店に向かって何かを呟いていた。
よく見れば頬は痩せこけ、眼窩が木のウロのように暗く、顔色は青白い。まるで幽鬼の類いのようだった。死体が起きて歩いていると言っても良いかもしれない。
ただし瞳だけはギラギラと輝いていた。目の錯覚かもしれないが、うっすらと黄金のような光を放っているようにも見える。身体の全ての精力を吸い上げて、その瞳に光を灯しているようだ。
「……」
男はようやく私の存在に気付いたようだった。ゆっくりと、絡繰の人形のようにゆっくりとこちらを向く。
何かを話しているのだが、口の中で音が転がっているだけで、要領を得ない。唯一、かんざしという単語だけは聞き取れた。
「あ、あの、店はまだ開きませんけれど」
かんざしが買いたいのかどうかはわからないが、勘でそう言った。本当は朝食を済ませたら店を開くつもりだったが、男の様子があまりに恐ろしくて嘘を言ってしまった。
「……」
彼はゆっくりと踵を返し、去っていた。
振り返って急にこちらに向かってきたらどうしようかと思って、その背中から目が離せなかった。そうやって恐怖で混乱しているうちに、男は去っていった。
私はようやく立ち上がり、着物から砂を払った。
今のは何だったのだろう。あまりにも異様な雰囲気だった。
彼はツケも残っているし、かんざしを買うお金は残っていないはずだ。それでもなお、かんざしを買いに来たというのか。
薄々思っていたが、座敷童のおかげだとしても、やはりこの飢饉の中でかんざしが売れるのはおかしい。みんな困窮しているはずなのだ。彼に限らず、無理にかんざしを買っているのではないか。
何か、うちの店がそういった呪いを受けているのではないだろうか。あの少女は座敷童などではなく、何か悪しきものだったのか。
彼がまた戻ってくるのも恐ろしかったのもあったが、そんなことを考え始め、結局その日は店を開かなかった。
雨が屋根や地面を叩く音に混じって、人々が叫ぶ声が聞こえた気がした。
時刻はわからないが、寝付いてからそう時間は経っていないから、丁度日付を跨いだ頃だろう。
もう一度眠りにつこうとするが、何やら外が騒がしい。私は仕方なく起き上がった。
半纏を羽織って、提灯に火を灯して、もう片方の手に傘を持って店の裏手から外に出た。共用の井戸を挟んで向かいの長屋の奥方たちが、私と同じような格好で外に出て、何やら話し込んでいる。
「何かあったんですか?」
「川で溺れてる人がいるらしくて、主人も助けに行く手伝いで出て行ってしまったの」
「こんな時間に川に入るなんておかしいわ。絶対身投げよ。ほら、この前も一町先で首を吊った人がいたでしょう。不景気だものねぇ」
「まあ、滅多なことを言わないでよ。まだわからないでしょ」
私は奥方に頭を下げ、川の方へ向かった。
背中に「危ないから近づかない方が良いわ」と心配する声が投げかけられたが、ほとんど耳に入っていなかった。
嫌な胸騒ぎがした。足早に、雨の中を進んでいく。酷い雨で、傘をさしていてもいても濡れてしまう。
誰かが騒ぐ声の方に真っ直ぐ向かうと、救助が行われている川にすぐ辿り着いた。
あたりは大量の灯りが持ち寄られていて、何人もの男性が雨に負けないように声を張り上げて、怒声にも近いやりとりがなされていた。
「もう一人いるんじゃないか!?」
「だから、それを誰か見たやつはいないのかって聞いてんだよ!」
「店で女と言い合うのを見たって……」
「そこで別れて、それきりなんじゃないか?」
その中の一人が私に気づき、怒り混じりに注意する。
「アンタ、川が増水してるんだ危ないよ!」
「すいません……でも、溺れていた人は?」
「……あっちだ!」
少し間をおいて答えが返ってくる。もしかすると溺れている人の家族か何かと思われたのかもしれない。
橋の方に人だかりができていた。
その中心に溺れていたと思われる男性がござに敷かれていた。丁度救助が終わったところらしかった。
「呼吸もしてるし、脈もあるよ。大分弱ってるようだけど、これなら大丈夫だろう」
町医者の先生がそう告げると、周りに安堵の息が広がる。不安そうな雰囲気から一転、やり遂げたという雰囲気になる。
そんな中で、私はただ一人顔面蒼白になっていた。
男の顔には見覚えがあった。随分とやつれてはいるが、ここ最近、店によく通ってかんざしを買っていた客の一人だ。
