有り体に言えば、彼の葬儀は随分とささやかなものだった。
なにせ彼には身よりもなく、葬儀に参列したのは私、風見幽香ぐらいだった。
彼の名前を口にして、さようならと唱えた。
涙など別に出ない。だって別に彼と特別親しかったわけではないから。
自分がどういう顔をしていたのかついにわからなかった。
遺骨は命蓮寺に任せることとした。きっとうまく弔ってくれるだろう。
だけど私は忍びない。このまま私の記憶からいずれ零れ落ちることが。
妖怪は人よりもずっと長く生きるとはいえ。
いや、生きるからこそ、といったほうが正しいだろう。
だから私は今日こうやって、彼のことを書き記しておこうと思う。
彼と出会ったのは花屋での買い物帰りにお茶屋で甘いものを食べているときだった。彼は茶屋の一角で、地面に咲いた花を見ながら絵を描いていた。彼はもう70は過ぎているようにもみえる老人だった。しかし油絵の具をたっぷりと付けた絵筆を握る手は少しも衰えていないように見えた。無論、絵の良し悪しなんて私にはわからなかった。
「ねえ、ご主人」
「どうなさいました?」
「あのご老人はいったいどういう方なの?」
「ああ、あの人ですか。あの人はお得意様です。なんでも絵を描いて生活しているそうで」
「へえ」
いつもだったらその、へえ、で終わるところだった。なにせ茶屋には少し変わった客も来るし、そもそも幻想郷自体変な連中の巣窟のようなものである。だけど、私は彼に少し興味を抱いた。それは絵を描いているから、という理由よりは、花を描いているから、という理由のほうが大きかった。彼の描いていたのは花屋に売っているような立派な花ではなく、その辺りに咲いているような花、いってしまえば雑草と分類されるようなものだったからだ。
「ねえ」
私が声をかけると彼は動かしていた手を止めて、私の方に振り向いた。ベレー帽をかぶったその頭に生えた黒髪には白髪が大いに混じり、顔には幾本もの皺が刻まれていた。そこには私達妖怪にはわかることのない、老い、というものが如実に表れていた。
「どうなさいましたか? お嬢さん」
彼はにこりとこちらに笑みを返して、そう答えた。
お嬢さんなんて呼ばれるのは随分と久しぶりだな、と思ったし、人間からそんな呼び方をされるのは初めてだった。
「素敵な絵ね」
正直絵の良し悪しはわからなかった。でも、それは私の偽らざる気持ちであったと思う。
「ええ、絵を描くのが生業ですから」
「失礼、私、風見幽香と申します」
「風見さん、ですね。私の名は三井和博と申します」
「よろしくね、三井さん」
「風見さんもこの茶屋によく来られるのですか?」
「たまに、ぐらいかしら。花屋の帰りに少し」
「この茶屋は良いところです。食事も安くて美味しいし、なにより生えている花が美しい」
「あら、そういう心得があるのかしら?」
「いえ、今描いている花がどういう名前なのかなんてわかりません。でも、せっかく生きているんだから、描いてやらないと損じゃないですか」
「これは……ゲンノショウコね」
「ほう、そういう名前で。花にお詳しいんですね」
「まあ、一種の専門家ではあるかもしれないわね。専門家といえば、あなたもでしょう? なんでも絵を描いて生計を立てているとか」
「ええ、似顔絵とか絵葉書とか、色々描いて細々と暮らしております」
「幻想郷で油絵を描く人はあまり見ないけど、そういう心得があるのね?」
「はい、私は元々外の世界の人間でして、訳あってここに流れ着いたのです」
「まあ、詳しくは聞かないでおくわ」
その日、私たちは別れた。あの老人のことが不思議と心に残った。博麗の巫女や白黒の魔法使い以外の、いわゆるただの人間と長く話をしたのは久しぶりのように思われた。でもそれだけが原因ではないように思われた。なぜなのだろうか? 考えてみたけれどもよくわからなかった。あのご老人の描いていた絵が上手だったから? いや、私に絵の良し悪しなんてわからない。あのご老人が花を描いていたから? いや、花の絵を露店で売っている人なんてそれなりに見かける。やはり私にはわからなかった。
一週間後、私は茶屋で三井さんを見つけた。声をかける。
「こんにちは」
「ええ、こんにちは、風見さん」
「あら、名前、覚えてくださっていたのね」
「そりゃあまあ、きれいなお嬢さんのことですから、忘れてしまったら失礼ですよ」
私はクスリと笑った。
「絵の進捗具合はいかがですか?」
「まずまず、といったところですね」
「あなたほどの腕前があれば、こんな些細な花を描くことなど簡単なのでは?」
「いえ、些細な花ほどうまく描くのは難しい。ありふれたものほど上手に描くのは難しいものです。物珍しいものを描くのはそれほど簡単ではない。特徴を捉えていればそれなりに形になるものです。でも、こういうありふれた花ほど、画家の観察眼が試される」
