『路上』
1
クソを洗い流す便器の音さえどこかやる気のない憂鬱な月曜日の朝。わたしの頭の中では、いまだにプリズムリバーWithHの獰猛なジャズが震えていた。彼女らが生み出した新機軸に、みんな震えて、みんな踊っていた。そこかしこに腰をまさぐりあってる番いがいたし、舌までもつれ込むキスをしているやつらがいた。
そんな光景が、二日酔いだけが原因じゃない警鐘を頭の中でガンガン鳴らす。おぞましい吐き気が、過去の失敗や後悔、未来への不安や実らない期待と共にこみ上げてくる。一日は始まったばかりだというのに、心身ともに散々な調子だ。
だけど、ルーティンはこなす。汗でびっしょりの服を脱ぎ捨てると、冷たい空気が地肌を滑ってく感覚が心地よかった。ここからは幾万通りの行動に派生できる。迎え酒をやる。タバコを呑む。もう一度トイレへ行く。二度寝する。なにをやるにしたって上手くいくとは思えないが、なにかをやらなきゃその先にだっていけやしない。行動力こそが人生を切り開く鍵だ。
やれることはぜんぶやってみることにした。冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出し、タバコに火をつけ、どちらも半分ほど終わらせると、新しい可能性ににわかに火がつく。外に出て人を手当たり次第にぶっ殺すってのはどうだ?
そんな体力なんかどこにもなかった。結局、ビールを最後の一滴まで飲み干し、タバコをおしまいまで吸い、裸のままでできることを考える。裸のままでできることなんか限られている。他人に裸を見せつけることに興味のないわたしは、ひとっ風呂浴びることにした。
肌を焼くような熱いシャワーに体をくぐらす。浴室に募る煙が、まるで積乱雲の中にでもいるような錯覚に陥らせる。眠っていた細胞がドミノ倒しのように覚醒していく。自分とそれ以外に隔たれていた世界に、わたしが浸透してゆくような気分。温めに設定したシャワーのお湯が、わたしを有象無象にしてゆく。
幾分か気分がよくなったが、風呂の中でいっぺんにやっておくべきだった歯磨きをし忘れたことに気がついて、また落ち込む。そんなことの積み重ねで、貴重な一日が少しずつ最悪になってゆく。だけど、今日に限って言うならば、わたしの一日を最悪なものにしているのは、そんな些細な出来事じゃない。もっと言えば、ずっと前から最悪だった。一週間くらい前から。
新しいタバコに火をつけ、空っぽの部屋を見回す。命の気配をまるで感じない。かつてこの部屋は、わたしとみすちーの生命力で溢れていた。わたしとみすちーの音楽で張り裂けそうだった。いまじゃ、わたし達の思い出の上にすっかり埃がかぶっている。
自嘲、後悔、破滅、阻喪、あらゆる情操を煙とともに吐き出す。ヤバいことになってしまった。
一週間前、みすちーが家出してしまった。
行動力こそが人生を切り開くのだという信条はいまも変わりないけど、自分の方向感覚に関して言ったらかなり自信がない。むかしからがむしゃらに、しゃにむに走ってきたけど、それでどこかに辿り着けるほど世界は単純でも愚かでもなかった。
命蓮寺を破門されたのも、なにも考えずに突っ走った結果に過ぎない。破門されてからはみすちーと音楽をやったり、みすちーの屋台の仕事を手伝ったり、みすちーと夜に溶け込んだりしていた。
甘かったというほかない。わたしの人生設計はマリファナの煙よりも甘かった。完全に失敗だった、クスリに手を出したのは。ことの詳細は省くけど、とにかく酒とクスリ漬けの生活が続いた。思い通りにならない人生に嫌気が差していた。
そんなわたしを見兼ねて、みすちーは言った。
「響子ちゃん。こんな状態がずっと続くなら、わたしにも考えがあるよ」
別れをほのめかすこの発言に、わたしは頭を下げまくった。みすちーと離れ離れになってしまうのは、愛を失う以上の影響力があった。とどのつまり、わたしには貯金もなにもなかったのだ。
わたしは飲む。ディタをベースにしたスプモーニ。プリズムリバーのサプライズ演奏の熱がまだ残っているみたいで、もしかしたら今日も、みたいな期待が店中に渦巻いていた。
わたしは酒を飲む。なにがディタだ。なにがスプモーニだ、気取りやがって。こんなものを飲んでたってだれもわたしを見つけてくれやしないし、だれもわたしの言葉には耳を傾けちゃくれないんだ。
それでも飲まなきゃやってられない。この世に存在してもしなくてもいい音楽がステージからここまで漂ってくる。バーテンダーは曖昧に首を振り、グラスをキュッキュッと磨き上げている。ステージ下の男や女はそのときを待ちわびている。まるでプリズムリバーの音楽が流れていないときはセックスしちゃいけないという決まりでもあるみたいに。
味がわからなくなるくらい酔っ払った頃合いに、隣にだれかが座った。顔をそっちに向けたけど、酔眼朦朧としていて、結局だれかはわからなかった。
「みすちー⁉︎」一か八かに賭けてみた。「もしかして、みすちーじゃない⁉︎」
「違うよ」
モザイク顔が首を振ったような気がした。目を擦って視界を判然とさせると、たしかにそいつはみすちーじゃなかった。
「なんだ、みすちーじゃないのか」わたしはがっかりしてハイネケンをあおった。「みすちーじゃないやつが、なんか用?」
「カンパリソーダ」みすちーじゃないやつが指を鳴らしてバーテンダーに注文する。「ね、あんた、もしかしたら幽谷響子じゃない?」
動揺を押し隠すために、わたしはタバコに火をつけた。
「へえ、わたしのことを知ってる人がこの世にいたなんて、鳥獣伎楽も有名になったもんだ」
「鳥獣伎楽?なにそれ」
「……」
「わたしのこと、覚えてないかな。リグルだよ、リグル。ミスティアの屋台に通ってたんだけど」
わたしはタバコをとっくりと吸い、隣の顔をじっと見つめた。見れば見るほど、自分の中の記憶と齟齬が生じるみたいだった。こんな顔の知り合いはわたしにはいなかったはずだ。
「悪いけど、覚えてないや」
「ふうん。ずっと裏方にいたもんね。ミスティアは元気?」
「屋台、出してないの?」
「最近は見かけないけど……」リグルはカンパリソーダを舐め、タバコを咥えた。「なに、喧嘩でもしちゃった感じ?」
「そんなとこ」
「ふうん」
わたし達は無言で酒を飲んだ。あれほど自分の隣にだれもいない夜を呪ったのに、いざ隣にだれかがいると、無性にムカついてくるのだった。
ガラスの灰皿に手が伸びかけたとき、リグルが口をきいた。
「ねえ、いま、仕事ってどうしてるの?」
わたしは灰皿を置き、その上に吸い差しを置いた。
「お金、ないんじゃない?」
返事代わりにハイネを喉に流した。泡が妙に粘っこかった。
「いい仕事があるの」
その言葉を待っていたんだ、という気分を悟られないように、わたしはタバコをスパスパ吸う。
リグルの話はこうだ。
リグルは虫をたくさん飼っていて、幻想郷じゃ見られないようなのもいるらしい。それらは外の世界では「特定外来生物」と呼ばれ、やたらデカかったり毒を持っていたりと危険なものばかりのようだ。
「おっと、どこで仕入れたのかは訊かないでよ。企業秘密だからさ」リグルはカンパリソーダで喉を潤し、話を続けた。「そいつらを顧客に届けてもらう。あんたには運び屋をやってもらう」
「顧客?」
「中にはいるのさ。虫を愛したり、虫を使って愛したりするやつらがね」
リグルがヘドを吐く真似をした。
「ヤバい仕事なんじゃないの?」
「でなきゃ、あんたなんか必要ないだろ?」
「たしかに」
わたしはタバコを吸い、考えるフリをした。実際は考えるまでもない。第一に、みすちーが帰ってくるまで金の入るアテもない。第二に、虫を客に届けるだけで金を貰えるなんてボロい商売、断る理由がない。第三に、なにかをやっていないと、頭の中から「自殺」の二文字を追い出せない。
グラスをテーブルにタンッと置き、一大決心をしたためたように、やるよ、と言った。リグルはにやりと笑い、バーテンダーにタバコとバドワイザーを注文した。わたしはラッキー・ストライク。リグルはクールとかいういけすかない銘柄。
グラスを合わせ、わたしは薄いビールをごくごく飲んだ。とりあえずの見通しは立ったというのに、どこまでも深い沼に沈んでくような悲しみや焦燥が胸を焼く。そんなときに浮かぶのは、いつだって救いのないメロディや詩。わたしはタバコでそいつらを焼き払い、ビールで鎮火した。
と、ステージの方で歓声があがった。まさかまさかの二夜連続のプリズムリバーの出演に、だれもが沸き立っていた。服を脱ぐやつら、腰をアメリカン・クラッカーみたいに打ち付け合う男女、酒が足りないとバーにこぞってやってくる連中。人を見た目で判断するのは馬鹿のやることだけど、こいつらに関して言えば、みんな見た目で判断してもらいたがっているような感じ。
やがて獰猛なジャズが聴こえてくると、さっきまで抜き差しならない光を瞳にたたえていたリグルも有象無象に混じって嬌声をあげ、ステージの方に走った。一人取り残されたわたしは、リグルがテーブルに置き忘れたクールをポケットにしまい、ビールを飲み干し、店を出た。
虫なんか飼ってる野郎は、どいつもこいつもファシストだ。
3
ありふれた自己嫌悪に脳みそを蹴っ飛ばされて目を覚ます。酷い悪夢を見た。プリズムリバーのライブをみすちーと一緒に観に行ってるような、幸せな夢。悲しい願望。ありとあらゆる優しいもの達が「帰ってこい」と朗らかな笑顔でわたしを迎えてくれる夢。
雑念を捨てるためにタバコに火をつける。ラッキー・ストライク。炭鉱夫が一発掘り当てたときの喝采が名前の由来だという。こんなものを吸ってたってなんの証明にもならないけど、気がついたらこいつに銭を吸われない日はなくなっていた。
救いはそこら中に転がっている。「神」と言い換えてもいい。幻想郷は宗教の温床だ。神は貧乏人に牙を向く。神に人間を救えるなら、車にだって酒にだって音楽にだって救える。それらを買えない金のないやつが神を信仰する。
わたしにとっての神。それは酒であり、タバコであり、クスリであり、音楽であり、みすちーだった。神は貧乏人に牙を剥く。わたしは、少なくともいまは貧乏人じゃない。
なんとなくかけたラジオが、音楽を垂れ流す。プリズムリバーの新曲だった。
玄関の戸がノックされる。わたしが許可を下ろす前に、ギシギシと音を立てて開く。
「やあ、迎えに来たよ」既に出来上がってるらしいリグルが、まるで自分の家にあがるような感覚で踏み込んでくる。「仕事の時間だ」
タバコを地面で揉み消し、ラジオも消した。新しい神が、牙を剥いてわたしを待っている。
リグルの家はみすちーの家からそれほど遠くない場所にあった。なにせ、虫を大量に飼ってるやつの家だ。どんな魔窟かと身構えいたけど、思っていたのとはだいぶ様子が違った。だからと言って落ち着くわけでもない。そこら中に馬鹿でかいムカデやらサソリやら、絶対に自然に誕生したとは認められないような色彩を纏ったカエルやらが入れられた透明なケースが置かれている。蛇もいた。頭の先が二つに割れた、飼い主に似てずる賢い感じのする蛇。
ちょっと出てくる、と言ってリグルが部屋の外に出て行くと、無人島に一人で取り残されたみたいに心細くなった。阿呆になったような気分でぐるぐるとケースを見回す。蛇にもカエルにも、価値があるようには見えない。こんなものを可愛がるやつらは、いったいどんな境遇で育てられてそうなったんだろう?親から虫扱いされたのか?
冷蔵庫から勝手にビールを取り出し、虫どもを肴に飲む。命を狙われているような感覚。こいつらはケースに閉じ込められて尚、自分に世界を変えられる力があると思い込んでいる。そんな風に見えた。だからかもしれないが、ケースの端っこで大人しくしてるカエルのことを、わたしはいちばん気に入った。
空き缶が二つになり、タバコを三本吸ったところでリグルが戻ってきた。
「おまたせ。早速、仕事をやってもらうよ」
「どこ行ってたの?」
「クライアントとちょっと行き違いがあってね」
「大丈夫なの?」
リグルは、そんなことは神さまにでも訊いてくれ、とばかりに肩をすくめた。わたしは自分を束ねるために、タバコを咥えた。リグルが火をつけてくれた。儀式めいた所作だった。実際、虫どもに囲まれて吸うタバコの味は、どこか神秘的なものを感じさせた。まあ、どうでもいいんだけど。
「金は?」
わたしが訊くと、リグルは指をパチンと鳴らした。どこからともなく真っ黒い煙が部屋に侵入してくる。思わず身構えてしまったが、黒い煙の正体は虫だった。虫はわたしの足下に近づき、わらわらとその場に留まった。嵌められたのかと思ったが、そうではないみたいだ。虫がはけてくと、そこから封筒が現れたのだった。
「前金で半分」わたしは封筒を拾い、中身をあらためた。「仕事が終わったらもう半分だ。いいね?」
断る理由もないので頷く。
わたしとリグルは虫の入ったショーケースを表に停めてあるリヤカーまで運び、その上に大きな布を被せた。
「これ、届け先の住所ね」
渡された紙を一瞥し、折り畳んでポケットにしまう。
「いいか、絶対に人に見られないでよ。幻想郷に外来種を持ち込んだのがバレたら、面倒なことになるんだから」
「なんで?」
「なんでって、そりゃ……」
「なんで危険を冒してまで、こんなビジネスをやるの?」
リグルが面食らったように目を見開いた。こんなことを言うやつは初めてだ、という感じに。
「河豚は食いたし命は惜しし、じゃあ、幻想郷ではやっていけないだろ?」
「幻想郷に河豚はいないけどね」
毒蛇みたいに狡猾な笑みを浮かべながら、リグルはわたしの背を叩いた。
かわいそうな虫達を送り届けるため、わたしはリヤカーを引いて歩き出した。
奴隷のように車を引き回しながら、森の中を往く。リグルの家からかなり歩いたような気がするけど、いまだに出口が見えてこない。虫どもは大した重さじゃないけど、酒やタバコで体力が落ちているのか、車を引き始めてから五分たらずで息があがってしまった。あまりの情けなさに涙が出てくる。まだ春も来てないというのに、汗をかきまくった。
限界は唐突にやってくる。酒を飲んだ次の日の朝。みすちーが屋台を出す一時間前。タバコを吸って物思いにふけっているとき。トイレが詰まったとき。いつまでも出口が見えない森の中を歩いているとき。そんなとき、わたしはなにもかもを投げ出してしまいたくなる。あるいは、すべてを取り戻そうと躍起になる。悲しいのは、そのどちらも叶わないということ。要は、地の底まで落ち込んだと思っていても、まだまだ先があるということだ。
そのことをよく知っているから、わたしはリヤカーを引くことができる。人生はいつだって崖っぷちで、最後の一押しを待っている状態なのだ。こんなところでくたびれている場合じゃない。救いなき魂が、救いなき虫達を待っている。
と、ガタンという音が後ろからした。振り返るのも億劫だったが、どうにか首をよじって音の鳴りし方を見やる。
幻想郷崩壊の序曲が始まっている。なにかの拍子で倒れたケースから虫どもが這い出てきているではないか!肝を潰したわたしは、その場に尻餅をついて動けなくなってしまった。
虫どもが殺戮の行進を始める。皆殺しの街道を爆進している。わたしには目もくれずに。まるでカナンの地にでも向かおうとしているかのように。
崩壊していく自然界の秩序を、わたしは指を咥えて見殺しにしていた。あらゆる意味でどうすることもできないのなら、じたばたしようが落ち着いてようが同じことなのだ。わたしはリグルからもらった前金の額を確かめた。一週間くらいはどうにかなりそうな額が入っていた。一週間もあれば、小さな殺戮者どもが自然界に台頭しているかもしれない。一週間あれば、みすちーもわたしのことを許して家に帰ってきてくれるかもしれない。神はたった七日間で天地を創造したのだ。なんだって起こりそうなもんじゃないか。
とりあえず、わたしはいつものライブハウスに向かった。
4
虫どもの大脱走劇から二日経ったが、幻想郷はいたって平和だった。ラジオは相変わらずプリズムリバーの音楽を垂れ流し、ライブハウスは酒池肉林の様相を呈し、みすちーはまだ帰ってこない。穏やかで、平和で、うんざりするくらいなんにも起こらない。きっと、幻想郷の平和を守るための知られざる戦いがどこかで起こっているに違いない。
夕方頃にいつものライブハウスへ行くと、リグルがバーのスツールに座っていた。灰皿にこんもりと積まれた吸い差しを見るに、随分とわたしのことを待ち焦がれていたらしい。わたしは彼女の隣に座った。
「やい」と、いきなり怒気含みで来た。「どういうつもりだ?」
なにが、とシラを切ると、胸ぐらを思い切り掴まれてしまった。
「虫を野に放っただろ!おまえのせいで、賢者に目をつけられちゃったんだぞ!どうしてくれ……」リグルの表情が固まったのは、わたしがタバコに火をつけて咥えたからだ。「上等だよ」
が、リグルがなにか暴力的なアクションを起こす前に、彼女の背後の風景を塗り潰すように、眼球だらけの赤黒い空間が浮かび上がった。目をつけられたというのは本当らしい。そこから伸びた細くて美しい手が、リグルの頭に生えてる触覚を鷲掴みにした。どんな慰めも気休めにしかならないほどの絶望を顔に浮かべている。
「ごめん、リグルちゃん」わたしは半分ほど吸ったタバコを彼女の口に咥えさせた。「でもね、あれは本当に仕方がないことだったんだ」
「ざけんなー!」
謎の空間に飲み込まれてくリグル。やがて空間の裂け目が閉じ、ライブハウスは平穏を取り戻した。
わたしにできたことなんか、みすちーが家を出て行ったときからなんにもない。だというのに、このやるせなさはいったいなんだ?リグルはどうなってしまうのか?あの虫たちはどこへ向かったのか?どこかへ辿り着くことができたのか?みすちーはいつ帰ってくるのか?
