お姉様がやたらめったら紅茶ばかり飲んでいる。別に紅茶を飲んでいること自体は特に不満はない。目を瞑ってお姉様の姿を思い浮かべると、想像の中のお姉様は必ずカップかグラスを持っている。だからそこはちゃんとイメージ通り。
けれど、それにしたってやたらと最近目についてしまう。食堂に行くと大抵、ポットの蓋がカタカタと鳴る音や、グツグツとお湯が沸いている音がする。咲夜は四六時中、屋敷の廊下を行ったり来たりして、すれ違うたびにトレイにティーカップとかティーポットを必ず載せている。彼女は物音一つ立てずに私に向かって丁寧に頭を下げる。
でもその程度なら気にならなかったかもしれない。私がここまで神経質になっているのには訳がある。
この前私は見てしまったのだ。お姉様が厨房に態々立って紅茶を淹れている所を。中庭からガラス越しにチラりと見ただけだった。しかし他ならぬ私がお姉様の姿を見間違える筈がない。お姉様は私がちょっと目を離した隙に自らの手を汚すほどの紅茶大好き吸血鬼になってしまったのだ。
自分以外の変化について、私は割と頓着しない方だと思っていたのだけど、どうやらそうでもないらしい。この原因には、思わず霊夢に言った「全てを破壊する目」に続くあれこれにあれこれに関係していると思えてしまう。
私は、自分の言ったことにクヨクヨと落ち込むパチュリーみたいな性質は無いと思っていたのだけど、実際、お姉様に対する理想像に引っ張られている訳だから、例の自己嫌悪というやつが、封印したいあの発言を持ち出してきて私に催眠術をかけたのだ。つまり、結局何が言いたいのかというと全て隠岐奈が悪いということ。
ベッドの上に横たわりながら紅茶の摂取量が増えた理由をあれこれ想像を働かせたのだけど、結局考えるのが馬鹿らしくなって、この前の夕食の時に聞いてみた。
「ねえ、お姉様、近頃私、お姉様が紅茶を飲んでるところしか、見た記憶が無いのだけど」
すると、お姉様は「そんなこと無いでしょう」と言って、表情を崩さずに(お姉様は基本的に笑みを浮かべている)手に持っているワイングラスを傾ける。
「もう、茶化さないでよ。そんな意味で言ったんじゃないってこと、分かってる癖に」
「ウフフ、ごめんなさいね。でも本当にこれといったきっかけは無いの。フランから見て私の飲む量が増えたのなら、貴方は観察力が鋭いから実際そうなのでしょうけど、でも私自身、正直に言うと言われるまで気がつかなかったわ。だから理由を聞かれても答えようがないのよ。強いて挙げるとしたら、先週の舞踏会でいい茶葉を貰ったぐらいかしら。そうだ、貴方も一杯飲んで飲んでみれば何か分かるのではなくて? 私とは真逆で、ここ最近貴方は全く飲んでいないでしょう」
お姉様はそう言うと、ワングラスに口をつける。「言われてみればそうね、じゃあとりあえず、一杯頂こうかしら」流されるままに、私はそう言ってお姉様の意見に従おうとした。けれど、その言葉を口から吐き出そうとしたら、違和感の棘が喉に引っかかってしまい、私は口をつぐんでしまう。
その正体はお姉様の最後に言った「貴方はここ最近全く飲んでいないでしょう」にあった。一体どうして態々「貴方は」なんて強調するような言い方をしたのかしら。
私は紅魔館の住人を一人ずつ頭の中に思い描いてみる。そして私は戦慄した。いつの間にか想像の中の彼女らの手の中にもすっぽりとティーカップが収まっていた。思えば、お姉様に限らず、皆紅茶ばかり飲んでいる。
咲夜はお姉様大好きっ子だから、影響されるのはしかたがない。
美鈴は仰々しい例の太極茶道にハマってからは、いつもあんな調子だ。そういえばあんなジョウロみたいな注ぎ口のポッドなんて紅魔館にあったかしら。
そして、パチュリーをば。
今日図書館へ本を借りに行ったのを思い出してみると、彼女は幽霊のような青白い細い指先でカップの取っ手を摘まんでいた。そもそも考えてみると、彼女は動かない大図書館と呼ばれる程度には運動を軽蔑していて、常に机にかじりついている。そして、この軽蔑と紅茶との関係性については、先日私が偶然開いた医学書が教えてくれた。
その本の題は「家庭の医学」というもので、そこで私は「エコノミークラス症候群」という奇妙な病気を知った。家庭の医学によるとその病気は、長い間同じ体勢でじっと動かないと罹ってしまうそうだ。脚に血の塊ができてしまい、それが血管を通り肺へ向かい、最終的に呼吸ができなくなって死んでしまう。
注目して欲しいのはその理不尽な病気の予防方法の項目。
(1)時々軽い体操やストレッチを行う。
(2)ゆったりとした服装をし、ベルトをきつく締めない
(3)十分こまめに水分を取る
(1)の運動をするのはパチュリーには無理だとして、その他の対策のゆったりとした服装、こまめな水分補給というこの二つは驚くほどパチュリーの特徴と合致する。あの最適化礼賛魔女が紅茶症候群に罹るのも当然だと言える。
ともあれ、ここの住人は私以外皆紅茶に支配されている。私だけは地下室でくらしていたおかげで被害を免れたみたい。
次の週末、私はこっそり館を抜け出して博麗神社へ向かった。
あんまり目立つのは嫌だったので地上から歩いて行こうとしたのだけど、こうしたのんびりしたのも私の性に合わなかった。木々に囲まれたぬかるんだ道を抜け、霧が晴れたところで、私は進んで不便なことをするのに耐えられなくなって空を飛んだ。
かばんに毛布を入れてきて正解だった。というか、もっと暖かい恰好をして出ていけばよかった。冬の初めは一番やっかいだと思う。真冬時で絶対寒いと分かっているなら、それなりの防寒具と覚悟で身を固められる。けれど、この寒いと凄く寒いの中間点、釘の打てない凍ったバナナ的な寒さは判断力を鈍らせる。
初めは朝の新鮮な空気だとか、冬特有の透明がかった匂いとか、ちょっとした冒険心のスパイスのおかげでありとあらゆるものを楽しめる余裕があったのだけど、暫く飛んでいると顔に向かって吹き込んでくる風でそれどころじゃなくなった。
毛布に包まっても前が見られないと真っ直ぐ飛べないから、隙間を作って覗き込む。すると、その穴目掛けて風が冷気を携えて突っ込んでくる。この憎らしい隙間に硝子窓を嵌め込めたらどれだけ素晴らしいだろう。いつか絵本で見た、月面歩行用の防護服が本気で欲しくなってきた。
