Coolier - 新生・東方創想話

気になるあの娘のお味は?

2022/11/30 12:40:58
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 美味しい物の季節と言えば、真っ先に挙げられるのは秋だろう。秋の味覚と言われるように果物や野菜、幻想郷では手に入れにくいが魚介の類まで、秋が旬の食べ物は山程ある。
 しかし、秋が過ぎて秋神様達が名残惜しそうに去っていった後でも、美味しい物はまだまだ沢山ある。寒い冬が旬の食べ物だって負けず劣らず一杯あるのだ。
 そう、それは例えばわかさぎとか――

 §

「……それで、最近姫ちゃんの事がいよいよ食料としてしか見れなくなってきたから困り果ててるって訳?」
「そうなのよ……もう会う度に脂が乗ってて美味しそうだなーって。このままじゃ文々。新聞の一面記事を飾る日も遠くないわ」

 呆れ顔の妹紅の前でうおーん、と情けない鳴き声をあげながらしょぼくれるのは、同じ迷いの竹林に住んでいる者同士の狼女の影狼だ。
 そろそろ夕餉を頂こうかという時にいきなり家に押し掛けてきたので一体何事かと思えば、『姫のことが美味しそうでたまらないの! 我慢出来ずに食べちゃいそうだから知恵を貸して!』と来た。急にやってきて何言ってんだこの狼は、と妹紅が面食らったのは言うまでもない。
 最初は下世話な話の方だと思って適当に聞き流していた妹紅だったが、どうにもそれが物理的で、大分深刻な話らしいと気付くのにそこまで時間は掛からなかった。

「しかしまぁ、どうして相談相手に選んだのが私なのかね。もっと他に良い相手なんて沢山いただろ」
「だってこんな話、人によってはドン引きされそうだし……ご近所さんで一番長生きで含蓄ありそうな人って言ったら妹紅さんかなって思って」
「私も大分引いたけどね。だいたいそれなら、私なんかより永遠亭の奴らを頼ったほうがもっと確実だと思うぞ。永琳は腕の良い医者だし、食欲を抑える薬くらいちょちょいと作ってくれるんじゃないか」
「それは私も考えたけど……ほら、何だか月の人達って近寄りにくい雰囲気じゃない? 兎達が相手ならともかく、永琳さんとか輝夜さんに相談するのはちょっと怖いなって」

 余程落ち込んでいるのか耳をぺたんと伏せた影狼は、所在無さげに顔を膝の間に埋めつつぼそぼそと答える。
 永遠亭の連中は元月の住人だっただけあり、地上の存在からしてみれば得体の知れない所が多い。この間月の連中が幻想郷に攻めてきた異変の事もその認識に拍車をかけていた。そんな場所へは、おいそれとは頼り辛いのかもしれない。

「もっとも、蓬莱の薬を飲んじまった私もあいつらと似たような存在な訳だが。そこは別に怖くないのか?」
「妹紅さんは竹林にずっと昔から住んでる大先輩だし、これまでにも色々と良くしてもらったりしたもの。優しい人だなとは思うけど、怖いだなんて一度も思った事ないわ」
「嬉しい事言ってくれるねぇ。ただ、頼ってもらった所悪いが私にはそんな大した知恵なんざ無いよ。千数百年間無為に過ごしてきただけの枯れた婆さ」

 猪肉と筍の鍋を竹箸でつっつき、囲炉裏の炎をぼんやり眺めながら自嘲気味に妹紅は答える。一度は邪魔が入ったが、そろそろいい感じに煮えてきた頃だろうか。

「まぁ、影狼ちゃんの言ってる事も分からなくもない。確かにこの時期の姫ちゃんは美味そうに見えるもんな。張りも艶もあってなかなか良さそうだ」
「そうよね!? やっぱり人間の妹紅さんにもそう見えるわよね! あー良かった、私だけがおかしいんじゃなくて……あれを目の前にしながら食べるのを我慢し続けるのってめちゃめちゃキツいのよ! ずーっと良い匂いがするし!」
「いや、流石に私は匂いまでは分からんが」
「あげないわよ!」
「いらんいらん。てか、いつの間にか姫ちゃんを食う事前提の話になってるぞ。少し落ち着け」