「そういうものなのかしら?」
「そういうものなんですよ。それにね……」
「それに?」
「この花ももうすぐ枯れてしまうでしょう。その前に、しっかりと残してやりたいのです。まあ、あなたは立派な名前をしっておられますけど、私はもう名前を忘れてしまいましたからね」
そう告げる彼の顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
その後も、三井さんとは何度か茶屋で顔をあわせることとなった
書きかけの絵が次第に完成へと近づいていくのを見るのも楽しみだった。
彼は絵を描きつつ、私の方に目配せもしながら話をする。
よくもそんな器用なことができるものだと私は常々思っていた。
そして、彼と初めて会った一ヶ月ほど後。
「こんにちは、風見さん」
「ええ、こんにちは」
「少し、昔の話をしたくなりましてね」
「どうされたの? 突然?」
「いえ、年寄の戯言だとでも思って聞いていただきたいのです」
一瞬逡巡が心の中に生まれた。
それは、彼の過去を知ることで、私が彼に勝手に抱いていた何かしらが壊れてしまうのではないか、それを恐れていたからなのかもしれない。
私は彼に、私が妖怪、それも幻想郷の中では非常に力のある妖怪であるということも告げていなかった。それなのに、三井さんから一方的に三井さん自身の情報を開示されることが、どこか片務的な、どこか不公平な、そんな関係になるようにも思われた。
「……嫌ですか? 嫌なら全然構いませんよ」
「……いえ、お聞かせ願いますわ」
「ありがとうございます」
三井さんはゆっくりと口を開く。
「私がフランスに渡航したのは、もう50年ほど昔のことです。
ちょうどフランスの首都、パリでは5月革命と呼ばれる大学生の運動が起きたばかりでした。
その頃は日本でも安保闘争で国会が包囲されていた時期でしたね。
パリの美大に留学したはいいけれども、肝心の大学は封鎖されていて、私はどこに行けばよいのかわかりませんでした。
日本大使館に問い合わせてみても大した返事も返ってこない。そんな折、私はパリでできた友人に誘われて、南仏までドライブに行くことになったのです。
私はボロボロのルノー車の助手席に乗り、パリを出てストラスブールを経由し、南仏のトゥールーズへと向かいました。
ええ、友人からはいろいろな話を聞きましたよ。
彼の父親はヴィシーフランスの高官を務めていたらしく、戦後は公職から追放され、彼自身も大変苦労したと聞きました。
そんな苦労話をうなずきながら聞いていると、車から見える景色は次第に変わっていきました。街から片田舎へと、その姿は変貌していきます。建物はモダンなものから素朴なものに変わっていき、道にはところどころ花が植えられ、その花の彩りは荒れた地面を美しく装飾していました。
日本にいた頃は都市部に住んでいましたし、ちょうど高度経済成長の時代でしたから、私はそんなものを見る機会はほとんどなかった。
幻想郷に流れ着いて初めて、緑のもつ美しさというものに気づいたものです。
そして一日かけてトゥールーズに到着しました。私は息を呑みました。
車を止めたのは丘の上だったのですが、その丘の向こうには海岸線一面に広がるひまわり畑が見えました。
その年は非常に暑く、ひまわりも一心不乱に咲き乱れ、その顔を必死になってお日様に向けていたのです。
ええ、とても、とても美しかった。
日本でもフランスでも都市部のごみごみとした雑踏ばかり見ていた私にとって、それは生涯忘れることのできない光景だったに違い有りません。
私はすぐに、車から絵を描く道具を取ってきて、その光景を写し取ろうとしました。でも、私はついにそれができなかった」
「なぜ?」
「まず大きな問題として、私の絵の腕前がさほどなかったということがあります。確かに美大には受かりましたけど、フランスの美大というのは日本のように高度なデッサンの技術が求められるというところばかりではないのです。そしてもう一つ、これが一番大きな理由なのですが、この美しい光景を、自分の下手くそな腕前で写し取るのはもったいない、いつかまた、人に見せられるような腕前になってからまたここに来よう、そしてそのときまで取っておこう、そう思ったのです」
「素敵ね、とても、素敵なお話」
「ええ。私は画家になるのが夢でした。若い頃は絶対にピカソを超えてやる、と思っていた。だけど私には生憎才能はありませんでした。帰国して結局私は絵と関係のない職を転々とすることになったのです。でもね……」
「でも?」
「思うんです。やはりいつかまた、あのトゥールーズにある海岸に広がるひまわり畑を、もう一度この目で見てみたいって。そして今度はそれを可能な限り、絵で写し取ってみたい。まあ、ここに流れ着いた以上、もうそれは叶わぬ夢になってしまいました」
