Coolier - 新生・東方創想話

境界線姫 最終話

2022/11/13 20:04:57
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 平安神宮。
 平安遷都一一〇〇年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会、その目玉として建設されたのがこの平安神宮だ。平安京遷都当時の大内裏の一部が復元され、それは数世紀を隔て、二度目の遷都を経た今もなお凛然と京都の地に存在している。
 見上げる程の高さの大鳥居、鮮やかな朱色の社、美しく白い砂利の敷かれた広大な空間、約一〇〇〇〇坪もある広大な日本庭園。京都の人々にとっては、金閣寺や伏見稲荷大社と同様に馴染み深いスポットだ。近くに広い公園や小学校がある事もあり、休日には多くの人で賑わう。
 だが、今は。
 巨大な正体不明の黒雲が発生し、平安神宮の敷地どころか周囲の公園や幹線道路までをもドーム状に包み込んでいる。そのおかげで鮮やかな本殿を外から見る事もままならない。現在は警察が周囲を封鎖し、黒雲も相まって物々しい雰囲気を醸し出している。警戒態勢を敷く前に数人の怪異狂信者が黒雲へと突っ込んでいったらしいが、未だ黒雲から彼らが出てくる気配はない。
 黒雲の表面は風に揺らいでいるが、平安神宮の付近から離れる事はなく滞留を続けている。まるで黒雲それ自体が、巨大な一つの生物のようだ。だが、その悍ましい光景に反して付近は驚くほど静かだった。
 それは避難が完了して付近にはほとんど人がいなくなった事の証明だった。数名の警察がドームの周囲を等間隔に並んで警備し、怪異狂信者すら近付けない。
 そして同時に、誰かを待っていた。平安神宮を腹に呑み込んだその生物は、招待客がここに来るのをじっと黙って待っていた。

§

「大変な事になったわねぇ」
 その光景、部室のモニターに映し出された緊急速報ニュース番組を、モニター越しに秘封倶楽部の面々は眺めていた。
 いや、正確には一人の異物がいた。そいつは、いつもメリーが座っているはずの椅子に、まるでここが自分の居場所であるかのように当然の顔をして腰掛けていた。
 八雲紫。自分達に御役目を押し付け、そして今の状況を作り出した張本人とも言える存在がそこにいた。そいつはまるで他人事のようにモニターに流れる映像を眺め、頬に手を当ててのほほんとした様子で呟いていた。
 そしてメリーが。いつも隣にいた相棒が、ここにはいない。八雲紫がそこに座っていると、まるでメリーという存在が塗り潰されて否定されたような気分になる。
 だから、自分の声に怒りと苛立ちを籠めてしまうのを、蓮子は抑える事が出来なかった。
「なんであんたがここにいるの?」
「あら、私だって秘封倶楽部の一員のつもりよ? 仲間の、京都の危機だもの。駆けつけるのは当然でしょう?」
 どの口が、と言いそうになるのをどうにか堪えられた自分を誰か褒めてほしい。
 今の今まで、こうしてブリーフィングルームに同席する事などなかった。気まぐれに修行と称して蓮子を弄ぶ以外に、あいつが京都に来る事なんて無かった。土蜘蛛が現れたときも、妖蟲が現れたときも、唐傘お化けが現れた時も現れなかったのに、今更……。
「落ち着きなさい、蓮子」
 蓮子の肩に夢美が手を置く。それでようやく、自分が拳銃を八雲紫に突き付けているのを知った。八雲紫がこちらを見て微笑んでいる。どうせ撃てないと思っているのか、撃ったところで通用しないと分かっているのか、それは分からない。だが、その余裕の笑みには腹が立つ。
「何のつもり? 今更来て、私達を助けてくれるとでも?」
「あらあら、不貞腐れちゃって。そんな可愛い蓮子に、せっかくプレゼントを持ってきたのに」
 プレゼント? と蓮子の頭に疑問が浮かぶよりも先に、八雲紫は手に持った扇を横にすっと振るう。普段、蓮子がグローブを振るうみたいに。
 それと同時に境界が生まれ、そこから一つの人影がブリーフィングルームに降り立つ。紫のワンピースに金色の髪。見覚えがあり過ぎるその顔に、思わず彼女の名前が口から飛び出してくる。
「めっ、……リー?」
 だが、その目は違った。いつもの蘭々とした、そこらの人間よりも人間らしい目と違う、まるで死んだ魚のような……いや、電源の入っていない端末の液晶のような、無機質な目を見れば分かる。
 当たり前だ。八雲紫が、玩具を壊したら自分の手で直すような奴か? とっとと新しいのを買い直すに決まっている。
 そう、

「前のは盗まれちゃったみたいだから、新しいのをあげる」

 ぱぁん、と。
 拳銃の軽い銃声も、ブリーフィングルームの中ではよく響いた。
 飛び出した銃弾はデータの無い自動人形メリーではないものの額に当たり、そのままぽろりと落ちた。傷一つなく、
「あら、どうして? これ・・があれば御役目は続けられるでしょう? それとも、あれ・・に何か思い入れでも?」
「そういう発想が……気に喰わないのよ」
 あっちは怪異で、こっちは人間で。
 一瞬でも理解し合えると、八雲紫を仲間だと思ってしまった自分が恥ずかしいとすら思える。
 げしっ、と。人形を蹴飛ばす。人形は直立不動のまま床に倒れた。八雲紫が、唇を僅かに釣り上げるのを横目に見た。
 こいつに理解してもらおうだなんて思ってないし、頼りにするつもりもない。
 ……これは、私達と羽の妖怪の喧嘩よ。あんたは引っ込んでなさい。
 ちらりと、蓮子は怪異を黙殺して自分達の仲間を見る。
「……で、どうするよ」
 視線に気付いたちゆりがこんこんとテーブルを指で叩く。お前達の事情なんてどうでもいいから早くしろとばかりに。……まあ、どうするって言われても案なんて何もないんだけど。
 歪な羽を生やし、黒雲を放出する妖怪。そんな伝承、聞いた事が無い。聞いた事が無いという事は、妖怪の正体も分からない。相手の情報が分からなければ、作戦の立てようも無いという事だ。
 おもむろに端末を取り出してメリーの連絡先を叩くが、同然のように応答はない。メッセージにも電話にもまるで反応がない。
「何度やっても無駄だぜ。そもそも、あいつの端末は羽の妖怪と接触した時点で既に消失ロストしてたんだから」
「……分かってるわよ」
 羽の妖怪がメリーを連れ去る前に端末を壊しておいたのか、それとも攫われた時の雷で電子機器がサージでもしたのか。いずれにせよ、連絡したところで通じるはずがないというのは分かっている。分かっているのだが、それでも端末を操作する手を止められないでいる。もしかしてと思ってメッセージを送ってしまう。
「メリーからの情報提供は難しそうだな」
「……なら偵察ドローンは使えないかしら」
 夢美の提案に、なるほどと蓮子は早速グローブを手に装着し、端末に表示されたマップを見比べながら境界を作る場所を慎重に選ぶ。羽の妖怪に見つかれば厄介な事になり兼ねないから、安易に作る場所は選べない。
 そうして蓮子が平安神宮の外にある木の陰に手のひらほどの小さな境界を作り、ちゆりがそこから小さなドローンを飛ばす。静音性に優れた、偵察専用機だ。ちゆりがキーボードを叩くと、ドローンに搭載されたカメラの映像がブリーフィングルームのモニターに表示される。画質は少々荒いが、偵察には充分そうだ。モニターには平安神宮の正面にある車道と信号機が映っている。いつもは車通りの多い道も、今は車どころか人ひとり歩いていない。
 あとは羽の妖怪と、メリーが見つけられれば。
 そう、思っていたが。
 ごんっ! と。何かが砕ける音を最後に映像が途切れた。それが羽の妖怪の仕業である事に疑いはなかった。ドローンが結界を越えてから僅か十数秒の出来事だった。唯一、蓮子だけが境界越しに見た。黒いソックスに包まれた足、あの羽の妖怪の足がドローンを踏み抜くのを。
 蓮子はとっさに手を振って結界を閉じる。それだけの動きなのに、妙に息が荒れていた。
 そして、秘封倶楽部の面々はお互いに顔を見比べる。
「……とりあえず、あいつに不意打ちとか通じないってのはよく分かったな。貴重な情報だ」
「まあ、背中から忍び寄って刺すという案にたどり着く前に気付けて良かったわ」
 八雲紫がくすくすと笑っている。私達が随分と滑稽らしい。心底腹が立つが、逆の立場なら自分も笑っていたかもしれない。
 しかしこれでは手を出すどころか情報収集すらままならない。
 しばらく陰鬱な空気が続く。妖蟲の時は秘策を提示してくれたちゆりですら、手詰まりと言わんばかりに苦々しそうな顔をしている。
 蓮子は、部室の白い天井を見上げる。
 分かっている。このままのこのことドームに飛び込めば、簡単に殺される事が。無策で飛び込んで勝てるようななまっちょろい相手ではないという事が。
 けれど。
 それでも、自分に無理矢理言い聞かせるように蓮子は両手でテーブルをばんと叩いてその場に立つ。夢美が、ちゆりが、八雲紫が自分を見ているのが分かる。そして、口火を切った。
「さて、八雲紫からの情報は当てにならない。増援もない。動けるのは私達だけ」
 秘封倶楽部最大の武器となるはずの情報は碌になく、あの羽の妖怪が何かは分からない。メリーが捕らえられた今、実質的な戦力は蓮子一人。おまけに敵は八雲紫にも匹敵する格の怪異。
 絶望的。
 誰もがそう思っていた。誰の口からその言葉が出るかのチキンレース。しかし誰も口を開かない。それを言えたなら、そしてそれで解放してもらえるならどんなに楽か。
 けど。
 それを真っ向から否定するかのように、蓮子は言葉を続けた。
「それでも、私達以外に戦える人間はいないんだから、腹を括るしかないでしょ」
 怪異の存在を公にしていれば、蓮子の代わりに怪異と戦う特殊部隊ができていたかもしれない。御役目の担い手が他にいれば、協力して複数人で怪異と戦う事が出来たかもしれない。
 だが、そんなifに意味はない。今ここにあるのは自分達だけなのだ。無いものを強請っても仕方がない。
 そして、このままあの羽の妖怪に京都を明け渡す選択肢も、メリーを贄として差し上げる選択肢も、あるはずがない。
 だったら。最初から答えは決まっている。後はそれを口に出し、そしてそれを実現させるための勇気と知恵を振り絞るだけだ。
 もう一度、蓮子はテーブルをばんと両の平手で叩く。ここにいる二人の、あるいは自分自身の迷いを振り払うように。
「教授。ちゆり。もちろん、負けてやるつもりなんて毛頭ないわ。人間ってやつの強さと恐ろしさ、見せてやりましょ」
 その言葉に、夢美とちゆりがこくんと頷く。そこにはもう、先ほどまでの絶望感はなかった。敵の強大さを正しく認識し、その上で策を練る。腕っぷしで劣っても頭で上回ろうとする。人間の強さと強かさが、そこにはあった。
「随分と良い顔になったじゃない」
 そんな人間を、八雲紫は笑いながら眺める。その顔はまるで我が子を眺めるかのような、優しい笑みだった。今まで蓮子が見てきた胡散臭いそれとは全く異なるものだった。
「ねえ、どうして貴方は戦えるのかしら? 人でありながら人知を超えた存在に、どうして立ち向かえるの?」
「御役目を押し付けたあんたがいうのね……」
 蓮子は大きく嘆息してから、何を当たり前の事をと言わんばかりに問いに答えた。

「この街を守るなんて、そんなご大層な理由なんてない。私は私のため、私の目的のためだけに戦ってるの」

「それで結構」
 ぱんぱんと、八雲紫はにっこりと笑い、手をゆっくりと叩く。
 それは、八雲紫なりの不器用な激励なのかもしれない。
「あの子は、今なお語られる大妖怪。これまでの木っ端妖怪とは格が違うわ」
 八雲紫は蓮子達に御役目を与えた立場だが、肩入れはしていない。彼女にとって御役目とは遊びの一種であるかのように、自分がゲームマスターであるかのように、秘封倶楽部にも怪異にも等しく振る舞っている。
 だが、今の彼女はゲームマスターとしての立場、それに幻想郷の管理者という立場。自身の中の御役目のルールから逸脱せず、それでもどうにかして秘封倶楽部に寄り添おうとしているような、そんな意図が感じられた。
「だからこそ、貴方ならきっと見破れるはず。なんせ、この私が見込んだこの世界の巫女なのだから。……貴方の帰りを、私は待っているわ」

§

「んっ」
 平安神宮にある本殿の屋根に腰掛けていた羽の妖怪は一人、ぴくんと体を震わせる。
 ぶらぶらと振っていた足を止め、ゆるりと空を見上げる。そこには黒雲で覆われていて星一つ見えない空があったが、羽の妖怪はそんな空は見ていない。
 少女は、少女自身にしか知覚出来ない何かを感じ取っていた。
 ……誰か入ってきた。
 黒雲に覆われた平安神宮は、今や少女の腹の中であり、結界で区切られた一つの世界だ。その中の空気の変化を、少女は手に取るように感じられる。数は一〇。先程の、境界から現れた機械の虫とは全然違う。どうやら表舞台の守護者が侵入してきたらしい。この黒雲と、そして自分を制圧するために。
 ナズーリンと金髪を攫い、平安神宮を黒雲で覆ってから、そろそろ丸一日。黒雲で空は見えないが、外は夕日で赤くなっている頃だろうか。退魔師気取りのあの黒髪が来るのを待っているが、代わりに現れたのはお呼びでない侵入者だった。
 だが、羽の妖怪は確信していた。
 きっと〝あいつ〟は来る。
 ……思い出すなあ、あいつとの事。
 自分がかつてここを恐怖に陥れた時代。鳴き声一つで帝を苦しめた事を、彼女は思浮かべる。あの頃は楽しかった。何をしても人間共は恐怖に慄き、勝手に病を拗らせて倒れていった。
 今の命蓮寺の暮らしが楽しくないわけではない。だが、今が『██』として楽しいのだとすれば、あの頃は『█』としての最盛期だった。
 そして、あいつが現れた。
 人間のくせに、あいつは怪異の前に弓一つで立ち向かってきて……
「無粋だなぁ」
 あいつじゃない。秘封倶楽部の、宇佐見蓮子とやらじゃない。今やって来たのは、無機質な銃器で武装した、妖怪退治の何たるかも理解していないただの人間。
 すっくと、屋根の上に立ちあがる。そこには、獰猛な笑みがあった。獲物を見つけた狩人のような、鋭く、そして楽しそうな笑み。
「今から、お客様を歓迎しなきゃいけないの」
 そして、平安神宮の空に、黒い影が歪な羽を羽ばたかせながらふわりと浮かぶ上がる。
 ……せめて、かませ犬として舞台を楽しく盛り上げておくれよ。

 京都が誇る精鋭の部隊は、この日、目撃する事になる。
 強化プラスチックの銃器から放たれる弾丸を踊るように避け、ポリカーボネートの透明な盾と全身を覆う防弾ジャケットを容易く切り裂く、この世ならざる存在を。
 狩りに来たはずの表世界の守護者はすぐに理解する。狩る者と狩られる者。既に立場は入れ替わっているという事を。

