夕暮れと気まぐれ
魔が差すのは夕焼けのせいではないか、と橙は思った。何せ逢魔が時というくらいだ、心の中の魔物が自分の顔色を伺っているに違いない。朝から結界を見てまわって、ここが最後の一か所だというのに、なぜだか点検をおろそかにしてしまった。その場を離れようとしたところで手を抜いたことに気づき、橙はもう一度点検をし直した。
「よし」
声に出して確認した後、橙は大きく伸びをして、目を細めながら空を眺めた。昼に猛威を振るった太陽の足掻きのような、ひときわ強い残光を瞳で受けると、夜が迫ってきているのを感じた。
妖怪の山と人里周辺の結界の点検、これが藍に任された単独での初仕事だった。橙は勝手がわからなかったので、ずいぶんと時間がかかってしまった。一方で単純な仕事なので、一週間もすれば倍以上のペースで終わるだろうという確信もあった。
「あー疲れたなー」
言葉にした途端、身の丈に合わない苦労をした気分になった。マヨヒガに戻ったら秘蔵のマタタビ酒でも飲もうかと考えたが、橙はわざとそのイメージを振り払って、人里へ向かった。
夜になり、冷えた空気が肺に満ちたころ、里に着いた橙はその姿を猫へと変えた。
「やっぱり黒猫はこうじゃなきゃね」
化けるのはあまり得意ではなかった。妖怪に比べて肉体に依存する性質なのも相まって、姿を変えるのはそれなりに疲弊してしまう。しかし、橙にしてみれば猫らしくあることは大切らしかった。少なくとも自分が化け猫である以上、その姿は日常と結びついてなければならないと思っていた。獣と人の姿が曖昧になると、自分を見失うのではないか、そんな恐れを最近抱くようになった。
(たぶん紫様は自分が何の妖怪か忘れちゃったんだ。もしかすると藍様もそうなるかもしれない。あんまりキツネっぽくないし。でもたぶん強いから平気なんだ)
これが今のところ橙が持っている危惧に対する答えであった。
夜の闇に紛れてこそこそと里を歩き回った。垣根から屋根へと飛び移り、三日月を見上げてにゃあと鳴いた。昼間の疲れはまったく取れていないが、合理から外れた行動は猫の気まぐれさを証明してくれているようで、多少の陶酔があった。
幼いころの彼女はかけっこが好きだった。尾が二股に分かれる前から、じっとしているのが苦手で、日がな一日、ねずみやとんぼを追いかけまわし、へとへとになって眠りにつくのが習慣だった。火照った身体を何とか落ち着けようと犬のように激しく息をする様を、ほかの猫たちは体力を無駄使いする間抜けと笑った。しかし、橙は気にすることもなく、走り続けた。そして、たくさん太陽を浴びて、いつの間にかほかの猫より長く生きて、人の形をとるようになり、彼女は妖怪になった。
橙という名を与えられてからはだいぶ落ち着いたようで、最近はむしろ昼寝をしたり、夜中に月を睨めあげて感傷に浸るふりをしたりと、自堕落な生活をむしろ率先して行っていた。自分に落ち着きが足りないことをなんとなく理解していたからだ。
基本的には修行にはまじめに取り組んでいたが、あまりに従順すぎるのも猫らしくないと思い、藍に呼びかけられても寝たふりをしたり、適当な返答をしたりと、振る舞いを変えていた。それでも怒ることはなく、決まって藍は「まったく気まぐれで困るよ」と肩をすくめて笑うのだった。
マヨヒガに戻ってきた橙は、すぐさま屋敷の屋根に飛び乗った。二匹ほど先客がいて、朝日を馬鹿にするかのようにのんきに眠っていた。マヨヒガにはいつもたくさんの猫がいて、橙はいつも統率に失敗していた。彼らは群れることを面倒くさがるが、それでもほかの猫と一緒にいるのが好きらしく、橙が連れてこなくとも日に日に数だけは増えていった。