「そう……」
「私は美しいものよりもずっと多くの醜いものを見てきました。皮肉なことに、だからこそ美しいものが映えるという側面は確かにありました。もしかしたら私は恐れていたのかもしれない。あの美しい光景が、現実のものになることが。そうやっていつまでも醒めぬ幻影の中で、偽りの中で生きている、それが私に相応しいのかもしれません」
三井さんはそう語り終えると、絵筆を下ろした。
「この絵はさしあげます。いえ、大したものではありませんし、邪魔なら捨ててくださいな」
「そんなことはありません」
それは偽らざる感情であった。しつこいようだが、私に絵の良し悪しなんてわからない。これから先、それを養うつもりもない。そうであっても、私は彼のゲンノショウコの絵は、今まで見たどの絵よりも上手なものだと感じていたのだ。
「……ありがとうございます。1年前にここに流れ着きましたが、そう言ってくださったのは貴方が初めてです。ありがとう、風見幽香さん」
「いえ、こちらこそ。家に飾らせていただいても?」
「ええ、ご自由に」
彼は今度こそ絵筆をパレットに戻し、私の姿が見えなくなるまでこちらに顔を向けていた。
そしてそれが彼を見た最後の日だった。
彼が亡くなったのを知ったのは、お茶屋の主人経由だった。
ちょうどその日も花屋からの帰り。私はやはりいつものように、茶屋に寄ったのだった。
「ああ、風見さん」
「どうされたの?」
「いつも話していた、お得意さん、今朝、亡くなられたみたい」
随分と軽い口調で告げられたその言葉は、私の心にのしかかった。
「……本当に」
「ええ、まあ、身よりもない方だったし、それより溜め込んでいたウチのツケ、どうしてくれるんだろうかね。困ったものだよ」
「ご主人」
「はい?」
「そのツケ、私が払うから、彼の家、教えてくれない?」
「ま、まあ、ウチは払ってくれるんなら何でも良いけど……」
彼の家は、いわゆる貧しい住民が住む地区にあった。
見るからにボロボロで、今でも壊れそうなその建物は、入るのをためらわせるには十分だった。
隣の部屋の住人から話を聞くに、何日も顔を見ないので気になって部屋に入ってみたら、ぽっくりと逝ってしまわれていたらしい。
「まあでも困るよな。葬式にも金がかかるものだし」
隣の住人はそんなことをぼやいていた。
まるで自分には全く関係のないこととでも言わんばかりに。まあ実際そうではあるのだが。
「命蓮寺に頼みましょう。きっと安価にやっていただけるはず。……三井さんの部屋に入ってもいいかしら?」
「まあ、別に勝手にすればいいけど……」
私は、失礼します、と告げて彼の部屋の中に入っていった。
部屋の中には机と椅子、それに何冊かの本が入った本棚があり、そして、絵の具とパレット、キャンパスなどが乱雑に置いてあった。
布団などはもう既に片付けてしまった後らしい。
ふと机の上に目をやる。筆指しには、彼のものと思しき万年筆が刺さっている。
おもむろに手にとってみる。名前が刻んであることに気づいた。
KAZUHIRO MITSUI
そう彫られていた。
さて、私がこのことを記した後、誰かが家の戸を叩くのに気づいた。
ドアを開ける。
「……幻想郷の管理者が何の用?」
「あら、せっかく腐れ縁の貴方に会いに来たのに、その態度はないんじゃない?」
「うるさい」
「まあ良いわ。山本高久、あるいは佐々木剛三、知ってるわよね?」
「……誰よそれ」
「おっと失礼。三井和博、と言えばわかるかしら?」
「あのご老人のことでしょう? 葬儀の費用はちゃんと払ったわよ」
「まあ、話を最後まで聞きなさい。貴方が来る前に私もあのご老人の部屋に入ったのよ。まあ、最近幻想郷に入ってきた人間だし、ちょっと気になってね」
「最近? いつよ、それ」
「三ヶ月前」
「三井さんは1年前って言ってたけど……」
「いえ、人里の人間の数はきちんと管理されているわ。それが外来人ならなおさらよ」
「どういうこと?」
「机の上にあった彼の財布を漁ってみたら出るわ出るわ、こんなものが」
紫はそう言うと、私に何枚ものカード状のものを渡してきた。
運転免許証、と書かれたそのカード状のもの全てに、たしかに三井さんの顔写真が印刷されていた。しかし、名前はすべて異なっている。そんなものが5,6枚はあった。
「……なによ、これ」
「まあ、もうわかったと思うけど、あの男は外の世界では詐欺師だったわけ。三井和博という名前もおそらく、偽名の1つでしょうね」
慌ててもう一度、受け取った運転免許証を見るが、そのどれにも三井和博、という名前は載っていなかった。
「……つまり、外の世界からこの世界に、捕まらないように逃げてきた、というわけ?」
「そ。そういうこと。大変だったわ、調べるのも」
言葉が出なかった。
彼のあの話も全て嘘だったのだろうか?
