へとへとだった。息抜きという名目で、最近開園した遊園地に遊びに行ったのはいいものの、人混みとテクノロジーにぎゅうぎゅうに押しつぶされて、息だけじゃなく身体中のだいじなものをありったけ搾り取られたような気がする。夕焼けがやけにまぶしくて、目を細めてしまう。額の汗の感触はお世辞にも心地よいとは言えず、帽子で蒸れているせいで、何度拭ってもべとべとした熱が残っていた。帽子め、でもかぶっちゃう。まだ夜のパレードがあるらしいけど、私はもう満足していた。
「あーつかれた。そろそろ帰りましょ」
「頃合いかもね」
お互いに口数も減っていた。
私より蓮子のほうがよっぽど体力があるはずだけど、誰にでも満足して帰りたくなる時間というのは確かに存在するのだ。非日常的感覚がピークに達して、それがふと疲労によって現実に戻る瞬間、食欲とか帰巣本能みたいな原始的な力が働くに違いない。別れを惜しんで、それを押し殺してうだうだと帰らずにいると、今度はテンションが斜め上に振り切って、夜更かしする羽目になる。聡い者は、一度目のピークで身を引くことができて、そして私たちはとても聡明だった。
遊園地を出ると、まるでそれが合図だと言わんばかりに、蓮子が口を開いた。
「やっぱりさぁ、私たちはさ、ファンタジージャンキーだよねって、そう思った。脚色されているし、雪景色もさ、すす汚れた部分なんて一つもない白銀の世界だし。それでもすごい綺麗だって思っちゃうし、なんだかそれがさ、悔しい気もする」
「妙なリアリズムね、わかるけど」
何処かの資産家の道楽で作られたテーマパークは京都の南端にあって、衛星写真で見るとごく普通なのだが、入り口をくぐるとまるで別世界に誘われたと錯覚するほど自然にあふれているのだ。もちろんレプリカントなのだが、感触や新緑のにおいまで完全再現されていて、まあそれはそれは雄大なのだ。しかも園内で別途購入できる特殊コンタクトを付けると、なんとVR技術による雪景色が堪能できる。ちゃんと寒さも感じるし、雪に触ると溶けてなくなったように見える。口に含もうとしたら蓮子に怒られたからさすがにやめた。コンタクトは四種あって、それぞれ四季に対応しているそうだが、値段が張るので今回は冬だけにした。どういう仕組みなのかわからないけど、自然療法に用いられる医療用器具の応用だと、スタッフが説明していた。脳に直接作用してるらしいので、正直、相当危ないと思う。だけど、そんなことはどうでもいいのだ。私は惰性で科学の美しいところだけを享受できる都合のいい女なのだ。一瞬の楽しみのために、危険を顧みず刹那に生きるのが若者、ひいては大学生が行使できる特権である。蓮子は続けた。
「私たちはさ、ほら遠野に行ってるわけじゃない。本物の、ありのままの自然を浴びるように見ているわけ」
「確かに、ありのまますぎて、ちょっと寂しかったくらいだもの。VR化したほうが綺麗なのは、皮肉よね」
「そうそう、それが言いたかったのよ」
「でもさ、楽しかったでしょ」
「まあね、抗えないよジェットコースターには。まさに安全な恐怖体験ね。どうしてこうも心を揺さぶるのか」
間違いない。怖いもの見たさでついつい首を突っ込んでしまう。私は頷いたが、ふとあることを思い出した。一日中遊んだけど、お化け屋敷に行ってないのだ。ああいうところは、恐怖で溢れているから、本物が混じっていることがあると思う。思ってるだけ。だけど私の第六感はたまに当たる。それなのに、蓮子はむしろ避けていた。安全な恐怖の代名詞と言っても過言ではないのに。
「じゃあお化け屋敷はなんで行かなかったの」
「だって……怖いじゃん」
ずいぶんとかわいらしい理由である。たっぷりと含みを持たせて、面白くなさそうに言うものだから、私はつい、嗜虐的なにやけ面を浮かべてしまった。
「へえー」
「うわ、その目気持ち悪い。普段にもまして気持ち悪い。嘲笑と偏見とわずかばかりの同情とサディスティックな愛撫感情の籠った目だ。まるで社会の冷たい風を受けて乾いてしまった哀れな目だ」
「ひどい」
まるで決まり文句みたいにつらつらと返答された。私の反応を読んでいたに違いない。それにしてもひどい。私は怒ったふりをして俯くしかなかった。
「冗談だって」
「え、何が」
お化け屋敷が怖いのか、先ほどの返答なのか。蓮子はあいまいに笑って、答えてくれなかった。
帰りの電車に乗り込み、蓮子と隣同士で不規則に揺られていると、うとうとしてきた。蓮子もかっくりかっくりと頷くように頭を振っている。目をつむると、遊園地の景色が瞼の裏に浮かんできた。耽美な自然、一面の雪景色は不思議と懐かしく、雪国生まれでもないのに幼少期の色褪せた幻想を思い起こさせた。科学の進歩はとてつもないし、かといって自然に対する恋慕は失わない。これからも日本から四季が消えることはないのだろう。
まるで夢のような空間だった。
「あ」
もしかするとあれ、明晰夢で再現できるんじゃないかと、そう思った。簡単には見れないらしいけど、たぶん私ならできる。まどろみに身をゆだねて、それでもイメージを失わないように、意識を薄めていった。
なんと、いとも容易く成功した。蓮子と話をした影響か、見たのは遠野の風景だった。夜のデンデラ野には何もない。墓もなければ、花も咲いていない。夢だから幻想の影もない。あるのは小さい藁の小屋だけだ。湿った冷たい風が通り抜ける。景色の一部は行燈のようにぼんやりとしていた。完全に覚えてるわけじゃないから、仕方がないけど、それでも綺麗だった。
なんとなく気になってネットで調べているうちに、岩手くんだりまで遠征に行きたくなった。蓮子を巻き込むためのちょうどいい理由が見つかったのだ。
以前遠野には行ったけど、今回の目的地は花巻である。駅の近くに「銀河鉄道の夜」を模した壁画があるのだが、その周辺で行方不明情報がぽつぽつと表出しているのだ。その壁画の鉄道が人を飲み込み、屏風の虎よろしく、夜な夜な走り出すとかなんとか。まごうことなき境界事案である。幻想郷へ続くプラットホームだったら、神秘的で素敵だ。
少し調べてみると、ここ何十年かは壁画の管理者がおらず、放置されていることがわかった。というか、町として機能していないのだ。一部の好事家が私有地として所持しているくらいで、東北に住む人間などいるはずもなかった。
私も住みたいとは思わない。自然は美しいけど、人間は、否、現代人は、否、少なくとも私はインフラ整備なしでは生きていける自信がない。だけど一時の思い出を探す旅をするならば、そんな僻地に赴くのも一興である。
目当ての壁画だが、ルミライトカラーという特殊塗料で描かれていて、昼間は白い輪郭がぼんやりと見える程度だが、夜になるとブラックライトで照らされて、幻想的な宇宙の絵が浮かび上がるそうだ。仕組み自体は古いありきたりなものだけど、境界案件ならば話は別である。
