Coolier - 新生・東方創想話

夜闇から手を伸ばす

2022/10/21 20:24:09
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 陽が沈みはじめていた。
 どこでも夕陽の色は同じなのだな、と美鈴は思う。
 ここ幻想郷にやってきてから、両手の指で数えて少し足りないほどの回数の夜を迎えた。
 ところが倒した敵の数は両手では数え切れないほどだ。しかも、二進法で。
 吸血鬼異変の残党も含めての数ではあるので、幻想郷の住人だけが特に好戦的というわけではないが。
 それにしても、忙しい。次から次と現れる有象無象どもは、この紅魔館の住人がどれほど強力な存在であるかを知らない。吸血鬼異変には直接関わっていなかったためか、その強さは幻想郷ではほとんど知られていないのだ。
 こうなれば一刻も早く行動を起こして、レミリア・スカーレットの名をこの地に知らしめるべきではないだろうか。
 しかし当の本人は、
「他に誰も出来る者がいないだろうが。パチェやフランにご飯を作らせたら我々は即日、いや、食後に全滅するぞ」
 そう言いながら小さな身体にエプロン姿で毎日毎日料理をしているのは流石にどうかと思う。朝昼晩、さらにおやつは申し分なく美味しいので嬉しいことは嬉しいのだが。それはどう考えてもお嬢様の仕事ではあるまい。
 自分ならば料理しながら侵入者を迎え撃つ程度、それなりにこなす自信はある。あるが、自分には門に立ち続ける重要な理由がある。大図書室の魔女にその手の家庭的なことは望めない。妹様はさらに論外だ。
 そして駄目元で現地雇用した妖精たちは本当に駄目だった。まず、妖精達に仕事を仕込むことのできる人材が必要になる。
 幻想郷の管理者に相談して、適当な人材を都合してもらうべきでないだろうか。
 彼女は実に有能な化生を従者としていたので、期待はできそうなのだが。
「……ま、無理でしょうけどね」
 お嬢様が管理者の従者……九尾の狐を直接スカウトしようとして管理者と一触即発になったことは記憶に新しい。
 どう考えても心証は悪い。多少の意地悪は覚悟するべきか。
 考えることは多い。
 有象無象の弱小どもは今まで通り蹴散らせばいいが、最近どうもそれとは別件のおかしな気配がする。
 どのように報告しようかと考えていると、背後の屋敷からお嬢様が出てくる気配がした。
 美鈴はもう一度夕陽に目をやる。
 約束の時間が近づいていた。
 いつものように、背後から足音が聞こえる。
「お待ちしていました、お嬢様」
 言いながら美鈴は振り向き、両手を広げた。
 近づいてくるのはレミリア。と、もう一人。
「どなたですか?」
 迎えるために広げた両手を後ろ手に戻し、美鈴は尋ねた。レミリアの後ろで日傘を差し掛けている女怪の姿に見覚えはないが、雰囲気からしてこれまで倒してきた有象無象とは一線を画していることはわかる。そういえばこの七日ほどなにやら図書室が騒がしかったが、その関係だろうか。
 レミリアは美鈴の問いに答えず、背後の女怪に美鈴を紹介した。
「彼女が紅美鈴。今は門番をさせているが私の最も古く、最も信頼している従者だ」
 女怪は美鈴に対して礼儀正しく頭を下げた。
「初めまして。私、パチュリー・ノーレッジ様に召喚され、お仕えすることになりました小悪魔です」
「あ、どうも。紅美鈴です」
 こちらも頭を下げながら、美鈴は首を傾げる。
 自己紹介で種族名というのはどうなのだろう。
「あの……」
「パチェがこいつを帰順させるために名前を与えたのよ」
「小悪魔が名前なんですか」
 流石にそれは可哀想だなと美鈴は思う。
「違いますよ」
 その気持ちを悟ったのか、小悪魔は豊かな胸を張って言う。
「私がパチュリー様にもらった名前は素晴らしいものです」
「小悪魔、ですか」
「いいえ」
 更に小悪魔はぐんと胸を張る。
「名無し、です」
 ああ、と美鈴は手を叩いた。
「なるほど、失礼しました。パチュリー様がその名を与えるとは、高位の悪魔とお見受けします」
 敗れ、新しい名を与えられた悪魔はその術者に帰順する。悪魔の地位が高ければ高いほど、与える名前は術者にとって大切な物でなければならない。
 小悪魔に与えられた〝名無し〟とは、パチュリーを知る美鈴にとって、そしてレミリアにとっても納得できる名前だった。
 なるほど、七日がかりで帰順させただけはある。
「今後ともよろしくお願いいたします。それでは私は、パチュリー様の元に戻らせていただきますね」
 日傘を受け取ったレミリアが頷くと、小悪魔はくるりと振り返って邸内へと向かう。
「美鈴」
「はい」
「やっぱり小悪魔は呼びにくいから、縮めて『こあ』でいいわよね?」
「こあちゃん。いいと思います」
「ちゃんまでつけるか」
「こあにゃん」
「却下」
 むう、と美鈴は唸る。
 そして、思い出したように両手を広げた。
「さて、お邪魔虫が消えたところでいつもの準備はできていますよ」
「それはいいが、先に何か報告はないのか」
「お気付きで?」
「このところ妙な気配がしているからね」
「流石です、お嬢様」
 美鈴はこのところ感じる気配について話す。
 蹴散らしている有象無象とは明らかに別の気配が屋敷の周囲を巡っているのだと。
「お前が追えない気配ねぇ」
「それがおかしいんですよ」
 気配を察知して向かうと、誰かが其処にいた形跡がある。地面の削れ具合、草の折れ具合で誰かが其処にいたことはわかる。
「気配はしっかり途絶えているんですよね。空間の歪みとかもないようですし。八雲かとも思いましたが、あれはスキマの気配とも違うようですし」
「で、その答は?」
 あっさりと美鈴は答える。
「時間止めてますね」
 同じくレミリアも、動揺一つ見せずに尋ねる。
