Coolier - 新生・東方創想話

秘封倶楽部のリノーツェロス

2023/01/10 20:50:50
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 ――描画される世界は、眼球に浮かぶ鏡像をモチーフにして視力を得ていく。では、色彩は、脳味噌のドコから現象しているのだろう? 伝え聴いただけの像が数百年に渡る幻想を生んだ木版画の事を考える。描かれたものは似て非なるものだ。演算記号ならば≒と表すべき。しかしそれは沈んだ想像力を捲し立てる。観測と憶測に入り込む近似値のブレ、その隙間に虹の七色が滑り込んでくるのかもしれない。つまり、夢幻の内の彩りは、像よりも強い。単なる誤謬の哲学だけれど。
 さて、じゃあ、頭蓋骨の中の夢とは、物理的に何だろう?

 果てなく続く彼岸花の道を呆然と私は眺めている。









 衒学趣味のリノーツェロス(秘封倶楽部の216記)







 ―初日

 そう云って私達は別れた。
 八坂神社の南楼門には橙色の斜陽が滑り落ちていた。季節を大きく過ぎた桜は細い枝を空に巡らせていて、正面の石鳥居を見遣ると赤く色付いた落葉が参道の端を彩っている。十月はすでに寒気を帯びていて、私は普段着の上に黒チェックのパルトーコートを羽織っている。真夜中になると息が白く凍る今では、さすがに白シャツと黒いロングスカートだけでは心細い。神社内から円山公園方面へと自転車を押していく彼女と手を振り合い、一時の別れを惜しんだ。去りゆく彼女、メリー(マエリベリー・ハーン。一見外国人のようだが歴とした日本生まれだ)も紫色のワンピースの上にファーケープをかぶり防寒対策をしている。日曜休日の八坂神社にはチラホラと、厄除けや商売繁盛の祈りなのか、年齢に境無くまばらに人々が行き交いしていた。雨錆びた石鳥居を跨いだ私は自転車に乗って、帰り道へと漕ぎ出した。
 京都市内のある大学には妙なオカルトサークルが噂されていて、その張本人が私達二人の女学生だ。学徒で居られる僅かな生涯を、世の不可思議に向けるという、総合的に見れば暇人もいいところな活動を夜な夜な続けている。名称を秘封倶楽部という。物理学を専攻する私が原子力を超える超自然の発見を求めているとか、精神学究を哲学の域から脱しさせるために青白い魂の観測に躍起になるとか、奇妙な通念に操られている訳で無い。
 夜の星から時間を、夜の月から場所を知ることが出来るのは、鍛錬した私の天文と物理の計算力の結晶で、メリーはこれを気持ちの悪い異能なんだと言う。対する彼女こそ真に羨ましい幻想視を身に宿していて、それは一般な霊能力――背中から光の帯が出るような心霊主義のもの――では決して無く、この世在らざるものとの狭間を知覚できると謂う、挙げ句の果てには夢の中で幽世を体験するなんて贅沢な生物的特徴を保有している。私達秘封倶楽部は同じ人間で、ただ最も誇れる目的は、脳の造りや体の成長、まして特異技能でなく、飽くなき好奇心なのだ。ペイガニズムに没頭したり、考古学を発掘したりしない。子供らしい、幼稚な世界への興味。
 私達は未だ楽しみを感じている。
 敷地を隔てる瓦塀を横目に、内より迫り出した紅葉の下をゆっくり駆ける。流れるような北風に襲われて、私は頭にあるリボン付きの中折れ帽を押さえた。今年の冬は冷えそうだ。海水温度の上昇が山の天気を平地まで運んできて、狐の嫁入りが頻発した夏だった。きっと来年には子狐が沢山見られるのだろう。気象の異常は今に始まった事ではないが、原始神道に習うならば荒神を鎮めるべく祭祀を行うべきだろうか? しかし杞憂に表情を曇らせるほどの心配には襲われておらず、私は空を一瞬仰いだ。青黒い天蓋に、比重によって地平線に溜まった夕焼けは美しく、明日の平穏を信じられるくらいの彩りを見せていた。
 ピアノの残響が耳に残るような、静かな余韻が立ち込めていた。これから、眼を瞑ればすぐにでも消える短い夜が始まる。明日からは大学でメリーと語らう日々が再開するだろう。私の頭中には、さきの言葉が反芻していた。約束だ。メリーとの。丑三つ時に徘徊するような、具体的な予定の無い今はさよなら、来週に、また、同じ場所で。
『蓮子、約束ね。じゃあ、また明日』
 彼女は私の名前を嬉々として呼んでくれる。吸い込んだ息は、近代文明の慣れた臭気を鼻に運んできた。そろそろ日が暮れる。
『うん。メリー。また一週間後にここね』

      *

 果てなく続く彼岸花の道を呆然と私は眺めている。
 瞬きをする刹那に世界は変わりうる。可能世界論で云えば、私はついに身を持って反証したのだ。いや、実証してしまったのか。余計な事を有耶無耶に悩む前に、私は身体を確認してみた。紫色のワンピースにファーケープ、金色の髪を留める真っ白のフリルブリム帽子もそのままだ。私の名前はメリー。手にある白いトートバッグにはお財布を始めとして、携帯電話や化粧水、飲みかけのオレンジジュースに自転車の鍵など、よくあるワープ演出としては消失しているものが記憶も含めて悉く残っている。直前に降りた自転車だけが何処か、いや、京都市内の神社前に取り残されているのだろう。
 道、と表現すればいいか、捻れて巨大になった古木を左右に眺めて、群生する彼岸花の赤が視界の奥まで続いている。幽霊が通るのならまだしも、人の進む道がこんなにも禍々しく赤まる訳が無い。志向性広場とでも云うべきか、まるで、毒の紅は地平の向こうへ誘うように美しく花を開いている。静謐とした青臭い空気は森林のそれで、排ガスに慣れた肺に違和感を覚えて空を仰ぐと、深海の底を覗き込むような透き通って深い青色が漂っていた。現代のくすみの一切ない原風景の空だ。
 状況整理をするために一歩、私は前方へと進んだ。密集した彼岸花の瑞々しい茎がパキリ、と折れる音が靴底から昇ってきた。向かう先は、北、だろうか、南なのか。ともかく、道なりである。
「白日夢、というよりナルコレプシーかしら?」
 夢の中ではよくある独り言が零れ出た。恐らく私はいつもの様に幻視をしているのだと思われるが……
 鱗茎を土に覆われた曼珠沙華の匂いは薄く、森林のクロロフィルの緑色臭気が風によって運ばれてきた。踏み潰した茎から弾け出た白い草汁の苦い想起だけが舌に焼け付いて、頭がクラクラとする。眼に見えない彼岸花の花粉が鼻粘膜から脳へと届いたのか、幻覚である世界に、更なる幻惑が追加される。あれは何だろう。
 道を矯正する枯木の生垣の隙間から、黒い塊が現れた。それは生物にはとても見えず、人工物、よりは現象に近い。火種を落とした白紙のように、視界の一部が丸く焦げている錯覚すら覚える。学術的に表現するなら、完全黒体とでも云うべきだろう。とにかく宙に浮かぶ黒丸だ。走性でもあるのか、花畑に侵入すると、その覚束ない浮遊は獲物を見つけた黒豹のように、ゆっくりと進路を歪めていく。大きく回るように扇を描いた後、私の方に真っ直ぐと向かってきた。
 それの通った跡は、超重力に押し潰されるように彼岸花も土も抉れている、なんてのはブラックホールを模倣した漫画の世界で、少なくともこの夢はコマ割りをされていないようだ。黒体の軌跡は群生した彼岸花の穂先を揺らしていく。私は、というと、臆病にも踵を返して逃げ出していた。初め、近寄るそいつを目視しながら後退りしていたが、飛行速度が上がると私の足も自然に走り出した。黒体輻射もなく青白くも熱も発していない、あれは光を喰うだけの化け物か。
 姿を隠せばいいのだろうか? 何に怯えているかは解らないけれど、危険な感じがする。遮蔽物が多い道脇の森林群に飛び込むことも考えたが、よくよくにも黒体が出てきたのは森の中だ。脚を上げる度に暴れるバッグが重い。ああ、もう。
 突然の運動に慌てた頭は無造作に周囲の情報を取り入れていき、私は太陽の位置を発見する。まだ1分も経っていないが、今まさに日が暮れ始めた。空に夕暮れの蜜柑色が沈殿していく。車のモーターのように温まり始めた思考は馬鹿になっていて、あろうことか走馬灯のように回想を始める。八坂神社から円山公園の自然道で突如発見した古い神社、その裏手の虚空に見えた強い結界とその裂け目。蓮子との約束。晩御飯はなめこご飯の予定。お風呂入りたい。
 私は眠っていない。兎の飛び込んだ穴にも、古い鏡にも触っていない。一瞬、眼を瞑っただけなのに!
 相対性精神学も超統一物理学も、咄嗟の役には立たない。昨日、一回だけ甘味に負けた重い体を持ち上げて、曼珠沙華の狂い咲く道を駆けていく。初めの方角とは逆方向になっている。チラ、と背後を一瞥する。まだ追い掛けてくる。それもほんの少しだが差を詰められている。密集する青茎の畑は、素早さを求める駆け足とは相性が悪くて、まるで膝まで浸水しているかのようだ。地面が凸凹だったり、鋭い葉の多い雑草が生えていたりしたら大惨事になっていた事だろう。音を立てるのは私だけ。彼岸花の折られる悲鳴だけが空間に滲み渡る。もしかして黒体は私の音を頼りに追っているのではないか、とホラー映画にありがちな設定を思い付くが、今更止まれない。追いつかれてしまう。
 5分程進んだのだろうか。運動不足の肺が痛み始めた。彼岸花の毒もあるのかもしれない。そろそろ道の終わりが見えるだろうか? 儚い希望を持った眼は、行く先にまた厄介なものを視認してしまう。曼珠沙華の残酷な赤色にぽつん、と、
 小さい女の子だ。不自然なローズピンクの髪色に癖の弱いボブカット、線の太い独特のデジタルオーディオプレイヤー(ヘッドセット?)を付けている現代風の娘だ。ファッションセンターで買ったような上襟の水色の服を着ている。私と同じくして神隠し的夢幻ワープに遭った子供だろうか? ともかく危険だ。一緒に逃がしてやらないと。
「ねぇ!」
 上がった息で声を張り上げる。乾上がった喉が辛くなり一回唾を飲み込んで私は、振り向いた半眼の彼女と目を合わせた。危ないから――息み過ぎた横隔膜は上手く言葉を蒸留してくれなかった。不安に駆られて一度、黒体の方を確認する。まだ追ってくる! ……来ない?
「お取り込み中の所悪いのだけれど」
 少女が言葉を口にする。私の後ろ見た残虐な黒体は声に驚いたのか、もしくは飽きたのか、ピタ、と急激に運動を弱めて、どこでもない、森の奥に向かってゆっくりと過ぎ去っていく。
 なんなのか。状況が掴めない。逃げる足を遅めて止まり中腰になった私は、十月の寒気にも関わらず汗の浮かぶ顔を袖で拭って息を整える。一拍置いて顔を上げると、先の音楽少女が私の前まで歩み寄ってきていた。
「このあたりで、黒い帽子に私と同じような格好の女の子、見ませんでした?」
 下から覗き込んできた少女の瞳は、アルビノのような真っ赤な血の色をしていた。カラーコンタクトレンズ、とすれば未開の地ではなく機械文明が少なくともあるはずだ。グローバル化を端末で補っている現代人の私の矮小な知識では、彼女の服から文化圏を割り出すのは難しかった。ややもすれば、日本か。挨拶も名乗りもなく要件を突然に切り出した少女には多くの疑問が沸いてきているが、とりあえず質問には答えてしまおう。人影なんか、まだ一人も……
「そう。まあそうよね」
 中々答えない私に業を煮やしたのか、少女は自己完結してしまったようだ。冷たく目線を外してフラフラと歩き始めた。
 いいや、いや、確かに向こうも事情があって困っているようだけれど、私も同等に途方に暮れている。せめて、ここが何処かだけでも。
「待って、」
 手を伸ばして少女の肩を柔らかく掴んだ。服越しに伝わるのは体温で、幽霊ではないのが実感できる。足止めされた彼女は大きく、私の手に届くように溜め息を吐いて、その半眼、刃物のように尖った視線で振り向いてきた。
「あなたは外の人間でしょう。死にたくないのなら帰りなさい」
 うん? 何を言っているか全く解らない。外? ではここは内、なのか。ともすれば、私の脳内の夢とするのが妥当か。そろそろ冗談抜きでナルコレプシーを疑ったほうが良いかもしれない。目が醒めたら京都医療センターで検査でもして貰おうか。それはともかく、私は少女に何を問うべきだろう。場所? 名前? 誰を探しているのか? いやまずどうやって帰るのか? そもそも彼女は原住民なのか? 夢の世界で夢に向かって夢なのか、なんて訊いても正常な回答が得られる訳が無いだろう。
「あのね、」
「まず答えておくけれど、私は名乗りませんよ。あなたを元の世界に還す方法なんて私は知らないし、目撃者でもないあなたを私の用事に加えても足手まといなだけです」
 少女は私の言葉が始まる前に、質問を全て返してしまった。至近距離で触れ合って初めて気が付いたが、ヘッドセットだと思っていた太い線は耳穴を塞いでおらず、代わりにヘアバンドに繋がっていた。コンソールと思しき塊は、胸のところで浮いている。その形は、眼球だ。剥き出しではなく、紫色の外皮に包まれて丁度プロビデンスの目玉のように露出している。アクセサリーにしては悪趣味だ。肩越しに私が覗き込んでみると、その物体は蠢き、私を、ジロリ、と睨みつけた。まるで、心を見透かしているようだ。
「離して。触らないで」
 嫌そうに眉を細めた少女は私の手に苦言を呈した。見た目の歳相応で力は弱いのか、振りほどく素振りは見せず、私の動向を伺っている。彼女の要望を尊重するのは博愛主義の成すものだが、学生の私は理性至上主義者だ。会話に飢えている。しかし、何を言語化すれば意思の疎通が出来るだろうか。先の応答から推測するとまるで、心を読まれているかのような突き放しだ。美濃地方にサトリという妖怪が伝わっているが、私や蓮子と同じくほんのちょっぴり一般と違う感性を持っているのだろうか? ……岐阜県に彼岸花の産地なんてあったかしら?
「ねぇ、」
 おかしな顔で考え込んで硬直する私に不信感を募らせたみたいで、更に表情を怪訝に曇らせて少女は返す。眼力に押されてむず痒くなって、私はその迷惑な手を離してしまった。猫の尻尾を興味本位で握ってしまったように、そそくさと彼女が逃げてしまう未来が脳裏に見えた。変に冷静になって状況分析を行なっていると、意外にも予想した展開は訪れなかった。少女は謂う。
「ちょっと待って」
 用が有るのか無いのか、何やら忙しい。ニュアンス的には彼女が見透かした私の思考に、何か引っ掛かる部分があったのだろう。もうすでに少女がサトリであるという前提でモノを考えている自分の順応性に若干の不安を覚える。夢の中だもの。短絡に流されるのは意識レベルが低いからだ。命令されればフランケンシュタインの怪物のように低い声できっと頷いてしまう。
「あなた人間ですね?」
 そうだけれど。結界の隙間を見る眼はあるけれど。そう、私の中のボリス・カーロフが相槌を打った。
「私の名前、いえ、私をどうして知っているの?」
 どうやら口に出さなくても会話は成立するようだ。便利かもしれないが中々に恐ろしい。サトリに贈る私のダイレクト知覚は、ヤマコに山彦、画図百鬼夜行やら『雨』やら固有名詞だらけの酷い想起だった。詰まる所、数撃ちゃ当たるの当てずっぽうの予測だ。安楽椅子探偵よろしく予知推理がピタリと現実と符合するなんて偶然を期待しちゃいない。
「本……。あなたは外の人間ですね?」
「あ、」
 外、現実と考えるべきか、外つ国と想像すべきか。サトリの言葉に示唆されて、私はある事を思い出した。人の居る岐阜山中なら携帯が繋がるはず、とバッグからスマートフォンを取り出してみたが圏外だ。蓮子の居る日常では滅多に使われないGPSを起動させるも表示はない。まず前提からしてA‐GPSは地上電波を経由して情報を送られるシステムだった気がする。はっきりしている事は私が日本出身という事実と、人間である不確かな自己啓発だけだった。それにしても、ながらで会話が出来るのはサイバーパンクのようで面白い。もしくはPSIか。
「何だろう。拍子抜けしちゃうわ。あなた物分りが良すぎる。それに、人間にしては異質」
 私も自身に吃驚している。心が筒抜けになっているのにアオシ(あ:慌てない、お:怖気づかない、し:知らんぷり)だ。少女妖怪の可能性が出現したというのに、あの完全黒体への反応とは打って変わって馴れ馴れしく念話を続けている。スイッチを矢鱈に押したくなる幼児心理に似た、実験的好奇心が働いているのだろうか。過剰適応性障害……とは違うか。
「おかしな人間。何処か、私達に近いものを感じます」
 人間は正直ではないが、この推定妖怪少女は初対面から腹の内を晒している気がする。でなければあんなに露骨な拒否はしないだろう。ともすると私は帰る方法を知り得ない訳だし、危険な人外の据え膳に立っている事になる。ただ、サトリの謂った予感だけは的外れだ。私は普通の足手纏いだ。
「少しの時間、会話しましょう。楽しそうな談話が聴こえたら、あの子もひょっこり出て来てくれるかもしれない」
 あの子? 多分、最初に探していた子供の事だろう。まるで天岩戸の逸話をモチーフにしたみたいな閃きだ。私はサトリではないから囁きの真意は不明だが、渡りに船、異文化交流を深めるのも夢の楽しみ方のひとつだ。一番知りたいのは帰路だけど、よくよく考え直すと睡眠を自発的に中断する術なんてあんまり無い。経験的に何処かで突然帰宅出来たりするのだろう。楽観は困惑の特効薬だ。市販の風邪薬的な意味合いだけれど。
 さて、何を話そう。まず場所を聞こう。此処はいずこ?
「再思の道です。里に棲んでいない外の人間が、死にたくなったら迷い込むの」
 古い神社に向かっておきながら死を考える、なんて罰当たりな深層心理はさすがに私には無い。夢や神隠しでなく、私固有の、変に境界を超えてしまった結果だろうか。では、『外』という表現はどうして生まれるのだろう。
「ここは隠れ里みたいな山奥だからですよ。別に陰陽寮のように霊異の大結界で隔絶されているわけでないわ」
 マレビト信仰が残っているようなニュアンスだ。大きく違うのは未だ歓迎されていない事。折口学よりもガラパゴス文化と捉えた方が良いだろう。陰陽寮はすでに明治時代に廃止されてしまっている。では、里の事を尋ねようか、もしくは、少女の名前にしようか。と、迷ってみたところで取捨選択するのはサトリの方で、これでは本末転倒だ。
「人間の住む里の事かしら? 道なりに進んで森を越えればすぐですね」
 何故か意地の悪い笑みを彼女は浮かべた。そろそろ太陽が地平線に半分ほど呑み込まれて、最も彼岸花が赤く照らされる時間帯になる。方角は手に取るように解るが、SF的伏線を貼られているのなら、実は地球でなかったりして恒星の位置も予想外にあるのだろう。夜には本物と偽物の月が二つ昇ったりして。ああ、里の方角を聞いておこう。
「西、という事にしておきましょう」
 言い方が何か気になる。しかし、ひとつ重要な事に私は気が付いた。サトリの求めているものは楽しそうな談話らしいけれど、私は一言も声を発していなかった。愉快さの欠片もない。
「あなたの名前は?」
 咄嗟に口を出してみる。
「答えません」
 最初に宣言した通りだ。心を開く、閉ざす、という概念よりも、思い返してみれば彼女自身がサトリ、だと暗に認めていたのだった。今更、聞き直すのは野暮な話だった。じゃあ、
「それ触っていい?」
 それは少女の身体で一番興味があった場所だ。あの、コードの繋がった目玉アタッチメント。どういう触り心地なのか、すごく、すごく気になる。暖かいのだろうか?
「嫌」
 急激に無口になってサトリは胸を隠して身体を逸らした。会話どころじゃない気もする。
「今度は私からの質問です。あなたは何なの?」
 不思議な疑問だった。五体満足な霊長類に向かって、汝なんぞや、と訊かれた時の答えを私は用意していない。
「どういうこと?」
 聞き返してみる。
「変な石を出して指でなぞったり、異国の言葉を多用したり、あなたの心は正体不明すぎる。全然読めない」
 石、の意味するものがスマートフォンである事に辿り着くまでに、私の思考は魔女だか呪文だか、オカルトへと走ってしまっていた。なるほど、確かに電子機器は魔法の道具だ。それに、現代語はレトロニムから解き放たれて複雑怪奇な品詞地獄と化している。そもそも本音駄々漏れの心を視ているのだから、機械翻訳などされていないだろう。
「私はしがない京都の女子大生よ」
「根本的に私の知ってる世界とは違うのかもしれません」
 それは充分に解っている。まず空中を漂う黒体なんて京都市内どころか、日本中探しても見つかるかどうか怪しい。技術の発展は筍のように急成長を遂げるから断言は出来ないけれど。事実、私の知る近代の百年は水爆のように科学を膨張させた。
「あなたの頭の中、お噺にしたら面白そうですね。一度書いてみればどうですか?」
 理系か文系か、と問われれば確実に私は理系だろう。ただ、多趣味であるのは発想の幅を広げるし、慣れない文芸を試行してみるのも悪くない。暇があれば挑戦してしまおうか。
「サトリさん、だっけ? そういえば誰を探していたの?」
 気を良くした私は文系の気分になった。少女との対話を実際に文章に書き起こすとなると、地の文と葉文がしっちゃかめっちゃかになって非常に読みにくいのだろう。声という伝達手段がカギカッコで仕切られているだけの日本語例文の応酬。論文の構成に慣れていると、文字数ではなくフラストレーションばかりが溜まりそうだ。私は消化するように残りの疑問を口走っていた。
 と、
「私は………………………」
 目的意識を刺激された少女の顔がみるみる内に曇っていった。彼女を取り巻く何かひとつの現実が、正気に追いつかれたのだろうか。意気消沈した続くサトリの声は低く棒読みで、吐き捨てるように感情が失われていた。
「妹を探しているの」
 憂いか、怒りか、豹変した彼女は複雑な表情で唇をぎゅっと締めて、一度瞳を閉じた。器用にも3つ目の眼球までも瞬きして。そして、大きく呼気を抜いた少女サトリは群生する彼岸花に向かって、つまり俯いて、
「解ってたわよ。対話は無意味。こんなつまらない輪の中に、こいしが興味を持つ筈が無い。何しろ相手は人間ですもの」
 独り呟いた。第三の目玉アクセサリーを所持していない私メリーには、その悔恨を知る術はない。今一瞬の合間に何を汲み取ったのだろうか、サトリの赤い瞳が私の五体を睨みつけた。
「ごめんね。やっぱり私、馴れ合いは苦手です」
 地面から間欠泉が湧き出すように、少女の足元から不自然に風が巻き起こった。満開の彼岸花が放射状に波打って、血流のように夕暮れの陽炎に踊り始める。木々が静かにざわめき出した。ファーケープが大きく浮き上がる程に渦巻いた旋風は、花畑の土中から鱗茎の、まるで遺体の腐ったような臭いを掘り起こす。毒のイメージに危機を感じて、私は咄嗟に目と鼻を両手で覆った。
「あなたは特異な人間でした。けれど、人間なのよ」
 生まれを選択できるのは電子の中のオープンワールドだけだ。人の容姿を模倣した妖怪の声は、去り際ですら幼い子供を演じていて、私の瞼の裏に未だその残像を強く焼き付けている。生じてなお長く回転を続ける大風がようやく弱まりを見せて、指の隙間から覗いたそこにはもう、ローズピンクの怪物の姿は無かった。
「もう会うことは無いでしょう。さようなら」
 カセットテープを回したみたいに、捨て台詞だけが空間に反芻した。曼珠沙華の狂い咲く再思の道に、夜の風が雪崩れ込んでくる。地面に落下した半熟卵のように潰れた太陽が地平に溶けていって、空は藍色に濁り始める。夢は醒める気配を見せない。
 サトリの正体が結局掴めなかったように、彼女も私の事を『解らない』と表現した。特殊な方法で、相手の心理と語らっても所詮は、魂の距離を縮めるのは時間だけなのだろうか? サトリの過去には触れられなかったが、最後のあの眼、言葉は、深い人間への怨嗟を感じさせるには充分な重みを持っていた。
 少女サトリが妖怪なのか、それ以外の奇異な人間なのか、私に判別する能力はない。しかし黒体に追われた私を無視しなかったという事実もある。彼女の心根に残留していた何かの希望が先の束の間の茶番を設けたのか、もしくは私を人間外のものと勘違いしたのか。どちらにせよ、もう再会は無さそうだ。
 西。夜の夢を彷徨う私は、推定妖怪の云った言葉に踊らされて再思の道を日の沈む方角へと進んでいった。いつまでも立ち止まっている訳にはいかない。つい数十分前まで自動車の排気ガスに塗れていたとは思えないような無数の星々が上空に浮かんでいた。ここは何処だろう?
 灯りが段々失われていく。文明より切り離された夢は、鳥目でなくともなにひとつ、彩りを私に与えてはくれなかった。深紅の花畑は、散漫とした小さな広場に繋がっていた。

 スマートフォンの液晶を頼りにして、小さなその空間、行き止まりを探索する。夜闇に月が浮かぶまで、どれだけの時間を要するのだろう。昨日は弓張月(半月)で、月齢は嵩んでこれから欠け始めるだろうから、月の出は深夜22時くらいだろうか?
天涯はプラネタリウムのように地上よりも騒々しくて羨ましい。私の光源は、魔形じみた桜の古木と疎らに刺さっている卒塔婆、無縁仏なのか申し訳程度の積石、まさに冥界じみた様相を映し出す。ちなみに、念のために再起動させた電話とGPSは相変わらずウンともスンとも云わなかった。そうだ、月がひとつだけなんて常識に囚われてはいけないのだった。
 鞄の中から手探りでペットボトルに入ったオレンジジュースを掴み取って、一口飲みかじる。彼岸花の雰囲気に冒された乾いた喉に果実の酸味が通り抜けていく。飲料水もこれだけしかない。遭難者のポケットにはビスケットが入っているのが定説だが、気の利かない私には食料の持ち合わせなんてない。そもそも夢の中で空腹が訪れるかというと……今の私の行為が暗に示している。うん。排泄はどうしよう。
 基礎代謝が身に反映される夢とは珍しい。冷えた下腹部は強い尿意を感じている。どこからどう見ても衆目には晒されていないが、野外での排尿は気が引ける。そもそも、大体夢の中でのおしっこは、おねしょフラグだ。小さい頃、お布団に世界地図を作ったのは、私だけでなく、蓮子もそうだと云っていた。蓮子。今頃は自宅でのんびりと暖かいお風呂にでも浸かっているのだろうか。羨ましい。
 桜の木の根本を背にして、スカートの裾をたくし上げる。下着を半分下ろして、肩に提げたバッグを胸に抱きかかえると、私はしゃがみ込んだ。月の出ていない夜目では誰の姿も確認できないが、羞恥心が私の首をキョロキョロと周囲の確認に走らせた。下腹部に力を入れること無く、尿道はすぐさま開放された。水流が土に水溜りを作っていく、僅かな音に頬が熱くなっていく。おねしょは嫌だけど、我慢し続けて尿意に負けるのはもっと屈辱的だ。走った後だからなのか、アンモニア臭が漂ってきた。もし明るければ、濃くなった尿の色が更に羞恥を煽ったのだろう。奔流が収まっていく。
 バッグから河原町駅前あたりで配っていた英会話教室のロゴの入ったポケットティッシュを取り出して、私は濡れた患部を紙で拭った。何枚も使用して念入りに綺麗にしたいのは山々だが、残り枚数のことを考えると節約の意識からか、一枚を丁寧に活用して柔肉を撫でていった。露わになっている股下に秋の冷たい風が通り抜ける。私は下を穿き直して立ち上がった。罰当たりな事をしている自覚はあるので、せめてもの礼儀か、陰部を拭ったティッシュは近くの土に埋めて景観を保つようにしてみる。
 身長の頭の高さから見下ろす宇宙のように上も下もないその広場では、唯一重力だけが私を地上に縛り付けてくれる。携帯電話の灯りを頼りに大地を蹴っていく。日本にも良くある鈴虫や蛙の鳴き声が虚しく響き渡る中、砂を踏む靴音が私の存在を確かめさせてくれる。里、は何処だろうか。一周するように深森との境界を回っていったが、人の足の均した固く雑草のない道路を見つけることは出来なかった。
 ……騙された?
 真っ暗な墓地で、(場所は変えたが)再び桜の木を背にして座り込む。電源の問題もあるから、スマートフォンの灯りを止めてみる。空を仰ぐと、金平糖のように那由他に恒星が瞬いている。数万年前の光が地上に降り注ぐ、というのはロマンチックであるがそれにしても、空腹だ。体操座りをして顔を膝の中に埋めれば耐えられない寒さでもない。このまま携帯電話の点灯に縋って再思の道を戻る、という手も考えたけれど、こう暗くては黒体に気付けない。それに、明かりを持って進むのは自殺行為だろう。なるほど、『死にたくなったら迷い込む』はあながち間違いではない。
 夜はまだ昏い。デンデラ野よろしく、不穏な雰囲気が私の好奇心を刺激する。何か、出てきそうだ。幽霊なら、まあ仲良くやれそうな気もする。ゾンビーはダメだ。汚いし、臭い。人を噛む。妖怪なら、何が来るだろう。想像に難くないのは、そうだ、丁度、あそこの人魂のような……
 え。
 四角い、白く発光して浮く、闇に反射する猫の目ような物体だ。油を塗った丸い和紙に火を灯したものを釣竿でぶら下げているような、そんな普遍的な明かりでは無い。揺れない炎。狐火。少しずつ、近寄ってくる。私は逃げ出す姿勢を取ったが、足元が覚束ないせいで一歩も踏み出せない。緊張が、スマートフォンを発光させる行為を拒んだ。このまま身を潜めよう。息を殺す。
 段々と人魂は大きくなっていった。遠近感が失われているので、これはますます距離を詰められた証だろう。しかし、次第にはっきりとしていく姿は、私の眼に滑稽な物体を映した。正体を看破る重大な手がかりとなる、その魂のデザイン。あれは、提灯だ。古風な、折り畳めるよう段の付いた、それも、子供がお化け屋敷で貰うような、紙で作られた目玉と舌が貼られている、胸を撫で下ろせる陳腐なシロモノだった。
 人だ。私は歓喜して、その光源を持っている人影が居るはずの暗闇を凝視した。あと十数歩のところまで来て、暗黒からその、所有者の姿形が浮かび上がり始めた。人の足を持った、傘? 更に詰め寄る物体に目を凝らすと、これまた変な造形をしていて、茄子色のダサい傘に、唐傘お化けを思わせる一つ目と大きな舌が付いている。その下の影に、華奢な(恐らく女の子だろう)足が二本、下駄を履いて見える。唐傘小僧、というより、お化け役を引き受けた少女が傘を前に突き出している、と云った印象だ。私に向けた傘の端から伸ばした白い手と、持つお化け提灯が可愛らしい。前があまり見えてないのか、私の近くまで訪れるとピタ、と足を止めて、そのお化け傘を傾けた隙間から女の子の顔がひょこっと出て私の姿を探す。赤と青、オッドアイになった彼女の目と眼が合ってしまって、慌てて少女は傘の後ろに隠れてそして、
「うーらめっしやー!」
 微笑ましい光景を見せてくれた。
「驚けー! 喰うぞー!」
 黒体やサトリとは違って危険性は無さそうだ。第一村人というやつか。どう反応すべきか、しかし妖怪サトリの言葉が真実味を増してきた。近くに里があるに違いない。となれば、慈悲を持って答えてみたい。
「………………」
 一拍置いて心を決めてから、
「い、いやぁ、食べないでごめんなさい」
 大根役者な演技を披露する。自分でも酷い棒読みなのは承知だが、小説と同じくこの分野に手を出した事はない。練度が低くて当然だ。顔を打撃から護るように両手で塞いで、大きな素振りで身を縮ませる。深夜の墓地で何をしているんだろう。顔を隠した中で私はおかしくなって変な笑みを零してしまう。もちろん、声は殺したままで。
「………………………………」
 しばしの沈黙。
「何かあんまり美味しくないな……」
 視界を塞いでいて返ってきた言葉は、冷めた自虐だった。私が顔を上げると、傘を掲げた少女は遠い目をしていた。私の擬態がバレたのだろうか。お化け提灯に浮かび上がる彼女の姿は、白いブラウスの上に水色のベスト、同じく水色のフルスカートと、里、という単語からはまるで想像できないほど近代的な格好をしている。それにまたもや不自然な浅葱色の髪色だ。さて、どうやって自然に話を切り出そうか。
「あ、あれ? 女の子?」
 精神学問の例題にはこんな受け答えは載っていない。怪奇ドラマのワンシーンを思い浮かべながら台詞を錬り上げる。台本のないアドリブだ。私は脅かされた一般人。脅かされた一般人。
「あちきは妖怪さ! あんたを喰べ散らかすよ!」
 どうしよう。返答に困る。少女自身も相当無理している気がする。妖怪、としても前に出会ったサトリ程の異質さが無い。玩具で楽しむ幼女みたいな稚拙さだ。『ウワー』と漫画的に驚くのが正解か? 私には小説の才能が無いのかもしれない。続く台詞に思い当たらない。少女には脅威を一切感じない。何故だか、突然に腹底から悪戯心が沸いてきて、欲望の従うままに私は手持ちのバッグに腕を入れた。
『うワん!』
 昏い墓に肉食獣の不快な咆哮が響いた。急な異音に驚いたのか少女はビクッと身を小さく跳ねさせた。もう一度、『うワん!』更に、『うワん!』と立て続けに正体不明の存在が鳴き声を上げる。浅葱の髪の女の子を一瞥すると、口元が歪んでその表情は硬直している。種明かしをすると、携帯電話の着信プリセット音の中のネタ系SEなのだが、まさか一生使用しないと思われた無駄機能を悪戯に流用することになるとは。
「あなたが大きな声を上げるから、目覚めてしまったじゃない。あの怪物が」
 畳み掛けるように私は嘯いてみる。後先は考えていない。少女が逃げたら後を追えばきっと里だろう。眼前で唖然とする唐傘少女はにわかに震えはじめた。もう一言追加する。
「後ろを見て御覧なさい」
「ひっ」
 す、と上げた右手人差し指で、彼女の背後の空間に誘導する。ただ何も無い闇が広がるばかりだが、肝の抜かれた少女はゆっくりと、雰囲気を恐れるように振り向いて戦慄する。あるものは地平線で分かれる星空と暗い森……
「見えないでしょう。けどすぐ傍まで来ているわ。ほらあそこ。解らない?」
 トドメとばかりにプ『うワん!』リセット音を重ねる。彼女は私に無防備な背を向けながら顔を傘で守るように隠して、右手にあるお化け提灯で虚空の中の怪物を探している。あまりにも隙だらけなので、立ち上がった私は背後から近寄って、その耳に優しく息を吹きかけてみた。
「にぎゃあッふ!」
 素っ頓狂な悲鳴が夜の闇に反響した。雷に打たれたようにビクビクと痙攣した彼女はそのまま腰が抜けたようで、ペタンと地面にへたり込んでしまった。驚かし過ぎたかな。冷静に省みてみれば、人見知りも一切無くいきなり化かし合戦を始めるなんて異常極まる事この上ない。頭の上から覗き込むと、その娘は目頭に涙を溜めて自分の傘の影にも怯えている。
「あわわ……」
 いつの間にやら唐傘少女もこの通りだ。私の下手糞な演技に比べると、お手本と仰ぎたいくらいに圧倒的にリアルな驚き方だ。
私は一体何をやっているんだろう。仕切りなおそう。
「嘘、嘘よ。びっくりした?」
 彼女の正面に回って、突き出されている傘をひょいと指で持ち上げた私は、安心の笑顔を作って投げ掛けた。茫然自失とした少女は一瞬混乱に満ちた視線を夜の墓地に迷わせたが、やがて冗談に気が付いて安堵の溜息を放る。
「……喰べられちゃうかと思ったよ」
 なるほど、真に恐怖した時に声は出ない。私を食そうとした少女を手玉に取って、使い所の難しい余計な知識を身につけた。以前、蓮子と羆害事件の怪を調査した時に、野生動物との闘いは出会い頭でそのほとんどが決まる、という結論を出した事があった。つまり、飢えた巨熊から逃れるには、背中を見せてはいけないし、近寄ってもいけない、腕力で競おうとしてもいけない、ましてや恐怖する素振りすら命取りだ。虚を突いて驚かせて、相手に逃げてもらえば、10%未満だが生存率が上がる、という頼りない憶測を膨大なディベートの末、導き出した。妖怪は案外、合理的に人を驚かしているのかもしれない。
 では、自称妖怪の彼女は、私より弱いのだろうか。
「あなた、妖怪なの?」
 単なる無邪気な村娘かもしれないが、私は妖怪前提で話を進めようと考えた。虹彩異色――またもやカラーコンタクトの可能性はあるが――に不自然色の髪は、少し前の一方通行テレパシー少女の特徴に似ている。生憎スプーンは持ってきていない。
「そうよ。私は持ってけ泥棒傘の多々良小傘。あなたも妖怪?」
「違うわ。私はメリー。今あなたの目の前に居るわ」
 そういえば、初めて夢の中で自己紹介をしたかもしれない。無秩序で留度のない無意識化では、なかなかメタ認知には至れない。ここが現実のロストワールドである信憑性が段々と強くなってきた。小傘の名前、タタラという事は鍛冶屋の血縁なのだろうか? 京都付近なら鐘打鉱山のあたりが怪しい。山奥に金比羅神社があるようで一度行ってみたいと思っていたけれど、それは置いといて、物理世界で質量むにゃむにゃ㎏の物体が瞬間移動するのは信じがたい。フィラデルフィア計画が平地で起こるなんていう、確率の空論を体験したのならニコラ・テスラの超科学の世界最初の生きた証言者だが、私は相対精神学専攻だ。
 私の眼を信じると、ここは正に幻夢郷。
「妖怪じゃなかったら、あなたは何なの?」
 デジャビュだ。同じ質問を同じく妖怪少女からされている。前に一度、問われていた私は慣れた口ぶりで一言多く返してみる。
「私は普通の京都の女子大生よ。あなたこそ、置いてけ堀の逆バージョンみたいだけど、何の妖怪なの?」
 塚特有の凸凹なままの地面に尻をついた小傘に目線を合わせて、私はゆっくりしゃがみ込んだ。会話を始めよう。あわよくば里へ。
「どういうこと?」
 役者は違うがやり取りまで復唱されている。私は脳内で蒸し返してきたサトリの例文を参考にする事にした。
「ダサい茄子色の傘を持ってるし、無駄にオッドアイだし、下駄にフルスカートの格好だし、あなたは可愛すぎるのよ」
「……可愛いって云われたのは嬉しいけど、ちょっと傷付く」
 どう見てもあどけない少女だ。苦笑いをして小傘は立ち上がった。釣られて私も腰を上げる。持っている道具も異形ではなく手作り感が満載で、嫌がらせの気持ちはないが、もう一度訊いてみる。
「それで、何の妖怪なの?」
「何のって……妖怪の小傘だってば。私は化けただけだし、じゃあ、あなたは何のジョシダイセイなのよ。仏の一種?」
 確かに、私自身何の人間か、と謂われると言葉に困る。現実には人種差別イデオロギーの強い地域に旅行しない限り耳にする機会はないだろう。妖怪社会。互いの怪異がそれぞれの起源を相違なく平等に取り扱う。それは『妖怪』という存在が人類の手を離れてひとり歩きしている、おとぎ話の世界観を彷彿とさせた。
 と、なると、小傘の口振りから、この世界には神も仏も実存している事になる。私が里に辿り着くのもそう遅くはないだろう。
「霊長類ヒト科の性染色体XXのキャンパス生徒よ」
「レイチョウルイヒトカ……何だか凄そう」
 神妙な顔になった小傘は、突然思い付いたように表情を明るくさせる。『私がヒトであるか。生きているのか』この問題は人類が数千年掛けて探求してきた命題で、眼前の唐傘が妖怪であるなんて、自覚と客観だけでその真実には辿り着けないかもしれない。つまりは、触れられるだけのこの感覚しか頼りにならないサルトルの教えが、今役立つのだろう。
 私は会話する。少女が私に訊いてきた。
「ねえ、メリーさん。私に驚かし方を教えて欲しいの」
 どうやら私が哲学に身を注ぐように、彼女にも熱心な科目があるようだ。お化け役の技能。ただ、
「私、あんまり知らないけれど、それでもいい?」
 論理ぶって考えたことなんてあんまり無い。強いて云えるのなら羆害から学んだ野生の智慧くらい。
「充分よ! だってあの獣の声、本当恐ろしかったもの」
 きっと先程の私の悪戯を過大評価している。真に怖いのは人間の技術――なんて直情的なSFマインド。
「まずは、…………先手を打つのよ」
「ふむふむ」
 けど、いつか生命線となりうるスマートフォンを渡してしまうのは心細い。私は熊と戦う気持ちになって語る事にする。
「ゆっくりと距離を取るのもまあ手段のひとつだけど、突然の奇抜な動きは相手に衝撃を与えるわ」
「動きってどういうの?」
 猟銃を空に向けて撃つとか……こんな子供にライフルを勧めるのは悪人の所業だ。もっと解りやすくかつ効果的な、
「そうね、例えば、写真のフラッシュのように閃光を撒き散らすとか」
 現代の熊目撃談で、一応は、有力な対処法を口走ってみる。相手は気の弱いツキノワグマだった気もする。当てにならない。無駄着信音のように、正体不明の脅威を演出するやり方を教えれば良かったかもしれない。基本的に恐怖は不安から呼び起こされて、違和感により安心は揺らぐ。原理には詳しいが実践となると、考えが及ばない。
「しゃしんのふらっしゅ?」
「眼にレーザーというか、稲光のように目を眩ませるの」
 サトリの時にも返答に引っ掛かりを感じたが、どうやらカタカナ語は通じないようだ。写真からカメラの連想も出来ていない。インターナショナルな日本語を理解できる妖怪というのも見てみたいが、彼女はそうではないようだ。
「れーざー……。今度練習してみよう」
 妖怪社会の常識は知らないが、稲光程度なら練習できるらしい。思い返せば、彼女は私を驚かせた後に味がどうのと宣っていた。栄養とする食料も形而上的なものだったりするのかもしれない。屋台で売られる『血と涙の結晶』、『無駄な努力』、『愛情の印』、何か滑稽で面白い。
「私からも聞きたいことがあるのだけど、いい?」
「どうぞどうぞ」
 さて、お腹が減った。
「里って何処にあるの?」
 かねてより親切心に飢えていた。今に悟る。意思の疎通が駄々漏れでは、会話は長く続かない。動物と心を通わせられれば、冬眠に失敗したヒグマの食欲の声が聴こえるのだろうが、和解交渉とは別問題だ。私のみぞおちから空腹のサインがぐぅ、と音を上げる。声と言葉。この世界では、今や人間のものだけでは無い精神伝達手段は妖怪との対話を可能にしている。
「里? 東の方、再思の道を通って森を抜ければ、すぐだと思うけれど……このあたり初めて?」
「ええ」
 西か東か、嘘を吐いているのはどちらだろう。
「空を飛べないのなら、夜が明けるまでは動かない方が良いよ。あの森、魔法の森って云って、真昼間でも暗いしジメジメしてるし、それに、ものすごく強い魔女が居るもの」
 情報の鮮明さから判断すると、小傘に軍配が上がるだろう。確か、サトリは『という事にしておきましょう』と付け加えた。私を墓地に誘導して何になるのだろう。いや、彼女は私が脆弱な人間だと知っていた。つまりは、
「それ以外に行く方法ってある?」
 此処では餓えたヒグマが一番強い。遭遇した私はすぐさま食い散らかされる。骨も残さず。あと、目の前で真剣に考えてくれているように、妖怪は意外と優しい。蓮子に後で教えようかしら。
「ある事にはあるけど、魔法の森経由にしか明確な道は無いし、獣道に入ってもこう暗くちゃ竹林みたいに迷っちゃうよ」
「ここで野宿って事?」
「うん」
 参った。まさか夢の中でまた眠る事を意識しなければならないなんて。いや、もう夢とは呼べない代物だ。産み落とされた生物は、どのような環境でも生存欲求に従って寿命を全うしなければならない。生の苦しみを赤子の泣き声に例えたのはシェイクスピアだったか。
「じゃあ、眠気が来るまで色々語り合いましょう。そこの木陰で」
 冒険心と命を天秤に掛けられるほど、元の私の世界は厳しくはなかった。まずお金が存在していた。五行思想では金は木に克つと謂うが、現実では金生水、私の財布の中の小銭から水滴が生まれる事はない。童話のように現在は話中だけの存在だが、魔法の森の魔女とやらにはこの五行が通用しているのだろうか? 人間には過ぎた思想だ。
「木陰って……」
 まだ月も出ていない。小傘の持つ明かりを頼りに、私達二人は隣同士に座りあった。勿論、私の汁が垂れ流された場所では無い。談笑する少女の顔は妖怪図に現れる恐怖の対象とは全く異なっている。人の描くものはやがて多くの尾鰭を付ける。芸術の中を泳ぐ巨大魚は、人が近付くとその真っ暗な口を開けて餌を飲み込もうと喘ぎ始める。聴く所によると、彼女の知る範囲の近辺の地理には、人造物は殆ど無いようだ。天狗の住む山に、一年中霧のかかった妖精の湖、魔女の居る昏い森、永遠に続く竹林、閑静な人間の里、裸足で行ける冥界に、人が多すぎてパンク寸前の地獄。ほとんどの妖怪は人懐っこい小傘とは違い、死を覚悟する程に危険らしい。民間信仰の世界観だ。結局地名は解らずじまいで、やがて顔を出した月の明るい事! せめて蓮子なら時間と場所を一目で当てられるのに。ファーケープのお陰で寒さには震えずにいられるが、空腹から基礎代謝が下がって節々が冷える。安心が眠気を誘ったのか、気を失うように私の瞼は降りていった。そういえば、随分疲れた。長い一日だった。長い。一日…………
『朝が来るまで付いててあげよっか?』
『遠慮しとくわ。道は分かったから、あなたはあなたのしたいようにすればいいと思う。それにあなた妖怪なんでしょ? 眠っている時に食べる気なんじゃないの』
『じゃあ、私は私のしたいようにあなたが眠ったら食べてあげる』 
『お墓で死ぬなんてゴメンよ。あなた、本当は妖怪じゃなくて家出娘とかじゃないの?』
『私は置き傘。捨て子なの。だからすごく逞しい』
『へえ。こんなに柔らかいのに?』
『やめて、くすぐったいから、は、あはははははは!』
 映像的な夢は見ない。冗談交じりで交わした会話が、レム睡眠の中で何度も何度も繰り返される。深い眠りに辿り着けない。意識は泥の濁流に沈み込んで、肩越しに感じる妖怪の体温がどこか心地良い。体育座りで眠ったの、小学校以来だろうか。
 明日は、あるのだろうか?
 うわんうわん。何かが遠くで泣いている。それは妖怪の声か?
 それとも、置いてきてしまった、誰かなのか。

