私は自分の種族の歴史について、あまり詳しく知らない。
ただ、山に棲む巨大な鬼面の蜘蛛として人々に恐れられ、かの源頼光に退治された頃よりもずっと前―大和朝廷がこの国を治めていた時代、”土蜘蛛”とは妖怪を指す言葉ではなかった、ということは知っている。
天皇に従わなかったゆえに、人間でありながら岩窟に棲む異形の者として描かれ、権力者たちに誅殺されていった人々。
恐怖されるどころか、軽蔑され、存在ごと世から切り離され、取り除かれていった者たち。
高名な歴史書を書いた人間たちは、彼らを”土蜘蛛”と呼んだ。
そして今、すべてを受け入れると吹聴されているこの郷においても、結局私たち土蜘蛛は地上に居続けることはできなかった。
もはや、そういう運命なのかもしれない、と私は考えている。
1
用済みとなった石切り場の解体作業を終え日当を受け取った後、私は早々に職場の仲間と別れ、急いで帰路についた。
とにかく、一刻も早く帰ることしか頭になかった。
家に帰ると、作業着からそれ専用のつなぎに着替え、玄関近くの戸棚から斧と包装紙の束を取り出し、かごに詰める。そのまま長靴を履いてうっかり家を飛び出しそうになったが、これから行う作業において一番大事な道具ともいえる肉切り包丁を忘れていることに気づき、慌てて台所の壁にかかっているそれを籠に入れた。
「よし…これで忘れ物ないね」
戸締りをして、再び家を出る。向かう先は近所の洞穴。今朝、縦穴の真下に張ってある網に引っかかっていた死体を隠した場所だ。
私はそこまで見境なく人間を食べるわけではない。同族の中には、かつて生きている人間を襲って喰っていた者も居たようだけれど、そういう連中はこの郷ができる前にいつの間にか消えてしまった。
そもそも、地底に出口ができる前は人間の出入りなど全くなかったため、酒と獣の肉、野菜を適当に食べて過ごす生活で満足していた。ただ、例の異変をきっかけに地底への入り口となる大きな縦穴ができて、地上の人間がここを訪れるようになってからは、少し話が変わった。
あの深い深い縦穴を無事に通り抜けられる人間というのは、空を飛べたり魔法が使えたりするような酔狂者以外にはほとんどいない。では、それ以外の地底を訪れる人間とはどういう者か。
オブラートに包まずに言えば、自殺志願者だ。
彼らは地底の縦穴を飛び降り自殺に使うのである。
人間にもほかの食べ物と同じようにまずいのと旨いのがいる。ほとんど食べたことがないのでよく分からないが、心身ともに健康で、毎日を楽しく過ごしている人間の死体は、そこまで美味しくない、らしい。美味しいのはその逆で、精神の髄から病みきった人間だ。そういった人間が都合よく私のところへ飛び込んでくるようになったのだ。食べない理由などなかった。
ただ、大半の人間は落下の衝撃でぺしゃんこになってしまい、釣瓶落としに食べられたり、最悪の場合シデムシが集ったりして駄目になってしまう。そこで私は、縦穴の出口に網を張っておくことで、飛び込んできた人間が引っかかるようにした。
今回の死体もそうして捕まえた死体だった。
冷暗な洞穴に置かれていた死体は、幸いにも腐敗が進んだり虫が集ったりすることなく、きれいな状態を保っており、私はひとまず安堵した。
頬のこけた、痩せた男の亡骸だ。歳は六十くらいだろうか。何を思ってあの縦穴に飛び込んだのかは私の知るところではないけれど、体型から判断するに恐らく貧しさに耐えかねて死んだのだろう。
藍色の着物を脱がすと、背中には大きな打撲傷があった。落ちてくる最中、穴の側面にぶつかったのだろうか。食べる分には、その部分だけ取り除けばなんの問題もない。
私は籠を背中から下ろし、斧を取り出す。腰を落とし、半身の姿勢を取ると、その刃を男の脚の付け根にあてがった。
2
男の死体を見つけてからおおよそ二週間が経った。あれ以来落ちてくる人間はいなかった。まあ、そんなにたくさん身投げする人がいても心配になるから、そこまで残念には思わない。
彼を解体した翌日、新鮮な肉は煮つけにして職場に持っていき振舞った。ただ、それでもまだ使い切れなかった肉が大量に残ったため、それらはすべて干し肉にして保存することにした。
それも、残すところ二枚。
