「迷子電柱って知ってる?」
蓮子の話はいつも脈絡が無かった。
「迷子の電柱? どういう意味よ」
本当は話が連続しているのだろう。彼女の頭の中で。
「電柱って必ず別の電柱と電線で繋がってるじゃない?」
「うん」
私はとりあえず続きを促すことにした。
「その電柱もまた別の電柱に繋がってるじゃない?」
「うんうん」
「その電線、どこまで続いてる?」
大した質問ではないと、私は思った。
「そりゃ、どっかの家に続いてるんでしょう」
「じゃあ、その反対側は?」
これも大した質問ではないと、私は思った。
「まぁ、どっかの発電所でしょうね」
だが蓮子にとっては、深刻な問題のようだった。
「本当に?」
「え?」
「日常に電柱が張り巡らされてるこの街で、一人でもそのことを確かめた人が居ると思う?」
彼女の眼差しは真剣だった。
「いくら科学世紀が心の豊かさを求める社会だからって……そこまで暇な人は居ないでしょ」
「そうよね! メリーもそう思うでしょう?」
私は「そんな馬鹿な話はないだろう」と否定したつもりだった。だがそれが、彼女の好奇心にとっては肯定らしかった。
「私ね、みんなが気づいてないだけで、いると思うの。迷子電柱。どの家にも、どの発電所にもつながってない、電気の供給からはぐれた、仲間外れの、さみしい、さみしい、迷子の電柱たちが」
空き教室の机の上に座り、彼女は窓の外の電柱を眺めていた。秋の日の昼下がり、乾いた風がカーテンを揺らしている。
電線にとまっていたスズメたちが一斉に飛び立った。
「また、妙なことを思いついたものね。……ところで、明日提出の必修レポートは終わったの?」
「あ!!!!!!!!!!!!!」
勢いよく立ち上がり、ショルダーバックを掴んだ蓮子は、出口に向かって駆け出した。
「話の続きはまたこんどー!」
彼女の声は廊下に吸い込まれて消えていった。
***
その夜、私は眠ることができなかった。何度も寝ようとし、目を瞑っては開いてを繰り返した。寝ていて見ている夢なのか、覚めていて見ている幻覚なのか、区別のつかないものを見せられ続けた。やがて瞼を降ろすのも難しくなる。仰向けで布団に埋もれながら、瞼はパッチリと開き切っていて、暗い天井の細かい模様までもがはっきりと見えていた。
「やっぱり気になる」
私は起き上がった。こんな時間に外出するなんて普段なら考えたくもない話だ。蓮子に突然家に尋ねられて俱楽部活動に引っ張り出されそうになっても、大抵は断わる。そういうのは前もって連絡してほしいものだ。着替えるのも、長い髪を整えるのも、メイクするのも大変なのだから。
身支度には一定の気合というものが必要になる。だが……今は眠ろうとしても眠れないという面倒くささが身支度の面倒くささを遥かに上回っていた。それに、誰に会う予定もない真夜中の外出なら格好にこだわらなくてもいいだろう。最低限、不審者に間違われないようにすればいい。
こうして睡眠との不毛な格闘は、私を家の外に追い立てた。
まず確認するのは、アパートの壁から延びる電線。先はもちろん、一本の電柱の変圧器につながっている。その電柱は玄関に面する通りに生えていて、電線は通りに並んでいる左右の電柱へ続いている。
私は回れ左して西へ歩き出した。碁盤の目状に区画された京都の街では、しばしば通りの端から端までが一直線に見通せる。一点透視図法のお手本のような構図で、消失点まで等間隔に街灯の光が並んでいる。街灯は電柱についているタイプのものだったので、電柱もまた通りに沿って続いていると言って良いだろう。だから私が辿る電線もまた、この通りに沿ってずっと繋がっているのだろうと思った。
だが、期待は思いの外すぐに裏切られた。一つ目の交差点にさしかかったとき、頭上の電線は交差する車道を跨ぐことなく、ただ左に曲がっただけだった。私は回れ左をした。
「そういうこともあるか」
最終的にどこかに繋がっていればいいのだ。
気を取り直して歩道を下っていくと、コンビニの光が見えてくる。目立つように道に張り出した看板にもまたケーブルが繋がっていて、店から延びてきた線と結びつき、通りの電線に合流していた。さらに南下していくと、二十四時間営業の牛丼屋や、深夜二時までやっているラーメン屋、合成酒を出す居酒屋などが目に入ってくる。大学のキャンパスに近づいた証だ。京都の学生は基本の移動手段が徒歩か自転車であり、外出において終電の概念が存在しない。故に朝も夜も関係なく飲食業に一定の需要が見込めるのだ。牛丼屋の店内を覗き込むと、大学生のバイトが眠気眼を擦っていた。彼を上から照らす照明も、その建物に引かれた電気が源であり、電線はやはり私の辿っている電柱に合流していた。
