Coolier - 新生・東方創想話

私たちはキレを失いつつある

2023/01/07 19:04:56
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 これは彼女たちが失敗する話だ。

* * * * *

 近頃の鎌倉では田楽が流行っている。京の流行がようやく伝わってきたのだから、やはりこの武家の府は辺土と言わなければならないだろう。

 熟んだ宴の空気は、やがて倦んだものに変容した。
 この夜、相模入道は田楽法師を招かずに、一人で盃を傾けていたはずだった。この田楽狂いの元執権でも、連夜の乱痴気騒ぎにはさすがにうんざりしていたし、京下りしてきた新座・本座の田楽法師たちは、おとなしい彼にとってはどこかぎらつきすぎているきらいがあった――こうした芸能集団の褒めあい貶しあいは芸事の常とはいえ、それらの陰口が飛び交うのを嫌悪した。政治嫌いで年若くして隠居した彼にとっては、こうした世界の政治もいやなものだったのだ。
 だが、そうして酩酊していると、いつの間にか田楽法師たちが座にやってきていて、舞っていた。
 やってきた彼らは、さんざんおだてて哀れな男を躍らせる。おだて方が上手いので、舞う。不器用な舞いだが気分よく踊っていた。だが、そんな宴も楽しいままとはいかない。酒も入っているし、いずれ疲れ果てて、沈むように潰れてしまう。しかし法師たちはニヤニヤと嗤いながら、また男を引き立たせて、やんやと囃し立てながらまたひと踊りさせる。
 綺羅綺羅しい織物が、左右に並ぶ法師たちから放り投げられた。投げ打たれた綾羅錦繍やら直垂やらは、広い畳敷きを塗りつぶすように幾重にも堆積していて、くしゃくしゃ皺を寄せつつ、鈍く輝いている。その上で、ごろごろと寝そべっている者があれば、下に潜ってもぐらのように落ち着いている者もあり。相模入道はそれに巻かれて、がんじがらめになって、奇妙な人型の繭になって座敷に転げた。
 田楽法師たちはそれを嘲笑った――ただその嘲笑には、どこか愚者に対する愛があったような気がしないでもない。

「ばかじゃないの」
 まだ楽しげな馬鹿騒ぎが続く座敷をこっそりと脱け出した人影は、そう毒づきながら、もう、ついていけないと思った。
 屋敷に忍び込んだ時に目をつけていた女官室から、表着を失敬して羽織った。少し工夫すれば夜目には女官のように見えた。
 やがて屋敷に宿直していたらしい武士と行き合ったが、慌てずに鼻から息を吸って詰める。そうしてどこか物狂いの相を見せながら相手に言った。
「あの、高時入道の御座所で、面白いものが見られますわ――あはは。“天王寺のや、妖霊星を見ばや”……」
 と拍子をつけて嘲笑うように謡い、相手がそちらに駆けていったのを尻目に、するりと表着を脱ぎ捨てて、ふらふらと屋敷を出た。それから鎌倉の深い切通しを、夜闇に影がすべるように歩んでいた。
 そしてもう一度。
「――馬鹿馬鹿しい」
 と吐き捨てる。こんな事をしていて、どうなるのだろうか。

* * * * *

 もう何十年も前から、世の中は乱れつつあった。乱れに乱れて、縦の綾と横の目もほどけ、ばらばらと崩れかけている。上は君の徳に乖り、下はすっかり臣の礼を欠いてしまっていて、朝威は完全に失墜していた。そんな有り様では、臣が礼を尽くそうとしても君にしてみれば甚だしい簒奪でしかなかったし、君が徳を見せようとしても臣からは単なるわがままに映った。
 その乱れは、妖怪たちでさえ無関係ではいられなかった。力を失いつつあるのは王権だけではなかったのだ。王権の裏返しのような立場にいる妖怪たちも、同様に弱く、儚いものになりつつある……少なくとも、天地を動かせる気さえしていたあの上古の頃ほどの力は、もう無い。

 本朝に遠からず大乱が起こるという予感は、東国の政権内で政変があったとか、西国の方で大規模な異国侵略があったとか、そんな話となって、かねてから伝わってきていた。
 この先、世はきっと乱れる。それにつけこめば――
 妖怪たちも人の世の陰でひっそり息を潜めながらそう思っていて、世の中を引っ掻き回そうと妖怪の山から出奔する者も出始めた……そのような軽挙妄動は厳に戒められるどころか、テングらしい行為であると捉えられさえした。
 ただ、飯綱丸がその流行りに乗じて山を飛び出したときは、驚きの反応の方が大きかった。あれは世事より官僚仕事に興味があるような奴だなどという評判が、もとよりあったのだ。また利に聡く、歳若だがたっぷり蓄財していて、ひどい吝嗇家だという噂もあった……こちらは単なるやっかみで、金払いを渋るという事はなく、むしろさっぱりした払いっぷりも持っていたようだが。
 ともかく、彼女は若気の至りからか倒幕運動に身を投じてみて、即座に失望した。
 飯綱丸らは、田楽法師に成りすまして鎌倉に潜入し、北条政権を根から腐らせようという目論見を持っていた……が、こうしてさっさと途中離脱してしまったくらいなので、それまでの同志たちの計画に対しても思うところがあって、また個人的な摩擦や衝突などもあったのだろう。計画の標的が、既に執権職を辞して頭を丸めた相模入道というのが、どうにも地に足のついていない話に思えて仕方がなかったのかもしれない。
 飯綱丸はこの時点で倒幕の幻想から醒めて、その夢見心地からさっさと脱け出していた。それだけは確かだった。

 そうした出戻りの末、帰参の手続きをした時も、妖怪の山の対応は事務的で素っ気ないものだった。お役所仕事の後に、無断での出奔に関する沙汰は追って知らせるとか、その間は適当に謹慎でもして反省の意思表示でもしていろとか、なんとか。
(私なんてそんな扱いか)
 などと思わなくもない。こうした出戻りは珍しい事ではないようだった。
(私もああいう軽薄な輩の一匹になってしまった――なんて後悔も、きっとそのうちに薄れていくんだろうな)
 そう思いながら、見覚えがあるようなないような、季節の変わり目で曖昧な景色になっている山の中を歩いて、やがて以前まで自分が寝起きしていた庵の戸をくぐった。
「戻ったよ」
 日常の仕事帰りのように、そっけなく声をかけた相手は、長いこと庵で留守番をしていてくれている従者だった。
 家の奥からぴょんと出てきたその幼いクダギツネは、奥から出てくると主人の身体にくるくると巻きついた。無口だが、こういう感情表現は露骨な奴だった。
「もう、そんなに甘えないでよ……まあ久しぶりだししょうがないか……」
 と言いながら、やっと腰を落ち着けた。
「土産話は色々あるけれど、やっぱりお前を連れて行かなくて正解だったと思う――相模入道は田楽狂いの上に闘犬狂いだった。鎌倉は犬の府だったよ」

 数日後、飯綱丸への処分が下った。
 あまり重いものではなかった。出奔前の官職に戻る事は許されなかったが、それでもそれなりの役目に復帰できた。妖怪の山のテングたちも数だけは増えてきていたが、官僚仕事までできる者は少なかったのだ。
「どうせ武官だろうが文官だろうが、書類仕事がもっぱらなのは変わりないからね」
 と、自分の庵で引き継ぎの資料を眺めながら、ぼそぼそと呟いた。その言葉を従者のクダギツネは傍らで耳に入れていたが、彼女はいつも笑顔を絶やさず、口を挟まない。
「しかし――私がこの山に居ない間に、色々あったようね」
 ぼやきながら、帰参の際に見かけた光景を思い出した。山麓の樹海で行われていた小競り合いだ。
「ツチグモが山から追い落とされたのを見かけたわ」
 そう言いながら、水辺でばちゃばちゃやっていた泥臭い殺し合いの事を思い出す。一匹のツチグモを、カッパどもが数匹がかりでなぶり殺しにしていた――生き馬の目を抜くと言うべきか、落ちぶれた者に情け容赦はなかった。
「まったく、どこもかしこも殺し合いばかり」
 飯綱丸は呆れたようにぼやく。
「しかし気に食わないのは、ツチグモを蹴落とした後釜のカッパどもよ。別に奴らまで追い払えとは言わないけれど、調子に乗っている連中に肘の一つでも食らわせてやらなきゃ、ゆくゆくは――」
 待っているのはこちらとあちらの殺し合いだ、とまでは言えなかったが、結局はそうなるのだろう。
「……といって、ついこないだまで家出娘だった私なんか、大層な献策などできる立場でもなし、おとなしく文官仕事をやってるのがいいか」
 などと独り言をぶつくさと従者に聞かせて過ごしているのだから、もちろんその状況に納得しているわけではなかった。

 政所で自分の政務をさっさと終わらせて退勤する。熱意は一切無くても、てきぱきとした仕事ぶりは評価されてきているようなので、そのうちもっと多忙で責任がある官職への推薦を、上役が運動してくるだろう。
 とはいえ現状では暇だ。最近では、山中をぶらつく事が日課になっていた。様々な場所を見て廻っていたが、今日は山の麓の、大きな風穴の連なりの前を歩いている。
「ねえ覚えてる? 昔は私たちも、こんな低いあたりに住んでいたんだよね……この山に落ち延びて身を隠してさ、それでお前も私と一緒に……」
 と昔話をしているうちに、従者がふらりと先へ進んでしまいそうなのを、首根っこを引っ張って止める。
「あまり先に行くなよ。ここらはどの勢力のものでもない空白地帯だから……私がただ気晴らしに散歩してるわけじゃないっていうのは、わかってるでしょ?」
 従者は肩をすくめて、主人の腰に巻きつくように隠れた。
「しかし、この機にテングとカッパが結託してツチグモを追い落としたとなると……怒っているだろうなぁ、あいつ……」
 ひとりごちながら、洞穴の一つに足を踏み入れた。奥は深い。テングの目でもわからない、闇の奥だ。それでも洞窟の中を進んでいくと、三十歩も行かないうちに襲撃を受けて、咄嗟に頭を伏せた。
 頭があった場所を、槌が空を切った。とにかく身を屈めたそのままの勢いで前に飛び込んで掴みかかる。相手の身体にはいやな柔らかさがあり、こちらの勢いよりもその包み込むような反発の方が勝った。
 そうして絡み合いつつ押し倒された飯綱丸は、胸の上に圧しかかられて息もできなかった……と、その重しはあっさり腰を浮かせる。
「――お前か」
 そう言いながら大ムカデが飯綱丸を乱暴に引き起こしたのは、従者が慌てて駆け寄ってくるより早かった。相手はそのあたりの岩場に腰かけて、飯綱丸にも指の動きでそうするよう促す。
「顔も見たくなかったが、状況が変わった。座れ」
 と、深く重い息を吐きながら怒りをこらえて言ったのが、飯綱丸には意外だ。
「……私を二枚舌と誹らないのね」
「オレだってテングの社会構造くらいはわかっているさ。テング個人とはまずテング社会の成員であって、つぎに個人だ。お前はテングの社会が破壊をえらぼうと否とにかかわらず、社会と行動をともにしなければならない。――あんたはこっちに有利な話を持ちかけてくれたが、情勢の変化から社会がそれを許してくれなかったんだろ。それ自体はよくある」
 案外な理解を相手は示してくれて、飯綱丸は少しだけ安堵したが、試しに言ってみる。
「……今からでも不義理の補填はしたいところよ。けど、今の私は武官じゃなし、一人の手勢もいないの」
「じゃあ殺すか」
 相手はまた槌を持ち上げようとしたが、飯綱丸の高下駄の歯にがっちりと踏みつけられていた。
「待ちなさいな。――あの時の事は本当に悪かったけど、まだ話を聞いて欲しいの」
「聞く価値があるか? それは誠実で、担保されうるものか?」
「そうね、あなたたちに恨まれて殺されかねない私が、その危険を承知でここに来ている、という事だけは信じて欲しいかな」
「……聞こう」
「ツチグモがこの辺りの洞窟から追い出されて、どうなったの?」
「ひどくなるばかりよ。カッパどもがどんどん幅を利かせてきている。あんな弱っちい、ひょろひょろが――」
「彼らも人間の戦い方を学んだのよ」
「あれが人間の戦い方なものかよ……。あいつらは妖怪の恥さらしだ」
 感情的な物言いだが、理性――というよりは諦観のようなものも感じられる。飯綱丸は言った。
「そのたぐいの感傷は、ご自分で処理していただくしかないわね。――とにかく、このままカッパどもの好きにさせるのは癪でしょう」
「感傷を抜きにしてもな」
 少し、相手は考えた。それから慎重に息を吐くように言う。
「……オレたちを利用するのはいい。ただし失望させるな」
「努力しましょう」

 それから少し経ったある晩、テングの下級官僚の間で、ちょっと大きな宴会があった――なんてことのない懇親を深めるための集まりだったのだが、その酒が深くなっていくと、様子が怪しくなり始めた。宴席では野暮だとあえて口に出されていなかった政務の話なども、ちょっと聞こえる。
 愚痴っぽくなりつつある話題の中心は、麓の方で勢力を張り始めたカッパの話だった。
 ――自分たちがツチグモを追い払っていくらもしないうちに、奴らはその土地を火事場泥棒のように支配してしまった。
 ――これじゃあ自分たちは彼奴らのために泥をかぶってツチグモを滅ぼしたみたいではないか。
 ――そもそもあんな川岸でちゃぷちゃぷ水遊びしていただけの連中が、ああして山裾にまで勢力を伸ばそうとしているのは、不気味だ。
 様々な論が出ているように見えて、話題はこの三つをぐるぐると巡っているだけで、どうという方策も出てきていない。
 と皆が思っていると、誰かがぼそりと呟く。
「……連中だって一枚岩じゃなし、つけこむ隙はありそうなんだけどね」
 その言葉をきっかけに、誰かがこんな話をした。
 ――たしかに、カッパどもはかつて二党に分かれて相争い、ために川から追い出されて、山裾と樹海の狭間でひっそりと砦を囲っている連中たちがいるな。
 そうして陸に逃れた彼らの事は、近頃では俗に山城党などと呼ばれていた。一方、流域で大勢を誇っている一党は、それと対比して河城党などとも呼ばれている。
 そういう情勢はあるよな、と事情通らしき者が、ひけらかすように言った。
「面白いじゃない。じゃあ、その山城党を後ろから支援して、河城党への牽制にすればいい」
 一際甲高い声がそう放言したが、すぐ反対意見が出た。それで河城党を抑え込める目算が無いだろう、そんなことをして今度は山城党が増長してしまったら元の木阿弥じゃないか、そもそもお前はさっきから飲みすぎだ、等々……。しかし、そんな集中攻撃を受けた飯綱丸は、ニヤッと笑いながらまだまだ酒を口に運んだ。
 数日後、山城党を援助して河城党を牽制するという献策が複数の官僚から上奏されたが、別に飯綱丸が行ったわけではない。おそらく、あの宴席にいた誰かが飯綱丸の発想を剽窃したのだろう。
 いや、いっそ泥酔してしまっていて、自分自身の発想と思い込んだのかもしれない。

「それで、首尾はどうなったんだ」
「山城の方と、定期的に碁会を行う事になりました」
「碁会?」
 洞窟の中で二人きりのささやかな酌を交わしながら、大ムカデのお姫様は訝しげだった。
「……それだけ?」
「なにも碁だけじゃないわ。双六だったり、将棋だったり、骨牌だったり……好評だったんで定例会として今後も行われることになったけど、折衝と運営の立ち上げがほんと大変だったわ。なにせそれまでほとんど没交渉だった勢力なんで、あっちこっち駆けずり回って縁を作って――」
「いやいや。オレが頼んだのは、カッパの奴らがちょっかいかけてくるのをどうにかしてくれって話だぜ」
「そのカッパさんたちは、最近ちょっかいをかけてきているかしら?」
「……まあ、最近はとんと少なくなったな」
 相手が素直に認めたので、飯綱丸は酒の気持ち良さのままに説明を続けた。
「私たちが山のカッパと縁を繋いだから、連中もこっちに手を出すどころじゃないんでしょう」
「いや、それは説明しなくてもわかるよ」
 相手が不機嫌そうに言ったので、飯綱丸もそれ以上は言わなかった。あまり賢しらぶるのも良くない。
「……ものわかりがよくって助かるわ」
「なんだよ。褒めたって礼になるものさえ出せないわ」
 と、ぼりぼり頭を掻く姫君だった。
「こういう時の宴会芸の一つも用意できないものなあ……」
 そう困った顔になると、愛嬌があった。
「ふふん、私はちょっとくらい覚えがあるわ。――おい」
 飯綱丸は洞窟の奥で遊んでいた従者に向かって声をかけ、着衣の裾を括って舞いやすいように準備をしながら、
「拍子をお願い」
 と命じた。
「ふうん、田楽舞か」
「見よう見まねで学んだだけだけれどね。演目は何にしようかしら、そう……」
「俵藤太なんてどうかな? できる?」
「え、ええ。いいの?」
 俵藤太――藤原秀郷といえば、著名なのは大ムカデ退治だ。それを大ムカデのお姫様が所望するというのも、なんだかおかしい。
「いいんだよ」
 相手は複雑な微笑みを浮かべながら言った。
「確かにあれ自体はオレらが退治される話だけれども、それでもあの頃はオレたちにとって良い時代だったんだからさ」
 どう言っていいかわからなくなっていると、傍らの従者がさっさと始めろとでもいうように拍子をとり始めた。飯綱丸もまあ良かろうと、口上を述べ始める。
「――さてこの秀郷を俵藤太という事、この人初め下野の田原という地に住み、藤原氏の太郎だった故、田原藤太と言うのを借字して、俵と書くようになった、というふうにされております。ですがこの俵の由来には、次のような異聞もありまして……」
 そこから先は英雄の時代の物語だ。

「……そうか。鎌倉倒幕、ねえ」
「私も軽薄な事をしたもんよ」
 飯綱丸は苦笑いをして、ぶるっと身震いをした。舞った後の身体には酒がぐるぐる巡っていたが、そこからまた身の上話をしているうちに、体が冷えてきたらしい。
「でも、すぐ馬鹿らしくなって帰ってきちゃった」
「そういうのがテングの流行りなのね……」
「もう何年も前からのね」
 この時代の空気はいつから始まったのだろうか。
 雰囲気としては、いわゆる元寇の役や、その余波を受けた度重なる政変の時から、何かが綻びつつある予感はあった。
 三人の騎馬武者が御所に押し入って禁裏を脅かしたなどという事件の翌年になると、今度は夜空に大彗星が飛来して、津々浦々を騒がせた。これはテングにとってはまぎれもない瑞兆だった……彗星とは妖霊星であり、アマツキツネそのものでもあったからだ。同時に人間にとっては大凶兆に映ったようで、鎌倉では時の執権が出家し、その後も政治を混乱させながら死んだ。
 とはいえ、こんな現象が起きたくらいで倒幕を本気で考えるほど、妖怪たちだって夢見がちでは無かった。当節の彼らは負けを知っていて、虚無主義で、目先の事であくせくするのに慣れっこになっていたし、なにより鎌倉の北条政権が滅びた先になんの目論見も無い事だけはわかっていた。
 なにかが変わる気がしたのは、今の主上――すなわち、神武天皇から下って九五の孫を数える御方が高御座に就いてからだ。
「そのミカドが、かつての御親政を目指しているなんて話が聞こえてきた」
「かつての、というのは延喜・天暦の治の事か。……さっきの俵藤太の話だって、おおむねその代だからな。うちらとってもいい時代だったわけだ……英雄が英雄らしく、妖怪だって妖怪らしかった時代だ」
「本当にそうならいいけれど」
 飯綱丸は肩をすくめながら、話を続ける。
「とにかく、そんなふうに朝の威光が取り戻されれば、夜である私たちの居場所も戻ってくるのかもしれない、そういう思想よ」
 それは飯綱丸が見るところ、思想以前の信仰に近いもののようだった。しかし、なぜ人の世の主上を奉じて王政を取り戻せば妖怪の世まで戻ってくる、という論理になるのか……肝心の部分が、ぼやけた白さで覆われている考えでもある。英雄が英雄らしく、妖怪だって妖怪らしかった時代……ひょっとすると、そんな時代は存在しないかもしれない。――それは不満分子たちによって過大評価され観念化され理想化された、ただそれだけの幻想で……
 それは飯綱丸にも薄々わかっている。事が上手くいったとしても、この広い中つ国の夜の部分が、そっくりそのまま妖怪の手に戻ってくるわけがないだろう……ただ、今のうちにどこかで食い止めなければ、全部人間のものになってしまうという危機感はあった。
「で、私もちょっと運動に参加してはみたけれど、すぐ目が覚めたわ……それで外から帰って来てみたら、山は山で大変な事になってるじゃない……まあ、だから私みたいに山を守るような奴も必要でしょ。事が成った時にあいつらの帰る場所が無くなっていても困るし」
 そこで、酒臭い呼気をふっと吐いた。
「みんなどうしてるかしら。結局あそこで喧嘩別れしちゃったけれど……」
「感傷的だなぁ……」
 大ムカデはかぶりを振って、ふと飯綱丸の従者が遊んでいるのを見た。クダギツネは二種類の違う鉱石をぶつけ合って、火花を散らすのを面白がっている。

 萌黄が山にも鮮やかなある日、京から都落ちの姫君が山にやってきたという事で、政所に詰めている官僚の中にも、外回りと称して野次馬に行った者がちらほらといた。
 しかし、やがて昼過ぎに戻ってくると、口から出てくるのは手前勝手な失望と愚痴ばかりだった。曰く、姫君は宇治の田舎者だ、従者の服装なども当世風の洒落たものではなく、一応雅を装ってはいるが古臭いばかりで、きっと車の中の姫君もおなじようなものだろう、と。
 ただ車駕の列だけは多かった、と話が続く。四人も姫君がいるとはいえあれだけの従者がいるのだから、田舎者でもそれなりに威勢があるのだろか……。
(はて……?)
 と飯綱丸は思った。
 確かに宇治のハシヒメの都落ちは噂に聞いていたし、かねてからこの土地に根を下ろしたいなどという丁寧な書状も届いていたが、それはただ一人の姫君からのものだと聞いていた。四人に増えているというのは怪しい。
 不審に思った彼女は政所から退勤すると、即座に従者を伴って相手の仮の座所を詣でた。使者という名目をでっちあげてお目通りを願い出たのだが、いかんせん官位が低すぎて、門前払いされてしまった。
「……けっ、まあ行きましょ。探るべき事は探ったわ。こいつは怪しい話よ。陣中も平穏を装ってはいるけれど、なんだか物々しいし……」
 とその陣を睨めながら従者と共に妖怪の山を出て、京からやってきた姫君たちの足取りを遡り始めた。

 妖怪の山で事変が起こったのは、その夜の事だった。
 今回都落ちしてきたハシヒメを称する姫君たちの下向が、ひとかどの勢力だったと察した各勢力は、彼女たちに礼を尽くして饗応しなくてはならなくなった。そうしてひとまず挨拶にと使者が様々な勢力から姫君たちの元へと差し向けられたが、悉く殺されてしまった。
「決して血で汚したりはしないでね。使者の服を奪って攻め込むんだから」
 と、その都度に足下へ命じたのは、姫君に化けたオニの一人だった。
 また、こうも言った。
「どの勢力の貢物が一番盛大だった?」
 調べてみると、山の上層を支配しているテングたちだという。
「生意気な奴らね」
「テングといえば、昼間に変な奴が面会を求めていたなぁ。あれはなんだったんだろ……」
「ともかく、さっさと装って攻めましょう」
 そうして山の上層部の中枢まで、瞬く間に攻め寄せて乗っ取ってしまった手際は、見事なものだった。――正道を好み奸計を嫌っていたオニたちがこうした計略を使うようになったのだから、まったく時代が変わってしまったと言うほかない。

 飯綱丸と従者が事を知ったのは、のろのろとしたハシヒメの車列――陰気臭く、おんぼろで、供も少ない――に出会って、さっさと踵を返してからだ。その姫にお目通りしてもよかったのだが、あまり気乗りしない雰囲気だったので、放っておくことにした。
 朝方にようやく帰還してみると、妖怪の山は既に乗っ取られていた。
 仕方がないので飯綱丸らは山麓付近をうろうろとして、やがて逃れてきたテングたちから情報を集めた。そうすると、なんでもオニどもが突然やってきて、山の中枢を支配したのだとか。
「まいったわね、こりゃ」
「それで、どうするんだよあんたは」
 そう尋ねてきたのは、一時的に避難場所としている穴倉に住む、あの大ムカデの姫君だった。
 飯綱丸は気のない顔で答えた。
「オニどもの考えはわかっているわ。ただ私たちテングを下に置いて、のうのうと生きたいだけでしょ。……穏便に事が運ぶのなら、私は連中に降っても構わないな」
「戦わないのか」
「向こうにもテングがいるのよ。戦ったところで、自分たちが真っ二つに割れるだけじゃない……」
 だが、そうこう言っているうちに、オニが乱雑に線引きした領地から脱出してくるテングたちの数は、日増しに膨れ上がっていった。一人の亡命を手引きしただけなのに、その人数が二十人に膨れ上がって山の麓にたどり着いている、といった事態はしょっちゅうだった。
 そのうえ飯綱丸が嘆きたくなるのは、ただの一官僚に過ぎない自分が、そうした群れの長になってしまっていて、いつしか周辺勢力からも一挙手一投足を注目されているという事実だった。こうした状況では、それまでの立場など意味をなさなかった。先のわからない状況では、官位以上に本人の資質がものをいったのだ――たとえ当人がそれを望まなかったにしても。
 あるとき、ぽろりと従者に向かって愚痴をこぼした。
「このままではとても彼らを養いきれないし、かといって今の状況で降伏すれば私が殺されそうだな」
 と従者に酌をさせて、苦笑いしながら言った。
「いっそこんな山から逃げるか、お前と私とで――」
 そう言いながらけらけらと笑っていたが、やがて据わった目つきになる。
「……ねえ、あんた。なんか言ったらどうなの」
「それじゃあ喋りましょうか」
 従者は口を開いた。そして続けて言った。
「私たちは奴らの事を何も知りません。あなたは手勢を使って奴らの領地に潜入させたりもしているようですが、成果ははかばかしくないようですしね。……でしたら、真正面から行ってやりましょう。私を使者に立てて山に登らせ、オニどもが支配している上流の内情を探るのです……そこに策を弄してもいい。私を使者に遣わせて、あなたは使者の護衛を装い、鬼たちに拝謁するのです。それだけでもわかる事はあるでしょう。まずは――」
 と早口にまくしたてる口を、飯綱丸はぽかんと眺めていた。
「……よく喋るわね」
「口をつぐめと命じられたら千年でも黙っていてやりますが、喋れと言われましたから」
「……まあいいや。まず、どうして欲しいんだ?」
「適当なもので良いので官位をください。使者にふさわしい肩書を」
「肩書、肩書か……しかし多分に便宜的なものになるぞ」
「構いません」
 夜半の事だったが、飯綱丸は即座に文官を呼び寄せて、自分の従者に官位を与えるよう手続きをさせ始めた。

