自殺をしなければならない。
仕事のことを考えようとしても、娯楽に浸ろうとしても、自殺、という二文字が頭を覆い尽くして全てをかき消してしまう。
俺の友人がこの袋に入った抗鬱薬だけだと考えると虚しくって飲む気にもなれない。
世界が終わる……空が落ちる……死ななければ……死ななければならない。
死にたくない。死ぬのは嫌だ。
しかしすべての建設的な思考が靄の中へ消えていく。
どうしようもない。
俺は麻縄を袖の下に入れて家を出た。
燃え上がるような夕焼けが空に広がっている。
里を出よう。
そして死のう。
──空白──
埃っぽいにおいで目を覚ました。
ぼやけた視界が澄んでいく。
俺はどこか室内にいるようだった。
雑然と家具や雑貨が積み上げられていて、湿っぽくて、少し寒い。俺は体を起こした。古いソファの上に寝かせられていたようだった。
俺はどうしてここにいるのか全く覚えていなかった。
心細くてかけられていた毛布を手繰り寄せてがたがたと──比喩だ。本当はがたかたしてなどいない。心だけだ──していると、男の声が聞こえた。
「起きたのかい」
男は、白い髪に眼鏡をかけて、青と黒を貴重とした服を纏った、痩身長駆の……人間……に見えた……。
俺の姿を一瞥すると、男は部屋の奥へ引っ込んでいった。わけもわからずに呆然としていると、男は湯呑みを持ってすぐに戻ってきた。
「お湯だ。飲むといい。ほっとする」
「…………」
俺は震える手で湯呑みを受け取った。
本当にただのお湯のようだった。
普段だったら警戒して断っていたかもしれない。だがこの時の俺は頭がパーになっていて、深いことを考えられる程度の能力がなかった。
喉を熱い感触が通り抜けて、胃に落ちていった。
じわりと心地よい暖かさが全身に広がる。
「……ありがとう。落ち着きました」
「そうかい。よかった」
「あの。ここは……そしてあなたは? 俺はいったい……どうしたのか……」
「覚えていないんだね」
既知の事実を確認するように言うと、男は続けた。
「ここは香霖堂で、僕は森近霖之助。店主だ。君は店の裏で倒れていたから、保護した」
香霖堂……里から少し離れたところにある、道具屋だ。俺は行ったことがないが、話に聞いたことはあった。半人半妖の店主が経営している謎の多い店だと。
……半人半妖……。
「君はおそらく魔法の森で迷ってしまったんだろう、里から真っ直ぐうちに来た感じではなかったからね。今度からは気をつけたほうがいい。あの森は妖精も妖怪もいるし、危ないよ。用があるなら、護衛をつけたほうがいいだろう」
「魔法の森……」
「君には何の用があったんだい?」
俺はかっと顔が熱くなってきた。
自分が何をしようとしていたのかを思い出したからだ。
まさか自殺をしようとしていたなんてそんな情けない話をするわけにはいかない。
「いえ、あー、その……」
なにかうまい言い訳はないか考えながら俺は立ち上がった。
それにしても、生きているなんて、俺は失敗したのか……?
──ぼとり。
「あっ」
立ち上がった拍子に袖から麻縄が落ちた。
「…………」
「…………」
「……狩りを…………」
「………………」
「…………しようと……思っ……て………」
消え入りそうな声で俺が言うと、店主は麻縄を拾い上げた。
麻縄と俺の顔を交互に見た。
「……自殺を?」
「ひッ……!」
俺は焦って喉から滑車に轢かれたような声を出してしまった。
店主は感情のない目で俺の目を見ていた。
「どんな事情か知らないが……あまりお勧めはできないな」
俺は言った。
「おすすめできない……そうでしょう……いけないことですよねわかっていますしかし仕方なかったんです。空が落ちてくるからその前に死なないと……落ちてくるから…世界が……終わるから……死は救済なんて言う人もいるでしょうだからその前に死ねば助かるって……それに……それに俺が私が生きていると……みんなに迷惑がかかるから……私は生きていてはいけないそういう人間だから……だから死なないといけなかったんですでも……いけないことですよね……店主あなたにご迷惑をかけるつもりはなかったんです今度はもっと遠いところで」
店主は湯呑みを取り上げると俺をソファに強引に押し戻して、毛布をかけた。
「……少し寝なさい。ひどい顔だ」
「しかし……」
「いいから」
強めに言うと、店主は俺の額を撫でて、あとはそっとしておいた。
俺はなんだか気が抜けてしまって、文句も言う気にならず毛布の中でもぞもぞしているうちに、眠りについたようだった。
「おやすみなさい」
***
空が落ちてくるから……死ななくちゃいけない。空が落ちてくるから……。
“……あまりお勧めできないな”
アッ店主……。
空に大きな店主の 貌がある……。
冷たさと柔らかさが同居している独特な雰囲気を持った 貌が……。
店主……あなたが?
