Coolier - 新生・東方創想話

雪山の過去のこと

2022/09/24 16:16:04
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 冬の登山がどれほど軽率で命知らずの行為かなんてことは、きっと、科学世紀に生きる私達が今更むやみに身を投げ出して証明するまでもなく太古の昔より脈々と継承されてきた教訓であろうという推察に、当事者たる私達は大きな異論を挟まないだろうし、たとえそれが秘封倶楽部の漠々たる活動の一部であったとしても、やはり心のどこかでお互いにそれを暗黙に了承していたはずであるという認識は、当時の私達を語る一連の背景としておおよそ間違いようのないことといえた。


 飛騨の山へ行ってみよう、と蓮子が言い出したのは、河原町の小さな雑貨屋で木彫りの小物を手にとって眺めていたときのことだった。
 平日の日暮れ時で、屋内に差し込む斜陽が鋭利なナイフのように煌めいていた。特別な日でも何でもない、大学からの帰り道のことだ。私は素直に困惑した。
「何のために?」
「無資格の一般人が、登山以外で山へ赴く理由なんてあると思う?」
 探せばいろいろありそうだとは思ったけれど、困惑に拍車がかかった私はひとまずその議論を脇へ寄せておくことにした。目の前の彼女が登山を所望していることは明らかに思えた。私は狭い戸口から覗く、ほの赤い夕陽に目を細めた。「気持ちのいい冬晴れの日ね」と呟いた私の言葉に蓮子がうんともすんとも言わなかったので、「ねえ、今、二月よ」と続けた。
 抗議するような声音が功を奏したのか、蓮子はそこでようやく私に向き直った。
「できないことはないと思うんだけど」
「そこまでして、冬山に登らなきゃいけない理由があるの?」
 呆れつつ追及すると、蓮子はどこか歯切れ悪く、ああだとかうんだとか言ってお茶を濁した。これには私も少し驚いた。奇妙な噂話を持ってくるのは彼女の特技といっていいことではあるにしても、いつもはその不審を帳消しにするように、耳触りの良い屁理屈をすっぱりと言い切るのが常だからだ。
「蓮子、どうかしたの?」
「いや……でもね、ふと山に登りたくなるときって、あるでしょう?」
「私はあまりないわ」
「メリーはちょっと変わってるから」
「どういう意味?」
「とにかくさ。その登山気分が、気まぐれに冬に訪れたって別におかしくはないよ」
 普段の調子を取り戻してきたのか、開き直ったように蓮子が少し声を大きくした。薄暗い店の奥で錆びたパイプ椅子に腰掛けている店主と思しき老婦が、ぎろりと瞳をこちらへ向けた。闇夜にぼうと浮かぶ燈火のように不気味な目つきだった。
「せめて、もっと南の低山にしない? 飛騨なんかじゃなくたって……」
「それじゃあ冬の登山にならないよ」
 後から振り返ると、やはりあのときの蓮子はどこか異様だったと思う。論理を手に喝破するでもなく、かといって満ちた野心に突き動かされるでもない、何か別の意思の介在があったようにも感じられた。とはいえ、慣習から外れた友人の言動に逐一目くじらを立てていては、人付き合いなんてやっていられないのも確かだ。そういう日があってもいいかと割り切る妥協は、そう難しいことでもなかった。
「メリー、それ買うの?」
 蓮子が私の手元に視線をやった。
「ああ、うん……どうしようかな」
 意図せず手の中で温め続けていた木彫り細工を、私は改めて眺めた。四足歩行の動物が歩いている様子を象ったような置物で、ちょうど手のひらに収まるくらいのサイズだった。艶や丸みのつけ方に好感を覚えたのもあるけれど、手にとったのは別の理由もあった。いったい何の動物なのか、判然としないのだ。
 店内には大小様々な木彫りの動物達が好き好きにポーズをとって並んでいる。そのほとんどが一見して狸だとわかる置物で、その合間を縫うように、片手を挙げた猫が不敵に睨みを利かせている。その中で、私の手にとったこの置物だけがそのどちらともとれない容姿をしていた。可愛いとも凛々しいとも言いがたい顔つきで、ここまでくると、特定の何かとして言及されることを意図的に避けているようにも思われた。
 私達以外に客のいない狭い店内を見渡した蓮子が「狸ってイヌ科だっけ、ネコ科だっけ」と言い、私はそれに首を振った。私達の知識は結局その程度のもので、私は手のひらに載せたそれをどうにも持て余していた。
