「お姉様お姉様。ちょうど良かった。今日はとっても珍しいお土産を持ってきたわ」
レミリアの書斎に入ってくるなり、全身血塗れで興奮した面持ちのフランはそう言った。
レミリアは読んでいた本から目を離し、くゆらせていたパイプの火を消した。ほう、と紫煙を吐き出し、読書用の眼鏡を外して目頭を押さえながらフランに向き直る。
「……帰ってきたらまず言う事があるでしょう、フラン」
「あ、そうだったね。ただいまお姉様」
「はい、おかえり。それと、どれだけ気持ちが逸ってもちゃんと扉はノックしてから開けなさい。レディとしてはしたないわよ」
もっとも血塗れなのを全然気にしていないフランの様子を見るに、それ以前の問題かもしれない。元気なのは良い事だが、レディとしての育て方は大失敗したように思う。
「はーい、覚えてたら気を付けるわ。それでねそれでね」
はいこれお土産、とフランは後ろから一本の血に汚れたボトルを取り出して机の上に置いた。
ボトルは幻想郷ではあまり見る事のない透明度の高い質の良い硝子で作られており、ラベルにはフランの直筆であろう達者な筆記体で【the torture of bloody pond】と記されている。血塗れのスプラッターな姿からすわ生首か何かでも放り投げられるのかと邪推していたレミリアは少し拍子抜けした。
「ほう、見た所ワインかしら?」
興味が湧いたレミリアは身を乗り出してボトルを手に取ってみる。べちゃりと乾きかけた血の不快な感触が手から伝わってくるが、今まで何度も経験してきた感触だ。顔色ひとつ変えずにそのままボトルを検分する。
ボトルは見た目よりも随分とずっしりとした重みがあった。どうもただのワインではないようで、少し傾けてみると中に詰まっている息詰まるような重苦しい赤色の液体がごぷり、と粘着質な音を立てる。
そう言えば、フランは今日地底の友人の所へ遊びに行っていたのだったか。となると、つまりこれは普段飲んでるような血を混ぜたワインなどではなく。
「血の池地獄の血をそのまま汲んできたのね」
「大正解! お姉様、珍しい物が好きでしょう? だから頑張って持って帰ってきたのよ。それ手に入れるの、すっごい苦労したんだから」
「なるほどね。血塗れで帰ってきたのはそのせいかしら」
レミリアは溜息を吐いて床を見やる。
フランが通ってきた道筋を示すように、フローリングには血の跡が点々と零れ落ちていた。今も書斎のカーペットに現在進行形でじゅくじゅくと血が染み込みつつある。柄も良くて結構お気に入りの品だったのだが、あれはもう洗濯しても無駄だろう。後で廃棄するしかあるまい。
「ああ、私の事を心配してくれてるの? だったら杞憂よ。怪我なんて一つもしてないわ。これは全部血の池と、尤魔とオオワシ霊達の返り血だもの」
それよりもねぇ聞いてよ、とフランはぷりぷりと怒りながら七色の羽を振るわせた。辺りに血が飛び散り、レミリアのドレスや本に赤いシミを作る。
その仕草は実に可愛らしいのだが、血でこれ以上書斎を汚すのは止めて欲しい。レミリアはその事を伝えようとするも、興奮したフランの声に遮られてしまった。
「尤魔ったらケチなのよ。ちょっとお土産に持ち帰りたいだけだったのに、持ち前の強欲さで一滴たりともやらんの一点張りなんだもん。血の池地獄の血は何年かけても飲みきれないくらいたっぷりあるのに、尤魔ってば本当にごうつくばりだわ。あんまりにも腹が立ったもんだから、帰り際についキュッてしてきちゃった」
直接会った事は無いが、その饕餮とやらも可哀想に。レミリアは心の底から彼女に同情した。
フランから先の黒水異変については大体の事は聞いている。もちろんその時に知り合った饕餮についても聞かされており、曰く【壊しても復活する壊しがいのある相手】らしい。その口ぶりからするにフランはどうも饕餮の事を壊しても大丈夫な玩具と認識しているような気がする。
何とも気の毒な事だ。いくら復活するとは言え、破壊される時の痛みや苦しみは普通にあるだろうに。その内菓子折でも持って地獄へ謝りに行かなければならないかもしれない。