くあとあくびを一つして、陽光を存分に吸収した茅葺き屋根にごろんと寝そべった。夜中に里を徘徊したから疲れていた。少しの散歩のつもりで、猫の姿で歩き回っているうちに、なぜか睡魔を追い払うことに躍起になって、結局日が昇るまで徘徊してしまったのだ。
睡魔に身を任せようとすると、先に屋根にいた三毛猫がのどが枯れていないことを確かめるかのように「にゃあ」と鳴いた。ふとチルノと遊ぶ約束をしていたことを思い出した。
「あ、あー、まあいいか、いやよくないか」
カエルを凍らせて、解凍するだけの遊び、チルノはそれが楽しくて仕方ないらしいが、共感者はひとりもいなかった。ただ、橙は楽しそうにしているチルノを見るのが好きだった。妖精らしい無邪気な残虐性が、一切の忌憚なく発揮される様がどうにも魅力的に思えた。
しかし、その行為そのものはひどく単純で、見ているだけというのは退屈である。惰性で付き合っているだけなので、行くかどうか迷った。
「行く、かなぁ」
結局、約束は破れないと思い至り、霧の湖に向かった。
案の定、チルノはカエルで遊んでいた。隣にいた大妖精は退屈そうに文句を言っていた。
「ねえ、もうあきたよー、別のことしようよー、ほら橙も来たし」
「ん、あ。よっ来たね。待ってね、あと三回やったらやめるから。そしたら鬼ごっこしよう」
「あはは、チルノはしょうがないなぁ」
橙は肩をすくめて笑った。
チルノの手元には、解凍されて動かないカエルがあった。それをゆっくり地面に降ろすと、ぴくりと足を動かした。
「おっ、頑張れっ。動けっ!」
チルノはもがくカエルをじっと見つめていた。
そして完全に死亡したと見るや否や顔を上げて、心底残念そうに言った。
「あー、だめだったか」
不条理、もしくは理不尽だと橙は思った。チルノの感情が自分の物差しで測りきれなかった。人型をとる前だが、橙とて虫やカエルの類を無意味に弄んだことはある。だから巻き込まれたカエルに対しても、生の尊さだとか、命の重みだとか、そういった情緒を一切抱くことはない。ただそれとは別で、ある一つの言葉が浮かんできた。
チルノが次のカエルを凍らせようとした時、橙は唐突にこう言った。
「もうやめなよ。可哀そうだよ。」
哀れみを覚えたわけではない。人間なら咎めるだろうと思ったからだ。
チルノは困惑していた。思いもよらなかったというふうに「なんで」と切り返した。
「なんでも何も、意味ないでしょ。九割がた死ぬってわかってるんだから。わざわざ殺す必要もないし、家族がいたら可哀そうだし、このカエルだってチルノに殺されるために生まれてきたんじゃないと思うよ」
正しく生きている人間ならばこう咎めるだろう、というもっともらしい台詞がすらすらと浮かんできた。橙がしゃべるほどチルノは興奮してきて「はあ、意味わかんない」と怒鳴ってからは、売り言葉に買い言葉の喧嘩になっていた。
「もういい! 帰る」
最初に根を上げたのは橙だった。もともとチルノを是正する気などないのだから、熱はすぐに冷めてしまった。捨て台詞を残して、橙はマヨヒガへ帰った。
マヨヒガに戻ると今度は屋敷の中に入って、すぐさま布団に潜り込んだ。ひとりになると先ほどの口喧嘩を冷静に思い返すことができた。自身が発した台詞を思い出すと恥ずかしくて、頬のあたりが熱くなった。
「何してんだろ、私」
チルノは誰かと関わりたくてやっているのではなく、ただ純粋にその遊びが好きなのだ。さして興味もないのに、余計なことは言わないほうが良い。一見不条理な行為であっても、チルノにしてみれば楽しいだけで、それだけで十分ではないか。むしろ邪悪だったのは大妖精かもしれない。彼女はおろおろと戸惑うふりをしながら、途中途中でくすくすと笑っていた。とはいえそれを咎める理由も思いつかない。楽しいならばそれでいいはずなのだ。あの場で楽しくなかったのは自分だけかもしれない。
「明日、謝ろう」