 店の奥の老婦は瞬きも惜しいというように、なおも私達の方をじっと睨めつけている。長々と手の内で転がした品物を今更店主の目前で棚に戻すというのも具合が悪く、私の足は自然と老婦の方へと向かった。
 会計ついでに何の動物かを尋ねようと思っていたが、滑舌の悪い老婦の口から告げられた値段が馬鹿みたいに高く、質問もお金も、全部吹っ飛んでしまった。正体不明の壺を買わされた気分だった。そして実際、その動物は依然として正体不明のままだった。


 雨の日に傘を忘れてしまったような気楽さで、秘封倶楽部はあっさりと遭難した。
 轟々と容赦なく頬を打つ吹雪と、眼前に広がる冷ややかな純白の世界。そのときの私は、恐れを通り越して驚きを隠せなかった。人間というものは、いざ迷子になろうと腹積もりすると、無意識に道順を記憶しようとしてしまうジレンマに陥る。この理屈で、予定帳に〈本日遭難〉と事前に記しておけばそう都合よく事は運ばないだろうという仮説を密かに立てていたのだけれど、どうやら無事に規定のハイキングコースを外れてしまったようだった。前を歩いていた蓮子も、いつの間にか姿を消してしまった。状況は最悪といえた。
 何度か友人の名を叫んではみるものの、暴風に紛れてまるで響く様子がなかった。とはいえ、こちらとて探しに向かう余裕もない。早々と我が身の安全を優先することに決めた。運良く私だけが助かったら「彼女は自業自得でした」と答えることにしよう。もし蓮子だけ助かったら、絶対に許さない。
 足元に注意を払いながら、真っ白な道なき道を当てもなく放浪する。何度か、木の根や落ちた枝に足を取られて転んだ。その度に、体力が確実に削がれていく。息が上がってきて、身体が酸素を欲しがるけれど、冷たい外気を吸い込むと余計に疲労を覚えた。比例して、精神もゆっくりと摩耗してくる。人間はこうして段々と動けなくなるのだろうと思った。得体の知れない魔物にでも憑かれているように、全身がひどく重い。湿り気の強い積雪が絶えず私の両脚を絡め取って進行を阻んだ。
 何時間も彷徨っていたようにも思えたし、もしかすれば数分程度のことであったかもしれない。単調な流浪に気が虚ろになっていたところ、急勾配の斜面に突き当たった。吹雪を腕で庇いつつ顔を上げてみると、ほぼ垂直に近い土壁のようになっている。その下部、私の足元のすぐ近くの積雪で埋もれかけた辺りに、飾り気のない無骨な私の登山靴をもう一回りほど大きくしたくらいの横穴が、黒い口をぽっかりと開けていた。
 何の気なしにその穴の辺りを蹴ってみる。すると、表面を薄く覆っていた雪壁が崩れて、黒い口はさらに広がった。そこまできて、私はようやく生気を取り戻し始めた。
 屈んで、穴の周囲に積もった雪を手で払ってみると、人ひとりくらいが這って入れそうなくらいの空洞が姿を現した。背負っていたザックを下ろし、携帯用のハンディライトを取り出して穴の内部を照らす。深さはわからないが、観察するに、それなりに奥まで続いていそうな具合には見えた。ひたすらに真っ暗な暗闇があるだけだ。不気味ではあったが、慣れない雪道と吹雪の容赦の無さに身体中が悲鳴を上げる声を感じてもいた。逡巡の末、私は穴の方へ背を向ける形で腰を落とした。
 意を決してその黒い口の中へ、片足ずつそっと身を沈めていく。後ろ向きに這うような形で暗闇の中へ身を浸していくと、入口よりも奥側の方が広がっているのか、思ったよりもすんなりと身を収めることができた。潜っていくにつれ、吹雪の荒々しい声が少しずつ遠ざかっていく。
 いったいどれだけ奥へ続いているのだろう。熊か悪魔でも眠っているのではなかろうかと不安になってきた辺りでライトを回すと、穴の内部がある程度開けた空間になっていることに気づいた。さほど広さはない。大人三、四人くらいでなら車座になれるだろうかといった具合で、高さはせいぜい私の肩くらいのように思えた。
 ぐるりとライトを回して観察し、先客がいないことにひとまずほっとする。湿った土の匂いがしていて、水が溜まっているのかお尻の辺りが濡れて冷たくなっている感じがした。壁面はごつごつとした岩肌で覆われている。洞穴の外は相変わらず猛吹雪のようだったが、穴の内部には、家屋の中で遠くの嵐に耳を澄ますような、どこか他人事のさざめきしか流れてこなかった。風向きのせいか雪もほとんど入ってこない。ようやく人心地つけた気がして、私は灯りを消してしばらく放心していた。