      *

 ―二日目

 馴染みのカフェテラスで、冷めたカフェオレを一口嗜んだ。
 大学構内はイヤホンで耳を塞ぎたくなるほど賑やかだ。そこに彼女の声は無い。指定席みたく毎度狙っている明るい窓際は今日は珍しく空いていて、満席だった三日前のように不満を漏らす事もない。私は二度目のメールを送信した。机の上に置いたラップトップには未完成の論文が表示されている。タッチパネルに二本指を載せて文章末までスクロールさせていく。『物理的な夢の解釈』。退廃した原子論が宇宙に到達し、人類は万物構成の研究をダークマターへとシフトさせた。現代宇宙論は天体に出現したヒミコ(ライマンα天体)により揺らぎ、内的宇宙は専ら疑似科学の仕事だ。言い現れる世界のなんと空虚な事か。
 遠く、喧騒の奥でチャイコフスキーの序曲『1812』の第一部が二回目のループを迎えた。留守番電話にメッセージを入れたが、彼女は今何処に向かっているのだろう。ひとつ、憂鬱の溜め息を零した。大学に連絡は届いていないらしい。眼前にある無機質な液晶の文字列に、意識がのめり込んで行かない。オールドメディアが死んで久しい。失踪や殺人は有史以前より続くモラルとの葛藤だ。ゆえに真実味のある嘘となる。間違っても迷い猫を一面記事にしたりしない。話題性。人間の一生。偉人の手記にあるように、たった数十分で読みきれてしまう人生の軌跡には、それは総人口で解釈すると数億数兆ものパターンがあり、メリーもその例に漏れない。一日くらい、何かがあったりで姿が見えないだけなんだろう。しかし事前調査、根拠なく、急に何かがある事は物理学的に無視できない。例えば、病気や鬱屈、身内の不幸、悪意の餌食。そして、凄まじい偶然の折り重なり。結果にしか干渉できない苛立ち。
 スポイトで数滴垂らしただけのようになったカフェオレの残りを口に運ぶ。幼い頃の記憶で、地下鉄で迷子になった時の情景が想起される。時間が解決してくれる(勿論、他人を働かせての)予定調和の出来事だったが、真に迫る不安はあったし、何より今の私は法的に飲酒が出来る年齢だ。耐え難い杞憂が感情機能に真っ直ぐ落ちてくる。まるで、まるで、昨日死んでしまった者を認めていないような、寂寥感だ。親と死にはぐれた子供、子に先立たれた夫婦、もう動かない友人の死肉の隣で息吹を待ち続ける野生動物。重度の心配性だ。精神科に見て貰うと良いかもしれない。ただ、彼女は生の現実より逸脱した場所を体験している稀有な人間で、私のこの産み出される寂しさ、その死の想像の向こう側を知っている。事故なら公的機関に、家族問題なら学校に、病気なら本人から連絡が入るだろう。全てが嫌な予想だ。ともあれ、明日まで待とう。
 窓より眺める京都市の空は、今日も綺麗な夕焼けを見せていた。ノスタルジーを誘う赤いこの現象は、レイリー効果によって青を消された色だ。空気中の塵が多いほど鮮やかになるが、それにしては雨が降らない。
 月曜日が終わる。明日。明日になったらきっと解る。余暇が出来たメリーは私の電信に応えてくれるはずだ。
「大丈夫かな……」
 不安を独り、声にする。
 スクリーンの落ちたスマートフォンの黒い液晶を見遣ると、情けない自分の顔が映った。秘封倶楽部は、どちらが欠けても成り立たない小さな輪だ。日常の半分が欠ける――私の依存が表情に見て知れる。とても独り立ち出来そうに無い。
 夕陽との境目にある雲は、紫の、夜の影を縁取っていた。
 明日になればきっと。

      *

 初め優しく落ち着いていた木漏れ日は群がる雲によってやがて翳っていき、私の目の前には魔法の森の昏い輪が広がっていた。私は東方――里の方角へと足を進めていた。真っ赤な彼岸花の咲き乱れる再思の道は森が近づくにつれ鮮烈な色合いをまばらに失って、徐々に現れたうねる木々達はその密度を過剰に濃くしていった。天候も私を見捨ててしまい今ではほとんどの光が届かない。私に色彩を与えてくれるのは小傘の置き土産、手作り妖怪提灯だけだ――
 4時間位の浅い睡眠から醒めると、彼岸の向こうのお墓には暁の眩しさが充満していて、すでに置き傘少女の姿は無かった。夜の内しか活動しない、そんな伝統的な妖怪演出を気取ったのだろうか。私の枕元、秋の骨のような桜の根本に、この提灯だけが見守るように置いてあった。火は絶えず白い、カリウムの炎色反応のような縁側を淡紫色に染めた光を放ち続けている。今現在、魔法の森の道なりに進む私の周りには湿度80%を超えるような気持ちの悪い空気が取り巻いているが、提灯が湿気る事はない。まるで中に野火でも入っているかのようだ。
 水脈が地面の極近い場所を通っているのか、若干ぬかるんだ土壌が歩く私の平衡感覚を揺らしてくる。たまに沈んだ靴に、堅い木の根が当たるのがかなり不愉快だ。森を熱帯雨林の湿土に到らしめているのは恐らくこの、化物のような形をした植物群だろう。マングローブの如く頭足類の足を彷彿とさせる多くの根を地に張り巡らせて、その幹は銀杏ように毛羽立ち曲がりくねって、正体不明の樹洞が空いている。空を塞ぐ枝葉はリーガルリリーのような密集度を持っていて、その天辺に咲く花の形態を真似ているのか、幾重にも絡み合った蔦植物が頭上で白い花弁を開かせている。人外魔境の未開の深林をここまで彷彿とさせるにも関わらず、虫の一匹の姿も見えない。湿地帯の砂泥が持つ特有の有機物臭、硫化水素の匂いも全く無い。確かに地面は緩んでいるが、道として成立する程度の強度は持ち合わせていた。
 森は深くなる一方だ。生温い大気に呼気が浅くなり苦しくなって、一度、大きく深呼吸すると、何故か私はむせこんでしまった。肺が痒い。妖怪提灯の光に目を凝らすと、埃のような、邪悪な粒子が舞っているのが見えた。森の景観にはキノコらしい子実体が幾つも加わっていた。椎茸やえのき茸のような優しい形はしていない。腹菌類の独特な容姿を獲得している、魔物じみた化物キノコだ。しかし、件の菌類は胞子を外に撒き散らかさないのが、その名の由来になっている。オニフスベやホコリタケのような例外もあるが、あれらは全部可愛い丸型だ。昆虫の不在は、この新種の菌が原因なのだろうか。しかし、このまま進み続ければ、もれなく病気に罹りそうだ。咳が止まらない。私はバッグから取り出したハンカチーフを口に当てるが、焼け石に水だった。粒子は眼にも影響を与えて、涙も滲み始めた。命の危機も感じ始める。私は道なりの足を止めて提灯を置き、森の向こうをスマートフォンのライトで照らしてみる。そこには、更に更に昏く陰鬱な闇が潜んでいた。
 死ぬ――。予感が脳髄に痛みを走らせる。今から戻るのか。戻れるのか? 道は此処だけだ。お墓まで戻って、親切な妖怪を、それも飛行系の便利なものを掴まえて、送って貰う? 思考が短絡的でご都合主義を求めるくらいに弱まってきている。携帯電話のライトを360度、パノラマに回してみる。木々達はその長い手で抱き締めるように私を囲っている。帰り道すら、今では暗い。と、幻覚なのか、比較的光が透過しやすい方角を見つけた。目を疑うように再度ライトを向けると、まるで魔女の誂えた罠のように、怪木の避けた獣道がある。……気がした。昨日は一切動かなかった冒険心が、今更になって意識を闊歩する。乱れた意志に惑わされた私は、一縷の望みを信じて、その、どの方角かも今は把握できない何処か、何処かに逃げ進んでいった。
 1分だろうか、1時間だろうか、もう時間感覚を無くすくらいにアドレナリンは活性化している。世界がスローに見える。手にした提灯の光が残像を持って揺れている。洒落にならない疲労感だ。一歩が重い。土の感触も忘れてしまった。ただ、獣道のゲシュタルトは崩れずに私を導いている。気のせいか、樹木が減っている気がする。忌々しい化物キノコの姿も、いつしか視界から失せていた。森に光が射し込んでいる。妖怪提灯の持つ炎色反応が薄くなっていく。明るい。曇り空、今日の天候が覗き見える。地盤は靴を弾くまでしっかりと固まり、ハンカチの周りに集まっていた異物粒子のむず痒さももう無い。念のため更に数十歩進んで、私は口から手を離した。慎重に小さく息を吸う。新鮮な空気が冷水のように肺に雪崩れ込んでくる。濁った血液が経口電解質液、俗に云う清涼飲料水で解れていく感覚がする。私は大きく深呼吸した。
 肩掛け鞄から、私はオレンジジュースを取り出した。京都の自動販売機で買った150円の水は、一日の摂取を経て、残り一口となっていた。一瞬迷ったが、意を決して私はその酸味を口に含んで、丁寧に喉をうがいした。慢性的な水不足とはいえ、さすがに毒性のありそうな胞子ごと飲む勇気はないので、服に掛からないように地面に吐き捨てた。一息つくと、脳味噌が次第に冷えて意識がはっきりとしていった。
 さて、ここは何処だろう。太陽はまだ昼を迎えていないが、季節柄早朝のような傾きはなく、薄い雲に覆われてしまって位置からの方角予測は難しい。まずは、この森林地帯から抜けてしまおう。私はなるべく迷わないよう、小さな枝を拾って、一定距離ごとに地面に刺して指標にしつつ、進む軌跡が円軌道を持たないようにして真っ直ぐに彷徨い始めた。
 秋の小山を連想させる、紅葉の柔らかい絨毯と枯葉の烏張りを合わせたなだらかな傾斜が続いている。秋曇の空から幽かな木漏れ日が射すほどに木々は互いの位置を敬遠し合い、まるで自然公園のように明るい。カエデの赤く色付いた葉並は、もし晴れの日ならば綺麗な赤金色となって透け、神秘的な原風景になって感じられたのだろう。ひたすらに歩く。楓に、漆、大楢と心躍らせる風情の植物が、地平の先、道の霞んだ向こうにまで広がる様は百年の内に失われつつある日本の姿を幻視させる。それにしても、お腹が減った。ミズナラに成ったドングリは灰汁抜きさえすれば食べられるが、時間も器具もなければ水もない。パキリ、と森を踏み締める足音が、木霊になって反響する。ふと、自分の頬に手を当ててみると、化物キノコの名残か、埃っぽく粉吹いていた。顔を洗いたい。魔法の森の湿土から、水源らしいものが見つかる可能性は高いはずだが、運が悪いのか乾いた落ち葉しか見当たらない。これでは紅葉狩りどころではない。歩く。
 一時間……二時間経っただろうか、冬寺のように無音が耳鳴りを誘う寂しい空間に、小さな水音が混じり始めた。方角は掴めないが、小豆洗いの悪戯ではない。沈黙のゲシュタルト崩壊が起こした悲劇ではなく、進むにつれ段々と大きくなる。もう地面に刺した枝の数は150を越えただろうか。獣道は慣れているつもりだったが、靴裏がヒリヒリと痛み出した。不意に、大きな疲れと焦りが沸いてくる。肝心の水源が見当たらない。流れの音は一向に近寄ってこない。歩く。まるで古杣のようだ。何処かで鳴っているが、正体が掴めない。振り返って無縁塚のよう立てられた枝の軌跡を確認して、つま先の方向を若干傾けてみる。見つからない。更に歩く。
 溜め息を吐いた私は、いつの間にか足を止めていた。しゃがみ込んで、帽子の付いたドングリをひとつ拾う。虫の食った穴が空いていて、中身にはオガ屑のような食べ残しが入っていた。ふと、空を仰ぐ。五角形フラクタルの美しい紅葉の天蓋から、灰色の地味な曇り空が見える。枝を指標にするのでなく、棒倒しにして適当に行ってしまおうか。メジロの地鳴きが遙かより届く。蜜のある花の群生が近くにあるのだろうか。茫然と叢雲を見上げる。青い鳥を探して、知り尽くした自分の鞄の中でも漁ってみようか。時間は広大で、心音を数えている暇すら億劫だ。と、視線の先、宙空の隙間に、ゆっくりと生物の影が通り過ぎていくのが見えた。渡り鳥なのか、目を凝らすと尻尾はなく、たった1羽で飛んでいる。それは相対観測的に、かなり上空を航行しているようだ。長く伸びた二本足が特徴的だ。人だ。人型の未確認飛行物体が、身長の2倍ほどもある黒い翼を広げて、いずこへと滑空していく。天狗? 小傘の言葉を思い出して、私はすっくと腰を上げた。
 古杣は天狗倒しなる別名を持っている。昔話では音のする場所に辿り着いても結局何も無いのだと云う、現状況的にはあまり好ましくない怪異だが、私はその影を追い始めた。音だけの湧き水が幻想でも、置き傘妖怪から訊いた地理の知識がある。天狗の棲む山の麓には、霧の掛かった湖があるらしい。願わくば、空を駆けるあの魔縁が、行きでなく、帰りである事に賭けて、歩を早めていく。
 見失うのは意外とすぐだった。視線を外した私の瞳を輝かせたのは、幻惑でない、本物の川流だった。近くに柘榴やアケビの蔓も見える。透明度の高い清水は削りの荒いゴツゴツした石の間を縫うように流れていて、岩魚の姿さえも目視できた。水面に手を浸すと氷のように冷たく、かつ清らかで心地良い。行動は予想に反して裏目裏目と出ているが、私はまだ幸運の内に匿われている。天狗の影はもう忘れて、小休止するのも悪くない。一際大きい苔生した岩の上に、肩掛けカバンと妖怪提灯を置いておく。

     *

 生の柘榴を食べるのは初めてかもしれない。人を喰ったように口元を赤くして、舌上で転がる酸味に身を震わせた。濡れた髪が十月の冷たい風を受けてふわりと棚引く。虫の集っていない柘榴。死体じゃない。現実味のない味。きっと、これからずっと、こんな味が続くのだろう。
 休憩のため手頃な腰掛石を見つけてもう30分が経とうとしていた。水の恩恵は地球生物には欠かせない自然の祝福のひとつで、オアシスに辿り着いた私は汚れた顔を洗って口を濯ぐ事から始めた。帽子を取ってベタつく髪を冷水でくしけずらせて、キノコの胞子で爛れつつあった脳味噌を外側から整えていく。持参した鞄に入れておいた化粧水に感謝して、毛羽立った肌をなめすと醒めた眼球から朝の気分にもつれ込んだ。そろそろ下着も変えてしまいたいが、秋の気候の中では水浴びをする気も起きない。一度脱ぎ去ったファーケープも、埃取りした後にすぐさま着直した。空のペットボトルに天然水を汲んで一口含むと、無味無臭の濾過された清々しさがあり、源流が近い事を匂わせた。その水に、また再びサナトリウム行きになるような病原体が含まれているなんて、考える余地もない。……――――
 浅い渓流の対岸には柘榴の赤とアケビの白のめでたい色合いの果実が口を開けている。川面から出た飛び石を滑らないように蹴っていって渡河した私は木の真下に辿り着いた。肉厚の花弁のように開いた柘榴とアケビの果実を3個ずつもぎ取って、置いた鞄の元まで戻ってくる。無数に覗く柘榴のルビーのような果肉をひとつずつ口に含むと、薫り高い果汁がふくらはぎに溜まった疲労を不思議と融かしていった。アケビの胎座は豊かに甘く、手はベタベタになってしまったけれど飢餓状態のニューロンが必要分の糖分を得て活発に働き始めた。嚥下できない種を気怠さと一緒に枯葉の絨毯へと吐き捨てて、粘ついた手を洗って一息つく。空腹が紛れた訳ではないが、前にも増して景色の色彩が濃くなった気がした。深林に穿たれた清流の音は、収穫前の稲穂が風に流れるようで耳に優しい。浮き草に隠れた蘇芳色のサワガニがゆらゆらと水面に揺れていた。
 楽園。ああこれは、まさに、空想。こんな自然があるか?
 晩秋の小さいアゲハチョウが小川を越えていく。遭難の経験はないが、見知らぬ地を開拓する旅行者とは、こんなにも長くも短い実感の余暇を過ごすのだろうか。現代人らしく合間合間にスマートフォンを弄り回す電力ももうない。化石燃料の枯渇は原子力の必要性を露わにしたが、大ナマズの居る国には荷が重過ぎる。80~120年の僅かな歴史は、太古に沈んだ伊弉諾プレートを噴出させるのには充分な神のサイクルだ。人間の一生は神々の死生観からすると儚く、ここで私が妖怪に薦められたように文章に書き起こしでもしない限り、あっという間に時は過ぎてしまうのだろう。ビタミンCを吸収途中のお腹がぐぅ、と鳴った。川魚は居るが調理する火を起こす勇気がない。下手したら山火事だ。驚歎や絶望のように魔物じみた栄養素が食料なら、すぐにでも靴下だけを脱いで川に飛び込むのに。
 紀行文でも書いてしまおうか。鞄の中には確かメモ帳が入っていたはずだ。どちらかと云えば絵画の方が得意で、フレミングの法則のように両手の指を伸ばして四角い枠を作って、視界の景色を試しに切り取ってみた。柘榴だけでは具材が足りないほどに鮮やかな紅葉。私には使い古しの万年筆しか持ち合わせがない。
 と、違和感をふと覚えた。何者かの気配だ。熊、のように黒くもない。話し声だ。漣立つ清流で気付くのが遅れたが、確かに人の声が聴こえる。水音のゲシュタルト崩壊ではきっと無い。小傘よりももっと幼い、ひそひそ話の子供の囁き。
「…ぇ、…ター。今度は…の人間…驚……て遊ぼ…よ?」
「え…大賛……わ。あ…人間、巫女と違…て……か弱……だし。ル…。準備…い…?」
「ちょ、……っと待っ…よサニ…。……人間、森……魔女み…いに、呪……姿勢を取……わ」
 里の子供……かと期待を込めたが姿形がまるで無い。紅葉の森の多くを占める楓と水楢は落葉高木で、樹齢の若さか、あるいは魔法の森の近隣という環境のためか、さほど大きな幹では無く見通しはいいはずだ。会話中の声質から、少なくとも三人は居る。隠れんぼでもしているのだろうか。あたかも妖精のように、正体が掴めない。
 両手をカメラの形にしたまま、周りをぐるりと見渡して声の主を探してみる。隠れられそうな枝上には動きはなく、夾竹桃や金木犀のような低く葉を茂らせた遮蔽物はひとつも見当たらない。実は本当に妖精なのか? アーサー王物語やシェイクスピアのような北欧を起源とする大きめの体躯ではなく、コティングリー村発祥の小さな蝶の羽を持った小人なのかもしれない。いや、山彦の一種かもしれないし、隠形術に長けた忍者の末裔かもしれない。優しい妖怪が普通に闊歩するこの世界では、常識に囚われてはいけない。
「あん…の虚仮脅……。例…妖怪だ……ても、……た一匹で……。そう…ね、ス…ー?」
「…え。単……ら、…っと何…かなる……。いざ……ったら、…ナが音…消……後ろか………」
「無理よ…無……理! ま…私だけ貧乏…ジ…嫌よ。そ……う時こそ、…ニーの……で姿を……て逃げ……よ」
 昨夜の置き傘妖怪だとか、以前夢に出てきた火の少女なんかは野良猫のように当然とそこに居たけれど、レトロチックな人型の幽霊や光を纏う精霊なんて、そういえば一度も視た事がない。長大なる幽世の境目を越えてしまった現状ですら、この眼は未だに心霊主義が苦手なままだ。
 ハイファンタジーを代表とするように、内省的な声が幻聴として森を渦巻いているのだろうか。私は脳の側頭葉下部へと精神ダイブする。19世紀あたりに興った霊能力ブームが作り出した概念、疑似科学とオカルトの融合を思うと頭が痛くなってくる。心霊主義で有名なハイズビル事件は、フォックス姉妹という人物が発端で、まさに狐につままれた気分になるからだ。蓮子は生真面目に、存在の弾性的振動波と空間の電磁的波動が鬼門のどうこうと悩んでいたが、手品のタネを神秘主義で明かそうとする程、それは難しくて不毛だ。秘封倶楽部は稀に目的を見失う。
 光に色の可視域があるように、音波の周波数にも可聴域が存在する。ポルターガイストを初め、騒音に関しては常人でも心霊鑑賞が容易らしく、そんな不可思議な偏りが遥か昔からある。幽霊や妖精は、きっと音が好むのだ。私にはお経を唱える自由がある。そして、夢を信仰する私達は過程を楽しんでいる。さあ、心の殻なぞ早く脱してしまおう。
 清廉な空気に満たされた空が晴れる様子はない。それでも色鮮やかに茂る紅葉の隙間を嘗めるように見て胸にしまっていく。
 何かがあることは確かだ。私は、川岸の柘榴の生った落葉小高木、その枝の上に微かな振動を見つけてしまった。古い狸か、化け狐か、はたまた妖精か。三匹分の声は私の眼に気付いたようだ。
「ちょ、見…けら…た!? …ニー、早…姿…消し……!」
「も…やっ……わよ、ル…、音…消し……って!」
「今やる…、こ……予…変更…。スタ…、プランB…!」
「「そんなもの無………!」」
 推定妖精が二人声を合わせて何かを呟いた後、急に秋の川縁はしん、と静まり返った。波の揺らぎも、葉のさざめきも失われて、まるで耳鳴りに襲われたかのように無音になる。大気の無い月の上では、骨の音を除いてありとあらゆるものが沈黙するらしい。突然に原風景は宇宙戦争のセピア調を雰囲気に取り入れて、一気にリアリティが失われた。何が起きたのか、確かなのは妖精の内緒話が終わって静寂が訪れた、という事実だ。
 試しに小石を拾って川面に投げ込んでみる。1/6の重力らしからぬ地球の速度を持って水の表面張力を破った石は、大きな音を……立てなかった。意識的に呼吸をすると、私の肺にはキノコ胞子もない新鮮な空気が雪崩れ込む。どうやら、聴覚が働かなくなったらしい。眠りの夢から強制退去させられる時の、あの打ち切り感が思い出された。そろそろ起床だろうか。が、
《えーっと、……憐れな人間よ。私は山の神様だ!》
 重々しい、幼い子供が無理に低く作ったような声がただひとつ響き渡る。色彩だけは残った秋景色を見回して、私は残念に思った。どうやら帰りのゲートは開かないようだ。ともあれ、語りかけてきた人懐っこい自称神様は会話を求めているようなので、一言返してみる。
「the purpose of playing, whose end, both at the first and now, was and is to hold, as `twere,the mirror up to nature. Can this be true?」
《えっ、なにそれ怖い……あ、あ、えーっと、そのもにょもにょ……お、おーけーうぃずねーむ? 「サニー、ここは私に任せて…………えー、コホン。まず名前を名乗りなさい人間よ。日本語で。私は山の神様なのよ》
 音声は多国語に対応していないようで、多分、ローカル神様か、もしくは化かす気満々の小動物か、ともかくあまり期待出来そうにない。相談ダダ漏れで役者交代する様から推測すると、恐らくは先程のヒソヒソ話の主で、その性格はどう解釈しても悪戯好き、高確率で正体はフェアリーだろうか? 出会った事もない妖精をどうしてそうと決められる私はまるで白痴の妄癖だ。
 魔法の森を経由しない里への近道を、何とかして聞き出せないだろうか。私は数秒考えて後、神に答える。
「私はメリー。遭難者です。神様、お腹が減りました」
 神話で見知ったポピュラーな人格神のほとんどは、割と好色で厳格だ。預言者みたく訪れたこの児戯じみた邂逅が本当に神との対話であるなら、私は自身の脆弱さを叱咤されるはず。戯曲にある皮肉屋の妖精でなく、お伽話の無邪気なウサギが木の裏で隠れているとしたら、きっと意地を張ってくるだろう。腹の探り合いは嫌いだけれど、果実しか食べていない私のお腹は空っぽだ。そもそも、三度目の正直とやらで、ついに危険な妖怪が出るのかもしれない。
《え、うー……ん? ねぇ、スター、これどうすれば「ルナ、まずは神の威厳を示すのよ「え、具体的にどう……「私が代わるわ。え、えー、ゴホンゴホン。では、人間メリーよ。私は山の神様です。食べ物の位置を教えてあげましょう》
 何となくもう解っている。相手は子供。それも人でない。ただ、イカスミなんかを食べられる人間の腹の内は真っ黒で、私もそれに従ってオチのない素人落語のような禅問答を始めてしまった。現代社会では絶対にする事のない芝居じみたセリフ回し。前に云われた噺の才能が問われている。マイクの電源入りっぱなしで世間話を始めるラジオ放送事故が目の前で起きていて、頭の悪い未確認妖精物体は言葉を続けた。
《まず、~あなたの右手にある木の下にはカブトムシの幼虫が……1、2、……4匹眠っています。川原の五角形の石の下には、……3匹のカニが「スター。人間ってカブトムシ食べたっけ?》
 火があれば多分食べられる、とは思うけれど。食の可能性を説く声の主は、犬のように雑食なのだろうか。しかし、出会い頭に私――人間を襲わないから悪食ではないようだ。カブトムシを掘り出すのは手間なので、川辺まで歩いた私は蟹を探す事に決めた。五角形の石は握り拳二個分の大きさでちゃんと流れに耐えており、持ち上げてその下を確認してみると予見通り3匹のサワガニが隠れていた。ハサミを掲げて侵略者の私に向かって威嚇している。手品なら仕込みであるはずだが、サトリに会った時の妖怪的な着目点を利用すると、今度はレーダーのような第三の目でもあるのだろうか。石を隣に放って、とうとう超常的存在に為った神の声に向き直る。
「神様ごめんなさい。食べられません」
 私は愚者で、相手は隠者。放浪者でありフールが確定している私は、タロットカードに暗示されるように、黄金冠=金の髪を持ち霊的なものと交信している。いやしかし、図柄的にはカンテラ=提灯を持つものが9の数字を得られる訳で、文学的に私はアンドロギュヌス的性質、彼であり私である、つまりアルファであり、オメガである、ヨハネの黙示録に見えるように……超心理学を寓喩で解釈すると、高確率で誤謬が発生する。すり替えに継ぐすり替えに、論点が埋め尽くされてしまう。
 解ったのは、環境音を失くせる事、生き物の位置が解る事、その姿が見えない事。あとは、不器用にも筒抜けの会話をしてしまっている注意力の低さくらい。
《と、とにかく私の力が解りましたね? ……え、えーっと。山の神様的には、あなたはとても悪い子です。謝りなさい「ちょ、スター何言ってるの「だって、流れ的に脅かし方が見当たらなくて「それにしたって、「言ったわね。じゃあサニーやってよ「やってやるわよ……、えーっと、えと、…………………人間。あなたの怖いものを教えてご覧なさい「「えっ》
 害意は無いようだ。願うなら対等の立場で話がしたい。里への険しい道を妥協した私はもう勘を頼りにするしかなく、仲良くなった彼女達に案内される未来予想図へは雲ほど遠い。山の神様は小傘のように私の驚きが欲しいらしいが、古典落語に則って『人間の棲む所が怖い』とはさすがに騙れない。
 お酒でもあれば腹を割って話せるだろうけれど、相手は……、そういえば妖精や神々は何歳からアルコールが飲めるのだろう。
「ごめんなさい。私は、……」有用な手段を考える「答えられません。もし本のような四角くて文字だらけのものを見せられたら、私は怖ろしくて腰を抜かしてしまいます」
 饅頭くらいなら丸くて可愛いが、生首のようにグロテスクな物体を望めるほど肝は据わってない。まず辺境の森林に居る訳だし、噺家のよう上手くいくとは限らないが、私は本を畏れる事にした。運良くこの愚策が成功したなら、里までの大体の距離に、その文化様式までも知れる。食べ物は諦めよう。不運にもお供え物を持ってこられでもしたら、本物に失礼だ。
《け、結果オーライね「人間が馬鹿で助かったわ「それに隠しているようで教えてしまうなんて二重で馬鹿ね》
 それにしても私は狡猾な事をしている。鯉のように川伝いに昇っていて滝行でもすべきだろうか。身体は凍えるが修験者仲間には会えるかもしれない。ただ、辿り着くのは高確率で三途の川の方だと思う。死が私の人生をタイトルコールまで戻して、現世でオートセーブされた神社前に帰還できるのなら滝壺の遥か深い所に沈むのも歓迎だが、きっと甦れないほど息苦しいのだろう。
《人間……えと、メリーだっけ? ちょっと待ってて、…なさいね。里への地図を持ってきてあげます「え、サニー。持ってくるの? 「待たせるための嘘よ、嘘。さ、道具を集めに行きましょ「本といえば道具店ね「私はここで人間を見張っておくわ》
 サトリの第三の目が見る筒抜けのサイバーパンク世界とは、こんな感じなのだろう。相手が子供ならともかく、悪意に満ちた欲張りの消費社会では相当な苦痛だ。新聞記事を脳細胞として無理矢理、頭蓋骨に押し込められるような情報の叛乱。ぞっとする。私自身の饅頭陰謀が妖精を謀って働かせる事実と後悔、そして私だけの可能性では無いという杞憂。だから、だから怪異は人間ばかりを驚かそうとするのか。
《けど、神様は失敗だったわね「次からは悪魔にしましょう「鬼もいいかも「あっ、ルナもう声消さなきゃ「あっごめ…!》
 その声が聴こえなくなるとほぼ同時に、俄に木々が騒ぎ始めた。音が現れた紅葉世界はいつの間にか更に曇っており、紅く鮮やかな天辺は鈍色を混ぜたよう雨の気にくすんでいた。大気の変化に感応してか、何処か遠くで多く雀が囀っている。三匹の透明妖精の居た柘榴の木に視線を移すと、彼女達は鳥のような繊細さは無いようでその立つ瀬、枝は大きく揺れていた。
『 《ふー、バレてなければいいけど「あ、樹の下に座ったわ。雨が降りそうだからかしら?「雨さまさまね。けど、これでやむまで足止めが出来るわ「もしかして私達の行いに感心した山の神様が天候を操作してくれたのかも「「ないない》 』
 その後の妖精の差し当たりのない会話を幻聴する。私は荷物――鞄と妖怪提灯を持って、あけびの蔓に巻かれた大きめのミズナラの根元にしゃがみ込んだ。清流のしなる音に、水滴がひとつ落ちてくる。見上げると、空を覆い隠した秋の屋根がシトシトと泣き始めていた。川面に雨の細かい波紋が広がっていく。靄が出そうな軽い、霧雨だ。風がほんの少し強くなって、ゆっくりと山肌を撫でていった。防寒具である毛皮のおかげか、あまり寒くない。提灯の淡紫い光が紅葉の絨毯にゆらゆら揺れて、あれだけ賑やかだった自然は今では雨宿りの静けさに満ちている。10分があっという間に過ぎていく。
 罪滅ぼしに、彼女達を恐がってやろうと演技の幅を模索してみる。二度目はきっと上達しているはず――
 ご都合主義の楽観だ。柘榴の味を知った私は自分を『人間様』だと思い上がっているみたいだ。悔い改めなければ。私が妖精に向けるのは詐欺詐称の悪意でなく、余興に付き合う博愛精神、どこぞの現人神を真似るように贖罪のヴィア・ドロローサを歩む覚悟も必要だ。いやしかし、本物の妖怪や妖精、さして彼女達に鬼や悪魔、神が言及される此処では、超常的存在の千里眼を気にするのは野暮だろう。懐疑論者である私は私の意志で、本が届くのを待とう。
 ただ目の前に現れたそれらが持つそのままの形を識り、道化師の如く私は一瞬を絵画のように演出する。私は何処に向かっているのだろう。真に迷っている。私の目的。そうか、元の世界に帰りたいんだ。頭骨内に巡る走馬灯のよう無闇に考えて……、だから彷徨っている。
 茄子色の妖怪傘でも持っていれば、雨を渡って今頃はもっと深い森の向こうに居ただろう。妖精達はファーストコンタクト時にお化け傘で追っ払ってしまって、悔恨など気にするまでもなく、身勝手に。空に棚引く群雲は、雨粒のカーテンをひらひらと地上に翻して、その強くも弱くもならない濁った天候は紅葉の森を神秘的に靄し始める。雨の、植物の青い香りが煙のように届いた。
 ひとつ息をつく。それが彼女達の名前かどうかは判らないが、対話の中で言及されていた略称を思い返す。サニー、スター、ルナ。神や妖怪の名付け親が人の伝聞に因るのか、それとも何らかの文化様式に則っているのか、まず、彼女達はどう生まれるのか。幻想生物学というジャンルの無い現代のフィロソフィーは、夢の世界に追いつかない。
 雨に幽んだ紅葉の森は美しく、景色の奥は水墨画のように滲んで揺れている。以前観光に行った富士の樹海のよう、自然の秩序が大地を均しているのか、原生林は魔法の森の暗黒と比べて不安すら打ち捨てるほどに明るい。しかし、埃となって積もる胞子の代わりに妖精の声のある此処には、飛び去った彼女達の他に、もしかしたらまだ別に何か、姿の無い不可思議が潜んでいるかもしれない。気配を一度気に止めてしまうと、途端に木陰が怪しくなる。一応、留守番の一人が何処かで視ているはずだが……。
 一時間は待ったろうか、にわか雨が眼に見えて弱くなっていった。空は鼠色のままで再び降り出しそうな陰鬱さだが、通り雨のように大きく崩れる予兆は風にも感じない。子供の頃、紫陽花の葉を這うカタツムリを観察していた6月のある日を思い出した。なだらかな時間の原風景に私は溶け込んでいる。
 ざあ、と木が戦慄いた。音が消える。三柱の妖精が定位置についたのか、今度は私の真上にある一枝が揺れた。
《はぁ、はぁ、ん、んーコホン。人間よ。持ってきてやったゾ。ほれ》
 学習したのか、彼女達は合流した時にあったはずの、
『 《遅かったじゃない「ルナが転んで見つかっちゃってさー「サニーも油断して能力解除しちゃってたじゃない「だって、あの道具屋の店主、全然隙がないんだもん。集中力続かないわ「まぁまぁ、目的の物も手に入ったし、作戦再開よ》 』 こんな、
 他愛ない会話を器用に隠して、唐突に私に話し掛けてくる。目の前の湿った紅い葉の地面の上に、ポトリ、と薄い本が落ちてきた。手製だろうか、平綴じでなく、糸かがり製本に似ている型だ。良く民話を綴った絵本に見る懐かしい形で、表紙にはインク字のような墨で【伊勢物語聞書】と描かれており、意匠された萩文には豪華にも銀色の箔が押されていた。近年復刻された嵯峨本だろうか。中に俵屋宗達の絵が入っていれば恐らくそれだ。妖精達の囁いた道具屋とは、古美術店なのだろうか?
 好奇心に任せて私は本に手を伸ばした。恐る恐るページを捲る。天福二年……抑伊勢物語根源……という書き出しではなく、碎けた行書体で此本……とある。何処かで見たような? 更に開くと機械印刷でも使ったかのような正確な字間を持った正しい伊勢物語が現れる。『本にある文字なぞ云ふものは所謂、魔の差した残滓で或る次第を私、物書きは身に凍てつくやうに気に病んでおり、此処に現存する書巻にしても例外無く、軈て意志を砕かんとデプレツシオンさせる後悔を彷彿するのであつた。則ち恐怖! 私は見開かれた魔書を放り、情けなく湿つた雨後の大地に尻餅をついてしまう。生き人形の口隙から発するイミテイシオンの喇叭音の如く、掠れて鈍い声が漏れる。
 叫びは無く慟哭が呻きとして弱まり「いや、怖い……」私は呟いた。直に霧雨を浴びない湿土は下着まで浸透しないが然し、秋の冷たさを尾骶骨で思い知る低鱈苦。大仰に驚』
「隙ありッ!」
 鋭い横槍が一陣の凍てつく風となって腋を通った。
『 《やった大成功よ! 》』 そんな、妖精達のあざ笑う声のするはずだった途端の出来事だった。演技に夢中で荷物より離れたその一瞬を狙ったのか、突如として出現した何かは凄まじいスピードで通り過ぎると、すぐにも空へと昇っていった。視線が追いつくとそれは第四の妖精であり、青いワンピースとリボン――子供――氷のような透明の羽根がある等身大の、神話型の妖精だ。空を飛べるのか。彼女は私の、正確には小傘から貰った幽霊提灯を引ったくって逃げ去り、あっという間に雲の陰に紛れて見えなくなってしまった。立ち上がるにも本のせいで後ろのめりに倒れた私の腰は重く、もたもたしている間に件の三妖精の声が響いてくる。
《ちょ、何アレ! せっかくいいとこだったのに!「ドコの妖精かしら?「何してるの! 二人とも追うわよ!「え、何で?「何でって、それは……悔しいからよ!「確かに。いいところを横取りされた気分だわ「いきましょ! 人間なんてほっといても勝手に沸いてくるしさ!「うん「そうね》
 濡れたミズナラの葉がひらひらと舞い落ちてきた。頭上の大枝は大きく揺れており、彼女達が去った事を知らせてきた。再び声はダダ漏れになっていて、どうやら妖精はひとつの事を考え出すと別の仕事に気が回らなくなるらしい。青い少女を追っていた目線が、姿を現した三人組の遠くなった後ろ姿を捉える。少女の影とその綺麗な蝶の羽根が網膜に強く残った。ひとりぼっちに戻った私の川辺に、文字通りの静寂が訪れる。鞄を取られないだけマシなのか。ようやく立ち上がった私は、彼女達の置き土産である嵯峨本を拾い上げた。
 方角は解らないまま。書物はかなり狭い範囲の文化を著すもので里の予測は付かないし、往復で大体30分の距離という、本だけに本当に断片的な情報しか得られなかった。500mlの水で重くなった鞄を肩にかけ直し、湿気でふやけた本を持って私は遭難を再開した。素直に饅頭を怖がっていれば良かったかもしれない。御座なりにも解ったのは、私に役者は向いてないという事だった。半分真っ白のメモ帳を鞄から掴み取って、引っ掛けてある万年筆を指にする。この旅が平凡に終わらないように、サトリに謂われた通り、文学家でも目指してみよう。この記述は、私が元の世界に戻るまでの手記――