§

 蓮子が境界を抜けて降り立った場所は、平安神宮にある大鳥居前だった。大鳥居の下には、長い通路とその先には赤い社が見える。
 目の前には見上げるほどに巨大な鳥居が立っていた。高さ二四メートル、左右から支える柱ですらそこらの自動車の全長を越えている、文字通りの大鳥居だ。左右は図書館と美術館に挟まれ、芝生の植えられた公園を通ると、羽の妖怪が指定した平安神宮の入り口、応天門がある。
 普段は賑やかなこの場所も、今はしんと静まり返っていた。ただでさえ暗い夜なのに、黒雲のドームが平安神宮の空を覆っており、月の光も届かない。にも拘わらず、黒雲は怪しく雷のような光が断続的に発されており、想像以上に明るかった。
 黒雲を越えるために作った境界を閉じ、蓮子は周囲を見渡す。が、ここには誰もいない。メリーも、ネズミの妖怪も、羽の妖怪も。後ろを振り返ると、近代的なプロテクターに身を包んだ人達が何人も倒れていた。意識のある者は誰もいないが、見たところ外傷もなく、生きてはいるらしい。その周囲には切り裂かれた銃器があちこちに散らばっており、それだけでもここで起きた出来事が常識の範疇を超えている事を物語っている。
 と、そこで気付く。インカムがざーっと単調なノイズを繰り返してばかりで教授やちゆりの声が聞こえない事に。
「……ちゆり? 教授?」
 インカムをコツコツと叩いて呼び掛けるが反応はない。こんな時に故障かと毒づこうとしたが、即座に原因に気付く。
 どうやら、蓮子の背後にあるこの黒雲の壁が原因らしい。中と外を遮断する結界として機能しているのか、それとも黒雲の中で妖しく光る雷光が電波通信を妨害しているのか。
 偵察用のドローンが通信できていたのは開いたままの境界とブリーフィングルームを経由して通信していたからだろう。機器同士で電波が届けば通信できる、いわゆるトランシーバーとは違い、あくまでこのインカムは電話回線網を使って通信しているものだ。機器が真横にあったとしても、近くのアンテナや基地局とやり取りできなければ端末同士の通信なんて出来るはずもない。
 蓮子は黒雲のドームが空を覆う景色を見上げながら、思う。
 ……こんな事にも気付かないまま乗り込むだなんて、ホント馬鹿みたい。早速、幸先不安になってきたわ。
 蓮子の仮説が正しければ、境界で中と外を繋げばインカムは使えるようになるだろう。だが、蓮子には悠長にそれを検証する時間はなかった。
 なぜなら、蓮子は見つけてしまったからだ。空を見上げていた視線を前へと戻そうとした、その瞬間に。
 高さ二四メートル、幅一八メートル。自動車よりも太い柱を両脇に置き、片側一車線の道路をまたぐようにして渡された大鳥居の笠木の上に、小さな影を見つけた。その影は遠くてよく見えないが、少女の形をしているように見えた。
 そして、小さな影も侵入者の視線に気付いたらしい。頭上から声が降ってくる。
「ん? なんだお前、私の姿が見えるのか?」
「……そういうのって、もっと小さな鳥居でやるものでしょ? 座ってるところが高すぎて物理的に見えないわよ」
 少女の呟きが辛うじて聞こえてきたが、地上から鳥居の上まであまりにも遠すぎて声が霞んでしまっている。オマケに少女のまとう服は黒く、黒雲が漂う空模様に溶け込んでいて視覚的にも見えにくい。少女がイメージしているのは『鳥居に座る神様が霊感の強い少年少女に話し掛けている』だろうが、傍目には『鳥居に登って降りられなくなったクソガキが助けを呼んでいる』にしか見えない。
「大丈夫? そこから降りられる? この黒雲のドームが無かったらレスキューを呼んであげられるんだけど」
「私を誰だと思ってるのよ。そんなの必要ないわ」
 ひょいっと、まるで椅子から立つみたいに少女が鳥居から飛び降りる。蓮子の脳裏に飛び降り自殺という言葉と嫌な未来予想図が過ぎるが、当然のように少女は木の葉が舞い落ちるようにゆっくりと降りてくる。
 いや、少女のはずがない。ただの少女が、あんなところに登れるはずがない。
 少女は地面に降り立ちはせず、その数メートル上で静止する。その背中には歪な赤と青の羽が見えた。
 羽の妖怪が、こちらを見下ろしている。背中の羽を妖しく蠢かせ、どこから取り出したのか身の丈もある三又槍トライデントをくるくると回す。その姿を、少女なんて可憐な言葉では表現出来ない。そこにいるのは、紛れもなく科学世紀に降り立った大妖怪、怪異だ。
「随分と高いところが好きみたいね」
「そうだね。どうやら、私は高いところが好きみたいなの」
「一応言うけど、この見るからに吸っちゃ駄目な黒雲を消してメリーを返してくれて、ついでに大人しくあっちに帰ってくれるっていうたら、見逃してあげてもいいわよ」
「はっ。なに言ってるか分かんないね」
 もはや言葉は通じない。いや、相手は自分の話す日本語を正しく理解している。理解していながら、衝突は避けられないらしい。むしろ羽の妖怪は衝突する事を望んでいるようだった。
 それを口ではなく行動で示すかのように、羽の妖怪はカードを扇のように広げる。もはや見慣れた光景になりつつある蓮子には分かる。あれはスペルカードだ。
 弾幕ごっこが、始まろうとしている。
「ずっと、あんたが来るのを待ってた。ようやく退屈が終わりそうだ」
 そして、その一枚を抜いて天に掲げ、大妖怪は高らかに宣言した。

 ――妖雲「平安のダーククラウド」

「さ、始めようか」
 羽の妖怪はいつの間にか周囲に浮かんでいた黒雲を一欠片、蓮子に向けて投げる。まるで大きな綿飴を適当に摘んで千切って、友達に分け与えるみたいに。それはしばらくふわふわと空中に漂ってから、派手な雷鳴と共に雷を放出する。あいつがメリーを連れ去る前に使っていたものと同じだ。蓮子にまで落雷は届かなかったが、その音は本能的に人を怯えさせ、足を竦ませる。
 しかし羽の妖怪は、まるでデモンストレーションは終わったとばかりに大量の黒雲をばら撒く。綿飴の一欠片なんてみみっちい真似はせず、空に浮かぶ入道雲を毟って手当たり次第に投げつけるようなやり方。
 大鳥居を丸ごと覆い隠すほどの黒雲だが、しかしそれは隙間なく敷き詰められて蓮子を圧し潰すような事はせず、大通りにまだら模様を描くように黒雲同士の隙間を開けたまま、ゆっくりと蓮子へと迫ってきている。
 隙間はある。ただしそれはミスや実力不足で偶発的に生まれたものではなく、羽の妖怪が意図して設けた空間だった。
 トラップか、あるいは挑発か。あるいは弾幕ごっこという名の遊びのつもりなのか。
 黒雲を出し続ける羽の妖怪を睨みつけると、対象はこちらを見てくすりと笑うと、平安神宮本殿まで続く長い道路をゆっくりと後退し始める。
 追い掛けてこいと。弾幕ごっこらしくその隙間を抜けて私を追ってこいと。蓮子は口に出されずとも理解した。
 ……くそっ、やっぱりメリーを探す余裕なんてないみたい。こいつは私が引き受けるから、二人ともちゃんと仕事してよね!
 羽の妖怪が後退する。それを追い掛けるように蓮子が弾幕に身を投じる。
 頭のすぐ側で轟く雷鳴、触れるだけで得体の知れない悪寒を与える黒雲、当たれば体が灰と化す高圧電流。それらが与える恐怖心を抑え、時には境界を作って目の前の黒雲を呑み込ませながら、羽の妖怪へ足を向けて走る。もし取り逃がせば、羽の妖怪はメリーを殺しに行くのではという想像を押し殺し、ただ大通りを駆ける。
 人間と大妖怪、到底追い付けるはずのない追い掛けっこが始まる。
 
  §
 
 平安神宮神苑。
 平安神宮の本殿、大極殿の周囲三方をぐるっと取り囲むようにして作られた、池泉回遊式の近代日本庭園だ。広大な池のほとりには大量の草木が植えられていて、桜や松、睡蓮と季節に応じて様々な顔を見せてくれる。また池には飛び石や小島も配置され、見る者を楽しませてくれる。貴重な自然と手軽に触れ荒れる場所でもあるため、京都でも人気のスポットだ。観光客はもちろん、京都で暮らす人々も自然の癒しを求めて訪れる人が多い。
 そしてもう一つ、観光地以外にも人々に人気の理由がある。それは結婚式場としてだ。
 緑に囲まれた美しい景観。大きな池の上に掛けられた橋殿、泰平閣の上を愛する者と歩く。木々の緑、木造の橋殿の檜皮色、その上を歩く白無垢と黒の羽織袴。そのコントラストは京都で結婚式と言えばまず思い浮かべる光景だ。
 だが、今は。
 池に掛けられた橋殿に、二人が縛られていた。いや、二〝人〟というのは少々語弊があるだろうか。なぜなら、方やネズミの属性を持つ妖獣、方や妖力で動く自動人形オートマタ。人間なんてどこにもいないのだから。
 メリーは共に後ろ手で縛られた状態で橋殿の上に座っていた。親指と手首を合わせるようにロープで固く縛られ、その上から肩から肘に掛けてミノムシのようにぐるぐる巻きにされている。メリーは足をどうにか動かそうとするが、せいぜい正座を崩して女の子座りか横座りするくらいしか出来ない。立ってこの場から逃げるなんてもってのほかだ。
 橋殿の上で自動人形オートマタと妖獣が縛られているなんて、風情もあったものではない光景が広がっていた。
 そんな中、同じように縛られて隣に座る、ナズーリンと名乗った妖獣はといえば。
「……鯉の餌なんて美味しいの?」
「お世辞にも美味しくはないが、聞いたところじゃこの世界じゃ食べ物なんて全部人工物なんだろう? だったら人間の餌も鯉の餌も同じじゃないか」
 もそもそと、橋殿に設置されていた鯉の餌を食べていた。棒状に固められ、本来は千切って池の鯉に与えるものを、妖獣は器用に尻尾で掴んで口に運んでいる。まるで昔流行ったスナック菓子を彷彿とさせる。妖獣の背丈が子供と変わらないのも、そう思ってしまう理由かもしれない。
「だからって、この状況でよく喉が通るわね」
「ネズミだからね。何か食べていないと落ち着かないのさ。君も食べるかい?」
 食べ掛けの餌を口に咥えたまま、これまた器用に尻尾を操って箱からもう一本の餌を取り出し、メリーに差し出す。
「……遠慮するわ。鯉やネズミの食事を奪うほど落ちぶれちゃいないもの」
「そうかい」
 ナズーリンは口に咥えていた食べ掛けを口の中へ押し込み、メリーに差し出していた一本に口を付ける。
 随分と呑気だな、とは思う。だが一方で、何か出来る訳でもないというのもまた事実だった。
 メリーは手に力を籠め、自身を縛る縄を引き千切ろうとする。だが、どれだけ力を籠めても腕はびくともしない。
 いや、違う。
「どうも、力が入り辛いのよね……あいつ、相当縛り慣れているわね。そういう趣味?」
 どれだけ手や腕に力を籠めても、それを縄へ向ける事が出来ない。縄なんて簡単に引き千切れるはずの膂力が、肩甲骨の当たりで渦巻くような感覚。無理に力を入れようとすると肩が空中分解してしまいそうだ。
 メリーの体は自動人形オートマタだ。だが、その関節は人間のそれと構造を模して作らており、関節の数も可動域も人間と同じだ。上手く縛る事ができれば、柔道のメダリストだろうがトップクラスのボディビルダーだろうが剛腕の自動人形オートマタだろうが動きを縛る事が出来る。どれだけ腕力が強くとも、それを『縄を引き千切る』という行為に転換できなければ無用の長物だ。
 ここに連れてこられてから既に何度も縄を引き千切ろうとトライしているが、やはり力業で抜け出すのは無理そうだ。
 ……これが終わったら腕に仕込みナイフでも付けてもらおうかしら。
「貴方も妖怪なんでしょ。だったらこれくらい簡単に引き千切れるんじゃないの?」
「非力なネズミにそんなものを求めないでくれ。近くに協力してくれそうなネズミ達もいないし、それに縄を解いたところであいつ・・・が……」
 何かを言い掛けたナズーリンの口が止まる。メリーが気になって少女を見れば、口に鯉の餌を咥えたまま一点をじっと見ていた。
 釣られるようにそちらを見れば、そこには一本の線が空間に浮かび上がっていた。遠近感のない、まるで風景画の上からペンで縦に線を引いたような光景。
 ナズーリンは初めて見るものなのかもしれないが、メリーには馴染みのある光景だった。
 即ち、境界が現れる前兆。
 その線はぱくりと横に開く。その境界の先に見えたのは、いつものブリーフィングルームだ。そしてそこから、いくつかのドローンが飛び出してくる。
「ちゆり、なの?」
『大鳥居のあたりで宇佐見と羽の妖怪がぶつかるとして、あんたらは邪魔にならない日本庭園に置くと教授は踏んでいたけど……こうもあっさり見つかるとはな』
 ぽつりと呟いた声に、ドローンの一体が返事をした。その声は質の悪いスピーカーでも声の主がよく分かる。椅子の人担当、北白河ちゆりだ。
『ドローンを落としに来ないって事は、あの妖怪は蓮子が引き付けてくれているみたいだな。……おい、いつまで大人しく座っているんだ。蓮子があれと戦っているんだ。早くお前も加勢してやれ』
「そうしたいのは山々なんだけど、そう出来ない事情があってね」
『なんだ、縛られてるのか? だったら待ってろ、ドローンのプロペラでロープを切断してやるから……』
 だが、その言葉は遮られる。
 何の前触れもなく池の表面が盛り上がり、それは大きな波となる。波はドローンを呑み込み、そのプロペラを橋の上に叩き付ける。
『なんだくそっ、何が起こった⁉』
『あのさあ』
 辛うじて壊れていなかったスピーカーからの疑問の声に、誰かが返答する。それはメリーでもナズーリンでもなかった。まるで池そのものが喋ったかのように、池の表面全体が振動し波打ちながら声を作る。
『そんなオモチャじゃなくて、人間が出てきてくれない? こんなの溺れさせたって何にも面白くないよ。せめて船の形をしたものはないの?』
 そして、水を巻き上げながら池から一つの影が現れる。
 ちゆりのそれとよく似たセーラー服をまとい、穴の空いた柄杓を手に握っている。しかしその格好からは、学生というよりもその服本来のあり方、水兵のイメージを想起させる。錨の)マークが刺繍された船長帽を被っているからだろうか。
 ……まさか、ずっと私達を池の中で見張ってたっていうの?
 突然池から現れた怪異。それに誰よりも真っ先に反応したのは、ナズーリンだった。
「……まさか、君があいつに付いていたなんてね」
「珍しく、あの子から頼まれたんでね。私も一肌脱いでやりたくなったのよ」
 水密と呼ばれた怪異は、まるで剣の切っ先を決闘相手に向けるみたいに底の無い柄杓を境界へ向ける。
「そこにいるんでしょ? 人間様がさ。せっかくだから外で私と遊びましょ?」
 物腰こそ柔らかいが、そこには人間への歪な欲が、怪異らしく人間を襲いたいという欲が見え隠れしていた。やはり奴もまた、紛れもない怪異なのだ。
 しばらく静寂が続いたが、やがて視界の奥から人が現れる。そこにいたのは、全身真っ赤な大学教授だった。
「まさか貴方が出てくるなんて」
「後ろでふんぞり返ってるだけの裏方担当とは思われたくないのでね」
 メリーの軽口に、夢見は不服な評価だと言わんばかりに鼻を鳴らして返答する。そういえばメリーは度々そんな事を言って夢美を弄っていたし、蓮子もそんな事を愚痴っていたような覚えがあるような無いような。
 ……もしかして気にしていたの?
「貴方は?」
「私も、そこで縛られている奴と同じ、あんたらみたいな怪異を退治する秘封倶楽部の一員なの。私達と戦うというのなら、退治される覚悟くらいしておいてちょうだい」
 水密の疑問の声に、夢美は小さな拳銃を突き付けながら答える。蓮子のそれよりも一回り小さい。それを見て、水密は腹を抱えて笑う。
「あっはっはっはっはっは! そんな小さな鉄砲で私を殺せると?」
「これは対怪異のために専用の弾丸が込められていてね。あんたを内側から破壊するわ。蜘蛛女も妖蟲も、こいつで屠ってきたんだから」
 水密がひしゃくを魔法のステッキみたいに振るう。それに合わせるように、池の水が揺らいで波を作り出す。
 それを見ながらメリーは思う。夢美の言葉はハッタリだ、と。
 その弾丸を作るためには、対象がなんの怪異かを知り、そこから伝承を紐解いて、それで初めて3Dプリンターは弱点を出力できる。あのセーラー服女が何の怪異か分からない今は、あの拳銃に装填されているのはただの鉄の弾にしかならない。
 こんこんと、肩をぶつけるようにして小声でナズーリンに話し掛ける。
「ねえ、あいつはなんなの? 貴方の知り合い?」
「彼女は村紗水密。舟幽霊で、私と同じ寺の所属だよ」
 舟幽霊。
 日本各地の伝承で語られる存在で、海上の幽霊が怨霊となったものだ。ひしゃくで水を汲みいれて船を沈没させるなどと信じられている。
 その姿は地方や伝承によっていくつかに大別され、船と亡霊がセットで水上に現れるもの、帆船など船そのものが亡霊として現れるもの、人の乗っている船の上に亡霊だけが現れるものとさまざまだが、目の前の存在は後者に分類されるものだろうか。
「かぁ~」
 メリーがその言葉に反応するよりも先に、水密が大きく嘆息しあからさまに肩を竦める。心底がっかりだとでも言わんばかりに。
「乙女の秘密をばらすなんて、褒められた事じゃないね」
 水密がその場で落下し、池に着水する。人間大の物体が池に落ちたにも関わらず、水飛沫どころか波紋一つ起こさずその体が池へと吸い込まれていく。
「あいつ、どこに……」
 夢美が拳銃を片手に周囲を警戒する。奴が本当に舟幽霊なら、おそらく奴の次の行動は背後から現れて池へ引き摺り込み、そのまま溺死させてくるだろう。拳銃を池に向けてじりじりと後退し、池のほとりで止まる。背後には木々が鬱蒼と生えており、池は彼女の前にしか存在しない。そうやって池に拳銃を向けていれば不意を付かれる事はないと、そう思っていた。
 そしてその予想は、部分的に的中していた。

「ばあ」

 池から出てきた舟幽霊はナズーリンの背後に音も無く現れる。まるで橋殿に使われる材木の隙間から滲み出るように出現した。メリーや夢美はもちろん、ナズーリンですら反応出来なかった。
 舟幽霊は背後からナズーリンの体を掴み、そのまま手すりの上を乗り越えるように軽々と持ち上げる。
「『黙ってて』なんて言っても私の言う事なんて従うつもりなんてないでしょ? どうせ窒息死なんてしないんだし、ちょっと水底で我慢しててね」
「ネズミちゃん!」
 とっさに手を伸ばそうとするが、当然縛られているのだからそんな事が出来るはずもない。メリーの体は地面の体を転がるばかりで、橋殿を離れていくナズーリンを掴めない。
 それが分かっているのか、ナズーリンはメリーへ手を伸ばそうともしなかった。池に吸い込まれるまでの僅かな時間を、助けを求めるでも水の底に溺れる恐怖に慄くでもなく、その言葉を発するために使った。