 唯一の採光窓である洞穴の入口が、闇に浮かぶ月のようにぽっかりと浮かんでいる。吹雪がノイズのように月の上をちらちらと走っていて、意味深な幾何学模様のように映った。
 両脚を身体に寄せて膝の上に頬を落とすと、視界は闇に包まれて、自らの双眸が開いているのか否か正常に判別できなくなる。不規則に鳴く風の音が鼓膜の奥をそよと撫でていく。私は、山という巨躯の怪物の体内に宿る核となった自分を想像した。積雪によって弓なりに反った枝々の断末魔、地底に眠る動物や昆虫の密やかな寝息、血脈のように分岐し麓へと下る白みを帯びた小川。不思議だ。先程まで当の雪山に襲われていた気分でいたというのに。まるで自らが大いなる意思の化身と成り、その内に宿す生命すべてを覆い尽くして守らねばならない気にさせられた。深淵の奥底へ横たわるような深い眠りにつき、いつか到来する麗らかな春の陽を願い信じて、か細い糸を途切れさせないようただじっと耐え忍ぶのだという、どこまでも運命的な予感……。
 不意に、雪景色を駆ける影のイメージが浮かんだ。
 誰かが息を切らして雪原を、私の上を駆けている。動きの少ない雪山の中でただ一人、彼女だけがこの地を躍動し、寒気を物ともせずに跳ねている。
(誰だろう)
 近づいてくる軽快な足音だけがやけにはっきりと聞こえた。そこに嫌悪を覚えることはなく、ただ純粋な好奇心だけが私の眠りを遠ざけた。
 うとうとと夢うつつになっていたことに気づき、私は顔を上げる。
(いけない)
 身体を覆う寒さに一つ身震いし、置かれた現実を理解してすぐに目は冴え渡った。頭を軽く振って眠気を飛ばす。こんな場所で安易に意識を手放してはいけない。白い月は変わらずに宙へ浮かんでいる。思ったほど時間は経っていないのかもしれない、とひとまずは安心する。
「お姉さん、誰?」
 その言葉があまりにも自然に洞穴の土壁に反響し溶け去っていったので、はじめ、まだ自分が夢現の中を漂流しているのだと錯覚した。
 誰って、私は——
 左肩の辺りに何かが触れる感覚が走って、意図せず高い声が漏れる。
 振り向いて、目を見開いた。
 ライトの白い光の中に不気味に浮かび上がる人影。
 小柄な、モノクロームの少女。
 全てを見透かすような無垢の瞳が、まっすぐに私を見つめ返していた。


「蓮子?」
 言ってしまってから、思わず口をついて飛び出してきた自身の言葉に私は違和感を覚えて口許に手を当てた。
 洞穴で対面した少女は、宇佐見蓮子によく似ていた。
 ただ、少女は私のよく知る友人よりもずっと小さかった。比喩的な言葉遊びではなく文字通りの意味で、彼女は私の記憶の中の蓮子よりも随分と小柄であどけなく見えた。背も、肩幅も、顔の輪郭も。まるで学童期の子供のような柔らかさと幼さがはっきりと窺える。
「どうしてわたしの名前を知ってるの?」
 少女は——蓮子によく似た少女が、とても不思議そうに目を丸くして問いかけてくる。
 どうしてだろうか、と少し考える。おそらく顔立ちのせいだろう。あとは、良くも悪くも不気味で印象的な瞳。ただあいにくと外へ出られる状況ではないから、少女があの妙な能力をその両眼に宿しているのかは、この場では確かめようがない。
「えっと……あなたがその、私の友人によく似ていたから」
 取り繕う理由も見当たらなかったので素直にそう答える。内心の動揺を抑えつつ、私は少女の姿を一通り観察する。私と同じように登山用のジャケットやニット帽といった防寒具類に身を包んではいるけれど、そのどれもが黒を基調としていて、そこに白で縁取った装飾が見え隠れしている。子供らしくはないけれど、それは私のよく知る友人の好みにはよく合致していたから、不思議とその装いに違和感はなかった。
 こちらの間の抜けた物言いにはそれほど好奇心を刺激されなかったのか、ふうん、と一言だけため息を吐くように呟いて、少女はそれっきり黙ってしまう。何かを期待するような瞳。そこでようやく、私は自分が名を名乗っていなかったことに遅れて気づく。少し思案したのちメリーという名を伝えると、変な名前ね、と首を傾げられた。元はといえばあなたがつけたんだけどね、という喉まで出かかった言葉を、私はどうにか飲み込む。蓮子によく似たこの少女が私の友人とどういった因果にあるのかは全くもって不明だけれど、少なくとも、私を知らない目の前の彼女に罪はない。
