Coolier - 新生・東方創想話

境界線姫 第一話

2022/09/02 20:03:01
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 少女の姿をした存在が、京都の空に浮かんでいる。
 乗り物を使うでもなく、その身一つで空に立つ。科学世紀であってなお異常な光景だが、その姿は誰の目にも映らない。まるで路傍の雑草に潜む小さな小さな虫のように、確かにそこに存在しているのに、人は少女へ意識を向けない。
 無論、〝それ〟は人間ではない。それを示すかのように、頭に生えた二本の触覚が風に揺れている。それは少女が蟲の妖怪、妖蟲であることの証明だった。
 その空で、妖蟲はただじっと耳を傾けていた。声ならぬ声、蟲の王である彼女にのみ許された、蟲の声を聞く力。その力が、この街にいる虫たちの声を拾い上げる。
 そしてじっと、一点に視線を向ける。
 その先にあるのは、郊外にある工場の一つ。巨大な、ガスタンクを縦に連ねて作ったようなカプセル型の金属容器。それがいくつも並んでいる。
 その工場で何を作っているのか、少女は知らない。だが、その中にあるものを妖蟲は知ってしまった。それは妖蟲にとって、あまりにも残酷であった。妖蟲の喉がひくりと鳴り、つぅと目から雫が落ちる。
「こんなの……」
 妖蟲は、ただ己の欲望を満たすためにこの街へ来た。満たされぬ怪異としての性(さが)を、外の世界で埋めようとした。そのためにわざわざ大結界を越えてきた。
 だが、今はもう自己本位なその意思はなかった。あるのはただ、この現状を嘆き、王として彼らに報いたいという、その想いだけだった。
 一匹の虫が、まるでブローチのように少女の胸へ留まる。
 本来なら、普通の人間ならその虫を気持ち悪いと払いのけるだろうが、少女は優しく、その虫を両手で包み込んだ。
「私が、やらないと」
 王は静かに、決意の言葉を口にした。