寒さを我慢しながら人里の上を飛び越し、震えながら進んでいくと神社名物の長い石階段が現れる。両脇を枯れ木に挟まれた荒々しい石の滝は、上から人間たちを見下ろして優越を得られる人里とは打って変わって、思わず襟を正してしまう。この妙な圧力の正体は一体何だろう。こうした種類の圧力は決まって徹底的な不変の末に現れるものだけど、毬みたいにころころと季節や年月に振り回される不確かなものを神聖視してしまうのは、不思議なことに思える。
博麗神社につくと、霊夢は竹箒を動かして境内を掃除していた。挨拶代わりに不意打ちでもしてやろうと意気込んでいたのに、あまりにも無防備だったからすっかり毒気をぬかれてしまった。上空からだと特に落ち葉が散らばってるようには見えず、何となく義務的に見えた。私は何の茶目っ気も出さずに黙って着地した。
霊夢は何ら驚いた様子もなかった。雀か何かが羽根を休めに来たといった風に「あら」と一言。当然私としては物足りない。しかし、さすがに私が態々やって来たことに霊夢は何かしらの大きな事件性を悟ったらしい。彼女は奥の居間に私を呼んだ。
霊夢は私を煎餅みたいな厚さの座布団に座らせると「お茶でいれてくるわ」と襖を開けて消えてしまう。私は一人残される。
霊夢には悪いけど殺風景な部屋だった。今風に言えばミニマリズムに殉じていた。可愛らしいものと言えば、本棚に置いてある赤いポストの貯金箱と、本を重しに垂れ下がっている風呂敷の渦巻模様だけ。本棚には巻数の飛んだ江戸川乱歩全集と小泉八雲と泉鏡花の本が数冊、流行作家のアガサクリスQの大型本が一冊置いてある。残りは手ぬぐいで黄土色の服を着せられたティッシュ箱と、茶葉の空き缶。そして日本酒のボトルが一本大事そうに飾ってある。季節外れのトマトみたいな色の四角い箱に力強い文字で越乃寒梅と書かれている。
ちょっと退屈し始めたところで霊夢が湯呑をお盆に乗せて戻ってきた。
「はい、粗茶だけど」
私は頷いて、考えもなしに湯気が立ち上るそれを冷ましもぜずに流しこむ。当然、口の中は大惨事となり、危うく湯呑を落としかける。
「大丈夫?」
「……大丈夫よ」
霊夢は怪訝そうに首を傾げると、ゆっくりと冷ましながらお茶を飲む。何だか気恥ずかしくなる。
「それで、どういう用事でうちに来たのよ」
「相談したいことがあるのよ」
「まあ、そんなところだと思ったけど。けれど何だか只事ではなさそうね。態々私のとこに来たってことは魔理沙にも相談できないような内容なんでしょ?」
「うん、魔理沙って何だかんだパチュリーと仲いいから……」
私は今のお姉様の状況や紅魔館の現状について話した。我ながら上手く説明できたと思う。人に何かを説明する時、私は説得力を自分の感情でかさ増ししようとか考えちゃうのだけど、今回は飛んで来る最中におおまかな話の筋道を考えてきたのでスラスラと説明ができた。
だけど、私の懇切丁寧な話を聞いても、霊夢は上手く飲み込めなかったみたいだった。話の最中、霊夢は過って舌でもかんだような顔をして、居心地の悪そうに指先で湯呑に描かれている猫のシルエットをなぞりながら聞いていた。
私の説明が終わると、霊夢が言った。
「で? それの一体何が問題なのよ。単にあいつが紅茶党になったってだけじゃないのよ」
「何って……、今の話聞いていたでしょ! お姉様が自分で紅茶をいれるのよ、吸血鬼のくせして!」
自分で思っていたより大きな声が出た。霊夢は当然として私自身も驚いてしまった。そして沈黙。電気時計の針の音が余計に静寂を目立たせる。大して飲みたくないのに、私は出されたお茶に口をつけようとする。その俯く動作の最中に霊夢の顔を盗み見る。彼女は本棚の方を向いていた。どうやら探偵小説のタイトルを眺めているみたいだった。私も何となくそちらに目をやろうとすると、その前に霊夢がオホンとあからさまな咳払いをして言った。
「まあ、何となく、あんたが抱いている不満の正体が分かったわ。要するに、レミリアにもっと吸血鬼らしいことをしてほしいんでしょ。もっと”推理”してみると、紅茶を飲む行為自体が、その紅茶の赤色を血液に見立てているようにあなたには感じられて、それが何か吸血鬼風の一種の妥協な気がして面白くないんでしょう」
霊夢はそれだけ勢いよく言ってしまうと、再び黙ってしまう。その表情に僅かに満足の色が見て取れる。
態々相談に来ておいて不真面目かもしれないけど、私は嫌な気分になった。私が二三日かけてあれこれと考えていたのをこうも簡単に結論づけられるのが嫌だった。そして霊夢の言っていることについて反論できないのが私の嫌に拍車をかけた。
「それじゃあ、解決方法は?」
私は自分の内面を悟られないよう、なるべく平坦に言った。
霊夢は待ってましたとばかりに嬉しそうに自分の肘を机に上に置いて手のひらを合わせると、そこに顎を乗せて言った。
「あんたは姉が紅茶を飲んでるのが気に入らない」
「まあね」
「でもワインを飲んでいるのは気にならない」
「まあお姉様っぽいしいいかなって」
「レミリアはワインをよく飲むの?」
「さあ? 人並程度だと思うけど」
霊夢は顎髭でも生えているかのように、人差し指と親指で摘まむような奇妙な仕草をする。
「ふうん。私が思うに……、いきなり紅茶を止めさせるのは難しいと思うから段階を踏むべきだと思うの。ということで今できる現実的な解法はレミリアのワインを飲む量を増やすことね。胃の容量っていうのは決まっているから相対的に紅茶を飲む量が減るでしょ? まあ、一番手っ取り早いのはあなたが我慢することだけど」
霊夢はそう言うとおもむろに机の上の煎餅に手を伸ばした。私はそれを聞いて素直に感心した。
その後、人里に新しく出来た店だとか何とか適当な話をして私は帰ることにした。
玄関前まで付いて来た霊夢に対して、私はふと、何かお礼をしたいと思ってポケットをまさぐってみた。そしたら飴玉が二つ出てくる。一瞬迷ったけどレモン味の方を霊夢にあげて、残った方を素早く口の中に放り込んだ。
「それじゃあ」
「うん」
声を出すとハッカの冷気が鼻の奥をくすぐった。
