昼と夜のあわいの時だった。空の一方は静脈血のように深みのある藍に翳り、もう一方は動脈血のようなどこかなつかしい緋色に焦がれていた。黒々と翳り縁だけがほのかに赤い雲海が心臓のようなマッスで凝り固まり、南の空の一角に重々しく鎮座している。藍と緋と葡萄色の溶け合う絵の具のような淡い混淆を背景に鳥たちは時と時との危うい隙間をくぐり抜けていく。自分より大きい何かに泣訴するかのように、遠く高く鳴き声を空に響かせる烏たちの群れ。慎重に群れなし緊張感を漂わせながらつかず離れず空を飛行する点のような雁の小隊。夕暮れはとても危うい時だから。人間が忘れてしまっても鳥たちはそれをずっと憶えている。
人里の通りは今、塒へと向かう人々によってにぎわっていただろう。雑踏のせわしげな足取り、鍋をかき回す音、醤油とみりんの香り。ぬくもりあふれる生活の気配が通りに立ち込める。忙しい生活の中のささやかなやすらぎの時。しかし事件が起きていたのは幻想郷の中心から遠く離れた周縁の地。現実と幻想の境界線上でのことだった。
枯れはてた土色の川。そのゆるやかなくぼみにわがもの顔でまばらに生い茂る矮躯の草木たち。底に転がる丸石の隙間から首を伸ばし、吹き荒れる風に身体を揺らしながらかれらは皆聞き耳を立てていた。黄昏時というのは実に面白いことが起きる時だ。遠い昔にカミサマが仕掛けた古の魔術。風と陽と雨以外に友人を数えることができない日々の無聊を慰めてくれるような、すばらしいできごと。雑草の魂は好奇で好色だ。びゅうびゅうと吹きつけてくるさびしい秋風に煽られながらかれらは皆聞き耳を立てていた。
川沿いの疎林から、ネズミが一匹そそくさと飛び出してきて茂みの中にサッと隠れる。それにつづいて鈴虫がりんりんと音の玉を転がしながらやってくる。バッタもゴムまりみたいに高い弧を描いてピョンピョン跳んでくるし、ムカデも足をもつれさせながらバタバタと駆けてくる。草木たちはいっせいにささやきかけた。「やあ、いいところに来たな兄弟。今日はとても面白い見世物がやってるぜ。さあ、みんなでいっしょに見物しようぜ……。時は早くすぎるし、光る星はいずれ墜ちるもんだ。さあ、とことん、最後まで…………」――最後に一匹、あわただしげに翼をバタバタさせながら小太りな鳩が舞い降りた。その鳩は場にいる誰よりもマヌケづらだったが礼儀を知ってるエラい子だった。くちばしの先で虫やネズミたちをつっついて味見することもない。お利口さんの幼児の顔つきをして、翼を広げ自分より小さいものたちをかばってやった。さらにその頭上、年寄りの裸木がすっかり薄くなった葉叢を一生懸命風になびかせて、自分より背の低いものたちのために木陰を作ってやっていた。
枯れはてた幻影の流れの中を、忘れ去られた幻のメダカがほの白い尾鰭をたそがれの色に染めて、音もなくしずかに泳いでいった……。
鳩たちのまん丸な目が、雑駁な意思に曇ることない鏡のような目が「それ」を映し出す。