あなたが空を落ちるのを食い止めるというのか?
世界が崩壊していく気すらするのに……。
店主……あなたは……。
俺は……。
店主……。
***
次に目を覚ましたとき、俺はいくぶんか穏やかな気分になっていた。空が落ちる影も、自殺の影も、そう色濃くは見えなくなっていた。
こんなにいい気分は久しぶりだ。
俺は目から水が流れていくのを感じた。
俺が泣いている……。
「もう起きたのか……って、泣いている?」
「ああ……おはようございます店主。俺のことは気になさらないで。情緒が少しオカシクなっているみたいです。けどそれだけなんです。気になさらないで……ああ……」
気になさらないでと言っているのに、店主はハンカチで俺の涙を拭ってくれた。
「それは君にあげるよ」
「いいのですか」
「君には必要なものだ」
「…………」
俺はハンカチを袖の下にしまうと、よろよろとソファから立ち上がった。
「いつまでも世話になるわけにはいきません。私はこれで」
「もう行ってしまうのか? 軽い朝食を用意したのだが」
俺は驚いた。俺などのために朝食を用意してくれる者がはたして今生であっただろうか?
「せっかくですのでそれは頂きます」
俺がそう言うと、店主はわずかに頬を綻ばせた。俺はなんとなく気まずくなった。
「世話になってばかりで心苦しいのですが」
「僕の勝手でやっていることだ、気にしないでくれ。ええと……名前を聞いても?」
店主が俺に興味を持ってくれたのは嬉しかったし、素直に答えても良かったのだが、俺は次のとおりに言うことにした。
「名前は言いたくありません。里では私は能無しのひどい男です。そこで罵声とともに呼ばれる名前をここでは……店主の口からは聞きたくない」
「わかった。君のことは、ただ“君”と呼ぶことにしよう」
そう言うと店主はソファの前のテーブルに皿を置いた。皿にはおにぎりがチョンチョンと乗っていた。
「店主が作ったのですか」
「ああ。口に合えばいいが」
「いただきます」
俺は手袋を外して、手を合わせた。
店主のような慈悲深い者が作った料理をこの俺などが本当に口にして良いのか迷ったが、その迷いを表に出せばかえって失礼であろうと、俺はむしろ無遠慮におにぎりにぱくついた。
白米の風味の中に発見される鮮やかな酸味。梅だ。
美味しい。
「美味しいかい?」
「はい。梅干しですね」
「ああ。ちょうど、いいのが手に入ったんだよ」
「しかし、店主、私はこんなにあなたに世話になってしまって、朝食まで、その、なんと言えばいいか……」
「気にしないでと言ったろう。君は労られるべき人間だ」
「店主は、一人でこの店の切り盛りを?」
「そうだね。幸いと言っていいのか、客足がおびただしくなることもないから、一人で成り立っている」
少し自嘲気味に言う店主は、どこか楽しげだった。この仕事が好きなんだろう。
「……せめて店をお手伝いでもできれば恩返しになるやもと思ったのですが、それも難しそうだ」
「店を手伝ってくれる気でいたのか?」
「ええ」
「うーん……」
店主は少し考えて言った。
「それなら、うちに客として通ってくれないか。うちは喫茶店ではないが、君にはお茶を出そう」
俺は瞠目した。
「通う? ここに?」
「嫌かい」
「とんでもない! ぜひ通います。しかしなぜ?」
「簡単さ、君は通う中でこの店の商品に魅入られて太客になってくれるかもしれない……かどうかは置いておいて、君が生きてることを確認できたら僕は安心するからね。一回助けたのに別で死なれたら後味が悪いだろう」
「う…………」
俺は薄まっていた自殺の影が濃くなってきたのを感じ、無心になろうと努めておにぎりを食んだ。
「店主、私は見ての通り不安定な人間です。自殺を止められないかもしれないし、発狂もするかもしれない。それでも客として扱ってくれるというのですか」
「むろん。不安定な人間なんてかわいいものさ。もっと厄介な連中がここには来る。正直言って、僕は君みたいな大人の男の知り合いは少ないんだ。君がいついてくれれば、それは僕の癒やしにもなるかも」