横断歩道を渡る。今度は電線も一緒だ。そのまま直進。二、三ブロックは同じ光景が続いた。だが大学のキャンパスが途切れたあたりで、再び電線は車道を渡るのを止めていた。私は回れ左をした。
「うーん」
東に入っていく。通りは吉田山まで続いている。その奥には大文字山。今は暗くて大の字は見えないけど、見覚えのある輪郭が山科の街の光を背景に微かに浮かび上がっていた。
左手には大学の寮。一度寮生を追い出して改修工事をしたらしいが、それでも百年近くが経っている。外壁は傷がついていたり腐っていたり焦げていたりでボロボロだ。学生自治を標榜する癖の強い若者たちを収納するのに木造建築を採用するのはいくらなんでも無理があったろう。建物の端の方の窓にはまだ明かりがついていて、時々笑い声が聞こえてきた。消灯時間の例外になっている麻雀部屋だろうか。学生に楽しい時間を提供しているその電気も、やはり通りの電柱から引かれている。
大学所有のテニスコートや駐車場を通り過ぎた辺りで、再び電線は向きを変えた。私は回れ左をした。
「……まさかね」
吉田山を右手に北へ上っていく。吉田神社の参道を横切り、一軒家の立ち並ぶ細い道を抜けていく。私の辿っている電線は相変わらず左側の家や大学の施設にのみ電気を共有しており、道路の反対側、右側の家々には伸びていなかった。
右手の吉田山が途切れた。私はそのまま直進する。電線は今出川通を渡り、電柱は琵琶湖疎水を辿るように続いていた。途中、水量を測る常設機器を格納する小屋があったが、その小屋も頭上の電線と繋がっていた。見下ろせば疎水の流れは穏やかで、鏡のように夜空を映してくれたが、水面の月が今はなぜか不気味に見えた。
しばらくして、電柱の列は疎水に別れを告げた。曲がり角の電柱を最後に電線は左に曲がっていた。私は回れ左をした。
事の深刻さに気付き始めたのはこのあたりからだった。
京都の街で四回左に曲がったということは、初めと同じ方角に向いたということである。そしてたった今私が入った道は、他でもない、私の家の前の通りだったのだ。
悪寒が走る。厚手のコートを羽織ってきたはずなのに、ベルトまで絞めていたのに、それでも寒気が止まらなかった。
足を早める。
電柱が後ろへ流れていく。
電線は続いていく。左手の家々を繋ぎながら。
しかしそれが右に伸びることは決してなかった。
早歩きが小走りになる。
電柱が後ろへ後ろへ流れていく。
電線は続く。それでも電線が右側のブロックに繋がることはなかった。
小走りが全力になる。
息が切れる。
額に汗が滲む。
身体は火照っていくが、背筋はどんどん凍っていく。
私は立ち止った。
そこは私の家だった。
電線は、どこか外側に繋がることなく閉じていたのだ。
「そんな」
つまり、私の家や大学を含めた数ブロックに供給される電力の源は、私が歩いて取り囲んだ境界の内部にあることになる。
だが、首都の市街地のど真ん中に発電所なんてあるはずがない。
では――
――私が普段使っていた電気は一体何だ?
私は自宅の扉に駆けた。財布から電子キーを取り出し、取っ手にかざした。
反応しない。
期待された開錠音は鳴らず、本来なら点くはずの緑のランプは沈黙したままだった。
「嘘」
鍵の故障に違いない。私はカバンを降ろし、予備の鍵を入れていなかったか探した。
だが不可能だった。廊下の電気が消えていて、何も見えなかったのだ。
少しでも明るいところへと、玄関を離れて表の通りに戻る。
街灯の明かりが見当たらない。
「嘘、でしょ」
歩道から車道に飛び出す。左右を見通す。手前側の道路脇に生えている街灯が、悉く消えていた。
走り出す。先程通った道のりをなぞる。
コンビニの看板は消灯していた。店に電気はついていなかった。交差点の信号は赤も青も黄色も点いていなかった。牛丼屋に明かりはなく、ラーメン屋は暗く、居酒屋は闇に包まれていた。キャンパス内の歩道にも明かりは灯らない。夜中まで論文を読みがちな物理棟も、夜更かししてコードを組みがちな電子棟も、夜通しで実験しがちな化学棟も、明かりの点いた窓が一つも見当たらなかった。学生寮は完全に消灯しており、騒ぎ声も聞こえない。神社の参道の灯篭は消えていて、疎水の水面に映る明かりは月だけだった。
再び自宅の前。膝に手をつき、肩で息をして、私は言葉を失っていた。
迷子電柱?