町医者の先生が瞳孔を確認するために瞼を開いた瞬間、私はゾッとした。脊髄を芯から冷やされるような悪寒が体を這い回る。
その瞳に、金色の光が灯っていたからだ。
「アンタ、この人の知り合いかい?」
「いえ……思い違いでした」
私は逃げるようにその場から離れた。
男性はござごと持ち上げられて、診療所に運び込まれるようだった。あの様子なら命に別状はないだろう。
頭蓋の中を、思考がぐるぐると回る。とにかく、一度頭を整理したくて、暗い川岸の道を歩いた。うちのかんざしは何か呪われているのだろうか。呪われていたのは店か。いや、理由がわからない。
そして一人の少女の存在を思い出した時、丁度道の反対から何かの気配がした。
「————」
私は息を飲んだ。
暗闇の中から、全身がずぶ濡れの少女がぬらりと現れる。
豪奢な着物だったのだろうが、袖の部分をどこかに引っ掛けたのか、ぼろぼろに破れている。髪もびっしょりになっていて、顔に張り付いた数本の髪は彼女を鬼女の類のように見せる。そして瞳は黄金のように輝いていて、見ていると吸い込まれそうだった。
頭のどこかで逃げるべきだと警鐘が鳴っていた。しかし私の足はその場に根を張ったように動けなくなっている。
店に来たときは大きく二つに髪を結っていたから気づかなかった。髪をおろしたその姿を見て、私はようやく思い出した。
彼女は、私が幼い頃の友達だった少女だ。
異常だったのは、もう二〇年くらい経っているだろうに、見た目がほとんど変わっていないことだった。
「あら」
私の姿を認めると、彼女は花が咲くようにパッと明るい笑顔になった。でも今はその笑顔が、食虫植物が花をつけているような、何かおぞましいものにしか思えなかった。
「……あなたのせいなの?」
「何が?」
心当たりなどまるでない、というように彼女は首を傾げた。
「あの男の人が、川に飛び込んだのは」
「ああ……あれのことね」
彼女はため息をついた。
「もうお金がないから、心中するしか一緒になる方法がないって、無理やり川に一緒に……ひどい話よね」
「お金がなくなったのは……貴女がかんざしを買わせたからでしょう……?」
「そうそう、私が欲しいってねだって買わせたの!」
私が問い詰めると、彼女は一層明るく笑った。責められている、とはつゆほども思っていないのだ。それどころか褒められたと思っているようですらあった。
会話は成り立っているのに、微妙に噛み合っていないのが気持ち悪かった。
私はもう、完全に彼女のことを思い出していた。
今まで記憶が結びつかなかったのは、店に来たときは彼女が髪を結っていたのもあるだろう。
しかし一番の要因は、私が彼女のことを記憶の奥底に仕舞い込んでいたからだ。
両親が激昂したのはあれきりだったから、それもあって怖くて思い出さないようにしていたのだろう。優しく穏やかな二人が、声を荒げて怒鳴ったのは、あの日だけだった。
『私の娘に近づくな、疫病神め!』
そう言って両親は彼女へ、大切にしていた小さな花の植木鉢を投げつけた。当時、何故私の友達にそんな酷いことをするか理解できなかった。
詳細な顛末までは覚えていない。ただ両親を嫌ってはいないから、最終的に私を守るためだということは幼心に理解できたのだろう。また、それ以来彼女が目の前に現れた記憶もない。
「思い出してくれた?」
彼女が黄金の瞳を細めて笑う。
橙色と茶髪の中間くらいの、明るい髪の色をした彼女は、嬉しそうに顔を紅潮させていた。
身に纏った指輪やブローチは、きっと散財させたものたちから手に入れたのだろう。その裏で破滅している人間がいるのだと思うと、装飾品たちが死体を素材にしているような不気味なものに感じる。
彼女が一歩近づいたので、私は後ずさりした。
「あの人たちにかんざしを買わせたのは……」
「そう、貴女の望みを叶えてあげたの。お金が欲しいって言ってたから」
足元の地面が揺らいだ気がした。やはりそうなのか。
なんて私は愚かだったのだろう。借金を返すことに必死になって、座敷童かもしれないだの考えて、店の異常を深く考えなかった。このご時世にかんざしがあんなに売れるわけなんてないのに。
今日川に飛び込んだ男や、店の前で異常を見せていたあの男。それ以外にも彼女に魅入られて、無理にかんざしを買った人間はたくさんいるのだろう。溺れていた彼は助かったから良かったが、ひょっとしたらその他に貧しい生活に耐えきれず餓死したものや首を吊ったものがいるかもしれない。そうでなくても、人生が滅茶苦茶になったものもいるだろう。