あらかた情報収集し終わって、すでに深夜だったけど私は早速、蓮子を呼び出して提案した。蓮子はディスプレイ越しでいいねと頷いた後、少しだけ考える仕草をしてからこう言った。
「管理者がいないんじゃ、ライトもつかないんじゃない?」
「演劇部から借りていく」
「採用。電源は?」
「電子工学部の巨大バッテリーを借りていく」
「了解。じゃあ私が演劇部ね」
そんな感じで、とんとん拍子に計画ができて、次の日、蓮子が演劇部に交渉に行ったら、顧問の先生が出てきて、理由を根掘り葉掘り聞かれた挙句、手続きの書類を書かされて、審議が通るまでなんやかんやで五時間ぐらいかかったらしい。私たちが不良サークルで信用されてないというのもあるけど、ひどい仕打ちである。
ちなみにバッテリーのほうは私が借りに行った。部長から五分ほど使い方のレクチャーをしてもらって、二時間ほど部員のよくわからない話を聞いたのち、彼らのジュースとお菓子代をおごって、無事借りることができた。しばらくケーキを我慢しないといけないけど、必要経費だから仕方がない。小さめのスーツケースみたいなバッテリーを頑張って持ち帰ったら、腰やら肩やら腕やらが筋肉痛になったけど、それも仕方がない。どのみち生きている限り苦しみからは逃れられないし、世界に楽しいことなんて何ひとつないのだ。冗談、五陰ジョーク。ともかく旅支度をおろそかにしてはいけない。
家に帰ってからお互いに愚痴りあった。
「別に先生が取り仕切るのはいいと思うけど、それはさ、部長が対処できなくなったらでいいじゃない。もちろん使用目的とかさ、そういうのを記載するのは構わないけど、まるで監視されてるみたいな息苦しさを与えるのはどうかと思うな」
蓮子はほとんど一方的に借りようとしたそうだ。演劇部の部長も、最近使っていなかったからと適当に返事をしたらしい。どうやって先生の耳に入ったのかわからないけど、とにかく壊れた玩具さながらうまく歯車がかみ合わなかったようだ。
「適当に流そうとするからよ。ちゃんと話を聞いて、ちょっと金銭を絡めたほうが信用されるはずだわ」
「いやおかしいよ。学校の備品なんだからお金が発生したらだめでしょう」
時間をかけて友好関係を結ぶことと、公正さをアピールし学生の立場を利用すること、どちらがより建設的であるか、そんな不毛な取引論を一時間くらいしてから、時間を無駄にしたことに蓮子が気づき、寝ることになった。私としては、工学部の二時間の話よりよっぽど有意義な時間だったと思うけど、まあいいか。
三日後、電車で岩手に向かった。辺鄙な場所に行きたがる変人はそれなりにいるようで、北は択捉、南は琉球まで、京都から各地へ行けるようになっている。北海道に着く列車で一日に一本だけ、岩手を経由する路線がある。それに乗り込んだが、車内には私たち以外誰もいなかった。独り占め気分である。それに辺鄙な場所に行きたがるような変人と会わなくて済むのもありがたい。流れていく景色を見たり、勤勉さを見せつけるがごとく蓮子の前でレポートを書いてみたりしながら、贅沢に時間をつぶした。
昼の三時過ぎくらいに車内に自動音声が流れた。どうやら花巻駅に着いたようだ。蓮子が立ち上がり、ぷしゅーと缶ビールみたいな音を立てて開く扉を軽やかにくぐった。浮かれているみたいで、なんか可愛らしかった。
「わたくしはずいぶんすばやく汽車からおりたっと」
「焦らないでも壁は逃げないわよ」
「わかってるよ」
私はというと、やたら重いキャリーケースが隙間に引っかかってしまい、尾行を撒くかのごとくドアの閉まり際に下りる羽目になった。危うく北の国に出向するところだった。
降りてみると駅の構内はずいぶんと寂しい感じで、広さはそこそこだが、賑わいはまったくない。昔はコンビニとかが併設していたらしいけど、今は自動改札機が三台ばかりあるだけだ。ちなみにホームにはカプセルホテルの寝室みたいなものが六つほどあって、一応寝泊りできるようになっている。旅館業が廃れてしまってから設置されるようになったらしい。旅人への言い訳じみた配慮のようだ。たぶん今日はここで寝ることになるだろう。ロッカーがなかったのでとりあえずその寝室に、ほとんど椅子みたいな大きさのキャリーケース三つ全部詰め込んで鍵をかけた。
「そんじゃ行きましょ」
「ええ、まだ早い気もするけど」
目的地は目と鼻の先、手を伸ばせば届きそうな距離、とまでは言わないけどすぐ近くである。散歩気分で坂を下るとその壁が左側に見えた。
「ここだよね」
「間違いないわ」
壁は思っていたより高くて広い。果てしないわけじゃないけど、ちょっと圧倒される。世界の広さは感じ取れないけど、自分が小さいことを実感するくらい。壁画は白い線が汚れみたいについているだけで全貌はまったくわからない。ついでにいうと境界のほつれは今のところ見つからない。蓮子は壁にペタペタと手を当てて、こう言った。
「さすがに見えないね」
「まだ昼だしね。街の散策でもしましょ」
私が提案すると蓮子は頷いて、壁から手を離した。そしてその手を私のほうへ……手と手が触れる、目と目が合う、なんて白昼堂々戯れるはずもなく、蓮子は掌を私に見せた。
「なんか湿ってた」
「昨日雨でも降ったんじゃない?」
「こっちは晴れてたけどなぁ」
今日は快晴だが、秘境の天候は変わりやすいというではないか。一説によると天気の七変化が原住民たちを死に追いやったという。あられもなくなだれ込む雨粒や化け物のおしろいみたいな量の雪化粧に翻弄されたのだろう。だが私は違う。雨合羽も持ってきている。なんとこれは水をはじくのだ。万全の武装で乗り込んできたつもりである。
蓮子はそのまま手をスカートのポケットに無造作に突っ込んだ。そして私はハンカチを忘れてきたことを思い出した。なんだろう、重厚な鎧の隙間を針で突かれた気分だった。
シャッター街は音一つない。道を行けども行儀よく整列した店が物静かに佇んでいるだけで、あとは何もない。退屈そうに横たわっている電柱と、でこぼこに歪んだ醜いアスファルトが互いの無気力さを慰め合っているようだ。遠野の神さびた静寂とはまったく別の、まるでたばこの吸い殻のような灰色のさみしさがあった。きっともう終わった場所なのだ。隠れ住む動物も、ひっそりと根を張る花もない。何かが始まるまで、まだまだ時間がかかるだろう。旅の栞にするにはいささか華がないけれど、それでも私は目頭のあたりがほんのり熱くなるのを感じていた。
「なんか、いいよね、こういうの」
抽象的な感想はそのまま蓮子に伝わって、彼女の脳髄からはてなを生じさせた。つまりは何言ってんのこいつっていう顔を隠して、なんとか意味をかみ砕こうとして、そして咀嚼に失敗した顔をされた。
