数千年前、黄河近くの街。
「なんだい親父。そんな変な壺買って」
とある親子が、父親が買ってきた青銅製の壺を巡り、軽いいさかいを起こしていた。
「壺が足りないって愚痴をこぼしていたのは昨日のお前だろ」
「変なのは壺そのものじゃなくて、壺の装飾の方だよ。そのキテレツな」
「お前は饕餮を知らないのか。残念だなあ、この有難みを理解できんとは」
「饕餮の名前は知ってるよ。その変な獣面が饕餮だってのか? 百歩譲って饕餮だとして、饕餮ってとんでもなく悪い獣だろう? それを壺の装飾になんて、趣味が悪い」
「ああ。饕餮は悪神さ。何でも喰らうという貪欲なね。だが何でも喰らうってのは厄も喰ってくれるということだ。魔除けとしてこれ以上のご利益はない」
恍惚とした父親の顔を見て、息子は、「真に悪神なのは、今こいつに憑いている、変な壺を買わせる欲の方ではないか」と嫌な気分になった。
「俺は厄を吸収する紋様が施された壺の中身を使うなんて御免だね。これは親父の個人用にしてくれ。中身を移し替えたら古い壺が一個空くだろうから、それを共用にしよう」
当時、青銅器に描く魔除けの紋様として、饕餮紋が大流行していた。この息子のように怪しげな宗教だと顔をしかめる者もいなくはなかったが、大抵は親父のように喜々として饕餮紋の青銅器を買った。そして、何も起こらなかったという方向において、確かにご利益はあったのだ。
だが、その平和も長くは続かなかった。この街にも、戦乱の足音が忍び寄っていた。
「畜生、やっぱり饕餮なんて、なんのご利益も無いじゃないか」
数十年後、初老に差し掛かったかつての息子は、恨めしげに壺を抱えて火災跡地と化した生家を後にした。その壺に饕餮紋は描かれてはいない。あんな忌々しい紋様など、瓦礫の中に捨て置くべきだ。
無論そのことに対して饕餮に罪は無い。あの獣はとうの昔に地獄に堕ちている。戦乱を起こしたのは悪神のたぶらかしなどではなく、飽くまで人間の欲だ。
しかし、それはそれとして、信仰とは儚く消え去るものである。あれほど隆盛した饕餮紋人気は何処へやら。百年も経たずして饕餮紋は用いられなくなり、「何となく格好いい形」として、紋様の部分にかつて饕餮の目や角だったものが採用されるのみとなってしまった。
†
饕餮尤魔は血の池地獄に体の半分程を埋めていた。より正確には、埋まることしかできないから埋まって血の欲を体が吸うに任せていた。
吉弔八千慧が饕餮に呼び出されて血の池地獄に侵入した。彼女は饕餮の腹心である。
吉弔は声の発信源である饕餮に――彼女の認識では恐らく饕餮なのであろう、声を発する巨大で不定形な肉の塊に――謁見した。
饕餮の体の表面についた無数の目が吉弔を睨んだ。それぞれの目の上についた羊の角一本ずつが、視線の動きに合わせて吉弔へと指向する。
「今回貴様を呼びつけたのは他でもない。私のこの体についてだ」
口は見えないが声は肉塊から発せられる。異形の目の真下に一本ずつ、牙状に尖った歯が伸びているのだが、まさかそれから発声しているわけではあるまい。
「私のせいでは御座いませんよ」
「知っている。原因は分かりきっているのだ。大方地上での私に対する信仰が切れたのか、変な方向にねじ曲がったかしたのだろう。神格のままならぬ所だな。姿形すらある程度は人々の信心に左右される」
「原因究明は不要と。それでは貴方の望みは」
「この体では余りにも不便だからな。せめて動けるような姿になるよう、地上の人間の饕餮像を制御して欲しい」
「もっと明瞭な解決策もあると存じますが」
吉弔は匕首
を取り出した。
「私を彫刻のように削り取ろうというのか。それとも直接殺してこの座を簒奪しようと言うのか。止めておけ。私の攻撃への耐性を知らぬわけではあるまい。その手段は互いに無益だ」