私は、霊夢のアドバイス通りにワインのボトルを持って、廊下の角に置かれた肘掛け椅子に腰をおろしている。手元の電気スタンドのオレンジが鬱陶しくなって、ダイヤルを捻って光を弱める。サイドテーブルの上には、図書館の中央に置かれたあの意味ありげな水晶よりも透明なワイングラスが置かれている。
まさか人里の酒屋にワインがあるとは思わなかった。そのワインボトルは高く積まれた米俵の隣にひっそりとキノコみたいに生息していた。結構埃をかぶっていたあたり、店主にすら忘れられていた。値段はびっくりするくらい安かったけど、ワインは古ければ古いほどいいという話なので、お得な買い物ができてよかったと思う。
ワインの注ぎ方は咲夜が注いでいるのを見て覚えた。いかにも絞め殺してくださいと言わんばかりの細い注ぎ口の方ではなくて、ボトルの底を手のひらで覆うように持つのが正しいみたい。こうやって持った方がずっと、さりげなさを演出できるし、そのさりげなさこそが優雅であることを私は知っている。機能的な話は興味ない。
私はお姉様がこの廊下を通るのを今か今かと待っていた。水曜日と金曜日の十六時頃、お姉様は決まってこの先にある階段を下りて図書館へ向かう。目的はいわゆるアフターヌーンティーってやつの為。お姉様とパチュリーの仲がいいのは知っているけど、二人がどんな話をするのかは想像できない。二人とも聞き上手というのが私のイメージ。
さて、二十分ぐらい待っていると、漸くお姉様が咲夜と一緒にこっちに向かって歩いてくるのが見えた。私は限りなくさりげない風に、カモフラージュの為に持ってきた動物図鑑に目を落とす。二つの気配が近づいている。私は二人を意識しているのを気取られないように、ページいっぱいに引き延ばされたカバの不細工な顔に集中する。目線を気にしすぎたせいか、写真のカバの鼻の孔が巨大な目玉のように見えてくる。それでも私はじっと我慢する。
足音が聞こえるくらい近づくと、私はワイングラスに手を伸ばして、中身で軽く唇を濡らした。そしてまた、図鑑の写真を眺めながら、足音に耳をすます。
音を聞くに、私の前でちょっと歩調が緩まったようだけど、直ぐ気を取り直したように元のリズムに戻って、そのまま私の前を通り過ぎていった。
充分時間を置いた後、私は顔をあげて辺りを見渡した。ものぐさな妖精メイドが一匹、窓際に置かれた観葉植物の葉っぱをはたきで磨こうとしていた。お姉様の姿はどこにもない。これでひとまず、私の目的は達成した。
私がやろうとしていていることは、ちょっと前に「家庭の医学」という本で知った、サブリミナル効果という科学的魔術で、あのコカ・コーラの実験の部分をそっくりワインでやろうとしている。これを一週間も続ければ、お姉様がお風呂に入っている時、ベッドでまどろみを待っている時に、ふと、私がいかにも美味しそうにワインを飲んでいる光景を思い出すに違いない。そして、その無意識の繰り返しがお姉様の行動にも作用する。するとお姉様の吸血鬼としての威厳は忽ちのうちに復活する。
多少お酒が回ってきたのもあると思うけど、私はすっかり愉快な気持ちになって、鼻歌かなんか歌いながら宙に向かって乾杯した。ちょっとワインを傾けすぎたのか、中身が少しこぼれて絨毯に落ちてしまった。
私はふと、絨毯の色がワインと全く同じなのに気が付いた。単なる偶然かもしれないけど、今の私にはこれもサブリミナル効果のなせる技だと確信が持てた。この計画はきっと上手くいく。
十六夜咲夜に頼めば、どんなものでも調達してくれる。それこそ、ケーキでもミルクでも猫でもカエルの剥製でもオシロスコープでも。
一番びっくりしたのは、いつか遊びで金の延べ棒を頼んだ時だ。何でも地下室に運んでくれるものだから、ちょっと困らせてみるつもりで言った。だから半年くらいたって、彼女が金の延べ棒を朝食のベーコンエッグと一緒に持ってきた時は本当に驚いた。一体どうやってと問い詰めると、なるほどパチュリーがこの前錬金に成功したらしい。咲夜も咲夜ならパチュリーもパチュリーだ。
そんな訳だから、私が安心して彼女に血液の調達を任すことができたのは言うまでもない。じゃあ、どうして血液が必要なのか。別に輸血に使う訳じゃない。単に普通に飲むため。つまり、サブリミナルでワインを使うのを中止して、血液に切り替えようというのが今回の思いつきの内容だ。そしてこのアイデアは今日、実行に移される。
件の紅茶廃止運動の結果については、正直言ってあまり話したくない。敗因として考えられるののは、主に二つ、頻度とインパクトの問題
私が一々舞台を整えてワインを飲んでいたから、どうしても一日に一回か二回程度しかお姉様の前で飲むことができなかった。これが一つ目。
そして最大の原因である二つ目は、私がワインを飲んでも、お姉様は特に珍しいと思わないという事実。これだとお姉様の印象に残らないから刷り込みとして上手くいかないのも当然だと思う。
そこで登場するのが今回の血液。例えばこれを会話中に私が突然飲みだしたらどうだろう。お姉様じゃなくたって頭を殴られたようなショックを受けるに違いない。そもそもかんがえてみれば、ワインより血液の方がよっぽど吸血鬼らしい。何故初めからこっちにしなかったんだろう。
咲夜が血液を持って来たのは私が頼んで僅か十五分後だった。
ティーカップ二つ分くらいの大きさの試験管にあの赤いのがたっぷり詰められていて、コルクで栓がしてある。管に張られたABと書かれたシールは日光で少し黄ばんでいる。その下にはまだ新しい人参の形を模した親指大のシールが。
「いますぐお飲みになりますか」
と咲夜が言った。
「ええ、でもちょっとだけね」
私はそう言って、食堂に向かって歩き始めた。
次々と私の前に並べられる皿やスプーンを眺めながら、私はぼんやりと、最後に血を飲んだ時のことを思い出そうとした。それくらい、長い間飲んでいない。
血の味は嫌いじゃない。でも、血液とオレンジジュースを並べて出されたら多分オレンジジュースの方を選んじゃうと思うし、血の滴るステーキとケーキを並べて出されても、多分私は甘いほうを選んでしまう。けれど、それはお姉様も知っていることで、だから例の計画も効果的になる。
「お待たせしました」
