その夜、二人は飛行機に乗り、大陸の上空を飛んでいた。大学の夏休みを使って、イギリスのグリニッジを訪れることにしたのだ。二人は京都の大学で待ち合わせて、関西国際空港から搭乗した。蓮子は京都から終始はしゃぎ続けていたが、離陸の後、彼女の様子は急変した。
「おろろろろ…… え、何よこれ、つっらい……」
「あら、完全に酔ってるじゃない。飛行機だけど一応これも船酔いかしら?」
「……? え? ああ、そうねそうね……」
「外でも眺めてたら? 景色を見たいって窓側の席を選んだのは蓮子でしょ?」
「外ねえ…… それはそうなんだけどさ、ダメなのよ……」
「ダメ? ダメって何が?」
「外を眺めてもね、星と月の位置が気持ち悪いのよ。ここはもうJST(日本標準時)じゃないし、飛行機の高度の分、見込み角もズレてるわ。時間も場所も分からなくなっちゃって、ほんと気持ち悪くなるわ……」
蓮子の能力はJST専用。JST内で分かる時間と場所が正確な分、そこを外れた際の代償は大きいという事か。蓮子の能力は今まで、数々のオカルト写真の時間と場所を特定し続けて来た。しかしこの時ばかりは、蓮子の能力はとても不便でしんどそうだ。
「じゃあこの、座席に付いてるディスプレイを見るのは? おおよそだけど、飛行機の時間も場所も見れるわよ?」
「それもそれで、自分の感覚が追いつかないのよ。感覚では昼なのに、無理やり夜だと言われる。それがまた感覚を狂わせて、もっと酔ってきちゃうのよね……」
蓮子の顔色は、みるみる悪くなっていく。辛うじて気を確かに持っているが、きっとそれも旅の興奮があってのものだ。いつまで持つかは分からない。彼女は何度も姿勢を変え、自分が落ち着く方法を模索している。
「星と月の位置、計算し直してみる? 原理的には出来るんでしょ? 引き算で」
「だいたいねメリー、引き算だなんて簡単に言うけど、経度だけは正確に見るのがものすんごく大変なのよ。そのために十七世紀の船乗り達が、どれほど命を落としてきた事か。別に緯度だったら話は簡単なのよ、緯度だったらね。基準の天体の見上げ角さえ分かれば良いんだから。でも経度だけはそうは行かないのよ。地球の自転のせいで、単に時間が進んでるのと、自分が東西に動いてるのとで、区別が付かなくなっちゃうんだから。いろいろ工夫をして月との距離を測ってみたりとか、回避する方法は無くはないけど、全然精度が出ないんだからね。今だと飛行機の高度も考慮しないといけないし。えっと、この飛行機の航路なら高度はだいたい三万七千フィートでしょ? 飛行機の進路角と緯度を含めて見上げ角の補正をしなきゃだから……、あ、ちょっと、まためまいが……」
蓮子は星と月を何度も見直して、自分の感覚とのすり合わせを試みていた。しかし計算し直す度に、船酔いがぶり返す。頭を抱えたり、一瞬元気が戻ったり、何度も忙しない。
そのうちに結局、蓮子はすっかり参ってしまった。ぐったりと窓にもたれかかり、腕は力無くぶら下がる。その割に呼吸は速く、肩の辺りが忙しなく上下する。顔に血の気の無いのが、照明の落とされたキャビンの中でもよく分かった。蓮子は苦しそうに顔をしかめる。目を強くつむったまま、何かにうなされているようだ。
見かねたメリーは、蓮子の身体をそっと抱き寄せた。気怠く前に倒れ込むのを支えて、その背中を丁寧にさする。メリーは、蓮子の呼吸より少しだけ遅く、その背中を撫でた。何度も何度も、丁寧に撫でた。蓮子の呼吸が、少しずつ少しずつ、ゆっくりになるように。
蓮子の頭が、メリーの肩へともたれかかる。メリーはその白く柔らかな腕で、蓮子の頭を包み込む。慣れ親しんだメリーの肩が心地よい。いつもの紫のワンピース。品のある肌触り。さりげなく香るラベンダー。日本を遠く離れても、そこだけは蓮子にとって変わらない、安心できる場所だった。
蓮子は少しずつ、落ち着きを取り戻してきた。呼吸は深くゆっくりになり、表情も穏やかになってきた。すう、すう、と、蓮子の寝息が聞こえてくる。一安心したメリーは、窓の外を見遣る。すると夜空が、月と無数の星々で満たされていた。街明かりが無いせいか、地球の大気の上にいるせいか、月も星もとても大きく、くっきりと見える。星座には詳しくないが、日本で見る夜空と全く違う事は、メリーにも何となく分かった。
「確かに日本の夜空とは違うわね。日本ではとっくに夜が明けてるのに、ここは真っ暗。でも、ここの夜空も綺麗じゃない。ねえ蓮子? 時間が進んでるのか自分の場所が動いてるのか分からないって言うけれど、それって区別しなきゃダメかしら? どっちにしても、私たちがこうして見る夜空の感動は、変わらないじゃない。私たちが過ごす固有時間は、私たちだけの不変な時間じゃないかしら?」
その時、夜空にちらと閃光が走った。流れ星だった。何にも邪魔されない上空では、微かに光る流れ星も、はっきりと見える。
「素敵ね。今日はきっと、良い夢が見られるわよ」
メリーはその手を、そっと蓮子の頭の上で滑らせる。蓮子の髪の流れに沿って、その手を滑らせてゆく。頭からおでこへ、そしてまぶたの上へ。きめ細かく繊細な肌が、蓮子の目元を包み込む。メリーは自分の目を、そっと閉じた。とても穏やかな心で。広い雲の海に浮かぶような、とても静かな心で。心安らぐ夢を、蓮子と共に見られるように。
