9月19日 ???? 6:00 PM
日が傾き始める夕方の命蓮寺。客間として使われている一室で、封獣ぬえが聖白蓮に説教をされている。
ぬえは一応は正座したまま不満げにあちこちに目線を逸らし、聖が時折手元の櫃を叩いて注意を向けさせる。
廊下からそれを覗き込むのは雲居一輪と村紗水蜜と幽谷響子と姫海棠はたて。
各々誰のせいでこうなっているであるとか、聖の手元の櫃について会話を交わす。
じきに説教をされていたぬえが入口の面々に気づき、説教そっちのけでそちらを指さす。
「あっ、一輪このやろー! お前が余計な事言うからこんな目にな」
「えっ、私?」
「なんか、住職さまも大変ねえ」
「ちょっと、さすがにこれは駄目よ」
「おい、こんなとこ撮るんじゃないよ!」
「ぬえ!」
説教の最中によそ見をしたぬえを叱り、聖が喝を飛ばす。
そうして振り上げた手が櫃を叩き。
木目が割れる音に続いて、甲高い音が鳴った。
一瞬の静寂の後。
「宝塔がー!」
命蓮寺の客間は大騒ぎになった。
19日 雲居一輪 10:00 AM
肌を伝う汗を感じながら、遠くで蝉の声を聞く。
その音色は夏のピークを示す音ではなく、晩夏に聞こえる「ああ、そういえば夏の終わりはこの鳴き声がした」と感じる方のものだ。
種の名前は忘れてしまった。隣を歩く村紗に訊ねようか少し首を向けたが、正答を期待できず、対して楽しい話題になりそうもないためすぐに引っ込めた。
残暑の日差しを真っ向から浴びながら、二人で黙々と人里を歩く。
「あっつ。今日に限ってなんでこんな天気なのよ」
隣の村紗が先に音を上げ、首周りをばたつかせて空気を取り込みにかかる。人里の外れまで来て行き違う人も減ったために人目を気にすることが無くなったのだろう。
「さっきまでのキビキビした村紗はどこいったのよ」
「あれはオンの時だから。今はしばらく命蓮寺モードはオフ」
夏の暮。私達は人里への挨拶回りに来ていた。とはいっても日中の訪問であるために大抵が老人の話し相手になるくらいで、私はオンオフスイッチをいじるほど、気合を入れる行事でもなくなっていた。
「星も来てくれれば私が喋らなくても済むのになあ」
名前の挙がった星はといえば、午前中は寺で聖の手伝いをしているはずだ。午後の一件、ちゃんとした有権者への訪問だけ来る予定になっていた。
「午前中はあと一軒だっけ。まだ時間もあるしゆっくりしてこうよ」
私が最近お気に入りの腕時計を覗き込むと、移動時間を加味しても一服する時間はありそうだった。
村紗が氷菓子が食べたいと言うので、目に留まった屋台の方へ歩を進める。移動販売式の屋台の近くには簡易椅子が並べられ、すでに5、6人のグループが卓を囲むように座っていた。
その中の一人に、目が留まった。
「ああ、あそこにも年中オフのやつが居る」
私が軽く指を向けた氷菓子屋の先では、黒髪の妖怪が騒いでいた。こちらに背を向けているので顔は見えないが、背中で揺れる赤と青の羽根には見覚えがあった。
周囲に無害そうとはいえ妖怪を並べて大きめの声で語る様子は迷惑行為とまではいかないが、ここの店主が妖怪に理解があることと、立地的に混んでいないからこそ放免されている様子だ。
「ぬえ、公共の場でうるさい」
屋台の店主に声をかける前に、村紗がその背中に声を飛ばす。
話の途中で振り返った妖怪は、こちらを不思議そうに眺めた。
「あれ、村紗に一輪じゃん、こんなとこで何してんの」
「姐さん代理の挨拶回りよ。今朝話してたの聞いてなかったの」
「私は日夜妖怪としての格を高めることで頭がいっぱいなのだよ」
その様子と周辺の様子からするに、子分妖怪に何やら高説を垂れているようだ。注文は村紗に任せ、ぬえ達と一つ離れた島の椅子を引いて座りこむ。背もたれに身を預けると、樹脂製の椅子がキシリと鳴った。
「悪いねおっちゃん、うちの知り合いがうるさくして」
村紗の言葉に対して店主は気を悪くしなかった。
むしろ隠れ妖怪である店主は、彼女が語る妖怪の今後と己が編み出した技術に面白く耳を傾けているのだという。
私がぼんやりと話を聞くに、おおよその内容は自らの能力の昇華と成長、ひいてはそれを利用した計画の話。話の節々で、周囲の子分が感銘を受けたようにまばらに頷く様子が見える。
「あいつ信徒じゃなくて研究者にでもなったほうが良いんじゃないの」
会計を終えた村紗が冷たいお茶二つとアイスを手に戻ってきた。小銭を渡してからテーブルが綺麗に吹かれているのを確認し、肘を着いて麦茶を喉に通す。
「現状ですら、修行僧か怪しいけどね」
「独立前に捕まること始めなければいいけど」
「確かに」
半分要る? と村紗が差し出してきたふたつ折りアイスの半分を受け取り、蓋の部分をねじ切って口に運ぶ。
刺激にならないよう少しだけ吸い出してから、ちらと横目で腕時計を見る。
次の約束まで十分に余裕はある。
気を取り直すように咳払いをし、子分妖怪への高説に戻ったぬえの公演は、時間を潰すのに最適そうに思えた。
19日 幽谷響子 1:20 PM
午後の太陽が作り出した狭い日陰に、僅かに熱を湛えた晩夏の風が吹き込んだ。
命蓮寺の門前を掃除していた私は階段下からの熱気に眉を潜め、門裏の日陰へ移動する。風向きの関係か、涼しい場所を見つけて転々と移動すれば、今日の暑さはそれほどでもなく、我慢できそうだ。
長めに続いた夏の気候は一段落しつつあるが、夏の終わりにもう一度暑くなるのは毎年のこと。今年はまだ、アブラゼミさんも鳴いているようです。
「かといって、木陰は木陰で」
気を紛らわす為に口にしてみたが、堪えられなかった。
爽やかな風と、ぼんやりする温度差と、お昼ご飯の直後。眠気を誘う要因が重なり、あくびが出てしまう。
一応敷地の隅を向いて誰にも見えないようにしたが、振り返るとすぐそこまで寅丸様が歩いてきていた。
「御苦労様です響子」
「わわ、御苦労様です」
慌てて深めに礼したものの、寅丸様は私のあくびに気づいていなかったようだ。私が慌てている理由が分からず、きょとんとして、不思議そうな顔をしている。
自白する理由もないのでその事実は伏せたままにし、寅丸様が門前まで来た理由を思い出してみる。
「今日、人里の巡礼でしたっけ」
「ええ、午前中に聖の仕事が一区切り付いたのです。次はそちらも手伝ってあげないと、一輪たちに怒られてしまいます」
そうは言うものの、私は一輪さん村紗さんが寅丸様を怒る姿が想像できなかった。私が想像できたのは二人が頬を膨らませ冗談半分に不満を言い、真面目に受け止めた寅丸様がおろおろとする姿だった。
「しかし里に着くまでにしゃんとしませんと。お昼の後は、流石に」
そこまで言うと寅丸様は目を細め、口元に手をやって眠たそうにしている。
「寅丸様がそうされては、私まで」
ふわ。
同じように口に手をやり、向かい合うのも変なので、何となく同じ方向を向いてあくびをしてしまう。隣からは小さく、気持ち良さそうに息を吐く音も聞こえる。
口を閉じようとしたとき。
しゃらん、という機械音。
はっとして音のした方向を見ると、手元に念写機を持ったお客人がこちらをニコニコと眺めていた。
「はたてさん、撮らないでくださいよう」
私が焦りながら口にすると、彼女は依然ニコニコとしながらこちらへ近寄ってきた。
「いい画が撮れたわあ、今の写真使おうかしら」
彼女は門徒ではない自由な天狗なはずなのだが、ここ半月ほど、被写体探しと称して連日命蓮寺の密着取材を繰り返していた。なんでも新聞記事ではなく、近々ある写真展に向けての準備らしい。
まさか本当に、今の写真が使われてしまうのではないでしょうか。
「門前であくびしてる写真なんて評判落ちちゃいますよ」
「そう? 親しみやすさが出て別に悪くないと思うんだけど」
はたてさんは寅丸様に意見を求めている。
案の定、寅丸様は曖昧に言葉を濁し、最終的に僅かな肯定に落ち着く。ずるいですよう、否定しない寅丸様に話を振るのは。
寅丸様は二言三言私に言葉をかけると、ポーチの中を確認し門の方を向いた。
「では、行ってまいりますね」
私とはたてさんの方に手を上げ、寅丸様が門を出ていかれる。
ここから人里までは、歩いてなら一時間弱と行ったところか。
「よりにもよって、こんな暑い時間帯にね」
はたてさんが腕時計を覗き込むのを眺めながら、掃除を再開する。
はたてさんがこちらに念写機を向けるので、少し意識してきびきびと掃き掃除を続けた。
19日 幽谷響子 2:00 PM
他に撮るところは無くなってしまったのか、引き続きはたてさんが後ろを着いてきながら、適度に雑談しつつ、なんとなく掃除を手伝ってくれている。
客間に移る前に居間をはたきで掃除していると、廊下の方に人影が通り過ぎ、その後ろを追うようにもくもくと雲が飛んでいた。
「あ、雲山」
私の呼びかけに雲は緩やかに減速し、ひげを蓄えた顔がこちらを振り向いた。
「今日は一輪さんと一緒じゃないのね」
雲山は頷き、低い声を響かせた。正直何を言っているのかはちゃんと聞き取れなかったが、先を行く聖様を振り返る目線から、寺内の力仕事を手伝う予定なのだろう。
「雲山はこっち担当か。もしかしたら、雲山が周ったら人里の人たち驚いちゃうかもしれないしね」
私の言葉に困ったような、寂しそうな顔をした。
「冗談。お手伝い頑張ってね」
雲山は二回ほどぱちくりと瞬きをすると、うむと言ったようにひとつ頷き、こちらに背を向け再び廊下を進んでいった。
「雲山との交信はうまくいったようじゃの」
背後からの声に私が振り返ると、いつの間にかマミゾウさんが手を掴めそうな距離に立っていた。
「儂が側に行くとなんか煙たがられるし、一輪が居ない間は通訳なり仲を取り持つなりしてくれんかの」
「どちらかと言うと、マミゾウさんが原因なのでは」
私の言葉に返事はなく、不満げに唇を尖らせている。
彼女の背後には床を傷つけないよう靴下を履いた子分の狸が二、三匹ついているのみで、他に人影はない。
「今日はぬえさん一緒じゃないんですね」
「儂はあやつのお守りじゃないんじゃよ」
マミゾウさんは団扇で仰ぎながら、うんざりしたように零した。
「どこぞで寝こけてるか恐怖を集めとるか、はたまた酒でも」
そこで「おっとと」と言葉を止めた。
命蓮寺は僧の集まりのため、私も含めて基本的に、できるだけ、表向きは禁酒の令となっている。そんな中ぬえさんは堂々とお酒を持ち込んだり酔って雪崩れ込むことが多く、聖様に怒られることが多い気がする。
今少しマミゾウさんが漏らしてしまったが、またきっとどこかにお酒を持ち込んでいるのだろう。聞こえてしまったものの、告げ口でもしたらまた怒られるんだろうなあ。
マミゾウさんは袖に突っ込んでいた手を出すとおもむろに煙管を咥え、既に草が詰まっていたのか、火をつけた様子もないのに自然に煙が立ち始めた。それから当たり前のように、居間の方へと歩いていく。
「あっ! マミゾウさん、煙草は外で!」
「はいはい」
私の言葉にくるりと踵を返し、マミゾウさんは縁側のぎりぎり、煙が外へ立ち上るかどうか境目のところに立って煙を吹き始めた。
私は屋外禁煙を見届けると居間の掃除へ戻るべく向きを変える。隣に居たはたてさんが何か言いたげだったので、一度そちらへ顔を向けた。
「響子ちゃんも苦労人ね」
「ナズーリンさんほどじゃありませんけど」
本心だったのだが、はたてさんは何を気に入ってくれたのか、私の頭を撫でる。
彼女は念写機のレンズをこちらに向けることはなく、メモと一緒に持っていることから、念写機の中身を確認をしているようだった。
「撮った写真の確認ですか」
「うん、結構溜まって来たし、どれ使おうかなって」
「そういえばまだ見せてもらったことないです。どんな写真撮ってたんです?」
「良いと思う写真、選んでみてよ」
念写機を持たせてもらい、代わりにはたてさんが私の手からはたきを受け取ったので両手で画面を覗き込む。ここ押すと順に写真見れるから、とはたてさんの指が伸びてくる。
言われた左右のボタンを押していくと、はたてさんがここ数週間撮った写真が表示されていく。
私は写し絵の心得も浮世絵の心得も無い素人だが、率直に言って、見づらい写真が続いた。
写真の中心から人物が外れていたり不自然に距離が近くはみ出していたり、逆にぽつんと距離が遠かったりする。せっかく人物が真ん中に写って距離感が良さげな写真でも、手振れが激しく顔や輪郭が滲んでしまっていた。
「はたてさん、もしかして、念写じゃない写真練習中です?」
「わーん、敬語が逆に辛いわあ」
はたてさんはわざとらしく天を仰ぎながら、はたきを大げさに振り回して見せる。
「あ、でもさっきのこれはお気に入りよ」
彼女は再びはたきと念写機を交換すると、いくつか操作した後、私に画面を見せた。
私と寅丸様が並んであくびしてる写真だ。
「こんな写真、外部に見せられませんよ」
「良いと思うけどなあ」
はたてさんは両手を広げ、天を仰いで私を説得にかかる。
「こう、『あーあ、夏だー』っていう、アンニュイな感じが出てるというか」
私は正直、ピンと来ていないのですが。
「アンニュイさを求めるのであれば、命蓮寺は取材先としてあまり合わないのでは」
「ひー、キビシー!」
はたてさんの楽しそうな声が、午後の命蓮寺を和ませる。
19日 雲居一輪 4:45 PM
日が傾き始める午後。
予定していた訪問は星を加えた三人で無事に終わらせ、帰路に着くとなったとき。私は別の用事があるからと現地解散し、単身で妖怪の山に向かっていた。
速度を落としながら「私、ちょっと寄り道してくから先帰ってて」と別れた際の、村紗と星の表情を思い出す。面食らったような表情をして顔を見合わせてから「ヒミツの友達?」と話した。残念ながら、そんな面白い話でもない。
到着したのは妖怪の山、職人工房の一角。今日も例にもれず、場所柄多くは山童だが、様々な妖怪が露店を出していた。
その一つ、最近馴染みの彫金屋に顔を出す。
「山城たかね、居る?」
私の呼びかけに応答するものは居なかった。代わりに、カウンターで舟を漕いでいた山童が顔を上げ、目を擦る。
顔を上げたのは、私の探していた山城たかねではなかった。が、たまに店で見かける山童だった。
「おお、雲居の姐さん」
代理で店番をしていたであろう山童は大きくあくびをし、それから遅れて、来店の挨拶を告げる。
「ああ、荷物の受け取り? 頼んでたものは入ってるよ」
店番山童は愛想よく微笑むと、棚から紙袋を引き出し、カウンター越しだが底に手を添えながらに私に差し出した。
受け取った拍子に中身が傾き、軽い金属音を立てる。
上から覗き込むと、簡単な彫金用の工具、片手サイズの板金数種類、指導本が揃っているのが見えた。サービス精神か、掃除用のブラシまで付いている。
「なんか寺の装飾でも作るの?」
店番の声に顔を上げると、私が回答するより前に、彼女は笑って表情を崩す。
「いや、姐さんなら小手か何かかな?」
「あんた、仮にもお寺の尼さんになんてこと言うのよ」
ただ興味のある趣味を増やしたかっただけです。
踏ん切りが着いた切っ掛けが、日ごろ各所で高説して回るぬえだとは、とても言えない。
会計を終えたところで、先日来た際も店番代理と話していたことに気づく。
ここは山城たかねの店であるはずなのに、数日前から彼女を見ていない。
「たかねは今日も居ないのね?」
店員も首を傾げた。
「なんか秘密の仕事で忙しいらしいよ」
やばいことに手出してなければいいんだけどねえ。と店員は無関心にお金の計上を続ける。
河童や山童の取引先は妖怪の山に限らず人里に隠れて仕事を降ろしてる場合もあるし、聞かぬが花かしら。
「なんか言伝しておこうか?」
「ううん、いいわ。集中させてあげて」
店員に礼を良い、妖怪の山を後にした。
19日 雲居一輪 5:40 PM
山での買い物を終え命蓮寺の門をくぐる。伝う汗に嫌な思いをしながら戸口へ向かうと、廊下を雲山が移動しているのが見えた。法衣を抱える様子を見るに、寺の方の力仕事に精を出しているようだ。
「おっす、雲山」
雲山はこちらに気づくと、私を労うように一つ頷いた。空を見上げる様子は、残暑の中ご苦労である、と言っている気がする。
「いいのいいの、私なりに自由時間を作ってやってるんだから」
靴を脱いで板間に横になりたい気持ちを堪えながら水場へと歩を進める。
「そうだ、人里に美味しい露店ができてたの。雲山の好きな氷菓子もあるから、今度連れてってあげるよ」
私の言葉に雲山は満足そうに目を細めてうんうんと頷き、気持ち速度を速めて、再び仕事に戻る。縦の揺れが大きい様子から、心なしか上機嫌に見える。
それから水場の冷たい水で手洗いうがいを済ませ、濡れた手で肌を叩いて温度を下げる。屋内では籠るだけだし、もう夕方であるし頭巾も取ってしまえ。
額にかかる髪を上げ、しばし放熱に努める。後から誰も来ないのを良いことにもう一度手を洗い、水の温度に加えて雫の気化熱で体温を下げにかかった。
束の間の清涼感を得た私が夕方の風を浴びながらゆっくり歩いていると、何やら客間の方が騒がしいことに気が付いた。
声からして、どうも聖がぬえを叱っているようだ。襖が開けっ放しなので廊下でも聞こえるし、村紗が首を伸ばして部屋の様子を確認している。
「姐さん怒ってるわね」
廊下から首を伸ばして部屋の様子を伺っていた村紗がこちらを振り向いた。
「ああ、一輪ここにいた」
「今回はなんで怒られてるの?」
私の疑問に、すぐに答えはなかった。間を開けて振り返った村紗は怪訝そうな顔をしている。
「あんたのせいでしょうが」
私の?
意味するところが分からず、きょとんとしてしまう。私が寄り道をして戻ってくるまでの間として、何をしたというのか。
何かを打ち鳴らす音に、軽く飛び上がり、二人して部屋を覗き込んだ。
大方の予想通り、説教の最中に不真面目な態度を見せたぬえに対して姐さんが手元の櫃を叩いて打ち鳴らしたのだろう。
おや。
あの櫃、見覚えがある。
「ねえ村紗、姐さんの手元の櫃ってさ」
村紗も気が付いたのか、少し神妙な声を出す。
「宝塔しまってるやつじゃん」
なんであんな手元に、と。
私が呟くと、背中から遠慮がちな声が聞こえた。
「あれ置いて離れちゃったの、私なんです」
振り向くと、私の背後に響子が居た。先ほどまで私がそうしていたように、人影に隠れるようにして部屋を覗き込む。
「今日の里回り、星さんは宝塔は持ち出さなかったじゃないですか」
星の姿を思い出しながら、私は頷く。村紗も「うんうん」と声に出して頭を二度振った。
「掃除の際に客間の祭壇に置いておいてくれと言われたんです。それで祭壇のお掃除をしていたら聖様とぬえさんの怒鳴り声が聞こえてきて」
大方予想が付いた。
「それがどんどん客間に近づいてきて、咄嗟に響子だけ部屋を離れて、櫃はそこに置きっぱってわけね」
「置きっぱってわけです」
響子は神妙に頷くと、心配そうに部屋を覗き直した。
「あれ、割れませんかね」
響子の言葉に、会話が止まった。
彼女の言葉は、櫃が、という意味だろう。
櫃ごと、と言いたいわけではあるまい。
「いや、まさか」
私の前の、村紗が後頭部を振りながら答えた。息遣いは笑っているが、声色に余裕はない。
私も同調したが、少し声が上擦ってしまった。唾をのんで息を整える。
「なになに、何の騒ぎよ」
声とともに、背中に衝撃を感じた。
振り返ると、はたてが響子の背によりかかるようにして顔を覗かせていた。
「ちょっと、うちの日常というか、舞台裏というか」
今やお説教中の部屋の外には覗き込む影が四つ。村紗、私、響子、はたてと縦に並ぶ。響子だけならまだしも、はたての体重が加わると、村紗にも寄りかからざるを得ない。
ぶれた目線の中で、向かいの戸口からは雲山が同じように客間を覗き込んでいることに気が付いた。何か言いたげに、客間と私たちの方を見比べている。意図は分からないが、少し隠れるようにして伺う雲山は珍しい。
「ちょっと、一輪、重い」
私たちの会話の声で気が付いたのか、ぬえがこちらに文句を付けた。
「あっ、一輪このやろー! お前が余計な事言うからこんな目にな」
「えっ、私?」
余計なことを言った? いつ?
疑問は浮かんだが、目の前の状況に、自分のことを優先すべきではないと頭が訴える。
「ぬえ、よく分かんないけど今は静かにしなって」
「こらぬえ!」
逸れたぬえの気を、聖が目線を戻させる。
言いたいことはあるが、目の前の聖がそれをさせてくれない。そもそも、怒っていること自体は誤りではない。そういった苦悶の表情をぬえが見せる。
「なんか、住職さまも大変ねえ」
あっさりとした物言いだが、目の前の状況はある程度彼女の関心を引いたのだろう。隠し撮りする様子ではなく、自然にはたての念写機が私の頭上を通り、ぬえと聖の方に向く。
咄嗟に手を伸ばして、レンズの部分を覆った。
「ちょっと、さすがにこれは駄目よ」
「おい、こんなとこ撮るんじゃないよ!」
ぬえもこちらの様子に気が付いたのだろう。ばっと立ち上がり、私、の背後のはたてに指を向けた。
「ぬえ!」
説教の最中によそ見をして立ち上がったぬえに、聖が厳しい声を出す。
それと同時に櫃を叩いていた手が、いっそう高く振り上がる。
普段から熱が入ると力加減を間違え、培ですら折ることのある聖だ。
かっとなって気を引くために振り下ろされる手の勢いはどのようなものか。
スローモーションのように全てが見えた。
案の定、櫃がひしゃげて、ひびが入ったのが見えた。
それから、聖の手がさらに沈み込み、櫃は蓋ごとあえなく砕ける。
続く、漆の箱が割れたにしては、甲高い音。
櫃の板と一緒に四散した破片の中に荘厳な意匠が刻まれた金の板金があり。
聖が手を上げると、そこには粉々になった透明硝子とどこかで見覚えのある金細工が散らばっている。
聖と、ぬえと、私と村紗と響子とはたてと。
全員の目線が一点に集まった。
まさか。
「宝塔がー!」
最初に声を出したのは響子だった。
それから雲山の居た戸の方から顔を覗かせた星が現場を目撃し。
宝塔を砕いてしまった事実に聖が卒倒し。
自分のせいではないと声高らかにするぬえ。
背後で必死にはたての念写機を取り上げる村紗。
ピリピリした説教の空間から、客間は一転して阿鼻叫喚の場と化した。
介抱に奔走する雲山。目を白黒させるしかない星。
前代未聞の非日常が目の前で繰り広げられる中、私は茫然とするしかなく、呟いた。
「……どういうこと」
20日 雲居一輪 0:30 PM
居間のちゃぶ台の上には、大小様々になってしまった宝塔の欠片が並べられている。
まだ原型の残っている外装の凹みを金づちで叩き、溶接すれば外観は戻せるところまで形状を整える。
まさか始めようとしていた彫金の、初仕事が宝塔の修繕だなんて。
初めは手伝おうとしてくれた村紗とぬえも、早々に嫌気がさしちゃぶ台に頭を乗せぼんやりとこちらを眺めるだけだった。マミゾウに至ってはものの数分で煙草をふかしに廊下に出てしまい、こちらを見てすらいない。同じ空間に座しているだけだ。
「星は?」
「聖の代役で通常業務中」
「はたては?」
「これが撮られないよう、星に押し付けてある」
ぬえと村紗の報告を聞きながら進めた作業も一段落したが、次なる部品を手に取る前に金づちを置く。まだまだ部品はあるものの、あまりの悲惨さに手が止まる。
団欒にしては重苦しい空気。
打開する話題もなく停滞しているところに、客人が現れた。
「おう一輪の姐さん」
対面の村紗を避けるように身を傾けると、迷彩柄のコートに身を包み、バッグと脚立を抱えた山童が居た。門徒ではない。山城たかねだ。恐らく瓦の修理か何かで呼ばれたのだろう。
「昨日門番に渡したあれはどうだったよ?」
あれ、とは?
「結構な出来栄えだったろう? 開いた口が塞がらないってか」
「あれって、何の話?」
私が解せずにいると、たかねは手を振った。
「いや、そうだな、どこで聞いてるか分からないから、あまり口にするもんじゃないな。悪かった悪かった」
彼女は何やら一人で納得すると、これからもご贔屓に、と気さくに離れていった。
「……なにあれ?」
「さあ」
ちゃぶ台に伏したまま、村紗が訊ねる。私としても分からない。
数日見ないと思ったら、妙なことを語るようになった。上機嫌なのは間違いないが、いったい何があったというのだろう。
「さて、儂はどうするかの」
縁側で煙草をふかしていたマミゾウが億劫そうに立ち上がる。
「外をぶらぶらしたいものだが、雲隠れされたと思われるのも癪だしの」
「ねー、じゃあナズーリンの様子見てきてよ」
ぬえの言葉に対してマミゾウは思い切り背伸びをし、聞こえなかったふりをして廊下の向こうへ消えしまった。
仕方なく顔を合わせる私たち。
じゃんけんの結果、村紗がナズーリンの様子を見に行くこととなった。
20日 ???? 0:40 PM
午後の合同訓練を前に眠い目を擦って廊下を歩いていると、先輩たちの話し声が聞こえてきた。
開け放たれた縁側の戸を覗き込むと、庭先に謎の大型機械が置かれていた。
「え、なんですか、それ」
靴に足を通し近づくと、先輩の一人がこちらを振り返った。
「分かんない。あんたも知らないんだ。午後使うのかな?」
様子からして、先輩たちは誰も知らないようだ。
先輩たちが口々に話し、興味深そうに謎の機械を覗き込む。
「朝こんなのあった?」
「地上の持ち物?」
「ここなんか座れそうだよ」
外観から分かるのは、両手を広げた以上の直径を持つ円筒形。中身がくりぬかれていて、どうやら妖怪が座れるスペースがあるらしい。
私も興味があって覗き込もうとしてみるが、背中で見えない。
「ねぇ、これって……じゃない?」
「まさか、誰かの悪戯でしょ」
「でもほらここ……で……じゃん」
「あ、ほんとだ、そしたらここ……」
先輩の一人が深刻そうな声を出し、急に皆声量を絞ってひそひそと話し始めてしまった。会話の内容が聞き取れない。
「あの、ちょっと、見えないです」
私が後ろで飛び跳ねても、内緒話する輪を解いてはくれなかった。それよりも、目前の機械に興味を惹かれているようだ。
「まさかそんなねえ」
話が一段落したのか、急に声量が戻り、会話の輪が解かれる。
皆笑ってはいるが何か面白いものを見たというよりも、信じられない、と眉唾で話すときのような笑い方だった。
「なになに、どうしたんです?」
静かになったところに私の声だけが流れ、先輩の目線がこちらに向いた。
「え、え、なんです?」
先輩の一人が私の隊員番号を読み上げた。
「はいっ!」
反射的に背筋を伸ばして応答する。
「ちょっとこっち来なさい」
「はっ!」
続けて反射的に前へ歩を進めると、くすくす笑う先輩に手を引かれ得体のしれない機械に近づく。
「そうそうそう、そこに座って、このレバーに手をかけて」
流れで座席に座らされてしまった。流石に狼狽して口を挟むタイミングを伺っていると、別の先輩が目前のダイヤルに手を伸ばす。
「じゃあ我らの後輩ちゃんが旅立つのは……このあたり!」
ロール紙を回すように、適当に二桁のダイヤルを弄ったのが見える。
元は漢数字が書いてあったと思うが、その数字は覚えていない。先輩も根拠なく回したのか「これいつの時代か分かる?」「あたし暗算苦手ー」と話すのが聞こえる。
「先輩がた、やっぱりやめましょうよ! 月童さんの私物かもしれないですし」
「地上だから河童とか山童って言うんじゃない?」
「へー、安直な名前」
だめだ、一番後輩の私に耳を傾けてくれる人がいない。
よく見えなかったが足元にも機材があったのだろう。身を乗り出した拍子に足元がつっかえ、咄嗟に何かに手をかけてしまった。私を無理やり座らせていた先輩が反射的に手を引いたのが分かる。
「うわっ!」
右手が何かを引き下ろし、、がしゃんと音がした。
何か動かしちゃったじゃないですか。
顔を上げて口にしようとしたが、言葉は出てこなかった。
ぽかんと口を開けた先輩の顔が、ぐにゃぐにゃとゆがみ始める。
先輩なんですかそれ。次の一発芸ですか。
目線を走らせると、背後の屋根や雑木林までが大きく歪んでいるのが見える。
あ、先輩がぐにゃぐにゃしているわけではないのですね。
やけに冷静に考えていると、お腹がふわっとするような感覚の後、地面に吸い込まれるように視界が歪む。
一際周囲が輝いたかと思うと、先程までと同じ夏の日差しが目を細めさせた。
「うへぇ、演出にしては過剰ですよ」
目を開くと、先程までと同じ木目張りの廊下と畳の部屋が見える。ただ、そこには先程までの先輩方の姿はなかった。
「あれ、先輩?」
機械から降り、渡りを見回す。一瞬にして音もなく隠れてしまったのだろうか。
「訓練、ですか?」
隠密訓練万年赤点の先輩も?