「ああ、その退廃的じゃない?」
「なるほどね」
たぶん無意味な相槌ちだったけど、これ以上言葉で取り繕うと穴を塞ぐためにパンダのアップリケを使って結局悪目立ちしたみたいなことになるからやめておく。一言に意味を凝縮する、これがミステリアス淑女の技法なり。
ぐるりと街をまわって、夕方になったころ、ふと見かけた小さな公園に入った。夜までもう少しあるから休憩しようと蓮子が提案したのだ。遊具は何もないけど、なんか風情がある気がする。またしても言の葉がまろび出たが、緑の美しさは蓮子もさすがに共感してくれた。苔むしたベンチに座ってお茶を飲み、わびさび系女子に変じて談笑しているとあれよという間に時間は過ぎていった。
時ぞ来たりぬ。夜になったから我々は壁へと戻った。借りてきたブラックライトを五つ、できるだけ広範囲が映るように配置して、バッテリーをつないだ。こういう作業はほとんどしたことがなかったけど、存外楽しかった。焦りと期待が雪だるま式に膨らんでいった。何かを積み上げて成功へと昇っていく感覚、数学者の語る快感はたぶんこういうものなんだと思う。
そして指先でスイッチに触れると、まるでピースキーパーの発射権限を任されたかのような、嘘、そこまで狂気的じゃないけど、それらしき興奮が湧いてきた。蓮子もだいぶ昂っているみたいで、こちらに目配せしてきた。
「いくよ、三、二、一、照射!」
蓮子の掛け声に合わせて電源を入れた。暗闇は依然広く、絵は見当たらない。さすがに壁全体を照らすことはできなかったから、手元のライトを少し動かした。しかし、探せど探せど汽車は映っていない。わずかに銀河の絵の名残のある光がぽつぽつとあるばかりで、まるで雨に流されたかのような具合である。
「ない、ない、ないか」
「ないね」
「境界は」
「いまのところは、うーんぼんやりあるかも」
幻想の残滓のようなものは感じたけれども、石鹸の泡の残り香みたいなもので、いずれ霧散しそうだ。壁まで近づいて手で触れてみた。
「あ、乾いてる」
さっきよりはだけど。なぜか昨日まで雨が降っていたことを思い出してしまった。もちろん、雨如きがすべて洗い流せるはずもない。わかっている。けれども、どうしようもなく無念で、つまらない理屈を探してしまう自分が嫌だった。蓮子はこう言った。
「もう飛び立ったのかもしれないわ。だけど、きっと、まだ観測可能な範囲にはいるはずよ」
「そうかもね」
それは誰かを説得しているようで、私が頷くと、呼応するように蓮子は空を見た。星空は真っ黒で、どれだけ見上げても暗い壁がどこまでも続いているようだった。
「あ、曇っていてわかんないや。時間。メリー、今何時?」
「ええと、十二時三十五分よ」
左手首の腕時計を見る。無駄なものばかり持ってきてしまった、と思った。
「どうしようね、駅で寝ようか。目当てのものはなかったし」
頭の後ろで手を組んで、そう言った。こちらを振り向こうとしなかった。その声が涙で滲んでいることはわかった。
だけど、私はこういう時にかける言葉を知らない。だから、うんと頷いて、いそいそとライトの撤収作業をするしかなかった。キャリーケースにすべて詰め込むと、蓮子はこう言った。
「ねえメリー。たぶんこの壁画は幻想郷への入り口じゃないよ。流星は願いとか祈りを背負って落ちるじゃない。きっと汽車はさ、その星屑を燃やして空に昇っているんだ。そんでさ、知ってる? 昨日は流れ星がたくさん降ったんだよ。私たち、乗り遅れちゃったんだ。あーあ、遅刻癖、直さないとなぁ」
その台詞は、あまりに叙情的すぎて蓮子には似合わないと思った。よっぽどがっかりしたのだろう。おそらく蓮子は不思議の本質だけではなく、壁画そのものにも期待していたから。私だってそうだ。岩手の街並みを、歴史を、探訪そのものを楽しみにしていた。ため息が出てしまう。幸せを忘れた壮年期の人みたいな特大のやつ。だけどきっと蓮子の言う通り、すでに空へと旅立ったのだ。前向きに考えようではないか。
ただでさえ重いキャリーケースには、私からあふれ出した無念が詰まって一層重く感じた。さながら船の錨のごとく推進力を奪った。駅に戻ると時刻表を見て、あるはずもない帰りの電車の時間を探した。そうしていとも簡単に諦める理由を見つけて、私たちはホームに設置されている切り取ったハチの巣みたいな寝室に潜り込んだ。私が下で、蓮子が上。鍵はもちろんついているが、せめて夜風を堪能しようと、半ば自棄になってカーテンすら閉めずに「おやすみ」とつぶやいた。蓮子の声は聞こえない。風も吹きこんでこない。毛布にくるまって私は瞼を落とした。
――今こそ明晰夢の出番だ。蓮子を巻き込んで、夢を見てやる。目をつむりながらそう決意した。
ぽつんと夜にさらされた駅のプラットホームに汽車が止まっている。空の色よりもさらに黒い身体で堂々と鎮座し、煙突からもうもうと煙を吐き出している。私はその汽車の腹の中にある木製の椅子に腰かけて、ぼんやりと窓を眺めていた。南の空に赤い星がひとつ、きらりと輝いて、きっとあそこに行くのだという予感があった。
――それなりに再現できているのではないか。ふと、そんなことを思うと身体が自由に動くようになった。大成功だ。たぶん細部はガタガタだと思うけど、ちゃんと動く。そんな気がした。最後尾の車掌車に移ると、だるまストーブがまるで煙突と張り合うかのように負けじと煙を吐いていて、それなのにまったく暑くないので、なんとなくいじらしく思った。デッキに出るとホームにいた蓮子が駆けてきて「これは夢?」と聞いた。
「そうよ」
「だよね、レトロ」
蓮子がおかしそうに笑うので私は嬉しくなって「一緒に行きましょ」と誘った。蓮子は少しだけ考える仕草をしてから、まるではじめから言うことが決まっていたかのようにきっぱりと答えた。
「だめだよ。メリー。そっちには行かない」
「え」
「私は切符を持ってないんだ」
「私が持ってるよ。ええと、ほら、ちゃんと二枚。だからさ」
ポケットをまさぐると二枚切符が出てきたのでそれを蓮子に見せた。蓮子は右手を差し出して、こう言った。
「だめなんだよ。ここはプラットホームじゃない。ちゃんとこれを持って、帰らないといけないんだ」
蓮子の手には何もなかった。
私が言葉を発する前に、蓮子を乗せていない汽車が、勇ましく汽笛を鳴らして、空へと走り出した。
目が覚めた。いやな気分だった。憂鬱、とかではなくて、口の中のねばついた唾液が取れないような、手の甲を蚊に刺されてずっと痒くてたまらないような、そんな気分。のそりと起き上がり、ホームへ這い出た。先に起きていた蓮子は椅子に腰かけて、帰りの列車を待っていた。私を見ると、まるで最初の言葉を決めていたかのようによどみなくこう言った。