【夜の竹林って こんなに 迷う物だったかしら?】
 ここまで先の視えない旅行をしたのは、生まれて初めてかもしれない。休憩と歩行を繰り返し辿り着いたのは竹林だった。ペットボトル容量は3分の1にまで減り、野外排泄にも若干慣れが生まれてしまった。厳しい冬や灼けつく夏でなく、恵みの秋で良かったと山の神様に感謝する。道中に点在する果実のおかげで水分摂取量も節約できたし、空腹感以外はどうにかなりそうだ。しかし運悪く私が棒倒しで決めた方角は失敗だったようで、迷い始めてから5時間は経っている。日が暮れ始めたのも結構前の話で、あと数十分も待てば月が出るまで星明りだけで過ごす暗黒が訪れるだろう。蓮子だったら……と、迷い続ける限り毎夜毎夜彼女の気味の悪い能力を羨むのやもしれない。
【携帯電話も繋がる気配も無いし、GPSも効かないし、珍しい天然の筍も手に入ったし、】
 私なりの文字でメモに状況を描写していく。なかなかに文章というのは難しい。私が思い描いた架空の人格が、本を恐れているのも今では身に沁みて理解できる。竹林は樹齢何百年か判別付かないくらいに立派な竹が生い茂っていて、見上げる先には果てがない。竹の花を発見するような幸運はないが、何故か季節はずれの筍を見つけてしまった。今、私の鞄に小さいのが2本入っている。春先でなく秋の、しかも天然の筍とは嬉しい限り――調理器具は無いけれど。桜は塩害を受けると9月頃に咲く事もあるらしいが、今年の、大きな台風が幾度も来たその影響だろうか。文章が定まらず一文を中途で留める。
 それにしても、この光景、デジャヴを感じる。以前、巨大ネズミ状生物だとか、燃える少女だとかを夢で見た時と、どうしても景色が重なってしまう。あの時は目が醒めたが、今回こそ下手をすれば永眠になり兼ねない。もうすぐ日が没する。
【今日はこの辺で休もうかな……って今は夢の中だったっけ? しょうがないわ、もう少し歩き回ってみようかしら。】
 口語体が一番書き易いのだろう。文はもう切ってしまって、続く文字列と同様に私は彷徨う。枯れ落ちた竹の葉をパキパキと折りつつ、竹の牢獄を覚束ない足で進んでいく。描写に気を取られているせいか、諺にひとつ訂正を入れたい気分だ。足は棒にならない。疲れが溜まると、肉のタタキになる。つまりすごく痛い。ヒールなんてお洒落をしなかったおかげで靴ずれは無いけれど、ふくらはぎに針が入ったみたいで辛い。休もう。真っ暗闇になりつつある。今日は、空腹なままひとり震えて眠るのか……
【それにしても満天の星空ねぇ。未開っぷりといい、澄んだ空といい、大昔の日本みたいだなぁ】
 孤独の杞憂は原風景に掻き回されて、やがて未知なる世界への興味へと移り変わった。いつしか空は晴れていて、今や描写通り、満天の星空が竹林の上で咲っている。里、に辿り着くと、そこは雪国だったりするのだろうか。もし、この手元にある嵯峨本が本物ならば、
【タイムスリップしている? ホーキングの時間の矢逆転は本当だった?】
 スマートフォンの液晶だよりにメモ帳に墨を走らせていく。携帯電話に文字を打ち込んだ方が早いと思うけれど、せっかく描いたのだから続きを進めよう。ビッグクランチまでに人間が生存しているのは確率的に限りなく低い。時間の矢は永久機関の歯車で、現在提唱されている概念とは全く異なっているのではないか、と浅はかな夢想をする。同時性の破れは相対性概念によって成り立つ。観測されるものがないと、時は動き出さない。主観に置いて時間は一定で、歪んだ空間にある結果の乱れは、ラプラスの魔にとっては茶番だ。アインシュタインの世界では、光が全てを支配する。私は眼から境界線を見る。物理学はあまり詳しくないが、線や粒子、波の隙間かそのあたりのひずみが矢の方向を逆転させたのだろうか。漠然としすぎている。そもそもタイムワープにパラドックスは付き物だ。妖精の羽根を舞わせたバタフライ効果が、今の今一瞬にも未来の可能性をひとつ、またひとつと潰えさせていくのか。パラレル軸にあるこの世界の未来は、珪素生物の襲来によって星間戦争へと巻き込まれ、有史とは違った、例えば他の生物のDNAを取り込んで魚と戦艦を、生体と機械とをキメラ化させる技術を誕生させて未曽有の発展を遂げる。そんな、空想に夢想するサイファイの21世紀はすでに資本主義のディストピアとなっていて……
 再思の道、まず初めにあの黒体に出会ったけれど、光屈折的(空間の歪み?)な解釈では、あれがタイムスリップを担ったのだろうか。タイムトラベルを論じるにはまず、『この世界は全てを記憶している事』を信仰しなければいけない。例えば、逆さの矢が宇宙の終末から原初まで一気に逆流させていくのなら、まるで聖書の如くあらゆる死者が蘇り、意思なく機械的に人生を運命付けられて母の肚に還っていき子種は割れて消滅する。カセットテープを回す記憶媒体の理論だ。時空がビッグバンとビッグクランチの間に存在する柔糸だとするなら、それもまた非常に長い周波、粒子波なのか。アカシックレコード観は物理学では立場が弱い。『うつろうもの』が物理であり、ビデオテープを巻き戻すような時の支配は、きっと全てを保持できる神の所業だろう。
 素人の私が思うに、時はパラドックスなのだ。自らで自らを動かすエネルギー。時空の記録は存在せず、書となって残るばかりで、あらゆるものがうつろいでいく。反物質の困難さと同じく、逆を向いた時間の矢は生まれたその刹那に消滅してしまう。
 では、この夢(?)は何なのだろう。神話伝承、伝記記紀、人間程度の不可思議が創作、もしくは幻視、あわよくば真実となる、めくるめく幻想世界は、どうして物理法則を悠々と超えてしまうのか? 那由他のパラレルからそのひとつの都合の良い時間帯、夢世界に迷い込むのだろうか。第三者的な力さえあればその観測や管理が楽だろうけれど、私が相対しているのは物理だった。
いや、妖怪か。
【これで妖怪が居なければもっと楽しいんだけれどね。】
 黒体への謎、サトリの心、唐傘の恐怖、妖精達の神芝居……。
 多分、ここはリアルな夢の世界。クトゥルー神話にあるような、幻夢境。あってならざる、なくてあらざる。こゝは山、山山山の谷なれど、かじか鳴く音にさゝるものなし。寫実は感触。私であって、私でない、私に影響して、私に影響される。妖怪概念は随分と私を遠回りにさせてくれている。もし出会うみな、人であったなら里で騒がしく酒の席でも設けている時間帯なのに。
 太陽が沈む。すると夜が来る。星の光は古く遠く、竹の嘲笑うようなシルエットだけが空に穿っている。微妙に傾斜のついた竹林では平衡感覚が狂ってしまって、もう長い時間迷っていた。そういえば、以前の夢では霧の掛かる湖にある館でクッキーを貰ったりしたっけ? あの時のように私は筍を拾っている。何故か持ち帰る事の出来た筍は蓮子曰く『成長し過ぎた』らしく、もっともっと幼いものを今度こそ選んだ。あとは私を襲った大鼠が再び登場しなければいいのだけれど……
 夢幻の竹林の奥に、ふぅ、とルビジウムの炎色反応が現れた。嫌な悪寒が走る。繰り返している? ここで不気味な笑い声が響いたりでもしたら、あの邪悪な大鼠だ。しかし、
 竹の影は五体を匿う隙間もない細さだ。なるべく身を縮めて、通り過ぎるのを待つ他無い。そうだ。熊の撃退方法。一番初めにする事は、相手に気付かれるより先に身を隠すこと! 私は……、人間らしく自分から悲劇を反復した。好奇心に負けて、そうっとその紅い光を覗き込む。
 女の子だ。真っ白く長い髪を御札のような白赤のリボンで何箇所も留めている。もんぺ、というよりは赤い指貫袴を穿いて、色気のない白い装束を上に着けていた。その眼は以前よりも濁り、紅く禍々しく闇に灯って、怪物特有の黒い潜在性(現に人間でもこういう混沌とした表情をする者が居る)を放っている。火の鳥のような翼は今はなく、上げた左手に眩く深い炎を纏って竹林を照らしていた。何かを探す様子もなく、怯える声もなく、私と同じように方角も解らず歩いているように見える。
 ここで私が取る行動は……、
 私は狂人なのだと思う。たった数刻の邂逅で妖怪慣れしたと思い上がった脳味噌は、あの夢の光景と違った未来を選択した。スマートフォンの明かりを点けて、あろうことか彼女に歩み寄っていく。第三者視点で眺めるような、突拍子もない行動をしている。もう戻れないのかもしれない。私は幻想に浸りすぎた。
「ねぇ」
 声を掛けてしまった。途端、体の感覚が全て戻ってくる。まるで、誘蛾灯、光走性に操られていたように、悪霊が私を狂わせたかのように、急激に正気が雪崩れ込んできて渦を作る。十数歩先に居る少女は私に気付くと、その赤富士のように煌めく目をふい、と逸らした。コレで良かったのか? いきなり牙を剥いてその掌の篝火を私に向ける可能性だってあった。命拾いをした。このまま彼女を見送れば、私は五体満足で、五体満足で、……どうなる? 帰れる保証はない。
 勇気とは結果論に過ぎない。私がこれから起こす無謀は、彼女次第で美徳にも暗愚にも成りうる。だが、燃焼が火種を必要とするようにあらゆる物理の慣性は、PLAY、遊びより生まれる。祈りは左から右へ、願うなら妖怪も人もカードで勝敗を競うような平和を。
「ねえ」
 二度目はない。二度あることは三度ある。仏の顔も三度まで。問い尋ねて続く言葉を未だ思い描けぬまま、彼女を引き止める。妖怪提灯を盗まれてさえいなければ、もっと馴染めたのだろう。私に振り向いた少女の顔は、苦渋の、信じられない程に弱々しく火の勇猛さなど微塵も感じられない表情で飾られていた。
「私に、……何か、用か?」
 傍に寄ると、より明確になった彼女の姿が明かり火に、ぼぅ、と浮かび上がった。まるで十年来の病に伏せていたように幽冥に死者じみて肌が白い。髪も染めたと云うよりは脱色された自然のアルビノであり、虹彩が赤いのも伴って、正にある必要がなくなったせいで色を亡くした風体に見えた。対峙する西洋人の私は鮮明な黄青を持っていて、しかし一寸先の返答は考えていない。脊髄反射で夢の話を持ち出してしまう。
「あの、前は助けてくれてありがとう」
「は?」
 少女にとっては藪から棒だ。夢の大鼠に襲われた時、逃げおおせた私が身を隠したその後に、少女が現れ、追ってきたあの怪物を退散させたからだ。あの時は恐怖で彼女に触れるのを躊躇ったため、コミュニケーションは一方通行になっている。多少の驚きに身じろぎはしたが、暗い顔を変えずに少女は謂う。
「私はお前を助けた覚えはない」
 彼女の身長は私と同等か少し低いくらいだ。少女と云うが、私が直感でそう断じているだけで、その喋り方はこれまでのどんな老人よりも落ち着いている。携帯電話の点灯を鞄にしまって、私は会話の種子となる情報植物を思考に巡らせた。景色も暗黒ならば、もはやあるのは生物の温もりだけ。少女の炎が揺らめくたび、秋とは思えない熱風がふわり漂ってくる。
「ほら、赤い目をした大鼠を追い払ってくれたじゃない」
 正直に空隙の過去を吐露してみる。少し考えた風に少女は目を泳がせて、
「人違いだ」
 と一言だけ呟いて黙りこくってしまった。すぐさま踵を返そうとする一瞬、私はその肩をわし、と掴んでしまう。どうやら、自覚症状はないが私は人肌が恋しいらしい。思い返せば、もう二日目の夜だ。地底旅行は数十日を掛けて達成される大スペクタクルだが、たった48時間で音を上げる私は鉱物学者の才能がまるでない。翌々思えば魔法の森は大きめなキノコが群生していた。私は星の内部の大空洞に落ちてきてしまったのだろうか。神社が入り口なんて前衛的だ。
「待って」
 活火山の噴火を利用して地上まで登りつめるほど、人間の肌は頑丈ではない。私の掴んだの彼女の肩は華奢な少女のそれで、暖かさがあり、しかし寸で先の指先は激しい燃焼を起こしてなお形を留めている強靭さがあり、手を離したくなかった。語り手である私はまだ自分一人では生きられない。
「道に迷ってしまったの。助けて欲しいの」
 ヴェルヌの世紀に生まれた私は贅沢な我儘をいとも簡単に言ってのけた。電波は地球上を網のように巡り、今や月ですら人を拒む事は出来ない。増大した自我はあらゆる空想を費やす事で生涯のほぼ全てを構築する。夢違いは人類の万能性によって引き起こされた。可能世界論は真に無限。
「……」
 軽蔑の目か、肩を竦めて溜め息を吐いた少女は私を醒めた視線で眺めた。失態を晒すばかりだ。内省的になり過ぎだろうか。どうやら私は夢の中で増長する節があるそうだ。消し炭にされる危険性を慄れるよりも、まず怪異へと飛び込んで逝く。
「お前、名前は?」
 少女が何者なのか、外見上は巫女のような色彩で、火の翼も法力なせる業なのかもしれない。妖怪サトリは陰陽寮という古めかしい文化を口にしていたが、改めて観るとその成立当初は霊異なる結界などまるで関係なく、ただ卜占の一機関に過ぎない筈だった。ならば神祇官と著すべきか、むしろ宗教的意味合いの濃くなった戦国~江戸の風習が未だに残存していると見込むべきか。文明開化と舶来の自虐史観の浸透する前、趣ある日本の姿が、そうか、あまりにも当然に在るせいか思い及ばず、懐かしき幻想の血に育まれた日出づる山渓は常に足元にあったのだ。礼に法って名を捧げる事にする。
「どうも、私はメリーです」
 ペコリ、と日本に感化された渡来人のように恭しくお辞儀をしてみた。炎の巫女は奥ゆかしい動作に面食らったらしく、
「あ……ど、どうも。私の名前は藤原…………………………………妹紅だ」
 頬を指の腹で掻きながら、どもりつつ答えてくれた。丁寧にお辞儀まで真似てくれる。妹紅。不可思議な発音だ。梅花甘茶は別名木瓜(もっこう)と呼び、これに近い。促音でない分、吾亦紅(われもこう)の方が相応しいか。どちらも特徴的な華で前者が白、後者が赤に咲く。字名の藤と合わせると実に美しい名前だ。羨ましい。
「妹紅さん。人里に帰りたいのだけれど、道を知ってたりしませんか?」
 単刀直入に問いてみる。妹紅に敵意はないようで、ではどうして初め避けていたのだろう? 頑なに表情を変えまいとしている少女は、妖精やサトリとは違い心を容易に開かない。言葉の中で紐解いていくしかなさそうだ。ひもだけにブレーンワールド宇宙論とも謂えるシナリオだ。蓮子がふと口にした単語なだけで意味までは追いついてないけれど。
「道ねぇ。お前、人間か?」
 私は人間で、
「私は人間よ」
 彼女は?
「そうか、ならまず夜が明けるまで待て。夜の竹林はどれだけ歩いても出られない」
「そうなのかぁ」
 ガックリと肩を落とす。夜中悉皆竹林。口振りから推測すると妹紅は私と同じ迷い異邦人では無いらしい。じゃあ、どうして彼女は彷徨っていたのだろう。筍を掘りに来る格好には見えないし、竹林に隠された秘境があったとしても雀踊り、つづらの中の小判では腹は膨れない。火の鳥の翼を広げていた少女は、実は雀の妖怪なんだろうか? 人知れずフラリと失踪してしまう猫のように、雀も近年、急激に人々の生活区から姿を消しつつある。
「妹紅さんは竹林で何をしていたの?」
 訊いてみる。何しろ話す以外、何もする事がない。
「私は……暇だからブラついていただけだ」
 不意に首筋を貫いた閃きがあった。無愛想を装う少女を尻目に、私は誰か、第三の眼を持った妖怪の言葉を借りる。
「少しの間、会話しましょう。楽しそうな談話をすれば、秋の肌寒さもどこかに飛んでいくわ」
 灼熱の橙火を手に宿した少女が、凍えるはずがない。私の眼は妹紅の死んだその瞳の冷たさに対して問い掛けた。大勢の方が面白い。科学的に客観性を持って触れ合いたい。声の無いスマートフォンにはもう電気的寿命がきている。夢は夢のままで、現実機械を弄るのは野暮で、どうせなら夢と語り明かしてしまおう。
「すまないが、」
「暇なんでしょ?」
 押しに押していく。妹紅は珍妙な、眉をひそめた困惑の表情を見せて、その後少し俯いて、一拍息を止めて、しょうがないと諦めた風に目を瞑って溜め息を吐き、百面相の次、ようやく可愛らしい微笑みを浮かべた。
「……………………わかった。私の負けだ。付き合ってやるよ」
 人らしい柔和な笑顔が私へと向けられた。妖怪だとすれば数百年分生き延びた老獪の可能性だってあるが、まるで幼年に時が止まってしまったかのような作意の無い純粋な感情の露見だ。可愛い。
「ありがと。さ、何を話そうかしら? そうだ、私のコトを聞いて欲しいの。あのね……」
 月の無い星空の元で、竹林にひとつ、揺れる炎が灯った。折れた竹の枝を拾い集めて小さな焚き火を作る。夜の暗闇は、話に花が咲き始めると極彩色の蝶が回るような話の輪に変わっていき、単なる身の上話でも暖かく睦まじい。京都在中大学生の私の語る軌跡は幻想に堕ち込んでから先、再思の道から魔法の森へ、彷徨を経て山の神と対話し、やがて竹林で倒れ臥すまで。
 京都市東山区祇園町……火の少女には心当たりがないらしい。いよいよ現世との繋がりは薄くなり、超文明の電気的物語を騙るのみとなる。妹紅はひたすらに相槌を打つばかりとなり、これでは懺悔になってしまう。話を一旦切り上げて、とにかく私が『元の世界に帰りたい』意志を述べると、彼女は真剣にこう答えた。『里には郷土史や呪いに詳しい奴がひとりいる。彼女に訊けば何か解るかも知れない』私の目的地は相も変わらず安心の人里だが、ついに手掛かりが生まれる。
「てっきり無名の丘に間引きに行った若い母親かと思ったよ」
「ちょ、失礼ね。私はまだ乙女よ……って、間引き?」
 子供を産める身体には成長したものの、今の私には一ヶ月周期で汚い血を流す不便な体質でしか無い。自然から霊験を授かるシャーマンにとって処女性は重要で、一度でも通じてしまったら私の神がかりな眼も見放されてしまうのだろうか。逆に膜を破ってしまって夢の世界から弾き出されるなんて方法も……、きっと計画なく子を宿した母親くらいに後悔するだろう。まだ私は学生だ。しかし、確かにアカデメイアは紀元前からの古めかしい文化でその学徒である私がこう語るのは野暮に思えるが、未だに間引きが存在するなんて時代遅れもいいところだ。
「ああ。風害で収穫を根刮ぎ奪われた時、望まぬ子を授かった時、鬼子を宿した時、自分勝手な人間達があの丘の鈴蘭の畑に子供を捨てに行く。大体そういう奴等が帰り道、兎に拐かされてこの竹林に迷い込んでくるのさ」
 竹に兎。誑かすのは兎でなくて狸の仕事なんじゃないかと思慮浅くもふと感じる。月に兎は付き物だが、竹林とは、昔話では地上のエンゲージポイントだった訳だし、楽園から堕天させられた咎人みたいだ。狡猾な妖怪兎なのかもしれない。あの夢で見た大鼠は、実はモノ凄い形相をした兎だった? 小傘の謂う永遠の続く竹林とは此処なのかもしれない。
「里は貧しいの?」
「さあな。ここはメリー、あんたみたいなのがよく流れ着くのさ。都のようには栄えないが、賑やかではある。つまり、人間の数は増えも減りもしない」
「どういうこと?」
「聞いたよ。メリー。妖怪に会ったんだって? 命があるだけでもその相手に感謝しなよ。そういうことさ」
 鬼子、望まぬ子、災害。――妖怪。捨てる子供を憎んでいる母親なんてそうは居ない。旧き日本の風習に從うなら、人身御供、罪人に鬼、もしかしたら半分は人間で無かったのかもしれない。
「妹紅は妖怪じゃないの?」
 パイロキネシスなんてCGでしか見た事がない。レトロフューチャーの世界観では、私の時代の数年後、環境汚染からミュータント達が次々と生まれるようになるという予言がある。彼らは物理法則を覆しうるPSYを有していて――大衆向けSFちっくで荒唐無稽な話だ。目の前の少女は、いや、アルビノであるから、遺伝子情報が傷付けられた痕跡を病理学的に見い出せるからこそ、…………
「私は、……………………人間だ。……まだ」
 煌々と燃える燐の火の向こうで、妹紅は酷く悲しそうな顔をした。唇をキッと結んで、何気なく放たれた私の凶器の言葉から逃れるように身を縮める。愚直に推測するのなら、彼女は捨て子なのだろうか。大鼠の夢の時、人でないあの感覚は、妹紅が妖怪に育てられた鬼子だったからなのだろうか。知る由はない。私に出来るのは彼女を追憶に追い込むことじゃない、会話を長引かせる程度の、僅かな暇潰しだけ。
「ねえ、妹紅」
「何だ」
 森の置き土産、紅葉の入った鞄に私は手を突っ込み、
「お腹減ったから筍炙って食べましょう」
 数時間前に収穫した幼い筍を取り出した。竹の枝が火に弾ける音がこそばゆく空間に滲み、死に遅れの鈴虫の声が闇の遠くで誰かに問いかけていた。夜はなお深く、四万由旬の星々が舞い散る火の粉の遥か先で啼いている。筍は焦げ茶の皮に包まれていて、過去の夢とは違ってあまり太さがなく、片手で持って掴めるほどだ。多分、炙りさえすれば、
「それは、食べられないな」
「え?」
 焼けば大体消毒される派の楽観的な私に向かって、妹紅は苦言を呈した。彼女は春色の芽、その季節外れのタケノコを奪い取ると、力任せにした切断面と匂いを嗅いで向き直る。
「採ってから時間が経ってるだろ。アクが強くて茹でなきゃ不味い。ちょっと付いてきなさい」
 立ち上がった妹紅は手に篝火を再点灯させて、竹林の昏がりへとゆっくり潜っていった。山火事を心配して焚き火を二度見した私も慌ててその背中に続いて、転ばないよう足元を見ながら進んでいく。山育ちでない疲れ足には、盲闇は平衡感覚を狂わせる狂気の無重力だ。なるほど兎が月と勘違いして集まってくるのも解る。
「あった。これだ」
 私と同じく俯向いて歩いていた妹紅が――地面を探っていたのか――竹の根本で突然しゃがみだした。植物をちぎる瑞々しい音が聴こえ、追いついて覗きこんだ私に手向けられたのは、蕗よりも一回り大きい程度の、小型の竹の芽だった。
「これ?」
「そうこれ。シホウチクと云って秋頃に生える。ちょっぴり苦めだけど採れたてなら生でもいける。あとは……」
 シホウチクの筍を私に渡すと、彼女は再び大地に目を凝らした。数秒の間を空けて、四歩くらい兎歩きした妹紅は何かを発見したみたいで、掌で小さく地面を穿ってそれを取り出す。
「カンチク。あんたが持ってるのもこれ。春先に出るモウソウチクよりも遥かに美味しいよ。すぐに食べれば、だけどね。時間経過でエグ味が出ちゃうし、鍋がないと灰汁抜きも出来ないから、もっと小さいやつを採って上の方だけを食べるのが吉かな」
 そう云って妹紅は筍を懐にしまった。現代では言葉だけが残る杣人の熟練を夢想するくらいの手際の良さだ。彼女の手の上の不可思議な炎は、焼畑民俗由来のホソケ技術の結晶なのだろうか? ここが山岳信仰の根付いた土地ならば、天津麻羅製の頑丈な鉄鍋のひとつでも欲しい時分だ。きっと、神々の領域にあるお陰でものすごく美味しく茹で上げられるはずだ。僅かな収穫を手にした私達は、すぐさま踵を返して焚き火に辿り着くと、さっき通りの定位置に腰掛ける。炎を物ともせず、彼女は掘り出した寒竹を剥いて直接火にくべると、
「ほい、」
 と、生成り色の新鮮な筍を差し渡してくれた。二口で平らげてしまえるくらいの穂先だが、薫り高い特有の匂いを放っている。お握りを頬張るように口に含むと、柔らかい繊維が歯に弾けた。予想に反して結構甘い。百貨店にある調度品の筍とはその果肉の解け方が全く違っていて、まるで海老の剥き身のようだ。久々の固形物は空になった胃にじわりと染み込んで、麻痺していた食欲を強く呼び起こした。もっと食べたい。
「美味しい!」
「だろ。シホウチクの方も炙ってやるから寄越してくれ」
 餌を待つ鳥の雛みたいに私は妹紅に甘えるだけ甘えた。次の炙り筍を食べ終わると、彼女は気を利かせて『もっと食べるか?』と訊いてきてくれる。遠慮して意地を張りたいのも山々だったが、ご好意に甘えるのもまたひとつの作法だ。初め通り雨のように曇っていた妹紅の顔が、どうしてか積もる話でなく私、人間の世話をする事で生き生きと活気に満ち溢れていく。筍の切り身を6つ食したところで、『あんまり摂り過ぎると中毒になるぞ』とその調理担当からストップが掛かった。長い間空腹が続いたせいか、早くも訪れた若干の満腹感に、私は鞄の中の最後の水に手を付けてしまう。ペットボトルの中身が空になる。藪にある竹の切り株には雀酒が溜まるという伝承があるが、こう暗くては犬の鼻でも嗅ぎつけるのは至難の業だろう。そもそもアルコールは脱水症状にはマイナスに働きかける非飲料水だ。水の代用品にはならない。『汲んできてやろうか?』と彼女。困った素振りに先回りして、妹紅は私に世話を焼こうとする。どうして、こんなに優しいのに自分を遜ってまで《まだ人間だ》と嘯くのだろう?
 私は傲慢にも、妹紅を小間使いに行かせてしまった。暗愚の長夜には闇の帳が落ちて、辺りは一気に静まり返る。
 現し世は夢、夜の夢こそ真と唱えた小説家は誰だったか。一般にレム睡眠は起床中の記憶や出来事のモチーフなどが形を失って、その日の脳細胞のデフラグ作業として一個の奔流になった際に現れる電気的体験だと云われるが、予知や発想がどうしてそのカオスから生まれるのだろう。魔法の夢が単なる偶然だとしても、偶然が偶然たる理由は普遍性の気まぐれだ。私が壁に埋まる確率は極小であって、その判定は一時的に覆されたとしても連続しないから必然の物理に落ち着いていられるのだ。運命を感じさせる邂逅や事象の偏りは、偶機と呼称するにはもったいない代物だ。不思議な夢がある、そう自惚れた方が人生きっと楽しい。さあ幻想の言い訳でも考えましょう。
 ――夢の世界は物理的にどう解釈すればいいのかしら。
 滑稽な事に、味わったはずもない天然の筍を私は美味しく食べている。これは想像上のファンシーテイストなのか、遺伝子に刻まれた先祖の記憶なのか、それとも現実的に味蕾が反応しているのか。この世界が泡沫の夢だとしたら、私の体験は支離滅裂な断片化されたファイルのパッチワークという事になる。目覚めた後にどうしてアレで納得していたのだろうと、ベッドの上で首を傾げている現実の私を想像すると笑えてくる。相対性原理は究極には主観である。則ち、観測全てに意味はあった。幽霊エネルギー、アリスマター、世に仮定される宇宙のシナリオは人間の魂の21gを浮き彫りにする。未知だからこそ錯覚する。そうか、
【そうか、もしかしたら、夢の世界とは魂の構成物質の記憶かもしれないわ。】
 忘却の彼方にあった物語に口語のメモを書き加える。胎児は母親の肚の中で一生分の夢を見る――幻魔怪奇作家とやらがそう提唱していたと思う。有史よりの鎖国文化を遡り、哲学家の乞食の世代を顧みて、やがて言葉の無い集落社会へ、そして光や音に還る。私は生物の軌跡、有機体の歴史のスパゲッティドリームに呑み込まれて此処に居る。では、度々登場する妖怪は何を示しているのだろう。本物? 偶像? 比喩?
「ん、何を書いているんだ?」
 時間の経過を疎かにして思慮に耽る私に、たった数時間で聞き慣れた声が尋ねてくる。顔を上げると妹紅が500gのペットボトルを手に持って戻ってきていた。夢が私そのものならば、彼女は一体なんなのだろう。
「見てみる?」
「ああ」
 汲んだばかりの冷たい清水とフラクタルな私の物語を交換する。スキャナーの日本語認識機能が通用するくらいには字体に気を付けたはずだが、マイナー文学として間違った表現があるかも知れない。妹紅は下手なメモ書きの話を読み、首を傾げながらこう呟いた。
「ホーキング? 日本語……かな。私にはよく解らないや」
 まあ、それはそうだろう。書いている私ですら薄々衒学趣味には気付いていた。人に読ませるべきは意味でなく、文体なんだろう。返されたメモ書きを受け取って、少し考える。まず動機がほんの好奇心である試作小説は、伝えたいテーゼを何ひとつ決めていない。毎日のように書き溜めている日記の癖が紀行描写に被さって、まるでこれでは誰かに語り掛ける私の台詞だ。
 あれ? 一人称って元々そうでなかったっけ?
「ねえ、ひとつ聞きたいんだけど、」
 昨日を回想すると、もう月が出てもいいはずだ。疲労は数倍に増して今にも目蓋は閉じそうだが、眠ってしまったら繰り返し、小傘のように妹紅も消え去ってしまいそうだ。せめて問いたい。メタファーの支配する明晰夢は、何を思うのか。
「妹紅は、夢の世界ってどう思う?」
 夢の具象であるはずの彼女に向かい、夢は、と答えを求める。Water.ヘレン・ケラーが生存を誇る人間の世では、意識がある事が正に現実だ。この世界こそ、日本の旧き姿こそ真実のリアルワールドで、私の秘封倶楽部というご都合主義の理想の生活は、辛い飢餓から逃れるための妄想なのではないか? 科学の進歩はあまりにも便利すぎる。それはもう神やら妖怪を欺く程に。
 妹紅は答える。
「夢か。そうだな………………怖ろしいな。もし、死んだ誰かの追憶を見せられたら、起きた後、酷い、酷い喪失感に囚われる」
 もし、蓮子がすでに故人であって、夢と現実が逆転していて……………………
【妖怪は恐怖の記憶の象徴で。】
 生きとし生けるものはいずれ朽ちゆく。妖怪は恐怖を定めて脅威を薄めるために定義されたと聞く。失われた自然に囲まれて自称妖怪が馴れ馴れしく驚かしてくる世界が本物か、現世と幽世の合間の見える能力を持って悠々自適に生活を送る世界が本物か、解るのは、この新説。どちらかが基準のパラレルワールドだとしても、その双方、妖怪は恐怖と共にあるという事実だ。
「そうか。そうね。明日も側にいるよね? 妹紅」
 願っても願っても八坂神社にも人間達の里にもいけない私は、選択なんか出来る身じゃなかった。否定だけだ。私に可能なのは可能性世界の否定。孤独の否定。眠気の……
「さあな。わからない。里までの道は教えられると思うけれど、私は…………………」
 巨大な月が昇り始めた竹林の空に静寂が咆哮する。睡魔に意志を刺突されるにつれ、感情が剥き出しになって不安がどんどんと滑り込んでくる。今度こそ、野垂れ死ぬかもしれない。何が夢で、何が現実なのか。私に出来る事。それは、
【うーん。新説だわ。目が覚めたら蓮子に言おうっと。】
 より居心地の良い世界を祈るだけだ。私はきっと、夢の中。
「メリー、そういえばその水筒、何なんだ? 見たことない形状をしているようだけど」
 私は人間よ(1回目)。物語を書いているの(2回目)。妹紅は私に3回目の質問をした。これはペットボトルって云って……と私は切り出す。そういえば二度目の疑問に答えていない。願望が加わった事で、紀行文から本物の小説に昇華されたのだろうか。現実を疑う私には客観性もなく知る由もない。妹紅の発した火は暖かく明るく、それから数時間語り明かした私は安心からか、眠りの渦へと巻き込まれていった。可笑しな事に、確かな夜の夢を見ない。ではやはりどちらかが……
 浅い睡眠は一日の、ひたすらに歩いたその紀行を悪夢のよう何度も反芻して、夜闇に目覚めてはすぐさま眠りに落ちる。火の放つ温もりだけが感覚に溶け込んで、その一瞬一瞬の覚醒の記憶を写真のように切り取った。泣いている声。気がする。妹紅が、眠り伏した私に隠れるように、何かを回想して、何かを嘆いていた。彼女の悲しみは何処から来たのだろう。きっと私には知らされないまままた別れが来るのだろう。論理展開が相対性精神学を加速させる。私は言葉でしか語れない。落ちる。落ちていく。
 願わくば、予定調和の明日の日常を。

     *

 ―三日目

 胎内の心音に似たリズムが私を揺らしていた。
 京都市を走る電車は電灯文化の星の海を進んでいき、あっという間に夜になった今日一日を回想していく。薄水色の空には雲ひとつ無かったが、こうして日が暮れると瞬く星も極僅かで寂しく思う。人工衛星の回る流星のような軌跡が自動車のヘッドライトと混合して、銀河鉄道に乗っているような錯覚を受けた。吐き気がする。携帯電話の履歴には、メリーへの連絡の跡が残っている。川端警察署に出頭した私はその不在を行政へと吐露した。失踪宣告を嘯くような法的な無情さも死も期間もないと信じる私は、安易に失踪届けを出し、大分遅くなって帰宅の途に就いた。そういえば、彼女の家族を知らない。まるで、イマジナリーコンパニオンとでも謂って現実を否定するような空虚さだ。
 たった二日。そう笑われるだろう。しかし予兆は充分にあった。育ち過ぎた天然の筍に、原因不明の病気、伊弉諾物質。メリーは神隠しの兆候を幾らでも見せていた。リアリストの公務執行官達に説明しても、恐らくは普通の狼少女だと認知されるだろう。私はメリーを信仰している。現代科学が置き忘れていった、ブードゥーサイエンス的な奇跡現象の集合。別に目に見えるものだけを共通解にするようなディストピアな法は現代社会には無く、科学の必要性に応じて合理的に定まっただけだ。けれども、メリー。彼女は幻想を目視出来るはず。多数決と金銭が絡まった民主主義はマイノリティにとって立派な暗黒郷か? どうでもいい。電車は街の闇を切り裂いて駆けていく。向かい合わせになった対岸の座席の向こうの夜景が酷く無機質だ。イヤホンで外界の喧騒を塞いでしまって、スマートフォンから幺樂団の『不思議の国のアリス』を再生する。
 夢、鏡の世界へとメリーが旅立ったのなら、ライプニッツの熱力学第一法則が破れた事になる。エネルギーの不等均はこの平衡宇宙に何を齎すのだろう。少し不思議な漫画のように、マクロコスモスの閉鎖系を監視する時空パトロールなるものがあれば彼女ももうすぐ帰ってこれられるはず。だが、創作の超科学を肯定すると、今度はタイムトラベルの可能性だって出てくる。ルイスという苗字の学者やら作家は、多分、大の遊び好きの剃刀嫌いで厄介な概念を幾つも一般層に広めてくれている。そう巫山戯て皮肉る私もあーだこーだで隙間の神を信仰していて、神学的論知でなく、いつか存在する高次概念を夢見ている。けれども、その業務的物理学の思考実験は私の人生においては二の次で、ただの楽しさがあらゆる脳的刺激で勝っているに過ぎない。飽和文明のQOLは無知さにある。私は何も知らされずに生まれてきた。死ぬ事すら学んで気が付いた。幽霊が実在すれば寿命の痛みが軽減される。妖怪がかつてあれば肉の呪縛から解放される。人間の持つ安心への適応力は狂っている。しかし恐怖抜きで語った先、神話伝承、幻想視、それらのなんと楽しげな事か!
 もし、物理総量の崩れた世界がこのまま形保たれるとしたら、メリーの今居る夢の中から同じ分だけの不可思議質量がこの太陽系第四惑星に来訪しているはずだ。第三種接近遭遇の第一人者になれるチャンスだけれど、とても探す気にはなれない。代わりなんて居ない。恩人の墓から植物の芽が出たとしても、それは喋らない、答えない、もう笑わない。
 ああ。私もリアリストなのか。電車の周期的な波の揺れが私を眠りに誘う。もうすぐ降りるべき駅だ。今、不安なのはアンガージュマン(engagement)だ。筍取りから帰ってきたメリーにカウンセリングをした時のあの心配、彼女が向こう側に慣れてしまう適応作用。そして、眠ってしまった私が、辿り着いた遥か遠い駅を受け入れてしまう時間の流れ。誰かの居ない未来。
 深い夜が降りてくる。たった数分先、私は起きていられるだろうか。暖房が効いて座席も疎らに空いた暇な列車の中で、意味も無いように立ち上がってドアまで歩いて行く。あと二時間もすれば仕事帰りの大人達に占拠される空間を、私一人が歩いている。窓の外を眺めると、東の国の眠らない町が沢山の光を瞬かせている。
 事態は好転しない。私に可能なのは待つ事だけ。
 夢の世界の物理学、鬱々と消えそうな魂に抗生物質を与えている。重力に引き裂かれた力学に、まるであるはずもない確率現象の透過、質量を意に介しない浮力を、物事を浮かせるその遊びを願う。幻想万物の根源は酔いと浮遊。帰りに物産店にでも寄って、スティルトンチーズでも買っていこうか? 明日の夢見に奇妙を願って。
『一週間後、約束ね』 独り口の中で呟く。
 アナウンスが目的地を告げ、扉の外はゆっくりと駅の石造りに変わっていく。地球表面の相対速度へと同等になって、私の一歩が踏み出される。まもなくドアが開く。
 冬の息吹を小さく吸い込んだ。神経バランスが弱まったのか、手足が冷たい。ホームの天井から覗く架線、その向こうの夜空に一際大きく輝く星、くじら座のミラを見つけた。

      *

 走馬灯が過ぎる。とびきりの大夢見が私を呑み込もうと大口を開けている。意識が薄れていく。倒れ臥した私は、いまわの際にほんの朝方、数時間の記憶を滅茶苦茶にして回想している。
To be,or not to be.生きるか、死ぬか、それは問題じゃない。何よりも空想が勝る魔法世界には、意思が大切だ。生命の水も血液として巡る栄養素もまだ枯渇していない。体温は高く、交感神経の過剰さをむしろ心配するほどだ。耳鳴りがする。死ぬ事は眠る事? 胡乱な脳味噌は思い返している。そう、
 私は独りだった。
 ――寝ぼけ眼は白く霞んだ空を仰いだ。三角座りで眠り込んでいた私が目を覚ますと、霧に囲まれた竹林の冷たい朝が肺に染み込んでくる。夜半、暖を取っていた神秘の焚き火は黒く燻り灰だけを跡に残して、向かい合う先に居るべき人物の姿は、幽霊のようにもう視えない。大陸へ帰り損ねたのか、季節に外れたカッコウの鳴き声が雲山に響くように閉ざされた藪を反響している。深い睡眠が摂れないせいか、目の下にクマが出来ている感触がする。彼女はもう居ない。私は現実を受け入れなければならないのかもしれない。モウソウチク、鞄を立て掛けておいた竹に蛞蝓が這っているのを見つけた。
 尽きかけたペットボトルの中の水は今、なみなみと満ちている。晩秋の夜は、夢では無い。清水を一口喉に通すと、全身に産熱の身震いが走った。手足が冷えている。妹紅は何を恐れていたのだろう。涙の真意は解らない。私は、立ち上がって、進むだけか。リアリティの薄まった地上を彩るように、私は鞄の中に潜ませていた文学第一作のメモ――『夢の世界は魂の構成物質の記憶』その1ページを破って凍てついた火の跡に重ねた。
【さて、そろそろまた彷徨い始めようかな。】
 最後の一文を描いて、そして一声、妹紅の名前を呼ぶ。木霊は竹林の隆起に乱反射して幾重にも厚く空間に広がりきるけれど、答える少女の言葉は無い。完成した一段落の記述をそっ、と足元に安置した。彼女が此処に居た事を忘れないように。彼女が此処に戻ってきた時に私の姿を思い出せるように。せっかくの作品を放棄する私には、文芸家の才能はまるで無いようだ。
 生理現象の排尿を終えると、私は道標に従って歩き始めた。焚き火の焦げ跡が、ちぎったパンのよう霧の奥へと続いている。妹紅だ。何となく察した。彼女の優しさの軌跡が一本の線となって、何処か、人間の里か、想像上のエル・ドラドへと続いているようだ。私と一緒に居られない理由は、その過去からか、もしくは怪異か。延々と奥地を目指す蒼眼の探検家として、歩く時分、暇な思考を働かせる。竹林の下草には朝露が降り積もっていて、霜になりかけていた。二日で履き潰した靴で踏むと、思ったよりも大きく足音が立って背後に消えていく。三半規管の揺れるぐらぐらの山道を掻き分けて、昔話の淡い色の竹林をブロッケン現象の地平線へと向かっていった。曇か晴れかも判らず、ただ光の虹輪が進行方向に、まるで私に後光が差しているかのようだ。
『人間だ。……まだ』
 妹紅のあの言葉を心に浮かばせる。少女の姿をした妖怪傘を私はすでに目撃している。もしや妹紅は、これから妖怪に変わってしまうのか。鬼子として生まれた子供は捨てられて、鈴蘭の花畑で毒に塗れながら死に至ると聞くが果たして。迷路は直線距離だと大したものではなく、渓流に見たあの秋の森に辿り着いた。黒炭の道は未だ収まらない高熱で僅かに燻っているものも混じり始めて、季節の色に山人らしい焼畑の臭いが撹拌している。もしかしたら彼女に追い付けるかもしれない。期待が私の軋む両足を早めて、遠く隔たった二時間、三時間と経過の枷を飛び越えていく。灰霧は気温の上昇で早天に揮発していって、やがて雲に纏わり付かれた太陽と青が見え始めた。まだ。運が悪ければ、私もいずれ魔法の元素とやら、この世界を包む気に当てられて妖怪変化を起こしてしまうのか。畏怖の存在となれば永遠に近い寿命が手に入るとは思うが……私は、
 運命は必ず定まったひとつの事象を経験させるという。自由意志とは、必然のチェックポイントを除いた弓なりの振り幅だと波動力学のような比喩をさせる気なのか。眼前に現れたのは忌まわしい、病毒と暗鬱の魔法の森だった。黒き道は未開の深淵へと伸びている。意を決する暇はない。妹紅の好意はもう受け取ってしまった。彼女の経験した歴史を読んで追体験するように、追い付けるものなら私は勇んでトレースをする。ハンカチで再び呼気を覆い隠して、一歩踏み入れそうして人外魔境の星――この先に人間の里がある希望に些か疑問を感じるが――中心地へと潜り込んでいった。
 雲間から溢れる太陽の光に照らされて、化物キノコの胞子がホタルのように輝いて舞っている。霊妙な光景だがその実は肉体を蝕む塵埃の悪しき対流だ。深く絡みつく巨木の森の天井は抜けて、一直線の光の径が浮かび上がっていた。妹紅の持つホソケの業火は天まで届く不死の煙の如く、魔法の森を真っ二つに分断してくれている。ただ、自然の猛威という膨大なエネルギーは、古来より封じるものであって調伏する妖魔ではない。私の血液中には柘榴とアケビ、筍の植物性たんぱく質と微量のビタミンしか貯蓄されていない。ほんの一握りの粒子を被曝すると、一気に中枢神経系のバランスが崩れ出す。息が苦しくなり、心臓の音がわざとらしく不自然に鼓動する。頭痛がして悪心が胸を焼く。私は少量の水を口に含んで喉を濯ぐ。しかし、体内に侵入した毒素は粘膜の洗浄では取り除けない。妹紅に猪でも狩ってきて貰えばよかったのだろうか。山人の調理法はそれを吊るして腹を捌き、内臓を一纏めにして抜き取るという。頭がクラクラする。
 走馬灯が走る。倒れ伏した私は……、過去に還り、今の瞬間まで時を鈍行し、再び倒れて、また記憶のループが始まる。
 こうして、昏い眠りに就いたのだった。

      *

 暖かく、柔らかい布団の感触だ。眠りは粘性のある筋繊維のような死者の手を私の背中に張り巡らせて、意識を更に更に薄いところへ誘おうと快楽をちらつかせる。全て夢だったのだ。私はデブリとなった宇宙の鳥船遺跡の夢以来、羅患した原因不明の病気に伏せてサナトリウムで治療を受けていたのだ。目を開ければ、蓮子が私の名前を呼んでくれる。だから、もう少しだけ眠っていてもいいはず。黄泉平坂らしい冥界から奪取した伊弉諾物質を手に入れて、次の幻想ツアーは以前の古き日本の思い出巡りだ。道の向こうは、道の向こうは、まだ夢に居るべきだ。睡魔は蔦植物のよう自我に巻き付いてくる。落ちる。八坂神社の約束は、夢が見せた巧妙なリアリティ描写だったのだろうか。もっと深く。えっと、誰を待っていたんだっけ。呑み込まれる。何を誓ったんだっけ。何時頃の約束だろう。京都ってどんな町並みだっけ? 二重、三重、樹輪のように重なった夢の隙間に漂う。一体どれが現実なのだろう。カフェテラス。実像が2つ想起される。どちらかが夢で、残りが現実、もしくは両方偽物なのか。誰かが居るけれど、顔が見えない。見覚えのあるリボン付きの中折れ帽子。私の身体が視えない。透明だ。パラレルワールドの大学構内のカフェテラスには夕陽が射し込んでいる。冷めたカフェオレが2つ。瞬きをすると仮想現実と仮想空想のカフェテラスには、誰も居なくなる。私は幽霊のように空から眺めている。深く。深く。何か、この場所に日常があった気がするが、記憶が抜け落ちてしまっている。そもそも、私は誰だっけ。昏い、全てが暗闇に溶けていく。手足の感覚が消失して、闇の中に同じ色の門が幾つも幾つも、風は無く、重力に引かれて加速して泥の中を一点に向かって墜ちていく。何だろう。巨大な質量がその中心にある。いや。
 あれは、…………………………………
 夢の世界は魂の記憶の構成物質。私は、私は、
(生まれて、生きて、今までのあらゆる感動、断片的な写真のよう、一瞬一瞬が脳裏に濁流となって現像された。夢と現実の入り混じった奇異なる眼の軌跡。中でも最も色彩豊かだったのは)
 主にモノクロを好む彼女、蓮子だ。
 こんな場所には居られない。私はメリー! 早く帰らなきゃ!

