「到着!」
こちらに振りかえり、蓮子は嬉しそうに手を広げた。
「ここが私の実家よ」
「は?」
私は茫然とした。蓮子の背後には、巨大な〝無〟が広がっていたのだ。彼女が五歩下がったところで地面はすっぱりと切れていて……その先は完全な闇であり、内側を伺い知ることはできない。
「何、これ」
「東京名物の山手面よ」
「ヤマノテメン……?」
私は見上げた。〝無〟は静かにこちらを見下ろしていた。上の方は雲で覆われており、どこかで途切れているのか、それともドームのように丸まっているのか、はたまた無限に続いているのか、知る由もない。
「最初から……説明してもらおうかしら」
「もちろん」
蓮子は急に歩き出した。私は「ちょっと」と声をかけたが、止まる様子はない。
「百聞は一見に如かず」
指を立てた彼女は得意げだった。私は仕方なくついていくことにした。
私たちは大学の春休みを使って、東京にある蓮子の実家へ彼岸参りに来ていた。京都から卯酉新幹線に乗り、卯東京駅(旧・立川駅)から中央線に乗り換えて、たった今、終点・新宿駅に着いたところだ。
私たちは地面の切れ目、〝無〟の境界に沿って南に歩いていた。はじめは直線に思えた境界は、実際にはゆるく弧を描いていて、左へ左へ曲がっていくのが分かった。
「これってもしかして……」
「気づいた?」
蓮子の声色は嬉しそうだった。背後では相変わらず〝無〟の壁が蠢いている。
「そのうち一周して戻ってくるわ」
つまり、〝無〟の境界は環状になっているらしい。
「どのくらい長いの?」
「私の父曰く、電車で五十九分の道のりよ」
蓮子はこちらを覗き込むようにニヤリと笑った。
「……全部歩いてみる?」
「遠慮しとく」
蓮子の行軍力を甘く見ていると痛い目に遭うことを、私は知っている。
そういえば、蓮子の父の大人世代は、まだ東京に奠都されていた時代だ。
「当時は……電車が走ってたってこと?」
「そ。山手線っていう環状線があった」
「…………………………実在したんだ……」
独り言のつもりだった。
「あ、もしかしてメリーさん、山手線ゲームでしか知らなかった?」
留学したばかりの私にそれは意地悪だろう。
「だって大学の飲み会でしか聞かないんだもん」
私はそっぽを向いた。〝無〟の反対側には、いたって普通の地方都市が広がっていて、まるでこちら側に何もないかのように日常が営まれていた。
「あのあたりが代々木駅ね」
蓮子が前の方を指さす。
「もう次の駅?」
「当時は新宿駅に半分飲み込まれかけていたらしいわ」
二人は立ち止まった。〝無〟の壁を背景に、駅の看板が立っていた。
→原宿
代々木(よよぎ)
←新宿
まるでそこが電車のホームであり、地面が切れた先に線路があるかのように。だとしたら、ホームドアもないなんて危なすぎる。
そもそも……
「なんでどこにも柵とか壁がないのよ」
「そりゃ、便利だからよ」
蓮子はさも当たり前のように言った。彼女はしばしば自分が知っていることは皆も知っていて当然という初歩的なバイアスに無自覚になる。周りの人間が皆博識な環境で育ったおかげで、それでもやっていけてしまったのだろうが。
「使ってみる? 山手面」
やはり口で説明するつもりがないらしい。それでも、蓮子がこれだけ楽しそうにしていると、咎めるのも億劫になってしまう。
「これも……〝一見〟ってこと?」
「そ。どんな街に行きたい?」
「お参り、しに来たんじゃないの?」
「いいからいいから」
蓮子が目を伏せた気がした。でも多分気のせいだろう。一瞬後には、彼女は相変わらずの笑顔で話していた。
「若者の街、おしゃれの街、グルメの街、動物園跡、復元されたレンガの駅舎、新国立競技場跡、電子部品の街、腐女子の聖地……ラブホ街。どれがいい?」
「……最後以外ならどこでもいいわ」
「じゃ、決まりね」
「え」
蓮子はこちらに両手をのばすと、私の被っていた帽子を思いっきり掴んでずり下げた。視界が遮られ、蓮子の声だけが聞こえてくる。
「さぁ回って~!」
蓮子に肩を掴まれ、強引に体を回される。合成スイカ割りでもする気なのか? 私は仕方なく自分で何周か回った。
「好きなところで止まって~!」
「うん……もういい?」
止まって、私は帽子を直した。そこには蓮子の手が。手を握ったとたん、蓮子は私が向いた方向へ真っすぐに走り出した。
「ちょっ」
「恨まないでよ。これは貴方が選んだんだからね」
目の前には……〝無〟が……!