「おやすみなさい蓮子。良い夢見ましょうね」
「おろろろろ…… え、何よこれ、つっらい……」
「あら、完全に酔ってるじゃない。飛行機だけど一応これも船酔いかしら?」
「……? え? ああ、そうねそうね……」
「外でも眺めてたら? 景色を見たいって窓側の席を選んだのは蓮子でしょ?」
「外ねえ…… それはそうなんだけどさ、ダメなのよ……」
「ダメ? ダメって何が?」
「外を眺めてもね、星と月の位置が気持ち悪いのよ。ここはもうJST(日本標準時)じゃないし、飛行機の高度の分、見込み角もズレてるわ。時間も場所も分からなくなっちゃって、ほんと気持ち悪くなるわ……」
蓮子の能力はJST専用。JST内で分かる時間と場所が正確な分、そこを外れた際の代償は大きいという事か。蓮子の能力は今まで、数々のオカルト写真の時間と場所を特定し続けて来た。しかしこの時ばかりは、蓮子の能力はとても不便でしんどそうだ。
「じゃあこの、座席に付いてるディスプレイを見るのは? おおよそだけど、飛行機の時間も場所も見れるわよ?」
「それもそれで、自分の感覚が追いつかないのよ。感覚では昼なのに、無理やり夜だと言われる。それがまた感覚を狂わせて、もっと酔ってきちゃうのよね……」
蓮子の顔色は、みるみる悪くなっていく。辛うじて気を確かに持っているが、きっとそれも旅の興奮があってのものだ。いつまで持つかは分からない。彼女は何度も姿勢を変え、自分が落ち着く方法を模索している。
「星と月の位置、計算し直してみる? 原理的には出来るんでしょ? 引き算で」
「だいたいねメリー、引き算だなんて簡単に言うけど、経度だけは正確に見るのがものすんごく大変なのよ。そのために十七世紀の船乗り達が、どれほど命を落としてきた事か。別に緯度だったら話は簡単なのよ、緯度だったらね。基準の天体の見上げ角さえ分かれば良いんだから。でも経度だけはそうは行かないのよ。地球の自転のせいで、単に時間が進んでるのと、自分が東西に動いてるのとで、区別が付かなくなっちゃうんだから。いろいろ工夫をして月との距離を測ってみたりとか、回避する方法は無くはないけど、全然精度が出ないんだからね。今だと飛行機の高度も考慮しないといけないし。えっと、この飛行機の航路なら高度はだいたい三万七千フィートでしょ? 飛行機の進路角と緯度を含めて見上げ角の補正をしなきゃだから……、あ、ちょっと、まためまいが……」
蓮子は星と月を何度も見直して、自分の感覚とのすり合わせを試みていた。しかし計算し直す度に、船酔いがぶり返す。頭を抱えたり、一瞬元気が戻ったり、何度も忙しない。
そのうちに結局、蓮子はすっかり参ってしまった。ぐったりと窓にもたれかかり、腕は力無くぶら下がる。その割に呼吸は速く、肩の辺りが忙しなく上下する。顔に血の気の無いのが、照明の落とされたキャビンの中でもよく分かった。蓮子は苦しそうに顔をしかめる。目を強くつむったまま、何かにうなされているようだ。
見かねたメリーは、蓮子の身体をそっと抱き寄せた。気怠く前に倒れ込むのを支えて、その背中を丁寧にさする。メリーは、蓮子の呼吸より少しだけ遅く、その背中を撫でた。何度も何度も、丁寧に撫でた。蓮子の呼吸が、少しずつ少しずつ、ゆっくりになるように。
蓮子の頭が、メリーの肩へともたれかかる。メリーはその白く柔らかな腕で、蓮子の頭を包み込む。慣れ親しんだメリーの肩が心地よい。いつもの紫のワンピース。品のある肌触り。さりげなく香るラベンダー。日本を遠く離れても、そこだけは蓮子にとって変わらない、安心できる場所だった。
蓮子は少しずつ、落ち着きを取り戻してきた。呼吸は深くゆっくりになり、表情も穏やかになってきた。すう、すう、と、蓮子の寝息が聞こえてくる。一安心したメリーは、窓の外を見遣る。すると夜空が、月と無数の星々で満たされていた。街明かりが無いせいか、地球の大気の上にいるせいか、月も星もとても大きく、くっきりと見える。星座には詳しくないが、日本で見る夜空と全く違う事は、メリーにも何となく分かった。
「確かに日本の夜空とは違うわね。日本ではとっくに夜が明けてるのに、ここは真っ暗。でも、ここの夜空も綺麗じゃない。ねえ蓮子? 時間が進んでるのか自分の場所が動いてるのか分からないって言うけれど、それって区別しなきゃダメかしら? どっちにしても、私たちがこうして見る夜空の感動は、変わらないじゃない。私たちが過ごす固有時間は、私たちだけの不変な時間じゃないかしら?」
その時、夜空にちらと閃光が走った。流れ星だった。何にも邪魔されない上空では、微かに光る流れ星も、はっきりと見える。
「素敵ね。今日はきっと、良い夢が見られるわよ」
メリーはその手を、そっと蓮子の頭の上で滑らせる。蓮子の髪の流れに沿って、その手を滑らせてゆく。頭からおでこへ、そしてまぶたの上へ。きめ細かく繊細な肌が、蓮子の目元を包み込む。メリーは自分の目を、そっと閉じた。とても穏やかな心で。広い雲の海に浮かぶような、とても静かな心で。心安らぐ夢を、蓮子と共に見られるように。
「おやすみなさい蓮子。良い夢見ましょうね」
意外な弱点がある蓮子がかわいらしかったです
終わり方が綺麗でした