 眼を開けると、埃蒸せた見覚えのない木板の天井が広がっていた。軽い頭痛がまだ頭骨内に残留していて、魔法の森との時の繋がりに眩暈を覚える。私は綿のシーツに包まって簡素なベッドの上で横たわっていた。どこかから、美味しそうなコンソメスープの煮える匂いが漂ってきている。上半身を起こす。残念ながら私の覚醒先は見知らぬ書斎のようだ。ベッドの脇にある小さな窓にはあの、魔の深森のおぞましい怪木が映っている。高さ的に、ここは二階だろうか。小雨が降っていた。屋根に雨の弾ける子守唄のような静けさがある。疲労で両くるぶしは軋むが、何とか歩けそうだ。掛け布団をはだけると肌寒さが私を襲った。何故か、他人のネグリジェとドロワーズをいつの間にか穿いている。頭には綿のナイトキャップ。紫のワンピースもファーケープも、鞄さえ見当たらない。これは? 誰かが階段を上がってくる足音がした。
「お。グーテンモルゲン、金髪少女」
 突如現れた声は土鍋を持って歩いてきた。それは私より背の丈が少しばかり高い魔女だった。人を見た目で判断するのは性急だが、何しろ、青紫色のローブを纏って三角帽子も被っているし、意味深な太陽と月の文様まで意匠されている。改めて見回すと、書斎に綺麗に並べられた本共はポルトガル式ローマ字を始め、古ヘブライ文字に北欧のルーンなど、如何にもな題名を持った品で揃っていて、視線を下げると床には月の刺繍のされた赤黒のペルシア絨毯が敷かれていた。先程からあった匂いの正体は魔女の持つ不思議な土鍋のようだ。何でも不思議を付ければ魔法的に見えるのは良い事だ。あなたの生活をより楽しくする素敵な品詞。
「イランカラプテ、緑髪魔女」
 私なりの挨拶で返した。意識がはっきりしてくる。
「あー?」
 困っているのか正しく答えたのか解りにくい表情をして魔女は声を出した。ベッドの傍まで辿り着くと、彼女は横になる私の太腿の上に鍋敷きを置いて、手に持つ料理をゆっくりと載せてきた。これでは身動きが取れない。
「まあいいや。食べなさい」
「あー?」
 状況が掴めない。魔女と同じ変な感嘆符を鸚鵡返してみる。私はどうしてここに連れ込まれたのだろう。まさか、ヘンゼルとグレーテルのように太らせてから食べるなんて回りくどい魔女は居ないはずだ。血の侯爵夫人、エリザベス・バートリは黒魔術に陶酔して人間の血を啜り吸血鬼になったと伝えられるが、目の前の彼女は何を起源としているのだろう。差し出された土鍋にはキノコと筍を初めに、本来なら採れるはずもない季節外れな山菜と豆腐、猪なのか、あまり見ない赤い肉が入っている。何故か箸とレンゲが二膳、添えられていた。
「はい、お茶椀。お腹減ったろ? 早めの夕飯といきましょう」
 部屋とは到底似つかわしくない漆塗りの木茶椀を受け取って、私は目を白黒させながら鍋と魔女を往復した。とりあえず、
「い、いただきます」
「いただきます」
 と云って鍋の具材に手を付ける。まあ、空腹が酷いので食べている場合なんだけど、釈然としない。行儀は悪くなるけれど、なるべく会話になるよう言葉を掛ける事にする。
「て、夕飯?」
 改めて窓の外に振り返ると、空は暗くなり始めていた。スマートフォンは手元に無く、今解るのは部屋内にある変わった柱時計、その色分けされた大小二種類の文字盤を指す小さい針が、巳の字を示している謎だ。最上辺から子丑寅……と十三個の文字が並ぶ事から、数字を干支に変換して、残りひとつに猫を当て嵌めた旧機械式時計の表現なのだろう。夕方四時二十分あたりか。
「そ。夕御飯。折れたままの珍しい筍を二本拾ってね。ついでに近くに落ちてたあんたも持ち帰った訳。もう半日は眠りっぱなしだったかな。ところで、魔法の森が随分と明るくなってたけど、原因知らない? 火の巨人かなにか?」
 遠慮無く私は、茶椀に温かい汁と野菜を盛っていく。牡丹肉に箸を付けたいのは山々だが、食欲は胃腸の心配をして繊維質を優先した。次に鍋に放り込まれるのは私かもしれない。とりあえずキノコには嫌な思い出があるので避けておく。半日。魔法世界に住まう彼女の一日は国際単位系とはズレがあるようだが、毒か、栄養失調か、とにかく長い時間、気を失っていたらしい。そういえば人生初の貴重な気絶体験だ。森の魔女はバランスよく椀に具をよそっている。その視線が私の言葉を待っていた。
「えーと、私には判らないわ。……助けてくれてありがとう」
 生体陽子粒子加速法。全長300メートルを超す陽子加速装置の神秘なる略式を、妹紅はあの痩躯に秘めていた? 奥歯の裏にスイッチのある改造人間じゃあるまいし、多分見当違いだ。私が今生きている偶然はオーバーテクノロジーの結果ではないので、魔女にとりあえず礼を言っておく。白菜のような瑞々しい菜っ葉を口に放り込んで咀嚼すると、味噌の出汁と野菜の甘味が長旅で溜まった疲労を氷解させていった。
「どおいたしまして。そーいえば、巨人の通った焼け跡に倒れていた気がするんだけど、本当に何も知らない?」
「人間の里を探していたら偶然見つけた道だから何とも……」
 無限の回転により電磁加速を行うのなら、黄金比と正方形のフラクタルを利用するのは……現実的ではないか。誰がやったかは検討が付いているが、魔女の安全性が不明なので黙っておく。小傘曰く、すごく強い。
「人間ねぇ。あー? あんた盗人か?」
 難癖にも程がある。藪から棒に急浮上した疑惑に動揺して、私は嚥下しかけた食物に咽せ込んでしまう。心当たりがあるといえばある。妖精から受け取った意趣本はともかく、筍は竹林の持ち主からすれば立派な窃盗だ。天つ罪には触れないが、御成敗式目ではきっと許されないだろう。そもそも、生まれつき白人を侵している私は国つ罪の穢れの中にある。争いは避けたい。
「あ、ごめんなさい。タケノコは、ほんの出来心で、」
「いやいや、そうでない」
 出来心で家畜の皮を剥ぐなんて、普通はしない。義務教育では純文学のモラル読み上げは必須で、私の言い訳は力を失っている。思えば文豪の私小説は結構な背徳をやらかしていたような気もするが、それは議題のすり替えだ。夢の中の箪笥や壺の中の薬草は、ご自由にお持ちくださいコーナーと同一視するべきと云う偉大な先人達の通念は、どうやらマイノリティだったらしい。肉をかっ食らった魔女は猫舌らしく、梟のように首を傾けて口内の具を踊らせて、やがて熱に慣れると平然と涼しい顔になり先程言い掛けた台詞を続けた。
「人間なら魔法の森を横断したりしないさ。この森に好んで入る生き物は三種類。神仙術に長けた魔法使いか、無駄に頑強な妖怪か。けれど毒に当てられたあなたは馬鹿で哀れな供物。このマジックアイテム、何処から盗んできたの?」
 ベッドの枕元にある飾り棚の上に食器を置いて、彼女は懐からスマートフォンを取り出した。私のものだ。高度に進みすぎた科学は魔法と判別が付かない。この場合、どちらを呼ぶのだろう。
「うーん。強いて云えば借り物かな? 電波的に」
「蒐集家か?」
 ICカードには私の個人情報が詰め込まれているし、メールも着信の履歴も残ったままだ。確かにそれは私に集まったもので、中には面白い文面だったために抹消を逃れたオオアリクイ被害者の未亡人の嘆願も含まれていたりする。まず、誤解を説かなければならない。魔女のひけらかしている携帯電話、ディスプレイが点灯してロック解除画面になっているそれを、
「貸してみて、」
 茶椀と反対の手でひったくると、器用に親指でタッチパネルを操作して目的のページに辿り着く。『Reincarnation』幺樂団のFM音源だ。秘封倶楽部が好む新しくも懐かしいYM26○8の音画色。
「曲がりなりにも所有者はまだ私よ」
「おお、」
 電池残量の表示がもうドット単位になっている。万にひとつの通話の可能性にかけて節電しておきたいけれど、奏でられる音に驚きと羨望の目を隠せない魔女の様子を見て、もうほんの少しだけ自慢しておこうと思った。フィクションの通り、妖怪や魔女は機械に疎いようだ。ときに名前すら尋ねていない。
「わかった! 泥棒じゃなくて私に弟子入りしにきた娘さね。で、そのマジックアイテムは河童謹製の私への差し入れで、」
「違うわ」
 何か勘違いをされているらしい。河童? それに贈り物にするつもりもない。露骨に嫌そうな顔をして魔女に向き直ると、
「嘘よ」
 と、戯けて微笑んだ彼女は再び茶椀を持ち直して、
「きっと異邦人でしょう? ふっくらヴァロワ朝パジャマみたいな服も着てたし。魔法遣い特有の瘴気も磁場も持ってない。ただ、変形可能な水の器に、その自動演奏装置、いつの間に外の世界は技術革新を遂げたのかしら。もしくは月の民か河童の技術? ああ、あと、名前訊いてなかったな」
 答えやら質問やら憶測やらをぐちゃぐちゃにして一気に口走った。物理を核としない力学を信仰する魔女はさすが発想力が豊かだ。私のワンピースが中世フランス、枢機卿と王位継承の時代を物語っているとはとても考えにくい。それに河童、月の民、魔法遣い。どこから切り崩せばいいのか。私から名乗り出れば悪魔じみた技術で呪いを掛けられるかもしれない。まずは、
「一遍に訊かれても困るわ。まず私に質問させて」
 食事を進められる事、次に状況を把握する事が必要だ。スマートフォンの電源を切って返さずこっそり枕元に置いて、鍋の牡丹肉に箸を付けた。
「どーぞ」
 当たり前のように寝台を占拠しているが、ここは彼女の領域だ。しめじ束を摘んだ魔女は余裕ぶって私に譲り、すでに答える姿勢すら見せている。疑問は沢山ある。人間の里、魔法の原理、そして現世への帰還方法、饒舌な魔法遣いにはどこまで神の叡知が及んでいるのだろう。
「私の服、どうしたの?」
 身の回り。とりあえず羞恥心から予防を試みる。
「あー? 衣服を着てると食べにくいでしょう?」
「えっ」
 宣告は一瞬だが、告白も刹那だ。
「嘘よ嘘。汚れた服のまま布団を被せる訳にはいかないでしょ?洗濯して部屋干しの最中さ。下着もすごくおしっこ臭かったし……」
「ああもうそれはいいわ。河童と月の民って何なの?」
 全く掴み所がない。魔女の真意はどの部分に秘められているのだろう。嘘と真、そのどちらとも実現できる万能性が伝承の魔法遣いにはある。其処か妖怪超文明なんて憶測も生まれてしまった。生物学的な両腕関節の連動や亀のような甲羅、水掻きといった河童の特徴とは一線を画する、まあ、珪素生物論と同じく知性があれば文明が発達するのも無理はない。月の民なんて昆虫だったり頭足類だったり兎だったりと不定形だ。テケリ・リという冒涜的な鳴き声かもしれない。知能はある。
「性質は違うけど、両方とも高度な技術を持ってるよ。あの時計も河童のオーダーメイドさ」
 ちょこっと前に目を通した柱時計を魔女は箸で指す。熱々の豆腐を口に含みながら私はデザインの観察をしてみる。大小2つの文字盤は大型の方が時間らしい十三の干支、小型の方には中心に陰陽魚が据えられてどうやら六十四卦が描かれているようだ。盤に独立して針は2個ずつ。更に囲むように扇型の黒いプレートと、円状の白いプレートが拵えられている。上部には黄金に輝く金属で造られた月のモチーフが埋め込まれていた。秒針やアラームがあるようには見えず、機械式時計にしては用途が限定的過ぎる。易記号はどう使用するのだろう?
「文字盤は星辰と暦、白黒のプレートは太陽と月の出没、針は刻、モチーフは月齢がひと目で分かる素敵な絡繰だ。それはそうと、あなたのあの道具は結局何製なの?」
 万年自鳴鐘には及ばないが近しい技術を河童は持っているらしい。人類史上ロストテクノロジーとして伝えられる機械細工を個人でなく種族的に受け継いでいるようだ。しかし、過去を振り返って気づくが、人間の電子工学の精巧さは若干の恐怖すら感じる。たった百年。フランスとイタリアの国境がはっきり炙り出される程度の短い時間だ。電脳の進化は雨後の筍のようだ。文明様式が違う魔女に基盤や筐体、クレジットの話を出してもきっと理解されないだろう。ロボットも案外新しい言葉だし。私は言い換えを駆使して説明する事にした。
「熟練の業よ。私の故郷では機械に電気を使うの」
「ほほう。これは面白い発想だ。今度河童に教えておこう」
 電動機関の可能性を与えても、恐らくはあまり発展しないだろう。人が技術革新を成し得たのは商業性にテクノロジーのグローバル化、それに、脆弱な生物であったからだ。熟練とは言い得て妙で、業も気質も屈強な機械頭脳に取って代わられて、技術者といえば開発者と管理者ばかりになってしまった。生業はもう文化財扱い。必要性により冷酷に怠けていく最適化社会を、遊び好きな妖怪が真似できるとは到底思えない。文明開化は随分先だ。
「……助けて貰って悪いんだけど、あなたの目的は何?」
 そろそろ本題に入ろう。レコンキスタの魔女像は、悪魔や精霊との契約という異端審問の概念が不可欠で、もし彼女が歴史に騙られるような魔の者ならば、その名前を訊くのは禁忌だ。ペイガニズムや形骸上の白魔女、つまり祈祷師や薬師だと思いたい。願わくば中世の宗教腐敗を。人の愚かさを。そして彼女が信仰に因って顕現する神々の一柱でない事を。
「私の目的ね。謂うなれば手段さ」
「手段?」
 魔女が真を口にするかと問われれば、『人それぞれだ』と答える他無い。不安は対人間でも同じく、真実の保証は何処にもない。それは目を背けたくなる程に徹底して歴史書に画かれている。力こそパワー。腕力、権力、財力、不可抗力、エネルギー保存の法則は、人類全てをひとまとめにしたマクロを標本として働く。初めにナプキンを取ったものが世界の基本だ。幸福なるものが生まれれば誰かがヘタを掴む。宇宙全体にヒビのように広がった事象の隙間が数字としての秩序を齎す。募金が30%天引きされて貧困地に届くのは、ルールと自由意志の兼ね合いだ。君は信じてようとして死んでもいいし、しなくて死んでもいい。結局、今の私は運任せだ。
 魔女は謂う。
「気まぐれさ。あなたに案外、期待してるのよ」
「食肉として?」
 冗談じみて返してみる。逆さ吊りにして内臓を……
「あー? 居座って肥え太るような事があれば食べてやるから安心なさい」
 鍋から新しく具を掬った彼女は優しく微笑んだ。私は猪肉風動物性タンパク質に手を付ける。森の生活が長いのか、調理が難しいと云われる獣の筋繊維は臭みもなく仕立てられ、弾力があってなおかつ柔らかく美味しい。もう一度問う。
「で、結局、どういうことなの?」
「長くなるから解説はしないよ」
「じゃあ一言で」
「お遊び」
 食事しながらの会話にルールもマナーも存在しない。彼岸花の道に生まれ落ちてから、推定7種類のコミュニケーションを体験したけれど、危険そうだったのは黒い球体だけだ。妹紅はサトリを危険視していたし、小傘は魔女を敵視していた。言葉があるからこそ害意は薄まって、言葉があるからこそ禍根は深まる。熊のような野生と違って随分と将来的な邂逅だ。しかしそのおかげで鍋の具材にならずに済んだ。植物に声は無く、狩られる動物は檻の中。もしかしたら、人間と妖怪、神々の力が均衡している世界なのかもしれない。
「人間。それなら、あなたの目的は?」
 反転した談話の流れは私に打ち付けられる。私の目的は、
 私の目的は……
「人間て、私にはちゃんと名前があるわ」
 言葉の違和感に思わず質問を回避してしまう。私自身、まだ夢心地から抜け出せてないのかもしれない。意志は目標を掲げたが、より深い遺伝子レベルの欲求が、あまりに走性的過ぎる理想の自然環境を手放すには惜しいと、細胞達を引き連れて迷いを叫んでいる。けれども墓穴。これでは必然的に、
「どんな名前?」
 こうなってしまう。駆け出そうにも鍋敷きが邪魔だ。私は未だに魔法未体験者だが、むしろだからこそ、杞憂が浮かび上がる。翌々自覚してみるとしかし、世に有名な悪魔の勢力地から遠く離れた宗教下で育てられた私は、聖人の名前を与えられている訳ではなかった。大丈夫かもしれない。
「名刺交換。あなたが名乗ったら教えてあげるわ」
 それでも警戒は怠らない。そもそも悪魔と名前の関係はフィクションに現れるものでなかったか? 混乱している。丑の刻参りには髪の毛や相手の名札を藁人形と同梱するというサプライズがあるが、実行者はウィッチでなく鬼女だ。
「あー? もしかして洗礼名を奪われるのを畏れてる? 大丈夫よ。たったの個人にしか通用しない原始的魔法に頼るほど、私は下等ではないわ。むしろ魔女があなたに名前を開示しなくてはならない事態に危機感を覚えてほしいわ」
 一応、名前への呪いを扱えるらしい。それと、ハイファンタジーではウィッチと謂えども命名の束縛を受けるようだ。けれど容赦はしない。否定が彼女の口から出るまで、問いてみよう。我ながら無鉄砲だ。
「それで、名前は?」
 笑顔も作ってみる。客として鍋をご馳走して貰いながら、何たる傲慢だろう。まあ、人間は大体こんなもの。隠されたものを暴きたくなるのは類人猿の習性だ。智慧の実は脳の高次機能、『信頼に対する疑心』を開花させた。それは悪く云えばあらゆる不信、良く云えば万物への期待だ。魔女は顔をしかめて、野菜を口に運ぶ箸の動きを止めた。ヤレヤレと嘆息が聴こえてきそうなくらいに明瞭に呆れた表情を作って、私と目を合わせる。そして、
「私は魔女。魔法の森の普通の魔女。久遠の夢に運命を任せる精神。ヒルデガルトでもハインリヒでもないわ」
「答えになってないじゃない」
 推測すれば、神秘家や数秘術師の名前が出るあたり、近しい者であるのは確かだ。神智学やA∴A∴を出さないところから、魔術の起源は近代史より外れる。魔女の述べる名称は、どう解釈しても二つ名だった。小傘は妖怪分類学の未分化を語ったが、今度は発見者すら居ない野生の魔女だ。私のツッコミには、
「いいや答えさ。私は誰にとっても魔女に過ぎず、誰にでも私を魔女と呼べる自由がある」
 またしても悟性を強制される意味不明さで返される。
「嘘よね?」問い直すと、
「さあね」魔女はとぼける。
 途切れた会話は沈黙をのさばらせてしまい、反応に困った私は鍋からとりあえず具をオカワリしておく事にした。静かだ。小雨は止む気配を見せず、蓄音機のノイズのように時代錯誤の魔女の棲家を包み込んでいた。今日はあと6時間で終わるのか? スマートフォンを駆使してまで正確な時刻を知りたいとは思えない。季節の色彩豊かな永遠の中では、予定は意味を失う。大学欠席3日目。大学最寄りの喫茶店の甘すぎるカフェオレが懐かしい。日に日に失われていく細胞のテロメラーゼを意識する。光の矢のような子供時代と同じく、目を離せば瞬く間に永久感覚は寿命を浪費させてしまう。そう一歩。私は意識を踏み出す。留まって老いてしまわない内に生き急いで、私の目的、夢心地の流れの殻の中に、願望の柱をひとつ立てる。それは、
「さ、交換よ。あなたの名前」
 魔女は嘘吐きだが親切で、この場合、文学的にはどう象徴されるのだろう? 人生が所謂ワールドワイドな物語なら、どう切り返すべきか。運命論は信じないが、こじつけは蜘蛛の糸となって、死の間際を演出するための必然として垂れ下がる。全世界純文學化。毒を食らわば皿まで。いいや、私のお腹の中では猪肉が綺麗に溶けて、味蕾には素晴らしい味噌の風味が結合している。(ただ人々と、住む風景、取り巻く文化。意味は単に言葉で、暗示は希望と現象)そういうものがあるのだと、あるものがかくあるように、あるものがそうあれるように、魔女がそこにあり、比喩も誇張も無く、私でないあなたがある。
「私はマエリベリー・ハーン。研究生よ」
 言った。
「マエリ……? マリーでいい?」
 そして何も起こらない。
「違うわ。メリーって呼んで」
 平和な会話。何となく魔女に理解が及んできた。なるほど言語では説明が難しい。受け止めるそのまま。気まぐれで魔女は私を拾い、お遊びで話し合っている。真意を知るよりも真正面から物事を信じるほうが難しい。科学と魔法が混同するのなら尚更。
「ん。じゃあ、宙に浮いたマリーの名前は私が貰うわ」
「なによそれ」
「そういうものなのさ」
 魔女マリーは何故かしたり顔になる。私は何も失わなかったが、彼女は何かを得たらしい。情報のエネルギー保存則は眉唾だ。熱々の豆腐を箸で崩して口に運んだ。蘇った頬の火照りは野宿の終わりを告げていた。もし可能なら、あとでお風呂を借りよう。
「で、メリーは何がしたいの?」
 忘れていた疑問を蒸し返される。本当に長い間忘れていた。眠りの中で蓮子の手を取るまで、楽観的に考えていた。そう、私は、
「私は元の世界に帰りたいの」
 帰りたい。現実を選んだのだ。
「元の?」
「信じられないでしょうけれど、」
「ああ知ってるよ。魔界や冥界もあるしね。で、何界?」
 魔女も魔界も冥界もある幻想の中で、鍋をつつく。霧雨の降る魔法の森にぽつんとある魔女の家で互いを語らっている。おかしな話だ。電車内で蓮子と夢の物理学について話す事が出来なくなった途端に訪れる夢のような日常。けれど、
「現実世界」
 高度経済成長を遂げた機械の島国に思いを馳せる。救世主の如き大義も野心家のような哲学でも無く、何気ない輪のために。ひとりのために。
「ああ、そういう……そうだな、いいものをあげよう」
 夢を巡る幻体を知っているのか、マリーは納得した素振りを見せて、さっさと茶椀と鍋を置いて部屋を出ていってしまった。鍋敷きのお陰で太腿、足が痺れてきた。結構ボリュームがある。満腹にはまだ程遠いが、二人でも平らげられるか少し不安だ。味噌の染み込んだ山菜を咀嚼する。まもなく魔女が得物を手にして戻ってきた。
「ほいよ」
「ほいよって……」
 ベッドの脇にドカッと降ろされたのは、一升瓶だった。ラベルは無いが、中身はどう見てもお酒にしか見えない。
「ほんの前まで病人だったひとにお酒?」
「だからこそよ。あとこれ」
 彼女はちょいちょいと指先を翻して、私に手を出すように促した。現実世界との扉を開く鍵についに出会えるか、と期待して掌を差し出したが、落ちてきたものはほんの施しだった。いつの時代か判らないような古銭、どうみても価値の薄い私鋳銭が六枚。別の意味で現実に引き戻される。お駄賃?
「え、どうすればいいの?」
「三途の川で渡す用」
 つまり六文銭か。現代日本では貨幣損傷等取締法で冥銭を棺のまま燃やすのも困難だ。500年前は贋金でも金属さえ使われていれば一応の銭価となったが、二酸化炭素の推定排出量が貿易品として扱われる時代、両替の両替の両替なんて許されない。20世紀を跨いだ私が近代化して法整備もされた地獄に堕ちるのは明白で、そもそも粗悪な貨幣が通用するのだろうか。いや、極楽往生もあり得る? 違う違う、そうでなくて、
「……えっと、私はどうすれば帰れるの?」
「んー? 酒でも呑んで考えようってね。そのコインは予防線」
 コイン六個あればコンティニューは一杯出来そうだが、つまり、こういう事か。『いっぱい呑むから死なないでね』
「あなたにも解らないのね」
「神は云った《祈りあれ》。祈れ、いいから祈れ」
「なによそれ」
「ファウストゥスのようにこの世に生まれた11番目の作品」
 厳格なる商売人の座長に、求道の前途にある詩人、あくまで世の端役を買って出る道化役。11(eleventh hour)と祝福の子(faustus)、まるで最後の晩餐だ。銀貨三十枚も発酵パンもなく熱心党もイスカリオテの12人目も関係なく、そして何故だか時間は13区切りだ。ふとまた思案に耽ろうとする私を、突如として鮮烈な感覚が貫いた。まずい。美味しい物を沢山食べて気が抜けたからか。これは、
「あの……悪いんだけど、鍋をどこかどけてくれない?」
 瓶の口に嵌められた取っ手付きコルクを抜こうとしている魔女マリーを私は急かした。数時間も眠っていれば生理的にくるものが来る。幸いなのはナプキンが要る時期じゃなかった事か。血が通わないレベルには達してないけど、足の痺れは正座と同じくらいの早さで神経を覆っていく。いざという時に転んでしまったら大変だ。
「これから酒宴なのにどこいくつもり?」
「おトイレ」
「ああ。階段の下よ」
 鍋を取り除かれて、私は下着姿のまま布団をはだけた。床に敷かれたペルシア絨毯に素足を載せると、残留した痺れが過剰に反応してビリビリと骨を揺らした。一息待って、立ち上がる。ベッドに横たわっていた時には気付かなかったが、まるでウイルス性熱に冒された時のように三半規管が弱まっている。ゆっくりと、ふらつきながら古書の群れを泳いでいく。千鳥足で進む私を心配してか、後ろからマリーが注意を促してきた。
「汚さないでねー」
「紙があればね」
「そうでなくて、固形か液……」
「いいから!」
 これまで野外で動物のようにしていた私が否定するのも、いいや、もう考えないとこう。驚いたのは、意識と肉体のギャップ、疲労度の大きさだった。思ったよりも初め2日間は極限状態に近く、苦痛の半分以上が麻痺していたのかと錯覚する程だ。肺より取り込まれた毒素が今になって芽を付けたのかもしれない。魔女の茶化しを真に受けてしまった私の精神は、頬を真っ赤に染めた。多分、扉で隔てられてはいるけれど、変に恥ずかしい。急な傾斜のついた階段を壁に手をついて慎重に降りていくと、魔女の家にしては整然と掃除された綺麗な廊下に行き着いた。見通す先は玄関に繋がっているようで、古風なドアが奥に見える。リビングや客室なのか通路左右には枝上に扉が拵えられていた。肝心のお手洗いは階段の真下の空間に置かれていた。真鍮の土台に鉄輪が付けられたいかにも中世らしいドアノブを引いて、中に入る。待っていたのは洋式便器だった。ただし、若干形が変だ。水貯めのタンクがあるのは分かるけれど、便器の蓋が着脱可能で、そして壺に限りなく近い形状をしている。便槽には水が張ってあるが、まさかの水洗レバーの位置が見当たらない。あと、何故かドアの鍵は閂式だった。試しに下着は脱がずに腰掛けるだけはしてみる。慣れない、微妙な感覚だ。一応、腰の高さにある台には紙が重ねられていて、更にある丸い花瓶からは生けられたコスモスが香っている。これ、流したものは何処に消えるのだろう?
 予習の足りない私は一度二階に戻って魔女にトイレ指南をして貰うことにした。訊くところに因ると、毎日朝、タンクの水を手動で汲みにいかなければならない面倒臭い水洗らしい。水道は敷かれていないようで、万年発酵している底無し沼に排水路を繋げているという。先程は見落としていたがセミサイフォン式(魔女はこの単語を知らず原理的に私が解釈した)のレバーがタンク下部に取り付けられていた。説明を受けた後でも落ち着かず、私が安心して用を足せる心構えになったのは便器に座り5分は迷った頃合いだった。部屋に戻った時、マリーにからかわれたのは言うまでもない。このお手洗いも河童のオーダメイド?
「異世界のゲートみたいなのを召喚できる賢者とか居ない?」
「残念ながら魔女の私が知る限り、現実世界への扉は心の奥地にあるとしか云いようが無い。あ、けど、………………」
「けど、何なの?」
「んー? 里にひとり賢い人間が居たのを思い出してね。あと、異変解決用の神社の巫女」
「巫女? 異変?」
「それはともかく今日はもう遅い。私の家に泊まってゆくがいい」
「ねえ待って。可能性があるなら今すぐ里に行きたいのだけど」
「何、食べたりはせんよ。味見はするだろうけど」
「そういう意味で言ったんじゃなくて……」
「ならば飲み比べだ。酔い潰れなかった方の言い分を聞く」
「……それ、よく考えると私には旨みが全くないじゃない」
「やるの? やらないの?」
「やるわよ」
 まもなく開かれた酒宴でそんなやり取りをした。魔法の森を渡れない私には魔女の力が不可欠だが、彼女が酔い潰れてしまったら里どころではない。妹紅が道を切り開いてくれたおかげで私は目標を見失わずにいられるが、行軍半ばに倒れるのが人間の脆弱さだ。病み上がりに多量のアルコールが摂取できるとは思えない。椀に注がれた酒を一口嗜むと、環境が自然的であるためか麹菌は独特な風味を醸し出していて、云うなれば田舎臭い、清酒ではあるが鼻に昇るほどの芳醇な日本酒のそれが熱さと共に嚥下された。疲れが吹き飛ぶようだ。多分、そういう錯覚。けれど浮遊感は心の栄養にはなる。酔いの回りが早い。自食作用寸前だった細胞は過敏になっていて、あっという間に意識は遠いところへ。時間を忘れて魔女と話し合ったが、何を談笑していたかもあまり理解出来ずに、やがて力尽きた私は夜九時の子供のようにふわふわと眠りに落ちたのだった。嘘吐きのマリーは、私を料理してしまうのだろうか。案外楽しんでいる。身を委ねるしかない。しとしと雨が降っている。

 黒も白もない透明なまどろみに、音楽が加わる。
 眼を開いた私は変わらない夢の中にあった。埃蒸した天井板。なお強くなった雨は清廉な閉鎖空間の音を演出している。怪奇な圖書類が壁際にずらりと並び、一際異質な河童時計が過ぎる夜を刻んでいる。窓の外は山奥の電車路線から眺めたよう闇に溶けきって、私は不自然な部屋の明るさに気が付いた。球電か精霊か、ペルシャ絨毯の中央、その真上にある金属製の四角い箱の骨組みを回るように、光の粒が3つほどくるくると漂っている。
 酩酊状態から抜け出していた私はゆっくりと身体を起こした。ベッドから脱して絨毯を素足で踏みつける。立ち上がるともう、気怠さと眩暈は消えていた。音楽が聴こえる。シンセサイザーか、普通の楽器には出せない高い、グラスや鈴を弾いたような冷たさのある音色だ。オルガンのように長い尾を引いた余韻は次々と生まれて魔女の家を彩っていく。歩き始めた私は階段に向かう。下着のままのためか少し肌寒い。
 一階の廊下は陰影が強く、見回すと頭上にある霊的ライトに一匹しか光が点いていないせいであった。まず階段下の個室に入る。アルコールを摂取したためかすぐに膀胱が一杯になっていた。下着を膝まで脱いで便器に跨って、緊張を開け放つ。なおも音楽は続いている。不思議と身震いが来た。放熱としての排尿、という感じでなく、冷たい風に晒された時の神経が凍るような震えだ。私の身体を何かが通り過ぎて奪っていったのか、どうしてか途端に気分が落ち込んだ。変だ。波が収まって備え付けの紙に手を伸ばす。さっと後始末を終えてトイレを出ると、安全な布団の中には戻らずに、私は廊下にある扉、玄関口までの枝流を探検する事にした。何か、雰囲気がおかしい。
 初めのドアの先はリビングだった。長机に箪笥、食器棚。質素な木造は、ビザンティン建築のように豪華でなく煉瓦造りでもないが、家具は彫り装飾がなされて、また敷物の織りも現代的な裕福さを思わせる。食卓に必要な物品はおおよそ揃っているけれど、何故か肝心の台所施設が見当たらない。一抹の不安を覚えて、また別の扉、リビングとは真逆のドアを開け放つ。あったのは長方形の狭い空間だった。扉が二個。横にあるのは引き戸のようで長い辺を、正面には装飾の施された異様な飾り戸が鎮座していた。盾とツルハシの紋章を掲げた扉は、端隅を唐草と菊の模様に覆われて、丁度胸のあたりの高さ、中央にはルーン文字の描かれた大きなペンタグラムが彫られている。星の中心にはクロウリーの六芒星を象った取っ手が付けられていた。音はその内奥に響いているようだ。恐る恐る手を掛ける。
 押された扉は抵抗なく、向こう側へと開いていった。熱気。冬を克服した火の気配がする。部屋は真っ暗だった。どれくらいの広さを持っているのか、澱んだ暗闇は無限大に空間を欺いている。明かりが丸く、見据える先で揺れていた。大釜だ。八卦をイメージしたのか、灰燼に煤けた釜の周りを八方囲むように背板のない棚が配置されている。逆光によって浮かび上がる黒い影は無数、遠目で確認する限り載せられている物品は半分以上が瓶詰で、得体のしれないドロドロとした何かが詰められていた。実験室?
 プラトンの輪に晒された古い釜は煮え滾っておらず薪も火もなく、魔法の匂いに誘われるように源氏蛍に似た淡い光球が集まっていた。件の発光物体に比べてかなり小さい。熱を放っている火種は視線左、壁際にある灰の滲んだ暖炉(石窯?)だった。なおも音楽は続く。と、背中に粘液質の冷気が当たる。少し前に感じたあの寒気だ。私は慌てて振り向くが、四角い通路には何の姿もない。音波が温度を持ったように、ぬるり、と私の身体を透過していく。途端、再び背後からの違和感。今度は嫌な、怯臆までセットになっている。視線。墓の真下から仰ぎ見るような妬心の、
「きゃ!」
 トン、と肩を叩かれた感触がして驚きのあまり私は声を上げた。肌が粟立ち一回転して再び部屋の鈍闇を見渡す。何も無い。音楽がピタリ、と止まった。先程は気付かなかったが、手前側の部屋の隅に、もうひとつ、漂う畜光が群がっているものがあった。水が流れているのか、横向きに細長い液体の滴る光の反射と、人物、私との間に誰か、人影が立ち塞がっている。宵の暗黒に、猛禽類のような緑色の瞳だけが輝いてこちらを凝視していた。それは、
「……」
 無言で近付いてきて、廊下を照らす光の残光の領域まで踏み込んでくる。緑色の髪にローブ……魔女のマリーだ。沈黙は私の脳を怯えさせた。夜なべして包丁を研ぐ鬼の血族や、人の血を啜る魔の獣、それら伝奇を彷彿とさせる。衝突する寒気と暖風の間に、無数の緊張の糸が張り巡らされた。言葉が出ない。しかし、台詞を出したものが場を支配できる有耶無耶な雰囲気でもあった。おもむろに手を上げた魔女は私を指差した。その指先には何らかの液体が塗ってあり、光球が舞う度に幾重もの光の面を魅せている。パシ、と私の首筋で何かが爆ぜた。
「居るんだよな。こういうのが」
 呆れた表情を形作った魔女は、私より先に言葉を口にした。彼女の意味する先は何なのか。織り物をする鶴の正体を暴くと、それは実に羅刹鳥で私は目玉を抉られる――嫌な想像が頭を過ぎったが、背筋にしがみ付いていた不安は何故か消えて行く。諦めか。意識と正反対の動きをする神経は、詰まった私の喉をタイミング良く晴れさせた。冷や汗を吹き出す場面だが恐怖が泡立つ事は一切無く、異常に冷静になった五体機能はいつも通りの言葉をシナプス内にプログラミングしていく。状況的にはありがたい作用だが、気味が悪い。迷いが一瞬躊躇させて、私はようやく声にする。
「えーと、お邪魔してます」
 しかし返ってきたのは杞憂を吹き飛ばす答えだった。
「まあ、起きてきちゃうよな。ごめんね。大丈夫?」
「えぇ?」
 素っ頓狂に私は嘆いた。魔女は何らかの過失を冒してしまったのか? もしくはもう私の味見を始めてしまうのか。心境も様子も掴めず、成されるがまま時間を経過させる。魔術フェロモンなるものが存在するのか、マリーの周辺にあの光の粒が寄ってくる。その顔は、明るい。
「あんまり気にしないでね」
 正直な感想を吐露すると、全然平気じゃない。まず説明が欲しい。データを食べる私の狂奔精神は混乱で飢餓状態に陥っている。気にするも何も、これでは気になって眠れない。そもそも不規則な睡眠を続けたせいでの悪い起床が今さっきの冒険で、深夜帯にも関わらずあるべき睡魔は祓われてしまっていた。そう、訊こう。
「てっと、どこに何があって何をどうしたらどうなったの?」
「あー?」
 とぼける魔女のパーソナルスペースに私は入り込んで圧迫した。魔法遣いのステータスには使い魔なんて便利な概念もあるが、面倒臭がりで嘘吐きな彼女に使役できるのだろうか。居たとしても、情緒感知能力に優れた手間いらずの猫のように現実的でない生物特長を持つのだろう。目で訴える『教えてせんせいさん』
「解った、解ったわよ。説明するからその眼で睨まないで」
 根負けした魔女はコホン、と咳払いをして説き始める。
「幽霊の仕業よ」
「は?」
 疑似科学のプラズマはあらゆる怪奇現象に繋がる万能素であるが、魂、私ですら観測が不可能な霊魂があると魔女は宣う。確かに意識の存在は未知で、物事を固有に定められる心所、つまり、【注意】が脳作用に含まれる時点で媒質を振動するエーテル的要素があるのは理解している。しかし、いざ目の前でポイポイと単語を出されてもどうしても疑ってしまう。唐傘お化けを真似した少女妖怪が出没する世界だ。ゴーストなんて腐るほど沸いているのだろうけれど、何か釈然としない。十年間探し続けた本が百円均一で売られていたような肩透かし。
「ほら、急に気分が変わったり、感情が操れなくなったり」
「ああ」
 確かトイレで、
「幽霊と、中有にある亡霊は気質を変化させるのよ。さっき無謀で愉快なのがあなたの背中をつついてたから、追い払ったの」
 彼らに意志はあるのだろうか? 少なくとも足は失われるがつつく手は残されるようだ。私の幽霊生態学に新しく知識が加わる。気質、とはまた曖昧だ。言葉のそのままならば冷気の発生問題も片付けられる。魔女の足元を俯瞰すると、予想に反してちゃんと足が生えていた。私が視えないのにマリーにだけ視認できるとは、やはり魂の構成物質は夢と死で色彩を分けるのだろうか。幽霊と亡霊の違いとは一体。
「この光ってるのは? ねえ、魔法の森って夜、こんな幽霊だらけになるの? あと、幽霊と亡霊って一緒じゃないの?」
「ん。だから解説したくないのよ……」
 開示されるその片端から謎が分化して無数に腕を伸ばす。私自身、興味という海に波止場を用意しないと世界観に纏まりがなくなって夜が明けてしまう。知識欲が刺激されると喜びを感じる学問の途だが、失言にハッと息を呑んだ私は、次からの質問を不本意ながらひとつに絞る事に決めて返答を待った。一応は、力関係的には私は魔女の掌の上なのだ。知的体系の欠落は二階の本を盗み見て学んでしまおう。
「妖怪を見てきたな? あれと同じく幽霊も種族。生物が死に絶えると亡霊という幽体になるけど、幽霊とはほぼ同じ性質を持つだけで別物なのよ。この光らせているものは精霊ね」
 エレメンタルや死生観では分類できないかもしれない。ツノトンボのように生物学上かなりややこしい立場――トンボ目でなくアミメカゲロウ目であり、アミメカゲロウもまたカゲロウ目とは違う――そういえば脈翅目のカマキリモドキと云う虫は、架空の花をもじった憂曇華と呼ばれる美しい形状の卵を生むらしい。情報習合された私達の現代社会も案外同じで名詞の叛乱があり、つまり学術的霊異論という奴か。妖怪は細分化されずひとまとめで、霊的揺らぎはモノによって……ああ法則性も見つからない。多分、日常的に気にする頻度の違いから差が生まれる。
 動きにすら神を宿らせる天地開闢の国産みのように、不思議を見るものは不思議に魅入られて、更なる法則の発見や取留めのない推論に埋もれてしまう。魔女の世界では精霊は光を発するようで、エネルギー問題解決と科学の進歩のために今詰めて問い直したいが、魔法分岐図は語っている内にも複雑になっていってしまうだろう。カビ型系統図には夢がない。偉大なる物理学者に従って、なるべく簡潔を心掛けよう。
「あとは、まあこっちきなさい」
 精霊光に浮かんだマリーが手をひらひらさせて闇の奥へと誘ってきた。昏い部屋の隅で流れる液体の光沢、魔女に案内されて重力のある宇宙の木板を踏み締めて辿り着いた先には、ピアノ大のガラス楽器が置いてあった。鍵盤に当たる位置には、右から順々と幅を太くする一本の硝子筒が刺さっている。実物を見るのは初めてだがこれは、
「月が出てないからね。魔力の領域を補助するためにこれで演奏していたのさ」
 多分あの高音の正体だ。自慢の品か、魔女は急に饒舌になる。
「以前、グラスハープの音色を炊くと幽霊が集まってくるのを発見してね。どうにか進化させられないかと考えて並べてみたら、まあまあの楽器になった。部屋が暗いのは霊達を誘き寄せるため、体温を奪われるから風邪を引かないように暖炉に火を…」
「これ、アルモニカ?」
 俗に云うグラスハープのパワーアップ版だ。水気があったのは指先で音を共鳴させるためか。メスメリズムの時代から霊的迷信に振り回された楽器だが、然るものが扱えばこの通りらしい。精霊に照らし出された部屋隅には台所らしいラックと調理器具が壁に並んでいた。なるほど、釜の調合を料理と考えれば中々に合理的な間取りだ。
「あるもにか? ……この楽器に名前なんてあったのね。どんな魔術師が発明したの?」
「え、と。ベンジャミン・フランクリン、政治家だったかな?」
 私の知識は図書館出で、あまり詳しくは解らない。魔女にとって重要なのは開発陣の立派さで、その職業の響きを聞くや不機嫌そうに眉を細めた。どうやら魔法の国の権力も良い印象は無いらしい。自然派の魔術師にとっては当然か。
「ベンジャミン……あー国教会の? 『理性とは人間が神に近付くための道具である』、『すなわち神の愛の片鱗であり智慧の探求の尻尾である』、理性と信仰の数も八百万」
 西欧の宗教圏だろうか、ああ魔女とはそうだった。鶏の足で立つ小屋も、宿り木の巻き付いた樫の杖も、聖人の威光の遺稿のおかげで随分と路線変更を余儀なくされた、暗黒の時代があった。しかし、現実世界とマジックワールドは別な訳で……
「マリーは、上の如く下も然り、下の如く上も然り?」
 ややこやしい幽霊分類のよう、密接な関係を匂わせながら全く異なるパラレル夢なのか。サトリの時から実際そうで、全員日本語を話すしある程度の歴史も共通している? 私は魔女にエメラルド・タブレットの原理を問いてみた。彼女が知っているのなら、もしや、
「いや石のような物体。謂うなればBAZOE!」
「バズー?」
 これで会話が成り立っている事自体怪異だ。バズー! の内約は知れないが、石との関連、アゾートに関係する単語か。知的な応酬と例えるよりは独りよがりな勝手解釈の波。なんとはなしに話を続けてみる。
「イデアの眼で見るってこと?」
 哲学の実践は知と名だ。理解を理解し、理解と癒着させて理解を広める。知ったかぶりの愚話も衒学趣味の見せびらかしも、文字数をケチった論文もパッと見は同じ。何となく凄ければ満足できる。クオリアは似像の証拠で、感じた感覚を覚えて……ひとつを据えるか重ねるか、私の眼は精霊の光を視ている。
「善悪観は魔法使いの私には解からんがね」
「有機体論のサイエンス(科学)?」
 イデアとは《正にそれ存在そのものの原形質》を定義するための関数的な空っぽの言葉で、解釈しようと試みる人間の数だけアイソニムが生じる厄介な概念だ。しかしそれを尋ねる時、返ってくるのは水に満ち満ちたお盆、相手の価値観に溢れた変数的IDEA=アイディアで、コミュニケーションの肴くらいには役立つはず。魔女は『善悪』を口にするが果たして、
「んー。私は隠居してるだけ。サイエンス(知識)も、フィロソフィア(知愛)も信仰する。私のアルケー(原理)はアペイロン(確率と無限のカオス)だ。魔女には“しるし”は無い。あなたは?」
「私は、」
 恥ずかしさで希望も愛も口に出来ない思春期だ。善も悪もない安全地帯で学者のよう客観視して、揺れ動く徳を科学/魔法実験で収める私達二人は案外似たもの同士なのかもしれない。魔女は古きプラトン哲学のイデアを想定している口振りで、その知はコズミックホラー神話体系のように、万物を取り入れて稀に嘘を吐き、手当たり次第に由来を創造してはフィクションに繋ぎ合わせて信じさせる、狂気の産物だった。にゃあ。
 にゃあ。
 答えようとした私の足元に可愛らしい声がなすり付いてきた。精霊の燈火に映らないそれは、毛の生えた畜生の前足で私の足を踏んでいる。闇にオッドアイの赤と銅色の眼だけが光っていて、尻尾のような黒いもわもわを脹脛に巻きつけてきた。この猛獣は、標準の大きさの黒猫だ。
「猫(癒し物質)だ」
 鳴き声に中断された私に呟きが漏れて、一文は『私は猫だ』となってしまう。『この文は誤りである』。探求のパラドックスの最終地点は、不明だ。私が自己を延々と啓発していけば、やがて猫になる結論をも導き出せるやも知れない。下着しか付けてない私は当然素足で、猫の毛皮がものすごく擦れてくすぐったい。しゃがみ込んで使い魔風生物の腋を掴んで持ち上げる。これが噂の手間いらずのネコ――
「うわかわいい。この子、飼ってるの?」
「あ、ああ」
 都合の良い魔女が、初めて狼狽える。メトニミー会話の応酬をいきなりぶった切って猫をモフモフし始めたら無理もない。黒猫の体温は高く、魔のものらしい翼もない。下から抱えるように座り直させて、腕に背中と尻をもたれ掛からせる。余った片手で、いやらしく腹をむにむにと揉んでみる。
「この子、名前は? ソクラテス? アルキメデス?」
「いや、チョボ六だ」
 みるみる内に猫は不機嫌そうな顔になった。犬を含めて動物は頭を撫でられるのが実は不快らしいが、例に漏れずこの黒猫も過剰なスキンシップが苦手なようだ。人間に例えると良く分かる。腋の下にある腹部には、膨らみ並んだ複乳が……
 バタバタと暴れ出した猫は私の拘束を振りほどいて、主人である魔女の後ろに隠れてしまった。人間の腕力を駆使すれば捕まえたままも可能だったが、今の薄着を爪で引っかかれると色々と困るので手を離してしまった。魔女が私に再度訊ねる。
「で、メリーは?」
 私がアイディアをどう捉えるか。それは私の物理、夢の受け取り方とも云える。論文に清書せずに単に思い付くイメージならば、
「そうね。私は、アナムネーシス(想起)かな?」
 学習は胎児の夢の繰り返し、前世、前々世を輪廻して得た進化し続ける黄金の精神――では無く、幽霊分類学的な魂の構成物質が色彩のパレットを描き出す。旧時代の哲学だが心の比重がたまに現実を上回る私には丁度いい。
「石頭ねえ」
「学生なんて皆そうよ。蓮子ならエウレーカ(浮力)と答えるでしょうけど」
 暗がりには精霊蛍の幽光。塩に硫黄に水銀と、エリクシールを具現化させる要素は宵闇に匿われて、辰砂色の釜は精を引き寄せて魔女に撹拌される時を今かと待ち望んでいる。万物融解液とは影の事ではないのか。猫の瞳が私を見ている。
「蓮子? 誰のこと?」
 名前を捧げる事についてもう抵抗はない。根拠は乏しいけれど彼女はバズー! なる魔法原理を信仰する田舎魔女だ。京都市内に居る女子大生、宇佐見蓮子をこのままどうにか出来るものなら、むしろその次元の壁を超える魔法の実在に感謝を覚えるくらいだ。彼女は、
「蓮子は、云うなれば私の目的よ。そのために帰るの」
「感動の再会?」
「いいえ、日常の再開」
 神秘の光景ももう夜の色。
「マリー、里に案内して欲しいの」
 次元連結ドアーでもいいから、荒唐無稽に私は帰りたい。この世界は私には鮮明過ぎる。私を合成している魂が魔法の地平に着床しない内に、約束の守れる内に。
「ダメよ」
 魔女は冷酷に言い放った。結局私は井の中の蛙。釣瓶を伝わなければ一生湧き水の中。掴んだ水桶は度量が広く私は潰されずに済んだが、まだ陽の昇る地上へは程遠い。マリーは続ける。
「今日は早く眠りなさい」
 きっと悪夢を観るだろう。無理に睡眠を摂れるくらいのバイオリズムは旅で磨り減ってしまった。生乾きの服を着直して魔女の家を飛び出ても、森の中で野垂れ死ぬのは確実。私は矮小だ。
「眠りすぎてもう眠れないわ」
「なら、私の演奏聴いていく? リクエスト受けるわよ?」
 魔女は魔女らしく霊的磁場を作る予定があるのだろう。しかし私は憶測で明日に期待している。人間の里の賢者に、異変解決の巫女、目蓋を閉じればハイ京都。この世界の魔法科学を学んでいけばいつかは帰れるビジョンもある。全てが曖昧でそして時間を要する。気持ちは焦るが、辛酸に歯を噛み締める気も起こらない。諦観。私はお客様だ。主導権は無い。なら、
「リクエスト、……お風呂に入りたい」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をするマリー。私の要求は生活感、情けを食らう新しい妖怪人間の想起だった。まるで野良猫のよう。
「ふー。とりあえず私の演奏を聴きなさい。あとで私もお風呂に入るから、ついでに入れてあげる。あ、混浴は無しよ」
 同性でも人と猿が入れば混浴。人と妖怪と茸を入れれば闇鍋。魔女は、魔女らしい。そういう生き物。私を拾ったのも、もしかしたら半ば好事家の興味?
「ありがとう。当然、一番風呂は、」
「私だ」
 魔法の森のキノコ胞子塗れの髪は一度清流でゆすいだがしかし、髪自体を2日も洗っていない。それに下着の下だって老廃物が染みている。確かにそんな小汚い私を先に入れるのはお風呂の意味を覆しかねず、不衛生か。魔女マリーに私の時間を譲る。
「はい。お守り持ってて」
 云われて手渡されたものは四つ葉のクローバの花輪を巻かれたケルティック・クロスだった。前の悪戯幽霊から身を守るためか。胸に抱くように握り締めて、私はお礼を述べてみる。
「ありがと」
「どういたしまして。あ、終わったら返してね」
 アルモニカの前のアンティーク調木椅子に腰掛けて、魔女は魂呼びの音楽を始める。充分に熱が篭ったはずの部屋は奇妙な清涼感に囲まれて、横目に灯る暖炉の火が激しく揺れ始めた。幽霊の存在は、無風の闇の中にある一陣の息吹のような冷気で感じ取れる。壁を透過したのか、地から湧いたのか、精霊光がどんどんと集まり青白い神秘的なステージへと変貌していく。曲は、『Reincarnation』幺樂団の、たった一度しか流していないFM音源のメロディラインをなぞっていく。足漕ぎで回転する硝子円を水の指で押さえるたび、上昇気流に舞い散るように光達は喜びの踊りを演じた。雨に禁じられて孤立した月の無い魔法の森の一区画、暁天の月明かりはここにある。