「縄を切るんだ!」

 池の底に落ちるまでの数秒。その間に残した最後の言葉は、水密でも、メリーでも、ましてや夢美に宛てられたものでもなかった。
 だが、その言葉は届いた。夢美と一緒に境界を渡ってきた、小さな先兵の耳に、はっきりと届いた。
 ぷちん、と。
 メリーの背後で小さな音が鳴った。それと同時、両手の手首を封じていた圧迫感が消える。体を腕ごとぐるぐる巻きにしている紐はまだ残っているが、それでも手首から先が動くようになる。
 橋殿の上で倒れながら体を転がして後ろを見ると、そこには一匹の小さなネズミがいた。その足元には切断されたロープが落ちている。
「なるほど。この子、蓮子の服に忍び込んでいたのね。羨ましいこと」
 羽の妖怪がナズーリンと自分を連れ去った時、どうやらナズーリンが臣下の一匹を蓮子に忍ばせていたらしい。その子はブリーフィングルームで蓮子の下を離れ、夢美についてくる形で境界を越え、この場に現れた……とメリーは推測する。
 まだ腕は縛られて橋殿の上に転がされたままだが、それでも指でネズミの頭を撫でると、ネズミが気持ちよさそうに目を細める。
 ……さすが自称賢将。抜け目のないところは蓮子そっくり。
「ありがと、後は大丈夫よ。巻き込まれる前に早く隠れなさい。あと教授もね」
 言葉が通じているのか分からないが、メリーがぽつりと呟くとネズミはてちてちと走って茂みに隠れる。
「ハーン、これを」
 夢美が手のひらに収まるほどの大きさの何かをメリーへと投げ、そして二人から離れて近くの社へと避難していく。投げたものはどうやらインカムだったようで、メリーの目の前に転がってくる。夢美が姿を隠すのを見届けてから、メリーは両手を縛られたまま足だけで器用に立ち上がる。 
 池の中央には水密が水面に立っている。その足元からはぷくぷくと浮き上がってきた泡が割れて小さな波紋を作っている。
 ナズーリン、彼女がその下にいる。自分が助かるよりも、メリーを解放する事を優先した、賢将が。
「ふんっ!」
 いっそ男らしい掛け声と共に、両手に力を込める。それだけで、メリーをぐるぐる巻きにしていた縄がぶちぶちと簡単に引き千切れてその場に落ちる。
 両手は完全に解放された。目の前で手を握って開く。ごきんごきん、と。自動人形オートマタの骨が軋み、その音が体内を伝わって鼓膜を震わせる。
 橋の上に転がっているインカムを自分の耳に装着する。さーっという微かなノイズしか流れていないが、これを着けると不思議と御役目が始まるんだって気分になる。
「妖怪を助ける義理なんてないんだけど」
 メリーが拳を握る。その細腕からは想像も出来ない力が、彼女の体に蓄えられる。

「さあ、無礼な輩には即刻退場してもらって、ネズミちゃんと蓮子を迎えに行かないとね」

§

 ――正体不明「哀愁のブルーUFO襲来」

 黒雲を掻き分けながら大通りを駆け抜け、外と平安神宮の入り口となる朱い柱と蒼い屋根で構成された社殿、応天門の前へとたどり着いた蓮子を待っていたのは、羽の妖怪が繰り出した大量の未確認飛行物体だった。
 羽の妖怪の周囲に、大量の青いUFOらしきものが飛び交う。アダムスキー型というのだったか、球体と円板を組み合わせたような典型的な形状の未確認飛行物体は、大妖怪を中心に円陣を組むようにして飛んでいる。
 一つ一つは宇宙人が中に乗るというにはあまりにも小さい。せいぜいその上に腰掛けるのが限界というか、大きめのバランスボールくらいのものでしかない。それでも、そんなものが空中に五も十も宙に浮かんでいれば現実感が喪失する。まるでそこだけがカートゥーンのアニメの世界だ。
 もちろん、羽の妖怪はUFOを見せびらかしたくて飛ばしているのではない。
 円形に飛ぶUFOがレーザーを乱れ撃つ。レーザーを人間の目で視認する、というのも変な話だが、とにかくレーザーとしか形容出来ない光の線が放たれ、砂利の敷かれた地面に小さな穴を空ける。
「うおあああああおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 蓮子は叫ぶ。何がとか、どうやってとか、そういう次元ではない。とにかく走り回ってレーザーを避け、境界で盾を作り、蓮子目掛けて突っ込んでくるUFOを横っ飛びに回避して砂利の上でごろんと転がり、最後には恥も外見もなく四つん這いになりながら応天門を潜り抜ける。視界の横に手や口を清めるための手水舎があるが、そんなものを気にする余裕なんてあるはずもない。
 応天門を潜り抜けたそこには、広い空間があった。四方を朱い社に囲まれ、足元には真っ白な砂利が敷かれていて、まるでここが京都という町ではない、別な空間だと錯覚してしまいそうになる。平安京の再現を目的に作られたこの場所では、周囲のどちらを見ても現代的な建物は見えない。
 だが、感傷に浸ってはいられない。広い空間の中央で青いUFOに腰掛け、お見事とでも言わんばかりに手をぽんぽんと叩く大妖怪を見れば、ここが現代の科学世紀である事は疑いようがなかった。科学世紀に相応しくない怪異を見て現代だと思うのもおかしな話だが。
「まさか、本当に私の弾幕スペルを潜り抜けるだなんて。お前は既に人間を超越してるのかもね」
「私は人間よ。紛れもない……どこにでもいるただの大学生、なんだから」
 既に服はぼろぼろで息も絶え絶えだが、それでも蓮子はにやりと笑って答える。
 怪異が怪異を退治するなんて、そんなものはただの共食いだ。
 人間が、人間のままに怪異を祓ってこそ、御役目なのだ。八雲紫の言葉だったか、自分が人間のままでいることは八雲紫に従っているようで癪な気もするが、怪異になるつもりは毛頭ない。
「ふうん、人間ねえ。それは結構」
 羽の妖怪はどこか面白そうに息を漏らす。それでこそ相手に相応しいと言わんばかりだ。
「だったら、人間らしく私を退治してみろ! 持てる手の全てを出して、私を楽しませろ!」
 羽の妖怪がUFOの上に立ちあがり、足元のUFOを足で踏み付けるように蹴る。
 ごわぁん! と。
 金属製に見えるUFOが衝撃に撓み、地面に叩き付けられる。そして、そのままの勢いで蓮子へと突っ込んできた。まるでラグビーボールを地面に叩き付けたかのような、綺麗な球体であれば本来ありえない不自然な挙動イレギュラーバウンドに、蓮子の反応が一瞬遅れる。
 そして、衝突。
「ごふっ!」
 UFOが体に衝突する。飛行物体は腹へ食い込み、蓮子は口から酸っぱい液体を吐き出しながら砂利の上をごろごろと転がる。あばらが折れたどころか胴が千切れたかとさえ思った。
 たっぷり地面の感触を堪能してから、ようやく体を起こしつつある蓮子に向けて、羽の妖怪のけらけろと笑う声が聞こえてくる。
「さて、このスペルは私の勝ちね。最初のは取られちゃったから、これで一勝一敗。さあて、次はどの弾幕にしようかしら」
「……つぅ!」
 呻き声を押し殺して拳銃の引き金を引く。ただの鉄の弾丸が銃口から飛び出して羽の妖怪の体に穴を空けようとするが、羽の妖怪はどこからか取り出した三又槍トライデントをくるくる回して容易く弾いてしまう。
「それはちょっと無粋ね。スペルとスペルの間に撃ってくるなんて。弾幕ごっこはスペルとスペルが交錯してこそよ」
「……くっ」
 蓮子は苦虫を噛み潰したような顔をする。
 もちろん、今この拳銃に装填されている銃弾は何の変哲もないものだ。蜘蛛女の時と同じように、通用する事のない銃弾をばら撒いた上で油断を誘い、本命の境界操作された怪異の弱点を叩き込む。
 だが。
 妖怪の弱点を見破ったところで、奴に届くのか? 境界を操作して弱点を突く銃弾を作ったところで、形はただの銃弾に過ぎないし、拳銃から真っすぐに飛ぶ事しか出来ない。今でもこうして簡単に棒切れで払い落とされているというのに。

 ――正体不明「厠の花子さん」

 新たなスペルの宣言。
 それと同時、羽の妖怪が空中で踊るように手を振るうと、薄っすらとした黒雲が当たりに立ち込める。しかしそれは大鳥居で見せた弾幕のように雷光を伴うものではなく、まるで空気よりも重い色付きのガスが噴出したみたいに地面を覆う形で広がっていく。
 それに嫌な予感を蓮子は覚えるが、しかし逃げる間も無く足元を黒雲が通り抜けていく。遅れてポケットからハンカチを取り出して口を押さえるが、どうやら害はないらしい。
「な……によこれ⁉」
 黒雲から大量の人間の手が伸びてくる。雨後の筍のようだとも思ったが、そんな綺麗はものじゃない。白い、おそらく女性のもののような手があちこちから伸びてくるこの光景は、端的に言って悍ましい。その手はまるでもがき苦しむ亡者のように、蓮子へと手を伸ばしてくる。
「ああもう、気味が悪いわね!」
 周囲から伸びる手。それに捕まれると何が起こるか分かったものじゃない。拳銃を向け、とにかく目についた手に向けて銃弾を叩き込む。銃弾が手を撃ち抜く度、手はそこから赤い液体を撒き散らしながら地面に伏す。地面に横たわるそれは、まるで人間の死体のようで――
 妖蟲が繰り出した虫の大群とも違う、足から這い上がって全身を凍り付かせるような生理的嫌悪感。弾幕としての密度は高くはないが、それよりも精神に攻撃してくるような感覚に、蓮子の動きが鈍る。
 だから、逃げるのが遅れた。
「冷たっ⁉」
 蓮子の足首を白い手が掴んだ。その手はまるで水死体のように冷たく、嫌悪感が足を駆け上ってくる。
「こんなのっ!」
 足首を掴む手に向けて発砲する。弾丸は手首に穴を空けて赤い血を撒き散らし、その血は足に付着する。手は凍るみたいに冷たかったくせに、そこから弾けた血は生暖かくて、まるで直前まで人間の体内を流れていたみたいで……。
 足を掴む手を蹴飛ばして振り払い、境界を作って周囲を囲む社の屋根へと逃げる。瓦の上で滑り落ちそうになるのをどうにか堪えながら体勢を整えると、地面から大量の手が伸びて蓮子を追い掛けてくる。
 蓮子は屋根伝いに走りながら、白い手の咲き誇る花畑、その上で笑っている怪異を睨む。
 秘封倶楽部にとっての戦いは、ただ弾幕を撃ち合ったり殴り合ったりする事ではない。対象を分析し、記憶と記録から伝承を紐解き、目の前の怪異がなんであるかを突き止める。奴が喋り、感情を露わにし、そして手の内を晒していくほど、蓮子の『内側への攻撃』は着々と侵攻する……つもりだった。
 だが。
 奴の姿は黒いワンピースに赤い羽と青い羽、腕には緑の蛇。一見すると人の形をしていて、胸元や靴には赤いリボンがあしらわれている。
 そして奴が弾幕として繰り出してきたのは黒雲にUFO、花子さん、そして手に持つのは三又槍トライデント。その顔には、まだまだこの程度で終わっては困るとばかりに余裕のある笑みを浮かべていて、底知れなさと手数の多さを思い知らせてくる。
「薄気味悪いわね……この手も、雲も!」
 蓮子がグローブを振るうと、境界が生まれ、暴風が吹き荒れる。先日、虫の大群に向けてやったのと同じように上空と地上を繋げて偏西風を京都神宮に呼び込んだのだ。暴風は、黒雲とそこから生えた白い手を地面の砂利や瓦ごとまとめて吹き飛ばす。
「……これで、このスペルは私の勝ちかしら。もうあんな気持ち悪いのはごめんだわ」
 全てを薙ぎ払った後、通風孔となる境界を閉じてから、変わらずふわふわと空に浮かぶ羽の妖怪に向けて宣言する。
「あら、こういうスプラッタ系は苦手かしら。じゃあこっちに変えてあげる」

 ――アンノウン「軌道不明の鬼火」

 また、新しい怪異が羽の妖怪によって顕現する。
 鬼火。日本各地に伝わる伝承で、空中を浮遊する正体不明の火の玉。生霊や怨念が実体化した存在とも云われ、ウィルオウィスプやジャック・オー・ランタンとも同一視される事もある。
 火の玉は羽の妖怪の周囲から大量に出現し、空中にばら撒かれる。それらはゆらゆらと揺れながら蓮子に迫る。やがて蓮子の視界どころか平安神宮を覆うドームを埋め尽くすほどにばら撒かれた鬼火は確実に逃げ場を潰していく。
 迫ってくる大量の火を前に、蓮子は境界に手を突っ込んで消火器を引っ張り出す。平安神宮の施設内に大量に設置されているものの一つだ。こんなものが通用するか分からないが、飛んでくるもの全て消すのではなく弾幕の一点に集中して吹き付けて火の壁に穴を空けるようにして潜り抜けていく。
 それでも、消しきれなかった火の玉が自分の身を掠め、服どころかその下の肌にいくつもの火傷を作る。火傷の痛みと暑さを堪えようとして、それでも堪えきれなかった何かが、現状の困惑と共に言葉として吐き出される。
「くそっ……なんなのよあの怪異! どれだけ出鱈目なのよ、正体がまるで分からないじゃない……!」
「こっちはそれが売りなものでね。さあ、正体不明の恐怖に苦しむがいい!」

§

 水密が柄杓を振るうと、それに合わせるように池の水面が泡立ち、爆発するように水柱が出現する。しかしそれは空高く登るのではなく、空中で折れ曲がり、まるで蛇のようにうねりながらメリーの立っている場所に叩き付けられる。
 メリーは池に浮かぶ飛び石を跳ね、頭の上から落ちてくる水柱を避ける。空中をふわりと移動しながら、そのまま池のほとりに置かれていた灯篭の一つに降り立つ。
「だらあっ!」
 足の下にある灯篭のてっぺんを掴み、そのままオーバースローで投げ飛ばす。重量六〇キログラムはある石の柱が、くるくると横回転しながら水密の胴へと迫る。
「おっと。危ないわね」
 人間の体に当たろうものなら肉と骨をぐしゃぐしゃにひしゃげさせるだろうそれを、水密は空中でふわりと身を翻して回避する。灯篭はそのまま水密の背後にある木々をへし折りながら地面を跳ね、周囲をぐちゃぐちゃに叩き潰していく。
 折れて積み重なった草木に包まれた灯篭、それを水密は眺めて、ぽつりと呟く。
「……随分と派手にやってるわね」
「貴方が大人しくしてくれたら、綺麗な庭園のままにできるんだけど」
「それはお互い様でしょ。止まるつもりがないっていうのも」
 メリーの投擲、それに水密の水柱。既に日本庭園はめちゃくちゃだった。あちこちが水浸しになり、小島に植えられた美しい松の木はメリーが踏んで木屑へと成り果てていた。水密がひしゃくを振って水柱を地面に叩き付ける度に土砂が池へと流れ、メリーが地を蹴る度に土は蹴り上げられ美しい花に土が被る。残った木々も、水密の水柱が土ごと池へ流すかメリーの投擲物にへし折られるかのどっちが早いか。美しかったはずの日本庭園はそこらの山奥よりも荒れ果てていた。
 それでもお構いなしに、水密がまた柄杓を振るう。
 今度は一本二本ではない。いくつもの水柱が登り、いずれも空中で折れ曲がってメリーの立っている場所を狙う。まるで五本の指で絡めとるように、逃げ場を確実に潰しながら水柱で圧し潰そうとする。
「ふんっ!」
 メリーはサイドスローで地面すれすれを沿うように次の灯篭を投げる。灯篭は水柱の一本を根本から叩き、池から切り離された水柱は水密の管理下から失われたのか、ぼちょんと自然落下して池の水と一体になる。そして、水柱の網に穴が空く。
 その穴へ目掛け、メリーは飛び石を一足飛びに翔けて飛び込む。確実に捉えられると考えていた水密はやや顔をひそめたが、それだけでは終わらない。メリーは着地と同時に大きく跳ね、水密の前に躍り出る。
 狙うは水密の頬。ぎちりと拳を握りしめ、その可愛らしい顔に向けて右手を叩き込む。自動車だって叩き潰す一撃だ。それはガードもされず、その柔らかそうな頬に拳が触れる。
 だが、