そう思うと、私は三井さんの一体何を見ていたのだろうか?
私にはわからなかった。
「ごめんなさい、ちょっと一人にさせて」
私はそう言うと扉を閉めた。
壁に飾った彼の絵を見ていた。
受け取ったときは上手な絵だと思ったけど、よくよく見れば確かにタッチは荒く、下手な絵に見えてくる。
彼がなぜここに来たのか、どういう人生を辿ってきたのか、詳しくは紫にも聞かなかった。
それを聞いたら、こんどこそ戻ることができなくなるように思われた。
でも……
私は意を決して外に出た。
「あら、意外に早かったわね」
「聞かせてほしいの。三井さんがどうしてここに来たのか」
「詳しくは私も知らないわよ。でも……昔の知人の話を聞く限りでは、貧しさで本当に苦労したみたいね。そして彼は結局、詐欺師に身をやつしたわけ」
「じゃあ、フランスに行ったことは? パリからストラスブールを抜けてトゥールーズの海岸に行った話は?」
「まあ、嘘でしょうね。だいたい貴方、ストラスブールはフランスの北部、南仏のトゥールーズとは真反対よ。だいたいトゥールーズは内陸じゃない」
先程から心のどこかで予想していた答えだった。正直、どこかほっとすらしていた。
だから私はショックなど受けなかった。
私は彼の嘘に騙されていたのだろうか?
結局茶屋のツケを払う羽目になったし、お葬式代を払うことにもなった。
だけど、私は彼の話が一から十まですべて嘘だとは思いたくなかった。
きっと、彼はどこかで美しいものをみたのだ。それも言葉にすることができないぐらいに。
そう思ったのは理由がある。
それは、三井さんがこの幻想郷で、画家、という仕事を選択したということだ。
確かに高齢者がここでお金を稼ぐのは難しい。
だから、言ってしまえば似顔絵や絵葉書売りなんかは高齢者でもできる仕事だから、合理的な選択と言えるかもしれない。
でも、私は彼が最後に私にあの花の絵をくれたことがどうしても引っかかっていた。
彼が根っからの詐欺師だったら、あのときに何かしらの要求をしたのではないだろうか?