〝境界〟に対し斜めの角度で、二人は途切れた地面の先、闇の〝中身〟へと消え――
視界が闇に包まれたかと思えば。
――再び街の景色が目に入ってきた。
「は」
「着いたわね」
そう言って蓮子が肘をついた看板には、こう書かれていた。
→上野
鶯谷(うぐいすだに)
←日暮里
理解が追い付かない。
一瞬のうちに、二駅以上の距離を〝飛んだ〟というのか……?
「どういう仕組み?」
「ホログラフィー原理」
胸を張る蓮子。
「〝境界〟と〝中身〟は等価なの」
「……また物理の話?」
「えぇ。私たちは今、ホログラフィック山手線に乗ったのよ」
彼女は語り始めた。
「私たちは〝境界〟のある位置に、ある角度で飛び込むことで、境界上の理論に演算子を差し込んだ。その情報が中身の等価な理論に伝わり、〝中身〟を伝搬する。そうして別の〝境界〟のある位置に、ある角度で到着する。情報は再び境界上の理論の演算子として解釈され、私たちの情報が復元される」
「そんな……」
空想科学にもほどがある。
「かつての山手線は、〝線〟っていう一次元だった。ホログラフィー原理では、一つ次元のずれた理論が等価な対応を持つ。だから今のホログラフィック山手線は二次元の〝面〟。ゆえに山手面、なのよ」
なんて安直なネーミングなんだ。だが突っ込みどころは他にもあった。
「相対性理論はどうなってるのよ。今の一瞬だったわよ」
上野といえば、かつて動物園があったとかいう……。京都への復都のきっかけになった事件の際に隣国に借りていたパンダを喪失しちょっとした国際問題になったことなら歴史の授業で聞いたことがあった。確か、新宿からは結構な距離にあったはずだが……。
「一瞬だと感じたのは、中を通ってる間の記憶が一切ないだけよ。外の時間は普通に進んでる」
「えぇ……」
「むしろ〝中身〟の記憶を持ち帰っていた方が問題よ。その分出てきたとき貴方の情報が喪失しちゃうのよ?」
寒気がする。そんな危険な移動方法があってたまるか。
「でも実際はそんなこと起こらない……と現地の人々は信じている。実験をたくさん重ねた上での確信よ。もちろん科学だから百パーセントはない。けど百パーセントの安全が存在しないのは電車だって飛行機だって一緒じゃない」
「要は……慣れって言いたいのね」
「ソユコト」
私は改めて街を見渡した。曇った春の日の昼下がり、光こそ放っていないものの、建物から張り出す看板はやけに彩度が高かった。
「で、さっきの選択肢でいうと、私たちが着いたのは……」
「……ラブホ街ね」
片手で目を覆う。大げさなジェスチャーは蓮子といい勝負かもしれない。
「蓮子の話が本当なら、飛び込む角度を調整すれば行きたいことに行けるんでしょう?」
今度は私が蓮子の手を掴んだ。
「そうこなくっちゃ」
私たちはホログラフィック東京観光をした。渋谷、原宿、池袋、上野、秋葉原……。廻った数の割に、疲れは少なかった。山手面のおかげだ。
夕暮れ時になって、二人はようやく東京駅構内のカフェに落ち着いた。西側の窓際席は空いていて、私たち以外に外を眺める客はいなかった。それもそのはず。朝と夜の長さが等しいこの日、記念すべき日没の瞬間は、しかし、完全に〝無〟によって遮られているのだから。
旧首都の中央に鎮座する漆黒の空間。目にした当初は驚愕と恐怖の対象でしかなかった。
けれど今は、私にもその意味が分かる気がした。街の人々が闇に向ける視線が。寄せる思いが。願いが。
