「釣れますか?」
針妙丸が霧の湖の畔で釣り糸を垂らしていると、近くの洋館に住む人間のメイドが声をかけてきた。
「あんまりね。でっかい湖だから、でっかい魚がいると思ったんだけどなあ」
メイドの十六夜咲夜は針妙丸の片端に置かれた魚籠を覗いた。針妙丸の背丈程もある箱魚籠の水面は、小魚の鱗で銀箔を蒔いたかのように光っている。霧の湖の魚の少なさを考慮するならば上々の釣果ではなかろうか。しかし、どうもこの小人にとっては、沢山の小魚よりも一匹の大魚らしい。
「ここの湖は生命に乏しいのよ。水は澄んでいて綺麗だけれど、大きな魚を養うことができるだけの栄養は無いわよ」
「妖精が飛んでいたから、魚もいるんじゃないの?」
妖精が飛んでいる場所は優れた釣り場。妖精は生命力に溢れる場所を好むことに着目した、幻想郷の釣り師にとっては常識の法則である。
「妖精って、氷精のことでしょ。あれはダメよ。普通の妖精が寄りつかない場所を好む外れ値だから」
「そうなのか。残念」
「ああでも、人魚ならいるわよ」
「知ってる。でも私が釣りたいのは半分魚の巨女じゃなくて、全身魚の巨魚なの」
針妙丸は諦めて釣り竿――厳密には竿ではなく縫い針なのだが、紛らわしいので竿と呼ぶ――を引き上げた。
「そういやあんた、釣りに詳しそうね。他に巨大な魚がいる釣り場、知らない?」
針妙丸は咲夜に聞いた。
「うーん。そういえば、潤美という名前の漁師が時々こっちに大きな魚を売りに来るわね。彼女が売っているのは養殖魚だけれど、養殖で育つなら、野生でも同じくらいのサイズで生息しているんじゃない?」
「耳寄りね。その潤美って人、どこから来ているか分かる?」
「三途の川らしいわよ」
「うげっ。あの世じゃん。あんた、行き方知ってる?」
「私も行ったこと無いから知らないわね。まあ、向こうから人が時々こっちに来ているから、その人達に分かるでしょう。潤美が来たのは昨日だからしばらく来ないだろうけれど、サボり魔の死神くらいならどこかにいるんじゃない?」
「死神かー。気が進まないけれどしょうがないわね」
「玄武の沢ででも釣りをしていればそのうち来ると思うわよ。前にあの辺りで油を売っているのをみたことがあるし」
「いい案ね。もしかしたら沢で大物がかかるかもしれない。ありがとう」
針妙丸は咲夜に礼を述べて、魚籠の中身をリリースして湖を後にした。
***
「釣れますか?」
針妙丸が玄武の沢にある岩の一つに腰掛けて釣り糸を垂らしていると、近くのアジトを拠点としている河童が声をかけてきた。
「ぼちぼちね。まあ、釣れなくても気にはしないわよ。ここにいる目的は、どっちかと言うと人待ちの方だから」
河童の河城にとりは魚籠の中身を覗いた。イワナらしき魚が何尾か入っている。これほどの釣果をぼちぼちなどと謙遜するのだから、この小人は結構な太公望である。
「かなり釣れてるじゃないか」
「そこそこの大きさまでは釣れるんだけれどね。目が覚めるような大物がかからない」
「そりゃそうだ。大物はこんな流れの速い場所をあくせく泳ぎ回るなんてことはしない。もっと流れが緩やかな場所で、どっしりと構えているもんだよ」
「だよねー。でも待ち人はここに来るって聞いたからなー」
「待ち人って誰なんだい」
「死神」
にとりはぎょっとした。他人の幸不幸にはさして興味のない、どちらかと言えば薄情な性格とはいえ、自分が止めなかったせいで自殺者が出たとなってしまっては、向こう一週間は目覚めが悪い。
「待て待て、思い直すんだ。生きていればきっと良いことがある。死ぬにはまだ早い」
「あんたに私の何が分かるっていうの。というか、勘違いしているみたいだけど、死ぬ気は無いよ。釣りのために生きたまま三途の川に行きたいだけ」
「何という釣りキチ」
にとりの呆れ顔には目もくれず、針妙丸はまたイワナを釣り上げた。
「魚は来るんだけれどねえ」
「困ったなあ。誰かが死ぬ気配は無いのだけれど」
「仕事中の死神を捕まえる気は無いよ。サボっている死神が油売りしてるんでしょ」