「ありがと、メリー」
なんというか、痛かった。私はおはようと返した。
帰りの電車が来るまで私も蓮子もぼんやりとしていた。隣り合わせなのに、ふたりの間に不思議な空気の壁があって、なにを言ってもそれに阻まれるような感じがした。電車に乗り込んでからは寝たふりをした。がたごと揺れる振動に身を預けて、いろいろ考える。取り繕う言葉も、傷をなめる言葉もたくさん思いついたけど、なんとなく言ってはいけない気がした。とりあえず、私の模造品では、蓮子は癒されないんだ。わかったことはそれだけだった。お化け屋敷を嫌がるのだってそうだ。怖いはずがない。それが冒涜に思えて仕方がないのだ。作ったものに現実的な価値がある限り、そこに幻想が潜り込む余地はない。
蓮子が欲しいのはそんなチープで心地よいものじゃない。あの時溢れた涙みたいなものはわずかな感情で、きっとそれは大自然の中で吐いた感嘆のため息とか、おいしいものを見た時に出る唾とか、映画館で感動の音楽が流れた時に強制的に湧き出る液体とか、そういうのと同じで、たいした意味を持ってはいないのだ。私が信じるべきは言葉だった。前を向くための明るい言葉なのだ。
いやな気分はずっと続いたけど、落ち込むのはやめようと思った。
岩手への遠征後、ブラックライトもバッテリーもしっかり返したので、手元には何も残っていない。何もないを持ち帰ってきてから二日が過ぎていた。大学からの帰り道、夕日が沈んでいくのを見て、すでにあの体験は思い出になりつつあることを実感した。
家に戻ってから夕飯を食べていると、宅配便がきた。遠征から帰ってきてすぐに注文した天体望遠鏡がようやく届いたのだ。なけなしのこづかいをはたいて買った、レビューで初心者向けって書いてある中で一番高いやつ。箱を開けもせずそれを担いで、蓮子の住むアパートへ向かった。
まだ何も終わってない。これから始まるのだ。秘封倶楽部、夜の部開始である。
おあつらえ向きに蓮子の部屋はこの三階建てアパートの最上階、しかも角部屋である。ベランダから見れるかもしれない。到着したころにはすっかり暗くなっていた。今日は七夕でも十五夜でもないけど、晴れている。今こそ、だ。大事なのは勢いとタイミング、チャイムも押さず、蓮子の家に乗り込んだ。
「星を見ましょう! 私、星が見たいわ!」
「え、何って」
皿洗いをしていた蓮子が振り向いた。怪訝な顔を無視して、私は玄関先で担いできた段ボール箱を開け、中に入っていた望遠鏡を見せた。
「見つけるのよ。銀河鉄道を」
「え、ああ、なるほど。いいね」
戸惑いながらの納得をもぎ取ったところで、靴を脱いでずかずか上がり込んだ。そして蓮子の部屋で望遠鏡の説明書を広げた。ええと、太陽を直接見ないでください。日差しが当たるところにおかないでください。安定した場所においてください。ふむ。ファインダー、どれだろう。何せこんな超精密機械を扱うのは初めてなのだ。せっかく買ったのに壊してしまったらもったいない。
説明書と格闘していると、蓮子は私の死闘に水を差すようにわざとらしいため息を吐いた。
それだけで全部わかった。なんで家で事前に確認してこなかったのか、連絡の一つもよこさなかったのか、そんな疑問と詰問とあきれの中間みたいな意思があのため息には込められている。だけど蓮子が次に言ったのは思っていたのとは別の言葉だった。
「違うよ。今はここのねじ締めるだけ。倍率は見ながら調整すればいいんだから……」
「あ、そうなんだ。さすが」
やっぱり蓮子のほうがこういうのは得意みたい。それからはふたりで望遠鏡を組み立てた。
「ごめんね、蓮子。今度は一緒に探すから」
鏡筒をとりつけながら私は言った。ちゃんとこれだけは言っておかなくちゃいけない気がした。
「……ありがとう、メリー!」
伝わったはずだ。だからあとは全部大丈夫だと思った。
そしてようやく完成した望遠鏡を外に出そうとして、ふとベランダに目をやった。望遠鏡が置いてあることに気づいた。しかも私のより大きくてこまごましている高そうなやつ。
「あれ、これって」
「あはは、うん天文学同窓会からね」
「なーんだ、どうりで。でもよく借りられたわね」
「ちょっと話をして、そんでこれをね」
蓮子はいたずら顔で人差し指と親指で円を作った。どうやら首尾よく穏便に借用したらしい。ちょっとだけ、もったいないことしたと思った。「まあいっか」そう言ってみると、まあいいかと思えた。
蓮子は少し考える仕草をしてから「せっかくだし屋上行きましょ」と提案した。ふたりで望遠鏡を担いで、音を立てずに階段を上る行為はなんとなく高揚感を煽った。山があれば登るし、塔が建っていても登る。バベルの塔じゃ飽き足らず、人類はロケットまで作った。てんとう虫のように高いところに行きたがるのは、きっと人の本能でどきどきするからなんだと思う。別に悪いことしてるわけじゃないけど、たぶん夜更かしには相対的に背徳感が付きまとうのだ。
「たぶんさ、前言ってた蓮子の仮説、あれ正しいよ。絶対正しい。画竜点睛の龍だってそうなんだからさ、なんかすごい想いが籠ったものは空に飛んでいくのよ!」
「うん、私が言ったんだから間違いない。ついでにさ、もういっこ断言するけど、今日はメリーがいるから絶対見つかる。間違いなく」
それはお世辞や惚気ではなく、確信を持った言葉だった。蓮子が言うことは全部まっすぐに正しいのだ。少しだけ夜風は寒い。だけど絶好の星見日和だった。望遠鏡を二台設置し準備完了。
「さあ秘封倶楽部、夜の部開始よ」
蓮子がそう言ったので私は大きく頷いた。テンション上がってきた。このまま斜め上に振り切る予感。今ならきっと果ての果てまで見渡せる。
レンズの先でいくつもの星が瞬いていた。どれがなんという名称なのかは知らない。誰かに名付けられた光なんて、それほど興味もなかった。
――星を見続けてだいぶ経った。空は広いことを思い知った。しらみつぶしに見回せばいけると思っていたけど、さっきまでどこを見ていたのかすらわからない。蓮子なら正確にわかるんだろうけど、私の目は残念ながらそんな便利機能持ち合わせてはいないのだ。せめて星座の勉強くらいしてくればよかった。まずい、飽きそうだ。寒さのせいで指先の冷たさに意識が持っていかれる。ついでにさっき食べてきた鍋焼きうどんのことを思い出してしまう。凍てつく暁、寒さにひれ伏すわたくし、いや、だめだ。朝が来るまで、いや、見つけるまでずっと眠るものか。バイブスあげていきましょう。四六時中無我夢中が秘封倶楽部流。甘美な夢にただ埋もれるなんて、不良サークルのやることじゃない。我らは夜行性の Primordial Prayer Pryer つまりは幻想に土足で踏み入る愚か者なり!
