ここは地上に続く穴と旧都の中間にぽつんと佇む一軒家。
周囲には他の家屋はおろか掘立小屋一つない。
私は今そこの玄関で借主の水橋パルスィにある依頼をしている最中だ。
「では、よろしくお願いしますね」
「いや、行かないわよ」
どうして断られるのだろうか。
確かに彼女は心の声でも明確に拒絶の意思表示をしている。
「人混みは嫌いだし、そんないかにも面倒そうな集まりなんて行きたくない」と。
でもきっとこれは私のサードアイの調子が悪くて、ありもしない言葉を誤って拾っているだけ。
そうに決まっている。
そういうことにさせて。
「旧都上層部の方達も、貴女に是非来て欲しいと言っているのですよ」
「理由は知らないけど、嫌なものは嫌よ」
取り付く島もない。
こんな時皆ならどうするのだろうかと、家族の姿を思い浮かべてみる。
だが私はその行動の無意味さをすぐに思い知る。
我が家にこういったことの参考になりそうな者などいないからだ。
まず「いいから行こうよ!」と、悪気の欠片もない満面の笑みで相手を強引に引っ張るお空とこいしの姿が脳裏に浮かぶ。
次にお燐は……この二人ほど押しは強くなさそうだけど、おそらくやることは同じだろう。
私は苦悩を悟られぬよう平静を装って続けた。
「あくまで今後のことについて、関係者同士で意見を交換するだけの懇親会ですよ」
「そんなお偉いさん達の集まる集会に、どうしてただの橋守が出なきゃいけないのよ」
「貴女に旧都周辺に点在する橋の管理を任せてからもう随分経ちます。
そこで一度、長年現場で仕事をする貴女の意見を是非聞いてみたいという声が上がっているのです」
これは嘘ではないが十割真実というわけでもない。
彼女のまめで丁寧な仕事ぶりが密かに上層部から評価されているのは事実であり、
その意見を聞きたいと言っている者がいるのも本当のことだ。
しかし中にはただ単純に、「彼女とお近づきになりたい」という明らかに不純な動機を持つ者もいる。
パルスィはどう控えめに言っても美人だ。
整った顔立ちに鮮やかな金髪、そしてまるで宝石のように綺麗な緑色の眼。
酒の席にお呼びがかかるのも合点がいく。
私はしばしば「小さい」だの「貧弱」だのと心の声で馬鹿にされるのに。
そういった侮蔑の声に限らず、男共の欲に満ちた心の声なども散々このサードアイで耳にしてきた。
今では連中が何を思っていようが全く気にならないし、異性への関心自体既に消え失せている。
それはさておき、勿論これらの事情をそのまま伝えては彼女が首を縦に振るはずはない。
「それなら今まで通りの定期報告で十分でしょ」
やはりそうくるか。
パルスィは週の最後に必ず報告書を持参し、地霊殿まで業務の報告にやってくる。
そして要望や意見があればそれも一緒に伝えてもらう、という流れをこれまで何十年も続けている。
今までにそれで問題が生じたことは片手の指で足りるほどの回数しかない。
彼女が他者と交流を持つことにあまり積極的でないのも手伝って、この方式に異議を唱えてきたことは一度もなかった。
私が押し黙っていると、パルスィは訝しむように目を細めてさらに言った。
「とにかく、私は行かないわよ。仕事はちゃんとこなしてるんだし、問題ないでしょ」
彼女の意思は固い。
理屈でやり込めるのも不可能。
となると、もう仕方がない。
本当なら私も嫌がっている者を無理に連れて行こうなどとは考えない。
私だって人混みは嫌いだし、仕事がない日は自宅でのんびり過ごしたい。
だから彼女の気持ちは十分に理解出来る。
上層部から強く言われていなければ形だけ依頼してさっさと諦めているところだ。
「そうですか、では仕方がありませんね」
私が本当に諦めたと思ったのか、パルスィはようやく表情を少しだけ緩めた。
そして微かに申し訳なさそうに、私をいたわるような目でぽつりと言った。
「悪いけど」
心の声が聞こえてくる、「やっと諦めてくれたか」と。
喋り終わったタイミングで私は間髪入れずに言った。
「では、私も行かないことにします」
するとパルスィはぽかんと口を開け、直後の言葉は見事に声色が裏返った。
「はあ!? なんでそうなるのよ!」
「何故も何もありません、貴女が行かないのなら私も行きません」
わざと頬を膨らませてそっぽを向いてみた。
パルスィは焦りを隠そうともせずに立っていた上がり框から三和土に降り、私に詰め寄って来た。
先程と違い同じ高さの場所に立っているわけだが、彼女の身長は私より頭半分ほど高い。
そのためこれでも若干は彼女を見上げるような形になる。
「何子どもみたいなこと言ってるのよ、まさか私のせいにするつもり?」
「私は貴女のせいとは一言も言っていません、ただ行かないと言っただけです」
「でもそれじゃ結局私が行かなかったせいみたいに思われるじゃない!」
滅多に声を荒げない彼女の怒声。
それはいつもの低いぼそぼそとした声からは似ても似つかぬ、遠くまで良く通りそうな高音だ。
歌っているところは一度も見たことがないけど、結構上手いのではないだろうか。
そんな呑気なことを考えていると、彼女の緑の眼は僅かばかり潤んでいた。
瞳が震えている。
また動揺した時の彼女の癖なのか、片手は後ろで自分のスカートを抑えている。
そのまるで年頃の少女のような仕草はただただ愛らしく、可愛い。
またしても今の状況にそぐわない、全く関係のないことが私の脳裏を過った。
もし彼女が私と同じさとり妖怪ならこの心の声は当然筒抜け、ただでは済まないところだろう。
危ない危ないと心の中で胸を撫でおろしていると、パルスィは目ざとく追及してきた。
「今変なこと考えたでしょ!」
おかしい、ポーカーフェイスは得意中の得意だと自負しているのだけど。
玄関に掛かっている時計の長針がここに来てから二度目の十二を刺そうとしている。
話はいよいよ堂々巡りだ。
「私にも色々と立場があるのです、分かって頂けませんか?」
「嫌よ、嫌」
「子どもみたいなことを言って上司を困らせるものではありませんよ?」
「どの口が言うのよ」
「この口です」
口元に人差し指を添えて芝居がかった仕草とともに言うと、パルスィはさらにむっと頬を膨らませた。
双眸は相変わらず水道から落ちかけている水滴のように小刻みに揺れている。
見る者によっては泣き出しそうにさえ見えるかもしれないけど、心を読める私は彼女がただ動揺し感情的になっているだけだと知っている。
うん、可愛い。
この風姿を普段は全く見られないのが、本当に残念でならない。
そう思考を巡らせたところで、また先程のように彼女に勘付かれないよう速やかに気を静める。
いつもは仏頂面しか向けてこない彼女のこんな面差しは、滅多に見られるものではない。
こうしているとなんだかこの表情をずっと独り占めしたくなってくる。
上層部の連中の機嫌を損ねてもいいことはない、それは百も承知している。
しかし今はそんなことよりも別の理由で、彼女を連れて行きたい気持ちになりつつあった。
大丈夫、私なら出来る。
「とにかく、そんなでも地霊殿の主なんだからそういう集まりにはちゃんと出なきゃ駄目でしょ」
「そんなでも、って貴女今さりげなく酷いこと言いましたね。私は上司なのですよ?」
「玄関で子どもみたいに粘るのを止めたら訂正してあげるわ」
「貴女が一緒なら行ってあげますよ」
「だーかーらー!」
時計を見れば時刻は午後五時。
さとりがここを訪れてから既に二時間以上が経過していた。
上がり框の横の台に置いた茶菓子もすっかり空になっている。
客人、それも上司を玄関先でこれだけの長時間応対したのはさすがに記憶にない。
でも、仕方がないじゃないか。
下手に家に上げれば「貴女が了承するまで帰りません」なんて言い出しかねない。
さとりはいつでも冷静沈着で、彼女が隙らしい隙を見せた記憶はほとんどない。
また心を読めるからなのか、目の前のあらゆる出来事に対していつもどこか達観しているような節がある。
そのためかトラブルが起きても常に淡々と対処している印象が強い。
どっしりした仕事ぶりは、確かに上司としては間違いなく頼りになる。
また、彼女は自分自身が忙しい立場にいるからか無駄を嫌うタイプでもある。
きっといつもなら埒が明かないと判断した時点で別の解決方法を模索している。
今日も私が強硬に拒否しているのだから、適当なタイミングで諦めて帰るだろうと思っていた。
「どうせ私に酌でも取らせようとしてるんじゃないの? 橋守なんて上層部からすれば下っ端もいいところだからね」
私はあえて卑屈な物言いをした。
しかしさとりは特に気にした様子もなく、同じ調子で淡々と答える。