「やっぱり、これが墓参りなのね」
「………………メリーは優しいよ」
アイスコーヒーの氷を回しながら、蓮子は言った。
「私の実家は山手線の内側にあった」
彼女の横顔。〝無〟に向ける蓮子の視線は、その日私が初めて見るものだった。
「私は運が良かったのよ。東京特異点化が起きたまさにその日、私は小学校の遠足で高尾山に居た」
蓮子の左手がガムシロップのゴミを遊んでいる。容器のふちをカリカリと、爪でしきりに弾いている。私はその手に自分の手を重ねた。彼女の手の動きは止まった。
「……墓は別にあるのよ。新宿に政府が設置した慰霊碑が。でも、骨は無い」
長い沈黙。私はどう声を掛けたらよいか迷っていた。
「人類の好奇心が引き起こした事故だった」
蓮子が拳を握る。
「けれど、得られたものもあったのよ。人類の資産となる、とてつもないデータが」
再び沈黙。私は彼女の手を両手で包むことしかできなかった。
溶けた氷がグラスを鳴らす。
「行きましょう」
蓮子は立ち上がった。
「話に付き合ってくれてありがとう」
何か重い荷物を降ろしたかのように、彼女の立ち姿は身軽になっていた。
店を出て、やっと私は声をかける勇気が出た。
「間違ってたらごめん。……蓮子がひもの研究をしてるのって……」
「当たり。これは……弔いでもあるの」
私は確信した。きっと、さっきも遠慮していただけだ。彼女はもっと話したいと思っている。私にもっと話したいと、思ってくれている。自分の気持ちを整理するために。自分の道を確かめるために。自分が進む先が正しいと信じるために。普段の私なら、彼女の物理の話にはウンザリするところだけど。今日は頷いて、続きを促すことにした。
「超弦理論の検証には、高いエネルギーレベルが必要だった――」
東京駅の方向に戻りながら、蓮子は語った。
「――実験屋さんはいろんな加速器を作ったわ。粒子を加速して、粒子にぶつけるための装置を。ぶつける勢いが強ければ強いほど、物理が詳細に見えてくる。実験のエネルギーを大きくすればするほど、小さな世界の構造が見えてくる。このままエネルギーを上げていけば、いずれ理論屋さんの予言する物質の最小単位に違いない〝ひも〟も見えてくるかもしれない。そう期待してね。けれど……ひもの影響が見えてくるレベルに到達する前に、人類は限界に直面した。技術面でも、経済面でも、そして精神的な士気の面でも――」
東京駅が見えてきた。山手面のホームは相変わらず簡素だった。柵は無く、次の電車を示す電光掲示板もなく、発車ベルも鳴らない。ただ駅名表示の看板が立っているだけ……。
だが、他の駅には無かったものが一つだけ佇んでいた。胸くらいの高さの石碑だった。蓮子は石碑に手を添えた。
「――そんなとき、救世主が現れた! 物理屋さんが思ってもみなかったところに、限界を突破できる仕組みが見つかったのよ! それはだいたい山手線の中心にあった。なんでもその機関は、私たちの願いをひたすら検討し、加速してくれるらしかった。エネルギーが高ければ良いんだから、別に加速するのを粒子に限る必要は無かったってわけ――」
蓮子の背後から、石碑に刻まれた文字を読んで、私は全てを理解した。
「――人類の願いは次々に検討され、加速されていった。人々の想いに底はなく、エネルギーは際限なく上がっていき、粒子加速器では得られなかった実験データが次々に溜まっていった。データは解析され、モデルが作られ、取捨選択され、理論は洗練されていった。そうして遂に超弦理論は検証され、四つの力の統一は成し遂げられたのよ――」