「まぁ、貴女に怪我が無いのならそれでいいわ」
レミリアはボトルを机に戻し、手に付いた汚れをハンカチで拭き取った。粘っこい血で汚れたハンカチももう使い物になりそうにない。カーペット共々処分しなければ。
「で、わざわざボトルに入れて持ってきたって事は、これを私に飲んで欲しいのかしら」
「それはもちろん。地獄の血液だなんて、吸血鬼で紅い悪魔なお姉様にはピッタリの代物じゃなくて? 私、初めて血の池地獄を見た時にピンと来たのよ。これはもうお姉様へのお土産にするしかないわ! って」
「まぁ、確かに私に相応しいかもね」
地獄に悪魔。吸血鬼に血液。これ以上はないであろう組み合わせであるのは間違いない。
しかし、とは言えどもだ。
「そもそも飲める物なの、これ」
ボトルの中に詰まっている血液は、レミリアが普段飲んでいるそれよりも数段おぞましい。暗赤色に淀み、何だか体に良くない物が色々と溶け込んでいそうだ。飲んだら体調を崩しそうである。
「それなら心配無いわ。尤魔はいつも水みたいな感覚でごくごく飲んでるし、村紗っていう船幽霊の人もよくがぶ飲みして溺れてるもの。つまりは、それだけ美味しいって事よ」
「そうなの? 例に挙げられた二人が参考にならなさ過ぎて、これっぽっちも安心出来ないのだけど」
何でも喰らい尽くす神獣と、怨霊に近しい性質を持つ船幽霊。そんな二人と吸血鬼を比較しないで欲しいものだ。いくら吸血鬼だからとは言え、血であれば何でも美味しく頂けるという訳ではない。
「……まぁいいわ。可愛い妹のせっかくの手土産だもの。不安は残るけど、騙されたと思って飲んでみましょう」
レミリアが机の上にある小さな鈴をちりん、と鳴らすと瞬きする程の間も無く、完璧で瀟洒な従者がレミリアの傍に現れた。
「はい、ここに」
「ワイングラスを持ってきてちょうだい。フランの分は……」
「私はいいよ。それはお姉様に飲んでもらう為に持ってきたんだもん」
「だそうよ」
「畏まりました、少々お待ちを」
主より命を受けた咲夜は恭しく一礼する。
その礼が終わる頃には、既にレミリアの手にはグラスが握られていた。まこと、時を操る能力は便利なものだ。自分の従者ながら羨ましくも恐ろしくもある。
「では私はこれにて。何かありましたら、またお呼び下さいませ。どうぞ、姉妹水入らずでごゆるりと」
その言葉を最後に咲夜は姿を消した。
毎度思うが、よく出来すぎたメイドである。これでたまに見せる天然が無ければ尚良い。
「さて、では早速頂こうかしら……うっ」
レミリアがボトルの栓を開けた途端、芳醇な血の香りが書斎中に広がった。フランが漂わせている血生臭さなど比較にならない、屍臭にも近い濃厚な血の匂いだ。
吸血鬼の本能に訴えかける美味そうな匂いかと言えば、そうではない。むしろ逆である。匂いの主張が強過ぎて、食欲が刺激されるどころか思わず嘔吐いてしまう。
「凄い匂いね……まるで解体場にいるみたい」
「あー、どこかで嗅いだ事ある匂いだなって思ってたんだけどそれかぁ。咲夜が私達のご飯を用意してくれてる所でしょ? 道理で食欲が湧く訳だわ」
「えぇ? 食欲……湧くかしら、これ」
フランにとっては良い香りであるらしい。レミリアは逆に食欲が減退してしまっているが。
多少の躊躇の後、レミリアは重ったるい音を立てながらグラスに血を注いだ。試しにワインの様に少し回してみるも、特に匂いが良くなったりはしない。
いつも飲んでいるサラサラの血液とは異なり、見るからに粘っこい健康に悪そうな血を見て更に食欲が失せていく。果たして飲んで無事でいられるのかどうか。そもそもこれは本当に人間の血なのかすら怪しい。
「これ、正真正銘血の池地獄の血なのよね」
「そうだよ」
「血の池の血ってどこから流れてきてるのかしら。普通の池みたいに源流がある訳じゃないでしょうし」
吸血鬼が飲むのは人間の血が基本である。他の生物の血も吸えない事は無いが、人間と比べると数段味が劣るのであまり飲む事は無い。由来不明の得体の知れない血ならば尚更だ。
では血の池の血は一体何の血なのだろう。罪人か、獣か、はたまた地獄の獄卒の血であろうか?