はぐれた電柱?
――ふざけるな。
そんな生易しいものじゃない。
自分の家では、通っている大学では、問題なく電気が使える。スイッチを押せば、レンジが、コンロが、パソコンが使える。……無意識に信じていた、当然だと思っていた。
だが私は知ってしまった。気づいてしまった。誰も確かめようとしないことを確かめて、摂理のバグを見つけ出してしまった。
信念が崩れた瞬間、目に移るものは全て偽りとなり、覆い隠されていた真実が露わになる。
この地区に、電気が供給されているというのは幻想だ――――!!
***
「え? メリー? こんな時間にどうしたのよ」
宇佐見蓮子がドアを開けると、汗だくで服を汚したマエリベリー・ハーンが立っていた。
「もしかして……倶楽部活動? あなたから誘ってくるなんて珍しいじゃない」
「いいから来て……蓮子」
「あー……」
蓮子は夜更かししてレポートを仕上げようとしていたところだった。前髪を無造作にピンで留め上げているのがその必死さを窺わせた。
「いいけど、ちょっと待ってくれない? あと少しで終わるから」
ドアを開けたまま、蓮子は自室に戻っていった。数秒後、悲痛な悲鳴が聞こえてくる。
「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!!!!」
慌ただしく玄関に戻ってきた蓮子は言った。
「ごめん! やっぱ無理! 急にパソコンが落ちてレポートのデータが――」
その瞬間、蓮子の部屋が真っ暗になった。
「え?」
続いてマンションの通路の明かりが、エントランスの照明が、街灯が、電気で動作するあらゆる機器が動作を停止していった。
そしてマエリベリー・ハーンは笑っていた。
「真実を暴き出すって、残酷よね……蓮子」
その夜、京都から一切の明かりが消えた。
***
蓮子の話はいつも脈絡が無かった。
「迷子の電柱? どういう意味よ」
本当は話が連続しているのだろう。彼女の頭の中で。
「電柱って必ず別の電柱と電線で繋がってるじゃない?」
「うん」
私はとりあえず続きを促すことにした。
「その電柱もまた別の電柱に繋がってるじゃない?」
「うんうん」
「その電線、どこまで続いてる?」
大した質問ではないと、私は思った。
「そりゃ、どっかの家に続いてるんでしょう」
「じゃあ、その反対側は?」
これも大した質問ではないと、私は思った。
「まぁ、どっかの発電所でしょうね」
だが蓮子にとっては、深刻な問題のようだった。
「本当に?」
「え?」
「日常に電柱が張り巡らされてるこの街で、一人でもそのことを確かめた人が居ると思う?」
彼女の眼差しは真剣だった。
「いくら科学世紀が心の豊かさを求める社会だからって……そこまで暇な人は居ないでしょ」
「そうよね! メリーもそう思うでしょう?」
私は「そんな馬鹿な話はないだろう」と否定したつもりだった。だがそれが、彼女の好奇心にとっては肯定らしかった。
「私ね、みんなが気づいてないだけで、いると思うの。迷子電柱。どの家にも、どの発電所にもつながってない、電気の供給からはぐれた、仲間外れの、さみしい、さみしい、迷子の電柱たちが」
空き教室の机の上に座り、彼女は窓の外の電柱を眺めていた。秋の日の昼下がり、乾いた風がカーテンを揺らしている。
電線にとまっていたスズメたちが一斉に飛び立った。
「また、妙なことを思いついたものね。……ところで、明日提出の必修レポートは終わったの?」
「あ!!!!!!!!!!!!!」
勢いよく立ち上がり、ショルダーバックを掴んだ蓮子は、出口に向かって駆け出した。
「話の続きはまたこんどー!」
彼女の声は廊下に吸い込まれて消えていった。
***
その夜、私は眠ることができなかった。何度も寝ようとし、目を瞑っては開いてを繰り返した。寝ていて見ている夢なのか、覚めていて見ている幻覚なのか、区別のつかないものを見せられ続けた。やがて瞼を降ろすのも難しくなる。仰向けで布団に埋もれながら、瞼はパッチリと開き切っていて、暗い天井の細かい模様までもがはっきりと見えていた。
「やっぱり気になる」
私は起き上がった。こんな時間に外出するなんて普段なら考えたくもない話だ。蓮子に突然家に尋ねられて俱楽部活動に引っ張り出されそうになっても、大抵は断わる。そういうのは前もって連絡してほしいものだ。着替えるのも、長い髪を整えるのも、メイクするのも大変なのだから。
身支度には一定の気合というものが必要になる。だが……今は眠ろうとしても眠れないという面倒くささが身支度の面倒くささを遥かに上回っていた。それに、誰に会う予定もない真夜中の外出なら格好にこだわらなくてもいいだろう。最低限、不審者に間違われないようにすればいい。