 §

 京都にある、とある大学。
 この科学世紀において事実上、日本最高峰の学府であるこの場所には、若者による活気で満ち溢れていた。自らの知性を大学に認められた学生たちは、今日もその頭脳を生かして勉学に研究にと励んでいる。皆、自分のやりたいこと、できることを求めてきらきらと輝いている。
 まして昼休みとなればなおさらだ。友人との食事と談笑を楽しむもの、食事に裂く時間も惜しいとモニターと睨めっこしながら片手間に食事するもの、昼食会と称して人脈を広げようと画策するもの……。昼休み一つとっても、過ごし方は多彩だ。
 そんな中、宇佐見蓮子は校内を歩いていた。
 ーー腕にメリーを引っ付けて。
 まるで猫が飼い主に頬擦りでもするみたいに、メリーが蓮子の片腕に両手で抱き着いている。非常に歩きにくいことこの上ない。なまじメリーが美人なだけに、自分達が周囲から嫌な注目を集めているのが分かってしまう。
「……ねえ」
「なに、蓮子?」
 メリーは腕に摺り寄せていた顔を上げる。そうして上目使いで見つめられると、思わずドキリとして顔を背けてしまう。ふふんと、どこか得意げに笑うメリーの息が聞こえた。
 ……ああもう、手玉に取られているみたいで腹が立つわ。
 蓮子はメリーを引き剥がすように、ぐいぐいと腕を動かす。だが、メリーの腕はまるで万力のように蓮子の腕をがっちりとホールドしている。少々のことではびくともしない。
「もうちょっと離れて歩いてくれない?」
「いいじゃない。私はこうしていたいの。それに、普段からこうして一緒にいたら、お役目中に見つかっても誤魔化せるでしょ?」
 メリーは合理的な提案のつもりかもしれないが、だとしても腕に顔を擦り付ける理由はないはずだ。だが、どうせそれを言ったところでメリーは離してくれないし、その気になればちょっと力を籠めるだけで自分の腕は粉砕骨折させられるのだ。自分の細腕で引き剥がせるなんて思えない。
 ちらりと、メリーを見る。彼女は蓮子の視線に気付くと、にこりと笑みを浮かべる。自分の顔のすぐ側にメリーの顔があるのが気恥ずかしくなり、視線を明後日の方向へ向ける。
 向けながら、蓮子は思う。
 ……何が。私の何が、こいつを惹き付けるのだろう。
 ここまでされては、自分が本当は好かれていないと、打算があって擦り寄っているだけだと、そこまでとぼけるつもりはない。だが、彼女と出会って数ヶ月で、一体彼女は自分の何を見ていたのだろうか。
 メリー。八雲紫。そして宇佐見蓮子。
 八雲紫はどうして自分を選んだのか。メリーは自分の何を好いているのだろうか。……自分は、なんなのだろうか。
 他人の思考や考えなんて分からない。まして、人間じゃない存在のそれなんて、分かりようがない。
 はぁ、と溜め息が蓮子の口から漏れる。
「ちょっと、せっかくこうして一緒に歩いているんだから、もう少し楽しそうにしてもいいんじゃない」
「はいはい」
 諦めたようにもう一度溜め息を吐いて、大人しくメリーに腕を引っ張られる。しばらくメリーの重みと柔らかさを堪能しながら校内を歩くと。建物が見えてきた。白く小奇麗な二階建てワンルームマンションのようなそれは部室棟だ。こじんまりと佇む部室棟は、大学の本棟に比べれば随分とみすぼらしく見えるだろう。
 蓮子はその一室、一階の一番奥の戸を、ノックも無しに開ける。
 部室の中は、外から見た建物とは全く異なる印象を与えてくる。ワンルームとは思えない広さの空間の中には、大型の機材、最新の設備が揃えられている。大学本棟の設備とも引けを取らない設備群を見ていると、この扉は部室棟ではなく別の空間へと繋げているのではと思えてしまう。
 そのままメリーと共に奥へ進むと、巨大なモニターとずらりと向かい合って並んだ長机と椅子が置かれた、通称ブリーフィングルームに二人の女性がいるのを見つけた。
「来たわね宇佐見」
 蓮子を見るなり開口一番、赤い髪、赤いスーツと全身赤一色に身を包んだ女性が不躾な言葉を吐き、キッと強い目で睨み付けてくる。背丈も年齢も蓮子より小さいが、それでも纏っている雰囲気は大の男すら圧倒するほどだった。
 岡崎夢美。
 異例の若さで大学教授という立場に就任した天才少女。多くの実績を残してきたが、近年は統一理論に属さない力である『魔力』が存在するという〝非統一魔法世界論〟なるものを提唱したために学会の失笑を買っている。
 夢美が今の性格になったのもその頃だと蓮子は聞いており、あの赤一色も警戒色の現れかもしれない。
 今は大学で教鞭を振るいつつ、秘封倶楽部の顧問として参謀兼政治的調整担当役を担っている。学生からはなぜあんな同好会レベルの部活動に権威のある岡崎教授が顧問なんてと疑問視する声も多い。だが、裏事情を知る蓮子からすれば彼女ほど秘封倶楽部の顧問に相応しい教授はいないと思っている。
「悪いな、昼休み中に」
 そしてもうひとりの女性……というには少々似つかわしくない少女が、目の前の端末のキーボードを叩く手を一切止めずに、入ってきた蓮子に目を向けて視線で座るよう促す。
 北白河ちゆり。
 大学にも関わらずセーラー服に身を包んだ彼女は、夢美以上に若い。夢美の助教授という立場ながら、大学とは不釣り合いな格好に助教授どころか大学生にも見えない背丈で、今でもたまに迷い込んでしまった中学生に間違えられることも多い。年齢的にはその評価も間違ってはいないのだが。
 無論、ただの中学生が助教授など出来るはずもない。情報技術、化学、電子工学と様々な分野のエキスパートで、一分野でもこの大学内で彼女を越えられる学生はそういない。それを言えば当の本人は『本で読んだことを覚えているだけだ。教授みたいに何か新しいものを生み出せやしない』と少々自虐的に呟くが。彼女が夢美に付き従うのも、その辺りの感情が理由なのだろうか。
 ちゆりに促されるまま、蓮子達はちゆりの対面に座る。
 それを夢美は見届けてから、ふむ、と息を漏らしてから離し始める。
「さて、全員そろったみたいね、始めましょう」
 夢美はぱんと手を叩くと、ちゆりの操作に応じてモニターが表示される。
「知っての通り、我々の任務は怪異を捉えあちらの世界に送り届けることよ。対象は京都に潜む怪異、およびあちらから結界を越えてやってきた怪異。だけど……」
 夢美はモニターに視線を向ける。
 そこに表示されていたのは、見覚えのある顔だった。どれも解像度は低く、おそらく監視カメラの映像を拝借したのだろう。だが、蓮子にはどれも決して忘れるのことのできない顔ばかりだった。
「土蜘蛛、雪女、それと種族不明だけど鳥みたいな羽を持つ妖怪……ですね。ここ最近、相手にした妖怪ばかり」
「ええ。いずれも人の姿を持っている、強い妖怪達よ。実際にあいつらの前に立った貴方が一番良く分かっていると思うけど」
 妖怪、幽霊、妖精、神。
 人知を超えた、未だ人に解明されていない存在を総称し、秘封倶楽部ではまとめて怪異と呼んでいる。そのどれもが、お役目で蓮子たちがあちらへ送る対象である。
 そして、妖怪含め怪異は姿がはっきりしている存在ほど強い力を持つ。ましてや、人の姿を持っているとなればなおさらだ。ここにいる人間は実経験でそれを知っていた。
「そして、こいつらは皆、あちらから大結界を越えてやってきた妖怪だと思われる」
 ふむ、と蓮子の目が変わった。
 これまで蓮子達が相手をした怪異は、大きく分けて二種類に分けられる。即ち、以前からこの街でひっそりと生きてきた怪異か、あるいはあちらから大結界を越えてやって来た怪異か、だ。
 言われて蓮子は最近相手した妖怪を思い出す。京都に以前からいた怪異はどいつも自身の消滅に怯えながらひっそりと生きているのに対し、あちらから来た怪異は好き勝手暴れたり右も左も分からずにぽかんとその辺を飛んでいたりと、なんというか自由奔放だ。
 廃工場で男を襲っていた蜘蛛女、冬でもないのに数人の男の凍死体を作り出した雪女。妖怪のくせに平然と府立図書館で本を読んでいた鳥女。どいつもこいつも一筋縄ではいかない相手だったが、言われてみればその傾向はあちらから来た怪異のそれだ。
「で、どうなの?」
 この場にいる全員が、ちらりとメリーに視線を向ける。より正確には、その先にいてこの会話を聞いているであろう、八雲紫へ。
 だが、『八雲紫に声が届くこと』と『八雲紫が答えを返してくれること』は別らしい。蓮子のアイコンタクトにメリーはにこりと笑って小さく手を振って返す。八雲紫に答える気がないのか、アイコンタクトの意味が伝わっていないなのか、あるいは単に八雲紫がこちらの声に気付いていないだけなのか。
 夢美もその真偽が気になるから蓮子達を呼び出したのだろうが、求めていた回答が得られず、頭痛を堪えるみたいに額に手を当てる。怒りの矛先をメリーに向けても仕方ないことが分かっているから、それ以上追求することもできない。
「それで、教授はどうしてそんな予想を?」
「勘よ」
 具体的な理屈も根拠も言わないが、しかしその言葉には確固たる自信があった。
 だがそもそも、彼女の言う〝勘〟はそこらの学生が漠然と述べる〝勘〟とは雲泥の差がある。確固たる物的証拠が存在するわけではないが、これまでで得られた情報を線と線で結び、多角的に捉え、しかし過去の経験に囚われない。それは名実共に大学教授である彼女にとって、最も得意とすることだ。その頭の裏では自分が知らないような情報を含めて色々考えていて、けどそれを説明するのは色々面倒だから勘という言葉で片付けたんだろうなぁ、なんて蓮子は頭の悪い結論に落ち着いた。
「しかし、こっちとあっちじゃ大結界だとかで隔てられていて、あっちから来る奴なんて大結界の穴を抜けてしまうような弱い奴しか来ないって話だっただろ」
「強い怪異でも通れる大きな穴が見つかったのか、そもそも土蜘蛛や雪女があっちじゃ〝弱い奴〟に分類されるのか、あるいは……大結果を自由に越えられる誰かが手引きしているか」
 ちゆりの疑問に蓮子が場当たり的に答えながら、ちらりとメリーを見る。だが、やっぱりあいつは反応しない。にこりと笑うメリーの裏で、ただ黙っているだけだ。いっそ犯人だと名乗り出てくれればこちらも楽なのだが。
「それで」
 蓮子とちゆりがうんうんと唸っている間に、メリーが切り込む。
「今後の方針はどうするつもり? まさか、あっちに乗り込んで大本を叩く、なんて言わないわよね」
「八雲紫が動いてくれるなら簡単なんだけどね……」
「何度を私をちらちら見たところで、あれは動かないって分かったでしょ。……それじゃあ、どうするの?」
「今は敵の出方を待つ。次に怪異が現れたら、捉えて吐かせましょう。何か知ってるかもしれない」
「それって拷問……ってこと?」
「人聞きの悪いこと言わないで。ちょっとお話を聞かせてもらうだけよ。ちょっとね」
  夢美がにやりと笑う。怪異にも負けない物騒な笑みだな、とはここにいる誰もが思った。
「とはいってもねぇ……」
 だが、夢美の計画に難色を示したのは蓮子だった。彼女は先日の蜘蛛女を思い浮かべながら心底嫌そうな顔をしているが、それも当然だろう。
 怪異なんて、人の手に余る存在だということは誰よりも蓮子が理解している。先日だって、蜘蛛女には叩き潰されそうになったし雪女には氷漬けにされそうになった。そんなやつらを捕まえて情報を吐かせるなんて、到底できる気がしない。人間が自動車と綱引きする中、こっちは頭を使ってあの手この手駆使して今までどうにか黒星を収めてきたのに、どうして人間側がこれ以上縛りプレイをしなければならないのか。
 自分は矢面に立たないくせに無理難題を言いやがって……と恨めしそうな視線を夢美に向けると、夢美は大きな溜息を吐いた。
「別に、無理に捕らえろって言ってるんじゃないわ。チャンスがあれば、会話の糸口を探すくらいは意識してほしいってこと。自分の命が最優先。それは変わらないわ」
「対話。蓮子が大好きなやつね。最後に相手とまともに話せたのはいつだったかしら」
「あのねぇ……」
 反論を試みるが言葉が出ない。事実、最後に対話で解決できたのは……いや、そもそも対話で解決できたことがあっただろうか。少なくともぱっと出てこないくらいには過去の出来事らしい。蓮子はメリーから顔を背け、んんっと小さく咳払いする。
「他に異論は?」
 夢美は他のメンバーへ向けて問うが、それ以上口を開く者はいない。その光景に満足したのか、ぱんぱんと両手を叩く。 
「それじゃあ解散。私は次の講義の準備があるから。何か異変を感じたらすぐに報告すること」
 そう言い残し、夢美はその場を後にした。部室に残されたのは、蓮子、メリー、そしてちゆりの三人。蓮子は顔色を確認するようにちゆりの顔を見ると、彼女は既にコンピュータのキーボードをかたかたと叩いている。
 同じ部屋にまだ誰かいるのに自分の世界に没入して人付き合いが悪いと見るか、変に気を使って天気の話をしたりしなくてもいいから楽と見るか。蓮子もメリーも、後者の人間であった。
 蓮子はバッグから紙の小包を取り出すと、そのまま広げ始める。わしゃわしゃと、紙が擦れる耳障りな音が響きちゆりが僅かに顔をしかめる。
 その耳障りな音が収まると、蓮子の手の中にはハンバーガーがあった。ふわりとしたバンズ、レタスにトマト、チーズにピクルスとオーソドックスな組み合わせだ。強いて珍しいところを言えば、パテの代わりにフライドチキンのようなものが挟まっているくらいか。
「……お前、なんでここで食ってんだよ」
「いいじゃない別に。食事禁止とは書いてないでしょ」
「別に構わねえけどよ、食堂なりカフェなり、食えるところは他にもあるだろ」
 ちゆりの指摘に、蓮子ははっと鼻で笑う。だが、その仕草はちゆりを小馬鹿にするというよりも今の自分を諦観しての自虐的なものだった。ごもっともな指摘に蓮子は横に座る女を指差して答えた。
「私だって、そいつがいなけりゃ学友と一緒に幽雅にランチを楽しんでたわよ」
「お前、メリー以外に友達いたんだな」
 そこじゃねえよ。
 蓮子は無礼極まる言葉に口汚く返そうとしたがぐっと堪える。
「こいつが食事中でもお構いなく引っ付いてきて、その上、その……あ……」
 だが、蓮子の言葉はすぐに詰まったみたいに止まった。どこか顔が赤くなった蓮子に変わって、メリーが蓮子の言葉を代弁するみたいにぼそりと呟く。
「あ~ん、とか?」
「……そうよ、こいつがそういうことを人前でもするから、目立って仕方ないのよ!」
 トラブルの張本人をびしりと指差すが、当の本人はぱちぱちと目を瞬かせ、にこりと笑うばかり。誰のせいで苦労しているんだと言いたくもなる。
「というか、お前食事は不要なんじゃないの? 前にそう言ってなかったか?」
 ちゆりの問いに、メリーは優雅に笑って髪を掻き上げる。その仕草と態度だけで肯定を表していた。
「ええ、私は妖力で動いているからね。食事は必要ないの。原理的には捨食した魔女とそう変わらないわ」
「魔女が食事不要かどうかは知らんが、食事無しに動けるというのは興味深いな。妖力とやらはどこから作っているんだ? 無からエネルギーを生み出しているのか、それとも空気中から何かを摂取しているのか……お前がメリーじゃなかったら、その体を解剖したのに」
「残念だけど、私は蓮子以外に肌を晒すつもりは無いわ」
 メリーの頭の悪い返答に、蓮子は頭を抱える。まるで黒歴史を目の前で読み上げられるような、恥ずかしさと苛立ちとよく分からない感情が入り混じり、あああっ! と大声で叫びながら頭を掻き毟りたくなる。これ以上余計なことを言う前に自分が会話の軌道を修正したほうが良さそうだ。
「それより、そこが厄介なのよ。食事が不要というのが」
「厄介? 何がなんだ?」
「だって考えてみなさいよ。例えばテーブルに向かい合って私と蓮子が座って、メリーがその……あーんしてくるのよ。しかも自分は食事が不要だから、料理は私の前だけに並べられているの」
「……あ~。なるほどなぁ」
 その光景を想像して、そしてその意味を理解してちゆりは苦笑いを浮かべる。
 お互いの目の前に料理が並んでいて、お互いの料理を交換するみたいに食べさせ合っていたなら、きっとそれは仲睦まじいカップルに見えていたことだろう。
 だが、一人の前にしか料理が無ければ、他者にはどう見えるだろうか。相手には食事を与えず、自分は手すら動かさず相手に食べさせてもらっている。まるで特殊な性癖の奴隷とご主人様だ。そんなところを見られた暁にはどんな噂が広まることになるか。実際の力関係はむしろ逆……と思い掛けて首を振って邪な思想を振り払う。ただでさえ他人からは変な関係だと思われているのだ。せめて自分だけは、自分と今のメリーは対等な関係であり、お役目を果たすためのビジネスパートナーでしかないという認識を持っていないと。
「まあ、なんだ……強く生きろよ」
「……ありがとね」
 同情の目を向けられ、なんだか承服しかねるところはあるが、ちゆりはそれ以上追及はしてこず、コンピュータに向き直った。しばらくして、ちゆりは懐を漁り四角い箱を取り出す。その四角い箱から出てきたのは、まるでクッキーを四角いブロック状に固めたような固形食糧だった。掌に収まる大きさでありながら一日に必要な栄養素の三分の一が含まれている、いわゆる完全栄養食と呼ばれているものだ。容積が小さく片手間に食べられるうえに無駄なカロリー摂取を抑えて必要な栄養素を摂取できると、携帯食としてだけでなくダイエット、スポーツなど様々な場面で食べらえている。
 その一方で、一口含むだけで口の中の水分を根こそぎ消失させるかのようなぱさぱさ感、僅かにしか感じられないその味の薄さ、そして何より物を食べているというよりも胃に固形物を無理矢理流し込んでいるという満足感の無さが不評の品だ。
 故に、これを日常的に食べている人間はそういない。もしいるとするなら、ゆっくり座って食べる時間も余裕もないサラリーマンか、あるいは無理なダイエットに勤しむ若者か、あるいは……目の前にいるような、食事に頓着しない奴か。
「そんな味気ないもの、よく食べられるわね」
「お前の食ってるもんだって、そう大差ないだろ」
 ちゆりの食べている完全栄養食。蓮子の食べているハンバーガー。合成食品という意味ではどちらも同じだ。ハンバーガーに使われているバンズもレタスも、ちゆりに言わせれば同じように工場で印刷するみたいに作られた工業製品に過ぎない。
 だが、そこに込められている想いは全く違うと蓮子は考える。
 科学世紀で食べられている食料の九割は合成食品だが、それでも美味しいもの、彩のあるものを食べたいと思うのが人の性(さが)。いくら固形食糧で生きていくことができるとしても、ディストピアさながらの食事で満足できる人間はそういないだろう。
 だから、蓮子の食べているそれは人間の創意工夫の結晶だ。合成食品を使っているとしても、いかに美味しいもの、心を豊かにするものを食べるか。その表れが蓮子の手の中にある。まあ蓮子の食べるハンバーガーだって豊かな食生活だと胸を張れるようなものではない気もするが。
「確かに蓮子の食べてるそれ、少なくとも本物のチキンじゃないわよね」
「ちょっと止めてよメリー。ミミズバーガーとか、都市伝説でも食べている最中に言わないでよ」
 蓮子が食べているチキンの見た目をしたそれは、メリーの言う通り本物の鶏肉ではない。商品名『ライトミート』と呼ばれるそれは、工場で形成されたものながら本来の鶏肉と全く同じ成分、同じ食感、何より同じ味を再現しており、様々な場面で重宝されている。今や科学世紀の住民にとって、鶏肉と言えばこのライトミートなのだ。
 ……もっとも、食べている横でミミズだのなんだの言われてなんとも思わないか、というのはまた別次元の話だが。
「ま、いいんじゃねぇの。それが食えないのならもう科学世紀で食えるものなんてないだろうし」
 ちゆりは既に栄養食を全て口に放り込んでおり、ハムスターのように口を膨らませながらキーボードを叩いている。
 時計を見ると、時刻は12時30分。次の講義の開始時間を考えると、あまり余裕はない。さっさとこのハンバーガーを胃に収め、次の講義に出ないと。普段幽霊だの妖怪だのを相手にしていると忘れそうになるが、蓮子は学生であり、その本分は学業なのだ。
 蓮子はハンバーガーにかぶりつき、半ば押し込むように口を動かす。決してビッグサイズというわけではないが、頬張っていると視界の下半分がハンバーガーで隠れてしまう。
 だから、気付くのが遅れた。
「お、おい……それ……」
 蓮子の視界の端で、ちゆりが怪訝そうな声を出す。その視線は、テーブルに向けられていた。ちゆりがそんな反応するなんて珍しいなと思いつつも、ちゆりの視線に吊られるようにテーブルへと視線を向ける。
 そこに、いたのは。
「あぎっ……?」
 蓮子の口から、変な息が漏れた。
 机の上に鎮座していたのは、黒光りする体。小さくても見る者に避けようのない生理的嫌悪感を与えるその姿。言葉にするのも悍ましいそれが蓮子の視界に入ると同時、蓮子は体を硬直させてしまう。口からハンバーガーを離すことも出来ず、ただじっと目の前の存在を視界に入れることしか出来なかった。
 悍ましい何かが、触覚をぴくりと動かす。
 蓮子がそれを認識したと同時に、名前を言ってはいけないあの存在は蓮子目掛けて突っ込んでくる。蓮子がびくんと跳ね、ハンバーガーを握ったまま椅子を蹴飛ばすように立ち上がって後退る。
 だが、まるで蓮子に執着しているかのように醜悪な存在は軌道修正しながら足をかさかさと動かし、蓮子目掛けて――
 パァン! と乾いた音が響く。
 見れば、メリーが丸めた雑誌で黒光りするそれを叩いていた。それは長机の上でぺしゃんこになりながらぴくぴくと……いや、よそう。それ以上眺めて誰が得をするというのか。
 そしてメリーがゴミ箱とティッシュをがさごそと探し出したのを見て、ようやく我に返った。部室で派手にビビり倒して、普段邪険にしている奴に助けられて、ちゆりはこっちを見てげらげらと笑っていて、控えめに言って死にたい。
「う、宇佐見お前……、あははははは! 怪異を相手にするよりよっぽどビビってたじゃないか! あっはっは!」
 腹を抱え、げらげらと女の子がしちゃいけない笑い方をされて、自分の顔が赤くなるのが分かる。蓮子はどっかと椅子に座り直し、握ってしまったために少々潰れたハンバーガーに口を付ける。
 それでも笑い続けるちゆりに、最初は無視を決め込んでいた蓮子の肩が徐々に怒りに震えだす。唾を飛ばさんばかりに反論するまで、そう時間はかからなかった。
「うっ……うるさいわね! きっと人間がDNAレベルで恐怖するよう刻み込まれているのよ! あれはそういう生物でしょ! ちゆりだってビビってたくせに」
「その言い分だと、まるで私が人間じゃないみたいじゃない。せっかく私が蓮子を守ってあげたのに」
「事実その通り人間じゃないでしょ……ちょっとこっちに来るなその何かを包んだティッシュを私に近づけるんじゃない!」
 蓮子がどれだけ今のメリーに違和感を抱いていても。
 今のメリーとの日常とは、こうして緩やかに流れていく。