「対処はできるの?」
「仕掛けてくるなら勝てますが、逃げられたら捕まえるのは苦労しそうですね」
「参考までに聞くけど、どうやって勝つのよ」
 有象無象の一匹が何かに手を出して反撃されたところを美鈴は目撃した。正確には、切られた瞬間を見た。突然何もない空間に現れた人間が、妖怪をナイフのようなもので背後から切り裂いたのだ。
 空間を歪めた移動などの類ではない。それならば気配でわかる。人間の気配はその場に唐突に発生したのだ。
 フルフェイスヘルメットを被ったライダースーツ姿だったため、外見はそれ以上わからない。わかるのは、得物がナイフらしいということだけ。
「向こうが時間を止めて移動していても、攻撃の瞬間に時間を動かす必要があるのなら、私は一撃入れますよ」
「凄い自信ね」
「お嬢様の一の従者ですから」
 問題は、恐らく向こうもそれを察していて手を出してこないこと。
「にらみ合いが続きそうなんですよね。急ぐようでしたら隙でも見せてみましょうか、居眠りとか」
「立ったまま居眠りする門番ってのもね、逆に怪しすぎるでしょう、それ」
 ああ、とレミリアは何かを思い出したように頷いた。
「時間と言えば、心当たりがないこともないわよね」
「とすると、先代の」
「そうね。パチェにまだアレ持っているかどうか確認しないと……」
「パチュリー様が始めてここに来たときのですよね」
 二人は、幻想郷に来るまでのことを思いだしていた。



 吸血鬼は死なない。
 産まれてしばらくの間、レミリアはそう信じていた。
 五歳になって、その考えは覆された。
 妹、フランドール・スカーレットを産んだ母が亡くなったのだ。
 泣きじゃくる娘を抱きしめ、父は言った。
 母は、そして自分は新たな命を選んだのだと。
「レミィ。君の母は、我が妻は、奇跡を成し遂げたのだ。それは誇るべき事であって、悲しむべきことではない。その偉業を讃えるべきだ」
 産褥期の女性吸血鬼は極端に弱い。それこそ、ただの人間よりも、更に言えば、産褥期の人間よりも弱くなる。
 ノーライフキング~不死王
 ライフスティーラー~奪命者
 ヴァンパイヤ~吸血鬼
 死を知らず命を奪い、吸血により眷属を無限に増やすものが更に新たな命を産むことなど許されぬ。それが世の理であるかのように、吸血鬼は命を繋ぐことには弱かった。
 受胎すること自体が稀で、無事産まれることは更に稀で、出産後の母子が共に安泰であることはまさに奇跡であった。
 母は一度の奇跡をレミリアと共に成し遂げた。そして二度目の奇跡に敗れた。
 そのとき初めてレミリアは理解した。吸血鬼は死ぬのだと。
 だが、父はどうなのか。父は男だ。男である限り産褥とは無縁である。
 男の吸血鬼こそ、真の不死ではないのか。
 考えてみると、これでも矛盾はあった。
 父母はどこから生まれた。そのまた父母、つまり祖父母であろう。
 祖母は母と同じ理由で亡くなったのかも知れない。
 では、祖父はどこにいる。
 いや、もしかしたら父母は人間から吸血鬼化したのかもしれない。ならば、祖父母は人間かも知れない。つまり、亡くなっていておかしくない。
 しかし、だ。
「私達は、今や希少となった純然たる吸血鬼の家系なのだよ、レミィ」
 父はそう言った。つまり祖父母も吸血鬼なのだ。
 では答は一つだ。祖父二人は、外敵との戦いによって命を奪われたのだろう。
 吸血鬼には敵が多い。正統なる吸血鬼であるスカーレット家であれば特にだ。
 ある日、レミリアは父にそれぞれの祖父母の現状を尋ねた。
 祖母二人に関しては、レミリアの想像通りだった。父と母をそれぞれ産み、亡くなったのだと。
 だが、祖父達は。
 まず一人……母方の祖父が吸血鬼ハンターとやらに滅ぼされていた。
 弱かったんだ、とはレミリアの率直な感想である。因みにこの感想には父も同意している。ハンターとの闘争は吸血鬼の運命と言える。敗れることもまた、運命である。
 それは恥とは違う。ただ弱かった、それだけのこと。
 純然たる家系が強いとは限らない、らしい。
 高貴とは、低俗に負ける場合もあるのだとレミリアは教えられた。
「高貴とは即ち強さではない。だから、野蛮、粗野も時には必要なのだよ。それは唾棄すべきものではない。無論、諸手を挙げて歓迎すべきものでもない。必要とあれば引き寄せる。必要でなければ遠ざける。そうだな、レミィとフランにとってのおやつのようなものだ」
 おやつは自分たちには必要不可欠なものであるとレミリアは主張し、父は笑った。
「では、野蛮と粗野を君に引き合わせよう。ただし、卑ではないよ、彼女は」
 その日レミリアとフランに紹介されたのは赤髪の妖怪少女。
「紅美鈴と申します。本日より、お嬢様がたのお世話役を仰せつけられました」
 小綺麗ではあるが弱そうだ、とレミリアは思った。
 これが野蛮と粗野だというのならば、やはりそれは自分には必要ない。少なくとも、大切なおやつである焼きたてのスコーンやかりんとう饅頭ほどには。
 必要なければ、追い出してしまえばいい。自分にはおやつとフラン、そして父があればいい。
 レミリアとフランは、顔を見合わせてニヤリと笑った。
「めーりんだっけ? 帰っていいわ。嫌? そう、じゃあ帰りたくなるようにしてあげる。逃げちゃ駄目よ。もっとも、逃げる足が残っていればだけど」
「私もやるー」
 三十分後、レミリアとフランは地に伏していた。
美鈴は強かった。とても強かった。
 後に美鈴は
「紹介されたのが三十年遅かったら、私は殺されていたと思いますよ」
 と言ったのだが、それは謙遜すぎるとレミリアは信じている。その後レミリア単独で対等に戦えるようになるまで二百年は必要だったのだから。
 とにかくその日から、美鈴はレミリアとフランに付き従うようになった。