「ああ、あのサボマイスタか。来るかねえ。しばらく見てないんだよな」
「しばらく来ていないってことは、もうそろそろ来るってことさ」
二人に比べれば相当に長身の女性が会話に割り込んできた。その手に持った鎌で、彼女が探し人の死神だと、針妙丸にはすぐに分かった。
「釣れてるかな?」
「魚はあんまりだけれど、人が釣れたからもう満足よ」
「あたいは文王では無いよ」
太公望は、釣りをしていたときに周の文王に声をかけられ、軍師として彼を補佐するようになったとの逸話がある。そのサクセスストーリーから、太公望は人を釣ったとも比喩される。さてこの死神、小野塚小町は確かに文王ではないが、今の針妙丸にとっては、かのときの文王以上に価値ある存在なのである。
「文王だろうが武王だろうが構わないよ。私を生きたまま三途の川に連れて行ってくれる人なら」
「そりゃできるけど、困ったなあ。あたいはしばらく戻りたくないんだけれど」
「サボりがバレるのが早まるからね」
にとりが脇から茶化した。
「そうなんだよ。ボスの説教は恐ろしいからなあ。……って、うるさいよ、そこ」
「いーよ。その気になればあんたの後を隠れてついていくくらい訳ないから。でも、そうなったら閻魔様に告げ口しておくね」
針妙丸の脅迫に、小町は「分かったよ、分かった」と、観念して頭を掻くしか無かった。確実に告げ口される未来を選ぶくらいならば、閻魔様に見られないように、こっそりと連れて行く方がまだ勝算がある。針妙丸は満足気に、魚籠の中身を川にぶちまけ直して、小町の後をついていった。
***
「釣れますか?」
針妙丸が三途の川の川べりで釣り糸を垂らしていると、近くの水域で養殖魚を営んでいる牛鬼が声をかけてきた。
「全くダメ。餌が合わないのかなあ」
牛鬼の牛崎潤美は魚籠の中を覗いた。木組みのがっしりとした箱魚籠には、魚を生かしておくための水が入っているが、それ以外の中身は無かった。
「生身の人間かな。私が見たことがある人らに比べればだいぶ小さいが」
「うるさいわね。なんか、無性にあんたの目を突きたくなってきた」
針妙丸は、小さいと言われたことにカチンときて、釣り竿とは別の針の先を潤美の方へと向けた。
「おお、殺生な。悪気は無いんだ。ただ、生身の人間が持っているような餌には、ここの魚は食いつかないからね」
潤美はそう言って、腰に下げた鞄から小袋を取り出し、中身の黄色い粒状のものを水面に撒いて、残りを針妙丸に渡した。
「養殖魚に使っている餌だ。撒き餌としてばら撒いておけば、間違ってお前さんの針に食いつく奴も現れるだろう」
針妙丸は半信半疑で意識を釣り竿の方に向け直したが、すぐにアタリを引いた。これには潤美も驚いた。環境が良くなったとはいえ、針妙丸の持つ釣り竿の先の餌は、現世のもののままなのだ。これほど早く食いつく魚が現れるのは予想外だった。
釣り上げた魚は超古代魚特有の、エイリアンみたいな顔つきをしていた。これには針妙丸も一瞬怯んだが、打ち上げられた魚にできることがビチビチと暴れまわる以上のものではないことを確認して、冷静に針をツボに刺して動きを止めた。そしてそれを手際よく捌いて、切り身の一つを釣り針につけた。
「よし、こちら側の魚ゲット。大物を釣るわよー」
「ほう、大物狙いだったのか」
「そうそう。あ、餌ありがとね。で、お礼ついでにもう一つ聞きたいんだけど、ここって大物もいるよね?」
「いるよ。私はここよりもう少し下流の方で養殖業をしているんだが、たまに、大きくて凶暴な種類の魚が荒らしに来るんだよ。一匹でも釣って減らしてくれるんなら正直ありがたい」
「おー。俄然やる気でてきたね。釣ってやるわよ」
すぐさま宣言どおりに強いアタリを引いたようで、針妙丸は少し前のめりにつんのめった。
「そうかい。そういや、ここで釣りをするのなら知っているだろうけれど」
「何? 私は今取り込み中よ」
「三途の川は死者の川だから、生者が間違って入ると、浮力が働かず沈んでいくんだ。だからくれぐれも落ちないように……」