とっても可愛くて、遠い西の国からやってきた娘。ウェーブのかかった淡い金髪に病的なほどに青ざめた白い肌。濃い赤をしたガーリーなお洋服に身を包み夢のようにふわふわした白い帽子をかぶっている。背中に背負っているのは七色に輝く宝石の翼。緋色の夕映えを集めていっそうキラキラと輝いている。ああ、キレイだ。うつくしい。余計な肉のない、お人形みたいに華奢な肢体。きまぐれひとつで折れてしまいそうなあえかな首。でも少女は決して弱くはないのである。その手には煌々と燃え盛る炎熱の剣を持ち、キリリと気迫のこもった凛とした表情で敵と対峙している。かわいらしいけどちょっと恐ろしい<吸血鬼>にして<魔法少女>(なんという甘美ないいとこどりだろう)フランドール・スカーレットちゃんだった。
そしてその背後では金髪のお姉さんが宙に浮く車椅子に深々と背もたれていて、頬杖をつきながらフランと敵との戦いを見守っている。
「クィーギェギェギェッ!!!」
甲高い邪悪な哄笑。フランと対峙していたその妖怪は醜怪な異貌の持ち主だった。その顔はヌメヌメとした粘液がべっとりとついたおびただしい数の触手に覆われている。そして触手の茂みの中ネオンサインみたいにいかがわしい光をまき散らす黄色い四つの眼があり、更に淫水焼けした男性器みたいに黒光りするご立派なクチバシが一本突き出ている。胴体は円柱状で、ブヨブヨとした襞の多い厚い皮で覆われており、その側面から鮮紅色の鉤爪が生えた四本の手足を伸ばしていた。足は鳥のそれとよく似た形をしており滑稽なほど小さかった。そしてしきりに興奮ししきりにけたたましい鳴き声を上げた。中年男の性欲のように見苦しい風貌をした悪神だった。
「いいかフランドール、ヤツは古い土着神だ。しかしとうの昔に信仰を失い存在を忘れさられ、しまいには知性も理性も失い悪神に身をやつした。招かざられる客というわけだ。ここで打ち砕け」
フランの後方、安楽椅子にどっぷりと背もたれた秘神、摩多羅隠岐奈はそういった。フランは答えなかった。緊張にこわばる面持ちで二、三度うなずくだけだった。
悪神が突然、そこだけ妙につるつるした、銀色の光沢を帯びた喉袋をぷっくりと膨らませはじめる。袋はみるみる膨張していきパンパンになった。悪神は次の瞬間破裂音を轟かせ、臭く熱く湿っぽいおくびをたっぷりと吐いた。
「……このっ!」
フランはそれを挑発と受け取った。滑るように地面の上を飛行し剣を振るう。けれども悪神はその見た目からは想像もつかない俊敏さで攻撃を巧みに捌いた。しかもその度短いおくびを「ゲッ、ゲッ」と漏らしフランを嘲弄するのだ。フランの心には次第に焦りと苛立ちが募っていく。その焦りが彼女の動きを散漫にした。繰り出した大振りの一撃はあっさりとかわされてしまい、隙が生まれた。悪神が前歯を剝き出しにして「ククッ」と短い笑い声を上げる。そしてフランめがけてその鉤爪を振るう。
「ううっ!」
鮮血が宙を舞う。甲高い悲鳴を上げフランはもだえた。胸のあたりを袈裟がけに裂かれたのだ。傷は深い。あばらの一部にヒビが入り、息をするだけでズキズキと軋みうずく。せっかくのかわいらしいお洋服に透き通るような深紅の血がべったりとこびりつく。フランはあまりの痛みに奥歯を噛みしめた。そうしてなんとか胸の疼痛をこらえようとしたが、顔面に込められた強すぎる力は別の箇所に作用してしまったようで……
(えっ?)