「確かにそういう魂胆を持った者も中にはいるかもしれませんね」
「ほらご覧なさい、私は行かないからね」
「別に酌など取らなくていいですよ」
「いやあのね、階級社会はそれじゃ通らないのよ。そんなこと今更言うまでもないでしょう」
大体さとり一人がそれをよしとしたところで、何の意味もあるまい。
彼女自身、今まさに上の連中の面倒な依頼に難儀しているところだろうに。
勿論私が行かないせいでさとりが困るのは分かっているし、申し訳なく思う気持ちだってある。
それでも嫌なものは嫌だし、それとこれとは話が違うのだ。
そんなことを考えていると、さとりがいつものどこか眠たげな半目を急にはっきりと見開いて言った。
視線は真っ直ぐに私の両目に向けられている。
「妙な真似など私がさせませんよ、貴女にはずっと私の隣にいてもらいますから」
普段からぼそぼそと聞き取り辛い声で喋る彼女にしては明晰な口調。
今日聞かされた言葉で一番の力強さを感じる。
普段はサードアイからの心を射貫かれるような眼力が、今は二対の紫の瞳から放たれている。
私は全く目を逸らせなかった。
それだけの強い意志が見て取れる。
さとりはさらに続けた。
「貴女の直属の上司は私なのですから、当然でしょう」
「それはそうだけど……」
そんなことが出来るのだろうか。
精神面の強さはともかく、フィジカルはどう見ても小柄で弱々しい彼女が頼りになるとは正直思えない。
思わず失礼極まりないことを考えてしまったが、さとりは機嫌を悪くするでもなかった。
それどころか、微笑を浮かべてさえいる。
まさか私はなにかとんでもない地雷を踏んだのだろうか。
「貴女は優しいですね、口ではそう言いつつも私に申し訳ないと思ってくれているのですから」
さとりが読んだ私の心は思ったのと違う部分だったようだ。
ほっと息をついた時、次に飛び出してきた言葉は私の予想していないものだった。
「……そうですね。貴女が来てくれるなら休暇を一週間出せる、と言ったらいかがですか?」
一週間。
それは今のこの仕事をしていたらまず取れない長さの休暇。
何故なら橋の管理は今や業務の全容を正確に把握しているのが私しかおらず、長期間の留守は出来ない状態だからだ。
魅力的な提案に心躍りそうになる己の本心を押さえつけ、私は一呼吸置いた。
興味を惹かれていることを悟られぬよう、無関心を装って言った。
「何か条件でも付くんでしょ」
さとりは即座に答えた。
「いいえ、懇親会に出席して頂けるならいつでも休暇を取れるようにしますよ。
代わりも勿論心配いりません。
うちのペットと私が交代で見ますから、一週間程度なら問題なくこなせます。
引継ぎは必要なのでその手間はかかりますが」
馬鹿な。
流石に代役を立てるだろうとは思っていたけど、地霊殿のトップ自らがそれをするというのか。
さとりは非常に頭が切れるし、上に立つ者としても優秀だ。
しかしフットワークが軽いほうではない。
普段は地霊殿に籠りきりのはず。
尤も主が頻繁に外出していては、何か問題が起きた時に部下への指示が遅れてしまう。
そういった意味でさとりが普段から自宅に居ることは何も間違ってはいない。
極めて合理的と言っていいだろう。
だが彼女はわざわざ自分とペットの時間を大きく使ってまで私に休暇を取らせ、その交換条件として懇親会に連れて行こうとしている。
この橋守の仕事を一週間代わるというのは決して簡単な話ではない。
それは私が一番よく分かっている。
旧都を囲むように点在する二十カ所近い橋の管理。
これらの日常的な清掃、目視点検、不具合箇所の修繕。
しかもどの橋も着工から何十、何百年が経過しているため結構な頻度で修繕は必要になる。
橋の数が多いだけにその手間は大きく、はっきり言って面倒極まりない。
それなのにさとりがそこまでするということは、旧都の上層部がよほど厳しく私を連れて来るように言ったに違いない。
私は強硬に拒否していた自分が急に恥ずかしくなってきた。
そうだ、これは仕事、仕事なのだ。
そう思えばきっと難なく切り抜けられる。
私は言った。
「……分かったわ、出る」
それを聞いたさとりはぱっと喜びを顔に浮かべて言った。
「本当ですか? ありがとうございます、では引継ぎの予定を……」
私はその言葉を最後まで聞かず、遮るように言った。
「見返りなんていいわよ」
「え?」
さとりは面食らったのか口を開けたままだ。
私は構わずに続けた。
「その……ごめんなさい、そっちも苦労しているのよね」
「いえ、遠慮しなくていいんですよ」
「いいわよ、そんなこと。でもその、そこまでするぐらい必死なら最初に言ってよ。
察せない私も悪かったけど……」
さとりは今度は気まずそうにし始めた。
無条件で折れると思っていなかったのだろう。
私は気にせず続けた。
「いいから、場所と時間を教えて頂戴。
気は進まないけど変なことされないなら酌取りぐらいしてあげるし」
すると彼女はいつの間にか半目に戻っていたそれを再び見開き、強い口調で言った。
「それは駄目です! 貴女に妙なことは、絶対にさせませんから。
そのための方法も考えてあります」
この話題になると急に口調が強くなるあたり、やはり酒に酔って不埒な真似をする者がいるのだろう。
だがさとりは私を守るとはっきり言ってくれている。
彼女の、信頼出来る上司のこの言葉を今は信じることにしよう。
一週間後の懇親会当日。
時刻は午後八時を少し回った。
暦の上では夏が終わろうとしているが、まだまだ蒸し暑く感じる。
さとりと共に会場に着くと、そこには既に多くの鬼をはじめとする出席者が集まっていた。
彼女の服装はいつもと変わりない。
白いフリルがついたやや暗い水色の上衣に、薄い桃色のスカート。
週に一度の定期報告で地霊殿を訪れる際も、彼女は大抵同じ格好をしている。
暑くないのだろうか。
私は一応人前だからと、普段とは違う藍色の着物を着ている。
さとりと二人で居ると妙に浮いてしまったような気がしないでもない。
しかし人いきれで会場の熱気は徐々に増しており、いつもの服より幾分涼しく感じるのは幸いだった。
会場には長方形の長テーブルが六卓並んでいる。
来ているのは大体四十人ほどだろうか。
私達と同じ女性も少しはいたけど、やはり全体で言うとかなり少数だった。
そして彼女らは皆鬼であり、全員私達より頭一つ以上は背が高かった。
会場を一通り見回したところ顔見知りの妖はいない。
不安な気持ちが大きくなってくるけど、とりあえずはさとりの後ろをついていくしかない。
さとりは会場で誰かと出会う度に深々と頭を下げ、
「お久しぶりです」、「ご無沙汰しております」と定型文のような短い挨拶をした。
すると相手は例外なく、それこそこちらの背丈の二倍以上はある大男でもきちんと頭を下げて挨拶を返してくる。
その様は彼女が実力者、権力者であることの証明と言えるだろう。
私も事前に言われていた通り、「初めまして、橋守の水橋パルスィです」と簡潔な自己紹介とともに挨拶をして回った。
会場の中には既に飲み始めている者もおり、次第に耳に入る声が大きくなっていく。
大声が苦手な私は思わず顔をしかめそうになるが、なんとかこらえる。
すると隣にいたさとりが私の手をそっと握った。
まるで人間の幼子にすら思えるほど華奢で柔らかい手だけど、今は不思議と強い安心感を感じる。
彼女は少し背伸びをして蚊の鳴くようなか細い声で一言だけ耳打ちしてきた。
「大丈夫、私の傍を離れないで下さい」と。
一通りの挨拶周りを終えて席についたところで丁度出席者が揃い、懇親会は始まった。
司会の若く明朗そうな、朱色の髪をした鬼が澱みなく喋り始める。
この時ばかりは騒いでいた者も静まり、これが正式な会なのだということを私に再度認識させた。
司会がマイクを手渡し、受け取った各組織の有力者達が順番に挨拶と近況についての報告をする。
その中には勿論さとりも含まれていた。
女性で唯一マイクを握った彼女は普段通りの抑揚のない声ではあるものの、無駄な言葉なく挨拶と業務に関する報告を終えた。
その凛とした態度に、私は思わず見とれてしまった。
次に年配で白髪が目立つ、いかにも位の高そうな鬼にマイクが渡された。
顔つきこそ柔和だが、その目は油断なく据わっている。
その鬼によって乾杯の音頭が取られると、後は堰が切られたように皆好き勝手に喋り始めた。
私の席は一番端のテーブルの壁に隣接した辺の後ろの方だ。
出入り口に近く、隙間風が心地良い。
隣にさとりが座っている。
私と向かい合って座っているのは、先程まで司会をしていた朱色の髪の鬼の青年だ。