恐る恐る、縁側へ近づく。靴を脱ぎ縁側から上がり込むと、どこかよそよそしさを感じ、屈んで靴のつま先を外に向けた。
木目の板が私の体重できしみ音を上げる。広がる庭先にも、謎の機械の周囲にも、依然、視界の中に先輩たちの姿は見えない。
じわじわという蝉の声を聞きながら木目張りの廊下に立ちつくす。
私が立つのはつい先程と変わらぬ木造建屋。辺りを見回しても、廊下の先には見覚えのある階段と
目の前の畳部屋。少し物が少なく片付いているだろうか。
壁にかけられたやけに古典的な紙のカレンダー。
仄かに香る線香の香り。
客間の中にちょこんと設けられた祭壇。
まさか、ここは。そして、あの装置は。
背後の機械に向けよろよろと足を進め、廊下に立ち尽くす。
状況を察しつつある自分と、理解を拒む自分。それらのいがみ合いを鎮めていると、こちらに近づく足音には全く気が付かなかった。
背後の部屋を振り返ろうとして、廊下の先に並ぶ人影と目が合った。
20日 雲居一輪 0:45 PM
音を立てて戸が開かれ、村紗が居間に戻って来た。
部屋を出て行った時より足取りに元気がなく、既にグロッキー状態のようだ。先ほどまでと同じ私の対面に座り込み、残していったお茶を口に運んだ。
「ナズーリン、なんだって?」
村紗は上目だけでこちらを見ると、ため息をついてから、覚悟を決めるように息を吸い込み、一息で話し始めた。
「『宝塔が壊れるなんて前代未聞だ。君たちの起こしたことについて前例はない。これからどうするのか、加護はどうなるのか、分からないことだらけで私は頭が割れそうだ。考えることが沢山ありすぎて君に構っている暇がないのでそっとしていてくれないか。決して君らの処遇とかではないから安心してくれ、今私はそれどころじゃないんだ』」
「超言いそう」
「めっちゃ似てる」
「実際言われたんだって! 私聞かされたんだって!」
私とぬえが漏らした言葉は本心からの感想だったのに、疲労困憊の村紗は応じる余裕もなく悲鳴に近い声を上げた。
決して長い時間報告や問答をしていたわけでもないだろうに、村紗の言葉はナズーリンの特徴を良く捉えていて、人づてに聞いた私たちですら彼女の表情が目に浮かぶようだった。それだけプレッシャーを感じ、記憶に刻まれたのだろう。
「それで、そっちはどうなのよ?」
村紗の言葉に、私たちは顔を見合わせる。
これだけで、宝塔の調査は芳しくないことは分かってもらえたようだ。
「土台の部分はひしゃげてるし、灯篭の部分はどっか飛んでっちゃったみたいだし」
私としてもこれ以上打つ手はなく。あまり見ていたくはない代物なので、別の櫃に保管してしまった。
「さっき通りがかったけど、星は見たら眩暈がするっつって引っ込んじゃうし。しきりに『宝塔ってこんなになっちゃうんですか』って呟いてたよ」
胡坐をかきながら毛先をいじるぬえは気もそぞろに星の発言を復唱する。
「直せるかっていっても、私らもまじまじと宝塔見てたことないもんね」
目の前の元・宝塔の入った櫃に目を落とす。なんとなくそれを眺めながら話す気になれず、立ち上がって場所を変える。すぐに立ち上がったことから村紗も同じ感情だろう。
三人で廊下を歩きながら、ぬえは「こんな時にアレがあれば」と憎らしげに呟く。
「もーっ、あたしの"鬼酔わし"誰が盗んだのよ」
「まだ言ってる」
歩いているとぬえが何やら不満を述べた。どうも隠れて持ち込んだ酒が、いつの間にか無くなっていたことを悔やんでいるらしい。あまりに何度も呟くものだから、村紗の応対も片手間になっている。
「つーかほんと、一輪が余計なこと言わなければあたしは叱られずに済んだのに」
「何度も言うけど、何のことかさっぱりなんだから」
こちらも今日何度目の会話か分からない。
「また言ってる」
村紗が今度は、私の方を横目で見ながらおざなりに呟く。
一話題終わる度にぬえが不満を述べ、誰か分からない犯人に文句をつける。理由も分からず私とぬえが少し険悪になり、村紗は知らんふりを決め込むように先を歩く。それから数歩遅れ、私とぬえが続く。今日一日の中で、既に何回か行われたリプレイのようなやり取りだ。
「ったくもー」
ぬえが不満の声を上げながら、叱られた、そして宝塔が割れてしまった客間へ足を進める。
廊下を進み、右側の襖を開ければあの客間。対して左手の戸を開ければ縁側と禄に手入れされていない裏庭に続く。
晴れた夏場は戸を開放しているのが殆どで、熱の籠もった空気が流れていることから両方が開け放たれているのが角を曲がった辺りで分かる。
前をゆく村紗がはたと足を止めたので急いで止まり、村紗と、その前方に注意を向けた。
開け放たれた裏庭とを客間を結ぶ、その廊下に人影があった。
ぱっと見のシルエットから一瞬響子が居るのかと思ったが、その横顔ですぐに別人だと気が付いた。謎の人影は裏庭の方をぼうっと眺めており、こちらに気付く様子はない。村紗は声をかけず、先に近付くことに決めたようだ。
しかし数歩進んだところで、村紗が歩みを止めてしまった。
「え」
彼女は裏庭の方に目線をやりながら、声を漏らす。
村紗の声で人影の方もこちらに気が付いたようだ。はっとして振り返った仕草は『待っていた』という様子ではなく、どちらかといえば『遭遇してしまった』というように見える。
「……門徒の人?」
「あっ、えっと」
私の言葉に、明瞭な回答は返って来なかった。
背は低く、私より目線は下で、ぬえよりも背が低いかもしれない。
揺れる薄い青色の髪は短く、おでこが出ていて随分あどけない印象を受ける。頭頂部から垂れる短い毛の耳は、兎妖怪の耳だろうか。
紺色の洋服は竹林妖怪のブレザーに似ているが、随分と特殊な服のようだ。じっと立っているだけで服の模様がゆらめき、胸元のバッジのような金属部も黄色やら赤色やらに色が変化して見える。
「誰あんた」
「ひぇっ」
ぬえの威嚇するような声に、少女は身を竦め、瞳はあからさまに怯えの色を見せる。
命蓮寺には馴染まないブレザーに身を包み、私達の間に目線を泳がせて震えるこの小動物的な妖怪。果たして、私はどこかで会ったことがあるだろうか。
「ちょ、ちょっと失礼します!」
私が記憶を辿っていると、沈黙に耐えられなくなったのか、少女はぴょんと庭先に飛び出してそこに並べてあっただろう靴を突っかける。私達が呼び止める間もなく、庭石を踏み鳴らすのも気にせず物陰の方へ駆けていってしまった。
追いかけた目線が、ある一点で吸い寄せられる。
「空き巣かよ!」
ぬえが声を上げながら私と村紗を押しのけ走り出す。
棒立ちする私達を不審に思ったのか一度振り返り、僅かに歩を緩める。そのまま私の目線の先を追うと、ぬえも困惑した声を上げて立ち止まってしまった。
「……何これ」
開け放たれた戸からは本来、最低限の手入れで済まされ続けた広めの庭が望めるのだが。
庭先には一間程の幅を有した銀色の炊飯釜のような機械が鎮座していた。
20日 雲居一輪 1:00 PM
ぬえに続きながら草履に足をつっかけ、恐る恐る謎の機械へ近付く。
縁側から十歩ほどの場所に鎮座する機械は、あと数歩を残した距離でも十分に存在感を感じさせる。
釜のような太った円柱状の形をしており、底面から張り出した簡易な金属棒が本体を支えている。つばの部分に触れてみるとさほど熱は溜め込んでいないが、指で摘んでみても簡単に曲がる様子はない。両手を広げても足りない直径であることから、重量は相当にありそうだ。
「なんか、エンジン? みたいなの付いてない?」
ぬえと私に続いて来た村紗が遠巻きに背伸びをしながら機械の中央部を覗き込む。
釜の中身は発行や振動こそしていないが、黒々とした機械と太いコードがあちこちに詰め込まれている。
中央には半畳ほどだが機械の詰まっていないスペースがあり、命蓮寺を向いた方向を正面として、背面側からは縦に長くした座椅子の背もたれのような支柱が立っている。天井やカバーの類はなく、編笠のような天板がせり出しているのみ。
簡素な作りの割りには一部には装飾が行き届き、先のエンジン部との差が激しく、何者かが単身で製作したものとは思えない。
興味を惹かれたぬえが足元や天板を触り、機械の裏側まで顔を突っ込んで覗いていると、縁側の方から新しい声が聞こえた。
「えっ、何これ!」
「……はい?」
聞こえてきた声に振り向くと、通り掛かったはたてと星がこちらに興味を向けている様子だった。
片や面白がって念写機を構え、片や理解の及ばない異物の登場にぽかんとしている。
「おや、皆さん集まってどうしたんです?」
掃除で庭先を歩いていた響子も我々に気が付き近づいてくる。それから興奮にも似た驚きの声を上げ、尻尾をパタパタとさせながら興味深げに眺め始めた。
「いったいこれは……誰かの悪戯ですか?」
皆の様子を見て私物ではないと判断したのだろう、星が探るように、辺りを見回しながら溢す。釜の下を覗き込んでいたぬえは自分が疑われていると勘違いし、頭を抜き出すと縁側の方に顔を向ける。
「誰って、私じゃない……あっ!」
途中で気が付いたのだろう、ぬえが声を上げ、先程妖怪が走っていった方向に顔を向ける。
「あの兎妖怪の悪戯だろ!」
その存在を知らない星と響子とはたては顔を見合わせ、首を傾げている。そんな妖怪が身近に居たっけ? という様子だ。
「不法投棄、っていう感じ? でも、オブジェにしては完成品だし、趣味的には妖怪兎より河童や山童っぽいなあ」
村紗の呟きを聞きながら、機械の正面内側を覗き込む。
制御用のような正面の機械にはレバーと三つのダイヤルがある。
レバーは座った際に手をかけやすそうな位置に、斜めに突き出している。前後どちらにも倒せるようになっており、溝の横に文字が彫り込まれている。奥側は『FUTURE』、手前側は『PAST』と書いてあるようだ。
「ねえ一輪、こっち」
村紗が怪訝そうな声で私の注意を惹く。
「これ、年と月と日って書いてない?」
村紗が指さしたダイヤルの下には、後付されたような樹脂カバーが付けられており、そこに書かれている綴り字は『YEAR』『MONTH』『DAY』と読める。
突如現れた謎の機械。
年、月、日。未来と過去。座席スペース。
これはまるで。
「タイムマシンみたい」
私の代わりに村紗が呟く。彼女の頭の中には私と同じ、最近読んだ漫画が頭に浮かんでいるのだろう。
「タイムマシン?」
ぬえがこちらの発言を拾い、首を傾げながら訪ねる。
「漫画とかフィルムでよくある、あれ。時間決めて未来とか過去選ぶなんて、まるで時間移動みたいじゃない」
村紗の説明にぬえは操縦席に身を乗り出し、納得した声を出しながらダイヤルをガラガラと回し始める。
当の村紗はと言えばあまりの突拍子もなさに「まあそんなもの、実際はありえないだろうけどさ」と手を振りながら否定する。
「じゃあ、記念撮影だけしておくか」
ぬえは機内から身を起しておもむろに響子に近づくと、竹箒をそこらに置かせ、腕を組んで機械の近くまで連れてくる。
「これ乗って、レバー動かしてみてよ」
「ええーっ!」
突然の被写体指名に、響子は驚きを隠せない。
「さっき興味津々だったじゃんかよ」
「はは、聖輦船の前にタイムマシンの運転じゃん」
「それとこれとは違うじゃないですかあ」
ぬえに引きずられる響子を見送りながら村紗が笑う。以前聖輦船の操縦を間近で見ていた際にねだられていたのだろう。巻き添えを避けるためか、村紗が縁側の方に戻ったので私も続く。
「ここから登れそうだから」
「土足、はしょうがないですよねえ」
響子は恐る恐るといった様子で機内のスペースに収まる。
機械自体の高さが少しあるため、普段より高い位置に響子の顔が来る。地面からの高さも加え、自然と操縦席の響子に視線が集中する。
「あのこれ、思ったより恥ずかしいんですけど」
「行先はどちらでしょう!」
村紗のガヤに響子はダイヤルの方を見てから吹っ切れたように返答する。
「一日過去です!」
先ほどぬえがいじっていたダイヤルの設定だろう。
「御武運を!」
「はい、御武運を!」
縁側の側に戻ってきたぬえは敬礼の仕草までして見せた。響子も自棄で応対しながら頬を膨らませる。
「もーっ、一回だけですからね」
若干の不満を感じさせながら、響子はレバーに手をかけてはたての方をちらりと見る。やらされるからには、一度で済ませたいのだろう。はたてが軽く手を振り、撮影側用意はできていると伝える。
「それじゃあ、行ってきまーす!」
がしゃん、と重い音がした。
次の瞬間機械から眩しい光が発せられ、たまらず目をつむる。
横の村紗と驚いたことへの不満を軽く言い合いながら、閃光が収まったのか確認しようとゆっくりと薄目を開ける。
私と、恐らく隣に並んでいた皆も目を疑った。
そこには謎の機械と響子の姿は跡形もなく、何もない庭先が広がっていた。
20日 雲居一輪 1:20 PM
響子が消えてしまった。
はたてがフラッシュを焚いたわけでもない。そちらを見ると、はたても庭先をきょろきょろして心配そうにしている。
「ねえ、消えちゃったように見えるんだけど」
私にもそう見えた。村紗や星も同じだろう。
「驚かせようとしてどこか隠れてるんじゃないの?」
「え、でもあの装置重たかったじゃん」
たまらずサンダルをつっかけ、村紗がぬえと庭先に出る。星とはたては後ろに回り込んでいないか振り返り、廊下を覗き込んだりしている。
あとは、屋根上とかだろうか。
私は星とは逆方向に廊下を進み、階段を上って客間の二階の方角へ向かおうとする。
すると階段を上がった日当たりの良い廊下に、マミゾウが座り込んでいた。外から差し込む日差しで子分を日向ぼっこさせながら、その隣で文庫本を読んでいる。
マミゾウは目線を上げると、私の表情を見て笑った。
「おう、どうしたそんなに血相を変えて」
寝そべって鼻提灯を膨らませる狸から、手すりの外に目線を向ける。廊下に日差しは差し込むが、壁が邪魔になって先ほどまで居た客間の庭先は見えない。
「響子、こっち来てない?」
「山彦娘が? いいや、見とらんが」
マミゾウは不思議そうな顔をしている。嘘はついていなさそうだ。
「探しているのならそうさな、逆に呼んでみるというのはどうじゃ? 儂が屋内で煙草を吹かせば、どこからか飛んで来るやもしれん」
冗談を言っているのか真面目に言っているのかは分からなかったが、マミゾウは片手に本を持ったまま器用に煙管を咥え、草まで詰めてを雁首を爪先で弾いてみせた。するとどういう仕組みか、うっすらと煙が立ち上り始める。
それからゆっくり息を吸い込むと、上方へ向け、美味そうに煙を吐いた。
それが原因だからではないだろうか、庭先の方が一度光り、再び向こうががやがやとし始めた。
「ほうら来た」
私はマミゾウに返事をするのも忘れ、階段を駆け下り来た道を走った。
私が戻ると縁側に身を乗り出した響子が肩で息をしながら息を整えている。皆に囲まれ心配そうにされているが、外傷の類は無いようだ。
「響子、大丈夫?」
私の声に響子が振り向く。こちらを見上げた頬から顎先に汗が伝った。この暑さで、というわけではなく、どちらかというと冷や汗のようだ。
「一輪さん、今日、人里行ってないですよね?」
「は?」
響子の切れ切れの声から発せられた内容に、拍子抜けした。
「寅丸様が人里行ったのは昨日で、今朝はナズーリンさんが大変で、さっきこの装置見つけたんですよね?」
私が困惑して目線を外すと、村紗と目が合った。その目線は「さっきからこんな調子だ」と語っている。
「落ち着けって、どうしたんだよ? ていうか、どこ行ってたんだよ」
柱に片肘を着いて様子を見ていたぬえが、響子の背中に言葉をかける。口調はぶっきらぼうだが、ぬえも理解できない状況に、少し焦っているように見える。
「……昨日です」
え。
がばりと立ち上がった響子は吹っ切れたように、謎の装置を指さした。
「これ乗って、昨日に行っちゃってたんです!」
ぬえも響子の鬼気迫る様子に何も言えない様子だった。
この装置で、響子が昨日に行った?
「光が収まったら誰も居なくって、皆さんを探して門の方に行ったら寅丸様が居て、声かけようと思ったら、寅丸様が門前で私と話してたんですよ!」
名前の挙がった星を見ると、確かに昨日、出発前に響子と立ち話をしたと述べた。
その昨日に、響子が行ってしまった?
事態を呑み込めずにいると、思い出したようにはたてが声を上げる。
「そうだ、これ見て!」
目線を集めたはたては手元の念写機の画面が皆に見えるようにしながら、響子を中心にできた輪に近づく。
「写真?」
「昨日の、門前の、私が撮った写真」
衝撃的な内容かと思い意を凝らして覗き込んだのだが、写っているのは星と響子だった。
特筆すべきは、二人が並んで大あくびをしていることだろうか。撮影者に気づいていないのか限界までズームされたのか、眉根を寄せて口に手を添えている姿が縦長写真になんとか収まっている。
「ちょっと、なんでこんな時にこんなものを」
「そうじゃなくて、ここ!」
阻止しようとした星を遮るように、はたての爪が画面の一点を指さす。
少し落ち着いて、皆静かに画面の一点に目を凝らす。
はたてが示したのは二人ではなく、余白に移りこんだ命蓮寺の一角。門から見て左手の蔵。
柱のシルエットに違和感を覚えた。
よくよく目を凝らすと、柱からはみ出したそれはこちらを覗き込む人型に見える。色白の肌、短い髪に、垂れた耳のシルエットは。
「え、これ響子!?」
横から突然聞こえてきたぬえの声にびっくりしたが、私も同じように声を上げたかった。
「響子が二人写ってる……」
先ほどまで写真をちゃんと見ていなかった星も、茫然としたように呟いた。
続けて、視線を集めた響子にも念写機の画面が向けられる。少し覗き込むようにしていたが、すぐに大きく頷いた。
「これ、これ! 私です! ここから見ましたし、今日の服ですもん!」
そう言いながら響子は自分の服を伸ばすようにしてこちらに主張して見せる。
確かに写真の手前に移る響子は緑の半袖だが、奥に写り込んだ響子は赤系統の色に見える。今日と同じ、赤茶色のワンピースだ。
念写機を見て、響子を見て。
その背後に佇む、銀色の機械へ目線が集まる。
「てことはこれ、本物……?」
20日 雲居一輪 1:35 PM
響子が問題なく戻って来たこと、タイムマシンが本物であったことが分かったこと。そこからは先ほどまでの不安な空気が一転、お祭り騒ぎだった。
皆口々にどこに行きたいかを話し始め、「未来の命蓮寺に」「過去に戻って塩相場を伝えに行く」「恐竜が見たい」と各々好き勝手な行先を提案する。
「星はどこ行きたい?」
「私ですか?」
聞く側に回っていた星が村紗に話を振られ、少し考える。
「私は、できることなら、封印される前の聖を助けに行きたいですねえ」
頬をかきながら、気恥ずかしそうに口にする。
その様子に、流石に私たちも言葉に詰まってしまう。
そうだ、星はこういうやつなのだ。自分たちの興味だけで並べた行先が、少し恥ずかしくなってしまった。
「それ、流石に無理だと思うな」
はたての声だ。
タイムマシンを覗き込んでいたはたてに目線が集まる。
「ここの年のダイヤル、二桁しか無いわよ。行けても一度に100年単位……あれ? いや、でも待って……」
はたては途中から神妙な声を出すと、そろりそろりと指でダイヤルを回し始めた。気になって近づき反対側から覗き込んでみると、崩し字の『捌』『玖』の次に見慣れない文字が登場した。
百でも千でも万でもない、読み方の分からない崩し字が二つほど続いた。明らかに何かの位が変わったか、十進法が崩れたのが分かった。
「うわあ」
はたては気持ち悪いものを触ってしまったような声を出し、指をひっこめた。
それから星たちの方を見て、首を横に振った。
「やめた方がいいと思う。訳分かんない時代に飛んじゃうかもしれない」
彼女の引き攣った表情を見て、他の面々はそれ以上意見を推すことはなかった。
一桁目のダイヤルも同じ様子だったことから、二桁目を変えるのすら危ういかもしれない。私もそう後付けて説明した。
「じゃあ……とりあえず、昨日にもう一回行ってみたりする? 戻ってこれるのは分かってるわけだし」
場を取り持つように村紗が提案する。誰からともなく声が上がり、何となく同意の雰囲気に落ち着き始める。
その中で腕を組み、ぬえが考え込んでいる。
「これって、今と同じ時間に着くってこと?」
ぬえの確認に、皆が顔を合わせる。
「たぶん、そうじゃない? 響子がお昼に門から出ていく星を見たんだし」
「星、昨日いつ頃命蓮寺出てきたの?」
星は目線を宙にやりながら、村紗に答える。
「たしか、一時過ぎくらいかと」
手元の腕時計を見ると、今は午後一時半過ぎといったところ。同じ時刻に飛ぶと思って間違いないだろう。
「場所も、その場か。ふむふむ」
何やらぬえが顎に手を当て、命蓮寺とタイムマシンを見比べながら、両羽根をそわそわとさせている。これは何やら悪いことを考えている時の癖だ。
「私、良いこと思いついちゃったかも」
案の定、したり顔でこちらに向き直り、皆の目線を集めた。
「昨日に行って、宝塔を持って来るってのはどう?」
村紗がはっとした表情をし、隣に居た響子と顔を見合わせる。
「この時間ってまだ壊れてないでしょ? なら壊れる前の宝塔を、昨日から貰って来ちゃえばいいのよ!」
「おぉー!」
「凄いですよぬえさん!」
元気組に持てはやされて機嫌を良くしたぬえはタイムマシンの側まで歩み出て、近くにいた私の肩を組んでくる。
確かに、タイムマシンの有効活用かもしれない。
「なによ、あんたにしては良い案出るじゃない」
「でしょでしょ? たまの機会なんだからもっと褒めてよ」
近くに村紗も並び、勢いのまま反対側からぬえと肩を組む。
「じゃあさっそく、ナズーリンを呼んで……」
こちらを見ながら口にした村紗の言葉は、それ以上続かなかった。
口を半開きにしたまま私とぬえの顔を見比べるその表情は、声こそ発しないが「誰が説明しに行くんだ?」と語っている。
私は小さく首を振る。視界の端で、ぬえはあからさまに目線を逸らす。
彼女の説得のためには、まずタイムマシンの存在を説明しなくてはならない。その証拠も説明しなくてはならない。それから、この場に来てもらわなくてはならない。
十中八九機嫌が悪いであろうナズーリンに、誰かそれらを正確に話せるだろうか。
「……ナズーリンには、解決してから説明しよっか」
続いた村紗の言葉に反対意見は無かった。
ぬえがわざとらしく咳ばらいをする。
「よーし、村紗隊員続け!」
「アイ、マム!」
「響子、先導しろ!」
「御意!」
「一輪、殿を任せる!」
「合点!」
ぬえがタイムマシンに乗り込み、真ん中のスペースに胡坐をかいて座り込む。あれよあれよと村紗、それと一度昨日に行ったことのある響子が続く。
その勢いのまま私も乗り込もうとしたが、どうも十分なスペースが見つからない。半畳程度の天井付きスペースに三人が既に座って居れば小柄な響子の隣でも、半身を突っ込むので精いっぱいだ。
「星は来ないの?」
「いえ、見るからにもう乗れませんし、というか、それって窃盗になりません……?」
「あ」
村紗の問いかけに答えた星の声は少し引き気味だ。
続いた最もな言葉に、ダイヤルをいじっていたぬえの後頭部が、恐らくぽかんと口を開けたまま、星の方を向く。
「あー、うん、まあ対策が打たれるまで借りるだけっていうか。そのうち、騒動が一段落したら返せば大丈夫だって」
先ほどまで果敢に詰めようとしていた私だが、少し冷静になって視野が広がると、はたてが冷ややかな目線を送っているのが目に留まった。
「暑苦しー」
タイムマシンの天井に手を着き、縮こまった響子に肩を押し付けながら、折りたたんだ足をなんとか縁にかけている。傍から見た自分の必死さを想像し、途端に気恥ずかしくなる。
ここで響子を押し出すのも大人げなく、私はタイムマシンから降りて地に足を付ける。
「あー、いいわ、じゃあ行ってきなよ。私はこっちで待ってるから」
「そう?」
こちらを眺めていた村紗が、ダイヤルの最終確認に戻る。
念のため響子も見覚えのあるダイヤルか確認し、間違った日付に飛んでしまうことを避ける。
「これでオッケー、後は下に下げればいいのよね?」
「出発の瞬間、撮れるかな」
「まあ、とりあえず気を付けてくださいね……」
ぬえは観衆も含めた皆の顔を見回し、号令をかける
「よし、じゃあ行くわよ。ターイムスリーップ!」
声に出しながらぬえがレバーを押し下げる。
その瞬間、音もなく閃光が走り、タイムマシンに乗ったぬえたちが見えなくなる。真っ白な球体の周囲が歪むと、もう一度閃光を発して、タイムマシンは跡形もなく消えてしまった。
時間にしては一瞬。しかし目の前でタイムスリップが起きたのを、スローモーションかコマ送りのように、はっきりと見送った。
「一瞬過ぎてボタン押せなかった」
はたてが念写機を下ろしながら残念そうに口にする。
「というか何も、複数人で向かうことはなかったのでは」
宝塔を持ち出すことに疑問を抱えていた星が呟く。続けて、不安の表情を浮かべる星と目が合う。
ぬえが提案し、率先して名乗り出た。
村紗が面白がって便乗した。
響子が流されて着いていった。
満面の笑みで乗り込んでいった三者の顔が浮かび、徐々に不安が滲み出してきた。
「まあ、大丈夫でしょ、たぶん……」
私の小さな声は再び鳴き始めた蝉の声に重なり、晩夏の空気に消えていった。
20日 雲居一輪 2:10 PM
星とはたてと私が客間に座り込んで、黙って待つ。
再び鳴き始めた蝉の声に、たまらず呟いた。
「……遅い」
宝塔を持ち出すだけなのに、そんなに時間がかかるものか。きっとどこかをほっつき歩いているに違いない。
口にしなくても、はたてはともかく、星は言いたいことが分かっているようだ。下を向き、頭を力なく左右に振る。
誰も口を開くきっかけもなく、開く気にもなれず。そわそわとしたまま待つしかない空間に、遠慮がちな声が飛び込んだ。
「あの……」
聞き慣れない、か細い声だった。
声の主を探して皆して見渡すと、庭に面した戸の裏から、丸っこく垂れた耳が覗いている。私達が驚いていると、遠慮するような、小さい歩幅で妖怪が姿を見せた。
短髪でぱっちりとした目の、若そうな妖怪だった。
「先程は申し訳ありませんでした。ここって、ミョウレンジで合ってますか?」
「あんた、さっきの」
私が立ち上がると、謎の妖怪少女はびくりと身体を震わせた。
「誰、命蓮寺の子?」
はたてが訝しむように私に訊ねる。一方の謎妖怪といえば、ここが命蓮寺であると分かって一安心したようだ。
「さっき話した妖怪よ。裏庭にアレがあったと思ったら、こいつが立ってて」
また逃げ出されても困るので、あまり無闇に近付かず、妖怪の方向を指で指し示す。
とりあえず会話を試みようと、普段通り丁寧な物腰で星が名乗る。名乗られた少女の方はといえば「ほ、本物だ……!」と瞳を輝かせている。
「あなたは、どちらの妖怪ですか?」
「申し遅れました、私は」
そこから先は、聞き取れなかった。
知らない国の言葉だったのだろうか。それにしては、日本語に表現することも出来ない。
半濁音と濁音の混じった音がしたのは分かる。が、何と発声したのか理解できなかった。最後の口の形は「え」の形に近い。
「……なんて?」
横目で見ると、星も私と同じく眉をひそめている。彼女も聞き取れなかったのだろう。
こちらがすぐに飲み込まない様子を見て、謎の少女は口に手を当てて「しまった」というような表情をする。
「そっか、この時代だとまだ」
それから両方の人差し指でこめかみを撫でる、やけに古典的な考えるポーズをとり独りごちる。
「そうすると、うぅーん、まあ、今は私しか居ないからいいかなぁ?」
彼女は胸に手を当てながら振り返ると、堂々と名乗った。
「それでは私のことはレイセンとお呼びください」
私達は再び顔を見合わせる。
兎の妖怪で、レイセン。
彼女の様子を見るに、悪ふざけの類では無さそうだ。こちらとしても、彼女がそう言うのだから問題ないと判断するしかない。
「ええと、じゃあレイセン、さっきまでの様子はどうしたの」
その名の表記は聞いていないので、先程の彼女の抑揚を真似るしかない。
「はい、私もタイムマシンが本物とは聞かされずにこちらに来たもので、些か混乱してしまいまして」
「知らずに来ちゃったの?」
「先輩に悪戯で乗せられちゃったんですよ」
先輩。
命蓮寺の当然先輩後輩の概念はあるのだが、そう呼ぶ者はまず居ない。加えて、説法や修行に向かなそうな派手な制服。それらを鑑みてか、はたてが感じたことを述べる。
「なんか、命蓮寺の妖怪っぽくないわね」
同感だった。
その言葉にレイセンが動揺する様子はなく、堂々と答える。
「私は命蓮寺への留学生なので」
彼女の言葉を受けてはたてが星の方を見る。そんな制度は今の命蓮寺にはないので、星は首を横に振るしかない。
「その出で立ち、もしかして貴女は、月兎の妖怪なのですか?」
「はい、第■■隊の■■■■■と申します」
途中、やはり聞き取れなかったが、彼女は月兎らしい。
過去に博麗の巫女一行が踏み入ったことがあると話には聞いたことがある、あの、月?