咲夜の言葉で私は現実に引き戻された。いつの間にか、テーブルの上に花瓶が置かれ、真っ白な菊の花が一輪だけ飾られていた。
スープ皿を満たしているその赤色の液体に、私はスプーンを沈める。血はとってもサラサラで味にも期待が持てる。私はそれをゆっくりと持ち上げて、なるべく音を立てないよう丁寧に口へと運んだ。
「不味っ」
途端、思わず口走ってしまう程、酷い味が口一杯に広がった。自分が記憶していたものと比べて全然甘くなかったし、記憶の中の、お酒を飲んだ時の時のようなあの幸せな高揚感も全然やって来なかった。
私は湧き出る嫌な気分を我慢しながら、水薬を飲むような調子で、なるべく舌に触れる面積を少なくするよう勢いよく飲み込んだ。
香りは良い。鉄の香りはストイックさが感じられて好きだし、血の香りには何かドラマティックなことが始まるという予感を与えてくれる。ただし、味がひどすぎた。何て言うか、味がなくて口当たりの悪い麺つゆみたいな。この鼻と口が感じる快楽の極端な乖離が、お互いを逆方向に引っ張り合って私の気分をぶち壊した。
「咲夜、口直し、何か飲み物!」
私は厨房に向かって叫んだ。
しかし、その中から姿を表したのは咲夜ではなくお姉様だった。そのてのなかにはティーポットがしっかりと治まっている。
「ちょうど今、いれていたのよ。飲むでしょ?」
助けを求めて辺りを見渡してみる、けれど直ぐに意味がないことを悟り、私は観念して頷いた。
お姉様は慣れた手つきで、テーブルに置かれたカップに均等に紅茶で満たしていった。そして次に砂糖の壺を開けてスプーンでたっぷり入れていく。
「さあどうぞ」
私はさっきの血液を飲んだ要領で、中の紅いものを一気に飲み干した。
『付録:紅茶のいれ方講座』
ついこの前ならば、咲夜に茶葉の種類とお菓子の種類を注文してお終い。時々、彼女が全部決めることもある。彼女は顔色を伺うのが尋常なく上手なので、任せておけばベストな一杯を飲むことができる。
けれども、最近は自分でいれるようにしている。何回やっても咲夜がいれたのと比べても勝てないのに。それでも私は選択肢を増やすために自分でいれる。
まず水選び。図書館で見つけた本には、紅茶をいれる際に一番こだわるべきは水だとかなり強い語調で書いてあった。成る程、紅茶は飲み物でとどのつまり水分なんだから、この言い分は正しい。だけど残念なことに、幻想郷だと水に関しては殆ど選択肢が無くなってしまう。実は、雨水が川の水より勝っているという話は長いこと生きていても聞いたことない。紅茶に使うお湯は沸騰した直後のものを使う。それさえ守っていれば特別水に関しては、こと幻想郷においては気を遣う必要はない。
次に食器選び。これは非常に重要で、適当な食器を選ぶと、神聖な(こんな形容は吸血鬼である私が使うべきじゃ無い気がしてきた)ティータイムが台無しになるから注意がいる。 ティータイムというのは、幸福な時間なのだから、その時間の敷物に載ってる全てのものを楽しまなければならない。美味しい紅茶を飲むことだけに執心すると、紅茶の国の法律に触れてしまう。
また、私みたいな通はポットの材質にもこだわる。一番やっちゃいけないのは鉄が使われているポットで紅茶をいれること。これで作る紅茶はどういう訳か、若干黒っぽくなる。理由はよく分からないからおそらく魔術的な力が働いているのだと思う。
一時期は銀のポットでいれたものを飲んでいたけど、最近はもっぱら陶磁器。これでいれた紅茶の方が舌触りが滑らかな気がする。ちなみに、この滑らかな感じは陶磁器の色がどれほど白に近いかに比例する。
ティーカップはその日の気分で変える。だけど、見る楽しみの主役はあくまで紅茶の紅なので、カップの内側はその色が映えるよう白じゃないといけない。
茶葉の種類は何でもいい。あんまりこういう言葉は誤解を生むから使いたくないのだけど、それでもどの茶葉にもそれぞれ違った良さがある。けれども、強いて一番好きなものを挙げるとすると、私はアールグレイと答える。ただし、これは七周くらい回って行き着いた結果なので、別に安易に王道に飛びついたとかそういうご無体な話じゃない。無理に理由をつけてみると王道と呼ばれるものにはそれなりの理由があるという一言に落ち着いてしまう。
一緒に食べるお菓子について考えなければ、たたこれだけ用意すれば紅茶がいれられる。
では次にその方法。
一.水を沸騰させる。この時、カップとポットにお湯を入れてあらかじめ暖める。これをしないと、紅茶が早く冷めてしまい、幸福なティータイムが直ぐに終わる。ぬるい珈琲が目を覚ます為の単なる儀式と化するように、同じようにぬるい紅茶に値打ちはない。
二. ポットにティースプーン一杯を一人分として人数分茶葉を入れる。この時決して二人分以上作ること。部屋に引きこもっていない限り、ほぼ百パーセント誰かに紅茶を奪われるし、そうでなくても、飲んだ後、後で絶対もう一杯飲みたくなるから。
三. 沸騰したお湯をポットに入れて蒸らす。蒸らす時間は非常に大切なので、魔法的調合のレベルで厳密な時間精度が要求される。この時間は茶葉の細かさによって左右される。取りあえず、細かいのは三分、大きいのは四分といった基準で様子を見てみるといい。後は自分の好みに合わせて細かく時間を調整する。ポイントとして、ポットにお湯を注ぐときできるだけ勢いよく注ぐこと。
四. 注いだ後、ポットの中をスプーンで一回かき混ぜる。闇雲にぐるぐるかき混ぜる人がいるけど、あれはやりすぎ。過剰な保険はさりげなさ、ひいては優雅さから遠のいてしまう。
五. 茶こしをカップの上に持ってきて、ポットを傾け、作った紅茶を回し注ぐ。今が紅茶のベストな状態なので、後でとって置こうなんてくだらない打算は考えずに、最後の一滴まで注いでしまう。
これでお姉様のいれたものより美味しい紅茶が完成する。未だに邪道だと思ってしまうけど、大抵砂糖もいれる。ミルクをいれると、紅茶と牛乳、どっちを飲んでるか分かんなくなるから絶対いれない。
けれど、それにしたってやたらと最近目についてしまう。食堂に行くと大抵、ポットの蓋がカタカタと鳴る音や、グツグツとお湯が沸いている音がする。咲夜は四六時中、屋敷の廊下を行ったり来たりして、すれ違うたびにトレイにティーカップとかティーポットを必ず載せている。彼女は物音一つ立てずに私に向かって丁寧に頭を下げる。