 §

 工場の入り口横にある警備室のような場所で、男は白い天井を見上げていた。
 男の仕事は、工場の警備と従業員の入退院対応だ。警備、とは言うが男のそのでっぷりとした腹を見れば、荒事には無縁だと一目で分かる。入口に設置されたゲートを通る不審な輩がいないか見張り、異常があれば警備会社に通報する。仮にナイフを持った不審者が乗り込んできたところで、男が矢面に立つことはない。シャッターを閉じて男を閉じ込め、防弾ガラスの後ろで警察が来るのを待つだけだ。
 雇ってもらっている立場ではあるが、退屈だった。
 男がここに勤めてもう五年。金のある銀行や最新技術を取り扱う研究所ならまだしも、こんな工場に忍び込んでくる輩なぞ出会ったことがない。一応、従業員がカードを忘れたり来客が現れた際に対応する、という仕事も任されてはいるが、大半が自動化されたこの工場の従業員も両手の指で足りるほどで、来客なんて年一回の工場査察官以外に見たことがない。男はこの工場で何を作っているのかすら知らず、入り口、そしてその隣にある警備室しかこの工場のことを知らない。この工場で未だ警備員という仕事が自動化されていないことを不思議に思うばかりだ。

 だから、こんな昼間に自動ドアが開くなんて、男にとってはちょっと意外だった。

 ちりりりん、と。
 自動ドアが開き、入館者を伝えるベルが警備室に響く。眠気眼だった男が監視カメラの映像を見ると、そこには少女が立っていた。
 白いシャツに紺のキュロットパンツと、格好だけ見れば少年にも見える。燕尾服のようなマントと触覚のように飛び出した二本の……癖毛、だろうか。それが特徴的だが、逆に言えば服装や髪型が少々変わっている程度でそれ以外はどこにでもいるただの少女に見える。
 この工場で働く誰かの娘さんだろうか。
 とはいえ、たとえ従業員の親族でもカードが無ければこの工場には入ることは出来ない。このまま外に追い出すのも忍びないので、入り口横の来客用ベンチで座って待ってもらおう。そう考えて男は立ち上がり警備室を出て、少女のいる工場入り口へと向かう。
「嬢ちゃん、どうしたんだい?」
 男は少女に話し掛けると、少女は「ええと……」と言葉を漏らす。やや俯き気味なその顔は、笑っているようにも怒っているようにも申し訳なく思っているようにも見えて、その心の内を読み取ることができない。……初めて来た父親の職場に、緊張しているのだろうか。
 少女は、男に話し掛けるというよりは自分にこれからする事を言い聞かせるように、小さく呟いた。

「仲間を、解放してもらいに来たの」

 言い終わると同時、彼女のマントが室内にも関わらずぶわっと広がり、黒い影が飛び出してくる。まるで雲のように少女の周囲を取り囲む黒い存在が何か、見た目には男は分からなかった。だが、耳障りな大音量の羽音が、それらが虫で構成されていることを理解する。
 理解はするが、そこで思考が止まる。大量の虫、そしてその中心に立つ少女。警備マニュアルには強盗が来た際の対応も記載されているが、そんなものは頭から吹き飛んでいた。男の頭は、ただ目の前の光景を処理することしかできなかった。
「だからね、この子達のご飯になりたくなかったら、そこをどいて」
 その言葉を合図に、大量の虫が工場へなだれ込んでくる。そこまでしてようやく、男の頭に逃げるという言葉が浮かんだ。
 弾かれたように警備室に飛び込んで、扉と窓を閉める。上着を脱いでばたばたを風を仰ぐように振るい、虫が服に付着していないことを確認して、ようやく平穏が訪れた。
 監視カメラの映像。全てを埋め尽くす悍ましいほどの数の虫が工場内で暴れる映像から目を背けながら、男はワンルームの平穏の中で蹲ることしかできなかった。

 §

 全ての講義を終えたころには、既に陽は傾き始めていた。
 部室にでも寄ろうかと考えていたが、これから殺虫剤を撒くから立入禁止だと言われてしまった。ちゆり曰く、「精密機械があるからここには文字通り虫一匹入れるつもりは無い」だの「私が高度なパフォーマンスをお前たちに提供するためには、この場所に一切のストレスとなるものは存在してはならない」だのと御託を並べていたが、多分怖いだけだと思う。
 そんなわけで、今日は大人しく帰宅である。
 一人大人しく街をとぼとぼと歩きながら、昼間に聞かされたことを思い出す。
 何者かがこっちの世界に怪異を手引きしている。あの場ではそこまで頭が回らなかったが、それはつまり今後、怪異との闘いはますます激化していくという意味ではないだろうか。
 今までどうにか勝つことができた。だがそれが全て自分の実力だとは思わない。所詮自分は脆弱な人間でしかないのだから。それでも勝てたのは、怪異が自分達をたかが人間だと、そう侮っているからだ。だからこそ、半ば不意を突くような形で今まで黒星を上げてきた。蓮子は謙遜も自惚れもなく、そう評価している。
 だが、もしそれが崩れたら? 怪異が徒党を組んで複数で襲い掛かってきたら? もっととんでもない怪異が現れたら? あるいは、相手が自分達の手の内を最初から知っていたら? 人間だと侮ることなく、最初から全力で向かってきたら?
 きっと、今までと同じようにはいかないだろう。
 周囲は帰宅中の学生や買い物中の主婦など、多くの人で賑わっていた。だが、その喧騒は蓮子の耳に入ってこない。蓮子の耳が周囲の音を遮断し、自分の世界へと没入していく。
 だから、気付くのが遅れた。
「ねえ蓮子、新作のクレープですって。食べましょ?」
「……なんでここにいるのよ」
 一体いつの間に現れたのか、隣をメリーが歩いていた。大学の時のように腕を絡めてこないだけましだが、一人で大学から出てきたはずなのに気が付いたら隣にいるというのは心臓に悪いからやめてほしいものだ。
「ぼうっと考え事しているから悪いのよ。蓮子はそうやってすぐに自分の世界に入っちゃうんだから。私がメリーさんじゃなくて痴漢やスリだったらどうするの?」
「勝手に人の心を読んだみたいに話さないで」
「いいじゃない、以心伝心。蓮子の考えなんて自分のことのように手に取るように分かるわ。二人で一つの秘封倶楽部でしょ」
「…………いや、違うけど」
 何を言っているのだろうか。蓮子、ちゆり、教授、そして一応メリーの、秘封倶楽部はずっと四人だったはずだ。秘封倶楽部が自分とメリーだけだったことなんてない。どこか別世界の電波でも受信したのだろうか。
 はぁと小さく息を吐いて、自分の中に残っていたうやむやを吐き出した。まだ言いたいこともあったが、蓮子はとりあえず気になった発言について尋ねてみることにした。
「……クレープって、そもそもあんた食事なんて必要ないって、昼に自慢げに話してたじゃない」
「食事は必要ない、けど味覚はあるのよ? そして味覚があるなら『美味しいものを食べたい』という欲求だって当然あるわ。『人は妖力のみにて生きるにあらず』ね」
「妖力で生きてる人間がほいほいいてちゃ、たまったものじゃないわ」
 とはいえ、こうなってしまってはもう逃げられない。こんな人目のある場所でグローブを使って逃げるわけにもいかないし、結局、自分はメリーの手のひらの上なんだと思い知らされる。
 と、そこまで考えてふと気付く。さっきまで隣にいたメリーがいないことに。
「あれ、メリー? どこ?」
「なにかしら?」
 彼女の名前を呼びながらきょろきょろと周囲を見渡すと、少し離れたところにメリーがいた。その両手にはクレープが二つ握られている。
「……どこに行ってたのよ」
「クレープ買ってただけよ。……もしかして蓮子、私がいなくなって心配した?」
 メリーがくししと笑いながらクレープの一つをすっと差し出してくる。いつの間にか擦り寄ってきたかと思ったらふっと姿を消すあたり、まるで猫みたいな奴だ。クレープを渡そうとしてくるのも、猫が獲物を飼い主に見せびらかしているように見えてくる。
 ……別に、隣にいたはずの人間がいきなり消えたら探しもするでしょ、心配とか関係なく誰だってそうするでしょ。それに、魂はともかくその体は他でもないメリーのものなんだから、勝手に消えるなんて許さないんだから。
「……私はいいわ。あんまりお腹空いてないし」
 言いたいことは他にもあったが、また口が回らずに間抜けな姿を見せたくない。僅かばかりの反抗心もあって、蓮子はクレープを拒絶した。
 だが、メリーは変わらずクレープを蓮子に差し出してくる。
「二つも一人で食べろって? そんなに食べたら太っちゃうじゃない。素直に受け取りなさい」
「どうせ食べても吸収されないんだから二つ食べても変わらないでしょ。……まって、そうなるとお腹の中に入った食べ物はどうなるの? 口に入れた途端に消えてる訳じゃないでしょ? もしかして、消化もされずそのまま……」
 それは科学の徒にとっては素朴な疑問だったのかもしれないが、乙女にとってはものすごくタブーな話題だったのだろう。にこにことした笑みのまま、口を塞ぐみたいにクレープを口元に押し付けてきた。クレープの上に乗っていたラズベリーの味が広がるとともに、口元がべっとりとクリームまみれになる。
「ちょっと、何するのよ!」
「いいから受け取りなさい。素直に奢られるのも女の甲斐性というものよ」
「随分と前時代的な考え方ね。それに、貸しを作るのは好きじゃないわ」
「だったら、このクレープを蓮子の胸元目掛けて思いっきり投げつけるわよ」
「……ありがたく頂きます」
 蓮子は大人しくクレープを受け取り、口を付ける。
 それと同時、チーズの濃厚な味が口いっぱいに広がる。ほのかに感じる酸味はさっきも口にしたラズベリーだろう。さしずめレアチーズケーキ風といったところか。甘さ控えめのチーズクリームと、クレープ生地の良い香りがマッチしてとても美味しい。ラズベリーの爽やかな酸味との相性もいい。チーズケーキのクレープなんて食べたのは初めてだが、この組み合わせは悪くないのではないだろうか。
「どう? 新作のクレープ、美味しいかしら?」
 訪ねてきたメリーの手にあるクレープ。その生地の隙間には苺とバナナ、それに生クリームがクレープに包まれている。少なくとも、その見た目はクレープと聞いて真っ先に連想するような、オーソドックスなクレープに見える。
「メリー……あんたもしかして、私に新作クレープの毒見をさせた?」
「毒見だなんて、ヒドイ言いぐさ。蓮子には新作のクレープを食べて欲しかったって、そう受け取ってほしいわ。でも……」
 ぱくっと、メリーが蓮子の手の中のクレープに口を付ける。蓮子がびっくりして後退るが、既にクレープにはメリーの立派な歯形が残されていた。
「……うん、悪くないわね。これなら私も新作にしておけば良かったかも」
 ぺろりと唇についたチーズクリームをぺろりと舐める、やりたい放題のメリーに文句の一つで言ってやろうかと思ったが……やめた。そんな楽しそうな笑顔を見せられては、何も言えなくなってしまう。
 自分がメリーに馴染んでいるのが、自分でも分かる。
 それが良いことなのか悪いことなのか、分からなくなっている自分がいる。
 二人でいるのが、居心地良くなっている。
「……うわっ!」
 蓮子の気の迷いを振り払うかのように、蓮子の足元を一匹の虫が駆け抜ける。昼に部室で見たものと同じ種類だ。野外で見ると不思議とそこまで嫌悪感はないが、それでも気持ち悪いものは気持ち悪い。思わず足をばたばたと動かしてしまう。クレープの香りに釣られでもしたのだろうか。
「もう、せっかくのデート中なのに、邪魔しないでよね!」
 メリーが怒りながら足元の虫を蹴飛ばす。素振りこそ軽いものだったが、メリーの脚は虫を車道まで弾き飛ばした。車に轢かれるかと思ったが、虫はそのままかさかさと排水溝へと逃げていく。
「なんだか今日は虫に縁があるわね……私も、殺虫剤買っておこうかしら」
 さっきまで考えていたことをまとめて吹き飛ばされたような気分だ。これ以上考えるのが馬鹿らしくなってしまう。いや、半ば先程までの思考から目を背けるようにそんなことをぽつりと呟く。
 言って、メリーをちらりと見る。てっきり、もっと遊びたがって不満を言うものと思っていたが、意外にもメリーはやや真面目な顔で空を見上げながら、ぽつりと呟く。
「どうやら、楽しい楽しいデートは終わりみたいね」
 ぽいっと、メリーがクレープを捨てる。あれだけ美味しそうに食べていたクレープを、邪魔だとでも言わんばかりに軽々しく投げ捨てた。数分前と今の彼女を比べると、まるで別人にでもなったみたいだ。スイッチを切り替えるように、彼女はお役目モードへと変わっていた。
 蓮子は頭に疑問符を浮かべながら、メリーに釣られるように空を見上げる。
 そこには。