若干の苦笑を浮かべながら彼は言った。
「今日は来て下さって、ありがとうございます。
見ての通りそんなに堅苦しい場じゃないので楽にして下さいね」
階級社会という言葉はどこの組織に行ってもあるだろうけど、ここ地底は特にそれが強いと言われている。
集団の中でまだまだ若輩者の彼にも、色々と苦労があるのだろう。
それから私は同卓した出席者達から日常業務、勤務のサイクルについて等様々な質問をされた。
自分から話をするのが苦手な性分なので、ただ質問に答えるだけというのはかえって楽であり私にとっては幸いだった。
途中さとりが何度か「彼女はとてもしっかりしています」だとか、「よく気が付きます」と真面目な顔で言い添えた。
悪い気はしないけど人前なのにそんなに直球で褒められるのはなんとも恥ずかしい。
その度に私は苦笑を浮かべてその場を誤魔化すしかなかった。
時間は経ち、出席者の酔いも回ってきた頃。
事前に「酒に弱い方なのであまり飲めなくて申し訳ない」旨を周囲に伝えていたので
次々に杯を満たされるようなこともなく、私は平常心を保てている。
実際にはそれなりに飲める方だと自負している。
しかし鬼を相手に「私は飲める方です」などとのたまうのは自殺行為以外の何物でもない。
さとりも懇親会が始まってからずっと落ち着いた調子なので、まだまだ酔ってはいないように見える。
彼女も鬼のペースに巻き込まれないよう、上手く立ち回っているようだ。
そんなことを考えていると、隣のテーブルから頬を赤らめた鬼が二人ほど、席を移動して来た。
一人は青髪で司会の青年と同じぐらいの年と見え、頬に傷がある。
もう一人は彼よりは幾らか年上で落ち着きがありそうな黒髪の鬼だ。
彼らからも様々な質問が飛んでくる。
先程までと同様に無難に受け答えをしていたが、不意に彼らのうち頬の切傷が特徴的な方が言った。
「パルスィさんって、付き合ってる方とかいるんですか!?」
すかさずもう一人の、いくらか年長の黒髪の鬼が咎める。
「馬鹿お前、直球過ぎるだろ!」
咎められたことも気にせず、頬に切傷のある方の鬼はにやけながら私の返答を待っている。
私が押し黙っていると、周囲からもなんだなんだとざわめきながら鬼が三人四人と集まって来る。
私に付き合っている異性などいない。
というより、少なくともここ数十年はそんな話とは無縁の生活を続けている。
だから彼の質問に答えるのは簡単なことだ。
尤も私を取り巻く彼らの視線を見ていると、その後のことが実に面倒に感じられる。
全く、男というのは二言目にはそれなのかと心底うんざりする。
とはいえ、このまま沈黙を貫くわけにもいかない。
適当に曖昧な答え方をしていなすとしよう。
私がそう決めた次の瞬間。
膝に置いていた手を隣から急に握られた。
驚いて視線を向けると、それはさとりの手だった。
しかもそれだけに止まらず、彼女はあろうことか身体を私に寄せ密着させてきた。
ピンクの髪からふわりといい香りがして、心臓が早鐘を撞くように鼓動を早めたのが自分でもはっきりと分かった。
これには私だけでなく周りに集まってきていた者達も驚いた様子で目を丸くした。
今この場で平然としているのはさとり一人だ。
気付けば視線は完全に私達二人だけに注がれている。
急にどうしたのかとさとりに問いかけたいのに舌が乾き、口が全く動かない。
やがてさとりは固まっている私にはお構いなしに、頬までこちらに寄せてくる。
横顔しか見えていないが彼女の面はほんのり紅く染まっており、口角が微かに上がっている。
実は酔っていたのか、それともまさか。
咄嗟の想像は動悸をこれ以上ないほどに激しくした。
さらに高まった緊張は私の身体をまるで石膏のようにその場に固定してしまう。
なんとか顔だけを動かし、さとりの表情をはっきり視界に入れた。
そして気付いた。
いや、気付いてしまった。
彼女は一見恥ずかしそうに頬を染めているが明らかに、今のこの状況を楽しんでいる。
いつぶりにさとりのこんな顔を見ただろうか。
うっすらではあるけど確かな、愛嬌さえ感じられる可愛らしい微笑み。
家族やペットに向けるような、慈愛の感情すら見て取れる。
そもそも同性だし、さとりをそういった対象として見たことなど勿論ない。
でも、今や私は彼女の紫の瞳から目を逸らせずにいた。
さとりは相変わらず身体を密着させたまま周囲の視線など意に介さず、むしろ見せつけるように周りの者を見返す。
まるで恋人が自分達の愛を周囲に見せつけるように。
いつの間にか私達の卓は静まり返り誰もが私達、特にさとりに見入っている。
やがて彼女は恥ずかしそうにたどたどしい口調で呟く。
それは一言、「あの、私達……」と言うだけのものだった。
その口舌は本当に弱々しかった。
彼女の本性を知らない者なら思わず庇護欲を掻き立てられ、手を差し伸べずにいられなくなるかもしれない。
そして、その一言が周囲に及ぼした効果はあまりに絶大だった。
周囲の者達は一斉にざわざわし始める。
まず私に恋人の有無を尋ねた、頬に切傷のある青髪の鬼が気まずそうに言った。
「あ、お二人、そういう仲だったんスね……」
次に隣に居た黒髪の鬼が彼の袖を引っ張って言った。
「お、おい、戻るぞ。 あの、こいつが変なこと言って、すみませんでした」
最初に席を移って来た二人連れの鬼は頭を垂れて謝意を示すと、そそくさと戻って行った。
私達を取り巻いていた者達も何事か囁きながら離れていく。
そんな中、気の強そうな女性の鬼が長く鮮やかな金髪を揺らしながら小声で耳打ちしてきた。
「いいじゃない、応援してるよ。 周りの目なんてほっときな」
どうしていいか分からず、さとりに助けを求めようと振り向いた。
しかし彼女はと言うといつの間にか密着させていた身体を離し、何食わぬ顔で小さな口に黙々と料理を運んでいる。
私は苦笑いを浮かべながら小声で「ありがとうございます」と応えることしか出来なかった。
果たして今のは夢だったのだろうか。
どう考えてもあり得ないけど、そう思いそうになるほど私は心を乱されていた。
その後のことはあまり覚えていない。
気付けば懇親会は終わり、司会が締めの挨拶をしていた。
立ち上がりざまにバランスを崩しかけるもなんとか身体を支える。
一方のさとりは何事もなかったかのように自分のトートバッグを開けて中をいじっている。
彼女は本当に、動揺するということを知らないのだろうか。
とにかく、今日は疲れた。
無事、と言っていいのか分からないけどこれで帰れる。
私達はどちらが言うともなく、来た時と同じように私がさとりの後ろをついていく形で会場を後にした。
無言で旧地獄街道をひたすらに歩き続ける。
あと一時間もすれば日付が変わるだろうか。
尤もここ地底の連中には時間など関係ない、むしろこれからが本番と言わんばかりにあちこちの酒場は活気付いている。
よくも連日深夜まで騒ぎ続けられるものだと、私は小さく溜息をついた。
前を歩くさとりは一言も口をきかない。
このまま私から話しかけなければ、各々の家路への分岐点で解散ということだろう。
それでいい、それで。
明日もまた仕事なのだ、さっさと帰って休んだ方がいいに決まっている。
私の中の理性は勿論、本能もずっとそう訴えている。
しかし先程から緊張は収るどころか大きくなり、眠気も酔いもまとめて吹き飛ばしてしまった。
このままでは布団に入ってもろくに眠れる気がしない。
さとりは今何を考えているのだろうか。
前を歩く貴女の顔ばっかりが頭に浮かんでくる。
ああ、もう、どうしてくれるのよ。
馬鹿、馬鹿。
ああ、幸福とはまさにこのことだろうか。
今思い出しても気分がいい。
私がパルスィに身を寄せて一言、たった一言を呟くだけでくだらない男共は即座に敗北宣言。
彼女の顔を見るのすら今日が初めてだろうにそんなに簡単に諦めて、もう少し骨のある者はいなかったのか。
尤も譲るどころか近づけさせる気さえ私には微塵もなかったけれど。
彼女の特別な表情は、私だけのもの。
そのためなら一週間仕事が激務と化すぐらいなんでもない。
そう、私は半ば自分のエゴのためにパルスィに休暇という交換条件を持ちかけてまで懇親会に連れて行こうとしたのだ。
しかし計算外だったのは彼女が私の想定以上に思慮深く、気を遣ってくれたことだ。
あれにはさすがに後ろめたい思いをせざるを得なかった。
とはいえ無理矢理に休暇を取らせようとするのも、それはそれで不自然に違いない。
いつか素直に打ち明けるとしよう、いつか。
今は代わりに、心の中で貴女に話す。
聞こえるわけがないって?