俺は思わず立ち上がって店主の手を取っていた。
「店主……! 私のような者にそのような優しい言葉をかけて下さったこと、生涯忘れません!」
「き、君、その、顔が近いぞ……」
「あ……」
ばっと俺は赤面している店主から離れた。
「こ、これは失礼した、店主」
「君、顔を赤くしてるじゃないか。照れ屋なんだな」
「それは店主のほうじゃないか!」
「なんだと?」
「…………」
「…………」
俺と店主はなんだかばからしくなって、笑った。
***
空が落ちる……空が落ちて……下にある香霖堂が崩れる……。
それはだめだ!
俺が止めなければ!
店主も困っている。
俺が止めなければ!
ああ、しかし、俺は既に死んでしまって動けない。ちくしょう! 空が落ちてくるのに!
俺は抗鬱薬を飲んだ!
俺は生き返った。首にかかる縄が切れ、全ての血流がもとに戻り、心臓は鼓動を再開した。
うおおお、俺は死なない。
生きるぞ。
生きて落ちる空から香霖堂と店主を守ろう。
俺はそう抗鬱薬に誓った。
【了】
仕事のことを考えようとしても、娯楽に浸ろうとしても、自殺、という二文字が頭を覆い尽くして全てをかき消してしまう。
俺の友人がこの袋に入った抗鬱薬だけだと考えると虚しくって飲む気にもなれない。
世界が終わる……空が落ちる……死ななければ……死ななければならない。
死にたくない。死ぬのは嫌だ。
しかしすべての建設的な思考が靄の中へ消えていく。
どうしようもない。
俺は麻縄を袖の下に入れて家を出た。
燃え上がるような夕焼けが空に広がっている。
里を出よう。
そして死のう。
──空白──
埃っぽいにおいで目を覚ました。
ぼやけた視界が澄んでいく。
俺はどこか室内にいるようだった。
雑然と家具や雑貨が積み上げられていて、湿っぽくて、少し寒い。俺は体を起こした。古いソファの上に寝かせられていたようだった。
俺はどうしてここにいるのか全く覚えていなかった。
心細くてかけられていた毛布を手繰り寄せてがたがたと──比喩だ。本当はがたかたしてなどいない。心だけだ──していると、男の声が聞こえた。
「起きたのかい」
男は、白い髪に眼鏡をかけて、青と黒を貴重とした服を纏った、痩身長駆の……人間……に見えた……。
俺の姿を一瞥すると、男は部屋の奥へ引っ込んでいった。わけもわからずに呆然としていると、男は湯呑みを持ってすぐに戻ってきた。
「お湯だ。飲むといい。ほっとする」
「…………」
俺は震える手で湯呑みを受け取った。
本当にただのお湯のようだった。
普段だったら警戒して断っていたかもしれない。だがこの時の俺は頭がパーになっていて、深いことを考えられる程度の能力がなかった。
喉を熱い感触が通り抜けて、胃に落ちていった。
じわりと心地よい暖かさが全身に広がる。
「……ありがとう。落ち着きました」
「そうかい。よかった」
「あの。ここは……そしてあなたは? 俺はいったい……どうしたのか……」
「覚えていないんだね」
既知の事実を確認するように言うと、男は続けた。
「ここは香霖堂で、僕は森近霖之助。店主だ。君は店の裏で倒れていたから、保護した」
香霖堂……里から少し離れたところにある、道具屋だ。俺は行ったことがないが、話に聞いたことはあった。半人半妖の店主が経営している謎の多い店だと。
……半人半妖……。
「君はおそらく魔法の森で迷ってしまったんだろう、里から真っ直ぐうちに来た感じではなかったからね。今度からは気をつけたほうがいい。あの森は妖精も妖怪もいるし、危ないよ。用があるなら、護衛をつけたほうがいいだろう」
「魔法の森……」
「君には何の用があったんだい?」
俺はかっと顔が熱くなってきた。
自分が何をしようとしていたのかを思い出したからだ。
まさか自殺をしようとしていたなんてそんな情けない話をするわけにはいかない。
「いえ、あー、その……」
なにかうまい言い訳はないか考えながら俺は立ち上がった。
それにしても、生きているなんて、俺は失敗したのか……?