「あなたは、どうしてここへ?」
「道に迷ってたらいつの間にかここにいたの」と事も無げに言い、「お姉さんは?」
「私も、うん、似たようなものかな」
 冷静という言葉は適切ではない気がしたけれど、おかしな状況にあることは何となく理解が及んできていた。幸いなことに——あるいは残念ながらというべきか——秘封倶楽部にとってはそれほど珍しい出来事ではなかった。私の友人はといえば、世間話でもするような調子でしばしばおかしな出来事を引っさげてくるから。ただ、彼女自身がおかしな出来事と同化して現れるとは予想していなかったけれど。
 少女の語るところによれば、どうやら親と一緒に入山したらしい。道中ではぐれたのだという。同伴者を見失ったという点においては似た者同士だけれど、とはいえこんな冬山登山に子供を抱えて挑む親がいるかどうかは疑わしい。そもそも彼女はいつこの洞穴に入ってきたのだろう。夢見心地に目を瞑っていたときだろうか。それほど長い時間深く意識を手放していた感覚はなかった。それとも、私はまだ夢を見続けている?
 認知の堂々巡りに陥りかけた私の意識は、少女が子供らしくはなを啜る音で収束する。ライトの白色光が、彼女のほんのり赤くなった頬の辺りをぼんやりと照らし出す。
 遭難者が一人から二人へ増えたとて、虚しくも現況が改善される兆しは見られなかった。少女を救済の天使と見るには無理があり、私も彼女の救済者となれる自信は微塵もない。同伴者に預けたままだったのか、見たところ、彼女はほとんど荷物の類を持ち合わせていないようだった。
 吹雪はまだ止みそうにない。
 私は洞穴の入り口から垣間見える景色にため息を吐いた後、ライトを片手に自らのザックに手を伸ばし、中からボトルウォーターと二人分の携帯電子マグを取り出す。マグを少女の方へ向けながら、何か温かいものでもと提案すると、彼女はありがとうと丁寧にお礼を言って素直にそれを受け取った。
「でもごめんね、あいにくコーヒーしか持ってきてなくて」それぞれのマグに水を注ぎながら弁明する。「シュガーでもあればよかったんだけど」
「わたし、コーヒー飲めるよ」
「そう?」
 確かに私の知る蓮子なら、このくらいの年頃から平然とブラックを嗜んでいたとしてもそれほど不思議ではない。ただ、少女の言い方には、お前にはまだ早いと親に笑われた子供が反射的に首を振ってしまったような態度も感じられた。判断に迷って、とりあえず様子を見ることにする。
 ザックから二人分の合成コーヒーのカプセルを取り出し、マグに沈めて静かに蓋をする。数分ほど待ってから蓋を開けると、白い湯気とともに嗅ぎ慣れた香りが洞穴の中を柔らかに満たしていった。
 熱せられた黒い液体を一口含むと、それだけで気分はいくらか落ち着いた。さすがに行きつけのカフェで注文する品とは比較にならないけれど、こういった状況下で飲むのであれば、これはこれでそう悪いものでもないと思える。それはたぶん、自然の脅威を目の当たりにしているが故の反作用なのかもしれない。転がり込んできた非日常性を、通俗的な日常でもって相殺しようとする力。人はしばしばそうして日常と非日常の釣り合いを取ろうとする。
 少女はといえば、とてもわかりやすく顔をしかめていた。その新鮮かつ純粋な態度と表情に、私は思わず笑ってしまう。
「カプセルなしで作り直す?」
「いい……飲めるから」
 あくまでも飲めることは認めさせたいらしい。うえぇ、という言葉とともに今にも口から全てを吐き出しそうな苦々しい顔つきで、それでも彼女の内なる矜持が白旗を上げることは許さないのか、まるで薬でも飲むように少しずつ口に運んでいた。私は興味深くその所作を観察する。蓮子用のマグで、私の良く知る蓮子ではない、けれど間違いなく蓮子の面影を見せる小さい蓮子が私の目の前でしかめ面を浮かべてコーヒーを飲んでいるというのは、改めて振り返ると何とも捉えどころのない状況に感じられた。
 そうして私の倍以上の時間をかけてマグを空にした小さい蓮子は、満身創痍ながらも何か一つの偉業を成し遂げたような誇らしげな笑みを浮かべた。
「ご、ごちそうさま」
「えらいえらい」