そうね、貴女は悟り妖怪じゃないものね。
今も私の後ろを着いてきながら、貴女はどうしていいか分からずにいる。
思考も混沌としているわね。
自分勝手?
そうね、その通りだと思う。
相手にないもの、権力と心を読める力を好き放題に利用し立ち回っているのだからね。
でも心を読めるからこそ、今日のことは勇気がいったのよ。
私が身体を寄せた時、反射的に貴女から聞こえてくるであろう心の声。
それが否定、拒絶、嫌悪のものだったらどうしようって。
きっと私を知る、もっと言うなら嫌っている者の多くは言うでしょうね、
「地底でも有名な嫌われ者が今更他人の一人や二人に拒絶されたぐらいで傷つくのか」って。
私の答えは単純明快。
確かに貴方達にならいくら嫌われても、私は平気。
でも、家族に、大切な人にだけは嫌われたくない。
もっと欲を言えば、私を愛して欲しい。
そのためならどんな物だって捧げる。
不届きな連中は誰一人として近付かせない。
独占し本音を聴くためなら、上役の命令だって利用する。
思えば男共に見せつけるように身体を寄せた時、緊張で大きくなったパルスィの呼吸音が耳元にはっきりと聞こえてきた。
精神力には自信があったけど、さすがに完全に平常心を維持することは出来なかった。
結果として、動揺するばかりのパルスィの正確な感情を読み取ることは出来なかった。
でも、仮に拒否や嫌悪の感情が僅かでもあったなら、第三の眼は必ずそれを敏感に感知する。
少なくともそれがなかったことだけは、私をひたすらに安堵させた。
最初から彼女が気になっていたわけではない。
パルスィは私が橋守の仕事を任せた者の中で唯一、長い期間務め続けてくれている。
過去に私の元にいた者達は各々理由はあれど、皆途中で去っていった。
全員が例外なく大なり小なり、さとり妖怪への嫌悪の心を持ちながら。
またここ地底には刹那的な生き方を好む者も多い。
橋の管理という日々変わり映えのない業務に耐えられず、すぐに投げ出してしまう輩も後を絶たなかった。
後任の彼女も、きっとすぐに辞めるだろうと思っていた。
何故ならその風貌は鬼が跋扈するこの地底では華奢としか言いようがなかったし、
特徴的な緑の眼はお世辞にも友好的な感情など宿していなかったからだ。
尤も、眼つきの悪さなら私も人のことは言えないけど。
しかし彼女はそんな第一印象に反して、常に真面目に仕事に取り組んだ。
心の声によると、「適当な仕事して失敗した挙句、あの上司にそれを注意されるなんて嫌」とのことだった。
棘を感じるのは相変わらずだったけど、真摯な態度で職務に取り組んでくれることに不満があるはずもなかった。
またパルスィは過度に私を恐れることもなく、常に率直な意見と要望をぶつけてくる。
往時には完全に私を恐れ、数年の勤務の間に意見や反論の一つもしない者もいた。
それだけに私相手に一切の遠慮がない彼女の存在は、自然と興味を誘った。
そう言えば最初の数年は余所余所しい敬語だったけど、いつの間にか対等語になっていた。
今では彼女と愚痴や皮肉の混じったやり取りをするのが、一つの娯楽とさえ言える。
ふと前を見ると、丁度街道の中心部あたりまで戻ってきていた。
ここから先私達の帰る家は方角で言うと北と南、完全に逆方向だ。
私が歩を止め振り返ると、パルスィは驚いて目を逸らした。
相変わらず彼女の思考はまとまらず、心中を明瞭な言葉として読み取れない心理状態だ。
桜の花弁が数枚描かれた藍色の着物。
その落ち着いた色合いは彼女によく似合っている。
目が泳いでいることから、やはり先刻のことで少なからず平静を失っているようだ。
明日にはまたいつもの仏頂面の彼女に戻っているに違いない。
尤も私だって執務室に山積みになっている書類と向き合えば同じようなものだけど。
とにかく、まずは礼儀として来てもらったお礼を言わなくては。
それに彼女は知る由もないだろうけど、私にだって自分の目的のために策を弄したことへの多少の後ろめたさはある。
後日いいお酒でも持って行こう。
私が口を開こうとした、その時。
パルスィは頬を紅く染め、両手の指を絡ませながらぽつりと言った。
「……ねえ」
私が返事をしようとしたところで、彼女はさらに続ける。
「その……守ってくれて、ありがと」
目線は目下、絡めた自分の指に向いている。
そんな初めて恋をした乙女のような仕草を彼女は他の者の前でもしているのだろうか。
咄嗟に浮かんだ思考を一旦蚊帳の外に置き、いつもの上司の顔で努めて鷹揚に答える。
「見事なものだったでしょう」
「……もうちょっと他になかったの? 死ぬほど恥ずかしかったんだけど」
「貴女を守ると約束しましたからね、確実な方法を取ったのです」
直後、彼女はやっと顔を上げてこちらに視線を向けてきた。
先刻の光景を思い出したのかその頬は紅く火照っている。
やがて、目線を逸らしながら呟いた。
「…………馬鹿」
パルスィはそのまま歩を踏み出し、耳元に頬を寄せてきた。
今日私が彼女にしたように。
囁きが熱っぽい吐息とともに耳朶に響き渡る。
「……守るなら最後まで守ってよ。途中でいなくなったら、絶対許さないから」
返事の前に、私は彼女の腰に手を添えてその身をそっと抱き寄せた。
自分の細い腕でも支えられるほどの華奢さに驚かされる。
パルスィはびくりと身体を震わせたが、抵抗はしなかった。
私は手を添えたまま、彼女の耳元にそっと囁いた。
「約束、しますよ」
対話の際に異能の力で相手の心を読む。
アンフェアな駆け引きを続け、心が痛んだのはいつぶりだろう。
パルスィ、ずるくて卑怯な私でごめんなさい。
貴女は私よりもずっと、ずっと強いわ。
でもせめて、この身を持って守らせて。
大切な、とても大切な貴女を。
周囲には他の家屋はおろか掘立小屋一つない。
私は今そこの玄関で借主の水橋パルスィにある依頼をしている最中だ。
「では、よろしくお願いしますね」
「いや、行かないわよ」
どうして断られるのだろうか。
確かに彼女は心の声でも明確に拒絶の意思表示をしている。
「人混みは嫌いだし、そんないかにも面倒そうな集まりなんて行きたくない」と。
でもきっとこれは私のサードアイの調子が悪くて、ありもしない言葉を誤って拾っているだけ。
そうに決まっている。
そういうことにさせて。
「旧都上層部の方達も、貴女に是非来て欲しいと言っているのですよ」
「理由は知らないけど、嫌なものは嫌よ」
取り付く島もない。
こんな時皆ならどうするのだろうかと、家族の姿を思い浮かべてみる。
だが私はその行動の無意味さをすぐに思い知る。
我が家にこういったことの参考になりそうな者などいないからだ。
まず「いいから行こうよ!」と、悪気の欠片もない満面の笑みで相手を強引に引っ張るお空とこいしの姿が脳裏に浮かぶ。
次にお燐は……この二人ほど押しは強くなさそうだけど、おそらくやることは同じだろう。
私は苦悩を悟られぬよう平静を装って続けた。
「あくまで今後のことについて、関係者同士で意見を交換するだけの懇親会ですよ」
「そんなお偉いさん達の集まる集会に、どうしてただの橋守が出なきゃいけないのよ」
「貴女に旧都周辺に点在する橋の管理を任せてからもう随分経ちます。
そこで一度、長年現場で仕事をする貴女の意見を是非聞いてみたいという声が上がっているのです」
これは嘘ではないが十割真実というわけでもない。
彼女のまめで丁寧な仕事ぶりが密かに上層部から評価されているのは事実であり、
その意見を聞きたいと言っている者がいるのも本当のことだ。
しかし中にはただ単純に、「彼女とお近づきになりたい」という明らかに不純な動機を持つ者もいる。
パルスィはどう控えめに言っても美人だ。
整った顔立ちに鮮やかな金髪、そしてまるで宝石のように綺麗な緑色の眼。
酒の席にお呼びがかかるのも合点がいく。