「何よ、あれ……」
 まるで流星群のように空を横切る、黒い影の群れだった。

 §

 蓮子は街を走る。
「はっはっはっ」
 短く、断続的に吐かれる息。それは単に彼女が長距離を走っているからだけではない。
 彼女たちの後ろには、数多の虫が飛んでいた。明らかに、蓮子達を標的と看做して追い掛けている。多数の影が群体となって追い掛けてくるその光景、複数の羽音が一つの巨大な音の塊となって追い掛けてくるという事実。それらが蓮子の心臓を締め上げ、息を荒くする。
「ちょっと蓮子、早く逃げるわよ!」
「あ……あんたに合わせられるわけないでしょ」
 隣を走るメリーが急かしてくるが、蓮子はこれが全力だ。日夜怪異と戦っていると忘れそうになるが、本来宇佐見蓮子という人間はインドア派なのだ。妖力で動いているような奴と比較しないでほしい。
「だったら、グローブよグローブ! 境界を作ればどこにでも逃げられるでしょ!」
「こんな状況で鞄から出せるはず無いでしょ! 鞄を漁る余裕すらないわ! あんたこそ、あんな虫くらい叩き潰せないの!」
「馬鹿言わないで! あんな気持ち悪いの、触りたくもないわ!」
「さっきは無表情で蹴り飛ばしたくせに!」
 やいのやいのと言い争いながら二人は京都の街を走り抜ける。大きな声で叫んだら体力がすぐに尽きるとか、そんなことを考える余裕はないらしい。
「ああもうじれったいわね!」
 やがてしびれを切らしたメリーが、蓮子の腕を握ってぐいっと引っ張る。いや、ぐいなんて可愛らしいものではなく、まるで乗用車に腕を引っ張られたような強い力とともに、地面から蓮子の足が浮かび上がる。肩が脱臼していてもおかしくなかったと、本気で思う。
 そして次の瞬間には、蓮子はメリーに抱きかかえられていた。背中と膝の裏から手を伸ばし、体の正面で抱えた状態。いわゆるお姫様だっこだ。
 蓮子のすぐ目の前にメリーの顔があり、どきりとしそうになる。その後ろに虫が飛んでいるのが見えなければ、ロマンチックなシチュエーションだと言えたかもしれない。
 だが、今起こったことは明らかにおかしい。大人の男が小さな子供相手にやるならまだしも、その細腕で自分と同じ背丈の人間を片手で引っ張って持ち上げるなんて、鍛えているとかそんな次元を超えていた。
「舌、噛むわよ」
 そして、メリーがぽつりと呟くと同時、蓮子の体を加速感が包む。コンクリートにヒビでも入れそうなほどに強く、メリーが地面を踏みしめながらどんどん速度を上げていく。もはや人の出来る動きではない。隣を走る自動車を抜かすほどの速度だ。
 目の前の存在は怪異なのだ。どれだけ人の姿をしていたところで、その体は人間と違う。八雲紫は自動人形(オートマタ)に式をインストールしたものと言っていたが、つまり今でも続編が作られているデデンデンデデンのあれみたいなものなのだろう。
「ちょっと、こんなことをしたら目立つわよ!」
「虫より私たちを見てくれるなら光栄ね!」
 蓮子が気に掛けているのは、単にお姫様抱っこが恥ずかしいというだけでない。
 こうして力を公の場で使うことは夢美からも止められている。なぜなら、この街では怪異は存在しないものであり、政府が公認で存在を否定したものなのだ。にもかかわらず、自分たちがそんな存在だと知られてしまったらどうなるか。
 だが、今は。
 走る必要の無くなった蓮子は、余裕が生まれたのか周囲を見渡す。
 道行く人々は先ほどまでの蓮子と同じように虫から逃げ惑っている。その後ろ、ビルや店の中では避難者と思われる人たちがガムテープで窓の隙間を埋めているのが見える。自動ドアの前で作業しても開かないところを見るに、店員やビル管理者もこれ以上誰かを受け入れるつもりがないのだろう。下手に受け入れれば、避難者と共に大量の虫を店内に招き入れかねない。そうなれば、店の中は外と変わらない世界になってしまう。
 街は、混乱の嵐の中にあった。
「くそっ……一体何が……」
 蓮子は抱き抱えられたまま鞄からグローブを取り出し、手に装着しようとする。抱き抱えられたままでは鞄を落とさないようにしながらグローブを嵌めるのにも一苦労だ。
 と、右手にグローブを填めて次は左を……ともぞもぞとしていたところだった。

『貴方たち、虫を殺したでしょ?』

 それが日本語でなければ、声ではなく意味のない音と認識していただろう。まるで砂の入った箱を振ったり傾けたりして生まれた雑音、その微妙な強さや高さの違いを利用して音声を合成したような、ひどくざらついたノイズ混じりの声が聞こえてきた。
 その発信源を見て、ぎょっとする。
「めっ、メリー!?」
 それは、メリーの肩にいた虫だった。手のひらほどもある大きさのコオロギが、三匹ほどメリーの肩に乗っていた。蓮子の記憶の中のコオロギといえば人の爪くらいの大きさだったと記憶しているが、視線の先にいるそれは明らかに大きい。そういう品種なのか、それとも異常に肥大化しているのか、虫に詳しくない蓮子には分からない。
『貴方たち、虫を殺したでしょ?』
 もう一度、コオロギが問い掛けてくる。意識を向けていたためか、今度ははっきりと聞き取ることができた。どうやら三匹の内の一匹が喋っているのではなく、三匹が同時に羽を震わせ、一つの声を作り出しているらしい。
 羽を振るわせて声を作る。原理はスピーカーと同じだ。もしコオロギが日本語を理解し、そして羽を自在に操ることができたのなら、こうして羽を振るわせて喋ることもできるのかもしれない。
 だが、たとえそれが分かったとしても、虫が日本語で語りかけてくるなんて信じられなかった。ありえないと、常識が見ているものを否定させようとする。
 信じられないことが起こっているということは、つまり。
「貴方……怪異ね」
『質問しているのはこっち。もう一度だけ聞くわ。貴方、虫を殺したでしょ』
「……覚えがないわね」
『嘘をつくな。あなたからは聞こえるよ。仲間の最後の声が、私を殺したあんたたちに復讐してくれっていう怨念が、貴方から聞こえるの』
 ……殺したのは私じゃなくてメリーじゃない!
 そう叫びそうになるが、きっと無駄だろう。どうやってか、この虫……いや、怪異はメリーが昼間に虫を叩き殺したことを知っている。
 だけど。
 散歩中のペットの尻尾をうっかり踏みつけてしまった。それなら謝るべきだろう。だが、いきなり部室に現れた虫を殺してしまって、それは果たして悪いことなのだろうか。謝罪を求められるほどの悪行だろうか。
 怪異相手に頭を下げるなんてありえない。蓮子はさも当然とばかりに虫の声に反論する。
「不法侵入したそちらさんに非があるのではなくて? そもそも虫なんて、生きていれば知っても知らずでも殺しちゃうものでしょ。誰だって山に入るなら虫よけスプレーを使うし、腕に蚊が留まれば叩く。家に蜂の巣ができたら業者を呼んで撤去するわ」
『そう。だったら、その虫と同じように貴方を殺しても文句はないわよね』
 ぞあっ! と。
 メリーを追い掛けていた虫の羽音が強くなる。既にメリーの足は二輪車の法定速度に迫る速さで街を駆け抜けているが、虫の嵐を引き離せない。四方八方から虫が襲い掛かってくる。分かっちゃいたが自己弁護なんて通用しないらしい。
「このっ!」
 蓮子がまだ着けていないグローブで、メリーの肩にいるコオロギをぺちんとはたき落とす。コオロギはメリーの後方へ流れるように落ちていったが、嵐はまだ終わらない。あれでも死んでいないのか、それとも怪異の本体は別にいるのか。蓮子は虫の触れたグローブに若干の抵抗を覚えながらも両手に装着した。
「グローブは嵌めた? じゃあ早く安全な場所に繋げて!」
 メリーのやや珍しい切羽詰まった声を、蓮子はゆるゆると首を振って否定する。
「……駄目。このまま境界を作って安全地帯に飛び出したとしても、その境界を通って虫が雪崩れ込んでくるわ」
 周囲のビルに建物。そこには多くの人が避難している。そこに境界を繋げて虫と一緒に飛び込めば、安全地帯は一瞬にして阿鼻叫喚へと変わる。それはまずい。街の人達を守る義理はないが、だからといって巻き込むには抵抗がある。
 だが、それを言い出したら周囲にある建物全てが中に人がいる。中に誰も人がおらず、それでいて虫が簡単に入り込めないようメンテナンスされた建造物。そんな場所が京都に存在するだろうか。
「だったら、どうすればいいのよ!」
「一度、あいつらを引き離さないと」
 メリーがちらりと後ろを見る。そこには、未だメリーの速度に喰らい付いて迫ってくる虫の嵐があった。
「……分かった。じゃあ舌噛まないでよ!」
 メリーが更に速度を上げる。車も追い抜けそうな速度で走り、ときおりドリフトじみた音を立てながら交差点を曲がる。その度に、蓮子の体に変なG……Gと言っても例のあの虫のことではなく重力加速のほうだが……がかかり、体を圧迫する。
 だが、このままでは逃げられない。
 虫は蓮子達の背後で渦巻きながら追い掛けてくる奴らだけではない。既にこの街はどこも虫で溢れており、ただ走るだけでは背後から追い掛けてくる虫は引き離すことはできても、後ろ以外の上下左右あらゆる方向から飛び込んでくる虫からは逃げられない。こんな状況なのにまだ一匹も虫を潰していないのは奇跡と言ってもいい。あるいは怪異がそう仕向けているのか。
「蓮子、どうするの!」
 メリーの叫びに、蓮子は頭を抱える。揺れる体、迫りくる虫の羽音、抑えきれない生理的嫌悪感。それらを無理矢理押し殺し、蓮子は頭を働かせる。
 最終目標は大学の部室、秘封倶楽部のミーティングルームだ。
 今すぐそこに境界を繋いで逃げ込みたいが、それはできない。夢美とちゆりがそこにいるかは分からないが、彼女達を虫の脅威に曝すことはできない。
 だから、逃げなければ。一度虫達を撒いて、そうしないと部室どころかどこかの建物に逃げ込むことだってできないのだから。
 逃げる。
 ……逃げるって、どこに?
 果たして、虫達から走って逃げおおせるためにはどれだけ走ればいいのだろうか。この区画を脱するまで? 京都という都市から脱するまで? あるいは海を渡って日本を脱するまで?
 いくらメリーが自動車並の速度で走ることができたとして、無限に走ることはできない。いつかは動力切れを引き起こすだろう。
 周囲のどこを見ても、虫が溢れている。まるでこの地球全てが虫に覆われていると、本気でそう思えてくる。
 虫がいない場所、虫が追い掛けてこられない場所。……虫が、飛んでこられない場所。私達に向かって飛べない場所。
 と、そこまで想像して蓮子ははっとしたように空を見上げる。
「見つけた!」
 蓮子がグローブに覆われた手を振るう。それと同時、メリーの進む前方に境界が生まれる。

 その先は、京都の空に繋がっていた。
 それも、上空10000メートルの。

 ごおっ! と大型台風にも匹敵する強烈な風が境界から吹き出した。風はメリーを通り抜け、その後ろにいる虫を吹き飛ばす。
 ジェット気流。あるいは偏西風。
 虫たちをまとめて吹き飛ばした風は、一般にそう呼ばれている。30度から65度の緯度帯、つまり日本上空で西から東に向かって流れる気流だ。
 虫はその羽根で上昇気流を生み出すことで飛んでいる。つまり、強い風には弱く、簡単に吹き飛ばされる。日本の遥か上空を流れているはずの風速30m/sもの風は、京都の街を舐めるように蹂躙する。強烈、なんてものではない。看板や古い家屋の屋根ならまとめて吹き飛ばしてしまう暴風は、虫の羽ばたきが生み出す上昇気流をまとめて押し流す。
 今にも吹き飛ばされそうな帽子を手で必死に抑えながら後ろを見ると、先ほどまで後ろで飛んでいた虫の塊が遥か後方まで押し流されていた。左右正面から飛んできた虫も近付くだけで風に吹き飛ばされる。街が虫で覆われる中、自分達の周囲と背後だけが、絵の描かれたキャンバスに巨大な筆で線を乱雑に引いたみたいにごっそりといなくなっていた。
 今なら。
 建物内に逃げ込める部室のミーティングルームをイメージしながら、蓮子は足元と避難先を繋ぐ境界を作るために手を振るおうとする。
 だが。
「あそこに飛び込めばいいのね、蓮子! しっかり捕まってて!」
 吹き荒れる暴風もなんのその。メリーはその凄まじい脚力でずんずんと風の吹き出す境界へ突き進む。
 ――もちろん、その先に繋がっているのは奈落だ。
「待ってその先は遥か上空なのよそんなとこにパラシュートもなしに飛び出したら――」

 次の瞬間。
 蓮子達の体が宙に勢いよく投げ出される。高度10000メートル。落下が始まるまでの一秒にも満たない時間を、蓮子たちは叫ぶことも忘れて過ごした。

 §

「……なにしてんだ、お前」
「映画ラスト10分の大脱出劇ってところかな……」
 部室のブリーフィングルームにいきなり境界が現れたかと思ったらすごい勢いで転がり出てきた蓮子とメリーに、ちゆりは怪訝な目を向けた。