「気をつけるんだよ」。その言葉を潤美が言い切る前に、針妙丸は大慌てで釣り糸を切って、魚籠をその場に置いたまま逃げ去っていった。
***
「釣れますか?」
針妙丸が霧の湖の畔で釣り糸を垂らしていると、近くの洋館に住む妖怪の門番が声をかけてきた。
「小魚ばっかりね。やっぱりこの湖に大物はいないのかなあ」
門番の紅美鈴は魚籠へと顔を近づけた。真新しい箱魚籠の中で、ワカサギが所狭しと泳いでいる。
「そういえば、前にもここで釣りをしていましたよね?」
「うん。そんとき通りすがりのメイドに、ここに大物は住んでいないよって言われて、でももしかしたらメイドの勘違いで、日によっては釣れる可能性がある、とかに期待していたんだけどね」
「随分と大物に執着されているようですね。どうしてまたそんな」
「一番でっかい魚ってことは、最強の魚ってことじゃん? それを釣り上げたら、最強の魚に勝った私が最強ってことになる」
この小人は、氷精のようなことを言い始めた。美鈴は、愚問だったと少し後悔した。前にクライミング趣味を持つ咲夜に、どうして山登りをするのか聞いたことがあった。そのとき咲夜は、澄ました顔で、「そこに山があるから」とだけ答えた。美鈴は当時と同じ過ちをおかしたのだ。趣味人に、それを趣味とすることのまともな動機があると思ってはいけない。
「そ、そうですか。それなら、確実に大物がいる場所で釣りをした方が」
「いやさー、一昨日三途の川で大物を釣り逃しちゃったのよ。私もまだまだだな、って思って修行しようかと」
「じゃあ三途の川で釣ればいいじゃないですか」
「何言ってんの。三途の川なんて、落ちたら危ないでしょ」
彼女が最強になるまでの道のりはだいぶ長そうだ。それにしても、彼女は霧の湖なら落ちても安全と思っているのだろうか。少々この湖の深さと水温を舐めてはいやしないか。
「ところでさ、この辺で大物がいるって情報、なんか持っていない?」
「そうですね。……人魚とか?」
「人魚以外で」
霧の湖は死の湖だ。わかさぎ姫とその配下が泳いでいるだけでも奇跡的だというのに、それ以上など……。ああ、湖とは関係無いが一個あると、美鈴は思い出した。ふざけた話だが、この少し生意気な小人をからかうには丁度よいだろう。
「太歳星君はご存知ですか?」
「誰それ? ……あー、天人様が言っていた気がするな。道教の神様だっけ」
「そうです。実はそれの影の一つは大ナマズでして。私は会ったことがあるのです。夢の中でですが」
「夢の世界か。あの面倒そうな獏に頼まないといけないのは無しかなあ」
「それがですね。その夢はたいそうリアルでして。咲夜さんやパチュリー様からは明晰夢だと言われたのですが、実は夢遊病状態で現に現れた影を退治した可能性もあるんじゃないかと」
「うーん、まさかそんな。おっと」
針妙丸の竿に何かが掛かったらしい。かなりの大物なのか、これまでの比にならないくらいしなっている。鍛冶師の妖怪に打ち直してもらっていなかったら折れていたかもしれない。
「戦ったのはここ?」
「いえ少し離れた原っぱなのですが、なんせナマズなので、直前まで湖に潜んでいたのかもしれないな、と」
針妙丸は竿を上げようとしているが、上がる気配はなく、全力で抗って、辛うじて拮抗を保っているだけだ。
「大丈夫ですか?」
「なんの、これくらい……。あのさ、それ、夢の話なんだよね?」
「ええ。もしかしたら現にも、と思ったのですが、冷静に考えると、館の地下にいたときに見た夢で、しかも毛布までかけてもらっている。夢遊病じゃあないですね。ま、所詮夢の話です。あまり真に受けない方が……」
ドボンと大きな音が聞こえ、針妙丸の姿は一瞬にして湖の中に消えた。引き込まれたかと、美鈴は沖の方へと目を向けた。彼女の視線の先では、巨大なナマズのようなひょうたん型の影が一つ、ゆっくりと湖の真ん中に向かって泳いでいた。
針妙丸が霧の湖の畔で釣り糸を垂らしていると、近くの洋館に住む人間のメイドが声をかけてきた。