 鼻息荒く詰め寄ってくる影狼の目は異様にギラついており、余程耐え難い食欲を無理矢理抑え込んでいるようだった。血走った目で涎をダラダラと垂らすその様は飢えた肉食獣そのものである。
 このまま放っておけば今日の内にでもわかさぎ姫の命は危うそうだ。厄介な事に巻き込まれたものだと妹紅は溜息を吐きつつ、鍋の中身をたっぷりと皿によそって影狼に差し出す。

「ほれ、せっかく飯時に来たんだからたんと食え。腹を満たせば少しはその衝動も治まるだろ」
「あ、ありがとう。じゃあ遠慮なく頂くわね……ん、美味しい」

 溢れ出る食欲を無理に我慢していた反動か。影狼はそれ以降何も喋らずにひたすらがつがつと食べ進める。その勢いは凄まじく、おかわりを渡した先からあっという間に食べてしまい、鍋の中身はみるみる減っていった。
 結局、影狼が落ち着いた頃には妹紅の食べる予定だった分まで残さずぺろりと平らげてしまった。何回かに分けて食べようと多めに作っていたのだが、これには某大食い亡霊もかくやといった豪快な食べっぷりである。

「ご、ごめんなさい! 空きっ腹にこたえたからつい全部食べちゃった……!」
「いーよいーよ。それだけ頑張って我慢してたって事だろ。私は別に数日飯抜いたくらいじゃこたえないし。そんで、どうよ? 少しは姫ちゃんへの食欲は治まったか?」
「それが……こんなに食べさせてもらっておいてなんだけど、別腹で全然行けちゃいそうなのよね」

 どうしよう、と困り顔の影狼はか細い声で言った。妹紅はいよいよ面倒な事になってきたぞと頭を抱える。そんなのこちらが知りたいくらいだ。
 甘い物は別腹と言うし、影狼にとってわかさぎ姫はそれくらい美味しそうに見えているという事だろう。成程、それならば幾ら腹を満たしても空腹を覚えるのは致し方ないが、それはそれとしてその無尽の食欲を削ぐにはどうしたものか。
 腕を組んでむむむと考え込む妹紅。そんな彼女に影狼はおずおずと気になった事を聞いてみる。

「あの、さっきの妹紅さんの口ぶりが少し気になったんだけど、もしかして人魚の肉食べた事ってあったりする……?」

 よくよく考えてみれば、普通は『人魚を食べたい』なんて言えば大体の人は否定ないし嫌悪を示す反応を取るだろう。妖怪を食べるという行為そのものが一般的ではないし、人魚の姿は下半身こそ魚だが上半身は人間のそれなのだから。
 ところが先程の妹紅は否定するどころか『張りも艶もあって美味しそう』と、むしろ肯定的な意見まで示したではないか。という事は、つまり。

「ん? あぁ、何度かあるよ」

 事も無げに首肯する妹紅を見て、影狼は思わず呆然としてしまう。まさかこんな身近に人魚の肉を食べた事のある人がいるとは。

「竹林に住み着くずっと前……今からざっと七〇〇年前くらいかな。そん時の私は大分荒れてて見境無く妖怪を退治しまくってたんだけど、一時期同業者で不老仲間の八百比丘尼って奴とつるんでた頃があったんだ」

 やおびくに、知ってる? と妹紅は聞くが、影狼は首を横に振る。そんな名前は聞いた覚えがない。

「ふぅん。結構有名だと思うんだけど、幻想郷じゃあまり知られてないのかな。まぁ話を戻すとそいつ、伝承通り人魚の肉を食って不老長寿になっちゃったクチでね。そん時に人魚の美味さに味をしめたらしくて、妖怪退治の傍らよく捕まえて捌いては食ってたんだ」
「へ、へぇ……」
「私もよくご相伴に預かってたよ。最初は妖怪の肉を食べるなんざ気持ち悪いからって理由で断ってたんだが、押し負けて一度食ってみたらそれはもう絶品でな。どうせ元々不老不死だし人魚の呪いも関係無いなって振り切れてからは、肉を食う為だけに何度か人魚狩りを手伝った事もあったくらいだ」
「あはは、そうなんだー……」