はらはらと大粒の涙のしずくがこぼれ落ちる。名前を持たない、しかしただひたすらに激しい感情がこみあげてくる。もう戦いどころではなかった。全身から力が抜けていく。手にもっていた剣を落としそうになってしまう。
「何をしているフラン」
ゾッとするほど冷厳な声音。隠岐奈の声。その言葉は冷えた鉄のトゲのように、感情の奔流ですっかり熱されたフランの頭に鋭く突き刺さった。
「隠岐奈……」
すがるような甘えるような、みじめったらしい弱々しい声。しかし隠岐奈はフランの甘えを峻厳にはねつけた。
「弱気になるな。すぐに人をアテにするな。オマエはほんとうにどうしようも甘ちゃんだな」
一拍置いて、隠岐奈は吐き捨てた。
「この『役立たず』が」
視界が一瞬白っぽく眩んだ。搾め木にでもかけられたかのように心が軋み悲鳴を上げている。粘っこいイヤな汗が全身の皮膚から噴き出てくる。
(役立たずって言われた。隠岐奈に……。隠岐奈はもう私のことなんて考えてくれない。イヤだ、イヤだ、イヤだ。そんなの絶対にイヤだ……)
二人の会話を悪神はしばらくの間不思議そうに、もの珍しそうに眺めていた。しかしある時、ハッと我に返り前傾し鉤爪を振り上げた。そして大急ぎでフランを殺しにかかった。
「来ないで!」
耳をつんざくような絶叫。フランは悪神の「目」を握ろうとした。しかし握りしめたと思った瞬間、悪神は身体を揺らしその位置を巧みにずらす。粘液に覆われた軟体動物みたいに「目」がぬるりと手のうちからこぼれ落ちる。
(ならば……)
フランは剣を振り上げ、接近してくる悪神へと投擲した。悪神は腕を振り上げ剣から頭をかばった。その瞬間だけは、悪神の肉体の中腕と剣との接地面の一点が力に強張り不動の「目」となる。フランはすかさず「目」を握り潰した。
大気を揺るがす爆音とともに爆発が巻き起こる。爆風は悪神の片腕をつけ根ごと奪い去ってしまった。悪神はけたたましい悲鳴を上げのたうちまわり、ほとんど黒に近い濃緑をした体液をあたり一面にまき散らした。それは精液に糖蜜を一粒垂らしたような臭気と甘さの混じった臭いがした。
「うるさい!」
フランは地に落ちた剣を素早く拾い上げ、身もだえする悪神の方へと一気に踏み込んだ。
「ゲギャッ!」
狼狽の声を上げ悪神はフランから逃れようとする。フランはその背を執拗に追い容赦なく剣を突き立てた。炎熱の剣が烈しく燃え上がり悪神の身体を焼き焦がす。フランはとどめを刺そうと渾身の力を腕に込め、横一文字に剣を振り払った。
悪神の肉体に巨大な亀裂が走る。決着だった。悪神は地面の上に横たわり、その体は粘土のように固く脆いものに変わりはてポロポロと崩れていった。そして最後には吹きすさぶ落日の風に溶けるようにして消えてなくなってしまった。
「勝った……勝ったよ隠岐奈!」
ボロボロの姿でフランは、期待で胸をいっぱいにして隠岐奈の方を振り向いた。
「よくやったなフラン」
隠岐奈が椅子から下り、フランの方へと歩み寄ってくる。フランは少女らしいあどけのない笑みを浮かべた。隠岐奈に褒めてもらえた。自分は「役立たず」じゃない。
けれども隠岐奈の手にはいつのまにか、黒光りする鋼の杭が握られていた。隠岐奈は握りしめた杭をもう一度傷口を抉るようにフランの身体へと突き立てた。
「どうして……?」
呆然とした表情で尋ねるフランに対し、隠岐奈は怜悧な微笑を浮かべていた。隠岐奈が自分の服の胸あたりを指さす。そこには黒いシミが付着している。
「オマエの不手際のせいだ。私の服にあの穢らわしい悪神のシミがついてしまったぞ。だから、「おしおき」だよフラン」
満月のように濃い金色をした双眸に妖しい光を閃かせ、隠岐奈はフランの顔をのぞきこんだ。舐め回すように粘っこい、執着のにじんだまなざしだった。たちまち湧き上がった寒気が全身の皮膚の上を虫のようにゾロゾロと這い回る。切迫した恐怖の感覚があどけない少女の顔をむごたらしく歪める。しかし隠岐奈は容赦せず愉快そうな笑みすら浮かべますます深々と杭を差し込んでいく。あばら骨の軋む音が身体の内側から聞こえてくる。やわらかな臓腑が傷つけられ、破け、ドロドロした熱い血が噴き出してくる。