「あんまりね。でっかい湖だから、でっかい魚がいると思ったんだけどなあ」
メイドの十六夜咲夜は針妙丸の片端に置かれた魚籠を覗いた。針妙丸の背丈程もある箱魚籠の水面は、小魚の鱗で銀箔を蒔いたかのように光っている。霧の湖の魚の少なさを考慮するならば上々の釣果ではなかろうか。しかし、どうもこの小人にとっては、沢山の小魚よりも一匹の大魚らしい。
「ここの湖は生命に乏しいのよ。水は澄んでいて綺麗だけれど、大きな魚を養うことができるだけの栄養は無いわよ」
「妖精が飛んでいたから、魚もいるんじゃないの?」
妖精が飛んでいる場所は優れた釣り場。妖精は生命力に溢れる場所を好むことに着目した、幻想郷の釣り師にとっては常識の法則である。
「妖精って、氷精のことでしょ。あれはダメよ。普通の妖精が寄りつかない場所を好む外れ値だから」
「そうなのか。残念」
「ああでも、人魚ならいるわよ」
「知ってる。でも私が釣りたいのは半分魚の巨女じゃなくて、全身魚の巨魚なの」
針妙丸は諦めて釣り竿――厳密には竿ではなく縫い針なのだが、紛らわしいので竿と呼ぶ――を引き上げた。
「そういやあんた、釣りに詳しそうね。他に巨大な魚がいる釣り場、知らない?」
針妙丸は咲夜に聞いた。
「うーん。そういえば、潤美という名前の漁師が時々こっちに大きな魚を売りに来るわね。彼女が売っているのは養殖魚だけれど、養殖で育つなら、野生でも同じくらいのサイズで生息しているんじゃない?」
「耳寄りね。その潤美って人、どこから来ているか分かる?」
「三途の川らしいわよ」
「うげっ。あの世じゃん。あんた、行き方知ってる?」
「私も行ったこと無いから知らないわね。まあ、向こうから人が時々こっちに来ているから、その人達に分かるでしょう。潤美が来たのは昨日だからしばらく来ないだろうけれど、サボり魔の死神くらいならどこかにいるんじゃない?」
「死神かー。気が進まないけれどしょうがないわね」
「玄武の沢ででも釣りをしていればそのうち来ると思うわよ。前にあの辺りで油を売っているのをみたことがあるし」
「いい案ね。もしかしたら沢で大物がかかるかもしれない。ありがとう」
針妙丸は咲夜に礼を述べて、魚籠の中身をリリースして湖を後にした。
***
「釣れますか?」
針妙丸が玄武の沢にある岩の一つに腰掛けて釣り糸を垂らしていると、近くのアジトを拠点としている河童が声をかけてきた。
「ぼちぼちね。まあ、釣れなくても気にはしないわよ。ここにいる目的は、どっちかと言うと人待ちの方だから」
河童の河城にとりは魚籠の中身を覗いた。イワナらしき魚が何尾か入っている。これほどの釣果をぼちぼちなどと謙遜するのだから、この小人は結構な太公望である。
「かなり釣れてるじゃないか」
「そこそこの大きさまでは釣れるんだけれどね。目が覚めるような大物がかからない」
「そりゃそうだ。大物はこんな流れの速い場所をあくせく泳ぎ回るなんてことはしない。もっと流れが緩やかな場所で、どっしりと構えているもんだよ」
「だよねー。でも待ち人はここに来るって聞いたからなー」
「待ち人って誰なんだい」
「死神」
にとりはぎょっとした。他人の幸不幸にはさして興味のない、どちらかと言えば薄情な性格とはいえ、自分が止めなかったせいで自殺者が出たとなってしまっては、向こう一週間は目覚めが悪い。
「待て待て、思い直すんだ。生きていればきっと良いことがある。死ぬにはまだ早い」
「あんたに私の何が分かるっていうの。というか、勘違いしているみたいだけど、死ぬ気は無いよ。釣りのために生きたまま三途の川に行きたいだけ」
「何という釣りキチ」
にとりの呆れ顔には目もくれず、針妙丸はまたイワナを釣り上げた。
「魚は来るんだけれどねえ」
「困ったなあ。誰かが死ぬ気配は無いのだけれど」
「仕事中の死神を捕まえる気は無いよ。サボっている死神が油売りしてるんでしょ」
「ああ、あのサボマイスタか。来るかねえ。しばらく見てないんだよな」