いまとなっては、なんにもわからない。幻想郷はいつも謎だらけだ。謎の当事者でないやつらにできることなんか、せいぜい酒を飲んだり、クスリをキメることくらいだ。罪悪感なんか感じない、お寺には血の池で溺れてハイになるような人もいたのだ。
その人がよくて、わたしがダメな理由なんかどこにもないじゃないか。
「ハイネケンとタバコ」
バーテンダーに申し付けると、何万回も繰り返してきた動作で注文したものをテーブルの上に出してくれる。わたしはハイネを飲み、タバコに火をつける。問題は、再び食い扶持を失ってしまったということ。そろそろ本格的に音楽活動を再開しなくてはならない。
酒を干し、ステージに上がった。困惑するスタッフからアコースティックギターを借りる。ボロボロのやつだったし、観客はまばらだったけど、一曲、即興でやってみた。あの逃げ出したムカデやカエルやサソリのことを思い浮かべながら、詩を紡いだ。
わたしと観客の間には、決定的な隔たりがあった。いい感触だ。世界を滅ぼしたい気分になってくる。もう一曲やった。
どこまでも続くなだらかなメロディ。暴力を肯定する詩。あるようで存在しないメッセージ性。擦り切れた魂。やがて観客が増えてきて、わたしもノリにノッてきたのだが、とんだ勘違いだった。みんな、プリズムリバー目当ての客だった。
わたしはギターを置き、ステージを降りた。敗北が確定しているわたしの背中に、トゲトゲしい視線が突き刺さる。こんなにプリズムリバーの音楽が恋しくなったのは初めてだった。わたしの恥ずかしい勘違いごと、彼女らの音楽で吹き飛ばして欲しい。
絶望と後悔の最中に、わたしを呼ぶ声があった。
「響子ちゃん?」見やると、一輪さんが心配そうな面持ちでわたしを見つめているではないか!「やっぱ、響子ちゃんだよね?」
わたしはなにも言わずにバーの方へ流れた。一輪さんが付いてくる気配があった。なにも考えないようにした。なにも答えないようにした。
「ねえ、なんで黙ってるの?」その声には苛立ちとか不満とかそういうのは一切なく、ただただ純度の高い心配だけがあった。「響子ちゃん、ねえ……」
わたしはスツールに上り、バーテンダーに酒を出せと申し付ける。この場に限って言えば、なにかを証明できる気がした。もう、一輪さんが知ってるかつてのわたしはどこにもいないのだと。
「一輪さん」タバコに火をつけながら、わたしは彼女の名を久々に呼んだ。「なんでこんなところにいるんですか?」
探るような間があってから、一輪さんは答えた。「プリズムリバーがライブをやってるって聞いて……」
わたしは振り返りもせず、やっぱりね、というような顔をバーテンダーにしてみせた。バーテンダーはなにも語らない。他人の人生に深く踏み込まない、本物とはこういう人のことを言うのだ。
「ねえ、姐さんは響子ちゃんを破門にしたけど、いっつも心配してるのよ」この話題になることはわかっていた。「ちゃんと頭を下げて謝れば、姐さんも許してくれるわよ、ねえ……」
「わたしはね、虫なんです」
背中に突き刺さっていた一輪さんの慈悲深い視線が、馬鹿を見るそれに変わったような感じがした。
わたしはしっかりと自分を束ねてから、スツールごと体を回転させて一輪さんに振り返った。訝しげにわたしを睨みつけている一輪さん。
「虫は、だれかの手の内に収まった時点で死んでしまう。自然から隔絶された時点で、命のあるなしに関わらずに死んでしまうんですよ」
「……なにが言いたいの?」
「わたしは世界を変えたいんです。でも、虫かごの中にいたんじゃ、世界を変えることなんかできやしない」
「……だから?」
「え?だから……ええと」自分がとんでもない阿呆にでもなったような気分で、わたしは言葉を探し出す。「お寺にいたんじゃわたしのやりたいことはやれないってことです。聖さまはわたしの音楽は認めてくれなかったけど、プリズムリバーの音楽は認めている。一輪さんがいまここにいるのって、そういうことでしょ?」
一輪さんはとっくりとわたしの言葉に耳を傾けていた。たしかな手応えを感じた。
「幽谷響子」
「はい」
「大人になりなさい」
「……」
「世の中にはね、思い通りにならないことがたくさんあるのよ。あんたの知らない悲しい出来事だってたくさんある。それから目を背けて酒や夢に逃げてたら、いつか本当に自分を見失っちゃうわよ」
「いや、その……」
「でもね、どんなこと言ったって、あんたはまだガキなのよ。わたし達から見たらね」
「ちょっと、わたしの話を……」
「寺に帰ってきなさい」
わたしは口をパクパクさせる。これほど魅力的で、優しくて、政治的打算を含んでない提案は、この先、一生かかってもお目にかかれないような気がした。
入れ替わり立ち代わりにやってくる神。それは死神のときもあれば、自由をもたらす神のときもあった。そしていま、すべてを許してくれる神が目の前にいる。
プリズムリバーの曲が始まるが、なにもかもが現実と剥離していた。ステージ上に立つ女たちの名を呼ぶ声。曲に合わせたコール。闇を切り裂くフラッシュ。波打つステージ下で人々は一体化し、だれがだれだかわからなくなり、まるでモダンアートのようにもみくちゃにされてゆく。
混沌は店中に広がってるというのに、わたしと一輪さんはそれに飲み込まれなかった。
「待ってるから」
一輪さんのその一言が、魔法を解く合図だった。
店中に渦巻く混沌が、わたしを飲み込んだ。一輪さんは吐き気がするほど波打つ人の中に消えた。その中に、かつての仲間の面影が見えたような気がした。
わたしはスツールを回転させ、テーブルと向き合った。清潔感のあるテーブルが、わたしの顔だけでなく、内面まで映しているようだった。かつてお寺で可愛がられていたわたしの笑顔は、天使と悪魔に左右から引っ張られて、引き裂けそうになっていた。
寺に帰ってきなさい
頭の中に居座る一輪さんの声を、どうにかして振り払いたかった。どう頑張っても、そう、世界中を震わすこの音楽にだって、そんなことは不可能だ。
だから、わたしは帰ることにしたのだ。
5
夢を見ている。
ギザギザの歯をした幽霊楽団に、わたしは追われている。それは叶わなかった夢。敵わなかった現実。アルコールと毒気に満ちた色彩にまみれ、わたしは水の中をひたすらに泳いでいる。途中で、カエルの背に乗ったサソリとすれ違う。振り返り振り返り、わたしは泳ぐ。
やがて彼らは、わたしが飛び込んだ岸へと辿り着く。彼らは自分を捨て、新たな自分を見つけることに成功したのだ。
何億年も前から存在するような轍の上を、わたしは歩いている。それはだれかが辿ってきた道。それはわたしが挫折した道。遠くの山々が、夜空と厳正なる境界線を引いている。見たこともない車輪のついた鉄塊が、会ったこともない人たちを乗せて遠くへと連れて行く。
道中、サソリやカエルやムカデの大群と遭遇する。まるでおれらにはおれらのやることがあるんだ、と言わんばかりに、一様にして同じ方向へと突き進んでいる。自分以外のすべてを皆殺しにするために。人間に生まれ変わるために。わたしは虫になる。虫には自我がない。
夜空の肥えた月が、地上のジェノサイドを見過ごしている。どこかで鶏がときを作ったが、それさえも夢であることを、わたしは知っている。
目を覚まし、朝のルーティンを五分で済ます。体はすこぶる快調だった。
シャワーから出ると、みすちーが味噌汁を作っていた。彼女を背後から抱きしめ、うなじに顔を埋め、匂いを嗅ぐ。彼女から熱を吸い取るように。
「おかえり」と、わたしは言った。「どこ行ってたの?」
「どこでもいいじゃない」肩越しに振り返ったみすちーは、何日か前に見た顔とぜんぜん変わっていなかった。「ここはわたしの家なんだから」
「それもそうだね」
それから、わたし達はみすちーが作ってくれた味噌汁には手も付けず、酒をかっ喰らった。かっ喰らいながら、わたしの来世は虫かなんかだろうな、などと思う。
『ラブ・ポンプ』
命蓮寺を破門されてから、わたしの生活は一変した。ギターを一本携えて、みすちーの住処に居候をさせて貰ってるわたしは、毎日をギターを弾くか発声練習をするかみすちーの屋台を手伝うかに費やしている。
または、他人の音楽を聴いてみたりする。命蓮寺にいた頃は、プリズムリバーの音楽なんか聴く気になれなかったんだけど。わたしには奴らの音楽は綺麗過ぎた。なんというか、奴らの「なにかを目指している」ようなスタンスが気に食わなかった。
これは持論だけど、物を作ったりする人間や妖怪が、なにかを目指すようになったらお終いだと思う。お終いはちょっと言い過ぎだけど、そういうスタンスで作られた音楽とかって、下心とかが見え見えで嫌になっちまう。この音楽は感動させるために作りました。この歌詞は泣かせるために書きました。
そんな風に思うからには、わたしにも経験がある。愚かにもプリズムリバーみたいな綺麗で心を打ち震えさせるような打算のこもった曲を作ってみた。それは確かに客の興味を引いたけど、後から自分で聴く気にはなれなかった。わざとらしさが鼻について、自分のことを殺したくなった。
そんな気持ちになって作ったのが「スーサイド・ソリューション」という曲で、「自分」という存在がわからなくなった女が自我を求めて滝から飛び降り自殺するような内容だ。この曲はそんなに伸びなかったが、わたしはそれが心地よかった。
命蓮寺を破門されたのって、こういう曲ばっかり作っていたからというのもあると思う。
みすちーが食材の仕込みに行っている間、わたしは家に引きこもって、ラジカセから流れる音楽に耳をそば立てていた。最近はプリズムリバー以外にも、いろんな音楽を聴いてる。河童の作ったラジカセなる機械は革新的で、いつでもどこでもだれの音楽でも聴ける、音楽に携わる者には夢のような機械だった。
だけど、幻想郷には音楽を演っている奴が少ない。特にわたし達のような音楽を演る奴らは極端に少ない。プリズムリバーが覇権を握るこの世界では、みんなラッパとかヴァイオリンとかしゃらくさい楽器を習う。良くてピアノだ。ピアノの音はどんな音楽とも親和性がある。
音楽は自分と戦争する武器だ。自分自身の音楽を見つけ出さなければならない。他人から与えられる影響なんか糞食らえだけど、だれかに影響を与えない限り音楽は続かない。でも、プリズムリバーとかはあんまり聴きたくない。そこで思い付いたわたしは、ラジカセを止めて外に出る支度を始めた。
革ジャンを着込むと同時に、みすちーが帰って来る。買い物袋にはたくさんの食材が詰まっていた。
「響子ちゃん、出かけるの?」
「うん」
「二日ぶりの外出だね」
壁にかけられたカレンダーを見る。日付のところが赤い丸で囲まれている箇所がいくつかある。これはわたしが外出した日に、みすちーの手によって付けられる。前に出かけたのは、たしかに二日前だった。その日はシャブを買いに出かけたんだった。
みすちーはわたしの健康を気遣ってくれる。時々、厳しい言葉もあるけど、彼女の作る料理には温かみがあって、シャブや音楽と一緒にわたしを堕落させていく。それが気持ち良くもあり、眠れない夜を増やす要因でもあった。
「何時に帰ってくる?」
今度は時計を見る。設定した時間に針が止まると鳩が飛び出てきて時刻を教えてくれる奴だ。みすちーが買ってきたのだ。わたしは煩いから別のにしろと言われたけど、寺にいた時のあんたほどじゃないと言われて、なにも言えなくなった。
「夜には帰るよ」
「晩ご飯、作っとくね」
「今日も屋台出すの?」
なんて訊きつつ、みすちーが屋台を出さなかった日はほとんどない。今月だって休んだのは一日だけだし、その一日だってラリっていたせいで休まざるを得なかっただけだ。
「うん、いつものところ」
「じゃあ、帰ってきてみすちーがいなかったら、そっち向かうね」
「うん」
わたしとみすちーはお別れのキスをした。みすちーの唇は干物みたいに乾燥していた。
「響子ちゃん」
「ん?」革ジャンを着直す。「なに?」
「口、くさいよ」
「……」
「歯、磨いてから行った方がいいよ」
「人と会うんじゃないからいいの」
「もうチューしてあげないよ」
わたしは洗面所に立ち、歯を磨いた。
台所にいるみすちーに息を吐く。
「どう?」
「うん、オッケー」
「じゃあ、行ってきます」
わたし達はまた唇を重ねた。みすちーの乾いた唇を濡らすように。
みすちーの掘建て小屋を出て、二日ぶりに太陽の光を浴びる。もう春じゃなかった。ギクシャクする体を伸ばして、大きく息を吸う。失われていた大切なものが、体の中に戻ってくるような感覚があった。
わたしは腕を伸ばし、太陽を手の中に仕舞い込む。
「見てろよ」あの輝く光を、プリズムリバーと見立てながら、「いまに見てろよ」
重い心と足を引きずって、わたしは無縁塚まで歩いた。
無縁塚には外の世界の物が流れ込んでくる。大抵はガラクタでろくに使えたもんじゃないけど、時々、世界を変えられるようなアイテムが手に入ることもある。事実、河童はここでラジカセを手に入れて、幻想郷に普及させたのだ。
ゴミの山や墓標代わりの石を蹴飛ばしながら、下を向いて歩く。なんだか惨めな気持ちになってくる。わたしがゴミを漁っている間にも、プリズムリバーは楽しい音楽を作ったり、有名人とお酒を飲んだりしてるんだろう。
泣きたくなるのを我慢しなかった。こういう気持ちになるのはいまが初めてじゃない。ゴミの中からメロディーや詩を探し出す。だれにも真似できることじゃない。わたしにしか出来ないことをやる。鳥獣伎楽はそうやって頑張ってきたじゃないか。
「おい、そこのお前!」
振り返ると、死にたくなった。なんてこった、ダウジングの棒を持ったナズさんが、こっちを睨み付けてるじゃないか!そういえば、ナズさんは無縁塚の近くに住んでるんだった。
「ここいらはわたし達の縄張りだぞ」
ナズさんの背後からネズミが百万匹くらい現れて、全員が牙を向く。わたしは手を上げ、無抵抗であることを示した。
「わたしです、響子です」
近付いてくるナズさんから、わたしは目を離さなかった。今のところ、ネズミが襲ってくる気配はない。
「響子?……ああ、寺にいた子か」
「ご無沙汰してます」
軽く頭を下げる。ナズさんがネズミにしか伝わらない言葉でネズミどもになにか言うと、雲の子を散らすようにみんなどこかに行ってしまった。
「こんなところでなにをしてるんだ?寺での修行はどうした?」
「へえ、まあ、いろいろ事情がありまして」
「ここに来たのは聖の命令か?」
ダウジングの棒を向けられながら質問されると、拳銃を突き付けられながら尋問されてるみたいだ。正直に言わないと、この棒でブスリとやられてしまうかもしれない。
「実は、破門されちゃいました」正直に答えることにした。「ここに来たのは、欲しいものがあったんで」
「破門?」目を剥くナズさん。「え、マジ?」
「マジです」
「なんで?」
「バンドのライブ中に、相方が亀の首を噛みちぎったんで、無益な殺生をしたってことで」
ナズさんが馬鹿笑いした。ペンダントが胸の上で跳ねまくって、耳障りな音を鳴らした。
「そりゃご愁傷様」片手で腹を押さえながら、ナズさんに肩を抱かれる。「マジかよ……大人しい子だなって思ってたけど、そんなことしてたんだ」
「亀を殺したのはわたしじゃないスよ」
「いやあ、久々に笑わせてもらったよ!」
「……」
「で、ここにはなにしに来たんだっけ?」
「実は……」
事情を話すと、ナズさんは存外にちゃんと話を聞いてくれた。
「ふうん、外の世界の音楽か」話しながらもダウジングの手は止めないナズさん。「ちょっと待ってろよ。わたしの小屋に、幾つか拾ったのがあるかもしれない」
「マジですか!」
「マジマジ」言いながら、ナズさんは小屋があると思しき方向へ歩き出す。「やっぱり着いてきなよ。久々に人と会ったしさ」
「人じゃないですけどね」
「あれだよな。なんていうか……こういう時、妖怪のことをなんて呼称するか迷うよね」
「人でいいスよ」
「人の形してるしね。よし、行こう」
ナズさんの後ろに着きながら、瘴気が漂ってそうな無縁塚の風景を眺めていた。地面にはいろんなものが埋まっていた。髭の生えたフライドチキンの親父人形、なんとか薬局と書かれた小銭を入れると動くゾウの乗り物。三角コーンや絶版になったお菓子の箱。あらゆる物からメロディーが流れ出てくる。音楽はだれにだって、どんな物にだって宿っている。音楽家に求められるのは、それを掴み取れるかどうか、その技量のみ。音楽を作るのは、虫取りに似ている。
で、ナズさんの小屋にも音楽は宿っていた。ネズミの住処(実際そうだけど)みたいなドブ臭いメロディーが、ネズミの断末魔のような詩が。忘れ去られた物の行き着く場所に相応しい小屋だ。ここに住んでたら、きっとプリズムリバーだってドブリバーとかに名前を変えたくなるに違いない。
小屋の中には布団が一枚と、そこら辺で集めて来たであろうガラクタがたくさん置いてあった。ナズさんがボロっちいちゃぶ台の前に座ったから、あれはゴミじゃないんだろう。わたしもナズさんの対面に座った。
「ふう、疲れた」ナズさんが布団の近くに置いてあった酒瓶を手に取って、おもむろに飲み出した。「ま、飲みなよ」
「いただきます」
この後はみすちーの仕事の手伝いが控えていたけど、ご相伴にあずかった。音楽で食って行くには、飲めない酒も飲めるような器量が大事だ。
とはいえ、ナズさんは曲がりなりにもネズミだ。ネズミが口を付けた酒を飲むのは、ちょっと抵抗があった。わたしは種族差別者じゃないけど、自分の体のこととなると話は別だ。
わたしは酒瓶の飲み口を浮かして酒を飲んだ。あたかもナズさんと間接キスをしないように気を使っているんですよ、という風に。その試みはうまく行ったようだ。わたしの飲みっぷりを見て、ナズさんが手を叩いて喜んだ。
ナズさんは賢いが、純粋さも持ち合わせている。わたしは思った。その気持ちを忘れるなよ。
「そうそう、外の世界の音楽だったね」
ナズさんがゴミの山を慣れた手つきで漁る。まるで何千回もそうしてきたような動きだ。尊敬せずにはいられない。ナズさんから得られる物は多いような気がした。
「ほら、これ」
ナズさんがちゃぶ台に置いたのは、見たこともない媒体だった。長方形に穴が二つ空いてて、くすんだ灰色をしていた。
「カセットテープって言うんだろ?これに音楽が詰まってるんだって」
聴き慣れない響きを頭の中で反芻する。家にあるラジカセに、こんなものを入れられる場所があったかどうか定かじゃない。ていうか、絶対になかったと思う。
わたしはそれを手に取り、ナズさんに言った。
「ありがとうございます!大切に聴かせて貰います!」
上機嫌のナズさんがニコニコ笑った。だれだって純粋なものを傷付ける権利なんて持ってないのだ。
それから、わたし達は酒を飲みまくった。みすちーの屋台のことも、ネズミを媒介にする病原菌のことも、幻想郷の未来も、宇宙の膨張のことも、わたし達には知ったことじゃない。大抵の奴らはそういう「知ったこっちゃない」部分に目を向けない。音楽の裏側にある部分のことや、弱い心に付け入る愛の打算とか、バリアも張られてない人里がどうして妖怪に襲われたりしないのか、とか。
ベロベロに酔っ払ったナズさんを抱えて、布団の上に置こうとする。しかし、ナズさんの腕がわたしの首に巻き付いて離れない。ナズさんは目を閉じているが、眠っているようには見えない。なにかを期待しているみたいだった。
「ナズさん、起きてるんでしょ。離してくださいよ」
ナズさんは離してくれなかったが、駄々をこねたりもしなかった。時が来るのを待っているみたいに、ジッとしていた。
「ナズさん、わたしにはみすちーが……」
「わたしにもご主人がいる」それで対等だろ、と言うような強い口調だ。
時間だけが満ちて行く。頭の中に浮かんでいるみすちーの顔が、モヤがかかったみたいにおぼろげになって行く。ナズさんの小さい体に残った体温が、風邪菌みたいにわたしに伝染して行く。こうしているだけで、わたしとナズさんの間で共有できるものが増えてくみたいだった。
体を重ねながら、ナズさんを布団の上に置く。どちらからともなく唇を重ねる。みすちーのおかげで、口臭がどうのこうのという話にはならなかった。
体温を奪われたみたいに、急速に冷めて行くのを感じた。どうしようもないキスだった。人質を取られて「やれ」と言われているような、ぎこちないキスだった。ナズさんと唇を重ねている間中、ずっと病原菌のことを考えていた。
首に巻き付いていたナズさんの手が、いきなり離れた。それは望んでいたことではあったけど、唐突だったので面食らってしまった。
「ナズさん?」
「やめよう」
「え?」
「ずっと哀しげな目をしていたね」
知らないうちにそんな目をしていたのかもしれない。
「いや、別に……」
「そういう顔をされたら、やめようって思ってたんだ」
「……」
「音楽、頑張れよ」
ナズさんに背中を押されるようにして、小屋を出た。純粋だったナズさんの心に陰りをさしてしまったようで、いたたまれない気持ちになった。
だけど、ナズさんを抱く日はいつか来るかもしれない。そんな漠然とした期待、或いは不安が胸を占めていた。いつかみすちーに飽きた日に。いつかメロディーに行き詰まった時に。いつか詩に見捨てられた時に。
寺を破門されて消えた縁もあれば、新しい縁も生まれた。何事も大事なのは、一つの関係に迎合しないことだ。その関係にこだわり過ぎていると、その関係の中で出来ることしかやれなくなる。
関係性の再構築。いずれ堀川雷鼓に抱かれる日も来るかもしれない。そんなことを考えながら、無縁塚を後にした。
家に帰ったら、みすちーがいなかった。仕事に出ているのだ。わたしは万年床に寝っ転がり、枕元のラジカセを弄ってみる。ナズさんから貰ったカセットテープが入りそうな穴はない。わたしはテープを投げ捨て、そのまま眠った。
目を覚ましても、外はまだ暗かった。二十四時間寝続けたか、二時間くらいしか眠れなかったかだ。みすちーはまだ帰って来てないから、後者だろう。
水でも飲もうと思って立ち上がる。嫌な気持ちが喉から迫り上がってくるから、そいつを飲み下したかった。
その嫌な気持ちとは、後悔に他ならなかった。ナズさんとキスしてしまったことへの後悔。屋台の仕事を手伝いに行かなかったことへの後悔。ナズさんを抱かなかったことへの後悔。
いろんな気持ちが攪拌されて叫びたくなった。さもなけりゃ、寺に火でも付けてやりたい。自分の気持ちに正直になりたいだけなのに、全身を引き裂かれるような気分だ。
その時、ドアがガチャリと開いた。
「ただいまー」みすちーだった。「あれ、帰ってたの?」
わたしはなにも言わずにみすちーを抱きしめた。酒の匂いがした。そのせいで吐きそうになった。我慢する必要はない。みすちーは、わたしが吐いたくらいじゃどこにも行かない。
便所で嘔吐してると、みすちーが背中をさすってくれた。それがみすちーの純粋な優しさというわけではない。だけど、みんな純粋なものだけを欲しがってるわけじゃない。吐きながら、そんなことを思った。
プリズムリバーの音楽は純粋じゃない。彼女らの音楽には、打算やわざとらしさが見え隠れする。感動しろ、泣け。わたしだって理解している。売れるのはそういう類のものだ。だからこそ、勝負がしたい。わたし達の自然体で。だからこそ、欲しい。奴らの持っている純粋ではない部分が。
しかし、恐ろしさもある。自分の純粋な部分が研磨され、磨きがかかり、面白くなくなってしまうことが。たぶん、ナズさんを抱いてる時にいきなり冷めてしまったのは、そういう恐れがあったからだ。
「みすちー」
一頻り吐いてから、みすちーを見上げる。今すぐにでも抱きたかった。
みすちーは人差し指を唇に当てた。
「まずは口をゆすいで来てね」
そうした。
それから、服を着替えているみすちーに飛び付いて、布団の上に押し倒し、みすちーの中の音楽を探し当てようとするみたいにまさぐった。愛を絞り出そうとするみたいに抱きしめた。
みすちーは乾いていた。ナズさんを抱こうとしていた時のわたしの心みたいに。
それが心地良い。
「響子ちゃん」
わたしの頭を撫でながら、
「明日は屋台の仕事、手伝ってくれる?」
「うん」
「ありがとう」
結局、愛や音楽は見つからないまま眠ってしまった。だけど、愛に似たものはいつだって簡単に見つかる。優しさや心遣いは、愛の近縁種であって、愛そのものではない。
翌朝になって、わたしは河童のお店にラジカセを買いに行った。カセットテープも使える奴だ。お金はみすちーから貰った。
家に帰って、昨晩投げ捨てたカセットテープを三十分はかけて探し出した。埃をかぶったそれを、ラジカセに差し込む。激しいドラムとか魂を切り裂くようなベースとか、そういう類のものは一切ない。鳴ってるのは儚げなギターのみ。
わたし達と使っている言語が根本的に違うらしくて、歌詞なんかぜんぜんわからなかった。わかったことと言えば、これがブルースと言うジャンルに当て嵌まる曲で、歌詞がわからなくても音楽は心に響くと言うこと。
テープの入っていた箱を逆さにしてみると、紙がいくつか出てきた。なにかしらのキャンペーンをやると言う告知とライナーノーツだ。それらは日本語だったので、じっくりと読んでみる。
わたしが聴いていたのは、マスターベーションのことを歌った曲らしい。
それを知った途端、吹き出してしまった。一度笑い出すと止まらなかった。
へぇえ、マスター……ふぅん!そんな曲が外の世界にはあるのか!
買い出しから戻ってきたみすちーが、笑い転げるわたしを見てギョッとした。
「どうしたの?」
わたしはみすちーにお帰りのキスをした。みすちーは抵抗せずに受け入れてくれた。幸せだった。外の世界の奴らや、プリズムリバーなんかに負ける気がしなかった。メロディーや詩が頭の中でグルグル回っている。わたしはみすちーから離れ、すぐに机に向かった。
おまえが自家発電の作業を歌うなら、わたしは愛の湧き出る泉からそれを汲み取る作業を歌ってやる!そう、昨日の晩、みすちーの中の音楽を掘り当てようとした時のような歌を。
「愛」にはいろんな言葉を代入出来る。そこにはわたし達が求めてきた物や、失ってきた物も含まれる。だれかを抱くと言う行為は、その人の中にある自分にはない物を汲み取るということ。
この歌は、もしかしたらプリズムリバーのように大衆受けする曲になるかもしれない。こういう曲にしようっていう目標を定めてしまったからだ。
だけど、だれかと一緒に居たいっていう気持ちを共有しようとするのが純粋じゃないなんて、だれに言えるだろう?なんだ、結局この曲も、大衆に叩きつける挑戦状みたいな物じゃないか!
新曲『ラブ・ポンプ』はこうして出来上がった。
『幽谷響子の死』
悪夢と呼ぶよりない。わたしは暗闇の中で腕や足を拘束されて動けないでいる。猿轡を噛まされていることも多いけど、そうじゃないときは闇の中から質問が飛んでくる。おまえはなんのために生きてるんだとか、このままでいいのかとか。はじめは薬や酒が生み出した、実体を伴った不安とか焦燥が闇の奥にいるんだと思っていたけど、実はそうじゃないということがわかってきた。
わたしはそいつのことを知っている。わたしの将来、未来を知りたがっている闇の世界の住民の正体を。だけど、知ってるということしかわからない。
声はとても優しくて、厳しさはない。そんなやつが拘束してくるとはどういうことだと考えてみたけど、たぶん、あれはわたしが望んでいることなんじゃないだろうか。拘束は言い訳だ。動かないことの。なにも生み出さないことの。喋りたくないことの。ある程度の不自由は自由を際立たせる調味料でしかないのだ。
目を覚ましたとき、汗をぐっしょりかいている。実際に見たことはないが、海みたいになる。もどかしさという名の海。わたしはそこでもがき、泳いでいる。手はちゃんと動き、足でちゃんと立てる。声はまるで自分のものじゃないみたいだが、時間が違和感を曖昧にしてくれる。
そう、時間はなにも解決しちゃくれないが、考えるべきことを模糊にしてくれる。未来は近づいてくるものだが、過去は離れていくものだ。妖怪には寿命なんてあってないようなもんだから、無限に考えたくないことを遠ざけることができる。悲しいのは、どんだけ離れていても追い縋ってくることがあるということ。未来へ進むスピードが、過去の追ってくるスピードをどうしても超えられないということ。
過去は朝にやってくる。二日酔いの頭痛や吐き気とともに。朝にやるべきことをやっているうちに振り切れればいいが、そんな奇跡は高望みってやつだ。一日中、影みたいに付き纏ってくる嫌な思い出にうんざりさせられることになる。
最悪なのは、問題があるのが過去だけではないということ。いま現在も別の問題に苦しめられているということ。そしてなにより、問題を後ろに追いやるには、過去が渋滞し過ぎているということ。
※
酒も薬も人生のちょっとしたスパイス、隠し味みたいなものだと思ってたんだが、いつの間にかメインを食っていた。いつもいつも悲しみだけがデザートみたいに一日の印象を最悪にしている。『ラブ・ポンプ』が世に出てからも、それは変わらなかった。
あの作品を皮切りに、わたしは変わっていくはずだった。大衆に媚びた曲を作りまくろうと思った。愛がどうのこうのとか、恋があーだこーだとか、やまない雨はないとか、片腹痛くてちゃんちゃらおかしい曲を作りまくるつもりだったのだが、わたしから出づる歌詞はいつも卑俗的で、それを彩るはずのメロディーはどれも敵対心をむき出しにしているか、さもなくばひとりで勝手に絶望していた。
わたしの中の愛はどこに行っちまったんだ?命蓮寺に置き忘れてしまったのか?