喉に何か粘っこいものが絡みついてくるのを感じ、フランは咳きこんだ。血のしずくがあられのように宙を舞い隠岐奈の顔や衣服を穢した。
(あ、ああ……)
「また粗相をしたな、フラン」
隠岐奈が微笑を浮かべ鉄の杭をねじる。内臓がかき回され更に血があふれてくる。胸から、背から血があふれ出して、腹を、尻を、股を、腿を穢す。肉体の内側と外側の境目すらはっきりとしなくなる。肉も骨も想いも少女を作るすべてが融解し、あふれ出す血に混じり身体の外へと流れ出ていく……
「あああ……」
苦痛に身体をのけぞらせ、ギュッと力を込めまぶたを固く閉ざす。かすかに開いた口元から甘やかな苦悶のうめきが漏れる。境目がなくなったのは肉だけではない。苦痛と快楽の見分けもつかない。隠岐奈が杭によって肉体をかき回すたび、烈しい痛みが稲妻のような細い筋となって全身を走る。けれども痛みが絶頂に達した途端、途方もなく奥深い、たっぷりとした快楽が湯水のように溢れ魂を浸しもする……。
「もっと、もっとやって……。お願いだからもっと……」
閉ざされたまぶたから、搾りだされるようにして透明なしずくがこぼれ頬を伝う。しずくは真っ白なフランの肌の上、夕映えを集めキラキラと澄んだ光を放った。隠岐奈はフランの言葉に応え剝きだしにされたそのあえかな首筋へと手を伸ばす。隠岐奈の手は冬場の鉄のように冷え切っている。しかし痛みと快楽に肉体を火照らせたフランにとってはその冷たさが染み入るように心地よいのだった。
隠岐奈の手の甲が筋張る。フランの喉に強い力が込められる。すぐさまやってくる窒息の苦しみ、しかしそれも快楽と表裏一体。フランの脳はたちまち痺れていく。澄み渡った水のような快感によって煩雑な思念はたちまち漂白され洗い清められる。針のように研ぎ澄まされた官能の切っ先に、何か巨大なものの真っ白であたたかなたなごころがそっと触れようとしてくる。不思議ななつかしさの時。魂のやすらぎの時。
フランはかすかに目を開いた。藍と緋が混ざり合った夕暮れの空はもう見えなかった。水面に映る陽を水底から見上げるような、キラキラと輝くまっさらな光だけがそこにはあった。
フランはたそがれという時の核心とその恩寵に触れたのだった。それには法悦の感覚がともなう。そしてフランの魂もまた境目にあった。蛹の内部のドロドロに融解された中身のように、あらゆる変化の可能性を秘めた生白い「うみ」だった。
人里の通りは今、塒へと向かう人々によってにぎわっていただろう。雑踏のせわしげな足取り、鍋をかき回す音、醤油とみりんの香り。ぬくもりあふれる生活の気配が通りに立ち込める。忙しい生活の中のささやかなやすらぎの時。しかし事件が起きていたのは幻想郷の中心から遠く離れた周縁の地。現実と幻想の境界線上でのことだった。
枯れはてた土色の川。そのゆるやかなくぼみにわがもの顔でまばらに生い茂る矮躯の草木たち。底に転がる丸石の隙間から首を伸ばし、吹き荒れる風に身体を揺らしながらかれらは皆聞き耳を立てていた。黄昏時というのは実に面白いことが起きる時だ。遠い昔にカミサマが仕掛けた古の魔術。風と陽と雨以外に友人を数えることができない日々の無聊を慰めてくれるような、すばらしいできごと。雑草の魂は好奇で好色だ。びゅうびゅうと吹きつけてくるさびしい秋風に煽られながらかれらは皆聞き耳を立てていた。
川沿いの疎林から、ネズミが一匹そそくさと飛び出してきて茂みの中にサッと隠れる。それにつづいて鈴虫がりんりんと音の玉を転がしながらやってくる。バッタもゴムまりみたいに高い弧を描いてピョンピョン跳んでくるし、ムカデも足をもつれさせながらバタバタと駆けてくる。草木たちはいっせいにささやきかけた。「やあ、いいところに来たな兄弟。今日はとても面白い見世物がやってるぜ。さあ、みんなでいっしょに見物しようぜ……。時は早くすぎるし、光る星はいずれ墜ちるもんだ。さあ、とことん、最後まで…………」――最後に一匹、あわただしげに翼をバタバタさせながら小太りな鳩が舞い降りた。その鳩は場にいる誰よりもマヌケづらだったが礼儀を知ってるエラい子だった。くちばしの先で虫やネズミたちをつっついて味見することもない。お利口さんの幼児の顔つきをして、翼を広げ自分より小さいものたちをかばってやった。さらにその頭上、年寄りの裸木がすっかり薄くなった葉叢を一生懸命風になびかせて、自分より背の低いものたちのために木陰を作ってやっていた。