 二階の窓からは明け方の空が覗いていた。窓下にあるベッドには眠りこける魔女。私はペルシア絨毯の上に敷き布団を引き伸ばして、身体を横たえながら異国語の書かれた魔術書を読み耽っていた。一見、全く読めないものから図解とニュアンスで推理できるものまで。枕元には20冊を超える本が積み重なっていた。ヴォイニッチ手稿やエノク書、アルマデル奥義書らしい体裁の本(ただし解読不能)も見つけた。高等数学の前に突っ伏す子供のように徒労だけが積もって、休止していたはずの睡魔が、まるでグリモワール達から放たれたように襲いかかってきた。まあ、床に就く前にお風呂に入ったせいもあると思う。
 あの後、実験室中が蛍烏賊の揺蕩う海底のような様相になると、魔女は何やら御札のようなものを部屋の四隅に貼り付けてから、私を連れて通路に出た。長方形の廊下、その真横の引き戸の奥にマリーは案内して、化粧台の鏡とバスタオルの置かれた洗面所らしき――私の衣服も干してあり、荷物鞄も無造作に放置――空間を超えて、今は何も湛えられていない空の湯船を見せてきた。丁寧に切り出された檜を長方形に組み上げた湯殿は、新品同様の明るい柑子色をしており変色ひとつなく、まるで銀イオンコーティングがなされているかのようだ。浴槽の中には底面ピッタリにスノコが敷いてあり、更に下部にはステンレスのような光沢のある金属板が嵌めこまれいた。魔女曰く、自信作だそうだ。何やら魔法的な技術、エーテルをジオに変換しない処理だとか、ネロゥのリゾーマタと反発するような銀の祝福をルーン文字で刻んであるとの事。要は五右衛門風呂? ここにも水道はなく明るい内に毎日井戸水や清流を汲んで、魔法貯蔵槽に溜めた水を使っているらしい。マリーは作業が面倒だと嘆いていた。
 浴槽横、下部にある捻り蓋を取り外して底面の鉄板に黒い石のヒエログリフを差し込んだ。何かの呪文を囁いた魔女はその穴を再び蓋で閉じて、湯船に隣接した壁にあるレバーを数回引き絞った。サイフォン効果か、蛇口らしい穴から水が溢れて湯殿を満たしていく。さきの石の効能か、汲み置きされていた冷水は瞬く間に湯気を放つ熱湯に変わっていった。私が温度調整は大丈夫なのかと不安に口にすると、マリーはさも簡単そうに、ちゃんと奴隷タイプの調整は済ましている、と言い切った。プログラミングの事だろうか?
 魔女がお風呂に入っている間、私はリビングで猫とじゃれ合った。初め警戒していたがニジリニジリと近寄って捕まえて、腋から持ち上げると習性、というか骨格の問題で大人しくなった。テーブルの上に放置されている空のバスケットに柔らかい身体を収納させる。とりあえずの笑顔を向けた。未だこちらの様子を伺う猫の笊を持ち上げて、真下からその箱座りを観察してみる。当の猫はたまったものじゃないが、状況が状況だけに動けない。長机の上に戻すと、その獣は野良と同じく片足を上げていつでも逃走できる姿勢を作った。嫌われたようだ。一応、敵意はない事を示すように、目をあわせてすぐに逸らしてみたが、当の本猫はずっとこちらを睨んでいる。心を許す気は無いみたい。猫缶さえあればなぁ……
 居間から出た私は脱衣所で時間を潰すことにした。お風呂場ではマリーの鼻歌か呪文か、何か囁きが聴こえるけれど無視をして、半乾きの私の衣服をチェックする。やかんにお湯を入れてその底面で洗濯物を梳けばアイロン代わりになるというけれど、機械類は見当たらず、熱湯は浴槽の中だ。ブラジャーのワイヤーは大丈夫で、また鞄の中身も無事だった。それにしても自分の下着が他人の家で吊るし上げられている様はシュールだ。懐に忍ばせたスマートフォンを鞄の中に返しておく。ケルティック・クロスも蒐集しようかと悩んだが結局、十分後くらいに出てきた裸の魔女に返してしまった。
 脱衣所で暇を謳歌していた怪しさ百十倍の私を見て、マリーは驚きを隠せなかったようで、女同士なのに覗きを疑われてしまう。『パンツとか嗅いでないでしょうね?』とは彼女の談だが、私は2日ものの下着の匂いで彼女に一回辱められている。軽くあしらってしまえる。まず私を着替えさせるために服を剥いたのは魔女の方……。バスタオルを引っ被って局部を隠すが、肉付きのいい――下手したら私よりも大きいかもしれない胸は露出したままだ。どんな基準なんだろう。何故こんな冷静なのだろう。んー。魔女が初々しすぎるのか、私が慣れすぎたのか。ああそうか、ずっと今日一日、下着姿だったから麻痺しているのか。
 洗面所から追い出された私が入浴できたのは、魔女が黒白の民族衣裳のダーンドル――近代的表現ならエプロンドレス+コルセットのデザインに近い服を着て脱衣所から出ていった後だった。彼女は私に4つの忠告をして実験室に篭った。
 1・作業中は絶対に入室しないこと 2・猫をいじめないこと
 3・風呂の栓を外して水抜きをすること 4・早く寝ること
「はーい」と私は子供のように返事をした。勿論、年齢的に邪魔をする気は全く無い。脱衣所で下着を脱ぎ捨てると、私は湯気立つお風呂場に突入した。マリーの工夫か、水蒸気とともに甘いヒイラギの芳香が立ち込めていた。浴槽脇にある入浴用品はスポンジとハーブ入り石鹸、何かのオイルだけで、あとは濡れタオルと木桶というシンプルな構成だった。身体を濯いで、石鹸を染み込ませたスポンジで長旅の汚れ、老廃物をこそぎ落としていく。石鹸は匂いからカモミールを配合しているらしい。あと、興味本位でオイルを手に広げてみたが、薫り高さから椿油で間違いない。キノコの胞子からケア出来なかった髪をオイルで整えて、垢の溜まりそうな肉の間まで、生まれ変わるように清めていく。
 浴槽に足をつけると少し熱めで、でも耐えられない程ではなかった。肩まで浸かるとあらゆる凝りから解放されていく。爛れた清潔感が姿勢を正して、私は一息、悦楽のため息を吐いた。浴槽に凭れ掛かると、天井近くにある小さな窓が見えた。晴れならあそこから月を仰ぐ事が出来るのか。今は霧雨の落ち着いた音と、マリーの努力の形跡が振動として隣から伝わるだけ。下手な温泉旅館よりものんびりと気を抜ける。ああ、明日まで長い。
 二十分は愉しんだか、お風呂から上がった私はドライヤーがなく乾き切らない金髪を揺らして二階への階段を上がっていった。脱衣所に用意してあった幅広の白ローブを下着の上に羽織って、若干の肌寒さのある寝室に辿り着いた。私は魔女の蔵書を手にする。やがて仕事の終わったマリーが桃色の可愛らしいパジャマを着込んで現れて、ベッドの他にもうひとつ敷き布団を追加した。勉学のため、と見栄を張った私は床を選んで、そして、こうして、もう、眠る、時間だ。
 魔導書の言葉が惰眠の直前の耳に反芻する。どうしてか魔女の声で想起されてしまう。たった一日で仲良くなり過ぎた。私はそう、明日、明後日、いつか、この世界を後にしなければならない。蓮子に、会いたい。
【この聖なる十字架の神秘性を持って、我は最も崇高なるものの力を帯びた救済の路に就くだろう。我の望んだ結果が汝の力を通し齎される様に、ああ、AMEN】
 
     *

 ―四日目

「ねえ、メリー」
 ひとりきりの部屋、布団で身体をグルグルにくるまって呟いた。外の喧騒、府道を走る自動車の音が通り過ぎてはまた現れる。眠気が無い。
 こんなに長い日は初めてだ。届出を出し、大学と相談し、いつも通りの授業を受けて、精神が疲れ果てて電車で帰る。寄り道もなく、何も、なにひとつ特別でない、ケの日常だ。
 相変わらず空は晴れていた。夕方に少し小雨が降った。私の論文は止まったまま。考えがまとまらない。
 暖房器具を使って部屋を温めて、お風呂も入って、食事もちゃんと摂って、トイレの回数も大体同じ。なのに何故か寒い。風邪を引いている訳ではないし、隙間風が窓から入り込んできている貧困でもない。杞憂が落下してくる。
 ポジティブさは朝方猛威を振るった。その反動が今か。私は待つ。たったそれだけ。眠れない。
 ベッドから身を起こした私は、枕元の棚台から照明のリモコンを手に取って部屋に明かりを点けた。あれは何だったのだろう。
 青カビの夢。
 今日も同じ幻想を眠りの中で観る事が出来るだろうか。不完全菌は遺伝子の交換をほとんど行わず、子実体≒キノコを形成したり、有性生殖を行う機能も持ち合わせている場合もあるが、実際のところそれら現象を見るのは稀で、有糸分裂を胞子として風に乗せるという。その見た目を呼称する黒黴とは違い、青カビは歴とした学名――完全世代の分類により類縁が変われば正しい方に取って喰われる名前がある。抗生物質に代表されるように菌類は他の菌の生存区域を奪いながら繁殖する。菌糸はカビと呼称された時点ですでにコロニーであり、ならば、彼らは何処で一個体と成りうるのだろう?
 何らかの引力に因って私の質量は結合し人の形を保っている。物質と物質を繋ぐのは重力でなければ、何なのだろう。熱振動よりも強い絆が私の個体には存在して、20リットルを超過する大量のDHMOに、質量の1/3を占める炭素、カルシウム、塩化ナトリウム、リン、鉄、アンモニア……結合子の炭素だけを抜き出せばアミノ酸に、ポリペプチド、多糖と元素的な生体構造は極めて難雑で、かつ元となる分子は少ない。無機素材を常温常圧で生合成する生物と云うものは複雑怪奇で、DNAという言葉で五体の発生を片付けてしまうには性急すぎる。
 物体が心を持ち、かつ夢を見る。
 遙か古代人はアルコールや幻覚性物質を摂り、視える白昼夢を神々の視界と捉えたらしい。お酒の醸造に必要な麹カビも青カビと分生子構造が似ており、また幻覚作用で良く言及されるイボテン酸を持つ毒キノコは菌類の子実体である。単なる神経伝達の阻害、過剰からくる興奮作用、程度の差はあるものの向精神薬と同義で誤謬の相似に過ぎないが、スティルトンチーズの夢の事を考えると、まだ何か科学的なチャンネル開放が脳細胞内で行われているなどと妄想してしまう。いや、そう錯覚するような現実の縁の絡み合いが、正に魔法的なのか。
 夢の中の私は現実と違う町並み、しかし京都の二条通を歩いていた。開けた左手側には鎮守の森、何故か二条城の外堀と八坂神社の紅葉が重なって見えた。府道143号線には車の姿ひとつなく、通る人影もない。道路を横断して外堀に辿り着くと、松と銀杏、水楢の木に隠れるように石の鳥居が鎮座していた。境内へと続く石畳をくぐると、私の前に誰か、正体の見えない人物が立ち塞がった。金色の髪に青い眼、紫のワンピースに大きな胸。彼女は私に何かを囁いていたが、日本語ではないようで一切聞き取る事が出来ない。外人さんか。何処か悲しげ顔をしている。まるで、私を知っているのに思い出せないような、不安に駆られた表情だ。私が歩み寄ると彼女は眼を閉じて、もう一歩進むその瞬間に、姿は溶けて消えて無くなってしまった。呆然とする私に対して時の流れは無情で、一日があっという間に過ぎて明日の授業後、大学のカフェテラスで私は再びラップトップを立ち上げて論文を整理していた。不思議な事に構内放送はなく、他の生徒達は姿なく喧噪だけが影として駆け巡っている。
 私は【非統一世界魔法論】の研究をしていた。物理学教授の×崎夢×に示唆された議題だ。可能性世界旅行の実用化。安定した核融合エネルギーが得られる程に進歩した現代社会は光と空間の歪みを更なる素粒子で定義して、全長10kmの世界最大の光子観測機は今やポケットに入るくらいにコンパクトだ。堅物の科学界重鎮達は更なる構成物質の分解を試みるが、私達、京都の大学のごく一部の物理学サークルは、オカルトと科学の融合を実現化していた。秘封倶楽部、と私は呼んでいる。教授の×崎夢×と、部員の北白××ゆり、あと私と、もうひとり、生まれつきのオカルト体質である××××××・×××で成り立っている。世間一般には隠しているが、教授は自宅の庭の地下にICBMミサイルを隠している程のマッドサイエンティストだ。実際、この目で見たから間違いない。彼女の話では四次元ポジトロン爆弾なる物騒な兵器も所有しているらしい。地震が来たらヤバそうだけど、何とかなる装置と云う何とかしてくれる機構があるお陰で一年前の地震にも持ちこたえたらしい。
 しかし、論文のファイルを開いてみたが何を書いてあるか理解できない。変だ。次元転送を行える仕組みは確か、青黴フラクタルを模して配置したベニテングダケ推進器を核融合の力で作動させると、魔法力学を纏ったベンゼン環風テスラコイルが超回転して時空に沈み込む磁場が出来るはずなのだが、本当にこれで良かったんだっけ? 違う気もするし、いや私自身が違うのか。ここは私の居るべき場所じゃない。カフェテラスの無機質な白い天井を見上げる。誰かの視線を感じるが、姿は見えない。
 ここ最近出来るようになった浮遊をする。重力から解き放たれた私は周囲の机や椅子もろとも宙に浮かび上がった。意識をし続けていないと斥力はすぐに萎えてしまう。飲みかけの二杯のカフェオレやラップトップパソコンも向きを無視してくるくると回り始めて、カフェイン入りの液体の丸い雫が私の目前をふわふわと通り過ぎていった。地上宇宙のサイエンス。大学の廊下は走らずに空気中を駆けていって、ふと開いていた二階の窓から遥かな空へと飛び出した。もうすでに世界には夜の帳が落ちていた。排ガスや信仰心の無さのせいで相も変わらず瞬く星の数は少ない。そういえば、私って誰だっけ? 何かを忘れている。思い出せないものがある。
 空飛ぶ景色は一枚絵の遠景で、何時まで経っても先に進めない。意識をするのももう疲れた。ポケットの中にある携帯電話を取り出すと、電池は切れていた。誰に電話しようとしたんだ? 浮遊感を欠いていた私は重力に引かれ真っ逆さまに落ちていった。地面が見える。見覚えがある。白灰と黒灰のモザイクタイル、市役所前の歩道の石畳だ。落ちたら多分凄く痛いんだろうなあ。いや死ぬのか。心臓が早まる。途端に恐怖が芽生えた。死の重力が迫ってくる。どうして明るいんだ? 視線を逸らすと朝日、墓標のような町並みの四角い影から眩い光が漏れていた。落下スピードは容赦なく私をビルと並列させる。もうすぐ大地。
 死にたくない。無情にもあと数cm、鼻先がコンクリートに着く寸前に私は飛び方を思い出した。そして後悔する。ぶつかる――目は閉じられなかった。接触した地面は泥のように凹み融解していき、私は地中の盲闇に、地球の大質量の遥かマグマの中心に向かって更に更に墜落していった。感覚がもうない。悪夢だ。明晰夢だというメタ認知に私はようやく気が付いた。落下の風斬りだけが私を私たらしめている。何かを忘れている。
 星の真ん中に蠢く何かが居る。空間が捩れたのか私を苛んだ速度はやがてゆっくりと収まって、有耶無耶な暖かさの中に取り残される。誰かが手を伸ばしている。誰だ? 私は思い出さなければならない。考える。時間は沢山あった。意識に邪魔された網膜の奥、視床下部の奥底に潜む小さな電気刺激、物質の更に分解された粒子の先、波の揺らぎの形作る、ただひとり。そうか、
「メリー!」
 叫んだ私は彼女の手を掴んで引き上げ――
 夢を見た私は慟哭に襲われた。目覚まし時計を必要とせず、自分の大きな寝言で覚醒したようだ。ままあるこの光景。私自身の部屋。寝相が悪かったのか、枕がベッドより滑り落ちた。基本物理のある現実世界。
 彼女の無い日常の寂しさと、また夢の不可思議さが私を一日中悩ませた。メリーは今、夢の世界に旅立っている訳で、
 そして夜が訪れていた。部屋の電気を付けて無作為に回想する。ベッド脇に置いた猫のぬいぐるみを抱いて、明日を待つ。もう少し眠らずに起きていよう。本棚にある読み倒した考古学の資料が恨めしい。新しい携帯ゲーム機でも買っておけばよかったか。夜はまだこんなに長い。
 一週間後。日曜の約束まであと3日。
 月が出ていた。三日月は明るく機械文明上に掲げられる。いつかある再会を願って、私は瞳を閉じた。

      *

 魔術アンティークの部屋で河童の機械時計が回転していた。開け放たれた窓からは朝の冷たい風が吹き込んできて、白いシルクのカーテンを揺らす。晴れやかなる空は、突き抜けた蒼穹を大海のように果てなく広げていた。紫のワンピースに暖かいファーケープ、フリルブリム帽に身を包んだ私は鞄を肩に掛けて、ベッドの前で背筋を伸ばしている魔女に視線を投げかけた。マリーは外着らしい青紫のローブと三角帽子――実験用ダーンドルと用法が逆な気もする――を纏って、その手にした得物、よくある樫の杖でなく銀細工の月が先端に掲げられたスタッフで床を叩くと、滑々と指示を始める。
「お留守番お願いね」
 にゃあ。彼女の足元の黒猫が言葉を解したのか、か細い鳴き声を上げる。尻尾を振ってベッド脇の台に飛び上がると、行儀よく箱座りをして魔女に何らかの、意志の発露を伝えた。私に振り返ったマリーは笑顔を作って、
「準備はいい?」
 と決意を問いてくる。玄関口でする会話のはずだったが寝室で、夢の中の夢を探検するのかと不自然に感じるが、私は頷いた。夢と現実は相容れないのか、もしくは重複するのか。魔女は続ける。
「ついてきて」
 言い捨てたマリーはベッドを跨ぎ、窓に身を乗り出して屋根の上へと進んでいく。何が起こるか、魔女という種族的にあまり良い予想を得られないが、人間の私は状況を鵜呑みして追うしか立場はなく、魔法の森を見下ろすその二階の屋根上に出る。傾斜の緩いレンガ造りの半切妻屋根の先端に魔女は立っていた。多少の筋肉痛は残るが真っ直ぐ歩けるまでに回復した両足を踏ん張って、彼女の元へと歩いて行く。ドクダミを切ったような濃密な植物臭が森より染み出してきて、そよ風と共に私に届いた。地平線鋭角にある太陽の日射しが暖かく心地良い。空には雲ひとつない。
「さ、」
 吊り橋を渡るように慎重に進む私に、マリーは手を差し伸ばしてくる。辿り着いて手を握る。
 事の起こりは早朝。揺り起こされた私は背中に黒猫が載っているのに気が付いた。チラと見た機械時計は申酉、当てにはならないが大体午前を針で指している雰囲気がある。うつ伏せになった私の背中を仕返しとばかりに揉み歩く猫を起き上がってどけて、私はひとつ欠伸をした。雀の鳴き声が窓の外から聴こえる。枕元には読みかけの魔術書が転がっていた。ベッドには魔女が居ない。
 黒猫は畳まれた布切れ、私の敷き布団の隣に置いてあったものの上でゴロンと横たわる。見覚えのある襟とフリルが見える。私の衣服だ。小生意気な猫を持ち上げて腹を揉み遊んで仕返しして、私は毛塗れになった服を奪い返した。二、三度払い広げて、なるべく綺麗にしてから袖を通すと、微妙な温もりがある。部屋干しのはずなのにカラッと自然に乾いた服には匂いもせず、何らかの魔法の一種で清掃されたのは明らかだった。同じく傍らに放ってあった白鞄を肩に掛けると、几帳面に魔術書を全部棚に戻して私は下階に降りていく。
 用を足した後リビングに入ると机に書き置きがあり、『食器棚を見ろ』と日本語で綴られていた。騙された気持ちで長机を回り込んで入り口とは反対の食器棚を覗くと、またもやメモ書きが。よく見ると私の持ち物の1ページだ。鞄の中のメモ帳を確認すると数ページ分ゴッソリと抜き取られていた。『天井を見ろ』嫌な予感がするが見上げると『テーブルの裏を見ろ』とある。溜息を吐いた私はそれでも余興に付き合って、しゃがみ込んでページを探してみる『扉の裏を見ろ』。そして開け放っていたドアを返して裏を確認すると、『おしょくじけん』と描かれた私のメモ紙が貼ってあった。下の方に小さく、『台所へGOだ』とある。
 気乗りはしなかったが部屋数があまり多くない魔女の家で行ける場所と云ったら、残りは実験室しかない。朝の光に晒された飾り扉は重々しさを失っていて、閂が掛けられておらず簡単に開いて、私は大釜のある部屋に侵入した。アルモニカのある台所にはマリーの姿はなく、火の焚き立つ暖炉の前にローブを着た彼女が居た。大釜の方はまたもや放置で、大きめのミトンをして二枚重ねの鉄製の天板を持ってかまどの炎にくべている。精霊の姿なく部屋は、窓辺から差し込む朝日に極めて生活感溢れて映っていた。夜闇に不気味な晒し棚の瓶詰めはキノコと植物、あとは粉と鉱石で、一見博物館の鮮やかさにすら錯覚する。魔女にお馴染みの箒や杵や臼も壁際に綺麗に揃えて置いてあり、髑髏のような禍々しさは一切備蓄なく、蝋燭や空のフラスコに薬草樽と云うような器具も単に雑貨として配置されているようだった。魔女の下に歩み寄ると烏張りのように床鳴りがして、私の存在は知らされる。
「ん、おはよー」
「おはよ」
 散々弄ばれた私だが、別に家庭的な魔法遣いに呆れたわけではなかった。こんな日常なのだろう。じわりと立ち込めてきた香ばしい匂い、彼女はパンを焼いているようだ。近くには人間の里があるけれどマリーは自給自足の生活を送っていて、それはそうか、彼女は私鋳銭を恵んでくれる程、金銭感覚は地獄送り。
「眠れた?」
「うん。パンを焼いてるの?」
「ああ。お食事券と交換ね」
 他愛ない会話をする。『先にリビングで待ってて』とは彼女の弁。適当に四五言葉を交わして、私はメモの部屋に戻っていく。とりあえずマリーの書いた悪戯書きは全部鞄の中にしまっておいた。しばらくすると頭に猫を載せた魔女が焼きたてのパンと果実のジャムらしき瓶詰めを配膳台に盛ってやってくる。テーブルの上に食卓を作り出したマリーは無言で手を差し出すので、私は用意されたお食事券を手渡してやった。途端に笑顔になるのを見ると、どうやら思惑が成功して嬉しかったらしい。質素だが丁度いい量の朝食が始まる。
「ねぇ、相談なんだけど」
「ああ、連れてってあげるわ」
「……胃の中じゃないわよね?」
「人間の住む里でしょう。解ってる」
「嘘じゃないよね? 骨にしてからとか、」
「疑り深いねぇ。森の魔女の私を信じなさい」
「魔法の森に居るからよ。神社にでも住めばいいのに」
「巫女の方がよっぽど信用できんよ。私を信仰するべきさ」
「あなたは初めから魔女なんでしょ? 魔法遣いが信仰なんて」
「八百万は万物の一角。自然と魔法は表裏一体。機械とは勝手が違って便利だし無駄もないのよ?」
「あなた達魔法遣いは知らなかっただろうけれど、魔法なんてなくったってどうって事もないのよ?」
 こんな事を話していた。二次発酵が上手くいってフワフワに仕上がったパンは口に含むと柔らかく小麦の風味が新鮮で、ジャムを付けなくても充分に美味しく食べられる。1から制作すると全体で2時間弱は掛かる工程だが、本当に魔法で作ったのか使い魔に任せたのか、完成品は安定した熟練の出来で、キツネ色の焦げ跡が嗜好品に慣れた目に眩しい。魔法の森は湿土がかなり高いはずだが、食品の保存はどうしているのだろう? 少なくとも掃除は行き届いていて漬けられた果肉糖は黴臭くない。どこか別の場所で栽培されているのか、蜜柑や葡萄の風味を持ったジャムが混じっていた。
 食事が終わると簡単にテーブルを片付けて、私は呼ばれるがままに二階へと上がった。スタッフを持ったマリーが云う。『それじゃあ行きましょう。メリー』、流されるままに時を進めて、私は晴天の下、魔女の家の屋根の上に踊り出てしまった。