 二人は、特にフランは美鈴にすぐに懐いた。多少のヤンチャを身体で受け止めることのできる……そしてそれが特に無理をしているわけではない従者は、フランだけでなくレミリアにとっても二人にとってとても貴重な存在だったのだ。
 今思えば、包容力のある美鈴に母を感じていたのかも知れない。父もそこまで考えて、美鈴を連れてきたのかも知れないい。それでもレミリアは、それを父に問うことはなかった。勿論、美鈴にもだ。
 そして少し過ぎた頃に、レミリアは気付いた。
 吸血鬼ハンターに殺された祖父は一人と父は言った。
 一人。
 数が合わない。
 残りの一人はどこへ行った。
「自殺したよ」
 隠していた様子でもないあっさりとした答えにレミリアは首を傾げる。
 残りの一人は心が弱かったのか。
「いや、そうではない。夢を果たすことによって、結果的に自殺になったんだ」
 夢とは。
 南極圏単独踏破とか、超音速弾道飛行とか、無酸素潜水とか、大蒜餃子五百個完食とか、無茶苦茶な冒険野郎だったのだろうか。
 因みに、実在するその手の冒険野郎のほとんどが強靱な妖怪ではなく脆弱な人間であることはレミリアにとって大いなる謎だったのだが、後に幻想郷で出会った人間達により納得することになる。成る程あいつらなら無茶苦茶をやりかねんと。特に白黒。
「夢とは、我ら吸血鬼の宿痾のようなモノだ」
 父は何故か、嬉しそうに天井を仰いでいた。
「今のところ、私は罹患していないがね。レミィ、君の祖父、つまり私の父は手遅れだったのさ」
 嬉しそうなのとは違う、とレミリアは気付いた。父は憧れているのだ。手遅れであった祖父に。死と引換であろうと宿痾の歓びを得ることのできた己の父に。
「時折いるのだ。太陽に焦がれる者が」
 太陽とは吸血鬼にとっての最大の弱点。とはいえ、スカーレットの一族ならば陽光に灼かれたぐらいで即死には至らないとレミリアは知っている。
「文字通り、焦げるほどに焦がれる者が」
 ただしスカーレットといえど、長時間の陽光は命に関わる。それを祖父は選んだのか。
 そして父は知っているのだ。自分にはそれを選べないことを。
 焦がれることは理解できる。しかし、それは死を回避するという前提あっての話だ。死と引換の憧憬など、理解の範疇を超えている。
「実のところハンターに敗れた義父も、瀕死の状態を耐えつつ、最後の最後には太陽を眺めながら逝ったものさ」
 祖父は双方、太陽の下で亡くなったのだ。
「私には、彼らが理解出来ないのだろうな」
 寂しそうだ、とレミリアは思った。
それは限りなく憧憬に近い、嘲りにも似た寂しさ。父を理解できぬ子の寂しさだとは、このときのレミリアにはわからなかった。
 妹を理解できぬ姉の寂しさに気付くまでは。



 フランドールが、瀕死の重傷を負った。
 その場は美鈴もいたが、防ぐことは叶わなかった。
原因はきわめて単純だった。
「太陽が見たいの」
 父は言葉を尽くして止め、フランドールは納得した。
 納得したと見せかけたフランドールは翌日の朝、屋敷から飛び出そうとして美鈴に腕ずくで止められることとなる。
 屋敷の隅の一室で、フランドールの前には僅かに差し込む朝の光がある。父と美鈴の前で、正確には美鈴に押さえつけられるようにして、彼女はその光を眺めていた。
 少しずつ近づくと、少しずつ焼けていく肌。
 それが吸血鬼にとっての陽光だと、父は教える。
 わかったと答える瞳は、窓の隙間から差し込む陽光にむけられていた。
 フランドールにはわかっていたのだ、陽光が自分の肌を焼くものだと、吸血鬼を滅するものだと。
 だから、心の中で呟いた。
「それがどうしたというの?」
 だから、出す言葉はこうだ。
「太陽って痛いだけなのね。つまらないわ」
「部屋を出ましょう、旦那様」
 美鈴が抱き留めていたフランドールを、父は受け取ろうとした。
 その瞬間フランドールは奔った。
 四本の手を振り払いフランドールは飛んだ。
 窓を突き破ったフランドールは笑っていた。
 太陽の輝きを目にしたフランドールは笑っていた。
 暖かな光を全身に受けたフランドールは笑っていた。
 身体中に激痛を受けながらフランドールは笑っていた。
「これが太陽、これが太陽なのね! お祖父様! これが、忌まわしくも温かい、美しく素晴らしい太陽の光なのね!」
 美鈴が室内へ引き戻したとき、フランドールの全身は焼けただれていたが、辛うじて命は取り留めていた。そして彼女は、この日から一切の外出を禁じられることとなり、自室として屋敷地下の一室が与えられた。
 傷が癒えた日、フランドールは世話をしていた美鈴に告げた。
「美鈴。私は太陽を見に行くよ」
 そこには外への、太陽への渇望を隠すことのない吸血鬼がいた。
「フランドール様、次は命に替えても止めます」
 美鈴の言葉に、フランドールは優しく微笑んだ。
「うん。美鈴ならきっと止められる」
 手を上げる。
「今はね」
 部屋の隅に置かれた花瓶を、フランドールは指差した。
「でも、いつかは止められなくなるよ」
 前置きなく花瓶が爆発する。
 同時に誇示するように挙げられたフランドールの握り拳を、美鈴は確認していた。美鈴の意識は、その二つの繋がりを捉えていた。
 それがフランドールの、「ありとあらゆるものを破壊する程度の能力」の発現であった。
「そのとき私は、太陽を見るよ」
 それは美鈴の力を卑下した仕草でも憎しみでもない。ただの真実。フランドールの意志表示。純粋な吸血鬼フランドール・スカーレットとしての当然の力を告げる仕草と言葉。
「そうでしょうね。しかし」
 美鈴はその言葉を否定せず、哀しそうに続けた。
「次にお嬢様が陽光の下へと飛び出せば、旦那様と姉上様もお嬢様を追って飛び出すでしょう。お嬢様一人を止められない私には、お二人を止めることもできません」