「しばらく来ていないってことは、もうそろそろ来るってことさ」
二人に比べれば相当に長身の女性が会話に割り込んできた。その手に持った鎌で、彼女が探し人の死神だと、針妙丸にはすぐに分かった。
「釣れてるかな?」
「魚はあんまりだけれど、人が釣れたからもう満足よ」
「あたいは文王では無いよ」
太公望は、釣りをしていたときに周の文王に声をかけられ、軍師として彼を補佐するようになったとの逸話がある。そのサクセスストーリーから、太公望は人を釣ったとも比喩される。さてこの死神、小野塚小町は確かに文王ではないが、今の針妙丸にとっては、かのときの文王以上に価値ある存在なのである。
「文王だろうが武王だろうが構わないよ。私を生きたまま三途の川に連れて行ってくれる人なら」
「そりゃできるけど、困ったなあ。あたいはしばらく戻りたくないんだけれど」
「サボりがバレるのが早まるからね」
にとりが脇から茶化した。
「そうなんだよ。ボスの説教は恐ろしいからなあ。……って、うるさいよ、そこ」
「いーよ。その気になればあんたの後を隠れてついていくくらい訳ないから。でも、そうなったら閻魔様に告げ口しておくね」
針妙丸の脅迫に、小町は「分かったよ、分かった」と、観念して頭を掻くしか無かった。確実に告げ口される未来を選ぶくらいならば、閻魔様に見られないように、こっそりと連れて行く方がまだ勝算がある。針妙丸は満足気に、魚籠の中身を川にぶちまけ直して、小町の後をついていった。
***
「釣れますか?」
針妙丸が三途の川の川べりで釣り糸を垂らしていると、近くの水域で養殖魚を営んでいる牛鬼が声をかけてきた。
「全くダメ。餌が合わないのかなあ」
牛鬼の牛崎潤美は魚籠の中を覗いた。木組みのがっしりとした箱魚籠には、魚を生かしておくための水が入っているが、それ以外の中身は無かった。
「生身の人間かな。私が見たことがある人らに比べればだいぶ小さいが」
「うるさいわね。なんか、無性にあんたの目を突きたくなってきた」
針妙丸は、小さいと言われたことにカチンときて、釣り竿とは別の針の先を潤美の方へと向けた。
「おお、殺生な。悪気は無いんだ。ただ、生身の人間が持っているような餌には、ここの魚は食いつかないからね」
潤美はそう言って、腰に下げた鞄から小袋を取り出し、中身の黄色い粒状のものを水面に撒いて、残りを針妙丸に渡した。
「養殖魚に使っている餌だ。撒き餌としてばら撒いておけば、間違ってお前さんの針に食いつく奴も現れるだろう」
針妙丸は半信半疑で意識を釣り竿の方に向け直したが、すぐにアタリを引いた。これには潤美も驚いた。環境が良くなったとはいえ、針妙丸の持つ釣り竿の先の餌は、現世のもののままなのだ。これほど早く食いつく魚が現れるのは予想外だった。
釣り上げた魚は超古代魚特有の、エイリアンみたいな顔つきをしていた。これには針妙丸も一瞬怯んだが、打ち上げられた魚にできることがビチビチと暴れまわる以上のものではないことを確認して、冷静に針をツボに刺して動きを止めた。そしてそれを手際よく捌いて、切り身の一つを釣り針につけた。
「よし、こちら側の魚ゲット。大物を釣るわよー」
「ほう、大物狙いだったのか」
「そうそう。あ、餌ありがとね。で、お礼ついでにもう一つ聞きたいんだけど、ここって大物もいるよね?」
「いるよ。私はここよりもう少し下流の方で養殖業をしているんだが、たまに、大きくて凶暴な種類の魚が荒らしに来るんだよ。一匹でも釣って減らしてくれるんなら正直ありがたい」
「おー。俄然やる気でてきたね。釣ってやるわよ」
すぐさま宣言どおりに強いアタリを引いたようで、針妙丸は少し前のめりにつんのめった。
「そうかい。そういや、ここで釣りをするのなら知っているだろうけれど」
「何? 私は今取り込み中よ」
「三途の川は死者の川だから、生者が間違って入ると、浮力が働かず沈んでいくんだ。だからくれぐれも落ちないように……」