ふと蓮子のほうを向くと、なにやら肉眼とレンズで空を交互に眺めながら、ぼそぼそと「この辺のはずなんだけどなぁ」とつぶやいていた。
見つけてるはずがないけど私は「見つかった?」と聞いた。蓮子はレンズをのぞいたまま答えた。
「まだ。実はさ、昨日も、一昨日も空を見てたんだ。適当にでっち上げた仮説なんだけどさ、宇宙に対する憧れとか、夢とか希望とか、信仰でもなんでもいいんだけど、汽車がもしそういうので動いているなら、すべての重力を振り切ろうとするはずなのよ。だってそうでしょう、宙を目指す願望は超自然的だもの。だから変な挙動をすると思うわけ。まあ線路みたいなものがなければだけどさ。でさ、あの辺、おかしいのよ。感覚的になんだけど――」
そこで蓮子は「あ」と溢した。ずいぶんと興奮しているみたいで、空を指さしてこう言った。
「彗星だ! しかもわけのわからないやつ! メリー、はやく!」
深呼吸をしてから私は望遠鏡をのぞき込んだ。長い尾の彗星が宙を昇っていた。目を凝らすと、その尾は白い煙のように見えた。
「あーつかれた。そろそろ帰りましょ」
「頃合いかもね」
お互いに口数も減っていた。
私より蓮子のほうがよっぽど体力があるはずだけど、誰にでも満足して帰りたくなる時間というのは確かに存在するのだ。非日常的感覚がピークに達して、それがふと疲労によって現実に戻る瞬間、食欲とか帰巣本能みたいな原始的な力が働くに違いない。別れを惜しんで、それを押し殺してうだうだと帰らずにいると、今度はテンションが斜め上に振り切って、夜更かしする羽目になる。聡い者は、一度目のピークで身を引くことができて、そして私たちはとても聡明だった。
遊園地を出ると、まるでそれが合図だと言わんばかりに、蓮子が口を開いた。
「やっぱりさぁ、私たちはさ、ファンタジージャンキーだよねって、そう思った。脚色されているし、雪景色もさ、すす汚れた部分なんて一つもない白銀の世界だし。それでもすごい綺麗だって思っちゃうし、なんだかそれがさ、悔しい気もする」
「妙なリアリズムね、わかるけど」
何処かの資産家の道楽で作られたテーマパークは京都の南端にあって、衛星写真で見るとごく普通なのだが、入り口をくぐるとまるで別世界に誘われたと錯覚するほど自然にあふれているのだ。もちろんレプリカントなのだが、感触や新緑のにおいまで完全再現されていて、まあそれはそれは雄大なのだ。しかも園内で別途購入できる特殊コンタクトを付けると、なんとVR技術による雪景色が堪能できる。ちゃんと寒さも感じるし、雪に触ると溶けてなくなったように見える。口に含もうとしたら蓮子に怒られたからさすがにやめた。コンタクトは四種あって、それぞれ四季に対応しているそうだが、値段が張るので今回は冬だけにした。どういう仕組みなのかわからないけど、自然療法に用いられる医療用器具の応用だと、スタッフが説明していた。脳に直接作用してるらしいので、正直、相当危ないと思う。だけど、そんなことはどうでもいいのだ。私は惰性で科学の美しいところだけを享受できる都合のいい女なのだ。一瞬の楽しみのために、危険を顧みず刹那に生きるのが若者、ひいては大学生が行使できる特権である。蓮子は続けた。
「私たちはさ、ほら遠野に行ってるわけじゃない。本物の、ありのままの自然を浴びるように見ているわけ」
「確かに、ありのまますぎて、ちょっと寂しかったくらいだもの。VR化したほうが綺麗なのは、皮肉よね」
「そうそう、それが言いたかったのよ」
「でもさ、楽しかったでしょ」
「まあね、抗えないよジェットコースターには。まさに安全な恐怖体験ね。どうしてこうも心を揺さぶるのか」
間違いない。怖いもの見たさでついつい首を突っ込んでしまう。私は頷いたが、ふとあることを思い出した。一日中遊んだけど、お化け屋敷に行ってないのだ。ああいうところは、恐怖で溢れているから、本物が混じっていることがあると思う。思ってるだけ。だけど私の第六感はたまに当たる。それなのに、蓮子はむしろ避けていた。安全な恐怖の代名詞と言っても過言ではないのに。
「じゃあお化け屋敷はなんで行かなかったの」
「だって……怖いじゃん」
ずいぶんとかわいらしい理由である。たっぷりと含みを持たせて、面白くなさそうに言うものだから、私はつい、嗜虐的なにやけ面を浮かべてしまった。
「へえー」
「うわ、その目気持ち悪い。普段にもまして気持ち悪い。嘲笑と偏見とわずかばかりの同情とサディスティックな愛撫感情の籠った目だ。まるで社会の冷たい風を受けて乾いてしまった哀れな目だ」
「ひどい」
まるで決まり文句みたいにつらつらと返答された。私の反応を読んでいたに違いない。それにしてもひどい。私は怒ったふりをして俯くしかなかった。
「冗談だって」
「え、何が」
お化け屋敷が怖いのか、先ほどの返答なのか。蓮子はあいまいに笑って、答えてくれなかった。
帰りの電車に乗り込み、蓮子と隣同士で不規則に揺られていると、うとうとしてきた。蓮子もかっくりかっくりと頷くように頭を振っている。目をつむると、遊園地の景色が瞼の裏に浮かんできた。耽美な自然、一面の雪景色は不思議と懐かしく、雪国生まれでもないのに幼少期の色褪せた幻想を思い起こさせた。科学の進歩はとてつもないし、かといって自然に対する恋慕は失わない。これからも日本から四季が消えることはないのだろう。
まるで夢のような空間だった。
「あ」
もしかするとあれ、明晰夢で再現できるんじゃないかと、そう思った。簡単には見れないらしいけど、たぶん私ならできる。まどろみに身をゆだねて、それでもイメージを失わないように、意識を薄めていった。
なんと、いとも容易く成功した。蓮子と話をした影響か、見たのは遠野の風景だった。夜のデンデラ野には何もない。墓もなければ、花も咲いていない。夢だから幻想の影もない。あるのは小さい藁の小屋だけだ。湿った冷たい風が通り抜ける。景色の一部は行燈のようにぼんやりとしていた。完全に覚えてるわけじゃないから、仕方がないけど、それでも綺麗だった。
なんとなく気になってネットで調べているうちに、岩手くんだりまで遠征に行きたくなった。蓮子を巻き込むためのちょうどいい理由が見つかったのだ。
以前遠野には行ったけど、今回の目的地は花巻である。駅の近くに「銀河鉄道の夜」を模した壁画があるのだが、その周辺で行方不明情報がぽつぽつと表出しているのだ。その壁画の鉄道が人を飲み込み、屏風の虎よろしく、夜な夜な走り出すとかなんとか。まごうことなき境界事案である。幻想郷へ続くプラットホームだったら、神秘的で素敵だ。
少し調べてみると、ここ何十年かは壁画の管理者がおらず、放置されていることがわかった。というか、町として機能していないのだ。一部の好事家が私有地として所持しているくらいで、東北に住む人間などいるはずもなかった。
私も住みたいとは思わない。自然は美しいけど、人間は、否、現代人は、否、少なくとも私はインフラ整備なしでは生きていける自信がない。だけど一時の思い出を探す旅をするならば、そんな僻地に赴くのも一興である。
目当ての壁画だが、ルミライトカラーという特殊塗料で描かれていて、昼間は白い輪郭がぼんやりと見える程度だが、夜になるとブラックライトで照らされて、幻想的な宇宙の絵が浮かび上がるそうだ。仕組み自体は古いありきたりなものだけど、境界案件ならば話は別である。
あらかた情報収集し終わって、すでに深夜だったけど私は早速、蓮子を呼び出して提案した。蓮子はディスプレイ越しでいいねと頷いた後、少しだけ考える仕草をしてからこう言った。