 つまらない冗句を聞いたかのように、フランドールの目は細められた。
「美鈴は卑怯だね」
「フランドール様をお守りするためならば」
 それ以上何も言わず、フランドールは背を向けた。
「傷は癒えたと、旦那様に報告してきます」
 美鈴は深く礼をすると、振り向いて部屋を出る。
「……ありがとう。ゴメンね」
 ドアを閉める寸前、小さく聞こえたような気がした。



 美鈴がフランの部屋の前に立つようになったのは、地下の一室がフランの部屋とされた日からだった。
「おはようございます、レミリア様」
 その日も訪れたレミリアに、美鈴はいつものように頭を下げる。
「入るわよ」
「少々お待ちを」
 美鈴がドアをノックすると、フランの返事が聞こえる。
「フランドール様。レミリア様がいらっしゃいました」
「いいよ」
 ドアを開き、一歩下がった美鈴に、レミリアは右手を掲げた。
「美鈴、お茶を二人分……いえ、三人分お願い」
「はい」
 豪奢な家具が並べられた中、フランは一人ベッドに座っていた。
「調子はどうかしら、フラン」
「太陽が見たいだけよ」
「何が起こるかはわかって言ってるのよね」
「だから、見たいだけ」
 見に行くとは言わない。無理やりでも行こうとすれば、今のフランの力ならば隙を突いて可能かも知れない。いや、可能だろう。
 だからこそ、フランは「見たい」とだけ言う。「見に行く」ではない。
 自分の欲望で自分を犠牲にするのは良い。むしろ当然の話だ。自業自得とは、元々が仏教用語だからと言って吸血鬼に通用しない言葉ではない。
 では父は、姉は、そして忠実な使用人は。
 血の繋がった父と姉は別としても、使用人まで犠牲にしてはならないと言い切るだけの矜恃を既にフランは持っている。
「そう。いずれ叶うといいわね」
「ありがとう、お姉様」
「失礼します」
 美鈴がティーカートを押して入ってきたタイミングに合わせて、フランはベッドから腰を上げた。
「ねえ、美鈴。おやつは何?」
「広式の月餅を作ってみたので、お茶も中国風にしてみました」
「甘い?」
「ええ、餡をたっぷり入れてますよ」
 三人は和気藹々とお茶の時間を楽しんだ。
 太陽の話題はもう誰からも出ない。フランが部屋で読んだ本の感想を述べ、同じ本を読んだというレミリアと議論する様子を、美鈴は微笑みながら眺めている。
 おやつが食べ尽くされ、お茶も無くなったところで二人は立ち上がる。
「それじゃあフラン、また遊びに来るからね」
「うん。待ってる」
 二人は部屋を出た。
 待っていた別の小間使いにティーカートを渡すと、美鈴はその場で立ち止まる。
「それではお嬢様、私はここで」
 レミリアは歩きかけ、立ち止まり、振り向いた。
「貴女は、フランの牢獄の看守?」
 まさか、と美鈴は首を振る。
「私は、フランドール様の部屋の門番です」
「門番というからには、何を守るつもりかしら。フランを守るの? それとも」
 レミリアの声がほんの少し、低くなった。
「フランから私達を守るの?」
 美鈴は拳を胸元にあげ、その拳を残った手で包み込む。人間の世界では拱手、あるいは抱拳礼とも呼ばれる作法だが、レミリアが知るはずもない。
 それでも、わかった。
 それが美鈴にとっての最大限の礼であると。
「我が手の届く限り、我が魂のある限り、双方を」
「ねえ、美鈴。聞いていいかな」
「なんなりと」
「どうして、そこまでしてくれるの」
「一族を救われました」
 初耳だった。
 いや、今まで興味がなかったと言った方が正しかっただろう。
 誰かに傅かれることはレミリアにとってそれまで当然のことだった。何故自分が傅かれるのかなど、考えたことはなかったのだから。
 ただ、美鈴の腰の低さはその強さにも関わらず度を超していると思えた。だから、聞いたのだ。
「お父様に?」
「お嬢様方のご母堂に」
 レミリアはそのとき思った。違う、と。
 これまで当たり前のように受け取っていた美鈴の忠誠は、自分に対するものではないと。
「それは私やフランへの恩ではないわ」
「はい」
 美鈴は笑った。
「ですから、ご母堂様への恩を当主様とそのお嬢様方にお返しします。これは私の我が儘なのですよ。申し訳ありません」
 揺るぎない肯定の言葉に、レミリアは返す言葉を思いつかなかった。



 少しずつ、スカーレット家を取り巻く状況にはきな臭いモノが混じり始めていた。
 具体的には、美鈴がいない時間が増えた。当然それは、フランを放置したわけではない。フランを含むスカーレット家のために美鈴は出かけているのだとレミリアは知っていた。
 いつの間にか美鈴が戻ってくると、今度は父の姿が消える。
 父と美鈴は交互に姿を消した。そして、何人かの使用人も同じようにいなくなる。
 中には、もう二度と姿を見なくなった者もいた。
 いや、美鈴以外は次々と新しく入れ替わった。
 一度、美鈴が戻ってきた瞬間にレミリアは居合わせた。
 美鈴は大怪我を負っていた。激しい戦闘による怪我を。
「ああ、見つかっちゃいましたか」
「なにがあったの」
「ええ、ちょっと、悪い奴らにお仕置きを」
「お父様も一緒なの?」
「まさか。お父上は私なんかと比べものにならないほど強い御方です。傷一つ負ってませんよ」
「そういう意味じゃないっ!」
 美鈴は頭を垂れるだけだった。
「私も行くわ」
「いけません」
「無闇に蛮勇をふるう気はないわ」
 顔を上げた美鈴の前にレミリアは立つ。
「だけど少なくとも、今の貴女よりは強いつもりよ」
「私が傷を治した後に、同じ事が言えますか」
「言えない。私はまだ、普段の貴女より弱い」
 虚を突かれた顔で、美鈴はレミリアを眺めている。
 美鈴にそんな顔をさせたことを、レミリアは少し誇らしく思う。