 ぼちょん! と。
 舟幽霊の頭が水飛沫となって弾けた。

「……え?」
 目の前の光景に、殴った当の本人が一番驚いた。
 もちろん、自分は手加減も遠慮もしていない。文字通り水密を叩き潰すつもりで殴ったつもりだ。
 だが、あまりにも手応えがない。まるで洗面器に溜めた水に手を叩き付けたかのような感触。メリーの拳は簡単に水密の頭部を突き抜けたが、そこに何かを殴ったという実感がまるで無かった。
 困惑しているところに、首から上の無くなった体が問い掛けてくる。
「幽霊相手に殴り掛かってくるだなんて、随分と乱暴な除霊方法ね?」
 頭の無くなった舟幽霊、その体が拳を振るう。まるで意趣返しのように、無防備なメリーのこめかみに向けて拳を叩き込んだ。
「がはっ⁉」
 今のメリーに脳と呼ばれる器官は厳密には存在しない。全身が機械のようなものなのだから、わざわざ頭部に分かりやすく弱点を作る必要がない。にも拘わらず、脳が揺さぶられたような感覚がメリーを襲い、平衡感覚が狂う。
 そしてメリーを捉えた舟幽霊の拳が振り抜かれる。凄まじい力で叩き付けられた一撃はメリーを吹き飛ばし、その機械の体が池の上で水切りのように水面を二度跳ね、三度目の着水で池へと沈む。いや、池から伸びた水の指がメリーを掴み、池へと引き摺り込んだ。
 ごぼっ、と。池の底へ沈むメリーの口から大きな気泡が漏れる。だが、それは酸欠に喘いで漏らしたものではない。少女の全身を周囲の水が圧搾し、体内の空気を口から絞り出したのだ。
 少女は水中でもがくが、周囲の水はまるで粘性の高いスライムのように体にまとわり付く。灯篭を投げ、自動車を叩き潰す膂力も腕力も、今の状態では暖簾に腕押し、腕を振り回そうとしても重い抵抗につっかえるだけだ。
 水密が周囲の水を操って少女の体を締め付けている。満足にもがく事も出来ない今は、池から逃げる事も出来ず、体を潰されながらゆっくりと沈んでいく。
 このまま、水密の水の手で壊れるまで圧搾されるか、自動人形オートマタの体が機能しなくなるまで冷たく暗い水の底に放置されるか。自動人形オートマタとなってもしかしたら初めて、具体的な死のビジョンが頭を過ぎる。
 ……こんなところで、蓮子一人残して死ねる訳ないじゃない……!
「……! …………、…………!」
 か細い、くぐもった声が聞こえた。池の外で誰かが叫んだのだろうが、池の中のメリーの耳には届かない。
 だが、その池の上から何かがどぼんと落ちてくるのを見る事はできた。
 水の中は暗くてよく見えないが、それは五〇〇ミリリットルペットボトルほどの立方体で、その側面には鈍色の箱が取り付けられていて、そこからケーブルが伸びて立方体と箱を繋いでいる。
 それは粘性の水に包まれたメリーよりも先に池の底へと沈んでいく。彼女の横を通過する瞬間、鈍色の箱に取り付けられたLEDが赤く点灯しているのに気付いた。
 ごぼぼっ、と複数の気泡がメリーの口から吐き出される。圧搾によるものではなく、その箱と点灯したLEDの意味を理解して動揺したためだ。
 ……あの教授、自動人形わたしだからってめちゃくちゃするわね!
 水の中で、メリーは両手を胸の前でクロスさせ、体を丸くする。とにかく衝撃に備えるための体勢。
 そして、箱が自分より下へ沈んだ頃、起爆。
 水柱どころじゃない、池の水をメリーもろとも根こそぎ空中に持ち上げる衝撃。
 メリーの体は宙を舞い、そのまま池のほとりに投げ出される。遅れて、打ち上げられた大半の水が池へと戻り、残りは日本庭園に雨となって降り注ぐ。
 メリーの体が池のほとりに投げ出され、ごろごろと転がって藪に突っ込んでようやく止まった。
「ごはっ、えぼっ!」
 ぬかるんだ土の上で、メリーが体を折り曲げながら体の中の水を吐き出す。水による圧搾、プラスチック爆弾の衝撃。体がめちゃくちゃになりそうだが、それでもメリーの体はまだ動く。
 体に入り込んできた水を排出し終えてから周囲を見渡すと、夢美が水密に首を掴まれ、宙に持ち上げられているのが見えた。彼女自慢の赤い服は泥に汚れていて、既に水密にあちこち転がされて弄ばれたんだと分かる。
 だから隠れていてと言ったのにとメリーは内心で悪態をつく。蓮子やメリーと違い、彼女に戦う力なんて碌にないのに。
「こ……のっ!」
 まるで最後の力を振り絞るみたいに、夢美が拳銃を水密の腹に突き付けて引き金を引く。弾丸が通過して体に拳が通りそうなほどに不自然に丸く大きい穴を空けるが、水密はまるで平然としている。ただの弾丸が通用するとも思わないが、もしかしたらあれは意図的に弾丸を通る穴を作って弾丸に触れないようにしているのかもしれない。
 そして、全ての弾丸を撃ち尽くしたのを確認してから、水密は夢美を笑いながら見る。
「これでも私は仏教徒なの。人殺しなんてしたくない。だから、私が貴方を溺れさせる前に大人しくしててもらえないかしら」
 水密が腕に力を籠め、夢美の気管が圧迫される。ただ気を失わせるだけのつもりなのか、それとも本当に殺すつもりなのかは分からないが、メリーの怒りを刺激するには充分だった。
「うちの参謀に……何してんのよ!」
 ばあん! とメリーの地面が破裂する。その足元を蹴り、まるでロケットのように体が射出される。そして、そのままの勢いで舟幽霊に殴り掛かる。
「おっと」
 だが、ぼちょんという音と共に水密の体が崩れ、池へと流れていく。捕まれていた夢美がその場にぼとりと落ち、その場に倒れ込む。
「大丈夫?」
 メリーが身を翻して夢美のそばに着地し、夢美の体を起こして肩に手を置くと、彼女は喉に手を当てて苦しそうにごほごほと咳を吐く。どうやら生きてはいるらしい。
「礼は言っておく。助かったわ」
「こっちこそ。爆弾なんて使われるなんて思ってなかったけどね。けど、次も貴方を守れるとは限らないわよ」
 夢美がこくりと頷き、今度こそその場を後にする。それと同時、水の塊がぼちょりぼちょりと池から持ちあがる。それは池の真ん中で集まって舟幽霊を形作る。
 その影に、メリーは吐き捨てるように言う。
「ばちゃんばちゃんと、随分と逃げるのが得意みたいね。あるいは水遊びかしら?」
「そういう貴方は、結構な力自慢なのね」
 水密の手に水が集まる。それは形を成し、巨大な一つの錨となる。身の丈を越えそうな鋭い大斧を、まるで棒切れでも振るうみたいにぶおんぶぉんと空気を裂きながら軽々しく振るう。水でできているから軽くて柔らかい、なんて楽観視する気にはなれない。
 それに呼応するかのようにメリーが近くにあった電灯を引っこ抜き、メイスのように構える。メリーもまた、三メートルもある鉄の棒を軽々と取り扱う。それを見て、舟幽霊は獰猛ににやりと笑った。
「私もそうなの」

 がぁん! と。
 金属同士がぶつかり合い、火花が飛び散る。技も何もない、水密が凄まじい勢いでメリーに接近し、その錨を上から真っすぐ振り下ろしたのだ。それをメリーは電灯で受け止め、それでも抑えられなかった力がメリーの体を流れ、両足がべきりと地面に沈んでクレーターを作る。
 メリーは電灯に力を籠め、頭上の錨をぐいっと押し返す。そのまま体制が崩れたところをぶん殴ってやろうと電灯を握っていない左手を握る。
 だが、水密はメリーに押し返される勢いを利用して体をぐるりと回転させ、今度は横薙ぎの一撃を繰り出す。電灯で受け止めるのは無理と判断したメリーは、首を刈ろうとする一撃を身を屈めて回避する。地面に斜めに突き立てられた錨の爪が地面を抉り、土を飛ばす。
「まだまだまだまだぁ! せっかくの喧嘩なんだから、もっと楽しませてちょうだい!」
「まったく、怪異ってのはどいつもこいつも……血気盛んな奴ばっかりね!」
 反撃を試みようとするが、水密はまるで独楽コマのようにくるくると廻り、連続して手の得物を振るう。メリーは池に浮かぶ島や踏み石を蹴りながらバックステップで後ろへと下がるが、水密は動きに追随して止める事なく錨を振るい続ける。
 ……このまま逃げ続けても埒が明かないわね!
 メリーは下がるために使っていた足を前へ踏み込むために力を籠める。狙うは水密の手。その物騒な大斧を叩き落とすか手ごとまとめてへし折る算段だ。
 だが、
 じゃら、という金属が擦れる音が鳴る。
 嫌な予感を覚えるが、既にメリーは前へと踏み込んでしまった。だが、それが逆に功を奏したというべきか。
 水密が握っていた錨がその手を離れた。投げたのでも落としたのでもない。錨に取り付けられた鎖を握り、まるで鎖付き鎖付き鉄球フレイルのように力任せに振り回したのだ。もしあのまま下がり続けていれば、錨の爪が腹を抉っていた事だろう。
「ほう、よく避けたね」
 水密が鎖を引こうとするのが見えた。錨を手に引き戻すのと同時に、背後から攻撃を仕掛けるためだろう。
「せっかくの日本庭園なのに、ぶんぶんと大きなもの振り回して風情がないわね!」
 メリーが電灯を投げ捨てて伸びていた鎖を手で掴み、逆に引っ張る。怪異と綱引きするような構図になるが、鎖を引き戻すだけのつもりだった水密と相手もろとも引き寄せるつもりのメリー。軍配がメリーに上がったのはある意味必然と言える。
 大きく前に仰け反った水密に、メリーが拳を叩き込む。拳は鎖を持つ手に吸い込まれ、そのまま腹に大きな穴を空ける。想像通り、殴った感触は水の塊を殴るようなもので、まるでダメージが通っていない。だが、鎖は水密の手から離れ、得物を奪う事には成功した。
 再び水を集めて人の形を作っている水密に向けて、メリーは奪ったものを見せびらかしながら言ってのける。
「ざんねん、貴方の武器はこっちよ。よくもこんなもので乙女の柔肌を抉ろうとしたわね」
「何の事?」
 だが、その自信満々の笑みも水密の両手に一本ずつ握られた合計二本の錨を見れば固まってしまうのも仕方ないと見るか。遅れて、メリーの持っていた錨と鎖が水となって手から落ちる。
 相性が悪いのはもはや明らかだった。
 どれだけ殴り、その体に拳を叩き込もうとも、相手は体が水となって弾けるばかりでまるで通用しない。対しあちらは、水に落としさえすれば勝利も同義だ。一度はプラスチック爆弾で助けられたが、あんなものが二度や三度通用するなんて思わない。オマケにメリーお得意の腕っぷしすら、水密には劣っている。船をひっくり返して転覆させる妖怪なのだから、相応の力が備わっているのも自明なのだろうが。
 ……どれだけやってもジリ貧ね。何か突破口、いやその取っ掛かりでもいい。何かを見つけないと。
 二本の得物をぐるぐると回す水密を見て、メリーは口を開く。
「ねえ、気になってたんだけど……どうして、あの羽の妖怪の言う事に従っているの?」
「従ってる?」
「舟幽霊なのにこんな小さな池で満足して……ホントはもっと大きな水、海を見たいんじゃないの? 私みたいな人間じゃなくて、もっと豪華客船とか漁船とかひっくり返しなさいよ」
「ああそれね……。言ったでしょ、あの子に頼られたからだって」
「頼られた?」
「ええ。これでもあいつの……そうね、姉みたいなものだから」
 そう答えた水密は、どこか自慢げで、楽しそうだった。先ほどまでの笑みとはまた違う表情を浮かべていた。
 そしてその顔を見れば分かる。それは紛れもない本心だという事が。舟幽霊の、村紗水密の本心。かつての妖蟲が虫を守ろうとしたように、目の前の少女は羽の妖怪を形は違えど守ろうとしているのだ。
「だからって、こんな小さな池で人間相手に暴れて、随分とみみっちい舟幽霊ね」
「そうね。私も、こんな小さな池なんかじゃなくて、私も海が見てみたいわね。見上げる程の大きな船がいっぱい通る、広大な海。貴方を倒してから見にいこうかしら」
 それを聞いて、メリーがにやりと笑う。言質を取ったとばかりに、不敵に笑いながら空を見上げる。それから、未だノイズしか吐き出さないインカムをこんこんと叩きながら舟幽霊に突き付けるように宣言する。
「広大な海が見たい、ね……」
 ……時間稼ぎにしかならないと思ってたけど、想像以上にあっさりと、そして面白い突破口が見つかったわ。

「だったら……秘封倶楽部が見せてあげる。貴方の見たがってる、広大な海ってやつをね」

§

 どぅん! と。
 くぐもった爆発音が敷地内に響いた。大きな社の裏で起こった爆発のようだが、それでも腹がびりびりと震えるのを感じる。
 弾幕が迫る中、それでも音に釣られてそちらを見る。そこには、まるで池を丸ごとひっくり返したみたいに莫大な水が宙へと舞い上がっていた。
「どうやら、あっちも盛り上がっているみたいね」
 羽の妖怪がその光景を見て楽しそうに笑う。それと同時、地面に沿うように碁盤の目のように展開された弾幕「平安京の悪夢」がぴたりと止まった。八雲紫もよく使っていた妖力の光弾、それによって構成された弾幕の地図。
 羽の妖怪は手を自分の目の前に持ち上げ、ゆるゆると指を広げたり閉じたりする。その気になれば光弾の壁でそのまま圧し潰す事など容易いと、そう語るように。
 二人はお互いに睨み合いながら、羽の妖怪が口を開く。
「やっぱり、お仲間がいたのね。あの金髪以外に」
「当然でしょ。貴方達みたいな人外を相手するのが、まさか私とメリーの二人だけだと思ってたの?」
「あの金髪、ずっとに〝二人で一つの秘封倶楽部〟なんて言ってたから、すっかり騙された」
「あいつ、また変な事を言いふらして……そっちこそ、あそこでメリーと戦ってるのが人間だなんて言わないでしょ? 怪異同士で徒党を組むなんて。妖怪なんて、どいつもこいつも自分勝手で好き勝手するものだと思っていたよ」
「あら、百鬼夜行という言葉を知らないの? 妖怪はとっても仲が良いんだから」
「この前の妖蟲みたいなのならみんなから好かれるのも分からなくもないけど、あんたみたいなひねくれた奴に仲良くしてくれる奴がいるなんて、ちょっと信じられないわね」
「私はぼっちじゃない」
 最後の言葉だけ、羽の妖怪の声色が少し変わった。羽の妖怪が指をぎゅっと強く握る。それに付き従うかのように、止まっていたはずの弾幕の地図がぷるぷると震えた、ような気がした。
 嫌な予感を覚えて足元に境界を作るのと、大量に並べられていた弾幕が蓮子の頭目掛けて収束するのは同時だった。数秒でも反応が遅れていれば、蓮子の頭どころか体ごと弾幕によって押し潰され、工業機械で作った現在アートみたいになっていただろう。それでも完全に回避出来た訳ではないらしく、その黒髪が僅かに焼ける匂いがしたような気がする。
 周囲を囲む社の一つ、その屋根に降り立つと、広場の中央には妖力の光弾が一つに固まって巨大な球体を作り出していた。平安神宮を怪しく照らすその光景は、巨大なミラーボールか、あるいは小さな人造太陽という言葉を連想させる。
 そして、広場に浮かんでいた巨大な光球は地面へと溶けるように消えていった。どうやら、平安京の悪夢とやらは覚めたらしい。蓮子は安堵の感情を押し殺しながら、軽口を吐く。
「あら、悪夢とやらは終わりかしら。案外大した事なかったわね」
「そう、ご期待に沿えなかったみたいね。満足してもらうためには、次はどれを使ってあげようかしら」
 羽の妖怪が新たなスペルカードを取り出し、扇のように広げる。その中からわざとらしく迷いつつもカードの一枚を引き抜き、そのまま大きく掲げて宣言を――
「で、次はどんな怪異を参照するのかしら」
 しようとしたところで、その手がぴたりと止まる。
 ずっと浮かべていた、その余裕そうな笑みがひくりと震えた。
「なんとなく、見えてきたのよ」
「見えてきた?」
 服にはいくつか赤いものが滲み、それ以上に全身を砂に汚れながら、それでも蓮子は不敵に笑う。今まで笑われた分を取り返すように。その顔に、羽の妖怪が怪訝)そうな顔を浮かべる。
 黙っていれば、羽の妖怪の機嫌を損ねなければこれまで通り弾幕ごっこおあそびで済む。にも拘わらず、蓮子ははっきりと口にした。
「あんたがどんな怪異なのかって事がね」
 ぴくりと。
 羽の妖怪のこめかみが震えた。正体不明の妖怪の正体。それは間違いなく、羽の妖怪が最も詮索されたくない場所で、最も嫌悪する言葉と言ってもいい。羽の妖怪との付き合いは短いが、それでも蓮子にはそれがよく分かる。
 それでも構わない。その嫌悪こそが突破口となるのだから。正体を暴く取っ掛かりとなるのだから。
「そう、でもあんたは私の正体を見破る前に倒れるの」
 しかし羽の妖怪は、余裕と笑みを崩さずに新たなカードを掲げた。正体など暴けない、正体を暴く前に潰すと、そう考えているのが手に取るように分かる。