無論、あそこで恩を売っておいて後から何かを要求するつもりだったのかもしれない。
彼が死んでしまった今ではもうわからない。
それでも――
私は彼のことをやはり信じたいのだ。
彼の、野に咲く花であっても愛でるあの気持ちも、私は信じたいのだ。
そして彼が画家という職業を選択したのは、言葉にすることが叶わぬ何かを表現するためだった、そう勝手に信じたいのだ。
夏の日。
太陽の畑ではひまわりが咲き乱れる。
あれから初めての夏の日。長く生きる妖怪にとってはなんでもない、いつも繰り返されるはずの夏の日。
それでも、私は今日この日はどこか特別なものに感じられるのだった。
幻想郷に海がないことを残念に思ったのはこれが初めてだ。
南仏海岸に咲き乱れるひまわり畑など、どこにも存在しないのかもしれない。
だから、こんな行為はただの自己満足。そんなことはわかっている。
だけど、私はこうやって、目に焼き付けておきたい。もしかしたら、下手くそだけど海岸線つきの絵に写し取り、
そして、彼の墓前に持っていってあげるかもしれない。
彼の言葉に、一握りの真実が含まれていたことを信じて。
なにせ彼には身よりもなく、葬儀に参列したのは私、風見幽香ぐらいだった。
彼の名前を口にして、さようならと唱えた。
涙など別に出ない。だって別に彼と特別親しかったわけではないから。
自分がどういう顔をしていたのかついにわからなかった。
遺骨は命蓮寺に任せることとした。きっとうまく弔ってくれるだろう。
だけど私は忍びない。このまま私の記憶からいずれ零れ落ちることが。
妖怪は人よりもずっと長く生きるとはいえ。
いや、生きるからこそ、といったほうが正しいだろう。
だから私は今日こうやって、彼のことを書き記しておこうと思う。
彼と出会ったのは花屋での買い物帰りにお茶屋で甘いものを食べているときだった。彼は茶屋の一角で、地面に咲いた花を見ながら絵を描いていた。彼はもう70は過ぎているようにもみえる老人だった。しかし油絵の具をたっぷりと付けた絵筆を握る手は少しも衰えていないように見えた。無論、絵の良し悪しなんて私にはわからなかった。
「ねえ、ご主人」
「どうなさいました?」
「あのご老人はいったいどういう方なの?」
「ああ、あの人ですか。あの人はお得意様です。なんでも絵を描いて生活しているそうで」
「へえ」
いつもだったらその、へえ、で終わるところだった。なにせ茶屋には少し変わった客も来るし、そもそも幻想郷自体変な連中の巣窟のようなものである。だけど、私は彼に少し興味を抱いた。それは絵を描いているから、という理由よりは、花を描いているから、という理由のほうが大きかった。彼の描いていたのは花屋に売っているような立派な花ではなく、その辺りに咲いているような花、いってしまえば雑草と分類されるようなものだったからだ。
「ねえ」
私が声をかけると彼は動かしていた手を止めて、私の方に振り向いた。ベレー帽をかぶったその頭に生えた黒髪には白髪が大いに混じり、顔には幾本もの皺が刻まれていた。そこには私達妖怪にはわかることのない、老い、というものが如実に表れていた。
「どうなさいましたか? お嬢さん」
彼はにこりとこちらに笑みを返して、そう答えた。
お嬢さんなんて呼ばれるのは随分と久しぶりだな、と思ったし、人間からそんな呼び方をされるのは初めてだった。
「素敵な絵ね」
正直絵の良し悪しはわからなかった。でも、それは私の偽らざる気持ちであったと思う。
「ええ、絵を描くのが生業ですから」
「失礼、私、風見幽香と申します」
「風見さん、ですね。私の名は三井和博と申します」
「よろしくね、三井さん」
「風見さんもこの茶屋によく来られるのですか?」
「たまに、ぐらいかしら。花屋の帰りに少し」
「この茶屋は良いところです。食事も安くて美味しいし、なにより生えている花が美しい」
「あら、そういう心得があるのかしら?」
「いえ、今描いている花がどういう名前なのかなんてわかりません。でも、せっかく生きているんだから、描いてやらないと損じゃないですか」
「これは……ゲンノショウコね」
「ほう、そういう名前で。花にお詳しいんですね」
「まあ、一種の専門家ではあるかもしれないわね。専門家といえば、あなたもでしょう? なんでも絵を描いて生計を立てているとか」
「ええ、似顔絵とか絵葉書とか、色々描いて細々と暮らしております」
「幻想郷で油絵を描く人はあまり見ないけど、そういう心得があるのね?」
「はい、私は元々外の世界の人間でして、訳あってここに流れ着いたのです」
「まあ、詳しくは聞かないでおくわ」
その日、私たちは別れた。あの老人のことが不思議と心に残った。博麗の巫女や白黒の魔法使い以外の、いわゆるただの人間と長く話をしたのは久しぶりのように思われた。でもそれだけが原因ではないように思われた。なぜなのだろうか? 考えてみたけれどもよくわからなかった。あのご老人の描いていた絵が上手だったから? いや、私に絵の良し悪しなんてわからない。あのご老人が花を描いていたから? いや、花の絵を露店で売っている人なんてそれなりに見かける。やはり私にはわからなかった。