私はしばしば「小さい」だの「貧弱」だのと心の声で馬鹿にされるのに。
そういった侮蔑の声に限らず、男共の欲に満ちた心の声なども散々このサードアイで耳にしてきた。
今では連中が何を思っていようが全く気にならないし、異性への関心自体既に消え失せている。
それはさておき、勿論これらの事情をそのまま伝えては彼女が首を縦に振るはずはない。
「それなら今まで通りの定期報告で十分でしょ」
やはりそうくるか。
パルスィは週の最後に必ず報告書を持参し、地霊殿まで業務の報告にやってくる。
そして要望や意見があればそれも一緒に伝えてもらう、という流れをこれまで何十年も続けている。
今までにそれで問題が生じたことは片手の指で足りるほどの回数しかない。
彼女が他者と交流を持つことにあまり積極的でないのも手伝って、この方式に異議を唱えてきたことは一度もなかった。
私が押し黙っていると、パルスィは訝しむように目を細めてさらに言った。
「とにかく、私は行かないわよ。仕事はちゃんとこなしてるんだし、問題ないでしょ」
彼女の意思は固い。
理屈でやり込めるのも不可能。
となると、もう仕方がない。
本当なら私も嫌がっている者を無理に連れて行こうなどとは考えない。
私だって人混みは嫌いだし、仕事がない日は自宅でのんびり過ごしたい。
だから彼女の気持ちは十分に理解出来る。
上層部から強く言われていなければ形だけ依頼してさっさと諦めているところだ。
「そうですか、では仕方がありませんね」
私が本当に諦めたと思ったのか、パルスィはようやく表情を少しだけ緩めた。
そして微かに申し訳なさそうに、私をいたわるような目でぽつりと言った。
「悪いけど」
心の声が聞こえてくる、「やっと諦めてくれたか」と。
喋り終わったタイミングで私は間髪入れずに言った。
「では、私も行かないことにします」
するとパルスィはぽかんと口を開け、直後の言葉は見事に声色が裏返った。
「はあ!? なんでそうなるのよ!」
「何故も何もありません、貴女が行かないのなら私も行きません」
わざと頬を膨らませてそっぽを向いてみた。
パルスィは焦りを隠そうともせずに立っていた上がり框から三和土に降り、私に詰め寄って来た。
先程と違い同じ高さの場所に立っているわけだが、彼女の身長は私より頭半分ほど高い。
そのためこれでも若干は彼女を見上げるような形になる。
「何子どもみたいなこと言ってるのよ、まさか私のせいにするつもり?」
「私は貴女のせいとは一言も言っていません、ただ行かないと言っただけです」
「でもそれじゃ結局私が行かなかったせいみたいに思われるじゃない!」
滅多に声を荒げない彼女の怒声。
それはいつもの低いぼそぼそとした声からは似ても似つかぬ、遠くまで良く通りそうな高音だ。
歌っているところは一度も見たことがないけど、結構上手いのではないだろうか。
そんな呑気なことを考えていると、彼女の緑の眼は僅かばかり潤んでいた。
瞳が震えている。
また動揺した時の彼女の癖なのか、片手は後ろで自分のスカートを抑えている。
そのまるで年頃の少女のような仕草はただただ愛らしく、可愛い。
またしても今の状況にそぐわない、全く関係のないことが私の脳裏を過った。
もし彼女が私と同じさとり妖怪ならこの心の声は当然筒抜け、ただでは済まないところだろう。
危ない危ないと心の中で胸を撫でおろしていると、パルスィは目ざとく追及してきた。
「今変なこと考えたでしょ!」
おかしい、ポーカーフェイスは得意中の得意だと自負しているのだけど。
玄関に掛かっている時計の長針がここに来てから二度目の十二を刺そうとしている。
話はいよいよ堂々巡りだ。
「私にも色々と立場があるのです、分かって頂けませんか?」
「嫌よ、嫌」
「子どもみたいなことを言って上司を困らせるものではありませんよ?」
「どの口が言うのよ」
「この口です」
口元に人差し指を添えて芝居がかった仕草とともに言うと、パルスィはさらにむっと頬を膨らませた。
双眸は相変わらず水道から落ちかけている水滴のように小刻みに揺れている。
見る者によっては泣き出しそうにさえ見えるかもしれないけど、心を読める私は彼女がただ動揺し感情的になっているだけだと知っている。
うん、可愛い。
この風姿を普段は全く見られないのが、本当に残念でならない。
そう思考を巡らせたところで、また先程のように彼女に勘付かれないよう速やかに気を静める。
いつもは仏頂面しか向けてこない彼女のこんな面差しは、滅多に見られるものではない。
こうしているとなんだかこの表情をずっと独り占めしたくなってくる。
上層部の連中の機嫌を損ねてもいいことはない、それは百も承知している。
しかし今はそんなことよりも別の理由で、彼女を連れて行きたい気持ちになりつつあった。
大丈夫、私なら出来る。
「とにかく、そんなでも地霊殿の主なんだからそういう集まりにはちゃんと出なきゃ駄目でしょ」
「そんなでも、って貴女今さりげなく酷いこと言いましたね。私は上司なのですよ?」
「玄関で子どもみたいに粘るのを止めたら訂正してあげるわ」
「貴女が一緒なら行ってあげますよ」
「だーかーらー!」
時計を見れば時刻は午後五時。
さとりがここを訪れてから既に二時間以上が経過していた。
上がり框の横の台に置いた茶菓子もすっかり空になっている。
客人、それも上司を玄関先でこれだけの長時間応対したのはさすがに記憶にない。
でも、仕方がないじゃないか。
下手に家に上げれば「貴女が了承するまで帰りません」なんて言い出しかねない。
さとりはいつでも冷静沈着で、彼女が隙らしい隙を見せた記憶はほとんどない。
また心を読めるからなのか、目の前のあらゆる出来事に対していつもどこか達観しているような節がある。
そのためかトラブルが起きても常に淡々と対処している印象が強い。
どっしりした仕事ぶりは、確かに上司としては間違いなく頼りになる。
また、彼女は自分自身が忙しい立場にいるからか無駄を嫌うタイプでもある。
きっといつもなら埒が明かないと判断した時点で別の解決方法を模索している。
今日も私が強硬に拒否しているのだから、適当なタイミングで諦めて帰るだろうと思っていた。
「どうせ私に酌でも取らせようとしてるんじゃないの? 橋守なんて上層部からすれば下っ端もいいところだからね」
私はあえて卑屈な物言いをした。
しかしさとりは特に気にした様子もなく、同じ調子で淡々と答える。
「確かにそういう魂胆を持った者も中にはいるかもしれませんね」
「ほらご覧なさい、私は行かないからね」
「別に酌など取らなくていいですよ」
「いやあのね、階級社会はそれじゃ通らないのよ。そんなこと今更言うまでもないでしょう」
大体さとり一人がそれをよしとしたところで、何の意味もあるまい。
彼女自身、今まさに上の連中の面倒な依頼に難儀しているところだろうに。
勿論私が行かないせいでさとりが困るのは分かっているし、申し訳なく思う気持ちだってある。
それでも嫌なものは嫌だし、それとこれとは話が違うのだ。
そんなことを考えていると、さとりがいつものどこか眠たげな半目を急にはっきりと見開いて言った。
視線は真っ直ぐに私の両目に向けられている。
「妙な真似など私がさせませんよ、貴女にはずっと私の隣にいてもらいますから」
普段からぼそぼそと聞き取り辛い声で喋る彼女にしては明晰な口調。
今日聞かされた言葉で一番の力強さを感じる。
普段はサードアイからの心を射貫かれるような眼力が、今は二対の紫の瞳から放たれている。
私は全く目を逸らせなかった。
それだけの強い意志が見て取れる。
さとりはさらに続けた。
「貴女の直属の上司は私なのですから、当然でしょう」
「それはそうだけど……」
そんなことが出来るのだろうか。
精神面の強さはともかく、フィジカルはどう見ても小柄で弱々しい彼女が頼りになるとは正直思えない。