 ――正体不明「赤マント青マント」

 羽の妖怪が大量のナイフを投げる。視界を覆い尽くすほどのナイフは、赤色と青色に分かれていて、奴の左右非対称の歪な羽の色に対応しているように見えた。
 赤マント青マントといえば、トイレの個室で「赤いマントが欲しいか、青いマントが欲しいか」という声が聞こえ、赤マントと答えると背中を切り裂かれ、青マントと答えると背中から全身の血を抜き取られて殺される、というものだ。赤マント青マントを象徴するその二色は、赤なら自分が血で真っ赤に、青なら血を抜かれて真っ青に、といった殺され方から来ているという説があるが、蓮子には全身をナイフで貫かれて赤い花を咲かせるビジョンしか想像出来ない。あるいはその大量にばら撒かれたナイフを二色のマントに例えているのだろうか。
 それでも蓮子は、グローブで境界の盾を作って防ぎながら、考える。羽も妖怪が放った弾幕スペルを思い返す。
 ――妖雲「平安のダーククラウド」
 ――正体不明「哀愁のブルーUFO襲来」
 ――正体不明「厠の花子さん」
 ――アンノウン「軌道不明の鬼火」
 ――「平安京の悪夢」
 ――正体不明「赤マント青マント」
 スペルカードは自身の象徴、らしい。弾幕としての複雑さ、美しさ、そして自分らしさを両立させてこそ、素晴らしい弾幕足り得る、とは八雲紫の言葉だ。
 だが、羽の妖怪の繰り出した弾幕にはまるで共通点が見えない。どころか、UFO、花子さん、鬼火、そして赤マント青マントと、複数の怪異の名前が弾幕として登場している。
「どうしたの? 正体を暴くみたいな事を言ってたのに黙っちゃって」
 羽の妖怪の声が聞こえたが、それでも蓮子は思考をやめない。
 正体不明を名乗っているのに、様々な怪異や都市伝説の名前をこれでもかとばら撒いている。ならその中に羽の妖怪の正体が存在する? それともその全てが羽の妖怪を表している?
 いや、違う。
「あからさま過ぎるのよ」
 蓮子はナイフを躱しながら、ぽつりと呟く。
「分かりやすく色んな怪異の名前を並べて、正体を誤認させようって魂胆が丸見えなのよ」
 ふうん、という声が羽の妖怪から聞こえた気がした。そこに分かりやすい動揺はそこには見られない。だが、それでも蓮子は言葉を並べ続ける。
「じゃあ、あんた自身を表す情報は?」
 カモフラージュのためにちりばめられた情報。だが、それは無意味ではない。たとえカモフラージュなのだとしても、それを羽の妖怪がその怪異を弾幕のモチーフに選んだのであれば、そこには意味があるはずだ。あるいは、カモフラージュ出来ない情報が、確かに存在するはずだ。
 そして、その情報は。
「それは既に見えている」
 武器や道具として繰り出した黒雲と三又槍トライデント
 歪な左右非対称の羽に黒い服、胸元と靴に誂えられた赤いリボン、腕に巻き付いた緑の蛇。
 怪異自身が指定したこの場所、同時にスペルカードの名前としても登場した単語『平安』。
 あらゆる弾幕に付随し、また羽の妖怪自身も頻繁に口にしていた『正体不明』という言葉。
 どれも並べられるとちぐはぐで関連性のないその言葉達。その全てが奴の正体全てを表しているとは限らない。だが、確実にそこに正体を見破る鍵がある。
 ……正体を、秘密を暴いてこそ秘封倶楽部なんだから、私達に暴けない秘密はない!
「本気で私の正体を見破るつもり? そんな事が出来るとでも⁉」
 羽の妖怪は感じていた。じゃれていた飼い犬がふと手を噛んだかのような気分を。痛いわけではない。ただ、遊んでやっていたと思っていたら反撃の兆候を見せられたかのような、少々の困惑と、浮かれていた心地良さに水を掛けられて現実に引き戻された不快感。
 羽の妖怪は不快感を吹き飛ばすかのように吠えた。
「正体不明の正体なんて分かるはずがない! お前に見破れるはずがない! なぜなら、私は正体不明なのだから。正体不明、それこそが私なのだから!」

 ――正体不明「紫鏡」

 紫鏡。その実態はまるで知られていない。ただ、その言葉を二十歳まで覚えていると死ぬ、もしくは呪われると言われている。分かっている事といえば、都市伝説にしてはあまりにもあっさりしていて、そして正体不明の言葉である、という事だけだ。
 その言葉を高らかに宣言すると同時、羽の妖怪が二人に分裂する。まるで鏡に反転しているかのように、ご丁寧に左右非対称の羽までしっかりと左右対称で、おまけにどこかへ投げたはずの三又槍トライデントまで二体とも持っている。
 紫鏡という都市伝説は、まるで紫と鏡という言葉に無理矢理意味づけを行うかのように、様々なバリエーションの導入や背景が存在する。『少女がお気に入りの鏡に紫色の絵具を塗ったところ取れなくなる』とか『成人式を迎えようとした女性が交通事故で死んでしまい、紫色の鏡が部屋から見つかる』とかが有名だ。
 なら、自身を鏡写しに分身するのだって、紫鏡だと言えるのかもしれない。そう言い張ればなんだって紫鏡になるのだろう。だからこそ、蓮子は確信する。この紫鏡もまた、正体不明を演出するために言葉を借りて弾幕を使ったのだ。だからこそ本来の都市伝説とかけ離れようが構わない。
 つまり、羽の妖怪は〝紫鏡〟ではない。
『あんたが私を暴こうとしたのと同じように、私もあんたと戦って気付いた事がある』
 羽の妖怪が二体同時に喋りながら、三又槍トライデントをくるくると手で回す。
『あんたは目の前から飛んで来る弾幕に対しては強い。その手袋があるんだから。……でも、どこから来るか分からないもの、軌道の読めないものには通用しない』
 羽の妖怪が空中で円を描くように周り、居場所を入れ替える。まるで伏せたカップにボールを入れてシャッフルし、ボールの入っているカップを当てるゲームのようだ。羽の形は変わらないからどっちが本物か見分けがつくと思っていたが、ああして何度も入れ替えられると右の羽の色が赤と青、どっちが正しいのか分からなくなってくる。
「その最たるものが、近接戦闘よ」
 羽の妖怪が三又槍トライデントを片手に突っ込んでくる。とっさに蓮子は足元に境界を作って移動しようとするが、何度もその動きを見ていた羽の妖怪にそれは通じない。手を振ってから境界が完成するまでの間に、一方は蓮子が元居た場所へと突進し、もう一方は境界が繋いだ先に軌道を変更するのが境界に飛び込む直前に見えた。慌てて境界を閉じ、羽の妖怪の突進を横っ飛びに避ける。
 完全に読まれている。境界を利用した瞬間移動を多用し過ぎたせいか、あるいは何か、羽の妖怪に察知する能力があるのか。妖蟲の時はそれを逆手に取ったようなものだが、今それをする余裕も策もない。
 追撃に迫る羽の妖怪を前に、蓮子は手をさらに振るい、目の前に盾となる境界を生み出す。だが、一直線の弾幕とは違い、相手は変幻自在に空を飛ぶ妖怪だ。羽の妖怪は身を翻して盾の上を通り抜け、そのままの勢いで盾の後ろに隠れていた蓮子を蹴り飛ばす。地面をごろごろと転がされながら、蓮子は痛感させられる。
 ……この弾幕は相性が悪すぎる!
 これを弾幕と言っていいかは分からないが、接近して殴ってくるというのは蓮子にとってあまりにも相性が悪い。グローブに拳銃、どちらも中距離ミドルレンジでこそ最大の効果を発揮する兵装だ。加えて、蓮子の動体視力なんてしょせん人並みで、プロボクサー以上の速度で接近されて殴られて反応出来るはずがない。
 本来なら接近されれば境界を使って距離を離すのだが、一方が自分を狙うと同時、もう一方が境界の移動先を狙う。蓮子の攻撃手段は完全に封じられたと言ってもいい。
「あんたも、剣と剣をぶつけ合って泥臭く戦うかい? 私はそういう趣向も嫌いじゃないよ」
「そういうのは、私の趣味じゃないのよ」
 軽口に軽口で答えながら、考える。境界の出現先を狙ってくるというのなら、狙われても追いつけない遠くに境界を繋げば。平安神宮の外か、あるいは黒雲の結界の外か。
 だが、それをすれば人質は、メリーはどうなる? メリーも何かと戦っている。もし私が逃げれば、羽の妖怪はメリーのいるところへ向かうだろう。そうなれば、今度こそメリーは、殺される。故に逃げる事は許されない。
 ……なら、どうやってあの弾幕を凌ぐ?
 と、そこまで考えて蓮子の耳にノイズが聞こえる。
 いや、違う。
 ずっと一定のノイズを発していたインカムが、ここに来て一際強いノイズのブレを発する。
 役に立たない上に耳障りなノイズまで発するようになって、いよいよ捨ててやろうと耳に手を伸ばしたが、取り外す直前で音、いや声が聞こえた。
『おい蓮子! 聞こえるか!』
「ちゆっ……⁉」
 思わず叫びそうになったが堪える。あの羽の妖怪に気取られたくない。応答替わりにインカムをこんこんと叩くと、息を呑む声が聞こえた。ぱあっと、ちゆりがインカムの先で花開いたような笑顔になるのが脳裏に浮かぶ。
『やっと繋がった! はっはぁ! さすが私!』
 そういえば夢美を日本庭園に送る境界は開いたままだ。なるほど、境界からドローンを飛ばして即席の無線ネットワークを構築したのか。おそらく空に浮かぶアンテナ付きドローンがインカムの電波を受け取り、複数のドローンを経由して境界の先のブリーフィングルームまで飛ばしているのだろう。
 そして、ちゆりの声が聞こえたという事は。
『蓮子ね……そっちはどんな状況?』
 ……メリー!
 そう叫びそうになって、しかしどうにか堪える。羽の妖怪に聞こえないよう、小声で押さえるように呟く。
「そうね、あんたに心配されるほど私はやわじゃない……とは言えないわね」
『蓮子がそう言うって事は半死半生ってところかしら。まあ、こっちもそんなところだけど』
「そっちはどんな……」
 怪異を相手にしているの。
 そう続けるつもりだった。
 だが、羽の妖怪はそれを許してくれない。自分を蹴り飛ばして遠くに追いやったはずの羽の妖怪がすぐ後ろにいた。顔のすぐ横から手が伸びてきているのがちらりと見えて……
 その手から逃げるように、とっさに首を横に振る。怪異の手は蓮子の耳のインカムを引っ掛けながら握り込まれ、インカムは一瞬で鉄くずとなる。もう少し遅かったら、その鉄くずには耳たぶが挽き肉になって混じっていた事だろう。
 蓮子は突き飛ばすように羽の妖怪を手で押し、拳銃の引き金を引く。至近距離での発砲だが、それでも羽の妖怪は三又槍トライデントすら使わず、踊るようにそれを避ける。
「内緒話はまだ続く?」
 だが、意外にも追撃はしてこない。羽の妖怪は手をぱたぱたと振って鉄くずを払い、蓮子から離れて空にふわりと浮かぶ。
「ええ、おかげさまで長話から解放されたわ」
「礼なんていいよいいよ。私もお説教は嫌いだし」
「あら、年長者のお説法はちゃんと聞くものよ」
「聖とは二、三〇〇年くらいしか離れてないのに、それで私が子供扱いされるなんておかしな話じゃない」
 羽の妖怪が二体並んで槍を構え、その羽に力をぎゅっと蓄える。突撃。そうしようとしているのは一目で分かった。今度こそ、自分の腹を槍で突き刺そうとしている。
「それじゃあ、これで終わりにしてあげる!」
 そして、羽の妖怪の一体が突っ込んでくる。もう一体は上空へと飛び上がり、周囲を見渡すみたいにくるくると回っている。境界の作った先を探知しようとしているのが見て取れる。どうやら、蓮子が平安神宮の外へ逃げるという策は羽の妖怪にとって想定の範囲内らしい。平安神宮の外に逃げようと追い付き、黒雲のドームの外に逃げればメリーが襲われる。
 だから、これは逃げるためではない。戦うために、退くのだ。
 蓮子が手を振るう。自分の背後に大きな境界が現れると同時、振り返って境界向けて駆け出す。羽の妖怪には情けない敵前逃亡に見えるだろう。振り返る直前、空中に浮かんでいた方の羽の妖怪が境界の作った先、日本庭園・・・・へ向けて飛ぶのが見えた。
「どうした情けなく背を向けやがって! どこに逃げようっていうんだ⁉」
 後から獰猛で愉快そうな声が聞こえるが、蓮子はそれを黙殺して叫ぶ。羽の妖怪にではない、境界の先、そしてインカムの先にいる奴に。

「メリー!」「蓮子!」

 蓮子が境界の先に向けて相方の名前を叫ぶ。それと同時、境界の先から自分の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
 蓮子が境界をくぐると同時、境界の向こうから手が伸びてくる。それは蓮子の横を通り、すぐ後ろに迫っていた三又槍トライデントを掴む。その腕は紫のドレスに覆われていて、その手は見るだけで誰か分かるほどよく知ったものだった。
 メリー。私の相棒。
「な……に……?」
 羽の妖怪が槍を持って突っ込んできながら、そんな言葉をぽつりと漏らす。
 彼女はそのまま羽の妖怪の前に飛び出し、槍の半ばを握って押さえつけながらその顔に拳を叩き込んだ。自動車を叩き潰すような一撃が、羽の妖怪の顔にびきりとガラスのような放射線の亀裂が走る。どうやらあちらが偽物だったらしい。
「そいつは正体不明の妖怪、私があんたの敵をどうにかするからそれまで足止めして!」
「舟幽霊は任せるわ! 対処方法は分かってるわよね!」
 蓮子は池の畔の土を踏む。目の前には、身の丈ほどもある巨大な二本の錨を両手に持つ怪異がいた。メリーの言う舟幽霊だろう。そしてそれは同時に、メリーが羽の妖怪の前に立つ事を意味している。
 後ろから響くばりぃぃぃぃん! と文字通り鏡を粉々に叩き割った音を聞きながら、境界を閉じ、蓮子は拳銃を舟幽霊へ突きつける。
「さて、メリーからの頼みだもの、あっちが心配だし、さっさと片付けてあげる」
「へえ……」
 舟幽霊が錨の一つを放り捨てる。それはどぼんと大きな音を立てて池を割り、繋がった鎖と共に水底へ沈んでいく。それだけで、その錨がどれほどの重量があるか容易に推察できる。
 そして、もう一本を片手でくるくると回してから肩に担ぎ、舟幽霊は蓮子に言葉を投げる。その顔は笑ってはいるが、獲物を取られた事、そしてあまつさえ自分を指して『さっさと片付ける』なんて言ってのけた事に、笑顔の下に苛立ちと興味を隠していた。
「あら、選手交代かしら? あなたは人間? それとも人間じゃない?」
「そういう貴方は舟幽霊ね。幾つもの船を沈めてきたっていう。こんな小さな池なんかじゃなくて、海にでも行けばいいのに」
「そうね、それさっきの金髪の子にも言われたわ。秘封倶楽部とやらをどうにかしたら見に行くのも悪くないかしら……ね!」
 そう言って、舟幽霊は錨を掲げながら蓮子へと突っ込んでくる。つい先程、近接戦が苦手だと突き付けられたばっかりなのに、また近接戦に持ち込まれている。
 だが。

「私は土左衛門どざえもんだ!」

 その言葉に、舟幽霊の体が空間に釘付けされたみたいにぴたりと止まる。舟幽霊自身、どうして止まったのか分からないようだった。
「舟幽霊って、日本全国で発生した水難事故の象徴という説もあるの。だから、地域ごとに様々な伝承が存在するわ」
 そして、伝承が生まれれば怪異への対抗策も多数生まれる。船を泊めて舟幽霊を睨みつける、火を点けたマッチを海に投げる、そして、蓮子がさっきやってのけた、自分が土左衛門どざえもんで舟幽霊の仲間だと言ってのけるのもその一つだ。
 だが、こんなものは一瞬動きを止めたに過ぎない。何度もやって通用するものでもないし、大した時間稼ぎにもならないだろう。
 それでも、蓮子にはその僅かな時間で充分だった。
「さて、貴方さっき面白い事を言っていたわね。確か海を見にいくとかなんとか」
 蓮子は続けざまに手を振るう。硬直から戻った舟幽霊が周囲を警戒するが、視界のどこにも境界は生まれていない。
 だが、変化は顕著だった。
 ごぼごぼごぼっ! と。水底から大量の気泡が登ってくる。それと同時、目に見える速度で池の水位がみるみる下がっていく。気泡は次第に渦となり、水をどんどん呑み込んでいく。それは一つ二つではない。この日本庭園にある全ての池で渦が生まれていた。
「あ……え……?」
 最初は困惑していた舟幽霊だったが、すぐに気付いた。舟幽霊のその体は池の水と同化していると言える。だからこそ、不可解な水の流れ、そして何より幻想郷では嗅げない懐かしい匂いに、目の前の黒髪が何をやっているのか理解してしまった。
「あんた、まさか……」
 黒髪の女がひらひらと手にはめられたグローブを見せびらかすみたいに手を振る。その楽しそうな顔に向けて、舟幽霊は驚いた顔で言ってのけた。