日はまだ高いが寝ることにした。昨日の分の睡眠もまとめてとるつもりで身体を丸めた。
氷解
翌日、橙は結界の点検ついでに湖に足を運んだ。チルノは変わらずカエルを凍らせていて、昨日の今日なので橙が視界に入った時は苦虫を噛んだような顔をした。しかし、橙が開口一番に謝ると、チルノは途端に機嫌がよくなった。チルノに限らず、気持ちを苦から楽へと塗り替えるのは妖精の特技だった。笑いながら「昨日はね、あの後、一匹だけ生き返ったんだ!」と嬉しそうに語って、ほらと掌に乗せたカエルを見せてきた。
「おお、じゃ、確か黄泉蛙五号じゃん。やったね」
「うん、いつぶりかな。覚えてないや」
不服そうにのどを膨らませているカエルを見て、橙はなぜだか可笑しくなって、げらげらと笑った。大妖精もふたりの声につられて笑った。笑っているうちに喧嘩を吹っかけた理由を忘れてしまった。最近梅雨入りしたせいで雨が続いていたから、苛々していたのかもしれない。橙はそんなふうに適当に納得した。
雨が降ると橙はたいてい天性の気まぐれさを失い、ただの天邪鬼になった。やることなすことすべてが不毛に終わるようにむしろ努力する始末であった。主に雨の日だから機嫌が悪いと看破されると、今度は藍に対して普段より一層愛嬌を振りまくようにした。とにかく思いつく限りの自然への反抗を試みて、それが失敗に終わると必ず安堵するのだった。だからすぐに謝れた橙はほっとしていた。
チルノたちと一刻ほど遊んでから橙は仕事に戻った。二回目なのでさすがに点検の速度も上がったが、途中で集中を欠いてしまい、結局夕方までかかってしまった。元来猫というものは飽き性で、楽なほうへと流れたがるのは彼女に限った話ではない。時間の浪費に対して無頓着なのは仕方がなかった。
「あーあ、こんな時間かー」
早めに眠るか、また里を歩くか、それとも夜雀の屋台にでも行ってみるか、どれもピンとこないまま、足は自然とマヨヒガへと向かっていた。
帰り際、鍵の閉め忘れがないかを確かめるような感覚で、一番最初に点検した結界を軽く確認したところ、小さなほつれを見つけた。
「やば、抜けてたかな」
指を突っ込んでみると、ピリピリと拒絶されるような感覚があった。ここは最初の仕事の時に魔が差した場所でもあった。
「私もまだまだだな」
肩をすくめてみたが、疲れた笑みは自分に似合ってない確信があった。そもそも自嘲気味に笑うほど己が優秀ではないことを悟ると、途端に恥ずかしくなった。
気にするような穴でもないが、一応は塞いでおこうと応急処置を施した。とはいえ完全な修復は彼女にはできないから、例えるなら絶縁テープを張って隠す程度の修繕である。自己修復機能も搭載されているはずなので、問題はなかった。
屋敷に戻ってから式用の千代紙に「結界は概ね問題なし」という文言と日付を記載した。そして主の元に届くよう式を組み込んだ。その千代紙も素直に習ったとおりに鳥か人の形に切ればいいものを、思い付きの遊び心で紙ヒコーキにしたものだから、式の組み立てにずいぶん苦戦した。結局、夜中までかかってしまった。これで届かなかったらたまらないと、橙は外へ出て、山を登った。
獣道を駆け抜けて、丑三つ時に守矢神社の境内に着いた。息が切れて、肺が弱音を吐いていたが、膝に手をつき、深呼吸をしてなんとか宥めた。夜の神社は神々しさを失っていて、代わりに禍々しさが際立っていた。生き物の気配は全くない。化け物が一匹残らず食い荒らしたかのようだ。博麗神社に劣らないほどの妖怪神社と聞いていたが、なるほど納得である。新しい発見をしたようで、橙は嬉しくなった。
辺りを見回して、橙は鳥居から紙ヒコーキを飛ばした。報告を載せた式紙はゆらゆらと風に運ばれて、ついに見えなくなった。
井戸水