一週間後、私は茶屋で三井さんを見つけた。声をかける。
「こんにちは」
「ええ、こんにちは、風見さん」
「あら、名前、覚えてくださっていたのね」
「そりゃあまあ、きれいなお嬢さんのことですから、忘れてしまったら失礼ですよ」
私はクスリと笑った。
「絵の進捗具合はいかがですか?」
「まずまず、といったところですね」
「あなたほどの腕前があれば、こんな些細な花を描くことなど簡単なのでは?」
「いえ、些細な花ほどうまく描くのは難しい。ありふれたものほど上手に描くのは難しいものです。物珍しいものを描くのはそれほど簡単ではない。特徴を捉えていればそれなりに形になるものです。でも、こういうありふれた花ほど、画家の観察眼が試される」
「そういうものなのかしら?」
「そういうものなんですよ。それにね……」
「それに?」
「この花ももうすぐ枯れてしまうでしょう。その前に、しっかりと残してやりたいのです。まあ、あなたは立派な名前をしっておられますけど、私はもう名前を忘れてしまいましたからね」
そう告げる彼の顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
その後も、三井さんとは何度か茶屋で顔をあわせることとなった
書きかけの絵が次第に完成へと近づいていくのを見るのも楽しみだった。
彼は絵を描きつつ、私の方に目配せもしながら話をする。
よくもそんな器用なことができるものだと私は常々思っていた。
そして、彼と初めて会った一ヶ月ほど後。
「こんにちは、風見さん」
「ええ、こんにちは」
「少し、昔の話をしたくなりましてね」
「どうされたの? 突然?」
「いえ、年寄の戯言だとでも思って聞いていただきたいのです」
一瞬逡巡が心の中に生まれた。
それは、彼の過去を知ることで、私が彼に勝手に抱いていた何かしらが壊れてしまうのではないか、それを恐れていたからなのかもしれない。
私は彼に、私が妖怪、それも幻想郷の中では非常に力のある妖怪であるということも告げていなかった。それなのに、三井さんから一方的に三井さん自身の情報を開示されることが、どこか片務的な、どこか不公平な、そんな関係になるようにも思われた。
「……嫌ですか? 嫌なら全然構いませんよ」
「……いえ、お聞かせ願いますわ」
「ありがとうございます」
三井さんはゆっくりと口を開く。
「私がフランスに渡航したのは、もう50年ほど昔のことです。
ちょうどフランスの首都、パリでは5月革命と呼ばれる大学生の運動が起きたばかりでした。
その頃は日本でも安保闘争で国会が包囲されていた時期でしたね。
パリの美大に留学したはいいけれども、肝心の大学は封鎖されていて、私はどこに行けばよいのかわかりませんでした。
日本大使館に問い合わせてみても大した返事も返ってこない。そんな折、私はパリでできた友人に誘われて、南仏までドライブに行くことになったのです。
私はボロボロのルノー車の助手席に乗り、パリを出てストラスブールを経由し、南仏のトゥールーズへと向かいました。
ええ、友人からはいろいろな話を聞きましたよ。
彼の父親はヴィシーフランスの高官を務めていたらしく、戦後は公職から追放され、彼自身も大変苦労したと聞きました。
そんな苦労話をうなずきながら聞いていると、車から見える景色は次第に変わっていきました。街から片田舎へと、その姿は変貌していきます。建物はモダンなものから素朴なものに変わっていき、道にはところどころ花が植えられ、その花の彩りは荒れた地面を美しく装飾していました。
日本にいた頃は都市部に住んでいましたし、ちょうど高度経済成長の時代でしたから、私はそんなものを見る機会はほとんどなかった。
幻想郷に流れ着いて初めて、緑のもつ美しさというものに気づいたものです。
そして一日かけてトゥールーズに到着しました。私は息を呑みました。
車を止めたのは丘の上だったのですが、その丘の向こうには海岸線一面に広がるひまわり畑が見えました。
その年は非常に暑く、ひまわりも一心不乱に咲き乱れ、その顔を必死になってお日様に向けていたのです。
ええ、とても、とても美しかった。
日本でもフランスでも都市部のごみごみとした雑踏ばかり見ていた私にとって、それは生涯忘れることのできない光景だったに違い有りません。
私はすぐに、車から絵を描く道具を取ってきて、その光景を写し取ろうとしました。でも、私はついにそれができなかった」
「なぜ?」
「まず大きな問題として、私の絵の腕前がさほどなかったということがあります。確かに美大には受かりましたけど、フランスの美大というのは日本のように高度なデッサンの技術が求められるというところばかりではないのです。そしてもう一つ、これが一番大きな理由なのですが、この美しい光景を、自分の下手くそな腕前で写し取るのはもったいない、いつかまた、人に見せられるような腕前になってからまたここに来よう、そしてそのときまで取っておこう、そう思ったのです」
「素敵ね、とても、素敵なお話」
「ええ。私は画家になるのが夢でした。若い頃は絶対にピカソを超えてやる、と思っていた。だけど私には生憎才能はありませんでした。帰国して結局私は絵と関係のない職を転々とすることになったのです。でもね……」