蓮子の目は輝いていた。後姿しか見えなくても、私には分かった。蓮子が求めていた石碑は、彼女を過去に引きずる墓石などではなく、彼女を未来に導く道標だったのだ。
「――しかし、それでも人類の願いは止まらなかった。統一理論を越えた理論、〝超統一物理学〟を目指して、さらにエネルギーは上げられた。願いが回る通り道は、検討機関を中心にどんどん広がっていった。やがて加速の軌道が山手線にまで達したとき、願いの流れは環状の線路と共鳴を起こし、エネルギーは発散して――」
蓮子は巨大な〝無〟の壁を見上げた。
「――首都に特異点が現れた。山手線の内側の領域は〝一点〟に潰れ、首都機能もろとも消滅した」
それが蓮子の語った〝東京特異点化〟の全容だった。京都に首都を戻したという事実は知っていたものの、政治的な理由から、国外に居た私にでは詳細にアクセスできなかった情報だった。この国はとんでもない秘密を抱えていたようだ。
「特異点化の直前までに集まったデータ。尊い犠牲を代償に得られた情報を精査し、統一理論の妥当性を検証し、超統一物理学の兆候がないか確認する。それが現代の素粒子物理学者に残された仕事であり…………私に課された使命なのよ」
日が沈み、夜に入れ替わった風が吹く。風を受けて、彼女のスカートが、髪が、おさげが揺れている。その姿は、夕闇に聳える漆黒の壁にも負けないくらい、強かに輝いて見えた。
私は一歩を踏み出し、蓮子に肩を寄せた。
「またお出かけしたくなったら、いつでも誘ってね、蓮子」
「……ありがとう、メリー」
決意を新たにした宇佐見蓮子は、京都に戻り、再び学問に励むだろう。
そんな彼女を、私はこれからも応援したいと思った。
***
二人が去った後の石碑にはこう刻まれていた。
『高エネルギー検討加速器 跡地』
***
こちらに振りかえり、蓮子は嬉しそうに手を広げた。
「ここが私の実家よ」
「は?」
私は茫然とした。蓮子の背後には、巨大な〝無〟が広がっていたのだ。彼女が五歩下がったところで地面はすっぱりと切れていて……その先は完全な闇であり、内側を伺い知ることはできない。
「何、これ」
「東京名物の山手面よ」
「ヤマノテメン……?」
私は見上げた。〝無〟は静かにこちらを見下ろしていた。上の方は雲で覆われており、どこかで途切れているのか、それともドームのように丸まっているのか、はたまた無限に続いているのか、知る由もない。
「最初から……説明してもらおうかしら」
「もちろん」
蓮子は急に歩き出した。私は「ちょっと」と声をかけたが、止まる様子はない。
「百聞は一見に如かず」
指を立てた彼女は得意げだった。私は仕方なくついていくことにした。
私たちは大学の春休みを使って、東京にある蓮子の実家へ彼岸参りに来ていた。京都から卯酉新幹線に乗り、卯東京駅(旧・立川駅)から中央線に乗り換えて、たった今、終点・新宿駅に着いたところだ。
私たちは地面の切れ目、〝無〟の境界に沿って南に歩いていた。はじめは直線に思えた境界は、実際にはゆるく弧を描いていて、左へ左へ曲がっていくのが分かった。
「これってもしかして……」
「気づいた?」
蓮子の声色は嬉しそうだった。背後では相変わらず〝無〟の壁が蠢いている。