「管理者がいないんじゃ、ライトもつかないんじゃない?」
「演劇部から借りていく」
「採用。電源は?」
「電子工学部の巨大バッテリーを借りていく」
「了解。じゃあ私が演劇部ね」
そんな感じで、とんとん拍子に計画ができて、次の日、蓮子が演劇部に交渉に行ったら、顧問の先生が出てきて、理由を根掘り葉掘り聞かれた挙句、手続きの書類を書かされて、審議が通るまでなんやかんやで五時間ぐらいかかったらしい。私たちが不良サークルで信用されてないというのもあるけど、ひどい仕打ちである。
ちなみにバッテリーのほうは私が借りに行った。部長から五分ほど使い方のレクチャーをしてもらって、二時間ほど部員のよくわからない話を聞いたのち、彼らのジュースとお菓子代をおごって、無事借りることができた。しばらくケーキを我慢しないといけないけど、必要経費だから仕方がない。小さめのスーツケースみたいなバッテリーを頑張って持ち帰ったら、腰やら肩やら腕やらが筋肉痛になったけど、それも仕方がない。どのみち生きている限り苦しみからは逃れられないし、世界に楽しいことなんて何ひとつないのだ。冗談、五陰ジョーク。ともかく旅支度をおろそかにしてはいけない。
家に帰ってからお互いに愚痴りあった。
「別に先生が取り仕切るのはいいと思うけど、それはさ、部長が対処できなくなったらでいいじゃない。もちろん使用目的とかさ、そういうのを記載するのは構わないけど、まるで監視されてるみたいな息苦しさを与えるのはどうかと思うな」
蓮子はほとんど一方的に借りようとしたそうだ。演劇部の部長も、最近使っていなかったからと適当に返事をしたらしい。どうやって先生の耳に入ったのかわからないけど、とにかく壊れた玩具さながらうまく歯車がかみ合わなかったようだ。
「適当に流そうとするからよ。ちゃんと話を聞いて、ちょっと金銭を絡めたほうが信用されるはずだわ」
「いやおかしいよ。学校の備品なんだからお金が発生したらだめでしょう」
時間をかけて友好関係を結ぶことと、公正さをアピールし学生の立場を利用すること、どちらがより建設的であるか、そんな不毛な取引論を一時間くらいしてから、時間を無駄にしたことに蓮子が気づき、寝ることになった。私としては、工学部の二時間の話よりよっぽど有意義な時間だったと思うけど、まあいいか。
三日後、電車で岩手に向かった。辺鄙な場所に行きたがる変人はそれなりにいるようで、北は択捉、南は琉球まで、京都から各地へ行けるようになっている。北海道に着く列車で一日に一本だけ、岩手を経由する路線がある。それに乗り込んだが、車内には私たち以外誰もいなかった。独り占め気分である。それに辺鄙な場所に行きたがるような変人と会わなくて済むのもありがたい。流れていく景色を見たり、勤勉さを見せつけるがごとく蓮子の前でレポートを書いてみたりしながら、贅沢に時間をつぶした。
昼の三時過ぎくらいに車内に自動音声が流れた。どうやら花巻駅に着いたようだ。蓮子が立ち上がり、ぷしゅーと缶ビールみたいな音を立てて開く扉を軽やかにくぐった。浮かれているみたいで、なんか可愛らしかった。
「わたくしはずいぶんすばやく汽車からおりたっと」
「焦らないでも壁は逃げないわよ」
「わかってるよ」
私はというと、やたら重いキャリーケースが隙間に引っかかってしまい、尾行を撒くかのごとくドアの閉まり際に下りる羽目になった。危うく北の国に出向するところだった。
降りてみると駅の構内はずいぶんと寂しい感じで、広さはそこそこだが、賑わいはまったくない。昔はコンビニとかが併設していたらしいけど、今は自動改札機が三台ばかりあるだけだ。ちなみにホームにはカプセルホテルの寝室みたいなものが六つほどあって、一応寝泊りできるようになっている。旅館業が廃れてしまってから設置されるようになったらしい。旅人への言い訳じみた配慮のようだ。たぶん今日はここで寝ることになるだろう。ロッカーがなかったのでとりあえずその寝室に、ほとんど椅子みたいな大きさのキャリーケース三つ全部詰め込んで鍵をかけた。
「そんじゃ行きましょ」
「ええ、まだ早い気もするけど」
目的地は目と鼻の先、手を伸ばせば届きそうな距離、とまでは言わないけどすぐ近くである。散歩気分で坂を下るとその壁が左側に見えた。
「ここだよね」
「間違いないわ」
壁は思っていたより高くて広い。果てしないわけじゃないけど、ちょっと圧倒される。世界の広さは感じ取れないけど、自分が小さいことを実感するくらい。壁画は白い線が汚れみたいについているだけで全貌はまったくわからない。ついでにいうと境界のほつれは今のところ見つからない。蓮子は壁にペタペタと手を当てて、こう言った。
「さすがに見えないね」
「まだ昼だしね。街の散策でもしましょ」
私が提案すると蓮子は頷いて、壁から手を離した。そしてその手を私のほうへ……手と手が触れる、目と目が合う、なんて白昼堂々戯れるはずもなく、蓮子は掌を私に見せた。
「なんか湿ってた」
「昨日雨でも降ったんじゃない?」
「こっちは晴れてたけどなぁ」
今日は快晴だが、秘境の天候は変わりやすいというではないか。一説によると天気の七変化が原住民たちを死に追いやったという。あられもなくなだれ込む雨粒や化け物のおしろいみたいな量の雪化粧に翻弄されたのだろう。だが私は違う。雨合羽も持ってきている。なんとこれは水をはじくのだ。万全の武装で乗り込んできたつもりである。
蓮子はそのまま手をスカートのポケットに無造作に突っ込んだ。そして私はハンカチを忘れてきたことを思い出した。なんだろう、重厚な鎧の隙間を針で突かれた気分だった。
シャッター街は音一つない。道を行けども行儀よく整列した店が物静かに佇んでいるだけで、あとは何もない。退屈そうに横たわっている電柱と、でこぼこに歪んだ醜いアスファルトが互いの無気力さを慰め合っているようだ。遠野の神さびた静寂とはまったく別の、まるでたばこの吸い殻のような灰色のさみしさがあった。きっともう終わった場所なのだ。隠れ住む動物も、ひっそりと根を張る花もない。何かが始まるまで、まだまだ時間がかかるだろう。旅の栞にするにはいささか華がないけれど、それでも私は目頭のあたりがほんのり熱くなるのを感じていた。
「なんか、いいよね、こういうの」
抽象的な感想はそのまま蓮子に伝わって、彼女の脳髄からはてなを生じさせた。つまりは何言ってんのこいつっていう顔を隠して、なんとか意味をかみ砕こうとして、そして咀嚼に失敗した顔をされた。
「ああ、その退廃的じゃない?」
「なるほどね」
たぶん無意味な相槌ちだったけど、これ以上言葉で取り繕うと穴を塞ぐためにパンダのアップリケを使って結局悪目立ちしたみたいなことになるからやめておく。一言に意味を凝縮する、これがミステリアス淑女の技法なり。
ぐるりと街をまわって、夕方になったころ、ふと見かけた小さな公園に入った。夜までもう少しあるから休憩しようと蓮子が提案したのだ。遊具は何もないけど、なんか風情がある気がする。またしても言の葉がまろび出たが、緑の美しさは蓮子もさすがに共感してくれた。苔むしたベンチに座ってお茶を飲み、わびさび系女子に変じて談笑しているとあれよという間に時間は過ぎていった。
時ぞ来たりぬ。夜になったから我々は壁へと戻った。借りてきたブラックライトを五つ、できるだけ広範囲が映るように配置して、バッテリーをつないだ。こういう作業はほとんどしたことがなかったけど、存外楽しかった。焦りと期待が雪だるま式に膨らんでいった。何かを積み上げて成功へと昇っていく感覚、数学者の語る快感はたぶんこういうものなんだと思う。