 怖いわー、人間って怖いわー。ついさっきまでわかさぎ姫を食べようとしていた自分の事は棚に上げて、影狼は心の底からそう思った。
 妹紅と八百比丘尼は人ならざる身と化した存在ではあるが、それでも元々は人間のはずだ。それを妖怪とは言え上半身が人間そのものである人魚を躊躇いなく狩り、美味しいからと言って食べまくるとは。これを恐ろしいと言わずして何とする。人間は共食いを忌避する種族ではなかったのか。妖怪だったら人の姿を取っていても容赦は無用という事なのだろうか。
 その八百比丘尼とやらが幻想郷にいなくて良かったと影狼は安堵する。警戒心が特に低いわかさぎ姫の事だ。きっと八百比丘尼が相手では秒で捕まってて食われてしまうに違いない。

「あいつ、不老ではあったけど不死ではなかったからなー。今どうしてんのかね。八〇〇年はとうに過ぎたけどまだ生きてんのかな?」

 生きてたら久し振りにあって話でもしたいなー、などと言う妹紅だが、仮に存命であったとしても幻想郷には絶対に来ないで欲しいと影狼は切に願う。妖怪食いの実績がある人間が幻想入りするなんてぞっとする話ではないか。
 影狼が密かに慄いていると、妹紅が何かを思い出したように手を打った。

「そうだそうだ。そう言えば、そいつに作ってもらった人魚の干物がまだ残ってたな。どうする、味は大分落ちてると思うが良けりゃ食ってみるか?」

 一般的な妖怪よりも人の要素が濃いとは言え、影狼も所詮本質は獣。怖気より食い気である。魅力的な提案に彼女の恐怖心はすぐさま霧散した。

「え、いいの!? 人魚の干物って貴重なんじゃ!?」
「私は昔散々食ったしなぁ。影狼ちゃんは姫ちゃんの肉の味が気になって食欲が止まらないんだろ? じゃあ、一度同じ人魚の肉を食べさえすれば食欲も治まるんじゃないかって考えたんだが」
「ぜ、ぜひお願いします! めちゃくちゃ食べてみたいです!」

 数百年物の干物を食べて大丈夫なのかとか、自分も不老長寿になってしまわないかとか、わかさぎ姫の同胞だったものを食べる事に抵抗は無いのかとか。
 色々と自分の発言に思う所がなくはない影狼だったが、それでもやはり人魚の肉の味がどんなものなのかは気になる。それをわかさぎ姫を襲わずに知る事の出来るチャンスとあれば食いつかずにはいられない。この機会を逃すなんて手はなかった。

「分かった、ちょっと待ってろ。えーと、確かここら辺にしまってたはずだが……あったあった。ほら、これが件の人魚の干物だ」
「おお……これが人魚の……」

 妹紅が戸棚から無造作に取り出した人魚の干物とやらは、一見した所では普通の魚の干物と何ら変わりがなく見える。匂いもわかさぎ姫から漂ってくるような匂いが辛うじて香っているくらいで、予め人魚の干物だと告げられていなければただの干物だと勘違いしていただろう。
 影狼は生唾をごくりと飲み込む。これまで何度も夢想してきた人魚の肉を遂に堪能出来るのだ。しかも、これを食べた所で誰も傷付く事はない。強いて言えば自分に多少の後ろめたさが残るくらいだが、そんなのはさしたる問題ではなかった。今は何よりも食欲の方が勝る。
 もう我慢など出来ない。影狼は瞳を爛々と輝かせ、我も忘れて人魚の干物に齧り付く。

「…………〜っ!?」

 噛み締めた瞬間、口の中に濃厚な旨味が広がった。魚肉の様な、それでいて人肉の様な、複雑で形容し難い未知の味わいだ。干物にしてあるお陰か噛み応え抜群で噛めば噛む程味わいに深みが増し、充分に咀嚼しても飲み込むのを躊躇って噛み続けてしまうくらいである。作られてから数百年は経過しているのに腐りもせず、これだけの旨味を蓄えているのはやはり人魚の持つ不老長寿の性質故だろうか?
 何にせよ、この干物がこれまで長く生きてきた中で最高に美味しい物であった事に違いはない。影狼はこの巡り合わせに涙を流して感謝しながら至福の時を楽しんだ。