 そうして使者の列が山の麓から出立したのは、翌々日の事だ。
「……あの高い場所から下々を眺めるのは、どんな気分なのかしら」
 輿に乗って山を登っているクダギツネは、輿を担ぐ護衛たちに向かって言った。その中には変装した飯綱丸も紛れていたので、答える。
「あまり羨ましがるなよ、どうせ奴らだって、もっと高いところにある天界からは見下されてるに決まって――」
 つっけんどんに言いかけたところを、従者が袖を振るってその顔を打った。
「失敬な護衛さんね。ちょっとは使者に礼を持ちなさい――お前たち! これは付き人たち全員の問題よ。たしかに私は、普段はあなたたちに使役されているクダギツネ風情だけれども、今回は飯綱丸様に乞われて使者となった。そしてなにより、この使者は死ぬか生きるか、私たちは一蓮托生の身よ……そうした大切な使者としてあなたたちが敬ってくれなければ、どうして大事が成せるかしら」
 と言って、くすくすと笑う。
 どうも変な関係になってしまったとむっつりしながら、飯綱丸は自分の従者が乗る輿を担いで山を登った。

 しかしそんなふうに周囲を煽り立てて鼓舞した割には、このにわか仕立ての使者とオニとの会見は、終始一方的な平身低頭を見せて、恭順を匂わせたものになった。
「へへへ、まあ、今後ともよろしく……」
 と頭を下げて、臣従の礼さえした。
(使者とはいえあいつは私の臣に過ぎないのだし、屈辱的な行為だが別に問題ないな)
 そう思いつつ、使者の護衛官の一人に変じている飯綱丸は、相手を観察する機会を伺っていた。御簾で区切られていてよくは見えないが、向こうは完全に礼を失して、くつろいでいる様子だった。
(どうせこいつらも、伊吹山あたりから下ってきたような、お山の大将なのだろう)
 その御簾の向こうで、ひそひそと話がされた。
「おい、貴様」
 酔い声で喚きながら、鬼の一人が御簾を蹴倒すように出てきた。牛のような横広がりの角の突先が、ふらつくたびになにかしらを破壊しそうだ。
「誰が伊吹山から落ちてきたお山の大将だってぇ?」
 飯綱丸は目を丸くした。しどろもどろに、弁明をする。
「私は、そのような事は思っておりません」
「嘘をつくな。顔が、目が、そう言っていた」
 と、オニはうるさそうに頭を振る。それから近侍を呼び寄せて、杯と酒を注いで持ってこさせた。
「飲め」
 飲むほかない。
「なんか言いたいことがありそうなツラだけど、酒を飲んだ方が、舌が回るだろ。心の内を申してみろよ。下っ端テング」
 この程度の酒量で酔うような体ではなかったが、なぶるように言われて、ついかっとなって言った。
「何の故があって、あなたたちはこの山を侵したのでしょうか」
 相手のオニはそれを受けて、ゆったり口を開いた。
「この下郎の質問に答える」
 と、周囲を見回しつつきっぱりと言った。
「……そもそもこの山は、かつて私どもが支配していたものだ。たしかに暫くほったらかしにしていたが、私たちは元の場所に戻ってきただけだ。その間に、お前たちが勝手に住みついて、威勢を張っていただけの事だ。……本来この土地を治める正統は私たちにある」

 結局、オニに対しての帰順は成立した。抵抗を望んでいたテングたちからは、使者に対しての不満が百出するだろう。
「しかし私は全権を委任されてあの場に向かい、相手を見極めた末に約を結びました。諸々の情勢を込みにしても、確実にそうするべきでした」
「それはその通りだ」
 というやりとりは、使者の成果を報告する軍議の直前に、こっそりとされたものだ。飯綱丸は頷いたが、この従者はあまりにいけしゃあしゃあと言いすぎではないかと思った。
「お前はみんなから恨まれるだろうし、きっと殺されるぞ」
「いいじゃないですか。……少なくとも、この情勢から降りるに降りられなくなっていたあなたを、どん詰まりの状況から救う事ができたんですから」
 そう言って照れくさそうに笑う従者の顔を見た飯綱丸は、こいつは本気で死ぬつもりではないかと、ちらと思った。
 直後に執り行われた軍議は大混乱から始まり、従者は糾弾の的となった。たちまち罵声と嘲弄と叱責とが飛び交い、しかもそれが一人物に向かってぶつけられ始める。
 それでも従者はニコニコとしていた。
 飯縄山も、彼女を罵るべきだったかもしれない。罵り、顔面を打擲し、髪を引っ掴んで引きずり倒して、蹴とばしてやって、逆に周囲が止めるまでに暴力を振るってやってもよかった。
 だがそうはしなかった。そんな事をすれば結局彼女は死んでしまう。だから、己の従者に向かって、言葉だけではなく汚物までぶつけられるような始末になった時も、さめた目つきで従者を眺めて、機を見て「もうやめなさい」と言い放つだけだった。
「私は使者としての役目を全うしました」
 議事と降伏の儀式が終わった後で、従者はにわか作りの官位などを主人に返上した。
「思ったよりひどい事にはならなかった。これでお別れです」
「……ああ。もう私の許を離れて、ひっそり暮らしたが良いかもな」
「ええ。お世話になりました」
 彼女はにこやかに言って佯り狂い、節をつけた謡いをしながら、汚物まみれの姿で山を下りていった。
“天王寺のや、妖霊星を見ばや”……
 飯綱丸は複雑な顔をした。

 このようにして、妖怪の山はふたたびオニたちのものになった。

 一度は抵抗勢力の長になってしまっていた飯綱丸だが、四天王に帰服した後は、どういうわけかそれまで以上に重用される事になった。
「なかなか骨のある奴らしいし、抵抗勢力を曲がりなりにも組織していたのだから、実務能力もあるに違いない」
 と見込まれて、オニたちのうちの一人の配下となった。
 相手は飲んだくれだった。
「私は政務なんかにゃ興味無いから、そちらでいい加減にやってくれよ」
 と言って、小柄な丈と同じくらいの横幅がありそうな角をふらふらさせて、四六時中酒ばかり飲んでいる。そんな彼女は、あの使者の時に飯綱丸が一兵卒として紛れていた際に絡んできたオニでもあった。
「そういえば、お前さぁ、あのときあそこでなにしてたの?」
 ある深夜、突然酒に呼ばれて、みすぼらしい寝間着のまま参上して酌をさせられていると、ふと尋ねられた。
「あれだよ、あのへなへなした使者の隣で、すまし顔で下っ端に紛れ込んでいたやつ」
 飯綱丸は生酔いの中で苦笑いした。
「……もしもの時には、私自らが先に立って斬り込むつもりでした、と言ったら?」
「いいねえ! 好きだよ、そういうの」
 と大笑いされた。
「……しかし不憫だな。きっとお前は皆のためを考えて私たちに降ったというのに、同輩から良い顔はされていないだろう」
 相手は本気で憐れんでいるとみえて、そのうち折を見ては飯綱丸を推挙して、どんどんと昇進させようとしてきた。
「それはまずいです」
 と飯綱丸は慌てた。
「私が不自然に地位を高めていけば、他ならぬ私自身が困るのです。あの降伏の裏に談合などがあって、私が本当に同胞を裏切った女と見られかねません。それは、正直を好むオニにとっても都合が悪い事ではないですか」
「確かにそうだ」
 相手も物分かりが良かった。それで推挙の話はぱたりと無くなったが、それでも折々に仕事上の便宜を図らせるような事はあった。
「私にも色々の事情があるからね」
 と、少し居心地悪そうに言った。飯綱丸にもわかっている。
 四天王たちはこの山を支配し始めたが、同時にその四人組の関係が、微妙に揺らぎ始めていた。それぞれがそれぞれの配下を推し、昇進させるというような権力闘争が起こり始めていた。
 その中で飯綱丸が所属している陣営は、政治的には最も出遅れていて、立場が弱い勢力となりつつあった。
「あのとき、お前が昇進を拒否したからだ」
 とは相手も言わない。そういうところは妙な諦観を漂わせているオニだった。

 そんな上司に、またしても深夜の深酒に呼ばれた。最近はそういう事がしょっちゅうだ。
「お互いに面白くない立場になったなぁ」
 などとこぼしつつも、飯綱丸が慰めついでに座興で舞った時には、手を叩いて喜んでくれた。
「最近は酒もまずかったけれど、お前がそうしておどけてくれていると悪くない」
「もったいないお言葉です」
 しなを作って答えたが、変な気分だ。そういえば近頃、他の勢力でもにわかな昇進をしているテングの官僚たちは、みな各々のオニのお気に入りだという評判が立っている。実際、四天王におしなべて荒淫の気があったのは確かだ。彼女たちの対象は、男性も女性もその他の性も、区別が無かった。
「しかし、あまりそう擦り寄ってくるな」
 と冗談交じりに忠告されたりした事もあり、少なくとも飯綱丸はそういう関係ではなかった。
「……最近はみんなと仲良く酒を酌み交わす事も少なくなったなぁ」
 オニは嘆いた。
「私は本当に、政なんてどうでもいいんだよ。みんなで一緒にいい思いをしたかっただけで……でも、お前たちテングには迷惑だったろうね」
「案外と善政が敷かれているので悪かないですよ」
 それもまた、間違いではない。オニたちは上で好き勝手をしていたが、その下にいるテングは、今のところはその重みを感じていない――どこかでは圧し潰されそうな者たちもいるのかもしれないが、今のところは顕在化していなかった。
「私だって、昔と変わらぬ官僚仕事をやっているだけですからね。上に立っている人が誰だろうと変わりありませんよ」
「ああ、私みたいに上に立つ者はそういうのがいいんだよ。無為自然だよ」
 オニは大げさな身振り手振りで、大時代的な老荘思想をぶちあげたが、もちろんその下にいる官僚たちはあちらこちらと働かされていた。
「……他の奴らはどういう政をしているんだろう。私にはわからないが」
 飯綱丸にもわからない事を相手は尋ねてきたが、ほとんどの政務はそれぞれの幕閣に丸投げしているに決まっている。
「そうでなければ、この山は治められませんもの」
「うん、うん。わかったよ。もういやというほどわかったよ」
 いつしか相手は泣いていた。子供のように泣きながら言った。
「私はさぁ、政なんてどうでもよかったんだよ。都の方じゃやりにくくなってたし、昔の縄張りだったこの山に他の妖怪どもが勝手に住みついてるって聞いて、四人一緒にいい思いをして、仲良く暮らしかっただけで……」
「……あ、それはさっきも聞きましたね」
 飯綱丸は突き放すように言った。

 そうした日常を送っている中で、なぜだか飯綱丸は獄に繋がれてしまった。
「どうして――」
 と異議を唱える事も出来ず、政所で下級官僚たちを仕切っている中、突如として拘束されて、そのまま獄中の人になった。
 どうしてだろうと、岩盤を掘っただけの岩屋の中で、ぼんやり考えた。もちろん四天王の権力闘争が顕在化したのだろうが、自分が何の罪をあてがわれて、ここに押し込まれたのか、それがわからない。
 岩屋の中は冷たく、湿っぽかった。常にどこからか、水が滴る音がする。体が骨の髄まで冷えて、そのまま腐ってしまいそうな気がした。
(あの人は大丈夫だろうか)
 と思ったのは、あの豪快で飲んだくれで、そのくせ寂しがり屋で泣き虫のオニの事だった。彼女はきっと失脚してしまうだろう。このまま彼女との縁は切れてしまう気がしたが、ただ無事であってくれればいいと、それだけを思った。
 耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。
「した、した、した……」
 と囁きながら石牢に下ってきた者がいた。
「尋問の時間です」
 そう言って牢の格子の前の冷たい岩場に、革の敷物をやって座ったのは、テングではなかった。
「……話したくない」
「なるほど。では喋らなくてもいいです」
 相手は構わず、さらさらと供述を書いていく。飯綱丸は忌々しそうに言った。
「――私は何も言っていないわ。そんな供述書に効力など無いでしょう」
「それが、私の場合はある程度信頼されるのですよ。私は心を読めるのですから」
 はっと顔を上げた時に、目が合った。相手はニタリと笑った。
「そうそう、こちらを向いてもらえれば、もっと読みやすい」
「……サトリか」
 飯綱丸も得心がいった。目を逸らそうとしても、もう遅かった。
「あなたの心を能動的に読んだのはこれで二度目です。一度目は、あの使者の時」
「オニどもを伊吹山あたりから下りてきた田舎者と、悪口を思った時か」
「私はあの御簾の向こうで四天王の近侍をしておりました」
(なるほどね。それくらいはわかっていなければならなかった)
「今は星熊童子の許で臣となっております」
「今まで出会った事は無かったな」
「あまり出歩きませんからね」
 そう言いながら勝手に筆を滑らせていき、そして
「できた」
 と供述書を完成させて、さっさと日の当たる場所へと戻ろうとしている。
「待て」
 飯綱丸は言った。
「私はどういう罪状でぶち込まれたんだ?」
「……外患予備」
「はぁ?」
「あなたは過去に山を出奔して、人の世と繋がろうとした経歴があります」
「別にいいだろ。人の世を引っ掻き回すのがテングの習いだ」
「ですが、そのために人の世の両陣営の、どちらか一方に与しようとしました。要するにあなたは倒幕を目論み、そのために思想的に宮方に心を寄せていて、外部とも強い結びつきがあると見られています」
「……そんな運動からはもう足を洗ったよ。若気の至りだ」
「そうみたいですね。あなた自身の心を読んでみても、そのようです」
「でもその調書があれば、そうでないという事にもできる」
「……まあ、悪いようにはしませんよ。じきに待遇も多少はマシになるでしょう。お外の乱が終わるまで大人しくしていてもらえれば、それでいい」
 その言葉を聞いて、飯綱丸は心がざわついた。もちろん、相手はそのさざ波すら読み取っている。
「本当に何もご存じないのですね。今の山はこの件で上から下まで大激論ですよ。……人の世の主上は神器を奉じて京から脱出。叡山に避難すると偽り、山城国笠置山に行宮を置いて挙兵なされました。大和、河内の宮方も呼応していて、また西国でも動きがあります」

 もちろん、この二度目の――数年前に起こった正中の変に続く――当今御謀叛の情報は、飯綱丸も知っていた。計画は漏れていて、こんな片田舎の人外どもまで知る話になっていた。そんな状況で挙兵されるとは、誰もが予想の外だっただろう。
(馬鹿な事をしたものだよ)
 飯綱丸は石牢の中に身を横たえながら思った。
(今やっても上手くいくはずがないんだ。もっとひどくなるかもしれない……なにもかも時機が整っていない)
 だが同時に、それが整う事など永遠にないのかもしれない、とも思う。
(今の政体では、時機が整うまでのうのうと待っていれば、すぐ退位させられるんだ。これが最後の機会だったのだろう)
 なので、飯綱丸は今上の判断を愚かとも言えない。
(だけれども、その決断の余波が、こんな妖怪たちがたむろする山にまで及んでいるというのは、ちょっと面白いかもしれないな)
 滑稽を感じるのは心の余裕で、しかし限界でもあった。
 相変わらず、水の滴る岩屋から、抜け出せてはいない。
(した、した、した)
 と、その滴りを心の中に映す。
(私の生き方はいつもこんな調子だな)
 石牢の中でぐったりと衰弱しながら、彼女は思った。待遇はましなものになると言われたが、一向にその気配はない。
(でもきっと、あのサトリは、その時点では本音でそう言ってくれたんだろう――あの手の妖怪は、個人としては本音で付き合ってくれる事も少なくない――でも情勢の変化から、組織がそれを許してくれなかった。それ自体はよくある)
 本当に、よくある事だ。飯綱丸は力なく微笑み、眠った。

 歯を抜かれる夢を見ていると、ごりっ、という音で目が覚めた。
 上体を起こして身の回りをきょろきょろ見まわしていると、次の音は、石牢が全て潰れてしまうような地響きだった。飯綱丸も思わず身をすくめてしまって、にわかにできた地面の割れ目に落っこちてしまった。
 そのまま友人の腕の中に優しく受け止められる。まだ夢が続いているような、妙な感覚があった。
「……くそ。テングどもの千里眼や順風耳を避けて、音も無く掘れと言われると、時間がかかった」
 と大ムカデは言った。飯綱丸は目をまん丸くさせる。
「あなたは」
「今すぐこの山から出奔しろ。いずれ戻る事を許される日が来るかもしれないけど、今はそっちの方が丸い」
 ぶっきらぼうに、話を遮り言いながら、その足はもうにわか作りの坑道を駆け始めている。
「いったい誰が――」
「あのクダギツネだよ」
 友人は即座に答えた。
「あいつが泣きついてきた。オレはそれに応えた。それ以上の事情はない」
「……ありがとう」
「礼はあいつに言え。あれは今だって、お前のために方々を渡り歩いて……」
「どこを?」
「知らんよ」
 彼女は面倒くさそうにかぶりを振った。
「本人に会って聞け」
「……たしかに。それが正しい」
 話しているうちに、坑道が広くなった。それまで通っていたのは大洞窟の壁に掘られた小さな横道で、大突貫で掘り進んだものだったようだ。そして友人は飯綱丸を優しく腕から降ろし、その横道の薄い割れ目のような入り口に一蹴りくらわせると、あっという間に崩落させてしまった。
「……さて行こう」
「本当に、言葉もないわ」
「まだよ。落ち延びるところに当てはある? もしあれば――」
「信州、水内、飯縄山」
「よろしい。あの女狐に伝えておくわ」
 それきりで言葉は少なくなり、友人に手を引かれて、洞窟の中を歩き始める。
「……ずっと前に舞ってもらった、俵藤太の話だけどさ」
 と友人が言ったのは、洞窟を抜けて、樹海の端に脱け出した時だった。外は夜で、満天の星空。それを仰ぎ見て、飯綱丸はようやく自分の立ち位置が安定した気がした。
「あの話、どこまで知ってる?」
 飯綱丸は、少し考えた。
「ええ? ……そうね、以前田楽で舞った時のままよ。竜宮城に招かれて、大ムカデを退治して、それで尽きる事のない財物をたくさん貰って……そういうおとぎ話」
「ふむ。こっちが聞いた事がある伝説には、更にこんな枝葉がついている……竜神の予言だ。“御辺の門葉”……つまり俵藤太の子孫に“必ず将軍になる人多かるべし。”と」
 将軍? と飯綱丸は目を細めた。昨今で将軍といえばまず征夷大将軍だが、今のそれは、いわゆる宮将軍だ。ただお飾りでしかない。そんな地位が武門である俵藤太――藤原秀郷の流れのものになるとするなら、それは乱世の中でしか起こりえないだろう。
「ま、うちらの一族の間でも、半ば伝説みたいな話だったけどさ……」
「藤原北家秀郷流といえば、そうね。小山、結城、大友、少弐、佐藤、足利……は、今もって盛んなのは源姓足利氏の方か……」
「あまり本気にするなよ。竜神の予言なんてものを信じて、ろくな事はない」
「じゃあなんで話したのよ」
「なんとなくだ、なんとなく」
 そう言いながら、友人は目を細めた。
「……そろそろあんたの脱走が発覚する頃だな。山の方が騒がしい」
「みたいね」
「また会おう」
 そう言って、固く手を握った。飯綱丸には、こういう友情がよくわからない。この友情を単なる利害関係とまで割り切っていたわけではないし、友人の感激に気圧されたわけでもない。それでも、この握手はなんだか戸惑った。
「……あんたの従者にも伝えるべき事は伝えておく。心配するな」
「ええ。ありがとう」
 飯綱丸はそう言って、熱に浮かされたようによろよろと野の道を歩き始めた。そうしてなんとか真夜中の街道を辿りつつ、この奇妙な感覚は慣れないな、とその気分の中で思った。

* * * * *

 信州、水内、飯縄山。
 険しすぎるという山ではない。登山に覚えがあるなら、すいすいと登っていける。道々を行くうちに、この山で修業しているらしい山伏行者たちに呼び止められたが、かねて受け取っていた通行の証しを見せると、先に通してくれた。それでも、警戒のものものしさは、痛いほど伝わっていた。
 歩いていく先に、一人くらいが住めそうな小さな庵があった。
「ごめんください――」
 と顔を覗かせる。
 誰もいない。どうやら外出しているようだ。少女は縁に腰かけて待った。
 やがて戻ってきた飯綱丸は、突然の従者との再会に驚きもせず、握り飯を放って寄越した。
「腹が空いてるだろ」
 と、そっけなく言う。そうして庵にずかずかと上がると、くるりと身を返して座した。
「……で、今までどうしていた?」
「情けない話ですが、しばらくはずっとあの樹海の周囲をうろうろして、あなたの身ばかり案じておりました」
「その割には身なりがいい」
 と、髪を少年っぽく流行りの長さの尼削ぎにして、随分と世慣れたふうの従者を眺めた。
「さすがに四六時中案じているわけにはいかないので。……まあ身を落とすほどじゃありませんでしたが、色々やっていましたよ」
 そこで主従はクスクスと笑い合って、やがてそれが隠し切れないほどの大笑いになり、抱き合った。
 目尻に涙まで溜めながら従者は言った。
「生きてたぁ!」
「当たり前よ。生きていないとでも?」
「そういう事もあります……この情勢下ではなんでも起きるでしょう」
「どうかしら。よくわからないけれど、私の扱いについて紛糾していたようなのは、そのようね」
 飯綱丸はのんきに言った。
「……しばらくはここに身を寄せようと思う。それで世の中が落ち着いたら、山へ所在を明らかにする書状でも送るわ。……ああ、それにしてもいつになったら世は収まるのかしら」
 と、ごろりと横になる。それを見た従者は少し眉を落とすと、不自由していなさそうな生活の様子を眺めまわして呟く。
「……こんな辺鄙な山とはいえ、お嬢さんだったみたいですね」
「一族の鼻つまみ者よ」
「ここって、どういう山なんです?」
「飯縄山の縁起を一言で説明するのは、とても難しい」
「じゃあいいです」
 とにかく、この山には色々な者がいる。人ともテングともつかぬ異類異形がうようよと蠢いて、出たり入ったりしているような山だ。
「……で、どうして今まで一度も里帰りしなかったんです?」
「色々あったんだってば、色々」
 あまり話したくないといったふうに、話題を変える。
「ところで……えーと、その恰好似合っているわ」
「えへへ……山城を包囲する陣の中で、ちょっと小金稼ぎを」
「見に行ったの?」
「戦見物はいつの世も庶民の娯楽です」

 やがて宮方が笠置山を失陥し、主上が幕府方に捕らえられたという話が聞こえる事もあったが、しばらくの間、二人はこの辺鄙な山伏法師たちの修行場でのんびりと過ごしていた。
「面白い話を聞かせてやるわ」
 と飯綱丸は手懐けた山伏たちから集めた話を、従者に向けて、頭を近づける。
「幕府の取り調べに対してミカドがどう答えたと思う? ……“天魔の所為”ですってよ」
「……あの、ひそひそ話の方がいいのですか?」
「まあ、あまり実家に迷惑もかけられないし……」
「わかりました、ひそひそしましょう。ひそひそは大好きです」
 従者は体を押しつけて、腕を絡ませながら言った。こういう懐こいところはクダギツネだな、と思う。
「……まあ、これが一連の乱の後ろにテングが暗躍しているっていう証にはならないけどね」
「人間はとかくなんでもテングのせいにしがちですからねぇ。……どうです? ここらで宮方に加わった同志たちの消息でも探ってみては?」
「難しいわね。彼らが無事かは気になるけれど、そんな事をすれば私が本当に宮方だったと見られる事になるわ」
 それだけはなんとしても避けたいと思いつつ、この山の山伏を手懐けてもいる飯綱丸だった。
「……あと、遅かれ早かれと思っていたけれど、この潜伏先もばれたわ……ここにいる限りは連中も手出しできないけれど、書状を送ってきた」
「あらら……どんな?」
「これがその書状」
 と封紙に包まれた文書を渡して、読むよう促した。
「妖怪の山からの召喚状よ。……期日までの出頭命令に背けば、山に残してある全ての資産を凍結し没収する、ってさ」
「なるほど。痛くも痒くもない」
 ものが分かっているように従者は言ったが、書状をほぐし開くのに戸惑っていて、間に挟まる礼紙をくしゃくしゃにしてしまっている。
「……この処分の上でほとぼりが冷めてしまえば、それで私の件は沙汰止みでしょうね」
「そういうものですか」
 と言っているうちに書状が表紙も裏紙もばらばらになってしまって、投げ捨てられた。
「なによ、つまんなさそうに。私と討手の切った張ったでも見たかったの?」
 従者は肩をすくめるだけで答えず、そうして生じた微妙な間を嫌ったのか、いま気がついたように、庵の軒先に吊るしていた干し柿を下ろし始めた。
「……しかし、ここも潮時かしら」
 飯綱丸はため息をついた。

 結局、飯縄山で年越しまで済ませてしまってから、主従は山を下りた。
「もうちょっとごろごろしていたかったのにぃ」
「あんたは人んちでくつろぎすぎなのよ……さて」
 と、目を眇めつ呟いた。
「どうやら歓迎委員は来ていないようね」
「妖怪の山の連中も、どうせ新年のお祝いでこっちなんか気にしてませんよ」
「やっぱり鬼はこういうところが大雑把で、だめね。監視がちょくちょく来ていたのは確かなようなんだけど。……あんたなんか体形が丸くなってきてない?」
「気のせいですよ、気のせい……」
 と、答えながら主人の目くばせを見て、その背中を守るようにさりげなく位置取った。
「……ところで、これからどこへ行くのですか」
 従者が聞いた時には、飯綱丸も立ち止まっていて、周囲の気配を探っている。
「そうね、京にでも上洛してみようかしら。ミカドはこないだも六波羅から脱走しようとしたそうだし、まだだいぶやる気があるようなのは確かみたい」
「お元気な方だなぁ……」
「……どうやらあなた方にも独自の情報網があるようですね」
 突然、そのあたりの草むらからそんな声がしたので、飯綱丸は、
「誰か?」
 と、いつになく鋭い声で問いかけた。
 応えるように草むらから出てきたのは、腹が異様にねじれ膨れて曲がった、性別不祥の猿回しのような風体をした妖怪だった。もっとも、猿回しのような風体というのは、近くに狒々を引き連れていた事からの連想ではあったが――
「あなたはまだ妖怪の山に戻るべきではありません」
 相手は腹に腫瘍を抱えこむように、不自由そうな体を跪かせながら言った。
「今のままでは、あなたはオニに良いように使われて、同族であるはずのテングからは恨まれ続けます。あなたの想像以上に、同類からの恨みは深いのです――言っている事はわかりますね?」
「お前は誰だ」
「ですからいっそ、本当に宮方に属す事にして、この大八州をひっくり返してしまいなさい。そうすれば山の方でもあなたの存在に影響力が出てくる。その影響力でもって夢を見せるのです……大丈夫、倒幕そのものは絶対に可能です。先頃の出兵も、鎌倉から派兵された軍は足並みが揃っていたわけではありませんでした。私はこのようにして猿引きに変じて、派遣軍の幕内を出入りしておりまして……」
「お前は誰だ?」
 もう一度、いらいらと尋ねると、相手はようやく飯綱丸の声が聞こえたように、ニヤッと笑った。
「あなたが妖怪の山で罪に問われた時、尋問したサトリがいたでしょう」
 と言って、今度はごく軽い調子で頭を下げた。
「私はあの子の不肖の姉でございます」