そんなでも曲は出来上がるものだから、世には出す。が、鳴かず飛ばずとはこのことだ。リスナーの心にはどいつもこいつも愛が欠けてしまっている。死にたいなら勝手に死ねとばかりに、わたしの新曲はプリズムリバーの愛や希望や夢で満ち満ちた楽曲に埋もれていった。
わたしもとうとう折れて、プリズムリバーに白旗をあげることにした。どうやったってやつらには敵わない。どうしようもない現実を突きつけられてるような感じだ。
そして、正味な話、プリズムリバーの楽曲を聴いてると涙が出てくるのだった。温かいものを欠乏した心におばあちゃんの作ってくれたスープでも流し込まれてるような気分になる。そう、愛とは欠乏から生まれるものなのだ。
ああ、世界はこんなにも平和で満ちていたのか!こんな簡単なことに気がつくのに、あまりにも時間を無駄にしまくった。やまない雨はないし、美しい薔薇にはトゲがあるし、臭くないオナラはない。愛は永劫不変に素晴らしいものだし、恋は理性を失うほどのものが恋と呼ぶに相応しい。犬が西を向けば尾っぽは東だ。この世はささやかな真実で満ちている。ちゃんと目を向けていれば、耳でちゃんと聞いていれば、もっとはやく気が付けていたのに。
そんなわけで、酒で脳みそがどうにかなってたとき、わたしは自分のギターを庭で焼いたのだった。ギターだけではない。詩を綴ったノートや、わたしの音楽に影響を与えた偉人達の音楽も焼いた。正しいことをした。不倫や動物虐待を肯定した歌詞なんか、地獄の業火に焼かれちまうべきだ。
「響子ちゃん?」隣で炎を見つめるみすちー。「響子ちゃんにとって、これが正しいことなんだよね?」
「うん」
「じゃあ、なんで泣いてるの?」
炎で映った影が、みすちーの表情をおそろしく冷たいものにしていた。炎とみすちーは、まるでコインの表裏みたいだった。仕方がない。この炎の中にぶち込まれたものは、わたしのアイデンティティのようなものだったのだから。
いつかみすちーだってわかるはずだ。争いの虚しさ、自殺することの愚かさ、雨のあとにかかる虹の美しさ。死や金だけがこの世を彩っているのではないということを。地上に咲く美しい花こそが生命の象徴で、わたし達を狂わす乳液や繊維を生み出す花なんかクソ喰らえってことに。
ある朝、わたしはプリズムリバーの楽曲を聴きながら、世界平和について思いを巡らせていた。前の晩、屋台の仕事に出ていたみすちーはまだ帰ってきていない。だけど、そんなことは少しもわたしを困らせなかった。だって、わたしにはプリズムリバーがいるのだから!
大きなものと一体化するような幸せな心地に酔っていると、玄関からガタンという音が鳴った。わたしは犬みたいに玄関に突進した。プリズムリバーを聴きはじめてから体が健康になったような気がする。
「みすちー!」わたしは彼女の手から荷物を掻っ攫った。「おかえり、疲れたでしょ」
みすちーは小綺麗にまとまった部屋を見回した。「うん……」
「どうしたの、元気ないね。そんなに忙しかった?明日はわたしも手伝うから」
「響子ちゃん、ごめんね」
「そうそう、今度のプリズムリバーの新曲?すっごくいい曲なんだ!昨日の夜からずっと聴いてて──ごめんって、なにが?」
「わたし、リグルちゃんといっしょに暮らすことにしたから」
「……え?」
「家、出てって」
タバコと財布だけ持って家を出た。外は雨が降っていて、しかもその日のうちはやむことなく降り続けていた。
※
いつものうらぶれたバーの便所の個室で、わたしはのたうち回っていた。死ぬほど飲み、死ぬほど吐いた。明日のことなんか構ってられるか。
リグル・ナイトバグ。いつだったか、やつの仕事を頓挫させたことがある。てっきり賢者に殺されたものだと思っていたが、まさか生きていたとはね。
頭を悩ませているのはリグルの生死そのものではないが、みすちーとヤッてるといいうことでもない。断じて。わたしの懸念は、あの二人の間に愛が芽吹いているのではないかということ。あのとき、リグルといっしょに暮らすのだと宣言したときのみすちーの顔は、リグルとしっぽり行くところまで行ってるような表情だった。
みすちーがわたし以外のだれかに汚されるのは構わない。汚れは洗い流せる。だけど、あの二人にあるものが綺麗なものだったら、わたしがみすちーを取り戻すためには彼女をわたしで汚すしかない。己の矜持にかけて、みすちーを汚すことは許せなかった。
便器に顔を突っ込んで肩で息をしていると、だれかがドアをバンバン叩いた。
「はやく出て!」
バンバンバン……バンバンバン……そのビートがあまりにもプリミティブだったので、思わず野生に帰りそうになる。ちくしょう、泣かせるビートじゃないか。わたしは立ち上がり、ドアを開けた。
「はやく出てね」わたしは言った。「まだ吐きたりないんだ」
「どいて!」
押しのけられたわたしは壁に激突し、地面にくずおれた。タバコを吸おうとして火が見つからず、火を見つけたころにはタバコがどこかへいった。なにもかもがわたしの人生みたいに尻すぼみに終わった。
床に向かってゲーゲー吐いていると、個室のドアが開いた。なんとなく顔をあげると、わたしを押しのけた敵意が慈悲に姿を変えて見下ろしていた。
「ちょっと、大丈夫?」
「大丈夫、だって?」わたしは口もとを袖で拭った。「これが大丈夫に見えるなら、いったい世の中のどんなことが大丈夫じゃないってんだ」
女が膝を折り、わたしに肩を貸してくれた。そのまま便所の出口まで歩く。
「かなり酔ってるね」
「ちくしょう、酔わずにいられるかっていうんだ。わたしはラブ・ポンプの幽谷響子だぞ!」
女の足が止まった。わたしはそっちの方を見やるが、女の顔はボヤけてよく見えない。目がしょぼしょぼしている。
「あなた、幽谷さん?」
肩を預けてないほうの手で目を擦ると、おぼろげだった輪郭が鮮明になってくる。
「ラブ・ポンプ、すごいよかったですよ」
女は羨望の眼差しでこっちを見ていた。ラブ・ポンプの幽谷響子なんて名乗っているが、実のところあの曲がくれた肩書きの効力はとっくのむかしに死んでいた。そんなもの最初からなかったのかもしれないが。ラブ・ポンプ?なにそれ?いつまで過去の栄光にしがみついてるの?ってな具合に。とりわけ目の前の女の、堀川雷鼓の『プリズムリバーWithH』という肩書きの前では、月と鼈のようなものだ。
わたし達はバーに戻り、横並びに座って酒を飲んだ。
「ラブ・ポンプっていうのはナイフみたいな曲ですよね」あの堀川さんがわたしの曲の感想を喋っている。「女神のような優しさや慈悲を感じることもあります。それはナイフの柄の部分を持っているようなもので。うっかり刃の部分を持ってしまう危うさも含有している」
「でも、愛ってそういうものじゃないですか」
「愛についての一抹の真実がラブ・ポンプでは表現されているんです。でも、決して鮮明な曲でもなくて、なんていうか……だれだって別のだれかの心を完璧に理解できるわけじゃない。愛に浮かされたときの、あの霧の中にいるような感覚が、ラブ・ポンプにはありますよね」
「やっぱり堀川さんは本物だ」わたしは膝を手で打った。「ひとつの曲に対して、そこまで真摯に向き合ってくれる人ってなかなかいませんよ」
「あなたの曲が本物だからですよ」
涙が出そうになった。わたしの心はもう半分くらいこの人のものになっている。いったい、どれだけの人に本物と偽物の違いがわかるというのか?プリズムリバーだけが本物扱いされ、わたしの曲が半端者の偽物扱いされる謂れはなんだ?
その答えを見つけるための冒険のような夜だった。堀川さんはいつまでも熱っぽくわたしの曲について語ってくれた。わたしも堀川さんについてはソロ時代からファンだったので、しきりに好きなところを並べ立てた。
「堀川さんがプリズムリバーに参加すると聞いて、正直なところ、すごくショックを受けたんです」
「わかりますよ。わたしだって本意じゃなかったんですから。彼女らとは音楽性が違う」
堀川さんはウイスキーのショットを口に含むと、ビールでそれを流した。こんな堀川さんを見たのは初めてだし、それもわたしがこの世で初めてだろう。特別扱いされてるような感覚が気持ちよかった。わたしは彼女に身の丈を合わせるように、バーテンダーにウイスキーのダブルを注文した。
「でも、生きるためには仕方がないことだったんだ」
堀川さんが吐き出した呼気には、まるで人生が滲んでいるようだった。真似せずにはいられない。わたしはタバコに火をつけ、口に咥えた。
と、タバコがわたしの口から離れた。堀川さんの指にタバコが挟まっている。胸が激しく動悸し、なにがなにやらわからなくなる。堀川さんはそのタバコを、別にこんなのはだれでもやってることですよ、という感じに咥える。
なんてこった!
「響子ちゃんにタバコはまだ早いんじゃないかな」その声の艶っぽさに、わたしはいますぐ禁煙を誓った。「なんてね」
「あわあわあわ」
わたしはウイスキーのダブルを一気に飲み干したが、自分で逃げ道を潰したようなものだった。わたしの無様な姿を見て、堀川さんは優しく微笑み、人差し指と親指でわたしの唇を軽く摘んだ。なにが始まるのかはさっぱりわからないが、なにが終わるのかははっきりしていた。
「かわいいとこあるのね、響子ちゃん」
わたしが最後に見た光景は、わたしとは比べ物にならないほど様になっている、堀川さんが喫煙しているところだった。
ああ、さようなら、みすちー!
※
悪夢を見た。悪夢と呼ぶほかない悪夢を。わたしのアイデンティティについて、わたしのよく知ってるやつが語りかけてくる。あなたは本当にそれでいいの?
わたしにできることは、もうなんでもやったはずだ。わたしがやらなくたって、勝手にそうなった。まるで運命みたいに。歌や詞は炎で焼いてしまったし、みすちーもいなくなった。運命はコップに注がれる水のようなものだ。わたしというコップには、それっぽっちの水しか入らなかったというだけで。
闇の世界の住民は、まるで獲物を見つけたハイエナのようにわたしの弱い心をつけ狙っている。そして、わたしはとっくに服従のポーズをとっている。だというのに、やつはわたしがもっと衰弱するのを待っている。その慎重さが、まるで他人のもののような気がしない。
わたしは食われるのを待つ。あいつが納得するまで、そうしている。
目を覚ますと、隣で素っ裸の堀川さんがこっちを見つめながら横たわっていた。わたしは視線を彼女から外し、再び見やった。素っ裸の堀川さんはわたしの不安や期待が見せた幻影でもなんでもなく、純然たる現実としてそこにあった。
思い出す必要はない。こうなることもきっと運命だったのだ。
「響子ちゃん」
「えーっと……」わたしはコップから溢れる運命を堰き止めるのに必死だった。「堀川さん、その……」
「雷鼓って呼んで」
「……」
「よかったよ」
その一言の意味を、わたしは計りかねた。なにもかもを受け入れているようでもあって、なにもかもを拒絶しているようでもある。或いは、その両方。くそったれ、音楽をやってるやつはみんな矛盾だらけだな。
堀川さんがむくりと起き上がる。わたしは彼女の一糸纏わぬ姿をまじまじと見た。彼女に自分の曲を褒められてるときほどの恥じらいはなかった。いい体だ。だれかの子孫を残すのにぴったりの、とてもいい体だ。
水を持って戻ってくる雷鼓さん。
「喉、乾いたでしょ」
頷きながら、コップを受け取る。
「声、すごかったんだから」
「……」
「かわいかったよ」
水の冷たさが、そのままわたしの冷静さとなった。わたしは堀川さんの顔を見た。人懐っこく、それでいて人を寄せ付けない雰囲気の微笑を浮かべていた。ともすればただの皮肉野郎に見えなくもない、境界線の曖昧な悲しみが映っている。
ああ、生きるために必要なことを、わたしは半分も成しちゃいなかったんだ。こんな悲しい笑みを浮かべるのに、いったいどれだけの訓練を積んだのだろう?どれだけの残酷なものを見てきたんだろう?
「堀川さん」
「雷鼓って呼んでってば」
「……堀川さん」
「……なあに?」
呼ぶだけ呼んで、用事なんてないことを思い出す。堀川さんを呼んだのは、それも決して名前で呼ばないのは、儀式でしかない。彼女とわたしの間に絶対に相入れないぞという白線を引くための儀式。
「響子ちゃんは幸せものだね」空中分解した言葉の続きは、堀川さんが引き取った。
「どうしてですか?」
「昨日の夜ね、わたしに抱かれながらずっとミスティアさんの名前を呼んでたよ」
「……」
「あんなふうになってまでその人のことを考えるなんて、よっぽどいい人なんだと思った」
あんなふう?
「その、ごめんなさい……」
「やめてよ。なにもかもが思い通りになるなんて思ってないから」
「わたしを思い通りにしたかったんですか?」
堀川さんはかぶりを振った。違うということなのか、自分でもわからないということなのか、教えたくないということなのか、わたしにはわからなかった。
悔しさが込み上げてくる。罪悪感でもあった。堀川さんの期待に答えられなかったことの罪悪感。みすちーを忘れようとしたことへの罪悪感、けっきょく未練たらたらなことへの後悔。情事の最中に過去の女の幻影を見るなんて、すべてに対して失礼だ。
「どうして……」気がつけば、涙がボロボロと溢れていた。「どうして、わたしを抱いたんですか」
「生きるために必要なこと以外もやりたくなった」堀川さんはタバコに火をつけた。「それだけよ。こっちこそごめんね」
拒絶だけがありありと見える笑顔だった。なにもかもがわたしと正反対だ。わたしの涙はぜんぶを受け入れるつもりでいるのに。
生きるためにそんなに必死になることないんじゃないですか──言葉は口先でバランスを崩し、落っこちて、そのままどこかへ行ってしまった。
「またね」玄関まで見送りに来てくれた堀川さん。「新曲、楽しみにしてるよ」
彼女の唇が、わたしの頬に軽く触れた。
破滅のためのプレリュードのようなキスだった。
なにかを永遠と結びつけちまう前に、わたしはナズさんの小屋に帰った。
「おかえり、リグルは見つかったのかい」
わたしはナズさんを押し倒した。たまたまゴミのない地帯だったからよかったものの、運が悪ければ脳震盪だ。なんだっていい。
上から見下ろされるナズさんは澄ました顔をしていた。こうなることがわかってるみたいだった。気に食わない。だれもかれも受動的で、運命に屈服している。ジタバタするのが無様だって、どいつもこいつも理解している。足掻くことをしなければ素敵な未来が向こうからやって来てくれると信じ込んでる。
壊してやる。生きるために必要なものをぜんぶぶっ壊してやる!
「響子ちゃん?」声からもまったく動揺が感じられない。
「大人ぶるのはよせ」わたしナズさんの服を強引に引っ張った。「身長だってわたしと大して変わらないくせに!」
愛がナズさんの淫らな地帯に噛みつき、悲しみがナズさんの赦しの部分を焼いた。憎しみは蛇みたいにナズさんの全身に絡みつき、性欲だけが従順な犬みたいにナズさんからなにかを拾ってくる。
わたしは幻影を振り払う。ここにはわたしとナズさんしかいない。堀川さんも、リグルも、みすちーもいない。
やがてわたしの前からナズさんも消えた。ナズさんの命の手触りだけがあった。彼女に触れている。彼女に触れているという感覚だけが、宇宙のように深い闇の中で道しるべのペンダントみたいに輝いていた。
なにも生み出さない行為が夜の背中を押す。その甲斐あって、気がついたら朝になっていた。わたし達は隣り合って横になり、どこを見るともなく停滞した朝の時間を費やしていた。
「探しものは見つかった?」
視線も交わさずにナズさん。わたしはなにも言えなかった。
「傷ついちゃったな」
「なにも傷つけない行為に、どんな意味があるっていうんです」
「少なくとも、君よりも身長はあると思ってるよ」
「……」
「はあ」ナズさんが起き上がると、世界中も目を覚ましたような気がした。「なにか食べるかい」
わたしはタバコに火をつけ、なんでもいい、と答えた。返事はなかった。
ちくしょう、ガキはわたしだけだ。
軽い朝食を済ませたあと、わたしはナズさんの淹れた出涸らしのお茶を飲んでいた。
「訊いてもいいのか?」
わたしはお茶に逃げる。わかりやすく返事をしたつもりだ。ナズさんは肩をすくめた。
「昨日、わたし以外のだれかと寝てきたな」
「……」
「おい!溢れてるよ、お茶が!」
探しものの達人っていうのは、物質に限った話ではないのか?
「ナズさん、わたし、堀川雷鼓と寝たんです」
「なるほどね」それだけですべてをわかった気になっている。「それで、満足はできたのかい」
「身体の話をしてるんですか?」
「おいおい」だれに話をしてるんだというふうに首を振る。「自分が何者かを考えたことがあるかい?わたし達はなんだ、人間か?」
ナズさんの言わんとすることがなんとなく理解できる。
「こっちだ」ナズさんは胸に拳を置いた。「つまり、精神的な満足は得られたのかい……って、聞くまでもないね。満足してないから、君は堀川雷鼓で得られなかったものをわたしで得ようとした」そこまで言うと、ナズさんはお茶を啜った。「違うかい」
なにも言うべきことがないから、目先で続きを促した。
「わたし達は妖怪だ。肉体的な満足なんか、畢竟、必要ない。身体を重ねるのだって、そういう意図以外にないだろう」
「肉体なんか幻想でしかないと思ってます」
「でも、君は堀川雷鼓やわたしに幻想を見ていた」
項垂れるほかない。仮にナズさんの言うことが間違っていたとしても、頷いてしまっていたと思う。
「彼女が恋しいんだな」
逃げ場はどこにもない。だけど、認めたからといって前に進めるとも思えなかった。
明けない夜はない。やまない雨もない。こんなのはありふれた失恋劇でしかなく、時間が経てばいずれ塞がり、記憶にも残らない傷でしかない。だけど、カサブタのことを放っておける人なんかこの世にいるだろうか。血を見ることになるのがわかっているのに剥がさずにいられないのは、わたしが子供だからなのか?
タバコに火をつけ、吸う。寿命が尽きて灰になるまでの間、わたしは自分を束ねようとする。血に飢えた愛は、凶暴な牙を隠そうともせずに、煙を引き裂いてナズさんに襲いかかった。
「みすちーとやり直したい」
やまない雨、レベルのありきたりな言葉だった。
「それをわたしに言ってどうする?」ニヒルに笑いながら、ナズさんはため息をついた。「ま、くだらない話ならいくらでも聞いてやるがね」
「どうしてそんなによくしてくれるんですか?昨日だって、ひどいことしたのに……」
「だれかに尽くすのが本望の妖怪がいたっていいだろ?」本心から出た疑問に、ナズさんはほとんど即答した。「ま、なにかあったら聞かせてくれよ。悪い報せでもいいからね」
※
「……ただいま」
みすちーの部屋には、みすちーしかいなかった。リグル・ナイトバグどころか、虫一匹の気配すらない。まるで決闘場のような雰囲気に押し潰されそうになる。
みすちーは部屋の片隅でノートと向き合っていた。わたしの知らないノート。リグルと交換日記でも付け合ってるのかもしれない。
「なにしに来たの」淡い期待をふっ飛ばすような言葉だった。「もう来ないでって言ったでしょ」
「リグルちゃんは?」
「あんたには関係ないでしょ」
「……」
わたしはナズさんから渡された袋を差し出す。
「なにそれ」
「つまらないものだけど……」わたしは袋の中身を床の上にぶち撒けた。「外の世界の瓶の蓋。王冠って言うんだって」
「……」
みすちーはまたぞろ自分の世界に引きこもってしまった。ナズさんめ!なにが『これを渡せば絶対に喜ぶ』だ。
王冠を蹴散らして、わたしはみすちーの隣に座った。
「こっちに来ないで」
「なに見てるの?」
「響子ちゃんには関係ないでしょ」
「わたし達、もう終わりなの?」
「そう言わなかったっけ?」
「だって、理由もなにも聞いてないもん」
「聞けば納得するの。じゃあ教えてあげる。あんたがウザくなった。それだけ」
「みすちー」
「なによ。なんなのよ、このしみったれたジャンキー」
「それ、なに見てるの?」
「……」
みすちーがノートを閉じ、立ち上がった。わたしに蹴散らされた王冠を念入りに蹴散らし、台所に入り、すぐに戻ってくる。彼女の手にはライターが握られていて、そのまま玄関から外に出てしまった。
しばし逡巡してから後を追った。みすちーの足下に小さな火が灯っている。さっきのノートが燃えていた。
「これはね、わたしの考えた詩をしたためたノート」みすちーの表情があのときと同じだった。炎と対照的な、冷たい顔。「響子ちゃんもこうやってわたしを裏切ったんだ」
「裏切ったわけじゃないよ」
「あれが裏切りじゃないってんなら、ユダだって正直者扱いされるよ」
「二人で前に進みたかったんだ」
「よかったね、前には進めたよ。お互いに別々の道だけど」
「みすちー……」
「なによ」
「みすちーは裏切り者じゃないけど、嘘つきだ」
びゅうびゅう吹く風が炎の勢いに拍車をかけ、ノートを完全に灰にしてしまった。
「みすちー、だったらなんで泣いてるの?」
みすちーが落ち着くまでの間、わたしはずっと彼女の隣にいてあげた。わたしは久々に充実感を得ていた。だれかといっしょにいたかっただけなのかもしれない。自分の心を埋めてくれるだれかと。
忍び込んだ夜気が部屋を満たすころ、みすちーは粘ついた口を開こうとしては失敗した。わたしはいくらでも待つことができた。このまま世界が破滅したって構わなかった。どうせ行き着くところは死だけなのだから。
みすちーから意味のある言葉が紡がれたのは、それから十分ほど経ったあとだった。
「ずっとね、みんなが言ってたんだ」
わたしは言葉を待った。
「響子ちゃんがああなったのは、わたし達のせいだって」
「それって、だれのこと?」
威圧したつもりはないのだが、みすちーは小さく、ごめんなさい、と言った。それがわたしに対する謝罪じゃないと気がついたのは、すぐあとだった。
「お寺の人たち」
いきなり吐き気が込み上げてくる。が、わたしは動けなかった。動くと吐く。けど、どっちにしろ吐きそうだ。喉に異物を突っ込まれたような気分だ。命蓮寺のことをそう認識しているのが心苦しい。
「ちょ、ちょっと待って……」言いたいことを整理する。「なんで命蓮寺が出てくるの……?」
「響子ちゃんに内緒で会ってたんだ」
「そ、そうじゃなくて。命蓮寺は関係ないよ。そもそも『ああなった』って、どういう状態のことを言ってるの?」
「薬とかお酒とかセックス三昧のロックかぶれになっちゃったこと」
「……」
怒るべきなのか悲しむべきなのか、笑うべきなのか迷ったので、黙って続きを聞くことにした。
「響子ちゃん」みすちーの目は真剣そのものだった。「響子ちゃんは、自分が音楽を始めようとしたときのことを覚えてる?」
「そんなの!」
忘れるはずもない。それを忘れるくらいなら、初めから音楽なんかに手を出さない。
言葉が続かなかった。
「響子ちゃん」わたしを抱きすくめるみすちー。「ごめんね」
わたしはみすちーを引き剥がし、尻に火がつくような勢いで後ずさる。どうにかして自分を納得させられそうな理由をでっち上げようとする。食っていくため?世の中を見返すため?
そんな馬鹿な。
「聖さんが言ってたよ」みすちーの声がひどく遠い。「響子ちゃんはね、聖さんみたいにだれかを救いたいって言ってたんだって」
「……」
みすちーの口から、過去のわたしの発言を聞いた瞬間、すべてに納得がいったような気がした。都合のいい解釈かもしれない。だけど、音楽に感動するのも、とどのつまりそういうことだ。みんな自分勝手に生きている。それこそがこの世界の真理で、真理に歯向かうなんてまったく馬鹿げた行いだ。
だというのに、聖さまたちは自分に都合の悪い解釈で己の首を絞めている。わたしにとって都合のいい解釈をしようとすると、あの人たちを苦しめることになる。ああ、そんな単純なことだったのか。わたしはだれかを救いたかった。たったそれだけのことだったのに。
「聖さまの過去を聞いたときに、だれかのために生きるってことは、自分の幸せをだれかにかすめ取られることなんじゃないかって思ったんだ」堰を切ったように言葉が溢れ出す。「聖さまはかすめ取られてきた。自分の幸せを。でも、あの人はだれかを恨んだりしなかった。それが自分のやりたいことの結果だったからだと思う」
「それは、その……」みすちーは言葉を探すように部屋を見回した。この部屋からは完全に抜け落ちてしまった言葉を。「なんていうか……」
「ロックだって思ったんだ」わたしは胸を抑えた。「聖さまの生き方は、ほかのだれかには到底理解のできないものだった。人間も妖怪も救う?ぶっちゃけ馬鹿げてるよ。でも、わたしはそれに救われた。お寺にいまいる人たちもみんな救われたんだ。ねえ、みすちー。だれかを救うって、ほとんど奇跡みたいだと思わない?」
「わたしはそんな奇跡と出会ったんだよ」
「みすちー?」
「響子ちゃんがいっしょにバンドをやろうって言ってくれたとき」みすちーの目に涙が溜まった。「思わず神さまに感謝しちゃったよ」
わたしは最低だ。最低の裏切り野郎だ。自覚なくあらゆるものを裏切った。命蓮寺のことも、みすちーのことも。だけど、わたしがこうなったのは自分たちのせいだと思っている。
「響子ちゃん、聞いて」涙を拭ったみすちーが、わたしの肩を掴んだ。「響子ちゃんがジャンキーになったのはお寺の人たちのせいだって、わたしも思うの」
「……」
「いまの響子ちゃんはね、響子ちゃんであって響子ちゃんじゃない」
わたしは自分に問いかけてみる。おい、そうなのか。おまえは幽谷響子じゃないのか?