思っていた通り、いや想像していた以上に彼は美味だった。旨味のほかに適度な渋味や酸味が複雑に組み合わさって感じられ、どこか懐かしささえ覚える味わいだった。もうこれしか残っていないのか、と新聞紙を開いて出てきた薄い干し肉を見ると思わずため息が漏れる。
今まで通り私だけで食べてしまってもよいのだけれど、せっかく2枚残っているのだから、友人の家で酒のつまみにしながら飲むのも楽しいだろう。そう考えた私はとりあえずパルスィの家に向かうことにした。
パルスィは華奢で小柄な体躯の割にはよく飲む。
焼酎をとくとくと喉に流し込み、干し肉を千切って口に放ると、しばらく間を置いて、
「…まぁ、美味しいわね」
と仏頂面のまま言ってきた。彼女がものを褒めるとき感情を表に出したがらないのはいつものことで、私がそれをいちいち気にすることはない。
「でしょー。不思議なもので、同じ人間にも味に差があるんだよね。鹿や牛は調理の仕方にもよるけどさ、まともに食えないくらい不味いってことはないじゃない」
「うん」
「でもね、人間はさ、死んだときの精神状態によって味が変わるんだよ」
「…へぇ?」
「地底に落ちてくる人間なんてみんな病んでるから美味しくって良いんだけどね。えーっと、いつだったかな、まぁとにかくずーっと前に、ちょっと気性の荒い友人がいてさ。勇敢な武士と喧嘩した末に殺しちゃったらしいんだけど、彼の肉は筋張っていて、臭みがあって食えたもんじゃなかった、とか言ってた」
「ふぅん…」
私がそう言うと、パルスィは顔をうつむけてしばし考えるそぶりを見せた。そして、干し肉を再び手に取り、よく噛んで飲み込んでから、
「それって土蜘蛛だけかもしれないわね。私は特別美味しい人間の肉も、特別不味い人間の肉も食べたことはないわ」
と言った。
「え、そうなの?」
今まで、どの妖怪も同じように味を感じているものとばかり思っていた。
「ただ…なんだか、この肉からは、強い怨讐の念を感じる」
「え? 肉から怨念を感じ取ることなんて出来るの?」
「いや…ただ、この肉を食べると、妙に力が湧くのよね。私の主食って、嫉妬心や復讐心だから、この肉にもそういった感情が宿っているんじゃないかと、なんとなくそう思っただけ」
「へぇ…でも、面白いね、その話」
干し肉のかけらを手に取り、まじまじと眺める。水気を含んでいたころの赤さはとうに失われ、萎びて黒い色になった硬い肉。
もはやこうなってしまっては、死を前にした彼の心の中がいかなるものだったのか、当然パルスィにも、私にも、知るすべはない。彼にはただ、血肉にまで染みるような怨讐だけが残った。
「…うーん、なんでだろう」
「ふふ、珍しいね。ヤマメがものを真剣に考えているなんて」
「えっ、なんか馬鹿にされている」
「いいや、別に」
「…まぁでも、あんまり考えすぎてもしょうがないか。とりあえず飲もうっと。私が持ってきた酒だし」
そう私が言うと、パルスィは何か言いかけたがすぐに口をつぐんで、
「…そうね」
とだけ言い、焼酎の瓶を傾けて空になっていた私の猪口に酒を注ぎ入れた。
「ありがとー」
自分でも理由は分からないのだけれど、手に持っていた肉の切れ端は何となく食べようという気にならず、とりあえず上着のポケットに仕舞った。空いた右手で、なみなみまで焼酎に満ちた器を持ち上げる。
3
酒に酔うとその人が隠している本性が現れると言われる。
それが本当かどうかは分からないが、ヤマメについてこれを当てはめると、普段は明朗で細かいことを気にしない彼女は、実のところ非常に繊細で、一つの事柄について悶々と考えてしまう性質を隠しているということになる。
おそらく、実際そうなのだろう。今日も例によって、焼酎を飲めば飲むほどいつもの彼女の調子は鳴りを潜め、昔の苦労話や嘆き節を言い続けた。忌憚なく言えば、私にとっては質の良い負の感情を感じて実に結構だったのだが、とりあえず頷きながら黙って彼女の話を聞くことにした。
彼女の話の中でも、“土蜘蛛”という言葉はもともと大和朝廷に従わなかった豪族の蔑称なのだ、という話はこれまで本当に何回も聞いた覚えがあった。ただ、それを話すたび決まって、ヤマメの顔は肌から滲み出ているような寂しさに覆われる。その表情を見て、その話は前も聞いたよ、などということはできなかった。一千年以上前の時代から抱き続けている悲しみを吐露されてなお、それを無下に扱うことができる者など果たしているのだろうか。