「……種族の名前をそのまま名乗るというのは、なんだか不思議な感じですね」
「一族の嫡子にはよくある事だろ」
 それよりもっと不思議な事があると思いながら、飯綱丸は上京の歩を進めていた。
「しかし……どういうつもりだろう、あの女は」
「知りませんよ。あんないやらしい妖怪」
 従者は嫌悪感を隠さずに吐き捨てた。好き嫌いがはっきりしているクダギツネだった。
「あんな輩の口車に乗ってはだめですよ」
「しかし口車と言ってもどういう口車だ? いっそ宮方に与してしまえとは……」
「わかりきっています。妖怪の山でのあなたの罪を、いよいよはっきりしたものにするためでしょう」
「でも、なにか引っかかるのよ……」
 それにサトリから聞いた情報もあった。
「あいつの言葉を信じるならば、ミカドの配流先も隠岐に決定したそうね」
「承久の乱という先例通り、ですね」
 とかく前例主義というか、先例に従う傾向がある乱の始末だった。
「隠岐流しが決定したのに、それと同じ口で倒幕は可能と言う。むちゃくちゃすぎて、なんだか面白いわ。……まあ、その遠流を見届けても悪かないよ」
「問題の先送り……」
 従者は文句を垂れたが、主人を責めるつもりもない。
「まあいいですよ、別に止めませんからね。どうせ私が振り回されるだけですもん……。いいですよ、私は、ボロボロになるまであなたに振り回されて……ふふふ……」
 なんだかんだと楽しそうなので、このまま地の果てまで引きずり回してやろうかと思った飯綱丸だった。

 ミカドが隠岐に流されるという日は、洛中の、特に六波羅周辺にも妙な雰囲気が漂っていた。騎馬の者の往来も朝からそわそわとして、やがて日が高くなるほどに緊張し、硬直した。
 遠流される御方は、巳の刻に六波羅から出立した。六波羅より、七条を西へ、大宮を南へ折れて、東寺の門の前……
 飯綱丸とその従者は、野次馬の群れのひとつになって、ぼんやりその様子を眺めている。
「これで終わりですか」
「いいや。まだ流される道々で、かの御方を奪還するという計画が根を張っているようよ」
「へえ、物知りですね……いや、人間たちの計画がザルなのかな?」
「飯縄山で手懐けた山伏行者どもは、全国に散らばってくれた。話として聞こえるものは多い」
「ふうん。私のお仕事無くなっちゃうなぁ……」
 従者はぼやきながら、隠岐流しの車列に尻を向ける。飯綱丸もそれに気がついて、後を追った。
「そんなにつまらなさそうにしないでよ」
「じゃあ面白くしてくださいよ。こんなの詰みじゃないですか、詰み。どうするんです」
 しかし飯綱丸は護送の列をふと振り返り、呟く。
「……隠岐判官は佐々木氏だったな」
「それがどうか……?」
「そして出雲の守護は塩冶氏。佐々木氏と同族」
「はい」
「そもそも佐々木氏は宇多天皇の裔、近江国蒲生郡佐々木庄から出でて……」
「歴史のお勉強は難しいです」
「……今回の隠岐流しの警護をしている大名の中にも佐々木氏がいたでしょ――佐々木佐渡判官入道道誉。……佐々木の中では傍流だけれども、評判だとだいぶ面白い男らしいわ。なんでも北条の相模入道が出家するとき、付き合いで一緒に頭を丸めたとか」
「それじゃあ鎌倉の腹心のようなものなんですかね」
「少なくとも、表面上はね。そんな一族の影響が濃い土地から、果たして脱出できるか……」
「だから言ったじゃないですか、詰みですよ」
「本来ならそうよ……」
 だがその詰み筋は、単に承久の乱という先例があるだけだ、と飯綱丸は見ていた。
 この乱は先例主義にこだわる事によって、そうした呪いを植え付けられているらしい……だいいち後鳥羽上皇だって、隠岐に流されてただ大人しくしていたわけではない。あのべらぼうな……それだけに誰とも繋がる事ができなかった不幸な才覚は、いつだって盤面をひっくり返そうと、虎視眈々としていた。影響力を喪失した後でさえ、還御や帰洛の運動は幾度も起こっていた……それをどうにか抑えたのは摂家の藤の蔓だったが、今ではそれさえも千々にちぎれていた。
 だから、今回こそなにか手があるはずなのだ。なにか……。
 従者はまだぼやいている。
「どうしようもないですよ。玉は流されて、頼みにしてる天台座主の親王は行方不明、赤坂の守将は自害……」
「あれ、生きてるらしいわ」
「あ、本当……」
 即座に言い返された事に戸惑いながら、ふと周りの目を気にして、
「あまり大きい声で言わない方がいいのでは?」
「六波羅だって馬鹿じゃないわ。既に捜査網を張って察知しているでしょ」
 だからといってべらべら喋って良い話ではないだろうと思いつつ、それにしても、と従者は続けてぼやいた。ぼやくのが仕事のようだった。
「……入洛したところで、まったくテングの同志たちには会わないですねぇ」
「吉野あたりにでも潜伏しているのよ。うまく潜み隠れている事の証左だわ」
 と、辻の向こうで騎馬武者に少し動揺があった。見物の中に宮方が潜んでいたのか、ただ野次馬との間に起きた混乱かはわからないが、騎馬が足踏みをしつつ道々に壁を作って、御車に触れさせもしない。
「……行こう。どうせここでは奪還もできない」
「しかしそれで隠岐に押し込められたら、いよいよおしまいですよ」
 それでも野次馬が次第に崩れて雑踏に変容していくまで、主従はそこに居続けて、名残惜しげな時間が流れた。
「行こうって」
「歩こうとしなかったのはあなたの方です」

 午後は洛中をぶらつき、特に商工業が盛んな区画の辻に立って、往来をぼんやりと観察した。
「あれは下手な掏摸ですね。袖口があんなに膨らんじゃって」
「上手な掏摸はそもそも嵩張るものを盗まないからね。……でも、上手であっても見分け方はある」
「そうなんですか?」
「手元を隠しているけれど、親指を大きく直角ほどに開いている手合いがいれば、それよ。……あっちの店はどう思う?」
「職工に化けた詐欺師ですかね。それらしい手先にごまかしているけれど、金細工よりも文書書きに慣れてる」
「残念ね、服装がかつてはそれなり上等だったのが伺えるわ。落ちぶれた文官貴族でしょう」
「……あの行商なんか、微妙に訛りと服装に違和感がありますね。それと着こなしが野暮ったい」
「歩き方が雪国育ち。東北か北陸あたりから出向した、六波羅の密偵ね。でも訛りはあえて誇張していると思う……。野暮を装いながら、宮方の洛中での潜伏先や武具の入手経路なんか調べているんじゃないの」
 少し見まわしただけでも、様々な職能の人々がいる。そんな遊びをしているうちに夜が深まり、そういった店々も引き払われていくにつれて、また群衆の様子が変わる。
「これ、つけてな」
 飯綱丸が渡したのはキツネの面だった。
「……異類異形ってやつですか」
「そうそう」
 と相槌を打ちながら、飯綱丸自身もテングの面を顔につけている。そうした仮面をつけた往来の影が、次第に増えてきていた。
「連中は、人のなりをしている妖怪のなりをしている人よ」
「ややこしい」
「つまり今の私たちは、人のなりをしている妖怪のなりをしている人のなりをしている妖怪、となる」
「ややこし……」
 やがて官憲の目を盗んだ夜の市とでも言うべきものが開かれ始めたが、飯綱丸たちはそこに興味は無かった。
「もうあまりぼーっと突っ立って見てるわけにもゆかないわ。こっちが六波羅の回し者だと思われて、袋叩きに遭っちゃう」
「じゃあどこに行くんですか?」
「それは……着いてのお楽しみって事で」
「いらんところで茶目っ気出してくるなこの人……」
「あー?」
「タノシミニシテオキマス」
 そうしてたどり着いたのは河原だった。
「なんでこんなところに来たんですか」
「今夜は田楽の興行があるから」
「観光か……」
「社会勉強と言ってもらいたいわ」
 確かに夜になっても人の気配が多い。そして川岸の上流がぼんやり明るかった。きっとそこに田楽の舞台が設営されているのだろう。
「……それと、お昼のおさらい」
 見物にちょうどいい場所を取った飯綱丸は、隣の従者に囁いた。
「えーと……あの面をした女郎、どう思う?」
 この田楽興行の客座にも、そうした仮面付きの人々は多かった。
「男です」
「手首を見たのね?」
「そう。……それとかなり若作りをしていますね。うなじの後れ毛と脂の匂いでわかる」
「いいわ」
「隣の男はその愛人で商人。身なりからしてそこそこの大店。ついでに仏を祀る事篤い。おそらく坂本あたりの人」
「元は陸の人じゃなさそうね。海運業者だと思う」
「なぜ?」
「顔を動かさずに、お面の中で目だけ動かして。足元、指の動かし方」
「なるほど」
「それに手指の刺青は船乗り特有よ。……でもよく見られているわ。いい子いい子」
「照れますね」
「じゃあ次――」
「……あ、舞台が始まりそうですよ」
 始まった前座の曲芸は、最初から野次がうるさく、そういうものなのだろうと思っていたが、元々下手で有名なやつらしい。情け容赦なく、舞台に礫が投げ込まれ始めた。
「なかなか過激ですね……」
 やがて本番の田楽舞が始まった後もその荒っぽさは続いていて、夜が更けるにつれ次第に演目がいかがわしくなっていった。
「あ、脱ぐんだ……」
「教育上よろしくないわ」
 先のミカドが配流された日だというのに、こんな猥雑な舞台が平然と興されているのが、京というところらしい。
「でもさ、それが世の中というものでしょ、ねえ?」
「ですねえ……」
 従者は、舞台上からの卑猥な客席いじりをかわすために、首を引っ込めた。
「……あの、思ったのですが」
「なに?」
「私たちってどんな輩に見えているんでしょうね」
「……ふん?」
「まずこのお面を抜きにしても、法師とその弟子であるのは一目瞭然でしょう。……でも叡山の衆にも見えない、三井寺や興福寺の徒とも見られないでしょう。昼間にあなたも言っていましたけれど、たぶんもっとも気をつけるべきは、見るよりも見られる事……どうです?」
「……花丸よ」

 舞台がはねて、二人も客席を立った。
「想像以上に肌色多めの舞台だった……」
「さっさと行きましょ、後のお楽しみなんかがあったら目も当てられない」
「あい……」
 しかし、河原には人が増えている。日中の方がおとなしかったのではないかというほどの雑踏がいつの間にか形成されていて、しかも彼らは皆、各々で面をつけて正体をわからなくさせていた。
「うへ、百鬼夜行みたい……」
「黙って流れに身を任せて」
「なんだかやらしい言いぐさだなぁ……」
「あと、私の手は絶対に離さないで」
「はい」
 主従は人混みの中をするすると進む。
「……こうして過ごしてみると、洛中ではもう乱は終了した、って雰囲気でしたね」
「民間というのはそういうものでしょう。……しかし六波羅の密偵も引っかからないとはね」
「……え?」
「気がつかなかった? 密偵が町の辻や田楽の客席にいたとすれば、私は相当胡乱な動きをしていたわ。それで、何か釣れると思っていたのに」
 腹立たしげに鼻を鳴らす主人に、従者は嘆息した。
「で、私たちはどうするんです?」
「こんなところで遊んでいてもどうにもならない。隠岐にでも行ってみようかと思うわ」
「はぁ、そうですか」
「どうせ暇はいっぱいあるんだし、乱の終結を決めるのは隠岐の情勢を見てからよ」
「まだ可能性があるんですか?」
「わからない。わかるために行く」

 山陰道を下って数日、出雲国の安来津には隠岐へと渡る港があったが、その地の舟はみな幕府に接収されているようだった。
「しょうがない。天皇が流されてくるのだから警戒もされるでしょう。……あんまり粘んなくていいから」
 と、地元の漁師や舟持ちなどと交渉を始めようとした従者を、飯綱丸は止めた。
「目立たないで。今の時節に舟を借りて隠岐に渡ろうとする連中なんか、睨まれるわ」
「まあそうですよね。どうせテングなんですから、空でもひとっ飛びして――」
「だから目立ちたくないって」
「渡らないんですか」
 飯綱丸は答えず、ふと港町を振り返る。
「……山陰を歩いていて、どう思った?」
「どう、とは」
「人間は私たちのようにひと飛びで本土に帰還するというわけにはいかない。舟が必要よ。どう舟を手配する?」
「そりゃあ……今の私みたいに、そのへんの舟持ちから、でしょうかね」
「ふむ。舟を貸してくれて、そのまま身柄を保護してミカドを推戴し挙兵してくれるような、奇特な舟持ちが現れなければいけないわけね」
「いるのでしょうか」
「さあね。でもいなければどうしようもない」

 飯綱丸と従者は、この地を巡り歩く事にした。といっても、できるだけ官憲の目につかぬよう、山地づたいに行脚している山伏という体でだ。安来の津からはさっさと離れていて、今は適当な廃寺などを寄る辺にしている。
「ミカドは道筋を変えて美作国院庄に着いたようです」
「宮方の奪還作戦が筒抜けだったのもあるけれど、そうした柔軟な変更ができる将が道中警護の指揮官たちなのよ」
「抜け目がない連中ですこと」
「手強いわ」
 そう言いつつ、やはり気にかかるのは佐々木氏だった。保元・平治の乱から続いてきたあの近江源氏は……と考えた時、ふと近江国から美濃国にまたがる伊吹山の山容を思い、ついでに、妖怪の山にやってきたあの小柄なオニは、相変わらず飲んだくれているのだろうな……などとも考えた。
「……なんだか私たちが妖怪として介入できる範囲を越えているような気がしてきた」
「それはまあ、そうですね。ここでミカドを見事に奪還したとして、有力な地元勢力への根回しは必要。その土地の者に根回しをしたとして、畿内に残る抵抗勢力との戦略的な連携も必要です。それができたとして、今度は関東に残る北条政権の地盤を揺さぶって御家人の離反を促す政治工作が必要……」
 従者はうんざりと言った。
「私たちの領分を越えてますよ、こんなもの」
「それじゃあ、私たち妖怪が世を引っ掻き回す時代はもう終わったっていうのかしら?」
 飯綱丸ははにかみ気味に苦笑いしながら尋ねた。そんなもの、答えはわかりきっている。
「そんなもの、はなから有りゃしませんでしたー、って事じゃないですかね」
 従者は立ち上がり、破れ寺の本堂からふらりと出て、夜空を眺めた。
「きっとうちらって、はなからそこまで大層な存在じゃなかったんですよ」
「言うな」
 飯綱丸は嘆息した。そんな事は最初からわかりきっている。テングなど、ただ世の変転を告げるだけの雄鶏と変わらなかった。自分たち自身では何も変えられたためしがない。そんなことはわかりきっている。大切なのはそれでもどう足掻くかだった。
「そりゃ確かに、延喜・天暦の治なんてものはウソよ。だからそれを取り戻したからって、朝の威光が取り戻される事も、妖怪たちの夜が戻ってくる事もない。でもそれは共同幻想としては必要なものよ。……あのサトリ妖怪が言った事が、わかってきた気がする。つまりはその幻想を取り戻すしか、私たちの衰退を防ぐ手立てはないんじゃないかしら」
「そりゃサイコーな話ですね!」
 クダギツネは夜の山の中で叫んだ。これが周囲の里人の耳に入っても、どうせ獣の鳴き声に聞こえた事だろう。
「……でも確かにそうです。この世界は素晴らしいなんていう無責任で曖昧な戯言より、私たちこそがきっと素晴らしいだろうっていう必死な虚勢の方が、もうちょっとは真実らしい! 私なんかはそう思いますがね」
「……それはどうも」
 時々、この従者がわからなくなる。

 山道を巡っていると、時折、上古の妖怪たちが存在した形跡に出会う事があった。
「このあたりの峠にも、かつてはミコシニュウドウがよく出没したそうよ」
 という話をしたのは、ミカドが護送される列が彼女たちの近くをかすめていった時だった。
「それで、あるとき近くの人里に住んでいる女の子が、そいつに挑戦した。……っていうのは、よくあるこの手の妖怪の退治譚ね」
 峠の上り路を歩きながら飯綱丸は言う。
「その子はけろりとした様子で、ミコシニュウドウをこういう方法で調伏したなんて吹聴していたけれど、それから少しずつ様子がおかしくなって、家を飛び出して山の方に奔って、それきり。結局、彼女は最初からその妖怪に誑かされていたんだろうって、そういう話」
「妖怪のこっちが聞いても後味悪いですねえ」
 従者は呟いた。
 今の峠道には、そんな気配のかけらもない。
「そういう土着の妖怪たちも完全に消えたりせず、どこかで息を潜めている雰囲気があるものだけど……ここは本当に静か」
 歩いているうち、まるでけもの道を行くような箇所もあり、人の往来さえない道になる。
「……いつしかこのあたりも様子が変わって、この峠を使う必要はなくなっちゃったみたい」
「こんなの、妖怪側だってやりがいがなくなりますよねぇ」
 と言いつつ、従者は道端で拾ったいい感じの枝を振り回して、けもの道の先を拓き始めた。

 結局、山陰の港に戻ってきていた。
「靄が濃いわ……」
 ぽつりとぼやきながら、ふたたび安来津の広い中海をじっと眺めていると、その辺りの漁師や行商人らと世間話をしていた従者が、
「ミカドはつつがなく配流されたようです」
 と、ざっくりとした顛末を伝えた。
「見ればわかる」
 ミカドが奪還されるような騒ぎになっていれば、こんな穏やかな港の風景は無いだろう。ここも兵に溢れて、西へ東へと流れていくに決まっている。
「かくして玉は絡め取られ――おしまい、と。そういう事ね」
「どうします? 帰りますか?」
 従者がいつになく真面目に尋ねてきたので、思わずふざけたくなった。
「うーん、急にこんな告白をするのはなんだかこそばゆい気持ちがするけど……」
 飯綱丸は従者に言った。
「お前と旅をするのは楽しい」
「ふうん。そりゃどうも」
「もうちょっとこうしていよう」
「いいですよ。……うふ」
 それはそうと、と従者は話を変えた。
「妙な話を聞きました……ミカドが隠岐流しに遭ってから、よくこのあたりにフナユウレイが出没するのを見かけると」

 それから数日、浜辺にたむろする賎民たちに紛れつつ情報を集めていくと、次のような事がわかった。
・船でもって天皇還御を目論む勢力は、間違いなく存在している。
・それとは別に、このあたりで漁師たちを驚かせるようなフナユウレイの話も、たしかに存在していたようだ。
「昔から漁師間にあった幽霊話なんかを隠れ蓑に活動している連中がいるんじゃないかしら」
「なるほどなぁ」
 となると、ミカドの奪還を目論んでいるのは、この辺りの土着の勢力か、それに近い人々だ。
「その勢力は畿内の宮方と連携しているものなのかしら……」
「各々の勢力が好き勝手に活動している可能性もありますよね。山陽道での奪還を計画していた連中はそういうクチみたいですし」
 ともあれ、依然として宮方の旗印とそれに従う者たちはいる。山野に潜伏し、頑強に抵抗している軍事指導者もいる。あと必要なものといえば武家側のまとめ役だろう。
 飯綱丸は、船場の隅っこで寝転がっている従者に尋ねた。
「……先の笠置の戦、どんな籠城をしたのか、もう一度教えて」
「よござんす」
 相手は起き上がると、膝を揃えて姿勢を正して座った。
「えー、遥々と東国より上りたる大勢共……」
「東国から御家人が派遣されたのね。誰が遣られたのかしら」
「……はぁ」
 語りをさっそく遮られたので、従者は少し不機嫌そうだった。
「えー、ちょっと待ってください。私は人の顔と名前がぼんやりするたちですけど、頑張って思い出しますから。……大将軍には大仏陸奥守貞直・同遠江守・普恩寺相摸守・塩田越前守・桜田参河守・赤橋尾張守・江馬越前守・糸田左馬頭・印具兵庫助・佐介上総介・名越右馬助・金沢右馬助・遠江左近大夫将監治時・足利治部大輔高氏、侍大将には……」
「足利……」
 足利の嫡子が一軍の大将を率いるのは、これも承久の乱の先例通りだ。まったく、呪いをかけるような配属だった。
「そう、足利といえば面白い話がありましたね。笠置の戦が終わった後、他の鎌倉方の兵は上洛したのに、さっさと兵をまとめて帰っちゃったとか」
「それは私も聞いたな……しかし足利ね。清和源氏源義国流……源氏……」
 源氏将軍が三代で潰えてから、もう百年が経つ。しかし足利氏は二代当主義兼が源氏門葉に取り立てられ、以後も北条氏と代々姻戚を結び、現在もまだ良好な関係にある……というのが飯綱丸の認識だった。
「いや、だけど……?」
(それはただ宗家の理屈だ)
「ちょっと聞いて。そしてなにか間違いがあれば、言って」
 従者は頷いた。飯綱丸は喋り始めた。
「検討してみましょう。足利宗家は笠置の戦の直前、前当主の喪があった。その喪も明けぬうちに出陣を命じられた……これは間違いなく確執の種でしょう。少なくとも周囲はそう見る」
「なるほど」
「足利は大族よ。諸国に散らばった所領を庶流が相続し、経済的にも栄えている。だから北条が頼りにしている……厄介な奴らなので、姻戚関係によって縛りつけているとも言える。彼らは源氏だから」
「源氏だから?」
 従者の反応は、古ぼけたおもちゃを見つけたような声だった。
「そう。平氏を称しているけれど、出自すらあやしいような北条を…… “平氏である北条が気に食わないので、源氏の正統である足利宗家を担いでひっくり返してやろう”という夢のような思想を御家人の中に蔓延させるの」
 そこまで言って、飯綱丸はくらくらした。発想そのものに衝撃を受けたのではなく、自分たちの身につまされる思いがしたので、めまいを覚えたのだ……。この考え自体は、非常に無邪気なものだ。――しかし、それ以上に無邪気で子供っぽかったのが自分たち妖怪だろう。なにしろこちらは、朝廷の威光が戻れば自分たちの力も取り戻されるだろう、だった……。大変におめでたい頭なのはこちらの方だった。
 だが必要なのは、そういう、大多数に共有されるべき幻想だった。
「あちらが先例主義ならこちらも先例主義よ。下に置かれている御家人どもに、平氏からなりかわった源氏の世という、美しくて理想的な夢を見せてやればいい」

 もちろん、その考え自体は飯綱丸の独創ではなかった。御家人の誰もが感じていた時代の気分だし、そのうち一部は、その気分を一歩推し進めて、既に行動にまで移しているだろう。
(だがそれを思想にまで熟成させる事ができている者がどれだけいる事やら……思想をでっちあげるのは公家や坊主の得意技だが、奴らには武家の肌感覚まではわからないだろう)
 飯縄山に戻ってからは、諸国を遍歴する山伏に策を授けたりして過ごした。といっても、たいした事はしていない。ただ、思想じみた噂をばらまかせただけだ。それに理屈をこね回しても良かったのだが、やや夢見がちで、単純なものにした。
(だがこういう毒は即効性ではないのがいじらしいわ。おそらく効果が見えるのは、ふたたび乱が起こる時。各国の御家人が一か所に集まった時こそ、この毒は爆発的に広がる――)
 などと思案を巡らせながら、従者の尻を枕にしている。
「……んもう、私がごろごろできないじゃないですか」
「従者のくせに大きく伸びてるお前がおかしいのよ」
「この山に戻ってから、ずっと籠ってばかりで、面白い事もありませんからね」
「河内国では動きがあったらしいわ。刈り入れられた米の略奪――」
「悪党のやりそうな事です」
「しかし行動としては妥当だし、手際もいい。それに宮様の御令旨も方々に飛び回っているみたいだし……この感じだと年末あたりにまた蜂起が始まるかも。鎌倉からはふたたび鎮圧軍が派遣される。恐らくは足利も――」
「足利、足利って」
 従者は少しうんざりとしたふうで、身をよじりながら言った。
「足利宗家は現執権の妹を妻にしているんじゃないですか?」
「よく知ってるね」
「それくらいの事情はね」
「……しかし足利の家政構造には、大量の係累を抱えた大族特有の重大な欠陥がある。各地の所領を任されている、庶流ながら質量共に同格と言える諸家からの突き上げがあれば、北条執権の義弟だろうと叛旗を翻す事があるかもしれない」
「かもしれないじゃだめじゃないですか」
「まあね。でも私がやるのは火種をつついて、焚き付けようとするだけでいい。宮方にも深入りしすぎたくない。別に戦後に人間たちの官位が欲しいわけじゃないし、人間どもの乱なんてどうだっていい……いいじゃない、これくらい胡乱な方がテングのやり方らしくて」
「でもなぁ」
「……ま、見てなさいよ。そりゃあ裏切りを期待した戦略なんて、個人的な心情としてはけしからんと思うけれどもね。でも、越王勾践が必要としていたのはすぐ側にいる忠臣の范蠡だけではない、敵国呉にいた伯嚭……つまり裏切り者も大事な存在だったわけでしょ」
「あいにく漢籍はあまり詳しくないんで――ああ、お尻の上でごろごろしないで……」
 そうこうしているうちに乱が再発した時も、飯綱丸は慌てなかった。常に、自分は人の世に対して局外者であると思っている。
 やがて明くる年になって、情勢に変化が起きた。

伊豆国在庁北条遠江前司時政之子孫東夷等、承久以来、採四海於掌、奉蔑如 朝家之処、頃年之間、殊高時相模入道之一族、匪啻以武略芸業軽 朝威、剰奉左遷
当今皇帝於隠州、悩 宸襟、乱国之条、下剋上之至、甚奇怪之間、且為加成敗、且為奉成
還幸、所被召集西海道十五箇国内群勢也、各奉帰
帝徳、早相催一門之輩、率軍勢、不廻時日、可令馳参戦場之由、依
大塔宮二品親王令旨之状如件、
 元弘三年二月廿一日 左少将定恒奉