でもその程度なら気にならなかったかもしれない。私がここまで神経質になっているのには訳がある。
この前私は見てしまったのだ。お姉様が厨房に態々立って紅茶を淹れている所を。中庭からガラス越しにチラりと見ただけだった。しかし他ならぬ私がお姉様の姿を見間違える筈がない。お姉様は私がちょっと目を離した隙に自らの手を汚すほどの紅茶大好き吸血鬼になってしまったのだ。
自分以外の変化について、私は割と頓着しない方だと思っていたのだけど、どうやらそうでもないらしい。この原因には、思わず霊夢に言った「全てを破壊する目」に続くあれこれにあれこれに関係していると思えてしまう。
私は、自分の言ったことにクヨクヨと落ち込むパチュリーみたいな性質は無いと思っていたのだけど、実際、お姉様に対する理想像に引っ張られている訳だから、例の自己嫌悪というやつが、封印したいあの発言を持ち出してきて私に催眠術をかけたのだ。つまり、結局何が言いたいのかというと全て隠岐奈が悪いということ。
ベッドの上に横たわりながら紅茶の摂取量が増えた理由をあれこれ想像を働かせたのだけど、結局考えるのが馬鹿らしくなって、この前の夕食の時に聞いてみた。
「ねえ、お姉様、近頃私、お姉様が紅茶を飲んでるところしか、見た記憶が無いのだけど」
すると、お姉様は「そんなこと無いでしょう」と言って、表情を崩さずに(お姉様は基本的に笑みを浮かべている)手に持っているワイングラスを傾ける。
「もう、茶化さないでよ。そんな意味で言ったんじゃないってこと、分かってる癖に」
「ウフフ、ごめんなさいね。でも本当にこれといったきっかけは無いの。フランから見て私の飲む量が増えたのなら、貴方は観察力が鋭いから実際そうなのでしょうけど、でも私自身、正直に言うと言われるまで気がつかなかったわ。だから理由を聞かれても答えようがないのよ。強いて挙げるとしたら、先週の舞踏会でいい茶葉を貰ったぐらいかしら。そうだ、貴方も一杯飲んで飲んでみれば何か分かるのではなくて? 私とは真逆で、ここ最近貴方は全く飲んでいないでしょう」
お姉様はそう言うと、ワングラスに口をつける。「言われてみればそうね、じゃあとりあえず、一杯頂こうかしら」流されるままに、私はそう言ってお姉様の意見に従おうとした。けれど、その言葉を口から吐き出そうとしたら、違和感の棘が喉に引っかかってしまい、私は口をつぐんでしまう。
その正体はお姉様の最後に言った「貴方はここ最近全く飲んでいないでしょう」にあった。一体どうして態々「貴方は」なんて強調するような言い方をしたのかしら。
私は紅魔館の住人を一人ずつ頭の中に思い描いてみる。そして私は戦慄した。いつの間にか想像の中の彼女らの手の中にもすっぽりとティーカップが収まっていた。思えば、お姉様に限らず、皆紅茶ばかり飲んでいる。
咲夜はお姉様大好きっ子だから、影響されるのはしかたがない。
美鈴は仰々しい例の太極茶道にハマってからは、いつもあんな調子だ。そういえばあんなジョウロみたいな注ぎ口のポッドなんて紅魔館にあったかしら。
そして、パチュリーをば。
今日図書館へ本を借りに行ったのを思い出してみると、彼女は幽霊のような青白い細い指先でカップの取っ手を摘まんでいた。そもそも考えてみると、彼女は動かない大図書館と呼ばれる程度には運動を軽蔑していて、常に机にかじりついている。そして、この軽蔑と紅茶との関係性については、先日私が偶然開いた医学書が教えてくれた。
その本の題は「家庭の医学」というもので、そこで私は「エコノミークラス症候群」という奇妙な病気を知った。家庭の医学によるとその病気は、長い間同じ体勢でじっと動かないと罹ってしまうそうだ。脚に血の塊ができてしまい、それが血管を通り肺へ向かい、最終的に呼吸ができなくなって死んでしまう。
注目して欲しいのはその理不尽な病気の予防方法の項目。
(1)時々軽い体操やストレッチを行う。
(2)ゆったりとした服装をし、ベルトをきつく締めない
(3)十分こまめに水分を取る
(1)の運動をするのはパチュリーには無理だとして、その他の対策のゆったりとした服装、こまめな水分補給というこの二つは驚くほどパチュリーの特徴と合致する。あの最適化礼賛魔女が紅茶症候群に罹るのも当然だと言える。
ともあれ、ここの住人は私以外皆紅茶に支配されている。私だけは地下室でくらしていたおかげで被害を免れたみたい。
次の週末、私はこっそり館を抜け出して博麗神社へ向かった。
あんまり目立つのは嫌だったので地上から歩いて行こうとしたのだけど、こうしたのんびりしたのも私の性に合わなかった。木々に囲まれたぬかるんだ道を抜け、霧が晴れたところで、私は進んで不便なことをするのに耐えられなくなって空を飛んだ。
かばんに毛布を入れてきて正解だった。というか、もっと暖かい恰好をして出ていけばよかった。冬の初めは一番やっかいだと思う。真冬時で絶対寒いと分かっているなら、それなりの防寒具と覚悟で身を固められる。けれど、この寒いと凄く寒いの中間点、釘の打てない凍ったバナナ的な寒さは判断力を鈍らせる。
初めは朝の新鮮な空気だとか、冬特有の透明がかった匂いとか、ちょっとした冒険心のスパイスのおかげでありとあらゆるものを楽しめる余裕があったのだけど、暫く飛んでいると顔に向かって吹き込んでくる風でそれどころじゃなくなった。
毛布に包まっても前が見られないと真っ直ぐ飛べないから、隙間を作って覗き込む。すると、その穴目掛けて風が冷気を携えて突っ込んでくる。この憎らしい隙間に硝子窓を嵌め込めたらどれだけ素晴らしいだろう。いつか絵本で見た、月面歩行用の防護服が本気で欲しくなってきた。
寒さを我慢しながら人里の上を飛び越し、震えながら進んでいくと神社名物の長い石階段が現れる。両脇を枯れ木に挟まれた荒々しい石の滝は、上から人間たちを見下ろして優越を得られる人里とは打って変わって、思わず襟を正してしまう。この妙な圧力の正体は一体何だろう。こうした種類の圧力は決まって徹底的な不変の末に現れるものだけど、毬みたいにころころと季節や年月に振り回される不確かなものを神聖視してしまうのは、不思議なことに思える。
