Coolier - 新生・東方創想話

博麗の巫女はお隠れになりました

2022/10/24 18:25:02
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 これは、霊夢が博麗の巫女に就任するよりも少しだけ前、先代巫女が亡くなった直後の話……。


***


 「博麗の巫女、死去」。このニュースはたちまちのうちに幻想郷中に広まった。当時としては極めて異例なことに、天狗の号外が人里の空を舞い、現在でも極めて異例なことに、多くの人々がその号外を拾い、食い入るように読んだ。
 この巫女は長命だった。最期は老衰だったので死期が近いことは前々から噂されており、天狗の飛ばし記事も信用された。天狗に遅れて、巫女の魂が「向こう側」に渡ったことを確認した閻魔が追悼の声明を発表し、情報の正しさは裏付けられた。
 人々は巫女の死を覚悟していたが、それは彼女の死がすんなりと受け入れられたことを意味しない。いつだって、人間の死というものは「早すぎる」ものなのだ。人里の多くは悲嘆し、動揺した。それらの気持ちを整理すべく、葬儀は神社と里の両方で盛大に行われた。
 さて、里の人々は祭りとしての葬式を盛大に執り行ったが、巫女にはもう一つ、儀式としての葬式が用意されていた。君主制の国民の多くが自国君主の崩御を弔いつつもそこで行われる諸々の儀式に疎いのと同様に、幻想郷の人々の大半にとっても、この儀式は自分達の生活の外側にあるものに過ぎなかった。今回のお話の主題は、こちらの、裏でひっそりとなされた儀式の方である。


***


「結局、畳の上で亡くなりましたか」
「事故死よりは良いだろう。前の儀式を忘れたのか。身体を探すのに何日徹夜したと思っているんだ」
「それはそうなのですが、どうせ死ぬのならばせめて私の手で、と思わずにはいられないのですよ、上白沢君」
 儀式の準備は二人の主演者により進められていた。淡々と準備を進めるのが上白沢慧音、軽口を叩きながら作業をしているのが玉造魅須丸である。
 巫女の遺体は本殿内の小部屋に安置されていた。人間としての魂は既にそこには存在しないが、博麗の巫女という神性が、その容器である人間の身体を腐敗から護っている。人間が執り行った葬式の際に、その死生観に基いて顔に白布が掛けられた。この儀式の参列者に白布が必要と考える者はいないが、さりとてわざわざ外す理由も無いのでそのままになっている。
 儀式は本殿で一番広い部屋で行われる。つまり、儀式の場に肝心の巫女の遺体が存在しないのだが、これは意図的にそういう配置になっている。なぜならばこの儀式は神代の逸話、「天岩戸」の再現だからである。博麗の巫女は、太陽の女王、天照大神の系譜であるという解釈に基づく演劇。本人抜きで儀式、続く宴会まで進めて、「主役の私抜きで宴会を開くとは何事か」と、隣の部屋から出てきた博麗の巫女の神性を捕らえる、そういう儀式なのだ。天岩戸の儀式には神器が必要なので、神器要員として魅須丸と慧音が参加している。玉の魅須丸と、剣の慧音である。
 日本神話に詳しい者は疑問に思うかもしれない。天岩戸に出てくる神器は玉と鏡であり、玉と剣では無いのではないのかと。そう。ここの箇所は賢者の手により筋書きが改変されているのだ。曰く、用いる神器は、別の神事、三種の神器の継承を参照している。継承の儀の要素を混ぜ込むことにより、この儀式に博麗の巫女の次代への継承という意味を持たせている。三種の神器継承において動かすのは剣と玉(璽)のみであり、鏡は用いない。鏡は、安置されている場所への報告をもって継承するのである。
 幻想郷において、鏡とは現実と非現実との鏡面、つまり、ここ博麗神社である。天岩戸演劇で道具としての鏡を使う場面には専用の役者は割り当てられておらず、鏡役は賢者が境界を操作することにより果たす。目印として偽の鏡が本殿中央に吊り下げられた。
「神器、というには随分と真新しいですね」
「河童の技師が先日鋳造したそうだ」
「ふむ……。この半世紀で河童も腕を上げましたね。技術革新に余念が無いのは流石と評価しましょう」
 魅須丸は慧音が鏡を紐で固定している間それを保持していた。青銅製のような見た目だが、その重厚感に反して非常に軽量だ。実際には別の軽量合金に青銅を精巧に模した塗料が吹き付けられているのだということが、金属造形にも造詣が深い魅須丸にはすぐに分かった。そして彼女はその紋様の細かさに驚嘆していた。神である自分ならこの程度の加工など造作も無いが、機械技術のみでここまで作れるようになるというのは、成程機械中心主義の外の世界で神の肩身が狭くなるのもむべなるかな、と思った。
「しかし、神器は三つなのに、役者が二人とは酷く不釣り合いだ。そう思いませんか、上白沢君」
「鏡は賢者の割り当てだから、私は今のままでも良いと思うな。それに、鏡役に適した人材など、幻想郷にはいないだろう?」
「いないのなら外からやって来れば良いのですよ。八咫鏡に掛けて、八咫烏なんて中々洒落ていると思いませんか? 無論幻想郷の烏を一羽八咫烏に変えてくれる、そんな神様でも有り難いですねえ」
 魅須丸が含み笑いをするのに釣られて、慧音もクスリと笑った。準備の段階で、未来の話をするのは珍しい。当代巫女への不満の裏返しとしてそうなるのではない。当代の巫女は間違いなく優秀で、それでもなお話題は次の巫女の時代なのだ。当代以上に良い時代となるかは分からないが、次の代はきっと今以上に語り草が絶えることのない、賑やかなものになるのだろう。