枯れはてた幻影の流れの中を、忘れ去られた幻のメダカがほの白い尾鰭をたそがれの色に染めて、音もなくしずかに泳いでいった……。
鳩たちのまん丸な目が、雑駁な意思に曇ることない鏡のような目が「それ」を映し出す。
とっても可愛くて、遠い西の国からやってきた娘。ウェーブのかかった淡い金髪に病的なほどに青ざめた白い肌。濃い赤をしたガーリーなお洋服に身を包み夢のようにふわふわした白い帽子をかぶっている。背中に背負っているのは七色に輝く宝石の翼。緋色の夕映えを集めていっそうキラキラと輝いている。ああ、キレイだ。うつくしい。余計な肉のない、お人形みたいに華奢な肢体。きまぐれひとつで折れてしまいそうなあえかな首。でも少女は決して弱くはないのである。その手には煌々と燃え盛る炎熱の剣を持ち、キリリと気迫のこもった凛とした表情で敵と対峙している。かわいらしいけどちょっと恐ろしい<吸血鬼>にして<魔法少女>(なんという甘美ないいとこどりだろう)フランドール・スカーレットちゃんだった。
そしてその背後では金髪のお姉さんが宙に浮く車椅子に深々と背もたれていて、頬杖をつきながらフランと敵との戦いを見守っている。
「クィーギェギェギェッ!!!」
甲高い邪悪な哄笑。フランと対峙していたその妖怪は醜怪な異貌の持ち主だった。その顔はヌメヌメとした粘液がべっとりとついたおびただしい数の触手に覆われている。そして触手の茂みの中ネオンサインみたいにいかがわしい光をまき散らす黄色い四つの眼があり、更に淫水焼けした男性器みたいに黒光りするご立派なクチバシが一本突き出ている。胴体は円柱状で、ブヨブヨとした襞の多い厚い皮で覆われており、その側面から鮮紅色の鉤爪が生えた四本の手足を伸ばしていた。足は鳥のそれとよく似た形をしており滑稽なほど小さかった。そしてしきりに興奮ししきりにけたたましい鳴き声を上げた。中年男の性欲のように見苦しい風貌をした悪神だった。
「いいかフランドール、ヤツは古い土着神だ。しかしとうの昔に信仰を失い存在を忘れさられ、しまいには知性も理性も失い悪神に身をやつした。招かざられる客というわけだ。ここで打ち砕け」
フランの後方、安楽椅子にどっぷりと背もたれた秘神、摩多羅隠岐奈はそういった。フランは答えなかった。緊張にこわばる面持ちで二、三度うなずくだけだった。
悪神が突然、そこだけ妙につるつるした、銀色の光沢を帯びた喉袋をぷっくりと膨らませはじめる。袋はみるみる膨張していきパンパンになった。悪神は次の瞬間破裂音を轟かせ、臭く熱く湿っぽいおくびをたっぷりと吐いた。
「……このっ!」
フランはそれを挑発と受け取った。滑るように地面の上を飛行し剣を振るう。けれども悪神はその見た目からは想像もつかない俊敏さで攻撃を巧みに捌いた。しかもその度短いおくびを「ゲッ、ゲッ」と漏らしフランを嘲弄するのだ。フランの心には次第に焦りと苛立ちが募っていく。その焦りが彼女の動きを散漫にした。繰り出した大振りの一撃はあっさりとかわされてしまい、隙が生まれた。悪神が前歯を剝き出しにして「ククッ」と短い笑い声を上げる。そしてフランめがけてその鉤爪を振るう。
「ううっ!」
鮮血が宙を舞う。甲高い悲鳴を上げフランはもだえた。胸のあたりを袈裟がけに裂かれたのだ。傷は深い。あばらの一部にヒビが入り、息をするだけでズキズキと軋みうずく。せっかくのかわいらしいお洋服に透き通るような深紅の血がべったりとこびりつく。フランはあまりの痛みに奥歯を噛みしめた。そうしてなんとか胸の疼痛をこらえようとしたが、顔面に込められた強すぎる力は別の箇所に作用してしまったようで……
(えっ?)