 月と銀のスタッフに魔女は足を揃えて座り込んだ。重力と平行に置かれた杖はすでに浮遊していて、彼女一人の質量を魔法的な何かの力学で支えている。手を触れて誘われて、しかし躊躇した私は一度足を止めた。近代魔女は棒状のものならば何でも跨がれるのか、万能の魔法理論。いやらしい。秒間9.8mずつ落下する距離を増やしていきやがて時速200kmを超える、加速度と空気抵抗が釣り合う前に私はペシャンコだろう。いいやまず、
「どういう原理?」
 尋ねたい。物理学はあまりにも無力だ。正確な観測は占星術をより精度の高いものへと引き上げるが、寓意で決まる魔法にとっては誤差範囲だ。人類史の現代100年の学問の進化は怖ろしいが、電気的現象を除いてしまうと巨大建造物すら過去の知恵の踏襲そのものだ。作業機械の膨大なる力、核融合のエネルギー、道具のなんと強力な事か。たった独りで融通の効く物理学は、5年の科学(わーい、かがくだ)で充分事足りる。きっと、マリーの説明を理解するのは難しいけれど、あとで蓮子に伝えたい。実践型オカルトは喉から手が出るほど欲しい技術だ。
「原理じゃあ魔法は使えない」
「どういうこと?」
 神仙術を極めれば妹紅のように火に焼けない身体になる、と効能だけを書き連ねるとやはりチープで、次の一文を加えなければならないだろう『効果には個人差があります』。そもそも、幽霊達が不可視だったせいで当然のように受け入れていたけれど、精霊の光学的効果も私の眼あってこそなのかもしれない。修行者達の閉鎖的な訓戒をご利益と繋げ合わせたのは大乗仏教だったか。ケルティック・クロスのようなお手軽なアミュレットから、荘厳な大釜と儀礼済みのローブ、幽かなるものを集めた霊場を用意して初めて出来る魔導実験まで、正に謂われた通り、魔法はアペイロン(無際限と永遠の探求)だ。私はマリーに身体を預けた。スカートの端が捲れないように銀のスタッフを跨いで、自転車の二人乗りを彷彿とさせるよう彼女の腰に手をやった。
「こういうこと」
 魔女はゆっくりと月の柄を傾けて上昇していった。屋根についていた私の足が離れる――
 魔女が魔女で、妖怪が妖怪である理由を、私は生身に感じた。彼女達が不思議である事。自分が赤であると感じたものでも、相手には青色の色感で現像されているやもしれぬ。色覚異常という病名なくクオリア(色内容)だけすり替えられていた場合でも、赤色の波長を持つ光を、人は単に赤と呼ぶ。例え、あらゆる色彩の順序が崩れていても、三種類の色スペクトル(赤、黄、青とは限らない)さえ持っていれば、共用の意思疎通は為されてしまう。脳科学と精神学問を分かつ壁、自と他の境界。幻想に生きるものはそれを越えないからこそ、魔を鍛錬できる。いや逆か。持って生まれた異に従属している。
 法でなく、傾向で創造された魔界なのだ。まるでプログラム中の数値の変化が属性を決定する――アドレス番号をチートするような、確率操作もといバグの挙動が魔法とでも云うのか。神のサイコロを振る。存在より前の段階から選別されるIFばかりの狭き門を探求していく気の遠くなる作業。
 煉瓦屋根よりほんの少し浮かび上がったと錯覚した瞬間、私の頬に空気の壁となった強い風が吹き抜けた。一瞬閉じた目蓋を開けると、そこはもう大空高く、鮮やかな紅葉と魔の深緑を見下ろした地平線の空隙だった。風は気候の擾乱ではなく、急上昇した魔女の乗り物に襲いかかった慣性の大気で、地上にはないオゾンの匂い、全くの無臭の薄い酸素が肺に満たされる。次々と風を切り進むマリーの背中から遠景を眺めると、進行方向の彼方に人里……らしき合掌造りの集落が見えた。刈り入れの終わった地肌の稲田と数十の茅葺き屋根の向こうには、空との境界線に重なるようにして低い山があり、その高台に赤い鳥居、神社らしき影が映えている。と、杖の銀の月の指す先がほんの少し揺れ動いた。若干の軌道修正。
 絶え間なく流動する物理中にあるのにも関わらず、私が慣性に後ろ髪を引かれることはなかった。宇宙服の気密性を魔法が実現しているのか、苛烈な上昇や急加速の最中にあるはずの高山病症状は封じられて、風の対流だけを胸に受けている。まるで、『空飛ぶ杖に乗った状態を保存』しているようにすら思える。頼りない股下の接地面積やマリーを掴む腕力は些細な問題らしい。真っ先に吹き飛んでしまう帽子は靡くだけで頭を離れない。軽減? 遮断? 変換? 記憶? 何にしろ私は、
「飛んでるわ」
 率直な感動を呻いている。遮蔽物のない空は太陽に近い。低温乾燥の冬の環境で風速20m/sの風を受けると体感温度が14℃は下がるらしいが、ほんの少し肌寒いだけで済んでいる。魔法羅患下では日向ぼっこもいいところだ。
「しっかり掴まっててね」
 振り向きもせずマリーは声だけで反応した。相対性の弱い静かな蒼空に大きな翼を広げた留鳥のオオタカがふわりと浮上して、いつの間にか並走していた。里より目を離すと眩い太陽とは逆側――北に落葉の笠を被った遥か高い山の巨躯が聳え立っていた。天に雪を湛えた姿は富士山に似ているが、斜面は切り立っており人を寄せ付けない荒々しさを岩肌として見せている。その足元は何故か濃い雲海に、いや光を拒む霧に霞んでいた。自然の作り出した偶然為すものか、霞の発生源は湖らしく麓に隠れてひっそりと空色の水面を揺らしている。
 魔法使いの空飛ぶ日常。峻嶺なパノラマに心奪われた私が里の田園にまた目を戻すと、蜃気楼のように相も変わらぬ距離感があった。進んでいない。真横に接していたオオタカは身体の向きを大きく傾けて滑空していき、あっという間に樹海へと消えて行く。私は、マリーはあの険しい霊峰に向かっていた。
「ちょっと、マリー!?」
 異変に気がついて私は苦言を呈した。白川郷のような旧日本の村落は人のものではないマヨヒガなのか。山の向こうの三途の川が私の執着地点か、もしくは中腹に隠れ里があるのか。ただ、小傘に訊いた話に因ると河童の住み処のはずだけれど。尻子玉とは何か、想像すると私の肝は冷えて不安を生じる。
「なあに?」
「なあにもなにも、」
 月の先を麓、霧の湖面に向けて、魔女は秋の空を降りていく。確か大鼠と竹林の夢の時、靄った湖の畔には赤く窓の少ない屋敷があったはずだ。そこでちっちゃい子と使用人らしいアルビノ(夢の世界は白髪が多い)の女性と一緒にお茶をしたのだが、もしや来客として洋菓子を貰いに行くつもりなのか。トリックオアトリート。むしろ館の幼いお嬢様が受け取る側だ。急降下する杖はすぐさま森林の木々スレスレを掠って進むようになる。上空では感じ取れなかった相対速度が群れとなって、一瞬で景色は背後へと追いやられていく。続く声が詰まって出ない。まもなく薄霧に突入して、白く滲んだ50m四方の視界を切り拓いていた。水蒸気に沈む原風景。突如として眼前に現れたイレギュラーな高木に、衝突を恐れた私が目を伏せると平衡感覚が激しく左右に振られた。肌に湿度の波を感じると、風も収まり、ようやく驚愕は色を失って、私は瞼を開ける。地表。落下はせずに無事、
「何処よ、ここ」
 湖の畔に辿り着いた。人影は、無い。マリーが地に足をつけると杖から浮力が無くなって、跨った姿勢の私はそのまま地面に降ろされた。ススキ野が奥で白霧に途切れている。樹木なく湖の周りの拓けた空間には昼光が薄氷のように階層になって射し込んで、仙界をも思わせる様相を形成していた。樹高の低い椿の紅い花が降り立った傍らで咲いている。天人が現れそうな雰囲気だが、魚の跳ねる音しか聴こえない。靄に溶ける柳の木が幽霊のように枝を垂らしていた。
「山の麓の湖」
「里は?」
「ごめん嘘」
 乱反射した太陽光に濁る湖面までの路には疎らにコスモスが生じていて、赤青黄の素朴な色で無機質な霧中を飾る。異常な告白に目を白黒させる私。言葉が作れない。魔女はこの上なく輝かしい笑みで答えていた。杞憂だとか詐称だとか、衝撃を受けた際に蠢き出す心的作用が働かず、ただただ茫然とする。どうなるのか、一寸先は霧。煮て灼いて喰うにしても設備が足りない。湖の主、怪魚の餌?
「え、ええ?」
「あー……嘘の嘘よ。まあ半分嘘」
 完全に呆気に取られた私を見越してかマリーはネタばらしをした――つもりのようだが、余計訳が分からない。真否を数式の符号と捉えて言葉を推理するが、本当と嘘が結局半分半分で、更にごちゃごちゃしてくる。とりあえず私は自分の気持ちに正直である事にした。
「里に、行くよね?」
「ああ。ただし夜になってからね」
「夜って、ならどうして昨日じゃダメなのよ」
「雨が降ってたじゃない。濡れるのは嫌なのよ。あと、雨天中止」
 魔女の正体が猫というのは案外真実かもしれない。この場合、『あと』の接続詞はいらないと思う。何を指して言うのか、晴れの日の湖ではサプライズパーティでも行われている? そういえば、以前訪れた時は靄の中でもはっきりと紅い外観が見えたのだけれど、その荘厳な館は影も形も消えてしまっている。
「どうするのよ?」
 困り果てて尋ねた私に、魔女は背を向けた。ススキ野原に潜っていって、慌てて連なった私を尻目に、湿土の水滴に塗れた柳の木の枝を折り始める。本来、観葉植物でもない草木は多湿環境では育ちにくいはずだが、過剰な自然の力が成長を後押しするのか、正常な形を保ったままだ。精霊の集まる魔法場のよう、何か、萌やしの超常が集まっているのかもしれない。魔法素材の採取? どうして私も一緒なの。
「ほい」
 マリーは身長よりも少し短いくらいの手頃な長さの柳の枝を渡してくる。流れに従って受け取るが、何に使うのか。同じくらいの枝を折ってもうひとつ魔女は手にした。蓬莱の玉の枝? 里の賢者への贈り物をこれから作成するのだろうか。問おうと口を開けると霧が舌の根を無用に濡らしてくる。
「これで魔女の頭を強く叩くのね?」強気に言ってやる。
「見当はずれ。来なさい。教えてあげるわ」
 自分勝手に歩いていく魔女を追うと、湖の中洲に繋がる細い道に出た。きた道を除けば湖に四方囲まれている袋小路に辿り着いて、突然マリーが地面に腰掛けた。隣の草地をバンバンと掌で叩いて私を誘導する。魔法の森と同じか、それより濃いくらいの湿度だが案外大地は強固で、座り込んだ尻に感じた土は泥に堕落していない。本当に自然現象の白色なのだろうか。彼女は懐から丸く纏められた絹糸のテグスを取り出した。
「嫌な予感がするのだけれど」
「さ、釣りを始めましょう」
 私の決意なんていざしらず、針を結びつけた釣り糸を柳の枝の先端に巻きつける。枝を思いっきりしならせて魔女の頭をしばき倒したい気分だったが、私の動きが無いと見ると彼女はこちらの釣竿まで作ってくれた。あまり嬉しくないが、こんな方角も奪われた霧の中を歩いて里までは行けない。愚痴を零しつつ暇を潰すしかもう手はない。
「……ねえ、家で夜まで待つって選択肢は無かったの?」
「馬上、枕上、厠上、太公望。物事をじっくり考えるのにトイレに篭るのは何か汚いでしょう?」
「そもそも何で夜しか駄目なのよ」
「昼は人の時間。私のような日陰者は夜の方が似合うのよ」
「早起きが何を……。私の昼の時間はどうしたのよ」
「猫に全部あげた」
 懐から取り出したムカデの漬物を魔女は針に仕掛けて、竿をしならせて糸を高く放った。私も同じエサを貰ったが触れるのすら烏滸がましい。日本では縁起物の虫だが、実際目の当たりにすると随分と異様な形をしている。藤原秀郷がただ山を巻いていた百足を娘に懇願されただけで退治しにいった理由が良く解った。小さき生物だが人間よりもよっぽど頑強に見える。
 恐る恐る手を出した私は釣竿の先の針にムカデを取り付けてマリーの後を追った。霧が晴れていればあの巨大な山を見上げる壮大な景色があったのだろう。虫の音もなく嘆きたくなるほど静かだ。呼吸音すら気にかかって、心臓の音に一瞬驚く。
「何を考えればいいのよ」
「現実世界に戻る方法」
 尚更こんな事をしている場合ではない。考えようとすればするほど意識が焦って問題点すら纏まらない。本当に何ひとつ動けない。何故なら、合理的に解法すると自分の力よりも魔女の飛行の方が遥かに信用できるからだ。きっと訳も判らず彷徨い歩くよりも夜まで待つ方が早い。しかし時間の進みは遅い。
「わからないわよ」
「なら宇宙の謎を探求すれば?」
「人生、宇宙、全ての答えは42よ」
「人魂のような風味のある千手観音?」
「有頂天の手ではなくて、ハツカネズミの地球よ」
「ごめんね。不都合なことばかりで」
「謝るくらいなら里に案内して」
「まあ嘘だけど」」
「……」
「…」
 沈黙が魚となって水面を打った。百足が餌になる事すら知らない私は動かない釣竿をひたすらに眺めていた。秋を彩る紅葉も霧の中では白く潰れる。小傘の話では霧の掛かる湖には妖精が居るとの事だが、あの山の神のような騒がしさは此処にはない。待つとは、こんなに苦しい行為だったのか。もし私の体感時間を元にした時間軸が両世界で通用しているのなら、もう4日も待たせている事になる。約束まであと3日。帰れるだろうか。
 日記に描くとすればたった一言、『何も無い日だった』。空中散歩していた頃はもう3時間以上は前の話だろう。鞄の中の携帯電話は電源スイッチを入れても自ら容量不足でシャットダウンするほどに電池残量が無くなってしまっていた。正確な時間は解らない。せっかくだから自称神様に貰った水濡れでフニャフニャの伊勢物語を読むことにする。たまに魔女の方を振り向いたりするが何を考えているのか、物思いに耽ってぼやけた視界の向こうをずっと眺めている。
 太陽の射し込む角度が霧の輝きでどんどんと高くなり、ある時を境に(しかし区切りを示すものはない)私と魔女は釣った魚を調理して昼御飯にする。釣果は私が0、魔女が3だ。バケツのような入れ物はないので、掘った土を盆地状にして水を張り瓶とした。魚を捌く技術はあるが道具はなく、私は見るだけとなり魔女が懐に忍ばせた調理具で全ての工程を行なってしまった。魔法の火なのか私から奪ったメモ帳の残りを呪符にして、内臓を取り除いて鉄串に刺した魚を焼いていく。寄生虫の心配があるので表面が若干黒く焦げるくらいにして、皮の部分をバターナイフで削りながら食べた。テグスに鉄串、ナイフに紙と彼女の懐の内ポケットは四次元に繋がっているかのようだ。いや、本当にあるのかもしれない。
 午後のいつかの時刻。霧の中に珍しく光が湧いた。どれだけボーッとしていたかは解らない。何も変わらない風景が恒常のイメージに落とし込まれるくらいには居る。光は何処かで見た事のあるカリウムの炎色反応、淡紫色だ。まるでたくろう火。精霊の放つ蛍光色でもない。それはゆらゆら近付いてきて――何かこのパターンには見覚えがある。
「うッ、ヴァー!」
 突然大声を張り上げたのは幼い少女の声色で、急に落下してきた何物かに目の前の水面が大きく弾けた。氷塊? 跳ね上がった水滴は広範囲に飛び散って、私達二人は満遍なく水を浴びてしまう。水霧の煙幕が収まっていくと現れたのは、小傘の妖怪提灯を持った、あの氷の翼の幼い妖精少女だった。青色のワンピースにリボン、水色の髪、宙に浮かぶ足。どう見ても人外だ。
「へっへーん。びっくりしたでしょ!」
 得意げに鼻を鳴らした少女は憎めないくらいに全力な笑顔を投げ掛けてくる。私はまあ今更平気だったが、対するマリーは動きなく表情は変えずとも若干の雰囲気の違いから苛立ちが見て取れた。湖の霧のせいか相手を良く確かめもせず襲ったようで、妖怪提灯の光で私達の姿がちゃんと照らされるようになると、妖精は信じられないものを見る目で二度見をしてきて、
「うわっ魔女じゃん!」
 と、酷く大仰に驚いて飛び跳ねた。魔法ヒエラルキーでは魔女が上位にあるのか、そうだ小傘も強いと宣っていた。妖精達の騙りから推測すると人間が一番脆弱なのか。猫よりも下。すく、と立ち上がったマリーは銀のスタッフを手にして、代わりに私に即席の釣竿を渡してくる。何を合図したかったのか不可解な目配せをした後、氷の妖精を引っ張って霧の奥へと飛んで消えていってしまった。
 ひとり取り残されると時間は更に粘ついて、息をする事すらスローモーションに感じられる。自転車で宛てもなく堤防を南下していき、やがて訪れる工業排煙で曇りきった海をテトラポットの上で眺めるような、実感が全て嘘になり生存が写真の中の一枚に閉じ込められる――そんな錯覚をデジャヴする。寿命の流れは素早く、息を吐けばすでに20年近く。数十年の先、再び湖で釣りをしている老いた自分の想像に戦慄した。霧の向こうで悲鳴が聴こえる。妖精少女の拙い音声だ。ほぼ同時に水への落下音。
 両手に釣竿を持った私はそもそもフィッシング未経験者で、魚が餌に食いついたとしても引き上げる術を知らない。魔女は道具の製造方法を教えてくれたが、その使用法はわざとなのか伝えていない。しかし考える事が目的なら糸を垂らす事が手段なのだろう。湖に立ち込める靄から杖に乗った魔女と、猫のようワンピースの首根っこを掴まれたボロボロの(煤に汚れて服の破けた)妖精が釣り場に戻ってくる。何らかの勝負をしたらしい。
 私から竿を受け取ると魔女は「お願いね」と氷精に何かを促した。「どうしてあたいがこんな事を……」とは少女の弁だが軽くマリーに頭を叩かれて渋々私達の後ろに座り込む。妖精のせいか、急に寒くなった。妖怪提灯は元は小傘のもので、気を良くした彼女から私へと、それから妖精に奪われて、今はマリーの隣で煌々と光を放っている。一応、人間社会の恒常性からすると私の持ち物となるが、猫に私の貴重な時間を与える価値観からして返してくれそうにない。まず説明しようにも魔法社会では嘘臭くなってしまう。と、魔女が再び魚を釣り上げた。嫌味な笑顔で釣り針を外すと、暴れる川魚を妖精に渡して「お願いね」と復唱した。目を逸らして嫌がった氷の少女だったが、魔女の眼を見ると怯えて魚を受け取って、渋々といった感じで――凍らせた。
 摂氏マイナスの冷凍保存、とは少し違う。どのくらい複雑な科学現象の絡み合いなのか、釣り上げた魚を閉じ込めるようにボール大の透明な氷が生じる。急速冷凍なのにも関わらず不純物の気泡も無く、元となる水も湖から汲み上げる素振りも見えなかった。自然物によって妖精が沸くというのは万国共通のアニミズムで、とすると彼女は凶暴なる自然界から具象されているのか。そうすると妖怪生態系のピラミッドは厳粛なカースト制度にあるように思えてくる。知恵や技術を超える災害級の精を更に使役する魔法遣い。神々や仏の力を借りて妖魔を調伏する民間伝承が単なる宗教戦略でなく、そうせざるを得ない人間の羸弱さを著しているのか。逆説的に妖かしはすこぶる強大。しかし、では妹紅は? 神仙術だけでは、『まだ』にならない。あれが唯の比喩表現であったとしても、人の手には余る炎だ。真に怖ろしいのは、
 真に慄れるべきは、どうにでもなってしまう可能性。魔女は神のサイコロを持っているが、私は賽の入る器。常に受け手である人間が、どうやって現実に戻れるだろう。私の居た星ではここと違い力関係は逆転していて、数万年もの累積でようやく生まれた有限の資源をたった数百年の繁栄として文明に昇華させている。最近、京都市内で雀をめっきり見なくなった。畦道の水路に居たメダカはもう無く、数年前に美しい紅葉を魅せていた山がふと電車で通りかかると土の山肌となっていた時だってある。私の捨てたゴミは車で運ばれ湾内に累積していく。どちらを選ぶ?
 今日五匹目の釣果だ。釣りの上手い魔女に「すげぇー……どうしてそんなに釣れんの?」と訊いたのは少女妖精だった。私は寒くて歯の根が震えていてそんな場合ではない。「逃げられなければ寄ってくる」と魔女。答えを聞いた氷精は腕組みして考える姿勢を取って「魚は寄ってきてから逃げるから、一回釣ってしまえばいいのか? けど釣れないから寄ってきてない訳で、寄ってこなければ逃げられない訳で、逃げてないのなら寄ってくるけれど??」と疑問符を浮かべて黙り込んでしまった。脳の肥大化した霊長類の私はチャンスの比喩である事を理解したが、説明をしたがる喉を無理矢理にでも塞いでおく。彼女に好かれてベタベタされては風邪を引いてしまう。なるべく妖精から距離を取るようにして湖面に近づくと、様子に気が付いたマリーが気を利かせて地面に杖を突き刺した。途端、冷気は遮断されて後ろで少女が「なんか今日、地味に暑いなー」と呟くようになる。動物園並みの知的生物種類の集う幻想の世界では魔法も一長一短だ。
 あっという間に時は刻まれて夕暮れが訪れた。日中霧の出ていた湖は斜陽によって溶けていって、今ではあの河童の住む高山が綺麗に赤く染め上げられて幾らでも眺められる。湖畔に立つ紅い館は結局存在しなかった。私はあの時、何処に招待されたのだろう。妹紅の姿は確かに、確かに見たのだけれど。所詮、夢。今も夢の中。まるで現し世は夢。湖面には精霊なのか、無数の蛍光が舞っていた。ススキ野に柳の枝が黄昏の赤に照らされるのは、正しく秋の光景だ。釣果は6。食べた分を引くと手元には3つ。私は丸坊主だ。寒さに弱い身体を補う胆力を養うために出家でもしてこようか。非常に長い霧中のシンキングタイムは、私を惑わせるに到らなかった。烏が鳴いたら帰ろう。望郷の念はたった4日だがすでに胸を灼いている。夜が来る。来る。すぐさま山に日は落ちて、妖怪の生活光か、幽かな明かりが聳え立つ中腹にぽつぽつと咲いていった。湖にはまるで踊るように回転する精霊達。氷精を振り向いたが別に発光している訳でなく、個人差があるのが見て知れた。妖怪提灯が誘魚灯になって中洲の一角を照らし出す。更に更に夜は更けて月が顔を出すと、魔女、マリーがようやくその重い腰を上げた。私はもう無我夢中だ。時間の感覚に委ねた意識を脳味噌の中にしまって、掛けられていた声を耳に入れる。
「そろそろ行きましょう」
「ようやくね」
 溜息のひとつでも吐きたいけれど、暫く声を出していなかった喉は固く、ようやく、と愚痴るのが精一杯だった。「やっと終わりか……」とうんざりと疲れた顔をした氷精が後ろでぼやくが、魔女は「荷物運びお願いね」と笑顔で返して骨の髄まで小間使うつもりのようだった。「うー」と唸り涙目になる少女。妖怪提灯を手にした魔女は杖に腰掛け、私を誘った。尻尾を振る犬のような嬉々とした表情はだらしなく避けておきたいが、やっとの事で人里に触れられる私は喜びを隠せずに、はしたなくスカートを捲り上げて魔女の宅急便に跨ってしまう。銀のスタッフは重力を無視し始めて、幻想世界の夜間飛行が始まった。
 見下ろす地平線は月の狂った光に象られて、もう何度目かの満天の星空を演じている。人里の灯火が昏い澱の底でゆらゆらと漂っていた。早朝からロクな運動をしていない四肢は芯から冷えていて、魔法に因って表皮の体温が奪われなくなっているのを嘲笑うように風は寒気を錯覚させる。後ろには魚の氷塊を両手に抱えた運の悪い妖精。もう今日も終わる。賢者とやらを尋ねるのは明日になりそうだ。里が近付く。合掌造りの家々の影は大体は消灯しているらしく水の枯れた冬の稲田のよう闇に落ちて、その村落の光が一箇所に集中しているのが確認できた。祭りのような篝火でなくて、灯篭と提灯の赤火。やがて私は魔女の云った雨天への忌避を眼を持って知り得た。
 市場、商店街――というより、商人街道の祭りの夜店、というニュアンスが近い活気が里の向かうべき杖の先で賑わっていた。本当に人里なのか、たった今しがた遥か眺める視線の先に、黒い翼を広げた天狗らしい修験者風の衣を身に纏った妖怪が降り立っていた。共存? いや仲が良ければ脅かしたりはしない。趣向という表現が正しいだろう。種族以前の関わり合い。ハレの市。残り一分も経たない内に私は足を降ろすだろう。見下ろす里には八目鰻屋に蚯蚓うどん、出店らしい兎籤に血染め、目玉薬に雀踊り(?)と異称された聞き慣れない幡が立てられていた。騒擾はあまり大きくなく、十数の人影がぶらぶらと回っているだけで、見廻る人間は全て大人、翼持ちはほとんどが妖精らしき子供で成り立っていた。稀に天狗らしい奇抜な衣裳の女性や、幽霊なのか変な模様の額烏帽子を付けた妙齢の婦人が紛れて見える。漂ってきた香ばしい焼き鳥のような匂いが私の鼻をついた。
 速度を落としたマリーは夜店の明かりの端っこ、店名の幡が暗がりに消えそうなその町家造り――京都でもたまに見かける古い京町家の平屋の前に降り立った。犬矢来が片付けられた玄関口は少し改造されており、段になったばったり床几は広げられて上に古道具が置かれている。魔女に続いて杖から降りた私はようやく、人の足で均された固い土の上に靴を乗せる事が出来た。ただし、周りは化け物だらけ。少し遅れて氷精が追いついた。
「おーい主人?」
 用があるのか魔女が慣れた口振りで店の中に声をかける。うなぎの寝床は里にも健在のようで、幅は狭いが店の奥行きは長い、主人は中々現れず、間を置いてようやく彼は姿を現した。黒い長羽織の中に藍染めの綿の着物、裁付袴を履いて、黒い髪を束ねて髷を結った壮年の、ちょっと時代を間違えた男性だ。顔は固く強張っており感情が読み取れない。何かを労う言葉なくただ魔女の前に突っ伏してその眼を見ている。と、
「あ、やばッ!」
 荷物持ちの氷精が彼の姿、店を見て何かに怯えたように驚いて、手に持った氷漬けの魚を放り投げてあっという間に逃げ去ってしまった。使役していた魔女はさも取るに足らない事のように妖精の後ろ姿を一瞥した後すぐさま放置して、また一言、店主に言葉を続ける。
「奥さん元気?」
 どうやらある程度深い関係にあるらしい。問われた彼は、
「ああ」、とだけ小さく呟いた。
「相談があるんだけどね、これ」
 魔女は妖怪提灯を足元に置いた後、氷精の落としていった砂に塗れた氷塊を指差して寡黙な彼に尋ねる。
「あげるから、この子を一日泊めてやってくれ」
 もし妖精の冷凍保存がなかったらどうするつもりだったのだろうか。私の鞄の中身を取引材料にする気だったのか。イワナらしき3匹の魚と私の寝床は同等なのか。色々気に掛かることはあるが、成り行きを見守るしか無い。しかし、店主の男性は全く言葉を発しない。睨んでいるのか、迷っているのか、何なのか。と、
「あーお客さんじゃないか。ちょっとどきなさい」
 彼の背後から押しのけるように、地味な藍染めの着物を着た若い女性が声を上げながら出てきた。髪を後ろで三つ編みにした――金髪碧眼のこれまた色々と間違えた人だ。活発そうな顔は日本人の特徴的な骨格でなく、どう見ても西洋人で、その着物の帯は腰紐に近い細いものとなっており、包まれているお腹は臨月なのかかなり膨れている。
「おかみさんお久し振り。何かあったの?」
 正直な話、妖怪がそこら中に居る異常な場所で何があるも何も、あらゆる全てが有事にすら思えてくるが、謂われた言葉に心当たりがあるのか女性はうんうんと頷いて答えた。
「聞いてよ! また店が荒らされてね。先週は氷がばら撒かれていたし、一昨日なんて本を一冊盗まれたのよ。多分妖怪の仕業だから後で叱ってやっておくれ」
「ん。気が向いたらね」
 確か湖の少女は氷を扱っていて、私の鞄にはずぶ濡れの伊勢物語が……さすがに取ってきてくれと頼んだとは言えないので黙っておこう。下手すれば私が万引き狼少女。私の後ろに回った魔女は突然に肩を掴んできて前の夫妻に差し出して、
「悪いんだけどこの子預かってくれないかな?」
「んーいいわよ」
 二つ返事で了承する女性。本当にマレビト信仰でもあるのだろうか。それはそうと、イワナを交換条件に出した時よりも内容がより厄介になっている気がする。一部始終を見ている男性は……相変わらず黙したままだ。実は泥人形とかじゃないよね?
「ありがと、あと、おみやげに魚3匹そこに置いとくから」
「おおきにね。けど、どうしたの? その子」
「いつもの迷い人。今回は私の手に負えなくてね」
「そう。じゃあ稗田さんと博麗さんに相談すればいいわね」
 いつも。まるで神隠しに遭った者達が集まる隠し里のようだ。氷塊に囲まれた魚を見て表情変えずに居る彼ら、元より人食い妖怪と同じくして夜にも活動する彼女ら、並の神経ではない。しかし、これでこの店の夫婦が山姥の一種でも無ければ、私は朝の人里を迎えられるわけだ。願ってもない展開――なのか。早く帰りたい。
「私と同じね」
 ふと続けられたその女性の声は私の頭に硝子玉のように響き渡った。同じ?
「ゆっくりしていきなよ。お茶立てるからさ」
「いや今日はアンモ焼き喰って帰る」
「残念ね。じゃあまたね魔女さん」
「じゃ、身体に気を付けなよ」
 簡単な挨拶を交わして、さっさと踵を返した魔女は提灯の輝きと一緒に遠く、闇鍋のような様相を見せた夜市の闇へと消えていった。追い掛けようとする意思も私の中には生まれたが、頭に引っかかったある単語がこの足を鉄の重さにして地面から離さない。同じ。一体どういう、
「あなた、名前は? ihr name?」
 女性が青い眼を私に向けてきた。鏡を見ているような、不安の碧。日本式の着物を羽織っているが彼女は渡来人、それに、土地に居着いているその腹の膨らみ。店前の行灯に照らされた幡には『霧雨道具店』と描いてあった。急な外来語に答えに戸惑ったが私はとりあえず、眼前にある出来事を進めようと思った。
「私はメリー。マエリベリー・ハーン、だからメリー」
「うん。良い名前だ。あたしはstella marisって呼ばれていたけれど、霧雨でいいわ」
 洗礼名、なのだろうか。此処に来る前は尊称で呼ばれる人物だった? 過去形。名前を必要としなくなる。魔法的な理由でなく、環境によりいらなくなる。文明体系と貧富の差に因って大きく生態を変える人間にとっての収斂進化。訊け。聽くのだ。
「霧雨さん、聞きたい事があるのだけど」
「ああ、まず店の中に入りなよ。寒いしさ。ほらほら、あんたも戻った戻った」
 青い眼に急かされて男性は氷のイワナを拾い集めて道具店に入っていき、私も同じくその夫婦の後を追った。鍾馗さんの載せられた玄関のれんを潜ると中は思ったより狭くて、道具店と云うよりは雑貨屋に近く、妖怪達が好きそうなイモリの黒焼きやナメクジの置物なんてのはひとつもなく、日用品、それも人間の使う面白くなさそうな品ばかりであった。具体的には箒や、鍬に笊、升に草鞋といった機械がなくとも編めたり組めたり出来るものから、古書や人形、着物、薬研、火打金、茶椀といった卸し物まで、食品を含まない本物の生活用品だ。整頓の才能が無いのか面倒なのか、並べ方が結構雑だ。商品は埃ひとつ載っていないほどに綺麗に磨かれているのに、用途の違う茶椀と人形を前後に置いていたり衣服を店の端に固めたりもったいない陳列をしている。長めの土間を奥へ進むと、一段上になった座敷の開け放たれた紙障子戸が見えた。草履を脱ぐ二人に従って、私も靴を置いて部屋に上がっていく。ぼんぼりの明かりが揺れていた。
 部屋は中央に囲炉裏を構えた、畳敷きの和室だった。押し入れはなく部屋の端に布団は纏めて畳まれており、普段着などは壁隅にある飾り棚に入っているようだった。更に奥には台所と裏庭があるように見えたが向こう側の障子の隙間が小さく上手く視認できない。天井には燻された空のスズメバチの巣が飾られていて、囲炉裏には薪でなく火鉢が置かれていた。
「さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
 女性は部屋隅に積まれた座布団を差し出してくる。どかっと胡座をかいて腰を下ろした男性に連なって、妻の方も足を崩して座り込み火鉢を囲む。私は座布団に行儀よく正座した。
「それで、なあに? 答えられるだけ答えるわよ」
 拍子抜けするほど明るい女性だ。笑顔が加齢を感じさせない。
「霧雨さんは外から来たの?」
 いきなり核心をついて私は質問した。正直、答え渋ると思っていたけれど、彼女は飄々とした表情で、
「ええ。魔女さんと一緒に。向こうは色々と大変でさ」答える。
「! あなたも魔法遣い?」デリカシーを欠いて私は問う。
「いいや。家系を遡れば解らないけど、少なくとも魔法は使えない」と、女性。
「元の世界に未練はないの?」私と魔女しか解らないだろう単語。
「元? 私は移住したの」含みがある言い方だ。
「行き来が出来る世界なの?」パラレルの解釈を知らないと、
「世界って? 世界はひとつよ」普通にこのような返し方だろう。
「どうして魔女と一緒に?」相手が人間だからか私は傲慢で、
「友達だからね」むしろ謎の形成する傷跡を広げてしまう。
「ごほん!」――と急に男性、夫の咳払い。
「メリーさん。もうこの話やめにしましょう」と小声で女性。
「どうして?」私はもっと訊きたかった。手がかりになりそうだが、
「主人、魔法とか妖怪嫌いなの。夜に店を開けるのも私の我儘でやって貰ってることだから」相手は人間。明日に期待しよう。
「あまり内緒話はするものじゃない」とは仲間外れの男性の論。
「人相手だと口達者なのに相手が妖怪だと竦み上がっちゃうもんね、ね。あなた」と茶化して妻は言い、
「俺は別にその娘に人見知りをしている訳じゃない。大体黒髪でないのが悪い」と返す夫。
「あ、あーあ。この子の大事なアレ、絶対言っちゃいけない言葉を口にしたわね」女性は私に話を合わせるよう目配せしてくる。
「ん、んん?? さっき何を話していた? え、んんん?」
 男性が私に『嘘だといってくれ』と懇願する眼差しを向けてきたが、一日以上嘘吐き魔女の家で過ごしてきたこの思考はすっかり感化されてしまって、不機嫌そうな表情を作って目を逸らしてやった。思えばたった数日で演技が上手くなったものだ。
「あ、ああ。すまん。てっきり本当に妖怪だと思ったのだ。許してくれ」
 建築様式の表す時代とは随分と立場に差異がある。女性上位なのは彼の家庭だけなのだろうか。慌てる夫を火箸を掻き回しながら横目で見てほくそ笑む嫁。愉快な家だ。
「さ、お腹空いたでしょう?」
 私の心を見透かしたように女性は尋ねてくる。この関係は文化と云うよりむしろ彼女自身の芯の強さにあるのかもしれない。パンとイワナ。栄養が偏っている上に必須成分も少ない。もし里に一週間以上辿り着けなかったら……痩せるのは悪くないが肌や関節が大変になっていただろう。人が生きるのに必要な要素。咄嗟な疑問が口をつく。
「どうして?」
「魔女さんの招待だからね。どうせパンとかしか食べてないんだろう? 腕によりをかけて焼き魚を作ってあげる」
 大体合ってる。友人だったと云うのは本当なのか。彼女は何処から来たのか。私は何処から来たのか。哲学的な疑問が脳裏を過る。暖かい。『いやー、まるでひと月早く子供が出来たみたい』そんな言葉を受けて私は里の日常に溶け込んでいった。食べる事は身体にものを受け入れること、生きること。生活が生き甲斐になる土壌が此処には揃っている。旅の無い、永住の日々。眠りを催す安心の領域。
 出された食事は白米に焼き魚、タケノコのお浸しに、春菊と芋入りのお味噌汁、大根の沢庵に、まあ風土的に日本食であった。そのどれもが懐かしい。涙が出るほど――は誇張だがお風呂に入る様に全身に染み渡っていく感じがした。
 夜半、妖怪達の時間が終わって、私達家族と一人は他愛ない会話を幾らも繰り返して床に就いた。火鉢を片付けた居間は今は暗く、夜闇に飲まれている。畳の大きさが足りないので川の字とはいかないが(夫婦は仲良くひとつの布団で)互いに寄り添って眠った。会話を思い返す。幸せな言葉だ。幸福な、人の、
『ね、美味しいでしょ。全部村の人に教えてもらったんだけどね』
『この人、色々無愛想に見えるけど、毎日こっそり安産祈願で神社に足繁いているのよ。何祀ってるかよく解んない神社だけど』
『最初は疎まれたりしたけど、何とかなってね。この人のおかげ。だからもし金髪の子が生まれても差別の無いように、ずっと伝え続けていくつもりよ』
『あなたの髪も目立つようだから、この頭巾を被っていきなさい。少なくとも妖怪には見られないわ』
『いつか私達もこの子と一緒に、あなたと話すように色々と語り合えるかしら? 悪い子になっちゃわないかしら』
『お前が嫌でなければ暫くは滞在していけ。路は長い』
『まだ名前は決めていないけど、これだけは教えるつもりなのよ。決して諦めないで』
『私としては楽しそうに笑う子になってほしいの』
『帰れるといいね』

「そう。未来は明るいわ」一言を遺して私は再び夢の夢の中へ。
 誓いと約束の先、いつかくる邂逅を願って――

      *

 ―五日目

 五ケ庄にある許波多神社で再び私は猫と戯れていた。時刻は昼の十二時。神主さんには悪いが猫缶を開けさせてもらう。
 20年以上生きているという半猫又の彼女はまだそこにおり、錆色の毛並みは大分くたびれたがか細い鳴き声を上げて、まだ元気に平然と歩いていた。二回目となる私の来訪を覚えているのか、やはり遠目で様子を窺っていた。以前、メリーと訪れた時は酷い夕立があって、この割拝殿の下で雨宿りをしたんだっけ。
 同じくらいに寒い日で、私達は肩を寄せあって雨が止むのを待っていた――その頃、体調を崩していたメリーの健康祈願のために御神木の瘤を一緒に撫でたんだ。
『主なる神は土の塵で人を作り、その鼻に生命の息を吹き入れた』近付く現実の終焉、死の気配を感じて私は彼女を抱き留めた。確か、桃山南口の近く、山科川の堤防、藍色の空に綺麗な橙の夕焼けの見える冷たい午後の事だった。メリーは泣いていた。
 いつか自分が泡沫のように消えてなくなってしまう。未来の先の、向こうには昏い重力の渦が待っている。メリーの吐露した心配は、幻に呑まれつつある意識、あらゆる日常との境界線を侵害した先にある普遍的な人間の人生、それすらも送れずに朽ちてしまう運命に対する激昂だった。しかし、もう想い出となってしまい、
 私は今日一日の大学生活を諦めて史跡巡りをしていた。寿命の十分の一にも満たない時間なのに、行く場所辿る軌跡、溢れる記憶達に私の感情は溺れてしまいそうだ。目の前では若い猫達が美味しそうに猫缶の中身を食べていた。生きる事は食べること。夢の世界のメリーはちゃんと食事が採れているだろうか。私は鼠のように良くチーズを食べるようになった。もう一度、あの不思議な夢見を。
 神社を出て宇治川の碑を脇目に堤防沿いを北上していった。川沿いにあった銭湯はほんの数十日の内に廃れて雨錆だらけだったその外見を更地に変えてしまっていて、あの時のボイラー音ももう無い。風は随分と凍える温度になった。今やケープの隙間から追懐に浸る暇もないくらいの冷気が刺し込んでくる。
 彼女と歩いた路を延々と進む。お墓の石を動かしに行った事もあったっけ。夢の中で羅患した病気で入院した時は眠れないほど不安になった。ヒロシゲ36号のディスプレイで富士山を眺めて色々と話し合ったね。『ねぇ、メリー。』
 空虚だが待つのにも飽きた。私は新しい希望で模索している。きっと、――夢の先、夢の物理学、幻想世界へと繋がる方法を無闇に探している。例えパラレルワールドがあったとしても、その先にメリーが居るなんて事は――不確定だ。
 電話は掛けなくなった。必要が無くなった。もう充分に連絡は入れた。大学のカフェテラスは今頃満員だろうか。一応、学校には病欠の嘘を吐いておいた。路傍の石コロを蹴っ飛ばす。堤防にある雑多な草地に転がって、動きを止める。そういえば、彼女の夢を体験するためにメリーに膝枕して貰った事もあった。その時、石の話をした。『石の善は誰が決めるのか』、神の視点について、不毛な論理を悩んでいた。利用されるだけの石は、総合的に観て正しい範疇にあるのか、間違った境遇を歩んでいるのか。
 柱時計の音が耳から離れない。ずっと、ずっと昔に記憶した、東京にある実家に置いてあった古い時計だ。一時間ごとに独特で耳に残る歪んだ鐘の音が流れる、子供時代を象徴する品だ。どうしてか今になって思い出す。頭から消えない。普段数式をフルに回している脳が暇になった領域を遊びに使っているのだろうか。
 私はもっと世界を知りたい。日常に慣れるのが怖いのだ。常に新鮮な魔法のような色彩が溢れ出るセンスオブワンダーの住まう理想郷。独りじゃないところ。
 何時になればこの朦朧としたリアリティから抜け出せるだろう。将来の夢でも持ってしまおうか。夢の中で描いていた『非統一魔法世界理論』の制作とか。例えば、時を超えしすべての源、虚空に浮かびし輝ける石あり――とてつもない鉱石の発掘を求めて地中を旅したりする鉱物学教授、うん。真面目に未来の姿なんて考えた事も、そういえばあんまり無かった。科学的な発見の延長や展望は幾らでも見えていたのに、私は自分の永遠を信じて疑わなかった。
 こうして余計な事を考えるのを辞めてしまえば、一気に夜が降りてくる。度が過ぎれば華胥の夢を追走する老年の私が墓の前で手をあわせている。時間は冷酷だが温厚だ。約束の期日が迫ってくる。私に出来るのは神社にお賽銭を入れて手を合わせる事だけ。しかし、猫と戯れ祈りを捧げたのももう30分も前の話。歩く足が止まらない。空に届かぬ手を伸ばす。
 私はその時の軌跡を踏んでいる。もう考えるしかない。
 メリーがどうして結界を見る眼を持つようになったか。私とのこの不可思議な旅行の数々、どんな時に幻視をして、いつ向こうに旅したか。奇妙な夢を見た日は何色の天候だったのか。
 幽霊は視えない。触れられない。彼女の手は今は夢の奥。物理学とオカルトの間、私は思い返そう。
 やがて還るその時のために。