「今の貴方ならば全てを諦めて私に譲ってくれると思いましたが、中々どうして強欲ですね。承知致しました。それでは仰せのままに」
吉弔は匕首をしまい、先程の叛心が嘘のような礼儀正しさで一礼して血の池地獄から去っていった。
「ククク。ああそうだとも。私は強欲さ。何と言っても剛欲同盟の長はこの私だ」
饕餮は目を吉弔が去っていった方角へと向けた。自分も吉弔も、この地獄も、気長に成果を待てるだけの時間保証はあるとはいえ、できるだけ迅速に問題を解決して欲しいものではある。そのために吉弔を選んだのだ。
「吉弔。信じがたいかもしれないが、私は貴様を信用しているぞ……」
†
吉弔は血の池地獄を越えて、地平線の全周が灼熱地獄となる地点まで飛んだ。火山岩の山に腰掛けて血の池地獄の方を向く。そして、盛大に高笑いした。
自分でも高笑いするような性格では本来無い、というのは重々承知している。しかし、今ばかりは笑わずにはいられない。
「ええ饕餮様。ご依頼の件は首尾よくやらせていただきますよ。私の独立のためにね」
饕餮を匕首で刺し殺してその座を簒奪する? 以ての外だ。剛欲同盟は「畜生界唯一の」利益集団として拡大に拡大を重ねてきたが、肥大化し過ぎた組織はあちこちが腐敗して誰にも管理ができなくなっている。腐りかけの木の幹に成り代わって自分も枯れゆく運命に身を任せるくらいならば、まだ腐っていない果実だけ収穫して見切りをつけた方が千倍は有益だ。あれは腐った幹として当分池の血をすすっているが良い。
吉弔は自分の息がかかった動物霊を呼び寄せた。地上での工作が成功しても、畜生界側に土台が無ければ意味がない。その土台の確保は配下の動物霊の役割、そして地上で任務ついでの工作を行うのが自分の役目だ。饕餮は今頃、血の池地獄に繋がるあらゆる欲を吸っているのだろうが、地獄の血すら乾き吹き飛ばされるこの灼熱地獄で交わされる陰謀を、あいつが感知することはできないはずだ。
†
地上に登った吉弔はまず、各地で隠れながら情報収集に勤しんだ。
確かに饕餮信仰はほぼ完全に失われていた。歴史好きや神話好きらしき人が極稀に饕餮の話を口にするが、人口に膾炙しているとは言い難い。吉弔の記憶では饕餮とは青銅器の紋様に採用される意匠だったのだが、街中で売られている青銅器に饕餮を模したものはない。
そして、地上は乱世であった。これは吉弔にとっては非常に幸運であった。盤石な基盤を有する単一勢力よりも、成り上がりを餌につけ入ることのできる複数勢力の方が、遥かに御しやすい。問題はつけ入るための人脈の確保だ。
吉弔は娼婦にでも化けて腐敗した官僚を取り込もうかと思ったが、鹿角に亀の甲羅、龍の尾では自分の美形をもってしても人に化けるのは難しいと我に返った。
代わりに吉弔は人里から少しだけ離れた山に入った。ここには街で裕福な人が趣味の狩猟に来ることが偶にある。
果たして地元の名士が一人、山に入ってきた。情報収集時に、一定以上の身分の人物の人相は記憶している。そうでなくとも、身なりからその地位を推測するのは容易だ。
吉弔は鹿の皮を被って茂みから顔をのぞかせた。名士の驚き様は筆舌に尽くしがたい。狩りに来て最初に見た野生生物が人面の鹿ともなれば驚愕も当然であろう。
「○○君。まずはその弓を下ろすが良い」
名士は言われるがままに弓を下ろした。自分の中を一方的に知る人面鹿。十中八九、山の神の類だ。命に背いて矢傷などつけようものなら、何代先まで祟られるか分かったものではない。
「私は君にお告げをしに下りてきた。君はこの街では有力者だが、宮殿内での地位はそれなり。だが私には、君がその程度で燻っているべき才能には思えないのでね。このような進言を上司にすると良い……」