「気をつけるんだよ」。その言葉を潤美が言い切る前に、針妙丸は大慌てで釣り糸を切って、魚籠をその場に置いたまま逃げ去っていった。
***
「釣れますか?」
針妙丸が霧の湖の畔で釣り糸を垂らしていると、近くの洋館に住む妖怪の門番が声をかけてきた。
「小魚ばっかりね。やっぱりこの湖に大物はいないのかなあ」
門番の紅美鈴は魚籠へと顔を近づけた。真新しい箱魚籠の中で、ワカサギが所狭しと泳いでいる。
「そういえば、前にもここで釣りをしていましたよね?」
「うん。そんとき通りすがりのメイドに、ここに大物は住んでいないよって言われて、でももしかしたらメイドの勘違いで、日によっては釣れる可能性がある、とかに期待していたんだけどね」
「随分と大物に執着されているようですね。どうしてまたそんな」
「一番でっかい魚ってことは、最強の魚ってことじゃん? それを釣り上げたら、最強の魚に勝った私が最強ってことになる」
この小人は、氷精のようなことを言い始めた。美鈴は、愚問だったと少し後悔した。前にクライミング趣味を持つ咲夜に、どうして山登りをするのか聞いたことがあった。そのとき咲夜は、澄ました顔で、「そこに山があるから」とだけ答えた。美鈴は当時と同じ過ちをおかしたのだ。趣味人に、それを趣味とすることのまともな動機があると思ってはいけない。
「そ、そうですか。それなら、確実に大物がいる場所で釣りをした方が」
「いやさー、一昨日三途の川で大物を釣り逃しちゃったのよ。私もまだまだだな、って思って修行しようかと」
「じゃあ三途の川で釣ればいいじゃないですか」
「何言ってんの。三途の川なんて、落ちたら危ないでしょ」
彼女が最強になるまでの道のりはだいぶ長そうだ。それにしても、彼女は霧の湖なら落ちても安全と思っているのだろうか。少々この湖の深さと水温を舐めてはいやしないか。
「ところでさ、この辺で大物がいるって情報、なんか持っていない?」
「そうですね。……人魚とか?」
「人魚以外で」
霧の湖は死の湖だ。わかさぎ姫とその配下が泳いでいるだけでも奇跡的だというのに、それ以上など……。ああ、湖とは関係無いが一個あると、美鈴は思い出した。ふざけた話だが、この少し生意気な小人をからかうには丁度よいだろう。
「太歳星君はご存知ですか?」
「誰それ? ……あー、天人様が言っていた気がするな。道教の神様だっけ」
「そうです。実はそれの影の一つは大ナマズでして。私は会ったことがあるのです。夢の中でですが」
「夢の世界か。あの面倒そうな獏に頼まないといけないのは無しかなあ」
「それがですね。その夢はたいそうリアルでして。咲夜さんやパチュリー様からは明晰夢だと言われたのですが、実は夢遊病状態で現に現れた影を退治した可能性もあるんじゃないかと」
「うーん、まさかそんな。おっと」
針妙丸の竿に何かが掛かったらしい。かなりの大物なのか、これまでの比にならないくらいしなっている。鍛冶師の妖怪に打ち直してもらっていなかったら折れていたかもしれない。
「戦ったのはここ?」
「いえ少し離れた原っぱなのですが、なんせナマズなので、直前まで湖に潜んでいたのかもしれないな、と」
針妙丸は竿を上げようとしているが、上がる気配はなく、全力で抗って、辛うじて拮抗を保っているだけだ。
「大丈夫ですか?」
「なんの、これくらい……。あのさ、それ、夢の話なんだよね?」
「ええ。もしかしたら現にも、と思ったのですが、冷静に考えると、館の地下にいたときに見た夢で、しかも毛布までかけてもらっている。夢遊病じゃあないですね。ま、所詮夢の話です。あまり真に受けない方が……」
ドボンと大きな音が聞こえ、針妙丸の姿は一瞬にして湖の中に消えた。引き込まれたかと、美鈴は沖の方へと目を向けた。彼女の視線の先では、巨大なナマズのようなひょうたん型の影が一つ、ゆっくりと湖の真ん中に向かって泳いでいた。
三途の川から速攻逃げ出す針妙丸がとてもよかったです
のっぺりと楽しめました
負けん気の強さと臆病さが同居している針妙丸がいい感じです。