      *

 煤けた天井の模様が懐かしい。田舎の親戚に泊まりに行った時もこんな曖昧な目覚めだった。疲れているだろう私を起こさず気を利かせてくれていた霧雨家の女性は、暇な店の座敷の縁で土間に足を遊ばせて、一人草鞋を編んでいた。活気ある人の声が店の影の先、街道の向こうで挨拶をしあっていて騒がしい。蕎麦と茹だる香ばしい醤油の匂いが漂ってきた。隣に料理屋でもあるのだろうか。
「おはよう、ございます」
「おはようさん」
 簡潔な合図で現実を確認する。未だ私は魔法の中。寝床より起き上がって布団を畳むと、台所に隣接した井戸からひと掬いの水を飲む。裏庭の端にあるくみ取り式のトイレで簡単に用を足して、店番の女性に話し掛けた。彼女曰く、旦那は仕入れと押し売りに出掛けたとの事。雀の囀りが屋根の上で朝を数えている。
「あの、」
「分かってるわ。もう行くんでしょ?」
 もうすぐ母親になる女性は柔和な笑みを浮かべてそう応えた。私の意志なんてお見通しのようで、それはきっと経験則なのだろう。彼女の故郷は何処に存在するのだろう。色々と大変で、魔女と一緒に――首筋に星型のアザでもあるのだろうか。ジプシーならイザ知らず、未開拓の里に根を下ろした女性は郷愁に囚われるその瞬間、何を視るのか。私はまだ学生で、旅をするの年齢には達しているけれど草履の組み方も知らないヒヨッ子だ。遠出をして帰り道、迷子になって不安に襲われている。憧れる女性像に幻想ばかりの原風景、しかし私はミルクの入ったコーヒーの僅かに苦い味をまた味わいたい。彼女達に幸あれ、と願う。
「ええ」私は女性に頷いた。土間に足を降ろし靴に爪先を向ける。
「ん。少し待っててね」と、
 彼女は商売道具を編む手を止めて、私を諌めた。重たい腰を上げて居間に戻っていった女性は何かを探しているようだ。錯雑で歪な道具の立ち並ぶ玄関口の――地に足をつけて、ゆっくりと立ち上がった――私は、その後姿を振り返った。荷物、小さな風呂敷包みを持ってくる。
「これ、おむすび。きっと途中でお腹空くでしょう」
 まるで私が朝食の間を遠慮するのを予期していたかのようだ。今になって気が付く不可思議。どうして彼女は私を『子供』扱いしたのだろう。私の体の発達は成熟に近いもので、歳は10も離れていないはずだ。【いつもの迷い人】。神隠しに会うのは子供だけ、魔女も妹紅も霧雨家も、果ては里の周囲の文化自体も、そう伝えているようだ。確かに、妖怪は子供ばかりだった。私は何だ? いつか生まれる子の母親からお握りの包みを受け取る。
「ありがとう、本当に……ありがとう」
「どういたしまして」
 疑念なんて忘れてしまおう。里の賢者、稗田家と云うらしいその屋敷に繋がる道を丁寧に教えてもらって、私は霧雨道具店から踵を返す。伊勢物語は黙ったままで、漆塗りの茶椀と季節はずれの雛人形の間の通路を真っ直ぐと外へ向かう。一瞬、生じた惑いが脳裏を泡立たせて、惜しくなって私は彼女を後ろ目で一瞥してしまった。眼が合った女性は小さく手を振っていた。
「さ、行きなよ。あなたが居るべき場所は此処じゃない」
 声に後押しされて、私は渡されていた髪隠しの黒い角頭巾に後ろ髪を束ねて入れて目深に被った。角頭巾は肩掛けの部分まで接合されたものだがしかし、前髪やもみあげも纏めるためにフリルブリムと合わせて2つの帽子をつけている事になる。太陽の力で頭が茹だるかもしれない。異国の格好。魔女は緑、妖怪は青に桃色、はぐれ者は若白髮、黒髪でないものが怪異なのか。店の隅の暗がりで見えていなかったが、霧雨魔法店には洋服も売っていたようだ。あの男性は何処まで仕入れに行ったのだろう。
「じゃあ、また会うことが無いようにね」
「さよーなら」
 髪に左右される人の目。
 私は肩から腰におむすびの風呂敷を巻いた。道具店の薄暗い暖簾をくぐると、強い朝の日射しが街道を彩っていた。夜の妖怪道具を乗せていた床几は今や畳まれて、代わりに立て掛けられたのは犬矢来だ。ほんの短い通りだが里の商業が集まるようで人通りは多い。皆、黒い髪を結って着物をした日本人ばかりで、自動車のエンジン音なんて何処からも聴こえない。彼らの着こなす服装は皆草木染めの茶緑の麻で、もしかしたら霧雨道具店の店主は意外と裕福なのか? 行く人行く人が私の姿に気を留めたが、背後にある道具店を確認するとまるで日常風景のように奇異の目を逸らしていく。予想通りに隣は蕎麦屋で、真夜中ハレにあった出店は今は質屋と酒屋に宿と、染屋に魚、鍛冶に瓦に紙漉、豆腐に卵に薬屋髪結いなど人の生活に則したものに変化していた。一歩踏み出して通りの反対側、栄えた先の田園の向こうを目指す。遠くに眺める低い山の麓、一応、視認できる短い距離の奥に稗田家は小さくその姿を拵えていた。
 行李を背負った男に、鉢巻をして桶を運ぶ老人。飴売りの露天商、相対性によってすれ違う人々は様々な生業を身の回りに掲げていた。塩すらも売り物になる――本当にタイムスリップしたのか? 瓦屋根の低い町家造りが続く商店の活気は、現代の暇の大きさに比べるまでもなく熱く賑やかだ。私の日本にこんな景色が残っていれば、いや見ようとしないだけだ。案外、探せば転がっている。京都の街並みはそれを物語っている。舗装された交通法が町を潤しているくらいで、身近なものなら手打ち蕎麦屋、蚕を湯だつ絹糸の生業はまだ保存されて、今丁度観ている私の世界はセピア調でなく、七色に縁取られた歴史の姿だ。
 隠されて視えないだけで、山間にこういう里があるのかもしれない。私は歩む。雑多な匂い――豆腐や灼けた陶器、染料の青い草の汁。声を掛けられれば挨拶をし返して、履き潰した靴は人里の喧騒を越えていく。やがて冬の乾いた田畑に出て、畦道を延々と踏み進む。畝を耕す人影が疎らにある。景色は突き抜けて、紅葉に染まる山々に囲まれた里をひと目で見渡せた。ぽつぽつと生じた合掌造りの家が私に現実と錯覚させる。しかし電線無く空は蒼穹の座を目いっぱいに広げていて、風は生臭い土の匂い。収穫物をよりわけているのか箕を振っている女性を遠目で見掛ける。小さく千切られた雲はゆっくりと空を駆けて、私の歩みと並走していた。東の方角か、太陽の昇りつつある遠景、目的地の家屋の更に奥先になだらかな山と神社が見えた。あれが、霧雨の云う博麗さん?
 稗田家は立派な門構えのある築地塀に囲まれた大きな屋敷だった。『稗田』と表札の掲げられた門には提灯が2つ提げられており、黒墨で勾玉紋(中心の太陽と端2つの勾玉)が穿たれていた。名のある名家なのか、しかし見た事がない家紋だ。
 分厚い門は長い年月で雨に燻されており黒く変色している。木材の角は鉄で補強されて、私の身長一個半くらいの中程度の大きさではあったが重々しく開きそうもない。ノックをすれば良いのだろうか? 呼び鈴はなく、詰めている門番もない。手の甲で二、三度扉を叩いてみる。思ったよりも低い音が鳴った。しばらくすると、使用人なのか草木染めされた鳶色の木綿の着物を身につけた白髪の老年の男性が門を開いて現れた。家の大きさに比べ随分と質素な格好だ。彼は私の姿を見やると若干眉を細めたが、あまり動揺はなく平然として口調で、
「どのようなご用件で?」と尋ねてきた。
「稗田さんという方に御相談があるのですがいらっしゃいますか」
 あまり慣れない敬語を使ってみる。彼自身が稗田家の者かもしれない。私が想像したのは創作に良くある捻くれ者の仙人だ。礼儀を怠って門前払いされるなんて序の口、下手をすれば蓬莱の玉の枝を注文される理不尽もある。言葉を聴いた老人は仏頂面のまま――元から無表情なのかもしれない――「どうぞ」と私を内殿へと誘った。隙間の作られた門から一歩踏み入れると、寝殿造りか、武家造りか、それとも書院造りか、ともかく広い敷地が目視出来た。右手側には立派な松が植えられた中庭が広がっていて、小さな池と架かる朱塗りの橋があり、奥には屋敷から飛び出した釣殿があった。水辺があるせいか枯山水はなく、代わりに格子模様の砂紋が描かれていた。対する左側には侍所か、とすると老人は従者として見張っていたのか、引き戸の開けられた中を遠目で覗いてみると机と茶飲みが置いてある。私は寝殿に繋がる正面玄関に連れられた。
 土間には白虎の絵の描かれた衝立が置いてある。靴を脱いで廊下に上がると、すぐに直進できないように鈎状に曲がった通路があり、案内された私は、玄関すぐの畳表の張られた応接間(待合室?)に辿り着いた。『少しお待ちを』と残して老人は部屋を退出し、障子戸の閉められた木音で部屋は密閉された。簡素な作り。床は毎日磨かれているのかワックスがけしたように綺麗で、床の間には椿が生けられ山水と仙女の描かれた掛け軸が伸ばされていた。無音だ。鹿威しは無いらしい。筵の上で正座をする。ちょっと掛け軸の裏を調べてみたい興味に囚われたが、御札が貼ってありそうなので手を伸ばしつつ結局やめた。落ち着かない。知識は私の希望だ。
 四半時足らず、間をあまり入れずに老人が戻ってきて、『こちらへ』と準備が出来たのか屋敷の奥へと誘ってくる。寺院の廊下を歩むような整然とした渡殿を行くと、寝殿か、中庭の見渡せる位置に拵えられた明るい和室があった。伝統を重んじる心はあるが京の礼儀作法をあまり知らない私はうろ覚えのまま、敷居前で一旦正座し『失礼します』と丁寧にお辞儀しながら障子戸をスライドさせていった。ちら、と老人を見るが表情からその成否は解らない。頭を下げているため稗田の当主の姿をすぐに見る事は叶わなかった。と、
「そんなに畏まらなくても良いですよ。ただの古い家ですから」
 若い女性の、落ち着いた声が私の顔を上げさせた。床の間の横には筆の置かれた座卓があり、隣には幾つかの本が積まれている。薄緑の新しい畳の敷かれた和室はイグサの香りに、丸窓からの清々しい光に包まれて情緒豊かな奥ゆかしさを放っていた。人が居ない――と視線を傾けると、こちらに歩んでくる人影があった。山藍の着物に透けるほど薄い刈安色の絹の羽織を着て、紅い袴を履いた、十ほどの少女だ。一度も切られていないのか黒く長い髪を持ち、とたとたと軽い足取りで近づいてくる。後ろで使用人のはずの白髪の老人が、『では、私はこれで』と詰所に戻っていく。何か、おかしい。私の姿は髪隠しの道楽隠居そのもので、警戒をしないのか?
「さ、寝殿は堅苦しいですから、縁側で語りましょう」
 敷居を跨いでその少女は中庭に面した軒に座り込んだ。呆気に取られた私だったが魔女の件もあり順応が近いのか、うん、と頷いて彼女の隣に腰掛けた。
「自己紹介がまだでしたね。私は稗田家六代目当主、稗田阿夢と云います。あなたは?」
「えと、私はマエリベリー・ハーン。メリーでいいわ、です」
 賢者、なのに子供。妖怪の類いか? それなら護衛が離れたのも解る。しかし髪は黒で、そもそも里に屋敷を持つのは何処か変だ。あのハレの祭りを取り仕切るために人里を任された妖怪の賢者の一だとでも云うのか。疑惑と動揺が喉を乱して私は妙な敬語を使ってしまった。ふふ、と阿夢は笑い、
「メリーさん。きっと驚いているのでしょうが物事には因果があります。あなたの事を早朝、霧雨の主人から承りました。不思議な事ではありません」
「ああ」
 返された事実にハッと納得するが、それでも疑問は残る。
「けど、どうして私の疑問を?」
「色んな客人がありましたから。大体みんな思うのです。『私が此処に居ても良いのだろうか?』 と」
 彼女は瑞々しい唇を動かして悠長に語った。やはり子供にしか視えない。稗田邸の中庭の美しい格子が物語る、特別さ。囲む築地塀はそよ風を遮断して池には波紋ひとつない。魚影、非常食なのか模様のない大きな鈍色の鯉が8匹ほど泳いでいた。
「あなたは、妖怪?」
 むしろそれは私が訊かれるべき質問だ。渡来人が天狗の始まりとなった仮説は現代日本では割と有力で、この金の髪と青い眼は魔と怪しみ、そして実際に結界の発見と、今のような旅にある制御不能の幻想を湛えている。ここは、何処なのだろう。幾度目かの疑念は晴れるだろうか?
「私は、そうですね。妖怪ではありません。しかし、求聞持の能力はそれに近いものがあります」
 空海の会得した虚空蔵求聞持法の事だろうか。あらゆる経典を記憶し、決して忘れない。現代で云うサヴァン症候群に似た法力か。妖怪と呼称するより化身なのか。百日間かけて百万回の真言を行う……仏教は数的に気の遠くなる教えが多い。
「つまり、あなたも人間?」
「そうです。ただし」
 問う私に言葉を濁して、阿夢は一息吐いて続きを述べる。
「私は御阿礼の子です」
 葵祭のある京都の賀茂神社ゆかりのものなのか。御阿礼、とは神の誕生の意もあるから神の子とも考えうる。賀茂の流鏑馬は有名で地元の私は何度もそれを見に行った事がある。神社と関係があるのならこの眼前の砂庭に立砂が作られていてもおかしくはないが今は見えない。賀茂建角身命は八咫烏に化身したと云われるが果たして。思い描くより訊くが易しか。
「御阿礼の子?」鸚鵡返しだ。
「はい。阿一の代より転生を続けて、ひたすらに縁起を書き起こす由緒正しい家系なのです」
「転生?」
 チベット仏教には現人神のクマリやラマと云った転生を繰り返す化身があるらしい。『認定』という客観性に寄って成り立つ儀式的な側面もある輪廻観だが里に当て嵌まるだろうか? 鍾馗の姿似が京町家に掲げられるので道教思想は輸入しているようだ。神道と道教と仏教が混ざり合ったカオスな伝承を多く残す島国の日本は、ネオペイガニストにとっては茨の道だ。ひとつの思想を取り出すには百の風土を比較しなければならない。記紀神話しか先代を表せるものが無いのも――学者の威力的な視点では――問題か。ホツマツタヱが菅江秀真の著であると妄想する私には厳粛すぎる世界だ。彼女は何を受け継いでいるのだろう。
「はい。厳密には秘術です。内容はお伝えできませんが、地獄を経由して同じ霊魂で生まれ変わるのです」
 少なくともまだ魔法世界のようだ。地獄。地下四万由旬、阿弥陀如来よりも無量大数分の1よりも小さく広い場所は小傘曰くパンク寸前らしいが、此処で死んだ私は現実世界でなく、加虐に金棒を振るわせる鬼の元に行くのか。なんて不便。
「どうしてそこまでして縁起を書き起こすのよ」
 人の生まれる意味とは何か。生物学的に解釈すれば、【生まれてしまった】からだろう。哲学にある神の寓諭はせせこましくて苦手だ。遡るほどに観測が困難になる物理学では永遠の謎だ。卵が先か鶏が先か。人間の人格、用途は幼少期にほとんどが決まる。運動の良し悪しという才能、イメージという枷、意志という道徳。では、記憶を持って生まれた人々は?
「それは、どうして時間が存在するのか、と問うのと同じです」
 時空はアインシュタインによって歪められた。重力は空間のグリッド線を引き伸ばし、セルごとに押し出される時の波は性質によって大質量天体の中で限りなく潰れていく。未来は事象の地平面。ただの一瞬しか感じ得ない電球の意識はか細く弱い。裸の特異点でもなければ、私達は時間に逆らう事は出来ないだろう。エレメンタルの4つの水晶が魔女の云うバズー! であるように、物理学にも4つの力が提唱されて久しい。連続体を表す時間概念は、力から弾かれた。あるもの。
「元より妖怪に打ち勝つための智慧です。今では単なる風土記ですけどね」
 私は問う事をやめた。彼女は幼子であるが私よりずっと死と向き合っている。どうしてこんなに人と話すのが楽しげなのだろう。なおも阿夢は饒舌に続ける。
「さあ、そろそろあなたの事を聴きましょう。そのためにここまで大変な旅を続けたのでしょう?」
 うん。そうしよう。私がどうしているのか、どうかしていた。眼は未だ結界を映さない。現代社会のように無秩序に空いていたりはせず、注連縄によってしっかりと封印されているのか。いや、過去にあった古物の名残が現実の不思議の裂け目なのかもしれない。かつてあった、奇跡の場所。
「そう、そうよ。私は……」
 京都市内の変哲無い大学生。里で云う霊的な眼を持ってはいるけれど、夢を駆けまわったりする事はなかった。八坂神社の傍にある謎の空間で彷徨った挙句訪れた世界は、現実とは全く違う。車の姿もなく星は綺麗だ。私の世界には過剰な科学はあったけれど手頃な魔法は存在しない。あるのは擬似的な未来物理学の魔法現象、私の眼。神の史跡の残る日本は、夢の中と大体リンクしていて、しかし此処とは何か違う。西暦2000年を越えた宇宙は月に渡るのすら可能にしたけれど、兎が住んでそうな里から見える月とは、何か根本的に違う気がする。私は、帰りたい。神仙術か、魔法か、鏡の向こうでも、深い穴でも良い。別の世界に繋がる方法は、無いのか? 説明を進める度に阿夢は難しい顔になっていき、やがて、
「すみません。私では力になれないようです」
 と結論だけを先に囁いた。霧雨家の女性、賢人と謂えども定住を許した存在がある。いや、そもそも魔女のよう、帰るものが居ないのか? 阿夢は言葉を続けた。
「あなたは霧雨さんのように黄金色の髪を持っています。きっと素質があるだろうけれど、神隠しとは多分別」
 頭巾に隠された後ろ髪を出されて、彼女は土着信仰なのか、髪の話をする。素質、とは何か。妹紅の手にある炎の事か。しかし、私はこの眼で夢を視てきた。今更、
「恐らくは稜線関係。統計上、この里に迷い込むモノにはある共通点があります。忘れ去られた者、忘れ去ろうとする者、忘れ去られようとする者。魔にある者、魔に惹かれた者。あなたにはとても当て嵌まらない」
 間引きされる子――私は夢に手を惹かれている。それは魔か。いいや夢は夢のままに。では、何か。稜線? 結界の事だろうか。確かに現世と幽世の狭間だが、線引きが何処かで人為的に行われているのだろうか? もしくは夢と現の境界か。
「博麗曰く神隠しは結界を張ってまで禁忌にするべく現象ではないものとの事ですが、以前、無縁塚で冥界との『稜線』が薄くなり幽霊が大量に溢れ出した事があったのです。以来、『境界』という概念が里に伝播しました。もし冥界と同じように神隠しが異変と化していたら有り得る話です」
 博麗、稜線、冥界。地獄があり幽霊が私の背中を撫でるのなら、冥界もあるのだろう。私は神社や富士の真下で結界を幾つも視てきたが、何やらややこしくなってきて理解が追いつかない。簡潔に率直に解釈すると、異変があって呑まれた不運な子羊が私なのか。私の眼のせいではない?
「一度、博麗に相談してみるといいでしょう。神社は晴門から出て先の山にあります」
 個があり、集合となる。あらゆるものは【ある】のか? 地球の生物的サイクルは発生と分解、還元で成り立っている。冥界や地獄(極楽や辺土とも違うのか?)は霊魂の輪廻――物理波のフラクタルのよう、ある廻るシステムとすれば、個の保存法則があり、全宇宙の均衡は保たれている? いや、魔女は魔界とも云っていたし、霊魂の爆発的増加に地獄が一杯だという話もあった。まず、罪や徳などの哲学的命題を主に構えた次元が、ビッグバン以降の物理法則に組み込まれるのは人間主体で気持ちの悪い話だ。ともすれば、何者かがそれら別世界を作り、稜線を引いた。最も巨大な世界は宇宙の始まりを見た物理学者の眼? それとも広がり続ける大宇宙が那由多の時を超えてようやく辿り着く大きさの仏の掌の上? 天体ヒミコは疑問を投げかける。
 何も解らない。考えて判る問題でも無さそうだ。自分がもし夢の世界の住人でも、あちらが現実世界と呼ばれても、環境のより親しめる場所に残るのが人間。じゃあ、私が戻れない事も?
 魔女の云っていた言葉が沁みる。
『祈れ、いいから祈れ』
 思考はループしている。悩みが解消されない証拠だ。経験上、この回り続ける環の中に答えなど隠されてはいない。しかし物理学に縛られ続けたからこそ林檎が落ちるのを発見できる。学者は人を変えて時代に生き、知の探求を書に纏める人の連続体。パーティ理論は酒を飲みたいだけのでっち上げで、行うからこそ遊びは途切れない。則ち、原点に戻るのは謎の極地。そこに答えがあるならばとっくに――
「どうしました?」
 突然に黙り込んでしまった私に、阿夢が不思議そうな顔をして尋ねてくる。神社への誘いを入れた途端に考えこむ私は、まるで退治されるのを嫌がる妖怪のようだ。
「あ、ええ。行ってみるわ。ありがとう。……ところで、」
 慌てて応えた私には知りたい事がひとつ残っていた。不可説不可説転のような巨大数は一般化を目論んだ大乗仏教の弁で、イーブンになるような質量と現象保存則はもうどうでもいい。数の話でも式に因り解される次元世界でもなく、幻想に詳しい彼女に私が最後に訊きたいのは、
「私の眼、どう思う?」
 私自身の事だ。
「当惑され、し続ける」
(continues to pErplex and puzzle.) (x=?)
 正常な視界ではない。蓮子はこの眼を羨ましがっている。迷いの無い時間に生きる人々は、果たして立ち止まれるだろうか。
「霊異の仙術ではなく、岐神に由来されるものと思えます。物事の境目に作用しているだけですよ」
 紫外線の向こう。塞の神による透明なる色分け。交叉を分かつ神であった気もするが、民間信仰の形態が若干異なるのだろうか。私のようにオカルト観測に乱用するのでなく、本来は禍つ場を見つけて荒神を鎮める為に引かれる境界の眼なのか? ともすれば、予感、
「安心して。きっと帰れます。未来は明るいもの」
 ――私は稗田家を後にした。勞いの言葉か、いや悲壮な決意にも思える。笑顔がより一層そう思わせる。帰り際、屋敷を守っている白髪の老人とほんの少し言葉を交わした時だ。広い敷地に阿夢だけしか姿の見えないのを訝しがって、幼い彼女がどうして当主でいられるか私は訊いてみたのだった。――代々、稗田家を襲名する子は、転生の秘術のために30までも生きられない。落ちた後の地獄での100年に及ぶ苛虐に、輪廻術の死出の準備に数年、実際に話していられる時間は彼女の人生の十分の一にも満たない。
 片や心に苦しむ妖怪、片や恐怖を楽しむ少女、片や神を騙る妖精、片や人であろうとする人、片や嘘を謳歌する魔女、片や子の誕生を待ちわびる母親、片や永遠の書を綴る子――
 名も知らぬ幻想の里は私の眼前にただ、あった。

      *

 石段の中腹で私は霧雨の母に貰ったおにぎりを囓っていた。低い山と謂えども初めの石鳥居はもう彼方の地上。京都駅大階段どころではなく、羽黒山の参道のよう、樹齢数百年は越える巨大な杉並木に囲まれた石段が延々と続いている。傾斜もあまり緩やかとはいえず、段々と空気が薄くなっていく錯覚を感じていた。一口含んだおにぎりは朝食を抜いた身体を活気付けるよう塩気が強く、米の味は素朴で風味が強かった。海苔は無いが、中央には甘く漬けられた梅干しが入っていて味覚に優しい。4つある握り飯の内半分を食して、私は再び階段に向かった。神社の参道に梅干の種を放るのは良心が許さなかったので、仕方なく杉林の奥に投げておいた。数年後に木になってくれれば楽しい。
 木漏れ日が暑く射し込んでくるが、体感温度はむしろ下がっていた。森閑は緑の霞に覆われており、私は未だ見えない神社を目指す。振り向くと、里の景色が一望できた。もし、魔女の杖に跨ったのが昼であったなら、この空を飛んでいたのだろう。長い路を行く私に、道端に咲いた石蕗の黄色が目を休ませてくれる。濃くなった森の香りに、薄くなる空気。息も絶え絶えになって、着苦しくなった頭巾を取り払い髪を振って風を通した。再び腰を下ろして休む。石段を押しのけた杉の根の這い出した影にヤママユが羽根を広げていた。もうひと息。昇り始めた私の足を早めたのは、赤い明神鳥居の影だった。メジロの囀りが長く響いていた。強力な結界の狭間が見える。
 鳥居を潜ると出雲大社、とは程遠い簡素でちっぽけな神社があった。切妻造の寂れた拝殿が見える。手水舎や絵馬殿はあるようだが、社務所らしいものは見えず代わりに渡殿で住居と拝殿が横並びになっている。寺院建築が参考にされているとはいえ、様式が古過ぎる気がしないでもない。けれどままあるものか。賽銭箱の上では雀が2、3匹羽を休めていた。桜らしい樹木が周りを囲むが季節柄葉もなく殺風景だ。左右対称になった灯篭の傍に、色鮮やかな落ち葉を竹箒で纏めている若い巫女が居た。
 あれが魔女の云う兵器、異変解決用巫女か。黒く長い髪に白い鉢巻を締めて、紅白の標準の巫女服を着込んでいる。足元には赤い鼻緒の草履。歳は私と同程度か、背も同じくらいだ。魔女に比べ、平凡過ぎる容姿に舌を巻くくらいだ。声を掛けてみる。
「こんにちは」
「……喧嘩なら買うわよ」
 あんまりだ。戦闘民族なのだろうか。引き攣った笑顔に私はとある事に気が付いた。髪隠しは脱いでもう無いのだった。私は異分子な天狗の仲間。霧雨の旦那さんもさすがにこんな神社にまでは伝えに来てはくれてないみたい。温情に甘えたくなるのは何時だって成された後だ。
「えと、博麗さん、ってあなた?」
「ええそうよ。けど、何? 私を倒して妖怪宇宙一?」
 箒で掃き散らす手を止めて、彼女は懐に手を入れた。まるで西部劇のようだ。確かに人種問題を孕んだテーゼはあるが、私は丸腰、コインでも投げられたら勝ち目はないだろう。ところで、人間の私に巫女の扱う御札や塩が当たったら、蛞蝓みたいに溶けてしまうのだろうか? やられてみたい気もするけれど、そうだ、妹紅は神仙術の炎を使うんだった。危険な賭けだ。私は乗らない。
「相談があってきたの」
「言っておくけど、巫術はあなたにはきっと扱えないわよ?」
 うん。前提が悪いんだきっと。しかし人間の証明とはなんだろう。京都市役所の戸籍謄本なんて意味を成さないし、スマートフォンは魔法の石、メモ帳なんてお食事券にしかならない。髪の色を変えられたら楽なのに。正攻法しか無い。則ち言葉。演技の練習はしてきたけれどあまり役に立たない。正直に話すだけ。間違っても魔女のように戯けたりはしない。
「一応、私は人間なんだけど」
「信じる方がどうかしているわ。もし証明したいんだったらお賽銭でも入れなさい」
 それくらいでいいのか。ただ、私の財布にあるのは日本銀行券で、里で扱えるかどうか不安だ。一応硬貨もあるが私の持っている中で最も価値がありそうなのは、
「んー。これじゃダメ?」
 鞄の中に入っていた三途の六文銭だった。魔女の貰ったがどの時代のデザインにも合わない――何しろ彼女の顔と一模糊という漢字が鋳られている私鋳銭だ。粗悪な銅銭を差し出された巫女は怒り出すかと思いきや逆に意気消沈して、大きく溜息を吐いて賽銭箱を一瞥した。
「……まあ、いい、わよ。他に何か、まあ無いわよね」
 地獄の沙汰も金次第。巫女は随分とフランクで今度は私が拍子抜けする。魔女と知り合いなのか、リアクションには含むものがあった。私が妖精のよう扱き使われたり騙されたりして石段を登ってきたのと勘違いしたのか。物は試しと、政府発行の貨幣を見せてみる事にした。
「これは?」
 一種類ずつ、アルミニウムの一円から、ニッケル黄銅の新五百円玉までの六枚。紙切れにしかならない銀行券の方は温存する。歴史の編纂が輪廻で行われるのなら、福沢諭吉よりも平等院鳳凰堂の方が美術的価値はあるだろう。硬貨を見た巫女の顔は若干晴れて、照れ隠しなのか流し見してこう謂った。
「これと、これなら……嬉しいかな」
 現金な娘だ。指で示されたのは稲穂の模様のついた五円玉と、銅で鋳造された十円硬貨だった。ああ、普通の神社だ。ニッケル硬貨はダメなのか、しかしもし百円銀貨を持っていても差し出すのは躊躇っただろう。残念ながらギザ十は無い。私は、
「ん。解ったわ」
 財布にあるありったけの神社用の五円玉を取り出した。全部で十二枚。お釣り用の十円も六枚出して、鷲掴みした銅貨を持って賽銭箱に向かった。縁起担ぎで財布には一枚だけ五円を残す。
「あ、待って。待ってったら!」
 チャリチャリと音を奏でた私に後ろから巫女の声が届いた。しかしもう銅貨は放ったあとで、勢い良く音を立てて弾み一枚の漏れなく賽銭箱に吸い込まれていった。缶ジュース一個分だ。
「ちょっと、本当に入れる奴が居る!? あー。何か貴重そうな古銭だったけど大丈夫?」
 手水舎で手を洗わずに賽銭を投げた私に対するお叱りはないみたいだ。まず神社に祀られたものを知らないと柏手もお祈りも出来ない。私の懐はあんまり痛くないけれど、迫真の表情で心配する巫女が気に掛かって目的を忘れてしまいそうになる。
「私は平気よ。これくらい」
「き、貴族……。狸が化けているとか無いわよね。いいえ無いわ」
 自己解決した巫女は口振りから、ある程度の選別眼を持っているようだ。私はそろそろ誤解を解きたい。鳶の鳴き声が小さな時間の合間を通り過ぎていく。
「私は神隠しのせいで里に迷い込んでしまったの。稗田家で博麗の名前を出されたから来たのだけれど」
 まず事情を説明してみる。と、彼女は半分納得したようで二回ほど頷いてから私の衣服をまじまじと観察した。ファッションセンターの、高貴でない庶民服。単価が最も高いのは新品で買い入れた携帯電話だろう。数年分の基本料金を合わせると賽銭箱が五円玉で3分の1は埋まってしまう。
「あ、あー。霧雨さんと同じね。疑ってしまってごめんなさい」
 ? 魔女と一緒に彼女は移住してきた、と云っていたけれど。嘘、……を吐くような人には思えない。阿夢の言葉を思い出す。『忘れ去られた者、忘れ去ろうとする者、忘れ去られようとする者。魔にある者、魔に惹かれた者』。色々大変であったと謂う元の世界とはなんだろうか。せめて時代背景が解れば解釈もできるかもしれない。
「博麗さん、ってあなたの事?」
 神主の姿は見えない。この巫女が神力を発揮するのは魔女の談から推測できるが、幾らなんでもこのままでは寂れすぎだろう。メイドやICBMミサイルのひとつでも置いてあればもっと賑やかになるけれど、皆農作業に忙しいようで石段を昇る人影ひとつ見なかった。博麗、とは祭神の名前だろうか? 聴いた事がない。
「ええ。私の事よ。此処には私しか居ないわ」
 一人なのに随分と楽しそうに巫女は言った。そういう楽天家なのかもしれない。
「博麗神社にようこそ。お茶を出すわ。ささ、あがって」

 拝殿に隣接した社務所兼、居住スペースに案内された私は木板張りの質素な居間に案内された。中央には掘り炬燵。籠に入れられた蜜柑を囲んで向かい合った私達は、湯のみに注がれた茶を啜っている。すでに身の上話は済ませていた。
「うーん」
 やはり、というか巫女は頭を抱えていた。炬燵の上に肘を掛けて、行儀悪く顎を載せている。剥いた蜜柑の皮が机に転がっていた。私は新しく蜜柑を摘んで返答を待っていた。『どうすれば帰れるのかしら?』
「実際、霧雨さんを還した事が無いから確証が持てないのだけど、道俣様の力を借りれば何とかなるかもしれないわ」
 阿夢の口走った塞の神、私の眼に例えられた神だ。猿田彦とも同一視されることがある。鼻は七咫、背は七尺、眼は鏡、奇しくも天狗、果ては西洋人である私の外見と一致していた。 
「塞の神としての性質は、注連縄と同じく境界を作る事にあるわ。今回はそれを逆に利用してみましょう」
「どういうこと?」
「鍵が無いのなら向こうから開けて貰うまで。天岩戸を模してあなたの世界の縁を引き出すの」
「……余計に意味が解らなくなってきたのだけど」
 日本書紀と古事記、どちらも描写は異なっている。隠し神を河童の住む山から引っ張ってこれば良い気もするがあれは妖怪、巫女に霊異の力を貸してくれはしないだろう。人を連れ去る妖魔の類は多いが、あるべき場所に返す神は結構少ない。稲荷神社は落とし物を見つけるご利益が多いと聴くが、商売神の延長だろうか? まず私は妖怪に連れ去られたのか。弘すぎる夢に溺れていた私は、当惑に駆られる。
「境界を作るのなら弱める事も出来るってこと。縁と云うのは、因果に変化を齎すものよ。此あれば彼あり、此なくば彼なし、此生ずれば彼生じ、此滅せば彼滅す。云うなれば繋がりよ。あなたと現実世界の距離を縮めるの。ただ、」
「ただ?」
 科学的にありえない。当たり前か。しかし信仰の根付いた里には神威が光っているのかもしれない。但しもし巫女の云う話を鵜呑みにするのなら、私を引き摺り込んだ縁起が向こう、京都市八坂神社にあったという事になる。蓮台野のようあまり立ち寄れない場所ならまだしも円山町には何度も訪れたし、やたらに高い料亭にだって興味本位で入った見慣れた神社だ。あの日、何があっただろう。日常にある異の特定は困難を極める。1%の閃きこそ確率が低いために必要だ。
「最近、無縁塚のあたりに嫌な気質が漂っていてね。何事も無ければいいのだけれど」
 私の通った境から現世の気質とやらが噴き出したのか。幽霊に付属する性質らしいが現実世界では魔女の家にあったような寒気に駆られることは滅多に無かった。妖怪化学反応とでも呼称すべきか。しかし、因果の表象がそこにある。不吉の兆しは希望の明かりの前の闇。方角さえ間違わなければ正しき道。
「それで、どうするの?」
 訊く。私が現実に還る狭き道。隙間の神の行う最古の科学。私の持つお金は里では古銭で、新古乱れた推定未来の巫女が云う。
「明日。早朝に神事を行いましょう。準備をしなきゃいけないし、長鳴鳥も要るわ」
「いいの? そこまでして貰って」
「いいわよ。古銭のお礼。泊まっていってもいいのよ」
 真実を云うべきか、謂わざるべきか。いいや正直になろう。
「泊まっていきたいのは山々だけれど、あのお金、実は大したものじゃないのよ」
「美術的な価値があればいいの。お祓いして曰くつけて好事家に売りつけるわ」
「うわぁ……」
 巫女じゃなくて錬金術師なのかもしれない。案外抜け目がない。けれど石の問題。『石の善は誰が決めるのか』、価値を視たものが中身を作り出す。隠れ里の巫女が祓い清めたものならば本当に効果を示すかもしれない。いや、霊異は起こりうるのだろう。信じるものを救うのが彼女なのか。ホメオパシーやプラシーボ効果でなく、空飛ぶ魔女のある世界の名も無い霊験。運。
「さて、早速用意に掛かるわ。あなたは蜜柑でも食べて寝転がっててね」
 炬燵より上がった巫女は、縁側まで歩いて草履を履くと、とっ、とまるで自然な出来事のように飛び上がった。違和感に気づいた私が畳を這って外観を眺めると、遥か空の向こうに去っていく彼女の姿とそのはためく鉢巻の白が見えた。此処の住民はおおよそ浮遊ができるのか。きっと神仙術なのだろうけれど、もはや荒唐無稽だ。重力を克服するのは容易ではない。基本相互作用に縛られた質量を打破するのは空に落ちるほどに異常な事だ。弦理論に詳しい蓮子なら仮説は作れるだろうけれど、夢オチを信じたい私には、器物も使わず身体を浮かした彼女に期待する他なかった。
 釣りをするのと同じく、長い長い時間が現れた。蜜柑に飽きてきた私は残り2つのおにぎりに手を付ける。お腹が満たされると眠気が訪れるが瞼を閉じる程ではない。炬燵より抜け出した私は、余った梅干の種を桜の根本に埋めに行った。神社の拝殿を目的なく回ってみる。手水舎で口を濯ぎ、手を洗う。申し訳がないような気がしたので、財布の中にある他の硬貨も二枚ずつ賽銭箱に入れておいた。二拝二拍手一礼。紅白の紐を引いて本坪鈴を鳴らす。願うものは再会。蓮子の姿、霊も魔法も信じていない人々の織り成す虚ろな社会。本殿まで廻り、御神体を探すが扉は閉じられて中は見えない。仕方なく神社の周辺の紅葉から虫を探す事にした。白山菊の葉の上に這っている黒と赤の鮮やかな毒蛾の幼虫がよじよじ進んでいくのをひたすら観察する。やる事が少なくなると神社の敷石を数えてみた。100を越えた所で飽きて今度は形を選別する。落ち着かずすぐに手を引いて、結局博麗がやり残した境内の掃除を引き継ぐ事にした。神社の落ち葉絨毯は事実竹箒で片していくとかなりの重労働で、重さよりもその広さに愕然とした。拝殿前面を綺麗にし終わった所で気が尽きて、縁側に転がった。子供のように遊んでいる気分だ。あの頃は一生分気ままに自然を愛でていれば退屈しないものだと思っていた。蜉蝣のようにひらめいた雲の動きは蒼碧を行き、冷たい風が頬を撫でる。同じ空を眺めるのなら蓮子、届かぬ手を伸ばす。
 光陰矢の如し、朱染めの夕暮れが空に注がれていった。境内から遥か照らさるる里を見下ろしていると、天女のように雲を駆ける人影、博麗が風呂敷に沢山の荷物を抱えて帰ってくるのを見付けた。水を張られた盆を紐で肩にかけて、右手には秋の山菜や果物の入った包み、左手は胸に雄鶏を抱えてふらふらと鳥居の前に降り立つ。駆け寄った私は『荷物を預かるわ』と、手伝って風呂敷包みを受け取り社務所に向かった。博麗の提げた盆を見遣ると、鯉が生けられて縁の周りをくるくると回っている。
「こんなにいいの?」大盤振る舞いに物怖じした私が尋ねると、
「旬だからね。沢山採れるのよ。鯉は阿夢からの貰いものだし、それに鶏も神事のために借りただけでタダよ」と博麗は云う。
「鯉? 鶏?」鶏は確かに天の岩戸に出てくるが、
「験を担いだのよ」と語る彼女の鯉の心境は読めない。
 『来い』の意か。むしろそれなら神社に『池』を作った方が的確な気がするが、もし神事が失敗したら飛び込んだ私はずぶ濡れになってしまうだろう。台所の間に鶏を放って、山菜達の入った包みは野菜と果実に分けて鳥には届かない冷暗所に置いておく。鯉を水に満ちた瓶に入れて、足の早いコケモモは塩水につけて保存する。塩はドコから? 鯉の寄生虫は? 一通り終わった所で私達は少しの間、居間で談笑した。夜も更けると霧雨家で食べたような日本食をご馳走になった。精進料理か、買っていないだけか岩魚はない。その後洗い場で、生まれ始めての本物の五右衛門風呂を味わって(湯加減を互いに吹いて調整しあう。一人の時はどうしていたのだろう?)、月の出る前に床に就く。日々のバランスが崩れている私は中々に寝付けず、隣で横になった博麗に何回も話し掛けた。
「博麗さんはずっと巫女をしているの?」
「ええ。ずっと小さい頃に任命されてね」身の上話をしてみよう。
「その、魔女みたいに空を飛んだりするのは魔法なの?」
「内緒。と云うか言えないのよね。術法的に。ただ、森の魔女みたいな胡散臭い代物ではないとだけ答えておくわ」
「ここまで来る途中に自在に炎を使う人間を見たけれど、神仙術で可能なの?」
「神仙術? きっと妖術よそれ。神仙術の効能は修行に近いわ。術は星の数ほどあるけれど、作法より離れた技は妖かしよ」
 人間が扱った事に対する言及はない。
 丑の刻参りのよう呪術は秘匿される事で効果を増すと云われている。模倣、感染。金枝篇に描かれた学術的な呪いの性質だ。精神的な文化の分析のためか、脳科学の情報処理形式を脅かす。『宣言』し、『定義』させ、『比較』する。宣言されたものは個であり、定義にはタグが付けられ、比較のためにネットワークを敷く。模倣は個を失わせ、感染は定義をブレさせて比較を困難にする。単一であり全てなるものとする法。ヨグ=ソトースは全でも一でもある創作神だが、無数に泡立つ触角と不定形はまるで後の人々に空飛ぶスパゲッティモンスターのようデザインされてしまって、そのジョークはID説の批判のために生み出されたのだったか。創造科学の歴史は浅く、人類史よりも若い。ID=個体識別、恒等写像、知的障害にイド。無知のアクロニムは様々に感染する。衒学の解釈は無際限と永遠の探求。あるものはあるものに連鎖してある。縁。善し悪しを決めるのは作法であり石の善。
 つまるところ彼女の行う魔法的飛行の日常は、意図により神々に保証される。今では私の現実世界へと繋がる蜘蛛の糸。ドグマ95が私の人生。純潔の誓い。
「をぼこ?」
「ちょ、何てコト訊くのよ。仮にも巫女よ?」
「気になったのよ。霧雨さん見てたらね」
「もう早く寝なさい!」
「はあい」
 一日は冗談で終わる。配偶者のため働く男性に、子を持ち育てていく女性の美徳は、幼少の頃教えられる理想だ。武家社会では生まれこそ職で一生の責を負う。身分が高いほどに彼が機能しなければ下々がみな崩れる連立の権威だ。しかし性別のよう文化以前にある区別も文明を特有の色に染める。幸福の保証はなく、才は使わなければ勿体ない。けれど、どうだろう。私は蓮子と居られるだけでいい。出産への羨望は無い。巫女のよう、幽明にひとり伏す。単なる想像の域だが、この、私の神隠しは、隠し神による拉致や、境界のブレなどではなく、夢の具象も無く、私の――
 帰るその時を眼前に控えて、眠る。

      *

 ―六日目

 伊弉諾物質。日常に溶け込んだ不可思議は、アニミズムの蓋を開けると途端に飛び出して、世界八百万の万物をモノへと昇華させる。そうならないのはきっと気のせい。神話の名残は形あること。科学の進歩は光線の形を鏡像としてあらゆる幻視を定めたが、波が揺れ動き粒が漂う、雨が降るという異の叢雲を作り出すのは、絶妙な地表と空気層、それら法則が絡み合っているからだ。思えば、地上に垂直に建造物が生成されていくのもおかしな話だ。質量が重力を伴うのも、あらゆる原理はただそこにあり、神の振った賽の目は人々の眼に触れて初めて偶然と呼ぶのだ。
 私とメリーは秘封倶楽部を結成してから随分と考えが似てきたような気がする。変形菌の配偶子のよう情報を交換しあい、今や私は民俗学に、メリーは物理学を齧るようになった。
 オルゴン・ボックスの中には猫が入っている。最近はそんな冗談も云えるようになった。動物磁気はバイオリズムのよう人体を干満する。気は【注意】。これらに共通するのは心の向きだ。雲を掴むような話はクラウドバスターにより足を止める。『3つ数えた私は箱を開けない』。葛篭の中には忘れられた付喪神。百歳に、一歳足らぬ、白の彩り、こそに描かる。
 つまり私は取り留め(鳥止)のない想像に身を焦がす。今や私の脳味噌は雀の休憩所。メリーは何を考えているのだろう。思いを巡らせばいつかは辿り着ける。何故なら似たもの同士の知識欲。答えは知らないが路は近い。途方も無い夢に放り出されたら、きっとこう感じるだろう。『夢中夢?』。私は物理的な夢の解釈の論文の題名を書き換えた。結局、有用でないレポートは切り捨てられるのだし、心の中に隠しておこう。ファイルのテキスト名はU。適当にキーボードを叩いて作った。不可思議なものに元来名前はない。さて、
 魂を構成するものとは何か? 幽霊(ghost)であるなら、機械翻訳的には北欧(celt)に還元されるはずだ。ドルイドの持つ樫の杖(oak)は逆叉(orca)に移り、入れ替えれば偶(たまさか)となる。冗談は置いておいて、物質的な側面で観る色物ブラックホールと毛の関係を引き合いに出そう。漸近的に平坦。唯一性を消し去るため不カー解とすれば事象の地平面は古義とエルゴ球を持たずに済む。新しいシュヴァルツシルトは文字通り黒い盾、騎士の分別のための紋章(crest)が描かれて、違いの分かる歪みは定冠詞を取り付ければその模様が極致(the crest)。重力を越えて万物を観測できるようにする動的増幅器がtheならば神学的(theol)に寿命の終わり(End Of Life)に気を付けなければ。The(鑑定士)の神を信じずに永遠を求めるならば残るのは、T。H。極北、遥かなる目標(thule)はより国際的(le)に定冠詞(男性名詞)を削れば、不思議なのはU。ちょうど3つ数えた私はtheの威光より答え(E)を怪異に妖しめるよう、2つの冠詞(the.le)の中央をUに変えてしまう。よって私の手段は、
 つまりE=U。そんな馬鹿な。(x=?)
 メリーに問い掛けたい。私は今何処にいるでしょう?
 原点には答えなんてない。けれど始まりはある。
 空想の話を昔、メリーに聴いた。
 因果、縁起、応報、成就、結界、童子、由来、知性、化身、平等、恩恵、賽、輪廻、遊戯。きっと彼女なら魂に刻まれた日本の原風景を夢として視ている、とでも言ってのけるだろう。魂の構成物質。物理的な夢の解釈。ああ!
 問題は幽霊の材質。コンニャクなら楽だけど。いっその事、幽霊と霊魂が別ならば嬉しい。そういう種族が居たり。じゃあ、結局、霊魂は?
 浮かばれない魂が地縛霊として、では21gの質量が地球に引かれない理由は? 重力を越える力とは? 万有浮力?
 魔法的なイメージは精神パワー、修行より生み出されるのだから、心を浮かび遊ばせる力、則ちお酒か。もしくは、ベニテングダケ。ジャンプ力が凄ければとてもスーパーになれる。
 約束を前にした私は言葉に遊び奉っていた。元より、遊とは依り代に憑いた神を顕す象形文字だ。隠れんぼはもう終わり。鬼の私がそろそろ彼女を見つけてやらねば。私は、メリーの隠れ場所を知っている。何しろ、次を言葉で伝えてしまったからだ。未来を自分で教えてしまった。不慮の事故さえ起こらなければ、私はきっと――
 あるのは狂気でも諦観でもない。期待だった。多く考える内に身に沁みたのは私の遅刻癖だ。今度こそ約束の時間に。
 しかし、私が悉く遅れてしまっているという事は、メリーは一度足りとも……
 縁の糸の切れていない事を祈ろう。祈れ。とにかく祈ればいい。
「もーいいかな?」
 
      *

 大体わからないと云う事が大体のみこめた。
 私は実験冒険家マエリベリー・ハーン。幻想の地を踏み幾星霜、もはや一生分の魔法体験をした私の身体は6回目の朝を迎えた。
正に『当惑され、し続ける』。さて起きた事を順々に語っていこう。まず初めに私を整理しよう。私とは――