「池の水底と海を繋いだな⁉」

 池の底に作られた境界。
 そこから大量の池の水が流れ、太平洋のど真ん中に滝のように捨てられている。汚い比喩だがまるでトイレのようだと、中心に渦巻く池を見ながら蓮子は思った。
「どう? 貴方が焦がれていた大海がそこにあるわ。見てみたいって思わない?」
「そんなの……」
 見たくはないとは言わない。いや言えない。
 怪異の持つ、自身の存在意義。それを否定する事は怪異には出来ない。なぜなら、それこそが怪異のあり方そのものなのだから。肉食動物が肉を喰う事を止められないように、土蜘蛛が人を病で冒す事を止められないように、人間が知的好奇心を完全に捨てられないように。舟幽霊が持つ大海への欲望は、やはりそう簡単に降り切れるものでもないらしい。
 だが、
「貴方、ずっと強い妖怪なのね」
 それでも舟幽霊は抗っていた。まるで悪魔の誘惑を振り払うかのように、舟幽霊はその巨大な錨で蓮子へ殴り掛かってくる。もはや余裕なぞどこかに消えていた。それを見て、蓮子は率直な評価を口にした。
 だからこそ、蓮子には手加減なぞ出来ない。畳み掛けるように、舟幽霊の出自について紐解き詳らかにしていく。
「さて、舟幽霊の伝承は多数あれど、その退治方法にはおおむね共通点が存在するわ」
 舟幽霊が振るう大斧を、蓮子は境界の穴に落ちて回避する。次に降り立ったのは、橋殿の上だ。普段なら多くの観光客が歩いている橋殿に、蓮子は一人、降り立った。
「即ち、海へ物を投げ入れる、という行為よ。水、薪、洗米……何を投げ込むかは多岐にわたるけど、物を投げ込むという行為そのものは共通している。それは何故か」
 そこで蓮子は境界を開く。そこから五〇〇ミリリットルペットボトルに鈍色の箱を取り付けてケーブルを繋げたものを取り出し、橋殿の中心に置いてスイッチを作動させる。鈍色の箱のLEDが赤く点灯する。
「河口が近い地域では、海水と淡水が混ざり合わず、比重の軽い淡水が海面上に滞留する事がある。まるで水の入ったコップに浮かぶ、一滴の油のように」
 舟幽霊は鬼気迫る顔で橋殿の上の蓮子を追い掛けてくる。その顔には鬼気迫るものがある。海への渇望、怪異である自身の存在が科学で解明される事への忌避、それら全てを蓮子への執着へと無理矢理レールを切り替えているようだった。
「もしその場所に船が囚われれば。いくらオールやスクリューで水面を引っ掻き回そうとも、海水に浮かぶ淡水のプールが書き回されるばかりで前には進まない。それが舟幽霊の正体……の仮説ね。だからこそ、海水と淡水を混ぜ合わせるために、投げ入れるという行為が舟幽霊退治の共通の記号となったんだわ」
 舟幽霊が右手でひしゃくを振るいながら左手で錨を振るう。波が橋殿を丸ごと呑み込み、振り下ろされた錨の爪が橋殿の手擦りに刺さり、容易くもぎ取ってしまう。蓮子は濡れ鼠になりながら橋殿を駆け、舟幽霊から逃げる。逃げながら、後ろを見る。
 そこには、橋殿の中央に浮かぶ舟幽霊がいた。
 つまり、ついさっき設置したプラスチック爆弾の上に。
「何を投げ入れるかは問題じゃない。重要なのは、水を引っ掻き回して混ぜ返す事なの」
 蓮子は橋殿の向こうへ駆け、土の上に降り立ってから、端末のタッチパネルを叩いた。

 起爆。
 橋殿は爆発点から真っ二つにへし折れ、大量の木材となって池へと落ちた。

 大量の質量は池の水を引っ掻き回して混ぜる。派手に水飛沫を上げ、池の底へと沈んでいく。水底の水が水面へ巻き上がり、蓮子が爆風に背中を押されてぬかるんだ地面に転がされる。
 そして、爆発に巻き込まれた舟幽霊の体が弾けて撒き散らされる。爆発そのものはさして強いものではなく、橋殿を崩す事を目的とした最小限の規模の爆発であったし、そもそも怪異に爆弾程度が通じるものではない。
 だが、土座衛門であるという蓮子の宣告、怪異の科学的解明、伝承を元にした妖怪退治手順の再現。内面への攻撃は舟幽霊を蝕み、爆弾一つで吹き飛ばせるほどに脆弱に成り果てていた。がくんと、その場に縫い付けられる。渦から逃げられない。
 そして、舟幽霊は水と一緒に流され、太平洋へと排水された。
 後に残ったのは、水の無い池と、ぐちゃぐちゃになった日本庭園。メリーと舟幽霊、二人して随分とここで暴れ回っていたらしい。……まあ、橋殿を爆破した自分が言えた事ではないが。
 そうして、日本庭園は静寂に包まれた。しんと静まった地面の上が、疲労した体にはホテルのベッドのように心地良い。だが、メリーがまだ戦っているのだ、いつまでも寝転がってはいられない。体を起こした蓮子は手を振って大学の部室と繋げる。
「ちゆり、いきなりだけど新しいインカムを……」
『それはいいんだけどさ』
 差し入れた手にインカムが置かれる感触。それとちゆりの、どこか戸惑っているような声。
『お前、橋殿を落としたのか?』
「そうだけど、まさかこの非常事態に景観を守れとか言わないでよね?」
『いや、そうじゃないんだけどさ……確かその池の底に、ネズミの妖怪がいたはずなんだが。まさか、一緒に海まで流されてないよな?』
「……まじ?」
 恐る恐る、水の排出された池を覗き込む。爆発物が投げ込まれ、大渦が生まれ、大量の材木が降り注いだ池の底。そこには、いつぞやのネズミの妖怪がいた。彼女は両手を縛られながらも底にロッドを突き立て、海に排出されないよう辛うじてしがみついていた。
 ぬかるんだ池のふちを滑るように降り、ネズミの妖怪の下へ降り立つ。ネズミの妖怪は意識がないようだが、どうやら死んではいないらしい。境界からナイフを取り出してロープを切り、背中を叩いて気付けしてやると大量の水を咽ながら吐き出した。
「……まったく、随分と待たせてくれるじゃないか。水の中は退屈で死にそうだったよ」
「軽口が言えるくらいには元気で安心したわ」
 さすがは妖怪というべきか、回復が早い。長い時間を池の底で過ごし、気を失いながらも激流に耐えていたというのに、今やもう立ち上がれるくらいにまでなっている。
「さて、君はこれからどうするんだい?」
「そりゃあもちろん……あの羽の妖怪と戦うわ」
「まさか……人間があいつに勝てるはずがない! あいつは……」
「分かってる」
 怪異。大妖怪。人知の及ばぬ存在。そんなものを相手にしているなんて百も承知だ。
 だからといって逃げるようなら、宇佐見蓮子は、秘封倶楽部は最初からこの場に立ってなんていない。ここにいる人間は妖怪を御札や刀で退治出来るような超人ではないし、自分が死んでも街を守ろうなんて言う聖人君子でもない。怪異に吹かれれば飛ぶような、どこにでもいるただの人間で、大学生だ。
 それでも。
「けど、それでも行くわ。相棒が戦っているんだもの。一人だけ先にとんずらするなんて、出来るはずないじゃない」
 あまりにもあっさりと、蓮子はそう言い残して境界の穴へと落ちていく。ネズミの妖怪が手を伸ばそうとしたが、既に地面に広がっていた境界は閉じて消えてしまった。

§

 馬鹿だ、と。
 地面に落ちていく宇佐見蓮子を見送ってから、残されたナズーリンはそんな事を考えていた。
 どうして、ただの人間がまだ五体満足でいられるのか。それは彼女の、秘封倶楽部の実力でもあいつ・・・が雑魚だからでもない。
 ただ、弾幕ごっこという遊び、そのルールの中にいるからだ。
 弾幕ごっこ。妖怪も神も人間も、等しく戦う事が出来るようにするためのルール。あいつ・・・は手加減はしていないはずだ。ただ、弾幕ごっこというルールの中で全力で宇佐見蓮子と戦っている。それは決闘という名のスポーツだ。
 ……蓮子、だったか。あいつの手、震えていたな。
 当然だ。あいつはただの人間が戦えるような相手じゃない。それは宇佐見蓮子自身も分かっているはずだ。弾幕ごっこだって、その気になれば簡単に人を殺せるし、あいつがルールを守り続ける保証もない。
 はっ、と鼻で笑うように小さく息を漏らす。
「怖いなら、素直に助けてって言えばいいのに」
「こっちにも事情があるのよ。散々今まで怪異を倒しておいて、今さら怪異の手なんて借りられないって、多分本気で思ってるわ」
 独り言のつもりだったのに、返事がした。
 そちらを見れば、ところどころ泥だらけで汚れているが赤い服に身を包んだ女性がいた。遅れて、自分が池に落ちる前に見た、境界から出てきた女だと気付く。本人は意図してないだろうが、ネズミの臣下を連れてきてくれた人物で、ある意味でナズーリンの恩人でもある。
 それでも、ナズーリンからすればほとんど初対面の人間だ。人間に負けるとは思っていないが、相手は妖怪を相手に戦ってきた連中だ。小傘にはしてやられてたみたいだが、どうして油断なんて出来ようか。
 ロッドを手に握りながら、世間話のような口調で平静を保った声を出す。
「君は? 見たところ、戦うのが得意には見えないね」
「秘封倶楽部顧問、岡崎夢美。お察しの通り、私は政治や人事、後始末が担当でね」
 夢美と名乗った女がポケットに手を突っ込むのを見て、とっさにナズーリンはロッドを構える。だが、気にするなとばかりに夢美はもう一方の手をひらひらと振る。
「あいにく今は名刺の類いは持ってきてなくてね、これで我慢してちょうだい」
 夢美がポケットにあった何かをナズーリンに投げる。小さなそれは、ナズーリンの手の中にすとんと収まった。それを避けたりロッドで叩き落としたりしなかったのは、見慣れぬそれにダウサーとしての興味が上回ったからだろうか。
 それは初めて見る形だ。指ほどの長さの棒に小さな突起物、と表現すればいいのだろうか。歪なL字型のそれを、少なくとも幻想郷じゃ見た事がない。これが何なのか、何故これを夢美は投げてよこしたのか分からず彼女を見ると、彼女は耳にかかった髪を手で持ちあげ、その下にある変なものを見せつけてくる。それでようやく理解出来た。
「貴方、あの怪異を止めたいんじゃないかしら。より正確に言うなら、あっちに連れて帰りたい、というところかしら」
「どうして、そう思うんだい?」
「勘よ」
 夢美はにやりと笑う。その顔を見ていると、毒気が抜けたような気分になる。確かに彼女の言う通りだ。元はと言えばあいつの変な勧誘ビジネスを辞めさせるのが目的だったが、こうして自分自身が外に追い出されたとなった今は、あいつを連れ帰る事が、今の自分の目的だ。
「それで、私にも妖怪狩りを手伝わせたいって? 随分と簡単に妖怪を信用するんだね。君の友人を誘拐したあいつらの仲間だと思わないのかい?」
「貴方はあの唐傘お化けを叩き落として、あの羽の妖怪には連れ去られて、舟幽霊には水底に引き摺り込まれて。これが私達を油断させて寝首を掻くためだっていうならその役者魂を尊敬するわ」
 それに、と夢美は付け加える。
「怪異なんてなに考えてるか分からないのにって言いたいなら、そっちこそ腹が黒いのが自分だけだなんて思わない方がいいわ」
「君達は……秘封倶楽部は、この世界の守護者じゃないのかい?」
「勝手に私達を定義しないでちょうだい。結果的にそうなっているのだとしても、『この世界を守ってやってる』なんて傲慢で殊勝な考えは誰も持ってないわ。目的なんてなんだっていいし、人間か怪異かも関係ない。ただ、この街の怪異と戦うというのなら誰だって歓迎するし、使えるものは何でも使う。無理強いはしないけど、私達だけであれを倒せるなんて自惚れるつもりもない」
 だから。夢美はそう付け加えた。
「たとえ目的が違っていたとしても、私達と戦ってくれるなら歓迎する。貴方も秘封倶楽部の一員よ」
 そう言い残して、夢美はその場を去る。彼女もまた、逃げるためではなく戦うために、歩みを進める。
 そうして、ぼろぼろになった日本庭園で一人、手の中のインカムを手の中で転がしながら呟いた。
「ところで、ネズミの耳の形に合うものは無かったのかい?」

§

 メリーの体が地面をごろごろと転がる。
 無論、自ら地面の上を転がり回るほどメリーは愉快な人間ではない。うつ伏せになりながら顔を持ち上げて前を見ると、そこには羽の妖怪がいた。ご丁寧にも、まるでこの足でお前を蹴り飛ばしたんだと見せびらかすみたいに片足を上げてふらふらと揺らしている。
「ほら、殴り合いがお好みなんでしょ。そんなところで寝てないで、かかっておいで」
「……言われなくても」
 メリーは再び立ち上がる。だが、その足はがくがくと震え、息も絶え絶えだ。それでも拳を握って、羽の妖怪に向けて走り出す。
 だが、メリーが羽の妖怪に近付くよりも先に、羽の妖怪の顔が目の前にあった。奴の拳が顔に飛んでくる。とっさに腕で顔を守るのと、腕に鋭い衝撃が叩き込まれるのは同時だった。並の人間ならしばらくは腕が使い物にならなくなる程の衝撃に、メリーの腕が軋んで痺れる。
 だが、その拳にメリーは違和感を覚えた。
 ……軽い、まさかフェイント⁉
 気付いた時にはもう遅い。がら空きになった胴に羽の妖怪のその歪な青い羽が食い込む。見た目には鏃のような尖った形をしているが、串刺しになるような事はなかった。だが、そのインパクトは先ほどのジャブの比ではない。一拍遅れてメリーの体が吹っ飛ばされる。
 地面から足が離れ、ふわりと宙を数秒舞って、それから再び地面に接触して転がされる。まだ五体満足を保っているが、それでも何か、体に異変のようなものを感じずにはいられない。まるで歯車があちこちでズレたみたいな感覚を全身が訴えてくる。
 蓮子と交代してから数分。まともに自分の拳が通ったのだって最初のガラスみたいな偽物を殴った時くらいで、それからずっとこの調子だ。舟幽霊みたいに殴っても効果がない訳じゃない。そもそも拳が届かないのだ。自分とも、舟幽霊とも、あるいは今まで見てきたどんな怪異よりも、怪異としての格が違うのだと嫌でも分かる。
「あのさあ」
 羽の妖怪が地面に寝転がるメリーの首を掴み、片手で持ち上げる。
「お前、人間じゃないでしょ?」
「なに言ってるの。どこからどう見ても人間、それも可憐な少女でしょ?」
「あんたと戦っても、心が躍らないのよね。だからあんたはナズーリンと一緒に縛って放置していたのに、なんで抜け出しちゃうんだか」
 指がメリーの首にめり込む。メリーは両手で羽の妖怪の手を掴んでどうにか引き離そうとするが、まるでびくともしない。
「このまま首を絞めても、どうせ死なないんでしょ? だったら、このまま首をへし折ったらどうかしら」
 羽の妖怪が首を掴む手に力を籠める。べき、ごき、と首の皮の下にある何かが音を立てる。そこにどんな機構があるのかはメリーは知らない。だが、首だけになって生きていられる自分の姿なんて想像できないし、したくもない。
「あんたには弾幕ごっこもスペルカードもいらない。とっととあんたには退場してもらって、あいつを迎えに行かないと」
 ……あいつ? あいつって、舟幽霊……いや、蓮子の事? なんで羽の妖怪が蓮子を?
 メリーの頭をよぎった疑問。だがそれを口からアウトプットする事は許されない。首を掴む羽の妖怪の手が首を、その中にある何かを圧し潰していく。生命線のようなものが、絶たれつつあるのを感じ取り、意識が次第に揺らいでいく。
 ……れ、んこ……。
 相棒の顔を思い浮かべた、直後だった。