きっと私が助かるために、何人もの人間が犠牲になっている。そう思うと、内臓がきゅっと縮むような心地だった。
「ねえ、もっと高いかんざしをたくさん売ってよ。もっと買わせるからさ、そしたらもっと店が繁盛するでしょう?」
こちらの心境には気がつく様子もなく、雨に打たれながら彼女は笑顔でゆっくりと近づいてくる。
私は意を決して口を開いた。
「……やめて」
彼女が足を止めた。
疫病神である彼女の機嫌を損ねたら、何が起こるかわからない。もしかしたら祟りで殺されるかもしれない。
それでも、これ以上犠牲者を増やすわけにはいかなかった。
「何で?お金が欲しいって言ったじゃない」
私は体を丸め、声を裏っ返しながら、ほとんど泣き叫ぶように言った。
「他の人を不幸にしてまで、お金が欲しいなんて言ってない!」
恐怖で身が縮まって、彼女の目を見ながら言うことができなかった。
何も反応がない。私は恐る恐る面を上げて、彼女を見た。
「そうなんだ」
彼女の顔はほとんど無表情だったが、少し目を丸くして驚いているようでもあった。
そして私の横を悠然と彼女は通り過ぎていった。すれ違った後、一拍遅れて私は振り返った。
そのときにはもう、彼女はまるで最初からいなかったかのように、痕跡もなく消え失せていた。
暗闇が広がり、雨音と川が暴れる音が聞こえるのみだった。
「————ハァっ、ハァっ」
気が抜けて、ぬかるんだ地面で服が汚れるのも構わず、私はその場でへたり込んだ。手に力が入らない。傘が私の手から離れ、その辺に転がった。体が雨に晒されるが、もうそんなことはどうでも良かった。
自分の愚鈍さが恨めしい。もっと早く店の異常と向き合って、誰かに相談していれば、川に飛び込んだりする者は出なかったかもしれない。
何よりやりきれないのが、そうしなかったお陰で自分が助かったことだ。
もしあの少女に出会った時点で疫病神であることに気づいていれば、彼女が願いを叶えることを拒絶していだだろう。でもそうしたら借金を苦に首を吊っていたかもしれない。
誰かが儲けたら誰かが損するのが世のことわりなのだろうな、と思うと力のない笑いが溢れた。
彼女は疫病神だ。
でも小さな頃の私の友達だったことも間違いない。
犠牲者がいたのは紛れもない事実だが、一方で私は彼女に命を救われている。助けてくれた相手を拒絶したとだけいうと、随分と私は酷い人間だ。
彼女は何故私を助けたのだろう。他の人間がどうなろうが気にならなかったというだけで、その行動は純粋な善意だったのではないだろうか。神様だから、他の人間がどうなろうか知ったことではなかっただけで、人間の尺度だけに当てはめて彼女が悪いと断じるのは視野狭窄なのではないか。
また、彼女が今になって現れたのは、両親に「私の娘に近寄るな」と言われたから、彼らが死ぬのを律儀に待っていたのだろうか。
店に一度しか顔を見せなかったのは、疫病神として私自身に悪影響を及ぼしてしまうかもという懸念があったからかもしれない。
こうやって彼女のことが気になってしまうこと自体、疫病神としての力なのだろうか。疫病神のことを気遣うだなんて、誰かに話したら考えすぎだと言われるだろうか。
それでも、私の横を通り過ぎたとき、彼女は一体どんな表情だったのか考えずにはいられなかった。
話の流れとしては疫病神を題材としたものとしては王道ですが、
それだけに丁寧に書いていればすばらしい。
特にラストの独自が好きです。
他人を不幸にしてまで救われたくはないしそれゆえに拒絶してしまったけど、
救われたこともかつて友人だったことも事実であるという気持ちの整理のつけ方が好きでした。
こういう彼女の書き方好き
女苑が神様として振るう権能が恐ろしくも徹底的で素晴らしかったです
単なるホラーに終始しておらず、女苑の不理解・それによる切なさが表現されていて深い読み味になっていたのが良かったです。
男の最後のモノローグが駆け足だったのが少し残念ですが、そこを差し引いても面白かったです。
ありがとうございました。
話の主体はモブ、東方キャラも出ては来るけど最低限の出番&名乗らないながらもしっかりと東方projectの二次創作として楽しめる構成。話の内容自体は暗いですが(だがそれが良い)、とても良い読後感でした