吉弔は山の神の名で、至極真っ当な行政関係の改善案を名士に示した。名士は純粋無垢な目で吉弔の提案を聞いている。傀儡が一人、出来上がり。
吉弔は手を変え品を変え、手駒を増やしていった。手駒には適切な指示を与えているから、この「吉弔派」はたちまちのうちに、各国の上層までのし上がった。より煩雑な畜生界の運営をしている吉弔にとっては、人間界の政治は少し羨ましいと思うくらいに単純明快であった。
†
「古代の遺産を破壊する?」
「僭越ながら具申致します。この国は成立してからまだ日が浅く、文化風土も旧来の王国とは独立しています。国家の正統性の維持のため、陛下の御威光を天地に知らしめるためには土着文化のくびきから解き放たれるべきなのです」
準備が整ってから吉弔が最初に動かしたのは、暴君と名高いとある王だった。王に古代の遺跡や物品を破壊させ、歴史家を粛清させようとしたのだ。
暴君にも良心は残っており、残虐な文化破壊を当初渋ったが、吉弔の息がかかった宦官が、これまた吉弔仕込みの話術で進言したことで、王はあっさりと絆された。宦官にくすぐられた、新時代の王の御威光というプライドから、遺産は開墾地に、遺品は金属資源に作り替えられた。これで饕餮神話は完全な白紙に戻る。
破壊が済んだらそれで王は用済みなので、吉弔は王の腹心と対立派閥を焚き付けて王を暗殺させた。元が暴君だったから手駒にも工作材料にも困らない。そして、王すらも暗殺されるという事実を生み出したことにより、乱世の度合いは一段と上がった。
三手目に吉弔が動かした駒は学者である。乱世の原因として王の不徳を唱えさせ、徳のある者が世を統べるべきという価値観を創出した。
その例示として饕餮を登場させた。不徳の象徴饕餮は、他の不徳諸共、徳を備えた一人の名君に完膚なきまでに退治された。君主とは、かくありたいものである。
吉弔がより意識したのは、饕餮を最後は叩きのめされる存在として描写することである。饕餮神話はこの地に復活したが、吉弔の情報操作により、人々の饕餮像は、かつての神話よりも遥かに矮小な存在に落ちぶれた。
「饕餮様。確かに人々の心に饕餮は蘇りましたよ」
吉弔は微笑した。後世の民話『猿の手』のような、拡大解釈された卑劣な手段によってではあるが、饕餮の願いは確かに叶えられたのだ。
†
吉弔は報告をしに血の池地獄へと戻った。かつて饕餮の肉塊が鎮座していた場所まで来たが、饕餮の姿はない。動けるようになって、どこかに行ったのだろうか。
「戻ったか。ご苦労様だな」
声が下から聞こえたので、吉弔は目線を下げた。
羊の毛のような髪に、これまた羊のような瞳孔の目。角は赤く、着ている服には往年の饕餮紋。声色と、外見の全ての要素がそれが饕餮であると指し示しているのだが、ただ一点、身長だけが饕餮らしからない。直立しても子供の背丈くらいであろう存在が、しゃがんでその背中を両手に持った巨大な銀匙で押さえつけているのである。
「フフフ。滑稽ですね。矮小化はこちらとしても狙っていたのですが、まさかここまで小さくなろうとは思ってもいませんでしたよ」
「最早、叛心を隠そうとも、取り繕ろうともしないのだな」
「普通の相手にならば平静を装いながら奇襲で刺すのが私の流儀ですが、どうせ貴方にそれをやっても殺せませんからね。全力で嘲笑して、貴方の部下としての最後の面会を終わらせてやりますよ」
饕餮は、ほーんとため息をついた。裏切りに失望しているのか、予想通りだなと思って出た息なのか、吉弔をもってしてもいまいち判断がつかない。
「貴様のことだ。『こんないけ好かない上司の元で働くのはもう御免です。一人出ていきます』という単純な話ではないのだろう?」