「え、じゃあ何、未来の命蓮寺、月と関わりあるの?」
「ええ、なんでも命蓮寺発端の航宙技術がきっかけとかなんとか」
私は史学は苦手なので正直分からないのですが。と悪びれる様子もなく付け足す。
月にパイプを持つ妖怪など、幻想郷でも数えるほどしか居ない。加えて命蓮寺は月への進出に力を入れているわけでもない。何か方針転換や、月を目指す勢力ができたのだろうか。
話の規模や重要度が分からないが、とりあえず、未来の客人、ということまでしか分からなかった。
「未来から来たって、どのくらい未来?」
「先輩が悪戯で適当にダイヤルを回してしまったので、正直私も分かりません」
手の平をこちらに見せ首を左右に振る、いかにも「困りました」というジェスチャーをする。その素振りのまま、レイセンは逆に質問してきた。
「今の年って、何なんですか?」
改まって聞かれるのも変な気分だ。私は星と顔を見合わせながら答えてやる。はたても頷いているから、間違ってはいないだろう。彼女は後ろ手で、壁掛けカレンダーを指さしている。
「えっ、西暦ですか!?」
私達の言葉にレイセンは飛び上がらんばかりの勢いで驚く。
示してやったカレンダーを齧りつくように覗き込む。指を宙に向けながら、理解に務めている。
「ホントだ、七曜、これが21世紀……」
いまいち、驚き度合いが分からない。
驚きながらも一先ず納得したらしいレイセンは、耳を揺らしながら振り返る。
「で、肝心のタイムマシンは、どこにあるんですか?」
彼女からしたら当然の質問だった。
それに関しては言葉に詰まってしまう。
「いや、今ちょっと借りてると言うか……ねえ?」
「そんなにすぐ戻るとは知らずに、すみません」
「ええーっ、午後の訓練丸サボりになっちゃう!」
「まあまあ、その間過去の観光でもさせてあげるからさ」
宥めていると、庭とは逆方向の廊下から足音が近付いてきた。
「何じゃチカチカ騒がしいと思ったら、未来の妖怪じゃと? 面白そうな話をしておるではないか」
マミゾウと、たまたま合流したのだろう、雲山が客間に入ってきた。
レイセンは再び飛び上がりあたふたとし始めた。が、私達と接触したことで踏ん切りが付いたのか、その場に残ってマミゾウたちにお辞儀をした。
彼女についてと、ぬえたちがタイムマシンで昨日に行っていることを説明する。意外なことにマミゾウは笑うことなくあっさりと理解を示した。
傍らの雲山は一度眉をひそめたものの、それ以上何も言わないので分からない。
「あの、このことは聖とナズーリンには」
「なに、告げ口する気などありゃせんよ。儂が話しても恐らく冗談と思われるじゃろ」
マミゾウはその気はないようで、軽く笑って流す。しかし彼女の顔から笑みはすぐに消えた。
「しかし、宝塔の持ち出しか」
それだけ言うとマミゾウは腕を組み、やけに真面目に考え込むように唸ってしまった。
「存外、小娘の観光どころではないかもしれんぞ」
マミゾウはからかう様子もなく、考え込んでいる。
雲山もレイセンも理解している様子はなく、何やら彼女だけが危機感を感じているようだ。たまらず星が訊ねる。
「一体、どうしたというのですか」
「簡潔に言うと、宝塔が割れないのはまずい」
マミゾウが断言した。
なぜ、まずいのか。いや、そもそも宝塔が割れてしまったことがまずいのだが、それにしても割れなくてはいけないとはどういうことか。
誰も納得の声を上げず、誰か理解できるかと互いに顔を見合わせる。見かねたマミゾウが息を吐きながら説明し始める。
「ごくごく当たり前じゃ。『起きなかったことは起きてはいけない』、それはつまり『起きたことは起きなくてはいけない』ことと同じ」
どこからか現れたマミゾウの子分狸たちが、懸命に座布団を引っ張ってきた。座れという意味だろう。
各々座り込むと、使命を終えた子分狸はどこかに散ってしまった。雲山は入ってきた側の部屋の隅、襖の辺りに滞留している。
「起きたことは起きなくては……ってどういうこと?」
「簡単に言うと、今と辻褄が合わなくなるのは避けねばならん」
そこまで言うとおもむろに、客間の中心で煙管を咥え始めた。
「あっ、煙草」
この場に居ない響子の代わりに、はたてが指をさして注意する。
しかしマミゾウは気に留める様子はない。煙の上がる煙管を動かし、立ち上る煙が横に伸びる矢印と簡単な人型を描く。
形作られた煙は離散せず、その場に留まった。
「ではそうじゃな」
マミゾウは傍聴者を眺める。
「一輪が過去の命蓮寺に移動したとしよう」
人型の頭上から放物線が左に伸び、先端の矢印が時間軸のとある一点を指し示す。そこにも先ほどと同様に簡単な人型を描く。
「過去にも当然一輪が居るのう。こちらは一輪Pと呼ぼう」
マミゾウは器用にも、吹いた煙を人型の頭上に浮かべる。その煙は次第に形を変え、アルファベットのPを形作り始めた。
過去の世界にて一輪Pと、一輪が並ぶ。
前提を理解しようと黙っていると、マミゾウは補足する。
「パストのPじゃ。そのくらい分かるの?」
「ああ……そういうこと」
納得した声と共に、はたてが律儀に頷いたのが横目で見える。
「この時一輪Nは一輪Pを」
マミゾウは人型を煙管ではたき、図から消してしまう。
「殺そうとしたとしよう」
流石に驚いた。
「なんで、そんなことするのよ」
「そりゃあ何かのっぴきならない理由があったんじゃろ。して、一輪Pを殺めようとした場合、どうなるかの?」
意地悪そうに開いた口角から、吸い込んだ煙が漏れる。
私は周囲と目配せしてから、答えづらい質問に答える。
「そりゃあまあ、上手くいっちゃうかも。不意打ちなんだから」
「では一輪Pは謎の事件によって倒れ、一輪Pの未来はこうなる」
マミゾウは息を吹きかけ、人型の足元に伸びていた矢印の、一輪Pから先を消してしまった。
今や一輪Pの先には何も残らず、当然一輪Nの移動を示す矢印の根本にも、何も残らない。
「あれ」
はたての声が聞こえる。
「でも一輪Nは、未来から来てるのよね」
「然り」
この一輪Nはどこから来たのか? 果たして、何者なのか?
誰もが押し黙り、同じ疑問を抱いているようだった。
「明らかに摂理に反する。これは賢人でなくとも分かるの。よって一輪Nも存在し得ず消える。痕跡を残さない謎の刺客によって、一輪は志半ばで倒れてそれきりじゃ」
燻らした煙が消えるように、一輪Nを示していた人型が宙に消える。
「しかし、旅立つ前までの一輪Nは確かに痕跡を残しておる。この間の文献はどうなっているのか、説明が付くものはおるか?」
彼女は言いながら順に目線を向け、私の所で試すように視線を留めた。
たまらず言葉を返す。
「でも、別に今回殺生しようっていうんじゃないんだから」
「これを踏まえた上でじゃ」
マミゾウは私の言葉を遮った。
「今お前さん達は"のっぴきならない理由で"宝塔を拝借しようとしている。妖怪か宝物かは異なるが、先の様相と同じこと」
頭の中に先程の図の流れが浮かぶ。
左端から脈々と伸びてきた線に乗る宝塔Pが、ある日に割れてしまう。宝塔Pの少し先で、破損を示す✕印が記される。
ところがそれより右から回り込むように伸びてきた線により、宝塔Pと未来の時間が繋げられる。その回り込んで来た線に従って、持ち去られる宝塔Pは未来の一点への矢印を描く。
始点は19日の宝塔P。終点は✕印を避けるように伸びた20日のある一点。
成功すれば宝塔Pは過去の世界から消えている。では、✕印にたどり着くまでの直線では、何が起きている?
「化かし合いの相手が摂理とは、流石に分が悪い」
目線を上げると、先程まで私が想像していたものと同じ図が、煙管から伸びる煙により手際良く描かれていた。
それを眺めながらマミゾウが独りごちた言葉は、私達に不安を与えるには十分だった。
「さっきみたいに、文献に異常が出るってこと?」
「でも宝塔じゃ、規模が大きすぎます」
はたてと星の言葉にマミゾウは何も答えず、静かに目を閉じ、煙管をくわえなおす。
「過去から持ってきても辻褄が合うように、気が付いたら増えるとか」
「ありえぬな。記憶が、事象がそれを許さない。『そういえばあやつは二人おったのだった』が起こり得ぬように、『そういえば二つあったのだった』ということは起こらない」
追い詰められるように、言いようのない不安が私達の間に漂う。
何か私達は、とんでもないことをしているのではないか?
私と星が目線を合わせると、マミゾウが気まずい空間に声を落とす。
「じゃが、何事にも辻褄の合う現象がひとつだけある」
その言葉に救いを見出したかのように、星が声を出す。
「本当ですか? それって」
「それは、こうじゃな」
マミゾウが唇を尖らせ、煙の模式図に息を吹きかける。それは整えたり図を動かすものではなく、その勢いで図自体を吹き消してしまった。
矢印や人型も残らず、跡形もない。
一輪Pも、宝塔も無い。
「……消えるってこと?」
はたてが呟いたのが聞こえる。
どういうことか分からず、たまらず尋ねた。
「消えるって、何が」
マミゾウはゆっくりとこちらを振り返り、意地悪く笑うように歯で煙管をくわえながら答える。
「全部じゃよ」
全部、消える?
一日のタイムスリップによって?
その時タイミング良く、裏庭の方で閃光が走った。
「戻ってきた!」
はたての声に私は立ち上がると、履物をつっかけてタイムマシンの傍に駆け寄る。
背後の星も庭に着いてきて、先程まで半信半疑だったマミゾウと、黙って行方を見守っていた雲山までもが縁側に集まってくる。
「おまたせしました!」
マシンの座席から元気よく手を上げたのは響子だった。二往復で時間移動にはすっかりなれたのか満面の笑みを浮かべ、私達の焦りに気付く様子はない。
声をかけようとして、ふと気が付いた。
彼女はマシンの真ん中に、一人だけ、ちょこんと座っている。
「ねえ、響子だけ?」
「ええ、ぬえさんと村紗さんは昨日ワールドを観光中です」
私の声に答えながら響子はマシンの縁を跨ぎ、呆気からんと続ける。
「本当に昨日のまんまで驚きですよ。まだ時間もあるし、一輪さんと寅丸様も遊びに来るといい、とのことで」
「駄目! 早く帰ってこさせないと!」
頭を抱えた私に驚き、響子は背後の星の顔色も伺う。それからなにか状況が変わったことを察したのか、はたてやマミゾウの方をきょろきょろとする。
響子と入れ替わりで乗り込む私に、はたてが心配そうに声をかける。
「どうするの?」
「変なことする前に、とりあえず連れて帰ってくる」
「私も行きます」
ダイヤルとレバーを確認していると、星もタラップから乗り込んできた。私の左肩に手をかけ、ダイヤルを覗き込む。
続けてはたての声が聞こえた。
「あんたも行きなさいよ」
顔を上げると、はたてはレイセンの横顔を見ていた。
自分が指されたのとはすぐに気が付かず、レイセンが一拍遅れて飛び上がる。
「え、私ですか!?」
「あんた未来妖怪でしょ、それに、あんたが持ってきたんだからなんとかしなさいよ」
「ひええ、そんな無茶な」
村紗とぬえを探している間、タイムマシンを見張る役もほしい。人手が増える分には構わなかった。
「来るなら早くしなさいよ!」
「ほら、早く行く!」
「えーん、天狗様は過去でも強情です」
はたてに押し出されるようにして、レイセンもタイムマシンに乗り込んできた。三人がなんとか収まろうと肩を寄せ合う様子は、やはり狭苦しい。
「行くわよ」
「あの、ちょっと、まだ覚悟が」
レイセンの言葉を待たず、私はレバーを押し下げた。
19日 雲居一輪 2:50 PM
発光が止まり、視界が戻ってくる。
辺りを見回してみれば、タイムマシンが接地しているのは先ほどと同じ命蓮寺の裏庭。寸分違わず全く同じ位置に居ながら目の前の観衆が消えたのは、確かに屋敷の方に居た面々が消えたようにも見える。
「本当に、昨日に来てしまうんですね」
星が足を乗り出し、タイムマシンから降りる。その隣のレイセンはすぐには動かず私の肩に手を置いたまま、頭を下げている。
「あんたはどうしたのよ」
「ちょっと、急なグニャグニャが、キツくて」
星の方が肝が座っているとはどういうことなのか。
「しょうがないわね、私と星が行くから、あんたはここに残ってなさい」
「了解しました」
「何か見つかっても、新しい門徒が私達へのサプライズをしているとか、適当なこと言って追い払いなさい」
「了解しましたあ」
彼女はなんとか二度応答し、その場からきょろきょろと辺りを伺い始めた。
星はといえば廊下を覗き込みながら、タイムマシンが少しでも見つかりづらいよう、順に戸を閉めている。
「私は向こうを探してみます」
「気をつけてね、私達、昨日は命蓮寺に居ないことになってるんだから」
星は真面目な顔をし、神妙に頷いてみせた。
私は屋外を探すことにした。
無闇に目立たないようにしながら、慎重に昨日の命蓮寺を歩き始める。
辺りに注意しながら人の目に付きづらいところを進んでいると、敷地の隅の蔵の近くに、見慣れた羽根と黒髪が見えた。
まさしく尾行か監視をしています、といった感じの覗き込み方をするぬえは、本人が警戒する一辺を除き、非常に悪目立ちする姿だった。
目線の先を追うもそこに人影はなく、たまに用のある者だけが立ち入る蔵が並んでいる。その一つを監視するように、誰か近付く者は居ないか見張っているようだ。騒がれても困るので、視界に入らないように背後から彼女に近付く。
「ぬえ、見つけた」
名を呼ぶ声に、ぬえはちらりと私を振り返る。
「あ、もしかして今日の一輪?」
軽く応答した後、ぬえはまた蔵に向き直ってしまった。何が理由かは分からないが、よほど何かを警戒しているらしい。
「こんなとこで何やってんの」
「犯人探しだよ」
犯人探し?
私が疑問符を浮かべながら傍にしゃがみ込むと、彼女は「分かってないなあ」と言いたげに振り向いた。
「あたしが鬼酔わしをここに隠したのを知ってて、盗みに来るやつが居るはずなんだ。そいつぎったんぎったんにしてやらないと」
「なんで、そんなことするのよ」
「今や阻止するより懲らしめてやる気持ちの方が強い」
知らきゃ触るはずがないんだ、奥から二番目の仏殿の中。と念仏を唱えるように、再び目線を戻しながら未練がましく呟いた。
なんていうところに隠してるの。
そんな感想を口にしたかったが、今のぬえに道徳を問いてもしょうがない。まずは帰るよう説得しなければ。
「そんなもの良いから、過去を変えちゃう前に戻るのよ」
不満げなぬえが何か言おうとした時。門徒の人が正面から歩いてきた。ごみ出しの最中通りかかったようで、蔵に近付く様子はない。
「あいつ、あいつ新入り! この前あたしに挨拶せずに変なもの見る目で見てきやがった!」
「ほら、騒ぎになる前に帰るよ!」
ぬえの無駄な記憶力によるエピソードを聞き流しながら、引きずるようにして客間の方へ戻る。
道中、過去を変えてはいけない要因を掻い摘んで話す。ぬえは困惑しながらも何とか歩を進め、タイムマシンのところまで戻ってきてくれた。
既に星は村紗を見つけて来たらしく、客間に立ってレイセンと三人で話していた。
「おお、一輪」
村紗がこちらに気付くと軽く挨拶の発声をし、ぬえは履物を脱ぐと、さっさと客間に上がっていってしまう。仕方なく後に続く。
「村紗、一回戻れって話、聞いた?」
「んー、なんか、とりあえず過去が変わるとまずい、みたいな」
星も村紗に説明してくれたようだ。目線だけで感謝を示す。
ぬえが不満半分、疑問半分で村紗と顔を合わせる中、レイセンが堪らずといった様子でたずねる。
「あの、もしかしてですけど」
「ん?」
レイセンが恐る恐るぬえに近づき、上目遣いで覗き込む。
「あなたがぬえ様ですか?」
「そうだけど」
頷いたぬえが「そういえばこいつ何者なの?」と私に確認を取る。
私が答える前に、レイセンが飛び上がる。
「えぇー! わっかーい!」
流石にぎょっとしたぬえにも構わず歩み寄り、顎の横に手を添えあちこちから覗き込んではしゃぎ出す。
「すっごい、きりっとしててかわいい!」
「え、え、なんなのさこいつ」
ぬえは突然のことに動揺しながらも、何か気を良くして少しにやにやしている。
「ぬえ様とは思えませんよ、肌もすべすべだし、シワも全然ない!」
続く言葉は流石に侮辱と捉えたのか、ぬえの表情が固まった。
「んだとこの餓鬼!」
ぬえがレイセンを振り払い、室内にも関わらず霊力で生み出した槍を投げつける。
回避能力はあるのか、レイセンは涼しい顔をしてかわし、槍は客間の襖に突き刺さった。
「こら、ぬえ! 屋内は武器禁止!」
流石に村紗が静止の声を出す。ぬえは不満そうに、二射目に構えた槍を消す。
柱に刺さった槍も消滅したが、跡は残ってしまった。
駆け寄って様子を見たところ、引手に当たって止まったため貫通はしていない。が、刃先によって紙に穴が開いてしまった。
引き戸を開けてみると、中は布団で詰まっていたわけではなく、幸い中の物を傷つけることはなかったようだ。畳まれた敷布団の上から枕を持ち上げ、穴の位置に置いておき、目立たないようにしておく。
「じゃあ、宝塔持って帰りますか」
ぬえの声がしたので、慌てて振り向く。彼女は腰に手を当て、気だるそうに探しものをしている。
「それ、無し!」
「え」
だって私達が来たのはこれが目的ではないか。彼女の目線がそう言っている。
「色々分かったけど、昨日を変えるのはまずいのよ」
「こっちの命蓮寺がどうなろうと、私は知ったことじゃないよ」
「昨日の命蓮寺がおかしくなると、私達の来た今日の命蓮寺もおかしくなっちゃうのよ!」
なんとか理解に努めようとしてくれたが、先程の話を知らないぬえは「私が悪いのか?」という目線を星に向ける。
星も渋々といった様子で一つ頷く。諦めてくれ、の意だろう。
「詳しくは、後でマミゾウさんに聞いてほしいんだ」
「マミゾウに? どうしてさ」
「私らじゃ上手く説明できないのと、とにかく、誰かに見つかる前に今日に戻らなくちゃ」
その時、廊下から声が聞こえた。
「あら、星?」
聖の声だ。咄嗟に言葉を止める。
どうやら廊下に立っていた星が聖に、いや、聖Pに発見されたようだ。私は聖Pに見つからないよう客間の奥の方に後ずさり、理解していなさそうな村紗とぬえを後ろに引っ張る。
「えっ、と、聖」
星は客間のぬえや私が見られるのを防ぐため、それ以上聖Pが来ないように自分から一歩前に進んだ。まだ私と目線が合わせられる位置だ。
幸い廊下の戸は閉じられていたため、タイムマシンが聖の視界に入ることはない。
「午後は一輪と人里の方に行くのではなかったかしら」
「ああと、えと、それは」
咄嗟のことに言い訳の言葉が思いつかなかったのだろう。しかも、相手は聖だ。
万事休すだがどうするか、とばかりにちらちら目線を送ってくるので、仕方なく口だけを大きく動かして誤魔化しの言葉を伝える。
人里は、村紗に任せて、午後も寺を、手伝うことにしたんです。
星はちらちらとこちらを伺いながら、なんとか聖Pに伝えることに成功する。
「まあ、そうなのね、それは助かるわ。門徒の方には荷重な妖怪の応対で困ってたのよ」
聖Pは疑うことを知らず星Nに語りかける。
「さっき、誰かと居たかしら? 何か一輪の声がしたような」
「いえ、きっと、お堂の方の声を聞き間違えたのでしょう」
「それもそうよね、あの子は人里のはずだものね」
聖が廊下を戻り始めたのか、足音が遠ざかる。
その後に続かないわけにもいかず、星はこちらに顔を向け困ったような、くしゃっとした顔を見せる。
あとで、迎えにくる。
私がもう一度大きく口を動かすと、星は小さく頷き、少し背を丸めて廊下の方へ消えていった。
思わず止めてしまっていた息を吐き出し、どうしたものかとうなだれる。
「伝達に送受信器が不要だなんて、昔の妖怪は凄いですね」
レイセンが慰めなのか本心なのか、感心した声を出すので少し気を持ち直す。
「ふざけたこと言ってないで、一回帰るよ」
私と村紗とぬえとレイセン。一度に乗るのは厳しそうだ。先に村紗とぬえに戻ってもらい、響子あたりに戻ってきてもらうよう話した。
20日 雲居一輪 3:40 PM
星を除いた全員が現在に揃い、重苦しい雰囲気で顔を見合わせていた。
事情を聞いたぬえと村紗も、過去に戻って宝塔を手にしようと言うことはなかった。
「いやあ、困ったねえ」
沈黙を破ったのは村紗だった。
「もういっそ、聖輦船で魔界なり月なりに逃げることも視野かな、これは! あはは!」
村紗が無理やり出した笑い声に続く者は居なかった。数瞬のうちに村紗の声のトーンも落ち、再び沈黙が訪れる。
どうすべきか。何か出来ることはあるのだろうか。
レイセンがおずおずと手を挙げる。彼女はいきなり沈黙を破る勇気はなかったのだろう。皆の視線が集まってから発声する。
「これって、ようは、宝塔が割れれば良いんですよねえ?」
レイセンが確認する。
「偽物の方を持ち込んで割れるとこに置いてきて、本物を持って帰ってくることって、できませんかね?」
自然と目を集めたのは、客間に持ってきた、砕けてしまった宝塔。
一度思い切り叩かれ、ひしゃげた土台。特に、透き通った宝珠部は見る影もない。
あのとき聖の手が振り切られていたことから、ここから破損が進むことになる。二撃目にどこまで耐えられるかは不明だが、既に割れていたと気付かれるだろう。
「あれは、流石にばれるでしょう」
「私達、割れる音聞きましたもんね」
「今からじゃ直す時間もないよ」
皆が断念する中、最後のぬえの言葉に引っかかる。
レイセンの言うすり替えも、ありかもしれない。
「ねえ村紗、最近聖輦船出したのいつだっけ」
私の言葉に村紗は驚きながらも目線を上に向けて記憶を辿る。
「先週じゃなかったっけ。日付は、えっと、カレンダーに印付いてるから」
彼女は頬に当てていた指を倒し、そのままカレンダーを指し示す。
私が覗き込んだカレンダーには、村紗が出航を楽しみにして付けたのか、サインペンで簡単な船の絵が記されていた。月にいくつかあるそれらを今日の日付から遡ると、直近では12日に船マークが描かれている。
割れる一週間前。今日から8日前。
「一週間……凝り性だとしても外観だけならいけるかしら」
「一輪?」
村紗の困惑する声に答える余裕もなく、私はタイムマシンに乗り込み、ダイヤルを合わせてレバーを引き下げた。
12日 雲居一輪 4:10 PM
昨日よりも更に前に到着した私は、閃光が止むとすぐにタイムマシンから飛び降りた。
先程は周囲を警戒しながらの移動だったが、今は気にする必要もない。
12日は目前に命蓮寺の建屋はない。村紗の記憶とカレンダーの印通り、命蓮寺が聖輦船として出航している日だった。
この日なら命蓮寺の面々に見つかる恐れはない。躊躇わず宙を舞って、移動の最中に腕時計を覗き込む。
今が午後4時過ぎ。宝塔が割れるのがおおよそ午後6時。移動と入れ替えの時間を考えると、あまり時間はない。
幸い誰か知り合いに会うことも、隠れて遊び呆けるぬえPに会うこともなかった。
私が足を付けた地は12日の妖怪の山。山城たかねの工房の前だった。
幸い中に人の気配はあり、申し訳程度に鈴の付いた戸を開くとすぐに作業台に向かうたかねの横顔が見えた。唯一恐れていた、山城たかねの不在、という事態は免れた。
「あれ、入道使いの」
たかねは私を見て不思議そうな顔をしてから、窓の方に目線をやりぽかんと口を開けている。
先程聖輦船が飛んでいたのを見て、私がここに居ることを疑問に思ったのだろう。
流石に事情を話すわけにはいかない。話を振られる前にこちらから話題を切り出し、手を合わせた。
「頼みたいことがあるの」
まさか自分が、こんな事を言う日が来るとは。
「宝塔の模造品を作ってくれないかしら」
私の合掌の向こうで、たかねは首を傾げていた。
それもそうだろう。以前寺に来た際、宝塔を観察し廉価版を製作しようとしていた事を止めさせたのは、私達の方だ。
矛盾した行いにへそを曲げられるかと思ったが宝塔への興味はまだ残っていたようで、たかねは機嫌を損ねることはなかった。
「あれだけ模造品は控えろって言われてたのに……いいの?」
「事情があって致し方ないわ。聖姐さんには秘密よ。あとうちの鼠っ子」
彼女は私の言葉に目を輝かせたと思うと、すぐに大人しくなる。
「しかし、よく分からんが急ぎっぽいね。興味があるとはいえ、急な依頼はなぁ。こちとら順番があってだね」
致し方ない。
「鬼酔わし一升上乗せでどう?」
山童が反応したのが分かった。
「それ、ほんと?」
「本物が入った、いや、これから入るのよ」
ぬえ、ごめん。鬼酔わし売ったの私だった。
たかねは回転椅子でこちらに向き直り、前屈みになって話を聞く体勢をとる。
「ただし宝塔にも条件が二つあるの。灯は灯してない外観で、宝珠は部分は割れるような無色透明であること」
彼女は唇に指を添えたまま、黙って私の話を聞いている。
「2つ目。絶対19日に寺に届けてほしいんだけど、生憎私は外してるの。物は中身を言わずに誰かに預けて、私に届けさせて。酒の引き渡しは蔵に行ってセルフでお願い。何か言われても、私の名を出して構わないから」
少しの間考えていたたかねだったが、算段が付いたのか、目をこちらに向けた。
「オーケー、事情は分からんが、期日優先でやってみよう。多少出来が悪くても後から文句言うなよ?」
消えなければ文句なんて言わないわよ。
私が飲み込んだ言葉を知らずに、たかねは壁掛け時計に目をやる。
「商談成立だ。この時間帯……そうだな、キリ良くヒトナナマルマルお届けでどうだい」
午後5時。
私が戻って、宝塔を入れ替えて、撤収する。ちょうどいいころだろうか。異論はなかった。
後はニセ宝塔の出来を祈るだけだ。
「えっと、紙とペンある? 細かい形状なんだけどね」
「ああ、資料は持ち前のがあるからいいよ」
私の言葉を遮ってたかねはあっさりと言い、棚からスクラップブックを取り出すと、そのうち栞の挟んであった1ページを開いた。
横から覗き込んでみると、見開きの両ページには宝塔の写真や簡単なスケッチが並んでいる。
「どうしたのよこれ」
以前に撮影を制した時は遠景だけで、宝塔の装飾まで分かる細部までは撮っていなかったはずだ。どういうことか、台座の裏側を撮った写真まである。
写真の出処を聞かれたたかねは当然のように語る。
「日中、あんたのところで修行してる姫海棠はたてだよ。数日前から写真データをくれるんだよね」
あっけからんと言う彼女に指を立てた。が、今や重要な協力者だ。
何か言うにも、移動の時間が惜しい。
「はたてには言っておく。今回だけ、よろしくね」
彼女に納期の念押しをして、その場を離れた。
20日 雲居一輪 4:50 PM
たかねへの依頼を終え、私は20日に戻ってきた。
「一輪、どこ行ってたの」
「ちょっと解決策を仕込んできた」
駆け寄ってきた村紗に結論だけ報告すると、響子やはたてたちは明らかに喜びの表情を見せた。交渉材料のことは置いておいて、山城たかねに模造品の依頼をしてきたことを話す。
「一輪そんな交渉できたんだ、いや、もしかして脅迫でもした?」
ぬえの言葉に言い返したかったが、後ろめたさもある。「後で説明する」と伝え、はたてたちに向き直る。
「ねえ、昨日の夕方、たかねか、配達員の山童からなにか受け取った人いない?」
私の言葉に誰も反応はせず、互いに顔を見合わせる。
誰か受け取った? 誰も受け取ってなくない?