 だちゅ、と。
 メリーを持ち上げていた羽の妖怪の腕から、赤い液体が吹き出した。

「あ……?」
 羽の妖怪がとぼけたような声を漏らし、首を掴んでいた手を離す。メリーの体がすとんと地面に落ちた。
 何が、とメリーが思うよりも先に、羽の妖怪はどこか自分とは違う場所に視線を向け、さっきまで自分を掴んでいた血まみれの手を動かす。その度に、だちゅだちゅと赤い液体が断続的に吹き出す。
 銃弾を手で弾こうとしている。
 それは分かる。だが、本来なら厚い鉄板に撃った時のようにどこかへ弾かれるはずの銃弾が、怪異に皮膚にまるで吸い込まれていくみたいにめり込んでいる。鉄の銃弾なら、妖怪の皮膚なんて傷すら付けられないはずなのに。
 それはつまり、暴いたという事だ。
「やっぱり、不意打ちが通用する相手じゃないわね。でも、怪異の腕一本を封じたんだもの。上々といったところかしら」
 声が聞こえる。怪異相手に怖がっているくせに、それをおくびにも出さずに挑発すらやってのける、愛しの相棒の声が。
 メリーは喉の違和感も忘れて、彼女の名前を呼ぶ。
「蓮子!」
「こっちは舟幽霊をとっとと始末してきたのに、メリーは随分としてやられてるわね」
「この子は蓮子をご指名みたいだからね。貴方が来るまで手加減してたのよ」
 その体は、さっき切り替わった時以上に泥に塗れていた。蓮子の手には拳銃が握られており、その銃口からは硝煙が立ち上っている。
 だが、そこに装填されているのは銃弾ではない。羽の妖怪を傷付けられる、弱点がそこには装填されているはずだ。
「これ、あんたがやったって事は……」
 羽の妖怪は穴だらけになってだらんとなった腕をぷらぷらと振る。
「ええ、あんたの事、よく分かったわ。〝ぬえ〟さん?」
 鵺。
 その正体は文献によって様々な姿で語られる妖怪だ。猿の顔、狸の胴体、虎の手足、尾は蛇と表現される事もあれば、虎の背、狸の足、狐の尾と表現される事もある。得体の知れないもの、正体の分からないものを〝鵺的な〟と表現する事もあるくらいだ。
 故に、鵺とは正体不明の代名詞とも言える。正体不明。ずっと奴が言い続けていた言葉だ。
「……私が、鵺だって?」
 鵺がとぼけた声を出すが、穴の空いたその腕を見れば、既に答え合わせは終わっている。
 思い浮かべてみれば、連想される要素はたくさんあった。
 鵺が放出した黒雲。『平家物語』では、黒雲と共に御所に現れたと云われている。また、黒雲という共通点から雷獣と同一視する説もある。鵺自身に雷と関連する伝承はなかったと記憶しているが、奴の黒雲の中で雷鳴が轟いていたのはそれが理由かもしれない。最初のスペルカードに黒雲を出すスペルカードを選んだのも、『黒雲と共に現れた』ところに因んでいるのだろうか。
〝平安〟という言葉。鵺という存在を語るのに『平家物語』は欠かせない。平安京に現れた鵺は夜な夜な不気味な鳴き声を響かせ、当時の天皇をも病に苦しめ、最後には源頼政みなもとのよりまさの矢に討たれた。鵺についてそのエピソードは現代でもあまりにも有名だ
 鵺だと分かれば、その姿も解釈のしようがあるというもの。赤い鎌のような羽はとらの爪。青い鏃のような羽は突き刺す・突き立てるという意味を抽出したの牙やいぬの犬歯の名残。腕に巻かれた蛇はそのまま、あるいはたつを表し、体は人間、つまりさる。鵺のちぐはぐな姿は干支の集合ともされており、前述のもの以外にも自分達が思い付かないだけでリボンや服装、あるいは内面に他の干支の要素があるのかもしれない。
 三又槍トライデント。『平家物語』で真にとどめを刺したのは頼政の放った矢ではなく、頼政の家来である井早太いのはやただ。井早太は矢に討たれて地に落ちた鵺を取り押さえ、つづけざまに九度も刀で裂いた。その手の中の武器は、刀で裂き殺されたという記号の象徴……と結びつけるのは少々強引だろうか。
「じゃあ、腕を撃ったあれは」
「矢。源頼政が鵺を討つために作った武器。あんたにはうってつけの武器でしょう?」
 メリーの問いに、蓮子は羽の妖怪改め鵺を睨みながら答える。
「ええ、その通りみたいね。おかげで腕がこんな有様よ」
 鵺が寒さに胸を抱くように、穴の空いた右腕を左腕で掴んでぷらぷらと揺らす。まるで関節の壊れたデッサン人形だ。その有様を見せびらかしながら鵺は相変わらず軽薄そうに笑い、

 ぐじゅっ! と。
 穴の空いた右腕を肩から引き抜いた。

 筋繊維をまとめて引き千切る嫌な音が響く。
 引き抜かれた腕は地面に放り投げられ、地面の上でトカゲの尻尾のようにしばらくの間ぴちぴちと跳ねていたが、すぐにしなびて動かなくなる。
「うーん、まだ細くていまいちね……」
 メリーが切り離された腕に気を取られている内に、鵺はいつの間にか新しい腕を生やして指を開いたり閉じたりしていた。本当にトカゲみたいな奴だ。
「やっぱり、腕を撃ったくらいじゃ駄目みたい」
「そんな貧相な拳銃で私を殺せるとでも? それとも、相方を傷付けたくなくてそんなのしか使えなかったのかしら?」
「……」
 へえ、とメリーが呟くと蓮子の肩がびくりと跳ねた、気がした。……おかわいいことで。
 蓮子がわざとらしく咳払いして、倒れているメリーに向けて手を差し伸べる。それで誤魔化せるとでも思っているのかは知らないが、だから蓮子はかわいいんだ。
「ほら、いつまで地面に寝転がってるのよ。まさか、手を貸さないと立てない、なんて言わないでよね」
「はいはい。まったく、蓮子は人遣いが荒いんだから」
 差し伸べられた蓮子の手を握り、立ち上がる。
 これで秘封倶楽部が揃った。蓮子とメリー、そして繋がるようになったインカムの先には夢美とちゆり。二人が並んで空に浮かぶ鵺を見上げる。蓮子もメリーも服はぼろぼろでその下も傷だらけ、対して鵺は無傷。一度は腕を潰したが、まるであれが夢だったみたいにその腕で三又槍トライデントを手で弄んでいる。
 けど、負ける気なんてしない。私達は秘封倶楽部。現代の怪異退治のプロフェッショナルなのだから。
 ぱん、ぱんと。手を叩く音が空中から響く。
「まさか、私の正体を暴くなんてね」
 空には、ゆっくりと手を叩く鵺がいる。その顔は随分と余裕そうに見える。だが、それも当然だろう。正体を暴いたからと言って目の前の妖怪を退治出来る訳じゃない。有効打になる武器を一つ手に入れたという、それだけの事だ。それが鵺にも分かっているからこそ、正体を暴かれてなおその顔に笑みを浮かべていられるのだろう。
 鵺は、叩いていた手を止めて日本庭園の方へ視線を向ける。
「ムラサはやられちゃったか。残念」
「お仲間がやられたのに、随分と余裕なのね。怒りの一つでも見せてくれると思ったのに。それとも妖怪には情って奴がないのかしら」
「まさかまさか。こっちから喧嘩売っておいて、仲間がやられて逆恨み出来るほど図々しくはないわ。……怒ってない訳じゃ、ないけどね」
「安心して。殺してはないわ。あんたを幻想郷に叩き返してから、その後で舟幽霊も同じように送ってあげる」
「そう、それは安心ね」
 そう答えた鵺の表情は変わらないが、なんとなく感じる。どうやら、怒っているというのは本心らしい。水密とも会話したメリーには分かる。この二人は本当に仲が良いのだ。単に友人知人を超えたものがある。
「それで、正体を見破って、それで終わりのつもり?」
「まさか。もう一つ、分かった事がある」
「ふうん、名探偵は次にどんな推理を披露してくれるのかしら」
「ずばり、あんたの目的について」

 ――鵺符「鵺的スネークショー」

 もはやその正体を隠す必要もないとばかりに、自身の種を名に冠するスペルカードを唱えた。
 鵺の手に巻き付いていた蛇が離れ、空へ浮かび上がる。それは鵺の頭上で丸まったかと思うと、花弁のように花開く。それはウミヘビのように空中でのたうちながら、一匹から膨大な数に増えて全方位へと放たれる。空中で蛇行しぐるりと周り、一匹一匹は一糸乱れぬ動きにも関わらずその動きはまるで予測出来ない。
 その弾幕を前にしながら、蓮子は口を止めない。鵺という存在、その心の内を見透かす。
「あんたはメリーとネズミの妖怪を攫った。それはどうして? 秘封倶楽部が怪異を送り帰して、あんたのビジネスを邪魔したから? だったらわざわざ攫うなんて事はせずにあの場で私とメリーを殺せばいい。それなのに、わざわざ舟幽霊の見張りまでつけてまで、二人の怪異を捕まえて、殺しもせずに縛って放置した」
 弾幕を前に、蓮子はグローブに包まれた手を振るう。目の前に境界が現れ、目の前に迫っていた緑の蛇が境界の中に飛び込んでいく。
「あんたはメリーを攫ってから私達に時間を与えた。戦略を練り、戦の準備をする時間を与えた。それはどうして? あんたが私達との戦いを少しでも楽しめるようにするため? だったらメリーも一緒に戦わせた方がもっと楽しめるはずなのに。あるいは、私みたいな大学生よりも先に来た完全武装の警察達を相手にした方がもっと楽しめると思うんだけど」
 境界の盾を回り込んでくる蛇。それを叩き落とすのはメリーの仕事だ。正面の真っすぐやってくる蛇は蓮子が、回り込んで背中に噛みつこうとするメリーが担当する。
 目的は、蓮子の推理ショーを邪魔させないようにするため。今この舞台の主役は蓮子であり、メリーの役割は露払いで、ただのお膳立て、舞台袖の黒衣ころごなのだ。
「あんたは弾幕ごっこという手段を選んだ。それはどうして? その気になれば私なんて瞬殺できるのに、どうして人間と妖怪が平等に戦える決闘術とされる弾幕ごっこを? それに、メリーとの戦いではスペルを一切使わなかったのも気になるわ」
 蓮子は口を止めない。種族としての鵺ではない、彼女という存在、その心の内を蓮子は暴く。
「それらの疑問を並べるとあるものが見えてくるものがある」
 メリーとナズーリンを攫ったのは人間以外の横槍を排除するため。ドームで覆ったのは蓮子以外の人間からの横槍を排除するため。時間を与えたのは万全を期させるため。決闘方法に弾幕ごっこを選択したのは人間でも対抗できるようにしたため。
 全て、蓮子と鵺が戦うための舞台をお膳立てするための行動だ。秘封倶楽部が、じゃない。人間が、でもない。鵺は蓮子に執着していた。
 だが、それはどうして? 秘封倶楽部の御役目を止めたいのなら、その片割れメリーだけを攫う理由がない。土蜘蛛のように人間を喰いたいなら蓮子でなくてもいくらでもいる。弾幕ごっこがしたい、強敵と戦いたいというのならそれこそ幻想郷でやればいい。
 それでも、奴はわざわざ蓮子との決闘をお膳立てした。メリーでは駄目で、ナズーリンでも駄目で、この街の警察でも駄目で、蓮子でなければならない理由。
 この世界で唯一、宇佐見蓮子だけが妖怪に認められる理由。
 ああ、とメリーはぽつりと呟き、辿り着いた答えをぽろっと口に出した。

「つまり、あの妖怪は蓮子に退治されたかったのね」

 メリーがその言葉を発したと同時、鵺の動きが、弾幕がぴたりと止まる。大量の蛇が虚空にゆっくりと消え、残った一匹が鵺の腕にしゅるりと巻き付く。
 この世界で唯一、蓮子だけが人間の身で妖怪退治の御役目を受けている。鵺はそう考えた。メリーやナズーリンのような怪異ではなく、怪異をテロリストか何かとしか思わない警察でもなく、蓮子だけが、鵺を退治する資格がある。
 大妖怪は、それを望んでいた。その役割を果たして自分を討つ事を望んでいた。
 あっちから仲間まで呼んでおいて、やりたかった事は自分が退治される事。それは妖怪にとって殺される事と同義かもしれないのに、それを望むだなんて。その上、そのために蓮子とメリーをぼろぼろにして。
 ……蓮子の言う通り、怪異ってのはみんなおかしいのね。理解出来ないわ。
 メリーは、空を見やる。そこに浮かぶのは、正体どころか目的までも見破られた、裸の妖怪がふわふわと浮かんでいる。ずっとそれを隠し、隠していた事を誇っていた正体不明の怪異は、顔に手を当て、顔を隠しながらぽろぽろと呟いている。
「六〇点、というところかしら」
 だが、確かにメリーには見えた。顔を隠した手の隙間から、大きく釣り上がった口が。
「最初は、そんな事まるで思ってなかった。邪魔なこの世界の守護者とやらをちょっと痛めつけて、それでも妖怪退治ごっこを止めないなら殺してしまえばいいって、そう思ってた」
 鵺のその顔は、手なんかでは隠せないほどに次第に昂揚していく。ずっと隠していた心中の吐露。それは愛の告白のように甘酸っぱく、甘美なのかもしれない。正体を明かすというのは、秘密をひけらかすというのは、それはきっと素晴らしく心地良いものだ。
 その顔を見れば、蓮子の推理を裏付けるのに充分過ぎた。
「けど、小傘と戦うお前を、必死ってツラして戦うあんたを見て思ったのよ。こいつは頼政と同じだって。あの巫女みたいに特別強いんじゃない、それでも妖怪相手に立てる奴なんだって、気付いた。人間らしく腕を磨き、策を弄し、脆弱なくせに諦め悪く立ち向かってくる」
 頼政。
 聞き間違いでなければ、それは平家物語にも登場した源頼政なのだろう。目の前の存在は、まさに平家物語で語られた鵺そのものなのだろうか。
「だから……なのか、お前を見ていて懐かしくなっちゃってね。もう一度、私は語られたいって、思ったの。平安の世を恐怖に陥れて頼政に討たれた事が今も語られるように、この科学世紀の世を恐怖に陥れて、その果てに人間に討たれたんだって、また語られたいの」
 びっ、と。
 鵺が三又槍トライデントを自分達に突き付ける。
「だから私を全力で退治してみなさい。そして語り継げ。私は全力の弾幕で以てお前を殺す。お前とこの世界が私を語る存在に足るか確かめてあげる。それでこそ、新たな怪異譚わたしのものがたりになり得るのだから」

 ――鵺符「弾幕キメラ」

 光線と、光弾。一つの妖弾が何度も姿を切り替わりながら迫ってくる。
 蓮子とメリーは二手に分かれる。幾重にも変わるその弾幕の軌道を読む事は難しい。だが、蓮子は冷静に拳銃を鵺に向けて引き金を引く。鵺は弾幕を放つ手を止めて三又槍トライデントで矢を弾く。矢は鵺の体まで届かないが、その度に弾幕が途切れる。先ほどまでの当たったところでどうという事はない銃弾とは違う。もはや正体を見抜かれた鵺にとって、蓮子の攻撃は片手間に処理出来る攻撃ではなくなったのだから。
 だが、それでも鵺の優位は崩れていない。
「言ったでしょ、私は小傘と戦うお前を見てたって」
 今度は自分の番とばかりに、鵺が口を開く。どうやら、あの唐傘お化けはかませとしてしっかり役目を果たしたらしい。鵺にはいいように使われてナズーリンには叩き落とされて、本当に不憫な子だ。笑いながら蓮子とメリーをぼこぼこにした恨みをメリーはまだ忘れてないが。
 ともかく、蓮子が鵺を観察し続けたように、奴もまたずっと蓮子を見てきたのだ。
「だから分かる。お前の弱点は三つある」
 鵺はぴんと人差し指を立て、自分達に見せつけてくる。
 蓮子の弱点。それはメリーにもよく分かっている。一つ、蓮子は人間の反応速度を超える近接戦闘には追い付けない。二つ、怪異の正体を暴かなければ有効打となる攻撃手段がない。
 そして三つ。鵺が人差し指をぴんと立てているのを見て言いたい事が分かる。いや、あれは指を立てているのではない。指を差しているのだ。空を。黒雲のドームが隠した夜空を。
「お前は夜空が見えないと幻想郷と繋げないらしいな。どうしてそんな面倒な条件があるのか知らないけどね」
 確かに、あの唐傘お化けは雨雲を呼んで夜空を隠していた。唐傘お化けは意図して雨雲を呼んだのかは知らないが、そのために苦戦を強いられた。
「はて、どうかしらね」
 蓮子が、冷や汗で引き攣った声で強がりを言う。そんな声を出すくらいならわざわざ返さなきゃいいのに、とメリーは思う。
 だが、鵺の言う通りだ。蓮子は月が見えなければ座標が見えない。座標が見えなければそれを唱える事もできず、境界を呼ぶ事も出来ない。メリーの目で空を見ても、あるいは端末のGPSで座標を調べても、それは意味がない。蓮子が、蓮子自身がその目で空を見て座標を唱えなければならない。
「もちろん、蓮子には策があるのよね。あの黒雲のドームを晴らす策が」
「え、ええそうね。もちろんあるわ」
 鵺に聞こえないよう、小声でインカムに話し掛けるが、返ってきたのは声だけで嘘と分かるほど引き攣ったものだった。
「本当に?」
「……黒雲はあいつから出てる。なら話は簡単で、黒雲が出せなくなるまで銃弾を叩き込めばいい」
「それ、本気で出来ると思ってる?」
「…………」
 無言。そこはせめて嘘でも出来ると言ってほしかった。
 とはいえ、蓮子がそう言うならそうするしかないのだろう。どの道、ああしてふわふわと飛ばれては座標を叫んで境界を呼び出しても捕らえられない。ただ、あの大妖怪を疲弊させる事など出来るのだろうか……。