 頭でも撫でてあげようかと衝動に駆られる一方で、代わりに別の事を思いつく。記憶を頼りにザックのサイドポケットの中を探ると、確からしい硬質な感触が返ってくる。
「手を出してくれるかしら」
「何? 何かくれるの?」
 一転して期待に瞳を輝かせる少女の小さな手のひらに、私はそっとその置物を載せる。
「よかったら、ご褒美にと思って」
「なあに、これ?」と少女はわかりやすく首を傾げて、「犬……狸、いや猫? でもちょっと違うような……」
 それは、河原町の雑貨屋で半ば場の雰囲気に流されて購入した、あの正体不明の動物の木彫り細工だった。蓮子が唐突に冬山登山の話を持ち出した日でもある。
 別段今日の登山に必要なものでもなかったのにこうして持ち出してしまった理由は、私自身よくわからなかった。どちらかというと、持て余していたという表現の方が正しいようにも思えた。単なる小物でしかないのに、それを自室に飾っておくのはどうにも場違いな気がして。より適切な居場所が別にあるような不可解な印象だけが先行していたが、それをどこに置くべきかはとんと見当がつかなかった。だからこそ私は驚いていた。目の前の少女へあっさりとそれを手渡してしまった自分自身に。
 不思議なことに、少女の手のひらに存在するその置物の姿にはそれほど違和感はなかった。それはむしろ、ここに至ってようやくあるべき場所に収まったのだという気さえしていた。
「私もね、何の動物かよくわからないのよ」
 私がそう言うと、変なの、と少女は口を尖らせながらも、物珍しそうな目つきで手の中の置物を転がして観察していた。一瞬、その瞳の奥に既視感を覚える。
「不思議なこと、好き?」
 思わずそう尋ねると、
「大好き」と小さな蓮子は即答し、「だからこれ、もらっておくわ。折角だから」
「そう。よかった」
 私は静かに微笑む。ここではないどこか、果てのない夢幻を見通そうとする好奇心。その瞳の揺れ動く様は、私の知る友人のそれとよく似ていた。


 雪が、と唐突に少女が呟いたのは、それから間もなくのことだった。
「止んでる!」
 彼女の指摘に驚いて洞穴の出入口の方へと顔を向ける。しかし、私の瞳に映るのはあいも変わらず無秩序に吹き荒ぶ容赦のない風景だけだ。どう考えたって晴天と見間違えるはずはない。私は困惑して首を振る。
「まだ吹雪いてるわ」
「お姉さん、何言ってるの? どう見たって晴れてるのに」
 私が止める間もなく、少女は出入口に向かって軽快に駆け上がっていく。慌ててこちらも腰を浮かせるが、小さな身体を器用に用いる少女は既に洞穴の外へと飛び出さんとする勢いで身を乗り出している。
「ほら見てよ! 陽の光だって——」と前方から少女が威勢の良く、けれどどこか途切れがちに無邪気な声を上げたのを、私はそのとき確かに聞いた。
「待って——」
 私が息せき切って洞穴から顔を出したときには、少女の影は完全に雪煙の中に立ち消えていた。眼前にはただ真っ白な色彩だけが虚ろに広がっている。奇妙なことに、そこには足跡の一つすら残っていない。危ないから戻るよう声を張り上げてみても、応答する者は誰もいなかった。雪原を駆け抜ける風切り音が木々の断末魔のように鼓膜をひゅうひゅうと揺らす。銀の世界が視界を覆う。
(どこへ行ってしまったのだろう)
 吹雪のせいで全くと言っていいほど見通しが効かず、風景の距離感がうまく掴めない。意を決して一歩踏み出した途端、私の片足はふくらはぎの辺りまで深々と沈み込み、遅れて新雪を踏みしめたときのような抵抗が登山靴を通して伝わってきた。気を抜いて倒れでもしたらそのまま地の底まで飲み込まれてしまうように錯覚したが、とはいえあの少女を放っておくわけにもいかない。
 何度か声を枯らさんばかりに叫んではみたものの、それを打ち消すように切り裂くような突風が全てを飲み込んでしまう。風雪を腕で庇いながら立っているのがやっとで、寒さでどんどん全身の関節が凍りついていくのを感じた。
 徐々に頭が冷えていくのに反して、思考はあちらこちらへ散逸していく。
 私は既に死後の世界へ足を踏み入れつつあるのだろうか、と不意に馬鹿げた思想が頭をもたげた。現実の私の身体は薄暗い洞穴の中でゆっくりと外気温と同化しつつあり、混濁した意識の中で私のよく知る友人を象った少女の影が走馬灯のように夢を見せているのではないか。例えば最初から、私以外に誰もいなかったとしたら?