皆が小声で口にする言葉に、忘れかけていた汗が滲む。
どうしてだ。上手くいかなかったのだろうか?
「昼に来た山童は、門番に渡したと話しておったよな」
記憶を辿るようなマミゾウの言葉に、この中で門前に居た、響子に視線が集まる。
「でも、私は心当たりは……そもそも、昨日はたかねさんには会ってないのですが」
その時村紗が手を叩いた。
「響子Nだ!」
音に加えて妙な接尾語を付けられ、響子は驚いている。
「え、え?」
「今から昨日に行って、あんたが受け取れば、昨日たかねは響子に荷物を渡したことになる!」
私や村紗、星とぬえは出払っている。門前で受け取って不自然ではないのは響子だ。
「確かにそれなら上手くいく、行くよ響子」
「ふえええ」
「あと星も連れてこないと、そろそろマズいよ」
「よし、私は星から聖を引き離してこよう」
私に引きずられるようにタイムマシンに乗せられる響子。後ろに続くのはぬえ。
相変わらず狭い座席に、私とぬえと響子が三人で収まる。
目線を上げると、雲山がやけに深刻そうにこちらを見ているのが気になった。
19日 雲居一輪 4:55 PM
昨日の命蓮寺に降り立った私たちは周囲を警戒する間もなく、慌ただしくタイムマシンから降りた。
「響子、昨日の今頃、どうしてた?」
「あっと、門前には、居ないです。門を見に行った記憶もないです」
ぬえは私と目を合わせて頷き、縁側から上がり込み、廊下を進んでいった。私は響子を連れて正門の方へ向かう。
響子の話通り、門前には誰の人影も無かった。
とりあえず外から見える位置に立っているようにと指示して、響子を門前に立たせた。
昼に来たたかねの様子からして、受け渡しは終わっているはず。後は予想外な人物の手に渡らないのを祈るのみ。
時計と響子を交互に見ながら物陰で待っていると、響子が誰かと話し始めたのが見えた。山城たかねだ。
響子がなにか話して、小包を受け取る。その後たかねは命蓮寺の奥の方を指差し、響子と何か話している。私の名を挙げたのか、響子が敷地内へ通す仕草をし、心なしかそわそわした様子のたかねが蔵の方へと向かっていく。
たかねの視界から外れると、響子は足音を立てないよう気を付けながら、こちらへ早足で戻ってきた。
「ゲットです!」
「でかした」
演技なんて慣れない真似をしたからか、彼女もどこか興奮気味だ。
両手で荷物を差し出す響子。手元の小包の中では、ガタガタと小物の揺れる音がする。
客間に戻って包みを開けてみると、簡易な木箱に入った宝塔、の偽物と目が合った。
持ち上げてみると、さほど重量はない。大きさも実物より少しだけ小さいだろうか。ただ本物の宝塔をまじまじと調べたことがない妖怪からすれば、十分本物と騙せそうな出来になっている。
一週間の特急品にしては、中々の出来栄えだ。
「よくできてんじゃん」
「一輪さん、ワルの顔してますよ」
この子は余計なこと言わないの。
小突いてやりたかったが、そんな時間も惜しい。櫃の宝塔を取り出し、代わりに模造品の宝塔とすり替える。
本物の宝塔と並べてみると流石に装飾の簡略が目立つ。が、櫃の中では同じこと。
ニセ宝塔入りの櫃を祭壇に戻していると、二人分の足音が近付いてきた。見ると、ぬえと星が辺りを伺いながら客間に入ってきた。
「星回収してきたよ」
「えっと、一輪Nと、響子Nで良いんですよね……?」
緊張状態が解けたのか、星が力ない声を出す。聖の前で真実を言うに言えなかった焦燥もあり、星は混乱気味のようだ。
聖Pを引き止めてボロを出さなかっただけでも、ありがたい。
「大丈夫ですよ、寅丸様のお陰で私達も助かりました」
「これで仕込みは万全よ。昨日も今日も消えない」
私は星の肩を叩いてから、両手で宝塔を渡してやる。
星は久方ぶりに目にした宝塔に感動し、泣き出さんばかりに目を潤ませた。それから深くため息をつき、深々と頭を下げた。
「さ、本来の命蓮寺に戻りましょう」
「はい」
既にタイムマシンに足をかけていたぬえに続き、響子と星も庭先に出る。私も客間の戸を閉め続く。
四人だが乗り込めるだろうか、二回に分ける必要があるだろうかと話していると、廊下の方から声が聞こえた。
「……で、なんでぬえはそんなに焦ってるわけ」
ハッとして顔を上げたぬえだが、今の声は私達の誰でもない。それに、今聞こえてきたのはここに居ない、村紗の声だ。
「だから、無いんだって! 私のアレが!」
廊下から声が聞こえた。この賑やかな声は、村紗PとぬえPだ。
「まずい、帰ってきた!」
早くタイムマシンでここを去らなくては。
ぬえの背後に宝塔を抱えた星が乗り込み、隙間に響子が詰め込まれる。
私が座る十分なスペースはなく、タイムマシンの縁の部分に足をかけて屋根の下に体を押し込んだ。
「これ、私乗れてる……?」
「かなり微妙です」
膝を抱えてこちらを見上げる響子が不安げに呟いた。
「行くよ!」
ぬえがレバーを押し上げた。
その瞬間足元が激しく振動し始め、発光の瞬間、私はタイムマシンから弾き飛ばされてしまった。
地面に尻もちを着き、地面から浮遊したタイムマシンを見上げる。
周囲が蜃気楼のように歪んだかと思うとタイムマシンは発光を始め完全に光球になる。そのまま更に浮いたかと思うと、ぬえたちを乗せたタイムマシン見えない天井に吸い込まれるようにして消えた。
轟音も煙もなく、未来へ行ってしまった。
まずい。どうしたものか。
「あれ、一輪?」
背後からの声に飛び上がりそうになる。
振り返ると、開いた戸から不思議そうにこちらを眺める村紗が居た。
19日 雲居一輪 5:20 PM
「何やってんのそんなとこで」
「いや、その」
裏庭で座り込んでいる私を見て、村紗Pは不審がっているようだった。
この場に居ては再度タイムマシンが戻ってくるかもしれない。中庭で村紗Pと話すのはまずい。
お尻を叩いて立ち上がる。
「猫が、迷い込んでて、どっか行った拍子にすっ転んじゃって」
言い訳ながら靴を脱ぎ、縁側に上がり込む。
どちらへ身を隠そうか考えたが、客間から離れるように廊下を進んだ。
「ていうか先帰ってたんだ」
「え?」
私が振り返ると、疑うような村紗Pと目が合った。怪訝そうにこちらを覗き込み、その場を動かない。
「どっか寄り道してくって言ってたじゃん」
「ああ……したんだけど、店、閉まってて」
しどろもどろに答えていると、背後からぬえの声が聞こえた。
「村紗、このバッグあんたの?」
名前を呼ばれた村紗Pが「勝手に開けたりしないでよね」と私の横を通り過ぎ、ぬえの声がする方へ進んでいった。入れ替わりで、掃除用具を持った響子がすれ違い、客間の方へと向かっていく。
その場を離れようとした矢先、廊下の向こうの部屋からぬえが出てきた。手で仰ぐ横顔は不機嫌そうだ。
「あ? 一輪居んじゃん」
ぬえの不機嫌の理由はすぐに見当がついた。蔵から消えた鬼酔わしを探して部屋や掃除用具入れを片っ端から探しているのだろう。
その原因は言い逃れできないほどにしっかりと私にあるのだから、流石に気まずく感じてしまう。
ぬえPは私に違和感を感じたのか、つま先から頭までじろじろと眺める。
「なんで着替えてんの」
つられて村紗も私の方に顔をやり「ほんとだ」と呟いた。
「いや、ちょっと、汗かいちゃって。暑かったじゃん」
「ふーん?」
こちらに詰め寄ってくることはしないが、ぬえPは疑いの眉を作る。
「じゃあ、ちょっと、あたしこれで」
「ちょっと待って」
多少不自然だがこの場を離れようとしたところ、素早くぬえに回り込まれる。
「まさか蔵から出したの、一輪じゃないよね?」
私は、持ち出していない。
屁理屈を捏ねたかったが、説明するのはこちらのぬえではなく、ぬえNにしなくてはいけないのだ。私はとぼけて、何のことか分からないふりをする。
「蔵?」
「蔵。私の鬼……あれが、私物が無いのよ」
ぬえが詰問する最中、向こうを聖が歩いているのが見えた。ぬえはそれに気がついたのか、ごにょごにょと言葉を濁した。
まだタイムマシンが戻ってくる様子はない。
なんとかしてこの場を離れなければ。
私はわざとらしく手を叩き、ぬえに指さしてみせる。
「分かった、あんたまた酒持ち込んだんでしょ! それで誰かに盗まれたって騒いでるわけ?」
「馬鹿! お前!」
ぬえだけではなく、村紗もあんぐりと口を開けている。
唯一、聖だけがじっとこちらを見ている。
「ぬえ? どういうことですか?」
こちらの話が聞こえた聖が近づきぬえに詰め寄っているのを横目に、廊下を客間の方へと戻る。まだタイムマシンの閃光は無い。
「ぬえ! 貴女には何度も言って聞かせているというのに!」
客間の前まで来た所で、背後から声がした。
このまま廊下で待っていれば巻き込まれるかもしれない。話の流れ的に彼女達とは入れ違えない。それに、昨日帰宅した後の私は村紗の背後から来たのだ。村紗と一緒に居るのも危険だ。
裏庭の戸を開けると、タイミング悪くマミゾウが歩き煙草をふかしているところだった。こちらに気づいた様子はないため、静かに戸を閉める。できるだけ人と接するのは避けたい。
聖とぬえの声が近づいてくる。恐らく、この声を聞いて客間に居た響子は庭と反対側の戸から出ていく。
覚悟して戸を開けると、ちょうど部屋を出ていく響子の背中が見えた。ニセ宝塔の入った掃除中の櫃がそこに置きっぱなしになっている。
響子の後に続いてどこかに隠れるしかない。そう思って客間を抜けると。
雲山が居た。
遠目に見えたとかではなく、完全に曲がり角で遭遇した。角から人が出てきたこともそうだが、私が目の前に立っていることに驚いているのだろう。雲山は目を白黒させている。
廊下に目線をやり、私に目線をやり。
私の頭の頂点から、つま先までを繰り返し見る。
目の前に鉢合わせた私が本物だという感覚を受けているのだろう。そして、先程廊下で帰って来たのを見た一輪Pに対しても。当然ながら、どちらもちゃんと本物なのだから。
しかし今は、説明する時間がない。
「絶」
私は反射的に拳を握り込んで首根っこを掴むような所作をとった。
「……対に誰にも言うんじゃないわよ。あんたも、あたしも、消えたくなければ」
雲山は私と喧嘩した時の事でも思い返したのか、目を固く瞑り、コクコクと頷く動作をしてみせた。
それから横を抜けようとしたのだが、そちらでも星Pの声が聞こえた。
咄嗟に再び雲山の横を戻り、客間の押入れを開け、上段のスペースに身を隠す。襖を閉める音はぬえと聖が入室してくる音と重なって上手く誤魔化せたようだ。
「痛い痛い、耳はやめてってば!」
「座りなさい、ぬえ!」
敷布団を奥の方に押しやり、穴隠しに倒していた枕を退け、身を伏せるようにして客間の様子を覗き込む。
聖の表情は見えないが、そこにあった櫃に聖の手が置かれるのが見える。ぬえの後頭部が集中していないようにあちこちに揺れ、じきに村紗へ反応する様子を示す。
聖Pがニセ宝塔入りの櫃を叩く。
ここからはリプレイだった。廊下に私の声が増え、響子の声が増え、はたての声が増えた。雲山は途中から顔を出し、私の隠れる襖と一輪Pを交互に見ている。
そしてその時が来た。聖の手が櫃の上から消え、勢いを付けて帰ってくる。宝塔が割れる音、静まり返る室内、響子の声、騒ぎになる客間。物が倒れる音。
全て自分の知っている通りの騒動が目の前で繰り広げられる。
騒ぎの中から、困惑した自分の声が聞こえる。
「……どういうこと」
暑苦しい押し入れの中で事の顛末を初めて理解し、一人呟く。
「……こういうことね」
20日 雲居一輪 4:55 PM
ニセ宝塔が割れてから、押入れの戸は掃除用具がつっかえ棒になり、開くことができなくなっていた。蹴破るわけにもいかず、私はそこから出られずに隠れていた。
レイセンとの遭遇、タイムマシンで騒ぐ私たち、マミゾウからの警告、連れ戻されてきたぬえ、たかねに模造品を作らせたことを報告する私。
そして夕刻。響子たちがニセ宝塔を置きに昨日に出発した瞬間。限界状態になっていた私は襖を激しく叩き、客間の人物たちに自分の存在を知らせる。
現在居間に居るのは村紗、はたて、レイセン、マミゾウ、そして雲山。
皆襖の向こうで一様に驚いたり怯えの声を上げていたが、じきにつかえが取り除かれ、襖が少し開かれる。畳まで落差があることにも構わず、倒れ込むようにして押し入れから転がり出た。
「一輪!?」
どよめく客間の中で、声を振り絞る。
「み、水……」
私はそれだけ伝えると、近くにあった座布団にうずくまる。周囲は遠巻きに声をかけるのみで、状況は飲み込めていない。目の前で一輪が過去に移動した直後、襖から汗だくの一輪が転がり出てきたのだから当然だろう。
唯一落ち着いていたのは昨日の時点で押入れに隠れた私を知っていて、襖のつかえを取り除いてくれた雲山だった。
はたてが持ってきてくれた水筒の水を飲み干すと、いくらか喉が動くようになった。
「助かった……」
「えっ、と、一輪、なんだよね?」
村紗がタオルを差し出しながら、困惑しつつ確認する。
「あの、全部大丈夫だから、ちょっと休ませて」
押入れの中で暑さと飲まず食わずだったために、頭がくらくらする。はたてとマミゾウが二本目の水と一緒に氷嚢を持ってきてくれたので、頭に乗せてじっとする。
やがて裏庭の方で閃光が起こり、ニセ宝塔のすり替えを終えたであろう星、ぬえ、響子が昨日から帰ってきた。再び庭と客間が騒がしくなる。
「皆さん、戻りました!」
「宝塔もこの通り!」
「……あれ、まずいです! 一輪さんが居ません!」
庭の方に目を向け、三人に向かって仰向けのままタオルを振ってアピールする。
「ここよ」
私の声は届いたようで、再び乗り込もうとしていたぬえも含め、三人が驚く。
「あれ、なんでこっちに居るの!?」
とりあえず、今やタイムマシンに乗せてはならない。こちらへ手招きし、客間へ上がるよう促した。
「本物、ですか?」
「えっと、皆さん事情は……?」
全員が揃ったところで、私は座布団から身を起こす。汗で乱れた髪が垂れて目にかかった。
「……帰れなかったのよ」
私はタイムマシンに振り落とされてから、19日に残ってしまった後のことを話した。ニセ宝塔が割れた後に押入れから出られなくなり、先程私とぬえたちが19日に向かったところで客間に出てきたことも含めて。
「えっと……つまり? 一輪さんは連れて帰らなくていいってことですか?」
タイムマシンの方をきょろきょろとしていた響子が、不安そうに確認する。マミゾウが煙管を咥えたが、煙をくゆらせることなくそのまま口から離した。
「先程19日に移動した一輪は昨日に取り残され、ぬえが説教される発端を作る。何も知らない昨日の一輪が宝塔が割れるのを目撃して、今日の昼タイムマシンに遭遇し……何れにせよ、先程そこから出てきた一輪は宝塔を持って過去に行ったあの一輪ということじゃの」
「じゃあ……今日、一輪がずっと二人いたってこと!?」
そういう事になる。
村紗たちが違和感に沸き立つ中、復活してきた私は上方を見上げて指をさす。
「ていうか雲山! タイムスリップした私が隠れてるの、知ってたってことじゃない!」
視線を集めた雲山はおろおろとした後、最初は半信半疑であったし誰にも言うなと言ったではないか、という表情をする。
まあ、確かにそう言ったけれども。
力なく頭を垂れた私の頭上で村紗が手を叩いた。
「えっと、とにかく、宝塔もあるし、全員揃ってるし。全部解決ってことでオッケー?」
「オッケーじゃね?」
「大丈夫です」
安心しきった者、とりあえず解決とした者、流されて納得した者。
最初の反応は皆様々だったが、次第に騒動を解決した実感が沸いてきたのか、先ほどより笑顔が戻って来た。
「じゃあ、あの」
このままナズーリンに報告して晩御飯の支度、といった雰囲気になったとき、レイセンが再び挙手をして周囲を見回した。
「私、元の時代に帰っても、大丈夫ですか?」
あ、そっか。
村紗の声は、私達の気持ちの代弁だった。
20日 雲居一輪 6:30PM
「皆さん、お世話になりました。私はこれでお暇させていただきます」
縁側に座って休憩する私に、レイセンはぺこりとお辞儀をした。半日ほどで見慣れてしまった旋毛の後に、小さい月兎が顔を上げる。
どのくらいの未来かは分からないままだが、妖怪の姿かたちは案外変わっていないようで安心した。
あいまいに見送りの言葉をかけると、タイムマシンを覗き込んでいたはたてがこちらへ振り返り確認する。
「帰るにしても、どうやって帰るの? このダイヤル二桁しかないわよ?」
はたての言葉に驚いた顔を見せてから、レイセンがタイムマシンに駆け寄る。
「ええーっ! こんな機械なのにここだけ旧式なんて信じられない!」
まだ見ぬ製作者への不満を漏らしたレイセンは玖以降のダイヤルを確認し、どうするかと思えば懐から算盤と筆記具を取り出し、縁側に戻ってきて何やらぱちぱちと変換の計算を始めた。
つくづく、未来感のない妖怪である。
「ねえ一輪」
タイムマシンの周囲で最後に写真を撮る皆を眺めていると、村紗がやって来た。私の隣に座り、麦茶のグラスを差し出した。
「あれさ、よく見るとUFOっぽくない?」
村紗が示していたのは目の前のタイムマシンだった。
鍔を有した、円筒ボディの真ん中に乗り込む。言われてみればタラップもある。下半分と蓋に当たる部分がもっと丸ければ、より近く見えるかもしれない。
「私、釜にしか見えなかった」
「私も」
村紗が笑いながら傾けたグラスから氷の溶ける音がする。
「でもさ、ぬえがおばあちゃんになってセンス変わったらああなるんじゃない?」
「流石にないでしょ。ただ、あの装飾はセンス良いと思う」
「お、一日分長生きテイストですか」
村紗が笑った。
なぜ村紗がタイムマシンの形状を気にし始めたのか分からず、そちらを向く。
「レイセン達との交友が命蓮寺発足なんだろ? あれ作るとしたら、私らの中だとぬえじゃないかって」
まさか。
「だとすると、村紗も手伝わされてるかもよ」
「あー、乗り気になるかなあ。ぬえが集めた信徒に、専門のやつが居たのかもしれないわね」
時間移動が専門のやつなんて居ないでしょう、と笑う。
傍らから聞こえた「たぶん、できました!」という声に振り向くとレイセンが何やら数字と漢字を紙にかき出していた。
背後から覗き込み理解に努める村紗。私も横目で覗いてみたが、数字と見知らぬ漢字の羅列に目眩がしたので、すぐに目をそらした。
レイセンの声にタイムマシンで写真を撮っていた皆が戻ってきて、入れ替わりにレイセンが小走りで乗り込む。
しばらくガシャガシャとダイヤルを合わせた後、彼女は紙とダイヤルを順に指さしながら最終確認する。
「多少ズレても、また算盤すればいいんじゃないの?」
「グニャグニャの回数は、減らしたいんですよう」
村紗からのガヤに弱気な表情を見せながら、目線が手元とダイヤルを行き来する。
頷いた様子から、間違いないようだ。
「えっと、大丈夫です。皆さん、お世話になりました」
「お世話って言うほど、もてなせてないよね」
「結局観光してないし」
「騒動の種持ち込んだだけっていうか」
私達が顔を見合わせていると「そうだ、私のタイムマシンを勝手に使ってた方々でした」と笑顔で続けた。
各々別れの言葉をかけ、レイセンが本当にレバーに手をかける。
「それでは皆さん、御達者で!」
古臭い言い方に笑っていると、レイセンがレバーを押し上げた。
辺りに閃光が走り、レイセンが見えなくなる。そのまま光球と化したタイムマシンが宙に浮かび、見えない天井に吸い込まれるように消える。
今日何度目かの、見慣れてしまったタイムスリップ。
最後の移動を見届けると、どっと疲れが湧き出てきた。
「行っちゃったね」
「あいつ、きっとどやされるんだろうな」
「事情があるんですし、昨日のぬえほどではありませんよ」
皆が客間から離れる中、タイムマシンのあった方向を眺めながら、はたてが唇を尖らせていることに気がついた。
「また、撮れなかった」
近付いた私にそう語り、念写機の画面を見せる。撮影はされていたが、正面からより強いフラッシュを炊かれたように、あたりが真っ白になっている写真だった。
仮に撮れてたとしても、決定的な瞬間はどちらかといえば新聞向きな気もする。
「結局これが一番かな」
はたては満足げに画面を見る。念写機の画面に映っていたのは昨日の昼、星と響子が並んであくびをしている写真だ。奥に小さく、今日の響子が写り込んでいる。
響子が背伸びをして、はたての手元を覗き込む。
「合成って言われちゃうんじゃないですか」
「私は日頃の行いが良いから、そんな恐れはないわ」
そういうものだろうか。
「あとはタイトルなんだけど」
「そうか、新聞じゃないからタイトルが必要なのね」
私の言葉にはたてはうんと頷き。
「実はもう良いのが閃いちゃってるのよね」
はたては得意げに、念写機を顎に当てながら勿体ぶる。
それから器用に念写機を持つ手にメモ帳も握り込むと、何やらペンで書き込み始めた。
「テーマはなんでしたっけ、記事に満たない日常と、アンニュイさでしたっけ」
律儀に確認した響子が私と目を合わせる。
「こんなの、どう?」
はたてが上機嫌に念写機とメモ帳をこちらに見せる。
メモ帳に書かれていた文字に目を通し、写真を見ながら頭の中で読み上げる。
『サマータイガー・ブルース』
日が傾き始める夕方の命蓮寺。客間として使われている一室で、封獣ぬえが聖白蓮に説教をされている。
ぬえは一応は正座したまま不満げにあちこちに目線を逸らし、聖が時折手元の櫃を叩いて注意を向けさせる。
廊下からそれを覗き込むのは雲居一輪と村紗水蜜と幽谷響子と姫海棠はたて。
各々誰のせいでこうなっているであるとか、聖の手元の櫃について会話を交わす。
じきに説教をされていたぬえが入口の面々に気づき、説教そっちのけでそちらを指さす。
「あっ、一輪このやろー! お前が余計な事言うからこんな目にな」
「えっ、私?」
「なんか、住職さまも大変ねえ」
「ちょっと、さすがにこれは駄目よ」
「おい、こんなとこ撮るんじゃないよ!」
「ぬえ!」
説教の最中によそ見をしたぬえを叱り、聖が喝を飛ばす。
そうして振り上げた手が櫃を叩き。
木目が割れる音に続いて、甲高い音が鳴った。
一瞬の静寂の後。
「宝塔がー!」
命蓮寺の客間は大騒ぎになった。
19日 雲居一輪 10:00 AM
肌を伝う汗を感じながら、遠くで蝉の声を聞く。
その音色は夏のピークを示す音ではなく、晩夏に聞こえる「ああ、そういえば夏の終わりはこの鳴き声がした」と感じる方のものだ。
種の名前は忘れてしまった。隣を歩く村紗に訊ねようか少し首を向けたが、正答を期待できず、対して楽しい話題になりそうもないためすぐに引っ込めた。
残暑の日差しを真っ向から浴びながら、二人で黙々と人里を歩く。
「あっつ。今日に限ってなんでこんな天気なのよ」
隣の村紗が先に音を上げ、首周りをばたつかせて空気を取り込みにかかる。人里の外れまで来て行き違う人も減ったために人目を気にすることが無くなったのだろう。
「さっきまでのキビキビした村紗はどこいったのよ」
「あれはオンの時だから。今はしばらく命蓮寺モードはオフ」
夏の暮。私達は人里への挨拶回りに来ていた。とはいっても日中の訪問であるために大抵が老人の話し相手になるくらいで、私はオンオフスイッチをいじるほど、気合を入れる行事でもなくなっていた。
「星も来てくれれば私が喋らなくても済むのになあ」
名前の挙がった星はといえば、午前中は寺で聖の手伝いをしているはずだ。午後の一件、ちゃんとした有権者への訪問だけ来る予定になっていた。
「午前中はあと一軒だっけ。まだ時間もあるしゆっくりしてこうよ」
私が最近お気に入りの腕時計を覗き込むと、移動時間を加味しても一服する時間はありそうだった。
村紗が氷菓子が食べたいと言うので、目に留まった屋台の方へ歩を進める。移動販売式の屋台の近くには簡易椅子が並べられ、すでに5、6人のグループが卓を囲むように座っていた。
その中の一人に、目が留まった。
「ああ、あそこにも年中オフのやつが居る」
私が軽く指を向けた氷菓子屋の先では、黒髪の妖怪が騒いでいた。こちらに背を向けているので顔は見えないが、背中で揺れる赤と青の羽根には見覚えがあった。
周囲に無害そうとはいえ妖怪を並べて大きめの声で語る様子は迷惑行為とまではいかないが、ここの店主が妖怪に理解があることと、立地的に混んでいないからこそ放免されている様子だ。
「ぬえ、公共の場でうるさい」
屋台の店主に声をかける前に、村紗がその背中に声を飛ばす。
話の途中で振り返った妖怪は、こちらを不思議そうに眺めた。
「あれ、村紗に一輪じゃん、こんなとこで何してんの」
「姐さん代理の挨拶回りよ。今朝話してたの聞いてなかったの」
「私は日夜妖怪としての格を高めることで頭がいっぱいなのだよ」
その様子と周辺の様子からするに、子分妖怪に何やら高説を垂れているようだ。注文は村紗に任せ、ぬえ達と一つ離れた島の椅子を引いて座りこむ。背もたれに身を預けると、樹脂製の椅子がキシリと鳴った。
