Coolier - 新生・東方創想話

秋末記

2022/10/31 23:50:27
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 行秋に ふと思うこと とりとめなく記す 神無月末日 秋静葉

 秋は夕暮れが趣深い。古の随筆『枕草子』にもそう書かれている。
 その『枕草子』に倣って、夕暮れ時に雁が連なり飛ぶ様子を眺めていると、山の稜線がみるみる見えなくなっていく。『秋の日はつるべ落とし』とはよく言ったもので、神無月も終わりに近づき、いよいよ霜月に差し掛かかってきた今日この頃、気がつけばとっぷりと日が暮れていることが多い。冬の足音はもうすぐそこまで近づいてきているのである。現に朝晩の冷え込みは、すでに冬のそれを彷彿させるもので、間もなく秋が終わってしまうという事実をありありと見せつけてくる。しかし元来、秋は短いもの。飛ぶ矢の如く、一瞬で過ぎ去っていく。それが秋という季節なのだ。

 秋も半ばを過ぎる頃になると、私はよく家の屋根の上で横になり、どこか愁いを帯びた秋風を浴びながら、辺りが夕闇に包まれるまで、ただ時が過ぎていくのを待っている事がある。
 別に怠けているわけではなく、こうすることで、もうすぐ秋が終わってしまうという事実を体に教えこんでいるのだ。そうすることで心身が整えられ、秋を見送るための『儀式』が行えるようになるのである。
 『儀式』とは平たく言ってしまえば山の紅葉を散らすことである。
 散った紅葉が秋風に乗って舞う様子は、得も言われぬような、もののあはれを知れるものであるが、落葉は単に秋の風物詩というだけではなく、山の木々の過酷な生存戦略の一環でもある。
 実は放っておいても木々は勝手に葉を落とす。しかし、無粋な冬妖怪の悪戯のせいで、葉を落としきる前に雪が降ってしまうことがままにある。
 そもそもの話、樹木が葉を落とす理由は、冬の厳しい寒さを乗り切るための戦略だ。寒さに弱い葉をあえて落とし、出来るだけ負担を減らしてから休眠へ入るのである。しかし、生物が老いで代謝が衰えるように、木々もまた老木になると、葉を落とす力が弱まってしまう。その状態で雪が降るようなことがあると、葉に積もった雪の重みで枝が折れ、それが結果的に致命傷へとつながりかねない。
 そこで私は、毎年秋の終わりになると木々に残った紅葉を意図的に散らしているのだ。そうすることで老木でも厳しい冬を生きながらえることが出来る。更に散った葉は、落ち葉となり、それがやがて土へと還り、その土が貴重な栄養分となって、木々たちは健康を保つことができる。そして翌秋に再び綺麗な紅葉を見せてくれるのだ。
 ああ、今年も間もなく『儀式』を始めなければならない。正直、気は進まない。出来るならこのままもっと秋を謳歌していたい。綺麗に染まった紅葉をもっと楽しみたい。しかし、やらなくてはならない。これは決して道楽や自己満足などではなく、秋神としての使命であり、すべては次の秋への大事な布石となるのだ。

 そういえば巷では、私は木の幹を蹴ってその衝撃で葉を散らしているなどと言われているようだが、これは事実とは少々異なっている。
 確かに木を蹴っているのは事実だ。しかし本来、私は念を込め、その念を木に送り込むことで、意図的に紅葉を散らすことが出来るのである。つまり別に蹴りにこだわる必要はない。なんなら正拳突きでも頭突きでもいい。もっと言えば、念を込めた石つぶてを木に投げつけるだけでもいい。ようは木に念を送り込めさえすればいいのである。
 それでも私が蹴りにこだわる理由。それは、蹴って散らす。すなわち『蹴散らす』ということを体現しているからである。
 思い返してみると、世の中には『蹴散らす』という言葉はあるものの、『突き』散らす『殴り』散らすという言葉は存在しない。不思議なことだが、何かを散らすためには『蹴る』というのが世の定石なのである。
 故に私はそれに基づき、蹴って紅葉を散らしている。ただそれだけのことなのだ。