 大塔宮護良親王、西海道十五ヶ国に倒幕の令旨を発布。

「行こうぜ。戦見物だ」
 飯綱丸は勢い言って従者を伴い、飯縄山を下りて、それきりだ。
 彼女が故郷に戻る事はなかった。

「ええと、戦陣に出入りする業者に成りすますには――」
 などと従者は講釈を垂れた。河内国赤坂に至って、明日には包囲戦を見られようかというところでだ。
「――色々の方法がありますけれどね。武具職人、代筆、女郎の斡旋、大道芸人、近隣集落への兵糧徴収の仲介業……もちろん普通の行商って手もあり。でも武家どもからはただでさえ蔑まれやすいのに、余計に舐められがち」
「いずれにせよあまり目立ちたくないな」
 結局、身なりは行者のまま、灰汁を飲んで喉を潰し顔の下半分に炭を塗りたくって性別を偽り、攻防の中で出た死者を弔って回っていた。
「こんな場所まで来て、こせこせした葬儀屋というのも面白い」
 しわがれ声で笑ったが、従者は渋い顔をしていた。
「前線に転がってる死骸を回収するのは私、死者を弔った後に焼くのも私、彼らを埋めたり主家に伺いを立てるとかの雑務も私。私、私、私……いけない、ぼやきすぎてる。私にはワタクシがありすぎる……」
 しかしながら、鎌倉方が攻めたてた赤坂の城は早々に陥落してしまった。
「大半の部隊は千早の城を囲っている方に合流するって話ですよ」
「待ちなさい。こっちで死んだ兵も最後の一人まで弔わなきゃ」
「妙なところで律儀なんだからもう……」
 従者は呆れた。同業他社などはここの死体など放って、さっさと他方面の軍に仕事場を変えているのだ。
「こんな事をしてるうちに、向こうもさっさと陥落してしまいますよぉ」
 と文句を言われつつ、周囲の陣変えの様子などをつぶさに観察している飯綱丸だった。
「……まあ見なさいよ、移動を渋っている御家人も少なくない」
「そりゃあそうですけど、ねぇ」
 まだひと月もしない戦の経過だ。攻城側も厭戦気分が噴出しているわけではないが、経済事情の逼迫からさっそく陣を引き払う事を検討している、貧しい御家人たちもいた。
「戦況が膠着すれば、そういう連中も出てくる。それが宮方の勝ち筋よ」
「というより、方法がそれしかない……」
 主従はそう呟きつつ、集めた雑多な死体の持ち物などからあれこれの証しを見つけては、彼らの主家に亡骸を送っていた。
「……お、見てくださいよこいつ。腹巻の裏に守り袋がくくってある。結城氏のところの家人ですよ。藤原秀郷流でしょ」
「よく見なさいな、生国に陸奥国ってあるでしょ。奥州に移り住んだ傍系だわ……まあ白河結城も今や宗家を凌ぐほどの大族だけれど、いまいち将軍になる人多かるべしって感じの格ではないのよね……」
 こそこそと言い合うのは、あの大ムカデが語っていた、予言の話だった。
「……というか、その話、本当に本当だと思っているんですか?」
「そりゃ龍神の予言なんて当てにならない」
 とは言うのだが、ひとまず、なんとなく心に留めている。だが例の龍神の予言――“御辺の門葉必ず将軍になる人多かるべし。”――を疑問視しているのは従者も同じようで、鼻で笑った。
「……これはまあ、ぶっちゃけた話ですけどね、そもそも秀郷流の血筋なんて由緒が長くて広いんですから、鎌倉のそれなりの御家人に向かって適当に石投げてやれば、どこかしらに当たるようなものじゃないですか。そりゃあ、私は彼らのしっかりとした系図なんて知りませんけれど……」
「その想像は私もしてるけど、でも――あのねえ、ホントに石投げようとしなくていいから」
「違いますよ、あの猫、さっきから死体狙いなんです。人の味を覚えてるんだ」
 と言って、礫を二つ三つ、その猫に向かって投げつけた。真っ黒で腹だけ赤いのが、なんだかいもりのような猫だ。
 しかし追い立ててみても、猫は素早くその場を退っただけで、じっと二人を見つめている。
「……それはそうと、もう閏の二月です。昼間はぽかぽかし始めていますし、これらの死体もソッコーで腐りますよ」
「問題はそこよね。北陸からの流通は滞りがち、山陽道と瀬戸内の陸海路も宮方によって封鎖済み……」
「遺体を保管しておくだけの塩もこの山中じゃ都合できません」
「どうしましょ。判別に使えそうな形見と、身元を入れ墨させた指だけを残して塩漬け。あとはみんな焼いて打っちゃるしか……」
 などと実務的な相談をしているところに、人が来た。
「かたがた、ちょっとよろしいですか?」
 と気軽にやってきたのは、あのサトリ妖怪だった。相変わらず、あの第三の目をぼろ着の下で腫瘍のように抱えている。しかも今回は飯縄山の麓で出会った時より、身なりがよりいっそうみすぼらしかった。その相手が言い訳するには、
「猿回しから物乞いにまで身を落として、関東をぶらついておりました」
 という事だった。
「……そのへんの辻で殺されていそうな身の落としっぷりね」
 飯綱丸は呆れたが、その妙な気安さも相手の策だろうと思う。
 実際、相手はけろりとしていて、言った。
「……まあ、そうなってこそ見える辺もあるのですよ。それに、実際には道々で芸や占いなどをやって、けっこう好かれておりましたしね」
 だがその弱者への好意には、どこか殺意がこめられていたに違いない、と飯綱丸はぼんやり思った。

 サトリは指をちょいちょいと振って、傍らに先ほどの黒猫を呼び寄せた。
「……それ、あんたの使い魔だったの?」
「いえ。今ここで出会ったばかりです」
 と言いつつも足を崩して座る股ぐらに猫を鎮座させるのだから、早速懐かれたらしい。
「図々しい子ですが悪い気はしません。元々動物は好きですので」
「そりゃ良かった。こっちも図太くて図々しいやつを一匹飼ってるけど、けっこー楽しいよ」
「……誰の話です?」
 従者が首を傾げる横で、サトリは猫についた蚤虱を一匹一匹取りながら、さっさと本題に入った。
「私の見るところ最後の一手がまだ足りません」
「ここまできたら、あとは人間がいいようにしてくれるだろう」
「しかし転がせるものは転がしておきたいし、あなたたちの目論見は倒幕そのものではない。妖怪らしく陰ながら功を立てて、妖怪の山に返り咲く事です。……しかし手段がない」
 サトリはそう言って、ひときわ大きな蚤を指につまんで、ぷちんと潰した。
「……なぜなら、あなた方を信用する者なんて誰一人としていないから。既に宮方と密かに通じている御家人はごまんといますが、彼らには信頼できる繋がりや情報源というものが既に存在している。あなた方はそこに割って入る力すら無い。人間からすれば信用ならない異形異類に過ぎない」
「……私たちの問題点を洗い出してくれてありがとう。そして決め手がないのも認めましょう」
 飯綱丸は苦々しく言った。
「でも、わざわざ姿を現したのだから、策があるのよね」
「もちろん。ここはそんな既存の繋がりすら無い、忘れ去られた人々と縁を作りましょう」
 と、両手の一本指を立てて、自説を始めた。
「……そもそもこの大乱、全ては恵まれた者と恵まれていない者の相克から始まっております」
 こういった総論から始まるのは、この手の遊説の形式だ。
「乱の根幹は鏡合わせの二者の対立です。大覚寺統と持明院統、公と武、京と鎌倉……そして百五十年のうちに埋もれていた、源平の古臭い相克も、人々は掘り返しつつあります。対立は雲上の話だけではありません。その下にいる者たちにも対立は存在している」
 そしてサトリはある氏族の名を口にして、飯綱丸はおうむ返しした。
「新田?」
「そう、新田」
「名前は聞いた事があるかも……清和源氏義国流。足利と同根」
「ですが今や零落し、なかば足利の下に置かれているような状態の零細御家人です」
 従者が嘆息した。
「ひどい言われよう……」
「しかし格はある。野心もある。当代でちょっぴり持ち直しただけあって、実力もまあまあそれなりに。……この戦は彼らにとっても好機なのです。鎌倉に妻子を縛られている足利宗家を出し抜くという意味でも。……恵まれていない者は夢を見る。だからその夢を煽るのです。都合のいい夢を」
 彼らは搦手で金剛寺攻めに参加しています、とその所在を言うと、サトリは例の猫を抱きかかえたまま、さっさとその場を辞去していった。
 その後で従者がぼやいた。
「しかし言うだけなら簡単ですよ。でも貧乏御家人の心をくすぐって関東でも乱を起こさせろって……無茶でしょう」
「……どこからでもいいから、質の良い紙を都合して」
「紙ですか。どんな?」
「関東の貧乏御家人を騙くらかせる程度には良いやつ」
「よござんす。仁和寺の鼻紙みたいなのっすね」
 従者はそう言って遺体置き場を飛び出して、すぐに適当な紙を調達してきた。

被綸言称敷化理万国者明君徳也。撥乱鎮四海者武臣節也。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。
 元弘三年二月十一日 左少将新田小太郎殿

 飯綱丸がこの偽綸旨を子飼いの山伏たちに遣わせた数日後、新田勢は病を理由に陣を引き払い、関東の所領に帰っていった。

 やがて主従は山を下りた。
「千早城攻めは見物しないのですか?」
「それどころじゃなくなったのよ」
 と飯綱丸は答えた。手に入れた情報を聞いて、なんだか気が抜けたような声になっている。
「ミカドが本土への帰還に成功したわ……」
「へっ……」
 隠岐を脱出したかの御方は、今や伯耆国船上山に行宮を置きつつ倒幕の綸旨を各所に発しながら、現地の幕府軍を撃破していた。その歩みは決して順調ではなかったが、やがては播磨・摂津・丹波で新時代的な遊撃戦を展開している赤松勢らと合流するだろう。
「まさか本当に可能……いや、本当にやってしまうとは……」
 こんなに勇ましく野放図なやんごとなき人の行軍は、天武帝以来の事だっただろう。
 そう思う彼女たち主従は、偶然にもその壬申の乱の古跡を辿るように、大和、伊賀、伊勢を越えていた。乱の中心からは遠ざかっている事になる。
「西国の大勢はほぼ決まりよ。いよいよ北条政権は足利にすがるほかなくなった」
 と呟いたのは、三河国まで至ってからだ。
「鎌倉からはついに足利勢が出撃したらしいわ。相模入道からは、源氏累代の白旗なんか受領しちゃってさ」
「承久の乱の先例通りに、か……」
 仮に足利の離反が起これば、御家人はこの旗の下に集う事になるだろう。
「前例主義が自分で自分の首を絞める形になったみたいね……この吉良荘を治めている足利一族は一門のなかでも特に格が高い。この土地の兵も上洛する軍に合流するでしょう……あんたはこの土地をどう見る?」
「出兵が近いでしょうね。人馬の雰囲気を見ればそれくらいわかります」
「それだけじゃない、田畑や街道、河川や橋の様子もよく観察しなさいな。……あれはかなり以前から兵の準備を整えていた土地の様子よ。田の配置、水路の掘り方や巡らせ方、作物だって戦時向きに作付けを工夫していて……それも一年や二年の事じゃない。もう十数年はそうし続けている」
 飯綱丸はそう言ったが、詳細な説明までは吝しんだ。この諜報技術は未来永劫まで人類間の戦争に応用できるもので、そう容易く公開すべきでない。
「でも、どうして彼らはそんなに以前から戦の準備を?」
「吉良荘の三河足利氏は数十年前に起きた弘安年間の合戦で失脚した事もあって、北条に対して思うところがあるでしょうからね。あの騒動は足利宗家にまで累が及んだ事件だったはず」
「……そんな数十年前の恨みを、そこまで根に持つものなんでしょうかね?」
「代替わりしているうち、恨みが薄れるどころか凝り固まった呪いに変じている事だってある」
「人間って怖ぁ……」
 軽口を叩き合う妖怪ふたりだったが、その地に留まって足利の軍勢を見物したりはしなかった。

* * * * *

 その頃、妖怪の山も紛糾していた。
(お外の大乱も大問題だけど、こんな山のこせこせした権力闘争に終始されても困るのになぁ……)
 とサトリ妖怪の妹は心の中で呟きながら立ち上がって、政所から山の新緑をぼんやり眺めている。
(あんなせこい政治ごっこを始めてしまったら、オニなんて怪力乱神を失うばかりでしょう……あの人たち、それがわかんないのかな。莫迦だからわかんないんだろうな)
 そうぼやきつつ、自分の上に立つ者たちに対して見切りをつけ始めていると、その足元をすり抜けてくる毛皮の塊があった。
 腹赤の黒猫だった。
「……どうしたのかしらこの猫……猫、ねこ、ねこねこ。ねこをこねこねねこのここねこししのここじし……キミ、どうして樹海を越えて、こんな辺鄙な山まで来たのかな?」
 と、その体を持ち上げて、黒い毛皮の中でそこだけ赤い腹を眺めながら(牝だった)、かわいらしい猫目をじっと見つめ、そして今度は自分がぱちくりと瞬いた。
「――お姉ちゃんからだ!」
 そう叫んだ時には既に、この奇行奇言には周囲から訝しげな眼差しが注がれていたが、彼女は構わなかった。その猫を静かに床へと降ろすと、自身は額を擦りつけんばかりに拝み伏した。
「山奥に隠遁した世捨て人どもより、這いつくばって巷間に生きる獣の方が、道を能く知っている事もある」
 そう言って、三歩分にじるように後ろに退ってから、また続けた。
「この天下であなたが見聞きしたもの、お教えください」

 どうもうまくいかない、と四人のオニたちのうち誰かが言った。
「昔は私たちもこんなじゃなかった」
「それはもう百万遍も言った」
「なにが悪かったんだろう」
「それももう、百万遍も言っている」
 結局、それぞれに絡みついて利を貪ろうとする近習たちが、自分たちを振り回しているのだ、という事はわかっていた。だが、この夜だけは、そういう輩はまとわりついてきていない。お忍びの集まりだ。人払いもした。久々、本当に四人だけの酒だった。
「頼ってくれるあいつらを除くなんてこと、私にはできなかったよ」
「悪い虫だけを選って取り除けばいいのよ」
「言うは易しだが……」
 と愚痴っぽくはなってきているが、久しぶりに四人で飲んでいる事も確かだった。
「あんたが全部イヤになって山を出ていかなきゃ、この席ももっと早く設けられたのに」
 一人が恨み言を言ったが、その口吻にさえ気安い親しみがあった。
「まあ、出ていきたくなった気持ちもわかるけどね。あのテングたちが全部むちゃくちゃにしてしまっていて……この山は数百年のうちに私たちの手に負えなくなっていた」
「彼らだけの責任だろうか」
「時代が変わったんだよ」
「年寄りみたいな事を……」
 尽きる事のない酒があったはずだが、こんな調子で話はうまく続かなかった。そのうち一人――彼女は飯綱丸の上役だったあのオニだった――が、とぼとぼと山を下りて、またどこかへと消え失せてしまう。
 それを潮にして宴はおひらきになった。
「あいつ、気鬱のよくない時期に入ると、ほんとウジウジして……」
 そう吐き捨てつつ、茨木童子と星熊童子は、招かれた屋敷の門前から見送られていった。
 星熊童子がぽつりと言った。
「……やっぱりあんたは、あいつがいる方が生き生きとしているな」
「ずっと毒を吐いてるだけよ。この吹っ飛ばされたこいつが」
 と、がらんどうの右腕を叩いて言った。
「――疼くから、いらいらしているのよ……最近、また痛みがぶり返してきた」
「気圧のせいだろうな」
「ふざけないで」
「ふざけてるのはあんたの方よ。あいつがへしゃげちゃってから、そっちの毒舌もひどくなる一方」
「それ以前から、あいつには厳しい事を言っていたつもりですけれどもね」
「その厳しさが今度は私たちの方に降りかかっているわけだ」
 軽口を叩き合いながら二人でこんな夜道を歩くのも、久しぶりの事だった――だが、ここにだって他者の目や耳があるかもしれない。あまり気安い言葉は交わす事ができなかった。
「……ともあれ、私たちで相争っている場合ではないっていう意見交換ができただけでもよかったよ。みんな考えている事は一緒だった。なんとかしなきゃいけない」
「それこそ言うは易し、よ。それにしても情けない事ばかり……」
 茨木童子は卑屈に笑いながら、星熊童子が脇に挟んでいる書状を指さした。
「昔ならそんな約定なんて、私たちには必要なかった。本当に、情けない……」
「ともあれ、これで四天王全員の同意が集まったわけだ」
「そ。この署名と花押付きの白紙文書さえあれば、いつでも好きなように全山を動かす事ができる……宮方に与して天下の大乱に加わりたいという、あんたの目論見通りにね」
 茨木童子は、その隻腕で書状をひったくった。
「それに一枚噛んだ私も同罪だけどね。……こんな卑怯な手段、誰の入れ知恵?」
「誰の献策であれ、実行したのは私だよ……そして気が変わったのも私だ」
「ははん、怖気づいたの」
「なんとでもいいなさい。急な約定だと無理に偽ったのに、あいつらが馬鹿正直に署名してくれたと思うと、なんだかやりづらくなっちゃった。……その書面も、いらない。あげるよ」
「いくじなし」
 茨木童子は笑った。
「あんたは近習どもに振り回されすぎよ。気を付けなさい、特にあのサトリ……」
「仕事熱心だしいい子だよ」
「そりゃあ、個人としては人好きのする子でしょうけどね。でも――ああ、小鳥が啼いて、うるさい。今夜はどうしてこんなに夜鳥の声が耳につくのでしょう」
 生酔いでぼんやりした頭を振って、山麓を見下す眺望でふと立ち止まった。
「……なにかよくないものが帰ってきた気がする」

 飯綱丸が秘密裡に妖怪の山に帰還したのは、ちょうどこの夜闇に乗じての事だった。

「しかしどこへ行くんですか。ここってテングの領地とは全然違う場所だし……」
「黙ってついてきなさい」
「いつ着くんです」
「だからしばらく黙ってなさいって……黙って歩いていたら、じきよ」
 そうして無言のまま山道を歩いて、ふと背後を振り返った時に、その屋敷はあった。
「……胡乱な家ですね」
「住んでるやつが胡乱なんだから、家だって胡乱に決まっているわ。ともかく、あそこに用事があるのよ」
「夜討ちだ夜討ちだ」
 と言いつつ、屋内に押しかける。
「ごめんください――」
「夜討ちだ夜討ちだ夜討ちだ」
 上がり込むと、出居の板間には畳がぽつんと敷かれ、何重にも重ねられた小袿がかけられていた。布の膨らみはその下で人一人が丸くなって寝ているような、異様な雰囲気があった。
 飯綱丸が構わずそれを蹴り飛ばすようにめくると、なにもない。そのかわり背後にいた従者が、ひぃっと小さく叫びを上げた。
「お尻触られた!」
 ばたばた座敷を走り回って、主人の背後に隠れたところを、またぴょんと飛び上がった。
「またぁ!」
「……こいつで遊ぶのが面白いのはわかるけど、ちょっと話をしようよ」
 飯綱丸は暗がりに向かって話しかけつつ、従者を守るようにふところに招き入れる。ついでに尻も揉んだ。
「……最近、山を追われて、西に東にと忙しく走り回っているらしいじゃないの」
 そう言う声が、払いのけた寝具の更に下、畳の下から聞こえた。飯綱丸は慌てなかった。
「うん、本意ではないんだけどね……」
「どうせ要件はわかっているわ」
「知恵を貸していただきたいのよ、賢者様」
「……ごめん、眠い」
「あなた眠くない時があんの?」
「とにかく話は聞いたげるから、このままにさせて」
「しょうがないわね……」
「あの、いつまで私のお尻を揉んでるんです?」
 結局、何もない畳の前に向かって、ぶつぶつ独り言を言っているような格好になった。
「今、私を取り巻く山の状況はどうなのかしら」
「わからないけれど、手ぶらでは殺されるでしょうね。ゆきてかえりし人よ」
「そこまで山の情勢はこじれているの?」
「ええ。四天王はもはや山中の統制を完全に失っています。テングたちはそれぞれの党派に分かれて暴発寸前ですし、カッパたちは既に弾け飛んでしまった」

 玄武の沢流域に住みついているカッパたちが河城と山城の二党に分かれて対立し、それをテングたちが外交的に利用して牽制させ合っていたという事実は、先に述べた事だ。
 しかし四天王の支配が山全体に及んだ後は、彼らの情勢も二転三転した。四天王同士の政治闘争の余波を受け続けて、特に河城党が一族の中で四分五裂した。
 やがて彼らは凄惨な殺し合いを始めた。甲は乙を滅ぼし、乙は丙を滅ぼし、丙は丁を滅ぼし……といったふうに。その抗争の中でなんとか生き残った者たちは、かつてのツチグモと同じように地底に奔り逃れた。
 最後に残ったのは山城党だった。
 ここに河城党系のカッパたちは地上から滅亡した。だがこの事変の後、山城党の多くの者たちが旧河城党の根拠地に住みつき、いわば名跡を継ぐような形で河城の姓氏を名乗り始めた。
 それでも山に残った山城党は、もはや自らを河に生きる存在だとは思わず、ヤマワロと名乗り始めた。
 ただ、その後もカッパとヤマワロたちの衝突・交雑・分裂は複雑に繰り返されて、当人らが自分たちの種族的連帯を確立するまでにはひどく時間がかかる事になる。

「まったく、人間の真似事をして勝手に失敗する者ばかり。もうちょっと上手い方法もあるでしょうに……」
 畳の下の賢者はそうぼやいた。
「……あのオニたちも実は古い知己でね。そもそも、ここは彼らの山だったの」
「それは彼ら自身から聞いた」
「それでどう思う?」
「だから本来は彼らが治めるべきという理屈はわかる。だが彼らは失敗した」
「人様の失政などは問題の外でしょう。私が聞きたいのは、あなたがするか、しないかよ」
 飯綱丸は何も言えなかった。
「今のあなたにはそれが可能です。天下の大乱がどのようになっているのか、この山にもちょくちょくと評判が入ってきています」
「……サトリなんかも野に下って、色々と働いているようだしな」
「それは私も知らない事ね」
「あれは謎だな。彼女たちはなにを目論んでいるんだろう」
「あなたを走狗にして、この外乱に加わりたいのかもね」
「この山の奴らにそんな意気地があるかな」
「一口に言えませんもの。この山はどう言いつくろっても一枚岩じゃありませんからね。……あるいは、もしかすると彼女たちなりの優しさなのかも」
「と、言うと……?」
 最後まで聞く前に、迷い家の外に他人の気配がした。
「おーい、起きてるぅ?」
 とのんきな声がかかった時には、飯綱丸とその従者はもう立ち上がっていた。
「申し訳ない。逃げるわ」
「いてくれていいのに。追手じゃなくて私の客よ」
「誰であろうと、当面は私が山に戻った事を知られるわけにはいかない」
「……裏口から出なさい。きっとその先にあなたを扶ける力があるでしょう」
 その物言いに首を傾げながら、飯綱丸は従者と共に、屋敷の奥に消えた。
「……ほんと、この山もまだまだ血の気が多い連中が多すぎる」
 と賢者はぼやきながら畳の上に這い出したが、そのうちに泥酔した友人が、横に長い角で屋敷の柱や壁を傷つけつつ、踊るようにやってきた。
「あ、寝てたんだ」
「別にいいのよ。少し寝つけなかったし」
「ごめんな。……でもさ、今日はちょっといい気分で飲めそうだよ。みんなと仲直りしたんだ」
「子供の喧嘩みたいな事を言うのね」
「いいじゃんか。……それにしてもさ、私たち四人って楽隠居のつもりでこの山に帰ってきたはずなんだよな。どうしてこんな事になったんだろう」
「本来あなたたちが山を任せていたテングたちと、違う連中がここで威勢を張っていたからでしょ」
 賢者はそう言って、飯綱丸の事を思った。
 彼女たちはこの山においては正統なテングたちではない。侵略者、簒奪者、主流を蔑ろにして奪い取った傍流、そういったものの一種でしかない。

 屋敷の裏口から出ていくと、未明の霧が山の中に濃い。
「このままじゃ遭難しちゃいますね……」
「手を離さないで」
 従者が手を引かれながらふと背後を振り返ると、もう屋敷の木戸は霧の中にすっかり消え失せていた。
「この先に私たちを扶けてくれる力があるって、あの畳は言ってましたけど……」
「畳の下の賢者様はね」
「いつもあんな感じなんですかね?」
「そうなんじゃない? 正直あまり絡みとかないのよ」
 二人は山中の、あるかないかもわからないようなけもの道を歩き続けた。
「この先にはなにがあるのかしら」
「不安ですか?」
「全然。あんたと一緒なら」
 それを聞いたクダギツネの従者は照れくさげに首を引っ込めた。
 ただ主人が先導するだけではない。時には従者が先を導いた。彼女たちにまとわりつく霧は湿り気と冷えを同時にもたらすようで、二人は身を寄せ合い、絡み合うように共に進んで、険しい道も、斜面も、喘ぎながら昇りつめた。
「……ん、ねぇ」
「え? なんです?」
「あんたって、どうしてさぁ、そんなに……私に尽くしてくれるわけ?」
「……ふ、いいじゃないですか。単に主人と従者だから、って事でぇっ、やあぁ……」
 苔むした斜面に足を滑らせて、泥だらけになりながら従者は言った。
「ぐちゃぐちゃになっちゃいました」
「大丈夫?」
「ええ、まだいけます」
「無理しなくていいからさ」
「ここまでやっておいて急にそんな事を言うなんて、つれない人ですね」
「わかってるだろ。自分でついてくって言わせて、後に引けなくするのさ」
「いじわるなご主人……様、ぁ……」
 主人の腰に縋りつきながら従者は身をくねらせた。本当に、ぬるぬると足の滑りやすい山道だった。
「最初から覚悟はできてますよ」
「ありがとう」
 そう礼を言った後で、その健気さにふと疑義を申し立ててみた。
「……でも、最初からってわけじゃなかったでしょ」
 相手の華奢な肩がびくりと竦んだ。
「私が勝手に山を出ていったときも、せいせいしていたに違いない。あの使者の後で、佯り狂って山を下りた時も、罪を得た私があの地底の石蔵の中で冷え切っていた時も、何度も愛想を尽かす機会はあった」
「……だから、主人と従者だから、って、ぇ、あ、やめて、やめて」
「じゃあ素直に私を好きって言ってみろよ。それで許したげる」
「好き、好き、大好きです」
「……でも、本当に好きなら話して欲しいな」
「ずるい……」
「ずるい私はきらい?」
「大好き……」
「じゃあ白状なさい」
「……あなたが倒幕だなんだと悪い友達と語らって、引っ張られるように山を出ていった後、たしかに私はあなたに愛想を尽かして、出ていこうとしました」
 従者は言った。
「自分一匹で生きていけるつもりもありましたからね……この山自体には、別になんの義理もありませんでしたし」
「でもそうはしなかったのね。いったい誰に言い含められたのよ、あの賢者? あのサトリ? それともこの山道の先にいる――」
「待ってくださいよ、なんの話です?」
 従者は戸惑った。
「じゃあなんです? 私があなたのもとに留まったのは、誰かの差し金だったとでも言いたいんですか? 見くびらないでくださいよ私を」
 みるみる怒気を帯びてくる剣幕に、まずい事を尋ねてしまった気がしたが、飯綱丸はあくまで平静を装って、
「では違うのね」
 とだけ言った。
「違うに決まっているじゃないですか。私は自分の意志であなたに愛想を尽かして、自分の意志でやっぱり思い直しました」
「どうして」
「どうしてって……言わせる気ですか?」
 従者は照れている。
「あなたがいない私なんて、何もないようなものじゃないですか」
 飯綱丸にとっては、そちらの方が道理に合わない。誰かの遠大で迂遠な策の駒になった上で、こんな自分に従ってくれていた方が、よほど気が楽なくらいだった。
「……ありがとう。こんな、何もない私についてきてくれて」
 そう礼を言ったのは、多分に皮肉と打算混じりだった。
 やがて夜が明けた。
 そのうち霧も晴れてくる。
 朝露まみれのびしょ濡れになった飯綱丸と従者は、ようやく歩みを止める。
 山をぐるりと回った中腹にある、ひっそりとした隠れ里には、彼女たちが知らないテングたちが住んでいた。
 飯綱丸は捕らえられた。

 しかし、そうして獄に繋がれた時も、飯綱丸は泰然としていた。
「そもそも私たちはよそ者だった。かつて月に喧嘩を売ってバチボコにのされた後で、私たちは小さくなって身を寄せていた。それでもなんとかここで生きていこうとしたとき、私たちはそこに元々いたテングたちをないがしろにした」
 彼らの事は、この山の変転の歴史の中で、主従もすっかり忘れてしまっていた事だった。
「私もその頃の事はぼんやり覚えていますが、彼らは山を追い出されて、下りていったきりだと思っていました」
「この山も相当に広いからね。山裾の反対側なんて、誰も気にしていなかった」
「はっ、こんなちっぽけな山手の片面を取り合うだけにきゅーきゅーしていて、ほんとばっかみたい」
 従者が嘲笑うように言ったのは真情の吐露だったが、主人はたしなめたりはせずに、ちょっと苦笑いするだけだった。
「だが今となっては彼らこそがこの山の正統な後継者だ」
「オニたちではないんですか?」
「彼女たちにはもう無理よ。彼女たちは失敗した、古い時代の存在だ。だから失脚して、隠居してもらう。それが彼女たちにとっても幸せよ」
 などと放言しているが、そんな飯綱丸は獄中の人だった。耳ざとい獄卒にでも聞かれていたら、気が触れていると思われたかもしれない。従者は肩をすくめて、着物の裾をからげた。
「……で、これからどうするんです?」
 そう言いつつ従者が獄の隅に小水を放り始めるので、主人はそっぽを向きながら言った。
「ここの人々を私の味方につける」
「どうやって」
「方便は考えている。かなりの綱渡りになるでしょうけれど……しかし見込みはある」
「賭けですか」
「どうせ私個人の戦いよ。どう?」
「最後までお付き合いしますよ」