ヤマメが来てから四時間ほど経って、二人とも猪口を手に取る回数が減り、そろそろお開きにしようかと私が言い出すと、ヤマメは「うん」と小さな返事をした。
その帰り際、伏し目がちに彼女が言った言葉は妙に私の心に引っ掛かった。
「私たちにはね、負け組の血が流れているんだよ」
「……はあ」
「…あ、いや、みんなってのは、パルスィたちのことじゃなくてね…」
「……」
ヤマメはどこか諦観の念をも感じさせる目をして、
「この干し肉が美味しいのは、きっとそのせい」と言った。
そして、陰のある笑みを浮かべると、今日は本当にありがとうね、と言って私の家を出た。
人間の干し肉の味。
美味しい、とは言ったが、はっきり言って獣の干し肉と大して味は変わらない気がした。
ただ、ヤマメに食べさせてもらった肉からは、口に入れたその瞬間に、煙となって漂ってくるような恨みの念を感じた。
今思い返すと、彼女がくよくよと答えの見つからない問いについて悩み出すようになったのは、私がそれをうっかり口にしてしまってからだった。考えすぎてもしょうがないか、と言いながらも、彼女は男の死についてやけに考え込んでいた。
なぜ彼は死なねばならなかったのだろう。
なぜ彼は恨みを抱きながら地の底に落ちていったのだろう。
彼女の話を聞いていただけの私だったが、おおよそ予想はついた。ヤマメが、彼の背中に黒い内出血の痕があると言っていたことも手掛かりになった。
思うに彼は、何者かに後ろから殴られて穴に落とされたのではないか。
酔っていつもの調子を失っている彼女を放っておいていいのだろうか。そう悩んだ末に私は、我が家を出た彼女の後を気付かれないように追い始めた。何となくであったが、彼女がまっすぐ家に帰ることはないだろうという予感がしていた。
風穴を通る風が、先ほどから私をたびたび襲う胃の不快感や睡魔を中和してくれた。遠くに見えるヤマメも、酔いを醒まそうとしているのか頭を時折激しく揺すりながら、それでもしっかりとした足取りで歩いている。
そして予想通り彼女は自宅を通り過ぎ、それから五分ほどかけて、地底の入り口である縦穴の終着点、巨大な網が張り巡らされた場所で足を止めた。
4
どうして二週間前は気づかなかったのだろう。男の死体があった場所の付近を探ると、網を支える頑丈な縦糸がちぎれている箇所を見つけた。そして、その真下の地面には、私の拳2個分ほどの頭部をもつ大きな槌があった。
手に取る。沈み込むような重さが腕に伝わってくる。
柄のラベルを見ると、旧都では聞いたことのない屋号の銘が刻まれていた。
それで、おおよそ男が死んだ直接的な理由は察することができた。パルスィから”怨讐”という言葉を聞いたとき瞬間的に頭に沸いた想像と、大方同じだった。
それから私は、休む間もなく糸を岩肌に引っかけ続け、長い長い縦穴を上りきった。ものの数分もかかっていないだろう。酒のせいで気分は優れなかったけれど、頬を掠める冷たい風のおかげで集中して穴を上り続けることができた。
地底に通じる穴は私の背丈位の高さしかない小さな洞の中にあり、洞の出口からは、雲一つない秋晴れの空が見えた。先ほど地底に居たときは夜だと思っていたけれど、いま地上の世界はどうやら朝か昼のようだった。
ゆっくり歩き、洞から出る。背の低い雑草ばかりが生えた野原が広がっている。
幾年ぶりの太陽の光はやけに眩しい。
自分でも何がしたいのか、はっきりとは分からなかった。
ただ、彼がこのまま私の胃の中に入って、跡形もなく地底に埋もれてしまうのは、何故かどうしても嫌だった。それではまるで、人間として生きた彼を完全な地底の住人-それこそ、私たち土蜘蛛にしてしまうようだったから。
足元の地面を掘り返す。草の根が張っていて少し難儀したが、ちょうどいい大きさの穴ができた。そして上着のポケットから干し肉の欠片を取り出し、埋める。最後に、近くに落ちていた木の枝を立てた。
子供が作る昆虫のお墓のようだったが、これが彼が地上にいた証になればいいと思った。中に入っているのは、ほんの、ほんの一かけらだけれども。これを知っているのは、私だけかもしれないけれども。