──ぼとり。
「あっ」
立ち上がった拍子に袖から麻縄が落ちた。
「…………」
「…………」
「……狩りを…………」
「………………」
「…………しようと……思っ……て………」
消え入りそうな声で俺が言うと、店主は麻縄を拾い上げた。
麻縄と俺の顔を交互に見た。
「……自殺を?」
「ひッ……!」
俺は焦って喉から滑車に轢かれたような声を出してしまった。
店主は感情のない目で俺の目を見ていた。
「どんな事情か知らないが……あまりお勧めはできないな」
俺は言った。
「おすすめできない……そうでしょう……いけないことですよねわかっていますしかし仕方なかったんです。空が落ちてくるからその前に死なないと……落ちてくるから…世界が……終わるから……死は救済なんて言う人もいるでしょうだからその前に死ねば助かるって……それに……それに俺が私が生きていると……みんなに迷惑がかかるから……私は生きていてはいけないそういう人間だから……だから死なないといけなかったんですでも……いけないことですよね……店主あなたにご迷惑をかけるつもりはなかったんです今度はもっと遠いところで」
店主は湯呑みを取り上げると俺をソファに強引に押し戻して、毛布をかけた。
「……少し寝なさい。ひどい顔だ」
「しかし……」
「いいから」
強めに言うと、店主は俺の額を撫でて、あとはそっとしておいた。
俺はなんだか気が抜けてしまって、文句も言う気にならず毛布の中でもぞもぞしているうちに、眠りについたようだった。
「おやすみなさい」
***
空が落ちてくるから……死ななくちゃいけない。空が落ちてくるから……。
“……あまりお勧めできないな”
アッ店主……。
空に大きな店主の
冷たさと柔らかさが同居している独特な雰囲気を持った
店主……あなたが?
あなたが空を落ちるのを食い止めるというのか?
世界が崩壊していく気すらするのに……。
店主……あなたは……。
俺は……。
店主……。
***
次に目を覚ましたとき、俺はいくぶんか穏やかな気分になっていた。空が落ちる影も、自殺の影も、そう色濃くは見えなくなっていた。
こんなにいい気分は久しぶりだ。
俺は目から水が流れていくのを感じた。
俺が泣いている……。
「もう起きたのか……って、泣いている?」
「ああ……おはようございます店主。俺のことは気になさらないで。情緒が少しオカシクなっているみたいです。けどそれだけなんです。気になさらないで……ああ……」
気になさらないでと言っているのに、店主はハンカチで俺の涙を拭ってくれた。
「それは君にあげるよ」
「いいのですか」
「君には必要なものだ」
「…………」
俺はハンカチを袖の下にしまうと、よろよろとソファから立ち上がった。
「いつまでも世話になるわけにはいきません。私はこれで」
「もう行ってしまうのか? 軽い朝食を用意したのだが」
俺は驚いた。俺などのために朝食を用意してくれる者がはたして今生であっただろうか?