「いいえ。単純も単純。強いて言えば、出ていくのが一人か沢山かの差ですね」
「ああ、確かに単純な話だったな」
饕餮は、「貴様と話しているとどうにも腹が減るな」と銀匙で池の血を掬って飲み干した。
「そうして余裕を保っていられるのもいつまででしょうかね」
「血に毒を混ぜたわけでもあるまい」
「そんな非効率的なことはしません。私は貴方を徹底的に小さくして剛欲同盟を弱体化させた上で、組織の一番まともな部分をちぎって逃げようとしているのです。その毒牙は早晩貴方に刺さりますよ」
「ふん」
饕餮はつまらなさそうに鼻を鳴らして沈黙した。二人の間で時折、血の池地獄の中身が泡を作って弾ける。
そのまま互いに、相手が先に動くのを見計らいながら静止を続けていたが、饕餮の方が何かを思い出したかのように口を開いた。
「ああ、前に言ったのだが、貴様には聞こえていなかったようだからもう一度言うか。信じがたいだろうが、私は貴様のことを信用していたのだ」
「裏切られてご愁傷さまですね」
「何を戯言を。私の見立ては正しかったのだ。貴様は『信用通りに裏切ってくれた』」
驚愕という、慣れない感情が吉弔を襲った。全ての策謀も、この小さき獣の手のひらの上だったとでも言うのか。
吉弔は動揺が悟られぬよう、一層声を落として反駁した。
「どうだか。強欲な貴方が、組織の一番美味い場所を持っていかれて平静とは思えませんね」
「摘果というやつだ。どうせ、全体を食べ頃にするには剛欲同盟という組織は大きすぎたのだ。貴様もそれを知って私を殺しての簒奪ではなくて、今回のゴタゴタを利用した独立という手を選んだのだろう?」
図星だった。流石の吉弔も、これにはぐうの音も出ない。
「最近は欲の器が足りぬ奴が増えすぎたからな。貴様が即戦力として引き抜こうというのはそういう奴らなのだろう? 剛欲同盟には全く持って不要な存在だが、良く言えば堅実に組織に尽くすという性質だ。貴様の手駒にはお似合いだ」
「おっしゃる通りです。驚きましたよ。そこまで組織維持に必要な人材の流出を放置して、崩壊を早めようという意図をお持ちとは」
「組織のあり方を変えようというだけだ。図体だけデカい奴のトップダウンで中央集権を維持する、そういう時代では最早無いのだ」
「私が貴方を小さく作り替えようとしていたことも計算のうち?」
「小さい方が何かと小回りが効くからな。ま、飽くまで計算の主眼は貴様の裏切りだ。直属の部下というものが、もうそろそろ煩雑になってきたから、そういう意味でも丁度よい」
「私も貴方の元につくのがそろそろ嫌になってきた頃で」
吉弔は踵を返した。だが、ふと別れ際に強欲な子羊の顔を見たくなり、首から上だけ回した。
「これで、貴方が畜生界唯一の王であった時代は終わりですね」
「今までどうだったかなんてどうでもいいさ。私は過去には囚われないつもりだ。信仰には囚われてしまう神格であるが故の意地だね。そうだ、未来を見据える者として、貴様がこれから作る組織の名前だけでも聞いておこうか」
「私は鬼傑組の組長、吉弔八千恵です。以降お見知り置きを、哀れな老神の子羊さん」
「ふん。ひよっ子組長の吉弔八千恵よ。覚えておくが良い。私の名は饕餮尤魔。いずれ畜生界の王になる存在だ」
饕餮は銀匙を背中に押し当てた猫背のまま、気味悪く笑った。
「なんだい親父。そんな変な壺買って」
とある親子が、父親が買ってきた青銅製の壺を巡り、軽いいさかいを起こしていた。
「壺が足りないって愚痴をこぼしていたのは昨日のお前だろ」
「変なのは壺そのものじゃなくて、壺の装飾の方だよ。そのキテレツな」
「お前は饕餮を知らないのか。残念だなあ、この有難みを理解できんとは」