どちらにしても全部嫌だな、と思いながらレミリアはフランに問いかけた。
「うーん、確か聞いた事があるわ。こいしの知り合いが仏僧をやってるそうなんだけど、彼女の教えによると血の池地獄って罪人の中でも主に女性が落ちる地獄らしいのよ」
「へぇ。それはまたどうして?」
「ほら、大人の女性は月経で血を流すらしいじゃない。それが大地を穢すから、死後に血の池地獄へ落とされちゃうんだって」
まぁ私達に月経はまだ来てないから関係の無い話ね、とフランは無邪気に笑った。
「なるほど。つまり、このおどろおどろしい血は」
「うん。今の話を元に考えるに、経血なんじゃないかな? 実際本当にそうなのかは分からないけど」
フランの回答にレミリアは露骨に顔を顰めてグラスを遠ざけた。
この世に生まれて今まで数え切れない回数血を飲んできたが、経血なんて代物を飲んだ事は一度も無い。飲みたいと思った事も無い。
謎の血液の由来が恐らく人間である事を知れたのは良かったが、その中でも最も不浄とされる経血を飲まねばならないとは。
「飲む前に知りたくなかったわ、そんな事……」
「お姉様が聞いてきたんじゃん。それに、飲んだ後に聞かされるよりはまだマシじゃない?」
「それはそうかもしれないけど……」
だが、この血の正体がなんであれ、せっかくの妹の厚意を無下には出来ない。レミリアの覚悟はとうに決まっている。
ええいままよ、とレミリアはグラスを一気に傾けた。品の無い飲み方ではあるが、こんな代物をちびちびと味わいたくはない。一息に飲み干してしまった方が楽だ。
強過ぎる血の匂いにむせて少し血をドレスに零してしまうものの、どうにかグラスの中身を全て口に含む。そしてしばし口の中で転がし、味わい、飲み下す。
頑張って持ってきたと言う妹の手前、すぐに飲み込む訳にも行かずたっぷりと余韻を堪能したレミリアは、力尽きたようにどさっと椅子に深く身を預けた。額を押さえながら深く、深く、長い息を吐く。
「ね、ね。どうだった? ちゃんと美味しかったかしら」
興味津々といった様子でフランが口早に尋ねてくる。
そんな妹を睨め付けつつ、レミリアは気だるげに答えた。
「不味い」
一言でバッサリと切り捨て、そのまま詳細な感想を述べる。
「血の味が混じり過ぎてる。A型B型O型AB型、何もかもごちゃ混ぜになってぐちゃぐちゃのドロドロ。匂いばかり強くて血の質は極めて悪いし、雑味が酷過ぎてとても飲めた物じゃないわ。本当に見た目通りの味ってところね」
そこで一息吐き、呆れ半分怒り半分に言葉を継ぐ。
「あとこれ、やっぱり何か体に悪い物が溶け込んでいるでしょう。毒なのかどうかまでは分からないけど、急に頭が痛くなってきたし倦怠感も凄いのだけど」
「まぁ、そりゃねー。怨念渦巻く地獄の血液だからね。怨霊とか骨とか色々溶け込んで味わい深くなってるのかなーと思ったんだけどな」
やっぱダメだったかー、とグロッキー気味なレミリアを前に悪びれもせずフランはからから笑う。
怨霊とか妖怪にとっては割と洒落にならない単語が聞こえてきたのは気のせいだと思いたい。きっと愛する妹は、怨霊が妖怪にとって致命的な存在だという事を知らなかっただけなのだ。
「その反応からするに貴女、私に飲ませる前に味見とかしてないわね?」
「うん。匂いは良いけど凄い見た目してたから、取り敢えずお土産って名目でお姉様に飲ませて、その反応を見てから飲むかどうか判断しようと思って。まぁでも、美味しくはなかったみたいだけど珍しいものが飲めたしいい経験になったでしょ?」
あっけらかんとした様子でそう宣うフランに、レミリアはもはや苦笑いしか出てこない。
飲んでいい物かどうか分からないから毒味役を用意する。なるほど、我が妹だけあって賢い選択である。だからと言って、その毒味役に姉を選択する神経はどうかしてると思うが。
「ははは。まったく、この、イタズラ者め」
ぶれる視界と揺れる頭をどうにか抑えながら、努めて冷静にレミリアは声を絞り出した。紅魔館の主たるもの、この程度のイタズラで倒れる訳にはいかない。
「取り敢えず、今回のお仕置きの内容は後で考えるわ。貴女はまず、早く湯浴みを済ませて体を綺麗にしてきなさいな。いくら紅魔館とは言え、館の中まで赤色に染める必要は無いわ」
「うふふ、分かったわ。こういう時に声を荒らげて怒ったりしないお姉様が私は大好きよ。じゃあ、また後でね」