***


 庭渡久侘歌が鶏の声で鳴いて、儀式が始まった。未明の時間帯に鶏が叫ぶというのは奇妙なものだが、それを不思議がる者も、寝れなくなると咎める者も、今の博麗神社周辺にはいない。一番鶏はまだ暗い時間から鳴き始めるものだし、天岩戸における一連の方策は長鳴鳥を鳴かせることから始まる。何よりも彼女は是非曲直庁からの特使なのである。葬儀の始まりとしてはこれ以上に無い適任であった。
 同時刻、博麗神社の境内では鹿の骨を用いて卜骨が行われた。原典の天岩戸で執り行われているから行うのであって、占いそのものにはさして意味は無い。一応しばらくの幻想郷の吉凶を占いはするが、仮に凶だとしても新任巫女の仕事が少し増える程度のことである。この役を任されていた天魔は骨を焚べながら、神話において卜骨をしていなければ私は楽ができたのにと、本物の天岩戸事件での作戦立案を行い、その後月に昇った神格、思金神(
オモイカネ
)
を恨んでいた。占いの結果は可もなく不可もなくという感じであった。
 天魔が本殿に入ってきて着席し、儀式は次の段階へ進んだ。ここで、魅須丸と慧音はそれぞれ陰陽玉と剣を持って遺体が安置されている部屋の扉の前まで進みそれを奉納した。
「嗚呼、太陽の巫女(
アマテラス・ヒミコ
)
の末裔よ。どうか岩戸の前においでになって、再び地上を照らしてください」
 陰陽玉は博麗神社に代々伝わる本物の神器だが、剣は真剣ではあるものの、伝承上の謂れは特に無いレプリカである。壇ノ浦に水没したオリジナルの草薙の剣は幻想の物品であるからにしてこちらに流れ着いていてもおかしくはないが、未だに発見されていない。
 神器継承の儀に従って鏡は動かされない。その代わりに、八雲紫が吊るされた鏡とその周りの昼と夜の境界を操作した。鏡は文字通り昼間のように光り、境内の焚き火と数本の蠟燭以外の光源を持たなかった本殿を照らした。
 神話では天宇受賣命(
アメノウズメ
)
が踊り、それに釣られて神々が笑う。踊り子の天宇受賣命の役は摩多羅隠岐奈の配下の二童子であった。この二人も童子として採用されてから長い。この儀式で踊るのも、もう四度目か五度目になるだろうか。随分と慣れてそつなくこなしているが、逆にハプニングも起こさないので誰も笑わない。
 笑わせるのは宴会の役目ということで、二童子の踊りを見届けた参列者は姿勢を崩してどんちゃん騒ぎを始めた。
「仙人活動は順調かしら?」
「ぼちぼちね。とはいえ、ここの仙人は揃いも揃って個人主義で、横の繋がりが無くてねえ。自分が我流でやっている活動が仙人としての振る舞いとして正しいのか時々分からなくなるわね。まあ、正体がバレていないってことは、上手くやっているんじゃない?」
「ハハハ。お前はそう思っているのか。後戸から眺めていると、仙人としてはお前だけ浮いていて、中々見ていて飽きないぞ」
 華仙の耳が赤くなった。酒に酔ったからなのか、仙人として浮いているといわれて恥ずかしくなったのか、どちらかは分からない。
「初心なものだな。鬼がみんなこうならうちらも楽だったんだけどねえ」
「あら、天魔様。お望みなら呼び戻してあげましょうか? 私はそちらにも顔が利きますので」
「おお、そりゃ勘弁だ。冗談だよ、冗談」
「ちょっとあんたら、何私抜きで宴会して、しかもなんで話題すら私じゃなくて華仙(
こいつ
)
なの!」
「おお、(
おうな
)
のお出ましだ」
「あんたにだけは言われたかないわ、摩多羅隠岐奈(
おきな
)