「悪いねおっちゃん、うちの知り合いがうるさくして」
村紗の言葉に対して店主は気を悪くしなかった。
むしろ隠れ妖怪である店主は、彼女が語る妖怪の今後と己が編み出した技術に面白く耳を傾けているのだという。
私がぼんやりと話を聞くに、おおよその内容は自らの能力の昇華と成長、ひいてはそれを利用した計画の話。話の節々で、周囲の子分が感銘を受けたようにまばらに頷く様子が見える。
「あいつ信徒じゃなくて研究者にでもなったほうが良いんじゃないの」
会計を終えた村紗が冷たいお茶二つとアイスを手に戻ってきた。小銭を渡してからテーブルが綺麗に吹かれているのを確認し、肘を着いて麦茶を喉に通す。
「現状ですら、修行僧か怪しいけどね」
「独立前に捕まること始めなければいいけど」
「確かに」
半分要る? と村紗が差し出してきたふたつ折りアイスの半分を受け取り、蓋の部分をねじ切って口に運ぶ。
刺激にならないよう少しだけ吸い出してから、ちらと横目で腕時計を見る。
次の約束まで十分に余裕はある。
気を取り直すように咳払いをし、子分妖怪への高説に戻ったぬえの公演は、時間を潰すのに最適そうに思えた。
19日 幽谷響子 1:20 PM
午後の太陽が作り出した狭い日陰に、僅かに熱を湛えた晩夏の風が吹き込んだ。
命蓮寺の門前を掃除していた私は階段下からの熱気に眉を潜め、門裏の日陰へ移動する。風向きの関係か、涼しい場所を見つけて転々と移動すれば、今日の暑さはそれほどでもなく、我慢できそうだ。
長めに続いた夏の気候は一段落しつつあるが、夏の終わりにもう一度暑くなるのは毎年のこと。今年はまだ、アブラゼミさんも鳴いているようです。
「かといって、木陰は木陰で」
気を紛らわす為に口にしてみたが、堪えられなかった。
爽やかな風と、ぼんやりする温度差と、お昼ご飯の直後。眠気を誘う要因が重なり、あくびが出てしまう。
一応敷地の隅を向いて誰にも見えないようにしたが、振り返るとすぐそこまで寅丸様が歩いてきていた。
「御苦労様です響子」
「わわ、御苦労様です」
慌てて深めに礼したものの、寅丸様は私のあくびに気づいていなかったようだ。私が慌てている理由が分からず、きょとんとして、不思議そうな顔をしている。
自白する理由もないのでその事実は伏せたままにし、寅丸様が門前まで来た理由を思い出してみる。
「今日、人里の巡礼でしたっけ」
「ええ、午前中に聖の仕事が一区切り付いたのです。次はそちらも手伝ってあげないと、一輪たちに怒られてしまいます」
そうは言うものの、私は一輪さん村紗さんが寅丸様を怒る姿が想像できなかった。私が想像できたのは二人が頬を膨らませ冗談半分に不満を言い、真面目に受け止めた寅丸様がおろおろとする姿だった。
「しかし里に着くまでにしゃんとしませんと。お昼の後は、流石に」
そこまで言うと寅丸様は目を細め、口元に手をやって眠たそうにしている。
「寅丸様がそうされては、私まで」
ふわ。
同じように口に手をやり、向かい合うのも変なので、何となく同じ方向を向いてあくびをしてしまう。隣からは小さく、気持ち良さそうに息を吐く音も聞こえる。
口を閉じようとしたとき。
しゃらん、という機械音。
はっとして音のした方向を見ると、手元に念写機を持ったお客人がこちらをニコニコと眺めていた。
「はたてさん、撮らないでくださいよう」
私が焦りながら口にすると、彼女は依然ニコニコとしながらこちらへ近寄ってきた。
「いい画が撮れたわあ、今の写真使おうかしら」
彼女は門徒ではない自由な天狗なはずなのだが、ここ半月ほど、被写体探しと称して連日命蓮寺の密着取材を繰り返していた。なんでも新聞記事ではなく、近々ある写真展に向けての準備らしい。
まさか本当に、今の写真が使われてしまうのではないでしょうか。
「門前であくびしてる写真なんて評判落ちちゃいますよ」
「そう? 親しみやすさが出て別に悪くないと思うんだけど」
はたてさんは寅丸様に意見を求めている。
案の定、寅丸様は曖昧に言葉を濁し、最終的に僅かな肯定に落ち着く。ずるいですよう、否定しない寅丸様に話を振るのは。
寅丸様は二言三言私に言葉をかけると、ポーチの中を確認し門の方を向いた。
「では、行ってまいりますね」
私とはたてさんの方に手を上げ、寅丸様が門を出ていかれる。
ここから人里までは、歩いてなら一時間弱と行ったところか。
「よりにもよって、こんな暑い時間帯にね」
はたてさんが腕時計を覗き込むのを眺めながら、掃除を再開する。
はたてさんがこちらに念写機を向けるので、少し意識してきびきびと掃き掃除を続けた。
19日 幽谷響子 2:00 PM
他に撮るところは無くなってしまったのか、引き続きはたてさんが後ろを着いてきながら、適度に雑談しつつ、なんとなく掃除を手伝ってくれている。
客間に移る前に居間をはたきで掃除していると、廊下の方に人影が通り過ぎ、その後ろを追うようにもくもくと雲が飛んでいた。
「あ、雲山」
私の呼びかけに雲は緩やかに減速し、ひげを蓄えた顔がこちらを振り向いた。
「今日は一輪さんと一緒じゃないのね」
雲山は頷き、低い声を響かせた。正直何を言っているのかはちゃんと聞き取れなかったが、先を行く聖様を振り返る目線から、寺内の力仕事を手伝う予定なのだろう。
「雲山はこっち担当か。もしかしたら、雲山が周ったら人里の人たち驚いちゃうかもしれないしね」
私の言葉に困ったような、寂しそうな顔をした。
「冗談。お手伝い頑張ってね」
雲山は二回ほどぱちくりと瞬きをすると、うむと言ったようにひとつ頷き、こちらに背を向け再び廊下を進んでいった。
「雲山との交信はうまくいったようじゃの」
背後からの声に私が振り返ると、いつの間にかマミゾウさんが手を掴めそうな距離に立っていた。
「儂が側に行くとなんか煙たがられるし、一輪が居ない間は通訳なり仲を取り持つなりしてくれんかの」
「どちらかと言うと、マミゾウさんが原因なのでは」
私の言葉に返事はなく、不満げに唇を尖らせている。
彼女の背後には床を傷つけないよう靴下を履いた子分の狸が二、三匹ついているのみで、他に人影はない。
「今日はぬえさん一緒じゃないんですね」
「儂はあやつのお守りじゃないんじゃよ」
マミゾウさんは団扇で仰ぎながら、うんざりしたように零した。
「どこぞで寝こけてるか恐怖を集めとるか、はたまた酒でも」
そこで「おっとと」と言葉を止めた。
命蓮寺は僧の集まりのため、私も含めて基本的に、できるだけ、表向きは禁酒の令となっている。そんな中ぬえさんは堂々とお酒を持ち込んだり酔って雪崩れ込むことが多く、聖様に怒られることが多い気がする。
今少しマミゾウさんが漏らしてしまったが、またきっとどこかにお酒を持ち込んでいるのだろう。聞こえてしまったものの、告げ口でもしたらまた怒られるんだろうなあ。
マミゾウさんは袖に突っ込んでいた手を出すとおもむろに煙管を咥え、既に草が詰まっていたのか、火をつけた様子もないのに自然に煙が立ち始めた。それから当たり前のように、居間の方へと歩いていく。
「あっ! マミゾウさん、煙草は外で!」
「はいはい」
私の言葉にくるりと踵を返し、マミゾウさんは縁側のぎりぎり、煙が外へ立ち上るかどうか境目のところに立って煙を吹き始めた。
私は屋外禁煙を見届けると居間の掃除へ戻るべく向きを変える。隣に居たはたてさんが何か言いたげだったので、一度そちらへ顔を向けた。
「響子ちゃんも苦労人ね」
「ナズーリンさんほどじゃありませんけど」
本心だったのだが、はたてさんは何を気に入ってくれたのか、私の頭を撫でる。
彼女は念写機のレンズをこちらに向けることはなく、メモと一緒に持っていることから、念写機の中身を確認をしているようだった。
「撮った写真の確認ですか」
「うん、結構溜まって来たし、どれ使おうかなって」
「そういえばまだ見せてもらったことないです。どんな写真撮ってたんです?」
「良いと思う写真、選んでみてよ」
念写機を持たせてもらい、代わりにはたてさんが私の手からはたきを受け取ったので両手で画面を覗き込む。ここ押すと順に写真見れるから、とはたてさんの指が伸びてくる。
言われた左右のボタンを押していくと、はたてさんがここ数週間撮った写真が表示されていく。
私は写し絵の心得も浮世絵の心得も無い素人だが、率直に言って、見づらい写真が続いた。
写真の中心から人物が外れていたり不自然に距離が近くはみ出していたり、逆にぽつんと距離が遠かったりする。せっかく人物が真ん中に写って距離感が良さげな写真でも、手振れが激しく顔や輪郭が滲んでしまっていた。
「はたてさん、もしかして、念写じゃない写真練習中です?」
「わーん、敬語が逆に辛いわあ」
はたてさんはわざとらしく天を仰ぎながら、はたきを大げさに振り回して見せる。
「あ、でもさっきのこれはお気に入りよ」
彼女は再びはたきと念写機を交換すると、いくつか操作した後、私に画面を見せた。
私と寅丸様が並んであくびしてる写真だ。
「こんな写真、外部に見せられませんよ」
「良いと思うけどなあ」
はたてさんは両手を広げ、天を仰いで私を説得にかかる。
「こう、『あーあ、夏だー』っていう、アンニュイな感じが出てるというか」
私は正直、ピンと来ていないのですが。
「アンニュイさを求めるのであれば、命蓮寺は取材先としてあまり合わないのでは」
「ひー、キビシー!」
はたてさんの楽しそうな声が、午後の命蓮寺を和ませる。
19日 雲居一輪 4:45 PM
日が傾き始める午後。
予定していた訪問は星を加えた三人で無事に終わらせ、帰路に着くとなったとき。私は別の用事があるからと現地解散し、単身で妖怪の山に向かっていた。
速度を落としながら「私、ちょっと寄り道してくから先帰ってて」と別れた際の、村紗と星の表情を思い出す。面食らったような表情をして顔を見合わせてから「ヒミツの友達?」と話した。残念ながら、そんな面白い話でもない。
到着したのは妖怪の山、職人工房の一角。今日も例にもれず、場所柄多くは山童だが、様々な妖怪が露店を出していた。
その一つ、最近馴染みの彫金屋に顔を出す。
「山城たかね、居る?」
私の呼びかけに応答するものは居なかった。代わりに、カウンターで舟を漕いでいた山童が顔を上げ、目を擦る。
顔を上げたのは、私の探していた山城たかねではなかった。が、たまに店で見かける山童だった。
「おお、雲居の姐さん」
代理で店番をしていたであろう山童は大きくあくびをし、それから遅れて、来店の挨拶を告げる。
「ああ、荷物の受け取り? 頼んでたものは入ってるよ」
店番山童は愛想よく微笑むと、棚から紙袋を引き出し、カウンター越しだが底に手を添えながらに私に差し出した。
受け取った拍子に中身が傾き、軽い金属音を立てる。
上から覗き込むと、簡単な彫金用の工具、片手サイズの板金数種類、指導本が揃っているのが見えた。サービス精神か、掃除用のブラシまで付いている。
「なんか寺の装飾でも作るの?」
店番の声に顔を上げると、私が回答するより前に、彼女は笑って表情を崩す。
「いや、姐さんなら小手か何かかな?」
「あんた、仮にもお寺の尼さんになんてこと言うのよ」
ただ興味のある趣味を増やしたかっただけです。
踏ん切りが着いた切っ掛けが、日ごろ各所で高説して回るぬえだとは、とても言えない。
会計を終えたところで、先日来た際も店番代理と話していたことに気づく。
ここは山城たかねの店であるはずなのに、数日前から彼女を見ていない。
「たかねは今日も居ないのね?」
店員も首を傾げた。
「なんか秘密の仕事で忙しいらしいよ」
やばいことに手出してなければいいんだけどねえ。と店員は無関心にお金の計上を続ける。
河童や山童の取引先は妖怪の山に限らず人里に隠れて仕事を降ろしてる場合もあるし、聞かぬが花かしら。
「なんか言伝しておこうか?」
「ううん、いいわ。集中させてあげて」
店員に礼を良い、妖怪の山を後にした。
19日 雲居一輪 5:40 PM
山での買い物を終え命蓮寺の門をくぐる。伝う汗に嫌な思いをしながら戸口へ向かうと、廊下を雲山が移動しているのが見えた。法衣を抱える様子を見るに、寺の方の力仕事に精を出しているようだ。
「おっす、雲山」
雲山はこちらに気づくと、私を労うように一つ頷いた。空を見上げる様子は、残暑の中ご苦労である、と言っている気がする。
「いいのいいの、私なりに自由時間を作ってやってるんだから」
靴を脱いで板間に横になりたい気持ちを堪えながら水場へと歩を進める。
「そうだ、人里に美味しい露店ができてたの。雲山の好きな氷菓子もあるから、今度連れてってあげるよ」
私の言葉に雲山は満足そうに目を細めてうんうんと頷き、気持ち速度を速めて、再び仕事に戻る。縦の揺れが大きい様子から、心なしか上機嫌に見える。
それから水場の冷たい水で手洗いうがいを済ませ、濡れた手で肌を叩いて温度を下げる。屋内では籠るだけだし、もう夕方であるし頭巾も取ってしまえ。
額にかかる髪を上げ、しばし放熱に努める。後から誰も来ないのを良いことにもう一度手を洗い、水の温度に加えて雫の気化熱で体温を下げにかかった。
束の間の清涼感を得た私が夕方の風を浴びながらゆっくり歩いていると、何やら客間の方が騒がしいことに気が付いた。
声からして、どうも聖がぬえを叱っているようだ。襖が開けっ放しなので廊下でも聞こえるし、村紗が首を伸ばして部屋の様子を確認している。
「姐さん怒ってるわね」
廊下から首を伸ばして部屋の様子を伺っていた村紗がこちらを振り向いた。
「ああ、一輪ここにいた」
「今回はなんで怒られてるの?」
私の疑問に、すぐに答えはなかった。間を開けて振り返った村紗は怪訝そうな顔をしている。
「あんたのせいでしょうが」
私の?
意味するところが分からず、きょとんとしてしまう。私が寄り道をして戻ってくるまでの間として、何をしたというのか。
何かを打ち鳴らす音に、軽く飛び上がり、二人して部屋を覗き込んだ。
大方の予想通り、説教の最中に不真面目な態度を見せたぬえに対して姐さんが手元の櫃を叩いて打ち鳴らしたのだろう。
おや。
あの櫃、見覚えがある。
「ねえ村紗、姐さんの手元の櫃ってさ」
村紗も気が付いたのか、少し神妙な声を出す。
「宝塔しまってるやつじゃん」
なんであんな手元に、と。
私が呟くと、背中から遠慮がちな声が聞こえた。
「あれ置いて離れちゃったの、私なんです」
振り向くと、私の背後に響子が居た。先ほどまで私がそうしていたように、人影に隠れるようにして部屋を覗き込む。
「今日の里回り、星さんは宝塔は持ち出さなかったじゃないですか」
星の姿を思い出しながら、私は頷く。村紗も「うんうん」と声に出して頭を二度振った。
「掃除の際に客間の祭壇に置いておいてくれと言われたんです。それで祭壇のお掃除をしていたら聖様とぬえさんの怒鳴り声が聞こえてきて」
大方予想が付いた。
「それがどんどん客間に近づいてきて、咄嗟に響子だけ部屋を離れて、櫃はそこに置きっぱってわけね」
「置きっぱってわけです」
響子は神妙に頷くと、心配そうに部屋を覗き直した。
「あれ、割れませんかね」
響子の言葉に、会話が止まった。
彼女の言葉は、櫃が、という意味だろう。
櫃ごと、と言いたいわけではあるまい。
「いや、まさか」
私の前の、村紗が後頭部を振りながら答えた。息遣いは笑っているが、声色に余裕はない。
私も同調したが、少し声が上擦ってしまった。唾をのんで息を整える。
「なになに、何の騒ぎよ」
声とともに、背中に衝撃を感じた。
振り返ると、はたてが響子の背によりかかるようにして顔を覗かせていた。
「ちょっと、うちの日常というか、舞台裏というか」
今やお説教中の部屋の外には覗き込む影が四つ。村紗、私、響子、はたてと縦に並ぶ。響子だけならまだしも、はたての体重が加わると、村紗にも寄りかからざるを得ない。
ぶれた目線の中で、向かいの戸口からは雲山が同じように客間を覗き込んでいることに気が付いた。何か言いたげに、客間と私たちの方を見比べている。意図は分からないが、少し隠れるようにして伺う雲山は珍しい。
「ちょっと、一輪、重い」
私たちの会話の声で気が付いたのか、ぬえがこちらに文句を付けた。
「あっ、一輪このやろー! お前が余計な事言うからこんな目にな」
「えっ、私?」
余計なことを言った? いつ?
疑問は浮かんだが、目の前の状況に、自分のことを優先すべきではないと頭が訴える。
「ぬえ、よく分かんないけど今は静かにしなって」
「こらぬえ!」
逸れたぬえの気を、聖が目線を戻させる。
言いたいことはあるが、目の前の聖がそれをさせてくれない。そもそも、怒っていること自体は誤りではない。そういった苦悶の表情をぬえが見せる。
「なんか、住職さまも大変ねえ」
あっさりとした物言いだが、目の前の状況はある程度彼女の関心を引いたのだろう。隠し撮りする様子ではなく、自然にはたての念写機が私の頭上を通り、ぬえと聖の方に向く。
咄嗟に手を伸ばして、レンズの部分を覆った。
「ちょっと、さすがにこれは駄目よ」
「おい、こんなとこ撮るんじゃないよ!」
ぬえもこちらの様子に気が付いたのだろう。ばっと立ち上がり、私、の背後のはたてに指を向けた。
「ぬえ!」
説教の最中によそ見をして立ち上がったぬえに、聖が厳しい声を出す。
それと同時に櫃を叩いていた手が、いっそう高く振り上がる。
普段から熱が入ると力加減を間違え、培ですら折ることのある聖だ。
かっとなって気を引くために振り下ろされる手の勢いはどのようなものか。
スローモーションのように全てが見えた。
案の定、櫃がひしゃげて、ひびが入ったのが見えた。
それから、聖の手がさらに沈み込み、櫃は蓋ごとあえなく砕ける。
続く、漆の箱が割れたにしては、甲高い音。
櫃の板と一緒に四散した破片の中に荘厳な意匠が刻まれた金の板金があり。
聖が手を上げると、そこには粉々になった透明硝子とどこかで見覚えのある金細工が散らばっている。
聖と、ぬえと、私と村紗と響子とはたてと。
全員の目線が一点に集まった。
まさか。
「宝塔がー!」
最初に声を出したのは響子だった。
それから雲山の居た戸の方から顔を覗かせた星が現場を目撃し。
宝塔を砕いてしまった事実に聖が卒倒し。
自分のせいではないと声高らかにするぬえ。
背後で必死にはたての念写機を取り上げる村紗。
ピリピリした説教の空間から、客間は一転して阿鼻叫喚の場と化した。
介抱に奔走する雲山。目を白黒させるしかない星。
前代未聞の非日常が目の前で繰り広げられる中、私は茫然とするしかなく、呟いた。
「……どういうこと」
20日 雲居一輪 0:30 PM
居間のちゃぶ台の上には、大小様々になってしまった宝塔の欠片が並べられている。
まだ原型の残っている外装の凹みを金づちで叩き、溶接すれば外観は戻せるところまで形状を整える。
まさか始めようとしていた彫金の、初仕事が宝塔の修繕だなんて。
初めは手伝おうとしてくれた村紗とぬえも、早々に嫌気がさしちゃぶ台に頭を乗せぼんやりとこちらを眺めるだけだった。マミゾウに至ってはものの数分で煙草をふかしに廊下に出てしまい、こちらを見てすらいない。同じ空間に座しているだけだ。
「星は?」
「聖の代役で通常業務中」
「はたては?」
「これが撮られないよう、星に押し付けてある」
ぬえと村紗の報告を聞きながら進めた作業も一段落したが、次なる部品を手に取る前に金づちを置く。まだまだ部品はあるものの、あまりの悲惨さに手が止まる。
団欒にしては重苦しい空気。
打開する話題もなく停滞しているところに、客人が現れた。
「おう一輪の姐さん」
対面の村紗を避けるように身を傾けると、迷彩柄のコートに身を包み、バッグと脚立を抱えた山童が居た。門徒ではない。山城たかねだ。恐らく瓦の修理か何かで呼ばれたのだろう。
「昨日門番に渡したあれはどうだったよ?」
あれ、とは?
「結構な出来栄えだったろう? 開いた口が塞がらないってか」
「あれって、何の話?」
私が解せずにいると、たかねは手を振った。
「いや、そうだな、どこで聞いてるか分からないから、あまり口にするもんじゃないな。悪かった悪かった」
彼女は何やら一人で納得すると、これからもご贔屓に、と気さくに離れていった。
「……なにあれ?」
「さあ」
ちゃぶ台に伏したまま、村紗が訊ねる。私としても分からない。
数日見ないと思ったら、妙なことを語るようになった。上機嫌なのは間違いないが、いったい何があったというのだろう。
「さて、儂はどうするかの」
縁側で煙草をふかしていたマミゾウが億劫そうに立ち上がる。
「外をぶらぶらしたいものだが、雲隠れされたと思われるのも癪だしの」
「ねー、じゃあナズーリンの様子見てきてよ」
ぬえの言葉に対してマミゾウは思い切り背伸びをし、聞こえなかったふりをして廊下の向こうへ消えしまった。
仕方なく顔を合わせる私たち。
じゃんけんの結果、村紗がナズーリンの様子を見に行くこととなった。
20日 ???? 0:40 PM
午後の合同訓練を前に眠い目を擦って廊下を歩いていると、先輩たちの話し声が聞こえてきた。
開け放たれた縁側の戸を覗き込むと、庭先に謎の大型機械が置かれていた。
「え、なんですか、それ」
靴に足を通し近づくと、先輩の一人がこちらを振り返った。
「分かんない。あんたも知らないんだ。午後使うのかな?」
様子からして、先輩たちは誰も知らないようだ。
先輩たちが口々に話し、興味深そうに謎の機械を覗き込む。
「朝こんなのあった?」
「地上の持ち物?」
「ここなんか座れそうだよ」
外観から分かるのは、両手を広げた以上の直径を持つ円筒形。中身がくりぬかれていて、どうやら妖怪が座れるスペースがあるらしい。
私も興味があって覗き込もうとしてみるが、背中で見えない。
「ねぇ、これって……じゃない?」
「まさか、誰かの悪戯でしょ」
「でもほらここ……で……じゃん」
「あ、ほんとだ、そしたらここ……」
先輩の一人が深刻そうな声を出し、急に皆声量を絞ってひそひそと話し始めてしまった。会話の内容が聞き取れない。
「あの、ちょっと、見えないです」
私が後ろで飛び跳ねても、内緒話する輪を解いてはくれなかった。それよりも、目前の機械に興味を惹かれているようだ。
「まさかそんなねえ」
話が一段落したのか、急に声量が戻り、会話の輪が解かれる。
皆笑ってはいるが何か面白いものを見たというよりも、信じられない、と眉唾で話すときのような笑い方だった。
「なになに、どうしたんです?」
静かになったところに私の声だけが流れ、先輩の目線がこちらに向いた。
「え、え、なんです?」
先輩の一人が私の隊員番号を読み上げた。
「はいっ!」
反射的に背筋を伸ばして応答する。
「ちょっとこっち来なさい」
「はっ!」
続けて反射的に前へ歩を進めると、くすくす笑う先輩に手を引かれ得体のしれない機械に近づく。
「そうそうそう、そこに座って、このレバーに手をかけて」
流れで座席に座らされてしまった。流石に狼狽して口を挟むタイミングを伺っていると、別の先輩が目前のダイヤルに手を伸ばす。
「じゃあ我らの後輩ちゃんが旅立つのは……このあたり!」
ロール紙を回すように、適当に二桁のダイヤルを弄ったのが見える。
元は漢数字が書いてあったと思うが、その数字は覚えていない。先輩も根拠なく回したのか「これいつの時代か分かる?」「あたし暗算苦手ー」と話すのが聞こえる。
「先輩がた、やっぱりやめましょうよ! 月童さんの私物かもしれないですし」
「地上だから河童とか山童って言うんじゃない?」
「へー、安直な名前」
だめだ、一番後輩の私に耳を傾けてくれる人がいない。
よく見えなかったが足元にも機材があったのだろう。身を乗り出した拍子に足元がつっかえ、咄嗟に何かに手をかけてしまった。私を無理やり座らせていた先輩が反射的に手を引いたのが分かる。
「うわっ!」
右手が何かを引き下ろし、、がしゃんと音がした。
何か動かしちゃったじゃないですか。
顔を上げて口にしようとしたが、言葉は出てこなかった。
ぽかんと口を開けた先輩の顔が、ぐにゃぐにゃとゆがみ始める。
先輩なんですかそれ。次の一発芸ですか。
目線を走らせると、背後の屋根や雑木林までが大きく歪んでいるのが見える。
あ、先輩がぐにゃぐにゃしているわけではないのですね。
やけに冷静に考えていると、お腹がふわっとするような感覚の後、地面に吸い込まれるように視界が歪む。
一際周囲が輝いたかと思うと、先程までと同じ夏の日差しが目を細めさせた。
「うへぇ、演出にしては過剰ですよ」
目を開くと、先程までと同じ木目張りの廊下と畳の部屋が見える。ただ、そこには先程までの先輩方の姿はなかった。
「あれ、先輩?」
機械から降り、渡りを見回す。一瞬にして音もなく隠れてしまったのだろうか。
「訓練、ですか?」
隠密訓練万年赤点の先輩も?