「饕餮の名前は知ってるよ。その変な獣面が饕餮だってのか? 百歩譲って饕餮だとして、饕餮ってとんでもなく悪い獣だろう? それを壺の装飾になんて、趣味が悪い」
「ああ。饕餮は悪神さ。何でも喰らうという貪欲なね。だが何でも喰らうってのは厄も喰ってくれるということだ。魔除けとしてこれ以上のご利益はない」
恍惚とした父親の顔を見て、息子は、「真に悪神なのは、今こいつに憑いている、変な壺を買わせる欲の方ではないか」と嫌な気分になった。
「俺は厄を吸収する紋様が施された壺の中身を使うなんて御免だね。これは親父の個人用にしてくれ。中身を移し替えたら古い壺が一個空くだろうから、それを共用にしよう」
当時、青銅器に描く魔除けの紋様として、饕餮紋が大流行していた。この息子のように怪しげな宗教だと顔をしかめる者もいなくはなかったが、大抵は親父のように喜々として饕餮紋の青銅器を買った。そして、何も起こらなかったという方向において、確かにご利益はあったのだ。
だが、その平和も長くは続かなかった。この街にも、戦乱の足音が忍び寄っていた。
「畜生、やっぱり饕餮なんて、なんのご利益も無いじゃないか」
数十年後、初老に差し掛かったかつての息子は、恨めしげに壺を抱えて火災跡地と化した生家を後にした。その壺に饕餮紋は描かれてはいない。あんな忌々しい紋様など、瓦礫の中に捨て置くべきだ。
無論そのことに対して饕餮に罪は無い。あの獣はとうの昔に地獄に堕ちている。戦乱を起こしたのは悪神のたぶらかしなどではなく、飽くまで人間の欲だ。
しかし、それはそれとして、信仰とは儚く消え去るものである。あれほど隆盛した饕餮紋人気は何処へやら。百年も経たずして饕餮紋は用いられなくなり、「何となく格好いい形」として、紋様の部分にかつて饕餮の目や角だったものが採用されるのみとなってしまった。
†
饕餮尤魔は血の池地獄に体の半分程を埋めていた。より正確には、埋まることしかできないから埋まって血の欲を体が吸うに任せていた。
吉弔八千慧が饕餮に呼び出されて血の池地獄に侵入した。彼女は饕餮の腹心である。
吉弔は声の発信源である饕餮に――彼女の認識では恐らく饕餮なのであろう、声を発する巨大で不定形な肉の塊に――謁見した。
饕餮の体の表面についた無数の目が吉弔を睨んだ。それぞれの目の上についた羊の角一本ずつが、視線の動きに合わせて吉弔へと指向する。
「今回貴様を呼びつけたのは他でもない。私のこの体についてだ」
口は見えないが声は肉塊から発せられる。異形の目の真下に一本ずつ、牙状に尖った歯が伸びているのだが、まさかそれから発声しているわけではあるまい。
「私のせいでは御座いませんよ」
「知っている。原因は分かりきっているのだ。大方地上での私に対する信仰が切れたのか、変な方向にねじ曲がったかしたのだろう。神格のままならぬ所だな。姿形すらある程度は人々の信心に左右される」
「原因究明は不要と。それでは貴方の望みは」
「この体では余りにも不便だからな。せめて動けるような姿になるよう、地上の人間の饕餮像を制御して欲しい」
「もっと明瞭な解決策もあると存じますが」
吉弔は匕首
を取り出した。
「私を彫刻のように削り取ろうというのか。それとも直接殺してこの座を簒奪しようと言うのか。止めておけ。私の攻撃への耐性を知らぬわけではあるまい。その手段は互いに無益だ」
「今の貴方ならば全てを諦めて私に譲ってくれると思いましたが、中々どうして強欲ですね。承知致しました。それでは仰せのままに」
吉弔は匕首をしまい、先程の叛心が嘘のような礼儀正しさで一礼して血の池地獄から去っていった。