 §

「さて、馬鹿やってないでブリーフィングするわよ。ちゆり、情報の共有を」
 夢美がぱんぱんと手を叩くと、床に転がっていた蓮子とメリー、そしてちゆりが椅子に着く。ブリーフィングルームから外は見えないが、耳をすませば羽音が微かに聞こえてくる。きっとこの大学も、外は大量の虫に覆われているのだろう。この部屋に窓がなくて良かった。
「一応聞くけど……ここには虫、入ってこないわよね?」
「ここの気密性をなめるな。外で毒ガスを撒かれたってここにいれば安心だぜ」
「昼間に虫が出てきたけどね。おかげで変な恨み買って虫に追い回されたわ」
「誰かの服に卵でもついてたんだろ」
 メリーの質問に答えながら、夢美に指示されたちゆりがキーボードを叩く。大画面のモニターに表示されたのは、監視カメラの映像らしきものだった。
 マントを纏った少女に警備員らしき男が近付くと、彼女の周囲から大量の虫が湧き上がる。カメラにマイクは取り付けられていないのか音声は流れないが、それでも耳を叩くような羽音がここまで聞こえてきそうだ。
「これは、二時間前の食品工場の映像だ」
 ちゆりは、映像の詳細を淡々と述べる。
「調べたところ、二時間ほど前に工場が何者かに襲撃されていた。警備員の体に傷はないが、工場に勤めていた従業員数名が虫に襲われて重傷だ」
 モニターには、複数の虫に取り囲まれる少女の姿を映していた。警備員らしき音が近寄ると、どこからか大量の虫が現れ、カメラが黒一色になるまでそう時間は掛からなかった。工場で何が起こったのか、それ以上のことは監視カメラの映像からは分からない。
 だが、映像を見て分かったことがある。いや、既に分かっていたことが確信になった、というべきか。
「怪異、ね」
 蓮子の言葉に反論するものは、誰もいなかった。あの少女が怪異であることは、火を見るよりも明らかだった。
「工場を襲撃だなんて、行き当たりばったりには見えないわね。怪異が工場を襲撃した目的は?」
「おそらく、仲間の補充だな」
「仲間?」
 メリーの疑問に、ちゆりはキーボードを叩きながら答えた。
「これを見て欲しい。見て楽しいものではないだろうけど」
 モニターに写真が表示される。街中を飛び回る虫の一匹、その姿が鮮明にうつされており、蓮子が「うへえ」と声を漏らす。おそらく、外の定点カメラに映った映像の静止画なのだろう。
 そして、その姿には見覚えがある。メリーの肩に乗って日本語で語りかけてきた、三匹の虫達だ。
「こいつはコオロギの一種で、肉の代用食として使われている品種よ」
「肉の代用食?」
 ちらりと出てきたその言葉に、嫌な予感を感じ取った。
「襲撃された工場ではライトミートと呼ばれる人口肉を生産しているわ。調べたところ、工場内のタンクで飼育されている複数の種類の虫を加工して、たんぱく質の塊にしてから肉の形に再出力しているらしいわ。怪異は、タンクの中の虫を自らの軍勢に加えるために工場を襲撃したと考えるのが妥当ね」
 夢美が工場について説明するが、蓮子はそれどころではなかった。右手を口に当て、左手で腹を抑えながら顔色を青くする。ぐるる、とお腹が悲鳴を上げたような気がした。
「そういえば、蓮子が昼に食べたのって、もしかして……」
「止めて! それ以上言わないで!」
 意識すれば意識するほど、昼に食べたフライドチキンもどきが胃の中で暴れ、口から飛び出しそうになる。そんなことはあり得ないと分かりつつも、チキンに植え付けられた卵が孵って胃の中を暴れ回るんじゃないかとか、スプラッタ映画のような妄想が頭を過る。
「食品表示法上に違反はないわ。ただ、動物性たんぱくとか色々と表記を工夫して、昆虫素材であることは可能な限り出さないようにしているみたいだけど」
「昆虫の体組織の一部はエビやカニと同じキチン質で、アレルギー表示にもしっかり明記されているんだから、気付く人は気付けるし、ネット上ではそれを指摘してるやつもいるぞ。もっとも、『菓子パンにはカビの繁殖を抑えるために発がん性物質を使っている』とか『化学肥料は体に悪い』とか、そういったのと同じレベルの扱いだがな」
 一応補足しておくと、菓子パンにカビが発生しないのは原因となる菌が付着したまま封がされないようにしているから、化学肥料はあくまでも化学的手順に則って作られた肥料でありそれ自体に有害な成分は含まれていない。発がん性物質にしても、『確かにマイクロとかナノの位で見れば0じゃないけど、じゃあ実際にがんを発症するためには一日何万個食べればいいんだ?』というものでしかない。
 実際、『ライトミートにはすりつぶした虫を使っている』の反論として『原料となる虫をたんぱく質の最小単位にまで分解し、それを3Dプリンターで鶏肉の形に加工したものへ向けて「昆虫を食べている」とは言わない』という考えが一般的だ。ごく一部の人間が気持ち悪いだの惨たらしいだのと叫んだところで、そんなものはノイジーマイノリティに過ぎない。
 だが、実際にすり潰される予定だった虫を見せられて同じ考えでいられるかは別の話だろう。ちょうど今の蓮子のように。食用肉が屠殺場で加工されているのは知っているが、実際に屠殺場で動物が解体されている映像を見ながらステーキを食べられるか、というようなものか。
 夢美はぱんぱんと手を叩いて、脱線した話を軌道修正する。
「今はライトミートがどうやって作られてるかはどうでもいいのよ……さて、敵はどうやら虫を操るらしいわ。そういう伝承や怪異に心当たりは?」
 未だ口と腹を押えている蓮子に変わって、メリーが諳んじるように答える。
「ヨハネの黙示録でイナゴの大群を率いて人間を苦しめた悪魔アバドン、メソポタミア神話に登場した風と疫病の悪霊で蝗害の擬人化という説もある魔神パズズ、というのが思いつくのだけど」
「……本気で言ってる?」
 夢美が笑えない冗談を指摘するような、動揺にひくついた声を漏らす。
 怪異を相手に戦ってきたが、さすがに悪魔や魔神なんて相手にしたことなんてない。目の前の人を驚かせたり殺したりするのとは訳が違う。かたや五か月に亘って人類に厄災を齎した悪魔、かたや嵐と熱風を吹きつける風の神。もはや人間の一人や二人が相対できるものではない。今までの妖怪や幽霊がとの戦いが自動車との綱引きだとすれば、悪魔や魔神を相手にするのはもう台風や地震を人の力で止めようとするようなものだ。どれだけ台風に向かって殴りかかっても、地面に手を着いて地震を抑え込もうとしても、そんなものになんの意味があるというのか。
「……いや、それはない、と思う」
 周囲が戦々恐々とする中、蓮子はメリーの言葉を否定した。お腹を抑え、まだ気持ち悪そうにしているが、それでもやり取りはちゃんと聞いていたらしい。
「見たでしょ、監視カメラに映っていたあの姿」
 ちゆりがキーボードを叩いて監視カメラの映像を表示する。画素数が少ないのか顔の詳細が分かるほど鮮明ではないが、少なくとも見た目にはただの少女に見える。
「悪魔アバドンは『悪魔の中でも特に恐ろしい姿』と云われていて、魔神パズズは『ライオンの頭と腕、ワシの脚、背中に4枚の鳥の翼とサソリの尾』を持っていたそうよ」
「あと、パズズは『ヘビの男根』を隠し持っていたらしいな」
「なんでちゆりは私があえて伏せた情報を言っちゃうのかしら……とにかく、伝承なりで語られる姿とはあまりにもかけ離れている。それに……」
「それに?」
 ちゆりが小首を傾げる。それに対して、蓮子はどこか自信が無さそうに答えた。
「……あいつは、仲間を、虫を殺した私達を襲ってきた。偏見かもしれないけど、悪魔だの魔神だのと呼ばれた存在が配下でもない虫を気に掛けるかしら」
 それは、蓮子の勘が導いた考えだった。そもそも、蓮子は悪魔や魔神と出会ったことなんてないし、人となりもしらない。だが、彼女は怒っていた。蓮子達に虫を殺されたことに、虫と同じ目線でそれを受け止め、怒りを向けていた。コオロギの羽を介したノイズ混じりの声でも、蓮子はそう感じた。
 とはいえ、蓮子の持つ拳銃、……厳密に言うならその弾丸、そしてちゆりの持つ対怪異用論理境界改竄・三次元造形装置とか言う長ったらしい名前の機器は、『伝承から怪異の弱点を読み解き、その因子を銃弾に埋め込むことで必殺の武器とする』ものだ。対象の怪異が何か分からなければ有効な銃弾を作ることも出来ない。
 打開策が見つからず、重苦しい空気が部屋を包む。ちゆりのキーボードを叩く音だけが、ブリーフィングルームに広がっていた。
 しばらくそんな時間を過ごし、気付けば外の日もすっかり暮れた頃になって、最初に口を開いたのはちゆりだった。まるでさっきまでの重苦しさが嘘のように、そこには彼女らしくにやりとした笑みを浮かべていた。
「確かに、多くの虫を操る怪異について見つからないかもしれない」
 だが、と付け置いてから彼女はことん、とテーブルに何かを置いた。それは、空の透明な小瓶だった。
「超常の力を使わなくたって、人間にだって虫は操れる。怪異と虫が仲良しこよしだというのなら、こいつを試してみるのも悪くないんじゃないか?」
 全員がちゆりに注目する。その注目が心地いいとでも言わんばかりににやりと笑いながら、続けざまにテーブルに何かを並べる。試験管、ビーカー、ピペット……どれも蓮子にとっては馴染み深い、小学校の理科室にだってある実験道具達だ。
 最後に、ちゆりは白衣をばっと羽織った。
「さ、化学の実験のお時間だ」

 §

 すっかり日が暮れ、暗くなった街を、妖蟲は空から見下ろしていた。
 いや、既に街の表面は様々な虫に覆われていて、人間の街というよりは巨大な虫のコロニーに見える。あれだけ我が物顔で街を歩いていた人間が建物の中に避難し、今はまだ安全地帯な場所から恐怖の視線を外に向けている。外には、まるで寝袋のように不自然に虫が固まっている箇所を除けば、誰一人として外にいなかった。
 虫が人間の営み全てを蹂躙していく、この光景。それは妖蟲が大結界を越えてまで見たがっていたものだが、妖蟲の心は満たされていなかった。むしろ、ふつふつと湧いてくるのは怒りと決意にも似た感情だった。
 正直なところ、自信はなかった。
 あっちじゃ蟲の王なんて自称している。だが、こっちでも虫の声が聞こえるか、虫達が協力してくれるか、そもそも虫がいるのか、不安だった。
 だが、今。
 彼らは初めて見るであろう自分を見て、まるで長年の臣下のように付き従ってくれた。血を分けた子供のように自分を信じてくれた。
 ……私は、彼らに酬いたい。
 自分の欲を満たすために大結界を越えてきたが、今はそれよりも、こんな自分についてきてくれた彼らを助けたいと、心からそう思った。
 だから、こうして戦うことにしたんだ。
「虫たちのために、王として戦うと決めたんだ」
 決意を、自分がこれから何をするかを、言葉として口に出す。まだ、この程度では報いたとはいえない。もっと、もっと。
 具体的に次に何をすればいいか、妖蟲には分からない。だが、何かをしなければ、この子達に報いなければ。その思いだけが先行する。
 そんな彼女に向けて、

 水滴が、妖蟲の触覚に振れる。

 ぽつ、ぽつと、まばらな水滴は次第にスプリンクラーのような雨へと変わる。一瞬で全身をずぶ濡れにするような強いものではなく、シャツをじんわりと湿らせていく、小雨程度の雨。
 まるで妖蟲の決意に水を差すような雨に、彼女の顔が曇る。空を見上げると、そこには月と空が見えた。雲がないわけではないが、星がまばらな夜空がちゃんと見えており、雨が降るような空模様には見えない。狐の嫁入りというのは夜でもそう言うものだったろうか。
 ……それにしても、ひどい匂いだ。この街じゃ雨までおかしいのか。
 雨が体を伝い、その匂いもあって妖蟲は不快感を覚える。この気色悪い雨が止むまでどこか軒下にでも避難しようか、しかし人間に猶予を与えれば、反逆の手口を与えてしまうかもしれない。
 大事なのはスピードだ。侵攻の手を止めることはできない。
「みんな! 辛いのは分かるけど今はもう少しだけ力を……」
 貸してほしい、そう声を掛ける予定だった。