 博麗の巫女の神性が出てきた。神性は巫女の肉体に入れられているうちに多少変化するので、神性がどのタイミングで儀式に介入するのかは、生前の巫女の性格によって多少変化する。せっかちな代だと荘厳な儀式の最中に唐突に口出ししてくるし、逆にのんびりしすぎているといつまでも出てこず宴会が終わらなくなる。今回くらいの進行具合で出てくるのが丁度よい。
「今回の巫女は優秀なようね」
「私が手をかけていた巫女なのだから優秀で当然よ。これまでも、これからも」
 紫は神性に盃を捧げた。縁側からの風が吹き込み盃の水面を吹き飛ばした――これは、酒好きの神性が呑んだのだと解釈された。そして、今度は本殿の中から外へと風が流れ、神性は去っていった。
 明け方。昇る太陽を背景に、次代の博麗の巫女を探さんとする烏天狗が一羽、羽を広げた。


***


 話は宴会が始まったあたりに巻き戻る。魅須丸と慧音は賢者達とは離れて酒を飲んでいた。
「もうそろそろ上白沢君の出番ですかね」
「『巫女』が出てこないことには、だな。いつになるかは分からんよ」
 いつになるか分からない、というのは、逆に、今すぐだとしてもおかしくないということである。慧音はいつでも動けるよう剣が手元にあることを確認した。奉納した後再び取り除いて、脇に置いている。
 博麗の巫女という制度を成立させるための天岩戸儀式の真似事だが、最後に一つ大きな改変が加わっている。原典だと岩の向こうから天照大御神を引きずり出した後、彼女が岩の向こうに戻らないように布刀玉命(
フトダマノミコト
)
が注連縄で封鎖を行うが、この儀式における「巫女の神性が向こうの部屋に戻らない手段」は、元の巫女の亡骸を殺害することによってなされる。亡骸の殺害とは奇妙なようだが、これこそが「剣」の役に神器保持者でも神器製作者でもない上白沢慧音という人物が就いている所以である。つまり、物理的・歴史的双方において、元の亡骸を博麗の巫女の神性を入れる器としては不適にせねばならず、それが可能なのは幻想郷においてただ一人、「歴史を食べる程度の能力」を持つ彼女のみなのである。
「いつもながら大任ですね。それにしては気が進まないようですが」
 魅須丸は、慧音がどことなく浮かない顔をしているのが気になった。葬式の場ではあるが、それ以上に宴会の席である。少し似つかわしくない。
「与えられた責務をこなす。それ以上でもそれ以下でもないからな」
 慧音は酒を口に含みながら魅須丸の顔を伺ったが、彼女は何一つとして納得していないようだった。我ながら取り繕うのが下手だなと心の中で自嘲しながら、慧音は彼女に内心を吐露してしまうことにした。
「あの巫女はね、私の教え子なんだ」
「ほう、それは珍しい」
 博麗の巫女は、理論上幻想郷内の人間の少女全てが就く可能性がある役職である。しかし、統計上、孤児だったり忌み子だったり、あるいは外来人だったりという特殊な出自の人物がなりやすいという確率論的な偏りがある。普通に人里に生まれて寺子屋で教育を受けるという事例はそこまで多くない筈である。
「彼女だけが特別だと言うつもりはない。他の巫女も、幻想郷、人里の為に良くしてくれた。しかし、幼少の頃から知っているというのはやはり別格だよ。贔屓目に言って、もっと人々の記憶に深く遺り続けるべき存在だ。しかし、それも今夜まで。朝が来る頃には、誰も彼女のことなど覚えていやしないんだ」
 御阿礼の子がいれば。慧音はそう思わずにはいられなかった。御阿礼の子の記憶は慧音の能力でも改変されない。他に一部の大妖怪も慧音の能力に打ち勝つことはできるが、人々の記憶に遺すという意味においては、御阿礼の子こそ切り札であるはずだった。しかし、今は御阿礼の子がいない時代である。阿弥の代からの年数経過を踏まえれば九代目がいつ誕生してもおかしくはなかったが、それは彼女の時代にではなかった。
「随分と彼女のことを気にかけていたのですね。寿命とはいえそれを喪ったとなれば悲しみもひとしおでしょう。同情します」
「違うんだ」
「違う?」