「わたし達妖怪は人間の理解できないものへ対する恐怖から生まれた。もしもその妖怪へ対する認知が変わったら?」
「別の存在に変わるってこと?」
「聖さんたちの、ロックに対する理解の足りなさが、響子ちゃんをよくない道に進ませるんじゃないかっていう恐怖を生み出した」
馬鹿げてる、と言えなかった。みすちーはずっと聖さまたちに会っていて、わたしを心配する様子をきっと間近で見てきたのだ。それを馬鹿げてるなんて言ってしまうのは、あの人たちの気持ちを無下にしてしまうということになる。
なにより、わたしの中にも確信があった。もしもわたしが命蓮寺の影響を受けて変わってしまったというのなら、みすちーだって変わってしまったはずだ。薬と酒とセックスのジャンキーに。だって、わたし達は同じバンドのメンバーで、運命共同体なのだから。
驚くほどすんなりとみすちーの話を受け入れてしまう。都合のいい解釈かもしれない。だけど、そう、救われるとはそういうことなのだ。ちゃんと心を開いてれば、わかっていたはずなのに。
そしてまだ、救われるべき魂がいる。
「みすちー」わたしは肩に置かれていた彼女の手を握った。「リグルちゃんに会いに行ってくる」
※
リグル・ナイトバグはいつかのライブハウスのバー・スペースで酒を飲んでいた。その背中の寂しさときたら、まるで夜を背負っているようで。
踊り狂う人たちの中で、わたしとリグルは出会った。そして、少しだけ話をし、ちょっとだけいっしょに仕事をしないでもなかった。彼女との関係はたったそれだけだ。みすちーの屋台には足しげしく通っていたらしいけど、ぜんぜん記憶にない。
みすちーの言葉を思い出す。
響子ちゃんを追い出して、リグルちゃんと暮らそうとしたのは本当だよ。でもね、リグルちゃんといっしょにいる間も、わたしが見ていたのは響子ちゃんの幻影だった。たぶん、リグルちゃんにはそれがわかっちゃったんだ。
わたしは尋ねた。それで、みすちー。リグルちゃんとは寝たの?
痛みの残った左頬を手で抑えながら意を決してリグルの隣のスツールに座る。リグルがちらりとこっちを見たが、わたしはお構いなしにバーテンダーにディタベースのスプモーニを注文し、タバコに火をつけた。
「上等だよ、この野郎」と、いきなり怒気含みのリグルが胸ぐらを掴んでくる。「あのときの続きをやりにきたんだな」
「それでもいい」わたしは抵抗しなかった。「だけど、続きをやるなら徹底的に終わらせようぜ」
わたしはスツールから引っぺがされ、地面に落っこちる。かなり派手な音が鳴ったと思ったが、観衆はステージの上の音楽に夢中だった。
リグルがガラスの灰皿を持って突進してくる。わたしはなんとか立ち上がり、近くにあったスツールを野郎に向けて放り投げた。顔面に直撃したが、リグルの馬力を殺すことはできなかった。
勢いのついた灰皿がテンプルに直撃する。一瞬、視界が暗転するが、すぐに意識を取り戻す。
ラブ・ポンプが完成し、世に出た時点で幽谷響子は終わってしまった。あの渾身の一曲はだれも救わなかった。それだけのことだ。
だけど、こいつは?あのとき、リグルはわたしと間違った道に踏み出した。外来種の虫を売りつけようとしてこっ酷い目に遭い、みすちーからはその肉体を幻想を重ねてとしか見られず。
リグルはいまも間違い続けている。或いは、世界がこいつを間違った存在にしている。本当はわかってるんだろ、わたし達はこんなやつじゃない──
「うおおおお!」リグルの声は歓声に掻き消されてだれにも届かなかった。「死ね、コラ!」
わたしの血で滑ったガラスの灰皿が、リグルの手からすっぽ抜ける。その隙を逃さず、わたしはリグルにタックルをかました。わたし達はもみくちゃになりながら、店の外に転がり出た。月だけがわたし達の決闘の見届け人だった。
「みんなみんな、自分を愛そうとしているだけだ!」リグルに馬乗りになり、やつの顔面に向けてパンチを振り下ろす。「生きるってそういうことだろ!」
眼間に堀川さんの姿が映り、その通りよ、と言って消える。
「なにわけのわかんないこと言ってんだ、このボケ」リグルの膝がわたしの背中に突き刺さった。「いまから死ぬんだよ、おまえは!」
体勢を崩したわたしとリグルは上と下で逆さまになる。リグルが一心不乱に拳を振り下ろしてくる。妖怪の威厳にかけて、わたしを殺そうとする。そうだ。それでいい。リグルがわたしを殺したとき、あのときの続きが終わったとき、きっとまた始まる。
殴られすぎてなにも見えなくなる。夜と見分けのつかない闇の中で、わたしは声を聞く。リグルの怒声に混じっていたその声は、次第に鮮明になってわたしの脳みそまで届いた。闇の世界の住民……夢の中で何度も会ったことのあるやつだ。
──もういいの?
ああ、もういいよ。ここから先はあんたの出番だ。
──ぜんぶ理解したつもりなんだね。
あんたが本物の幽谷響子ってことはわかってるつもりさ。
──まだやりたいことがあるんじゃないの?
これ以上、無様を晒せってのかい。
──聖さまがそんなに愛しい?
あんたは違うのかい。
──わたしには出来ないことを、あなたはやってくれた。
そうかもね。
──でも、あなた自身がやりたいことを、あなたはまだなんにもやってない。
どうしろっていうんだ?
──わかるよね?あなたも幽谷響子なんだから!
意識が現世に戻ってくる。リグルはまだわたしの上に乗っていたが、攻撃をしてくる気配はない。わたしの息の根を完全に止めたと思っているか、休憩でもしていた。
「うわっ⁉︎」
一臂の力でリグルを身体の上からどかす。起き上がる力も声を出す余裕ももはや失くしていたが、そういうものとは別のエネルギーが身体の芯から湧いてくる。
「くそっまだ死んでないのかよ!」
「妖怪ってのは……」上体を捻り、地面に手をつく。リグルを睨みつけながら、わたしは言った。「だれかに忘れ去られない限り、死なないのさ」
リグルの蹴りが飛んでくる。わたしはそれをモロに食らった。神聖な感じのする一撃だった。本気のものにはいつだって神聖なものが宿る。
だからわたしは、いつまでもリグルに殴られることができた。
いつまでも、いつまでも。
「もういいよ」
殴られすぎて気持ちよくなってきたころに、リグルが言った。ボヤけた視界に映るリグルは、憑き物の取れたような顔になっていた。
「もういいの?」切れた口の中が痛む。
「ああ」血だらけの手を払いながら、「おまえなんか殺しても、なんにも面白くないや」
わたしはリグルに手を伸ばした。リグルはその手を掴み、立ち上がるための助けをくれた。
わたしは心の中に語りかけた。リグルは救われたかな。少なくとも、マイナスの状態ではなくなったかな?わたしの中の幽谷響子はなんにも答えてくれない。
そうか。わたしも幽谷響子だからね。自分で決めることにするよ。
「リグルちゃん」彼女の手を握る手に力が籠もる。「ごめんね、あのときは」
「おまえなんかを雇ったわたしが馬鹿だったのさ」
「……」
「じゃあね」
背を向けて歩き出すリグルを、わたしは呼び止めた。
「みすちーが謝ってたよ」
振り返ったリグルの笑顔には、どこか懐かしい面影が張り付いていた。
「わたしとあの子は、客と女将ってだけさ。いまも、むかしもね」
それから手を振り、また歩き出した。
だれもが自分の愛し方に疑問を抱いている。それはもう、取り返しのつかないレベルで。
わたしはライブハウスのドアを開けた。狂気的な熱に浮かされた空気が外に漏れ出す。心臓に響く重低音と、世界を滅ぼしかねない歓声に気圧されながらも、わたしは中に入った。散乱した灰皿やスツールはそのままの状態だった。
死にゆく心に鞭を打って、わたしは群衆の中に分け入った。だれもわたしなんかに気を留めない。わたしがいることに気がついてすらないみたいだ。わたしとこいつら、そしてステージの上の連中とでは、見えてる世界が違うのだろう。
わたしも記憶に残そう。これから見る世界を。そして、託すのだ。本来のわたしに。それがわたしのやりたいこと。その世界はきっと色褪せていて、殺しの風が吹いていて、だれにも共感の得られないものかもしれない。けど、わたしっていうのはそういうやつなのだ。矛盾に満ち、死の気配で溢れ、夜を崇拝する。
これもひとつの音楽家の形として、悪くないだろう?
自然と笑みが溢れてくる。あいつが笑ったのだ。わたし達はとうとうひとつになる。
わたしはステージに立った。一瞬のどよめきが、悲鳴や息を呑む音に変わった。殴られまくってほとんど変形しているわたしの顔を見て、ステージ上にいたやつらが後ずさる。
中央に立ち、ステージ下を見下ろす。どいつもこいつも、魂の抜け落ちたような面をしていた。与えられていたおもちゃを取り上げられた子供のような、そんなあどけない顔を。
その中に、知ってる顔もあった。みすちー。堀川雷鼓。聖さま。水蜜さん。マミゾウ さん、星さん、ナズさん。そして、一輪さん。
いま、帰ります。声に出さずに言った。次の瞬間、見知った顔はみんなどこかに消えていた。
ギターを拾い、構える。
わたしの物語が終わり、わたしが物語を始める。
「幽谷響子!」魂の名を叫ぶ。「『ラブ・ポンプ』!」
『もうロックしか聞こえない』
響子ちゃんがだれかを救いたかったように、わたしはすべてを愛したかった。響子ちゃんのすべてを。
初めて響子ちゃんからバンドの話を持ちかけられたとき、わたしは彼女に言いたかった。あなたの目的はもう達成しちゃったね。だって、わたしのことを救ってくれたんだから!
わたし達は曲を作ったり練習したり、幸せな日々だった。展望はないけど、向こう側からやってくる未来のことをちゃんと感じていた。屋台も手伝ってくれた。究極のところ、わたしには音楽がなくってもよかった。響子ちゃんといっしょになにか出来るなら、バンドだろうが習字だろうがセックスだろうが関係なかった。
だけど、多くの場合にそうであるように、幸せな生活は長く続かなかった。いつまで経っても鳴かず飛ばずのバンドに、響子ちゃんは焦っていた。なにが悪いのか、どうして人の心に届かないのか、ずっと悩んでいた。聖さまと同じように、ロックというものを持て余していた。
ある日、わたしは響子ちゃんに尋ねた。
「どうしてロックを始めたいと思ったの?」
「どうしてって、わたしは聖さまみたいに……」
「そうじゃなくて、なんでロックなのかなって。ほかの方法はなかったの?」
「……わかんない。でも、聖さまの生き様を知ったときに、心の中になにかが芽生えたんだ。泥臭くて、醜くて、だれにも理解されなくて……そういう感情がなんなのか人に訊いたりしているうちに、ロックンロールを知ったの」
いまにして思えば、『もうひとりの響子ちゃん』が彼女の中で産声をあげたのは、そのときが最初だったのかもしれない。
バンドはずっと売れなかった。このまま永遠に売れないんじゃないかっていう不安が焦っているわたし達の背中を押した。そのうち売れることばかり考え出して、ライブでの過激なパフォーマンスなんて小手先をやりだした。わたしがライブ中に亀の首を食いちぎったのが決定的だった。響子ちゃんはお寺を破門にされて、不安を掻き消すための薬、酒なんかに手を出した。
響子ちゃんをセックスに誘ったのは、わたしの方だった。不安だったのだ。響子ちゃんがバンドの夢を諦めてしまうのが。彼女を繋ぎ止めようとして、わたしは響子ちゃんに身体を重ねた。響子ちゃんは戸惑っていたけど、手のつけられないほどのものではなかった。
そのときから響子ちゃんは変わってしまった。堕落へと垂直に落ちてく響子ちゃんを、わたしはどうすることも出来ずに見ていた。だけどそれは、響子ちゃんが弱くなったということじゃない。本当に別の存在に変わってしまったのだ。響子ちゃんの名誉のために、わたしはそう思いたい。
そして、変わったといえばわたしも変わってしまった。バンドはほとんど諦めていた。響子ちゃんが垂直に堕ちていくのに対し、わたしはフラフラとどっち付かずな存在になっていた。響子ちゃんといっしょにいたいという気持ちと、彼女を無理にでもお寺に戻したいという気持ち。その狭間でわたしは苦しんで、逃げ出すこともあった。
けっきょく、だらだらと続いてしまったのだけれど。
お寺に戻すべきだ、と言うわたしに聖さんは「響子が決めたことだから」と言って聞かなかった。響子ちゃんの意思を尊重してそんなことを言ったのだろう。信じられない、とわたしは思った。響子ちゃんのことを想うなら、絶対にお寺に戻した方がいいはずなのに。破門したからとかそんなのは関係ない。おまえ達のせいで響子ちゃんはおかしくなっちゃったんだ!
だけど、その言葉を聞いたとき、わたしは安心感も覚えていた。響子ちゃんがお寺に戻らずに済む──言質を取ったつもりでいた。ずっとこのまま、永遠にだらだらと続いていく。永遠なんて悲しみの友達みたいなもの。長く付き合ってたらダメになってしまう。
響子ちゃんがギターや詞を焼き尽くしたときは、どうしたらいいかわからなくなってしまった。響子ちゃんはあのとき、たぶんだけど、元の響子ちゃんが表に出ようとしていたんじゃないかと思う。それは、わたし達の生活の終わりを意味していた。
嫌だったけど、それが響子ちゃんのためでもあった。彼女を追い出し、いなくなった枠にリグルちゃんを嵌めようとした。最低だというのはわかってる。でも、だれかといっしょに居たいっていう気持ちに嘘をつくことは出来なかった。孤独とは友達になりたくなかった。
でも「だれか」じゃダメだった。響子ちゃんじゃないと、わたしには耐えられなかった。リグルちゃんといて気がついてしまった。わたしはひとりしのことしか愛せないのだと。響子ちゃんをダメにしたのはお寺の人たちだなんて、そんなの言い訳でしかない。響子ちゃんをダメにしていたのはわたし。わたしといたら、響子ちゃんは取り返しがつかなくなってしまう。
だから、ライブハウスのステージで倒れた響子ちゃんを、わたしはお寺に送り届けたのだった。
※
「……ふーん」
わたしの話をお終いまで聞くと、ナズーリンさんはすっかり温くなったお茶を啜った。わたしの前にも手付かずの、酷く裏切られた様子の茶飲みがあった。
なにもかもを裏切ってしまったような気分だった。響子ちゃんのことも、リグルちゃんのことも、目を覚ましたと教えに来てくれたナズーリンさんのことさえも。
「じゃあ、響子ちゃんに会う気はないってこと?」
頷く。「わたしに響子ちゃんと会う資格なんかないです」
逃げ道のない沈黙が部屋を満たす。ああ、どうしてそんなことを言ってしまったの?ミスティア・ローレライ!
会う資格なんかない。それは浅ましい真実でしかない。たしかにわたしは響子ちゃんを酷い目に遭わせた。でも、だれかと会うのに資格が必要だなんて、そんな決まりは聞いたことがない。わたしが勝手に決めただけ。本当は会いたくて会いたくて仕方がないくせに。
でも、それは身勝手な理由。わたしが救われるためだけの、お寺の人たちにとっては不都合な理由。お寺の人たちはわたしと響子ちゃんを会わせたくないかもしれないし、響子ちゃんだってわたしと会いたくないかもしれない。
いい加減にしろ、ミスティア・ローレライ。内なる自分が責め立てる。ナズーリンさんがわざわざ来てくれたってことは、つまりそういうことでしょ?お寺の人たちはあんたと響子ちゃんを会わせることになんとも思ってない。だったら自分に正直になればいいのに。
「くだらないことで悩んでるだろ」
ナズーリンさんの言葉に、思わず脊髄で反論したくなってしまう。なに?そのなにもかもを見透してるようなニヤケ面は。あんたになにがわかるっていうの?
「あなたになにがわかるって言うんですか」脊髄の赴くままに言った。
ナズーリンさんは、やれやれ、と言った感じに首を振り、世の中にはもっとどうしようにもならないことがたくさんあるんだぞ、とばかりにため息を吐いた。
「ガキだな、君も」
「なにィ⁉︎」
「響子ちゃんが納得してるとでも思ってるのか?」その言葉の意味を計っている間にナズーリンさんは続けた。「たしかにあの子が狂ったのは周りのせいかもしれない。でも、本人がそれで納得出来るわけないだろう。いろんな人に迷惑をかけたわけだからな、あの優しい子が……いまも苦しんでるんだよ」
「……」
「あの子は優しいから、周りが自分を責めてたりすると、慰めずにはいられない。本当は自分のせいだと言いたいのにな。響子ちゃんの気持ちを汲んでやれ。いまのあの子に必要なのは傷を治してくれる薬なんかじゃなくて、傷を舐め合える後ろめたい同胞さ」
わたしは黙っていた。決してナズーリンさんのことを無視していたわけではないのだけれど、彼女はそれを無礼な態度だと受け取ったらしくて。
「なんでわからないんだ」口調が冬の風みたいに鋭利になって。「君たちはそうやって生きてきたんじゃないのか?」
わからない。わからないわからないわからない。わたしはどうしたいの?響子ちゃんはどうしたいの?なぜ、いっしょに暮らしていたわけでもないナズーリンさんが響子ちゃんのことをこんなに理解しているの?
「わたしは……」連動しているみたいに言葉と涙が溢れてくる。「だって、その、わたしは……」
ナズーリンさんはちゃぶ台の上に頬杖をつきながらも、おざなりな感じは一切しなかった。
「だって……だって……」
「もういいよ」
「でも!」
「はやく会いに行きなよ」
「うわああああ!」
わたしは立ち上がり、取るものも取らずに外に出た。
ちくしょう、ナズーリンさんはなんでロックをやらないんだ?わたし達なんかよりよっぽど売れるだろうに。
やらせるもんか。響子ちゃんと長いこといっしょに暮らしていたという点では、お寺の人たちに負けていないんだから!
※
お寺の近くまで来て、この期に及んでわたしは立ち竦んでいた。というのも、響子ちゃんを見つけたのだ。彼女はいま、門の前でお経を唱えながら慣れたふうに箒でゴミを掃いている。
それがあまりにも当たり前すぎて、狼狽えることしか出来ない。わたしは夢でも見ていたの?あの子が薬やお酒やセックスに狂っていたなんて、どうしても認められない。
正味なところ、もう帰ろうかと思った。それが出来なかったのは、響子ちゃんの方がわたしに気づいてしまったからだ。
「みっちゃん!」
「……」
懐かしい響きが、まるで薔薇の棘みたいに心に突き刺さる。美しい薔薇。だけど、それがいまのわたしにはあまりにも痛くて。
「みっちゃん、みっちゃん!」
駆け寄ってくる響子ちゃん。避けようにも制止しようにも、純粋すぎる笑顔がわたしを金縛りにする。
成す術もなく抱きつかれる。響子ちゃんとは抱いたり抱かれたりする仲だったけど、こんなにも満たされるハグは初めてのことだった。まるで卵を温める親鳥のように温かく、優しく、決然とした感じで。
またしても涙が出てくる。
「会いたかったよう!」胸に顔を埋める響子ちゃん。そこに邪な意思はなくて。「ああ、みっちゃん……ミスティア!」
彼女を抱き留める以外に、なにが出来る?わたし達はしばしの間、二人だけの時間を享受した。神様がくれた時間。世界が認めてくれた時間。わたし達の時計の針は、悲しい時間を差したまま止まっていた。
響子ちゃんの温もりを確かめていた。ふと顔を上げると、聖さんと一輪さんがわたし達を見ていた。まるでどうにもならない運命に平伏しているみたいに。
やってられないよね、響子ちゃん。けっきょく、わたし達の思い通りになることなんかひとつもないんだ。だって、わたし達はだれかの想いから生まれて、だれかの想いによって死んでいく。肉体は幻想でしかなくて、心でさえ自分で培ったものとは言い切れない。
でも、それ以上にどんな意味が必要だっていうの?ミスティア・ローレライと幽谷響子。この二つがたしかに存在している。わたし達の世界にそれ以上のものは必要ないよね?
わたし達は永遠に抱き合っていられた。永遠っていうのは悲しみの友達みたいなもの。それでも、いまなら受け入れられるような気がする。
わたしと響子ちゃんは門前に座り込み、それぞれの時間を過ごした。言葉は必要じゃなかった。というより、必要な言葉が思いつかなかった。さっきの抱擁以上に必要な言葉が。
そうして無言の時間が過ぎていく。けど、それは決して無駄なものではなくて。凍りついた約束が溶解していくのを確かめるような幸せな時間。
「みっちゃん?」せっかちなのはいつも響子ちゃん。「わたしね、あのね……」
まるで何年かぶりに喋るかのようなたどたどしさに、彼女に対する愛おしさが漸増する。
「あのね、無駄じゃなかったと思ってる」
「それって?」
「わたしがいまのわたしじゃなかったときのこと」
「……」
「ごめんね。でも、そう思いたいんだ。あれもわたしだったから」
「うん」釈然としないまま、わたしは頷いた。「そうだね」
「わたしね、まだロックをやりたい」
諦めに似た感情が胸に込み上げてくる。
「なんていうか……だれかのためでもありたいけど、わたしのためにもそうしたい」
「わかるよ」今度は納得出来る。「響子ちゃんの言う『わたし』って、あの子のことでしょ?」
「そんなふうに言わないで。あれもわたしなんだから」
「そうだね」走馬灯のように『あの子』と過ごした日々が蘇ってくる。「ごめん」
夢を見るの、響子ちゃんは訥々と語り出した。遠くには山があって、夜空にはすっかり肥えてしまった月。虫たちが先人たちの作った轍の上を歩いていて、まるで地獄絵図。でも、すべてが揺るぎなくて。
「蠍と蛙がいたんだ」響子ちゃんはまさにこの部分が重要なんだとばかりに抑揚をつける。「蠍がね、川を渡るために蛙の背中に乗せてもらうんだけど、蠍は蛙の背中を刺しちゃうんだ。で、二匹とも川に沈んじゃうの。でもね、蠍にとってはそうするのが普通だから」
「うん」
「それって不幸なことだと思う?」
わたしはしばし考えるふりをしてから、首を振った。「ううん、思わない」
「だよね」響子ちゃんが笑う。「それって自分に正直だってことだもんね」
わたしも笑い返す。こんなにも単純で、幸せな時間は初めて体験したかもしれない。
「わたしもね『みすちー』と過ごした時間を受け入れるんだ。正直にね。自分を愛さなきゃ、だれも愛することは出来ない」
「それがロックを続ける理由?」
「うん」屈託のない笑みで響子ちゃんは言った。「わたしはだれかを救いたい。一人目がわたし自身」
響子ちゃんの姿が、以前までの響子ちゃんとオーバーラップする。あなたは幸せ者ね。そんなにも響子ちゃんから愛されて。それでいて、とても不幸な人。だって、たくさんの人から愛されているから。
「いまに見てろよ、プリズムリバー!」響子ちゃんが拳を掲げる。「おまえら以上に多くの人を救ってやるんだから!」
「見てろよ、プリズムリバー!」わたしも拳を掲げる。「おまえら以上に、世界を愛してやる!」
物語がまた始まる。
1
クソを洗い流す便器の音さえどこかやる気のない憂鬱な月曜日の朝。わたしの頭の中では、いまだにプリズムリバーWithHの獰猛なジャズが震えていた。彼女らが生み出した新機軸に、みんな震えて、みんな踊っていた。そこかしこに腰をまさぐりあってる番いがいたし、舌までもつれ込むキスをしているやつらがいた。
そんな光景が、二日酔いだけが原因じゃない警鐘を頭の中でガンガン鳴らす。おぞましい吐き気が、過去の失敗や後悔、未来への不安や実らない期待と共にこみ上げてくる。一日は始まったばかりだというのに、心身ともに散々な調子だ。
だけど、ルーティンはこなす。汗でびっしょりの服を脱ぎ捨てると、冷たい空気が地肌を滑ってく感覚が心地よかった。ここからは幾万通りの行動に派生できる。迎え酒をやる。タバコを呑む。もう一度トイレへ行く。二度寝する。なにをやるにしたって上手くいくとは思えないが、なにかをやらなきゃその先にだっていけやしない。行動力こそが人生を切り開く鍵だ。
やれることはぜんぶやってみることにした。冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出し、タバコに火をつけ、どちらも半分ほど終わらせると、新しい可能性ににわかに火がつく。外に出て人を手当たり次第にぶっ殺すってのはどうだ?