「そのうち一周して戻ってくるわ」
つまり、〝無〟の境界は環状になっているらしい。
「どのくらい長いの?」
「私の父曰く、電車で五十九分の道のりよ」
蓮子はこちらを覗き込むようにニヤリと笑った。
「……全部歩いてみる?」
「遠慮しとく」
蓮子の行軍力を甘く見ていると痛い目に遭うことを、私は知っている。
そういえば、蓮子の父の大人世代は、まだ東京に奠都されていた時代だ。
「当時は……電車が走ってたってこと?」
「そ。山手線っていう環状線があった」
「…………………………実在したんだ……」
独り言のつもりだった。
「あ、もしかしてメリーさん、山手線ゲームでしか知らなかった?」
留学したばかりの私にそれは意地悪だろう。
「だって大学の飲み会でしか聞かないんだもん」
私はそっぽを向いた。〝無〟の反対側には、いたって普通の地方都市が広がっていて、まるでこちら側に何もないかのように日常が営まれていた。
「あのあたりが代々木駅ね」
蓮子が前の方を指さす。
「もう次の駅?」
「当時は新宿駅に半分飲み込まれかけていたらしいわ」
二人は立ち止まった。〝無〟の壁を背景に、駅の看板が立っていた。
→原宿
代々木(よよぎ)
←新宿
まるでそこが電車のホームであり、地面が切れた先に線路があるかのように。だとしたら、ホームドアもないなんて危なすぎる。
そもそも……
「なんでどこにも柵とか壁がないのよ」
「そりゃ、便利だからよ」
蓮子はさも当たり前のように言った。彼女はしばしば自分が知っていることは皆も知っていて当然という初歩的なバイアスに無自覚になる。周りの人間が皆博識な環境で育ったおかげで、それでもやっていけてしまったのだろうが。
「使ってみる? 山手面」
やはり口で説明するつもりがないらしい。それでも、蓮子がこれだけ楽しそうにしていると、咎めるのも億劫になってしまう。
「これも……〝一見〟ってこと?」
「そ。どんな街に行きたい?」
「お参り、しに来たんじゃないの?」
「いいからいいから」
蓮子が目を伏せた気がした。でも多分気のせいだろう。一瞬後には、彼女は相変わらずの笑顔で話していた。
「若者の街、おしゃれの街、グルメの街、動物園跡、復元されたレンガの駅舎、新国立競技場跡、電子部品の街、腐女子の聖地……ラブホ街。どれがいい?」
「……最後以外ならどこでもいいわ」
「じゃ、決まりね」
「え」
蓮子はこちらに両手をのばすと、私の被っていた帽子を思いっきり掴んでずり下げた。視界が遮られ、蓮子の声だけが聞こえてくる。
「さぁ回って~!」
蓮子に肩を掴まれ、強引に体を回される。合成スイカ割りでもする気なのか? 私は仕方なく自分で何周か回った。
「好きなところで止まって~!」
「うん……もういい?」
止まって、私は帽子を直した。そこには蓮子の手が。手を握ったとたん、蓮子は私が向いた方向へ真っすぐに走り出した。
「ちょっ」
「恨まないでよ。これは貴方が選んだんだからね」
目の前には……〝無〟が……!
〝境界〟に対し斜めの角度で、二人は途切れた地面の先、闇の〝中身〟へと消え――
視界が闇に包まれたかと思えば。
――再び街の景色が目に入ってきた。
「は」
「着いたわね」
そう言って蓮子が肘をついた看板には、こう書かれていた。
→上野
鶯谷(うぐいすだに)
←日暮里
理解が追い付かない。
一瞬のうちに、二駅以上の距離を〝飛んだ〟というのか……?