だが、まじまじとそれを眺めていると、自分にだんだん呆れてきた。
「…おかしいなぁ」
なぜ、わざわざ地上まで出向いてこんなことをしているのか。
彼の死体を最初に見たときは何とも思わなかったのに。
嬉々として捌き、煮て、干したはずなのに。
…だが、彼が本当に殺され、突き落とされたのであれば。
彼の死に顔を知るものが、私だけしかいないのであれば。
私はきっと、悲しまねばならない。弔わねばならない。
衝動的な思いだった。
「…酔ってるからだ。酔ってるからに違いない」
気づいたら声が出ていた。自分の愚かな思いを、行いを否定したくてたまらなかった。
私は行儀悪く胡坐をかいて腕を組み、墓の前に座り込む。
いっそここでひと眠りして、酒を飛ばそう。そうすればこの馬鹿馬鹿しい同情も消えるに違いない。
5
目を閉じてから数分。ようやく眠れそうだなと思ったころ、かすかに足音が聞こえた。瞼を開けると、ぼんやりと滲んだ視界の端に人間の女が映った。野原の向こうからこちらに向かって来る。
洞の近くまで来て私の姿を捉えると、女は歩みを止めた。
三十歳くらいだろうか。顔のかたちは整ってはいるが、目の下には濃い隈があった。少し大きめの手提げ鞄に、少し濃い藍染の着物を着ている。その藍色にははっきりと見覚えがあった。あの男が着ていたものとよく似ている。
手提げ鞄からは、薄い紙に包まれた白い花がちらりと見えた。目を疑ったが、どう見てもあの花だった。そうと分かった瞬間、それまで私を支配していた眠気が一瞬で飛ぶ。
もしかすると、この人間は。
「…あなた、妖怪ですね」
どこか諦めを帯びた表情を浮かべて、女はぼそりと呟いた。私は黙って頷く。
「ええと…取って食べるのは、少し待ってもらえますか」
細いが、聞き取りやすい声だった。
「…えっと、自殺しに来たの?」私は訊いた。
「違います」
「そっか。…じゃあ、言われた通り、取って食べよっかな。あなたの用が済むまでここで待ってるよ」
私が精いっぱい平静を装ってそう言うと、彼女は目の端に涙を浮かべて、
「そういう運命なんですかね、うちの人たちって」と震える声で言った。
「……いや、そんなことないんじゃない。…早く行きなよ」
私は私で、声が震えないようにするのに、必死だった。
女はそれ以上何も言わず、顔を俯けて洞の方へと歩き始めた。
足音が横を通り過ぎていくのを待つ。
私は静かに目を閉じる。さっきよりもずっと早く、まどろみは私を優しく包んだ。
--
ヤマメが縦穴を上っていくのを、私はただ見ているしかなかった。飛んで追いかけるのも出来ないことではない。だが、彼女が先ほど家を出るときに見せた暗い笑みを思い出すと、やはりここで彼女を引き留めるのは躊躇われた。
地上で何かやりたいことがあるのだろう。きっと本人にしか分からない、本人しか知らないほうがいいことだ。
だとすれば、私の役割は彼女が無事に帰ってくるのを待つことだけだった。
それから少しして、一輪の白い花が落ちてきた。ヤマメが張った網をすり抜けて、私の足元に落ちてくる。
菊の花だった。
この花が人間にとってどういう意味を持つのかは、地底に長いこと住んでいる私にも分かる。加えて言えば、誰に捧げるための花なのかも、何となく分かった。
「……」
私は地面に落ちた菊を手に取る。一、二枚花弁が落ちてしまったがしょうがない。そして、少し粘り気のある横糸を探して、降りてきたヤマメが見やすいような位置に菊を貼り付けた。
「…まぁ、これでいいか」
もう私がここにいなくても大丈夫だろう。家に戻るため歩き出す。
心なしか、自然と自分の口角が上がっている気がした。
ただ、山に棲む巨大な鬼面の蜘蛛として人々に恐れられ、かの源頼光に退治された頃よりもずっと前―大和朝廷がこの国を治めていた時代、”土蜘蛛”とは妖怪を指す言葉ではなかった、ということは知っている。
天皇に従わなかったゆえに、人間でありながら岩窟に棲む異形の者として描かれ、権力者たちに誅殺されていった人々。
恐怖されるどころか、軽蔑され、存在ごと世から切り離され、取り除かれていった者たち。
高名な歴史書を書いた人間たちは、彼らを”土蜘蛛”と呼んだ。