 白い世界が、現実の視界と深層意識、どちらのものかわからなくなる。
 全てが区別なく真っ白に染まり、
 突如、平衡感覚がばらばらに崩れ去っていく。
 白い空間は急速に後退し、切り刻まれた時間が目まぐるしい勢いで入れ替わりをみせ、代わりに私はどこか黒い穴の底へとどこまでも落ち込んでいく。
 気のせいか、遠くから、誰かが私を呼ぶ声がした。よく知っている声。
 聞こえる、私の。
 ————


「——メリー?」
 はっとして声のした方を振り向くと、間近に私のよく知る友人の顔があった。
 遅れて様々な感覚がぽつぽつと立ち現れてくる。差し込む斜陽、古木の香り、引き戸の隙間から流れてくる通りの雑踏、屋内に流れる静寂。一面に雑然と並んだ木彫りの動物たち。
 蓮子の——決して小さくはない蓮子の印象的な瞳。彼女はとても不思議なものを見るような目つきで、じっと私の顔を覗き込んでくる。
「ここ……雑貨屋?」
 独り言のようにそう呟く。私が何かおかしな記憶違いをしていなければ、ここは数日前に蓮子と一緒に立ち寄った河原町の雑貨屋のはずだった。
 蓮子は不意を突かれたように少しの間固まっていたが、
「ちょっとメリーさん……やめてよ、こんな場所で電波なんて」
 とわざとらしく頬を引きつらせて身を引いた。普段なら頭にきているところだけれど、残念ながら、今の私はそれに付き合ってあげられるほどの余裕がない。
「ねぇ、山は?」
「山?」
「ほら……飛騨の山に登ろうって話」
 尋ねると、彼女はゆっくりと目をぱちくりさせた。
「へぇ、メリーに登山の趣味があるなんて知らなかったわ」
「蓮子が言ったのよ」
「言うわけないじゃない、そんなこと」と否定しつつ腕を組んで、近くの柱に寄りかかる。「ねぇメリー、今何月か知ってる?」
「私がそれを——」
 言ったのに、と言い終える前に、ぼんやりと理解が及び始める。蓮子が冗談を言っているようには見えない。であれば、この場でおかしなことを口走っているのはおそらく私の方なのだろう。でも、蓮子と雪山へ入ったことは間違いなく覚えている。そこで道に迷い、小さな友人に出会ったことも。
 蓮子は無言のまま目を細めて、少しの間、何かを考えるような素振りを見せた。
「——まあいいわ。雑貨屋じゃなくカフェの方がよかったかもね。疲れてるみたいだし、今日はもう帰りましょうか」
 さっぱりした表情でそう提案されて拍子抜けしてしまい、自然と肩の力が抜けていく。
「……うん、そうする」
 言われてみると、確かに鈍い疲労感が全身に残留している感じがした。当然といえば当然ともいえた。こちらからすれば、つい先程まで猛吹雪の中をあてもなく彷徨っていた心地だったのだから。私がひどい白昼夢か何かを見ていたわけではなかったとすればの話だけれど。
 本当にただ疲れているだけなのかもしれない。そう思うと、いくらか気分も落ち着いた。自然と思考も現実的になってきて、そういえば昨日はあまり眠れていなかったかもなどと目の前の現実と過去の記憶に都合の良い算段をつけ始める。諦念のため息を吐いて間もなく、柱から離れて近寄ってきた蓮子が私の手元を指差す。
「メリー、それ買うの?」
「え?」
 言われて、今更になって気づく。確かに、何かを両手で包み込んでいるような感触がある。硬質で、それほど重くはなく、ややすべすべとした手触り。
 部屋のカーテンの向こう側でも覗くような気持ちで、恐る恐るゆっくりと手を開いてみると、
「——違う」
 手のひらの上に載っていたのは、私が期待していたものとは違っていた。
 突き出た鼻先、黒い毛に周囲を覆われた丸い目、ややずんぐりとした胴体を支える短い足。
 それは明らかに狸だとわかる、不気味さの欠片もない可愛らしい木彫り細工の置物だった。しかし朧げな記憶を頼りに付近の棚を見回してみても、あの正体不明の動物はどこにも見当たらない。
 呆然として手の上に鎮座する置物に見入っていると、ちょっとそれ見せてよ、と蓮子が手を伸ばしてくる。言われるがままに手渡すと、不意に蓮子は静電気でも走ったかのような声を上げて後ずさりした。
「どうしたの?」
 私が驚いて尋ねると、蓮子はどこかきまりが悪そうな表情を浮かべながら、私の両手を自分の両手で包むように握ってきた。思いも寄らない状況に、背筋が固まる。