そして指先でスイッチに触れると、まるでピースキーパーの発射権限を任されたかのような、嘘、そこまで狂気的じゃないけど、それらしき興奮が湧いてきた。蓮子もだいぶ昂っているみたいで、こちらに目配せしてきた。
「いくよ、三、二、一、照射!」
蓮子の掛け声に合わせて電源を入れた。暗闇は依然広く、絵は見当たらない。さすがに壁全体を照らすことはできなかったから、手元のライトを少し動かした。しかし、探せど探せど汽車は映っていない。わずかに銀河の絵の名残のある光がぽつぽつとあるばかりで、まるで雨に流されたかのような具合である。
「ない、ない、ないか」
「ないね」
「境界は」
「いまのところは、うーんぼんやりあるかも」
幻想の残滓のようなものは感じたけれども、石鹸の泡の残り香みたいなもので、いずれ霧散しそうだ。壁まで近づいて手で触れてみた。
「あ、乾いてる」
さっきよりはだけど。なぜか昨日まで雨が降っていたことを思い出してしまった。もちろん、雨如きがすべて洗い流せるはずもない。わかっている。けれども、どうしようもなく無念で、つまらない理屈を探してしまう自分が嫌だった。蓮子はこう言った。
「もう飛び立ったのかもしれないわ。だけど、きっと、まだ観測可能な範囲にはいるはずよ」
「そうかもね」
それは誰かを説得しているようで、私が頷くと、呼応するように蓮子は空を見た。星空は真っ黒で、どれだけ見上げても暗い壁がどこまでも続いているようだった。
「あ、曇っていてわかんないや。時間。メリー、今何時?」
「ええと、十二時三十五分よ」
左手首の腕時計を見る。無駄なものばかり持ってきてしまった、と思った。
「どうしようね、駅で寝ようか。目当てのものはなかったし」
頭の後ろで手を組んで、そう言った。こちらを振り向こうとしなかった。その声が涙で滲んでいることはわかった。
だけど、私はこういう時にかける言葉を知らない。だから、うんと頷いて、いそいそとライトの撤収作業をするしかなかった。キャリーケースにすべて詰め込むと、蓮子はこう言った。
「ねえメリー。たぶんこの壁画は幻想郷への入り口じゃないよ。流星は願いとか祈りを背負って落ちるじゃない。きっと汽車はさ、その星屑を燃やして空に昇っているんだ。そんでさ、知ってる? 昨日は流れ星がたくさん降ったんだよ。私たち、乗り遅れちゃったんだ。あーあ、遅刻癖、直さないとなぁ」
その台詞は、あまりに叙情的すぎて蓮子には似合わないと思った。よっぽどがっかりしたのだろう。おそらく蓮子は不思議の本質だけではなく、壁画そのものにも期待していたから。私だってそうだ。岩手の街並みを、歴史を、探訪そのものを楽しみにしていた。ため息が出てしまう。幸せを忘れた壮年期の人みたいな特大のやつ。だけどきっと蓮子の言う通り、すでに空へと旅立ったのだ。前向きに考えようではないか。
ただでさえ重いキャリーケースには、私からあふれ出した無念が詰まって一層重く感じた。さながら船の錨のごとく推進力を奪った。駅に戻ると時刻表を見て、あるはずもない帰りの電車の時間を探した。そうしていとも簡単に諦める理由を見つけて、私たちはホームに設置されている切り取ったハチの巣みたいな寝室に潜り込んだ。私が下で、蓮子が上。鍵はもちろんついているが、せめて夜風を堪能しようと、半ば自棄になってカーテンすら閉めずに「おやすみ」とつぶやいた。蓮子の声は聞こえない。風も吹きこんでこない。毛布にくるまって私は瞼を落とした。
――今こそ明晰夢の出番だ。蓮子を巻き込んで、夢を見てやる。目をつむりながらそう決意した。
ぽつんと夜にさらされた駅のプラットホームに汽車が止まっている。空の色よりもさらに黒い身体で堂々と鎮座し、煙突からもうもうと煙を吐き出している。私はその汽車の腹の中にある木製の椅子に腰かけて、ぼんやりと窓を眺めていた。南の空に赤い星がひとつ、きらりと輝いて、きっとあそこに行くのだという予感があった。
――それなりに再現できているのではないか。ふと、そんなことを思うと身体が自由に動くようになった。大成功だ。たぶん細部はガタガタだと思うけど、ちゃんと動く。そんな気がした。最後尾の車掌車に移ると、だるまストーブがまるで煙突と張り合うかのように負けじと煙を吐いていて、それなのにまったく暑くないので、なんとなくいじらしく思った。デッキに出るとホームにいた蓮子が駆けてきて「これは夢?」と聞いた。
「そうよ」
「だよね、レトロ」
蓮子がおかしそうに笑うので私は嬉しくなって「一緒に行きましょ」と誘った。蓮子は少しだけ考える仕草をしてから、まるではじめから言うことが決まっていたかのようにきっぱりと答えた。
「だめだよ。メリー。そっちには行かない」
「え」
「私は切符を持ってないんだ」
「私が持ってるよ。ええと、ほら、ちゃんと二枚。だからさ」
ポケットをまさぐると二枚切符が出てきたのでそれを蓮子に見せた。蓮子は右手を差し出して、こう言った。
「だめなんだよ。ここはプラットホームじゃない。ちゃんとこれを持って、帰らないといけないんだ」
蓮子の手には何もなかった。
私が言葉を発する前に、蓮子を乗せていない汽車が、勇ましく汽笛を鳴らして、空へと走り出した。
目が覚めた。いやな気分だった。憂鬱、とかではなくて、口の中のねばついた唾液が取れないような、手の甲を蚊に刺されてずっと痒くてたまらないような、そんな気分。のそりと起き上がり、ホームへ這い出た。先に起きていた蓮子は椅子に腰かけて、帰りの列車を待っていた。私を見ると、まるで最初の言葉を決めていたかのようによどみなくこう言った。
「ありがと、メリー」
なんというか、痛かった。私はおはようと返した。
帰りの電車が来るまで私も蓮子もぼんやりとしていた。隣り合わせなのに、ふたりの間に不思議な空気の壁があって、なにを言ってもそれに阻まれるような感じがした。電車に乗り込んでからは寝たふりをした。がたごと揺れる振動に身を預けて、いろいろ考える。取り繕う言葉も、傷をなめる言葉もたくさん思いついたけど、なんとなく言ってはいけない気がした。とりあえず、私の模造品では、蓮子は癒されないんだ。わかったことはそれだけだった。お化け屋敷を嫌がるのだってそうだ。怖いはずがない。それが冒涜に思えて仕方がないのだ。作ったものに現実的な価値がある限り、そこに幻想が潜り込む余地はない。
蓮子が欲しいのはそんなチープで心地よいものじゃない。あの時溢れた涙みたいなものはわずかな感情で、きっとそれは大自然の中で吐いた感嘆のため息とか、おいしいものを見た時に出る唾とか、映画館で感動の音楽が流れた時に強制的に湧き出る液体とか、そういうのと同じで、たいした意味を持ってはいないのだ。私が信じるべきは言葉だった。前を向くための明るい言葉なのだ。
いやな気分はずっと続いたけど、落ち込むのはやめようと思った。
岩手への遠征後、ブラックライトもバッテリーもしっかり返したので、手元には何も残っていない。何もないを持ち帰ってきてから二日が過ぎていた。大学からの帰り道、夕日が沈んでいくのを見て、すでにあの体験は思い出になりつつあることを実感した。
家に戻ってから夕飯を食べていると、宅配便がきた。遠征から帰ってきてすぐに注文した天体望遠鏡がようやく届いたのだ。なけなしのこづかいをはたいて買った、レビューで初心者向けって書いてある中で一番高いやつ。箱を開けもせずそれを担いで、蓮子の住むアパートへ向かった。