「どういう仕組み?」
「ホログラフィー原理」
胸を張る蓮子。
「〝境界〟と〝中身〟は等価なの」
「……また物理の話?」
「えぇ。私たちは今、ホログラフィック山手線に乗ったのよ」
彼女は語り始めた。
「私たちは〝境界〟のある位置に、ある角度で飛び込むことで、境界上の理論に演算子を差し込んだ。その情報が中身の等価な理論に伝わり、〝中身〟を伝搬する。そうして別の〝境界〟のある位置に、ある角度で到着する。情報は再び境界上の理論の演算子として解釈され、私たちの情報が復元される」
「そんな……」
空想科学にもほどがある。
「かつての山手線は、〝線〟っていう一次元だった。ホログラフィー原理では、一つ次元のずれた理論が等価な対応を持つ。だから今のホログラフィック山手線は二次元の〝面〟。ゆえに山手面、なのよ」
なんて安直なネーミングなんだ。だが突っ込みどころは他にもあった。
「相対性理論はどうなってるのよ。今の一瞬だったわよ」
上野といえば、かつて動物園があったとかいう……。京都への復都のきっかけになった事件の際に隣国に借りていたパンダを喪失しちょっとした国際問題になったことなら歴史の授業で聞いたことがあった。確か、新宿からは結構な距離にあったはずだが……。
「一瞬だと感じたのは、中を通ってる間の記憶が一切ないだけよ。外の時間は普通に進んでる」
「えぇ……」
「むしろ〝中身〟の記憶を持ち帰っていた方が問題よ。その分出てきたとき貴方の情報が喪失しちゃうのよ?」
寒気がする。そんな危険な移動方法があってたまるか。
「でも実際はそんなこと起こらない……と現地の人々は信じている。実験をたくさん重ねた上での確信よ。もちろん科学だから百パーセントはない。けど百パーセントの安全が存在しないのは電車だって飛行機だって一緒じゃない」
「要は……慣れって言いたいのね」
「ソユコト」
私は改めて街を見渡した。曇った春の日の昼下がり、光こそ放っていないものの、建物から張り出す看板はやけに彩度が高かった。
「で、さっきの選択肢でいうと、私たちが着いたのは……」
「……ラブホ街ね」
片手で目を覆う。大げさなジェスチャーは蓮子といい勝負かもしれない。
「蓮子の話が本当なら、飛び込む角度を調整すれば行きたいことに行けるんでしょう?」
今度は私が蓮子の手を掴んだ。
「そうこなくっちゃ」
私たちはホログラフィック東京観光をした。渋谷、原宿、池袋、上野、秋葉原……。廻った数の割に、疲れは少なかった。山手面のおかげだ。
夕暮れ時になって、二人はようやく東京駅構内のカフェに落ち着いた。西側の窓際席は空いていて、私たち以外に外を眺める客はいなかった。それもそのはず。朝と夜の長さが等しいこの日、記念すべき日没の瞬間は、しかし、完全に〝無〟によって遮られているのだから。
旧首都の中央に鎮座する漆黒の空間。目にした当初は驚愕と恐怖の対象でしかなかった。
けれど今は、私にもその意味が分かる気がした。街の人々が闇に向ける視線が。寄せる思いが。願いが。
「やっぱり、これが墓参りなのね」
「………………メリーは優しいよ」
アイスコーヒーの氷を回しながら、蓮子は言った。
「私の実家は山手線の内側にあった」
彼女の横顔。〝無〟に向ける蓮子の視線は、その日私が初めて見るものだった。
「私は運が良かったのよ。東京特異点化が起きたまさにその日、私は小学校の遠足で高尾山に居た」
蓮子の左手がガムシロップのゴミを遊んでいる。容器のふちをカリカリと、爪でしきりに弾いている。私はその手に自分の手を重ねた。彼女の手の動きは止まった。
「……墓は別にあるのよ。新宿に政府が設置した慰霊碑が。でも、骨は無い」
長い沈黙。私はどう声を掛けたらよいか迷っていた。
「人類の好奇心が引き起こした事故だった」
蓮子が拳を握る。
「けれど、得られたものもあったのよ。人類の資産となる、とてつもないデータが」
再び沈黙。私は彼女の手を両手で包むことしかできなかった。
溶けた氷がグラスを鳴らす。
「行きましょう」
蓮子は立ち上がった。
「話に付き合ってくれてありがとう」
何か重い荷物を降ろしたかのように、彼女の立ち姿は身軽になっていた。
店を出て、やっと私は声をかける勇気が出た。
「間違ってたらごめん。……蓮子がひもの研究をしてるのって……」
「当たり。これは……弔いでもあるの」
