旧都の奥まったところにあるその酒場は、水橋パルスィのお気に入りだった。酒場は常に生ぬるい喧騒で満ちていて、それを吟味するかのように睨め回しながら、ウイスキーを飲んでいた。あちらこちらから聞こえてくる声には、矮小な怒りや悲しみが込められていたが、爆発する予兆のないままに吐露されるばかりであった。力自慢、浮気話、嫌味、そのどれもがパルスィにしてみれば肴の代わりであった。ひとりで呑むことが多いので、その場限りの話の種が芽吹くことはなかったが、過程や行く末を想像するだけで十分だった。
喧嘩が暴動に発展しないのは、星熊勇儀がこの酒場をひいきにしているからだ。パルスィは騒々しさと対極にあるような性格をしていたが、この場所はずいぶんと居心地が良かった。くたびれたペルシアンドレスは彼女のお気に入りで、ここに来るときはたいていこの服装だった。くすんだ髪の色と相まって、パルスィの格好は酒場特有の琥珀色の空間に馴染んでいた。不相応なのは緑色の目だった。鏡で顔を見るたびに、橋姫という造形に不釣り合いな魅惑を孕んでいるように思えて仕方がなかった。嫉妬の膿が滲みだし、そのまま固まったような瞳は、彼女がはじめて人を殺めた時から幾年が過ぎても、依然輝きを失わなかった。そんな彼女の目は、そこに映る人々を美しく飾り立てるきらいがあった。
うめき声をあげている鬼がいたので、パルスィはぼんやりと眺め、聞き耳を立てていた。一緒に呑んでいた酒徒に愚痴を吐いているらしかった。
「ううちくしょう、あのアマぁ馬鹿にしやがって、俺は、俺はよう」
「馬鹿、姐さんに勝てるわけねえよ」
「違う! 手加減されたんだ。ふざけやがって、そのせいで」
「しゃーねえだろ、また挑めばいいじゃねえかよ。元気出せって」
励ますようにばしんと頭をはたいた。すると唸っていた鬼の頭がごとりと落ちたので、酒徒はぎょっとした。ひとたび喧騒が壊れると、寂寞があたり一帯に染み渡るまでそれほど時間はかからなかった。転がった鬼の首は天井を仰ぎながら喚いていた。
「ああちくしょう、つながってなかったんだ。あのヤブ医者め、なにが切ったほうが早く治るだ。ちくしょう、拾ってくれ、拾ってくれよ」
「金を惜しむからだ馬鹿。土蜘蛛んとこ行けよ馬鹿」
そう言ってげらげら笑い始めたのを皮切りに、酒場には笑い声がこだました。
(勇儀に挑んだのね。首まで折られて、可哀そうに。だけど勇儀はあなたを試しているに違いないわ。その証拠にちゃんと生きている。骨のある男かどうかを見極めるために、意地悪く振舞うのは女の特権だもの。幸いなことにあなたには友達がいる)
ほんの少しだけ口元を緩ませて、パルスィは誰にも聞こえないように、妬ましいわと溢した。すべての物語には続きがあって、それらは必ず美談に収束する。ゆえに嫉妬の余地がある。パルスィは常々そう考えていた。
あくる日、パルスィが風穴と旧都をつなぐ橋の前で、退屈さを噛み殺しながら橋姫をまっとうしていると、荒々しく声をかけてくる男があった。
「貴様、鬼だろう。地獄の鬼だろう。我が刀の錆にしてくれる」
背丈は六尺ほど、着流し姿で腰には太刀がぶら下がっていた。彫りの深い顔つきをしていて、奥まった瞳で睨みつけているわりに、パルスィは威圧を感じ取れなかった。剣を扱うにしては少女のようにきれいな手をしていたし、長身痩躯ないで立ちはさながら案山子のようで、虚栄心が透けていた。闘争心の塊のような鬼たちを普段からよく見ているパルスィにしてみれば、彼に戦闘の意思がないことはつつぬけだった。
「鬼じゃないわ、たぶん。あなたの定義によるけど。人なんて珍しい。こんな地獄くんだりまでなんの用かしら」
「そうだ、俺は人なのだ。地獄に巣食う鬼どもを成敗してくれる。隠すとためにならんぞ」
(大方、人に化けた物の怪でしょうね。からかっているのか、それともおかしくなってるのかしら)