そう言い残してフランは書斎を出て行った。後には所々をどす黒い血の色に染めたレミリアだけが残される。
フランの気配が遠くに行った事を確認して、レミリアは一際深い溜息を吐いた。そのまま全身を脱力させ、椅子をずるずると滑り落ちる。さっきまでどうにか保っていたカリスマはもう欠片も無い。
「あぁ、もう。血を飲んでこんなに体調を悪くしたのは初めてだわ」
頭がガンガン鳴って酷い気分だし、吐き気も引く気配がない。口の中に残り続ける後味も中々に不快だ。
確かに珍味の類は好きなのだが、別にこう言う方向性の珍味は求めていなかった。せっかく妹が遠路はるばる持ってきてくれた物ではあるので、どうにか咲夜に料理してもらって完食する心積りではあるが。
そんな事を思いながら、レミリアは傍らに置きっ放しにしていたパイプを手に取った。煙草の葉を詰め替えて口に咥える。
ひとまず今はこの酷い気分を少しでも紛らわせたい。一服でもすればちょっとは口直しになるはずだ。
レミリアはパイプを咥えたまま、マッチを手に取ってシュッと一擦りした。
§
書斎を出て浴場へととことこ歩みを進めていたフランは、後ろの方から愛する姉の悲痛な叫び声と肉の焦げる様な良い香りが漂ってくるのを感じた。少し遅れて大きめの爆発音が聞こえ、館全体が少し揺れる。
主の悲鳴を聞きつけた妖精メイド達が慌ただしくバタバタとフランの横を通り過ぎて書斎の方へと向かって行く。だが、混乱していた彼女達は誰一人としてフランの表情が喜色に歪んでいる事に気付けなかった。
「うふふっ……あーっはっはっは! やった、上手くいったわ! お姉様ったら、綺麗に引っ掛かってくれたわね!」
妖精メイド達がいなくなった後、フランは面白可笑しくて堪らないといった様子で高笑いする。ニタァ、と避けるように浮かんだ口元の笑みは、容姿こそ可憐な彼女が悪魔の一人である事を示すかの如く邪悪さに満ちていた。
レミリアに飲ませたのは間違いなく血の池地獄から汲んできた血だ。だが、それは血であると共に石油の性質も持つ、極めて可燃性の高い危険な液体である。また饕餮曰く、生物の恐怖や哀楽、憎悪に怨嗟と言った負の性質全てが溶け込んだ呪いの極まった液体でもあるらしい。間違っても飲んでいい代物ではない。
それをレミリアはフランのプレゼントだからと飲んだのだ。それは体調が悪くなるのも当然である。むしろそれだけで済んで幸いであったと言うべきだろう。
そしてレミリアは急激に悪化した体調を少しでも誤魔化そうと、パイプをふかそうとしたに違いない。飲んだのが石油であるとも知らずに。そこへ火を近づければどうなるかは自明の理である。
「きっとさっきの爆発は、うっかりボトルでも倒して中の石油に引火したのね。あはっ、お姉さまったらそこまで私を喜ばせようと道化にならなくてもいいのに」
二段構えのイタズラは大成功であり、予想以上の結果にフランは大満足だった。わざわざ血の池地獄まで行って、剛欲同盟を相手に大立ち回りを演じた甲斐があったというものだ。
本当は今すぐにでも様子を見に行きたいが、そこをぐっと堪えて再び浴場に向けて足を動かす。今は自分も石油塗れの状態だ。このままレミリアの惨状を見に行って、自分まで火達磨になってしまっては元も子もない。
いくら再生能力の高い吸血鬼と言えども、体の内外から炎で燃やされてはそう簡単には元通りに再生出来ないだろう。石油の火は水では消えないし、フランの見立てでは今日一日中はレミリアは燃え続けると思われる。
時間はたっぷりあるのだ。まずはレミリアに言われた通り、姉の悲鳴を楽しみながらゆっくりと湯浴みして疲れを癒すとしよう。
「さーて、今度はどんなイタズラを仕掛けてやろうかしら? 次はもっと過激な奴でもいいかもしれないわね」
うふふ、あははと笑いながらフランは浴場の中へと消えていった。
紅魔館の主の悶え苦しむ声は、未だ止まない。
その血がいかに不味そうかという表現はすごくお上手でした。
ただあくまで好みの問題として、
そこから話を広がるでもなくいたずらで終えるならもうちょっと短くすっきりした方がよかった気がするのと
これならレミリアがパイプ吸って大爆発して終わりの方が好きだったかもしれません
血の池地獄の血はやっぱりまずいのか
妹のためなら気合を入れるお姉さまがチャレンジャーでよかったです
悪魔らしいフランちゃん最高です
いくら吸血鬼とは言え美少女に飲ませるのはちょっと…