博麗神社につくと、霊夢は竹箒を動かして境内を掃除していた。挨拶代わりに不意打ちでもしてやろうと意気込んでいたのに、あまりにも無防備だったからすっかり毒気をぬかれてしまった。上空からだと特に落ち葉が散らばってるようには見えず、何となく義務的に見えた。私は何の茶目っ気も出さずに黙って着地した。
霊夢は何ら驚いた様子もなかった。雀か何かが羽根を休めに来たといった風に「あら」と一言。当然私としては物足りない。しかし、さすがに私が態々やって来たことに霊夢は何かしらの大きな事件性を悟ったらしい。彼女は奥の居間に私を呼んだ。
霊夢は私を煎餅みたいな厚さの座布団に座らせると「お茶でいれてくるわ」と襖を開けて消えてしまう。私は一人残される。
霊夢には悪いけど殺風景な部屋だった。今風に言えばミニマリズムに殉じていた。可愛らしいものと言えば、本棚に置いてある赤いポストの貯金箱と、本を重しに垂れ下がっている風呂敷の渦巻模様だけ。本棚には巻数の飛んだ江戸川乱歩全集と小泉八雲と泉鏡花の本が数冊、流行作家のアガサクリスQの大型本が一冊置いてある。残りは手ぬぐいで黄土色の服を着せられたティッシュ箱と、茶葉の空き缶。そして日本酒のボトルが一本大事そうに飾ってある。季節外れのトマトみたいな色の四角い箱に力強い文字で越乃寒梅と書かれている。
ちょっと退屈し始めたところで霊夢が湯呑をお盆に乗せて戻ってきた。
「はい、粗茶だけど」
私は頷いて、考えもなしに湯気が立ち上るそれを冷ましもぜずに流しこむ。当然、口の中は大惨事となり、危うく湯呑を落としかける。
「大丈夫?」
「……大丈夫よ」
霊夢は怪訝そうに首を傾げると、ゆっくりと冷ましながらお茶を飲む。何だか気恥ずかしくなる。
「それで、どういう用事でうちに来たのよ」
「相談したいことがあるのよ」
「まあ、そんなところだと思ったけど。けれど何だか只事ではなさそうね。態々私のとこに来たってことは魔理沙にも相談できないような内容なんでしょ?」
「うん、魔理沙って何だかんだパチュリーと仲いいから……」
私は今のお姉様の状況や紅魔館の現状について話した。我ながら上手く説明できたと思う。人に何かを説明する時、私は説得力を自分の感情でかさ増ししようとか考えちゃうのだけど、今回は飛んで来る最中におおまかな話の筋道を考えてきたのでスラスラと説明ができた。
だけど、私の懇切丁寧な話を聞いても、霊夢は上手く飲み込めなかったみたいだった。話の最中、霊夢は過って舌でもかんだような顔をして、居心地の悪そうに指先で湯呑に描かれている猫のシルエットをなぞりながら聞いていた。
私の説明が終わると、霊夢が言った。
「で? それの一体何が問題なのよ。単にあいつが紅茶党になったってだけじゃないのよ」
「何って……、今の話聞いていたでしょ! お姉様が自分で紅茶をいれるのよ、吸血鬼のくせして!」
自分で思っていたより大きな声が出た。霊夢は当然として私自身も驚いてしまった。そして沈黙。電気時計の針の音が余計に静寂を目立たせる。大して飲みたくないのに、私は出されたお茶に口をつけようとする。その俯く動作の最中に霊夢の顔を盗み見る。彼女は本棚の方を向いていた。どうやら探偵小説のタイトルを眺めているみたいだった。私も何となくそちらに目をやろうとすると、その前に霊夢がオホンとあからさまな咳払いをして言った。
「まあ、何となく、あんたが抱いている不満の正体が分かったわ。要するに、レミリアにもっと吸血鬼らしいことをしてほしいんでしょ。もっと”推理”してみると、紅茶を飲む行為自体が、その紅茶の赤色を血液に見立てているようにあなたには感じられて、それが何か吸血鬼風の一種の妥協な気がして面白くないんでしょう」
霊夢はそれだけ勢いよく言ってしまうと、再び黙ってしまう。その表情に僅かに満足の色が見て取れる。
態々相談に来ておいて不真面目かもしれないけど、私は嫌な気分になった。私が二三日かけてあれこれと考えていたのをこうも簡単に結論づけられるのが嫌だった。そして霊夢の言っていることについて反論できないのが私の嫌に拍車をかけた。
「それじゃあ、解決方法は?」
私は自分の内面を悟られないよう、なるべく平坦に言った。
霊夢は待ってましたとばかりに嬉しそうに自分の肘を机に上に置いて手のひらを合わせると、そこに顎を乗せて言った。
「あんたは姉が紅茶を飲んでるのが気に入らない」
「まあね」
「でもワインを飲んでいるのは気にならない」
「まあお姉様っぽいしいいかなって」
「レミリアはワインをよく飲むの?」
「さあ? 人並程度だと思うけど」
霊夢は顎髭でも生えているかのように、人差し指と親指で摘まむような奇妙な仕草をする。
「ふうん。私が思うに……、いきなり紅茶を止めさせるのは難しいと思うから段階を踏むべきだと思うの。ということで今できる現実的な解法はレミリアのワインを飲む量を増やすことね。胃の容量っていうのは決まっているから相対的に紅茶を飲む量が減るでしょ? まあ、一番手っ取り早いのはあなたが我慢することだけど」
霊夢はそう言うとおもむろに机の上の煎餅に手を伸ばした。私はそれを聞いて素直に感心した。
その後、人里に新しく出来た店だとか何とか適当な話をして私は帰ることにした。
玄関前まで付いて来た霊夢に対して、私はふと、何かお礼をしたいと思ってポケットをまさぐってみた。そしたら飴玉が二つ出てくる。一瞬迷ったけどレモン味の方を霊夢にあげて、残った方を素早く口の中に放り込んだ。
「それじゃあ」
「うん」
声を出すとハッカの冷気が鼻の奥をくすぐった。
私は、霊夢のアドバイス通りにワインのボトルを持って、廊下の角に置かれた肘掛け椅子に腰をおろしている。手元の電気スタンドのオレンジが鬱陶しくなって、ダイヤルを捻って光を弱める。サイドテーブルの上には、図書館の中央に置かれたあの意味ありげな水晶よりも透明なワイングラスが置かれている。