「せっかくですのでそれは頂きます」
俺がそう言うと、店主はわずかに頬を綻ばせた。俺はなんとなく気まずくなった。
「世話になってばかりで心苦しいのですが」
「僕の勝手でやっていることだ、気にしないでくれ。ええと……名前を聞いても?」
店主が俺に興味を持ってくれたのは嬉しかったし、素直に答えても良かったのだが、俺は次のとおりに言うことにした。
「名前は言いたくありません。里では私は能無しのひどい男です。そこで罵声とともに呼ばれる名前をここでは……店主の口からは聞きたくない」
「わかった。君のことは、ただ“君”と呼ぶことにしよう」
そう言うと店主はソファの前のテーブルに皿を置いた。皿にはおにぎりがチョンチョンと乗っていた。
「店主が作ったのですか」
「ああ。口に合えばいいが」
「いただきます」
俺は手袋を外して、手を合わせた。
店主のような慈悲深い者が作った料理をこの俺などが本当に口にして良いのか迷ったが、その迷いを表に出せばかえって失礼であろうと、俺はむしろ無遠慮におにぎりにぱくついた。
白米の風味の中に発見される鮮やかな酸味。梅だ。
美味しい。
「美味しいかい?」
「はい。梅干しですね」
「ああ。ちょうど、いいのが手に入ったんだよ」
「しかし、店主、私はこんなにあなたに世話になってしまって、朝食まで、その、なんと言えばいいか……」
「気にしないでと言ったろう。君は労られるべき人間だ」
「店主は、一人でこの店の切り盛りを?」
「そうだね。幸いと言っていいのか、客足がおびただしくなることもないから、一人で成り立っている」
少し自嘲気味に言う店主は、どこか楽しげだった。この仕事が好きなんだろう。
「……せめて店をお手伝いでもできれば恩返しになるやもと思ったのですが、それも難しそうだ」
「店を手伝ってくれる気でいたのか?」
「ええ」
「うーん……」
店主は少し考えて言った。
「それなら、うちに客として通ってくれないか。うちは喫茶店ではないが、君にはお茶を出そう」
俺は瞠目した。
「通う? ここに?」
「嫌かい」
「とんでもない! ぜひ通います。しかしなぜ?」
「簡単さ、君は通う中でこの店の商品に魅入られて太客になってくれるかもしれない……かどうかは置いておいて、君が生きてることを確認できたら僕は安心するからね。一回助けたのに別で死なれたら後味が悪いだろう」
「う…………」
俺は薄まっていた自殺の影が濃くなってきたのを感じ、無心になろうと努めておにぎりを食んだ。
「店主、私は見ての通り不安定な人間です。自殺を止められないかもしれないし、発狂もするかもしれない。それでも客として扱ってくれるというのですか」
「むろん。不安定な人間なんてかわいいものさ。もっと厄介な連中がここには来る。正直言って、僕は君みたいな大人の男の知り合いは少ないんだ。君がいついてくれれば、それは僕の癒やしにもなるかも」
俺は思わず立ち上がって店主の手を取っていた。
「店主……! 私のような者にそのような優しい言葉をかけて下さったこと、生涯忘れません!」
「き、君、その、顔が近いぞ……」
「あ……」
ばっと俺は赤面している店主から離れた。
「こ、これは失礼した、店主」
「君、顔を赤くしてるじゃないか。照れ屋なんだな」
「それは店主のほうじゃないか!」
「なんだと?」
「…………」
「…………」
俺と店主はなんだかばからしくなって、笑った。
***
空が落ちる……空が落ちて……下にある香霖堂が崩れる……。
それはだめだ!
俺が止めなければ!
店主も困っている。
俺が止めなければ!
ああ、しかし、俺は既に死んでしまって動けない。ちくしょう! 空が落ちてくるのに!
俺は抗鬱薬を飲んだ!
俺は生き返った。首にかかる縄が切れ、全ての血流がもとに戻り、心臓は鼓動を再開した。
うおおお、俺は死なない。
生きるぞ。
生きて落ちる空から香霖堂と店主を守ろう。
俺はそう抗鬱薬に誓った。
【了】
新たな目標を見つけた抗うつ薬おじさんが妙にかっこよかったです