「万全の貴女より弱くても、二人が三人になれば少しはマシになるじゃない」
数日後、帰ってきた父がレミリアを呼んだ。
「お前ももう、三百年を生きた」
 一年生きれば、人を殺せる。
 十年生きれば、獣を殺せる。
 百年生きれば、魔を殺せる。
 三百年生きれば、神を殺せる。
「戦うには充分な歳だ、我が娘よ」
 だが、と父は言う。
「仮に、敵が人間ではなく我らに近い妖怪、いや、同胞だとしても、戦うか?」
 レミリアは心底不思議そうに首を傾げる。
「お父様は、スカーレットに弓引く愚か者を同胞と呼ぶの?」
 少しの間を空け、屋敷内に吸血鬼の哄笑が響く。それはすぐに、二つの哄笑となった。



 紅美鈴は決して弱くない。いや、強い。並みの妖怪では太刀打ちできないだけの一流の実力を持っている。
 問題は、彼女の仕えている主は更に強い、超一流の強さである、ということだった。
 そして、その主がそれなりに苦戦する相手もまた、集団として考えれば一流の実力であるということ。
 ではこちらも数を増やすか、という案には主とその娘共々顔をしかめる。
「有象無象を増やしたところで足手まといになるだけだ」
「助けなきゃならない子達を増やしても手間が増えるだけよ」
 その言葉を聞いて、美鈴は逆に嬉しかった。
 この二人に、部下を使い捨てるという発想は存在しない。配下を持つならば、配下を守らなければならないと考えるのだ。美鈴にとっては仕える価値のある主だ。
 ならば、必要なのは配下ではない。実力の近い同志である。
「急くな美鈴。私達は決して孤立無援というわけではない」
 これまでの戦の中で、美鈴は主の同志が各地にいることを知らされていた。ただ、直接顔を合わせたことはないし名前すら聞いた事はない。
 同志というのならば何故合力に来ないのかと尋ねたところ、主は当たり前のようにこう答えたのだ。
「直接戦っている相手だけが敵ではないよ、美鈴」
 別の場所で別の相手と別の形で争っている。それこそが合力になっているのだと。
 妖怪種を駆逐するのは人間だけではない。
 人間の世界から少しずつ、しかし確実に喪われていく幻想。残り少なくなった糧を奪い合う妖怪同士の争いすら世界中に拡がりつつあるのだ。
「それぞれの片が付けば、こちらに合流してくる者も現れるだろうがな」
 その言葉に嘘はなかった。
 戦がやや小康状態になった頃、紅魔館は新たな客を迎えることとなる。



 父に呼ばれたレミリアが客間に入ると、其処には先客がいた。
 顔色の悪い、しかし恰幅のいい隻腕の男が父と親しげに握手している。
「まさか貴様が俺を屋敷にまで招くとはな、そこまで窮したか、老いぼれ吸血鬼」
「ああ窮したとも、さもなくば誰がお前なんぞ招くか、偏屈魔法使い」
「正直でよろしい。なぁに、この俺が来たからには大船に乗った気でいろ。最悪の場合でも、一緒に沈んでやる。地獄が賑やかになるぞ」
「それは嬉しいが、念のため三人乗りの救命ボートを用意しておいてくれ」
「三人だと? 俺と貴様と、あと誰が乗る」
「私は乗らんしお前も乗せん。うちの娘二人と、世話役を一人だ」
「そりゃ道理だ、予約を入れておこう」
「では、乗客の一人を紹介しよう」
 父がレミリアを紹介すると、隻腕の男は吸血鬼の礼儀に従って頭を垂れた。
「お初にお目に掛かる、友の娘よ」
 レミリアは父を見た。
 紹介されるのはいいとして相手の名前をまだ告げられていないのだ。
 ふむ、と父は首を傾げ客の頭の先から爪先までを睨みつけている。
「お前、今は何と名乗っている」
 名前をコロコロ変えているのか、とレミリアは思った。
「失礼、お嬢さん。……うん、ノーレッジと呼んでいただけますかな」
「それは、ファミリーネームですの?」
「私は常に知識(ノーレッジ)を求める」
 隻腕の男の声は父よりもずいぶん低く、妙に心地好い音だった。
 男は語る。
 知識には二つある。自分が興味を持たぬ知識と興味を持つ知識。既知の知識、すなわち収集され、系統づけられ、名付けられた知識(ネームド・ノーレッジ)に興味はない。
 我が求めるは、未知なる知識、未だ名付けられたことのない知識、無名なる知識(ネームレス・ノーレッジ)
「故に私は名無し(ネームレス)のノーレッジ。ただのノーレッジとお呼びください」
「ではノーレッジ様。その腕はどうなされましたの?」
 レミリアが遠慮なく聞くと、ノーレッジは大袈裟な身振りを交えて笑う。
「娘に奪われました」
「娘に」
「十二人の娘がおりますが、そのうちの十一人の娘が、我が魔法の精髄を欲しがりましてな。十一人で内輪もめでもしていれば可愛いものの、、けしからん事に結託して襲ってきたのですよ」
「十二人目はどうなされましたの」
 眉一つ動かさずに問い続けるレミリアに、ノーレッジはスカーレットにむけて首を傾げた。
「当然だろう」
 レミリアは身内の戦いを知っている、と答えたのだ。
 スカーレットの敵にはスカーレットもいる、いや、紅魔館に住む三人を除いた残りの一族全てが敵と言ってもいい。
 身内同士の殺し合いなど、今更珍しい話ではない。
「十一人の娘は敵に。末娘はただ一人、味方となりました」
 無いはずの片腕が動いた。何もない空間に無いはずの片腕が振られると、一人の少女が現れた。
 父親の喪われた片腕に抱きしめられるように宙に浮く幼い少女は、瞳を閉じていた。
「パチュリーと申します、今は十一の敵によりかけられた死呪の解呪中にして、ご挨拶できぬ無礼をお許しください」
 少女の身体は紫色の布で覆われ、首には懐中時計がかけられている。
「解呪が終わるまで、娘の時は止められておりますので」
 魔法とはそこまでのことができるのか、と驚くレミリア。
「恥ずかしながら、時を止めたのは私の力ではありませんが」