「ククク。ああそうだとも。私は強欲さ。何と言っても剛欲同盟の長はこの私だ」
饕餮は目を吉弔が去っていった方角へと向けた。自分も吉弔も、この地獄も、気長に成果を待てるだけの時間保証はあるとはいえ、できるだけ迅速に問題を解決して欲しいものではある。そのために吉弔を選んだのだ。
「吉弔。信じがたいかもしれないが、私は貴様を信用しているぞ……」
†
吉弔は血の池地獄を越えて、地平線の全周が灼熱地獄となる地点まで飛んだ。火山岩の山に腰掛けて血の池地獄の方を向く。そして、盛大に高笑いした。
自分でも高笑いするような性格では本来無い、というのは重々承知している。しかし、今ばかりは笑わずにはいられない。
「ええ饕餮様。ご依頼の件は首尾よくやらせていただきますよ。私の独立のためにね」
饕餮を匕首で刺し殺してその座を簒奪する? 以ての外だ。剛欲同盟は「畜生界唯一の」利益集団として拡大に拡大を重ねてきたが、肥大化し過ぎた組織はあちこちが腐敗して誰にも管理ができなくなっている。腐りかけの木の幹に成り代わって自分も枯れゆく運命に身を任せるくらいならば、まだ腐っていない果実だけ収穫して見切りをつけた方が千倍は有益だ。あれは腐った幹として当分池の血をすすっているが良い。
吉弔は自分の息がかかった動物霊を呼び寄せた。地上での工作が成功しても、畜生界側に土台が無ければ意味がない。その土台の確保は配下の動物霊の役割、そして地上で任務ついでの工作を行うのが自分の役目だ。饕餮は今頃、血の池地獄に繋がるあらゆる欲を吸っているのだろうが、地獄の血すら乾き吹き飛ばされるこの灼熱地獄で交わされる陰謀を、あいつが感知することはできないはずだ。
†
地上に登った吉弔はまず、各地で隠れながら情報収集に勤しんだ。
確かに饕餮信仰はほぼ完全に失われていた。歴史好きや神話好きらしき人が極稀に饕餮の話を口にするが、人口に膾炙しているとは言い難い。吉弔の記憶では饕餮とは青銅器の紋様に採用される意匠だったのだが、街中で売られている青銅器に饕餮を模したものはない。
そして、地上は乱世であった。これは吉弔にとっては非常に幸運であった。盤石な基盤を有する単一勢力よりも、成り上がりを餌につけ入ることのできる複数勢力の方が、遥かに御しやすい。問題はつけ入るための人脈の確保だ。
吉弔は娼婦にでも化けて腐敗した官僚を取り込もうかと思ったが、鹿角に亀の甲羅、龍の尾では自分の美形をもってしても人に化けるのは難しいと我に返った。
代わりに吉弔は人里から少しだけ離れた山に入った。ここには街で裕福な人が趣味の狩猟に来ることが偶にある。
果たして地元の名士が一人、山に入ってきた。情報収集時に、一定以上の身分の人物の人相は記憶している。そうでなくとも、身なりからその地位を推測するのは容易だ。
吉弔は鹿の皮を被って茂みから顔をのぞかせた。名士の驚き様は筆舌に尽くしがたい。狩りに来て最初に見た野生生物が人面の鹿ともなれば驚愕も当然であろう。
「○○君。まずはその弓を下ろすが良い」
名士は言われるがままに弓を下ろした。自分の中を一方的に知る人面鹿。十中八九、山の神の類だ。命に背いて矢傷などつけようものなら、何代先まで祟られるか分かったものではない。
「私は君にお告げをしに下りてきた。君はこの街では有力者だが、宮殿内での地位はそれなり。だが私には、君がその程度で燻っているべき才能には思えないのでね。このような進言を上司にすると良い……」
吉弔は山の神の名で、至極真っ当な行政関係の改善案を名士に示した。名士は純粋無垢な目で吉弔の提案を聞いている。傀儡が一人、出来上がり。