そんな体力なんかどこにもなかった。結局、ビールを最後の一滴まで飲み干し、タバコをおしまいまで吸い、裸のままでできることを考える。裸のままでできることなんか限られている。他人に裸を見せつけることに興味のないわたしは、ひとっ風呂浴びることにした。
肌を焼くような熱いシャワーに体をくぐらす。浴室に募る煙が、まるで積乱雲の中にでもいるような錯覚に陥らせる。眠っていた細胞がドミノ倒しのように覚醒していく。自分とそれ以外に隔たれていた世界に、わたしが浸透してゆくような気分。温めに設定したシャワーのお湯が、わたしを有象無象にしてゆく。
幾分か気分がよくなったが、風呂の中でいっぺんにやっておくべきだった歯磨きをし忘れたことに気がついて、また落ち込む。そんなことの積み重ねで、貴重な一日が少しずつ最悪になってゆく。だけど、今日に限って言うならば、わたしの一日を最悪なものにしているのは、そんな些細な出来事じゃない。もっと言えば、ずっと前から最悪だった。一週間くらい前から。
新しいタバコに火をつけ、空っぽの部屋を見回す。命の気配をまるで感じない。かつてこの部屋は、わたしとみすちーの生命力で溢れていた。わたしとみすちーの音楽で張り裂けそうだった。いまじゃ、わたし達の思い出の上にすっかり埃がかぶっている。
自嘲、後悔、破滅、阻喪、あらゆる情操を煙とともに吐き出す。ヤバいことになってしまった。
一週間前、みすちーが家出してしまった。
行動力こそが人生を切り開くのだという信条はいまも変わりないけど、自分の方向感覚に関して言ったらかなり自信がない。むかしからがむしゃらに、しゃにむに走ってきたけど、それでどこかに辿り着けるほど世界は単純でも愚かでもなかった。
命蓮寺を破門されたのも、なにも考えずに突っ走った結果に過ぎない。破門されてからはみすちーと音楽をやったり、みすちーの屋台の仕事を手伝ったり、みすちーと夜に溶け込んだりしていた。
甘かったというほかない。わたしの人生設計はマリファナの煙よりも甘かった。完全に失敗だった、クスリに手を出したのは。ことの詳細は省くけど、とにかく酒とクスリ漬けの生活が続いた。思い通りにならない人生に嫌気が差していた。
そんなわたしを見兼ねて、みすちーは言った。
「響子ちゃん。こんな状態がずっと続くなら、わたしにも考えがあるよ」
別れをほのめかすこの発言に、わたしは頭を下げまくった。みすちーと離れ離れになってしまうのは、愛を失う以上の影響力があった。とどのつまり、わたしには貯金もなにもなかったのだ。
わたしは飲む。ディタをベースにしたスプモーニ。プリズムリバーのサプライズ演奏の熱がまだ残っているみたいで、もしかしたら今日も、みたいな期待が店中に渦巻いていた。
わたしは酒を飲む。なにがディタだ。なにがスプモーニだ、気取りやがって。こんなものを飲んでたってだれもわたしを見つけてくれやしないし、だれもわたしの言葉には耳を傾けちゃくれないんだ。
それでも飲まなきゃやってられない。この世に存在してもしなくてもいい音楽がステージからここまで漂ってくる。バーテンダーは曖昧に首を振り、グラスをキュッキュッと磨き上げている。ステージ下の男や女はそのときを待ちわびている。まるでプリズムリバーの音楽が流れていないときはセックスしちゃいけないという決まりでもあるみたいに。
味がわからなくなるくらい酔っ払った頃合いに、隣にだれかが座った。顔をそっちに向けたけど、酔眼朦朧としていて、結局だれかはわからなかった。
「みすちー⁉︎」一か八かに賭けてみた。「もしかして、みすちーじゃない⁉︎」
「違うよ」
モザイク顔が首を振ったような気がした。目を擦って視界を判然とさせると、たしかにそいつはみすちーじゃなかった。
「なんだ、みすちーじゃないのか」わたしはがっかりしてハイネケンをあおった。「みすちーじゃないやつが、なんか用?」
「カンパリソーダ」みすちーじゃないやつが指を鳴らしてバーテンダーに注文する。「ね、あんた、もしかしたら幽谷響子じゃない?」
動揺を押し隠すために、わたしはタバコに火をつけた。
「へえ、わたしのことを知ってる人がこの世にいたなんて、鳥獣伎楽も有名になったもんだ」
「鳥獣伎楽?なにそれ」
「……」
「わたしのこと、覚えてないかな。リグルだよ、リグル。ミスティアの屋台に通ってたんだけど」
わたしはタバコをとっくりと吸い、隣の顔をじっと見つめた。見れば見るほど、自分の中の記憶と齟齬が生じるみたいだった。こんな顔の知り合いはわたしにはいなかったはずだ。
「悪いけど、覚えてないや」
「ふうん。ずっと裏方にいたもんね。ミスティアは元気?」
「屋台、出してないの?」
「最近は見かけないけど……」リグルはカンパリソーダを舐め、タバコを咥えた。「なに、喧嘩でもしちゃった感じ?」
「そんなとこ」
「ふうん」
わたし達は無言で酒を飲んだ。あれほど自分の隣にだれもいない夜を呪ったのに、いざ隣にだれかがいると、無性にムカついてくるのだった。
ガラスの灰皿に手が伸びかけたとき、リグルが口をきいた。
「ねえ、いま、仕事ってどうしてるの?」
わたしは灰皿を置き、その上に吸い差しを置いた。
「お金、ないんじゃない?」
返事代わりにハイネを喉に流した。泡が妙に粘っこかった。
「いい仕事があるの」
その言葉を待っていたんだ、という気分を悟られないように、わたしはタバコをスパスパ吸う。
リグルの話はこうだ。
リグルは虫をたくさん飼っていて、幻想郷じゃ見られないようなのもいるらしい。それらは外の世界では「特定外来生物」と呼ばれ、やたらデカかったり毒を持っていたりと危険なものばかりのようだ。
「おっと、どこで仕入れたのかは訊かないでよ。企業秘密だからさ」リグルはカンパリソーダで喉を潤し、話を続けた。「そいつらを顧客に届けてもらう。あんたには運び屋をやってもらう」
「顧客?」
「中にはいるのさ。虫を愛したり、虫を使って愛したりするやつらがね」
リグルがヘドを吐く真似をした。
「ヤバい仕事なんじゃないの?」
「でなきゃ、あんたなんか必要ないだろ?」
「たしかに」
わたしはタバコを吸い、考えるフリをした。実際は考えるまでもない。第一に、みすちーが帰ってくるまで金の入るアテもない。第二に、虫を客に届けるだけで金を貰えるなんてボロい商売、断る理由がない。第三に、なにかをやっていないと、頭の中から「自殺」の二文字を追い出せない。
グラスをテーブルにタンッと置き、一大決心をしたためたように、やるよ、と言った。リグルはにやりと笑い、バーテンダーにタバコとバドワイザーを注文した。わたしはラッキー・ストライク。リグルはクールとかいういけすかない銘柄。
グラスを合わせ、わたしは薄いビールをごくごく飲んだ。とりあえずの見通しは立ったというのに、どこまでも深い沼に沈んでくような悲しみや焦燥が胸を焼く。そんなときに浮かぶのは、いつだって救いのないメロディや詩。わたしはタバコでそいつらを焼き払い、ビールで鎮火した。
と、ステージの方で歓声があがった。まさかまさかの二夜連続のプリズムリバーの出演に、だれもが沸き立っていた。服を脱ぐやつら、腰をアメリカン・クラッカーみたいに打ち付け合う男女、酒が足りないとバーにこぞってやってくる連中。人を見た目で判断するのは馬鹿のやることだけど、こいつらに関して言えば、みんな見た目で判断してもらいたがっているような感じ。
やがて獰猛なジャズが聴こえてくると、さっきまで抜き差しならない光を瞳にたたえていたリグルも有象無象に混じって嬌声をあげ、ステージの方に走った。一人取り残されたわたしは、リグルがテーブルに置き忘れたクールをポケットにしまい、ビールを飲み干し、店を出た。
虫なんか飼ってる野郎は、どいつもこいつもファシストだ。
3
ありふれた自己嫌悪に脳みそを蹴っ飛ばされて目を覚ます。酷い悪夢を見た。プリズムリバーのライブをみすちーと一緒に観に行ってるような、幸せな夢。悲しい願望。ありとあらゆる優しいもの達が「帰ってこい」と朗らかな笑顔でわたしを迎えてくれる夢。
雑念を捨てるためにタバコに火をつける。ラッキー・ストライク。炭鉱夫が一発掘り当てたときの喝采が名前の由来だという。こんなものを吸ってたってなんの証明にもならないけど、気がついたらこいつに銭を吸われない日はなくなっていた。
救いはそこら中に転がっている。「神」と言い換えてもいい。幻想郷は宗教の温床だ。神は貧乏人に牙を向く。神に人間を救えるなら、車にだって酒にだって音楽にだって救える。それらを買えない金のないやつが神を信仰する。
わたしにとっての神。それは酒であり、タバコであり、クスリであり、音楽であり、みすちーだった。神は貧乏人に牙を剥く。わたしは、少なくともいまは貧乏人じゃない。
なんとなくかけたラジオが、音楽を垂れ流す。プリズムリバーの新曲だった。
玄関の戸がノックされる。わたしが許可を下ろす前に、ギシギシと音を立てて開く。
「やあ、迎えに来たよ」既に出来上がってるらしいリグルが、まるで自分の家にあがるような感覚で踏み込んでくる。「仕事の時間だ」
タバコを地面で揉み消し、ラジオも消した。新しい神が、牙を剥いてわたしを待っている。
リグルの家はみすちーの家からそれほど遠くない場所にあった。なにせ、虫を大量に飼ってるやつの家だ。どんな魔窟かと身構えいたけど、思っていたのとはだいぶ様子が違った。だからと言って落ち着くわけでもない。そこら中に馬鹿でかいムカデやらサソリやら、絶対に自然に誕生したとは認められないような色彩を纏ったカエルやらが入れられた透明なケースが置かれている。蛇もいた。頭の先が二つに割れた、飼い主に似てずる賢い感じのする蛇。
ちょっと出てくる、と言ってリグルが部屋の外に出て行くと、無人島に一人で取り残されたみたいに心細くなった。阿呆になったような気分でぐるぐるとケースを見回す。蛇にもカエルにも、価値があるようには見えない。こんなものを可愛がるやつらは、いったいどんな境遇で育てられてそうなったんだろう?親から虫扱いされたのか?
冷蔵庫から勝手にビールを取り出し、虫どもを肴に飲む。命を狙われているような感覚。こいつらはケースに閉じ込められて尚、自分に世界を変えられる力があると思い込んでいる。そんな風に見えた。だからかもしれないが、ケースの端っこで大人しくしてるカエルのことを、わたしはいちばん気に入った。
空き缶が二つになり、タバコを三本吸ったところでリグルが戻ってきた。
「おまたせ。早速、仕事をやってもらうよ」
「どこ行ってたの?」
「クライアントとちょっと行き違いがあってね」
「大丈夫なの?」
リグルは、そんなことは神さまにでも訊いてくれ、とばかりに肩をすくめた。わたしは自分を束ねるために、タバコを咥えた。リグルが火をつけてくれた。儀式めいた所作だった。実際、虫どもに囲まれて吸うタバコの味は、どこか神秘的なものを感じさせた。まあ、どうでもいいんだけど。
「金は?」
わたしが訊くと、リグルは指をパチンと鳴らした。どこからともなく真っ黒い煙が部屋に侵入してくる。思わず身構えてしまったが、黒い煙の正体は虫だった。虫はわたしの足下に近づき、わらわらとその場に留まった。嵌められたのかと思ったが、そうではないみたいだ。虫がはけてくと、そこから封筒が現れたのだった。
「前金で半分」わたしは封筒を拾い、中身をあらためた。「仕事が終わったらもう半分だ。いいね?」
断る理由もないので頷く。
わたしとリグルは虫の入ったショーケースを表に停めてあるリヤカーまで運び、その上に大きな布を被せた。
「これ、届け先の住所ね」
渡された紙を一瞥し、折り畳んでポケットにしまう。
「いいか、絶対に人に見られないでよ。幻想郷に外来種を持ち込んだのがバレたら、面倒なことになるんだから」
「なんで?」
「なんでって、そりゃ……」
「なんで危険を冒してまで、こんなビジネスをやるの?」
リグルが面食らったように目を見開いた。こんなことを言うやつは初めてだ、という感じに。
「河豚は食いたし命は惜しし、じゃあ、幻想郷ではやっていけないだろ?」
「幻想郷に河豚はいないけどね」
毒蛇みたいに狡猾な笑みを浮かべながら、リグルはわたしの背を叩いた。
かわいそうな虫達を送り届けるため、わたしはリヤカーを引いて歩き出した。
奴隷のように車を引き回しながら、森の中を往く。リグルの家からかなり歩いたような気がするけど、いまだに出口が見えてこない。虫どもは大した重さじゃないけど、酒やタバコで体力が落ちているのか、車を引き始めてから五分たらずで息があがってしまった。あまりの情けなさに涙が出てくる。まだ春も来てないというのに、汗をかきまくった。
限界は唐突にやってくる。酒を飲んだ次の日の朝。みすちーが屋台を出す一時間前。タバコを吸って物思いにふけっているとき。トイレが詰まったとき。いつまでも出口が見えない森の中を歩いているとき。そんなとき、わたしはなにもかもを投げ出してしまいたくなる。あるいは、すべてを取り戻そうと躍起になる。悲しいのは、そのどちらも叶わないということ。要は、地の底まで落ち込んだと思っていても、まだまだ先があるということだ。
そのことをよく知っているから、わたしはリヤカーを引くことができる。人生はいつだって崖っぷちで、最後の一押しを待っている状態なのだ。こんなところでくたびれている場合じゃない。救いなき魂が、救いなき虫達を待っている。
と、ガタンという音が後ろからした。振り返るのも億劫だったが、どうにか首をよじって音の鳴りし方を見やる。
幻想郷崩壊の序曲が始まっている。なにかの拍子で倒れたケースから虫どもが這い出てきているではないか!肝を潰したわたしは、その場に尻餅をついて動けなくなってしまった。
虫どもが殺戮の行進を始める。皆殺しの街道を爆進している。わたしには目もくれずに。まるでカナンの地にでも向かおうとしているかのように。
崩壊していく自然界の秩序を、わたしは指を咥えて見殺しにしていた。あらゆる意味でどうすることもできないのなら、じたばたしようが落ち着いてようが同じことなのだ。わたしはリグルからもらった前金の額を確かめた。一週間くらいはどうにかなりそうな額が入っていた。一週間もあれば、小さな殺戮者どもが自然界に台頭しているかもしれない。一週間あれば、みすちーもわたしのことを許して家に帰ってきてくれるかもしれない。神はたった七日間で天地を創造したのだ。なんだって起こりそうなもんじゃないか。
とりあえず、わたしはいつものライブハウスに向かった。
4
虫どもの大脱走劇から二日経ったが、幻想郷はいたって平和だった。ラジオは相変わらずプリズムリバーの音楽を垂れ流し、ライブハウスは酒池肉林の様相を呈し、みすちーはまだ帰ってこない。穏やかで、平和で、うんざりするくらいなんにも起こらない。きっと、幻想郷の平和を守るための知られざる戦いがどこかで起こっているに違いない。
夕方頃にいつものライブハウスへ行くと、リグルがバーのスツールに座っていた。灰皿にこんもりと積まれた吸い差しを見るに、随分とわたしのことを待ち焦がれていたらしい。わたしは彼女の隣に座った。
「やい」と、いきなり怒気含みで来た。「どういうつもりだ?」
なにが、とシラを切ると、胸ぐらを思い切り掴まれてしまった。
「虫を野に放っただろ!おまえのせいで、賢者に目をつけられちゃったんだぞ!どうしてくれ……」リグルの表情が固まったのは、わたしがタバコに火をつけて咥えたからだ。「上等だよ」
が、リグルがなにか暴力的なアクションを起こす前に、彼女の背後の風景を塗り潰すように、眼球だらけの赤黒い空間が浮かび上がった。目をつけられたというのは本当らしい。そこから伸びた細くて美しい手が、リグルの頭に生えてる触覚を鷲掴みにした。どんな慰めも気休めにしかならないほどの絶望を顔に浮かべている。
「ごめん、リグルちゃん」わたしは半分ほど吸ったタバコを彼女の口に咥えさせた。「でもね、あれは本当に仕方がないことだったんだ」
「ざけんなー!」
謎の空間に飲み込まれてくリグル。やがて空間の裂け目が閉じ、ライブハウスは平穏を取り戻した。
わたしにできたことなんか、みすちーが家を出て行ったときからなんにもない。だというのに、このやるせなさはいったいなんだ?リグルはどうなってしまうのか?あの虫たちはどこへ向かったのか?どこかへ辿り着くことができたのか?みすちーはいつ帰ってくるのか?