結界の点検を何度もやっているうちに違和感に気づくようになった。ほつれやひずみが生じているわけではない。しかし、各所で微妙に違う。それは機能的な異常ではなく、商品棚に等間隔に並んでいるはずの雑貨が一つだけずれているような、些細なものだった。
不定形な概念結界は博麗の巫女が張るような頑丈な防護壁とは違い、その強固さはむしろあいまいさにある。だから全く問題ないはずなのだが、橙は無性に腹立たしかった。仕事を邪魔された感覚だ。式の矜持など持ち合わせていないつもりだったが、苛立ちの切っ先を収める鞘も彼女は持っていなかった。誇れるほどの式を組めたのかと問われれば否だが、それが遊戯同然の拙い積み木であっても、他人に蹴り飛ばされるのは癪に障るのだった。
「よおし、見つけ出してやる」
そう口にすると、自然とやる気がわいてきた。犯人捜しのために橙が思いついた手段はごく単純な見張りであった。長丁場になっても大丈夫なよう、食料を買うため里に下りた。こづかいを手に店を回って、乾パンを一袋と大きめの丸い水筒を買った。ついでに革製のひもを買うと、橙は水筒を肩にかけた。ついこの間、紫に見せてもらった古ぼけた写真、そこに写っていた仏頂面の兵隊になった心持だった。その時の紫はほかにもいくつか写真を取り出し、なにやら人類愛について説いていたが、橙にはほとんど伝わらず、飛行機やら鉄砲を構えた兵隊やらを見て、ただ直感的にかっこいいと思うばかりであった。
こづかいはまだ残っていたので、塩でも買おうと思った。水と塩分さえあればある程度は生き延びられる、という聞きかじりの知識を実践に使ってみたかった。塩屋に向かう途中で魚屋があり、足は自然と止まっていた。このにおいには逆らえない。どうしようもなく本能をくすぐった。橙は塩の代替え品としてかつお節を一本買った。
水筒と乾パンの袋をぶら下げ、かつお節はポケットに入らなかったので手に持った。
「はあ、買っちゃった」
先ほどまでは勇ましい兵士の気分だったが、好物を手にした途端、その絵面がピクニックになったようで、橙は少しだけがっかりしながらマヨヒガへ戻った。
東天紅に起こされるのが嫌だったので橙は屋敷につくとすぐに眠り、そしてずいぶんと早く目覚めた。布団を乱雑にたたみ、押し入れに片づけると着替えもせずにつっかけを履いて外へ出た。東雲の空を見上げ、橙は大きく息を吸い込んだ。薄くオレンジ色に染まっていたが、黄昏時に比べると寂しさを感じなかった。もうすぐ、朝が来る。忌々しい太陽が驕慢な笑みを携えて、妖怪の時間を終わらせる。その前に、準備を済ませたかった。一度屋敷に戻って、寝間着から着替えた橙は昨日買ったものを全部持って井戸に向かった。
マヨヒガの井戸はいわくつきだった。水がほとんど枯れていて、ここにたどり着き、そのまま力尽きた迷い人の血が沈殿しているという。汲み上げた液体を飲むと妖怪になってしまうとか。それが根も葉もないうわさだということを橙は知っていたが、うわさの通りのほうがまだ良いとも思っていた。この井戸にはいい思い出がない。風呂を沸かすからと主に水汲みを頼まれたのはいいものの、運ぶ途中でこけてしまい、盛大に水をかぶったことがあった。幸い藍がすぐに式を直してくれたから大した被害はなかったが、そもそも水が嫌いで風呂など入りたくないと思っていた矢先の出来事だったから、とかく嫌な気分になった。橙にしてみれば酸素を失って赤黒く変色した血液のほうがよっぽどありがたかった。
桶で汲み上げた水は、いわくつきとは思えないほど透き通っていて、紺色の空と、とぼけたような自分の顔が映っていた。自身に発破をかけるつもりで橙は恐る恐る顔をつけた。すぐにしっぽの毛が逆立った。冷たくまとわりついてくるようで不快だった。べったりとくっつくのではなく、わずかな動きで流動するのも気持ち悪い。皮膚が少しずつ剝がされていくような感覚があった。