「でも?」
「思うんです。やはりいつかまた、あのトゥールーズにある海岸に広がるひまわり畑を、もう一度この目で見てみたいって。そして今度はそれを可能な限り、絵で写し取ってみたい。まあ、ここに流れ着いた以上、もうそれは叶わぬ夢になってしまいました」
「そう……」
「私は美しいものよりもずっと多くの醜いものを見てきました。皮肉なことに、だからこそ美しいものが映えるという側面は確かにありました。もしかしたら私は恐れていたのかもしれない。あの美しい光景が、現実のものになることが。そうやっていつまでも醒めぬ幻影の中で、偽りの中で生きている、それが私に相応しいのかもしれません」
三井さんはそう語り終えると、絵筆を下ろした。
「この絵はさしあげます。いえ、大したものではありませんし、邪魔なら捨ててくださいな」
「そんなことはありません」
それは偽らざる感情であった。しつこいようだが、私に絵の良し悪しなんてわからない。これから先、それを養うつもりもない。そうであっても、私は彼のゲンノショウコの絵は、今まで見たどの絵よりも上手なものだと感じていたのだ。
「……ありがとうございます。1年前にここに流れ着きましたが、そう言ってくださったのは貴方が初めてです。ありがとう、風見幽香さん」
「いえ、こちらこそ。家に飾らせていただいても?」
「ええ、ご自由に」
彼は今度こそ絵筆をパレットに戻し、私の姿が見えなくなるまでこちらに顔を向けていた。
そしてそれが彼を見た最後の日だった。
彼が亡くなったのを知ったのは、お茶屋の主人経由だった。
ちょうどその日も花屋からの帰り。私はやはりいつものように、茶屋に寄ったのだった。
「ああ、風見さん」
「どうされたの?」
「いつも話していた、お得意さん、今朝、亡くなられたみたい」
随分と軽い口調で告げられたその言葉は、私の心にのしかかった。
「……本当に」
「ええ、まあ、身よりもない方だったし、それより溜め込んでいたウチのツケ、どうしてくれるんだろうかね。困ったものだよ」
「ご主人」
「はい?」
「そのツケ、私が払うから、彼の家、教えてくれない?」
「ま、まあ、ウチは払ってくれるんなら何でも良いけど……」
彼の家は、いわゆる貧しい住民が住む地区にあった。
見るからにボロボロで、今でも壊れそうなその建物は、入るのをためらわせるには十分だった。
隣の部屋の住人から話を聞くに、何日も顔を見ないので気になって部屋に入ってみたら、ぽっくりと逝ってしまわれていたらしい。
「まあでも困るよな。葬式にも金がかかるものだし」
隣の住人はそんなことをぼやいていた。
まるで自分には全く関係のないこととでも言わんばかりに。まあ実際そうではあるのだが。
「命蓮寺に頼みましょう。きっと安価にやっていただけるはず。……三井さんの部屋に入ってもいいかしら?」
「まあ、別に勝手にすればいいけど……」
私は、失礼します、と告げて彼の部屋の中に入っていった。
部屋の中には机と椅子、それに何冊かの本が入った本棚があり、そして、絵の具とパレット、キャンパスなどが乱雑に置いてあった。
布団などはもう既に片付けてしまった後らしい。
ふと机の上に目をやる。筆指しには、彼のものと思しき万年筆が刺さっている。
おもむろに手にとってみる。名前が刻んであることに気づいた。
KAZUHIRO MITSUI
そう彫られていた。
さて、私がこのことを記した後、誰かが家の戸を叩くのに気づいた。
ドアを開ける。
「……幻想郷の管理者が何の用?」
「あら、せっかく腐れ縁の貴方に会いに来たのに、その態度はないんじゃない?」
「うるさい」
「まあ良いわ。山本高久、あるいは佐々木剛三、知ってるわよね?」
「……誰よそれ」
「おっと失礼。三井和博、と言えばわかるかしら?」
「あのご老人のことでしょう? 葬儀の費用はちゃんと払ったわよ」
「まあ、話を最後まで聞きなさい。貴方が来る前に私もあのご老人の部屋に入ったのよ。まあ、最近幻想郷に入ってきた人間だし、ちょっと気になってね」
「最近? いつよ、それ」
「三ヶ月前」
「三井さんは1年前って言ってたけど……」
「いえ、人里の人間の数はきちんと管理されているわ。それが外来人ならなおさらよ」
「どういうこと?」
「机の上にあった彼の財布を漁ってみたら出るわ出るわ、こんなものが」
紫はそう言うと、私に何枚ものカード状のものを渡してきた。
運転免許証、と書かれたそのカード状のもの全てに、たしかに三井さんの顔写真が印刷されていた。しかし、名前はすべて異なっている。そんなものが5,6枚はあった。
「……なによ、これ」
「まあ、もうわかったと思うけど、あの男は外の世界では詐欺師だったわけ。三井和博という名前もおそらく、偽名の1つでしょうね」
慌ててもう一度、受け取った運転免許証を見るが、そのどれにも三井和博、という名前は載っていなかった。
「……つまり、外の世界からこの世界に、捕まらないように逃げてきた、というわけ?」
「そ。そういうこと。大変だったわ、調べるのも」
言葉が出なかった。
彼のあの話も全て嘘だったのだろうか?