そして今、すべてを受け入れると吹聴されているこの郷においても、結局私たち土蜘蛛は地上に居続けることはできなかった。
もはや、そういう運命なのかもしれない、と私は考えている。
1
用済みとなった石切り場の解体作業を終え日当を受け取った後、私は早々に職場の仲間と別れ、急いで帰路についた。
とにかく、一刻も早く帰ることしか頭になかった。
家に帰ると、作業着からそれ専用のつなぎに着替え、玄関近くの戸棚から斧と包装紙の束を取り出し、かごに詰める。そのまま長靴を履いてうっかり家を飛び出しそうになったが、これから行う作業において一番大事な道具ともいえる肉切り包丁を忘れていることに気づき、慌てて台所の壁にかかっているそれを籠に入れた。
「よし…これで忘れ物ないね」
戸締りをして、再び家を出る。向かう先は近所の洞穴。今朝、縦穴の真下に張ってある網に引っかかっていた死体を隠した場所だ。
私はそこまで見境なく人間を食べるわけではない。同族の中には、かつて生きている人間を襲って喰っていた者も居たようだけれど、そういう連中はこの郷ができる前にいつの間にか消えてしまった。
そもそも、地底に出口ができる前は人間の出入りなど全くなかったため、酒と獣の肉、野菜を適当に食べて過ごす生活で満足していた。ただ、例の異変をきっかけに地底への入り口となる大きな縦穴ができて、地上の人間がここを訪れるようになってからは、少し話が変わった。
あの深い深い縦穴を無事に通り抜けられる人間というのは、空を飛べたり魔法が使えたりするような酔狂者以外にはほとんどいない。では、それ以外の地底を訪れる人間とはどういう者か。
オブラートに包まずに言えば、自殺志願者だ。
彼らは地底の縦穴を飛び降り自殺に使うのである。
人間にもほかの食べ物と同じようにまずいのと旨いのがいる。ほとんど食べたことがないのでよく分からないが、心身ともに健康で、毎日を楽しく過ごしている人間の死体は、そこまで美味しくない、らしい。美味しいのはその逆で、精神の髄から病みきった人間だ。そういった人間が都合よく私のところへ飛び込んでくるようになったのだ。食べない理由などなかった。
ただ、大半の人間は落下の衝撃でぺしゃんこになってしまい、釣瓶落としに食べられたり、最悪の場合シデムシが集ったりして駄目になってしまう。そこで私は、縦穴の出口に網を張っておくことで、飛び込んできた人間が引っかかるようにした。
今回の死体もそうして捕まえた死体だった。
冷暗な洞穴に置かれていた死体は、幸いにも腐敗が進んだり虫が集ったりすることなく、きれいな状態を保っており、私はひとまず安堵した。
頬のこけた、痩せた男の亡骸だ。歳は六十くらいだろうか。何を思ってあの縦穴に飛び込んだのかは私の知るところではないけれど、体型から判断するに恐らく貧しさに耐えかねて死んだのだろう。
藍色の着物を脱がすと、背中には大きな打撲傷があった。落ちてくる最中、穴の側面にぶつかったのだろうか。食べる分には、その部分だけ取り除けばなんの問題もない。
私は籠を背中から下ろし、斧を取り出す。腰を落とし、半身の姿勢を取ると、その刃を男の脚の付け根にあてがった。
2
男の死体を見つけてからおおよそ二週間が経った。あれ以来落ちてくる人間はいなかった。まあ、そんなにたくさん身投げする人がいても心配になるから、そこまで残念には思わない。
彼を解体した翌日、新鮮な肉は煮つけにして職場に持っていき振舞った。ただ、それでもまだ使い切れなかった肉が大量に残ったため、それらはすべて干し肉にして保存することにした。
それも、残すところ二枚。
思っていた通り、いや想像していた以上に彼は美味だった。旨味のほかに適度な渋味や酸味が複雑に組み合わさって感じられ、どこか懐かしささえ覚える味わいだった。もうこれしか残っていないのか、と新聞紙を開いて出てきた薄い干し肉を見ると思わずため息が漏れる。
今まで通り私だけで食べてしまってもよいのだけれど、せっかく2枚残っているのだから、友人の家で酒のつまみにしながら飲むのも楽しいだろう。そう考えた私はとりあえずパルスィの家に向かうことにした。
パルスィは華奢で小柄な体躯の割にはよく飲む。
焼酎をとくとくと喉に流し込み、干し肉を千切って口に放ると、しばらく間を置いて、