 やがて一日もしないうちに飯綱丸は獄の外に引き出された。
 肌感覚としては、悪い扱いはされていないように思える。確かに縄打たれて、どやしつけられるように裁きの場に引っ立てられはしたが、彼らの態度には侵入者に対してのものとは思えない、ある種の期待のようなものがあった。
(きっとあの賢者から話が通っているのだろう)
 そうした裏がある方が、まだ気楽だった。今の自分などは、陰謀の駒にされるくらいがちょうどいい。あの従者のような献身の方が飯綱丸には不気味で仕方が無かった。
「ここから先の発言は全て証言として記録されます」
 と言った書記官すら、まだ年若い娘だ。それだけでも彼らがどれほど落ちぶれていて、小さい勢力だったかが想像できる。
 始まった型通りの質疑は、かつて鎌倉へと出奔して帰ってきたときの、あの事務的な手続きをふと思い出させた。生国と来歴を訊ねられて、ここまで流れてきた理由を問い質される。
 飯綱丸はすべて真実を語った。駒が勝手な嘘をつく必要もない。
「――で、あるから」
 と、そこまで、ただただ自分の身の上ばかりを話していたのを、急転するように話を返した。
「今こそ、あなたたちがこの山を支配する好機です」
 元々、彼らとオニの関係も、山の留守を任せていても決して良いものではなかっただろう。仮に良好な関係を保っていたならば、四天王が返り咲いた時に残党を探し出し、呼び戻すくらいの事はさせたはずだ。オニたちがそうしなかったのは、このテングらも大人しく下についていたわけではなく、なんらかの野望を持っていたからかもしれない。
 そんな推理をしていたものの、さすがに発言に対する反応は慎重に窺った。
 だがその場には、感情の波はほとんど起きていなかった。突飛な事を言ったはずなのに、良くもなければ悪くもない。彼らは、この山の覇権などまったく興味が無いのか、それとも――
(あるいは、この話の流れはある程度は予測済みだったか)
 なぜ賢者が飯綱丸をここに遣わせたのか、自分の役目はなんであるか、わかってきた気がしたが、とりあえず踏み込んだ話は可能なようだった。
「……ただ、そうするにはあなた方にもやっていただくべき事がある」
 と続けて、ようやく空気がぴりっと張り詰めた。
「山の外で源平以来と言える大乱が起きている事は、この里にも風聞として伝わっている事でしょう。しかし当今の乱の性質は、源平の頃とはまるきり違ってしまっている。あなたたちは即刻一党を率いて宮方に与し、この回天の業に加わるべきです」
 どうしてそうするべきなのか。
「主上は、この御謀叛に際してこのような言葉を残したと伝わっています。……“天魔の所為”と」
 裁きの場はしんとしていたが、それまでの凪とは違った。
「もちろん、こんな言葉自体は単なる言い回しで、言い訳にすぎません……かつて平相国清盛が同様の言葉で罵られたようにね。でも、この言葉には一つだけ真実があるでしょう。この大乱は朝廷だけのものではなく、武士だけのものでもなく、もしかすると人間だけのものでもない――私たちの戦いにだってなり得る」
 この乱の本質はきっと夢でしょう、と飯綱丸は言った。
「今、この状況では、誰もが――この日本に存在している全階級が、夢と幻想を持つ事を許されています。そうでなければ地を這って暮らしているような異形異類が、ミカドと交わる事なんてできません。こんな乱は今まで無かった。せいぜい朝廷の権力闘争、武士同士の諍いしか起こっていなかった本朝で、前代未聞の事態が起きているのです。今こそ宮方に与して、天下で起こりつつある偉業に陰ながらでも携わり、倒幕を成功させて天皇親政を実現する事ができれば、私たちだって、延喜・天暦の頃の妖怪たちが持っていた誇りや威光を取り戻せる。……その威力を借りれば、あなたたちもこの山を奪還できるでしょう」
(結局、私はそんな夢に戻ってきてしまった。ばかな夢で、単なる幻想だけど)
 だからこそ、それを補強する現実は力強いものがいい。
 鎌倉の北条政権は確実に打倒できます、と彼女は断言した。本当のところ、上洛した足利勢はまだ六波羅への道も半ばで、寝返ってすらいない。畿内の千早城は陥落こそしていないが、それでも苦しい攻防が続いている。流罪の親王が九州に脱出して鎮西探題を攻撃しようとしているという情報があったりなかったり、なにより東国の情勢も不透明だ。全国各地の戦線のどこか一つでも崩れてしまえば、山陰に置かれた仮の高御座だって脆いものだ。それでも彼女は構わず言った。
「今からでもよろしい。私たちは確実に、この天地を動かす力となる事ができます」
(だがそれは、上古の妖怪たちにちょっぴりくらいはあったかもしれない、あの壮大な力ではないのだろうな)
 自分の嘘は自分がよくわかっていた。自分は、自分たちが卑俗で矮小な存在に堕落するためにこんな努力を払っているのだと思った。

 それでも囚人としての扱いは良くなった。
 飯綱丸は獄中の人から転じて、この隠れ里の有力な家の預かりになり、身の回りの世話をする者もつけられた――もちろん監視の役目もあっただろうが。
「もう何日も議論が続いていますよ」
 と言った世話係の小娘は、先日の詮議の際に書記官を務めていた、あの娘だ。
 おしゃべりだった。
「私たち、こういう事には慣れてないんです。そもそもあの申し開きの場も、慌ててこさえたものですからね。私だって普段はあんな偉そな仕事してるわけじゃなくて、代筆屋をやっています。恋文専門の文屋」
「……こんな小さな集落で、恋文専門で食っていけるの?」
「まあ、実情はその他もこまごま……」
 とはいっても他人の色恋に絡む事もしばしばだったようで、年頃らしくちょっと無邪気なところがあった。
「ねえ、あのクダギツネってやっぱりあなたのお稚児さんなんですか?」
 と遠慮なしに尋ねてきたりもした。
(そういえば、あいつは私にとってなんなんだろうな)
 訊かれて初めてそう考えながら、従者が外で物干しをしている、そのほっそりとした手や案外丸い腰つきを眺めて、肩をすくめた。
 それと同時に、こんな気安い態度を取られて、かつて飯綱丸らが所属していた一党に対しての旧怨はどうなっているのだろう、とも思わされる。それを一人勝手にわだかまっているものでもないので、そのあたりの肌感覚は、さっさと尋ねておくことにした。
「私にも当時の記憶はあります。たしかに屈辱の歴史ではありました」
 と文屋は前置きしてから、続ける。
「しかし個人とはまず社会の成員であって、つぎに個人であります。あなたは社会が破壊をえらぼうと否とにかかわらず、社会と行動をともにしなければなりません。――かつて私たちをこんな状況に押し込めたのはあなたたちですが、あなた個人ではない。それくらいの分別はつきますよ」
「……世の中にはつけられない者もいるし、つけるわけにいかない時もある。それでも赦しあえるのならそれに越した事はないでしょうね」
 赦すと言いつつも、どこか虚無的なやりとりだった。
 その間にも、この郷党のテングたちの中で、引き続き飯綱丸の扱いをどうすべきかという議論は行われている。
 それと同時に、天下で行われている大戦に一枚噛んで、宮方の威光にありつくべきか否か。……肯定的な意見がわずかに優勢だったが、だからといって強硬に意見を押し通せるというほどのものではなかった。
 結局、実際に山の外に偵察を放ち、情報を集めた上で見定めようということで、議論は一旦落ち着いた。詰まるところは傍観、様子見、黙殺と同義だったが、こんな行為でさえ彼らにとっては百何十年ぶりという勇気ある冒険だった。彼らはそんなふうに衰微していく情勢に慣れて、消え失せていく存在のはずだったのだ。それに情勢を見極めるという行動も尋常な方法ではある。
 しかし状況が尋常ではなかった。少し人里に出て、街道筋に流れてくる伝聞を収拾するだけでも、あちらが勝っているという話があればこちらも負けていないという話もあり、幕府方の大将が死んだという話があれば、はなはだしい事に宮様が討ち取られて首が東国に向かっているなどという風聞もあった。
 結局、眠っていたに等しい百年を過ごしていたこの里のテングたちには、これらの錯綜する情報は荷が重すぎた。これらは慎重に扱うべきで、語りえぬものについては沈黙せねばならないと結論付け、議事の書記にそう書きつけておくように命じた。
 書記は例の文屋だった。
 先も述べたように、彼女はおしゃべりだ。飯綱丸にもそうした顛末を喋った。
 飯綱丸は激昂した。
「愚図どもが」
 そう罵り、夜中だというのにどこかへ行こうと立ち上がりかけるほどだった。
「ここの連中は、わからないからといって、わからないまま時を無駄にする莫迦どもなわけ? もっとよく調べればいいだけの事じゃない。ああ、ここには謀を共にするに値しない者たちばかり!」
 と激情に駆られて叫んだように見せかけながら、飯綱丸の心中は鏡のように静かで落ち着いていた。そうして、憤っている自分を眺めている文屋の反応を窺う。
「……あんたはどう思う?」
 そう声をかけた。
「わ、私ですか?」
 自分をうつろにしつつ相手の怒りをア然と眺めていた文屋は、急に話の矛先を向けられて、慌てた。
「……私は、二種類の真反対の感想があります」
「もっとあってもいいと思う」
「あなたがやってきてから、みんな大量の情報に難渋して思考を麻痺させてしまいました。つまりあなたはひどく迷惑な人です」
「自分でもそう思う」
「……でも私自身は外の世界に興味が湧いてきました。実を言うと、みんなそうなのです。この里には、外からの情報に戸惑いはしても、本当の意味で思考が硬直している輩なんて、一人もいません。誰もがどうにかしなければならないと思っている……でも、どうしていいのかわからないだけ」
「わからないのなら教えを請えばいい」
 そう言った後で少し考えて、私の従者を貸そう、と言った。
「あなたの従者を?」
「あれでもだいぶ世慣れているし、使える奴よ。そして彼女を伴ってふたたび外の世界に目を向けなさい。それを、私からの策として明日の朝議に献じなさい」
 それから二人で夜通しかけて上奏文を起草し、ふらふらと朝議に向かっていった文屋を見送りながら、大きくあくびをして、うとうととまどろむ。
 昼前にふたたび目覚めて、それからようやく従者に今朝の献策について伝えた。
「えー……事後承諾じゃないですか……」
「ごめんなさいね。不満?」
「まあいいですけど……」
 そうぶつくさ言いつつも、旅支度はしておきますと付け加えて、裾などが擦れている着物の繕いを始めた。
「……でも、たぶん数日そこらで、駆け足で戻ってくる事になると思うわ」
「へぇ、そこまで予想できるんですか」
 従者は糸を噛み切りながら言った。
「あくまで私の勘だけどね。でも今頃、足利勢を含む派遣軍は六波羅入りしている。なにかが起こるとすればこの先の数日間よ」
「ここのテングたちに策を採用されなかったら、どうするんです?」
「別にいいんじゃない? 何も言わず失望して去るか、ここで適当に生きていくか……どちらでも生きる辺はあるでしょ」
 昼過ぎに文屋は戻ってきた。彼女も寝不足で疲弊していたが表情は晴れやかだった。
「あなたの意見は容れられました。いつ出立させます?」
「できれば早い方がいい……今夜にでも」
 我ながら無茶な話だと思ったが、相手は驚きもせずに了承した。
「そうこなくっちゃ。こちら側も人選は既に済んでいます。組織の編成は周礼に則り卒伍、あなたの従者を伍長として、その下につくテングは私を含めて四名」
「……話が早いわね」
 文屋はまたこんな事も言った。
「あなた方には官位が与えられます」
「官位?」
 つまり罪を免じられるどころか、議事にも出席できる。
「ええ。あなたの従者がうちらを采配する立場になりますからね。主人のあなたにも偉くなってもらわなければ、変な事になる」
「……思ったより柔軟な組織なのね、あなたたちって」
「見くびらないでくださいよ」
 文屋は苦笑いした。

 山中を走破するのではなく街道筋から上洛して状況を視察しろ、とだけ従者に言い含めておいて、飯綱丸自身は彼女たちの出発を見送りもしなかった。
 思案する事は大量にある。事が起これば、この隠れ里のけして世慣れていないテングたちを全国に散らばせて、手足のように使わなければならないのだ。
(私と彼らにできる事は多くないだろう。せいぜい急報を触れ回って、各地の御家人を扇動するとか……その程度の事しかできない。でも、それを効果的に活用することは可能だ)
 彼らの――テングという胡乱な妖怪たちの一典型が完成されたのは、まさにこういった時代の中での事だった。
 数日が経った。
 山を出たテングの一人が、速報を持って山に駆け戻ってきた。幕府方の派遣軍の総司令官だった名越尾張守高家が、久我畷の合戦にてあえなく戦死したとの事。
 それから数刻後に二人目が帰ってくる。前の総司令官の戦死を受けた足利治部大輔高氏が即座に軍を丹波篠村へ移動を開始しつつ、全国に使者を発しているらしい。
 またこの使者たちが、六波羅だけでなく各地の武将や宮方へさえ走っている種類のもののようだという事が、三人目の詳報で知らされた。
 これらの報告から、直後に四人目の文屋が夜通し駆けて山へと帰ってくるまでに、一日もかかっていない。
「足利勢は鎌倉から離反します。間違いありません」
 そのあとで八幡宮に願文が奉納されたとか呼びかけに集まった軍勢が幾千幾万だとか、ぶつぶつと言いかけたが、すぐ大事なことを思い出したようで、
「……今すぐ私たちもこの情報を全国に発するべきです」
「それ、あんたの意見?」
 報告の場の末席にいる飯綱丸が尋ねた。
「……いいえ。あなたの従者がそう言っておりました。彼女は既に別の行動に移っています」
「あいつならそうしてくれると信じていた」
 それから即座に、かねてから作成していた組織案を実際の人事にあてこんで、半日と経たないうちに遠征部隊の編成を完了し、それから簡単な出陣の儀式を行った。
 結盟の血杯が少しずつながら末端にまで行き渡り、一斉にそれを飲み干してから、飯綱丸は儀式に使った土器を、地に叩きつけた。他の者たちも先をあらそうように同じ動きをした。誰かの一つのそれが割れるたびに、なにか激しい感情が彼らを一つにしていくようで、たちまち地面は破片だらけになった。
「――さて。」
 腹の中にすとんと落ちていった不気味なものの熱さを味わいながら、飯綱丸は周囲に言った。
「……ここで事を起こすにあたって、私たちにはもう一つやるべき事がある」

 その夜。
 山のもう一方で強勢を誇っているオニとその配下たちは、尽きる事のない政務をようやく休憩して、初夏の夜をぼんやりと眺めていた。
「……最近ずっとあんたのそばにいる、その猫はなにかしら?」
 そう尋ねながら、星熊童子は近習の隣に座った。
「お姉ちゃんが寄越してくれたんです」
 とサトリの妹ははにかみながら言う。その笑顔が可愛らしかった。
「でも案外難しい子です。かわいいですけどね」
「……君のお姉さんは、相変わらず野に下ってぶらついているらしいわね」
「私に遠慮しているんでしょう。サトリが二人いると、瞳が合わせ鏡になってよくない」
「姉妹で対面しにくいというのは都合が悪いでしょ」
「良いのです。それでも血の繋がった姉妹なので」
「……山の外は大乱らしいね」
 そう言われて、妹はぴくりと手を止めた――もちろん、相手の思考は読み切っている。どういう話の流れであっても、その大乱についてこのオニは話題にしたかったのだ。
「……お姉ちゃんがこの子を寄越してくれたおかげで、ちょっとした事は知っています」
 そう言ったとき、腕の中から猫がするりと脱け出した。
「天下はひっくり返るみたいですよ」
「結構な事じゃない」
「まあ、たしかに私たちには関係のない話ですが」
(正確には無くなってしまった、だけどね……そんなに責めるように言わないで)
 サトリという妖怪は、相手がそう思ったのがわかる。星熊童子の心中の詠嘆はまだ続く。
(人の世を乱せなくなった妖怪なんて、存在している意味があるのかしら)
「ありますよ」
 慰めるようにサトリの妹は言った。ないと言ったりあると言ったり、はたからは変な少女に見えるだろう。
「過去は過去じゃないですか。今は今で、なにか別のありかたを探せばいいんです」
(慰めとしては結構だけれども、みんなはもう疲れ果てているよ。自分探しをする前に休みたい)
「あはは。四天王の他の人たちは、もう政務なんかほったらかしちゃってますからねぇ……。あなたはこういう時は貧乏くじを引く役ですね」
「いつもよ、いつも……」
「オニにしてはちょっと生真面目すぎるのがよくない」
 そう話している間にも猫は気ままに政所をうろついていて、前の足に墨をつけてしまった。サトリの妹は、こういう光景を見た時にぽろりと本音が出るようなたちだった。
「……私たちがもっとえらくなって、あなたたちを引きずり降ろして隠居させてあげた方がいいのかもしれませんね」
「面白い事を言うわね。……でもなぁ、気を悪くしないで欲しいんだけど」
 と呟きながら、星熊童子は立ち上がった。
「サトリが頭になって治める社会っていうのは、正直ぞっとしない……」
 そう言い終えると同時に、思考は完全に別の事――政所の外から聞こえてくる、低く轟く雷鳴のような音に向かった。
「……あらしでしょうか」
「違うと思う」
「では……?」
 彼女たちは廊下を歩き始めた。この政所は山中の断崖に建造されているので、眺望のいい高舞台が崖に張り出すようにある。二人はそこに移動した。
 霧深い夜だった。そうした夜では全ての音が大きくふくらんで聞こえるようで、音の輪郭が曖昧だ。しかし、この山の頂を越えて下ってきた低い音が近づき、彼女たちの領土を侵犯しながら駆け下りていく事だけはわかった。
「なんなの」
「天人どもの伎楽でない事は確かでしょうね」
 そう言っていると、不意に、突として霧が晴れた。そうして高舞台の欄干に降り立ったテングは、羽団扇を振りかざして叫んだ。
「ああ、私は帰ってきた! 我が祖先の地! ……って、うげ」
「……あ、文屋だ」
「お知り合いですか」
「うん。大昔にこの山を根城にしていた頃、よくいじめてた」
「そういうところですよあなたたちって……」
「いやしかし、生きてたとは思わなかったな」
「……個人として言いたい事は山ほどありますが、私にも役目があるのでこらえておきましょう」
 そうこうしている間に、他にも人が集まってきている。文屋は、目の前の彼らに対して、叩きつけるように叫んだ。
「宣言します! 私たちは、本朝大戦に宮方として参戦します! そして、この戦で屹度おおいに自信と力をつけ、勝利の暁にはこの山を解放する! これはあなたたちではなく、この山の停滞に対する挑戦です! よく聴け! 私たちは依然として生きて、存在して、ここにいる! この世界は、天地は、私たちのものだ!」
 その後もなんやかんやと喚きつつ頃合いを見計らい、山を駆け下りていく集団にそそくさと合流していった文屋の後ろ姿を眺めながら、星熊童子とサトリの妹はぼそりと言い合った。
「……なにあれ?」
「言っている事は意味不明でしたが、心中ではあなたたちを楽隠居させてくれるつもりみたいですよ」
 なるべく好意的に翻訳したつもりだった。

「あー、すっきりした」
「政所に置き文をするだけでいいって言ったはずよね?」
「まあ、ちょいとばかし手筈通りじゃなかったのは確かですね」
 宣戦布告の顛末を(多少の脚色も交えつつ)飯綱丸に伝えた文屋は、それでも清々しげだった。
「ともあれ、これで後に引けなくなりました」
「ああいう事は、今の勢いがあるうちにやっておいた方がいいからね」
 飯綱丸が率いるテングの一団は、彼女の采配によって各地へ散らばっていった――北陸へ、東北へ、東海へ、関東へ。
「あなたの従者は何をしているのでしょう」
「一応落ち合う場所は決めてあるから大丈夫」
「しかし鎌倉の情勢を窺ってくると言っておりました」
「入っていくのではなく、出ていく方を窺うのでしょう」
 彼女たちは、足利宗家の嫡子や正妻が鎌倉に人質として置かれているのを知っていた。
「きっと居残った足利一門衆によって脱出の計略が図られているでしょう。その手筈によっては……」
「上手くいかなかったら?」
「新田氏も由緒ある源氏の流れではあるけれど、はっきり言って足利宗家ほどの求心力は皆無よ。厳しい戦いになる」
 とは言っても、仮に足利の嫡子が脱出に成功したとして、二人の源氏大将が同じ戦場に立つ事になる。それはそれで混乱の元になるかもしれない。
「もしかしたら二党に分かれて殺し合うかもね」
「さすがに北条という敵がいる間は団結してくれるでしょう」
「そうね。私たちがあれこれ気にしていても始まらない類いの事だし」
 そもそも京の足利勢と国許へ帰還した新田勢とが、かねてから倒幕を語らい、内密に話をつけている可能性だってある。
(だとすれば偽綸旨まででっち上げた私は、とんだ鈍物だわ……いや、本当に。自分たちの行動は、この戦になにも寄与していないかもしれない)
 そういう恐れと懸念は、彼女の中にずっと存在していた。
(それでもいい。……そうだとしても私だけが素知らぬ顔をして嘘をつけばいい。自分たちの行動によって天下がひっくり返ったかもしれないという自信と希望がこの集団にもたらせられれば、それでいいのだから)

 やがて彼女たちはただ広い関東平野に降り立った。
「やっと来なすった」
 と、山際の破れ寺の中で従者が待っていた。
「足利千寿王とその母は無事に鎌倉を脱出して、この先の新田荘に逃れ挙兵しました」
「やはりかねてから内通があったのかしら」
「ついでに聞いて驚かないでください。不確かな情報ですが六波羅が滅びました」
「そう」
「六波羅の大将も落ち延びた番場宿で討ち取られたって聞いたんで、その風説をばら撒きながら戻って来ました」
 従者の功はそれとして、あまり面白くない話だった。自分たちは未だに情勢に流されているだけだ。この内乱になんの貢献もできていない。
「……あと面白い話も聞きましたよ。越後から挙兵に加わった里見・鳥山・田中・大井田・羽川らの新田一門は、国内を駆け回っていった天狗山伏の触れを聞いて、こぞって馳せ参じたとか」
「そりゃちょっとは慰めになるかもね」
 そう言いながら、飯綱丸は小勢になった勢力を更に二手に分け、一方はそのまま平野を南下させて、もう一方は周縁の山地を先へ先へと進んだ。
 折々、平野側から戦況の経過報告が入った。
 ――小手指原での合戦は、戦うこと一日がうちに三十余たび。
 ――鎌倉方は久米川まで退陣し、明くる日に源氏久米川の陣へ押寄せ……
「北条の備えを見るに、決戦は多摩川流域――分倍河原になるでしょう」
 と人数を合流させて飯綱丸が配下に言ったのは、山中の寂れた寺院の僧房の中でだ。決戦の地からは少々遠のいている。
「新田勢はどんどん膨れ上がっている。小手指原・久米川の戦勝の流れもある。ここで北条軍を撃破すれば大勢が決する」
「私たちは戦見物をしているだけですか」
 従者が小声で冷ややかに囁いたのは、他のテングたちの気分の代弁だった。
「みんな、なんだかシラけ始めていますよ」
「わかってるわ」
 結局、自分が率いているのはその程度の熱量の連中だ。
 最初の数日はよかった。ずっと山中に貼りついて閉塞していた彼らにとっては、どこだって慣れない新世界だった。しかし、次第に、自分たちがやっている事に自信が持てなくなってきているようだった。
(気持ちはわかる)
 飯綱丸は内心共感した。
(彼らは私と一緒よ。私だって友人たちにそそのかされて山を出奔して鎌倉に入り、あの相模入道を誑かした時、まったく同じ事を思ったんだ)
 もちろん当時とは情勢が全く違う。いまや世間は沸騰しているし、新勢力も旧勢力も短刀を互いに突きつけ合っているような状況だ。だからこそ彼らは歯痒いのだ。
(なんとか、どうにかして彼らに倒幕に貢献したという自信を与えてやりたい)
 翌日には多摩川流域で決戦が行われるだろうという夕刻になって、飯綱丸は従者に尋ねた。
「……この寺院に周辺の領民が避難してくることは?」
「ん、まあまあ集まっていますね。もともと聖武天皇の勅で開かれた山だなんていって、そこそこえらい寺院だったみたいですし。今では戦を恐れたのか坊主すらほとんどいませんが」
「ここに穀物の備えは?」
「米麦のたぐいが土の下なんかにちょっとは埋めてありましたね。坊主よりよほどありがたい」
「鼻の利くやつねぇ……避難民にくれてやりなさい。そして炊飯の火を盛んにしなさい」
「いいですね。そこにどんな噂の尾ひれをつけていきます?」
「この山に宮方の僧兵が集結している」
「偽兵の策ですか。逆に避難民が近づきませんよ……僧兵なんて荒っぽいだけの、不道徳の権化みたいなものじゃないですか」
「それでもいいわ。噂だけが広まればいいの……あと、自分たちテングたちの規律は七禁令五十四斬に照らし合わせて、厳に引き締めていきたい」
「いい考えです。規律もなんだか緩んできていますから。……今なら一人くらい斬ってもよござんすよ」
 飯綱丸はその勧めの通りにした。その夜に山から従ってきたテングを一箇所に集め、特に風紀が乱れて周囲からさえ疎まれていた者を、選んで処罰した。
「……明日の朝には決戦となるでしょうが、各々鎌倉方の後方の陣中に潜り込み、噂を広めて攪乱して欲しい」
 血溜まりが広がりつつある土の上に立ちながら、飯綱丸は言った。
 死骸は従者によって堂の陰へと引きずられていく。
「それぞれに吹いて欲しい噂は、私が一人一人に伝える」
 そうして各人に教えられた噂には、内容が相反するものさえあったが、意志の方向性が巧みに設計された虚言だった。特に重要視したのは、京の六波羅探題が滅亡したという、北条方にとって大打撃となる風聞だった。
(この情報が流されれば、様子見をしている武蔵諸党も心変わりする者が出てくるはず)
 もっとも、これらの行動もはなばなしい企図があって指令したものではない。
(とりあえず、みんな体を動かしていれば、なにかやっている気になってくれるでしょう)
 という、はなはだ情けない考えから発されたものだったのだ。

 翌日の未明から、新田勢は分倍に押し寄せた。
「……子供の喧嘩だわ」
 と飯綱丸は主戦場からはやや離れて、杉の木の頂上から嘆息した。
「ただ力押ししているだけじゃない。あのサトリのやつ、あんなたかの知れた武者を器量があるだなんて言ってたの」
 そう落胆したが、もしかするとサトリ妖怪という手合いは、他者の心が読めてしまうぶん、こうした軍の采配というものを軽んじがちな性向があるのかもしれない、と思った。
 そもそも、無位無官だった零細御家人があの大軍を率いているという事が、とんでもない異常事態なのだろう、とも思った。そんな彼らは今や上野・武蔵を始めとした関東の諸党を吸収して例を見ないほどの大軍を形成して、慣れない戦をしているのだった。
(しかし何十万という数はいささか誇張しすぎね)
 相手の兵力を過大に(もしくは過少に)見るのは戦場の常だが、テングたちの報告はそのあたりの勘定が特に大げさだった。