そう思うと、私は三井さんの一体何を見ていたのだろうか?
私にはわからなかった。
「ごめんなさい、ちょっと一人にさせて」
私はそう言うと扉を閉めた。
壁に飾った彼の絵を見ていた。
受け取ったときは上手な絵だと思ったけど、よくよく見れば確かにタッチは荒く、下手な絵に見えてくる。
彼がなぜここに来たのか、どういう人生を辿ってきたのか、詳しくは紫にも聞かなかった。
それを聞いたら、こんどこそ戻ることができなくなるように思われた。
でも……
私は意を決して外に出た。
「あら、意外に早かったわね」
「聞かせてほしいの。三井さんがどうしてここに来たのか」
「詳しくは私も知らないわよ。でも……昔の知人の話を聞く限りでは、貧しさで本当に苦労したみたいね。そして彼は結局、詐欺師に身をやつしたわけ」
「じゃあ、フランスに行ったことは? パリからストラスブールを抜けてトゥールーズの海岸に行った話は?」
「まあ、嘘でしょうね。だいたい貴方、ストラスブールはフランスの北部、南仏のトゥールーズとは真反対よ。だいたいトゥールーズは内陸じゃない」
先程から心のどこかで予想していた答えだった。正直、どこかほっとすらしていた。
だから私はショックなど受けなかった。
私は彼の嘘に騙されていたのだろうか?
結局茶屋のツケを払う羽目になったし、お葬式代を払うことにもなった。
だけど、私は彼の話が一から十まですべて嘘だとは思いたくなかった。
きっと、彼はどこかで美しいものをみたのだ。それも言葉にすることができないぐらいに。
そう思ったのは理由がある。
それは、三井さんがこの幻想郷で、画家、という仕事を選択したということだ。
確かに高齢者がここでお金を稼ぐのは難しい。
だから、言ってしまえば似顔絵や絵葉書売りなんかは高齢者でもできる仕事だから、合理的な選択と言えるかもしれない。
でも、私は彼が最後に私にあの花の絵をくれたことがどうしても引っかかっていた。
彼が根っからの詐欺師だったら、あのときに何かしらの要求をしたのではないだろうか?
無論、あそこで恩を売っておいて後から何かを要求するつもりだったのかもしれない。
彼が死んでしまった今ではもうわからない。
それでも――
私は彼のことをやはり信じたいのだ。
彼の、野に咲く花であっても愛でるあの気持ちも、私は信じたいのだ。
そして彼が画家という職業を選択したのは、言葉にすることが叶わぬ何かを表現するためだった、そう勝手に信じたいのだ。
夏の日。
太陽の畑ではひまわりが咲き乱れる。
あれから初めての夏の日。長く生きる妖怪にとってはなんでもない、いつも繰り返されるはずの夏の日。
それでも、私は今日この日はどこか特別なものに感じられるのだった。
幻想郷に海がないことを残念に思ったのはこれが初めてだ。
南仏海岸に咲き乱れるひまわり畑など、どこにも存在しないのかもしれない。
だから、こんな行為はただの自己満足。そんなことはわかっている。
だけど、私はこうやって、目に焼き付けておきたい。もしかしたら、下手くそだけど海岸線つきの絵に写し取り、
そして、彼の墓前に持っていってあげるかもしれない。
彼の言葉に、一握りの真実が含まれていたことを信じて。
嘘にまみれた人生の中にも、確かに美しいものもあったのかと思いました
それでもこの出し方の紫はなーと思ってしまう我儘。
でもなんかこう……すごく綺麗で素敵なお話でした。
幻想郷に流れ着いて憑物が落ちたように僅かな本心が絵に現れたのかなとか、色々と考えさせられるいいお話でした。