関東某所に位置する東深見高校の一年担当を勤めるエフ氏(仮称)は元々、寝具にはあまり頓着しないタイプの人間であった。
寝れればいいだろとばかりに、家に置いてある寝具はやけに固い安物の枕に煎餅布団のみ。それ以外には何も無い。寒かろうと暑かろうとお構いなく、この二つだけで幾多の夜を過ごしてきた。
野営が趣味という事もあってか、そもそもまともな寝具すら無くてもエフ氏は眠りにつく事が出来る特技を持っている。どんな悪環境でも、たとえそれが枕すら無い野宿であろうとすぐに寝れるというのは彼の密かなステータスですらあったのだ。
ところが最近、そのささやかな自負が粉々に打ち砕かれた。
突然、はたと寝れなくなってしまったのだ。
眠りにつけなくなっただけで眠気はしっかりある。だが、布団に潜り込んでも一向に寝れない。微睡む気配すら無い。いくら寝返りを打っても、どんなに楽な姿勢を取っても。ホットミルクやハーブティー、入眠音声に最近流行りのASMRとありとあらゆる睡眠導入法を試してみるも、全く寝付けないのである。
仕方なく睡眠剤を自殺一歩手前くらいの量でがぶ飲みして無理矢理眠りにつくのが最近のナイトルーティンなのだが、そうすると今度は【寝具の固さが気になって起きてしまう夢】を見る始末。とても安眠には程遠く、エフ氏の疲労は日に日に蓄積していった。
一体何故こんな事になってしまったのか?
心当たりは、一つある。
宇佐見菫子だ。
彼が受け持つクラスの、いや、東深見高校一番の問題児。
テストの点こそ確かに良いが、授業態度は不真面目そのもの。クラスメイトとの会話もほぼなく、口を開いたかと思えば謎の言動ばかりが目立つ非常に扱いにくい生徒。
そんな彼女が全ての原因だ。確たる証拠など無いが、エフ氏はそう確信していた。
§
事の発端は数日前の昼過ぎ頃。お昼休みが終わって一発目の授業、エフ氏が担当する世界史の時の事である。
件の宇佐見菫子が、これまた幸せそうに寝ていたのだ。
もっとも、菫子が高校をどうやら勉学に励む場ではなく昼寝の場だと勘違いしているらしいのは周知の事実。彼女の昼寝癖についてはエフ氏はとうの昔に諦めており、授業の邪魔さえしなければいちいち目くじらを立てたりはしない。
それに昼休みが終わってすぐの授業なのだ。腹を満たしてつい眠くなるなんて事もあるだろうさ、とエフ氏は居眠りに関しては割と寛大な態度をとる方針の人間だった。どうせそれで後々苦労しても本人の問題なのだし。
しかし、しかしである。その日の菫子はあろう事か、枕を持参して呑気に寝てやがっていたのだ。
今までは普通に腕を枕代わりにして突っ伏して寝る居眠りスタイルだったのに、今日は何故か本物の枕。しかも、机からはみ出しているくらいにはどでかい枕である。
お前それは、さすがにそれは無いだろう。エフ氏は思わず天を仰ぎ見た。
エフ氏は決して自分が面白い授業の出来るカリスマ教師などと自惚れてはいない。むしろ居眠りする奴(菫子を除く)がいるのは、己の至らなさが原因であると常々反省して日々改善に励んでいる程だ。
だからって、つまらない授業だからってこの仕打ちは教師に対してあんまりじゃあないだろうか?