思わず失礼極まりないことを考えてしまったが、さとりは機嫌を悪くするでもなかった。
それどころか、微笑を浮かべてさえいる。
まさか私はなにかとんでもない地雷を踏んだのだろうか。
「貴女は優しいですね、口ではそう言いつつも私に申し訳ないと思ってくれているのですから」
さとりが読んだ私の心は思ったのと違う部分だったようだ。
ほっと息をついた時、次に飛び出してきた言葉は私の予想していないものだった。
「……そうですね。貴女が来てくれるなら休暇を一週間出せる、と言ったらいかがですか?」
一週間。
それは今のこの仕事をしていたらまず取れない長さの休暇。
何故なら橋の管理は今や業務の全容を正確に把握しているのが私しかおらず、長期間の留守は出来ない状態だからだ。
魅力的な提案に心躍りそうになる己の本心を押さえつけ、私は一呼吸置いた。
興味を惹かれていることを悟られぬよう、無関心を装って言った。
「何か条件でも付くんでしょ」
さとりは即座に答えた。
「いいえ、懇親会に出席して頂けるならいつでも休暇を取れるようにしますよ。
代わりも勿論心配いりません。
うちのペットと私が交代で見ますから、一週間程度なら問題なくこなせます。
引継ぎは必要なのでその手間はかかりますが」
馬鹿な。
流石に代役を立てるだろうとは思っていたけど、地霊殿のトップ自らがそれをするというのか。
さとりは非常に頭が切れるし、上に立つ者としても優秀だ。
しかしフットワークが軽いほうではない。
普段は地霊殿に籠りきりのはず。
尤も主が頻繁に外出していては、何か問題が起きた時に部下への指示が遅れてしまう。
そういった意味でさとりが普段から自宅に居ることは何も間違ってはいない。
極めて合理的と言っていいだろう。
だが彼女はわざわざ自分とペットの時間を大きく使ってまで私に休暇を取らせ、その交換条件として懇親会に連れて行こうとしている。
この橋守の仕事を一週間代わるというのは決して簡単な話ではない。
それは私が一番よく分かっている。
旧都を囲むように点在する二十カ所近い橋の管理。
これらの日常的な清掃、目視点検、不具合箇所の修繕。
しかもどの橋も着工から何十、何百年が経過しているため結構な頻度で修繕は必要になる。
橋の数が多いだけにその手間は大きく、はっきり言って面倒極まりない。
それなのにさとりがそこまでするということは、旧都の上層部がよほど厳しく私を連れて来るように言ったに違いない。
私は強硬に拒否していた自分が急に恥ずかしくなってきた。
そうだ、これは仕事、仕事なのだ。
そう思えばきっと難なく切り抜けられる。
私は言った。
「……分かったわ、出る」
それを聞いたさとりはぱっと喜びを顔に浮かべて言った。
「本当ですか? ありがとうございます、では引継ぎの予定を……」
私はその言葉を最後まで聞かず、遮るように言った。
「見返りなんていいわよ」
「え?」
さとりは面食らったのか口を開けたままだ。
私は構わずに続けた。
「その……ごめんなさい、そっちも苦労しているのよね」
「いえ、遠慮しなくていいんですよ」
「いいわよ、そんなこと。でもその、そこまでするぐらい必死なら最初に言ってよ。
察せない私も悪かったけど……」
さとりは今度は気まずそうにし始めた。
無条件で折れると思っていなかったのだろう。
私は気にせず続けた。
「いいから、場所と時間を教えて頂戴。
気は進まないけど変なことされないなら酌取りぐらいしてあげるし」
すると彼女はいつの間にか半目に戻っていたそれを再び見開き、強い口調で言った。
「それは駄目です! 貴女に妙なことは、絶対にさせませんから。
そのための方法も考えてあります」
この話題になると急に口調が強くなるあたり、やはり酒に酔って不埒な真似をする者がいるのだろう。
だがさとりは私を守るとはっきり言ってくれている。
彼女の、信頼出来る上司のこの言葉を今は信じることにしよう。
一週間後の懇親会当日。
時刻は午後八時を少し回った。
暦の上では夏が終わろうとしているが、まだまだ蒸し暑く感じる。
さとりと共に会場に着くと、そこには既に多くの鬼をはじめとする出席者が集まっていた。
彼女の服装はいつもと変わりない。
白いフリルがついたやや暗い水色の上衣に、薄い桃色のスカート。
週に一度の定期報告で地霊殿を訪れる際も、彼女は大抵同じ格好をしている。
暑くないのだろうか。
私は一応人前だからと、普段とは違う藍色の着物を着ている。
さとりと二人で居ると妙に浮いてしまったような気がしないでもない。
しかし人いきれで会場の熱気は徐々に増しており、いつもの服より幾分涼しく感じるのは幸いだった。
会場には長方形の長テーブルが六卓並んでいる。
来ているのは大体四十人ほどだろうか。
私達と同じ女性も少しはいたけど、やはり全体で言うとかなり少数だった。
そして彼女らは皆鬼であり、全員私達より頭一つ以上は背が高かった。
会場を一通り見回したところ顔見知りの妖はいない。
不安な気持ちが大きくなってくるけど、とりあえずはさとりの後ろをついていくしかない。
さとりは会場で誰かと出会う度に深々と頭を下げ、
「お久しぶりです」、「ご無沙汰しております」と定型文のような短い挨拶をした。
すると相手は例外なく、それこそこちらの背丈の二倍以上はある大男でもきちんと頭を下げて挨拶を返してくる。
その様は彼女が実力者、権力者であることの証明と言えるだろう。
私も事前に言われていた通り、「初めまして、橋守の水橋パルスィです」と簡潔な自己紹介とともに挨拶をして回った。
会場の中には既に飲み始めている者もおり、次第に耳に入る声が大きくなっていく。
大声が苦手な私は思わず顔をしかめそうになるが、なんとかこらえる。
すると隣にいたさとりが私の手をそっと握った。
まるで人間の幼子にすら思えるほど華奢で柔らかい手だけど、今は不思議と強い安心感を感じる。
彼女は少し背伸びをして蚊の鳴くようなか細い声で一言だけ耳打ちしてきた。
「大丈夫、私の傍を離れないで下さい」と。
一通りの挨拶周りを終えて席についたところで丁度出席者が揃い、懇親会は始まった。
司会の若く明朗そうな、朱色の髪をした鬼が澱みなく喋り始める。
この時ばかりは騒いでいた者も静まり、これが正式な会なのだということを私に再度認識させた。
司会がマイクを手渡し、受け取った各組織の有力者達が順番に挨拶と近況についての報告をする。
その中には勿論さとりも含まれていた。
女性で唯一マイクを握った彼女は普段通りの抑揚のない声ではあるものの、無駄な言葉なく挨拶と業務に関する報告を終えた。
その凛とした態度に、私は思わず見とれてしまった。
次に年配で白髪が目立つ、いかにも位の高そうな鬼にマイクが渡された。
顔つきこそ柔和だが、その目は油断なく据わっている。
その鬼によって乾杯の音頭が取られると、後は堰が切られたように皆好き勝手に喋り始めた。
私の席は一番端のテーブルの壁に隣接した辺の後ろの方だ。
出入り口に近く、隙間風が心地良い。
隣にさとりが座っている。
私と向かい合って座っているのは、先程まで司会をしていた朱色の髪の鬼の青年だ。
若干の苦笑を浮かべながら彼は言った。
「今日は来て下さって、ありがとうございます。
見ての通りそんなに堅苦しい場じゃないので楽にして下さいね」
階級社会という言葉はどこの組織に行ってもあるだろうけど、ここ地底は特にそれが強いと言われている。
集団の中でまだまだ若輩者の彼にも、色々と苦労があるのだろう。
それから私は同卓した出席者達から日常業務、勤務のサイクルについて等様々な質問をされた。
自分から話をするのが苦手な性分なので、ただ質問に答えるだけというのはかえって楽であり私にとっては幸いだった。
途中さとりが何度か「彼女はとてもしっかりしています」だとか、「よく気が付きます」と真面目な顔で言い添えた。