はらはらと大粒の涙のしずくがこぼれ落ちる。名前を持たない、しかしただひたすらに激しい感情がこみあげてくる。もう戦いどころではなかった。全身から力が抜けていく。手にもっていた剣を落としそうになってしまう。
「何をしているフラン」
ゾッとするほど冷厳な声音。隠岐奈の声。その言葉は冷えた鉄のトゲのように、感情の奔流ですっかり熱されたフランの頭に鋭く突き刺さった。
「隠岐奈……」
すがるような甘えるような、みじめったらしい弱々しい声。しかし隠岐奈はフランの甘えを峻厳にはねつけた。
「弱気になるな。すぐに人をアテにするな。オマエはほんとうにどうしようも甘ちゃんだな」
一拍置いて、隠岐奈は吐き捨てた。
「この『役立たず』が」
視界が一瞬白っぽく眩んだ。搾め木にでもかけられたかのように心が軋み悲鳴を上げている。粘っこいイヤな汗が全身の皮膚から噴き出てくる。
(役立たずって言われた。隠岐奈に……。隠岐奈はもう私のことなんて考えてくれない。イヤだ、イヤだ、イヤだ。そんなの絶対にイヤだ……)
二人の会話を悪神はしばらくの間不思議そうに、もの珍しそうに眺めていた。しかしある時、ハッと我に返り前傾し鉤爪を振り上げた。そして大急ぎでフランを殺しにかかった。
「来ないで!」
耳をつんざくような絶叫。フランは悪神の「目」を握ろうとした。しかし握りしめたと思った瞬間、悪神は身体を揺らしその位置を巧みにずらす。粘液に覆われた軟体動物みたいに「目」がぬるりと手のうちからこぼれ落ちる。
(ならば……)
フランは剣を振り上げ、接近してくる悪神へと投擲した。悪神は腕を振り上げ剣から頭をかばった。その瞬間だけは、悪神の肉体の中腕と剣との接地面の一点が力に強張り不動の「目」となる。フランはすかさず「目」を握り潰した。
大気を揺るがす爆音とともに爆発が巻き起こる。爆風は悪神の片腕をつけ根ごと奪い去ってしまった。悪神はけたたましい悲鳴を上げのたうちまわり、ほとんど黒に近い濃緑をした体液をあたり一面にまき散らした。それは精液に糖蜜を一粒垂らしたような臭気と甘さの混じった臭いがした。
「うるさい!」
フランは地に落ちた剣を素早く拾い上げ、身もだえする悪神の方へと一気に踏み込んだ。
「ゲギャッ!」
狼狽の声を上げ悪神はフランから逃れようとする。フランはその背を執拗に追い容赦なく剣を突き立てた。炎熱の剣が烈しく燃え上がり悪神の身体を焼き焦がす。フランはとどめを刺そうと渾身の力を腕に込め、横一文字に剣を振り払った。
悪神の肉体に巨大な亀裂が走る。決着だった。悪神は地面の上に横たわり、その体は粘土のように固く脆いものに変わりはてポロポロと崩れていった。そして最後には吹きすさぶ落日の風に溶けるようにして消えてなくなってしまった。
「勝った……勝ったよ隠岐奈!」
ボロボロの姿でフランは、期待で胸をいっぱいにして隠岐奈の方を振り向いた。
「よくやったなフラン」
隠岐奈が椅子から下り、フランの方へと歩み寄ってくる。フランは少女らしいあどけのない笑みを浮かべた。隠岐奈に褒めてもらえた。自分は「役立たず」じゃない。
けれども隠岐奈の手にはいつのまにか、黒光りする鋼の杭が握られていた。隠岐奈は握りしめた杭をもう一度傷口を抉るようにフランの身体へと突き立てた。
「どうして……?」