いまとなっては、なんにもわからない。幻想郷はいつも謎だらけだ。謎の当事者でないやつらにできることなんか、せいぜい酒を飲んだり、クスリをキメることくらいだ。罪悪感なんか感じない、お寺には血の池で溺れてハイになるような人もいたのだ。
その人がよくて、わたしがダメな理由なんかどこにもないじゃないか。
「ハイネケンとタバコ」
バーテンダーに申し付けると、何万回も繰り返してきた動作で注文したものをテーブルの上に出してくれる。わたしはハイネを飲み、タバコに火をつける。問題は、再び食い扶持を失ってしまったということ。そろそろ本格的に音楽活動を再開しなくてはならない。
酒を干し、ステージに上がった。困惑するスタッフからアコースティックギターを借りる。ボロボロのやつだったし、観客はまばらだったけど、一曲、即興でやってみた。あの逃げ出したムカデやカエルやサソリのことを思い浮かべながら、詩を紡いだ。
わたしと観客の間には、決定的な隔たりがあった。いい感触だ。世界を滅ぼしたい気分になってくる。もう一曲やった。
どこまでも続くなだらかなメロディ。暴力を肯定する詩。あるようで存在しないメッセージ性。擦り切れた魂。やがて観客が増えてきて、わたしもノリにノッてきたのだが、とんだ勘違いだった。みんな、プリズムリバー目当ての客だった。
わたしはギターを置き、ステージを降りた。敗北が確定しているわたしの背中に、トゲトゲしい視線が突き刺さる。こんなにプリズムリバーの音楽が恋しくなったのは初めてだった。わたしの恥ずかしい勘違いごと、彼女らの音楽で吹き飛ばして欲しい。
絶望と後悔の最中に、わたしを呼ぶ声があった。
「響子ちゃん?」見やると、一輪さんが心配そうな面持ちでわたしを見つめているではないか!「やっぱ、響子ちゃんだよね?」
わたしはなにも言わずにバーの方へ流れた。一輪さんが付いてくる気配があった。なにも考えないようにした。なにも答えないようにした。
「ねえ、なんで黙ってるの?」その声には苛立ちとか不満とかそういうのは一切なく、ただただ純度の高い心配だけがあった。「響子ちゃん、ねえ……」
わたしはスツールに上り、バーテンダーに酒を出せと申し付ける。この場に限って言えば、なにかを証明できる気がした。もう、一輪さんが知ってるかつてのわたしはどこにもいないのだと。
「一輪さん」タバコに火をつけながら、わたしは彼女の名を久々に呼んだ。「なんでこんなところにいるんですか?」
探るような間があってから、一輪さんは答えた。「プリズムリバーがライブをやってるって聞いて……」
わたしは振り返りもせず、やっぱりね、というような顔をバーテンダーにしてみせた。バーテンダーはなにも語らない。他人の人生に深く踏み込まない、本物とはこういう人のことを言うのだ。
「ねえ、姐さんは響子ちゃんを破門にしたけど、いっつも心配してるのよ」この話題になることはわかっていた。「ちゃんと頭を下げて謝れば、姐さんも許してくれるわよ、ねえ……」
「わたしはね、虫なんです」
背中に突き刺さっていた一輪さんの慈悲深い視線が、馬鹿を見るそれに変わったような感じがした。
わたしはしっかりと自分を束ねてから、スツールごと体を回転させて一輪さんに振り返った。訝しげにわたしを睨みつけている一輪さん。
「虫は、だれかの手の内に収まった時点で死んでしまう。自然から隔絶された時点で、命のあるなしに関わらずに死んでしまうんですよ」
「……なにが言いたいの?」
「わたしは世界を変えたいんです。でも、虫かごの中にいたんじゃ、世界を変えることなんかできやしない」
「……だから?」
「え?だから……ええと」自分がとんでもない阿呆にでもなったような気分で、わたしは言葉を探し出す。「お寺にいたんじゃわたしのやりたいことはやれないってことです。聖さまはわたしの音楽は認めてくれなかったけど、プリズムリバーの音楽は認めている。一輪さんがいまここにいるのって、そういうことでしょ?」
一輪さんはとっくりとわたしの言葉に耳を傾けていた。たしかな手応えを感じた。
「幽谷響子」
「はい」
「大人になりなさい」
「……」
「世の中にはね、思い通りにならないことがたくさんあるのよ。あんたの知らない悲しい出来事だってたくさんある。それから目を背けて酒や夢に逃げてたら、いつか本当に自分を見失っちゃうわよ」
「いや、その……」
「でもね、どんなこと言ったって、あんたはまだガキなのよ。わたし達から見たらね」
「ちょっと、わたしの話を……」
「寺に帰ってきなさい」
わたしは口をパクパクさせる。これほど魅力的で、優しくて、政治的打算を含んでない提案は、この先、一生かかってもお目にかかれないような気がした。
入れ替わり立ち代わりにやってくる神。それは死神のときもあれば、自由をもたらす神のときもあった。そしていま、すべてを許してくれる神が目の前にいる。
プリズムリバーの曲が始まるが、なにもかもが現実と剥離していた。ステージ上に立つ女たちの名を呼ぶ声。曲に合わせたコール。闇を切り裂くフラッシュ。波打つステージ下で人々は一体化し、だれがだれだかわからなくなり、まるでモダンアートのようにもみくちゃにされてゆく。
混沌は店中に広がってるというのに、わたしと一輪さんはそれに飲み込まれなかった。
「待ってるから」
一輪さんのその一言が、魔法を解く合図だった。
店中に渦巻く混沌が、わたしを飲み込んだ。一輪さんは吐き気がするほど波打つ人の中に消えた。その中に、かつての仲間の面影が見えたような気がした。
わたしはスツールを回転させ、テーブルと向き合った。清潔感のあるテーブルが、わたしの顔だけでなく、内面まで映しているようだった。かつてお寺で可愛がられていたわたしの笑顔は、天使と悪魔に左右から引っ張られて、引き裂けそうになっていた。
寺に帰ってきなさい
頭の中に居座る一輪さんの声を、どうにかして振り払いたかった。どう頑張っても、そう、世界中を震わすこの音楽にだって、そんなことは不可能だ。
だから、わたしは帰ることにしたのだ。
5
夢を見ている。
ギザギザの歯をした幽霊楽団に、わたしは追われている。それは叶わなかった夢。敵わなかった現実。アルコールと毒気に満ちた色彩にまみれ、わたしは水の中をひたすらに泳いでいる。途中で、カエルの背に乗ったサソリとすれ違う。振り返り振り返り、わたしは泳ぐ。
やがて彼らは、わたしが飛び込んだ岸へと辿り着く。彼らは自分を捨て、新たな自分を見つけることに成功したのだ。
何億年も前から存在するような轍の上を、わたしは歩いている。それはだれかが辿ってきた道。それはわたしが挫折した道。遠くの山々が、夜空と厳正なる境界線を引いている。見たこともない車輪のついた鉄塊が、会ったこともない人たちを乗せて遠くへと連れて行く。
道中、サソリやカエルやムカデの大群と遭遇する。まるでおれらにはおれらのやることがあるんだ、と言わんばかりに、一様にして同じ方向へと突き進んでいる。自分以外のすべてを皆殺しにするために。人間に生まれ変わるために。わたしは虫になる。虫には自我がない。
夜空の肥えた月が、地上のジェノサイドを見過ごしている。どこかで鶏がときを作ったが、それさえも夢であることを、わたしは知っている。
目を覚まし、朝のルーティンを五分で済ます。体はすこぶる快調だった。
シャワーから出ると、みすちーが味噌汁を作っていた。彼女を背後から抱きしめ、うなじに顔を埋め、匂いを嗅ぐ。彼女から熱を吸い取るように。
「おかえり」と、わたしは言った。「どこ行ってたの?」
「どこでもいいじゃない」肩越しに振り返ったみすちーは、何日か前に見た顔とぜんぜん変わっていなかった。「ここはわたしの家なんだから」
「それもそうだね」
それから、わたし達はみすちーが作ってくれた味噌汁には手も付けず、酒をかっ喰らった。かっ喰らいながら、わたしの来世は虫かなんかだろうな、などと思う。
『ラブ・ポンプ』
命蓮寺を破門されてから、わたしの生活は一変した。ギターを一本携えて、みすちーの住処に居候をさせて貰ってるわたしは、毎日をギターを弾くか発声練習をするかみすちーの屋台を手伝うかに費やしている。
または、他人の音楽を聴いてみたりする。命蓮寺にいた頃は、プリズムリバーの音楽なんか聴く気になれなかったんだけど。わたしには奴らの音楽は綺麗過ぎた。なんというか、奴らの「なにかを目指している」ようなスタンスが気に食わなかった。
これは持論だけど、物を作ったりする人間や妖怪が、なにかを目指すようになったらお終いだと思う。お終いはちょっと言い過ぎだけど、そういうスタンスで作られた音楽とかって、下心とかが見え見えで嫌になっちまう。この音楽は感動させるために作りました。この歌詞は泣かせるために書きました。
そんな風に思うからには、わたしにも経験がある。愚かにもプリズムリバーみたいな綺麗で心を打ち震えさせるような打算のこもった曲を作ってみた。それは確かに客の興味を引いたけど、後から自分で聴く気にはなれなかった。わざとらしさが鼻について、自分のことを殺したくなった。
そんな気持ちになって作ったのが「スーサイド・ソリューション」という曲で、「自分」という存在がわからなくなった女が自我を求めて滝から飛び降り自殺するような内容だ。この曲はそんなに伸びなかったが、わたしはそれが心地よかった。
命蓮寺を破門されたのって、こういう曲ばっかり作っていたからというのもあると思う。
みすちーが食材の仕込みに行っている間、わたしは家に引きこもって、ラジカセから流れる音楽に耳をそば立てていた。最近はプリズムリバー以外にも、いろんな音楽を聴いてる。河童の作ったラジカセなる機械は革新的で、いつでもどこでもだれの音楽でも聴ける、音楽に携わる者には夢のような機械だった。
だけど、幻想郷には音楽を演っている奴が少ない。特にわたし達のような音楽を演る奴らは極端に少ない。プリズムリバーが覇権を握るこの世界では、みんなラッパとかヴァイオリンとかしゃらくさい楽器を習う。良くてピアノだ。ピアノの音はどんな音楽とも親和性がある。
音楽は自分と戦争する武器だ。自分自身の音楽を見つけ出さなければならない。他人から与えられる影響なんか糞食らえだけど、だれかに影響を与えない限り音楽は続かない。でも、プリズムリバーとかはあんまり聴きたくない。そこで思い付いたわたしは、ラジカセを止めて外に出る支度を始めた。
革ジャンを着込むと同時に、みすちーが帰って来る。買い物袋にはたくさんの食材が詰まっていた。
「響子ちゃん、出かけるの?」
「うん」
「二日ぶりの外出だね」
壁にかけられたカレンダーを見る。日付のところが赤い丸で囲まれている箇所がいくつかある。これはわたしが外出した日に、みすちーの手によって付けられる。前に出かけたのは、たしかに二日前だった。その日はシャブを買いに出かけたんだった。
みすちーはわたしの健康を気遣ってくれる。時々、厳しい言葉もあるけど、彼女の作る料理には温かみがあって、シャブや音楽と一緒にわたしを堕落させていく。それが気持ち良くもあり、眠れない夜を増やす要因でもあった。
「何時に帰ってくる?」
今度は時計を見る。設定した時間に針が止まると鳩が飛び出てきて時刻を教えてくれる奴だ。みすちーが買ってきたのだ。わたしは煩いから別のにしろと言われたけど、寺にいた時のあんたほどじゃないと言われて、なにも言えなくなった。
「夜には帰るよ」
「晩ご飯、作っとくね」
「今日も屋台出すの?」
なんて訊きつつ、みすちーが屋台を出さなかった日はほとんどない。今月だって休んだのは一日だけだし、その一日だってラリっていたせいで休まざるを得なかっただけだ。
「うん、いつものところ」
「じゃあ、帰ってきてみすちーがいなかったら、そっち向かうね」
「うん」
わたしとみすちーはお別れのキスをした。みすちーの唇は干物みたいに乾燥していた。
「響子ちゃん」
「ん?」革ジャンを着直す。「なに?」
「口、くさいよ」
「……」
「歯、磨いてから行った方がいいよ」
「人と会うんじゃないからいいの」
「もうチューしてあげないよ」
わたしは洗面所に立ち、歯を磨いた。
台所にいるみすちーに息を吐く。
「どう?」
「うん、オッケー」
「じゃあ、行ってきます」
わたし達はまた唇を重ねた。みすちーの乾いた唇を濡らすように。
みすちーの掘建て小屋を出て、二日ぶりに太陽の光を浴びる。もう春じゃなかった。ギクシャクする体を伸ばして、大きく息を吸う。失われていた大切なものが、体の中に戻ってくるような感覚があった。
わたしは腕を伸ばし、太陽を手の中に仕舞い込む。
「見てろよ」あの輝く光を、プリズムリバーと見立てながら、「いまに見てろよ」
重い心と足を引きずって、わたしは無縁塚まで歩いた。
無縁塚には外の世界の物が流れ込んでくる。大抵はガラクタでろくに使えたもんじゃないけど、時々、世界を変えられるようなアイテムが手に入ることもある。事実、河童はここでラジカセを手に入れて、幻想郷に普及させたのだ。
ゴミの山や墓標代わりの石を蹴飛ばしながら、下を向いて歩く。なんだか惨めな気持ちになってくる。わたしがゴミを漁っている間にも、プリズムリバーは楽しい音楽を作ったり、有名人とお酒を飲んだりしてるんだろう。
泣きたくなるのを我慢しなかった。こういう気持ちになるのはいまが初めてじゃない。ゴミの中からメロディーや詩を探し出す。だれにも真似できることじゃない。わたしにしか出来ないことをやる。鳥獣伎楽はそうやって頑張ってきたじゃないか。
「おい、そこのお前!」
振り返ると、死にたくなった。なんてこった、ダウジングの棒を持ったナズさんが、こっちを睨み付けてるじゃないか!そういえば、ナズさんは無縁塚の近くに住んでるんだった。
「ここいらはわたし達の縄張りだぞ」
ナズさんの背後からネズミが百万匹くらい現れて、全員が牙を向く。わたしは手を上げ、無抵抗であることを示した。
「わたしです、響子です」
近付いてくるナズさんから、わたしは目を離さなかった。今のところ、ネズミが襲ってくる気配はない。
「響子?……ああ、寺にいた子か」
「ご無沙汰してます」
軽く頭を下げる。ナズさんがネズミにしか伝わらない言葉でネズミどもになにか言うと、雲の子を散らすようにみんなどこかに行ってしまった。
「こんなところでなにをしてるんだ?寺での修行はどうした?」
「へえ、まあ、いろいろ事情がありまして」
「ここに来たのは聖の命令か?」
ダウジングの棒を向けられながら質問されると、拳銃を突き付けられながら尋問されてるみたいだ。正直に言わないと、この棒でブスリとやられてしまうかもしれない。
「実は、破門されちゃいました」正直に答えることにした。「ここに来たのは、欲しいものがあったんで」
「破門?」目を剥くナズさん。「え、マジ?」
「マジです」
「なんで?」
「バンドのライブ中に、相方が亀の首を噛みちぎったんで、無益な殺生をしたってことで」
ナズさんが馬鹿笑いした。ペンダントが胸の上で跳ねまくって、耳障りな音を鳴らした。
「そりゃご愁傷様」片手で腹を押さえながら、ナズさんに肩を抱かれる。「マジかよ……大人しい子だなって思ってたけど、そんなことしてたんだ」
「亀を殺したのはわたしじゃないスよ」
「いやあ、久々に笑わせてもらったよ!」
「……」
「で、ここにはなにしに来たんだっけ?」
「実は……」
事情を話すと、ナズさんは存外にちゃんと話を聞いてくれた。
「ふうん、外の世界の音楽か」話しながらもダウジングの手は止めないナズさん。「ちょっと待ってろよ。わたしの小屋に、幾つか拾ったのがあるかもしれない」
「マジですか!」
「マジマジ」言いながら、ナズさんは小屋があると思しき方向へ歩き出す。「やっぱり着いてきなよ。久々に人と会ったしさ」
「人じゃないですけどね」
「あれだよな。なんていうか……こういう時、妖怪のことをなんて呼称するか迷うよね」
「人でいいスよ」
「人の形してるしね。よし、行こう」
ナズさんの後ろに着きながら、瘴気が漂ってそうな無縁塚の風景を眺めていた。地面にはいろんなものが埋まっていた。髭の生えたフライドチキンの親父人形、なんとか薬局と書かれた小銭を入れると動くゾウの乗り物。三角コーンや絶版になったお菓子の箱。あらゆる物からメロディーが流れ出てくる。音楽はだれにだって、どんな物にだって宿っている。音楽家に求められるのは、それを掴み取れるかどうか、その技量のみ。音楽を作るのは、虫取りに似ている。
で、ナズさんの小屋にも音楽は宿っていた。ネズミの住処(実際そうだけど)みたいなドブ臭いメロディーが、ネズミの断末魔のような詩が。忘れ去られた物の行き着く場所に相応しい小屋だ。ここに住んでたら、きっとプリズムリバーだってドブリバーとかに名前を変えたくなるに違いない。
小屋の中には布団が一枚と、そこら辺で集めて来たであろうガラクタがたくさん置いてあった。ナズさんがボロっちいちゃぶ台の前に座ったから、あれはゴミじゃないんだろう。わたしもナズさんの対面に座った。
「ふう、疲れた」ナズさんが布団の近くに置いてあった酒瓶を手に取って、おもむろに飲み出した。「ま、飲みなよ」
「いただきます」
この後はみすちーの仕事の手伝いが控えていたけど、ご相伴にあずかった。音楽で食って行くには、飲めない酒も飲めるような器量が大事だ。
とはいえ、ナズさんは曲がりなりにもネズミだ。ネズミが口を付けた酒を飲むのは、ちょっと抵抗があった。わたしは種族差別者じゃないけど、自分の体のこととなると話は別だ。
わたしは酒瓶の飲み口を浮かして酒を飲んだ。あたかもナズさんと間接キスをしないように気を使っているんですよ、という風に。その試みはうまく行ったようだ。わたしの飲みっぷりを見て、ナズさんが手を叩いて喜んだ。
ナズさんは賢いが、純粋さも持ち合わせている。わたしは思った。その気持ちを忘れるなよ。
「そうそう、外の世界の音楽だったね」
ナズさんがゴミの山を慣れた手つきで漁る。まるで何千回もそうしてきたような動きだ。尊敬せずにはいられない。ナズさんから得られる物は多いような気がした。
「ほら、これ」
ナズさんがちゃぶ台に置いたのは、見たこともない媒体だった。長方形に穴が二つ空いてて、くすんだ灰色をしていた。
「カセットテープって言うんだろ?これに音楽が詰まってるんだって」
聴き慣れない響きを頭の中で反芻する。家にあるラジカセに、こんなものを入れられる場所があったかどうか定かじゃない。ていうか、絶対になかったと思う。
わたしはそれを手に取り、ナズさんに言った。
「ありがとうございます!大切に聴かせて貰います!」
上機嫌のナズさんがニコニコ笑った。だれだって純粋なものを傷付ける権利なんて持ってないのだ。
それから、わたし達は酒を飲みまくった。みすちーの屋台のことも、ネズミを媒介にする病原菌のことも、幻想郷の未来も、宇宙の膨張のことも、わたし達には知ったことじゃない。大抵の奴らはそういう「知ったこっちゃない」部分に目を向けない。音楽の裏側にある部分のことや、弱い心に付け入る愛の打算とか、バリアも張られてない人里がどうして妖怪に襲われたりしないのか、とか。
ベロベロに酔っ払ったナズさんを抱えて、布団の上に置こうとする。しかし、ナズさんの腕がわたしの首に巻き付いて離れない。ナズさんは目を閉じているが、眠っているようには見えない。なにかを期待しているみたいだった。
「ナズさん、起きてるんでしょ。離してくださいよ」
ナズさんは離してくれなかったが、駄々をこねたりもしなかった。時が来るのを待っているみたいに、ジッとしていた。
「ナズさん、わたしにはみすちーが……」
「わたしにもご主人がいる」それで対等だろ、と言うような強い口調だ。
時間だけが満ちて行く。頭の中に浮かんでいるみすちーの顔が、モヤがかかったみたいにおぼろげになって行く。ナズさんの小さい体に残った体温が、風邪菌みたいにわたしに伝染して行く。こうしているだけで、わたしとナズさんの間で共有できるものが増えてくみたいだった。
体を重ねながら、ナズさんを布団の上に置く。どちらからともなく唇を重ねる。みすちーのおかげで、口臭がどうのこうのという話にはならなかった。
体温を奪われたみたいに、急速に冷めて行くのを感じた。どうしようもないキスだった。人質を取られて「やれ」と言われているような、ぎこちないキスだった。ナズさんと唇を重ねている間中、ずっと病原菌のことを考えていた。
首に巻き付いていたナズさんの手が、いきなり離れた。それは望んでいたことではあったけど、唐突だったので面食らってしまった。
「ナズさん?」
「やめよう」
「え?」
「ずっと哀しげな目をしていたね」
知らないうちにそんな目をしていたのかもしれない。
「いや、別に……」
「そういう顔をされたら、やめようって思ってたんだ」
「……」
「音楽、頑張れよ」
ナズさんに背中を押されるようにして、小屋を出た。純粋だったナズさんの心に陰りをさしてしまったようで、いたたまれない気持ちになった。
だけど、ナズさんを抱く日はいつか来るかもしれない。そんな漠然とした期待、或いは不安が胸を占めていた。いつかみすちーに飽きた日に。いつかメロディーに行き詰まった時に。いつか詩に見捨てられた時に。
寺を破門されて消えた縁もあれば、新しい縁も生まれた。何事も大事なのは、一つの関係に迎合しないことだ。その関係にこだわり過ぎていると、その関係の中で出来ることしかやれなくなる。
関係性の再構築。いずれ堀川雷鼓に抱かれる日も来るかもしれない。そんなことを考えながら、無縁塚を後にした。
家に帰ったら、みすちーがいなかった。仕事に出ているのだ。わたしは万年床に寝っ転がり、枕元のラジカセを弄ってみる。ナズさんから貰ったカセットテープが入りそうな穴はない。わたしはテープを投げ捨て、そのまま眠った。
目を覚ましても、外はまだ暗かった。二十四時間寝続けたか、二時間くらいしか眠れなかったかだ。みすちーはまだ帰って来てないから、後者だろう。
水でも飲もうと思って立ち上がる。嫌な気持ちが喉から迫り上がってくるから、そいつを飲み下したかった。
その嫌な気持ちとは、後悔に他ならなかった。ナズさんとキスしてしまったことへの後悔。屋台の仕事を手伝いに行かなかったことへの後悔。ナズさんを抱かなかったことへの後悔。
いろんな気持ちが攪拌されて叫びたくなった。さもなけりゃ、寺に火でも付けてやりたい。自分の気持ちに正直になりたいだけなのに、全身を引き裂かれるような気分だ。
その時、ドアがガチャリと開いた。
「ただいまー」みすちーだった。「あれ、帰ってたの?」
わたしはなにも言わずにみすちーを抱きしめた。酒の匂いがした。そのせいで吐きそうになった。我慢する必要はない。みすちーは、わたしが吐いたくらいじゃどこにも行かない。
便所で嘔吐してると、みすちーが背中をさすってくれた。それがみすちーの純粋な優しさというわけではない。だけど、みんな純粋なものだけを欲しがってるわけじゃない。吐きながら、そんなことを思った。
プリズムリバーの音楽は純粋じゃない。彼女らの音楽には、打算やわざとらしさが見え隠れする。感動しろ、泣け。わたしだって理解している。売れるのはそういう類のものだ。だからこそ、勝負がしたい。わたし達の自然体で。だからこそ、欲しい。奴らの持っている純粋ではない部分が。
しかし、恐ろしさもある。自分の純粋な部分が研磨され、磨きがかかり、面白くなくなってしまうことが。たぶん、ナズさんを抱いてる時にいきなり冷めてしまったのは、そういう恐れがあったからだ。
「みすちー」
一頻り吐いてから、みすちーを見上げる。今すぐにでも抱きたかった。
みすちーは人差し指を唇に当てた。
「まずは口をゆすいで来てね」
そうした。
それから、服を着替えているみすちーに飛び付いて、布団の上に押し倒し、みすちーの中の音楽を探し当てようとするみたいにまさぐった。愛を絞り出そうとするみたいに抱きしめた。
みすちーは乾いていた。ナズさんを抱こうとしていた時のわたしの心みたいに。
それが心地良い。
「響子ちゃん」
わたしの頭を撫でながら、
「明日は屋台の仕事、手伝ってくれる?」
「うん」
「ありがとう」
結局、愛や音楽は見つからないまま眠ってしまった。だけど、愛に似たものはいつだって簡単に見つかる。優しさや心遣いは、愛の近縁種であって、愛そのものではない。
翌朝になって、わたしは河童のお店にラジカセを買いに行った。カセットテープも使える奴だ。お金はみすちーから貰った。
家に帰って、昨晩投げ捨てたカセットテープを三十分はかけて探し出した。埃をかぶったそれを、ラジカセに差し込む。激しいドラムとか魂を切り裂くようなベースとか、そういう類のものは一切ない。鳴ってるのは儚げなギターのみ。
わたし達と使っている言語が根本的に違うらしくて、歌詞なんかぜんぜんわからなかった。わかったことと言えば、これがブルースと言うジャンルに当て嵌まる曲で、歌詞がわからなくても音楽は心に響くと言うこと。
テープの入っていた箱を逆さにしてみると、紙がいくつか出てきた。なにかしらのキャンペーンをやると言う告知とライナーノーツだ。それらは日本語だったので、じっくりと読んでみる。
わたしが聴いていたのは、マスターベーションのことを歌った曲らしい。
それを知った途端、吹き出してしまった。一度笑い出すと止まらなかった。
へぇえ、マスター……ふぅん!そんな曲が外の世界にはあるのか!
買い出しから戻ってきたみすちーが、笑い転げるわたしを見てギョッとした。
「どうしたの?」
わたしはみすちーにお帰りのキスをした。みすちーは抵抗せずに受け入れてくれた。幸せだった。外の世界の奴らや、プリズムリバーなんかに負ける気がしなかった。メロディーや詩が頭の中でグルグル回っている。わたしはみすちーから離れ、すぐに机に向かった。
おまえが自家発電の作業を歌うなら、わたしは愛の湧き出る泉からそれを汲み取る作業を歌ってやる!そう、昨日の晩、みすちーの中の音楽を掘り当てようとした時のような歌を。
「愛」にはいろんな言葉を代入出来る。そこにはわたし達が求めてきた物や、失ってきた物も含まれる。だれかを抱くと言う行為は、その人の中にある自分にはない物を汲み取るということ。
この歌は、もしかしたらプリズムリバーのように大衆受けする曲になるかもしれない。こういう曲にしようっていう目標を定めてしまったからだ。
だけど、だれかと一緒に居たいっていう気持ちを共有しようとするのが純粋じゃないなんて、だれに言えるだろう?なんだ、結局この曲も、大衆に叩きつける挑戦状みたいな物じゃないか!
新曲『ラブ・ポンプ』はこうして出来上がった。
『幽谷響子の死』
悪夢と呼ぶよりない。わたしは暗闇の中で腕や足を拘束されて動けないでいる。猿轡を噛まされていることも多いけど、そうじゃないときは闇の中から質問が飛んでくる。おまえはなんのために生きてるんだとか、このままでいいのかとか。はじめは薬や酒が生み出した、実体を伴った不安とか焦燥が闇の奥にいるんだと思っていたけど、実はそうじゃないということがわかってきた。
わたしはそいつのことを知っている。わたしの将来、未来を知りたがっている闇の世界の住民の正体を。だけど、知ってるということしかわからない。
声はとても優しくて、厳しさはない。そんなやつが拘束してくるとはどういうことだと考えてみたけど、たぶん、あれはわたしが望んでいることなんじゃないだろうか。拘束は言い訳だ。動かないことの。なにも生み出さないことの。喋りたくないことの。ある程度の不自由は自由を際立たせる調味料でしかないのだ。
目を覚ましたとき、汗をぐっしょりかいている。実際に見たことはないが、海みたいになる。もどかしさという名の海。わたしはそこでもがき、泳いでいる。手はちゃんと動き、足でちゃんと立てる。声はまるで自分のものじゃないみたいだが、時間が違和感を曖昧にしてくれる。
そう、時間はなにも解決しちゃくれないが、考えるべきことを模糊にしてくれる。未来は近づいてくるものだが、過去は離れていくものだ。妖怪には寿命なんてあってないようなもんだから、無限に考えたくないことを遠ざけることができる。悲しいのは、どんだけ離れていても追い縋ってくることがあるということ。未来へ進むスピードが、過去の追ってくるスピードをどうしても超えられないということ。
過去は朝にやってくる。二日酔いの頭痛や吐き気とともに。朝にやるべきことをやっているうちに振り切れればいいが、そんな奇跡は高望みってやつだ。一日中、影みたいに付き纏ってくる嫌な思い出にうんざりさせられることになる。
最悪なのは、問題があるのが過去だけではないということ。いま現在も別の問題に苦しめられているということ。そしてなにより、問題を後ろに追いやるには、過去が渋滞し過ぎているということ。
※
酒も薬も人生のちょっとしたスパイス、隠し味みたいなものだと思ってたんだが、いつの間にかメインを食っていた。いつもいつも悲しみだけがデザートみたいに一日の印象を最悪にしている。『ラブ・ポンプ』が世に出てからも、それは変わらなかった。
あの作品を皮切りに、わたしは変わっていくはずだった。大衆に媚びた曲を作りまくろうと思った。愛がどうのこうのとか、恋があーだこーだとか、やまない雨はないとか、片腹痛くてちゃんちゃらおかしい曲を作りまくるつもりだったのだが、わたしから出づる歌詞はいつも卑俗的で、それを彩るはずのメロディーはどれも敵対心をむき出しにしているか、さもなくばひとりで勝手に絶望していた。
わたしの中の愛はどこに行っちまったんだ?命蓮寺に置き忘れてしまったのか?