パルスィの想像は当たっていて、彼は狸の化生だった。生まれた時から二本足で立ち、日本語を介するのに五年とかからなかったこの狸は、己を人間と信じて疑わなかった。刀の鞘に手をかけた男に対し、パルスィはのんきに答えた。
「あなたじゃ勝てないわよ。私、知り合いがいるのだけれど、星熊というの。角に星がついている鬼なんだけど、たぶん一番強いわ。正面からじゃ敵うものはいないでしょう」
「ならば貴様、その一番強い鬼が酔い潰れるまで酒を飲ませるのだ。俺がその隙に討ち取ってみせる」
「いやよ。それに、それは卑怯じゃないの」
「卑怯でも構わない。俺が人間ならば鬼に敵わぬ道理はない」
パルスィはこの問答にまったく意味がないことに気づき始めていた。自分の推測が限りなく正しいと、話すほどに強く確信するばかりであった。彼の言葉は半ば独り言で、その妄執は憧れに己を重ねる光悦というよりは、自我のもろさゆえの狂信に近い。心が成熟する前に人の姿をとれてしまったせいで実態を見失っていた。だからこそ妖怪でありながら、鬼を討つ人という一種の記号を崇拝していた。眠りに落ちる間際に生じる一時の微熱を勇気と形容し、それを反芻することで自らを偽っているのだった。
猜疑を満たすためだけに鬼に立ち向かう、というのはずいぶん矛盾しているとパルスィは思った。しかしそれを口に出すことはない。ありふれた否定は反って暗示を強めるからだ。
彼がいつから取り憑かれているのかは定かではないが、天啓など授からずとも物語は幕を上げるものだ。行く末を見守ることで、パルスィは聖母のような慈しみが自分の中にあることを確かめたかった。襲ってくる気配もないので、パルスィは男にそこで待つように言うと、とりあえず家に戻り、靴棚の上にひっかけていた般若の面を持ってきた。この面は以前露天商から勧められて衝動買いしたものだった。己にさぞ似合うだろうと確信して面をつけたのだが、鏡を見てみると、妖怪が人の怒りの面をかぶるというのがどうにも滑稽に思えたので、仕方なく玄関に飾ったのだ。戻るまで半刻ほどかかったが、男はじっと橋の前で子犬のように待っていた。面を渡しながらパルスィは言った。
「これをつけなさい。紛れ込めるわ。あとはお好きにどうぞ」
「感謝する。貴様は巻き込むまい、朝だ。朝を待とう。騒ぎ疲れて眠るはずだ」
「どうせこの街は眠らないわ」
その言葉を耳に入れる前に、男は橋を渡っていた。
それから三日ほど経ったある晩、パルスィはいつもの酒場で呑みながら、偶々居合わせた勇儀に声をかけられたので、件の男について話した。すでに酔いが回っていた勇儀は腕を組んで、その赤ら顔をべこのように上下させていた。
「へえ、面白い奴もいたもんだ。うん、間違いない、そいつは正しく人間だ。で、その後どうしたんだそいつは」
「さあ、別になにかしたわけじゃないし。むしろ、とっくにあなたに挑んでいるものかと」
「知らんなぁ。噂も聞かん。ちゃんとこの酒場とか、私の家とか教えたのか」
「いやそこまでは流石に。なんか私が仕向けたみたいになるじゃない」
勇儀はそうかとあいまいに相槌を打って、盃の酒を一息に飲み干した。ふうと一呼吸置くと、今度は昔挑んできた骨のある人間たちについて語り出した。パルスィは頷きながら聞いていたが、そのうち話が堂々巡りになって、熱だけは増していくものだから、その熱は波紋のように広がり、酒場はまたたく間に人間論で溢れかえった。外の空気を吸おうといったん店を出ると、途端に戻るのが億劫に感じられたので、パルスィは家路につくことにした。
帰り足、気まぐれに普段通らない狭い道へ踏み入った。そこで首から上が潰されている例の男を発見した。熟れたトマトを地面にたたきつけたかのように広がる赤は、仏桑花の美しい花弁を思わせた。身体は人間のままだったが、よくよく見てみるとしっぽがあったので、パルスィはこれが狸だと確信した。
(きっと人間に見切りをつけて、路上に咲く花に化けたのね)