恐る恐る、縁側へ近づく。靴を脱ぎ縁側から上がり込むと、どこかよそよそしさを感じ、屈んで靴のつま先を外に向けた。
木目の板が私の体重できしみ音を上げる。広がる庭先にも、謎の機械の周囲にも、依然、視界の中に先輩たちの姿は見えない。
じわじわという蝉の声を聞きながら木目張りの廊下に立ちつくす。
私が立つのはつい先程と変わらぬ木造建屋。辺りを見回しても、廊下の先には見覚えのある階段と
目の前の畳部屋。少し物が少なく片付いているだろうか。
壁にかけられたやけに古典的な紙のカレンダー。
仄かに香る線香の香り。
客間の中にちょこんと設けられた祭壇。
まさか、ここは。そして、あの装置は。
背後の機械に向けよろよろと足を進め、廊下に立ち尽くす。
状況を察しつつある自分と、理解を拒む自分。それらのいがみ合いを鎮めていると、こちらに近づく足音には全く気が付かなかった。
背後の部屋を振り返ろうとして、廊下の先に並ぶ人影と目が合った。
20日 雲居一輪 0:45 PM
音を立てて戸が開かれ、村紗が居間に戻って来た。
部屋を出て行った時より足取りに元気がなく、既にグロッキー状態のようだ。先ほどまでと同じ私の対面に座り込み、残していったお茶を口に運んだ。
「ナズーリン、なんだって?」
村紗は上目だけでこちらを見ると、ため息をついてから、覚悟を決めるように息を吸い込み、一息で話し始めた。
「『宝塔が壊れるなんて前代未聞だ。君たちの起こしたことについて前例はない。これからどうするのか、加護はどうなるのか、分からないことだらけで私は頭が割れそうだ。考えることが沢山ありすぎて君に構っている暇がないのでそっとしていてくれないか。決して君らの処遇とかではないから安心してくれ、今私はそれどころじゃないんだ』」
「超言いそう」
「めっちゃ似てる」
「実際言われたんだって! 私聞かされたんだって!」
私とぬえが漏らした言葉は本心からの感想だったのに、疲労困憊の村紗は応じる余裕もなく悲鳴に近い声を上げた。
決して長い時間報告や問答をしていたわけでもないだろうに、村紗の言葉はナズーリンの特徴を良く捉えていて、人づてに聞いた私たちですら彼女の表情が目に浮かぶようだった。それだけプレッシャーを感じ、記憶に刻まれたのだろう。
「それで、そっちはどうなのよ?」
村紗の言葉に、私たちは顔を見合わせる。
これだけで、宝塔の調査は芳しくないことは分かってもらえたようだ。
「土台の部分はひしゃげてるし、灯篭の部分はどっか飛んでっちゃったみたいだし」
私としてもこれ以上打つ手はなく。あまり見ていたくはない代物なので、別の櫃に保管してしまった。
「さっき通りがかったけど、星は見たら眩暈がするっつって引っ込んじゃうし。しきりに『宝塔ってこんなになっちゃうんですか』って呟いてたよ」
胡坐をかきながら毛先をいじるぬえは気もそぞろに星の発言を復唱する。
「直せるかっていっても、私らもまじまじと宝塔見てたことないもんね」
目の前の元・宝塔の入った櫃に目を落とす。なんとなくそれを眺めながら話す気になれず、立ち上がって場所を変える。すぐに立ち上がったことから村紗も同じ感情だろう。
三人で廊下を歩きながら、ぬえは「こんな時にアレがあれば」と憎らしげに呟く。
「もーっ、あたしの"鬼酔わし"誰が盗んだのよ」
「まだ言ってる」
歩いているとぬえが何やら不満を述べた。どうも隠れて持ち込んだ酒が、いつの間にか無くなっていたことを悔やんでいるらしい。あまりに何度も呟くものだから、村紗の応対も片手間になっている。
「つーかほんと、一輪が余計なこと言わなければあたしは叱られずに済んだのに」
「何度も言うけど、何のことかさっぱりなんだから」
こちらも今日何度目の会話か分からない。
「また言ってる」
村紗が今度は、私の方を横目で見ながらおざなりに呟く。
一話題終わる度にぬえが不満を述べ、誰か分からない犯人に文句をつける。理由も分からず私とぬえが少し険悪になり、村紗は知らんふりを決め込むように先を歩く。それから数歩遅れ、私とぬえが続く。今日一日の中で、既に何回か行われたリプレイのようなやり取りだ。
「ったくもー」
ぬえが不満の声を上げながら、叱られた、そして宝塔が割れてしまった客間へ足を進める。
廊下を進み、右側の襖を開ければあの客間。対して左手の戸を開ければ縁側と禄に手入れされていない裏庭に続く。
晴れた夏場は戸を開放しているのが殆どで、熱の籠もった空気が流れていることから両方が開け放たれているのが角を曲がった辺りで分かる。
前をゆく村紗がはたと足を止めたので急いで止まり、村紗と、その前方に注意を向けた。
開け放たれた裏庭とを客間を結ぶ、その廊下に人影があった。
ぱっと見のシルエットから一瞬響子が居るのかと思ったが、その横顔ですぐに別人だと気が付いた。謎の人影は裏庭の方をぼうっと眺めており、こちらに気付く様子はない。村紗は声をかけず、先に近付くことに決めたようだ。
しかし数歩進んだところで、村紗が歩みを止めてしまった。
「え」
彼女は裏庭の方に目線をやりながら、声を漏らす。
村紗の声で人影の方もこちらに気が付いたようだ。はっとして振り返った仕草は『待っていた』という様子ではなく、どちらかといえば『遭遇してしまった』というように見える。
「……門徒の人?」
「あっ、えっと」
私の言葉に、明瞭な回答は返って来なかった。
背は低く、私より目線は下で、ぬえよりも背が低いかもしれない。
揺れる薄い青色の髪は短く、おでこが出ていて随分あどけない印象を受ける。頭頂部から垂れる短い毛の耳は、兎妖怪の耳だろうか。
紺色の洋服は竹林妖怪のブレザーに似ているが、随分と特殊な服のようだ。じっと立っているだけで服の模様がゆらめき、胸元のバッジのような金属部も黄色やら赤色やらに色が変化して見える。
「誰あんた」
「ひぇっ」
ぬえの威嚇するような声に、少女は身を竦め、瞳はあからさまに怯えの色を見せる。
命蓮寺には馴染まないブレザーに身を包み、私達の間に目線を泳がせて震えるこの小動物的な妖怪。果たして、私はどこかで会ったことがあるだろうか。
「ちょ、ちょっと失礼します!」
私が記憶を辿っていると、沈黙に耐えられなくなったのか、少女はぴょんと庭先に飛び出してそこに並べてあっただろう靴を突っかける。私達が呼び止める間もなく、庭石を踏み鳴らすのも気にせず物陰の方へ駆けていってしまった。
追いかけた目線が、ある一点で吸い寄せられる。
「空き巣かよ!」
ぬえが声を上げながら私と村紗を押しのけ走り出す。
棒立ちする私達を不審に思ったのか一度振り返り、僅かに歩を緩める。そのまま私の目線の先を追うと、ぬえも困惑した声を上げて立ち止まってしまった。
「……何これ」
開け放たれた戸からは本来、最低限の手入れで済まされ続けた広めの庭が望めるのだが。
庭先には一間程の幅を有した銀色の炊飯釜のような機械が鎮座していた。
20日 雲居一輪 1:00 PM
ぬえに続きながら草履に足をつっかけ、恐る恐る謎の機械へ近付く。
縁側から十歩ほどの場所に鎮座する機械は、あと数歩を残した距離でも十分に存在感を感じさせる。
釜のような太った円柱状の形をしており、底面から張り出した簡易な金属棒が本体を支えている。つばの部分に触れてみるとさほど熱は溜め込んでいないが、指で摘んでみても簡単に曲がる様子はない。両手を広げても足りない直径であることから、重量は相当にありそうだ。
「なんか、エンジン? みたいなの付いてない?」
ぬえと私に続いて来た村紗が遠巻きに背伸びをしながら機械の中央部を覗き込む。
釜の中身は発行や振動こそしていないが、黒々とした機械と太いコードがあちこちに詰め込まれている。
中央には半畳ほどだが機械の詰まっていないスペースがあり、命蓮寺を向いた方向を正面として、背面側からは縦に長くした座椅子の背もたれのような支柱が立っている。天井やカバーの類はなく、編笠のような天板がせり出しているのみ。
簡素な作りの割りには一部には装飾が行き届き、先のエンジン部との差が激しく、何者かが単身で製作したものとは思えない。
興味を惹かれたぬえが足元や天板を触り、機械の裏側まで顔を突っ込んで覗いていると、縁側の方から新しい声が聞こえた。
「えっ、何これ!」
「……はい?」
聞こえてきた声に振り向くと、通り掛かったはたてと星がこちらに興味を向けている様子だった。
片や面白がって念写機を構え、片や理解の及ばない異物の登場にぽかんとしている。
「おや、皆さん集まってどうしたんです?」
掃除で庭先を歩いていた響子も我々に気が付き近づいてくる。それから興奮にも似た驚きの声を上げ、尻尾をパタパタとさせながら興味深げに眺め始めた。
「いったいこれは……誰かの悪戯ですか?」
皆の様子を見て私物ではないと判断したのだろう、星が探るように、辺りを見回しながら溢す。釜の下を覗き込んでいたぬえは自分が疑われていると勘違いし、頭を抜き出すと縁側の方に顔を向ける。
「誰って、私じゃない……あっ!」
途中で気が付いたのだろう、ぬえが声を上げ、先程妖怪が走っていった方向に顔を向ける。
「あの兎妖怪の悪戯だろ!」
その存在を知らない星と響子とはたては顔を見合わせ、首を傾げている。そんな妖怪が身近に居たっけ? という様子だ。
「不法投棄、っていう感じ? でも、オブジェにしては完成品だし、趣味的には妖怪兎より河童や山童っぽいなあ」
村紗の呟きを聞きながら、機械の正面内側を覗き込む。
制御用のような正面の機械にはレバーと三つのダイヤルがある。
レバーは座った際に手をかけやすそうな位置に、斜めに突き出している。前後どちらにも倒せるようになっており、溝の横に文字が彫り込まれている。奥側は『FUTURE』、手前側は『PAST』と書いてあるようだ。
「ねえ一輪、こっち」
村紗が怪訝そうな声で私の注意を惹く。
「これ、年と月と日って書いてない?」
村紗が指さしたダイヤルの下には、後付されたような樹脂カバーが付けられており、そこに書かれている綴り字は『YEAR』『MONTH』『DAY』と読める。
突如現れた謎の機械。
年、月、日。未来と過去。座席スペース。
これはまるで。
「タイムマシンみたい」
私の代わりに村紗が呟く。彼女の頭の中には私と同じ、最近読んだ漫画が頭に浮かんでいるのだろう。
「タイムマシン?」
ぬえがこちらの発言を拾い、首を傾げながら訪ねる。
「漫画とかフィルムでよくある、あれ。時間決めて未来とか過去選ぶなんて、まるで時間移動みたいじゃない」
村紗の説明にぬえは操縦席に身を乗り出し、納得した声を出しながらダイヤルをガラガラと回し始める。
当の村紗はと言えばあまりの突拍子もなさに「まあそんなもの、実際はありえないだろうけどさ」と手を振りながら否定する。
「じゃあ、記念撮影だけしておくか」
ぬえは機内から身を起しておもむろに響子に近づくと、竹箒をそこらに置かせ、腕を組んで機械の近くまで連れてくる。
「これ乗って、レバー動かしてみてよ」
「ええーっ!」
突然の被写体指名に、響子は驚きを隠せない。
「さっき興味津々だったじゃんかよ」
「はは、聖輦船の前にタイムマシンの運転じゃん」
「それとこれとは違うじゃないですかあ」
ぬえに引きずられる響子を見送りながら村紗が笑う。以前聖輦船の操縦を間近で見ていた際にねだられていたのだろう。巻き添えを避けるためか、村紗が縁側の方に戻ったので私も続く。
「ここから登れそうだから」
「土足、はしょうがないですよねえ」
響子は恐る恐るといった様子で機内のスペースに収まる。
機械自体の高さが少しあるため、普段より高い位置に響子の顔が来る。地面からの高さも加え、自然と操縦席の響子に視線が集中する。
「あのこれ、思ったより恥ずかしいんですけど」
「行先はどちらでしょう!」
村紗のガヤに響子はダイヤルの方を見てから吹っ切れたように返答する。
「一日過去です!」
先ほどぬえがいじっていたダイヤルの設定だろう。
「御武運を!」
「はい、御武運を!」
縁側の側に戻ってきたぬえは敬礼の仕草までして見せた。響子も自棄で応対しながら頬を膨らませる。
「もーっ、一回だけですからね」
若干の不満を感じさせながら、響子はレバーに手をかけてはたての方をちらりと見る。やらされるからには、一度で済ませたいのだろう。はたてが軽く手を振り、撮影側用意はできていると伝える。
「それじゃあ、行ってきまーす!」
がしゃん、と重い音がした。
次の瞬間機械から眩しい光が発せられ、たまらず目をつむる。
横の村紗と驚いたことへの不満を軽く言い合いながら、閃光が収まったのか確認しようとゆっくりと薄目を開ける。
私と、恐らく隣に並んでいた皆も目を疑った。
そこには謎の機械と響子の姿は跡形もなく、何もない庭先が広がっていた。
20日 雲居一輪 1:20 PM
響子が消えてしまった。
はたてがフラッシュを焚いたわけでもない。そちらを見ると、はたても庭先をきょろきょろして心配そうにしている。
「ねえ、消えちゃったように見えるんだけど」
私にもそう見えた。村紗や星も同じだろう。
「驚かせようとしてどこか隠れてるんじゃないの?」
「え、でもあの装置重たかったじゃん」
たまらずサンダルをつっかけ、村紗がぬえと庭先に出る。星とはたては後ろに回り込んでいないか振り返り、廊下を覗き込んだりしている。
あとは、屋根上とかだろうか。
私は星とは逆方向に廊下を進み、階段を上って客間の二階の方角へ向かおうとする。
すると階段を上がった日当たりの良い廊下に、マミゾウが座り込んでいた。外から差し込む日差しで子分を日向ぼっこさせながら、その隣で文庫本を読んでいる。
マミゾウは目線を上げると、私の表情を見て笑った。
「おう、どうしたそんなに血相を変えて」
寝そべって鼻提灯を膨らませる狸から、手すりの外に目線を向ける。廊下に日差しは差し込むが、壁が邪魔になって先ほどまで居た客間の庭先は見えない。
「響子、こっち来てない?」
「山彦娘が? いいや、見とらんが」
マミゾウは不思議そうな顔をしている。嘘はついていなさそうだ。
「探しているのならそうさな、逆に呼んでみるというのはどうじゃ? 儂が屋内で煙草を吹かせば、どこからか飛んで来るやもしれん」
冗談を言っているのか真面目に言っているのかは分からなかったが、マミゾウは片手に本を持ったまま器用に煙管を咥え、草まで詰めてを雁首を爪先で弾いてみせた。するとどういう仕組みか、うっすらと煙が立ち上り始める。
それからゆっくり息を吸い込むと、上方へ向け、美味そうに煙を吐いた。
それが原因だからではないだろうか、庭先の方が一度光り、再び向こうががやがやとし始めた。
「ほうら来た」
私はマミゾウに返事をするのも忘れ、階段を駆け下り来た道を走った。
私が戻ると縁側に身を乗り出した響子が肩で息をしながら息を整えている。皆に囲まれ心配そうにされているが、外傷の類は無いようだ。
「響子、大丈夫?」
私の声に響子が振り向く。こちらを見上げた頬から顎先に汗が伝った。この暑さで、というわけではなく、どちらかというと冷や汗のようだ。
「一輪さん、今日、人里行ってないですよね?」
「は?」
響子の切れ切れの声から発せられた内容に、拍子抜けした。
「寅丸様が人里行ったのは昨日で、今朝はナズーリンさんが大変で、さっきこの装置見つけたんですよね?」
私が困惑して目線を外すと、村紗と目が合った。その目線は「さっきからこんな調子だ」と語っている。
「落ち着けって、どうしたんだよ? ていうか、どこ行ってたんだよ」
柱に片肘を着いて様子を見ていたぬえが、響子の背中に言葉をかける。口調はぶっきらぼうだが、ぬえも理解できない状況に、少し焦っているように見える。
「……昨日です」
え。
がばりと立ち上がった響子は吹っ切れたように、謎の装置を指さした。
「これ乗って、昨日に行っちゃってたんです!」
ぬえも響子の鬼気迫る様子に何も言えない様子だった。
この装置で、響子が昨日に行った?
「光が収まったら誰も居なくって、皆さんを探して門の方に行ったら寅丸様が居て、声かけようと思ったら、寅丸様が門前で私と話してたんですよ!」
名前の挙がった星を見ると、確かに昨日、出発前に響子と立ち話をしたと述べた。
その昨日に、響子が行ってしまった?
事態を呑み込めずにいると、思い出したようにはたてが声を上げる。
「そうだ、これ見て!」
目線を集めたはたては手元の念写機の画面が皆に見えるようにしながら、響子を中心にできた輪に近づく。
「写真?」
「昨日の、門前の、私が撮った写真」
衝撃的な内容かと思い意を凝らして覗き込んだのだが、写っているのは星と響子だった。
特筆すべきは、二人が並んで大あくびをしていることだろうか。撮影者に気づいていないのか限界までズームされたのか、眉根を寄せて口に手を添えている姿が縦長写真になんとか収まっている。
「ちょっと、なんでこんな時にこんなものを」
「そうじゃなくて、ここ!」
阻止しようとした星を遮るように、はたての爪が画面の一点を指さす。
少し落ち着いて、皆静かに画面の一点に目を凝らす。
はたてが示したのは二人ではなく、余白に移りこんだ命蓮寺の一角。門から見て左手の蔵。
柱のシルエットに違和感を覚えた。
よくよく目を凝らすと、柱からはみ出したそれはこちらを覗き込む人型に見える。色白の肌、短い髪に、垂れた耳のシルエットは。
「え、これ響子!?」
横から突然聞こえてきたぬえの声にびっくりしたが、私も同じように声を上げたかった。
「響子が二人写ってる……」
先ほどまで写真をちゃんと見ていなかった星も、茫然としたように呟いた。
続けて、視線を集めた響子にも念写機の画面が向けられる。少し覗き込むようにしていたが、すぐに大きく頷いた。
「これ、これ! 私です! ここから見ましたし、今日の服ですもん!」
そう言いながら響子は自分の服を伸ばすようにしてこちらに主張して見せる。
確かに写真の手前に移る響子は緑の半袖だが、奥に写り込んだ響子は赤系統の色に見える。今日と同じ、赤茶色のワンピースだ。
念写機を見て、響子を見て。
その背後に佇む、銀色の機械へ目線が集まる。
「てことはこれ、本物……?」
20日 雲居一輪 1:35 PM
響子が問題なく戻って来たこと、タイムマシンが本物であったことが分かったこと。そこからは先ほどまでの不安な空気が一転、お祭り騒ぎだった。
皆口々にどこに行きたいかを話し始め、「未来の命蓮寺に」「過去に戻って塩相場を伝えに行く」「恐竜が見たい」と各々好き勝手な行先を提案する。
「星はどこ行きたい?」
「私ですか?」
聞く側に回っていた星が村紗に話を振られ、少し考える。
「私は、できることなら、封印される前の聖を助けに行きたいですねえ」
頬をかきながら、気恥ずかしそうに口にする。
その様子に、流石に私たちも言葉に詰まってしまう。
そうだ、星はこういうやつなのだ。自分たちの興味だけで並べた行先が、少し恥ずかしくなってしまった。
「それ、流石に無理だと思うな」
はたての声だ。
タイムマシンを覗き込んでいたはたてに目線が集まる。
「ここの年のダイヤル、二桁しか無いわよ。行けても一度に100年単位……あれ? いや、でも待って……」
はたては途中から神妙な声を出すと、そろりそろりと指でダイヤルを回し始めた。気になって近づき反対側から覗き込んでみると、崩し字の『捌』『玖』の次に見慣れない文字が登場した。
百でも千でも万でもない、読み方の分からない崩し字が二つほど続いた。明らかに何かの位が変わったか、十進法が崩れたのが分かった。
「うわあ」
はたては気持ち悪いものを触ってしまったような声を出し、指をひっこめた。
それから星たちの方を見て、首を横に振った。
「やめた方がいいと思う。訳分かんない時代に飛んじゃうかもしれない」
彼女の引き攣った表情を見て、他の面々はそれ以上意見を推すことはなかった。
一桁目のダイヤルも同じ様子だったことから、二桁目を変えるのすら危ういかもしれない。私もそう後付けて説明した。
「じゃあ……とりあえず、昨日にもう一回行ってみたりする? 戻ってこれるのは分かってるわけだし」
場を取り持つように村紗が提案する。誰からともなく声が上がり、何となく同意の雰囲気に落ち着き始める。
その中で腕を組み、ぬえが考え込んでいる。
「これって、今と同じ時間に着くってこと?」
ぬえの確認に、皆が顔を合わせる。
「たぶん、そうじゃない? 響子がお昼に門から出ていく星を見たんだし」
「星、昨日いつ頃命蓮寺出てきたの?」
星は目線を宙にやりながら、村紗に答える。
「たしか、一時過ぎくらいかと」
手元の腕時計を見ると、今は午後一時半過ぎといったところ。同じ時刻に飛ぶと思って間違いないだろう。
「場所も、その場か。ふむふむ」
何やらぬえが顎に手を当て、命蓮寺とタイムマシンを見比べながら、両羽根をそわそわとさせている。これは何やら悪いことを考えている時の癖だ。
「私、良いこと思いついちゃったかも」
案の定、したり顔でこちらに向き直り、皆の目線を集めた。
「昨日に行って、宝塔を持って来るってのはどう?」
村紗がはっとした表情をし、隣に居た響子と顔を見合わせる。
「この時間ってまだ壊れてないでしょ? なら壊れる前の宝塔を、昨日から貰って来ちゃえばいいのよ!」
「おぉー!」
「凄いですよぬえさん!」
元気組に持てはやされて機嫌を良くしたぬえはタイムマシンの側まで歩み出て、近くにいた私の肩を組んでくる。
確かに、タイムマシンの有効活用かもしれない。
「なによ、あんたにしては良い案出るじゃない」
「でしょでしょ? たまの機会なんだからもっと褒めてよ」
近くに村紗も並び、勢いのまま反対側からぬえと肩を組む。
「じゃあさっそく、ナズーリンを呼んで……」
こちらを見ながら口にした村紗の言葉は、それ以上続かなかった。
口を半開きにしたまま私とぬえの顔を見比べるその表情は、声こそ発しないが「誰が説明しに行くんだ?」と語っている。
私は小さく首を振る。視界の端で、ぬえはあからさまに目線を逸らす。
彼女の説得のためには、まずタイムマシンの存在を説明しなくてはならない。その証拠も説明しなくてはならない。それから、この場に来てもらわなくてはならない。
十中八九機嫌が悪いであろうナズーリンに、誰かそれらを正確に話せるだろうか。
「……ナズーリンには、解決してから説明しよっか」
続いた村紗の言葉に反対意見は無かった。
ぬえがわざとらしく咳ばらいをする。
「よーし、村紗隊員続け!」
「アイ、マム!」
「響子、先導しろ!」
「御意!」
「一輪、殿を任せる!」
「合点!」
ぬえがタイムマシンに乗り込み、真ん中のスペースに胡坐をかいて座り込む。あれよあれよと村紗、それと一度昨日に行ったことのある響子が続く。
その勢いのまま私も乗り込もうとしたが、どうも十分なスペースが見つからない。半畳程度の天井付きスペースに三人が既に座って居れば小柄な響子の隣でも、半身を突っ込むので精いっぱいだ。
「星は来ないの?」
「いえ、見るからにもう乗れませんし、というか、それって窃盗になりません……?」
「あ」
村紗の問いかけに答えた星の声は少し引き気味だ。
続いた最もな言葉に、ダイヤルをいじっていたぬえの後頭部が、恐らくぽかんと口を開けたまま、星の方を向く。
「あー、うん、まあ対策が打たれるまで借りるだけっていうか。そのうち、騒動が一段落したら返せば大丈夫だって」
先ほどまで果敢に詰めようとしていた私だが、少し冷静になって視野が広がると、はたてが冷ややかな目線を送っているのが目に留まった。
「暑苦しー」
タイムマシンの天井に手を着き、縮こまった響子に肩を押し付けながら、折りたたんだ足をなんとか縁にかけている。傍から見た自分の必死さを想像し、途端に気恥ずかしくなる。
ここで響子を押し出すのも大人げなく、私はタイムマシンから降りて地に足を付ける。
「あー、いいわ、じゃあ行ってきなよ。私はこっちで待ってるから」
「そう?」
こちらを眺めていた村紗が、ダイヤルの最終確認に戻る。
念のため響子も見覚えのあるダイヤルか確認し、間違った日付に飛んでしまうことを避ける。
「これでオッケー、後は下に下げればいいのよね?」
「出発の瞬間、撮れるかな」
「まあ、とりあえず気を付けてくださいね……」
ぬえは観衆も含めた皆の顔を見回し、号令をかける
「よし、じゃあ行くわよ。ターイムスリーップ!」
声に出しながらぬえがレバーを押し下げる。
その瞬間、音もなく閃光が走り、タイムマシンに乗ったぬえたちが見えなくなる。真っ白な球体の周囲が歪むと、もう一度閃光を発して、タイムマシンは跡形もなく消えてしまった。
時間にしては一瞬。しかし目の前でタイムスリップが起きたのを、スローモーションかコマ送りのように、はっきりと見送った。
「一瞬過ぎてボタン押せなかった」
はたてが念写機を下ろしながら残念そうに口にする。
「というか何も、複数人で向かうことはなかったのでは」
宝塔を持ち出すことに疑問を抱えていた星が呟く。続けて、不安の表情を浮かべる星と目が合う。
ぬえが提案し、率先して名乗り出た。
村紗が面白がって便乗した。
響子が流されて着いていった。
満面の笑みで乗り込んでいった三者の顔が浮かび、徐々に不安が滲み出してきた。
「まあ、大丈夫でしょ、たぶん……」
私の小さな声は再び鳴き始めた蝉の声に重なり、晩夏の空気に消えていった。
20日 雲居一輪 2:10 PM
星とはたてと私が客間に座り込んで、黙って待つ。
再び鳴き始めた蝉の声に、たまらず呟いた。
「……遅い」
宝塔を持ち出すだけなのに、そんなに時間がかかるものか。きっとどこかをほっつき歩いているに違いない。
口にしなくても、はたてはともかく、星は言いたいことが分かっているようだ。下を向き、頭を力なく左右に振る。
誰も口を開くきっかけもなく、開く気にもなれず。そわそわとしたまま待つしかない空間に、遠慮がちな声が飛び込んだ。
「あの……」
聞き慣れない、か細い声だった。
声の主を探して皆して見渡すと、庭に面した戸の裏から、丸っこく垂れた耳が覗いている。私達が驚いていると、遠慮するような、小さい歩幅で妖怪が姿を見せた。
短髪でぱっちりとした目の、若そうな妖怪だった。
「先程は申し訳ありませんでした。ここって、ミョウレンジで合ってますか?」
「あんた、さっきの」
私が立ち上がると、謎の妖怪少女はびくりと身体を震わせた。
「誰、命蓮寺の子?」
はたてが訝しむように私に訊ねる。一方の謎妖怪といえば、ここが命蓮寺であると分かって一安心したようだ。
「さっき話した妖怪よ。裏庭にアレがあったと思ったら、こいつが立ってて」
また逃げ出されても困るので、あまり無闇に近付かず、妖怪の方向を指で指し示す。
とりあえず会話を試みようと、普段通り丁寧な物腰で星が名乗る。名乗られた少女の方はといえば「ほ、本物だ……!」と瞳を輝かせている。
「あなたは、どちらの妖怪ですか?」
「申し遅れました、私は」
そこから先は、聞き取れなかった。
知らない国の言葉だったのだろうか。それにしては、日本語に表現することも出来ない。
半濁音と濁音の混じった音がしたのは分かる。が、何と発声したのか理解できなかった。最後の口の形は「え」の形に近い。
「……なんて?」
横目で見ると、星も私と同じく眉をひそめている。彼女も聞き取れなかったのだろう。
こちらがすぐに飲み込まない様子を見て、謎の少女は口に手を当てて「しまった」というような表情をする。
「そっか、この時代だとまだ」
それから両方の人差し指でこめかみを撫でる、やけに古典的な考えるポーズをとり独りごちる。
「そうすると、うぅーん、まあ、今は私しか居ないからいいかなぁ?」
彼女は胸に手を当てながら振り返ると、堂々と名乗った。
「それでは私のことはレイセンとお呼びください」
私達は再び顔を見合わせる。
兎の妖怪で、レイセン。
彼女の様子を見るに、悪ふざけの類では無さそうだ。こちらとしても、彼女がそう言うのだから問題ないと判断するしかない。
「ええと、じゃあレイセン、さっきまでの様子はどうしたの」
その名の表記は聞いていないので、先程の彼女の抑揚を真似るしかない。
「はい、私もタイムマシンが本物とは聞かされずにこちらに来たもので、些か混乱してしまいまして」
「知らずに来ちゃったの?」
「先輩に悪戯で乗せられちゃったんですよ」
先輩。
命蓮寺の当然先輩後輩の概念はあるのだが、そう呼ぶ者はまず居ない。加えて、説法や修行に向かなそうな派手な制服。それらを鑑みてか、はたてが感じたことを述べる。
「なんか、命蓮寺の妖怪っぽくないわね」
同感だった。
その言葉にレイセンが動揺する様子はなく、堂々と答える。
「私は命蓮寺への留学生なので」
彼女の言葉を受けてはたてが星の方を見る。そんな制度は今の命蓮寺にはないので、星は首を横に振るしかない。
「その出で立ち、もしかして貴女は、月兎の妖怪なのですか?」
「はい、第■■隊の■■■■■と申します」
途中、やはり聞き取れなかったが、彼女は月兎らしい。
過去に博麗の巫女一行が踏み入ったことがあると話には聞いたことがある、あの、月?