「…まぁ、美味しいわね」
と仏頂面のまま言ってきた。彼女がものを褒めるとき感情を表に出したがらないのはいつものことで、私がそれをいちいち気にすることはない。
「でしょー。不思議なもので、同じ人間にも味に差があるんだよね。鹿や牛は調理の仕方にもよるけどさ、まともに食えないくらい不味いってことはないじゃない」
「うん」
「でもね、人間はさ、死んだときの精神状態によって味が変わるんだよ」
「…へぇ?」
「地底に落ちてくる人間なんてみんな病んでるから美味しくって良いんだけどね。えーっと、いつだったかな、まぁとにかくずーっと前に、ちょっと気性の荒い友人がいてさ。勇敢な武士と喧嘩した末に殺しちゃったらしいんだけど、彼の肉は筋張っていて、臭みがあって食えたもんじゃなかった、とか言ってた」
「ふぅん…」
私がそう言うと、パルスィは顔をうつむけてしばし考えるそぶりを見せた。そして、干し肉を再び手に取り、よく噛んで飲み込んでから、
「それって土蜘蛛だけかもしれないわね。私は特別美味しい人間の肉も、特別不味い人間の肉も食べたことはないわ」
と言った。
「え、そうなの?」
今まで、どの妖怪も同じように味を感じているものとばかり思っていた。
「ただ…なんだか、この肉からは、強い怨讐の念を感じる」
「え? 肉から怨念を感じ取ることなんて出来るの?」
「いや…ただ、この肉を食べると、妙に力が湧くのよね。私の主食って、嫉妬心や復讐心だから、この肉にもそういった感情が宿っているんじゃないかと、なんとなくそう思っただけ」
「へぇ…でも、面白いね、その話」
干し肉のかけらを手に取り、まじまじと眺める。水気を含んでいたころの赤さはとうに失われ、萎びて黒い色になった硬い肉。
もはやこうなってしまっては、死を前にした彼の心の中がいかなるものだったのか、当然パルスィにも、私にも、知るすべはない。彼にはただ、血肉にまで染みるような怨讐だけが残った。
「…うーん、なんでだろう」
「ふふ、珍しいね。ヤマメがものを真剣に考えているなんて」
「えっ、なんか馬鹿にされている」
「いいや、別に」
「…まぁでも、あんまり考えすぎてもしょうがないか。とりあえず飲もうっと。私が持ってきた酒だし」
そう私が言うと、パルスィは何か言いかけたがすぐに口をつぐんで、
「…そうね」
とだけ言い、焼酎の瓶を傾けて空になっていた私の猪口に酒を注ぎ入れた。
「ありがとー」
自分でも理由は分からないのだけれど、手に持っていた肉の切れ端は何となく食べようという気にならず、とりあえず上着のポケットに仕舞った。空いた右手で、なみなみまで焼酎に満ちた器を持ち上げる。
3
酒に酔うとその人が隠している本性が現れると言われる。
それが本当かどうかは分からないが、ヤマメについてこれを当てはめると、普段は明朗で細かいことを気にしない彼女は、実のところ非常に繊細で、一つの事柄について悶々と考えてしまう性質を隠しているということになる。
おそらく、実際そうなのだろう。今日も例によって、焼酎を飲めば飲むほどいつもの彼女の調子は鳴りを潜め、昔の苦労話や嘆き節を言い続けた。忌憚なく言えば、私にとっては質の良い負の感情を感じて実に結構だったのだが、とりあえず頷きながら黙って彼女の話を聞くことにした。
彼女の話の中でも、“土蜘蛛”という言葉はもともと大和朝廷に従わなかった豪族の蔑称なのだ、という話はこれまで本当に何回も聞いた覚えがあった。ただ、それを話すたび決まって、ヤマメの顔は肌から滲み出ているような寂しさに覆われる。その表情を見て、その話は前も聞いたよ、などということはできなかった。一千年以上前の時代から抱き続けている悲しみを吐露されてなお、それを無下に扱うことができる者など果たしているのだろうか。
ヤマメが来てから四時間ほど経って、二人とも猪口を手に取る回数が減り、そろそろお開きにしようかと私が言い出すと、ヤマメは「うん」と小さな返事をした。
その帰り際、伏し目がちに彼女が言った言葉は妙に私の心に引っ掛かった。
「私たちにはね、負け組の血が流れているんだよ」
「……はあ」
「…あ、いや、みんなってのは、パルスィたちのことじゃなくてね…」
「……」
ヤマメはどこか諦観の念をも感じさせる目をして、