怒りのままに揺り起こした菫子がトンチンカンな事を言っていたのも、火に油を注ぐ結果となった。
何が『後ちょっとで月の兎のお団子が食べられたのに!』だ。団子の代わりに拳骨でも食らわせてやろうかとエフ氏は思ったが、最近はそういう体罰に厳しい時勢である事を思い出してどうにか踏み留まった。代わりに馬鹿でかい枕はしっかりと没収する。
「あぁ、止めて! 私のスイート安眠枕がぁ!」
やかましい、何がスイート安眠枕じゃ。ふざけるのも大概にせぇ。
そう心の中で毒突きつつエフ氏は枕を没収したのだが、枕に手を触れた瞬間驚愕に目を見開いた。
夜の様に柔らかな生地、どこか母親の抱擁を思わせる深く暖かく沈み込む魔性の触感、仄かに立ち上る上品な香気。
訳の分からない謎の動物が一面にプリントされているセンスの悪いデザインを除けば、全ての要素が人を眠りに誘う事、その一点のみに集約されている枕がそこにあった。正しく睡魔をそのまま現世に権限させたかの様な枕である。
何だこれは。
こんな枕が世の中にはあるのか。
これと比べたら今まで自分が使っていた枕なんてゴミ同然ではないか。
安眠・快眠・吉夢間違いなしであろう事を確信させてくれる蠱惑的な枕を手に、エフ氏は暫しの間硬直する。
今すぐにでもこの枕に思いっ切り顔を埋めて惰眠を貪りたい衝動に駆られたが、彼は鋼の自制心をもってこれを抑えた。現役JKの持ち物に顔を突っ込むなど、教職でなくとも社会的な破滅待ったなしだ。
エフ氏は高まる睡眠欲をどうにか堪えながら何食わぬ顔で枕を没収し、そのまま授業を続けた。そして、その日の放課後に反省文を提出してきた菫子に内心安堵しつつ、魅惑のふわふわ枕を返却したのである。
§
そんな事があって現在に至るのだが、思えばいっその事あの時に恥も外聞も投げ捨てて枕に顔を突っ込んで堪能しておけば良かった気がしてならない。
あの後どうにも気になり過ぎてネットで調べてみたのだが、どこをどう探してもスイート安眠枕なる商品は存在しなかったのだ。
あんな特徴的なデザインの枕、探せば簡単に見つかりそうなものなのに手掛かりさえ掴めない。オーダーメイドの線も疑ったが、それらしい情報すらとんと見つからなかった。あの品質の高さ、魔性の女を思わせる魅力的な枕だったら話題になっていない方がおかしいと思うのだが。
結局スイート安眠枕を入手する事は叶わず、エフ氏は謎の不眠症に陥り、わだかまる睡眠欲と疲労感に苛まされながら日々を過ごしているという訳だった。
こんな事なら一瞬でも良いからあの枕の寝心地を堪能するべきだった。一体いつになれば安眠を得る事が出来るのだろうか?
そう嘆きながら最近購入した高級ベッドの上で横になるエフ氏に、未だ眠りの時は訪れない。
§
一夜明け翌日。
案の定眠る事が出来ず、スイート安眠枕の幻影を追い求めてひたすらネットの海を無意味にさまよっていたエフ氏は、耳鳴りが酷くなってきたふらふらの頭を抑えながら学校へ出勤した。
本当は有休を取ってゆっくり休みたいところだが、どうせ寝れないので意味が無い。今はどうにかして菫子にコンタクトを取り、あの枕についての情報を引き出す必要がある。
しかし、あの日以降菫子は枕を学校に持って来ておらず、エフ氏の事も極端に避けるようになっていた。
かなりこっ酷く叱ったので当然と言えば当然の反応である。だが、このまま不眠が続くようでは命に関わる恐れもあるだろう。どうにかして早い所、菫子と話す機会を作らねばならない。
「見つけましたよ、先生。おはよーございます」
こうなったら今日にでも適当な理由をでっち上げて個人面談をしてやろうか。そんな事を回考えているエフ氏に、誰かが背後から挨拶してきた。まだ朝も早いのに登校しているとは、なかなか感心な生徒である。
「あぁ、おはよう…………っ!?」
寝不足で凝り固まった顔を無理矢理笑顔の形にして振り返ると、何とそこには今まで散々逃げ回っていた宇佐見菫子その人がいた。しかも、現在進行形でエフ氏を悩ませてならない渦中の枕をその手に持って。
視線を枕に釘付けにされ、二の句が継げなくなるエフ氏。
そんな彼を見て菫子はしたり顔でにやりと笑った。
「先生、不眠がお辛いでしょう? そろそろこの枕が欲しくなる頃合いかなーって思いまして」
その言葉を聞いてエフ氏は悟った。
不眠の原因がやはり菫子にあった事を。そして、それは不幸な事故などではなく全て巧妙に仕組まれた罠であった事を。
枕を見たせいでどっと襲ってきた眠気をどうにか堪えつつ、重い口を辛うじて動かして声を絞り出す。
「は、謀ったな。よくも、こんな目に合わせてくれたな」
「はてー? なんの事やらさっぱり」
わざとらしくとぼける菫子に怒りが湧いてくるエフ氏だったが、それ以上に眠気が強烈過ぎる。思考はおろか呂律すら思うように回らず、全身から力が抜けて地面に膝を着いてしまう。
無理もない。ただでさえ不眠が極まっている所に件の枕を見せられたのだ。耐え難い睡魔に襲われたエフ氏は、それでも菫子の持つスイート安眠枕が無ければ眠れそうにないという不条理な事実に気付き絶望する。