「私は何人もの博麗の巫女を『殺害』してきた。その業の深さを振り返ってしまえば罪悪感に苛まれて、この役職を続けることはできなくなってしまうだろう。だから、私は私心を捨ててこの任を全うし続けた。だが今回、博麗の巫女が私の娘にも等しい存在だったことで、内心を省みざるを得なくなった。それなのに……」
 慧音は絶望するかのように、より声を落とした。
「……それなのに、私の心を埋めるのはこれまで私が殺めた十人以上への思いではなく、子一人をその手で喪うことへの悲しみ、それ以上でもそれ以下でもなかった! ああ、私は罪悪感に押し潰されるなんてことは無かったさ! 過去の罪は私の心を何一つとして波立たせなかった。これから罪を犯そうということへの良心の呵責は、これまでのように、儀式遂行において何の抑止力にもならない。滑稽だよ。人にものを教える仕事をしていながら、肝心の私自身が、とうに人の心など失ってしまっていたんだ」
 魅須丸は慧音が話し終わるのを確認してからさらに二呼吸ほど思案した後、彼女に問いかけた。
「……上白沢君、君は織田信長の死を早すぎたと悼みますか?」
「それはどういう……」
「信長は決して天寿を全うしたとは言えない。彼の子も、彼の配下も、もっと広くは彼の生と死の両方を当時知り得た者達全てが、多かれ少なかれ哀悼の感情を覚えたでしょう。しかし、遥か時代が下った現代において、誰がその死を嘆きましょうか? 誰が彼の人生の幕引きをした明智光秀という人物を恨みましょうか? 歴史とは残酷なほどに淡白なものなのです」
「それは単に、余りにも昔のことだからではないか? もっと最近、例えば坂本龍馬の死であれば早すぎたと悼む者もそれなりにいるだろう?」
「彼の死を悼む者の多くは、坂本龍馬という人物の損失ではなく、彼がより長く生きていた場合に成し遂げていたであろう功績の損失に対して嘆いているのです。上白沢君、君が直近の巫女以外の死に対して何の感慨も抱けないでいるのはごく自然なことですよ。彼女らはもはや歴史上の存在で、誰も、他ならぬ君すらも当事者性を喪ってしまっているのですから」
 魅須丸は奉納したものとは別の陰陽玉を膝の上で転がしていた。
「慰めのつもりなのか?」
「私はそんなに利他的な神様ではありませんよ。人間の心理というものをいささか誤解されているようなので、お節介ながら訂正させて頂いているのです。誰もが忘れた時効の罪にも罪悪感を持とうとしている、これから犯すであろう罪を悔いている。実に人間らしい、殊勝な心持ちじゃあありませんか」
 魅須丸は陰陽玉を真上に投げて、落ちてきたところを捕まえた。
「陰陽玉の力を求めて、多くの人妖が私を崇拝しましたが、どいつもこいつも力に溺れていましてね。その力で何人死のうと一切頓着しないような輩ばかりだ。だからこそ、博麗の巫女、陰陽玉の後継者は純粋無垢な少女でなければならないのです。少女というのは大概強欲ですが、一線を越えることはありませんからね」
 宴会が騒々しさを増す中で、紫が未使用の盃に酒を注いでいるのが見えた。『巫女』が出てきたのだろう。慧音は剣を手に取り立ち上がった。
「出番のようだから行ってくるよ。いささか気が楽にはなった。感謝する」
 慧音が別室に入るのを見届けて、魅須丸は手に持っていた陰陽玉を放り投げた。先程まで人を説得していたとは思えない程、その瞳は虚無に満ちていた。
「何故私がその役をすることができないのでしょうか」
 三種の神器の鏡と玉と剣。鏡は境界面の博麗神社という博麗の巫女の誕生を、玉は博麗神社の御神体としてその人生を、そして剣は博麗の巫女の死をそれぞれ象徴している。儀式における各員の割り振りは象徴に対して妥当なものだ。中でも唯一博麗神社の秘宝としても機能している陰陽玉の役割を持つ魅須丸は、特別な地位にある。
 それでも、魅須丸は神様らしく傲慢であった。人生を象徴するものとしてその終焉をも司りたいが、その役は他の者が担っている。さらに悪いことには、その他の者、慧音が適任であるということを、魅須丸自身も理解してしまっているのだ。
「どうせ失うのなら、やはり私の手で……」
 彼女は座ったまま、一人毒づいた。