 この時期は、秋をずっと楽しみたいと思う気持ちと、季節は巡ってこそ季節、という矛盾した気持ちが自分の中でよくせめぎ合う。私は秋を司る神ではあるが、それ以前に、秋の信奉者でもある。これは自惚れになるかもしれないが、私は誰よりも秋を愛している。故に秋を誰よりも理解していると自負している。
 季節というのは地続きのように連続性をともなっているもので、それはまるで四季という生物の一生の如くである。
 よく、季節をひとくくりにすると『春夏秋冬』と呼ばれるが、私は季節の順番は『冬春夏秋』ではないかと常々思っている。何故なら、森羅万象、総ては無から始まるからだ。つまり季節を生物の一生になぞらえるなら、無である冬から始まり、春に命が育まれ、夏に生を謳歌し、そして秋に臨終を迎え、再び無の冬に戻ることとなる。
 そう、秋という季節は、あたかも消えかけたロウソクが最後にひときわ明るく燃えるような、あるいは生物が今際の際に一瞬だけ活力を取り戻すような、そんな刹那的な散り際の美学をはらんだ季節なのである。
 ましてや晩秋となると、その様相が更に色濃くなる。鮮やかな紅葉たちが、まさに最後の命の輝きを放ちながら冬じみた風に舞い踊り、やがて力尽き、枯れ葉と成り果てる。しかし、その枯れ葉が積もった無機質な有様ですら、まるで世の終わりを彷彿させるような、退廃的な美を感じさせる。
 そんな死と隣り合わせの危うい美しさを持つ、終末ならぬ『秋末』の世界に我々は魅了されるのであろう。

 『秋末』の夕暮れは、人の心を揺り動かす一抹の侘しさをはらんでいる。それは単に秋の終わりを告げるだけではない。私にとっては長く、つらい苦行の始まりを知らせるものでもあるのだ。
 というのも、秋神である私にとっては冬のみでなく、秋以外の季節は総じて皆、苦行に等しい。
 冬の厳しい寒さは言うまでもあらず、春の浮つくような麗らかな陽気や、夏の照りつけるような暑さも私にとっては大敵なのである。
 秋以外の季節に適しないというなんとも不都合な身体ではあるが、それは秋の神として生まれた己の宿命であり、いくら抗ったところでどうにもならない。せいぜい出来るのは、来たるべき次の秋に思いを馳せることで、身と心の均衡を保ち続け、無事に来年の秋を迎えることくらいだ。しかし、それでいい。何故なら我が身と心は、常に秋と共にある。秋神としてこれ以上の在りようはないのだ。

 早いもので今秋も残すところあとわずかとなってしまった。もう数日後には立冬を迎え、名実ともに秋は終わりを告げることになる。残り少ない秋の時間をどう過ごすだろうか。
 ある者は行秋に思いを馳せ、感傷的な気分に浸るかもしれない。またある者は特に意識もせず、いつもと変わらず過ごすかもしれない。いずれも正しい。
 季節は別に意識せずとも、勝手に過ぎていくものだ。それは季節というものが、もはや生活の一部であり、あって当然のものということに他ならない。それはとても素晴らしく贅沢なことだ。四季という美しい概念を、無意識のうちに体験することが出来ているのだから。

 しかし、願わくば忙しい日々の合間にほんのわずかでも意識してみて欲しい。色づいた周りの木々の艶やかな姿を。天高く晴れわたる澄み切った空を。そして、少しでもいいから秋の持つ美しさと魅力に気づいてもらえたならば、秋神としてこれ以上の歓びはない。

 もうすぐ秋は終わる。二度と来ることのない今年の秋を、私は最後の最後まで目に焼き付け、そして静かに見送るとしよう。そう、秋が終わるその瞬間まで。
――それでは、よい『秋末』を
バームクーヘン
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100東ノ目削除
この静葉様はもっと信奉されるべき。静葉自身が書いた随筆という雰囲気が素敵でした
3.100名前が無い程度の能力削除
秋への思いが良く伝って良かったです。家は晩秋になると落ち葉が多いので意識を変えて掃除に励んでみます。
4.100名前が無い程度の能力削除
秋の終わりを感じられました。
5.100名前が無い程度の能力削除
良かったです。もの悲しさがありました。
6.100のくた削除
後ろに流れる雰囲気が好き
7.100名前が無い程度の能力削除
秋静葉視線の山の秋の描写が丁寧に書かれてて良かったです
8.100南条削除
面白かったです
静葉の視点から見る1年の終わりが情緒的でとてもよかったです
妹がいないだけでこんなに静かなんだと驚きました
9.100Actadust削除
秋の静謐さと物寂しさ、そして生命の息吹。
ずっと秋姉妹を描いてきた作者様だからこそ、こんなにも情緒的に秋を描けるんだなって感じました。美しい秋を見ることができました。
10.100已己巳己削除
とても静葉様が趣深くて良い作品だと思います。秋が短い昨今こそ秋を感じたくなりました。
11.100きぬたあげまき削除
言葉遊びが楽しいです。秋への深い思い入れを感じました。
12.90夏後冬前削除
いささか観念的で抽象的だったため、具体的な情景描写がもう少しあったらもっと好きだったな、と思いましたがこういう観念を静葉が抱いているのを辿れたこと自体は非常によきでした