 時を止めたのはこの場に駆けつけられなかった別の友人から預かったアイテムだとノーレッジは言い、スカーレットは合点がいったと頷いた。
「ああ、あいつか。今は何をしているんだ?」
「面白そうな場所を見つけたと手紙が来たぞ。こっちの争いに顔を出す暇はないとさ」
 自分たちの争いよりも優先順位の高いモノがある、と聞かされたレミリアはやや眉をひそめる。
「あいつらなら仕方あるまいよ。マイペースにも程がある一族だ。人間の寿命でありながら代々に渡って我々と付き合うだけはある」
 しかし、とスカーレットは続ける。
「とはいえ、その面白そうな場所とやらが我らに全くの無関係の地とは言えぬような気もする」
「また、運命とやらが見えたのか?」
「そんなところだ」
「ああ、それと、一族念願の娘が生まれたらしい。名付け親になる気はないか、だとさ」
「面白い。レミィに名付けさせよう」
 突然の振りにレミリアは戸惑う。
「女性らしく、かつ、東洋風の名前を一つ」
 東洋風と言われても、レミリアにそちら方面の知識は無い。
「美鈴に相談してもいい?」
「勿論構わないが、美鈴の生まれた国とは別の国だったはずだ。まぁ、美鈴ならその辺りも考慮するだろうが」
 三日後、レミリアは「サクヤ」という名前を送ることになる。



 それは、吸血鬼異変と呼ばれた。
 幻想郷へ大挙なだれ込んだ妖怪の群れはその全てが吸血鬼というわけではない。しかし、その群れは高位の吸血鬼によって率いられ、その多数を構成するのが高位低位が入り交じった吸血種だった。
 迎え撃ったのは八雲紫を始めとする幻想郷妖怪有志。と、後に記されることとなる。
「運命を操る程度の能力とは予知能力ではないし、ましてや未来を自在に作り出すものではない」
 スカーレットは静かに、子供に言い聞かせるように語っていた。
「それはあくまでも、選択肢を与えられるだけのこと。しかも、その選択肢を作り出すことなどできはしない」
 最良を選ぶ能力ではない。
 限られた条件の中から、嫌な未来と我慢できる未来を選ばされるようなもの。
「能力と言うよりも、呪いではないかと常々思っていたよ。継がされるレミィもいい迷惑だろうさ」
 その選択の結果だと、スカーレットは言う。
 ノーレッジも、その選択を支持していた。
「こいつのこれに逆らうと碌な事が起きん」
 逆らった結果が十一人の娘だ、とノーレッジは笑う。
 しかし美鈴には、支持できるわけがなかった。
 スカーレットは言ったのだ。
 幻想郷に攻め込んだ群れの指揮系統全員の死によって異変は終了。紅魔館は幻想郷側について参戦。参戦者は三名。異変終了後の紅魔館の住人は四名。
 参戦者はわかる。スカーレット、ノーレッジ、そして自分。
 では、住人四名とは。レミリア、フランドール、パチュリー。そしてもう一人。 
「この異変で二人が死ぬという事ですか」
「いや」
 スカーレットはなんでもないことのように首を振る。
「直後の住人は四名だがしばらくして、同じ日に二人増えるよ」
 帰ってくる、そう言っているのだと美鈴は理解した。
 いや、理解したかった。
「信じてよろしいのですか」
「私は美鈴に嘘をついたことはなかったはずだが」
「……失礼しました」
「なに、気にするな。無茶な話だとは理解している」
 これまでに打ってきた手の全てがこの地での決戦を導いていた。
 幻想郷支配に最後の望みを託した勢力は、まさに死にものぐるいの力を発揮するだろう。
 迎え撃つのはそれを誘導してきた自分たちと、八雲紫率いる幻想郷妖怪。先頭に立つのは自分たち。
 それが、スカーレットの見た未来。掴んだ選択肢。操られた運命。
 退去する美鈴の姿を見送ると、ノーレッジが尋ねる。
「後で増える二人って誰だ」
「そこまではわからないが、お前と私じゃないことは確かだな」
「俺はまあ仕方ないと諦めちゃいるが、貴様もか」
「なんだ、諦めたのか。お前の十一人の娘は存外優秀だったのだな」
「俺かパチェのどちらかが必ず死ぬ呪いだ。さすがに十一人分の命と引換の呪い、出来損ないとは言えさすがは我が娘たちだな。ま、俺とパチェのどちらか一人なら選ぶ余地なんざあるまいよ。それより貴様はどうなんだ、不死身の吸血鬼」
「仕方あるまい。ここまで戦い続ければ不死の身体にも限界は来る。それに最近、太陽が見たくてしょうがない」
「ああ、そりゃ駄目だ」
 あ、とノーレッジは突然気付いたように言う。
「パチェには、この闘いで瀕死ってことにしとこう。呪いで死んだなんぞ恥ずかしくて言えねえ」
「私もそういうことにしておこう。お互い、見栄っ張りだな」
「父親だからな」



 父、ノーレッジは敗れた。父の友スカーレットを救うために駆けつけ、闘い、最後に敗れた。
「パチュリー。我が魔道の全てを我が娘たるお前の中に遺そう」
 私は首を振る。
 ベッドの上で苦しげな息だった父が突然きょとんとした顔になるのは見物だった。
「遺すなら書物の形でお願いします。後で読みますから」
 私の注文に父は首を傾げる。さっきまで死にそうだった男はどこへ行ったのか。
「私が自ら得る知識以外は必要ありません」
 咀嚼なしに入力された知識など、百害あって一利無し。
 そして私は、父の持つ幾多の知識を全て咀嚼してみせよう。例えそれが那由多の彼方に届く量だろうとしても、私には物足りないだろうから。
 それに。
 これは絶対に言わない。絶対に言わないけれど。
 私は貴方の魔道が欲しくて貴方の味方になったんじゃない。
 私は、貴方の娘だから貴方の味方になったのだ。
 貴方の娘だから、十一人の姉を裏切ったのだ。
 貴方の娘だから、貴方の娘を裏切ったのだ。
 お父さんだから、お父さんの娘だから。