「この干し肉が美味しいのは、きっとそのせい」と言った。
そして、陰のある笑みを浮かべると、今日は本当にありがとうね、と言って私の家を出た。
人間の干し肉の味。
美味しい、とは言ったが、はっきり言って獣の干し肉と大して味は変わらない気がした。
ただ、ヤマメに食べさせてもらった肉からは、口に入れたその瞬間に、煙となって漂ってくるような恨みの念を感じた。
今思い返すと、彼女がくよくよと答えの見つからない問いについて悩み出すようになったのは、私がそれをうっかり口にしてしまってからだった。考えすぎてもしょうがないか、と言いながらも、彼女は男の死についてやけに考え込んでいた。
なぜ彼は死なねばならなかったのだろう。
なぜ彼は恨みを抱きながら地の底に落ちていったのだろう。
彼女の話を聞いていただけの私だったが、おおよそ予想はついた。ヤマメが、彼の背中に黒い内出血の痕があると言っていたことも手掛かりになった。
思うに彼は、何者かに後ろから殴られて穴に落とされたのではないか。
酔っていつもの調子を失っている彼女を放っておいていいのだろうか。そう悩んだ末に私は、我が家を出た彼女の後を気付かれないように追い始めた。何となくであったが、彼女がまっすぐ家に帰ることはないだろうという予感がしていた。
風穴を通る風が、先ほどから私をたびたび襲う胃の不快感や睡魔を中和してくれた。遠くに見えるヤマメも、酔いを醒まそうとしているのか頭を時折激しく揺すりながら、それでもしっかりとした足取りで歩いている。
そして予想通り彼女は自宅を通り過ぎ、それから五分ほどかけて、地底の入り口である縦穴の終着点、巨大な網が張り巡らされた場所で足を止めた。
4
どうして二週間前は気づかなかったのだろう。男の死体があった場所の付近を探ると、網を支える頑丈な縦糸がちぎれている箇所を見つけた。そして、その真下の地面には、私の拳2個分ほどの頭部をもつ大きな槌があった。
手に取る。沈み込むような重さが腕に伝わってくる。
柄のラベルを見ると、旧都では聞いたことのない屋号の銘が刻まれていた。
それで、おおよそ男が死んだ直接的な理由は察することができた。パルスィから”怨讐”という言葉を聞いたとき瞬間的に頭に沸いた想像と、大方同じだった。
それから私は、休む間もなく糸を岩肌に引っかけ続け、長い長い縦穴を上りきった。ものの数分もかかっていないだろう。酒のせいで気分は優れなかったけれど、頬を掠める冷たい風のおかげで集中して穴を上り続けることができた。
地底に通じる穴は私の背丈位の高さしかない小さな洞の中にあり、洞の出口からは、雲一つない秋晴れの空が見えた。先ほど地底に居たときは夜だと思っていたけれど、いま地上の世界はどうやら朝か昼のようだった。
ゆっくり歩き、洞から出る。背の低い雑草ばかりが生えた野原が広がっている。
幾年ぶりの太陽の光はやけに眩しい。
自分でも何がしたいのか、はっきりとは分からなかった。
ただ、彼がこのまま私の胃の中に入って、跡形もなく地底に埋もれてしまうのは、何故かどうしても嫌だった。それではまるで、人間として生きた彼を完全な地底の住人-それこそ、私たち土蜘蛛にしてしまうようだったから。
足元の地面を掘り返す。草の根が張っていて少し難儀したが、ちょうどいい大きさの穴ができた。そして上着のポケットから干し肉の欠片を取り出し、埋める。最後に、近くに落ちていた木の枝を立てた。
子供が作る昆虫のお墓のようだったが、これが彼が地上にいた証になればいいと思った。中に入っているのは、ほんの、ほんの一かけらだけれども。これを知っているのは、私だけかもしれないけれども。
だが、まじまじとそれを眺めていると、自分にだんだん呆れてきた。
「…おかしいなぁ」
なぜ、わざわざ地上まで出向いてこんなことをしているのか。
彼の死体を最初に見たときは何とも思わなかったのに。
嬉々として捌き、煮て、干したはずなのに。
…だが、彼が本当に殺され、突き落とされたのであれば。
彼の死に顔を知るものが、私だけしかいないのであれば。
私はきっと、悲しまねばならない。弔わねばならない。
衝動的な思いだった。
「…酔ってるからだ。酔ってるからに違いない」
気づいたら声が出ていた。自分の愚かな思いを、行いを否定したくてたまらなかった。