「ぶはっ」
身体を大袈裟に震わせて水滴を飛ばした。さすがに顔を洗ったくらいでは式は剝がれないが、やにわに克服できるようなものでもないと悟った。十分目が覚めたので、一度水を捨てて、再度桶を放り込んだ。つるべが落ちる時の遠ざかっていく音だけは好きだった。戯れに橙はにゃあと鳴いてみる。声はすぐに消えたが、ひゅーという音はずっと長く響いた。汲んだ水を水筒につめると、それを肩にかけてマヨヒガを出た。
木に登る
木々の隙間を縫うように歩いて、半刻ほどで一番最初に見つけたほつれの場所についた。そこは少しだけ開けていて、中心に置いてある毒物を木々が避けているかのような歪な空間である。橙はあたりを見回して身を潜める場所を探した。ふと目に留まった一番太い木の幹を登った。かくして橙の監視が始まった。
紫や藍はもちろんだが、狸の大将や吸血鬼など、強い妖怪は簡単に結界を越えてしまう。さらには外来人が迷い込んでくることもある。粉骨砕身で臨めば橙ですら越えられるのだ。結界の不完全さに薄々感づいてはいたが、橙は不届き者をその目で捉えたかった。
水を一口含んで、ねばついた唾液を洗い流すように飲み込んでから、橙はじっと待った。視線は結界を捉えていたが、どちらかと言えば物音に意識を向けていた。時折聞こえる風で揺れる葉の音以外はまったくの静寂といって良かった。
しばらくすると朝が来た。開けた空間に陽光が注いでいた。真ん中に石でも置いたら、禍々しい化け物が封印されているように見えるかもしれない。そこで橙ははたと気づいた。結界のポイントは実は巧妙に隠されているのだ。若干の違和感は通り過ぎれば気にならない程度で、長くその場に留まると不快になるような、そんな絶妙な近寄りがたさがある。結界から外の空気が入り込んでいるのかもしれない。妖怪を拒絶する科学の毒だ。そう思って試しに大きく深呼吸をしてみたが、新緑のにおいが通り過ぎるばかりであった。
ひとつめの乾パンを取り出して口に含んだ。味の薄いそれを唾液で湿らせながら、舌の上で転がした。適当なところで咀嚼して飲み込むと、すぐに水が欲しくなった。のどを鳴らして水筒の水を飲みたい気分だったが、この調子では昼前に水汲みに戻らなければならないので、ざらついた舌で口内をなめるにとどめた。
かつお節をなめて、味のついた唾液を無理に飲み下すと、ふとこの間釣った川魚のことを思い出した。一尺五寸ほどのそこそこの大物で、おそらくイワナだ。もしくはアマゴ。いずれにせよ以前食べたことある魚には違いなかった。半日ほどかけて釣った中でもひときわ大きい獲物をさっそくその場で塩焼きにしたのだが、食べてみると身が硬い上に脂がのってなくて不味かった。塩もきかせすぎていて、食べ方を考えればよかったと反省したが、そもそも橙は川魚の調理法など塩焼き以外知らなかった。たまらなくなって川の水でのどを潤そうとしたが、それも妙に臭くて不味かった。あの時の昼餉は忘れないだろう。無知と横着と妥協の入り混じった味で、釣りは嫌いではないはずなのに、不毛な時を過ごしたという後悔が残った。かつお節の塩味はそれを思い起こさせた。
ただ今はその時と状況がまったく違う。かつお節はあの川魚に比べればよっぽどうまいし、今回は横着ではなく、効率よく塩分を摂取するための手段であるから、不毛だとは露にも思わなかった。できるだけ無駄を省く。体力も温存し、常に臨戦態勢をとれるようにしておこう。そんな風に考える橙は、その禁欲的な姿勢に半ば酔っていた。畜生だから遊ばない。妖怪だから眠らない。式神だから動かない。そんな具合に見張りの理由を作りはじめた。本来式とは再現性の理屈が先にあって、次に実がなるため、今の橙の行動は真逆である。しかし彼女は己の理をひとりで組み立てるのが楽しくて仕方がなかった。