 私は姉に呪われた。十一重の呪いなど、父にとって解くのは容易い。問題は時間だった。私の命が尽きる方が解呪よりも早くなると、父は判断した。
 父の選んだ手段は時間の停止だった。
 いざというときに使えと託された懐中時計は、対象の時間を止める効果を持つ。
 それは父の最大の危機にこそ使われるべきモノだった。
 それを、父は私に使ったのだ。
 父はゆっくりと私の呪いを解きつつ十一人の娘を殺し、旧友たる吸血鬼の元を訪れた。
 その吸血鬼の敵が、姉たちを言葉巧みに招き入れたのだ。いや、言葉巧みではなかったのかも知れない。
 私は確信している、いずれあの女達は父を裏切ったであろう事を。
 私は父が気付く前から少しずつ呪われていたのだ。父の血を最も濃く受け継いだ私をあの女達は憎んだ。ただそれだけのこと。とても単純でわかりやすい話だ。
 残り滓しか受け継がなかった者達でも十一という数、そして年の功は馬鹿にできない。私への呪いが解呪されると同時に発動した最後の罠は、呪文を唱える者には致命的な病を私の喉に残していったのだ。
 とはいえ、私の知能に陰りはない。ならぱ、喉の病などいくらでもカバーできる。魔法は知識であり、知識の集大成こそが魔法なのだ。肉体的な条件など誤差の範囲内だ。
 ゆえに私は、常に知識を求める。私のために、私の知識を。
「それでいい。我らが求むは常に未知なる知識(ネームレス・ノーレッジ)」
 父はニヤリと笑った。
「それでこそ、ノーレッジの名にふさわしい」
 パチンと指を鳴らす音。
「受け取れ、ノーレッジの名を継ぐ者よ」
 ベッドの上から父の姿は消え、同時に紅魔館の地下図書室の蔵書数は十一倍になった。
 ぴったり十一倍。
 父は最後まで、悪趣味な洒落が好きな人だったと思う。
 私は、そんな父が好きだった。
 だから私は父の名(ネームレス)を継がない。
 私はパチュリー・ノーレッジ。
 父の娘の名はパチュリー・ノーレッジ。
 それが、私の名前。
「魔力が動いた気配がしたけれど」
 背後から声をかけてくるのはレミリア・スカーレット。
 スカーレット家の現当主。フランドールの姉。紅美鈴の主。
 父の親友の娘は何もないベッドに気付くと目を見開き、胸に手を当て黙礼した。
「レミィ、貴女は別れを済ませたの?」
「明日の朝になったわ」
「朝に何かあるの」
「最後の最後は太陽を眺めたいんですって」
 スカーレット家の宿痾よ、とレミリアは笑う。
「祖父も父も、そしてきっと妹も。この宿痾は治らないのよ」
「貴女もその宿痾を受け継ぐのかしら」
「だとしたら、幻滅する?」
「いいえ。私の制約は変わらない」
 私達は制約を交わしている。
 ──パチュリー、私が当主となったとき、私の友として立ってくれるかしら
 ──私の父と貴女の父のように
 ──貴女には、紅魔館において私に次ぐ権限を与えるわ
 当然だろう。とパチュリーは思った。それは破格の申し出でもなんでもない。対等な友であるならば従属など論外。いや、どんな存在であろうと魔女パチュリー・ノーレッジを従者として使役することなどできようはずがない。
 パチュリーの出した条件は一つ。
 その条件が破られない限り、仮に友でなくなったときも味方であり続けよう。とパチュリーは言う。
 レミリアは条件に驚き、受け入れた。
 ──誓いましょう。私は決して裏切らない
 ──私は決して、フランドールを裏切らない
 姉たちは父を裏切った。
 自分は姉たちを裏切った。
 だからこそ。
 パチュリー・ノーレッジは、フランドール・スカーレットを裏切るレミリア・スカーレットを絶対に許さない。
 姉妹の裏切りを、絶対に許さない。
 妹を裏切る姉など、姉を裏切る妹など、もう、見たくない。
 見たくないものがそこにあれば、消し飛ばすだけだ。
 例えそれが、自分には無関係の姉妹であっても。



 そして、今。
 屋敷に入ろうとしていた小悪魔を呼び止めてレミリアが伝言を託すと、パチュリーはすぐに姿を見せた。
「そんな予感がしていたから、一応準備していたのだけれど、正解だったようね」
 小悪魔に持たせた箱からそっと取り出すのは、かつて彼女の命を救った懐中時計。
 柔らかい布に包まれたそれは、これまでの間も欠かさず手入れをされ続けたように美しく磨かれていた。
「パチェも運命が見えるようになったのかしら」
「まさか。これは予測よ。この子をようやく帰順させたのが今日」
「ああ」
 ……同じ日に二人増えるよ
「そういうこと、ね」
「二人」
 美鈴が呟く。
「やっぱり、そういうことだったんですね」
 違うとは美鈴にもわかっていた。それでも、確実になる瞬間までは信じていたかった。
「きちんとケジメは付いた?」
 レミリアもそれを知っていたのだ。
「はい。今日のこの瞬間から、名実ともにお嬢様を紅魔館の当主と認めます」
「ねえ美鈴」
「はい」
「これでお前の恩返しは終わった」
 美鈴は無言で頷いた。
「これからは自由になさい」
「では、これからは私の意志でお嬢様にお仕えします」
「あのねぇ」
「昔、言ったはずですよ」
 美鈴は跪き、レミリアの手を取った。
「私は、我が儘だと」
 それに、と美鈴は続ける。
「私がいなくなったら、太陽の代わりはいませんよ」
 たじろぐレミリア。
 小悪魔は首を傾げ、パチュリーはクスクスと笑っている。
 フランドールの太陽への憧憬は不思議なほど小さくなっていた。今でも憧憬を口にすることはあるが、一時期の狂的な眼差しはもう見られない。
 レミリアにはかすかに見えていた。フランドールの憧憬が太陽から移っていく様子が。それは夜空を駆ける彗星か、あるいは無意識にひっそりと忍び寄る囁きか。
 二つの運命のどちらになるか、そこまでは今のレミリアにはわからない。
 逆に、レミリア自身の中に太陽への憧憬が生まれていた。それは、スカーレットの血に流れる決して抗えない宿痾。