しかし、菫子はそんなエフ氏に救いの言葉を投げ掛けた。
「ご安心下さい、先生。私は今日からかいに来た訳じゃありません。不眠に苦しむ先生を救いに来たんですよ」
「な、なんだと……?」
「先生はこの枕が欲しいんですよね? ですがこの枕、手に入れるには少々特殊な方法が必要でして……今の所は世界中どこを探しても私しか手に入れられないんですよ」
「それが、どうしたと言うんだ」
「ですので、今回は特別にこの枕をお譲りしようかと思うんです。まぁ、勿論タダじゃありません。お譲りする代わりに先生には今後一切授業中に昼寝する私へ干渉しない事、そして他の先生方にもそのように根回しして欲しいんです。簡単なお願い事でしょ?」
「う、宇佐見。本当に、本当にお前と言う奴は……!」
にっこり微笑んでみせる菫子は、エフ氏には悪魔が邪悪に笑っている様にしか見えなかった。可愛い顔をしている癖に、何と悪辣な事を考えつくものか。
その要求はあまりに業腹ものであり、教師としてそれを呑む訳にはいかない。それはちゃんとエフ氏も理解している。
だが、ここで断れば恐らくスイート安眠枕はもう二度と手に入る事は無いだろう。つまり、今後の人生はあの謎の不眠症に苦しめながら過ごさねばならない。果たしてそんな人生に自分は耐えられるのだろうか?
僅かな逡巡の後、エフ氏はがっくりとくずおれた。歯軋りしながら、声を絞り出すように答える。
「分かった……その提案を呑もう……っ!」
「さっすが先生、話が早くて助かるわー。それじゃこれはあげますから、さっきの話はよろしくお願いしますね」
にこやかに枕を手渡してくる菫子に、エフ氏はもはや怒る気力も湧かなかった。彼女の術中に嵌り屈辱的な仕打ちを受けたのは間違いないが、今はそんな事より一刻も早くただただ惰眠を貪りたい。古来より人は睡魔に打ち勝つ事など出来ないのだ。
かくしてエフ氏は学校での信用を大きく失いつつもようやく安眠を取り戻し、菫子もまた学校での平穏な眠りを約束されたのであった。
なべてこの世は事も無し。
§
「…………はぁ、まったく本当にあの娘ときたら」
所変わって夢の世界。
安楽椅子に座って現の世界を覗き見ていたドレミーは、菫子の暴挙に深い溜息を吐いた。
確かにドレミーは菫子に頼み事をした。
外の世界でのスイート安眠枕の販路を確保するその一歩として、忌憚ない意見を頂く為に誰でもいいから外の世界の人間に試供品を渡してきて欲しいと。
これに対し菫子は『任せて! これ以上ないほど自然に渡してみせるわ! 絶対にこの枕のファンになる事請け合いよ!』とやたら自信満々だったので、一抹の不安がありはしたのだが……
「ちょっとばかり、やり方がえげつなさ過ぎやしませんかね」
まさか枕の魅力だけを認識させて、その後は目の前に人参をぶら下げた馬車馬の如くひたすら不眠に追い込み、限界を迎えた所でようやく枕を渡すとは。しかも、そのついでとばかりにしれっと自分の利になるよう脅迫めいた交渉をしているし。そんな過激な手段を取るとはさすがのドレミーも予想外である。
あんな事をされたら誰だってスイート安眠枕の虜になるだろう。果たしてこれで本当に忌憚ない意見が手に入るのか、甚だ疑問である。
「どうも人選を誤った気がしますねぇ……今からでも二ッ岩大明神辺りに頼んだ方が良いのかしら」
そんな事を考えつつも、一応は菫子を除く外の世界初のスイート安眠枕利用者である。菫子のせいで散々不眠に苦しんでいたようだし、アフターケアはしっかりせねばなるまい。
ドレミーは帽子を被り直してふよふよと宙に浮かび、幸せそうに熟睡するエフ氏の夢へと飛んで行くのだった。
寝れればいいだろとばかりに、家に置いてある寝具はやけに固い安物の枕に煎餅布団のみ。それ以外には何も無い。寒かろうと暑かろうとお構いなく、この二つだけで幾多の夜を過ごしてきた。
野営が趣味という事もあってか、そもそもまともな寝具すら無くてもエフ氏は眠りにつく事が出来る特技を持っている。どんな悪環境でも、たとえそれが枕すら無い野宿であろうとすぐに寝れるというのは彼の密かなステータスですらあったのだ。
ところが最近、そのささやかな自負が粉々に打ち砕かれた。
突然、はたと寝れなくなってしまったのだ。
眠りにつけなくなっただけで眠気はしっかりある。だが、布団に潜り込んでも一向に寝れない。微睡む気配すら無い。いくら寝返りを打っても、どんなに楽な姿勢を取っても。ホットミルクやハーブティー、入眠音声に最近流行りのASMRとありとあらゆる睡眠導入法を試してみるも、全く寝付けないのである。
仕方なく睡眠剤を自殺一歩手前くらいの量でがぶ飲みして無理矢理眠りにつくのが最近のナイトルーティンなのだが、そうすると今度は【寝具の固さが気になって起きてしまう夢】を見る始末。とても安眠には程遠く、エフ氏の疲労は日に日に蓄積していった。
一体何故こんな事になってしまったのか?