 鎌倉方にとって分倍河原は重要な防衛線だった。多摩川を突破されてしまえば、おそらく最後の積極的な抵抗になる――そのため、分倍河原の合戦は、この上野武蔵戦役で最大の激戦となった。そのためか、当初は援軍を大いに得た北条勢が有利に戦を進め、初日は渡河に失敗した新田勢を退却させてしまったほどだ。ここで追撃を加えれば彼らの軍の中核は撃破されて、関東における宮方の戦線も崩壊していたかもしれない。
 だが北条方は敵方の退却を静観した。一日じゅう戦い続けた兵に疲れがあったのか、油断があったのか、それともなにか警戒するところがあったのか……。
 またこの合戦は、大量の流言飛語が飛び交う諜報戦でもあった。そんな中で、京の六波羅探題が滅んだという情報は、不確定ながら強力だった。一旦は幕府方についていた勢力もひそかに宮方に通じつつ、北条に馳せ参ずるという虚報を利用して反転し、大打撃を与えた。
 そのため早朝に始まった二日目の戦いは、北条の幕府軍にとっては大壊乱の中での退却戦になった。
「新田勢は昨日今日で六十万を越える大軍に膨れあがっているそうですよ」
「数の誇張がひどすぎるでしょ……まあいいけど」
 寺院の堂の中で従者からの報告を聞きながら、飯綱丸は呆れた。
「あともう一つ、北条が初日の合戦で追撃できなかったのは、この山に正体不明の勢力が屯していたから、なんて噂も聞きました」
「飯炊きの煙を狼煙か何かと勘違いしてくれたのかしらねぇ……」
 とはいえ、これも一応の成果ではある。横で書記官をしている文屋に声をかけた。
「ちゃんと書き置いてね……って、なに文机に落書きしてくれてんのよ。この寺の備品なんだからね?」
「ふふっ、いいじゃないですか。“飯綱丸参上”」
「無駄に絵心あるなこの人」
「恥ずかしいから実名は出さないで」
「ご実家は飯縄山でしたっけ? じゃあ“飯縄権現参上”……と」
「実家にまで迷惑かけるとか余計に恥だわ。あと私、そんなに鼻大きくない……」
「いいじゃないですか、誇張表現ですよ、誇張表現」
「ホントに無駄に絵心あるなこの人……」
 翌日、彼女たちは人間たちの進軍を追って、この山を降りた。
 後にこの山寺――高尾山薬王院は、飯縄権現を奉って中興し、東国の飯縄信仰における重要な霊山の一つとなる。

 こうして北条氏もいよいよ追い詰められたとはいえ、鎌倉における徹底抗戦は、この大乱の掉尾を飾る劇的な抵抗戦になっていた。
「巨福呂坂・極楽寺坂・化粧坂と、どの攻め口も抜けきれておりませんね」
「初日の攻勢が上手くいかなかったのがケチのつき始めよ」
「しかしあの時の潮が引いた海岸線から侵入していく経路自体は、悪かなかったと思うんですけど」
「星を読むと、あの場の潮があれほど引く日は少ないようよ……。これからも強行できなくはないかもしれないけど、北条方の軍船も遠浅とはいえ沖に浮かんで警戒しているし、当分あそこを抜く手立てはなさそう」
 飯綱丸と従者がそんな話をしているのは、鎌倉をとりまく丘陵地の森の中だ。手勢のテングたちは全て出払っていた。数日とはいえ実戦を経験した彼らの仕事は、今ではただ扇動するだけに留まらなかった。情報を収集し敵味方の前線に後方にと出現して、機に臨み変に応じて戦場を駆け回っていた。
「とはいえ、人間の使い走りをしているようなのが気に食わないっすね」
「じゃあどうする? いっちょここらへんで、テング様のすっごい神通力でも見せてやろうかしら……」
 などと軽口を叩き合いながら、周囲で一番高い木に登って立ち、夕刻の戦況を眺めていた。
「吹けよ風、呼べよ嵐ってさ……」
 途端に、大樹の突端もしなるような突風が吹いた。思わず従者が飛ばされそうになるのに手を伸ばして、抱き寄せる。
「本当に吹かせる人がありますか!」
「違う、私知らない……」
 自分も身を丸くしながら、ばたばたと風鳴りのする空を仰ぐ。
「――は?」
 一瞬だけ、龍のように雲から雲へと走る、横渡しの稲妻が見えた。
「……見た?」
「見ました」
「いるの?」
「いるんでしょう」
 なにが夕空の向こうにいるのか、二人は言い合ったが、なんとなく名前までは出せなかった。
「……いるのなら、なにか手助けしてくれればいいのに」

 その夜半、数日前に攻勢に失敗した稲村ヶ崎の海岸線には、小勢ながら軍兵が集結していた。
 新田勢の本隊ではない。この夜襲は乾坤一擲の軍事行動ではなく、どこかの小隊が起こした、突発的で独断的な行動だった――おそらく、先日に起きたこの方面での失敗を見て、自分たちならもっと上手くやれると思った勢力がいるのだろう。
 やがて引き潮の頃合いになったが、先日ほどの大きな潮汐は起こらなかった。そのために、夜陰に乗じて渡るだけでも生死の危険があるような冒険になった。
 しかし、この危うい行軍中でも、なぜか攻撃は受けなかった。この日は風がやや強く、海上警備にあたっている北条方の水軍も、遠浅の沖へと流されがちだった。矢は届かず、たとえ夜襲の陰を見たとしても、灯火などで陸上へ急変を通達するくらいしか手立てはなかった。
 やがて夜襲側は逆茂木に取りついた。それから妙に押し殺したような暗闘が続いたが、やがてこの急襲に気がついた他の新田勢が、狭い海岸線に押し寄せるように増援した。
 突発的な攻勢は大混乱の中にあったが、波にさらわれた者は意外に少なかった。本来は人馬が渡れないような海岸線であったはずなのに、成功した先達がいるという勇気だけで人々は不可能を可能にしていた。そのようにして、弱々しい人々の群れが、先のわからない未知の道を、それでも先に進もうと足掻いていた。
 沖風に流された軍船は一矢も射かけられなかった。
 そのうちに他の攻め口も呼応して、新田勢の突発的な大攻勢が仕掛けられた。緻密な指揮などはなく、ただただ力押しだった。
 やがて夜が明けた。東から昇る朝日は、夜中には不鮮明だった戦局を人々の目にはっきり映させた。その心理効果は絶大だ。勝勢であればより力を増すし、敗勢であればより力を減じる。
 鎌倉方は壊乱した。

大仏貞直並金沢貞将討死
信忍自害
塩田父子自害
塩飽入道自害
安東入道自害
長崎高重最期
高時並一門以下於東勝寺自害

 この日、北条一族の集団自決と滅亡をもって鎌倉の戦いは終了した。未だに西国でもこまごまとした混乱は続いているが、元弘の乱の実質的な完了はこの時点だろう。
 前代未聞の当今御謀叛だった。

 飯綱丸は鎌倉市中の市街戦の痕を夜闇の中で眺めながら、従者を伴ってぶらぶらと歩いていた。
「……本当にやっちゃったんだ」
「今更ですよ」
 そう言いつつ、従者はきょろきょろと警戒を怠らない。御家人たちが飼い育てていた闘犬が、野犬になって市内をうろついているという話を聞いていたのだ。
「犬は大嫌いです」
「知ってる」
「昔、“おうちに帰っておいしく食べようと思っていた唐菓子”を犬にぶん捕られた事があったので」
「それは知らない……」
「あなたのところに帰ってからめちゃくちゃ泣いたし、慰めてくれたじゃないですか……つれない人」
 言い合いながらふらふらと歩く夜の大路が、まるで夢のようだ。その夢見心地のまま、飯綱丸は辻々で死体に出会うたび、いちいち手を合わせた。
「誰も見ていないのにお優しい」
「いいでしょ。私なりの弔いよ」
「でも、そんなお弔いだけのために市内に入ったわけではないでしょう」
 他のテングたちは市外に留めたまま、各人にこの戦役での活動の報告をさせている。文屋は死にそうな顔で執務にあたっているだろう。
 今は、こうして二人きりの鎌倉入りだった。
「……あなたは一度やってきた事があるんでしたね」
「そうね。あの時は友達が一緒だった。若かったし、それに――」
「楽しかったでしょうね」
 少しだけだが、うらみのあるような従者の言い草だった。
「本心を打ち明けると、あのとき私も連れていって欲しかったです」
「そうなったら、私は生きていたかわからないよ」
 飯綱丸はぼそりと言った。
「あの時は私も世間知らずだった。あんたもそこまで世間ずれしていなかったでしょう。きっと間違った方向に向かっていたはず」
「間違った方向」
「そう。たとえば……」
 と言いかけた時、とことこと歩いていく野犬とすれ違った。従者はひゃっと言って主人の陰に隠れる。
 犬は誰かの斬られた腕を咥えていた。
「……あんなふうになったりね」
「怖いこと言わないでくださいよ。……だいたい、あなたは最初から鎌倉方ではなかったでしょう。あんな末路はないはず」
「はたしてそうなのかしら」
 数年前の思想などは、もはやわからない。あの頃の自分たちはなにを考えていたのだろう。もしかすると、北条氏を滅ぼすなどとは思ってもみなかったかもしれない。なにしろ彼らは、源氏の御曹司に与して平家を滅ぼし、やがてはその東国政権を掌握して、畿内の上皇をも配流し、しまいには蒙古という世界帝国さえ退けた、日本史上最高の戦績を誇る一族だった――たとえその功績に様々な外的要因が寄与していたとしても、そうだった。
「私は彼らを滅ぼせるとは思っていなかった。当時はただ世の中を惑わせたいという気持ちだけがあった気がする。それはそれで妖怪らしいと思うけれど、今思えば危なっかしい事この上なかった」
「かつての妖怪らしさが今では危ういだけというのは、またいやぁな話ですね」
 言いながら歩く道はやがて大路から離れて、浜の方へと向かった。
 真夜中だが、海沿いの船着き場や墓所では、人が動いている気配がする。死体漁りか、逆にそれらから守っているのか、やましい事があるのか、ないのか。人間たちの動きは妖怪よりも妖怪じみていた。
 浜には無数の穴があいていた。この戦いで発生した死者を埋めるためのものだったが、死骸は初夏の陽気で既に腐敗し始めている。血の匂いを嗅ぎ取ってうろつく野犬も多かった。
「ねえ、つかさ」
 飯綱丸は従者の名前を言った――それは、テングたちから受けた官位を縮めて呼ばれるようになった、あだ名だった。
「不思議なものね。あれほど憎まれていた北条も、こんな凄まじい滅びに殉じる者が少なくなかったなんて」
 と、穴の一つを見下しながら言った。
「運命を共にしたのは、御家人やその下に仕える者たちばかりではないわ。別に北条が滅びても主人を替えればいいはずの、お抱えの芸人や職工、馬飼いなんかまで、喉を搔っ切ったり腹を突き合ったりして、死んだ」
「相模入道は田楽狂いで有名でしたからね。色々言われる人だったみたいですが、そうした文化の庇護者の一人ではあったのでしょう」
 つかさは言った。
「……でもね、そんな人に彼らがどう絆されたか知りませんが、こうして滅亡にまで付き合ったのは大莫迦ですよ」
「そうね」
 飯綱丸は旧友たちの亡骸を見つめながら言った。
「ここに人を寄せないようにして」
「……がってん」
 と従者が離れていってから、ややあって犬の吠える声が聞こえる。飯綱丸は墓穴の中に滑り降り、かつての友人たちの死骸それぞれの懐から、目ぼしい書状や守り袋など、身元の手掛かりになるものを全て回収した。死体漁りをしているのか、それともせめて形見でも持ち帰ってやろうとしているのか、自分でもわからない。
 少し離れたところで、クダギツネは自分がけしかけた野良犬の群れに追いかけられていた。

 飯綱丸たちが鎌倉市外に屯しているのは、家人が戦を恐れて出払ってしまった民家だ。本来なら武士たちの駐屯地として徴発されていそうなものだったが、地形の問題からか運よく陣割りから外れてしまっているようだった。
「ああ、やっと戻ってきました……って、臭……」
 文机にすがりつくように向かっている文屋は言った。
「これは血の匂いですね。鎌倉は血の池地獄かなんかですか?」
「当たらずも遠からず……」
 つかさはぼそりと答えた。
「……で、そちらは糞尿地獄から戻ってきたんですか?」
「野犬に追いかけられて肥溜めに落っこちました……」
「ますます犬嫌いになるわねえ……」
 そのなんともいえない弛緩した空気(と臭気)にかえって救われながら、飯綱丸はぼそりと言った。
「……ところで、こんな血なまぐさいままで言うのもなんだけれど、妖怪の山に帰る前に、ひとつ文を書いて欲しいの」
「どんな文を」
「勅書の偽造」
「……私は恋文専門の代筆屋ですよ?」
「いいじゃない。恋文と言うならこんなに壮大な恋文もないわ」
「あはは、チョー恋愛脳っぽい言い草ですね」
「張っ倒すわよ糞狐」
「はい……」
 そんな事を言いながら、他の者たちが休んでいる間に三人は文案を作成したり、軍功を保証する書類の署名をしたりといった作業を続けた。
 彼女が飯綱丸龍と名乗り始める時期には様々な異説異論があるが、遅くともこの時期には、このたけだけしい字とやわらかな音を持つ名を使い始めている事が、これらの公式文書から判明している。
 もしかすると、鎌倉の戦いで龍神に出会った事も関係しているのかもしれない。

 やがて妖怪の山にも天下で起きた事はぽつぽつと伝わってきていて、その中枢では混乱が広がり始めていた。
「あんたもよく今まで外の世界を見て回ってきたわ」
 政所に向かって歩きながら星熊童子は言った。話す相手は、山を出て野に下っていた、あのサトリの姉だった。
「京では還御を達成したミカドによる御親政が始まりました」
「結構な事ね。それよりあんたは色んな人の心を読んで、しんどくなかった?」
「そりゃあね。でも、ここに生きていても同じ事ですから」
 とサトリは言った。
「ここに比べると、外の世界の人々の方が、善意も悪意もごくごく単純に生きておりました。もちろん心の声はうるさい事この上無かったですがね」
「しかし戻ってきてくれてよかったよ。今朝、ちょうどやってきたんだ……」
「使者が、ですね」
 心を読まれながら足らなかった言葉を接がれて、星熊童子は複雑そうな顔をした。
「……しかもこの地から追い払われていたテングたちからだ。彼らは勅を奉じて戻ってきやがった。……内容は、朝廷がこの山の支配を彼らに任じたというもの」
「世も末ですね。どうせ偽物でしょう」
「ええ。使者の心を読めばわかります。確実に偽物です」
 と口を挟んだのは、背後から追いついてきたサトリの妹だ。
「しかし、事ここに至っては奉勅の真贋など問題ではありません。彼らは天下の大乱に加わり、宮方につき、成功した。それだけが揺るがしようのない事実です。日和見してこんな山中に逼塞していた私たちに、彼らの力をひっくり返す事などできるでしょうか」
「できるわけがない」
 星熊童子は素直に認めた。
「人の世を引っ掻き回す事もできなくなった妖怪なんて、裸虫以下の存在よ。情けない」
 そう吐き捨てつつ政所にたどり着き、そこに他の者たちが集合していないのをきょろきょろと見回した。
「みんなは――」
「四天王の他のみなさんは、すでに山の外に奔り去りました」
 妹の方が言った。
「すみません。別の話をしてしまいましたが、真っ先に伝えるべきでしたね」
「妹の不手際は私からもお詫びしますよ。私たちの種族は、精神構造的にこういった報告の優先順位を決めるのが得意ではないので」
「それともう一つ、こいつを託されました」
 妹が、一枚の書状を差し出した。なにも本文が記されていないそれの末尾には、四天王全員の署名と花押だけが記されている。茨木童子からのものだった。
「こんなもの、今ここでしか使いどころが無いでしょうって」
「……私は貧乏くじか」
「この山を明け渡す儀式自体は必要ですからね。でもこれは不幸中の幸いです。これさえあれば、無用な流血無しに正式な禅譲を行う文書の作成が可能です」
「あの人は賢い人です――だからあなたという幸いを残した。それがわかっていただけなんです」
 そう慰めながら、サトリの姉妹は文書の起草へと引っ込んでいった。
 星熊童子はため息をつくと、政所に座して一人待ち続けていた使者に話しかけた。
「どうもすまないな、ばたばたしているところを見せちゃって」
「お久しぶりです」
 そう挨拶したのは、あの文屋だった。
「この前ちょっとだけ会ったけどね」
「あんなの会ったうちにも入りませんよ」
「それはともかく……あんたら、とんでもない事をしでかしてくれたね」
「私はただの先遣にすぎません。文句は全部、あの女に言ってやってください」

 翌朝、飯綱丸が率いるテングの一党は、妖怪の山のオニの四天王たちの領地に入城し、その山道を堂々と練り歩いていた。薄汚れた軍旅の姿そのままの者ばかりだった。しかしその荒れた服装や達成感のある雰囲気が、戦を知らなかった者たちにはかえって勇ましく映るほどだ。
「でも彼らとは和解して、同化してこれからも生きなければならないでしょう。狼藉は厳に戒めるからね。どの方面からの訴えも聞き容れる」
 と飯綱丸は釘を刺した。
「……破った者は?」
 つかさが尋ね返す。
「しっかり取り調べ等をした上で、行状甚だしい者は斬刑」
「皆に言い渡しておきます。……ところで、誰がそれらの令の発布や、臨時の奉行所の開廷等の事務処理をするんです?」
「……あんただけど?」
「ひぇ、人使い荒ぁい……まあいいですけど……」
 そうした采配を配下に命じた後で、単身で政所に出向いた。
「ああ、ここも懐かしいわね」
 そう言いながら居並ぶ旧勢力の者たちを差し置いて、あえて主席を空けつつ、陪臣の最上座につく。
 一度は妖怪の山から奔った飯綱丸が返り咲いて政権を掌握したのは、まさにこの時だった。
「……こちらも既に用意はできているわ」
 星熊童子が言った。
「けっこう。しかし私たちもあなたたちに敬意を払いたいわ。この山の明け渡しは、あくまであなた方から申し出た隠居という形で処理をしていきたい」
「使者から聞いた通りね。問題ない」
「そして、あなたを置き去りにして出奔した人たちにも敬意を払います。あなたたちだって頑張ってこの山を治めようとした。私はそれを知っているし、これからも手本としてこの山を治めていきましょう」
(それでもあなたたちは失敗したんだけれどね……)
 と、ふと思ってしまう。席の片隅でサトリがニヤリと笑った。
「……まあ、互いに尊重し合いながら引き継ぎの仕事をしていきましょうって事で、どうでしょう?」
 拒絶されるはずもなかった。

 禅譲の手続きは日をかけて行われたが、その間も市井では問題が噴出していた。
「酒場の喧嘩から、下宿の家主のへそくりを取った取っていないの言い争い、人んちの軒下で勝手に飯を炊くなみたいな揉め事まで、全部聞かされなきゃいけないんですよ!」
 憤懣やるかたないといった様子で、つかさは政所にいる飯綱丸に愚痴をこぼした。
「もう私たちでは処理しきれませんよぉ……」
「ごめんね。裁判関係の引き継ぎが揉めているの」
「ほんと、移譲する気があるのならさっさとやってくれていればいいのに」
「上の方は物分かりがいいんだけど、下っ端の官僚たちが大抵抗しているらしくてね。あのあたりの機構は、どうせ新政権でもそのまま再利用されるでしょうに」
「こっちに法権を渡したら縊り殺されるとでも思ってんじゃないですかね」
「“手始めに法律屋どもを皆殺しだ”……って、誰が言ったわけでもないのにね。骨の折れる話だわ」
「とにかく一度、ここ数日間の判例に目を通してくださいよ。“ワタシガホロボシテヤロウカコノセカイヲ……!”ってなること請け合い」
「けっこう楽しくやっていそうね……」
「どうにも荒れているみたいで」
 そう話しかけられて、主従は振り向いた。サトリはかつてのうらぶれた格好ではなくこざぱっりした服装になっていて、外では腫瘍のように隠して抱えていた第三の目も、ここでは露わにしていた。
「法曹関係の調整はもう少しお待ちください、きっと良いように着地させてみせます。……しかしその間の裁判が滞るのはよくありません」
「……あんたが話しかけてくるって事は、策があるんでしょ。何?」
「実を言うと、私は是非曲直庁に縁がございます。そちらから特別に人材を派遣してもらいましょう。この手の介入は非常な措置ですが、事が事なので」
「そんなところに口利きできるの?」
「私ならね……十王らの元で色々と下働きしていた時期もありましたので」
「クソみたいな事案を見なくて済むのなら、もうなんでもいいですよ。餅は餅屋っしょ」
 つかさはそう言いながら、小躍りして政所を出ていった。
 後に残された飯綱丸とサトリは、まだ話があった。
「……言っとくけど、さっきの献策はまだ受理していないからね」
「あれれ、従者さんはあんなに喜んでいたのに」
「あんたの手心が加わっている奴らに介入されたくない」
「彼らは誠実ですし、仕事ができる方々ですよ」
「事務的な処理能力は疑っていない」
「私の事を疑わしい女だと思っているようですね」
「当たり前よ。私の前に現れてからここまでの行動、いったいなにが目的なの?」
「なにって、オニさんたちが自分らの心底で望んでいる事を叶えてやっただけですが?」
「統治に失敗して友人たちとも散り散りになってしまうのが、彼らの望んでいた事だっていうの?」
「最終的にそのように行動してしまったのだから、そうなのでしょう」
 サトリの顔は、真実そうだと信じているようだった。
 その上で、更に彼女は言った。
「……あなたが望んでいた事だって、結局はああなってしまったではないですか」
「なんの話よ」
「あなたがこの山に返り咲く事にこだわった理由ですよ。……すべては、かつて一緒にこの山から出奔した友人たちのためだったんでしょう」
 飯綱丸は何も言わなかった。
「……なるほどね。“事が成った時にあいつらの帰る場所が無くなっていても困るし……”、ですか」
「やめろ」
「でもわかりますよ。出奔した彼らが山に帰参したとき、なんらかの形で責められるという事は、たしかにありそうな話です……。その懸念は半ば当たってしまいましたね。実際にあなたは捕らえられて、獄に繋がれて危うく死ぬところだった」
「どんなに理不尽だろうと、あれは私の罪の結果でしかないわ」
「しかしあの時点であなたの友人たちが戻ってくれば、宮方だったというだけで責められる事は確かでしょう。あなたがこの山にこだわり続けたのは、ただ友人たちを救うため」
「違う」
「しかし彼らはなぜか宮方ではなく鎌倉方に与してしまって、しかもそこで滅びる人々に殉じた。痛ましい事です」
「……あんた、物乞いにまで身を落として、関東に下向していたって言っていたね」
「ええ。彼らにも出会いましたよ。あなたの事を知っているとも話していましたし、彼らからあなたへの言伝も貰いました――あなたは聞きたくなかったし、今でも聞きたくないようですが」
「……だってあいつら、倒幕とか宮方とかどうでも良くて、ただ馬鹿騒ぎがしたかっただけだもん。でもそのまま滅びる者たちに殉じるなんて……ほんと、ばかなやつら」
 そう言った後で、踏ん切りをつけるように大きく息を吐いた。
「……お前らは気持ち悪い」
「言葉に出さずとも聞こえております」
 飯綱丸は舌打ちをした。
「それと是非曲直庁の介入は認めないわ」
「ふうん。従者ちゃんに恨まれますよ」
「それで済むなら安いもんだわ。それにあいつはぶーぶー言いながら全部やり遂げるよ――滝のような女だからね。この山は依然として私たちのものだ」
 そんな宣言を聞いたサトリは、少し陰のある微笑みを作った。
「……どうやら遠くない先、私たちは再度争う羽目になりそうです」
「このままではね」
「今のうちに決着をつけておきましょう」
 いずれは話さなければならない問題だった。
「しかし一介の近習でしかないあんたが、そんな事を話していいの?」
「私たち姉妹は星熊童子から交渉の全権を委任されております。それに、あなただってテングの中では一介の官僚でしかない」
「成り行きで強権を振るう羽目になったのはお互い様か……」

 そのまま二人きりの密儀が始まってしまった。
「互いの生きる場所を分け合いましょう」
 とサトリは提案した。
「あなたたちテングは、この山で生きればいい」
「あんたらはどうする?」
「別に、どこへなりと行っても生きる場所はあります。東西南北、この六十余州をほっつき回って、私はそれを実感しました。それに、この世界はその前後左右だけのものではない」
 と、両手の人差し指を上下に動かした。
「上と、下だってある」
「……地底か」
「この山では敗者が流れていく場所という認識のようですが、私たちはそこにこそ可能性があると思いますよ。だいいち私自身、地上にはあまり魅力を感じていません。だって地上には何も無いから。確かにここには山があり、河があり、空には太陽と月が貼りついている。……ですが、それで? それだけでしょう。あとはがらんどうです。そんなものはまったく魅力的な土地ではない。精神的な荒野です」
「ひどい物言いね」
「言われたらこの山を手放したくなりましたか?」
「全然。びっくりするくらいそんな気持ちは湧いてこない。あんたがどう負け惜しみをほざこうが、私たちには地上の空虚な青空こそが必要だもの」
「テングたちのささやかでせせこましい自尊心を守りきるためには、ですか」
 サトリは微笑み、付け加えた。
「いいんです。ささやかでせせこましい自尊心は、お互い様だったんです」

 それから数日が経った。
 最大の懸案だった旧勢力の――解放された側であるはずのテングの官僚たちからの――最後の抵抗は、サトリの姉妹によるとんでもない奇策で解決した。
 その朝、二人は自分たちが飼っている真っ黒で腹赤の飼い猫を抱えて、政務の場に登庁した。
「本日から法曹関係の長はこの方になります」
 突然そう宣言して、猫に官位を与えて法務長官としたのだ。
「この子はいたずら好きでね」
 サトリの姉妹は、困惑しきっている交渉相手の文官たちを前にして着座した。その目の前には、法曹関係の全権移譲に関する文書が広げられている。
 そうして、猫が右手を硯に伸ばして墨に染めているのを眺めた。
「……私たちの公文書を汚すのが最近の趣味みたいなの。こんな子が裁判所の長官になったら大変ね」
 彼女が言わんとする事が理解された後は、もう議論どころではなかった。放たれて政所を駆け回る猫、猫を捕らえて止めようとする者、文書を保護しようとする者、それを反対派の強行とみなして押し止めようとする者――
 姉妹は大混乱の真っ只中で、おすまし顔をして座っている。
 文字通りの擦った揉んだの末、黒々とした猫の足跡が公文書に残された。