まさか人里の酒屋にワインがあるとは思わなかった。そのワインボトルは高く積まれた米俵の隣にひっそりとキノコみたいに生息していた。結構埃をかぶっていたあたり、店主にすら忘れられていた。値段はびっくりするくらい安かったけど、ワインは古ければ古いほどいいという話なので、お得な買い物ができてよかったと思う。
ワインの注ぎ方は咲夜が注いでいるのを見て覚えた。いかにも絞め殺してくださいと言わんばかりの細い注ぎ口の方ではなくて、ボトルの底を手のひらで覆うように持つのが正しいみたい。こうやって持った方がずっと、さりげなさを演出できるし、そのさりげなさこそが優雅であることを私は知っている。機能的な話は興味ない。
私はお姉様がこの廊下を通るのを今か今かと待っていた。水曜日と金曜日の十六時頃、お姉様は決まってこの先にある階段を下りて図書館へ向かう。目的はいわゆるアフターヌーンティーってやつの為。お姉様とパチュリーの仲がいいのは知っているけど、二人がどんな話をするのかは想像できない。二人とも聞き上手というのが私のイメージ。
さて、二十分ぐらい待っていると、漸くお姉様が咲夜と一緒にこっちに向かって歩いてくるのが見えた。私は限りなくさりげない風に、カモフラージュの為に持ってきた動物図鑑に目を落とす。二つの気配が近づいている。私は二人を意識しているのを気取られないように、ページいっぱいに引き延ばされたカバの不細工な顔に集中する。目線を気にしすぎたせいか、写真のカバの鼻の孔が巨大な目玉のように見えてくる。それでも私はじっと我慢する。
足音が聞こえるくらい近づくと、私はワイングラスに手を伸ばして、中身で軽く唇を濡らした。そしてまた、図鑑の写真を眺めながら、足音に耳をすます。
音を聞くに、私の前でちょっと歩調が緩まったようだけど、直ぐ気を取り直したように元のリズムに戻って、そのまま私の前を通り過ぎていった。
充分時間を置いた後、私は顔をあげて辺りを見渡した。ものぐさな妖精メイドが一匹、窓際に置かれた観葉植物の葉っぱをはたきで磨こうとしていた。お姉様の姿はどこにもない。これでひとまず、私の目的は達成した。
私がやろうとしていていることは、ちょっと前に「家庭の医学」という本で知った、サブリミナル効果という科学的魔術で、あのコカ・コーラの実験の部分をそっくりワインでやろうとしている。これを一週間も続ければ、お姉様がお風呂に入っている時、ベッドでまどろみを待っている時に、ふと、私がいかにも美味しそうにワインを飲んでいる光景を思い出すに違いない。そして、その無意識の繰り返しがお姉様の行動にも作用する。するとお姉様の吸血鬼としての威厳は忽ちのうちに復活する。
多少お酒が回ってきたのもあると思うけど、私はすっかり愉快な気持ちになって、鼻歌かなんか歌いながら宙に向かって乾杯した。ちょっとワインを傾けすぎたのか、中身が少しこぼれて絨毯に落ちてしまった。
私はふと、絨毯の色がワインと全く同じなのに気が付いた。単なる偶然かもしれないけど、今の私にはこれもサブリミナル効果のなせる技だと確信が持てた。この計画はきっと上手くいく。
十六夜咲夜に頼めば、どんなものでも調達してくれる。それこそ、ケーキでもミルクでも猫でもカエルの剥製でもオシロスコープでも。
一番びっくりしたのは、いつか遊びで金の延べ棒を頼んだ時だ。何でも地下室に運んでくれるものだから、ちょっと困らせてみるつもりで言った。だから半年くらいたって、彼女が金の延べ棒を朝食のベーコンエッグと一緒に持ってきた時は本当に驚いた。一体どうやってと問い詰めると、なるほどパチュリーがこの前錬金に成功したらしい。咲夜も咲夜ならパチュリーもパチュリーだ。
そんな訳だから、私が安心して彼女に血液の調達を任すことができたのは言うまでもない。じゃあ、どうして血液が必要なのか。別に輸血に使う訳じゃない。単に普通に飲むため。つまり、サブリミナルでワインを使うのを中止して、血液に切り替えようというのが今回の思いつきの内容だ。そしてこのアイデアは今日、実行に移される。
件の紅茶廃止運動の結果については、正直言ってあまり話したくない。敗因として考えられるののは、主に二つ、頻度とインパクトの問題
私が一々舞台を整えてワインを飲んでいたから、どうしても一日に一回か二回程度しかお姉様の前で飲むことができなかった。これが一つ目。
そして最大の原因である二つ目は、私がワインを飲んでも、お姉様は特に珍しいと思わないという事実。これだとお姉様の印象に残らないから刷り込みとして上手くいかないのも当然だと思う。
そこで登場するのが今回の血液。例えばこれを会話中に私が突然飲みだしたらどうだろう。お姉様じゃなくたって頭を殴られたようなショックを受けるに違いない。そもそもかんがえてみれば、ワインより血液の方がよっぽど吸血鬼らしい。何故初めからこっちにしなかったんだろう。
咲夜が血液を持って来たのは私が頼んで僅か十五分後だった。
ティーカップ二つ分くらいの大きさの試験管にあの赤いのがたっぷり詰められていて、コルクで栓がしてある。管に張られたABと書かれたシールは日光で少し黄ばんでいる。その下にはまだ新しい人参の形を模した親指大のシールが。
「いますぐお飲みになりますか」
と咲夜が言った。
「ええ、でもちょっとだけね」
私はそう言って、食堂に向かって歩き始めた。
次々と私の前に並べられる皿やスプーンを眺めながら、私はぼんやりと、最後に血を飲んだ時のことを思い出そうとした。それくらい、長い間飲んでいない。
血の味は嫌いじゃない。でも、血液とオレンジジュースを並べて出されたら多分オレンジジュースの方を選んじゃうと思うし、血の滴るステーキとケーキを並べて出されても、多分私は甘いほうを選んでしまう。けれど、それはお姉様も知っていることで、だから例の計画も効果的になる。
「お待たせしました」
咲夜の言葉で私は現実に引き戻された。いつの間にか、テーブルの上に花瓶が置かれ、真っ白な菊の花が一輪だけ飾られていた。
スープ皿を満たしているその赤色の液体に、私はスプーンを沈める。血はとってもサラサラで味にも期待が持てる。私はそれをゆっくりと持ち上げて、なるべく音を立てないよう丁寧に口へと運んだ。
「不味っ」