心当たりは、一つある。
宇佐見菫子だ。
彼が受け持つクラスの、いや、東深見高校一番の問題児。
テストの点こそ確かに良いが、授業態度は不真面目そのもの。クラスメイトとの会話もほぼなく、口を開いたかと思えば謎の言動ばかりが目立つ非常に扱いにくい生徒。
そんな彼女が全ての原因だ。確たる証拠など無いが、エフ氏はそう確信していた。
§
事の発端は数日前の昼過ぎ頃。お昼休みが終わって一発目の授業、エフ氏が担当する世界史の時の事である。
件の宇佐見菫子が、これまた幸せそうに寝ていたのだ。
もっとも、菫子が高校をどうやら勉学に励む場ではなく昼寝の場だと勘違いしているらしいのは周知の事実。彼女の昼寝癖についてはエフ氏はとうの昔に諦めており、授業の邪魔さえしなければいちいち目くじらを立てたりはしない。
それに昼休みが終わってすぐの授業なのだ。腹を満たしてつい眠くなるなんて事もあるだろうさ、とエフ氏は居眠りに関しては割と寛大な態度をとる方針の人間だった。どうせそれで後々苦労しても本人の問題なのだし。
しかし、しかしである。その日の菫子はあろう事か、枕を持参して呑気に寝てやがっていたのだ。
今までは普通に腕を枕代わりにして突っ伏して寝る居眠りスタイルだったのに、今日は何故か本物の枕。しかも、机からはみ出しているくらいにはどでかい枕である。
お前それは、さすがにそれは無いだろう。エフ氏は思わず天を仰ぎ見た。
エフ氏は決して自分が面白い授業の出来るカリスマ教師などと自惚れてはいない。むしろ居眠りする奴(菫子を除く)がいるのは、己の至らなさが原因であると常々反省して日々改善に励んでいる程だ。
だからって、つまらない授業だからってこの仕打ちは教師に対してあんまりじゃあないだろうか?