「黒雲を祓えばいいのかい? なら、そんな回りくどい方法を使う必要なんてないさ」

 凛とした声がインカムから聞こえた。それは少女のように高いものだが、口調は落ち着いていて中性的だった。聞き覚えのある声だ。
 それと同時、周囲が明るくなった。暖かく柔らかくて、しかしそれでいて平安神宮全体を照らすような強い光。その光の出所を見ると、赤い社の蒼い屋根の上で誰かが光を掲げていた。右手に光の塊を掲げるその人物は、見覚えのある顔をしていた。
「ネズミちゃん!」
「私にはナズーリンという名前があるんだ。そんな可愛らしい名前で呼ばないでくれ」
 ナズーリンがその手をさらに高く掲げると、光はますます強くなる。それに誰よりも反応したのは、鵺だった。奴は、その光……より正確に言うなら光を発しているその物体を見て、ひどく驚いているようだった。
「まさか……」
「そう、宝塔だよ。こころと商談中の君に話し掛ける前にこっそり拝借していてね。ご主人様がまた無くしたなんて騒ぐ前に、私はあっちに戻りたいんだ。だから私も介入させてもらう」
「なんで今更……! 幻想郷から追い出した時も、私がお前達を攫った時も、ムラサに沈められた時も、使うべき時なんていくらでもあったのに、どうして今の今まで隠していたんだ!」
「決まっているだろう? ここぞという場面で切ってこその〝切り札〟なんだから」
 宝塔、と呼ばれたものから光の柱が空に向けて一直線に放たれる。その一筋の光が黒雲のドームに触れると、波紋が広がるようにして黒雲のドームに綺麗な丸い穴を作る。宝塔が何かは分からないが、どうやらそれはナズーリンの奥の手らしい。今まで見たどんな怪異も、あれほどの強い光を放った事はない。
 そして、穿った穴から夜空が見える。きっと蓮子のあの気持ち悪い目には、ここの座標が見えているのだろう。
 だが、そう長くも続かない。空へ伸びた光の柱が細くなるにつれて穴の縁は押し返すように黒雲が侵食し、穴をどんどん塞いでいく。光の柱が消えるとその修復速度は増し、穴が完全に塞がるまで、そう時間は掛からないだろう。
「リロード」
 蓮子はぽつりと呟き、自ら作り出した境界に銃を突っ込む。境界の先から聞こえるかちゃりという音、それとずしっとした重みから、マガジンが交換されて銃弾が装填されたのが伝わってくる。境界の先にいるちゆりが交換したのだ。
「どうやら、楽しかった弾幕ごっこおあそびもこれで終幕みたいね」

 ――恨弓「源三位頼政の弓」

 鵺はスペルの銘を唱え、まるで弓を引くように右手を伸ばし、左手を顔の横に引く。遅れて彼女の右手に弓が、左手に番えられた矢が出現する。それは黒雲とは真逆の、美しくそして強い光を放っていた。
 そして蓮子も、拳銃を空に浮かぶ鵺に向ける。お互いに、拳銃ゆみを構え、銃弾を突き付ける。
「れ、んこ……」
 逃げて。
 そう言おうとしたが、口が震える。
 あれは、最奥だ。鵺という存在、彼女の奥の奥に存在する、根幹とも言えるものだ。頼政に討たれ、そしてそれが現在まで語り継がれた。単なる怨念や恨み辛みでは騙れない何かが、そこに籠められている。そんなものに、人間が相対出来るはずがない。
 だが、それは蓮子も同じ。握りしめたその拳銃、そこに装填されたもの。それは、秘封倶楽部の最奥だ。鵺に比べればはるかに浅くとも、だ。少なくとも蓮子はそう考え、それが頼れる武器だと信じている。
 ……まったく、仕方ない子。
 メリーが、蓮子の前に立つ。まるで自分が盾にでもなるかのように。
「どうしたの、メリー。あいつは私をご所望よ。あいつの相手は私がするわ」
「水臭いわね。私達は、二人で一つの秘封倶楽部なんだから」
 それで充分とばかりに、メリーは蓮子の前に立って徒手空拳の見様見真似で拳を構える。それを見て蓮子はくすりと笑い、弓を構える鵺に呼びかける。まるで世間話でもするみたいに。
「最後に、まだ大事な事を聞いてないわ」
「大事な事?」
「私は、まだあんたの本当の名前を聞いてない。語られたいのなら、あんたの名前を教えて」
「……へえ。やっぱりお前、面白いね。やっぱり私の目に狂いは無かった」
 今度は鵺が楽しそうにけらけろと笑った。蓮子はもちろん、鵺自身も正体は見破られ、ドームには大穴を空けられ、最初の余裕なんてないはずなのに。笑いながら、名を名乗った。そして蓮子も、名乗り返した。

「未確認幻想飛行少女、封獣ぬえ。正体不明の恐怖に怯えて死ね。その無残な亡骸は我が伝承の一つとして未来永劫に語り継がれるだろう!」
「秘封倶楽部所属、宇佐見蓮子。そしてマエリベリー・ハーン。私達は秘密を暴く者。解き明かせない秘密なんてない!」

 矢を番える手を離す。
 ぬえの弓に番えられた矢は一本のはずだった。だが、その矢が放たれると同時、矢は幾重にも分かれ、まるで雨となって秘封倶楽部へと降り注ぐ。
 それを見て、蓮子は引き金を引く。その銃身から、小さな銃弾が飛び出してくる。
 届くはずがなかった。
 蓮子の目の前に、大量の矢が降り注ぐ。いくらこの銃弾がぬえに特攻だとしても、あいつの矢の雨には届かない。矢の一本を落とす事はできても、この矢の前には意味を成さない。このままでは、いずれ蓮子は大量の矢によって殺される。
 ぬえも、きっとそう考えていたに違いない。その拳銃がどんな小細工を施されたものだとしても、この矢で、弾幕スペルでねじ伏せられると。
 だから、

 がぉん! と。
 耳をつんざく銃声と共に、自分の腹が前方・・に弾け飛ぶなんて、彼女は想像だにしてなかった。

「あ……がっ……⁈」
 ぬえの腹に大穴が空き、根本から捥ぎ取られた歪な羽が地面へと落ちる。遅れて、口から赤い液体が垂れる。あれだけ強くて美しい光を放っていた弓が虚空に消えていく。何か、彼女の軸となる何かが崩れたような感覚を叩き込む。
 空中でふらふらと漂うぬえが、忌々しそうに後ろを向く。そこには、頭が通るかどうかという小さな境界と、そこから銃身が飛び出していた。蓮子が持っている拳銃とは比較にならないほど長い、俗にアンチマテリアルライフルと呼ばれているものが。
 そしてその奥に、見えないはずの女がにやりと笑っているのが見えた、ような気がした。
 岡崎夢美。
 ぬえは大きな勘違いをしていた。銃弾を境界操作する能力は蓮子自身の能力、あるいはその手のグローブか拳銃に由来すると。事実、ヤマメ、リグル、小傘、そのいずれを退治する場面でも蓮子が握っていた拳銃からしか境界操作された銃弾が飛び出す事は無かった。
 だが、実際に能力を保有しているのはちゆりだ。つまり、銃弾を籠める銃器も、その持ち手にも制約はない。当然、夢美の持つ巨大な大口径ライフルにだって装填できる。後は、日本庭園の片隅に隠れながら境界に向けて大型弩砲アンチマテリアルライフルを構え極太の大矢だいこうけいだんを放つだけだ。それはぬえの無防備な背中向けて飛び出し、払い落とすどころか気付かれもせずに着弾して腹を吹き飛ばした。
 蓮子がぬえの前に立つ事それ自体が、ぬえに武器は蓮子の拳銃一つだと想わせるためのブラフであり、囮。
 そして当然、囮には囮の末路が待っている。
 ぬえの放った矢が降り注ぐ。メリーに降り注ぐその全てを払い落とす事なんて出来ない。それでも、蓮子の前に立って腕で顔を守りながら盾となる。
 その、つもりだったのに。
 がががぁん! と。
 メリー達の目の前に大量の半透明な八面体が降り注ぎ、山を作る。それは光の矢を受け止め、クリスタルの結晶の破片をばら撒きながらも自分達を矢の雨から守ってみせた。その八面体には見覚えがある。唐傘お化けを叩き落としたものと同じだ。
 ……なによ、一人で戦うみたいな事を言っておいて、教授にもネズミちゃんにも頼るの前提だったんじゃない。
「ありがと、ネズミの妖怪さん」
 とはいえ、あの新しい秘封倶楽部の一員が自分達を助けてくれたのは事実だ。ぼそりと、メリーがお礼の言葉を呟いて、拳を握った。助けられっぱなしなんて性に合わない。
 だが、まだ終わってはいない。

「こ、の……これは私と宇佐見蓮子の、鵺と人間との決闘なんだ、それをどいつもこいつも横からしゃしゃり出て来やがって……邪魔、をするなああああああああああぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 ぬえから発せられた怒号。
 これまでの印象を一八〇度変えてしまうような、余裕の欠片も無く少女のそれとは思えない、地面ごと震わせるような恐ろしい声が響く。手負いの獣、という言葉が最も相応しいだろうか。べきべきと、骨が軋む音が地表のここまで聞こえてくる。そのシルエットが、人の形だったものが変わり始めている。
 猿の顔、狸の胴体、虎の手足、尾は蛇。あるいは、虎の背、狸の足、狐の尾。人ではないその姿を強制的に想起させられる。
 だが、そうはさせない。
「はぁっ!」
 メリーが妖怪の元まで飛び上がり、両手を握り合わせて作った拳槌をその背中目掛けて振り下ろす。傷口を抉るような一撃に、ぬえは地面に叩き付けられて派手な砂煙をあげる。
 そして、砂利の上でメリーがぬえを組み伏せる。掴んだその腕は獣のそれのように毛皮をまとって膨れ上がっていたが、地面に押し付けると少女のそれに戻っていく。
 それは、彼女が負けを認めたのも同義だった。理性なき獣ではなく、理性ある妖怪のまま、敗北を受け入れたのだ。
 蓮子を見ると、彼女はメリーを見ながらこくりと頷く。腕に込めていた力を抜いて、ぬえの上から身をどけた。メリーは蓮子の隣に立ち、ぬえは仰向けで地面に寝転がる。
「妖怪が人間相手に被弾しちゃあ、負けを認めざるを得ないわね」
「あれだけ語るだの語られるだの言っておいて、案外あっさりと負けを認めるのね」
「……最後くらい格好つけさせなさい。あの銃弾のせいでもう体が動かないのよ」
 そうして話している間に、屋根から降りてきたナズーリンが蓮子の隣に立った。
 手には科学の象徴たる拳銃と幻想の結晶たるグローブを握り、その人間の隣には自動人形メリー妖怪の獣ナズーリンが立つ。怪異と人間、科学と幻想が混在する光景。それは頼政と戦った時に見た光景とも、幻想郷で見た光景とも違うものだった。
 科学を利用し、怪異と共に戦う。なんだって利用して妖怪を討つ。これが現代の妖怪退治。
「これが、宇佐見蓮子……」
「いや、違うわね」
 寝転がるぬえに向けて、蓮子はメリーとナズーリンの顔を見て、それから夢美とちゆり、そして八雲紫の顔を思い浮かべながら、強く宣言する。

「これが、秘封倶楽部よ」

 そして、蓮子は空を見上げる。ナズーリンが穿った黒雲のドームの穴には、小さくなってはいたがまだ夜空が見えた。蓮子は、穴から覗く月と星、夜空を見ながら、ぽつりと呟いた。

「――――――、――――――」

 座標、自分の立つ場所。
 夜空から受け取り、蓮子の口が諳んじたその情報が、隣に立つメリーの耳に入る。メリーを通じて、あの女の耳に入る。あの女、自分にこんな御役目を与えた、あの女の耳に、届く。
 巨大な境界が空に現れ、ぬえに向けてゆっくりと降りてくる。まるで最後の別れの時間をあの女が用意したみたいに。粋な計らい、だとでも思っているのだろうか。
「それで、貴方はどうする?」
 メリーがナズーリンに話し掛ける。本音を言えば、残ってほしいと蓮子とメリーは思った。夢美が勝手に勧誘したのだとしても、彼女は共に戦った仲間だ。それに、蓮子の近くにいればいつでも帰る事が出来る。今すぐに帰らなくてもいいじゃないか。
 だが、ナズーリンは「ふむ」と呟いてから、ぬえの隣、幻想郷とを繋ぐ境界の下に立つ。
「ぬえの事は、私が責任を持ってどうにかするよ。こいつの事だ、今は殊勝な顔をしているかもしれないけど、その裏で何を考えてるか分からないからね」
「信用ないなあ、私」
「聖にみっちりしごいてもらってその成果が見えたなら、私も君の見方を考えよう」
「……やっぱり、帰っちゃうのね」
「メリーと、蓮子だったね。色々と世話になったね。秘封倶楽部なんて、案外悪いものではなかったよ。君達とはまた会いそうだ」
 しかし、ナズーリンが幻想郷へ帰るというのなら自分達が引き留めることは出来ない。蓮子と共に数歩下がり、二人を呑み込もうと降りてくる境界をじっと待っていた。
「これから、ずっと多くの怪異がこの街に現れるわ」
 あと少しで呑み込むという間際で、ぬえの声が聞こえた。
「だから、簡単に死なないで。お前はこの私を退治したんだから。お前があっけなく死ぬという事は、この私の格が下がるという事を、忘れないように」
「……もちろん、簡単に死ぬつもりはないわ」

 そして、境界が降りてきて、二人の怪異は境界に吸い込まれて……

§

 黒雲のドームの消えた空を、蓮子は地面に寝転びながら眺めていた。月と星の綺麗な夜空。周囲はめちゃくちゃであちこちに戦った痕跡が残っているが、それでもしんと静まり返っていて、空はいつもと変わらなかった。
 いずれ、人々がここに雪崩れ込んでくるだろう。マスコミか、警察か、あるいは怪異狂信者か。人々はここで起きた事を想像し、そして蓮子がひっそりと流した噂話を知り、また別の人間へと語るだろう。
 鵺。平安の世を恐怖に陥れた大妖怪がこの地に再び現れ、秘封倶楽部なる存在と戦ったと。
 直接、その戦闘を見たものは秘封倶楽部本人以外に存在しない。だが、ここに刻まれた爪痕が、誰もが見た黒雲のドームが、この都市伝説を「本当にあったのだ」と信じる。そして、新たな怪異譚としでんせつが語り継がれるのだ。
 きっとその存在、怪異、オカルト、幻想なんてものが公に認められる事はない。だが、それでも人々はやがて思い出す。確かに、そのような人間の理解の外にいる存在があるのだと。忘れていたはずの未知は、まだこの世界に残っているのだと。証拠が無くても、夢美が記憶と記録を操作しても、その全てを消す事なんて出来るはずがないほどの大立ち回りだった。
「ほら、すぐに人が来るわ。早く帰りましょ」
「分かってるわ」
 地面に寝転がる蓮子に向けて、メリーが手を差し伸べる。もはや二人には隠すつもりなんてない。世界を守ってやっているなんて考えてはいないのだ。知りたければ知ればいい。
 科学世紀、京都。
 科学が隅々まで行き渡ったこの世界には、存在を否定されたはずの怪異が確かに生きている。あるいは世界の裏からまろび出てくる。それらは時に消滅の危機に怯え、またある時は暴虐を尽くす。
 それらを追う存在がいる。
 忘れ去られた者達の受け皿たる、幻想郷。そこへ送り届ける運び屋がいる。京都の暗闇を駆け、怪異を追い掛ける。その存在そのものが京都で実しやかに囁かれる、生ける都市伝説と化した秘密の組織。
 それこそが『秘封倶楽部』である。
 そしてこれが、彼女達の毎日だ。
 秘封倶楽部の御役目たたかいはこれからも続いていく。だが、この長い夜はひとまず終わったのだ。



 こうして、一つの怪異譚が幕を閉じた。
 ここまでお付き合い頂きありがとうございました。
 改めまして本作は、バトルがテーマになります。怪異がその象徴たる力を顕現させながら猛威を振るい、秘封倶楽部は拳銃とグローブと、何より頭脳で戦い、敵を暴く。ただスペルカードを必殺技のように叫んで振りかざすのではなく、東方でバトルものとは、秘封倶楽部の戦い方とは、自分なりにそれを表現しようと頑張ってみました。
 独自設定もりもり。秘封倶楽部のノスタルジックでレトロスペクティブでポエティックでオシャンティーな空気なんて知った事かと蹴飛ばして、やりたい事とにかく詰め込みましたが、楽しんでもらえたら嬉しいです。自分は書いてて楽しかった。
 タイトル通り、境界線姫はひとまずこれで完結となります。ただ、これで蓮子達の御役目が終わったわけではありません。具体的に言うと今回書いた物語で掘り下げられなかったり話の都合で書けなかったところ、例えば怪異狂信者のあれこれとか、蓮子が御役目を引き受ける目的とか、作中ではかませ犬役だったメリーの単独メイン回とか、蓮子とメリーのイチャイチャとか、メリーを妖力バッテリー替わりにしてアーマード○アに繋いだらサイッコーに胸キュンじゃねとか、やりたい事は結構あります。なのでみんな応援とかしてくれたら続編とか書くかもしれません(チラチラ)。
 最後に、今作がみんなの糧になりますように。あとみんな秘封倶楽部でバトルものを書け。書いて。書いてください。
Actadust
https://twitter.com/actadust
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コメント



0.250簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白く良かったです
2.100東ノ目削除
村紗がこの構図でぬえ側につくのが個人的には解釈違いなんですが、そんなこと些事と言えるくらい面白かったです。とりあえず、第一部完結お疲れ様です
4.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。秘封をバトルものに落とし込むというところで、今作は最初から最後までたっぷり戦っていて集大成感がありました。同時にこれから新たな戦いの幕開けだとも。見立てと、人間に倒される妖怪という構図が外界的にブラッシュアップされつつも踏襲されていて、ある種の様式美を感じました。
6.100のくた削除
面白かったです。
バトル物として十二分に面白いです
第二部、待ってます
8.100南条削除
面白かったです
命懸けのバトルに手に汗握りました
最後は大団円とまではいかずとも区切りを付けられていてとてもよかったです