 だが、虫達の声が聞こえなくなっていた。

 厳密には、聞こえない訳ではない。
 虫達の声は小さく、そして意味を成さなくなっていた。まるで電波の悪い場所でラジオを聞くみたいに、その音は途切れ途切れで意味を成していない。そしてそれは、妖蟲の声も同じなのだろう。
 虫達の動きが、目に見えておかしくなる。
 先程までは少女の意のままに動いていた虫たちが、あるものは落下し、あるものは右往左往する。まるで錯乱しているかのような動きに、妖蟲自身もパニックになる。
「み、みんな! どうしたの!? 私はここにいるわ! だから落ち着いて!」
 少女の呼びかけにも反応しない。声が聞こえていないのか、認識できていないのか。虫達の声も届かない。先程までの結束が、まるで嘘のようだった。虫たちは混乱し、少しずつ妖蟲の周囲から離れていく。散らばり、少女の下から去っていく。
「いったい、何が……?」
「虫が、どうやって会話をしているか知っているかしら?」
 何が起こっているか分からず困惑していると、二つの声が聞こえてきた。
 一つは、妖蟲の問いに問いで返してきた声。人間は誰も外にいなかったはずなのに、その声は正面から聞こえてきた。
 そしてもう一つは、今はもう死んだ同胞の、復讐を願う怨嗟の声だった。

 §

「虫が、どうやって会話をしているか知っているかしら?」
 雨の降る中、傘を差して妖蟲の前に降り立った蓮子は、上空を浮かぶ少女へ向けてもう一度問い掛けた。
 あれだけ街を覆い、統率された軍隊のように規則的に動いていた虫も、今は混乱したみたいに逃げ回っている。おかげで、蓮子とメリーが妖蟲の前で凛と立つのに十分なスペースが生まれていた。
 妖蟲はいきなり現れた蓮子とメリーに怪訝そうな顔を向けながらも、質問に答えた。そもそも、その質問の意図も分かっていないのだろう。少女は何を当たり前のことを聞いているんだと言わんばかりに、特に隠すこともなくさらりと述べた。
「私は、虫の声を聞くことができる。虫に声を届けることができる。それ以上の理由も根拠もいらない。それこそが、私が蟲の王であることの証明なんだから」
「嘘ね」
 だが、蓮子がぴしゃりと否定すると、妖蟲のこめかみがぴくりと震えた。
「嘘なんかじゃない! 現に、自分は虫の声を聞き、虫へ語り掛けている。それを、たかが人間のくせに私を否定するなんて……!」
「あら、気を悪くしたかしら。ごめんなさいね。貴方にとってはそうなのよね。虫の声が聞こえるのよね」
 メリーの、まるで子供をあやすような言い方に、妖蟲はますます怒りをにじませる。手をぎゅっと握りしめ、奥歯をかみ砕かんばかりに軋ませる。その怒りに呼応するかのように、虫の一部が体勢を立て直し、彼女の周囲へと集まってくる。
「喰い殺せ」
 ぽつりと漏らすような妖蟲の声が呟かれると同時、虫が塊を成して人間へと飛び掛かる。虫を侮るというのなら、その虫に喰い殺されるのがお似合いの末路だとでも言うように。
 だが、
「貴方の声はもう届かないわ」
 局地的な、と表現するのも変か。まるで狙って直接シャワーを浴びせるかのような、妖蟲と虫の塊を追い掛けるように強い雨が降る。
 そして、先ほどと同じように虫たちは動くべき指針を失い、塊が霧散する。明らかに、単に雨で流されたという動きではない。
 蓮子は避けようともせず、虫が迫ってくるのを黙って見ていた。それはつまり、蓮子は分かっていたのだ。もう虫は脅威ではないと、虫など恐れるに足らぬ存在だと。
 もちろん、虫への生理的嫌悪感がなくなったわけでもないし、大群で迫られたら怖いには違いない。だが、制御できるのだと分かれば恐怖心は緩和される。病を撒き散らして暴力を限りを尽くした蜘蛛女や、ただそこに立つだけで京都を氷漬けにしようとした雪女に比べれば、よほど怖くないーー!
 蓮子は困惑と怒りで揺れ動く妖蟲に向けて、答えを教えてやった。

「フェロモンよ」

「ふぇろ……もん?」
 妖蟲の、何を言っているのか分からないとでも言いたげな声が聞こえた。
 蓮子は、ちゆりから聞いた受けおりをそのまま諳んじるように説明する。
「フェロモンとは、虫や微生物が体外に分泌し、他の個体に一定の行動や発育の変化を促す生理活性物質のことよ。交尾の相手を探すための性フェロモンや外敵の存在を知らせる警報フェロモンなど、多様な種のフェロモンが存在しているわ」
「……???」
「分かりやすいところで餌を見つけたアリが仲間に場所を知らせるための道標フェロモン、巣の仲間に危険を知らせる警戒フェロモンが有名かしら」
「な……にを……?」
 妖蟲の顔に疑問符が浮かぶ。何かを説明しようとしているのは分かる、だがそうやって専門用語を並べられても分からない、という顔。大学では珍しくもない顔だ。
 そして蓮子も、妖蟲に理解してもらおうと喋っていはいない。主導権を自分達に誘導するために、あえて難解な表現で話していた。
「貴方は、フェロモンを介して虫と会話していたの。フェロモンを発して言葉を伝え、また虫が発したフェロモンを嗅いで言葉を受け取っていた。きっと自覚は無かったんでしょうけど、それが貴方の力の正体よ」
 無論、フェロモンは原則同じ種族にしか通じないし、虫が発することの出来る信号なんてそう多くはない。機械も使わず多様な種のフェロモンを感じ取り、そしてフェロモンを使って意のままに虫を操ることができるというのなら、それは間違いなく異常、超常なのだろう。
 だが、既にこの街は妖蟲の世界ではなかった。科学がこの世のルールである世界へと戻ってきていた。
「わた、しを……」
 妖蟲が何かを呟いたが、蓮子は言葉を続ける。
「だから、私達はそれを分解する薬品を散布した。簡単に言うと、弱いアルカリ溶液ね。フェロモンを分解し、虫にとって意味のない物質に変えてしまうの。なるべく街や人間に影響のないものを用意したつもりだけど、虫にまでそうかまでは考慮していないわ」
 蓮子はそこから空を見上げる。既に空は暗くなっており肉眼で見ることはできないが、飛んでいる虫よりも遥かに高い場所にドローンが浮かんでいるのを蓮子は知っている。薄く四角い箱の四隅にプロペラを取り付けた、オーソドックスな形状のドローン。特徴的なのは、筐体の底面に取り付けられたタンクとスプリンクラーのような装置だろうか。
 もちろん、そのスプリンクラーから放出されているのは蓮子が先ほど言っていたアルカリ溶液だ。ちゆりの操作によって、ドローンは周囲にそのアルカリ溶液をばら撒いているのだ。
「アルカリ溶液という言葉が怪異に伝わるかは知らないけど、危険なものだっていうのは分かるわよね。このまま濃度を上げて虫を溶かしたくなかったら、虫たちを退かせて」
 妖蟲は、最初に蓮子たちに話しかけてきた。だからこそ、蓮子は対話を試みる。それが、『仲間の虫を殺された』ことへの復讐からだとしても、蓮子たちは対話の通じる相手だと判断した。
「私を……!」
 だが、妖蟲の肩は怒りに震えていた。
「(フェロモン? アルカリ溶液? 私には分からない単語だけど、それでも分かる。あいつの言っていることは、きっと間違ってない)」
 蓮子の言葉を頭の中で反芻し、自分に分かる言葉でどうにか解釈する。その上でなお、どうしても看過できないことが妖蟲にはあった。
「(この雨、酷い匂いのするこの雨が、きっとあいつの言うアルカリ溶液なんだ。それが、フェロモンというのを分解していて、それで声が伝わらなくなっているんだ)」
 妖蟲は、分からないなりに蓮子の回答を理解した。理解してしまえることが、妖蟲の怒りを強くする。やがて、その怒りをぶち撒けるように妖蟲が大きく叫んだ。

「私を! 私のこの力を! 科学なんかで語るな!」

 それは、彼女にしては珍しい怒号だった。彼女が元居た世界でだって、彼女のこんな声を聞いた人妖はごく僅かだろう。
 だが怪異にとって、自身の力や性質を物理現象として表現されるのは、文字通り存続の危機に関わる。かつて山彦が声の反射だと言われた時のように、存在の否定は自身の消滅にも繋がる。だからこそ、怪異は科学を拒絶する。
 だが、少女は消滅に怯えてはいなかった。その顔に怒りはあれど、何よりその目は決意を蓮子に訴えてくる。
「たとえ私が科学で説明できるのだとしても、今は消滅してあげられない。この子達をただ狭く暗い場所に閉じ込め、時が来ればどんな子だったかも分からなくなるまで潰して人に食べられて……そんなの、許されるはずがない。私が、この子達を導かなければならない」
 なぜなら、私は蟲の王、この子達を導く者なのだから。
 そう、少女は言葉を結んだ。
 それを聞いて蓮子は、ああとどこか思い知ったように息を吐く。
 あの怪異は、彼女は、自分なんかよりよほど立派じゃないか。
 その小さな背中に、この街全ての虫達の命を背負い、人間を相手に戦うことを決めた。あちらから来たであろう彼女にとってはこちらの世界の虫なんて赤の他人も同然なのに、それでも虫の声なき声を聞き届け、立ち上がったのだ。
 確かに、彼女は本当は虫の声なんて聞こえていなかったのかもしれない。虫達は彼女に付き従っていたのではなく、ただフェロモンとやらに反応していただけだったのかもしれない。彼女が、無理矢理従わせていただけなのかもしれない。
 それは酷いことなのかもしれない。蟲の王なんて自称しておきながら、虫達の意思を無視した独善的な行動なのかもしれない。彼女のエゴに、虫達を巻き込んだのかもしれない。
 けれど、それは虫達を見捨てる理由にはならない。狭くて薄暗い鉄の箱に閉じ込めて、ただ人間に食べられるのを待つなんて、そんなの許されるはずがない。たとえこの街の誰もが許したとしても、蟲の王だけは許したりしない。
 それが、彼女の意思だった。浅慮でも偽善でも役者不足でも、それでも虫のために戦うと、そう決めたのだ。
 ただ流されるままにお役目を受け入れた蓮子とは、雲泥の差だ。
「……、」
 蓮子は、グローブの嵌められた手をぎゅっと、強く握る。一時の気の迷いを振り払うように、爪がグローブの下の手のひらまで食い込ませんと、握りしめる。
 たとえ彼女に戦う理由があるのだとしても。同情の余地があったとしても。彼女を見逃す理由にはならない。彼女に目的があるように、今の蓮子にもまた目的があるのだから。彼女のそれと比べれば遥かに自分本意だとしても、それでも引き下がれない、理由がある。
「だったら」
 蓮子は耳に装着されたインカムをこんこんと叩く。
 それが合図だった。
 雨が移動する。まるで雲が流れるように、雨が止むのではなくその雨量を保ったまま、妖蟲たちの頭上からずれるようにして動く。
 そうして出来たのは、半径100メートルほどの雨の降らない空間。妖蟲を中心に、アルカリ性の雨が降らない区画が生まれる。
「お互いの目的はどこまでも平行線で、妥協点なんて存在しない。妥協するつもりもない。だったら」
 蓮子は、懐から拳銃を抜く。もう必要ないとばかりに傘を投げ捨てる。
「だったら、あんたたちのルールに則って勝負してあげる。それが、あんたらのやり方でしょ?」
 弾幕ごっこ。
 それは、あちらの世界で最も主流な決闘術だ。
 己が心を弾幕として表現し、お互いにその美しさを競い合う。腕力や暴力ではなく、心の強さを見せる決闘術だ。
「……いいわ。相手してあげる」
 蓮子に答えるように、妖蟲は懐からカードを取り出した。それ自体に力は籠められていないが、それは妖蟲、リグル・ナイトバグ自身といえる。
 リグル・ナイトバグが街の空で舞い、虫たちが躍るように追従する。
 宇佐見蓮子は拳銃を構えながら、相棒とともに空を見上げる。