「いいじゃない、レミィ。単に今まで通りと言うだけの事よ」
「パチェ……」
「私は日の出ている間ずっと外にいるなんて嫌だし、小悪魔を貸す気もないわよ」
 そんなことをしたら自分は死んでしまう、とパチュリーは断言する。多分、十一人の呪いよりももっと容易く死ぬ。
「わかった。美鈴、これまで通りよろしく頼む」
「こちらこそ」
「じゃあ、当主として最初の命令だ。この懐中時計を見せつけて、あいつ捕まえてこい。多分何か反応するだろう」
「捕まえるんですね」
「抵抗するなら死なない程度になんとかしろ。あと、懐中時計は絶対壊すなよ。私とパチェの父の共通の友人からの預かり物だ」
「時計は守りますけれど、人間相手の手加減は難しいですね」
「ご心配なく。抵抗しませんから」
 知らぬ声が聞こえた瞬間、三人が同時に動いた。
 パチュリーと美鈴はレミリアを庇うように、小悪魔はパチュリーを庇うように。
 レミリアは微動だにせず、興味深げに眉を上げている。
 結果として、現れた声に対して先頭が美鈴、二番目が小悪魔、三番目がパチュリー、最後がレミリア、と並んで向かい合うような状態になってしまう。
 声の主はライダースーツを着て、ヘルメットを小脇に抱え、懐中時計を余った手に持った姿で立っていた。
 ヘルメットが暑かったのか、乱れた銀髪と上気した顔が汗に濡れている。
 美鈴は既に構え、小悪魔は両腕に障壁のような魔法力場を展開する。その後ろではパチュリーが致死性の呪文を唱えようとしていた。
「初めまして。十六夜咲夜と申します」
 声の主……十六夜咲夜は頭を下げた。
 サクヤ、自分はその名前を知っている。何かがすとんと収まったような気がして、レミリアは三人に拳を納めるように言うと前に出た。
 あたかもそれを待っていたかのように、咲夜はレミリアに向かってさらに深く頭を下げる。
「レミリア・スカーレット様ですね。懐中時計を丁寧に扱っているようなら決して逆らうな、と一族の長に言われております」
「サクヤ……お前がサクヤなのか。ああ、確かに私がレミリア・スカーレットだ。お前の一族のことは知っている。ところで、その懐中時計を粗末にして……そうだな、汚したり壊したり、捨てたり売り払ったりしていたらどうなっていたんだ?」
「そのときは皆殺しにしてから帰ってこいと」
「丁寧に扱っていたら?」
「逆らうな、とだけ」
 そういえば、その後どうしろという話はされていないな、と咲夜は気付く。
「イザヨイサクヤ……いや、十六夜咲夜。お前の家事能力は?」
 咲夜は首を傾げた。
「家事能力を聞いている」
「実家では男連中の面倒を見ていました」
「よし、お前今日からうちのメイドやれ」
 咲夜の首が更に傾けられ、美鈴とパチュリーの喉から呆れたような呻きが漏れた。
「メ・イ・ド。とりあえずは料理と掃除だな」
「え、あの」
「うちは今日から二人増えることになっているんだ。お前が二人目だ。運命だから受け入れろ。料理は六人分、人間と同じ物と量でいい。備蓄はたっぷりあるから心配するな」
 咲夜が狼狽えているうちに、
「パチェ、どうせ今からこあにゃん、じゃなかった、小悪魔に屋敷の案内するんだろ。ついでにこいつにも頼む」
 レミリアに背中を押され、小悪魔の前に立つ。
「あ、あの」
 小悪魔は喜んでいた。
「私、小悪魔と言います。咲夜さんって呼んでもいいですか?」
「え、あ、はい、いいけど」
「わぁ、私達、同期ですね。ここはみんな先輩ばかりで、同期の人がいて良かったぁ」
 頭を抱えながら、パチュリーは小悪魔を促して屋敷へと戻っていく。嬉しそうに咲夜の手を取ってついていく小悪魔。
 美鈴が慌てて咲夜の手に懐中時計を託す。
 遠ざかる三人を眺めながら、レミリアはしみじみと呟いた。
「読み終わるまで気付かない運命もあるんだな」
「この運命を読んでいたのは前当主様ですよ」
「私だって今後はある程度読んでいるさ」
 例えば太陽への憧憬の消えたフランドールが手を伸ばすもの。彗星か無意識か、あるいは第三の何かもっと別な、気にいらないが秘した神のようなものとか。もやもやとはしているが、選択肢が見えている。
 そして、自分が手を伸ばすもの。
 太陽はそこにある。
「お嬢様」
 二人きりになったことを確認すると、美鈴はレミリアを抱きしめた。
 陽の当たる間ずっと外にいた美鈴の、たっぷりと陽の光を吸収した匂い。
 太陽の匂い。
 熱さは無い。痛みも無い。禁忌も無い。
 安心できる、太陽の匂い。
 宿痾である太陽の光とは違う、それでも間違いない太陽の暖かさ。
 これでいい。とレミリアは思う。
 少なくとも今は、これでいい。
 太陽の暖かさも匂いも、これで充分だ。
 夜闇の吸血鬼が手を伸ばした先に、これ以上のものは望めないのだから。





 これより数ヶ月の後、幻想郷を紅霧が覆うこととなる。

 そしてレミリアは知る。
 手を伸ばした先には、存外いろいろなモノがあるのだと。
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コメント



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3.100名前が無い程度の能力削除
がっつり過去話。良かったです。
4.100Actadust削除
紅魔館の面々との出会い、すごく面白かったです。如何にして固い結束が作られていったのか、それが伝わってくるのが良いですね。
5.100南条削除
面白かったです
紅魔館の王道過去話を堪能させていただきました
素晴らしかったです
6.90已己巳己削除
紅魔館過去話として一つの解釈として面白かったです。
7.90竹者削除
よかったです