 蓮子は私達の手元に視線を向けたまま、言い訳でもする口調で呟いた。
「メリーの手、すごく冷たかったから」
 うん、と頷く。羞恥心の一つも湧いてこなかったのは、蓮子の言葉通りだからだった。彼女の手はびっくりするくらいにとても温かかった。特別に店の中の暖房が効きすぎているわけでも、蓮子の体温が高いわけでもおそらくない。この場の物理法則に反しているのは必然的に私の方だった。
「——しもやけになっちゃいそう」
 遅れて気恥ずかしさが募り始めて、私は誤魔化すように笑って手を解き、持っていた狸の置物を手近の棚へと戻す。とはいえ、置物で溢れかえった狭い店の中を眺め回したところで客と呼べる人間は私達以外には見当たらなかったから、気にかけるような人目はほとんどない。その点に関しては、私の記憶と違わなかった。
「ねぇ蓮子」と言ってから、私は声を潜める。「あの人って、私達が入ってきたときからあそこに座ってた?」
 蓮子は訝しげに眉根を寄せつつも、ええ、と頷いた。
「そう思うけれど。それがどうかした?」
「ううん、それならいいの」
 なんでもないの、と私は首を振って、こちらを追及するような蓮子の視線を無理やりに払いのける。
 店の隅のパイプ椅子に座っている店主らしき老人は、薄い頭を掻きながら退屈げに欠伸を漏らしていて、以前に見かけたあの不気味な目つきの老婦の姿は影も形もなかった。


 その雪山の一件以後に何か不思議な出来事が続いたわけでもなく、ひと月も経つと、自然な忘却の重力にしたがって当時の印象は記憶の泉の底へ向かって沈んでいってしまい、不意に思い出されるということもなくなった。それを強引に引き揚げたのは、雑貨屋を訪れてから半年近く経ち雪の冷たさが恋しくなり始めた夏の頃、馴染みのカフェで対面に腰掛けた友人の言葉だった。
「メリー、前に山に登りたがっていたでしょ」
「言った覚えは全くないけれど」
「そうだったかな。でも、冬に突然登山の話をし始めたの、覚えてない?」
「……ああそういえば、あったかしら。そんなこと」
 その記憶を思い出すのに私は随分と時間を要した。というのも、振り返ってみると掴みどころのない夢遊病のような出来事で、どこからが現実でどこからがそうでなかったのかが自分事ながら定かではなかったからだ。それに、今更になって蓮子がこの話を持ち出してきた理由もわからない。
「私いやよ、こんな暑い時期に登山なんて」
 そう先手を打つと、何の話よ、と蓮子が呆れたように笑った。
「急に思い出したのよ。私もね、登ったことがあるわ」
「どこに?」
「飛騨の雪山に。私がもっとずっと小さかった頃よ」
 注文したコーヒーが運ばれてきて、そこで一度、会話が途切れる。カップからは白い湯気がうっすらと立っている。冷房がよく効いているからと、お互い温かい飲み物をオーダーしていた。
 各々がカップに口をつけてから、「それで?」と私は話の続きを促す。蓮子はどこか神妙に頷いた。
「どういう流れで雪山へ向かうことになったのかはもうまるで覚えていないんだけど、登山の途中で吹雪に遭って迷子になったのよ、私。そうして一人ぼっちでふらふらとしていたら、横穴っていうのかしらね、風避けにもってこいの洞穴を偶然見つけて。そこに潜り込んで、吹雪が止むまで休んでいたの」
「ねぇちょっと待って。それ——」
 と私が口を挟もうとすると、蓮子はまだ話は終わってないからというように手のひらをこちらへ向けてくる。悪戯っぽく微笑んでいるが、しかし、私はおそらくその続きを知っている。
「そしたらびっくり。いつの間にか、隣に知らない女の人がいたのよ。ちょっとしたホラーよね。今思うと当時の私、よく泣き喚きもせずに話しかけたものだわ。ただちゃんと記憶にあるのはそこまでで、そのときにその女性とどんなことを話したのかまでは、実はほとんど覚えてないんだけれど」
「その人」と私は恐る恐る尋ねる。「どんな、人だった?」
「残念ながら、そこもね、記憶からすっぽり抜け落ちてる。私よりも大きい人だったことはぼんやり覚えてるんだけど。ただ、その人のことで唯一はっきり覚えてることがあって……それがこれ」
 と言って、蓮子はどこからか取り出したそれを手のひらに載せて、私の方へと向ける。