こうして睡眠との不毛な格闘は、私を家の外に追い立てた。
まず確認するのは、アパートの壁から延びる電線。先はもちろん、一本の電柱の変圧器につながっている。その電柱は玄関に面する通りに生えていて、電線は通りに並んでいる左右の電柱へ続いている。
私は回れ左して西へ歩き出した。碁盤の目状に区画された京都の街では、しばしば通りの端から端までが一直線に見通せる。一点透視図法のお手本のような構図で、消失点まで等間隔に街灯の光が並んでいる。街灯は電柱についているタイプのものだったので、電柱もまた通りに沿って続いていると言って良いだろう。だから私が辿る電線もまた、この通りに沿ってずっと繋がっているのだろうと思った。
だが、期待は思いの外すぐに裏切られた。一つ目の交差点にさしかかったとき、頭上の電線は交差する車道を跨ぐことなく、ただ左に曲がっただけだった。私は回れ左をした。
「そういうこともあるか」
最終的にどこかに繋がっていればいいのだ。
気を取り直して歩道を下っていくと、コンビニの光が見えてくる。目立つように道に張り出した看板にもまたケーブルが繋がっていて、店から延びてきた線と結びつき、通りの電線に合流していた。さらに南下していくと、二十四時間営業の牛丼屋や、深夜二時までやっているラーメン屋、合成酒を出す居酒屋などが目に入ってくる。大学のキャンパスに近づいた証だ。京都の学生は基本の移動手段が徒歩か自転車であり、外出において終電の概念が存在しない。故に朝も夜も関係なく飲食業に一定の需要が見込めるのだ。牛丼屋の店内を覗き込むと、大学生のバイトが眠気眼を擦っていた。彼を上から照らす照明も、その建物に引かれた電気が源であり、電線はやはり私の辿っている電柱に合流していた。
横断歩道を渡る。今度は電線も一緒だ。そのまま直進。二、三ブロックは同じ光景が続いた。だが大学のキャンパスが途切れたあたりで、再び電線は車道を渡るのを止めていた。私は回れ左をした。
「うーん」
東に入っていく。通りは吉田山まで続いている。その奥には大文字山。今は暗くて大の字は見えないけど、見覚えのある輪郭が山科の街の光を背景に微かに浮かび上がっていた。
左手には大学の寮。一度寮生を追い出して改修工事をしたらしいが、それでも百年近くが経っている。外壁は傷がついていたり腐っていたり焦げていたりでボロボロだ。学生自治を標榜する癖の強い若者たちを収納するのに木造建築を採用するのはいくらなんでも無理があったろう。建物の端の方の窓にはまだ明かりがついていて、時々笑い声が聞こえてきた。消灯時間の例外になっている麻雀部屋だろうか。学生に楽しい時間を提供しているその電気も、やはり通りの電柱から引かれている。
大学所有のテニスコートや駐車場を通り過ぎた辺りで、再び電線は向きを変えた。私は回れ左をした。
「……まさかね」
吉田山を右手に北へ上っていく。吉田神社の参道を横切り、一軒家の立ち並ぶ細い道を抜けていく。私の辿っている電線は相変わらず左側の家や大学の施設にのみ電気を共有しており、道路の反対側、右側の家々には伸びていなかった。
右手の吉田山が途切れた。私はそのまま直進する。電線は今出川通を渡り、電柱は琵琶湖疎水を辿るように続いていた。途中、水量を測る常設機器を格納する小屋があったが、その小屋も頭上の電線と繋がっていた。見下ろせば疎水の流れは穏やかで、鏡のように夜空を映してくれたが、水面の月が今はなぜか不気味に見えた。
しばらくして、電柱の列は疎水に別れを告げた。曲がり角の電柱を最後に電線は左に曲がっていた。私は回れ左をした。
事の深刻さに気付き始めたのはこのあたりからだった。
京都の街で四回左に曲がったということは、初めと同じ方角に向いたということである。そしてたった今私が入った道は、他でもない、私の家の前の通りだったのだ。
悪寒が走る。厚手のコートを羽織ってきたはずなのに、ベルトまで絞めていたのに、それでも寒気が止まらなかった。
足を早める。
電柱が後ろへ流れていく。
電線は続いていく。左手の家々を繋ぎながら。
しかしそれが右に伸びることは決してなかった。
早歩きが小走りになる。
電柱が後ろへ後ろへ流れていく。
電線は続く。それでも電線が右側のブロックに繋がることはなかった。
小走りが全力になる。
息が切れる。
額に汗が滲む。
身体は火照っていくが、背筋はどんどん凍っていく。
私は立ち止った。
そこは私の家だった。
電線は、どこか外側に繋がることなく閉じていたのだ。
「そんな」
つまり、私の家や大学を含めた数ブロックに供給される電力の源は、私が歩いて取り囲んだ境界の内部にあることになる。
だが、首都の市街地のど真ん中に発電所なんてあるはずがない。
では――
――私が普段使っていた電気は一体何だ?