立派な式でも強い獣でもない自分は、いったい何者なのだろうか。そんな禅問答をしてみたが、妖怪じみた紫や式神らしい藍のことを思い出してみると、やはり自分はまだ何者でもないという結論が似合う気がした。
「チルノは……悩まないだろうなぁ」
妖怪並みの力を持っているとはいえチルノは妖精過ぎる。橙はこの悩みが高尚なものに思えて仕方がなかった。ふと摩多羅神の姿が頭をよぎった。彼女は何者かと問われると、知り合いであろう紫や藍は必ず答えを濁した。「そうねえ、神様でいいのかもしれないわ」「そうだなあ、賢者だよ。紫様と同じ」どうにもしっくりと当てはまらない。橙は考えて、今度は自身の存在論に戻り、そしてまた別の人物を思い浮かべての堂々巡りを繰り返した。たくさんあるはずの時間を無駄に浪費しているという実感は、珍しく彼女の焦燥感をあおった。何かをしなくてはいけない、今やるべきことは留まり続けることなのに。その矛盾した感情が橙の意地をより強固にした。ピクリとも動くものか。狙撃手の心持で木の上から虚空を見つめ続けた。
しかし、その意地が続いたのはほんの数刻であった。太陽が東の空に鎮座するころにはすでに飽きていた。
「あー、よく考えてみると、あんまりおいしくないかも」
何もないと無意識に乾パンをかじり、かつお節をなめてしまうものだから、のどが渇くばかりで、すでに水筒の中身は空になっていた。舌先に最後の一滴を乗せると、唾液と混じって消えてしまった。
「よし」
橙は枝から地面に飛び降りた。着地の瞬間に全身の筋肉で衝撃を緩和すると、発条仕掛けのように膝を伸ばして、間を置かずに走り出した。
Calm Like A Bomb
マヨヒガで水を汲んで戻って来た時には手遅れだった。結界周辺に妖気の残滓があり、何者かが出入りした後であることは自明であった。わずか半刻の間に犯行がなされた事実は、橙をどうしようもなく苛立たせた。
「うそぉ」
落胆の言葉が漏れたあとにため息が続いた。頭を掻きむしりながら地団太を踏んでみたが、もう後の祭りである。まるで目を離す隙を狙っていたかのようだ。何か手掛かりがないか探したところ、新緑に混じってほんのりと酒のにおいがしたので犯人は大方予想がついた。伊吹萃香、外界でも忘られぬ鬼という強大な存在である彼女なら容易く結界を抜けるだろう。動機は不明だが、何せ外にはうまい酒やつまみが山ほどあるという。強靭すぎる肝の臓をひたすら苛め抜くことを生きるよすがとしている欲深な鬼ならば、外へ出ない理由などなかった。
橙はしばし考えた。伊吹の鬼ならば、咎める必要があるだろうか。間違いなく紫は気にも留めないし、藍ですら苦笑を浮かべるだけで済ませるに決まっている。萃香とて一応はご法度と心得ているから、強引にこじ開けてくぐり抜けているだけで、良くないものを持ち込んだり、完全に壊したりするわけではない。
「いや」
だめなものはだめなのだ。自分だけは目をつむるわけにはいかない。たとえ主たちが許しても、体裁の元に悪鬼に噛みつく者が必要なのだ。我々八雲は、幻想郷における正義でなければならない。
橙は不相応な大義を抱き、己を鼓舞した。鬼と対峙した場面を思い浮かべる。絶対的な暴力に対し、間抜けな忠犬のように命令と心中する腹積もりで立ち向かうことこそ、式のあるべき姿ではないだろうか。勝ち目はなくとも一泡吹かせられたのなら御の字だ。
橙はまた同じ木に登った。そしてひたすら待ち続けた。余計なことを考えず、機械のように仕事に徹した。橙はじっと忍ぶのがあまり得意ではなかったが、それでも二度と動くものかと強い決意でここに留まった。一意専心、瞑想のイメージを脳の内側から引き出すと、意識は白昼夢のそれのように濁った。自然と無駄な思考は混ざり合って灰色となり、時が経つことの苦痛を忘れ去った。その忘却の技法は、久遠を生きた妖怪ならば必ず会得している退屈への抵抗法であった。