私は行儀悪く胡坐をかいて腕を組み、墓の前に座り込む。
いっそここでひと眠りして、酒を飛ばそう。そうすればこの馬鹿馬鹿しい同情も消えるに違いない。
5
目を閉じてから数分。ようやく眠れそうだなと思ったころ、かすかに足音が聞こえた。瞼を開けると、ぼんやりと滲んだ視界の端に人間の女が映った。野原の向こうからこちらに向かって来る。
洞の近くまで来て私の姿を捉えると、女は歩みを止めた。
三十歳くらいだろうか。顔のかたちは整ってはいるが、目の下には濃い隈があった。少し大きめの手提げ鞄に、少し濃い藍染の着物を着ている。その藍色にははっきりと見覚えがあった。あの男が着ていたものとよく似ている。
手提げ鞄からは、薄い紙に包まれた白い花がちらりと見えた。目を疑ったが、どう見てもあの花だった。そうと分かった瞬間、それまで私を支配していた眠気が一瞬で飛ぶ。
もしかすると、この人間は。
「…あなた、妖怪ですね」
どこか諦めを帯びた表情を浮かべて、女はぼそりと呟いた。私は黙って頷く。
「ええと…取って食べるのは、少し待ってもらえますか」
細いが、聞き取りやすい声だった。
「…えっと、自殺しに来たの?」私は訊いた。
「違います」
「そっか。…じゃあ、言われた通り、取って食べよっかな。あなたの用が済むまでここで待ってるよ」
私が精いっぱい平静を装ってそう言うと、彼女は目の端に涙を浮かべて、
「そういう運命なんですかね、うちの人たちって」と震える声で言った。
「……いや、そんなことないんじゃない。…早く行きなよ」
私は私で、声が震えないようにするのに、必死だった。
女はそれ以上何も言わず、顔を俯けて洞の方へと歩き始めた。
足音が横を通り過ぎていくのを待つ。
私は静かに目を閉じる。さっきよりもずっと早く、まどろみは私を優しく包んだ。
--
ヤマメが縦穴を上っていくのを、私はただ見ているしかなかった。飛んで追いかけるのも出来ないことではない。だが、彼女が先ほど家を出るときに見せた暗い笑みを思い出すと、やはりここで彼女を引き留めるのは躊躇われた。
地上で何かやりたいことがあるのだろう。きっと本人にしか分からない、本人しか知らないほうがいいことだ。
だとすれば、私の役割は彼女が無事に帰ってくるのを待つことだけだった。
それから少しして、一輪の白い花が落ちてきた。ヤマメが張った網をすり抜けて、私の足元に落ちてくる。
菊の花だった。
この花が人間にとってどういう意味を持つのかは、地底に長いこと住んでいる私にも分かる。加えて言えば、誰に捧げるための花なのかも、何となく分かった。
「……」
私は地面に落ちた菊を手に取る。一、二枚花弁が落ちてしまったがしょうがない。そして、少し粘り気のある横糸を探して、降りてきたヤマメが見やすいような位置に菊を貼り付けた。
「…まぁ、これでいいか」
もう私がここにいなくても大丈夫だろう。家に戻るため歩き出す。
心なしか、自然と自分の口角が上がっている気がした。
ヤマメが抱いている土蜘蛛という存在への深い思いが感じられてよかったです
わけもわからず食料を弔うヤマメが素晴らしかったです
初めての(東方)小説作品
初めて(まともに書き上げることができた)書いた小説作品
(書くこと自体が)初めての小説作品
どれなのかはわかりませんが、
1つ目なら1人の東方好きとして感謝し、2つ目なら意識が高く、3つ目なら実にお見事だと思います。
食べた人の人生に思いを馳せるという発想は実に妖怪的であり面白いです。
少しだけ文章の繰り返し(死体の味の説明)が気になったこと、
死体の味は死ぬまでの人生によるのかその瞬間によるのか
(最初は前者で説明しているように読み取ったが途中で後者にすり替わったようなそれとも両立するのかちょっと読み取る力が足りなかった)
その辺が少し気になりました。
パルスィとの会話はや考え方の違いはとても興味深いですし
最後の締め方はある程度賛否両論ありそうに感じたうえで、
私はかなり好きでした。
次回作を楽しみに待っております。
余韻のある終わり方がとても良かったです。
人食いとしての無慈悲な心と敗残者として共感する心とで揺れ動いてるヤマメが大変良いですね
お見事でした。