私は自宅の扉に駆けた。財布から電子キーを取り出し、取っ手にかざした。
反応しない。
期待された開錠音は鳴らず、本来なら点くはずの緑のランプは沈黙したままだった。
「嘘」
鍵の故障に違いない。私はカバンを降ろし、予備の鍵を入れていなかったか探した。
だが不可能だった。廊下の電気が消えていて、何も見えなかったのだ。
少しでも明るいところへと、玄関を離れて表の通りに戻る。
街灯の明かりが見当たらない。
「嘘、でしょ」
歩道から車道に飛び出す。左右を見通す。手前側の道路脇に生えている街灯が、悉く消えていた。
走り出す。先程通った道のりをなぞる。
コンビニの看板は消灯していた。店に電気はついていなかった。交差点の信号は赤も青も黄色も点いていなかった。牛丼屋に明かりはなく、ラーメン屋は暗く、居酒屋は闇に包まれていた。キャンパス内の歩道にも明かりは灯らない。夜中まで論文を読みがちな物理棟も、夜更かししてコードを組みがちな電子棟も、夜通しで実験しがちな化学棟も、明かりの点いた窓が一つも見当たらなかった。学生寮は完全に消灯しており、騒ぎ声も聞こえない。神社の参道の灯篭は消えていて、疎水の水面に映る明かりは月だけだった。
再び自宅の前。膝に手をつき、肩で息をして、私は言葉を失っていた。
迷子電柱?
はぐれた電柱?
――ふざけるな。
そんな生易しいものじゃない。
自分の家では、通っている大学では、問題なく電気が使える。スイッチを押せば、レンジが、コンロが、パソコンが使える。……無意識に信じていた、当然だと思っていた。
だが私は知ってしまった。気づいてしまった。誰も確かめようとしないことを確かめて、摂理のバグを見つけ出してしまった。
信念が崩れた瞬間、目に移るものは全て偽りとなり、覆い隠されていた真実が露わになる。
この地区に、電気が供給されているというのは幻想だ――――!!
***
「え? メリー? こんな時間にどうしたのよ」
宇佐見蓮子がドアを開けると、汗だくで服を汚したマエリベリー・ハーンが立っていた。
「もしかして……倶楽部活動? あなたから誘ってくるなんて珍しいじゃない」
「いいから来て……蓮子」
「あー……」
蓮子は夜更かししてレポートを仕上げようとしていたところだった。前髪を無造作にピンで留め上げているのがその必死さを窺わせた。
「いいけど、ちょっと待ってくれない? あと少しで終わるから」
ドアを開けたまま、蓮子は自室に戻っていった。数秒後、悲痛な悲鳴が聞こえてくる。
「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!!!!」
慌ただしく玄関に戻ってきた蓮子は言った。
「ごめん! やっぱ無理! 急にパソコンが落ちてレポートのデータが――」
その瞬間、蓮子の部屋が真っ暗になった。
「え?」
続いてマンションの通路の明かりが、エントランスの照明が、街灯が、電気で動作するあらゆる機器が動作を停止していった。
そしてマエリベリー・ハーンは笑っていた。
「真実を暴き出すって、残酷よね……蓮子」
その夜、京都から一切の明かりが消えた。
***
最後のメリーの笑いがとてもいいです
生活のすべてが覆される感じがたまりませんでした
さよなら単位