途端、思わず口走ってしまう程、酷い味が口一杯に広がった。自分が記憶していたものと比べて全然甘くなかったし、記憶の中の、お酒を飲んだ時の時のようなあの幸せな高揚感も全然やって来なかった。
私は湧き出る嫌な気分を我慢しながら、水薬を飲むような調子で、なるべく舌に触れる面積を少なくするよう勢いよく飲み込んだ。
香りは良い。鉄の香りはストイックさが感じられて好きだし、血の香りには何かドラマティックなことが始まるという予感を与えてくれる。ただし、味がひどすぎた。何て言うか、味がなくて口当たりの悪い麺つゆみたいな。この鼻と口が感じる快楽の極端な乖離が、お互いを逆方向に引っ張り合って私の気分をぶち壊した。
「咲夜、口直し、何か飲み物!」
私は厨房に向かって叫んだ。
しかし、その中から姿を表したのは咲夜ではなくお姉様だった。そのてのなかにはティーポットがしっかりと治まっている。
「ちょうど今、いれていたのよ。飲むでしょ?」
助けを求めて辺りを見渡してみる、けれど直ぐに意味がないことを悟り、私は観念して頷いた。
お姉様は慣れた手つきで、テーブルに置かれたカップに均等に紅茶で満たしていった。そして次に砂糖の壺を開けてスプーンでたっぷり入れていく。
「さあどうぞ」
私はさっきの血液を飲んだ要領で、中の紅いものを一気に飲み干した。
『付録:紅茶のいれ方講座』
ついこの前ならば、咲夜に茶葉の種類とお菓子の種類を注文してお終い。時々、彼女が全部決めることもある。彼女は顔色を伺うのが尋常なく上手なので、任せておけばベストな一杯を飲むことができる。
けれども、最近は自分でいれるようにしている。何回やっても咲夜がいれたのと比べても勝てないのに。それでも私は選択肢を増やすために自分でいれる。
まず水選び。図書館で見つけた本には、紅茶をいれる際に一番こだわるべきは水だとかなり強い語調で書いてあった。成る程、紅茶は飲み物でとどのつまり水分なんだから、この言い分は正しい。だけど残念なことに、幻想郷だと水に関しては殆ど選択肢が無くなってしまう。実は、雨水が川の水より勝っているという話は長いこと生きていても聞いたことない。紅茶に使うお湯は沸騰した直後のものを使う。それさえ守っていれば特別水に関しては、こと幻想郷においては気を遣う必要はない。
次に食器選び。これは非常に重要で、適当な食器を選ぶと、神聖な(こんな形容は吸血鬼である私が使うべきじゃ無い気がしてきた)ティータイムが台無しになるから注意がいる。 ティータイムというのは、幸福な時間なのだから、その時間の敷物に載ってる全てのものを楽しまなければならない。美味しい紅茶を飲むことだけに執心すると、紅茶の国の法律に触れてしまう。
また、私みたいな通はポットの材質にもこだわる。一番やっちゃいけないのは鉄が使われているポットで紅茶をいれること。これで作る紅茶はどういう訳か、若干黒っぽくなる。理由はよく分からないからおそらく魔術的な力が働いているのだと思う。
一時期は銀のポットでいれたものを飲んでいたけど、最近はもっぱら陶磁器。これでいれた紅茶の方が舌触りが滑らかな気がする。ちなみに、この滑らかな感じは陶磁器の色がどれほど白に近いかに比例する。
ティーカップはその日の気分で変える。だけど、見る楽しみの主役はあくまで紅茶の紅なので、カップの内側はその色が映えるよう白じゃないといけない。
茶葉の種類は何でもいい。あんまりこういう言葉は誤解を生むから使いたくないのだけど、それでもどの茶葉にもそれぞれ違った良さがある。けれども、強いて一番好きなものを挙げるとすると、私はアールグレイと答える。ただし、これは七周くらい回って行き着いた結果なので、別に安易に王道に飛びついたとかそういうご無体な話じゃない。無理に理由をつけてみると王道と呼ばれるものにはそれなりの理由があるという一言に落ち着いてしまう。
一緒に食べるお菓子について考えなければ、たたこれだけ用意すれば紅茶がいれられる。
では次にその方法。
一.水を沸騰させる。この時、カップとポットにお湯を入れてあらかじめ暖める。これをしないと、紅茶が早く冷めてしまい、幸福なティータイムが直ぐに終わる。ぬるい珈琲が目を覚ます為の単なる儀式と化するように、同じようにぬるい紅茶に値打ちはない。
二. ポットにティースプーン一杯を一人分として人数分茶葉を入れる。この時決して二人分以上作ること。部屋に引きこもっていない限り、ほぼ百パーセント誰かに紅茶を奪われるし、そうでなくても、飲んだ後、後で絶対もう一杯飲みたくなるから。
三. 沸騰したお湯をポットに入れて蒸らす。蒸らす時間は非常に大切なので、魔法的調合のレベルで厳密な時間精度が要求される。この時間は茶葉の細かさによって左右される。取りあえず、細かいのは三分、大きいのは四分といった基準で様子を見てみるといい。後は自分の好みに合わせて細かく時間を調整する。ポイントとして、ポットにお湯を注ぐときできるだけ勢いよく注ぐこと。
四. 注いだ後、ポットの中をスプーンで一回かき混ぜる。闇雲にぐるぐるかき混ぜる人がいるけど、あれはやりすぎ。過剰な保険はさりげなさ、ひいては優雅さから遠のいてしまう。
五. 茶こしをカップの上に持ってきて、ポットを傾け、作った紅茶を回し注ぐ。今が紅茶のベストな状態なので、後でとって置こうなんてくだらない打算は考えずに、最後の一滴まで注いでしまう。
これでお姉様のいれたものより美味しい紅茶が完成する。未だに邪道だと思ってしまうけど、大抵砂糖もいれる。ミルクをいれると、紅茶と牛乳、どっちを飲んでるか分かんなくなるから絶対いれない。
独りよがりで流されやすくて面倒くさくて全体的に幼いフランが可愛かったです。
紅茶にハマるのはとても面白かったです!
七転八倒しているフランがとても素敵でした
ついにフランも英国面に堕ちたようで何よりです
洗脳されフランちゃんかわいい。
物語当初に持っていた価値観をなんやかんや滅茶苦茶にされてしまいすっかり変わってしまう、という類型の話だと思うのですが描かれ方が上手かったです。
迷走した挙句策が不発に終わり、最後は紅茶堕ちしてるフランちゃん良い。
有難う御座いました。
流れるような展開からの流れるようなオチが秀逸でした!