パルスィはくすくす笑って、赤黒い血で汚れた般若の面を拾い上げた。そしてそのまま家に帰ると、悲しげな怒りの面を元のように玄関に飾った。
喧嘩が暴動に発展しないのは、星熊勇儀がこの酒場をひいきにしているからだ。パルスィは騒々しさと対極にあるような性格をしていたが、この場所はずいぶんと居心地が良かった。くたびれたペルシアンドレスは彼女のお気に入りで、ここに来るときはたいていこの服装だった。くすんだ髪の色と相まって、パルスィの格好は酒場特有の琥珀色の空間に馴染んでいた。不相応なのは緑色の目だった。鏡で顔を見るたびに、橋姫という造形に不釣り合いな魅惑を孕んでいるように思えて仕方がなかった。嫉妬の膿が滲みだし、そのまま固まったような瞳は、彼女がはじめて人を殺めた時から幾年が過ぎても、依然輝きを失わなかった。そんな彼女の目は、そこに映る人々を美しく飾り立てるきらいがあった。
うめき声をあげている鬼がいたので、パルスィはぼんやりと眺め、聞き耳を立てていた。一緒に呑んでいた酒徒に愚痴を吐いているらしかった。
「ううちくしょう、あのアマぁ馬鹿にしやがって、俺は、俺はよう」
「馬鹿、姐さんに勝てるわけねえよ」
「違う! 手加減されたんだ。ふざけやがって、そのせいで」
「しゃーねえだろ、また挑めばいいじゃねえかよ。元気出せって」
励ますようにばしんと頭をはたいた。すると唸っていた鬼の頭がごとりと落ちたので、酒徒はぎょっとした。ひとたび喧騒が壊れると、寂寞があたり一帯に染み渡るまでそれほど時間はかからなかった。転がった鬼の首は天井を仰ぎながら喚いていた。
「ああちくしょう、つながってなかったんだ。あのヤブ医者め、なにが切ったほうが早く治るだ。ちくしょう、拾ってくれ、拾ってくれよ」
「金を惜しむからだ馬鹿。土蜘蛛んとこ行けよ馬鹿」
そう言ってげらげら笑い始めたのを皮切りに、酒場には笑い声がこだました。
(勇儀に挑んだのね。首まで折られて、可哀そうに。だけど勇儀はあなたを試しているに違いないわ。その証拠にちゃんと生きている。骨のある男かどうかを見極めるために、意地悪く振舞うのは女の特権だもの。幸いなことにあなたには友達がいる)
ほんの少しだけ口元を緩ませて、パルスィは誰にも聞こえないように、妬ましいわと溢した。すべての物語には続きがあって、それらは必ず美談に収束する。ゆえに嫉妬の余地がある。パルスィは常々そう考えていた。
あくる日、パルスィが風穴と旧都をつなぐ橋の前で、退屈さを噛み殺しながら橋姫をまっとうしていると、荒々しく声をかけてくる男があった。
「貴様、鬼だろう。地獄の鬼だろう。我が刀の錆にしてくれる」
背丈は六尺ほど、着流し姿で腰には太刀がぶら下がっていた。彫りの深い顔つきをしていて、奥まった瞳で睨みつけているわりに、パルスィは威圧を感じ取れなかった。剣を扱うにしては少女のようにきれいな手をしていたし、長身痩躯ないで立ちはさながら案山子のようで、虚栄心が透けていた。闘争心の塊のような鬼たちを普段からよく見ているパルスィにしてみれば、彼に戦闘の意思がないことはつつぬけだった。
「鬼じゃないわ、たぶん。あなたの定義によるけど。人なんて珍しい。こんな地獄くんだりまでなんの用かしら」
「そうだ、俺は人なのだ。地獄に巣食う鬼どもを成敗してくれる。隠すとためにならんぞ」
(大方、人に化けた物の怪でしょうね。からかっているのか、それともおかしくなってるのかしら)
パルスィの想像は当たっていて、彼は狸の化生だった。生まれた時から二本足で立ち、日本語を介するのに五年とかからなかったこの狸は、己を人間と信じて疑わなかった。刀の鞘に手をかけた男に対し、パルスィはのんきに答えた。
「あなたじゃ勝てないわよ。私、知り合いがいるのだけれど、星熊というの。角に星がついている鬼なんだけど、たぶん一番強いわ。正面からじゃ敵うものはいないでしょう」
「ならば貴様、その一番強い鬼が酔い潰れるまで酒を飲ませるのだ。俺がその隙に討ち取ってみせる」