怒りのままに揺り起こした菫子がトンチンカンな事を言っていたのも、火に油を注ぐ結果となった。
何が『後ちょっとで月の兎のお団子が食べられたのに!』だ。団子の代わりに拳骨でも食らわせてやろうかとエフ氏は思ったが、最近はそういう体罰に厳しい時勢である事を思い出してどうにか踏み留まった。代わりに馬鹿でかい枕はしっかりと没収する。
「あぁ、止めて! 私のスイート安眠枕がぁ!」
やかましい、何がスイート安眠枕じゃ。ふざけるのも大概にせぇ。
そう心の中で毒突きつつエフ氏は枕を没収したのだが、枕に手を触れた瞬間驚愕に目を見開いた。
夜の様に柔らかな生地、どこか母親の抱擁を思わせる深く暖かく沈み込む魔性の触感、仄かに立ち上る上品な香気。
訳の分からない謎の動物が一面にプリントされているセンスの悪いデザインを除けば、全ての要素が人を眠りに誘う事、その一点のみに集約されている枕がそこにあった。正しく睡魔をそのまま現世に権限させたかの様な枕である。
何だこれは。
こんな枕が世の中にはあるのか。
これと比べたら今まで自分が使っていた枕なんてゴミ同然ではないか。
安眠・快眠・吉夢間違いなしであろう事を確信させてくれる蠱惑的な枕を手に、エフ氏は暫しの間硬直する。
今すぐにでもこの枕に思いっ切り顔を埋めて惰眠を貪りたい衝動に駆られたが、彼は鋼の自制心をもってこれを抑えた。現役JKの持ち物に顔を突っ込むなど、教職でなくとも社会的な破滅待ったなしだ。
エフ氏は高まる睡眠欲をどうにか堪えながら何食わぬ顔で枕を没収し、そのまま授業を続けた。そして、その日の放課後に反省文を提出してきた菫子に内心安堵しつつ、魅惑のふわふわ枕を返却したのである。
§
そんな事があって現在に至るのだが、思えばいっその事あの時に恥も外聞も投げ捨てて枕に顔を突っ込んで堪能しておけば良かった気がしてならない。
あの後どうにも気になり過ぎてネットで調べてみたのだが、どこをどう探してもスイート安眠枕なる商品は存在しなかったのだ。
あんな特徴的なデザインの枕、探せば簡単に見つかりそうなものなのに手掛かりさえ掴めない。オーダーメイドの線も疑ったが、それらしい情報すらとんと見つからなかった。あの品質の高さ、魔性の女を思わせる魅力的な枕だったら話題になっていない方がおかしいと思うのだが。
結局スイート安眠枕を入手する事は叶わず、エフ氏は謎の不眠症に陥り、わだかまる睡眠欲と疲労感に苛まされながら日々を過ごしているという訳だった。
こんな事なら一瞬でも良いからあの枕の寝心地を堪能するべきだった。一体いつになれば安眠を得る事が出来るのだろうか?
そう嘆きながら最近購入した高級ベッドの上で横になるエフ氏に、未だ眠りの時は訪れない。
§
一夜明け翌日。
案の定眠る事が出来ず、スイート安眠枕の幻影を追い求めてひたすらネットの海を無意味にさまよっていたエフ氏は、耳鳴りが酷くなってきたふらふらの頭を抑えながら学校へ出勤した。
本当は有休を取ってゆっくり休みたいところだが、どうせ寝れないので意味が無い。今はどうにかして菫子にコンタクトを取り、あの枕についての情報を引き出す必要がある。
しかし、あの日以降菫子は枕を学校に持って来ておらず、エフ氏の事も極端に避けるようになっていた。
かなりこっ酷く叱ったので当然と言えば当然の反応である。だが、このまま不眠が続くようでは命に関わる恐れもあるだろう。どうにかして早い所、菫子と話す機会を作らねばならない。
「見つけましたよ、先生。おはよーございます」
こうなったら今日にでも適当な理由をでっち上げて個人面談をしてやろうか。そんな事を回考えているエフ氏に、誰かが背後から挨拶してきた。まだ朝も早いのに登校しているとは、なかなか感心な生徒である。
「あぁ、おはよう…………っ!?」
寝不足で凝り固まった顔を無理矢理笑顔の形にして振り返ると、何とそこには今まで散々逃げ回っていた宇佐見菫子その人がいた。しかも、現在進行形でエフ氏を悩ませてならない渦中の枕をその手に持って。
視線を枕に釘付けにされ、二の句が継げなくなるエフ氏。
そんな彼を見て菫子はしたり顔でにやりと笑った。
「先生、不眠がお辛いでしょう? そろそろこの枕が欲しくなる頃合いかなーって思いまして」
その言葉を聞いてエフ氏は悟った。
不眠の原因がやはり菫子にあった事を。そして、それは不幸な事故などではなく全て巧妙に仕組まれた罠であった事を。
枕を見たせいでどっと襲ってきた眠気をどうにか堪えつつ、重い口を辛うじて動かして声を絞り出す。