「どうだ、念願の人魚を食ってみた感想は?」

 干物一切れをたっぷり四半刻は使って堪能した影狼は、妹紅の声によってようやく我に返る。あまりの美味しさに余韻に浸り過ぎていた。

「すっごく美味しいわ! 今まで食べてきたどの肉とも違う! なんて言うか、こう……うまく言えないけど、とにかくめちゃくちゃ美味しかった事だけは確かよ!」

 ああもう、と影狼はこの感動を上手く言い表せないもどかしさに身をよじる。自分の貧弱な語彙力が恨めしい。

「だろ? 私も初めて食った時はそんな感想だったよ。たとえ不老長寿の呪いがあったとしても、それを押してでも食いたくなる美味さなんだ。人魚って種族はさ」
「いやー、本当に美味しかったわ。もう飲み込んじゃったけど、まだ口の中に余韻が残ってるもの……ちなみに不思議な食感だったけど、あれってどこの部位なの? 尾びれ付近?」
「どこだったかな……確か人間と魚の境目辺りの部分だった気がするけど。あそこ何て言うんだろうな。腰の部分?」
「あっ、成程。そこだったのね……」

 まさか人間と魚の境目部分を食べていたとは思わず、しっかり完食しておきながら影狼は軽く引いた。道理で魚肉とも人肉ともつかない不思議な味がした訳である。人魚を食べる時は魚の部分だけを食べるものだと勝手に思っていたが、普通に人間の部分も食べるとは。

「そりゃそうだろ。せっかく貴重な人魚の命を頂いてるんだから残しちゃ勿体無い。食べれる所は余す所無く食べるのがせめてもの礼儀ってもんだ」
「それは……まぁ、そうかもしれないけど」
「流石に保存食に加工は出来なかったけど、白子とか魚卵もまた美味いんだこれが。他には胸肉とかも脂肪がたっぷり乗ってて美味かった記憶があるな」
「確かに美味しいんだろうけど……うーん、なんだかなぁ」

 普段食べている鶏肉とか魚介の話だと全く気にならないのに、対象が人魚となると途端に血生臭く聞こえてくるのは何故なのだろう。やはり、わかさぎ姫の姿が脳裏にチラつくせいだろうか?

「ま、喜んでもらえたようで何よりだ。これで姫ちゃんへの食欲も治まっただろ。食いたきゃ残りの干物もやるから、それで冬が過ぎるまで我慢――」
「あ、それなんだけど妹紅さん」
「ん? どうしたよ」
「干物でこれだけ美味しいなら、新鮮なお肉だったらどれくらい美味しいんだろうって興味が湧いてきちゃった。どうしたらいいかしら……」

 影狼が情けない声でそう言った途端、彼女のお腹が大きな音を立てて鳴った。
 何という事か。良かれと思って人魚の干物を食べさせてあげたのだが、それはむしろ食欲を加速させてしまっただけのようだった。妹紅は大きな嘆息と共に頭を振った。

「そう言われてもな……これ以上は私にはどうにも出来ないよ。頑張って我慢しろとしか」
「そんな! この食欲を堪えて後三ヶ月も過ごさなきゃいけないだなんて、そんなの惨過ぎるわ!」
「気持ちは分からんでもないが、姫ちゃんの為だろう。襲いたくなかったら我慢するしかあるまい」
「殺生な事言わないでよ! 大体妹紅さんも酷いわ! 最初は干物食べて割と満足してたのに、それ以外にも胸肉やら魚卵やらが美味しいだなんて言っちゃって! そんな事言われたら私も食べたくなっちゃうじゃない!」
「あー……それについては思慮が足りなかったかもしれん。すまん、私が悪かった」

 確かに失言さえしていなければ、影狼はわかさぎ姫への食欲を抑えて残りの冬を過ごす事が出来たのかもしれない。もっとも今の影狼の暴走具合を見るに、妹紅が失言しなかった所で一月持たずに我慢の限界が来て人知れず暴走していた可能性が高そうだったが。
 こうなっては仕方がない。相談に行くのが怖いとは言え、やはり永遠亭を頼るほかないのだろう。そうすれば少なくともこの抑え難い食欲はどうにかしてくれるはずだ。
 しかしそれでも、この先ずっと人魚の肉の味が忘れられずに過ごす事になるのは間違いない。近くにそのご馳走がいると言うのに、そんな生殺しの生活に自分はちゃんと我慢が出来るのだろうか? うっかり辛抱堪らずわかさぎ姫に襲いかかってしまったりはしないだろうか?
 不安のあまり、よよよと泣き崩れてしまった影狼を見て妹紅は多少の罪悪感を覚える。後先考えずに人魚の肉を食べさせてしまったのは自分だ。影狼をこんなに追い込むつもりは毛頭なかったので、どうにか助けてやりたい所ではあるが……