悪い気はしないけど人前なのにそんなに直球で褒められるのはなんとも恥ずかしい。
その度に私は苦笑を浮かべてその場を誤魔化すしかなかった。
時間は経ち、出席者の酔いも回ってきた頃。
事前に「酒に弱い方なのであまり飲めなくて申し訳ない」旨を周囲に伝えていたので
次々に杯を満たされるようなこともなく、私は平常心を保てている。
実際にはそれなりに飲める方だと自負している。
しかし鬼を相手に「私は飲める方です」などとのたまうのは自殺行為以外の何物でもない。
さとりも懇親会が始まってからずっと落ち着いた調子なので、まだまだ酔ってはいないように見える。
彼女も鬼のペースに巻き込まれないよう、上手く立ち回っているようだ。
そんなことを考えていると、隣のテーブルから頬を赤らめた鬼が二人ほど、席を移動して来た。
一人は青髪で司会の青年と同じぐらいの年と見え、頬に傷がある。
もう一人は彼よりは幾らか年上で落ち着きがありそうな黒髪の鬼だ。
彼らからも様々な質問が飛んでくる。
先程までと同様に無難に受け答えをしていたが、不意に彼らのうち頬の切傷が特徴的な方が言った。
「パルスィさんって、付き合ってる方とかいるんですか!?」
すかさずもう一人の、いくらか年長の黒髪の鬼が咎める。
「馬鹿お前、直球過ぎるだろ!」
咎められたことも気にせず、頬に切傷のある方の鬼はにやけながら私の返答を待っている。
私が押し黙っていると、周囲からもなんだなんだとざわめきながら鬼が三人四人と集まって来る。
私に付き合っている異性などいない。
というより、少なくともここ数十年はそんな話とは無縁の生活を続けている。
だから彼の質問に答えるのは簡単なことだ。
尤も私を取り巻く彼らの視線を見ていると、その後のことが実に面倒に感じられる。
全く、男というのは二言目にはそれなのかと心底うんざりする。
とはいえ、このまま沈黙を貫くわけにもいかない。
適当に曖昧な答え方をしていなすとしよう。
私がそう決めた次の瞬間。
膝に置いていた手を隣から急に握られた。
驚いて視線を向けると、それはさとりの手だった。
しかもそれだけに止まらず、彼女はあろうことか身体を私に寄せ密着させてきた。
ピンクの髪からふわりといい香りがして、心臓が早鐘を撞くように鼓動を早めたのが自分でもはっきりと分かった。
これには私だけでなく周りに集まってきていた者達も驚いた様子で目を丸くした。
今この場で平然としているのはさとり一人だ。
気付けば視線は完全に私達二人だけに注がれている。
急にどうしたのかとさとりに問いかけたいのに舌が乾き、口が全く動かない。
やがてさとりは固まっている私にはお構いなしに、頬までこちらに寄せてくる。
横顔しか見えていないが彼女の面はほんのり紅く染まっており、口角が微かに上がっている。
実は酔っていたのか、それともまさか。
咄嗟の想像は動悸をこれ以上ないほどに激しくした。
さらに高まった緊張は私の身体をまるで石膏のようにその場に固定してしまう。
なんとか顔だけを動かし、さとりの表情をはっきり視界に入れた。
そして気付いた。
いや、気付いてしまった。
彼女は一見恥ずかしそうに頬を染めているが明らかに、今のこの状況を楽しんでいる。
いつぶりにさとりのこんな顔を見ただろうか。
うっすらではあるけど確かな、愛嬌さえ感じられる可愛らしい微笑み。
家族やペットに向けるような、慈愛の感情すら見て取れる。
そもそも同性だし、さとりをそういった対象として見たことなど勿論ない。
でも、今や私は彼女の紫の瞳から目を逸らせずにいた。
さとりは相変わらず身体を密着させたまま周囲の視線など意に介さず、むしろ見せつけるように周りの者を見返す。
まるで恋人が自分達の愛を周囲に見せつけるように。
いつの間にか私達の卓は静まり返り誰もが私達、特にさとりに見入っている。
やがて彼女は恥ずかしそうにたどたどしい口調で呟く。
それは一言、「あの、私達……」と言うだけのものだった。
その口舌は本当に弱々しかった。
彼女の本性を知らない者なら思わず庇護欲を掻き立てられ、手を差し伸べずにいられなくなるかもしれない。
そして、その一言が周囲に及ぼした効果はあまりに絶大だった。
周囲の者達は一斉にざわざわし始める。
まず私に恋人の有無を尋ねた、頬に切傷のある青髪の鬼が気まずそうに言った。
「あ、お二人、そういう仲だったんスね……」
次に隣に居た黒髪の鬼が彼の袖を引っ張って言った。
「お、おい、戻るぞ。 あの、こいつが変なこと言って、すみませんでした」
最初に席を移って来た二人連れの鬼は頭を垂れて謝意を示すと、そそくさと戻って行った。
私達を取り巻いていた者達も何事か囁きながら離れていく。
そんな中、気の強そうな女性の鬼が長く鮮やかな金髪を揺らしながら小声で耳打ちしてきた。
「いいじゃない、応援してるよ。 周りの目なんてほっときな」
どうしていいか分からず、さとりに助けを求めようと振り向いた。
しかし彼女はと言うといつの間にか密着させていた身体を離し、何食わぬ顔で小さな口に黙々と料理を運んでいる。
私は苦笑いを浮かべながら小声で「ありがとうございます」と応えることしか出来なかった。
果たして今のは夢だったのだろうか。
どう考えてもあり得ないけど、そう思いそうになるほど私は心を乱されていた。
その後のことはあまり覚えていない。
気付けば懇親会は終わり、司会が締めの挨拶をしていた。
立ち上がりざまにバランスを崩しかけるもなんとか身体を支える。
一方のさとりは何事もなかったかのように自分のトートバッグを開けて中をいじっている。
彼女は本当に、動揺するということを知らないのだろうか。
とにかく、今日は疲れた。
無事、と言っていいのか分からないけどこれで帰れる。
私達はどちらが言うともなく、来た時と同じように私がさとりの後ろをついていく形で会場を後にした。
無言で旧地獄街道をひたすらに歩き続ける。
あと一時間もすれば日付が変わるだろうか。
尤もここ地底の連中には時間など関係ない、むしろこれからが本番と言わんばかりにあちこちの酒場は活気付いている。
よくも連日深夜まで騒ぎ続けられるものだと、私は小さく溜息をついた。
前を歩くさとりは一言も口をきかない。
このまま私から話しかけなければ、各々の家路への分岐点で解散ということだろう。
それでいい、それで。
明日もまた仕事なのだ、さっさと帰って休んだ方がいいに決まっている。
私の中の理性は勿論、本能もずっとそう訴えている。
しかし先程から緊張は収るどころか大きくなり、眠気も酔いもまとめて吹き飛ばしてしまった。
このままでは布団に入ってもろくに眠れる気がしない。
さとりは今何を考えているのだろうか。
前を歩く貴女の顔ばっかりが頭に浮かんでくる。
ああ、もう、どうしてくれるのよ。
馬鹿、馬鹿。
ああ、幸福とはまさにこのことだろうか。
今思い出しても気分がいい。
私がパルスィに身を寄せて一言、たった一言を呟くだけでくだらない男共は即座に敗北宣言。
彼女の顔を見るのすら今日が初めてだろうにそんなに簡単に諦めて、もう少し骨のある者はいなかったのか。
尤も譲るどころか近づけさせる気さえ私には微塵もなかったけれど。
彼女の特別な表情は、私だけのもの。
そのためなら一週間仕事が激務と化すぐらいなんでもない。
そう、私は半ば自分のエゴのためにパルスィに休暇という交換条件を持ちかけてまで懇親会に連れて行こうとしたのだ。
しかし計算外だったのは彼女が私の想定以上に思慮深く、気を遣ってくれたことだ。
あれにはさすがに後ろめたい思いをせざるを得なかった。
とはいえ無理矢理に休暇を取らせようとするのも、それはそれで不自然に違いない。
いつか素直に打ち明けるとしよう、いつか。
今は代わりに、心の中で貴女に話す。
聞こえるわけがないって?