吉弔は手を変え品を変え、手駒を増やしていった。手駒には適切な指示を与えているから、この「吉弔派」はたちまちのうちに、各国の上層までのし上がった。より煩雑な畜生界の運営をしている吉弔にとっては、人間界の政治は少し羨ましいと思うくらいに単純明快であった。
†
「古代の遺産を破壊する?」
「僭越ながら具申致します。この国は成立してからまだ日が浅く、文化風土も旧来の王国とは独立しています。国家の正統性の維持のため、陛下の御威光を天地に知らしめるためには土着文化のくびきから解き放たれるべきなのです」
準備が整ってから吉弔が最初に動かしたのは、暴君と名高いとある王だった。王に古代の遺跡や物品を破壊させ、歴史家を粛清させようとしたのだ。
暴君にも良心は残っており、残虐な文化破壊を当初渋ったが、吉弔の息がかかった宦官が、これまた吉弔仕込みの話術で進言したことで、王はあっさりと絆された。宦官にくすぐられた、新時代の王の御威光というプライドから、遺産は開墾地に、遺品は金属資源に作り替えられた。これで饕餮神話は完全な白紙に戻る。
破壊が済んだらそれで王は用済みなので、吉弔は王の腹心と対立派閥を焚き付けて王を暗殺させた。元が暴君だったから手駒にも工作材料にも困らない。そして、王すらも暗殺されるという事実を生み出したことにより、乱世の度合いは一段と上がった。
三手目に吉弔が動かした駒は学者である。乱世の原因として王の不徳を唱えさせ、徳のある者が世を統べるべきという価値観を創出した。
その例示として饕餮を登場させた。不徳の象徴饕餮は、他の不徳諸共、徳を備えた一人の名君に完膚なきまでに退治された。君主とは、かくありたいものである。
吉弔がより意識したのは、饕餮を最後は叩きのめされる存在として描写することである。饕餮神話はこの地に復活したが、吉弔の情報操作により、人々の饕餮像は、かつての神話よりも遥かに矮小な存在に落ちぶれた。
「饕餮様。確かに人々の心に饕餮は蘇りましたよ」
吉弔は微笑した。後世の民話『猿の手』のような、拡大解釈された卑劣な手段によってではあるが、饕餮の願いは確かに叶えられたのだ。
†
吉弔は報告をしに血の池地獄へと戻った。かつて饕餮の肉塊が鎮座していた場所まで来たが、饕餮の姿はない。動けるようになって、どこかに行ったのだろうか。
「戻ったか。ご苦労様だな」
声が下から聞こえたので、吉弔は目線を下げた。
羊の毛のような髪に、これまた羊のような瞳孔の目。角は赤く、着ている服には往年の饕餮紋。声色と、外見の全ての要素がそれが饕餮であると指し示しているのだが、ただ一点、身長だけが饕餮らしからない。直立しても子供の背丈くらいであろう存在が、しゃがんでその背中を両手に持った巨大な銀匙で押さえつけているのである。
「フフフ。滑稽ですね。矮小化はこちらとしても狙っていたのですが、まさかここまで小さくなろうとは思ってもいませんでしたよ」
「最早、叛心を隠そうとも、取り繕ろうともしないのだな」
「普通の相手にならば平静を装いながら奇襲で刺すのが私の流儀ですが、どうせ貴方にそれをやっても殺せませんからね。全力で嘲笑して、貴方の部下としての最後の面会を終わらせてやりますよ」
饕餮は、ほーんとため息をついた。裏切りに失望しているのか、予想通りだなと思って出た息なのか、吉弔をもってしてもいまいち判断がつかない。
「貴様のことだ。『こんないけ好かない上司の元で働くのはもう御免です。一人出ていきます』という単純な話ではないのだろう?」
「いいえ。単純も単純。強いて言えば、出ていくのが一人か沢山かの差ですね」
「ああ、確かに単純な話だったな」
饕餮は、「貴様と話しているとどうにも腹が減るな」と銀匙で池の血を掬って飲み干した。
「そうして余裕を保っていられるのもいつまででしょうかね」