「……そうだ。影狼ちゃん、一つ私に良い案があるぞ」
「本当? また私の食欲をいたずらに刺激したりしないわよね?」
「大丈夫だ、安心してくれ。なに、人魚の肉の味を覚えてしまったのが原因なら、それを忘れてしまえばいい。幸い私にはちょうど打って付けの力を持った友人がいるからな。ちょいとそいつを頼るとしよう」

 §

「……そら、問題の歴史は食べてやったぞ。どうだ、食欲は治まったか?」
「す……凄い! さっきまであんなに姫の事が食べたくてしょうがなかったのに、今はそうでもない! 人魚の味ももう思い出せないし……慧音さん、本当にありがとう!」
「あぁ、無事に忘れる事が出来たなら何よりだ。ある日竹林に住む狼女が親友の人魚を食べてしまいました、なんて悲しい歴史は私も記したくないからな」

 時は少し流れて深夜。影狼と妹紅は人間の里まで降りて、寺子屋で歴史の編纂作業をしていた慧音の下を訪れていた。
 その目的は慧音の持つ【歴史を食べる程度の能力】をもって、影狼が【人魚の肉を食べた】という歴史を無かった事にする為である、人魚の干物を食べていない事にすれば下手に食欲が刺激されたりする事もなく、味についても綺麗さっぱり忘れて元の鞘に収まるだろうと考えての事だった。
 もっとも、これは全て妹紅の勝手な推測に過ぎなかったのだが、影狼の反応を見るに妹紅の名案は無事に功を奏したようである。これが駄目なら万策尽きる所だったので、一か八かの賭けに勝った妹紅はほっと一息つく。

「しかし、私の歴史食いの力は本当に食べている訳ではなくただ隠しているだけだ。変に思い出そうとすると記憶が戻ってしまう可能性もある。これは飽くまで応急処置に過ぎないのだが、本当にこれで良かったのか?」
「ええ。さっきよりは随分楽になったし、あの生き地獄さえ味わわずに済むのなら何でもいいわ。まだちょっと食欲は残ってるけど」
「歴史を隠したと言っても妹紅がやらかす前の状態に戻しただけだからな。やろうと思えばそのわかさぎ姫との出会い自体を無かった事にする事も出来るが、それは本意じゃないだろう」
「ああいや、そこまでして貰わなくても大丈夫よ。姫とはこれからも仲良くしていきたいし、その為にも狼の本能なんかに負けてられないって今回の件で痛感したもの。食欲を無理に抑え込むのは少し辛いけど、これくらいは我慢しなきゃ。私の姫への想いはそこまで柔じゃないわ」

 固い決意と共に啖呵を切ってみせた影狼に、慧音は大きく頷いた。

「そうか。君がそう言うなら良いんだ。友人の為にも頑張るんだぞ、応援しているからな」
「いやー良かった良かった。一時はどうなる事かと思ったが、何とか丸く収まって一件落着だな」

 どうにか人心地ついたといった感じで息をつく妹紅。
 それを慧音は胡乱げに見やる。

「……そうだな。お前がそれを言うのは何か釈然としないものがあるが、終わり良ければ全て良しという言葉もある。今回の件についての説教は大目に見るとしよう。それはそれとして妹紅、一つ気になる事があるのだが」
「ん、どうした? そんなに改まって」

 説教を回避出来た事に胸を撫で下ろしていた妹紅だったが、そんな彼女に問いかける慧音の声音はいつになく真面目だった。今まで傍観に徹していて姿勢も崩していた妹紅は居住まいを正して向き直る。

「いや、影狼君の悩みを解決するに否やはなかったのだが、彼女の歴史を食べた時にふと思ったのだ。彼女は人魚の肉を口にして、少なからずその呪いを身に受けた事だろう。では間接的にとは言え、歴史を通じて人魚の肉を口にした私は果たしてどうなるのだろうかと」
「……あー、成程?」
「直接食べた訳ではないから呪われてはいないと思いたい。だが、彼女の歴史を通じて人魚の肉の味は私の中に鮮明に刻み込まれたのも事実だ。もしやすると間接的に食するのも駄目な可能性があると考えてしまってな……私は呪われたりしないよな? 普通に生を終えられると思いたいのだが」