「闇に蠢く光の蟲、リグル・ナイトバグ。蟲の恐ろしさをその身に刻み込んであげる」
「秘封倶楽部所属、宇佐見蓮子。この街は人間のもの、虫には即刻退場願うわ」

 科学と幻想、二つの世界が衝突する。

 §

 ーー灯符「ファイヤフライフェノメノン」

 ぽう、とリグルの周囲に光が灯る。それは熱を発さない、蛍の灯りだった。
 灯った光は、彼女を中心に円を成して広がるようにして飛ぶ。それは年輪のように幾重にも重なり、さながら自在に動く花火のようだ。
 周囲にばら撒かれる蛍は牽制と囮目的であり、本命は狙い打って放たれる蟲の大群の列だ。相手の周囲を蛍で取り囲み動けなくしてから、蟲の種も問わず一直線に叩き込む。リグルお得意にして、必殺の弾幕(スペル)だ。氷精や弾幕ごっこ慣れしていないやつくらいなら確実に一勝を取ることができる。
 リグルには、この街にいる虫全てを差し向けて圧し潰すこともできた。それをやらなかったのは、人間如きに弾幕ごっこで負けられないという驕りにも似た想いからだ。リグルの背後には大量の虫が浮かんでいるが、弾幕に不要な虫達は待機させていた。
 だが。
「厄介な能力ね……」
 リグルは続けざまに大群の列を放つ。列を成して押し寄せる虫達だが、女たちは空間に穴……確か境界とかスキマとか呼ばれるものだったか……を作って飛び込み姿を消してしまう。そして全く別の場所に現れる。
 リグルのこの弾幕は、周囲に広がるように放った虫たちで足止めしてから、本命の虫を相手に集中して叩き込む構成だ。故に、瞬間移動なんて三次元的な制約を超えた動きには対応することができない。
 そして、弾幕ごっこは一方が打ち合うものではない。銘こそ唱えなかったが、蓮子と名乗った女が鉄の塊をこちらに向ける。あれには見覚えがある。鉄の玉を飛ばす道具だ。山でマタギだか何だかが背負っていたのは子供の背丈くらいあったが、女の持っているものは随分と小さく、そして弱っちく見える。
 予想通り、そこから飛んできた鉄の玉をリグルはすらりと避ける。弾幕ごっこでなければ、こんなものこの手で簡単に叩き落とせるのに。虫たちに流れ弾が当たらないか心配になる。
 それよりも厄介なのが。
「喰らいなさいっ!」
 金髪の、人間では本来ありえないはずの妖力のようなものが感じられる人間が、自転車を投げる。ごうっ! という風を切る音と共に円板でも投げるみたいに自転車が回転しながらリグルめがけて飛んで来る。
 リグルは咄嗟に虫達に指示を出し、自転車を避けるように指示を出す。自分なら紙一重を狙って避けられるが、虫にとってはそうはいかない。巨大なものが通過すれば気流が乱れ、体の小さい虫は飛ぶこともままならなくなってしまう。だから大きく避けなければならない。
 そうなれば弾幕に穴が空き、あいつらはそこへ逃げる。 
「厄介で、面倒な奴」
 リグルは、対象の評価を吐き捨てた。
 威勢よく挑んできたくせに、やっていることはちまちまと逃げるだけ。リグルの攻撃は届かないが、あいつらの攻撃も無駄に虫達を危険に晒すばかりでリグルには届いていない。
 何より、弾幕を妨害するなんて弾幕ごっこじゃない。わざわざ弾幕に潜り抜けられる隙間を用意しているのに、あいつらは自ら穴を作り出してそこに逃げ込んでいる。
「ねえ! もっと真面目にする気ないの!?」
「人間が妖怪相手に戦っているのよ、真面目に戦って勝てるわけないでしょ」
 普段、紅白の巫女や白黒の魔法使いを見ているから勘違いしそうになるが、これが本来の人間なのだ。本来なら、人間なぞ妖怪の歯牙にもかからない存在のはずなのだ。どうしてスキマ妖怪みたいな力を持っているのか知らないが、それでもあれは人間なのだ。
 ……この子達を暗い場所に閉じ込めた、人間。
 心の中でめらりと燃えかけた何かを、リグルは心の奥に封殺する。平静の心で、現状を見る。
 リグルと女達、両者ともに拮抗しているように見えるが、その裏でリグルは淡々と機会を待っていた。
 彼らは瞬間移動を繰り返していて、その動きは予測できないように見えるが、そうではない。
 声が、聞こえるのだ。
 奴から、死んだ仲間の声が聞こえてくる。仲間が残してくれた最後の断末魔、そして復讐を願う声がこびりついているのだ。
 だから、瞬間移動してもその移動先は分かる。奴が境界を作った時点で、奴が移動するよりも早く死んだ仲間の声が境界から聞こえてくるのだ。境界が存在する間は、声は二か所から発されているのだ。
 これは、根気の勝負だとリグルは感じる。
 停滞しているように見えて、優位は自分にあると考えていた。リグルの弾幕は相手に届いていないが、それは向こうも同じだ。そうなれば、人間より妖怪が体力で劣るはずがない。先に根を上げるのは人間だろう。
 だから、この停滞を打開するためにきっと人間は勝負に出るはず。あの黒髪の女が白黒の魔女みたいにマジックボムを投げてくるか、それとも金髪の女が紅白の巫女みたいに至近距離に接近して思いっきり殴ってくるか。その境界を生み出す力を使って何かをしてくるはずだ。
 美しい虫による弾幕花火と、まるでそれを汚すみたいに宙を舞う弾丸と粗大ゴミ。派手な光景の中で、リグルは冷静にその瞬間を見定めていた。
 ……人間の体力なんてたかが知れてる。だから、それよりも先に、あいつは勝負に出るはず。そこを叩く!
 そして、その瞬間は来た。
 黒髪と金髪が一瞬目配せしたかと思うと、二手にばっと別れた。
 リグルは即座に狙いを金髪に絞った。黒髪の境界操作は厄介だが、攻撃手段はあの鉄の玉を飛ばしてくるだけ。対して金髪の投擲は他の虫を巻き込む可能性が高い。それに、境界が作れないのなら虫達から逃れられまい!
 リグルが手を振るうと、虫達が一斉に向きを変えて金髪の女に殺到する。もはや弾幕などお構いなしの集中攻撃に、リグルが獰猛に笑った。
 そして、その獰猛な笑みに金髪の女がにやりと笑い返してきた。
「っ!?」
 思わず虫を呼び戻そうと手を振るうが、それよりも先に金髪はこちらに向けて何かを投げてきた。それは手のひらに収まるほどの大きさの黒い円柱で、その側面にはいくつも小さな穴が空いていて……

 ばぁん! という爆音、そして目を焼くほどの強い閃光が、夜の街に轟いた。

 リグルは知る由もなかったが、それはこの世界でスタングレネードと呼ばれているものだ。170デシベルもの爆発音と100万カンデラ以上の閃光は、周囲の生物からまとめて知覚と聴覚を奪う。リグルと虫達が前後不覚になる。視界が明滅し、音も聞こえない。
 ……仕掛けてきた!
 だが、リグルは冷静だった。視覚と聴覚を奪われながら、それでももう一つの耳、虫達の声を聞く耳に全神経を集中させる。あいつらが境界で移動しようとも、死んだ仲間の声がそれを教えてくれるのだから、何を慌てる必要があるのだ。
 そして、それは来た。きっと一瞬だったのだろうが、リグルには酷く長い時間のように感じられた。
 リグルのすぐ後ろから虫の声が聞こえた。周囲を飛ぶ虫たちじゃない。あの仲間の最後の声だ。自分が助けられなかった仲間の声。それが聞こえてきたのだ。
「皆、喰らえ!」
 リグルは振り向きもせずに大量の虫を声に向けて放つ。そこにいるもの全てを喰らい付くす、蟲の進撃。彼らが通過した後には肉片すら残さない。
 ぞあっ! と。羽音が爆裂的に膨れ上がり、もはや列や円などという二次元的に表現できるものではない。巨大な柱と呼ぶべきものが出現した。人の胴回りを遥かに超える太さの柱が、リグルの背後に出現した境界ごと呑み込んで通過していく。弾幕の構成を無視した攻撃だが、先にそれを破ったのはあちらなのだ。なぜこちらは律儀に守る必要がある。
 大量の虫に骨まで残せず喰らえと指示し、声目掛けて虫を放ち、そこまでしてからようやく、明滅した視覚と混濁した聴覚が正常へと戻っていく。
 そして、リグルは見た。

 大量の虫に喰われて穴だらけになった、セーラー服を。

「な、ん……?」 
 目の前のそれは、リグルが見たこともない服だった。
 だが、確かに声が聞こえる。あいつらから聞こえていたものと同じ、死んだ仲間の声だ。それをリグルが間違えるはずもない。
 じゃあ、これはなんだ? こんな服をあいつが着ていたか? 仲間の最後の声をどうやってこの服にこびりつかせた? 何より、あいつはどこにいった?
 その思考の空白を、それを作り出した蓮子が見逃すはずもない。
「どうも、蟲の王さん」
 声と共に、背中にがきりと固いものが突き付けられる。黒髪の女の声がすぐ傍から聞こえるが、そいつから聞こえていたはずの虫の声は聞こえない。誰がどこにいるのか、自分の聞いているものは正しいのか。人間の声を聞く耳、虫の声を聞く耳、目、触覚、背中に押し付けられる感触……五感のどれを信じればいいか分からなくなる。
 どこを、ではない、ぐるりと一周見渡すように首を動かすと、リグルのすぐ隣、そこには境界から上半身だけ出した蓮子が拳銃をこちらへ向けていて、その体は雨でも浴びたみたいにぐっしょりと濡れていてーー
「あんたがなんの怪異か終ぞ分からなかったけど」
 たんたんたんたんたん、と。いっそ軽快な音が響いた。
 蓮子の握る拳銃が文字通り火を噴いた。境界を操作され、弾丸の形をした火がリグルの体を内側から燃やす。虫の羽を模したようなマントが首から離れてひらひらと舞う。全ての弾丸を打ち終えてそれでも引き金を引き続け、弾切れに蓮子が気付いてから、ようやくリグルは力無く地面へと落下していく。
 蓮子は息を荒げながらも、落下する蟲の王を見下ろしてぽつりと呟いた。

「飛んで火にいる夏の虫。虫が火に弱いのは、遥か昔からそうだと決まっているものよ。こいつはあんたみたいな虫にぴったりな、小さくても必殺の武器よ」

 §

「ん、んうう……」
 妖蟲の寝起きの呻き声を、蓮子は聞いた。
「起きたみたいね」
「あれ、ここはいったい……ええっ!?」
 自分の周囲をリグルは確認して、その状況に驚きの声を漏らす。だが、それも当然かとどこか他人事みたいに納得する蓮子がいた。
 ここがさっきまで戦っていた街中で、今はアルカリ性の雨がリグルに降り注いでいる。自分達と違って傘も差さずに雨に打たれていることになるが、リグルが驚いたのはそこではないだろう。
 今、リグルは地べたに寝転がっている。そして、その手足はここには無かった。冷静に見ればその手足が境界に突っ込んでいるだけだと分かるが、傍目には四肢を切断された子供の遺体という、とんでもなく猟奇的な絵面に見えてしまう。
 もちろん彼女の名誉のために言っておくと、宇佐見蓮子という人間は四肢を切断した少女の死体を作って胸キュンするような凌辱変態野郎ではない。
「え、え? どういうこと? 私の腕はどこ?!」
「安心して。これ以上貴方を傷付けるつもりは無いわ。一応、手足は封じて虫も呼べないようにしたけど、反抗するならその限りじゃないわ」
 火の装填された拳銃を妖蟲に突き付けると、リグルは歯をぎりと鳴らしながらも黙った。
 いつもなら即座に送り返すところだ。実際、昼間の夢美の言葉が無ければ今からでも送り帰したいと思っている。
「ねえ、教えてほしいんだけどさ」
 蓮子は拳銃を握りながら、顔を妖蟲に近付ける。ひっ、と怯えた子供みたいな声を妖蟲が漏らすが、それに構わず蓮子は質問を投げた。
「あんた、あっちから来た妖怪なんでしょ? どうやって来たの? 誰かに送られてきたの?」
「……なんで、そんなことをあんたに教えなきゃいけないの」
「あんたは敗者なんだから、勝者の言うことに従うのは当然でしょ。街をこれだけめちゃくちゃにしておいて、すんなり帰してもらえると思わないことね」
 蓮子が銃口をリグルの頬に押し当てる。横から「うわぁ……貴方のほうがよっぽど悪党よ」というメリーの声が聞こえたが、どうやら変な勘違いをされているらしい。失礼な、自分が勝ったんだから自分が正義に決まっているというのに。
 最初は視線を逸らして口を噤むという何とも反抗的な態度を示していたが、頬に押し付けていた拳銃をぐりぐりと押し込むと話し始めた。念のため言っておくと、これは尋問のために必要な行為であり、ふはは今までよくも好き勝手してくれたな怪異共という個人的な怨念をぶつけるような個人的なあれこれをぶつけるような人間とは、宇佐見蓮子は違うと思う。
「確かに、私は大結界を越えてきた、けど……」
「けど? ほら、早く言いなさい」
 だが、話し始めたリグルの声は次第に震え、すぐに止まってしまった。
 王として虫を守れなかった悔しさ、巫女でも魔法使いでもないただの人間に負けた敗北感、そしてあまつさえその人間にこうしていいようにされる屈辱。蓮子が想定している以上に、少女には精神的負荷が積み重なっていた。
「う……」
「ほら、早く言いなさい。言ってしまえば楽になるわ」
 だが、逃げることはできない。どれだけ身をよじっても、虫へ助けを求めても、どうにもならなかった。
「ひっく」
 そして、追い詰められたリグルは、

「うえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん! 何でよ、何でこんなことされなきゃいけないのよ虫を助けたかっただけなのにいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃい!」