***


 慧音は先代巫女が安置されている部屋へと入り、襖を占めた。鏡の光も夜明けの光も入らないこの部屋は暗いままだ。
 彼女は遺体の枕元に座り顔の白布を取った。老いた顔だが、それを見た彼女の脳裏に浮かぶのは寺子屋時代の姿であった。子供はいずれ巣立ち、親は巣立ちに際して涙する。慧音にとって教え子はいつまでも子供だったから、彼女は卒業の場で涙したことはない。慧音にとっての教え子の巣立ちは死別であり、それに際して彼女は泣いた。半獣の彼女にとっても、いつだって、人間の死というものは「早すぎる」ものだ。
 この儀式を罪悪感に潰されず遂行し続けるのと同じように、彼女は教職を死別の悲しみに潰されず続けようと気を配っていた。全ての教え子の死を背負い続けていてはいずれ折れてしまう。だから、四十九日を終えたら、能力によってではなく、努めて、その者の死を忘却してしまっていた。だが、この子は、あと一刻をも待たずして忘却の中に呑み込まれてしまうのだろう。他の子と同じだけの悲しみを向けてやることができない。そのことへの哀傷と無念にまた泣いた。二つの涙が巫女の干からびた肌へと落ちて、少しだけ潤いを与えた。
 顔を拭く間もなく慧音は歴史喰いを始めた。感情としてはもっと間を置きたいが、迅速に行うべき儀式ではあるのだ。もたもたしていると、博麗の巫女の神性が体に還ってしまう。
 長命な巫女であったから、その歴史は結構な量であった。とりわけ慧音とも関わりが深かったから、懐かしさをも覚える。だが、その歴史が少なくなるにつれ味も薄れていった。慧音にとっては、その無味乾燥さの後味が苦かった。
 後には一人の老婆の亡骸のみが遺った。それを見下ろす慧音には、もはや何の感情も無い。あの神様は私の心持ちを人間らしいと評したが、歴史から一人の人間性を抹消して平然としているのは、それを役割とあてがわれた妖怪ハクタクだからこそであろう。その非人間的な感情に自己嫌悪することもない。数十分前まで、人間として悲しんでいた記憶はあるのだ。半人半獣としてのアイデンティティを見事に保った精神性である。結局、今回も精神は壊れなかったので、これからもこの役は続けることができるだろう。
 ともあれ、まずは今この儀式を完全に終わらせなければならない。彼女は剣を、博麗の巫女██の心臓へと突き刺した。
博麗の巫女卑弥呼の末裔説と、卑弥呼=天照大御神説にインスピレーションを得た作品です。加えて、「何故先代巫女の名前をみんな忘れてしまったのか」という問いへの自分なりのアンサー。
メタ的には、「世界観設定において読者側に共通理解がある」という二次創作の利点を正面から破り捨てるような設定ありきの物語を、いかに小説単体の完成度として昇華させるかを模索するための実験作という意味合いもあります。神話伝承で殴りたかったのであえて難解な題材を選んだうえで、それで終わるとただの通り魔なので……
東ノ目
https://twitter.com/Shino_eyes
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コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
先代巫女の名前が忘れられてしまう理由や、次期博麗の巫女選定の解釈が面白かったです。また、葬式を通して描写された神様や半人の在り方が面白かったです。
3.80福哭傀のクロ削除
なんだろうか、すごく評価に難しい作品でした。
今回の話を歴代神子の設定の解釈として出されたのならすごく面白いなと思うのですが、
物語かというとちょっと感覚的に微妙なところ。
後半の慧音周りの心情とかも嫌いではないんですが、
作品全体としてはなんとなくですが、情報を見て面白いって感じる感覚がありました。
この設定を踏まえて、物語に昇華してほしかった……のでしょうか。
設定自体は相変わらず賢いなー物知りだなー面白そうだなーと思いました。
4.90あけのアル削除
先代巫女の扱いをこのように持ってくるのはかなり興味深かったです。
内容に対して文章がやや淡白に感じましたが、このあたりは好みの問題もあるので。
面白かったです。
5.100名前が無い程度の能力削除
儀式的な薄気味悪さと、そこに付きまとう戸惑いが表現されていてとても良かったです。博麗の巫女の設定周りに関する言説も興味深いものがありました。
6.100已己巳己削除
博麗の巫女についてこういう解釈・考察があるのかと目から鱗が落ちた作品でした。
儀式の内容にとても細かく触れられていて面白かったです。
7.100南条削除
面白かったです
単なる設定だけの儀式だけで終わらせず、慧音の揺れる心が垣間見えてとてもよかったです
8.100夏後冬前削除
日本神話的な設定周りががっつり練られていて、情報としての読み物としての面白さが高かったです。
9.100きぬたあげまき削除
知識量が莫大で本当に尊敬します…。
ある種、客観的でドライな慰めを言っていた魅須丸が静かに感情をあらわす場面が好きです。