「……ちょっと無理のあるやり口だったかもしれません」
「もうなんでもいいよ。うちの下っ端が死にかけてるし、これ以上行政が分裂しているのもよくない」
 昼間にこの政所で起きた事の顛末を聞き、苦笑いしながら飯綱丸は酌をした。
 相手はサトリの妹だ。
「……まあ、それはそれとして。明日は正式に、この山本来の土着のテングへこの土地を明け渡すよ」
「それで適当な天魔様を推戴して、外様のご自分は大天狗として裏で権力を振るうと……」
「別によくある方法でしょ。ないがしろにはせず、しっかり敬意は払うわ」
「絶対に、全てが思い通りにはなりませんよ」
「それって忠告?」
「経験則ですね」
 そうした軽々とした言葉の端々には、人懐こいものがある。ふと、思ってしまった。
(嫌われ者の姉と、好かれる妹か……)
 もちろんその思考は読まれていた。
「……お姉ちゃんが申し訳ありません」
「酒を飲んでいる時に頭を下げるのはやめてよ。それに、お互いにとって悪い事をしたわけではないし」
「私だって人から好かれているわけではないですよ」
「まあ、人の心を読めるのなら、そうだろうな」
 二人は黙り込んだ。そんな間も、サトリの妹はなにか宙に舞っているらしい言葉を追いかけるように、時々首を振った。
「……本当は、遠慮しいな人なんです。あなたとの交渉だって、常に譲歩し続けてきたでしょう」
「結果的にはね。でも私はその思考の過程などわからない。だから不気味なのよ……お前とお前の姉は、互いの心を読み、通じ合っているのよね?」
「そうです。その通りです」
「心底を曝け出しあいながら、それでも互いを受け入れている」
「ですね」
「そこまで互いを知りつくしたら、もはや私が無くなってしまわない?」
「二人きりの兄弟姉妹とは、時にそういうものです。遊んでいても、なんだか一つの頭に二つの体があるような、妙な感覚があって……幼い頃なんか、そういう事がありませんでした?」
「物覚えは良くなくてね」
「人の頭を割って観察した事はありますか?」
「まじまじと見た事は無いわね……」
「私はあります。頭蓋の中の脳は左右に分かれております。姉妹とはその左右の脳。分かちがたい存在なのです」
(それじゃあ、彼女を嫌えば君を嫌う事にもなってしまう)
「そういう事もあるでしょう。しょうがないですよ、もう」
(私は彼女が嫌いだ)
「でしょうね」
(……でも、結局は嫌いになれないような気もしているよ)
 そんなふうに考えていると、つかさがよろよろとその場に入ってきた。
「こっちの奉行所の閉廷の手続きと、新政庁への未決事案の引き継ぎ、完了しました……」
「ご苦労様」
「もうだめ、死ぬ……」
「……とは言っていますが、案外元気ですよ、その子」
「死ぬ死ぬ言ってる奴がそのまま死んだところは見た事ないからな」
「でも、ちょっとだけ寝かせてください」
 そう言って、ごろんと主人の膝の上に頭を預けた。
「……図々しい奴」
「可愛らしいじゃないですか」
「私の事をなんだと思っているんだか、よくわからないわ」
 しばらくクダギツネのいびき混じりの寝息だけがその場を支配していたが、サトリがぽつりと呟いた。
「……恋焦がれている、か」
「なんか言った?」
「いえいえ、こっちの話です。恋に恋してこいこいし……ふふふ、微笑ましい」
「なんだかあんたも不気味ね……」
 飯綱丸は肩をすくめながら酒を飲んだ。
 政所の外は、真夜中というのに騒がしい。天魔を迎え入れる準備と、地底への下向の準備、ふたつの動きが同時に行われていた。
 もちろん、そうした混乱の影に隠れて、誰か反骨心のある旧勢力が蜂起の兵を動かす可能性もあったが、そんな気骨があるならさっさとやっていればいいのにと、飯綱丸はだらりと構えていた。
(そんなつもりがあるなら、彼らは私たちがこの山に帰ってきた時、積極的に一戦交えるべきだった……でも、それができなかった。オニたちも、あの四天王すら勝ち目がないと見て奔った。今の私たちには勢いがあるからだ)
 とにかく、外は騒がしい。
「……あんたらの下向に従って、地底に下る妖怪も少なくないみたいね」
「テングなんかの下につきたくもないって事でしょう」
「言うねぇ……」
「地底はどんな場所でしょうか」
「案外楽しいところなんじゃない? 出戻りしてきたやつの話なんて聞かないし」
「心にもない事を言う」
 サトリの妹は、クスクスと笑った。
「お姉ちゃんはその地獄を見てきましたし、それを私に教えてくれました」
「やはりひどいところなの……」
「ひどい、というのとは少々違いますね。ここ以上に停滞していて、ここ以上に外部の権威が通用しにくい場所です。そしてここ以上に力の論理に縛られている……自由な世界ではない」
「十王の統治があってさえ、そうなの?」
「彼らにできる事はせいぜい法を敷くだけです。法からこぼれ落ちる者が多数派になり得る場合、彼らの官僚的な法治主義など、なんの力もありませんよ」
 そう語った妹の声は、姉そっくりになりつつあった。
「こんな時代になって大きく変わりつつあるのは、地獄も一緒って事ですね。この山なんて、まだかわいいものですよ」
 という笑いは、もう完全に姉のものだった。
 飯綱丸は顔をしかめた。
「……ごめんなさい。私たち姉妹は、面と向かい合ってしまうと、お互いの境界がたいへん曖昧になるみたいです。正直、ここ数日であの子が私なのかお姉ちゃんが私なのか、わからなくなってきている。私たちは会うべきではなかったのかも」
「分かちがたい左右の脳なのに?」
「時に分かち合えない事もある、左右の脳ですからね」
「……お前、本当は姉なの、妹なの?」
 飯綱丸はふと、思いつきを呟いた。
「だってさ、お互いを知ってお互いを受け入れ合うんだから、その半分はきっとあなた自身ではないものよ。あんたは姉でもあるし、妹でもある、というかどちらでもいい」
「さあね。どちらかが先に発生したかほどの違いしかありませんし、あなたが言うように、別にどっちだっていいんじゃないですか」

 やがて、星熊童子と彼女が引き連れる一党が、地底へ下向する日がきた。
「人をやって先遣させたところ、道案内を見つけてくれました」
「私たちがあの山に来る前に追われたツチグモさんらしくて……まあ愉快な方でしたよ」
「どうせ気が滅入る地獄巡りなら、愉快なやつが必要よね」
 星熊童子はぼんやりとその話を聞きながら、サトリに向かってニヤリと笑った。
「……しかし、またしても私を出し抜いてくれたようね。地底にもしっかりと立場を足固めしていたなんて」
「是非曲直庁が放棄した地獄の施設の管理を任されただけです」
 サトリは肩をすくめた。
「これは私だって貧乏くじですよ。本当に、ひどいです。その地域――俗に旧都と呼ばれているようですが――、その一帯は誇張抜きに秩序が破綻しているみたいで」
「楽しみになってくるような情報だわ」
 ぽきぽきと指を鳴らしながら言うのは皮肉ではなく、心の底からの言葉なので、サトリは笑った。
「あなたのような方は存分に力を振るうがいいですよ」
「そうね。政治ごっこはもうこりごり。別にあんたや他の誰かに利用されていてもいいから、誰かをぶん殴りたい」
「ええ、ぶん殴るべき相手はたくさんいるわ!」
 真上から降ってきた声と共に、その声の主もするすると降りてきた。
「……襲撃?」
「ではありません。さっき言った案内の者です」
「ツチグモか」
「その通り!」
「話は聞いているから、案内を頼むわ。あなたの生国は?」
「黒谷!」
 国名すら言わず地名だけを言って通じると信じているのだから、このツチグモは都会近辺の育ちに違いなかった。
「……あー、黒谷、黒谷か……いいとこだよね。黒かったり……谷とか……あって」
「叡山別所の黒谷ですかね」
 星熊童子とサトリは言い合った。
「……ま、いいわ。道連れとしては上等でしょ。案内して」
「ええ、ここから更に穴を下ったところに、川があって、橋が渡してあります。うちらの敵は、そこに布陣しているんで」
「……敵って?」
 星熊童子は姉妹に振り返った。姉妹はけろりとした顔で言った。
「彼女たちに協力してもらうのですから、そうした取引の一つや二つ、必要ですよ」
「ですです」
「あれれ、ちゃんと話が伝わってなかったぽい?」
「……問題ないわ、存分に腕を振るってやる」
 言葉通り、星熊童子が率いる軍勢は蹴破るように敵の陣地を抜いてしまった。
「ほんと軍事だけは文句なしなんですがねぇ……」
「なんか言った?」
「いえ……」
「んで、あとは旧都まで一直線よ」
 ツチグモは行軍を先導しながら言った。星熊童子はぼそりと呟く。
「……しかし連中、弱いわけではなかったけれど、なんだか拍子抜けだったわ」
「戦い慣れこそしているようですが別に強大な力があるわけでもありませんでしたね」
 サトリの姉は率直に戦況分析をした。
「結局、貧しい場所で醸成された弱肉強食の論理なんて、強がってはみても非常にはかないものです。これからの私たちは、精神・物理両面の豊かさを何としてでも獲得し、力をつけていくことが必要なのでしょう」
「それができれば、いずれは私たちも強勢を取り戻す事もできるのかな」
 そうした軍議もそこそこに、旧都への総攻撃まで、しばしの休息を取る事にした。
 サトリの姉は野営地を出た。
「お姉ちゃん」
 妹がついてきて、言った。その目は旧都の更に向こう、まだ奥の底知れない地獄の先へと注がれている。よくよく目を凝らしてみると、その場所は闇の中で赤く灼熱しているように見えた――そして音。
「聞こえるでしょ、怖いわ」
「恐れなくていいわ」
 姉は答えた。
「この場所にはあらゆる騒音が満ちているけれど、恐れる必要はない」
 その騒音はサトリ妖怪だけが知覚できる音だった。
(どうしてこんな場所に流されたのでしょう)
(そんなもの成り行きでしかないわ)
(……正直言って、私はこの土地が恐ろしくてしょうがない)
(私も。はっきり言って、嫌い)
(……でも、結局は嫌いになれないような気もしているよ)
 一瞬前まで、本気でこの地底を嫌悪していた妹からそんな思考が飛んできたので、姉はびっくりして声を出してしまった。
「……今のなに?」
「なんだろう……こないだ、誰かからそんな言葉を拾った気はするけど。でもここ数日はめちゃめちゃ忙しかったから。誰の思考だったかまでは……」
 妹でさえ首を傾げていたが、その言葉が真心からのものであり、ほんの僅かな希望をもたらしてくれた事を感じていて、それが姉にも共有された事を知った。
「……まあ、たまには強がって好きになろうとしてみる事も大事じゃないかしら」
 それを聞いた妹は笑った。
「そうだね――ねえ、驚くべきことよ、なんとまあ多くのバケモノどもがここにいる! 麗しき人々が! ああ、勇ましき新世界よ! こんな人々がいたなんて!」
 サトリの姉妹は笑い合った。

 彼女たち姉妹がやがて望まぬまま相争い、妹が姉を廃立し、その後狂気の中で瞳を閉じる事になるまでには、まだ数百年の猶予が残されている。

* * * * *

「其声響雲驚眠。聞人皆無不忌恐――」
 飯綱丸は謡いながら舞い、洞窟の中に住んでいる大ムカデの友人を楽しませた。
「……近頃の京では、そんな妖怪が退治されたって」
「源三位入道頼政のヌエ退治みたいな話ね」
 相手の姫は言った。
「実に胡乱で楽しいな。都はそんな事が起こっているの?」
「反面、ミカドの御親政の評判はよろしくないみたいだけれどね」
「そんなものは人間の勝手だろ。いや、本当に妖怪の世が戻ってきたのは、正直びっくりしてるんだけど……」
「だよねぇ――イツマデ、イツマデとぞ鳴ける……」
 楽しげに戯れる二人を見ながら、飯綱丸の従者は露骨に面白くなさそうな顔になったが、別に主人の友人に嫉妬しているわけではなかった。
 主人がしたたかに酔っぱらいながら舞い踊るのを眺めながら、つかさは大ムカデの姫に囁いた。
「……最近、あの人は私を頼ってくれません」
「つまり妖怪の山の統治が安定したんだろ。なんでもかんでも、あんたに押しつける必要が無くなったって事さ」
「つまんない」
「いいじゃん、とりあえず今は平和だよ」
「先だっての乱の頃の方が、あの方に全然頼ってもらえていた」
「……あんたは天下に大乱でもなきゃ主人を愛せないの? めんどくさいやつね」
「愛せるかではなく、あの人に愛されるかですよ……天下の大乱の方は、なってみなければわかりません」
 そんな会話に至るまでの間につかさも相当に酔っぱらっていて、そんな放言をした。彼女はそのままごろりと茣蓙の上に寝転がって、寝息を立て始めてしまった。
 飯綱丸は、はたと田楽舞いをやめた。
「あらら、その子も寝ちゃったの。じゃあ私もこのあたりでお暇しようかな……」
 そう言った飯綱丸に、大ムカデは忠告した。
「……あんたの従者、だいぶ危険な女だよ」

 妖怪の山の長に天魔を迎えて、それを頂点とする官僚体制が問題なく回転し始めた頃、テングの領地に客がやってきた。
「……賢者ぁ?」
 ちょうど領地係争問題の資料集めと審査にあたっていた飯綱丸は、従者に呼ばれて思わず声を荒げてしまった。
「そいつが私に用があるわけ?」
 飯綱丸の従者のクダギツネは、素っ気なく取り次ぎをして言った。
「会うつもりが無いのなら、それでいいなんて言っておりますけど」
「……いいわ、会いましょう。代わりにこっちの采配をお願い」
「ん、また無茶振りしてくる……」
 つかさは文句を言いつつも、くしゃくしゃと撫でられた頭を嬉しそうに抱えたが、その主人はさらに言いつのった。
「いいでしょ? 賢者様の口利きがあれば、ちょうどいま噴出している問題だって解決できるかもしれない」
 そうして出会った賢者は、自分の従者に酒瓶を携えさせていた。
「――飲みながら話しましょう」
「賢者様が私みたいな一官僚をご指名なのも珍しいわ」
「天魔様にはもう挨拶してきました。とてもテングらしい方ですね」
「褒められてるのかしら……?」
 そう言いつつ、酒を口に運んだ。
「……しかし思った以上に見事に返り咲きましたね」
「あんたが手助けしてくれたおかげよ」
「いいえ。全てが予想外だったわ。あなたがあそこに隠れ住んでいたテングたちを煽り天下の乱に加わる事も、それによって成功を収めて瞬く間にこの山を奪還した事も、全部ね――私はただ逃れて、そこで再起を図るだろうくらいに思っていた」
「そういった道も、あるにはあった」
「だから私は警戒している」
 賢者はさっそく、本題に斬り込んできた。飯綱丸は澄ました顔でその言葉を聞き、酒をまた一口飲み下した。
「あなたはこう言ったそうね、あの乱はみんなの夢だと……でも私に言わせれば、その夢とはもっと俗っぽく、欲望とも言い換える事ができる。私はあなた個人以上に、あなたが煽った欲望の力が恐ろしい。あなたは山の外の兵乱を利用して、この山の閉塞を破壊しました……でもそれは、この山の外にあった関係ない人間どもの大乱を呼び込んだとも言える」
「それは悪い事かしら?」
「ただでさえ私たち妖怪の力は衰微しているのよ。今後本朝で乱が起これば――外の世界の失政を思えば、そう遠くない将来それは起こるでしょうが――、やはりあなたたちの中から、その乱に加わろうとする者が出てくるに違いない……そうなっては、私たちは人間たちの力に呑みこまれてしまいます。だから今この山全体にとって、そうした実績を持っているあなたたちは、非常に危険な存在になっている」
 飯綱丸は目を細め、唇を尖らせながら認める。酔った勢いも手伝っていた。
「……たしかに今回の私の成功を先例としたら、今後天下に大乱が起きた時、私たちの勢力は暴発まみれになるでしょう。そして、やがて滅びてしまうでしょうね」
 だが、そんな事を恐れてどうなるというのだろうか、ともその時は思った。

 そういった話を交わして、そろそろと辞去した賢者を見送ると、飯綱丸はため息をついた。
「……あの女、どういうつもりだろう」
「わかっているくせに」
 答えに向かって振り返ると、そこに自分の従者がいた。
「私たちは失敗した、と決めつけられたんですよ」
「政務はどうしたの」
「あなた流で全部どうにかしましたよ――当人らの揉め事に、思いもよらない局外勢力を食らわせて、どうこう言わせる隙を奪う」
「……なかなか辛辣な物言いじゃない」
「いえいえ! そう聞こえるのは、あなたが自分のやり方に自信を失っているからでしょう!」
 つかさは言った。
「私はあなたを支持しますよ」
「やめなさい」
「どうして?」
「かつてサトリにも、同じことを獄中で咎められた。このままだと私たちは、妖怪の山全体を害する外患を呼び込む事になる」
「はぁ?……別にいいじゃないですか、そんなの」
 つかさは首を傾げながら言った。
「世間の混乱につけこむべき妖怪が、世間の混乱という大妖怪を恐れて、どうしろと言うんですか。受け入れて、呑みこめばいいでしょう」
「そんな意気地があるなら、私たちはこんなところで逼塞していないでしょ。はなから終わっていたのよ、私たちは」
「いくじなし」
 従者は罵った。それはあまりに急な変転だった。
「あんたは意気地なしだ、噓つきだ。自分が語った夢くらい、自分で――」
「待ちなさい」
 飯綱丸は止めた。政所の中での言い争いなので、もう衆人の目に留まっている。
「……あんた、まさかそういうつもりなの?」
「当たり前でしょう! これがこれからも私たちの大方針であるべきですよ!」
 そう言って、騒ぎを聞きつけた官僚が聞いているにも関わらず、きっぱりと言った。
「私たちはこれからも積極的に天下の大乱に加わり、いよいよ実力と自信をつけていくべきです!」
 飯綱丸はそんな従者の言葉を聞きながら、そうして私たちは滅びるんだと、素直に思い直した。あの賢者の弁は、間違いなく正しい。それでもせめて、華々しく、統制を保ち、粛々と滅びる事さえできればいいのだろうが、きっとそうはいかないだろう。

「……とはいえ、あんたも本気じゃないでしょ」
「当たり前じゃないですか」
 その夜、二人は庵の中で酌み交わしながら言った。
「たしかに私たちはここらで外乱から手を引くべきです。全ての情勢がそれを物語っていますし、今ならまだ可能です。しかし……そのためにはこの山のテングの大半が、それに納得する状況を作らなければならない。私たちが止めろと言って止まれるなら、それに越したことはないのですが……まあ不可能でしょう」
「それで、急進派のふりをし始めてどうするつもり?」
「計画そのものは非常に単純です。私があなたをそそのかして、この山の軍事の一部を専横し、独断で過激派のテングたちを募って、高転びに転んで、失脚する」
「下手したら死ぬわ」
「私が心配ですか?」
「そりゃあ、まあ、うん……」
「いいですね。それは今まで私を心配させた報いと受け取ってください」
 つかさはころころと笑った。
「それにこんなの、あの頃の危機に比べればなにほどの事もありませんよ」
 あの頃の参照元がいまいち曖昧だったが、飯綱丸は気にしなかった。
「……でもそんな事をすれば、あんたは佞臣、奸臣、主の心をくすぐって破滅させようとした悪人になるわ」
「あら、身を汚さずに悪女になれるなんて素敵。莫迦には絶対できない事ですもん」
 ああ言えばこう言う従者だった。

 やがて天下に大乱がふたたび勃発する頃、テングたちの官僚政治の世界に飯綱丸の従者の名前はふたたび出現し始める。
 彼女は管牧典と名乗るようになっていた。
「……あんたは私に使役されるクダギツネに過ぎないでしょ。こんなの、いったいどこの由緒から僭称したのよ」
「別に由緒なんて、どーだっていいでしょう、あなたの寵を後ろ盾に好き勝手やってる感さえ出せれば」
 たしかに、典の悪名はこのテング社会の中でとみに高くなり始めていた。
「でも、こないだはさすがに度が過ぎていたわ。私まで巻き込んで朝議に遅刻して……」
「度が過ぎなければ意味が無いでしょう。私は、もっともっとあなたに気に入られた女狐呼ばわりされなければいけません」
「危ういわ」
 二重の意味で言ったつもりだった。
「ともあれ、これで最初の段階は通過しました」
「……次は、そうね。またあなたたちに外の世界に諜報しに行ってもらおうかしら」
「既に急進的な不穏因子の絞り込みと接触には取り掛かっています。あなた方が彼ら過激派への抑圧を強めてくれているおかげで、恐ろしいくらい事が上手く運んでいる……そして、機を見てよろしく私と彼らとをまとめて野に放ってください。――その間にあなたは山の中の穏健派を主流にしてまとめる」
「そしてそっちは外の世界の乱に乗じて自分の与党を勝手に増やして、私に対して反逆を起こす、と」
「あなたではなく、あなたが所属する山に対してね」
「あなた、死ぬ気?」
「死なない程度に、上手く立ち回るつもりですよ。……でもそうだなぁ、もしも私たちに向けて派兵する事になったなら、できればあなた自らご出陣なさって、私を誅伐して欲しいですね」
 そう言って、典は腰をくねらせた。
「私、いっぺんあなたにお仕置きして欲しいのかも」
「お尻ぺんぺんくらいで済むのなら、いくらでも引っ叩いてやるんだけどね……」
 それからまた山の外で起きた乱の話になった。
「北条の遺児を担いで蜂起した諏訪神党は、鎌倉を奪還したそうですね」
「よくやっているとは思うけど、ただの残党の反乱でしょ。軍の勢いはともかく、鎌倉府を維持できるような官僚体制までは整理しきれないと思うけど」
 と言い置いた後で、言葉を切った。
「しかしこの乱がどこまで長引くかは見ものね。そして誰が征東軍を率いて、関東を取り返しに行くのか……」
「まあ、そこが一番の問題でしょうね。誰だと思います?」
「そりゃあもう……」
 と言いかけて、ちょっと待つ。典もその意図を飲み込んで、主従で声を揃えて言った。
「足利!」
 当たり前だ。誰が見てもそれしかない。
 しかしそれは、虎に翼をつけてやったようなものではないだろうか――かつて、末期の北条氏が打つ手を失って足利勢を上洛させた時のように。

 廿日先代などと揶揄される北条残党の蜂起が失敗した後に、鎌倉を奪還した足利勢が朝廷を離れて独自の動きを始めた事は、飯綱丸も聞いている。
「……とはいっても、野に下ったあんたの従者の報告は、この山の世論を煽ってばかりだよ」
 と言ったのは、友人の大ムカデだった。
 彼女は、この主従の大戦略の事など知らない。むしろ知らないからこそ、肌感覚での違和感に敏感だった。
(ちょっと露骨な動きすぎたかしら)
 と、友人の心配を前にして余計なことを思うのも悪い気がする。
 それに、この大ムカデの姫君の意見が世間一般の反映とも言えない――彼女は典を、ことのほか警戒していた。
「ねえ、やっぱまずいって、あいつは……」
「毒でも飲むべき時はあるわ」
「それが今とは思わないのよ、恩着せがましい事を言うけれど、オレはあんたの事を思って……」
「私のことを思うなら、あの子を信頼してあげてよ」
「よくない男に捕まった女みたいな事を言う」
(当たらずも遠からず……)
 飯綱丸にもそれはわかっている。
(でもそれ以上に、私は子どものようにあいつに頼りきり。)

 あるとき、定期的に送られてくる典からの外界の情勢報告に混じって、私信が飯綱丸の元に届けられた。
「“以前、あなたと一緒に諸国をぶらぶら歩き回っていた頃が思い出されます”――ってさ!」
 朝議の席で、周囲にも愉快そうに無邪気に言って回ったが、これはかねてから二人で取り決めてあった緊急信号だった。
(あいつも自分が煽った急進派の熱を御しきれず、闇の奥に振り回されかけている)
 それもある程度までは計画のうちの事ではあった。しかし、そうした事が起きた場合には、自分は率先して出兵を進言し、不穏分子の中核となっている彼女を滅ぼさなくてはならない。
(できるわけがないわ)
 今ならそう思う。
(あいつ、私のことをそんな事ができる女だと、本気で思っているのかしら)
 思っているとすればひどい買いかぶりだが、思っていないとすれば舐められたものだ。
「――しかし、この手紙には叛意があるように見える」
 先程までのはしゃぎっぷりを嘘のように裏返らせて、飯綱丸は言った。その反転に朝議の席は凍り付いた。
「私とあいつが諸国を巡っていたというのは、罪を得てこの山を追われていた頃の事よ。そして私たちは、後にこの山の勢力図をひっくり返してしまった。……その時期の事を懐かしいと言ってしまうのは、この山に背く意思があると言わざるを得ない。彼女には誅を加えるべきだと思うわ」
 周囲は呆然としながら、その言いがかりとも言える理屈を聞いていた。
「出兵しましょう。目的は管牧典の討伐――しかし急な出兵は怪しまれる可能性がある。表向きの名目は、これにしましょ」
 と言って、典が入手していた二通りの書状を朝席に放りだした。

参議従三位兼武蔵守源朝臣尊氏誠恐誠惶謹言。
請早誅罰義貞朝臣一類致天下泰平状右謹考往代列聖徳四海、無不賞顕其忠罰当其罪。若其道違則讒雖建草創遂不得守文。肆君子所慎、庸愚所軽也。去元弘之初、東藩武臣恣振逆頻無朝憲。禍乱起于茲国家不獲安。爰尊氏以不肖之身麾同志之師。自是定死於一途士、運倒戈之志、卜勝於両端輩、有与議之誠。聿振臂致一戦之日、得勝於瞬目之中、攘敵於京畿之外。此時義貞朝臣有忿鶏肋之貪心戮鳥使之急課。其罪大而無拠逋身。不獲止軍起不慮。尊氏已於洛陽聞退逆徒之者、履虎尾就魚麗。義貞始以誅朝敵為名。而其実在窮鼠却噛猫闘雀不辞人。斯日義貞三戦不得勝、屈而欲守城深壁之処、尊氏長男義詮為三歳幼稚大将、起下野国。其威動遠、義卒不招馳加。義貞嚢沙背水之謀一成而大得破敵。是則戦雖在他功隠在我。而義貞掠上聞貪抽賞、忘下愚望大官、世残賊国蠹害也。不可不誡之。今尊氏再為鎮先亡之余殃、久苦東征之間。佞臣在朝讒口乱真。是偏生於義貞阿党裏。豈非趙高謀内章邯降楚之謂乎。大逆之基可莫甚於是焉。兆前撥乱武将所全備也。乾臨早被下勅許、誅伐彼逆類、将致海内之安静、不堪懇歎之至。尊氏誠惶誠恐謹言。
 建武二年十月日