呆然とした表情で尋ねるフランに対し、隠岐奈は怜悧な微笑を浮かべていた。隠岐奈が自分の服の胸あたりを指さす。そこには黒いシミが付着している。
「オマエの不手際のせいだ。私の服にあの穢らわしい悪神のシミがついてしまったぞ。だから、「おしおき」だよフラン」
満月のように濃い金色をした双眸に妖しい光を閃かせ、隠岐奈はフランの顔をのぞきこんだ。舐め回すように粘っこい、執着のにじんだまなざしだった。たちまち湧き上がった寒気が全身の皮膚の上を虫のようにゾロゾロと這い回る。切迫した恐怖の感覚があどけない少女の顔をむごたらしく歪める。しかし隠岐奈は容赦せず愉快そうな笑みすら浮かべますます深々と杭を差し込んでいく。あばら骨の軋む音が身体の内側から聞こえてくる。やわらかな臓腑が傷つけられ、破け、ドロドロした熱い血が噴き出してくる。
喉に何か粘っこいものが絡みついてくるのを感じ、フランは咳きこんだ。血のしずくがあられのように宙を舞い隠岐奈の顔や衣服を穢した。
(あ、ああ……)
「また粗相をしたな、フラン」
隠岐奈が微笑を浮かべ鉄の杭をねじる。内臓がかき回され更に血があふれてくる。胸から、背から血があふれ出して、腹を、尻を、股を、腿を穢す。肉体の内側と外側の境目すらはっきりとしなくなる。肉も骨も想いも少女を作るすべてが融解し、あふれ出す血に混じり身体の外へと流れ出ていく……
「あああ……」
苦痛に身体をのけぞらせ、ギュッと力を込めまぶたを固く閉ざす。かすかに開いた口元から甘やかな苦悶のうめきが漏れる。境目がなくなったのは肉だけではない。苦痛と快楽の見分けもつかない。隠岐奈が杭によって肉体をかき回すたび、烈しい痛みが稲妻のような細い筋となって全身を走る。けれども痛みが絶頂に達した途端、途方もなく奥深い、たっぷりとした快楽が湯水のように溢れ魂を浸しもする……。
「もっと、もっとやって……。お願いだからもっと……」
閉ざされたまぶたから、搾りだされるようにして透明なしずくがこぼれ頬を伝う。しずくは真っ白なフランの肌の上、夕映えを集めキラキラと澄んだ光を放った。隠岐奈はフランの言葉に応え剝きだしにされたそのあえかな首筋へと手を伸ばす。隠岐奈の手は冬場の鉄のように冷え切っている。しかし痛みと快楽に肉体を火照らせたフランにとってはその冷たさが染み入るように心地よいのだった。
隠岐奈の手の甲が筋張る。フランの喉に強い力が込められる。すぐさまやってくる窒息の苦しみ、しかしそれも快楽と表裏一体。フランの脳はたちまち痺れていく。澄み渡った水のような快感によって煩雑な思念はたちまち漂白され洗い清められる。針のように研ぎ澄まされた官能の切っ先に、何か巨大なものの真っ白であたたかなたなごころがそっと触れようとしてくる。不思議ななつかしさの時。魂のやすらぎの時。
フランはかすかに目を開いた。藍と緋が混ざり合った夕暮れの空はもう見えなかった。水面に映る陽を水底から見上げるような、キラキラと輝くまっさらな光だけがそこにはあった。
フランはたそがれという時の核心とその恩寵に触れたのだった。それには法悦の感覚がともなう。そしてフランの魂もまた境目にあった。蛹の内部のドロドロに融解された中身のように、あらゆる変化の可能性を秘めた生白い「うみ」だった。