そんなでも曲は出来上がるものだから、世には出す。が、鳴かず飛ばずとはこのことだ。リスナーの心にはどいつもこいつも愛が欠けてしまっている。死にたいなら勝手に死ねとばかりに、わたしの新曲はプリズムリバーの愛や希望や夢で満ち満ちた楽曲に埋もれていった。
わたしもとうとう折れて、プリズムリバーに白旗をあげることにした。どうやったってやつらには敵わない。どうしようもない現実を突きつけられてるような感じだ。
そして、正味な話、プリズムリバーの楽曲を聴いてると涙が出てくるのだった。温かいものを欠乏した心におばあちゃんの作ってくれたスープでも流し込まれてるような気分になる。そう、愛とは欠乏から生まれるものなのだ。
ああ、世界はこんなにも平和で満ちていたのか!こんな簡単なことに気がつくのに、あまりにも時間を無駄にしまくった。やまない雨はないし、美しい薔薇にはトゲがあるし、臭くないオナラはない。愛は永劫不変に素晴らしいものだし、恋は理性を失うほどのものが恋と呼ぶに相応しい。犬が西を向けば尾っぽは東だ。この世はささやかな真実で満ちている。ちゃんと目を向けていれば、耳でちゃんと聞いていれば、もっとはやく気が付けていたのに。
そんなわけで、酒で脳みそがどうにかなってたとき、わたしは自分のギターを庭で焼いたのだった。ギターだけではない。詩を綴ったノートや、わたしの音楽に影響を与えた偉人達の音楽も焼いた。正しいことをした。不倫や動物虐待を肯定した歌詞なんか、地獄の業火に焼かれちまうべきだ。
「響子ちゃん?」隣で炎を見つめるみすちー。「響子ちゃんにとって、これが正しいことなんだよね?」
「うん」
「じゃあ、なんで泣いてるの?」
炎で映った影が、みすちーの表情をおそろしく冷たいものにしていた。炎とみすちーは、まるでコインの表裏みたいだった。仕方がない。この炎の中にぶち込まれたものは、わたしのアイデンティティのようなものだったのだから。
いつかみすちーだってわかるはずだ。争いの虚しさ、自殺することの愚かさ、雨のあとにかかる虹の美しさ。死や金だけがこの世を彩っているのではないということを。地上に咲く美しい花こそが生命の象徴で、わたし達を狂わす乳液や繊維を生み出す花なんかクソ喰らえってことに。
ある朝、わたしはプリズムリバーの楽曲を聴きながら、世界平和について思いを巡らせていた。前の晩、屋台の仕事に出ていたみすちーはまだ帰ってきていない。だけど、そんなことは少しもわたしを困らせなかった。だって、わたしにはプリズムリバーがいるのだから!
大きなものと一体化するような幸せな心地に酔っていると、玄関からガタンという音が鳴った。わたしは犬みたいに玄関に突進した。プリズムリバーを聴きはじめてから体が健康になったような気がする。
「みすちー!」わたしは彼女の手から荷物を掻っ攫った。「おかえり、疲れたでしょ」
みすちーは小綺麗にまとまった部屋を見回した。「うん……」
「どうしたの、元気ないね。そんなに忙しかった?明日はわたしも手伝うから」
「響子ちゃん、ごめんね」
「そうそう、今度のプリズムリバーの新曲?すっごくいい曲なんだ!昨日の夜からずっと聴いてて──ごめんって、なにが?」
「わたし、リグルちゃんといっしょに暮らすことにしたから」
「……え?」
「家、出てって」
タバコと財布だけ持って家を出た。外は雨が降っていて、しかもその日のうちはやむことなく降り続けていた。
※
いつものうらぶれたバーの便所の個室で、わたしはのたうち回っていた。死ぬほど飲み、死ぬほど吐いた。明日のことなんか構ってられるか。
リグル・ナイトバグ。いつだったか、やつの仕事を頓挫させたことがある。てっきり賢者に殺されたものだと思っていたが、まさか生きていたとはね。
頭を悩ませているのはリグルの生死そのものではないが、みすちーとヤッてるといいうことでもない。断じて。わたしの懸念は、あの二人の間に愛が芽吹いているのではないかということ。あのとき、リグルといっしょに暮らすのだと宣言したときのみすちーの顔は、リグルとしっぽり行くところまで行ってるような表情だった。
みすちーがわたし以外のだれかに汚されるのは構わない。汚れは洗い流せる。だけど、あの二人にあるものが綺麗なものだったら、わたしがみすちーを取り戻すためには彼女をわたしで汚すしかない。己の矜持にかけて、みすちーを汚すことは許せなかった。
便器に顔を突っ込んで肩で息をしていると、だれかがドアをバンバン叩いた。
「はやく出て!」
バンバンバン……バンバンバン……そのビートがあまりにもプリミティブだったので、思わず野生に帰りそうになる。ちくしょう、泣かせるビートじゃないか。わたしは立ち上がり、ドアを開けた。
「はやく出てね」わたしは言った。「まだ吐きたりないんだ」
「どいて!」
押しのけられたわたしは壁に激突し、地面にくずおれた。タバコを吸おうとして火が見つからず、火を見つけたころにはタバコがどこかへいった。なにもかもがわたしの人生みたいに尻すぼみに終わった。
床に向かってゲーゲー吐いていると、個室のドアが開いた。なんとなく顔をあげると、わたしを押しのけた敵意が慈悲に姿を変えて見下ろしていた。
「ちょっと、大丈夫?」
「大丈夫、だって?」わたしは口もとを袖で拭った。「これが大丈夫に見えるなら、いったい世の中のどんなことが大丈夫じゃないってんだ」
女が膝を折り、わたしに肩を貸してくれた。そのまま便所の出口まで歩く。
「かなり酔ってるね」
「ちくしょう、酔わずにいられるかっていうんだ。わたしはラブ・ポンプの幽谷響子だぞ!」
女の足が止まった。わたしはそっちの方を見やるが、女の顔はボヤけてよく見えない。目がしょぼしょぼしている。
「あなた、幽谷さん?」
肩を預けてないほうの手で目を擦ると、おぼろげだった輪郭が鮮明になってくる。
「ラブ・ポンプ、すごいよかったですよ」
女は羨望の眼差しでこっちを見ていた。ラブ・ポンプの幽谷響子なんて名乗っているが、実のところあの曲がくれた肩書きの効力はとっくのむかしに死んでいた。そんなもの最初からなかったのかもしれないが。ラブ・ポンプ?なにそれ?いつまで過去の栄光にしがみついてるの?ってな具合に。とりわけ目の前の女の、堀川雷鼓の『プリズムリバーWithH』という肩書きの前では、月と鼈のようなものだ。
わたし達はバーに戻り、横並びに座って酒を飲んだ。
「ラブ・ポンプっていうのはナイフみたいな曲ですよね」あの堀川さんがわたしの曲の感想を喋っている。「女神のような優しさや慈悲を感じることもあります。それはナイフの柄の部分を持っているようなもので。うっかり刃の部分を持ってしまう危うさも含有している」
「でも、愛ってそういうものじゃないですか」
「愛についての一抹の真実がラブ・ポンプでは表現されているんです。でも、決して鮮明な曲でもなくて、なんていうか……だれだって別のだれかの心を完璧に理解できるわけじゃない。愛に浮かされたときの、あの霧の中にいるような感覚が、ラブ・ポンプにはありますよね」
「やっぱり堀川さんは本物だ」わたしは膝を手で打った。「ひとつの曲に対して、そこまで真摯に向き合ってくれる人ってなかなかいませんよ」
「あなたの曲が本物だからですよ」
涙が出そうになった。わたしの心はもう半分くらいこの人のものになっている。いったい、どれだけの人に本物と偽物の違いがわかるというのか?プリズムリバーだけが本物扱いされ、わたしの曲が半端者の偽物扱いされる謂れはなんだ?
その答えを見つけるための冒険のような夜だった。堀川さんはいつまでも熱っぽくわたしの曲について語ってくれた。わたしも堀川さんについてはソロ時代からファンだったので、しきりに好きなところを並べ立てた。
「堀川さんがプリズムリバーに参加すると聞いて、正直なところ、すごくショックを受けたんです」
「わかりますよ。わたしだって本意じゃなかったんですから。彼女らとは音楽性が違う」
堀川さんはウイスキーのショットを口に含むと、ビールでそれを流した。こんな堀川さんを見たのは初めてだし、それもわたしがこの世で初めてだろう。特別扱いされてるような感覚が気持ちよかった。わたしは彼女に身の丈を合わせるように、バーテンダーにウイスキーのダブルを注文した。
「でも、生きるためには仕方がないことだったんだ」
堀川さんが吐き出した呼気には、まるで人生が滲んでいるようだった。真似せずにはいられない。わたしはタバコに火をつけ、口に咥えた。
と、タバコがわたしの口から離れた。堀川さんの指にタバコが挟まっている。胸が激しく動悸し、なにがなにやらわからなくなる。堀川さんはそのタバコを、別にこんなのはだれでもやってることですよ、という感じに咥える。
なんてこった!
「響子ちゃんにタバコはまだ早いんじゃないかな」その声の艶っぽさに、わたしはいますぐ禁煙を誓った。「なんてね」
「あわあわあわ」
わたしはウイスキーのダブルを一気に飲み干したが、自分で逃げ道を潰したようなものだった。わたしの無様な姿を見て、堀川さんは優しく微笑み、人差し指と親指でわたしの唇を軽く摘んだ。なにが始まるのかはさっぱりわからないが、なにが終わるのかははっきりしていた。
「かわいいとこあるのね、響子ちゃん」
わたしが最後に見た光景は、わたしとは比べ物にならないほど様になっている、堀川さんが喫煙しているところだった。
ああ、さようなら、みすちー!
※
悪夢を見た。悪夢と呼ぶほかない悪夢を。わたしのアイデンティティについて、わたしのよく知ってるやつが語りかけてくる。あなたは本当にそれでいいの?
わたしにできることは、もうなんでもやったはずだ。わたしがやらなくたって、勝手にそうなった。まるで運命みたいに。歌や詞は炎で焼いてしまったし、みすちーもいなくなった。運命はコップに注がれる水のようなものだ。わたしというコップには、それっぽっちの水しか入らなかったというだけで。
闇の世界の住民は、まるで獲物を見つけたハイエナのようにわたしの弱い心をつけ狙っている。そして、わたしはとっくに服従のポーズをとっている。だというのに、やつはわたしがもっと衰弱するのを待っている。その慎重さが、まるで他人のもののような気がしない。
わたしは食われるのを待つ。あいつが納得するまで、そうしている。
目を覚ますと、隣で素っ裸の堀川さんがこっちを見つめながら横たわっていた。わたしは視線を彼女から外し、再び見やった。素っ裸の堀川さんはわたしの不安や期待が見せた幻影でもなんでもなく、純然たる現実としてそこにあった。
思い出す必要はない。こうなることもきっと運命だったのだ。
「響子ちゃん」
「えーっと……」わたしはコップから溢れる運命を堰き止めるのに必死だった。「堀川さん、その……」
「雷鼓って呼んで」
「……」
「よかったよ」
その一言の意味を、わたしは計りかねた。なにもかもを受け入れているようでもあって、なにもかもを拒絶しているようでもある。或いは、その両方。くそったれ、音楽をやってるやつはみんな矛盾だらけだな。
堀川さんがむくりと起き上がる。わたしは彼女の一糸纏わぬ姿をまじまじと見た。彼女に自分の曲を褒められてるときほどの恥じらいはなかった。いい体だ。だれかの子孫を残すのにぴったりの、とてもいい体だ。
水を持って戻ってくる雷鼓さん。
「喉、乾いたでしょ」
頷きながら、コップを受け取る。
「声、すごかったんだから」
「……」
「かわいかったよ」
水の冷たさが、そのままわたしの冷静さとなった。わたしは堀川さんの顔を見た。人懐っこく、それでいて人を寄せ付けない雰囲気の微笑を浮かべていた。ともすればただの皮肉野郎に見えなくもない、境界線の曖昧な悲しみが映っている。
ああ、生きるために必要なことを、わたしは半分も成しちゃいなかったんだ。こんな悲しい笑みを浮かべるのに、いったいどれだけの訓練を積んだのだろう?どれだけの残酷なものを見てきたんだろう?
「堀川さん」
「雷鼓って呼んでってば」
「……堀川さん」
「……なあに?」
呼ぶだけ呼んで、用事なんてないことを思い出す。堀川さんを呼んだのは、それも決して名前で呼ばないのは、儀式でしかない。彼女とわたしの間に絶対に相入れないぞという白線を引くための儀式。
「響子ちゃんは幸せものだね」空中分解した言葉の続きは、堀川さんが引き取った。
「どうしてですか?」
「昨日の夜ね、わたしに抱かれながらずっとミスティアさんの名前を呼んでたよ」
「……」
「あんなふうになってまでその人のことを考えるなんて、よっぽどいい人なんだと思った」
あんなふう?
「その、ごめんなさい……」
「やめてよ。なにもかもが思い通りになるなんて思ってないから」
「わたしを思い通りにしたかったんですか?」
堀川さんはかぶりを振った。違うということなのか、自分でもわからないということなのか、教えたくないということなのか、わたしにはわからなかった。
悔しさが込み上げてくる。罪悪感でもあった。堀川さんの期待に答えられなかったことの罪悪感。みすちーを忘れようとしたことへの罪悪感、けっきょく未練たらたらなことへの後悔。情事の最中に過去の女の幻影を見るなんて、すべてに対して失礼だ。
「どうして……」気がつけば、涙がボロボロと溢れていた。「どうして、わたしを抱いたんですか」
「生きるために必要なこと以外もやりたくなった」堀川さんはタバコに火をつけた。「それだけよ。こっちこそごめんね」
拒絶だけがありありと見える笑顔だった。なにもかもがわたしと正反対だ。わたしの涙はぜんぶを受け入れるつもりでいるのに。
生きるためにそんなに必死になることないんじゃないですか──言葉は口先でバランスを崩し、落っこちて、そのままどこかへ行ってしまった。
「またね」玄関まで見送りに来てくれた堀川さん。「新曲、楽しみにしてるよ」
彼女の唇が、わたしの頬に軽く触れた。
破滅のためのプレリュードのようなキスだった。
なにかを永遠と結びつけちまう前に、わたしはナズさんの小屋に帰った。
「おかえり、リグルは見つかったのかい」
わたしはナズさんを押し倒した。たまたまゴミのない地帯だったからよかったものの、運が悪ければ脳震盪だ。なんだっていい。
上から見下ろされるナズさんは澄ました顔をしていた。こうなることがわかってるみたいだった。気に食わない。だれもかれも受動的で、運命に屈服している。ジタバタするのが無様だって、どいつもこいつも理解している。足掻くことをしなければ素敵な未来が向こうからやって来てくれると信じ込んでる。
壊してやる。生きるために必要なものをぜんぶぶっ壊してやる!
「響子ちゃん?」声からもまったく動揺が感じられない。
「大人ぶるのはよせ」わたしナズさんの服を強引に引っ張った。「身長だってわたしと大して変わらないくせに!」
愛がナズさんの淫らな地帯に噛みつき、悲しみがナズさんの赦しの部分を焼いた。憎しみは蛇みたいにナズさんの全身に絡みつき、性欲だけが従順な犬みたいにナズさんからなにかを拾ってくる。
わたしは幻影を振り払う。ここにはわたしとナズさんしかいない。堀川さんも、リグルも、みすちーもいない。
やがてわたしの前からナズさんも消えた。ナズさんの命の手触りだけがあった。彼女に触れている。彼女に触れているという感覚だけが、宇宙のように深い闇の中で道しるべのペンダントみたいに輝いていた。
なにも生み出さない行為が夜の背中を押す。その甲斐あって、気がついたら朝になっていた。わたし達は隣り合って横になり、どこを見るともなく停滞した朝の時間を費やしていた。
「探しものは見つかった?」
視線も交わさずにナズさん。わたしはなにも言えなかった。
「傷ついちゃったな」
「なにも傷つけない行為に、どんな意味があるっていうんです」
「少なくとも、君よりも身長はあると思ってるよ」
「……」
「はあ」ナズさんが起き上がると、世界中も目を覚ましたような気がした。「なにか食べるかい」
わたしはタバコに火をつけ、なんでもいい、と答えた。返事はなかった。
ちくしょう、ガキはわたしだけだ。
軽い朝食を済ませたあと、わたしはナズさんの淹れた出涸らしのお茶を飲んでいた。
「訊いてもいいのか?」
わたしはお茶に逃げる。わかりやすく返事をしたつもりだ。ナズさんは肩をすくめた。
「昨日、わたし以外のだれかと寝てきたな」
「……」
「おい!溢れてるよ、お茶が!」
探しものの達人っていうのは、物質に限った話ではないのか?
「ナズさん、わたし、堀川雷鼓と寝たんです」
「なるほどね」それだけですべてをわかった気になっている。「それで、満足はできたのかい」
「身体の話をしてるんですか?」
「おいおい」だれに話をしてるんだというふうに首を振る。「自分が何者かを考えたことがあるかい?わたし達はなんだ、人間か?」
ナズさんの言わんとすることがなんとなく理解できる。
「こっちだ」ナズさんは胸に拳を置いた。「つまり、精神的な満足は得られたのかい……って、聞くまでもないね。満足してないから、君は堀川雷鼓で得られなかったものをわたしで得ようとした」そこまで言うと、ナズさんはお茶を啜った。「違うかい」
なにも言うべきことがないから、目先で続きを促した。
「わたし達は妖怪だ。肉体的な満足なんか、畢竟、必要ない。身体を重ねるのだって、そういう意図以外にないだろう」
「肉体なんか幻想でしかないと思ってます」
「でも、君は堀川雷鼓やわたしに幻想を見ていた」
項垂れるほかない。仮にナズさんの言うことが間違っていたとしても、頷いてしまっていたと思う。
「彼女が恋しいんだな」
逃げ場はどこにもない。だけど、認めたからといって前に進めるとも思えなかった。
明けない夜はない。やまない雨もない。こんなのはありふれた失恋劇でしかなく、時間が経てばいずれ塞がり、記憶にも残らない傷でしかない。だけど、カサブタのことを放っておける人なんかこの世にいるだろうか。血を見ることになるのがわかっているのに剥がさずにいられないのは、わたしが子供だからなのか?
タバコに火をつけ、吸う。寿命が尽きて灰になるまでの間、わたしは自分を束ねようとする。血に飢えた愛は、凶暴な牙を隠そうともせずに、煙を引き裂いてナズさんに襲いかかった。
「みすちーとやり直したい」
やまない雨、レベルのありきたりな言葉だった。
「それをわたしに言ってどうする?」ニヒルに笑いながら、ナズさんはため息をついた。「ま、くだらない話ならいくらでも聞いてやるがね」
「どうしてそんなによくしてくれるんですか?昨日だって、ひどいことしたのに……」
「だれかに尽くすのが本望の妖怪がいたっていいだろ?」本心から出た疑問に、ナズさんはほとんど即答した。「ま、なにかあったら聞かせてくれよ。悪い報せでもいいからね」
※
「……ただいま」
みすちーの部屋には、みすちーしかいなかった。リグル・ナイトバグどころか、虫一匹の気配すらない。まるで決闘場のような雰囲気に押し潰されそうになる。
みすちーは部屋の片隅でノートと向き合っていた。わたしの知らないノート。リグルと交換日記でも付け合ってるのかもしれない。
「なにしに来たの」淡い期待をふっ飛ばすような言葉だった。「もう来ないでって言ったでしょ」
「リグルちゃんは?」
「あんたには関係ないでしょ」
「……」
わたしはナズさんから渡された袋を差し出す。
「なにそれ」
「つまらないものだけど……」わたしは袋の中身を床の上にぶち撒けた。「外の世界の瓶の蓋。王冠って言うんだって」
「……」
みすちーはまたぞろ自分の世界に引きこもってしまった。ナズさんめ!なにが『これを渡せば絶対に喜ぶ』だ。
王冠を蹴散らして、わたしはみすちーの隣に座った。
「こっちに来ないで」
「なに見てるの?」
「響子ちゃんには関係ないでしょ」
「わたし達、もう終わりなの?」
「そう言わなかったっけ?」
「だって、理由もなにも聞いてないもん」
「聞けば納得するの。じゃあ教えてあげる。あんたがウザくなった。それだけ」
「みすちー」
「なによ。なんなのよ、このしみったれたジャンキー」
「それ、なに見てるの?」
「……」
みすちーがノートを閉じ、立ち上がった。わたしに蹴散らされた王冠を念入りに蹴散らし、台所に入り、すぐに戻ってくる。彼女の手にはライターが握られていて、そのまま玄関から外に出てしまった。
しばし逡巡してから後を追った。みすちーの足下に小さな火が灯っている。さっきのノートが燃えていた。
「これはね、わたしの考えた詩をしたためたノート」みすちーの表情があのときと同じだった。炎と対照的な、冷たい顔。「響子ちゃんもこうやってわたしを裏切ったんだ」
「裏切ったわけじゃないよ」
「あれが裏切りじゃないってんなら、ユダだって正直者扱いされるよ」
「二人で前に進みたかったんだ」
「よかったね、前には進めたよ。お互いに別々の道だけど」
「みすちー……」
「なによ」
「みすちーは裏切り者じゃないけど、嘘つきだ」
びゅうびゅう吹く風が炎の勢いに拍車をかけ、ノートを完全に灰にしてしまった。
「みすちー、だったらなんで泣いてるの?」
みすちーが落ち着くまでの間、わたしはずっと彼女の隣にいてあげた。わたしは久々に充実感を得ていた。だれかといっしょにいたかっただけなのかもしれない。自分の心を埋めてくれるだれかと。
忍び込んだ夜気が部屋を満たすころ、みすちーは粘ついた口を開こうとしては失敗した。わたしはいくらでも待つことができた。このまま世界が破滅したって構わなかった。どうせ行き着くところは死だけなのだから。
みすちーから意味のある言葉が紡がれたのは、それから十分ほど経ったあとだった。
「ずっとね、みんなが言ってたんだ」
わたしは言葉を待った。
「響子ちゃんがああなったのは、わたし達のせいだって」
「それって、だれのこと?」
威圧したつもりはないのだが、みすちーは小さく、ごめんなさい、と言った。それがわたしに対する謝罪じゃないと気がついたのは、すぐあとだった。
「お寺の人たち」
いきなり吐き気が込み上げてくる。が、わたしは動けなかった。動くと吐く。けど、どっちにしろ吐きそうだ。喉に異物を突っ込まれたような気分だ。命蓮寺のことをそう認識しているのが心苦しい。
「ちょ、ちょっと待って……」言いたいことを整理する。「なんで命蓮寺が出てくるの……?」
「響子ちゃんに内緒で会ってたんだ」
「そ、そうじゃなくて。命蓮寺は関係ないよ。そもそも『ああなった』って、どういう状態のことを言ってるの?」
「薬とかお酒とかセックス三昧のロックかぶれになっちゃったこと」
「……」
怒るべきなのか悲しむべきなのか、笑うべきなのか迷ったので、黙って続きを聞くことにした。
「響子ちゃん」みすちーの目は真剣そのものだった。「響子ちゃんは、自分が音楽を始めようとしたときのことを覚えてる?」
「そんなの!」
忘れるはずもない。それを忘れるくらいなら、初めから音楽なんかに手を出さない。
言葉が続かなかった。
「響子ちゃん」わたしを抱きすくめるみすちー。「ごめんね」
わたしはみすちーを引き剥がし、尻に火がつくような勢いで後ずさる。どうにかして自分を納得させられそうな理由をでっち上げようとする。食っていくため?世の中を見返すため?
そんな馬鹿な。
「聖さんが言ってたよ」みすちーの声がひどく遠い。「響子ちゃんはね、聖さんみたいにだれかを救いたいって言ってたんだって」
「……」
みすちーの口から、過去のわたしの発言を聞いた瞬間、すべてに納得がいったような気がした。都合のいい解釈かもしれない。だけど、音楽に感動するのも、とどのつまりそういうことだ。みんな自分勝手に生きている。それこそがこの世界の真理で、真理に歯向かうなんてまったく馬鹿げた行いだ。
だというのに、聖さまたちは自分に都合の悪い解釈で己の首を絞めている。わたしにとって都合のいい解釈をしようとすると、あの人たちを苦しめることになる。ああ、そんな単純なことだったのか。わたしはだれかを救いたかった。たったそれだけのことだったのに。
「聖さまの過去を聞いたときに、だれかのために生きるってことは、自分の幸せをだれかにかすめ取られることなんじゃないかって思ったんだ」堰を切ったように言葉が溢れ出す。「聖さまはかすめ取られてきた。自分の幸せを。でも、あの人はだれかを恨んだりしなかった。それが自分のやりたいことの結果だったからだと思う」
「それは、その……」みすちーは言葉を探すように部屋を見回した。この部屋からは完全に抜け落ちてしまった言葉を。「なんていうか……」
「ロックだって思ったんだ」わたしは胸を抑えた。「聖さまの生き方は、ほかのだれかには到底理解のできないものだった。人間も妖怪も救う?ぶっちゃけ馬鹿げてるよ。でも、わたしはそれに救われた。お寺にいまいる人たちもみんな救われたんだ。ねえ、みすちー。だれかを救うって、ほとんど奇跡みたいだと思わない?」
「わたしはそんな奇跡と出会ったんだよ」
「みすちー?」
「響子ちゃんがいっしょにバンドをやろうって言ってくれたとき」みすちーの目に涙が溜まった。「思わず神さまに感謝しちゃったよ」
わたしは最低だ。最低の裏切り野郎だ。自覚なくあらゆるものを裏切った。命蓮寺のことも、みすちーのことも。だけど、わたしがこうなったのは自分たちのせいだと思っている。
「響子ちゃん、聞いて」涙を拭ったみすちーが、わたしの肩を掴んだ。「響子ちゃんがジャンキーになったのはお寺の人たちのせいだって、わたしも思うの」
「……」
「いまの響子ちゃんはね、響子ちゃんであって響子ちゃんじゃない」
わたしは自分に問いかけてみる。おい、そうなのか。おまえは幽谷響子じゃないのか?