まだ何も終わってない。これから始まるのだ。秘封倶楽部、夜の部開始である。
おあつらえ向きに蓮子の部屋はこの三階建てアパートの最上階、しかも角部屋である。ベランダから見れるかもしれない。到着したころにはすっかり暗くなっていた。今日は七夕でも十五夜でもないけど、晴れている。今こそ、だ。大事なのは勢いとタイミング、チャイムも押さず、蓮子の家に乗り込んだ。
「星を見ましょう! 私、星が見たいわ!」
「え、何って」
皿洗いをしていた蓮子が振り向いた。怪訝な顔を無視して、私は玄関先で担いできた段ボール箱を開け、中に入っていた望遠鏡を見せた。
「見つけるのよ。銀河鉄道を」
「え、ああ、なるほど。いいね」
戸惑いながらの納得をもぎ取ったところで、靴を脱いでずかずか上がり込んだ。そして蓮子の部屋で望遠鏡の説明書を広げた。ええと、太陽を直接見ないでください。日差しが当たるところにおかないでください。安定した場所においてください。ふむ。ファインダー、どれだろう。何せこんな超精密機械を扱うのは初めてなのだ。せっかく買ったのに壊してしまったらもったいない。
説明書と格闘していると、蓮子は私の死闘に水を差すようにわざとらしいため息を吐いた。
それだけで全部わかった。なんで家で事前に確認してこなかったのか、連絡の一つもよこさなかったのか、そんな疑問と詰問とあきれの中間みたいな意思があのため息には込められている。だけど蓮子が次に言ったのは思っていたのとは別の言葉だった。
「違うよ。今はここのねじ締めるだけ。倍率は見ながら調整すればいいんだから……」
「あ、そうなんだ。さすが」
やっぱり蓮子のほうがこういうのは得意みたい。それからはふたりで望遠鏡を組み立てた。
「ごめんね、蓮子。今度は一緒に探すから」
鏡筒をとりつけながら私は言った。ちゃんとこれだけは言っておかなくちゃいけない気がした。
「……ありがとう、メリー!」
伝わったはずだ。だからあとは全部大丈夫だと思った。
そしてようやく完成した望遠鏡を外に出そうとして、ふとベランダに目をやった。望遠鏡が置いてあることに気づいた。しかも私のより大きくてこまごましている高そうなやつ。
「あれ、これって」
「あはは、うん天文学同窓会からね」
「なーんだ、どうりで。でもよく借りられたわね」
「ちょっと話をして、そんでこれをね」
蓮子はいたずら顔で人差し指と親指で円を作った。どうやら首尾よく穏便に借用したらしい。ちょっとだけ、もったいないことしたと思った。「まあいっか」そう言ってみると、まあいいかと思えた。
蓮子は少し考える仕草をしてから「せっかくだし屋上行きましょ」と提案した。ふたりで望遠鏡を担いで、音を立てずに階段を上る行為はなんとなく高揚感を煽った。山があれば登るし、塔が建っていても登る。バベルの塔じゃ飽き足らず、人類はロケットまで作った。てんとう虫のように高いところに行きたがるのは、きっと人の本能でどきどきするからなんだと思う。別に悪いことしてるわけじゃないけど、たぶん夜更かしには相対的に背徳感が付きまとうのだ。
「たぶんさ、前言ってた蓮子の仮説、あれ正しいよ。絶対正しい。画竜点睛の龍だってそうなんだからさ、なんかすごい想いが籠ったものは空に飛んでいくのよ!」
「うん、私が言ったんだから間違いない。ついでにさ、もういっこ断言するけど、今日はメリーがいるから絶対見つかる。間違いなく」
それはお世辞や惚気ではなく、確信を持った言葉だった。蓮子が言うことは全部まっすぐに正しいのだ。少しだけ夜風は寒い。だけど絶好の星見日和だった。望遠鏡を二台設置し準備完了。
「さあ秘封倶楽部、夜の部開始よ」
蓮子がそう言ったので私は大きく頷いた。テンション上がってきた。このまま斜め上に振り切る予感。今ならきっと果ての果てまで見渡せる。
レンズの先でいくつもの星が瞬いていた。どれがなんという名称なのかは知らない。誰かに名付けられた光なんて、それほど興味もなかった。
――星を見続けてだいぶ経った。空は広いことを思い知った。しらみつぶしに見回せばいけると思っていたけど、さっきまでどこを見ていたのかすらわからない。蓮子なら正確にわかるんだろうけど、私の目は残念ながらそんな便利機能持ち合わせてはいないのだ。せめて星座の勉強くらいしてくればよかった。まずい、飽きそうだ。寒さのせいで指先の冷たさに意識が持っていかれる。ついでにさっき食べてきた鍋焼きうどんのことを思い出してしまう。凍てつく暁、寒さにひれ伏すわたくし、いや、だめだ。朝が来るまで、いや、見つけるまでずっと眠るものか。バイブスあげていきましょう。四六時中無我夢中が秘封倶楽部流。甘美な夢にただ埋もれるなんて、不良サークルのやることじゃない。我らは夜行性の Primordial Prayer Pryer つまりは幻想に土足で踏み入る愚か者なり!
ふと蓮子のほうを向くと、なにやら肉眼とレンズで空を交互に眺めながら、ぼそぼそと「この辺のはずなんだけどなぁ」とつぶやいていた。
見つけてるはずがないけど私は「見つかった?」と聞いた。蓮子はレンズをのぞいたまま答えた。
「まだ。実はさ、昨日も、一昨日も空を見てたんだ。適当にでっち上げた仮説なんだけどさ、宇宙に対する憧れとか、夢とか希望とか、信仰でもなんでもいいんだけど、汽車がもしそういうので動いているなら、すべての重力を振り切ろうとするはずなのよ。だってそうでしょう、宙を目指す願望は超自然的だもの。だから変な挙動をすると思うわけ。まあ線路みたいなものがなければだけどさ。でさ、あの辺、おかしいのよ。感覚的になんだけど――」
そこで蓮子は「あ」と溢した。ずいぶんと興奮しているみたいで、空を指さしてこう言った。
「彗星だ! しかもわけのわからないやつ! メリー、はやく!」
深呼吸をしてから私は望遠鏡をのぞき込んだ。長い尾の彗星が宙を昇っていた。目を凝らすと、その尾は白い煙のように見えた。
宮沢賢治は読んだことがありませんし、あまり旅行みたいな風景云々にも惹かれることが少ない人間ですが、
ロマンチックなお話をお洒落な文章力で彩る作者さんの実力はいつもながらに素晴らしかったです。
少々盛り上がりを感じなかった前半ですが、壁画辺りからどんどん面白く、
後半であぁなるほど、こういうまとめ方なのね、となりました。
ファンタジージャンキーでありながらリアルを求め、しかしロマンチストな蓮子も
それを理解して共に歩もうとするメリーも素敵でした。
お見事でした。
二度の借用、模造の銀河鉄道。二人の間柄をさらりと演出しつつ、最後に一人一つずつの望遠鏡で一緒の彗星を望む。この秘封倶楽部の二人の関係と物語の進行が絶妙な塩梅でコンパクトに纏まっていたのも良かったです。
あと、『画竜点睛の龍だってそうなんだからさ』というセリフが一番好きだったように思えます。この興奮しながら言っていそうな言葉遊びのセンス。素敵です。
とても良い作品でした。ハレー彗星を宮沢賢治はどう感じたのでしょうか。
"作ったものに現実的な価値がある限り、そこに幻想が潜り込む余地はない。"
という一文が何とも言えず心に残っています。
ロマンチックな一夜を堪能できました
センスに富んでいて素晴らしかったです
散りばめられたジョークの完成度があまりに高く、嫉妬に悶えるほどに素晴らしい文章でした。お会いしたらぜひ腕を食べに行きたいと思います
こういう旅行してみたいなって思いました。