 とうとう決壊した。蓮子がうわっとたじろぎ、メリーが「泣かした~」みたいなジト目でやや遠くから二人を眺めていた
 蓮子は知らなかった。いや、もしかしたらあえて考えないようにしていたのかもしれない。妖怪は人間と同じ寿命ではない。外見からは想像できない年月を生きていたとして、その精神年齢が見た目通りの年齢でない理由にはなり得ない。見た目相応の12歳程度の子供にとって、銃を突き付けられて脅されるのがどれほど怖い出来事だろうか。
 ぼろぼろと大粒の涙を流しながら泣き喚く女の子を前に、おたおたと右往左往する蓮子。咄嗟にメリーに助けを求めるが、彼女は「何やってんの……」という赤ん坊を必死であやすお父さんを見るお母さんみたいな目で見つめるばかり。だめだこいつは頼りにならんと今度はインカムをつついてちゆりと夢美に助けを求めるが、そこからはわざとらしいクソデカ溜め息しか聞こえなかった。
「どう、して……」
 リグルがぽつりと呟く。何を差してどうしてと言っているのか分からなかったが、この場の空気をどうにかしたくて、その言葉から話題を探す。
「ああ、あれのことかな?」
「……?」
「ほら、あんたの言ってた、仲間の最後の声が私達から聞こえるって」
 そこまで言われて、リグルはああと思い出す。確かにあの時、彼女からは仲間の声が聞こえなくなっていたことを。
「言ったでしょ? 貴方はフェロモンを使って会話しているって。ここにこびりついているのは、復讐フェロモンよ」
 復讐フェロモン。あるいは遺言フェロモン。
 厳密にいえば、そんな名前のフェロモンは存在しない。科学的にも存在しないし、都市伝説上にも存在しない。『ムカデを殺すと仲間のムカデがやってくる』という、都市伝説未満の俗説を説明する際に便宜上使われることがある、程度のものでしかない。
 もちろん、その俗説は嘘でしかなく、ムカデを殺した後に複数のムカデを見かけるのも、単にムカデが好む環境に最初から複数住んでいただけという話だ。
「疑問だったのよ」
 蓮子は、ブリーフィングルームで夢美に話したことと同じことを、その時の記憶を掘り返すようにしながら話し始める。
「どうして、貴方は私達が虫を殺したのが分かったのかって。確かに、私……正確にはメリーが虫を殺した。なら、どうやって貴方はそれを知った? 私達から聞こえた怨嗟の声は何なのかって」
「……それが、復讐フェロモン?」
 質問をしたリグルの目からは、もう涙は止まっていた。まだ目元は赤いが、涙が止まっているのを見て蓮子はほっと胸を撫で下ろし、会話を続けようとした。
「ええ、私達が虫を殺した時、あの場所にはもう一人いたの。もし復讐フェロモンが存在するのなら、私達の服にそれが付いているのなら、もう一人にだって付いているんじゃないかって思った」
「虫を手を掛けたのはメリーでしょ……。あと、なんであんたが自信満々に喋るのよ……」
 だから蓮子は、ちゆりの服を囮にした。妖蟲がスタングレネードに気を取られている隙にちゆりのセーラー服を妖蟲の背後に出現させ、同時に自分は頭からアルカリ溶液を浴びて自身の服に付いた復讐フェロモンを分解した。実際にセーラー服に気を取られるところを見るまで復讐フェロモンの存在の確証はなかったので、そういう意味では賭けの上にある危うい勝利でもあった。
「言っておくけど、復讐フェロモンなんて存在しない物質よ。だからこそ、貴方はその声を聞くことができた。なんせ、蟲の王を司る怪異なのだから」
「そう、なんだ……」
 種明かしをされて、妖蟲は何かを諦めたみたいに空を見上げる。
 いや、少女は諦めてはいなかった。
「私は、王に成れなかったのかな……あの子達、ただ人間に食べられるのを待っていることしかできなくて、人間は虫に感謝するどころか私達を食べているとすら思ってなくて。本当は、声だって聞こえてなかったのかもしれなくて」
 諦められなくて、諦められなかったのに。それでも少女は負けてしまったのだ。
 また、リグルの目に涙が浮かび始める。人間に負けただのフェロモンだのはもうどうでも良かった。ただ、虫を守れなかった悲しさ、そして蟲の王としての不甲斐なさが心の奥から込み上げてくる。
「私は、弱いね……」
 消え入りそうな声。それを聞いて、蓮子はぐしぐしと頭を掻く。確かに目の前にいるのは京都をあわや機能不全というところまで追い込んだ妖怪だ。だが、それでも少女の姿で泣かれたり落ち込まれたりされるのを見ていて楽しいものではない。
「王だか何だかは知らないけどさ」
 蓮子の言葉に、リグルが「え?」と反応した。
「声が聞こえるから王なんかじゃない。その虫たちのために立ち上がったことこそが、王の証なんじゃないの」
 そうだ。彼女はずっと戦っていた。虫達のために。本来なら助ける義務なんて無い、この世界の虫のために、京都の人間全てを敵に回して、戦ったのだ。
 それが、弱いはずがない。臣下から嫌われるはずがない。彼女は気付いていなくても蓮子には分かる。虫の声が聞こえるから王に担ぎ上げられたのではない。虫達のために立ち上がることができるから、彼女は王の資格を持っているのだ。
 リグルの表情が、僅かに和らいだ。それを見て、子守りモードから解放された蓮子が本題を切り出す。
「それで悪いんだけど、このまま貴方を送り帰すことはできないわ。この街を怪異から守るため、色々聞きたいことがあるの。具体的には、貴方がこっちの世界に来た方法について」
「ああ、それなら……」
 リグルが口を開く。欲しかった答えが、すぐそこにある。
 だが、その答えを聞くことは叶わなかった。
「蓮子!」
 メリーが叫ぶと同時、蓮子を突き飛ばす。
 ただの少女の細腕ではまずありえない、まるで自動車が突っ込んできたかのような衝撃に、蓮子の体がアルカリ溶液の流れる地面の上をごろごろと転がる。たっぷり歩道まで転がされて、ようやく蓮子の体は止まった。幸い、地面が濡れていたおかげで全身をアスファルトでやすり掛けされるようなことにはならなかった。
「ちょっと! 何するの……よ……」
 蓮子は当然の怒りをメリーにぶつけようとしたが、その口はすぐに止まった。
 目の前に大量の虫が集まってくる。虫達は蓮子達には目もくれず、手足を囚われていた少女を覆い尽くしていく。そうして生まれたのは、少女を中心とした巨大な虫の球体だった。
「どういうこと? この雨がある限り、フェロモンで虫は呼び寄せられないんじゃなかったの?」
 メリーの疑問の声はごもっともだが、それよりも目の前の妖怪だ。何をしようとしているのか知らないが、まだ大事なことを聞けていない。
 蓮子は拳銃を抜き、続けざまに発砲する。弾丸そのものよりも発砲音に驚くみたいに、虫が四方八方へと散らばっていく。
 そこには、ただ少女を捕らえていた境界が、ぽっかりと空いているだけだった。
 少女も、虫も、どこにもいなかった。
「……まさか、あの虫は自分達の王を連れ去ろうとしたの? フェロモンも声も、届かないはずなのに。もしかして、他にも妖蟲の協力者がいるのかしら?」
「メリー、貴方は大事なことを忘れているわ」
 メリーの疑問に、蓮子は空を見上げながらぽつりと呟いた。
 周囲にはもう虫の一匹も残っておらず、しとしとと散布されるアルカリ溶液の音しかなかった。

「時には、感情や想いが理屈や理論を越えることがある。科学的には一笑に付されるそれこそが、きっと怪異の根源なのよ」

 少女は、虫達を守りたかった。だから王として虫を救い、そして人間と戦った。
 虫達は、少女を守りたかった。だからアルカリの雨を越えて少女の下に集まった。
 きっとそれ以上のものはなく、ただそれだけの簡単なことなのだ。

 §

「さて」
 境界を使って部室に戻ってくると、そこにはちゆりが仁王立ちしていた。
 下着姿で。
「よくも私の服を台無しにしてくれやがったな、宇佐見蓮子さんよ」
 ちゆりはにこにこと笑っている。笑っているが……ご機嫌ではないことは一目で分かった。これが分からないなら社会生活で苦労すると思うので早急にどうにかしたほうがいい。
 ……いや確かにちゆりの服を囮にする作戦を立てたのは私だけど! ちゆりだって私の作戦を承諾して自分から脱いだじゃん! 何で私が悪いみたいになってるの!?
 蓮子がまあまあと宥めるジェスチャーしていると、メリーがごそごそと何かを取り出しているのが視界の端に映った。
「大丈夫よちゆり。ちゃんと持って帰って来たから」
 そしてメリーが何故か自信満々でセーラー服を取り出す。どうやらここに社会不適合者がいたらしい。にっこにこの良い笑顔だ。
「そんな穴だらけの服が着られるかよ! というか、虫! 襟の裏にデカい虫がついてるじゃないか! 早くどうにかしろ!」
「……ええと、あの子が守ろうとしたって思うと、なんだか潰すのもちょっと忍びないわね」
 少し悩んだ挙句、メリーは部室の戸を開けてセーラー服ごと外にぽいっちょする。「まあ、土に帰る素材だから飛んでいっても大丈夫でしょ」とか呟いているが、そういう問題ではない。この大学でセーラー服を着ているのはちゆりだけで、その服が虫食いだらけの状態で外に捨てられている。……拾った人はどんな想像をするだろうか。
「それで、街の状況はどうなってます?」
 虫のおかげで安易に拾いに行くこともできず、わなわなと震えるちゆりを横目に、蓮子は夢美に真面目な話をする。
「あれだけいた虫が、今はどの監視カメラにも一匹たりとも映ってないわ。虫は四方八方に散らばって、今はもう府外へ逃げてしまったみたいね」
 夢美はまだメリーとじゃれあっているちゆりに変わってキーボードを叩く。街中の監視カメラが次々に切り替わるが、虫はどこにも見つからない。あれだけのことをしておきながら、痕跡となる虫はもうどこにも残っていなかった。僅かに残っている証拠もあれを見ていた人間の記憶も、夢美によって消されてしまうのだろう。
「怪異のことは〝フェロモンで虫を操る技術を持った自然保護過激派のテロリスト〟とでも偽装しておくわ。襲撃されたライトミート工場は残念ながら閉鎖、きっともうライトミートは食べられないわね」
「あはは、ライトミートは……もういいです」
 明日の報道ではライトミートが虫由来であることはしっかり伝えられてしまうのだろう。企業としては法に違反するような悪事に手を染めていたのではないだけに、少々申し訳なく思ってしまう。
「それで」
 夢美が、今度はこちらの番とばかりに顔をずずいと近付ける。
「あの怪異はどこにいる? また襲撃を受ける前に、できればこっちから仕掛けたいんだけど」
「ああ、もう襲撃を心配する必要はありませんよ、きっと。きたらその時はその時ですが」
 蓮子の言葉が意外だったのだろうか。夢美が目をぱちくりさせる。
「宇佐見が怪異を信じるなんて、どういう風の吹き回しだ?」
「そう、ですね……」
 蓮子は、ぽつりと呟く。

「あの子の目的は、もう果たされたからですよ」

 §

「やあ、外ではしっかり楽しめたかな? 回収しに来たよ……何やってんの、こんな山奥で。人は喰えたの?」
「ううん、食べられなかった。けどいいの。私は、この子達を助けることができて、それでいっぱいお喋りできたから、それで十分」
なんか科学とナントカが交差して物語が始まりそうだなって思いながら書いてました。
実際、そんなイメージで書いてます。ただ科学サイド幻想サイドで対立しているというよりも、伝承や都市伝説を科学的に分析し、また科学的に否定されているからこそ怪異となる。お互いは全く別の領域に存在するのではなく密接に混ざり合っている……みたいな関係性が書けてたらいいなって思ってます。

メリーがシーハルクみたいになってもはや秘封と名乗っていいのか疑問だけど、自分は戦う秘封が大好きなのでOKです。
Actadust
https://twitter.com/actadust
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コメント



0.簡易評価なし
1.100名前が無い程度の能力削除
前作に続いて面白かったです!
リグルがかわいかった!
しいて言うなら、彼女が幻想郷へ帰った後のパートがもう少し長くても良かったです。
次も楽しみにしてます!!
2.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。リグルが切実で良かったです。
この秘封はめちゃくちゃ強くなっていくなぁ。
4.100南条削除
とても面白かったです
怪異を科学で撃ち破ったと思ったとたんに理屈を超えた現象が起こるところが最高でした
素晴らしかったです
5.100のくた削除
とても面白かったです、次回の妖怪にも期待します
6.80名前が無い程度の能力削除
秘封倶楽部が次々と怪異と戦うフォーマットが良く、導入から終わり方まで綺麗な流れで描き切られているように思えました。
前回はヤマメのノリに(原作がちらついてしまい)あまり乗れなかったのですが、今回はリグル側の気持ちにも乗れたので面白く読めました。
有難う御座いました。
7.100東ノ目削除
昆虫食が浸透した結果として、リグルが原作での反鳥肉食運動妖怪組のような立ち位置になっているのが未来だなあと思いました。他も敵役がリグルである必然性がちゃんとあるのが良かったです。
次も楽しみにしてます