そうね、貴女は悟り妖怪じゃないものね。
今も私の後ろを着いてきながら、貴女はどうしていいか分からずにいる。
思考も混沌としているわね。
自分勝手?
そうね、その通りだと思う。
相手にないもの、権力と心を読める力を好き放題に利用し立ち回っているのだからね。
でも心を読めるからこそ、今日のことは勇気がいったのよ。
私が身体を寄せた時、反射的に貴女から聞こえてくるであろう心の声。
それが否定、拒絶、嫌悪のものだったらどうしようって。
きっと私を知る、もっと言うなら嫌っている者の多くは言うでしょうね、
「地底でも有名な嫌われ者が今更他人の一人や二人に拒絶されたぐらいで傷つくのか」って。
私の答えは単純明快。
確かに貴方達にならいくら嫌われても、私は平気。
でも、家族に、大切な人にだけは嫌われたくない。
もっと欲を言えば、私を愛して欲しい。
そのためならどんな物だって捧げる。
不届きな連中は誰一人として近付かせない。
独占し本音を聴くためなら、上役の命令だって利用する。
思えば男共に見せつけるように身体を寄せた時、緊張で大きくなったパルスィの呼吸音が耳元にはっきりと聞こえてきた。
精神力には自信があったけど、さすがに完全に平常心を維持することは出来なかった。
結果として、動揺するばかりのパルスィの正確な感情を読み取ることは出来なかった。
でも、仮に拒否や嫌悪の感情が僅かでもあったなら、第三の眼は必ずそれを敏感に感知する。
少なくともそれがなかったことだけは、私をひたすらに安堵させた。
最初から彼女が気になっていたわけではない。
パルスィは私が橋守の仕事を任せた者の中で唯一、長い期間務め続けてくれている。
過去に私の元にいた者達は各々理由はあれど、皆途中で去っていった。
全員が例外なく大なり小なり、さとり妖怪への嫌悪の心を持ちながら。
またここ地底には刹那的な生き方を好む者も多い。
橋の管理という日々変わり映えのない業務に耐えられず、すぐに投げ出してしまう輩も後を絶たなかった。
後任の彼女も、きっとすぐに辞めるだろうと思っていた。
何故ならその風貌は鬼が跋扈するこの地底では華奢としか言いようがなかったし、
特徴的な緑の眼はお世辞にも友好的な感情など宿していなかったからだ。
尤も、眼つきの悪さなら私も人のことは言えないけど。
しかし彼女はそんな第一印象に反して、常に真面目に仕事に取り組んだ。
心の声によると、「適当な仕事して失敗した挙句、あの上司にそれを注意されるなんて嫌」とのことだった。
棘を感じるのは相変わらずだったけど、真摯な態度で職務に取り組んでくれることに不満があるはずもなかった。
またパルスィは過度に私を恐れることもなく、常に率直な意見と要望をぶつけてくる。
往時には完全に私を恐れ、数年の勤務の間に意見や反論の一つもしない者もいた。
それだけに私相手に一切の遠慮がない彼女の存在は、自然と興味を誘った。
そう言えば最初の数年は余所余所しい敬語だったけど、いつの間にか対等語になっていた。
今では彼女と愚痴や皮肉の混じったやり取りをするのが、一つの娯楽とさえ言える。
ふと前を見ると、丁度街道の中心部あたりまで戻ってきていた。
ここから先私達の帰る家は方角で言うと北と南、完全に逆方向だ。
私が歩を止め振り返ると、パルスィは驚いて目を逸らした。
相変わらず彼女の思考はまとまらず、心中を明瞭な言葉として読み取れない心理状態だ。
桜の花弁が数枚描かれた藍色の着物。
その落ち着いた色合いは彼女によく似合っている。
目が泳いでいることから、やはり先刻のことで少なからず平静を失っているようだ。
明日にはまたいつもの仏頂面の彼女に戻っているに違いない。
尤も私だって執務室に山積みになっている書類と向き合えば同じようなものだけど。
とにかく、まずは礼儀として来てもらったお礼を言わなくては。
それに彼女は知る由もないだろうけど、私にだって自分の目的のために策を弄したことへの多少の後ろめたさはある。
後日いいお酒でも持って行こう。
私が口を開こうとした、その時。
パルスィは頬を紅く染め、両手の指を絡ませながらぽつりと言った。
「……ねえ」
私が返事をしようとしたところで、彼女はさらに続ける。
「その……守ってくれて、ありがと」
目線は目下、絡めた自分の指に向いている。
そんな初めて恋をした乙女のような仕草を彼女は他の者の前でもしているのだろうか。
咄嗟に浮かんだ思考を一旦蚊帳の外に置き、いつもの上司の顔で努めて鷹揚に答える。
「見事なものだったでしょう」
「……もうちょっと他になかったの? 死ぬほど恥ずかしかったんだけど」
「貴女を守ると約束しましたからね、確実な方法を取ったのです」
直後、彼女はやっと顔を上げてこちらに視線を向けてきた。
先刻の光景を思い出したのかその頬は紅く火照っている。
やがて、目線を逸らしながら呟いた。
「…………馬鹿」
パルスィはそのまま歩を踏み出し、耳元に頬を寄せてきた。
今日私が彼女にしたように。
囁きが熱っぽい吐息とともに耳朶に響き渡る。
「……守るなら最後まで守ってよ。途中でいなくなったら、絶対許さないから」
返事の前に、私は彼女の腰に手を添えてその身をそっと抱き寄せた。
自分の細い腕でも支えられるほどの華奢さに驚かされる。
パルスィはびくりと身体を震わせたが、抵抗はしなかった。
私は手を添えたまま、彼女の耳元にそっと囁いた。
「約束、しますよ」
対話の際に異能の力で相手の心を読む。
アンフェアな駆け引きを続け、心が痛んだのはいつぶりだろう。
パルスィ、ずるくて卑怯な私でごめんなさい。
貴女は私よりもずっと、ずっと強いわ。
でもせめて、この身を持って守らせて。
大切な、とても大切な貴女を。
実際に宴会まで行ったので
どっちかメインに据えた方がいいんじゃないかと思いましたが、
かといってこれどっちがメインだっていうと……
個人的な好みでいうならもう少し玄関のやり取りは短くまとめた方が好きかもです。
あと追加で個人的な好みとしては心情の読取はもう少し読者を信じてくれても……いや、どうなんだろうか。
甘いさとパルでよかったです。
能力を最大限利用しつつも罪悪感や躊躇はちゃんと感じていて、心を読むときの怖さに怯えながらも前に出ようとするさとり様が素晴らしかったです。
描写自体も可愛くてナイスでした。
有難う御座いました。
さとパルに目覚めそうになりました
知らない場所で知らない人に囲まれて居心地悪くなってるパルスィがかわいらしかったです
いいさとパルでした
二人の関係が、すごく、すごくいいです……