 色彩鮮やかな秋は深海のよう鈍い群青に包まれている。豊穣を祝う雀の声もなく、私は肩を叩かれた。布団の温もりの微睡みより目蓋を上げると、博麗の巫女が正装――昨夜の就寝時は唐物のフリルありパジャマを着ていた――に着替えて、枕元に立っていた。禊を行ったのか黒い長髪が少し濡れている。神社の居間の天井は煤けた板色で、私はゆっくりと身を起こして開け放たれていた障子戸に振り返った。緑陰は昏く、日の出を控えた黎明が夜を色濃く残していた。冷たい風が闊歩していて、意識が薄い内の私は布団を開けるのを躊躇った。ワンピースを含む衣服は寝床の隣に畳んでおいてあり、薄めの浴衣を借りて寝転がっていたこの身体は寒さに弱い。大幣を持った巫女が云う。
「さ、そろそろ始めるわよ。準備して」
 何だろう。一瞬想起が遅れたが、神事があるのだ。名前はないがあえて云うのなら昇人神事。もう。炬燵を占領する猫の心理を抑えこんで、私は布団を抜け出した。現代人の防寒具、紫のワンピースにファーケープ、白のフリルブリムに通信機器入りの鞄を身に纏って、身の先の準備はする。居間の寝台を部屋の脇に固めて、巫女と一緒に縁側に躍り出た。彼女は再び訊いてくる。
「ひとつ質問したいのだけれど、『現実世界』に由来、縁のありそうなもの、無い?」
 縁? 神事に必要なのか、確かに文明機器は持っている。
「えと、あるのは……スマートフォンに、化粧水、メモ帳とペン、お財布に、ペットボトル。あとは自転車の鍵」
 どれも霊験のない、必要最低限の荷物。電波のある携帯電話くらいが宇宙に届きうる光か。用途により形が最適化されたそれらを見て博麗は、
「んー。名前云われても分からないけど、これと、これと、これなら使えそうね」
 と、指で差して見せる。スマートフォンと、化粧水。そして自転車の鍵。関連性は良く知らないが、形を選んでいるようだった。もうひとつ彼女は尋ねた。
「あとーは、そうだ。神隠しの時、どんな場所に居た?」
 見た事も無い場所だった。普通、結界の向こうならば、繋がり的にこの博麗神社が見えていても良かったのだけれど、私が八坂神社の敷地内で出会ったものは古い、小さな、
「初めて行く神社の裏手だったわ。水楢の木があったと思う」
 何だったのだろう。巫女は私のお金を前時代的だと称したが、里の文化様式は数百年昔の隔たりがあるように思う。天鳥船神社のよう夢に存在するミステリースポットか。ならばその祭神が道俣神、もしくは隠し神だったのだろうか。阿夢の云う忘れ去られようとするもの。蛇毒気神か? 胞衣や月水、月のものの神らしいが正確な記述は少ないらしい。
 以前、ソソウ神の由来を調べていた時に、元々あったソソウという日本語に、粗相という仏教漢字が当て嵌められたのを知り、バアル神と同じく神仏習合の、諏訪信仰に対する牽制ではないかと疑った事がある。ミシャグジが塞の神とされたのは、ソソウ神と双体道祖神的な意味合いがあったのではないか? 狩猟民族にとって太陽神は必要なく、則ち、諏訪山古墳にある石室と御室神事は、選ばれた贄子の精通や初潮に関する分泌信仰であったとする説。一ヶ月ごとに来る月のものは蛇神の具現であり、神は諏訪湖に帰るために胎から出てゆく。冬であれば稀に御渡る。蛇毒気神の失われた伝承に境界の意があったのだろうか?
「裏手ね。付いてきて」
 神仏の事は巫女に任せよう。私の妄想は考古学的な役割しか果たさない。彼女の背中を追うと、拝殿を通り過ぎ、本殿を更に越え、神社の裏手、確かに水楢の生えた夜明けの森厳が存在した。澱んだ闇に色を奪われた紅葉をパキリと踏んで、進んでいく。十数メートル歩んだか、神社の本殿の裏壁がまだ見える森閑で、博麗の巫女が足を止めた。ひとつの水楢を選び、多方から幾度も眺めた。
「これで、いいわね」
 呟いた彼女は大きく息を吸うと、三種の大祓の祝詞を宣った。
「トヲカミヱヒタメ 坎艮震巽離坤兌乾 祓ひ給う清め給う」
 次いで大幣で四方の森を祓っていった。次いで袴から細い紙垂付き注連縄を取り出して先程の水楢に回していく。良く眼を凝らすと、若干の結界の切れ目が見える。博麗はこれを目安にしたのか。御札を取り出して周囲の木に六角形になるよう均等に貼り付ける。そして私の傍に歩み寄り、
「少しだけ待っててね。出ちゃあダメよ」
 と囁いて神社の敷地へと戻っていってしまう。清浄となった簡易神籬に、しばらくすると博麗は二種類の案(机)に三方(器)を運んできた。依り代の前にゆっくりと慎重に安置すると、慌ただしく巫女は再び何かを取りに社務所へと戻っていった。器には昨日収集した食物――神饌が乗っていた。中央には白いお米を初め、蓋されたお酒になめこに太鼓のバチ、牛蒡に山芋、木通と栗に、紅白の白玉木と苔桃、盛られた塩に、調理された鯉も飾られている。太陽が昇り始め、森に明かりが射しこみ始めた。小桶を腋に抱えて手には榊の玉串、腰には大幣に剥き出しの榊の小枝、胸には鶏を抱いて巫女がぱたぱた走り寄ってくる。彼女は鶏を木の前に下ろすと、玉串を私に無造作に渡して、桶を足元に放る。準備の整った神事は博麗の修祓で始まる。
「掛けまくも畏き伊弉諾大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる祓戸大神等 諸々の禍事罪穢れ有らむをば 祓へ給ひ清め給へと白す事聞こし召せと 恐み恐みも白す」
 告り終えると大幣を大きく振り神饌に鶏、依り代に私、玉串に桶に鞄すら順々に洩れなく祓っていった。続いて榊の枝に持ち替えて、塩水か、桶に張られた水を葉に含ませて神前にあるものに満遍なく振りかけていく。すると、一通りの祓いを収めたようで、今度は私に向き返り、
「アレ貸してね」
 と小さく呟いた。博麗の巫女は何を想定したのか、鞄から持ち上げたスマートフォンを鉢巻のおでこの部分に巻きつけて、懐から出した縄に自転車の鍵を通して首に掛けた。彼女はまたも再拝し唱えて、
「掛けまくも畏き 博麗神社の大前を拝み奉りて 恐み恐も白さく 大神等の広き厚き御恵を辱み奉り 高き尊き神教のまにまに 天皇を仰ぎ奉り 直き正しき真心もちて 誠の道に違ふことなく 負ひ持つ業に励ましめ給ひ 家門高く 身健に 世のため人のために尽さしめ給へと 恐み恐みも白す」
 大幣を力一杯に振ってみせた。と、突然に、
「オォーッッ!」
 何事か見渡すが幽霊の影もなく、声は巫女の腹から響いたものであった。警蹕というものか。神降ろしがついに来る。
「掛けまくも畏き道俣神 この神籬に天降りませと 恐み恐みも白す」
  境界の眼は霊異の結界の遷移を確かに覚える。
「広前に 秋の垂穂の 八握穂を 持清まはり 
   御炊きて 供る御食は 柏葉に 
    高らかに拍つ 八平手の 音平けく 安けく 
     神は聞きませ 宇豆の大御膳」
  献饌を倡えて神饌の蓋を開け放つと、
「高天原に神留り坐す 皇神等鋳顕給ふ――
  博麗は私の鞄より化粧水を取りあたりに振りまき、
「十種瑞津の宝を以て 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊に――
  神楽鈴を懐より出して舞い始める。
「授給事誨て曰 汝此瑞津宝を以て――
  紅白の衣は朝日に煌めき、
「中つ国に天降り 蒼生を鎮納よ――
  鈴の音は水楢の森を高らかに響く。
「蒼生及萬物の病疾辭阿羅婆 神宝を以て 御倉板に鎮置て――
  黒髪は闇より塩湯の粒を纏い、
「魂魄鎮祭を為て 瑞津宝を布留部其の神祝の詞に曰――
  祝詞は幽寂に融け往きて卍巴に、
「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 一二三四五六七八九十瓊音――
  地響きは紅葉の枯れ散る綸子の音模様。
「布瑠部由良由良如此祈所為婆――
  嵩く掲げし紙冠は八咫鏡、
「死共更に蘇生なんと誨へ給ふ 天神御祖御詔を稟給て――
  八尺瓊勾玉を幼き胸に悠く挿して、
「天磐船に乗りて 河内国河上の哮峯に天降座して――
  舞う巫女は迷いし児が為。
「大和国排尾の山の麓 白庭の高庭に遷座て 鎮斎奉り給ふ――
  世は幻想戯れど虚は多く蔓延り、
「號て石神大神と申奉り 代代神宝を以て――
  妖怪跋扈祖霊彷徨分かつもの無く、
「萬物の為に布留部の神辭を以て――
  奉るものは浮遊き博麗。
「司と為し給ふ故に布留御魂神と尊敬奉――
  是と歌を好くもの古く書を綴り、
「皇子大連大臣其神武を以て 斎に仕奉給ふ物部の神社――
  個の霊異を広く酔わしめたり。
「天下萬物聚類化出大元の神宝は――
  陰陽為す玉は空の徳を誘って、
「所謂瀛都鏡邊都邊八握生剣 生玉死反玉足玉道反玉――
  針と幣にて魔なるを封ぜし。
「蛇比禮蜂禮品品物比禮 更に十種神――
  なおも結で縁集めし祀りの終い、
「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 一二三四五六七八九十瓊音――
  懐かしくも尊い東方の血、
「布留部由良と由良加之奉る事の由縁を以て――
  夢知る不思議を此の眼にとぞ、
「平けく聞こし召せと 命長遠子孫繁栄と――
  磐座神籬一銭に魅せ魂潜り、
「常磐堅磐に護り給ひ幸し給ひ 加持奉る――
  異を正して己よ気楽を白す。
「神通神妙神力加持――
 結界の隙間がより強く惹かれ、虹色が見えた。紫の奥に透明の見知らぬ空間が覗いていた。言葉を失った私の耳を、鶏の鳴き声が劈いた。天の岩戸が開くよう、あらゆる準備は整った。不可視の神は神籬に降り立っているのだろうか?
 暁は神使、舞い踊る博麗の姿を神秘的に浮かび上がらせて、幻想を描き出す。境界の形の変化はあったが、どうしてか霊異に手を触れる事は出来なかった。巫女は私の手より玉串を賜り、神前に奉奠する。私は眼を閉じた。 
 強く願う。蓮子の世界。現実世界。夢の向こうの日常。つまらなくもない機械化生活。神降ろしの鈴の音、幣を降る風、やがて帰る場所。祈る。
 瞼の奥の闇は変わらず、耳奥の環境もそのまま。信じよう。もっと。もっと。
 ………………………………………………
 博麗の巫女の警蹕が高らかに木霊した。

 是をあるべき処へ――

「何か、変わった事あった?」
 私に尋ねたのは、――蓮子ではなく博麗の巫女だった。お開きになった神事は撤饌を終え、昇神詞を述べて神籬も撤去された。神は私より先に還ってしまい、祭りの跡が残されるだけ。都合の良い神様だ。いいや人間か。眼に映る境はままだが、事は終わりを告げ、酔いのように優しくない夢は何時になっても醒めない。失望が襲うより前に、去来したのは諦観だった。遍知、滅除、成就、修習。苦を越える手順の行方に答えなく、苦諦の当然が身を焦がす。秘封倶楽部は霧消して、生き、老い、病み、やがて死ぬ。だが、此の魔法世界では四苦すら謳歌できないだろう。ああ、お伽話は鮮やか過ぎる。
 蓬莱の薬は紅き生の境界を失くし、
 捨虫の法は飢える知の際限を消し、
 付喪に精は悩みも恐れも飽きも弱く、
 霊魂の光は3つ眼に未知を映さない。
 寂しがり屋の私は、きっと人間をやめてしまうだろう。確かに、現実世界では喉から手が出るほどに欲しいもの。フィクションではデメリットばかりが取り立たされるが科学の進歩は足を止めない。開発されたエチオピクスダイヤルはどんな気分にでもなれる理想の狂気の産物だ。至福は救いか? 理性を使おう。
 神の去った地はいつか廻る縁でこの神社の裏手に何か、境界でも作るのだろうか? 今や直会の始まった後の祭りで、私と巫女は行儀悪く喋りながらお供えを戴いていた。
「眼に見える結界にちょこっと色が付いたくらいかな?」
 升にお酒を注いで貰い、私は答えた。神饌を肴にして語り合う。
「道俣様は確かに降りたはずだけど……私の修行不足なのかな」
 私を尸童にしたとして失敗しただろう。何となく理解する。私を引き摺り込んだ力は神や妖怪と云うよりは、由来の無い幻想なのだろう。例えば名前のまだ付いていない現象のよう、ラプラスの悪魔みたく確率と確率を隔てる境の上に立つ何か。波と粒との論争のよう揺蕩う間の不確定そのもので、魔女の如くの姿すらない、今生まれつつある物理法なのか。
「多分、不可能なのよ」
 弱音を吐く。約束には間に合いそうにもない。
「いいえ。気は長く持ちなさい」
 諭された。活き造りにして内臓を取られアライにされた薄い鯉の刺身を食して博麗は云う。箸で追って摘まむと、若干の時間経過のためか身は固めだったがワサビ醤油につけて口に放ると中々美味しい。私が恐れるのは約束の破棄でなく、蓮子を忘れてしまう程の空気の良さだ。明日、明後日、一週間、一年はまだしも、死の恐怖に怯え、魔に魅せられて、十年、百年、永遠。この幻想世界で楽しく過ごす私の姿は、今現在の私にとって苦痛の光景として映っている。だが、哀しみや怒りや恨みは、人生に於いて心の中の燃えさしにしかならない。想い出に対して精々出来る行動と云えば、幸あれ、と願う事くらい。歩き出そう。私なりの答えを探そう。魔法は確率と無限のカオス。私は想起する。あらゆるものがあり得るのなら、無いものなど無い。破壊活動に浅ましい現代人の私は、背負う業のまま、環境を利用しよう。
 昼御飯はなめこご飯。朝日は過ぎ、舞いの尽きた神場に、高く昇った太陽が降り注いでくる。
「そうね。私なりにまた縁を探してみるわ」
 博麗へと答えた私の顔にもう曇りはなかった。正直、『無理』と云われてしまえば泣いてしまうだろう。私の心の殻はボロボロだ。気を落とせばすぐさま巨大な不安に襲われるだろう。私を苛むものは、ifだ。妖怪を神社に招待出来るのなら、小傘を呼んで全ての恐怖を食べて貰いたい。惑う視線は木々の間に人影を捉えた。いやまさか、
「よ。珍しい宴会に来てやったわよ」
 怪しい声は魔女だった。鍋をつつくマリーは妖怪雑食性を持ち合わせているだろうか? 隣で栗を剥いていた博麗の顔がとても嫌そうな、軽蔑の表情に変わっていった。魔女は巫女にとって悪いお客様なんだろう。
「あなたはお呼びでない。何? 何か用?」
「んー。試食に来てやったんだ。そういう神事でしょ?」
「違う違うわ。根本的に全て違う。そもそも妖怪が縁ある神饌を食べようとしないの」
 意図があるのか、それとも天然か。マリーは神社に訪れたのだろうか。私とは手にある大幣を構えない事から、犬猿の仲ではあるが敵対はしていないのが判る。それとも拮抗しているのか。魔女はほんの僅かな微笑みを浮かべた。眉を曲げて睨む博麗。
「あのねぇ……」
 説教する瞬間に、素早い動きで果物に手を伸ばした魔女をサッと博麗は流した。意地でも饌案には近づかせない。マリーは巫女に向き直り、訓戒を口に出そうとする彼女を遮るよう余裕の表情で指を振って注目を集める。
「チッチッ。聴いて驚くな。単なる妖魔じゃもう私は決してない。私の名前はマリーさ!」
 自信満々に与えられたものを名乗る。そんなに重要なのか。対する巫女はすっとぼけて、
「マリーサ? あなたは単なるひとつの妖怪。魔女である以上の権限を許さないわ」
 と、ついに大幣を振りかぶって彼女に対峙した。一触即発の状態にされて興が冷めたのか、魔女は拗ねたような顔をして、
「解ったわよ名前は捨てるわ」
 あまりにも簡単に諦めてしまう。彼女にとってはあらゆるものが過程で価値を成さないのか。ただ戦いは不毛なのは幻想でも同じ。戦闘はブラックホールを脱毛させる。
「けれど、マリーサとは。面白い名前だ。今度弟子でも取ったら名乗らせてやろうかな?」
「悪巧みかしら? 容赦はしないわよ」
 目の前で進む寸劇を観覧しながら、私はただ食を進めていた。残念ながら、二人がどうあろうと私の残留は決まっている。成り行きを見守ろう。
「いいや暇なだけさ。遊ぼうぜ。境内でも散らかして」
「悪ガキかあんたは。そもそも自分の神社をわざと散らかすなんてすると思う?」
「ああ」
「……」
 天邪鬼な魔女に巫女はうんざりして大きく嘆息した。何と例えるか見ていて飽きない漫才のようだ。ほんの前まで失望に荒れていた私の感情は修復されていく。もう気を長く持てそうだ。
「ともかく、メリーさんを誑かして名前を持とうなんて考えないことね」
「あー? 何のことだか」
「あなたでしょ。六文銭渡したの?」
 あれは何の意味があったのだろう。私を魔の眷属として置くマジックアイテムなのか、監視する発信機なのか。けれど、魔女の語った価値観から察するにそのまま意味、三途の川の渡し賃なのだろう。けれどあの柄を見たら地獄の鬼だって困惑しそうだ。どちらにしろ傍迷惑なだけか。
「まあね。けど安心しなよ。もう名前遊びは終わりにするわ」
「どうだかね」
「嘘吐きを信用しなさい」
 名前とは、結局何だったのだろう。巫女が名乗りを許していないせいで余計に深い意味があるように思える。個を示すもの。そして、魔女は魔女。定義された怪異には人数制限がある、そんな隠しルールでもあるかのようだ。
 つまり魔女が魔女と呼ばれる限りウィッチは彼女だけ。もし、魔女が複数居るように里の人々が信仰すれば、則ちマリーのよう名を持ってしまえば、曖昧な『森の魔女』は、ひとりの魔女として扱われる。結果、森の魔女のマリーとなる。阿夢曰く、魔に惹かれても神隠しは訪れる。魔法と現実の境界の薄いこの世界では、『他にも居るかもしれない』という杞憂が道俣神の手になる。
妖精、精霊、幽霊、亡霊、似たもの同士と連想される彼女らにも名前を与えるのなら正にキリがない。異変解決の巫女は怪異を嫌い、里の境を保つ。それは日常を守るために妖怪のある日々を調整しているのか。
 しかし、疑念が神隠しのように魔を引っ張ってくるとすれば、私は金色の髪で……霧雨さんが私を導いた? 里で身篭った子に名前を付けられるのなら、彼女にもすでに名前が、
「大間違いよ。お墓にすら名前を刻むのを許さない」
「厳しいな」
「それはそうよ。妖怪の中でもあなたは最も人間に近いのだから。名前を無くして忘れ去られるまで里の脅威には変わりないわ」
「ふむ。ではもし私が人間を憎むように死んだら、その時初めて自分自身に名を付けてやろう。禍々しく妖艶な、巫女も身罷る魔の名前を」
「その時はあなたが異変ね」
「私を斃すまで決して倒れないでね」
「……もともと冷めてるけど、刺身でも食べていきなさい」
 何処かが冗談だったのか、もしくは日常茶飯事か、どうやら話は纏まったようだ。早速、魔女は刺身に手を付ける。蛞蝓のように蒸発はしないようだ。魔法遣いの肩書きは意外に便利かもしれない。彼女は私に眼を合わせると、何かを思い出したようで、一瞬動きを止めてそして、つかつかと歩み寄ってきた。
「そうよ。これを渡そうと思っていたの。お土産」
 魔女は杖の先端に引っ掛けられた畳まれた紙束を私に譲ってきた。何だろう、と伸ばしてみると見覚えのある、小傘から貰ったあの妖怪提灯だった。相変わらず笑えるデザインだ。
「あ、こら。変なもの渡さない」
 元々妖怪のものであるし、提灯に目を留めた博麗は怪異を疑ってお土産をふん掴もうとするが、魔女が間に割って入って邪魔をする。
「おっと。もうあれは普通の提灯よ」
「普通じゃなかったってコトじゃない」
 無理に押しのけた巫女は私の前まで駆け寄って、提灯の上の隙間を覗きこんだ。昼夜常に薄紫色を灯していたあの光はもう無く、ただのダサい照明具だった。難しそうに目を細めて、匂いを嗅いで、
「まあ、これくらいなら」
 と諦めた。背中で魔女がニヤニヤ笑っている。まるでそう行動を起こすように操っているかのよう。
「巫女があんまり人を疑わないでよね」
「あんた人じゃないでしょ。もー、言わせておけばさー……」
 真面目な巫女と物臭な魔女との口喧嘩が始まった。天照の恵み日は天高く吠えて、風なく色彩豊かな秋の温もりが里を包んでいく。神社の裏には楽しそな喧騒が2つ。私は見守る2つの眼。永遠を示すよう神は柱の何処にでも存在し、暮らしに組み込まれる。心配事は蓮子だけ。疑問は幾らでもこの幻想世界に散らばっている。数では比較にならないけれど、私は選んだ。不思議は不思議のまま、置いていこう。
 イザコザが終わって三人で縁側でぼっーとする猫の時間を少しだけ味わって、私は里に降りる事にした。理由は勿論、探索だ。冒険でなく、違和感の発見。私は帰還を夢見ている。三角頭巾で隠居して、畳んだ提灯を抱えて田園を彷徨い歩く。どうすればいいか。時が教える前に発見してしまおう。1%の閃きは決して低確率じゃない。様々なドラマはきっかけで意識を変えるが、私にあるのは膨大な思考の時間。フィクションと違い、私は経験則で独りの時間の重要性を知っていて、思えばいつだって自己完結。人間は至って頑固だ。自分の尺度はそう変えられない。物理学の式を短縮させるよう、巨大な数を纏める地味な作業。私は、浮遊できない、飛び上がれないのだ。
 すると、何かをやがて越える。結局足は彷徨って、私が越えたのは霧雨道具店の敷居、暖簾をくぐって彼女に会いに行ったのだ。

「んー。久し振り。元気だった?」
「昨日振りね。こんにちは」
 軽く挨拶を交わす。相変わらず旦那は出稼ぎ、彼女は草鞋を編んでいる。間取りも変わらず、品もあまり変わっていない。私は頭巾を取り払った。まるで親子のよう――
「どうしたの?」
 他にも異人が居るかもしれない。グローバル化を招いた京都駅でアングロサクソンを見るのは別に珍しい事じゃない。人間の里には純粋な日本人が、それは輪廻を行う一族が居るほどに民族は閉鎖的で、彼女と私は違和感の点だ。同じ縁の髪色。私の顔色が疑念で曇っているのに感づいて、霧雨の女性は尋ねてくる。
「どうすればいいか、わからなくなっちゃってね」
 答える私は正直に。終着駅となるのか、彼女は道俣神の手なのか。子供の居る羨み。髪の違う蔑み。村落の人間の共通認識、それが『まだ居るかもしれない』という杞憂に変わった時、畏怖が妖怪を生むように、里の総意が現実から私を神隠す。霧雨の髪が平等にあるように。たった独りでないように、ただの一人とするように。畏れが外の世界の手を引くのだ。魔女の名前が奪われているのは、その種族が唯一神のよう単一であると里に錯覚させる事で、更なる怪異の流入を防いでいるということ?
 いや、仮説か。信じられない。
 信仰を集めるほど、人望を持つほど、魔法的な力は増す。忘れ去られた漂流者を際限なく受け入れる反面、幻想世界で覚えられてしまった杞憂の存在が外より連れてこられる。これが神隠し?
 死神も鬼も居るということか。だから妖怪が集まる――
 漂流者が来る限り文化の流入は止まらず、やがて違う文明圏の吸血鬼やら僵尸も集まってくる。では、私は何か。いいや。違う。
 なまはげに固有の名前は付けない。子供に言い聞かせる時は、マリーは名前を呼ばれず魔女と云われる。小傘は? サトリとは違い、彼女は妖怪の種族を自覚していなかった。妖怪達が互いに対してフレンドリーなら種族の統合も解るが、唐傘お化けならその名の通り呼ばれるはず。別に名前のあるという事は、以前より複数居た? 誰かより付けられた? ん? そもそも妖怪の線引きって何?
「わからない時はゆっくりしてもいいのよ」
 役に立たない。神隠しの法則を自分なりに定義したが、考える内に破綻していたようだ。また初めから。霧雨の女性は偶然で此処にいて、私は運悪く神隠しに遭った。けれど偶気を手繰るのは神の糸で、しかし神々の加護を持ってしても私の世界の壁は厚い。妖怪が集まるんじゃない。怪異が沢山起こる時代なのだ。里の周辺だけでなく、信仰の活きた地すべてが苛まれる魔法の副作用なのだ。機械文明を選択した私の現実世界の人類の英断は、外敵から身を守るという意味では正しかったのだろう。
 どうして私だけ飛び越えた。だけ?
「ひとつ聞いていい?」
 最初は夢の延長だと思っていた。何しろ現に筍を持ち帰っている。私は霧雨の女性の隣に座り込んだ。夢の世界は魂の構成物質の記憶。幻想旅行は眼を形作る体質なすもの。ミクロコスモスの宇宙論。しかし、脳内にしては夢中夢の頻度が倔い。なら、
「いいわよ」
 相互関係の世界論。あちらにもこちらにも私は存在する。いいや、良く考えれば、夢は全人類共通の遺産で、皆が皆、どちらの世界の側にも繋がる魂を持っている。じゃあ、現実世界では魔法のメリーが蓮子と今頃秘封倶楽部をやっている? けれど、50億を超える霊長類達にその意思交替の兆候はなく、誰もが意識は続くものだと信仰するだろう。もしパラレルワールド全て足し合わせても私はただの今のこの一人で、夜の夢だけこの世界に現れる妖怪のような存在なら……
「昔、どんな町に住んでた?」
 では、この幻想の住民の夢は何処に消えるのか。夜訪れる妖怪が当然の仕組みとなっているように、現実世界では当たり前となったもの、例えば発明を行うアイデアや創作を描く物語。彼らの夢は閃きとなり私達の脳内に流れるのではないか。いいやでも、夢の種類は沢山で、ともすれば魂の構成物質は波や粒の地平にすら繋がっている。考察は多く、足をつけ難い。幽霊の見えない私は、どうやって魂を視て夢に変換しているのだろう。
「うーん。あんまり振り返りたくないけれど、悩んでいるみたいだから教えてあげる」
 草履を膝において、大きな腹を抱えながら彼女は答えた。道具店の外は明るく商人の声が耐えず、店内は藺草と甘い、彼女の髪の香りが漂っている。夢。全人類は夢を旅する方法を生まれつき備えている。魂は稗田家の宿命を決定づける。
「私の故郷はね。三角の屋根のある煉瓦の町で、良く小麦の焼ける匂いがしたわ。季節の変化はここほどもなくて、いつも暖かかったり涼しかったり。蒲公英をよく見かけたわ」
 私はどうして此処に居る。夢の構成物質は、――ループだ。
 原点に戻るのは謎の極地。そこに答えがあるならばとっくに。
「けどね。教会と権力の摩擦が激しくてね。『魔女に与える鉄槌』みたいに。けれど、良い場所だったわ。未だに夢に見るもの」
 夢は回想である。私の視る回顧録は遺伝子の向こう、魂にある幻想の里で……? 夢を想う事は回廊である。骨子だけを取り出してみよう。
 ・私は何故か、京都市から名も知らぬ里に飛ばされた。
 ・原因は不明。
 ・縁は蓮子と会える可能性。世界を繋げそうなもの。それは、
「ね、メリーさんの故郷の話も聴かせてもらえない?」
 私の、眼だ。
 訊かれた私は論理から脱して思い浮かべる。
「私の世界は、石造りの街で、機械で動く車が沢山走っている。夜でも光に満ちていて、距離があっても人と会話ができるの。学校にはカフェテラスがあって、良く友達の蓮子と利用してる」
 此処に来てから、博麗の巫女の強い結界しかまだ視えてないけど、いいえ、まだ見えてないからこそ、私の眼は、
「けど、嫌な人達も一杯いるわ。貧乏でも無いのにお金のために悪事を働く人に、話し合おうともせずにずっとイライラしてる人。けれど、まあまあ悪くないのよ」
 ずっと幻想が視え続けていたのだ。此処に居る事自体が眼の力。なのに、天秤が戻らない。神の手に負えない形は目の眼。しかし、神社よりも霊異な特異点など存在するものか。
 いや――
「何だ、私もあなたも楽しそうだったじゃない」
「そうね」霧雨の女性は過去形を使っていた。私は気になって、
「もうひとつ聞いていい?」
 無意識に尋ねようと言葉を形作っていた。
「どうぞ」誘われて彼女は受ける姿勢を作る。
「どうして残ろうと思ったの?」勢いは肺から空気を押し出した。
「それは……」         !
『ヴわン!』
 咆哮。軋む木――に割れる音。背後から起こった不吉な振動は霧雨道具店を突き抜けた。驚愕に振り向くと、裏庭の木柵が折れバラバラに転がっていた。台所の小さな空間に黒い影、彼岸花の上で追ってきたような暗黒の丸がそこにあった。いや、違う。
 熊だ。様子が変だ。目が真っ赤に染まっている。前足を掲げ、天井まで届く巨躯を晒す。黒い毛皮は針のよう滑り、鼻の頭に沢山の皺が寄っている。耳を劈く轟咆。腕は丸太のようで座敷に上がるとこちらまで震えが伝わってくる。騒ぎに気づいたようで店の外の声の往来が変わった。入り口から人の視線が気配として刺し込んでくる。ただし、眼前の獰猛さから目を離せない。
 写真のフラッシュを焚くくらいしか術を持たない私は、何故か霧雨を庇うように一歩分座敷を前に、這っていた。「い……」悲鳴を上げかけた妊婦だが慌てて自ら口を塞いだ。なるべく長く生きるために熊との硬直状態を作る。叫んでいれば一気に飛び掛ってきただろう。いやもう来る! 狂っている。本当に熊なのか。三半規管が潰れているのか走るそれの動きはブレて、庭側の障子戸をまるで大砲が直撃したように粉々に破壊しよろけて、間近、桐の箪笥に頭から突っ込んだ。風と埃が舞い上がり私達は咽かける。次の瞬間には、何事もなかったかのように顔に板片を突き刺した凶悪で血を吹いた双眸が再びこちらを向いていた。逃げないと。
 足が竦んで動かない。霧雨の女性もそのようで、頭をガクガクと振るう熊に対して対処が出来ない。死ぬ? 私の持てるものは何かある? 鞄の中にあるものは役に立たない。草履を投げ付けても無意味だ。じりじりと下がるしかない。道具屋の商品には大きな音を出すものがない。しかし立ち上がれない。万一刃物が置いてあったとしてもあの分厚い皮膚を切り通すことは不可能だろう。手元にあるのは、畳まれた妖怪提灯だけ。中身は空。
 熊に襲われればきっと助からないだろう。次の瞬間食い散らかされる。大熊が床を強く踏みしめた。鈍器で扉を叩いたような音が響き、私の喉元に飢えた牙が躍りかかった。咄嗟に身を引く。背後に詰まった女性に背筋の反りは遮られて、ファーケープにある毛皮が毟り取られる。大熊の顔は尚も引きはしない、野太い足は私の肚を捉え100kgを越える質量が一気に――
 ――死んだな。一瞬過ぎったのは諦観だった。しかし、心の臓は破裂するほど熱くなっていて思考を取り留める暇もない。意識には霞が掛かり、手段を見つけられない。嫌だ。災害は突然に訪れる。理由もなく、許しも慈悲もなく、死とは一瞬。あとは闇。志半ばに斃れる人は一体どれくらい居るのだろう。結局、私は何も知らされず独り惑い、独り鵜呑みして、独り善がりに世界を定義した愚者にすぎない。生存の終わりはあっけない。夢から醒める事はない。大熊の体重が脇腹、肋骨のあたりにめり込んでくる。時間がスローモーションで再生される。耐え難い吐き気。枝の軋むような音がする。嫌だ。逃げられない。私は最後に何を考えるのか。実は直前にひとつ想起した事がある。道俣神が降りたのは木でなく――
『眼により霊異の世界と良く触れるからこそ縁が出来、夢にまで視るようになって冒険までしてしまう』のでなく、
『強大になった眼の、結界を視る程度の能力が、やがて自他の境界すらも冒すようになり私を呑み込んでいった』
「当惑され、し続ける」
(continues to pErplex and puzzle.) (x=?) (E=U)
 銃声だ。ライフル銃のような破裂音。私の身体は捕食者の体重により後ろのめったが、大熊は突然、巨大なトラックに跳ねられたように宙を舞い、裏庭の割れ木の空間にドサリと跳ねながら勢い良く落ちた。何が起きたのか。私の持っていた妖怪提灯は完全に消滅していて、私だけに視える結界の隙間、奥に禍々しい何らかの虚の詰まったブラックホールのような穴が出現していた。スカイフィッシュか、目にも留まらぬスピードで虫のような白色の閃光がその境界に吸い込まれて、すぐさま異様な孔は閉じていった。熊を突き飛ばしたのはこの白光? 誰がこんな。誰? 誰も何も。いやこれは私の、
 熊の唸る声が届いた。太い首は頭蓋骨を強固に守り昏倒せず、衝撃に混乱した目でそれは私達を探していた。一瞬の隙。足は、動く。小声で私は霧雨に語り掛けた。「ゆっくり逃げましょう」「え、ええ」正気を取り戻して目を開けた彼女は、怯えながらも立ち上がった。草履も履かず、距離を取っていく。茶椀を越え、人形を送り、発砲音と大熊に怖気付いて野次馬の消え去った暖簾のある入り口へ。殴打音。熊が血の垂れた赤い目をこちらに向けて怒り狂ったように両足を地面に叩きつけて助走をつけた。速度は瞬く間に上がり一気に差は詰められ、居間の敷居を飛び越え、机を蹴散らし、
 私と霧雨はようやく通用口に辿り着いた。しかし誰かが、一人の影が立ち塞がっている。彼女は暖簾をくぐり姿を表した。三角の帽子に青紫のローブ、月の意匠された銀のスタッフを持った、
「良く持ちこたえた。あとは私に任せな」
 魔女は私達を守るよう一歩進むと、猛烈に飛びかかる大熊に向かって杖を振り上げた。薄暗い部屋内にある光が一気に奪われて、光線となって尖端の月へと集まっていく。夜闇に包まれたように辺りは昏く沈み、煌々と魔女の月だけが丸く浮かび上がる。大熊の巨大な腕が妄闇の中を切り裂いて現れ、彼女の胸元目掛けて振り下ろされた。途端。一陣の閃光が突風となって視界を真っ白に染めた。間近に見た太陽のような眩しさに私は眼を閉じる。硝子にヒビの入ったような衝突音が轟いた。
 瞼を開けると静寂に包まれた霧雨道具店の昼の姿があった。熊の蹴散らした古道具は無残にも床に散らばって酷いものは踏み潰され、爪によって波立った居間の畳には足跡と残った土、涼しい顔をする魔女の前には、泡を吹いた大熊が横たわっていた。
「大丈夫?」
 声を掛けてきたのは文字通り飛ぶように暖簾をくぐってきた博麗の巫女だった。腰に大幣を挿し、手には長い鍼を持っている。魔女は振り返り、
「精進が足らんよ」と遅れた彼女に注意を促した。
「同時に神社を出たのに。まだ修行が足りないのね。けど、後は任せて頂戴」
 巫女は自虐的に呟くと倒れ気絶している大熊の方に歩み寄っていった。すれ違いざま魔女は、
「運が良かったな。私が居て」
「……ええ。ありがと」
 言い、銀のスタッフを提げて私の元に進んできた。荒い息遣いが聴こえる。それは急激な不安に見舞われた霧雨の女性の喘ぎと呼吸だった。顔色が悪く、私が支えていないと今にも倒れてしまいそうだった。魔女は彼女の様子を気遣い、
「大丈夫? 落ち着いて、私の目を見なさい」
 としゃがんで下から覗き込みながら何かを誘導した。胎に子を宿した女性は助けを乞うように、元より親しい魔女のその緑色の眼を見つめた。マリーという名前のあった妖怪は、妊婦の丸い腹を優しく撫で、そして、
「落ち着いた?」と、性急に問う。
「うん」魔法なのか、あやされた子供のよう見る見る内に彼女の表情に血色が戻って、支える私に掛けられた体重の遷移から急激に回復していくのが感じ取れた。
「斯く聞こし召してば 罪といふ罪はあらじと
 風な所の風の 天の八重雲を吹き放つ事の如く
  朝の御霧 タの御霧を 朝風 タ風の吹き払ふ事の如く
 大津辺に居る大船を 舳解き放ち
   艦解き放ちて 大海原に 押し放つ事の如く
  彼方の繁木が 本を焼鎌の利鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く
    遺る罪はあらじと 祓へ給ひ清め給ふ事を――
 倒れ血を流す大熊に向かって、大祓詞を奏上する博麗の声が静謐の空間を染めていく。妖魔や狂犬病にすら見えた熊はまだ生きており、突き刺さった木片も浅いようで流血は多くない。失神して口の閉じた隙間からは苦しそうな吐息が漏れていた。
 長い祝詞を陳べ終えて大幣を振るうと、ビクンと熊の身体は震えて、その昏倒は安らかな寝息に変わっていった。儀式を完遂した巫女は振り向いて魔女に話し掛けた。
「これで最後ね」
「そのようだな」と何らかの怪異があった事を知らせる。
「何かあったの?」私は問い掛けた。嫌な気質がどうと聴いたが。
「急に荒魂の力が強まってね。動物やら何やら悪霊やらが、気質を受けて暴れ出したのよ」
 一霊四魂。人にのみ宿る4つの霊は神にもある側面で、現人神を予感させた。しかし、イオマンテにあるよう熊を含む動物も神とされ、耳の裂けた鹿はチカト神に関連する。八百万は付喪神すら生み出した。案外みんな神様? 動物の気性をストレスと飢えで論じる現代思想と習合させれば、四魂はあらゆるものに宿る。一寸の虫にも五分の魂。質量の正に半分もの霊魂を持つ。単純計算で体長の8分の1を一個の気質が占めるのか。
「じゃなきゃ不作でもないのに熊なんて下りてこないわよ。秋だし。それにしても一匹はぐれて里に向かうとは……。無縁塚の嫌な気が原因かしら?」
 ほんの数刻前まで賑わっていた商い路は、霊異なる荒魂の予感なんて全くさせなかった。異変を察した彼女達は里を守るよう離れた場所で今まで闘っていたのか。除霊か、厄祓いか、祈祷を終えた彼女は、ふぅ、と息をついた。
「さてと、熊は貰ってくわね」
 いつの間にか魔女は熊を紐で無理に杖に括りつけて、すでに宙に浮かんでいた。私の飛行の経験からあまり重力的な負担は掛からないとは思うが、揺れに酔いはしそうだ。熊は、荒魂に触れて力を増した悪霊に取り憑かれ狂ったのだろうか。あの赤い目はただの幽霊に因る気分の変化では済まされない。
「食べちゃダメよ。一応、被害者の一匹なんだから」
 去り際の魔女に博麗は念を押した。
「どうだかね。彼女の経過次第さ」と、答えて見遣ったのは霧雨。
「大丈夫よ。菊理媛神様に祈ってお腹の結界を張り直すわ」
 安産祈願や縁結びの神様だ。道俣神だけでなく、菊理姫命にも昨日の神事に願っていれば、私と蓮子の縁が結ばれて今頃京都市に居ただろうか。いいや、
「頼りにしてるわ。博麗の巫女」
 そう言い残しさっさと魔女は飛び去っていってしまった。魔女の軟膏とやらを座った熊の顔に塗っている様子を想像すると少し可愛い。私はひとつ確信をしていた。熊を吹き飛ばした光。魔女の月の明かりでなく、黒き隙間。その因果を。
「さ、歩ける?」
 猛獣襲撃の熱冷めやらない外界を尻目に、私達は落ち着いて居間の破れた畳の上まで進み座り込んだ。まもなく博麗の祈祷が始まって熊騒ぎは収拾の途を辿った。結界を張り終わった巫女は外に出て、里の人々――囲む円状の人集りに今回の件を説明した。その後、息を切らせて霧雨の旦那が戻ってきて、まるで泣き出さんばかりの勢いで妻本人に何度も何度も安否を尋ねた。やがて昼も過ぎ、店の片付けをした後、博麗はお礼の品を霧雨道具店から贈られた。賽銭すら強請る巫女は一見貧乏そうだったが結構、裕福かもしれない。では私の六文銭すら許容した理由は? きっと、博麗神社は遥か高みにあるせいで参拝客が少ないのだろう。賽銭が集まらないという事は祀神は祈られていない。頼られない神は衰弱するばかり。私を妖怪と勘違いしてたからこそ、賽銭だけ要求したのか。
「答え、謂ってなかったわね」
 用を終え、巫女と共に去りゆく私に、霧雨の女性は途切れていた質問を答える。けど、もう私には、第三の目はないけれど、どんな言葉か解っていた。理由は、
「理由なんてないの。故郷には始まりだけがある」
「うん。ありがと。つまり、私達は」
『何処かへ行く途中なのです』
 声を合わせて互いの手を叩いた。

      *


 EPILOGUE

「で、どうするの」
 帰り道、手っ取り早く博麗は尋ねてきた。夕霧に霞む里と眩しい空を眺めて、里の田園を神社へと向かう。鳶の鳴き声が遠く、山の空の上で滑空していた。お腹は熊のほんの一瞬の踏みつけだけで赤く腫れていたけれど、今では空腹に鳴っている。さあ帰ろう。二人目の金髪が現れた事で今頃里には『外来人』の概念が出来上がっているだろうか。私なんて来なくても、一ヶ月後にはきっと彼女は独りでは無くなっていた。そもそも、旦那さんとの仲は良好だ。うん。私の衒学的な予測はこれで最後。
「もう帰るわ」
「何か解ったの?」今度は巫女が私に訊く番か。
「ええ。私の帰る方法」拙い推論だが、確信に近い。
「それは良かったわ。正直私も不安だったのよ」神事は成功した。
「博麗さんのおかげよ。神事がなければ気付く事もなかった」
 その狭き門の閃きと、蓮子との縁。儀式の方向性。私の眼。
「何でも手伝うわよ。言ってみて」異変を解決するのが巫女。
「嫌な気の集まりのある無縁塚って、きっと再思の道の近くよね?」私が小傘と過ごした墓地の事なのだろう。
「そうよ。冥界との境界が薄くて困るのよ。陰気が溜まり易くてね」きっと今は陰気は薄く、その隣、再思の道にそれはある。
「明日。再思の道に、一度連れて行って欲しいの」
「いいけど、今は危険よ。私が付いてるから平気だとは思うけど」
「危険な内で無いとダメなの」神無き社会は目的薄く、彷徨う人々の辺土。誑かされ当惑し、され続ける。苛立ちは伝播する。
「そう。解ったわ。じゃあ明日、約束ね。私は先に行ってるわ」
 山の麓の石鳥居に付いて、巫女は足を浮かした。残念ながら博麗の巫女は1人用のようで、私は石段を地道に上がらなければならない。多分、私の最後の試練。まあ、暮れていく空を眺めながらのんびり行きましょう。明日までまだ長い。
 私の服は縁と繋がり、現実世界の道具は鞄の中。頭巾は霧雨家に返してきた。巫女の正直さの伝染った私は、貴重なものなのだろう、宝石のような光沢のある鉄鋼石を渡そうとする重たい腹の母を遮って、代わりに濡れた本、盗まれた伊勢物語を懺悔した。返品しようとしたけれど、それくらいはあげると、何故か押し付けられた。伊勢一二五段。終に往く 道とはかねて――
 原点には答えなんて無い。けれど、始まりがある。私は始まりの向こうへ。それは私にしかわからない隙間。夢と現の境界。
 何処かへ行く途中なのです。

 ――7日目

「どうして私を選んだんだ?」
 紫のローブを着た魔女は唱えるよう尋ねた。緑の髪は風に巻き上がって、空の青に弱く溶け込んでいる。朝と昼の境界。曜日のない人々が働き始め、見下ろす里には相変わらず農作業に精を出す人影がぽつりぽつり。紺碧の大空に杖に乗って空飛ぶ魔女の隣には博麗の巫女が並走していた。紅白の巫女服に白い鉢巻をした姿は遠目でも目出度い配色だ
「私は1人用。あなたは2人用でしょ」
 銀のスタッフの後端にはしがみ付く金髪の少女の姿があった。風変わりな白い鞄を肩に下げて、西洋風のワンピースに毛皮のちぎれたファーケープ、白いフリルブリムは現代の服飾だ。彼女の名前はマエリベリー・ハーン。神隠しにあってもうすぐ一週間になる。私だ。
「まあそうなるな」
 北には霧の掛かり始めた湖に、聳え立つ美しい妖怪の山。色彩の秋でも常に深緑の葉をつける不可思議な魔法の森を越え、紅葉の鮮やかに煌めく山に遊ぶ妖精の頭上を飛び去り、目前に控えるは未だ朱く花を咲かせる彼岸花の道。
「さ、ついたわ」
 重力に惹かれて曼珠沙華の花束の中に足を下ろす。魔女の箒ならぬ杖より降りて、何処へともなく3つ数えて前に進む。振り向くと魔女と巫女というあんまり自然じゃない組み合わせが、この顔にある2つの眼を見ていた。蒼い、異人の眼。1つ呟く。
「本当にありがとう。あとは何とかするわ」
「あー? まあ。またな」変に笑いかけて魔女。
「えーっと。うん、また会いましょう」戸惑いつつも手を振る巫女。
 そう云って私達は別れた。
 彼岸の中を進む。一切、振り向かない。縁は此処にある。
 眼は私の世界。観測と憶測に入り込む近似値のブレ、その隙間に虹の七色が滑り込んでくるのかもしれない。果てなく続く彼岸花の道を呆然と私は眺めていた。始まりの場所は故郷への縁。考え続ければやがて初めに戻ってしまう。それはまるで輪廻のよう。妖怪と人間の境。見透かす3つの眼。飽きを知らない妖精の興味の瞳、私達を一番繋ぐものは何だろう? 子を成す夫婦は旅路の中にある。アンガージュマン(engagement)の先は、私にとって此処ではない。私の約束はもうすぐ果たされる。時間が来る。きっと私を探した蓮子は八坂神社の裏の――彼女と思考の似てきた私は向こうで行われるのと同じように目を閉じる。
 夢幻の内の彩りは、像よりも強い。もしも名前を付けるのなら、幻想の故郷、幻想郷としてみよう。夢の世界とは魂の構成物質の記憶で――私は祈る。とにかく祈る。

 そう、瞼を上げれば
 
                「ただいま」


















               「おかえり」
henry
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