従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞誠惶誠恐謹言。
請早誅伐逆臣尊氏直義等徇天下状右謹案当今聖主経緯天地、徳光古今、化蓋三五。所以神武揺鋒端聖文定宇宙也。爰有源家末流之昆弟尊氏直義、不恥散木之陋質、並蹈青雲之高官。聴其所功、堪拍掌一咲。太平初山川震動、略地拉敵。南有正成、西有円心。加之四夷蜂起、六軍虎窺。此時尊氏随東夷命尽族上洛。潛看官軍乗勝、有意免死。然猶不決心於一偏、相窺運於両端之処、名越尾張守高家、於戦場墜命之後、始与義卒軍丹州。天誅革命之日、忽乗鷸蚌之弊快為狼狽之行。若夫非義旗約京高家致死者、尊氏独把斧鉞当強敵乎。退而憶之、渠儂忠非彼、須羞愧亡卒之遺骸。今以功微爵多、頻猜義貞忠義。剰暢讒口之舌、巧吐浸潤之譖。其愬無不一入邪路。義貞賜朝敵御追罰倫旨初起于上野者五月八日也。尊氏付官軍殿攻六波羅同月七日也。都鄙相去八百余里、豈一日中得伝言哉。而義貞京洛听敵軍破挙旌之由載于上奏、謀言乱真、豈禁乎。其罪一。尊氏長男義詮才率百余騎勢還入鎌倉者、六月三日也。義貞随百万騎士、立亡凶党者、五月二十二日也。而義詮為三歳幼稚之大将致合戦之由、掠上聞之条、雲泥万里之差違、何足言。其罪二。仲時・時益等敗北之後、尊氏未被勅許、自専京都之法禁誅親王之卒伍、非司行法之咎、太以不残。其罪三。兵革後蛮夷未心服、本枝猶不堅根之間、奉下竹苑於東国、已令苦柳営于塞外之処、尊氏誇超涯皇沢、欲与立。僭上無礼之過無拠遁。其罪四。前亡余党纔存揚蟷螂忿之日、尊氏申賜東八箇国管領不叙用以往勅裁、養寇堅恩沢、害民事利欲。違勅悖政之逆行、無甚於是。其罪五。天運循環雖無不往而還、成敗帰一統、大化伝万葉、偏出于兵部卿親王智謀。而尊氏構種々讒、遂奉陥流刑訖。讒臣乱国、暴逆誰不悪之。其罪六。親王贖刑事、為押侈帰正而已。古武丁放桐宮、豈非此謂乎。而尊氏(一字不明)仮宿意於公議外、奉苦尊体於囹圄中、人面獣心之積悪、是可忍也。孰不可忍乎。其罪七。直義朝臣劫相摸次郎時行軍旅、不戦而退鎌倉之時、窃遣使者奉誅兵部卿親王、其意偏在将傾国家之端。此事隠雖未達叡聞、世之所知遍界何蔵。大逆無道之甚千古未聞此類。其罪八。斯八逆者、乾坤且所不容其身也。若刑措不用者、四維方絶八柱再傾可無益噬臍。抑義貞一挙大軍百戦破堅、万卒死而不顧、退逆徒於干戈下、得静謐於尺寸中。与尊氏附驥尾超険雲、控弾丸殺篭鳥、大功所建、孰与綸言所最矣。尊氏漸為奪天威、憂義士在朝請誅義貞。与義貞傾忠心尽正義、為朝家軽命、先勾萌奏罰尊氏。国家用捨、孰与理世安民之政矣。望請乾臨明照中正、加断割於昆吾利、可令討罰尊氏・直義以下逆党等之由、下賜宣旨、忽払浮雲擁弊将輝白日之余光。義貞誠惶誠恐謹言。
 建武二年十月日

「文面を見てくれればわかるように、関東で独自の動きを見せている足利尊氏が新田義貞の讒訴と追討を朝廷に進言し、それを受けた新田が足利に対して同じ事をやり返した、というものです」
 いわゆる奏状合戦である。
「この、ゆくゆく始まるであろう足利と新田――いや、朝廷との戦乱に備えて、私たちも外部に派遣する者を増員したい……そんな名目を作り、派兵します。それで」
 それで……?
 その場の誰もが思った。が、飯綱丸はあくまでさらりと、なんでもない事のように言った。
「奴らは押し包んで皆殺しにしなければなりません。この山の病巣はまとめて切り取っておかなきゃ」
 飯綱丸は外の世界と繋がろうとする勢力を病の巣とまで表現して言った。
「自分たちに関わり無い外乱に加わりたがるなんて、ただのビョーキよ」
 そして彼女の進言通り派兵が決定し、妖怪たちはふたたびこの狭苦しい一山の中に引き籠る道を選んだ。
 管牧典が山外に率いていた勢力は無惨に滅ぼされた。
 この“管牧典の変”とでも言うべき――基本的に固有名詞というものを嫌う幻想郷の歴史では、そんなふうに呼び習わされる事は無かったが――事件の後、飯綱丸は遁世してしまっている。
「最後に変心してしまったとはいえ、あいつは私の大事な腹心だったわ。彼女がいない今、ここの政で力になれる事は何もない」
 そう言って、自分の庵に引き籠ってしまった。

* * * * *

 それから、一年が経つ。
 天下の形勢もまるきり変わった。
「それでミカドは京から脱出、朝廷も吉野と京の南北に、真っ二つに割れちゃったそうです」
「あの御方はほんと元気ねえ……」
 飯綱丸は、そうした話を庵に遊びに来た文屋から聞きながら、呆れるやら感心するやらだった。
「そうした情報はぽつぽつと入ってきていますが、まあまあ大きいものばかりで」
「私ももう外の世界には興味が無いよ」
 文屋は、庵の壁に掛かった竹筒の束を眺める。
「それにしても……ここ数年は色々ありました」
「ええ、あいつも死んじゃった」
「……もうクダギツネを使う事はないんですか?」
「あいつらは財を食い潰すし、手間がかかるからね。おいそれとは使役できないのよ」
「そうですか」
「しかし、本当にあいつはわがままで図々しい奴だったわ」
 せいせいしたというふうに鼻息を荒くしたが、そこに力強さは無かった。文屋も肩をすくめるしかない。
「……私は飯綱法にはさほど明るくないのですが、やっぱりクダギツネをあそこまで使えるほど仕込むのは大変なのでしょうね」
「まあね。……それに一緒にいるうち、使役動物というより手のかかる家族みたいになってしまう傾向はある」
「なるほど……」
 文屋が目を細めるのを見て、飯綱丸はニヤニヤと笑った。
「言いたい事があるのなら言いなさいな」
「……え、ええ?」
 相手は慌てる。
「私は別に、なにも――」
「いいえ、そんな話題をしたからには、なにか考えがあるのでしょう……たとえば、最近になって湧くように出てきた奇妙な噂、とか」

 そもそも、飯綱丸が己の右腕同然に寵したとされている従者は、非常に謎が多い人物だ。特にこの時期の彼女については、異様な一説がある。
 彼女は飯綱丸が代々に渡って使役していた複数のクダギツネが、一つの人物に統合された存在なのではないか、というものだ。
 一人目の従者は、飯綱丸が鎌倉倒幕を志して友人たちと出奔したとき、愛想を尽かして山を出ていってしまった。
 そこで二人目の従者を使役したが、彼女は妖怪の山にオニの四天王が攻め込んできたときに使者となったが、そこでぶざまな降伏をしてしまい、怒り狂った暴徒に責められ、そのまま狂って山を出ていってしまって、それきり。
 三人目の従者は妖怪の山から逃れた後に飯綱丸の復権を助けたが、やがて山の軍事を専横し、疑いを受けて誅伐された。
 そんな説だ。

「ほんと、変な噂よね」
「ご存じでしたか」
「聞きたくなくても耳に入ってくるものはあるわ……それで、あなたはどう思う?」
 文屋は、飯綱丸に問われて、かぶりを振った。
「私に聞かずとも、ご本人ならわかっているでしょう」
「事実関係については尋ねていないわ。あなたがどう思うかを聞いている」
「……うーん、思うに、この噂を流布した人物の目的は、管牧典の連続性を否定する事でしょうね。つまりあの時のクダギツネと、この時のクダギツネは違う、といったような」
「ふむ」
「そして連続性の否定と言いましたが、これは同時に連続性を隠蔽する事もできます」
「と、言うと?」
「今後、あなたがもしもまたクダギツネを使役する事があれば……」
「正直言って、遠からずまたそうなるでしょうね」
「仮に、そのクダギツネが、今までもずっと連続性を持ってあなたに付き従ってきた、あの奸賊の管牧典だったとしても、ひょっとすると怪しまれずに済むかもしれない……」
「でも彼女は討伐されたのよ」
「確かに、私たちは彼女を攻め滅ぼしたという事になっています。……でもその実、テングが山外でおおっぴらに軍事を行うのは、制限が多すぎます。私はあなたの仕事をそばで見た事があるから、それを知っている。……討伐したと公式には喧伝していても、実は取りこぼしが少なくなかったのかもしれません」
「……しかし典の場合は、首謀者ということで首実検まで行った」
「そこでさっきの話ですよ。……彼女そっくりの死骸くらい、飯綱法を応用すれば生成できるのではないでしょうか」
「仮定に仮定を重ね始めたわね」
「そう、そうなんですよ。ここまで言ってなんですが、私には何も決め手がないし、それに……」
「私の従者の事なんかどうだっていい、でしょ?」
「そうですね。ただ、ちょっと思いついただけです」
 まあ私はとやかくは言ったりしませんよと言って、文屋は庵を後にした。それを見送りながら、飯綱丸は身に覚えのない謎かけを解かれた気分で、そのまま庵を出た。
(確かに、死を偽る事くらいはどうにかできる。だからそこまでの計はあいつに授けておいた)
 ふらふらと山中を彷徨いながら、飯綱丸は思った。
(……でも、あいつは生き延び、こんな山から逃れて、どうとでも生きれば良かったのよ。私にできる事は、もう何もなかったもの)
 しかし、あの従者には、なぜか妖怪の山への執着があったようだ。しかしそれがどういった執着か、想像もつかない。
(そしてこの策はあいつ個人の力によるものではないでしょう)
 と、立ち止まった。
 目の前には異様に不安定な立地で、賢者の屋敷が立ちはだかっている。

 屋敷にいた顔見知りに取り次ぎを頼むと、非常に機械的に座敷へと案内された。
「待っていたわ」
 賢者は、既に待ち構えていた。飯綱丸は微笑んだ。
「それじゃあ話が早い」
 と言って、どっかりと板敷に腰を落ち着けた。
「――どういうつもりかしら?」
「どういうつもり、とは」
「私が自由にさせた従者を拾うのは、まだいい。しかし彼女を操って私たちテングの政局に介入しようとするのなら、たとえあんたみたいな賢者でも……」
「待ちなさいよ、あなたは一人合点してばかりだわ」
「あんたが典を手籠めにする理由なんて、それしか無いって言っているのよ!」
 飯綱丸は、自分でも驚くほどに取り乱した声で叫んだ。
「確かに、あいつはきっと生きている。生きているし、もうこの山の殺し合いや政争には関係の無い小娘よ。私はあいつを呼び戻す気は無いし、頼りにするつもりもない。それなのにあんたらは、あいつを駒にしようとして……」
「駒にしたら、どう使えるというの?」
「それを軽々しく言えるはずがないでしょう――ただ、可能性としては、先の事変の残党が典以外にも存在する、という事は言える」
「残党」
「私たちはしくじったのよ……あとは自分で考えなさいよ、このクソボケ」
 そう言われて、賢者は少しの間だけ黙り込んだ。
「……ひとつ、勘違いして欲しくないのだけれど」
「なによ」
「私はその残党を、自分たちに利するために動かすつもりはありません。むしろ彼らはこの山にとっては甚だしい害です。そいつらを駆除して欲しい」
「なに?」
「それがあなたたち主従がやった事のけじめじゃないかしら? 私はそう思うのだけれど」
「言ってくれるわね、あんた」
 そうした事を言われながらも、飯綱丸の思考は案外に冷静で、平明だった。
(たしかにそうなのかもしれない)

 それから数日の後、飯綱丸は友人に別れを告げていた。
「……ってなわけで、私はしばらくこの山から消えるから」
「しばらくって、どれくらい?」
「たぶん、六十とそのまた十年」
「ふうん、そう」
 大ムカデの姫君は、そんな友人の近況よりも、掘り進めていた新しい坑道の作業で忙しいようだった。
「……ちょっとさ、そこの石切りを取ってくれない?」
「ほら」
 と楔を投げて寄越した。
「どうも。……しかし隠居したつもりなんじゃないの」
「私に引退なんて言葉は似合わなくなったのよ」
「なるほどな、それはいい事じゃん」
 友人は素っ気なく言った。
「あの女狐にもよろしく」
「あいつは死んだよ」
 そういう事になっている。大ムカデもなにか勘づくものはあったが、そこを無理に否定しようともしない。
「――あー、でも、あいつらが滅ぼされた土地にお参りするくらいは、するだろ?」
「うん。あの時は私自ら出陣できず、この山に留守居だったし」
(私自身が警戒されていたとも言える)
「今回の下山だって、天魔様たちに受理されたのが不思議なくらいだったもの」
(きっと、賢者によるなんらかの口利きがあったのだろう)
 だが、そうした諸々の事情を取っ払ってみると、どうも不思議な気分だった。
(なんだか駆け落ちみたい。しかも、本来なら顎で使っているようなクダギツネの従者と――)
 ぼんやりとそう考えていると、大ムカデはもう数刻もかかりきりで渡り合っていた岩盤を、遂に掘り抜いたらしい。ちょっとの間歓声を上げて喜びはしたが、すぐにまた複雑な表情になった。
「……この先はまた難しそうだな」
「どれ? 見せてよ――確かに。地質の構造がこのへんで分かれ目になっているのね。きっと大量に水が漏るわ」
「詳しいのか?」
「測量と星見と地質調査はお手の者よ。昔、山師の真似事をやっていた事があってね……」
「今だって山師だろ」
 大ムカデの姫君は、囁くように言った。
「たしかに」
 飯綱丸は真面目な顔で頷いた後で、次第におかしくなってきたようで、クスクス笑った。
「……たしかに、私の本質って、結局は山師なのでしょうね」

 乗り捨てられた紙の牛車が風に吹かれ、かさかさと二転三転して、道端を吹き飛ばされている。
 典は、今しがた自分の目の前を通った、そんな奇妙な紙人形の列の事を思い出しながら、主人を待ち続けていた。
 その行列のうらぶれてのろのろとした様子や、官女の多さからして、落剝して都落ちしてきた姫君の車列といった様子だが、官女たちは薄く儚い紙でできていた。いや、他の諸々も、紙だった。紙の随身、紙の衛士。紙の車を紙の牛が引いて、紙の牛飼いがそれを進ませていた。
 やがて紙の牛車は止まり、するすると姫君が降りてきたが、それは紙の姫君ではなかった。雛人形のように整った可愛らしい顔立ちだとはわかるが、しかしどこか不吉な、薄気味悪い陰がある。
 その姫君は、樹海の湿気に触れて次第に崩壊していく紙の女官たちを引き連れて、森の奥へと消えていった。
「なんか不吉な奴ねえ。……それにしても、京の都も私たちには住みづらい場所になっちゃったのかなぁ」
 そうぼやきながら、典は足元の小石を蹴っ飛ばした。
 結局、この国の時勢は妖怪たちの良いようには変わらなかったわけだ。

 そもそも管牧典の討伐は、日本史上有数の大混乱の片隅でひっそりと起きた、皮肉な幕間劇でしかない。典は己の死を有耶無耶にする秘法を授けられていたとはいえ、それでもあの場を生き延びることができたのは、その大きな混乱に乗じる事ができた部分が大きかった。
 先の奏状合戦の後、尊良親王を奉じた新田氏率いる朝廷軍は、尾張以東に勢力を張った足利氏に対して攻め立てて、箱根まで追い込んだ。それを京まで押し返したのが足利尊氏自らの出陣だったが、そうした劇的な大反撃を、更にまた背後からひっくり返した朝廷側勢力が、東北から進撃してきていた。
 義良親王と北畠顕家卿率いる奥州軍である。
 白河結城氏を筆頭にした奥州の勢力をまとめ上げ、瞬く間に鎌倉へと侵攻し、そこから更に僅か半月で京まで突貫した、日本史上最も美しく暴力的で迅速だったあの行軍が引き起こした大混乱は、実はこっそりと典の命を救った。……自分たちのありきたりな内輪揉めよりもよほど複雑怪奇な事態を、外の世界の人間たちは起こし続けていた。
 それから数ヵ月間、東に西にと、この列島全土では勝った負けたがひっくり返り続けていた。
 どうにか生き延びた典は半年ほど身を隠したが、潜伏生活の中でも懸念するのは、かつて自分が率いていた一党の生き残りたちだった――彼らの一部は、自分と同じように生き延びているに違いないという確信があった。
 しかし残党狩りは典一人の手には余る仕事で、彼女には頼れる勢力も無かった。そこであの胡散臭い賢者様に頼る事は癪だったが、世間に散らばってしまった残党の始末を飯綱丸と自分がやるという事を提案すると、即座に興味を持ってくれて、実際に良いように支援してくれた。
 そして今日、飯綱丸はその秘密の任務に就くために下山する。典はそれを待っていた。
「でも、叱られるだろうなぁ……」
 と呟く。
「結局、残党の討伐っていうのもただの名目、本心ではあの方と一緒にいたいっていう、私のわがままなわけで――ぐえ」
 風向きが変わってころころと戻ってきた紙の牛車は、典を轢き潰して道のわきの小川に転げ落ち、あっという間にふやけて溶けてしまう。
「痛ったぁ……私、なんか悪い事したかなぁ?」
「したかしていないかで言えば、私と一緒にたくさんやってきたと思う……」
 背後から声をかけられて、典ははっと振り向いた。
「というのは冗談で、たぶん、さっきのヤクジン様をじろじろ眺めていたんでしょ。いい? ああいうのを見かけた時は、人差し指と中指を交差させて……」
「いつの間にいたんです?」
「“本心ではあの方と一緒にいたいっていう”……云々」
 従者は顔を真っ赤にした。
「あの……なんと言えばいいか、お久しぶりです」
「挨拶の前にえんがちょしていい?」
「いま再会したばっかりなんですけどぉ!」
 飯綱丸は従者をからかって、抱きつかれたところで優しく言った。
「……ねえ、結局私って、テングの組織なんかどうでもいい、利己的な女だったんだと思う」
「それは私も一緒です。私だって、あなたがいなければ何もない女でした」
「嬉しいわ」
 と、従者の頭に掌を優しく乗せる。
「昔言ったでしょ? “いっそこんな山から逃げるか、お前と私とで”……みたいな事を」
「言いましたねえ」
「今度は逃げるつもりは無いけれど、代わりに待っているのは厳しい戦いよ。一緒についてきてくれる?」
「最後までお付き合いしますよ」

「……それでね、私はかねてから、全ての公式文書に“菅牧典”って署名していたわけです。今後、“管牧典”を名指ししての追討令が出たとしても、それでどうにか言い抜けできるんじゃないかっていう保険で」
「せ、せこい……」
「私は立場が弱かったですからね。なんでも幸いになる事はしておくべきだと思います」
 そう言いながら、二人は街道をあえて外れた山道を歩き、やってきた通り雨を避けるために寺院の軒下に隠れていた。
「こうした辺鄙な場所は、山伏や修験者が使っている道を利用した方が早い」
「あなたが教えてくれた事でしたね」
 典はそう言いながら、手を伸ばして竹筒の中に貯めていた雨水で、喉を湿した。
「……おそらく、生き残った者は数人程度でしょう。しかし奴らはどんな動きをやらかすかわからない。北朝側につくのか南朝側につくのか、それとも両方を引っ掻きまわすのか、妖怪の山に残っている同調者に地下組織を作らせる計画もありましたし、あの山とは別の妖怪の勢力と連絡をつける事もしていました」
「この一年間、こっちだってあんたらを滅ぼして安心しきっていたわけではないわ。ただでさえ完全な掃討には失敗している。山の中の憂いは丹念に潰したはず」
「ですがねえ……まあ、どうなるかわかんないですよ。足利将軍の襲撃計画もあったりして……もう、みんな先鋭化しちゃって。そのうちそれぞれが自分の信条に従い、独自の事を行い始めていました」
「そんな調子だと、どのみち私でも制御しきれなかったでしょうね」
 雨が止んだ。
「行きましょう」
「……私だって、この一年間ずっと潜伏していたわけではありません。誰が死んで誰が生き残ったかに見当をつけて、それまでに各々が築いていた連絡網を辿ることくらいはしていました」
「へえ、それで?」
「田楽役者やら僧兵やらに身をやつして京で活動を続けている者が、少なくとも数名。そいつらの足はついています」
「やるじゃない」
「えへへ」
 そういえば、と従者は山道を歩きながら言った。
「結局、龍神の予言なんかどこへやらで、足利将軍の世になっちゃいそうですね」
「足利ねえ……元々北条と姻戚を繋いでいた大族だし、今の正室の赤橋流北条氏は極楽寺嫡流、極楽寺流は比企氏の血を引いているから、この嫡流を無事に引き継いでいけば、ぎりぎり藤原秀郷流の血を繋いではいる……という判定でいいのかしら?」
「うっすい線ですねえ……」
「どうせ大本になるものが秀郷一人なんだから、近親婚でも繰り返さなければ血が薄まるのはしょうがないでしょ。重要なのは、そこまで血を絶やさずに繋げられたという事実よ。男系女系なんてものを気にするのは、人間くらいのものだし」
「でもなぁ……うん、納得いかない」
「じゃあ別の可能性でも言いましょうか」
「ふむ?」
「足利氏は下野国足利荘から出でた事からそう称されるけれども、かつては彼らと別に、藤姓足利氏が存在したのよ。こちらはれっきとした藤原北家秀郷流」
「……龍神のバカが源姓と藤姓を間違えた?」
「あんたそのうちバチが当たるよ」
「言っても許されますよ。余計に納得いきませんもの」
「いいじゃない。それに家は滅びても、人は誰かが残るものよ。さっき言った藤姓足利だって、滅びた後もどこかで仕事のできる奴が、うっかりご近所の足利なり、小山なり……または新田なりの被官になっていたりして、それでうまい事血を残せているのかもしれない。それで」
「それで?」
「そんな由緒も定かで無くなった連中が武士の主流になって、集権化に失敗した足利将軍家に取って代わって軍事政権を樹立する」
「……ええー」
「……かもね」
「かもかもかもって、あなたは相変わらずかもが多い話をしますねぇ……ええと。ところで……ここ、どこでしたっけ」
「三河国加茂郡、松平郷だってさ」
 典はかぶりを振った。
「ま、そんなどうとでも言えるような予言に振り回されない方がいいって事か」
「少なくとも妖怪はね」
「そうでなくても、ここ数十年の私たちは、変な思想やら幻想やらに振り回されっぱなしで……」
「夢を見ているのよ、みんな」
「特大の悪夢ですがね」

 それから数十年、飯綱丸と典が妖怪の山に帰還を果たすまでには様々な冒険があったが、それでも戦いにばかり明け暮れていただけではない。この時代――南北朝時代はうんざりするような戦乱の中にあったが、同時に商業がこの国の在り方を動かす力を持ち始めた時代でもあった。この数十年の間、二人は人の世に紛れて金貸しや米の仲買人、投機などを行いもした。飯綱丸自身、元々殖財に関心があるたちだったし、このあたりは生来の山師的気分が抜けなかったとも言える。
 二人が上洛した直後の京は、足利尊氏の敗退と再起に彩られた二度にわたる京都合戦の爪痕も痛々しく、その混乱の中で生きる人間たちに容易く紛れ込む事ができたが、同時にそれは、残党の追跡が容易でない事も予想させた。
 実際、典が見当をつけていた潜伏先は全て空振りだったし、そこでかえって襲撃を受けさえした。
 やがて仁和寺の六本杉で行われたテング評定に潜入し、自分たちが追う残党が、更に強大な妖怪たちの勢力と繋がっている事を知った。
 炎上する清水寺の境内ではかつての仲間たちを追跡し、四条河原の勧進田楽――後に桟敷崩れの田楽として名高いあの大事件でも猿楽役者に紛れ込み、足利将軍の暗殺を計画していたテングたちと大立ち回りを演じた。
 また未来記を偽造して将来の内乱を警告したりもしたが、これはかえって人間たちに利用されて、大いに内容を歪められてしまった。
「当初の予定とはだいぶ趣きが違ってきていますけれど、これはこれで私たち妖怪が世の中をひっかき回していると言えるんじゃないですか」
 あるとき典がぽつりと言ったが、愉快そうな調子では無かった。
「でも……思ったよりつまらないですね、これは」
「人間の情勢に振り回されているだけだからな」
 飯綱丸は言った。
「少なくとも、この戦乱は妖怪としての自信を持てるような戦いではなくなったわ。全ての怪しい力が人間たちの力にすり替えられつつあって、かつて私たちにあった怪力乱神さえ連中の与力にすぎなくなっている。結局、私たちはキレを失いつつあるのさ」
 そんな後ろ向きな予言を立証するかのように、一連の任務もあっけなく終わる。数十年の間に彼女たちの敵は人間と交雑し、代を経て、あぶくのように人々の群れの中へと消えてしまったのだ。
 彼女たちの追跡行はそこで終了した。

* * * * *

 妖怪の山に復帰した飯綱丸龍は、ひっそりと勲功を賞されて、ふたたび大天狗として妖怪の山の重職についた。
 その列にまぎれて菅牧典が許されているのは、彼女たちへのささやかな恩賞であっただろう。
当初は典ちゃんのケツをしばき倒すために書き始めたのに全然しばけませんでした。
太平記の原文は日本語版ウィキソースから引用しております。
私の推し親王は懐良親王です。
あともうちょっと言う事があった気がしますが忘れたのでそれほど大切ではなかったのでしょう。思い出したら書きます(たぶん書かない)。
かはつるみ
https://twitter.com/kahatsurumi
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コメント



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3.100東ノ目削除
めぐつかコンビは政治や暗躍が似合いますね。面白かったです
4.100へっぽこプレイヤー削除
ざっと七百年前ですか。それぞれの思惑を胸に幻想郷古参組の蠢く様が大変面白かったです。
龍と典コンビの暗躍のみならず、さとり姉妹の策謀や鬼の地下への潜行も上手に織り込まれていて読み応えがありました。サードアイが開いていた頃の聡明なこいしが良いですね。
5.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。時代の変化に乗じて山を動かすために策を巡らせる二人が良かったです。
完全に信頼はできないけど有能なつかさと、決してうろたえずにどんと構えながらも常に状況を打破するべく動く龍の関係性が素晴らしく、相棒という言葉が似合う気がします。
二人の台詞回しも子気味良く、自分は歴史に疎いのですが享楽的に読み進めることができました。途中途中やラストシーン付近の並々ならぬ好きの感情がついついが漏れてしまう(隠そうともしていない気もしますが)つかさや、捕らえられて諦念を零している龍のシーンがお気に入りです。
また周囲を固めるほかの登場人物たちも自分のため、もしくは大義のために動くさまも群像劇のようで楽しかったです。鬼がさとりたちを連れて地底に潜るまでの経緯なども流れるようにすっと収まって、現代の幻想郷の形に近づいていくまでのパズルのピースが埋まったような心地よさがありました。
妖怪が妖怪らしさを失いそこにあきらめを感じつつも、世の中をかき乱すために奔走する二人の暗躍はこれからも続くのだろうなとそんなふうに思いました。
6.100竹者削除
正直に言って何がなにやらわからなかったのですが、熱さが全体を支配していてその熱さがとてもよかったです
7.100のくた削除
ラスト、というか作品後に向けて全てが収束していくのが凄い
そしてそれはそれとしてめぐつか二人の関係も
8.100夏後冬前削除
夢中で読みました。自分は歴史に全く明るくないですが、それでも夢中になりました。
9.100南条削除
面白かったです
これぞ歴史のサイドストーリーといった素晴らしい物語でした
乱れに乱れた鎌倉末期の世で揺らぐことなき絆を見せた飯綱丸と典が最高でした
10.100めそふ削除
ぶっちゃけ何を書いてあるか大半わかんなかったし、読むの疲れたんですけど、時代の流れや妖怪の力が人間に飲まれていく儚さに対する抵抗の描写が凄まじかったです
12.100名前が無い程度の能力削除
この物語において(もしくは作者様のクロニクルにおいて)歴史というものはもはや敵に近いのかもしれない、とさえ感じました。無慈悲に流れ続ける歴史の中で、不本意で理不尽な役割を与えられ(しかもそれを取っ換え引っ換えされ)ながらも、その枷の中で精一杯もがき、魅力的に生きようとする彼女たちの姿は本当に切実で美しかったです。
時折現れる目を背けたくなるような残酷なシーンが描かれるのも、北条氏陥落のあと地道ともいえる事後処理の様子が描かれるのも、作品に漂う無常の雰囲気を色濃くしていて、心が締め付けられる思いでした。でも生きるというのはそういうことだよなとも考えてしまって。