「血に毒を混ぜたわけでもあるまい」
「そんな非効率的なことはしません。私は貴方を徹底的に小さくして剛欲同盟を弱体化させた上で、組織の一番まともな部分をちぎって逃げようとしているのです。その毒牙は早晩貴方に刺さりますよ」
「ふん」
饕餮はつまらなさそうに鼻を鳴らして沈黙した。二人の間で時折、血の池地獄の中身が泡を作って弾ける。
そのまま互いに、相手が先に動くのを見計らいながら静止を続けていたが、饕餮の方が何かを思い出したかのように口を開いた。
「ああ、前に言ったのだが、貴様には聞こえていなかったようだからもう一度言うか。信じがたいだろうが、私は貴様のことを信用していたのだ」
「裏切られてご愁傷さまですね」
「何を戯言を。私の見立ては正しかったのだ。貴様は『信用通りに裏切ってくれた』」
驚愕という、慣れない感情が吉弔を襲った。全ての策謀も、この小さき獣の手のひらの上だったとでも言うのか。
吉弔は動揺が悟られぬよう、一層声を落として反駁した。
「どうだか。強欲な貴方が、組織の一番美味い場所を持っていかれて平静とは思えませんね」
「摘果というやつだ。どうせ、全体を食べ頃にするには剛欲同盟という組織は大きすぎたのだ。貴様もそれを知って私を殺しての簒奪ではなくて、今回のゴタゴタを利用した独立という手を選んだのだろう?」
図星だった。流石の吉弔も、これにはぐうの音も出ない。
「最近は欲の器が足りぬ奴が増えすぎたからな。貴様が即戦力として引き抜こうというのはそういう奴らなのだろう? 剛欲同盟には全く持って不要な存在だが、良く言えば堅実に組織に尽くすという性質だ。貴様の手駒にはお似合いだ」
「おっしゃる通りです。驚きましたよ。そこまで組織維持に必要な人材の流出を放置して、崩壊を早めようという意図をお持ちとは」
「組織のあり方を変えようというだけだ。図体だけデカい奴のトップダウンで中央集権を維持する、そういう時代では最早無いのだ」
「私が貴方を小さく作り替えようとしていたことも計算のうち?」
「小さい方が何かと小回りが効くからな。ま、飽くまで計算の主眼は貴様の裏切りだ。直属の部下というものが、もうそろそろ煩雑になってきたから、そういう意味でも丁度よい」
「私も貴方の元につくのがそろそろ嫌になってきた頃で」
吉弔は踵を返した。だが、ふと別れ際に強欲な子羊の顔を見たくなり、首から上だけ回した。
「これで、貴方が畜生界唯一の王であった時代は終わりですね」
「今までどうだったかなんてどうでもいいさ。私は過去には囚われないつもりだ。信仰には囚われてしまう神格であるが故の意地だね。そうだ、未来を見据える者として、貴様がこれから作る組織の名前だけでも聞いておこうか」
「私は鬼傑組の組長、吉弔八千恵です。以降お見知り置きを、哀れな老神の子羊さん」
「ふん。ひよっ子組長の吉弔八千恵よ。覚えておくが良い。私の名は饕餮尤魔。いずれ畜生界の王になる存在だ」
饕餮は銀匙を背中に押し当てた猫背のまま、気味悪く笑った。
饕餮像の再構築と吉弔の独立(剛欲同盟の再結成)だと思うし、
この2つは前後として繋がりはあるのですが、
面白そうな題材だっただけにそれぞれ単体で仕上げてしまうか、
つなげるならもうちょっと腰を据えてじっくり書いたもののほうが好きかもしれません。
信仰のゆらぎから姿形を異形とし、
それを治すために信仰の再構築というのはほー……また面白いものを……と思っただけに
わりとあっさりと書き上げられてしまった印象があってそこが少しだけ残念でした。
過去話のアイデアとしては良かったと思います。
畜生界の腹黒たちが暗躍する姿が楽しかったです
短くまとまっていて面白かったです。有難う御座いました。