「え、じゃあ何、未来の命蓮寺、月と関わりあるの?」
「ええ、なんでも命蓮寺発端の航宙技術がきっかけとかなんとか」
私は史学は苦手なので正直分からないのですが。と悪びれる様子もなく付け足す。
月にパイプを持つ妖怪など、幻想郷でも数えるほどしか居ない。加えて命蓮寺は月への進出に力を入れているわけでもない。何か方針転換や、月を目指す勢力ができたのだろうか。
話の規模や重要度が分からないが、とりあえず、未来の客人、ということまでしか分からなかった。
「未来から来たって、どのくらい未来?」
「先輩が悪戯で適当にダイヤルを回してしまったので、正直私も分かりません」
手の平をこちらに見せ首を左右に振る、いかにも「困りました」というジェスチャーをする。その素振りのまま、レイセンは逆に質問してきた。
「今の年って、何なんですか?」
改まって聞かれるのも変な気分だ。私は星と顔を見合わせながら答えてやる。はたても頷いているから、間違ってはいないだろう。彼女は後ろ手で、壁掛けカレンダーを指さしている。
「えっ、西暦ですか!?」
私達の言葉にレイセンは飛び上がらんばかりの勢いで驚く。
示してやったカレンダーを齧りつくように覗き込む。指を宙に向けながら、理解に務めている。
「ホントだ、七曜、これが21世紀……」
いまいち、驚き度合いが分からない。
驚きながらも一先ず納得したらしいレイセンは、耳を揺らしながら振り返る。
「で、肝心のタイムマシンは、どこにあるんですか?」
彼女からしたら当然の質問だった。
それに関しては言葉に詰まってしまう。
「いや、今ちょっと借りてると言うか……ねえ?」
「そんなにすぐ戻るとは知らずに、すみません」
「ええーっ、午後の訓練丸サボりになっちゃう!」
「まあまあ、その間過去の観光でもさせてあげるからさ」
宥めていると、庭とは逆方向の廊下から足音が近付いてきた。
「何じゃチカチカ騒がしいと思ったら、未来の妖怪じゃと? 面白そうな話をしておるではないか」
マミゾウと、たまたま合流したのだろう、雲山が客間に入ってきた。
レイセンは再び飛び上がりあたふたとし始めた。が、私達と接触したことで踏ん切りが付いたのか、その場に残ってマミゾウたちにお辞儀をした。
彼女についてと、ぬえたちがタイムマシンで昨日に行っていることを説明する。意外なことにマミゾウは笑うことなくあっさりと理解を示した。
傍らの雲山は一度眉をひそめたものの、それ以上何も言わないので分からない。
「あの、このことは聖とナズーリンには」
「なに、告げ口する気などありゃせんよ。儂が話しても恐らく冗談と思われるじゃろ」
マミゾウはその気はないようで、軽く笑って流す。しかし彼女の顔から笑みはすぐに消えた。
「しかし、宝塔の持ち出しか」
それだけ言うとマミゾウは腕を組み、やけに真面目に考え込むように唸ってしまった。
「存外、小娘の観光どころではないかもしれんぞ」
マミゾウはからかう様子もなく、考え込んでいる。
雲山もレイセンも理解している様子はなく、何やら彼女だけが危機感を感じているようだ。たまらず星が訊ねる。
「一体、どうしたというのですか」
「簡潔に言うと、宝塔が割れないのはまずい」
マミゾウが断言した。
なぜ、まずいのか。いや、そもそも宝塔が割れてしまったことがまずいのだが、それにしても割れなくてはいけないとはどういうことか。
誰も納得の声を上げず、誰か理解できるかと互いに顔を見合わせる。見かねたマミゾウが息を吐きながら説明し始める。
「ごくごく当たり前じゃ。『起きなかったことは起きてはいけない』、それはつまり『起きたことは起きなくてはいけない』ことと同じ」
どこからか現れたマミゾウの子分狸たちが、懸命に座布団を引っ張ってきた。座れという意味だろう。
各々座り込むと、使命を終えた子分狸はどこかに散ってしまった。雲山は入ってきた側の部屋の隅、襖の辺りに滞留している。
「起きたことは起きなくては……ってどういうこと?」
「簡単に言うと、今と辻褄が合わなくなるのは避けねばならん」
そこまで言うとおもむろに、客間の中心で煙管を咥え始めた。
「あっ、煙草」
この場に居ない響子の代わりに、はたてが指をさして注意する。
しかしマミゾウは気に留める様子はない。煙の上がる煙管を動かし、立ち上る煙が横に伸びる矢印と簡単な人型を描く。
形作られた煙は離散せず、その場に留まった。
「ではそうじゃな」
マミゾウは傍聴者を眺める。
「一輪が過去の命蓮寺に移動したとしよう」
人型の頭上から放物線が左に伸び、先端の矢印が時間軸のとある一点を指し示す。そこにも先ほどと同様に簡単な人型を描く。
「過去にも当然一輪が居るのう。こちらは一輪Pと呼ぼう」
マミゾウは器用にも、吹いた煙を人型の頭上に浮かべる。その煙は次第に形を変え、アルファベットのPを形作り始めた。
過去の世界にて一輪Pと、一輪が並ぶ。
前提を理解しようと黙っていると、マミゾウは補足する。
「パストのPじゃ。そのくらい分かるの?」
「ああ……そういうこと」
納得した声と共に、はたてが律儀に頷いたのが横目で見える。
「この時一輪Nは一輪Pを」
マミゾウは人型を煙管ではたき、図から消してしまう。
「殺そうとしたとしよう」
流石に驚いた。
「なんで、そんなことするのよ」
「そりゃあ何かのっぴきならない理由があったんじゃろ。して、一輪Pを殺めようとした場合、どうなるかの?」
意地悪そうに開いた口角から、吸い込んだ煙が漏れる。
私は周囲と目配せしてから、答えづらい質問に答える。
「そりゃあまあ、上手くいっちゃうかも。不意打ちなんだから」
「では一輪Pは謎の事件によって倒れ、一輪Pの未来はこうなる」
マミゾウは息を吹きかけ、人型の足元に伸びていた矢印の、一輪Pから先を消してしまった。
今や一輪Pの先には何も残らず、当然一輪Nの移動を示す矢印の根本にも、何も残らない。
「あれ」
はたての声が聞こえる。
「でも一輪Nは、未来から来てるのよね」
「然り」
この一輪Nはどこから来たのか? 果たして、何者なのか?
誰もが押し黙り、同じ疑問を抱いているようだった。
「明らかに摂理に反する。これは賢人でなくとも分かるの。よって一輪Nも存在し得ず消える。痕跡を残さない謎の刺客によって、一輪は志半ばで倒れてそれきりじゃ」
燻らした煙が消えるように、一輪Nを示していた人型が宙に消える。
「しかし、旅立つ前までの一輪Nは確かに痕跡を残しておる。この間の文献はどうなっているのか、説明が付くものはおるか?」
彼女は言いながら順に目線を向け、私の所で試すように視線を留めた。
たまらず言葉を返す。
「でも、別に今回殺生しようっていうんじゃないんだから」
「これを踏まえた上でじゃ」
マミゾウは私の言葉を遮った。
「今お前さん達は"のっぴきならない理由で"宝塔を拝借しようとしている。妖怪か宝物かは異なるが、先の様相と同じこと」
頭の中に先程の図の流れが浮かぶ。
左端から脈々と伸びてきた線に乗る宝塔Pが、ある日に割れてしまう。宝塔Pの少し先で、破損を示す✕印が記される。
ところがそれより右から回り込むように伸びてきた線により、宝塔Pと未来の時間が繋げられる。その回り込んで来た線に従って、持ち去られる宝塔Pは未来の一点への矢印を描く。
始点は19日の宝塔P。終点は✕印を避けるように伸びた20日のある一点。
成功すれば宝塔Pは過去の世界から消えている。では、✕印にたどり着くまでの直線では、何が起きている?
「化かし合いの相手が摂理とは、流石に分が悪い」
目線を上げると、先程まで私が想像していたものと同じ図が、煙管から伸びる煙により手際良く描かれていた。
それを眺めながらマミゾウが独りごちた言葉は、私達に不安を与えるには十分だった。
「さっきみたいに、文献に異常が出るってこと?」
「でも宝塔じゃ、規模が大きすぎます」
はたてと星の言葉にマミゾウは何も答えず、静かに目を閉じ、煙管をくわえなおす。
「過去から持ってきても辻褄が合うように、気が付いたら増えるとか」
「ありえぬな。記憶が、事象がそれを許さない。『そういえばあやつは二人おったのだった』が起こり得ぬように、『そういえば二つあったのだった』ということは起こらない」
追い詰められるように、言いようのない不安が私達の間に漂う。
何か私達は、とんでもないことをしているのではないか?
私と星が目線を合わせると、マミゾウが気まずい空間に声を落とす。
「じゃが、何事にも辻褄の合う現象がひとつだけある」
その言葉に救いを見出したかのように、星が声を出す。
「本当ですか? それって」
「それは、こうじゃな」
マミゾウが唇を尖らせ、煙の模式図に息を吹きかける。それは整えたり図を動かすものではなく、その勢いで図自体を吹き消してしまった。
矢印や人型も残らず、跡形もない。
一輪Pも、宝塔も無い。
「……消えるってこと?」
はたてが呟いたのが聞こえる。
どういうことか分からず、たまらず尋ねた。
「消えるって、何が」
マミゾウはゆっくりとこちらを振り返り、意地悪く笑うように歯で煙管をくわえながら答える。
「全部じゃよ」
全部、消える?
一日のタイムスリップによって?
その時タイミング良く、裏庭の方で閃光が走った。
「戻ってきた!」
はたての声に私は立ち上がると、履物をつっかけてタイムマシンの傍に駆け寄る。
背後の星も庭に着いてきて、先程まで半信半疑だったマミゾウと、黙って行方を見守っていた雲山までもが縁側に集まってくる。
「おまたせしました!」
マシンの座席から元気よく手を上げたのは響子だった。二往復で時間移動にはすっかりなれたのか満面の笑みを浮かべ、私達の焦りに気付く様子はない。
声をかけようとして、ふと気が付いた。
彼女はマシンの真ん中に、一人だけ、ちょこんと座っている。
「ねえ、響子だけ?」
「ええ、ぬえさんと村紗さんは昨日ワールドを観光中です」
私の声に答えながら響子はマシンの縁を跨ぎ、呆気からんと続ける。
「本当に昨日のまんまで驚きですよ。まだ時間もあるし、一輪さんと寅丸様も遊びに来るといい、とのことで」
「駄目! 早く帰ってこさせないと!」
頭を抱えた私に驚き、響子は背後の星の顔色も伺う。それからなにか状況が変わったことを察したのか、はたてやマミゾウの方をきょろきょろとする。
響子と入れ替わりで乗り込む私に、はたてが心配そうに声をかける。
「どうするの?」
「変なことする前に、とりあえず連れて帰ってくる」
「私も行きます」
ダイヤルとレバーを確認していると、星もタラップから乗り込んできた。私の左肩に手をかけ、ダイヤルを覗き込む。
続けてはたての声が聞こえた。
「あんたも行きなさいよ」
顔を上げると、はたてはレイセンの横顔を見ていた。
自分が指されたのとはすぐに気が付かず、レイセンが一拍遅れて飛び上がる。
「え、私ですか!?」
「あんた未来妖怪でしょ、それに、あんたが持ってきたんだからなんとかしなさいよ」
「ひええ、そんな無茶な」
村紗とぬえを探している間、タイムマシンを見張る役もほしい。人手が増える分には構わなかった。
「来るなら早くしなさいよ!」
「ほら、早く行く!」
「えーん、天狗様は過去でも強情です」
はたてに押し出されるようにして、レイセンもタイムマシンに乗り込んできた。三人がなんとか収まろうと肩を寄せ合う様子は、やはり狭苦しい。
「行くわよ」
「あの、ちょっと、まだ覚悟が」
レイセンの言葉を待たず、私はレバーを押し下げた。
19日 雲居一輪 2:50 PM
発光が止まり、視界が戻ってくる。
辺りを見回してみれば、タイムマシンが接地しているのは先ほどと同じ命蓮寺の裏庭。寸分違わず全く同じ位置に居ながら目の前の観衆が消えたのは、確かに屋敷の方に居た面々が消えたようにも見える。
「本当に、昨日に来てしまうんですね」
星が足を乗り出し、タイムマシンから降りる。その隣のレイセンはすぐには動かず私の肩に手を置いたまま、頭を下げている。
「あんたはどうしたのよ」
「ちょっと、急なグニャグニャが、キツくて」
星の方が肝が座っているとはどういうことなのか。
「しょうがないわね、私と星が行くから、あんたはここに残ってなさい」
「了解しました」
「何か見つかっても、新しい門徒が私達へのサプライズをしているとか、適当なこと言って追い払いなさい」
「了解しましたあ」
彼女はなんとか二度応答し、その場からきょろきょろと辺りを伺い始めた。
星はといえば廊下を覗き込みながら、タイムマシンが少しでも見つかりづらいよう、順に戸を閉めている。
「私は向こうを探してみます」
「気をつけてね、私達、昨日は命蓮寺に居ないことになってるんだから」
星は真面目な顔をし、神妙に頷いてみせた。
私は屋外を探すことにした。
無闇に目立たないようにしながら、慎重に昨日の命蓮寺を歩き始める。
辺りに注意しながら人の目に付きづらいところを進んでいると、敷地の隅の蔵の近くに、見慣れた羽根と黒髪が見えた。
まさしく尾行か監視をしています、といった感じの覗き込み方をするぬえは、本人が警戒する一辺を除き、非常に悪目立ちする姿だった。
目線の先を追うもそこに人影はなく、たまに用のある者だけが立ち入る蔵が並んでいる。その一つを監視するように、誰か近付く者は居ないか見張っているようだ。騒がれても困るので、視界に入らないように背後から彼女に近付く。
「ぬえ、見つけた」
名を呼ぶ声に、ぬえはちらりと私を振り返る。
「あ、もしかして今日の一輪?」
軽く応答した後、ぬえはまた蔵に向き直ってしまった。何が理由かは分からないが、よほど何かを警戒しているらしい。
「こんなとこで何やってんの」
「犯人探しだよ」
犯人探し?
私が疑問符を浮かべながら傍にしゃがみ込むと、彼女は「分かってないなあ」と言いたげに振り向いた。
「あたしが鬼酔わしをここに隠したのを知ってて、盗みに来るやつが居るはずなんだ。そいつぎったんぎったんにしてやらないと」
「なんで、そんなことするのよ」
「今や阻止するより懲らしめてやる気持ちの方が強い」
知らきゃ触るはずがないんだ、奥から二番目の仏殿の中。と念仏を唱えるように、再び目線を戻しながら未練がましく呟いた。
なんていうところに隠してるの。
そんな感想を口にしたかったが、今のぬえに道徳を問いてもしょうがない。まずは帰るよう説得しなければ。
「そんなもの良いから、過去を変えちゃう前に戻るのよ」
不満げなぬえが何か言おうとした時。門徒の人が正面から歩いてきた。ごみ出しの最中通りかかったようで、蔵に近付く様子はない。
「あいつ、あいつ新入り! この前あたしに挨拶せずに変なもの見る目で見てきやがった!」
「ほら、騒ぎになる前に帰るよ!」
ぬえの無駄な記憶力によるエピソードを聞き流しながら、引きずるようにして客間の方へ戻る。
道中、過去を変えてはいけない要因を掻い摘んで話す。ぬえは困惑しながらも何とか歩を進め、タイムマシンのところまで戻ってきてくれた。
既に星は村紗を見つけて来たらしく、客間に立ってレイセンと三人で話していた。
「おお、一輪」
村紗がこちらに気付くと軽く挨拶の発声をし、ぬえは履物を脱ぐと、さっさと客間に上がっていってしまう。仕方なく後に続く。
「村紗、一回戻れって話、聞いた?」
「んー、なんか、とりあえず過去が変わるとまずい、みたいな」
星も村紗に説明してくれたようだ。目線だけで感謝を示す。
ぬえが不満半分、疑問半分で村紗と顔を合わせる中、レイセンが堪らずといった様子でたずねる。
「あの、もしかしてですけど」
「ん?」
レイセンが恐る恐るぬえに近づき、上目遣いで覗き込む。
「あなたがぬえ様ですか?」
「そうだけど」
頷いたぬえが「そういえばこいつ何者なの?」と私に確認を取る。
私が答える前に、レイセンが飛び上がる。
「えぇー! わっかーい!」
流石にぎょっとしたぬえにも構わず歩み寄り、顎の横に手を添えあちこちから覗き込んではしゃぎ出す。
「すっごい、きりっとしててかわいい!」
「え、え、なんなのさこいつ」
ぬえは突然のことに動揺しながらも、何か気を良くして少しにやにやしている。
「ぬえ様とは思えませんよ、肌もすべすべだし、シワも全然ない!」
続く言葉は流石に侮辱と捉えたのか、ぬえの表情が固まった。
「んだとこの餓鬼!」
ぬえがレイセンを振り払い、室内にも関わらず霊力で生み出した槍を投げつける。
回避能力はあるのか、レイセンは涼しい顔をしてかわし、槍は客間の襖に突き刺さった。
「こら、ぬえ! 屋内は武器禁止!」
流石に村紗が静止の声を出す。ぬえは不満そうに、二射目に構えた槍を消す。
柱に刺さった槍も消滅したが、跡は残ってしまった。
駆け寄って様子を見たところ、引手に当たって止まったため貫通はしていない。が、刃先によって紙に穴が開いてしまった。
引き戸を開けてみると、中は布団で詰まっていたわけではなく、幸い中の物を傷つけることはなかったようだ。畳まれた敷布団の上から枕を持ち上げ、穴の位置に置いておき、目立たないようにしておく。
「じゃあ、宝塔持って帰りますか」
ぬえの声がしたので、慌てて振り向く。彼女は腰に手を当て、気だるそうに探しものをしている。
「それ、無し!」
「え」
だって私達が来たのはこれが目的ではないか。彼女の目線がそう言っている。
「色々分かったけど、昨日を変えるのはまずいのよ」
「こっちの命蓮寺がどうなろうと、私は知ったことじゃないよ」
「昨日の命蓮寺がおかしくなると、私達の来た今日の命蓮寺もおかしくなっちゃうのよ!」
なんとか理解に努めようとしてくれたが、先程の話を知らないぬえは「私が悪いのか?」という目線を星に向ける。
星も渋々といった様子で一つ頷く。諦めてくれ、の意だろう。
「詳しくは、後でマミゾウさんに聞いてほしいんだ」
「マミゾウに? どうしてさ」
「私らじゃ上手く説明できないのと、とにかく、誰かに見つかる前に今日に戻らなくちゃ」
その時、廊下から声が聞こえた。
「あら、星?」
聖の声だ。咄嗟に言葉を止める。
どうやら廊下に立っていた星が聖に、いや、聖Pに発見されたようだ。私は聖Pに見つからないよう客間の奥の方に後ずさり、理解していなさそうな村紗とぬえを後ろに引っ張る。
「えっ、と、聖」
星は客間のぬえや私が見られるのを防ぐため、それ以上聖Pが来ないように自分から一歩前に進んだ。まだ私と目線が合わせられる位置だ。
幸い廊下の戸は閉じられていたため、タイムマシンが聖の視界に入ることはない。
「午後は一輪と人里の方に行くのではなかったかしら」
「ああと、えと、それは」
咄嗟のことに言い訳の言葉が思いつかなかったのだろう。しかも、相手は聖だ。
万事休すだがどうするか、とばかりにちらちら目線を送ってくるので、仕方なく口だけを大きく動かして誤魔化しの言葉を伝える。
人里は、村紗に任せて、午後も寺を、手伝うことにしたんです。
星はちらちらとこちらを伺いながら、なんとか聖Pに伝えることに成功する。
「まあ、そうなのね、それは助かるわ。門徒の方には荷重な妖怪の応対で困ってたのよ」
聖Pは疑うことを知らず星Nに語りかける。
「さっき、誰かと居たかしら? 何か一輪の声がしたような」
「いえ、きっと、お堂の方の声を聞き間違えたのでしょう」
「それもそうよね、あの子は人里のはずだものね」
聖が廊下を戻り始めたのか、足音が遠ざかる。
その後に続かないわけにもいかず、星はこちらに顔を向け困ったような、くしゃっとした顔を見せる。
あとで、迎えにくる。
私がもう一度大きく口を動かすと、星は小さく頷き、少し背を丸めて廊下の方へ消えていった。
思わず止めてしまっていた息を吐き出し、どうしたものかとうなだれる。
「伝達に送受信器が不要だなんて、昔の妖怪は凄いですね」
レイセンが慰めなのか本心なのか、感心した声を出すので少し気を持ち直す。
「ふざけたこと言ってないで、一回帰るよ」
私と村紗とぬえとレイセン。一度に乗るのは厳しそうだ。先に村紗とぬえに戻ってもらい、響子あたりに戻ってきてもらうよう話した。
20日 雲居一輪 3:40 PM
星を除いた全員が現在に揃い、重苦しい雰囲気で顔を見合わせていた。
事情を聞いたぬえと村紗も、過去に戻って宝塔を手にしようと言うことはなかった。
「いやあ、困ったねえ」
沈黙を破ったのは村紗だった。
「もういっそ、聖輦船で魔界なり月なりに逃げることも視野かな、これは! あはは!」
村紗が無理やり出した笑い声に続く者は居なかった。数瞬のうちに村紗の声のトーンも落ち、再び沈黙が訪れる。
どうすべきか。何か出来ることはあるのだろうか。
レイセンがおずおずと手を挙げる。彼女はいきなり沈黙を破る勇気はなかったのだろう。皆の視線が集まってから発声する。
「これって、ようは、宝塔が割れれば良いんですよねえ?」
レイセンが確認する。
「偽物の方を持ち込んで割れるとこに置いてきて、本物を持って帰ってくることって、できませんかね?」
自然と目を集めたのは、客間に持ってきた、砕けてしまった宝塔。
一度思い切り叩かれ、ひしゃげた土台。特に、透き通った宝珠部は見る影もない。
あのとき聖の手が振り切られていたことから、ここから破損が進むことになる。二撃目にどこまで耐えられるかは不明だが、既に割れていたと気付かれるだろう。
「あれは、流石にばれるでしょう」
「私達、割れる音聞きましたもんね」
「今からじゃ直す時間もないよ」
皆が断念する中、最後のぬえの言葉に引っかかる。
レイセンの言うすり替えも、ありかもしれない。
「ねえ村紗、最近聖輦船出したのいつだっけ」
私の言葉に村紗は驚きながらも目線を上に向けて記憶を辿る。
「先週じゃなかったっけ。日付は、えっと、カレンダーに印付いてるから」
彼女は頬に当てていた指を倒し、そのままカレンダーを指し示す。
私が覗き込んだカレンダーには、村紗が出航を楽しみにして付けたのか、サインペンで簡単な船の絵が記されていた。月にいくつかあるそれらを今日の日付から遡ると、直近では12日に船マークが描かれている。
割れる一週間前。今日から8日前。
「一週間……凝り性だとしても外観だけならいけるかしら」
「一輪?」
村紗の困惑する声に答える余裕もなく、私はタイムマシンに乗り込み、ダイヤルを合わせてレバーを引き下げた。
12日 雲居一輪 4:10 PM
昨日よりも更に前に到着した私は、閃光が止むとすぐにタイムマシンから飛び降りた。
先程は周囲を警戒しながらの移動だったが、今は気にする必要もない。
12日は目前に命蓮寺の建屋はない。村紗の記憶とカレンダーの印通り、命蓮寺が聖輦船として出航している日だった。
この日なら命蓮寺の面々に見つかる恐れはない。躊躇わず宙を舞って、移動の最中に腕時計を覗き込む。
今が午後4時過ぎ。宝塔が割れるのがおおよそ午後6時。移動と入れ替えの時間を考えると、あまり時間はない。
幸い誰か知り合いに会うことも、隠れて遊び呆けるぬえPに会うこともなかった。
私が足を付けた地は12日の妖怪の山。山城たかねの工房の前だった。
幸い中に人の気配はあり、申し訳程度に鈴の付いた戸を開くとすぐに作業台に向かうたかねの横顔が見えた。唯一恐れていた、山城たかねの不在、という事態は免れた。
「あれ、入道使いの」
たかねは私を見て不思議そうな顔をしてから、窓の方に目線をやりぽかんと口を開けている。
先程聖輦船が飛んでいたのを見て、私がここに居ることを疑問に思ったのだろう。
流石に事情を話すわけにはいかない。話を振られる前にこちらから話題を切り出し、手を合わせた。
「頼みたいことがあるの」
まさか自分が、こんな事を言う日が来るとは。
「宝塔の模造品を作ってくれないかしら」
私の合掌の向こうで、たかねは首を傾げていた。
それもそうだろう。以前寺に来た際、宝塔を観察し廉価版を製作しようとしていた事を止めさせたのは、私達の方だ。
矛盾した行いにへそを曲げられるかと思ったが宝塔への興味はまだ残っていたようで、たかねは機嫌を損ねることはなかった。
「あれだけ模造品は控えろって言われてたのに……いいの?」
「事情があって致し方ないわ。聖姐さんには秘密よ。あとうちの鼠っ子」
彼女は私の言葉に目を輝かせたと思うと、すぐに大人しくなる。
「しかし、よく分からんが急ぎっぽいね。興味があるとはいえ、急な依頼はなぁ。こちとら順番があってだね」
致し方ない。
「鬼酔わし一升上乗せでどう?」
山童が反応したのが分かった。
「それ、ほんと?」
「本物が入った、いや、これから入るのよ」
ぬえ、ごめん。鬼酔わし売ったの私だった。
たかねは回転椅子でこちらに向き直り、前屈みになって話を聞く体勢をとる。
「ただし宝塔にも条件が二つあるの。灯は灯してない外観で、宝珠は部分は割れるような無色透明であること」
彼女は唇に指を添えたまま、黙って私の話を聞いている。
「2つ目。絶対19日に寺に届けてほしいんだけど、生憎私は外してるの。物は中身を言わずに誰かに預けて、私に届けさせて。酒の引き渡しは蔵に行ってセルフでお願い。何か言われても、私の名を出して構わないから」
少しの間考えていたたかねだったが、算段が付いたのか、目をこちらに向けた。
「オーケー、事情は分からんが、期日優先でやってみよう。多少出来が悪くても後から文句言うなよ?」
消えなければ文句なんて言わないわよ。
私が飲み込んだ言葉を知らずに、たかねは壁掛け時計に目をやる。
「商談成立だ。この時間帯……そうだな、キリ良くヒトナナマルマルお届けでどうだい」
午後5時。
私が戻って、宝塔を入れ替えて、撤収する。ちょうどいいころだろうか。異論はなかった。
後はニセ宝塔の出来を祈るだけだ。
「えっと、紙とペンある? 細かい形状なんだけどね」
「ああ、資料は持ち前のがあるからいいよ」
私の言葉を遮ってたかねはあっさりと言い、棚からスクラップブックを取り出すと、そのうち栞の挟んであった1ページを開いた。
横から覗き込んでみると、見開きの両ページには宝塔の写真や簡単なスケッチが並んでいる。
「どうしたのよこれ」
以前に撮影を制した時は遠景だけで、宝塔の装飾まで分かる細部までは撮っていなかったはずだ。どういうことか、台座の裏側を撮った写真まである。
写真の出処を聞かれたたかねは当然のように語る。
「日中、あんたのところで修行してる姫海棠はたてだよ。数日前から写真データをくれるんだよね」
あっけからんと言う彼女に指を立てた。が、今や重要な協力者だ。
何か言うにも、移動の時間が惜しい。
「はたてには言っておく。今回だけ、よろしくね」
彼女に納期の念押しをして、その場を離れた。
20日 雲居一輪 4:50 PM
たかねへの依頼を終え、私は20日に戻ってきた。
「一輪、どこ行ってたの」
「ちょっと解決策を仕込んできた」
駆け寄ってきた村紗に結論だけ報告すると、響子やはたてたちは明らかに喜びの表情を見せた。交渉材料のことは置いておいて、山城たかねに模造品の依頼をしてきたことを話す。
「一輪そんな交渉できたんだ、いや、もしかして脅迫でもした?」
ぬえの言葉に言い返したかったが、後ろめたさもある。「後で説明する」と伝え、はたてたちに向き直る。
「ねえ、昨日の夕方、たかねか、配達員の山童からなにか受け取った人いない?」
私の言葉に誰も反応はせず、互いに顔を見合わせる。
誰か受け取った? 誰も受け取ってなくない?