「わたし達妖怪は人間の理解できないものへ対する恐怖から生まれた。もしもその妖怪へ対する認知が変わったら?」
「別の存在に変わるってこと?」
「聖さんたちの、ロックに対する理解の足りなさが、響子ちゃんをよくない道に進ませるんじゃないかっていう恐怖を生み出した」
馬鹿げてる、と言えなかった。みすちーはずっと聖さまたちに会っていて、わたしを心配する様子をきっと間近で見てきたのだ。それを馬鹿げてるなんて言ってしまうのは、あの人たちの気持ちを無下にしてしまうということになる。
なにより、わたしの中にも確信があった。もしもわたしが命蓮寺の影響を受けて変わってしまったというのなら、みすちーだって変わってしまったはずだ。薬と酒とセックスのジャンキーに。だって、わたし達は同じバンドのメンバーで、運命共同体なのだから。
驚くほどすんなりとみすちーの話を受け入れてしまう。都合のいい解釈かもしれない。だけど、そう、救われるとはそういうことなのだ。ちゃんと心を開いてれば、わかっていたはずなのに。
そしてまだ、救われるべき魂がいる。
「みすちー」わたしは肩に置かれていた彼女の手を握った。「リグルちゃんに会いに行ってくる」
※
リグル・ナイトバグはいつかのライブハウスのバー・スペースで酒を飲んでいた。その背中の寂しさときたら、まるで夜を背負っているようで。
踊り狂う人たちの中で、わたしとリグルは出会った。そして、少しだけ話をし、ちょっとだけいっしょに仕事をしないでもなかった。彼女との関係はたったそれだけだ。みすちーの屋台には足しげしく通っていたらしいけど、ぜんぜん記憶にない。
みすちーの言葉を思い出す。
響子ちゃんを追い出して、リグルちゃんと暮らそうとしたのは本当だよ。でもね、リグルちゃんといっしょにいる間も、わたしが見ていたのは響子ちゃんの幻影だった。たぶん、リグルちゃんにはそれがわかっちゃったんだ。
わたしは尋ねた。それで、みすちー。リグルちゃんとは寝たの?
痛みの残った左頬を手で抑えながら意を決してリグルの隣のスツールに座る。リグルがちらりとこっちを見たが、わたしはお構いなしにバーテンダーにディタベースのスプモーニを注文し、タバコに火をつけた。
「上等だよ、この野郎」と、いきなり怒気含みのリグルが胸ぐらを掴んでくる。「あのときの続きをやりにきたんだな」
「それでもいい」わたしは抵抗しなかった。「だけど、続きをやるなら徹底的に終わらせようぜ」
わたしはスツールから引っぺがされ、地面に落っこちる。かなり派手な音が鳴ったと思ったが、観衆はステージの上の音楽に夢中だった。
リグルがガラスの灰皿を持って突進してくる。わたしはなんとか立ち上がり、近くにあったスツールを野郎に向けて放り投げた。顔面に直撃したが、リグルの馬力を殺すことはできなかった。
勢いのついた灰皿がテンプルに直撃する。一瞬、視界が暗転するが、すぐに意識を取り戻す。
ラブ・ポンプが完成し、世に出た時点で幽谷響子は終わってしまった。あの渾身の一曲はだれも救わなかった。それだけのことだ。
だけど、こいつは?あのとき、リグルはわたしと間違った道に踏み出した。外来種の虫を売りつけようとしてこっ酷い目に遭い、みすちーからはその肉体を幻想を重ねてとしか見られず。
リグルはいまも間違い続けている。或いは、世界がこいつを間違った存在にしている。本当はわかってるんだろ、わたし達はこんなやつじゃない──
「うおおおお!」リグルの声は歓声に掻き消されてだれにも届かなかった。「死ね、コラ!」
わたしの血で滑ったガラスの灰皿が、リグルの手からすっぽ抜ける。その隙を逃さず、わたしはリグルにタックルをかました。わたし達はもみくちゃになりながら、店の外に転がり出た。月だけがわたし達の決闘の見届け人だった。
「みんなみんな、自分を愛そうとしているだけだ!」リグルに馬乗りになり、やつの顔面に向けてパンチを振り下ろす。「生きるってそういうことだろ!」
眼間に堀川さんの姿が映り、その通りよ、と言って消える。
「なにわけのわかんないこと言ってんだ、このボケ」リグルの膝がわたしの背中に突き刺さった。「いまから死ぬんだよ、おまえは!」
体勢を崩したわたしとリグルは上と下で逆さまになる。リグルが一心不乱に拳を振り下ろしてくる。妖怪の威厳にかけて、わたしを殺そうとする。そうだ。それでいい。リグルがわたしを殺したとき、あのときの続きが終わったとき、きっとまた始まる。
殴られすぎてなにも見えなくなる。夜と見分けのつかない闇の中で、わたしは声を聞く。リグルの怒声に混じっていたその声は、次第に鮮明になってわたしの脳みそまで届いた。闇の世界の住民……夢の中で何度も会ったことのあるやつだ。
──もういいの?
ああ、もういいよ。ここから先はあんたの出番だ。
──ぜんぶ理解したつもりなんだね。
あんたが本物の幽谷響子ってことはわかってるつもりさ。
──まだやりたいことがあるんじゃないの?
これ以上、無様を晒せってのかい。
──聖さまがそんなに愛しい?
あんたは違うのかい。
──わたしには出来ないことを、あなたはやってくれた。
そうかもね。
──でも、あなた自身がやりたいことを、あなたはまだなんにもやってない。
どうしろっていうんだ?
──わかるよね?あなたも幽谷響子なんだから!
意識が現世に戻ってくる。リグルはまだわたしの上に乗っていたが、攻撃をしてくる気配はない。わたしの息の根を完全に止めたと思っているか、休憩でもしていた。
「うわっ⁉︎」
一臂の力でリグルを身体の上からどかす。起き上がる力も声を出す余裕ももはや失くしていたが、そういうものとは別のエネルギーが身体の芯から湧いてくる。
「くそっまだ死んでないのかよ!」
「妖怪ってのは……」上体を捻り、地面に手をつく。リグルを睨みつけながら、わたしは言った。「だれかに忘れ去られない限り、死なないのさ」
リグルの蹴りが飛んでくる。わたしはそれをモロに食らった。神聖な感じのする一撃だった。本気のものにはいつだって神聖なものが宿る。
だからわたしは、いつまでもリグルに殴られることができた。
いつまでも、いつまでも。
「もういいよ」
殴られすぎて気持ちよくなってきたころに、リグルが言った。ボヤけた視界に映るリグルは、憑き物の取れたような顔になっていた。
「もういいの?」切れた口の中が痛む。
「ああ」血だらけの手を払いながら、「おまえなんか殺しても、なんにも面白くないや」
わたしはリグルに手を伸ばした。リグルはその手を掴み、立ち上がるための助けをくれた。
わたしは心の中に語りかけた。リグルは救われたかな。少なくとも、マイナスの状態ではなくなったかな?わたしの中の幽谷響子はなんにも答えてくれない。
そうか。わたしも幽谷響子だからね。自分で決めることにするよ。
「リグルちゃん」彼女の手を握る手に力が籠もる。「ごめんね、あのときは」
「おまえなんかを雇ったわたしが馬鹿だったのさ」
「……」
「じゃあね」
背を向けて歩き出すリグルを、わたしは呼び止めた。
「みすちーが謝ってたよ」
振り返ったリグルの笑顔には、どこか懐かしい面影が張り付いていた。
「わたしとあの子は、客と女将ってだけさ。いまも、むかしもね」
それから手を振り、また歩き出した。
だれもが自分の愛し方に疑問を抱いている。それはもう、取り返しのつかないレベルで。
わたしはライブハウスのドアを開けた。狂気的な熱に浮かされた空気が外に漏れ出す。心臓に響く重低音と、世界を滅ぼしかねない歓声に気圧されながらも、わたしは中に入った。散乱した灰皿やスツールはそのままの状態だった。
死にゆく心に鞭を打って、わたしは群衆の中に分け入った。だれもわたしなんかに気を留めない。わたしがいることに気がついてすらないみたいだ。わたしとこいつら、そしてステージの上の連中とでは、見えてる世界が違うのだろう。
わたしも記憶に残そう。これから見る世界を。そして、託すのだ。本来のわたしに。それがわたしのやりたいこと。その世界はきっと色褪せていて、殺しの風が吹いていて、だれにも共感の得られないものかもしれない。けど、わたしっていうのはそういうやつなのだ。矛盾に満ち、死の気配で溢れ、夜を崇拝する。
これもひとつの音楽家の形として、悪くないだろう?
自然と笑みが溢れてくる。あいつが笑ったのだ。わたし達はとうとうひとつになる。
わたしはステージに立った。一瞬のどよめきが、悲鳴や息を呑む音に変わった。殴られまくってほとんど変形しているわたしの顔を見て、ステージ上にいたやつらが後ずさる。
中央に立ち、ステージ下を見下ろす。どいつもこいつも、魂の抜け落ちたような面をしていた。与えられていたおもちゃを取り上げられた子供のような、そんなあどけない顔を。
その中に、知ってる顔もあった。みすちー。堀川雷鼓。聖さま。水蜜さん。マミゾウ さん、星さん、ナズさん。そして、一輪さん。
いま、帰ります。声に出さずに言った。次の瞬間、見知った顔はみんなどこかに消えていた。
ギターを拾い、構える。
わたしの物語が終わり、わたしが物語を始める。
「幽谷響子!」魂の名を叫ぶ。「『ラブ・ポンプ』!」
『もうロックしか聞こえない』
響子ちゃんがだれかを救いたかったように、わたしはすべてを愛したかった。響子ちゃんのすべてを。
初めて響子ちゃんからバンドの話を持ちかけられたとき、わたしは彼女に言いたかった。あなたの目的はもう達成しちゃったね。だって、わたしのことを救ってくれたんだから!
わたし達は曲を作ったり練習したり、幸せな日々だった。展望はないけど、向こう側からやってくる未来のことをちゃんと感じていた。屋台も手伝ってくれた。究極のところ、わたしには音楽がなくってもよかった。響子ちゃんといっしょになにか出来るなら、バンドだろうが習字だろうがセックスだろうが関係なかった。
だけど、多くの場合にそうであるように、幸せな生活は長く続かなかった。いつまで経っても鳴かず飛ばずのバンドに、響子ちゃんは焦っていた。なにが悪いのか、どうして人の心に届かないのか、ずっと悩んでいた。聖さまと同じように、ロックというものを持て余していた。
ある日、わたしは響子ちゃんに尋ねた。
「どうしてロックを始めたいと思ったの?」
「どうしてって、わたしは聖さまみたいに……」
「そうじゃなくて、なんでロックなのかなって。ほかの方法はなかったの?」
「……わかんない。でも、聖さまの生き様を知ったときに、心の中になにかが芽生えたんだ。泥臭くて、醜くて、だれにも理解されなくて……そういう感情がなんなのか人に訊いたりしているうちに、ロックンロールを知ったの」
いまにして思えば、『もうひとりの響子ちゃん』が彼女の中で産声をあげたのは、そのときが最初だったのかもしれない。
バンドはずっと売れなかった。このまま永遠に売れないんじゃないかっていう不安が焦っているわたし達の背中を押した。そのうち売れることばかり考え出して、ライブでの過激なパフォーマンスなんて小手先をやりだした。わたしがライブ中に亀の首を食いちぎったのが決定的だった。響子ちゃんはお寺を破門にされて、不安を掻き消すための薬、酒なんかに手を出した。
響子ちゃんをセックスに誘ったのは、わたしの方だった。不安だったのだ。響子ちゃんがバンドの夢を諦めてしまうのが。彼女を繋ぎ止めようとして、わたしは響子ちゃんに身体を重ねた。響子ちゃんは戸惑っていたけど、手のつけられないほどのものではなかった。
そのときから響子ちゃんは変わってしまった。堕落へと垂直に落ちてく響子ちゃんを、わたしはどうすることも出来ずに見ていた。だけどそれは、響子ちゃんが弱くなったということじゃない。本当に別の存在に変わってしまったのだ。響子ちゃんの名誉のために、わたしはそう思いたい。
そして、変わったといえばわたしも変わってしまった。バンドはほとんど諦めていた。響子ちゃんが垂直に堕ちていくのに対し、わたしはフラフラとどっち付かずな存在になっていた。響子ちゃんといっしょにいたいという気持ちと、彼女を無理にでもお寺に戻したいという気持ち。その狭間でわたしは苦しんで、逃げ出すこともあった。
けっきょく、だらだらと続いてしまったのだけれど。
お寺に戻すべきだ、と言うわたしに聖さんは「響子が決めたことだから」と言って聞かなかった。響子ちゃんの意思を尊重してそんなことを言ったのだろう。信じられない、とわたしは思った。響子ちゃんのことを想うなら、絶対にお寺に戻した方がいいはずなのに。破門したからとかそんなのは関係ない。おまえ達のせいで響子ちゃんはおかしくなっちゃったんだ!
だけど、その言葉を聞いたとき、わたしは安心感も覚えていた。響子ちゃんがお寺に戻らずに済む──言質を取ったつもりでいた。ずっとこのまま、永遠にだらだらと続いていく。永遠なんて悲しみの友達みたいなもの。長く付き合ってたらダメになってしまう。
響子ちゃんがギターや詞を焼き尽くしたときは、どうしたらいいかわからなくなってしまった。響子ちゃんはあのとき、たぶんだけど、元の響子ちゃんが表に出ようとしていたんじゃないかと思う。それは、わたし達の生活の終わりを意味していた。
嫌だったけど、それが響子ちゃんのためでもあった。彼女を追い出し、いなくなった枠にリグルちゃんを嵌めようとした。最低だというのはわかってる。でも、だれかといっしょに居たいっていう気持ちに嘘をつくことは出来なかった。孤独とは友達になりたくなかった。
でも「だれか」じゃダメだった。響子ちゃんじゃないと、わたしには耐えられなかった。リグルちゃんといて気がついてしまった。わたしはひとりしのことしか愛せないのだと。響子ちゃんをダメにしたのはお寺の人たちだなんて、そんなの言い訳でしかない。響子ちゃんをダメにしていたのはわたし。わたしといたら、響子ちゃんは取り返しがつかなくなってしまう。
だから、ライブハウスのステージで倒れた響子ちゃんを、わたしはお寺に送り届けたのだった。
※
「……ふーん」
わたしの話をお終いまで聞くと、ナズーリンさんはすっかり温くなったお茶を啜った。わたしの前にも手付かずの、酷く裏切られた様子の茶飲みがあった。
なにもかもを裏切ってしまったような気分だった。響子ちゃんのことも、リグルちゃんのことも、目を覚ましたと教えに来てくれたナズーリンさんのことさえも。
「じゃあ、響子ちゃんに会う気はないってこと?」
頷く。「わたしに響子ちゃんと会う資格なんかないです」
逃げ道のない沈黙が部屋を満たす。ああ、どうしてそんなことを言ってしまったの?ミスティア・ローレライ!
会う資格なんかない。それは浅ましい真実でしかない。たしかにわたしは響子ちゃんを酷い目に遭わせた。でも、だれかと会うのに資格が必要だなんて、そんな決まりは聞いたことがない。わたしが勝手に決めただけ。本当は会いたくて会いたくて仕方がないくせに。
でも、それは身勝手な理由。わたしが救われるためだけの、お寺の人たちにとっては不都合な理由。お寺の人たちはわたしと響子ちゃんを会わせたくないかもしれないし、響子ちゃんだってわたしと会いたくないかもしれない。
いい加減にしろ、ミスティア・ローレライ。内なる自分が責め立てる。ナズーリンさんがわざわざ来てくれたってことは、つまりそういうことでしょ?お寺の人たちはあんたと響子ちゃんを会わせることになんとも思ってない。だったら自分に正直になればいいのに。
「くだらないことで悩んでるだろ」
ナズーリンさんの言葉に、思わず脊髄で反論したくなってしまう。なに?そのなにもかもを見透してるようなニヤケ面は。あんたになにがわかるっていうの?
「あなたになにがわかるって言うんですか」脊髄の赴くままに言った。
ナズーリンさんは、やれやれ、と言った感じに首を振り、世の中にはもっとどうしようにもならないことがたくさんあるんだぞ、とばかりにため息を吐いた。
「ガキだな、君も」
「なにィ⁉︎」
「響子ちゃんが納得してるとでも思ってるのか?」その言葉の意味を計っている間にナズーリンさんは続けた。「たしかにあの子が狂ったのは周りのせいかもしれない。でも、本人がそれで納得出来るわけないだろう。いろんな人に迷惑をかけたわけだからな、あの優しい子が……いまも苦しんでるんだよ」
「……」
「あの子は優しいから、周りが自分を責めてたりすると、慰めずにはいられない。本当は自分のせいだと言いたいのにな。響子ちゃんの気持ちを汲んでやれ。いまのあの子に必要なのは傷を治してくれる薬なんかじゃなくて、傷を舐め合える後ろめたい同胞さ」
わたしは黙っていた。決してナズーリンさんのことを無視していたわけではないのだけれど、彼女はそれを無礼な態度だと受け取ったらしくて。
「なんでわからないんだ」口調が冬の風みたいに鋭利になって。「君たちはそうやって生きてきたんじゃないのか?」
わからない。わからないわからないわからない。わたしはどうしたいの?響子ちゃんはどうしたいの?なぜ、いっしょに暮らしていたわけでもないナズーリンさんが響子ちゃんのことをこんなに理解しているの?
「わたしは……」連動しているみたいに言葉と涙が溢れてくる。「だって、その、わたしは……」
ナズーリンさんはちゃぶ台の上に頬杖をつきながらも、おざなりな感じは一切しなかった。
「だって……だって……」
「もういいよ」
「でも!」
「はやく会いに行きなよ」
「うわああああ!」
わたしは立ち上がり、取るものも取らずに外に出た。
ちくしょう、ナズーリンさんはなんでロックをやらないんだ?わたし達なんかよりよっぽど売れるだろうに。
やらせるもんか。響子ちゃんと長いこといっしょに暮らしていたという点では、お寺の人たちに負けていないんだから!
※
お寺の近くまで来て、この期に及んでわたしは立ち竦んでいた。というのも、響子ちゃんを見つけたのだ。彼女はいま、門の前でお経を唱えながら慣れたふうに箒でゴミを掃いている。
それがあまりにも当たり前すぎて、狼狽えることしか出来ない。わたしは夢でも見ていたの?あの子が薬やお酒やセックスに狂っていたなんて、どうしても認められない。
正味なところ、もう帰ろうかと思った。それが出来なかったのは、響子ちゃんの方がわたしに気づいてしまったからだ。
「みっちゃん!」
「……」
懐かしい響きが、まるで薔薇の棘みたいに心に突き刺さる。美しい薔薇。だけど、それがいまのわたしにはあまりにも痛くて。
「みっちゃん、みっちゃん!」
駆け寄ってくる響子ちゃん。避けようにも制止しようにも、純粋すぎる笑顔がわたしを金縛りにする。
成す術もなく抱きつかれる。響子ちゃんとは抱いたり抱かれたりする仲だったけど、こんなにも満たされるハグは初めてのことだった。まるで卵を温める親鳥のように温かく、優しく、決然とした感じで。
またしても涙が出てくる。
「会いたかったよう!」胸に顔を埋める響子ちゃん。そこに邪な意思はなくて。「ああ、みっちゃん……ミスティア!」
彼女を抱き留める以外に、なにが出来る?わたし達はしばしの間、二人だけの時間を享受した。神様がくれた時間。世界が認めてくれた時間。わたし達の時計の針は、悲しい時間を差したまま止まっていた。
響子ちゃんの温もりを確かめていた。ふと顔を上げると、聖さんと一輪さんがわたし達を見ていた。まるでどうにもならない運命に平伏しているみたいに。
やってられないよね、響子ちゃん。けっきょく、わたし達の思い通りになることなんかひとつもないんだ。だって、わたし達はだれかの想いから生まれて、だれかの想いによって死んでいく。肉体は幻想でしかなくて、心でさえ自分で培ったものとは言い切れない。
でも、それ以上にどんな意味が必要だっていうの?ミスティア・ローレライと幽谷響子。この二つがたしかに存在している。わたし達の世界にそれ以上のものは必要ないよね?
わたし達は永遠に抱き合っていられた。永遠っていうのは悲しみの友達みたいなもの。それでも、いまなら受け入れられるような気がする。
わたしと響子ちゃんは門前に座り込み、それぞれの時間を過ごした。言葉は必要じゃなかった。というより、必要な言葉が思いつかなかった。さっきの抱擁以上に必要な言葉が。
そうして無言の時間が過ぎていく。けど、それは決して無駄なものではなくて。凍りついた約束が溶解していくのを確かめるような幸せな時間。
「みっちゃん?」せっかちなのはいつも響子ちゃん。「わたしね、あのね……」
まるで何年かぶりに喋るかのようなたどたどしさに、彼女に対する愛おしさが漸増する。
「あのね、無駄じゃなかったと思ってる」
「それって?」
「わたしがいまのわたしじゃなかったときのこと」
「……」
「ごめんね。でも、そう思いたいんだ。あれもわたしだったから」
「うん」釈然としないまま、わたしは頷いた。「そうだね」
「わたしね、まだロックをやりたい」
諦めに似た感情が胸に込み上げてくる。
「なんていうか……だれかのためでもありたいけど、わたしのためにもそうしたい」
「わかるよ」今度は納得出来る。「響子ちゃんの言う『わたし』って、あの子のことでしょ?」
「そんなふうに言わないで。あれもわたしなんだから」
「そうだね」走馬灯のように『あの子』と過ごした日々が蘇ってくる。「ごめん」
夢を見るの、響子ちゃんは訥々と語り出した。遠くには山があって、夜空にはすっかり肥えてしまった月。虫たちが先人たちの作った轍の上を歩いていて、まるで地獄絵図。でも、すべてが揺るぎなくて。
「蠍と蛙がいたんだ」響子ちゃんはまさにこの部分が重要なんだとばかりに抑揚をつける。「蠍がね、川を渡るために蛙の背中に乗せてもらうんだけど、蠍は蛙の背中を刺しちゃうんだ。で、二匹とも川に沈んじゃうの。でもね、蠍にとってはそうするのが普通だから」
「うん」
「それって不幸なことだと思う?」
わたしはしばし考えるふりをしてから、首を振った。「ううん、思わない」
「だよね」響子ちゃんが笑う。「それって自分に正直だってことだもんね」
わたしも笑い返す。こんなにも単純で、幸せな時間は初めて体験したかもしれない。
「わたしもね『みすちー』と過ごした時間を受け入れるんだ。正直にね。自分を愛さなきゃ、だれも愛することは出来ない」
「それがロックを続ける理由?」
「うん」屈託のない笑みで響子ちゃんは言った。「わたしはだれかを救いたい。一人目がわたし自身」
響子ちゃんの姿が、以前までの響子ちゃんとオーバーラップする。あなたは幸せ者ね。そんなにも響子ちゃんから愛されて。それでいて、とても不幸な人。だって、たくさんの人から愛されているから。
「いまに見てろよ、プリズムリバー!」響子ちゃんが拳を掲げる。「おまえら以上に多くの人を救ってやるんだから!」
「見てろよ、プリズムリバー!」わたしも拳を掲げる。「おまえら以上に、世界を愛してやる!」
物語がまた始まる。
とてもよかった
読み始めたら一気に読んでしまうある種の中毒性を感じました。
文章の一つ一つすべてにどうしようもないほどのエネルギーが宿っていて打ちのめされる。された。
めちゃくちゃ面白い。本当に面白い。生命力のギラギラが凄まじすぎる。小説に欲しいものが全部あると思った。
どいつもこいつも迷い悩みながら堕落しつつも踏みとどまっていて最高でした
ものすごく面白かったです