「いやよ。それに、それは卑怯じゃないの」
「卑怯でも構わない。俺が人間ならば鬼に敵わぬ道理はない」
パルスィはこの問答にまったく意味がないことに気づき始めていた。自分の推測が限りなく正しいと、話すほどに強く確信するばかりであった。彼の言葉は半ば独り言で、その妄執は憧れに己を重ねる光悦というよりは、自我のもろさゆえの狂信に近い。心が成熟する前に人の姿をとれてしまったせいで実態を見失っていた。だからこそ妖怪でありながら、鬼を討つ人という一種の記号を崇拝していた。眠りに落ちる間際に生じる一時の微熱を勇気と形容し、それを反芻することで自らを偽っているのだった。
猜疑を満たすためだけに鬼に立ち向かう、というのはずいぶん矛盾しているとパルスィは思った。しかしそれを口に出すことはない。ありふれた否定は反って暗示を強めるからだ。
彼がいつから取り憑かれているのかは定かではないが、天啓など授からずとも物語は幕を上げるものだ。行く末を見守ることで、パルスィは聖母のような慈しみが自分の中にあることを確かめたかった。襲ってくる気配もないので、パルスィは男にそこで待つように言うと、とりあえず家に戻り、靴棚の上にひっかけていた般若の面を持ってきた。この面は以前露天商から勧められて衝動買いしたものだった。己にさぞ似合うだろうと確信して面をつけたのだが、鏡を見てみると、妖怪が人の怒りの面をかぶるというのがどうにも滑稽に思えたので、仕方なく玄関に飾ったのだ。戻るまで半刻ほどかかったが、男はじっと橋の前で子犬のように待っていた。面を渡しながらパルスィは言った。
「これをつけなさい。紛れ込めるわ。あとはお好きにどうぞ」
「感謝する。貴様は巻き込むまい、朝だ。朝を待とう。騒ぎ疲れて眠るはずだ」
「どうせこの街は眠らないわ」
その言葉を耳に入れる前に、男は橋を渡っていた。
それから三日ほど経ったある晩、パルスィはいつもの酒場で呑みながら、偶々居合わせた勇儀に声をかけられたので、件の男について話した。すでに酔いが回っていた勇儀は腕を組んで、その赤ら顔をべこのように上下させていた。
「へえ、面白い奴もいたもんだ。うん、間違いない、そいつは正しく人間だ。で、その後どうしたんだそいつは」
「さあ、別になにかしたわけじゃないし。むしろ、とっくにあなたに挑んでいるものかと」
「知らんなぁ。噂も聞かん。ちゃんとこの酒場とか、私の家とか教えたのか」
「いやそこまでは流石に。なんか私が仕向けたみたいになるじゃない」
勇儀はそうかとあいまいに相槌を打って、盃の酒を一息に飲み干した。ふうと一呼吸置くと、今度は昔挑んできた骨のある人間たちについて語り出した。パルスィは頷きながら聞いていたが、そのうち話が堂々巡りになって、熱だけは増していくものだから、その熱は波紋のように広がり、酒場はまたたく間に人間論で溢れかえった。外の空気を吸おうといったん店を出ると、途端に戻るのが億劫に感じられたので、パルスィは家路につくことにした。
帰り足、気まぐれに普段通らない狭い道へ踏み入った。そこで首から上が潰されている例の男を発見した。熟れたトマトを地面にたたきつけたかのように広がる赤は、仏桑花の美しい花弁を思わせた。身体は人間のままだったが、よくよく見てみるとしっぽがあったので、パルスィはこれが狸だと確信した。
(きっと人間に見切りをつけて、路上に咲く花に化けたのね)
パルスィはくすくす笑って、赤黒い血で汚れた般若の面を拾い上げた。そしてそのまま家に帰ると、悲しげな怒りの面を元のように玄関に飾った。
たぬきは勇儀にやられたのか他の鬼なりにやられたのかがどっちにも解釈できて
それを濁してるのか単に読み取れてないのかが微妙に測りかねてしまいました。
それはそれとして路上に咲く花に化けたという表現や
妖怪じみた旧都の一幕として楽しめました。
パルスィが妖艶でよかったです
ぜったいニヤニヤ笑ってますよ
パルスィの周りへの距離の取り方がとても好みでした