「は、謀ったな。よくも、こんな目に合わせてくれたな」
「はてー? なんの事やらさっぱり」
わざとらしくとぼける菫子に怒りが湧いてくるエフ氏だったが、それ以上に眠気が強烈過ぎる。思考はおろか呂律すら思うように回らず、全身から力が抜けて地面に膝を着いてしまう。
無理もない。ただでさえ不眠が極まっている所に件の枕を見せられたのだ。耐え難い睡魔に襲われたエフ氏は、それでも菫子の持つスイート安眠枕が無ければ眠れそうにないという不条理な事実に気付き絶望する。
しかし、菫子はそんなエフ氏に救いの言葉を投げ掛けた。
「ご安心下さい、先生。私は今日からかいに来た訳じゃありません。不眠に苦しむ先生を救いに来たんですよ」
「な、なんだと……?」
「先生はこの枕が欲しいんですよね? ですがこの枕、手に入れるには少々特殊な方法が必要でして……今の所は世界中どこを探しても私しか手に入れられないんですよ」
「それが、どうしたと言うんだ」
「ですので、今回は特別にこの枕をお譲りしようかと思うんです。まぁ、勿論タダじゃありません。お譲りする代わりに先生には今後一切授業中に昼寝する私へ干渉しない事、そして他の先生方にもそのように根回しして欲しいんです。簡単なお願い事でしょ?」
「う、宇佐見。本当に、本当にお前と言う奴は……!」
にっこり微笑んでみせる菫子は、エフ氏には悪魔が邪悪に笑っている様にしか見えなかった。可愛い顔をしている癖に、何と悪辣な事を考えつくものか。
その要求はあまりに業腹ものであり、教師としてそれを呑む訳にはいかない。それはちゃんとエフ氏も理解している。
だが、ここで断れば恐らくスイート安眠枕はもう二度と手に入る事は無いだろう。つまり、今後の人生はあの謎の不眠症に苦しめながら過ごさねばならない。果たしてそんな人生に自分は耐えられるのだろうか?
僅かな逡巡の後、エフ氏はがっくりとくずおれた。歯軋りしながら、声を絞り出すように答える。
「分かった……その提案を呑もう……っ!」
「さっすが先生、話が早くて助かるわー。それじゃこれはあげますから、さっきの話はよろしくお願いしますね」
にこやかに枕を手渡してくる菫子に、エフ氏はもはや怒る気力も湧かなかった。彼女の術中に嵌り屈辱的な仕打ちを受けたのは間違いないが、今はそんな事より一刻も早くただただ惰眠を貪りたい。古来より人は睡魔に打ち勝つ事など出来ないのだ。
かくしてエフ氏は学校での信用を大きく失いつつもようやく安眠を取り戻し、菫子もまた学校での平穏な眠りを約束されたのであった。
なべてこの世は事も無し。
§
「…………はぁ、まったく本当にあの娘ときたら」
所変わって夢の世界。
安楽椅子に座って現の世界を覗き見ていたドレミーは、菫子の暴挙に深い溜息を吐いた。
確かにドレミーは菫子に頼み事をした。
外の世界でのスイート安眠枕の販路を確保するその一歩として、忌憚ない意見を頂く為に誰でもいいから外の世界の人間に試供品を渡してきて欲しいと。
これに対し菫子は『任せて! これ以上ないほど自然に渡してみせるわ! 絶対にこの枕のファンになる事請け合いよ!』とやたら自信満々だったので、一抹の不安がありはしたのだが……
「ちょっとばかり、やり方がえげつなさ過ぎやしませんかね」
まさか枕の魅力だけを認識させて、その後は目の前に人参をぶら下げた馬車馬の如くひたすら不眠に追い込み、限界を迎えた所でようやく枕を渡すとは。しかも、そのついでとばかりにしれっと自分の利になるよう脅迫めいた交渉をしているし。そんな過激な手段を取るとはさすがのドレミーも予想外である。
あんな事をされたら誰だってスイート安眠枕の虜になるだろう。果たしてこれで本当に忌憚ない意見が手に入るのか、甚だ疑問である。
「どうも人選を誤った気がしますねぇ……今からでも二ッ岩大明神辺りに頼んだ方が良いのかしら」
そんな事を考えつつも、一応は菫子を除く外の世界初のスイート安眠枕利用者である。菫子のせいで散々不眠に苦しんでいたようだし、アフターケアはしっかりせねばなるまい。
ドレミーは帽子を被り直してふよふよと宙に浮かび、幸せそうに熟睡するエフ氏の夢へと飛んで行くのだった。
僕にもその枕売ってください
個人的には少し釈然としない話の流れなのと、
意味ありげにFなんていう割には本当にモブ(読み取れなかったのならこちらの未熟故申し訳ないです)だったのが少しだけ気になりました。
授業中に枕を持ち込んで寝る姿は笑いましたし、
こいつはそういうことしかねないって思ったので楽しめました。
相変わらず?物怖じという言葉を知らない董子ですね。