 慧音は真剣に悩んでいるようだったが、妹紅にその答えは持ち合わせていない。元々が不老不死故に人魚の呪いなど気にした事もなく、以前つるんでいた八百比丘尼も人魚の呪い何するものぞと気にせず食べまくって呪われまくっていた変人だ。人魚の呪いについては互いに『食べたら不老長寿を得る』くらいの知識しかない。
 果たして数百年が経過した人魚の干物を食べても呪いの効果は現れるのか。呪いがあるとしてその影響は間接的に食した場合でも及ぶのだろうか。その答えを知り得る者は、海の無い幻想郷では恐らくいないだろう。

「うん、まぁ……多分大丈夫なんじゃないか? 私もよく知らないけど」

 結局妹紅に言えたのは、答えにもなっていない気休め程度の言葉だけだった。

「おい、私は真面目に悩んでいるんだぞ。私は不老長寿になぞなるつもりはないんだ。もしこれでうっかり不老長寿になんてなったりしていたら一体どうすれば」
「変に気にし過ぎだって。直接食べた訳じゃ無いから大丈夫だろ。もし呪われてたとしてもその見分けなんてつかないし」
「それはそうかもしれないが……少し楽観的過ぎやしないか?」
「まぁ、どうなるかは後一〇〇年もすりゃ分かるさ。その時に慧音が年食ってたら問題ないし、仮に老いてなかったらその時はその時だ。向こう七〇〇年は仲良くやって行こうぜ」
「いや、だから……はぁ、まぁいい。もう過ぎた事だ。私が普通に寿命で死ねるならそれで良し。万が一不老長寿にでもなっていたらその時は責任取ってもらうからな、妹紅」
「はいはい、分かってるよ。私だってそんくらいの甲斐性はあるつもりだ」

 どこまでも楽観的な妹紅に、慧音も勢いを削がれてしまった。確かに現状では本当に呪われているのかすらも分からないのだから、変に思い悩むよりも今をしっかり見据えて生きていく方が良いのかもしれない。
 差し当たっては決意を新たにして尚、涎を口の端から溢し始めている先行き不安な狼女の行く末を見守る事にしよう。もし不老長寿になってしまっていたらその時はその時だ。慧音はそう考えて、これ以上深く悩むのを止めた。
「ところで妹紅。人魚はどの部位が一番美味しいんだ? やはり順当に魚の部分だろうか」
「そうだな……どこも美味しいけど、一番はやっぱおかしらだな」
「そうか、おかしらか……え?」
「え?」
已己巳己
https://twitter.com/ikomiki8
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コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.90東ノ目削除
人魚は肉を食べたら不老不死になるが、肝を食べたら不老不死にならなくなる、という逸話もあるらしいですね(少し前に偶然ネットで流れてきた情報程度の信憑性ですが)。

慧音が登場したとき、問題の解決方法が唐突だなと最初思ったのですが、間接的に人魚を食べた、という方向性に、なるほどそういう発想もあるのか、となりました
3.90福哭傀のクロ削除
話の流れとして、
人魚に対する食欲が止まらないに対する解決策が
一度食べてみたら食欲が収まるという妹紅の提案はちょっと違和感を覚えました。
妹紅自身が人魚の肉をまずいと思っていて、一度食べたら食べたくなくなると考えているならともかく、
とてもおいしいと思ったうえでこの提案をして当然の結果となる流れはちょっと気になりました。
また700年前とか具体的な数字を出されると、作中でも突っ込まれていますが
そんなに昔の干し肉を食べれるの?とかそもそもそんなに大事にしてたのにあっさりあげちゃうの?とかついつい気になってしまうので
ざっくりと昔くらいでまとめた方が好きかもしれません(八百比丘尼で800年?と絡めたかったのかもしれませんが)。
それはそれとして
どうやって収集をつけるかと思って読んでいましたが、
慧音に歴史を食べさせることで間接的に人魚の肉を食べて呪いを受けてしまったかもしれない、というオチはかなり面白いと思いました。
4.100のくた削除
いいオチでした
とりあえずわかさぎ姫は逃げて
5.100名前が無い程度の能力削除
食欲に忠実な面々が面白かったです。
6.100竹者削除
よかったです
7.100南条削除
面白かったです
友達だけどおいしそう
9.100ローファル削除
面白かったです
ちょっと重いテーマ?の話なのに暗さが全然なくて楽しく読めました