私は確信した。きっと、さっきも遠慮していただけだ。彼女はもっと話したいと思っている。私にもっと話したいと、思ってくれている。自分の気持ちを整理するために。自分の道を確かめるために。自分が進む先が正しいと信じるために。普段の私なら、彼女の物理の話にはウンザリするところだけど。今日は頷いて、続きを促すことにした。
「超弦理論の検証には、高いエネルギーレベルが必要だった――」
東京駅の方向に戻りながら、蓮子は語った。
「――実験屋さんはいろんな加速器を作ったわ。粒子を加速して、粒子にぶつけるための装置を。ぶつける勢いが強ければ強いほど、物理が詳細に見えてくる。実験のエネルギーを大きくすればするほど、小さな世界の構造が見えてくる。このままエネルギーを上げていけば、いずれ理論屋さんの予言する物質の最小単位に違いない〝ひも〟も見えてくるかもしれない。そう期待してね。けれど……ひもの影響が見えてくるレベルに到達する前に、人類は限界に直面した。技術面でも、経済面でも、そして精神的な士気の面でも――」
東京駅が見えてきた。山手面のホームは相変わらず簡素だった。柵は無く、次の電車を示す電光掲示板もなく、発車ベルも鳴らない。ただ駅名表示の看板が立っているだけ……。
だが、他の駅には無かったものが一つだけ佇んでいた。胸くらいの高さの石碑だった。蓮子は石碑に手を添えた。
「――そんなとき、救世主が現れた! 物理屋さんが思ってもみなかったところに、限界を突破できる仕組みが見つかったのよ! それはだいたい山手線の中心にあった。なんでもその機関は、私たちの願いをひたすら検討し、加速してくれるらしかった。エネルギーが高ければ良いんだから、別に加速するのを粒子に限る必要は無かったってわけ――」
蓮子の背後から、石碑に刻まれた文字を読んで、私は全てを理解した。
「――人類の願いは次々に検討され、加速されていった。人々の想いに底はなく、エネルギーは際限なく上がっていき、粒子加速器では得られなかった実験データが次々に溜まっていった。データは解析され、モデルが作られ、取捨選択され、理論は洗練されていった。そうして遂に超弦理論は検証され、四つの力の統一は成し遂げられたのよ――」
蓮子の目は輝いていた。後姿しか見えなくても、私には分かった。蓮子が求めていた石碑は、彼女を過去に引きずる墓石などではなく、彼女を未来に導く道標だったのだ。
「――しかし、それでも人類の願いは止まらなかった。統一理論を越えた理論、〝超統一物理学〟を目指して、さらにエネルギーは上げられた。願いが回る通り道は、検討機関を中心にどんどん広がっていった。やがて加速の軌道が山手線にまで達したとき、願いの流れは環状の線路と共鳴を起こし、エネルギーは発散して――」
蓮子は巨大な〝無〟の壁を見上げた。
「――首都に特異点が現れた。山手線の内側の領域は〝一点〟に潰れ、首都機能もろとも消滅した」
それが蓮子の語った〝東京特異点化〟の全容だった。京都に首都を戻したという事実は知っていたものの、政治的な理由から、国外に居た私にでは詳細にアクセスできなかった情報だった。この国はとんでもない秘密を抱えていたようだ。
「特異点化の直前までに集まったデータ。尊い犠牲を代償に得られた情報を精査し、統一理論の妥当性を検証し、超統一物理学の兆候がないか確認する。それが現代の素粒子物理学者に残された仕事であり…………私に課された使命なのよ」
日が沈み、夜に入れ替わった風が吹く。風を受けて、彼女のスカートが、髪が、おさげが揺れている。その姿は、夕闇に聳える漆黒の壁にも負けないくらい、強かに輝いて見えた。
私は一歩を踏み出し、蓮子に肩を寄せた。
「またお出かけしたくなったら、いつでも誘ってね、蓮子」
「……ありがとう、メリー」
決意を新たにした宇佐見蓮子は、京都に戻り、再び学問に励むだろう。
そんな彼女を、私はこれからも応援したいと思った。
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二人が去った後の石碑にはこう刻まれていた。
『高エネルギー検討加速器 跡地』
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これは嬉しい
わたしも検討を加速します