「——」
 彼女の手の上にあったのは、紛れもない、あの正体不明の動物の置物だった。
 言葉を失っている私に構わず、蓮子は陽気に話を続ける。
「不思議な話よ。どんな会話の脈絡でこの置物をもらったのかは全く記憶にないのに、そのときその女性からこれをもらったことだけははっきりと覚えているわけ。加えてこの置物、いったい何の動物か未だにわからないのよねぇ。狸に見えたかと思えば猫みたいな顔立ちにも見えてきたり……」
 蓮子はその動物をひとしきり手の上で転がした後、「メリーは知ってる?」と無邪気な調子で尋ねてくる。
「……知ってる」
「えっ!」と蓮子は目を見開いて、「メリー、この動物知ってるの?」
「あ、ううん、そうじゃなくて」
 と我に返った私は、そこで一度深呼吸する。蓮子が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「——冗談よ。私も全然わからないわ。本当に」
「そう?」
「ええ」
 本当に、全然わからなかった。何もかも。
 蓮子の手の上からこちらを射抜くように見つめてくるその動物の表面は、細かい擦り傷や変色といった明らかに長い年月を経た形跡があちこちにみてとれた。故に、蓮子が私を担ぐために用意した大胆な作り話などではなく、嘘偽りのない過去のことなのだろう。
 私はこの奇妙な出来事をどう整理すべきか逡巡し、目の前の友人にそのまま相談してみるという手段をはじめ一考し、けれど間もなく取りやめることにした。たとえ話し始めたところでうまく説明できる自信が全くなかったし、何より、雪に覆い尽くされて境界が曖昧にされたようなこの話に理路整然とした筋道が立つようにはとても思えなかった。秘封倶楽部の日常には、そういった辻褄の合わない些事が割と頻繁に起きる。そしてそれはたぶん、私達以外の人々の周囲にも当たり前にありふれていることだ。誰もそのことに気がつかないだけで。
 だから代わりに、私は一つだけ、私のよく知る友人へ質問をしてみることにした。
「ねぇ蓮子。あなたっていつからブラックで飲めるようになったの?」
 急に話題が逸れたせいか、「何よ、藪から棒に」と蓮子が疑うような目つきをこちらへ向ける。私は気にせず微笑みながらその回答を待った。蓮子は置物を載せた手を引っ込めてから、「まあ、そうね」と軽く咳払いをする。
「何と言ったって、生まれたときからブラック派と言われるくらいに親戚中で名が通っていた蓮子さんですから。自慢じゃないけど、カフェインを摂ってもいい年頃には既にブラック一筋だったと専らの噂よ」
 得意げにそう語り終えた後、おもむろにカップに口をつけた蓮子は「やっぱりここのコーヒー美味しいわね」などと満足そうに頷いている。
 私はといえば、しばらくの間顔を伏せてから「そう言うと思った」と笑って返した。


生まれたときからブラック派です。
依志田
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.100夏後冬前削除
非常に読み応えのある不思議話としてとても良きでした。雪山や横穴の描写も丁寧で臨場感ありました。幼いころの蓮子とタイムスリップ? したらしきメリーが出会っていて……という構図にどうして雪山という舞台装置が与えられたのだろう、というところが不思議だったな、と思いました。
4.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。遭難とミステリアスな出来事、秘封倶楽部と相性が良いと思いました。
5.100南条削除
おもしろかったです
これぞまさにすこしふしぎといったお話でした
秘封倶楽部にはこういう話が似合いますね
6.70名前が無い程度の能力削除
お話良かったけど、ちょっと文章が読みにくかった
7.80福哭傀のクロ削除
世にも奇妙な秘封物語として楽しめました。
ところどころなんとなく読みにくさを感じましたが、
雰囲気はとても良くできていたと思います。
もう1癖なり1捻りあったほうが好みかもしれませんが、
それはそれとして面白かったです。
8.90東ノ目削除
不思議な雰囲気で面白かったです。あと、蓮メリの会話のテンポが個人的に好みでした