皆が小声で口にする言葉に、忘れかけていた汗が滲む。
どうしてだ。上手くいかなかったのだろうか?
「昼に来た山童は、門番に渡したと話しておったよな」
記憶を辿るようなマミゾウの言葉に、この中で門前に居た、響子に視線が集まる。
「でも、私は心当たりは……そもそも、昨日はたかねさんには会ってないのですが」
その時村紗が手を叩いた。
「響子Nだ!」
音に加えて妙な接尾語を付けられ、響子は驚いている。
「え、え?」
「今から昨日に行って、あんたが受け取れば、昨日たかねは響子に荷物を渡したことになる!」
私や村紗、星とぬえは出払っている。門前で受け取って不自然ではないのは響子だ。
「確かにそれなら上手くいく、行くよ響子」
「ふえええ」
「あと星も連れてこないと、そろそろマズいよ」
「よし、私は星から聖を引き離してこよう」
私に引きずられるようにタイムマシンに乗せられる響子。後ろに続くのはぬえ。
相変わらず狭い座席に、私とぬえと響子が三人で収まる。
目線を上げると、雲山がやけに深刻そうにこちらを見ているのが気になった。
19日 雲居一輪 4:55 PM
昨日の命蓮寺に降り立った私たちは周囲を警戒する間もなく、慌ただしくタイムマシンから降りた。
「響子、昨日の今頃、どうしてた?」
「あっと、門前には、居ないです。門を見に行った記憶もないです」
ぬえは私と目を合わせて頷き、縁側から上がり込み、廊下を進んでいった。私は響子を連れて正門の方へ向かう。
響子の話通り、門前には誰の人影も無かった。
とりあえず外から見える位置に立っているようにと指示して、響子を門前に立たせた。
昼に来たたかねの様子からして、受け渡しは終わっているはず。後は予想外な人物の手に渡らないのを祈るのみ。
時計と響子を交互に見ながら物陰で待っていると、響子が誰かと話し始めたのが見えた。山城たかねだ。
響子がなにか話して、小包を受け取る。その後たかねは命蓮寺の奥の方を指差し、響子と何か話している。私の名を挙げたのか、響子が敷地内へ通す仕草をし、心なしかそわそわした様子のたかねが蔵の方へと向かっていく。
たかねの視界から外れると、響子は足音を立てないよう気を付けながら、こちらへ早足で戻ってきた。
「ゲットです!」
「でかした」
演技なんて慣れない真似をしたからか、彼女もどこか興奮気味だ。
両手で荷物を差し出す響子。手元の小包の中では、ガタガタと小物の揺れる音がする。
客間に戻って包みを開けてみると、簡易な木箱に入った宝塔、の偽物と目が合った。
持ち上げてみると、さほど重量はない。大きさも実物より少しだけ小さいだろうか。ただ本物の宝塔をまじまじと調べたことがない妖怪からすれば、十分本物と騙せそうな出来になっている。
一週間の特急品にしては、中々の出来栄えだ。
「よくできてんじゃん」
「一輪さん、ワルの顔してますよ」
この子は余計なこと言わないの。
小突いてやりたかったが、そんな時間も惜しい。櫃の宝塔を取り出し、代わりに模造品の宝塔とすり替える。
本物の宝塔と並べてみると流石に装飾の簡略が目立つ。が、櫃の中では同じこと。
ニセ宝塔入りの櫃を祭壇に戻していると、二人分の足音が近付いてきた。見ると、ぬえと星が辺りを伺いながら客間に入ってきた。
「星回収してきたよ」
「えっと、一輪Nと、響子Nで良いんですよね……?」
緊張状態が解けたのか、星が力ない声を出す。聖の前で真実を言うに言えなかった焦燥もあり、星は混乱気味のようだ。
聖Pを引き止めてボロを出さなかっただけでも、ありがたい。
「大丈夫ですよ、寅丸様のお陰で私達も助かりました」
「これで仕込みは万全よ。昨日も今日も消えない」
私は星の肩を叩いてから、両手で宝塔を渡してやる。
星は久方ぶりに目にした宝塔に感動し、泣き出さんばかりに目を潤ませた。それから深くため息をつき、深々と頭を下げた。
「さ、本来の命蓮寺に戻りましょう」
「はい」
既にタイムマシンに足をかけていたぬえに続き、響子と星も庭先に出る。私も客間の戸を閉め続く。
四人だが乗り込めるだろうか、二回に分ける必要があるだろうかと話していると、廊下の方から声が聞こえた。
「……で、なんでぬえはそんなに焦ってるわけ」
ハッとして顔を上げたぬえだが、今の声は私達の誰でもない。それに、今聞こえてきたのはここに居ない、村紗の声だ。
「だから、無いんだって! 私のアレが!」
廊下から声が聞こえた。この賑やかな声は、村紗PとぬえPだ。
「まずい、帰ってきた!」
早くタイムマシンでここを去らなくては。
ぬえの背後に宝塔を抱えた星が乗り込み、隙間に響子が詰め込まれる。
私が座る十分なスペースはなく、タイムマシンの縁の部分に足をかけて屋根の下に体を押し込んだ。
「これ、私乗れてる……?」
「かなり微妙です」
膝を抱えてこちらを見上げる響子が不安げに呟いた。
「行くよ!」
ぬえがレバーを押し上げた。
その瞬間足元が激しく振動し始め、発光の瞬間、私はタイムマシンから弾き飛ばされてしまった。
地面に尻もちを着き、地面から浮遊したタイムマシンを見上げる。
周囲が蜃気楼のように歪んだかと思うとタイムマシンは発光を始め完全に光球になる。そのまま更に浮いたかと思うと、ぬえたちを乗せたタイムマシン見えない天井に吸い込まれるようにして消えた。
轟音も煙もなく、未来へ行ってしまった。
まずい。どうしたものか。
「あれ、一輪?」
背後からの声に飛び上がりそうになる。
振り返ると、開いた戸から不思議そうにこちらを眺める村紗が居た。
19日 雲居一輪 5:20 PM
「何やってんのそんなとこで」
「いや、その」
裏庭で座り込んでいる私を見て、村紗Pは不審がっているようだった。
この場に居ては再度タイムマシンが戻ってくるかもしれない。中庭で村紗Pと話すのはまずい。
お尻を叩いて立ち上がる。
「猫が、迷い込んでて、どっか行った拍子にすっ転んじゃって」
言い訳ながら靴を脱ぎ、縁側に上がり込む。
どちらへ身を隠そうか考えたが、客間から離れるように廊下を進んだ。
「ていうか先帰ってたんだ」
「え?」
私が振り返ると、疑うような村紗Pと目が合った。怪訝そうにこちらを覗き込み、その場を動かない。
「どっか寄り道してくって言ってたじゃん」
「ああ……したんだけど、店、閉まってて」
しどろもどろに答えていると、背後からぬえの声が聞こえた。
「村紗、このバッグあんたの?」
名前を呼ばれた村紗Pが「勝手に開けたりしないでよね」と私の横を通り過ぎ、ぬえの声がする方へ進んでいった。入れ替わりで、掃除用具を持った響子がすれ違い、客間の方へと向かっていく。
その場を離れようとした矢先、廊下の向こうの部屋からぬえが出てきた。手で仰ぐ横顔は不機嫌そうだ。
「あ? 一輪居んじゃん」
ぬえの不機嫌の理由はすぐに見当がついた。蔵から消えた鬼酔わしを探して部屋や掃除用具入れを片っ端から探しているのだろう。
その原因は言い逃れできないほどにしっかりと私にあるのだから、流石に気まずく感じてしまう。
ぬえPは私に違和感を感じたのか、つま先から頭までじろじろと眺める。
「なんで着替えてんの」
つられて村紗も私の方に顔をやり「ほんとだ」と呟いた。
「いや、ちょっと、汗かいちゃって。暑かったじゃん」
「ふーん?」
こちらに詰め寄ってくることはしないが、ぬえPは疑いの眉を作る。
「じゃあ、ちょっと、あたしこれで」
「ちょっと待って」
多少不自然だがこの場を離れようとしたところ、素早くぬえに回り込まれる。
「まさか蔵から出したの、一輪じゃないよね?」
私は、持ち出していない。
屁理屈を捏ねたかったが、説明するのはこちらのぬえではなく、ぬえNにしなくてはいけないのだ。私はとぼけて、何のことか分からないふりをする。
「蔵?」
「蔵。私の鬼……あれが、私物が無いのよ」
ぬえが詰問する最中、向こうを聖が歩いているのが見えた。ぬえはそれに気がついたのか、ごにょごにょと言葉を濁した。
まだタイムマシンが戻ってくる様子はない。
なんとかしてこの場を離れなければ。
私はわざとらしく手を叩き、ぬえに指さしてみせる。
「分かった、あんたまた酒持ち込んだんでしょ! それで誰かに盗まれたって騒いでるわけ?」
「馬鹿! お前!」
ぬえだけではなく、村紗もあんぐりと口を開けている。
唯一、聖だけがじっとこちらを見ている。
「ぬえ? どういうことですか?」
こちらの話が聞こえた聖が近づきぬえに詰め寄っているのを横目に、廊下を客間の方へと戻る。まだタイムマシンの閃光は無い。
「ぬえ! 貴女には何度も言って聞かせているというのに!」
客間の前まで来た所で、背後から声がした。
このまま廊下で待っていれば巻き込まれるかもしれない。話の流れ的に彼女達とは入れ違えない。それに、昨日帰宅した後の私は村紗の背後から来たのだ。村紗と一緒に居るのも危険だ。
裏庭の戸を開けると、タイミング悪くマミゾウが歩き煙草をふかしているところだった。こちらに気づいた様子はないため、静かに戸を閉める。できるだけ人と接するのは避けたい。
聖とぬえの声が近づいてくる。恐らく、この声を聞いて客間に居た響子は庭と反対側の戸から出ていく。
覚悟して戸を開けると、ちょうど部屋を出ていく響子の背中が見えた。ニセ宝塔の入った掃除中の櫃がそこに置きっぱなしになっている。
響子の後に続いてどこかに隠れるしかない。そう思って客間を抜けると。
雲山が居た。
遠目に見えたとかではなく、完全に曲がり角で遭遇した。角から人が出てきたこともそうだが、私が目の前に立っていることに驚いているのだろう。雲山は目を白黒させている。
廊下に目線をやり、私に目線をやり。
私の頭の頂点から、つま先までを繰り返し見る。
目の前に鉢合わせた私が本物だという感覚を受けているのだろう。そして、先程廊下で帰って来たのを見た一輪Pに対しても。当然ながら、どちらもちゃんと本物なのだから。
しかし今は、説明する時間がない。
「絶」
私は反射的に拳を握り込んで首根っこを掴むような所作をとった。
「……対に誰にも言うんじゃないわよ。あんたも、あたしも、消えたくなければ」
雲山は私と喧嘩した時の事でも思い返したのか、目を固く瞑り、コクコクと頷く動作をしてみせた。
それから横を抜けようとしたのだが、そちらでも星Pの声が聞こえた。
咄嗟に再び雲山の横を戻り、客間の押入れを開け、上段のスペースに身を隠す。襖を閉める音はぬえと聖が入室してくる音と重なって上手く誤魔化せたようだ。
「痛い痛い、耳はやめてってば!」
「座りなさい、ぬえ!」
敷布団を奥の方に押しやり、穴隠しに倒していた枕を退け、身を伏せるようにして客間の様子を覗き込む。
聖の表情は見えないが、そこにあった櫃に聖の手が置かれるのが見える。ぬえの後頭部が集中していないようにあちこちに揺れ、じきに村紗へ反応する様子を示す。
聖Pがニセ宝塔入りの櫃を叩く。
ここからはリプレイだった。廊下に私の声が増え、響子の声が増え、はたての声が増えた。雲山は途中から顔を出し、私の隠れる襖と一輪Pを交互に見ている。
そしてその時が来た。聖の手が櫃の上から消え、勢いを付けて帰ってくる。宝塔が割れる音、静まり返る室内、響子の声、騒ぎになる客間。物が倒れる音。
全て自分の知っている通りの騒動が目の前で繰り広げられる。
騒ぎの中から、困惑した自分の声が聞こえる。
「……どういうこと」
暑苦しい押し入れの中で事の顛末を初めて理解し、一人呟く。
「……こういうことね」
20日 雲居一輪 4:55 PM
ニセ宝塔が割れてから、押入れの戸は掃除用具がつっかえ棒になり、開くことができなくなっていた。蹴破るわけにもいかず、私はそこから出られずに隠れていた。
レイセンとの遭遇、タイムマシンで騒ぐ私たち、マミゾウからの警告、連れ戻されてきたぬえ、たかねに模造品を作らせたことを報告する私。
そして夕刻。響子たちがニセ宝塔を置きに昨日に出発した瞬間。限界状態になっていた私は襖を激しく叩き、客間の人物たちに自分の存在を知らせる。
現在居間に居るのは村紗、はたて、レイセン、マミゾウ、そして雲山。
皆襖の向こうで一様に驚いたり怯えの声を上げていたが、じきにつかえが取り除かれ、襖が少し開かれる。畳まで落差があることにも構わず、倒れ込むようにして押し入れから転がり出た。
「一輪!?」
どよめく客間の中で、声を振り絞る。
「み、水……」
私はそれだけ伝えると、近くにあった座布団にうずくまる。周囲は遠巻きに声をかけるのみで、状況は飲み込めていない。目の前で一輪が過去に移動した直後、襖から汗だくの一輪が転がり出てきたのだから当然だろう。
唯一落ち着いていたのは昨日の時点で押入れに隠れた私を知っていて、襖のつかえを取り除いてくれた雲山だった。
はたてが持ってきてくれた水筒の水を飲み干すと、いくらか喉が動くようになった。
「助かった……」
「えっ、と、一輪、なんだよね?」
村紗がタオルを差し出しながら、困惑しつつ確認する。
「あの、全部大丈夫だから、ちょっと休ませて」
押入れの中で暑さと飲まず食わずだったために、頭がくらくらする。はたてとマミゾウが二本目の水と一緒に氷嚢を持ってきてくれたので、頭に乗せてじっとする。
やがて裏庭の方で閃光が起こり、ニセ宝塔のすり替えを終えたであろう星、ぬえ、響子が昨日から帰ってきた。再び庭と客間が騒がしくなる。
「皆さん、戻りました!」
「宝塔もこの通り!」
「……あれ、まずいです! 一輪さんが居ません!」
庭の方に目を向け、三人に向かって仰向けのままタオルを振ってアピールする。
「ここよ」
私の声は届いたようで、再び乗り込もうとしていたぬえも含め、三人が驚く。
「あれ、なんでこっちに居るの!?」
とりあえず、今やタイムマシンに乗せてはならない。こちらへ手招きし、客間へ上がるよう促した。
「本物、ですか?」
「えっと、皆さん事情は……?」
全員が揃ったところで、私は座布団から身を起こす。汗で乱れた髪が垂れて目にかかった。
「……帰れなかったのよ」
私はタイムマシンに振り落とされてから、19日に残ってしまった後のことを話した。ニセ宝塔が割れた後に押入れから出られなくなり、先程私とぬえたちが19日に向かったところで客間に出てきたことも含めて。
「えっと……つまり? 一輪さんは連れて帰らなくていいってことですか?」
タイムマシンの方をきょろきょろとしていた響子が、不安そうに確認する。マミゾウが煙管を咥えたが、煙をくゆらせることなくそのまま口から離した。
「先程19日に移動した一輪は昨日に取り残され、ぬえが説教される発端を作る。何も知らない昨日の一輪が宝塔が割れるのを目撃して、今日の昼タイムマシンに遭遇し……何れにせよ、先程そこから出てきた一輪は宝塔を持って過去に行ったあの一輪ということじゃの」
「じゃあ……今日、一輪がずっと二人いたってこと!?」
そういう事になる。
村紗たちが違和感に沸き立つ中、復活してきた私は上方を見上げて指をさす。
「ていうか雲山! タイムスリップした私が隠れてるの、知ってたってことじゃない!」
視線を集めた雲山はおろおろとした後、最初は半信半疑であったし誰にも言うなと言ったではないか、という表情をする。
まあ、確かにそう言ったけれども。
力なく頭を垂れた私の頭上で村紗が手を叩いた。
「えっと、とにかく、宝塔もあるし、全員揃ってるし。全部解決ってことでオッケー?」
「オッケーじゃね?」
「大丈夫です」
安心しきった者、とりあえず解決とした者、流されて納得した者。
最初の反応は皆様々だったが、次第に騒動を解決した実感が沸いてきたのか、先ほどより笑顔が戻って来た。
「じゃあ、あの」
このままナズーリンに報告して晩御飯の支度、といった雰囲気になったとき、レイセンが再び挙手をして周囲を見回した。
「私、元の時代に帰っても、大丈夫ですか?」
あ、そっか。
村紗の声は、私達の気持ちの代弁だった。
20日 雲居一輪 6:30PM
「皆さん、お世話になりました。私はこれでお暇させていただきます」
縁側に座って休憩する私に、レイセンはぺこりとお辞儀をした。半日ほどで見慣れてしまった旋毛の後に、小さい月兎が顔を上げる。
どのくらいの未来かは分からないままだが、妖怪の姿かたちは案外変わっていないようで安心した。
あいまいに見送りの言葉をかけると、タイムマシンを覗き込んでいたはたてがこちらへ振り返り確認する。
「帰るにしても、どうやって帰るの? このダイヤル二桁しかないわよ?」
はたての言葉に驚いた顔を見せてから、レイセンがタイムマシンに駆け寄る。
「ええーっ! こんな機械なのにここだけ旧式なんて信じられない!」
まだ見ぬ製作者への不満を漏らしたレイセンは玖以降のダイヤルを確認し、どうするかと思えば懐から算盤と筆記具を取り出し、縁側に戻ってきて何やらぱちぱちと変換の計算を始めた。
つくづく、未来感のない妖怪である。
「ねえ一輪」
タイムマシンの周囲で最後に写真を撮る皆を眺めていると、村紗がやって来た。私の隣に座り、麦茶のグラスを差し出した。
「あれさ、よく見るとUFOっぽくない?」
村紗が示していたのは目の前のタイムマシンだった。
鍔を有した、円筒ボディの真ん中に乗り込む。言われてみればタラップもある。下半分と蓋に当たる部分がもっと丸ければ、より近く見えるかもしれない。
「私、釜にしか見えなかった」
「私も」
村紗が笑いながら傾けたグラスから氷の溶ける音がする。
「でもさ、ぬえがおばあちゃんになってセンス変わったらああなるんじゃない?」
「流石にないでしょ。ただ、あの装飾はセンス良いと思う」
「お、一日分長生きテイストですか」
村紗が笑った。
なぜ村紗がタイムマシンの形状を気にし始めたのか分からず、そちらを向く。
「レイセン達との交友が命蓮寺発足なんだろ? あれ作るとしたら、私らの中だとぬえじゃないかって」
まさか。
「だとすると、村紗も手伝わされてるかもよ」
「あー、乗り気になるかなあ。ぬえが集めた信徒に、専門のやつが居たのかもしれないわね」
時間移動が専門のやつなんて居ないでしょう、と笑う。
傍らから聞こえた「たぶん、できました!」という声に振り向くとレイセンが何やら数字と漢字を紙にかき出していた。
背後から覗き込み理解に努める村紗。私も横目で覗いてみたが、数字と見知らぬ漢字の羅列に目眩がしたので、すぐに目をそらした。
レイセンの声にタイムマシンで写真を撮っていた皆が戻ってきて、入れ替わりにレイセンが小走りで乗り込む。
しばらくガシャガシャとダイヤルを合わせた後、彼女は紙とダイヤルを順に指さしながら最終確認する。
「多少ズレても、また算盤すればいいんじゃないの?」
「グニャグニャの回数は、減らしたいんですよう」
村紗からのガヤに弱気な表情を見せながら、目線が手元とダイヤルを行き来する。
頷いた様子から、間違いないようだ。
「えっと、大丈夫です。皆さん、お世話になりました」
「お世話って言うほど、もてなせてないよね」
「結局観光してないし」
「騒動の種持ち込んだだけっていうか」
私達が顔を見合わせていると「そうだ、私のタイムマシンを勝手に使ってた方々でした」と笑顔で続けた。
各々別れの言葉をかけ、レイセンが本当にレバーに手をかける。
「それでは皆さん、御達者で!」
古臭い言い方に笑っていると、レイセンがレバーを押し上げた。
辺りに閃光が走り、レイセンが見えなくなる。そのまま光球と化したタイムマシンが宙に浮かび、見えない天井に吸い込まれるように消える。
今日何度目かの、見慣れてしまったタイムスリップ。
最後の移動を見届けると、どっと疲れが湧き出てきた。
「行っちゃったね」
「あいつ、きっとどやされるんだろうな」
「事情があるんですし、昨日のぬえほどではありませんよ」
皆が客間から離れる中、タイムマシンのあった方向を眺めながら、はたてが唇を尖らせていることに気がついた。
「また、撮れなかった」
近付いた私にそう語り、念写機の画面を見せる。撮影はされていたが、正面からより強いフラッシュを炊かれたように、あたりが真っ白になっている写真だった。
仮に撮れてたとしても、決定的な瞬間はどちらかといえば新聞向きな気もする。
「結局これが一番かな」
はたては満足げに画面を見る。念写機の画面に映っていたのは昨日の昼、星と響子が並んであくびをしている写真だ。奥に小さく、今日の響子が写り込んでいる。
響子が背伸びをして、はたての手元を覗き込む。
「合成って言われちゃうんじゃないですか」
「私は日頃の行いが良いから、そんな恐れはないわ」
そういうものだろうか。
「あとはタイトルなんだけど」
「そうか、新聞じゃないからタイトルが必要なのね」
私の言葉にはたてはうんと頷き。
「実はもう良いのが閃いちゃってるのよね」
はたては得意げに、念写機を顎に当てながら勿体ぶる。
それから器用に念写機を持つ手にメモ帳も握り込むと、何やらペンで書き込み始めた。
「テーマはなんでしたっけ、記事に満たない日常と、アンニュイさでしたっけ」
律儀に確認した響子が私と目を合わせる。
「こんなの、どう?」
はたてが上機嫌に念写機とメモ帳をこちらに見せる。
メモ帳に書かれていた文字に目を通し、写真を見ながら頭の中で読み上げる。
『サマータイガー・ブルース』
いつもありがとうございます。不慣れな文でしたが最後まで楽しめたなら幸いです。
>>東ノ目様
ありがとうございます。
月組に手が伸びづらい私ですがいつか書く日が来るでしょうか。その際はよろしくお願いいたします。
ハッハッハ