はじめに水が尽きた。陽光は枝葉に遮られていたがそれでもじりじりと体力を奪った。ついに汗を掻かなくなった。身体はなぜか冷えている。ひんやりとした幹の感触とまるで同化したかのようだ。彼女は爆弾のようにきわめて静かに、じっと時が来るのを待っていた。
乾パンはまだ残っていたが、かさかさの口を開くのが億劫で食べる気になれなかった。はじめて飢えというものを経験した。空腹はいつまでも同じだけ続いたが、怠惰の代償だと甘んじて受け入れていた。
ついに日が沈んだ。木々を揺らす音も、獣の声もいつの間にか聞こえなくなった。寒い夜はずいぶんと凪いでいるように思えた。睡魔を打ち倒すのは想像よりは容易かったが、むやみに覚醒しているだけで何も考えてはいなかった。目も耳も鼻も眠っているに等しかった。いつの間にか、ただそこにいることだけが目的となっていた。
そうして三度目の夜を迎えた。半覚醒状態のまま、橙はじっと虚空を見つめていた。沈殿し、濁り、あやふやになった意識の中からたまたま掬い上げた思考のひとつが、乾いた唇から言葉となって漏れ出た。
「このままずっとここにいるのかな」
否定する者はなかった。しかし、呼応するように枝葉が少しだけ揺れたかと思うと、間を置かず霧が立ち込めてきた。途端に嗅覚がよみがえり、酒のにおいを嗅ぎ取った。
ほんのり不快な空気と気圧されるほどの妖気、それが酒気に紛れて飽和していった。霧のせいでよく見えなかったが、萃香が間違いなくそこにいた。それを感じ取ると、橙は枝を蹴ってその鬼のいるほうへ遮二無二突っ込んだ。
心臓に爪を立て、喉笛を嚙みちぎる。そのイメージだけは意識が濁る前から描いていた。それが鬼の致命傷になるとも思えないが、少しの痛みとわずかな怯みを与えられたなら上等だ。盾突くことに意義がある。これはルールに基づいた制裁ではない。八雲の式の証明だ。
もう少しで届く、そう感じた刹那、萃香は視線を橙のほうへ向けた。
鬼は笑っていた。
右腕を顔の高さまで振り上げ、拳を握った。防御の構えに見えたが、橙はその腕を食いちぎらん勢いで突っ込むしかなかった。
牙が前腕に突き刺さったかと思うと、萃香はその腕を遠心力に任せて振り下ろした。さながら投擲された球のように橙の身体は宙を舞い、背中から地面に打ち付けられた。
「かはっ」
腕が口から離れる。全身に電気が走ったかのような激痛だった。背面からの衝撃などはじめての経験だったから、痛みは余計鋭く感じられた。歯も何本か折れ、口の中に血の味が残った。
萃香は歯が食い込んだ腕をさすって、にんまりと笑っていた。
「いいねぇ、いいよ、最高にいい。やっぱそうじゃなくちゃなぁ。どうせ隠せやしないんだからさ。あんたらも私もさ。大歓迎だよそういうの。でも不意打ち失敗だねぇ、さあ、さあ次はどうする」
指先は動く。痛みはひどいが、歯を食いしばって考えることはできた。奇襲は失敗だ。そもそもこの奇襲すら勝機ともいえぬぼんやりとした願望に一縷の望みを抱いて身を投げ入れただけで、先のことなど一つも考えてはいなかった。ただ、これ以上痛いのは嫌だなと思った。橙は大の字に寝転がったまま動かなかった。降伏の意、もしくは己が苦痛で動けないと示したつもりだった。
萃香は見透かしたような目で睨みつけながら、へらへらと言った。
「嘘はいけないよ。嘘は、嘘だけはついちゃいけない。あんたらは平気な顔しているけどね、それだけはやっちゃいけないんだ。立ちなよ、まあちょっと休んでもいいけどさ。愚直に、そんで高慢にかかってきなよ、猫らしくさ。ちゃんと油断しててあげるから」
萃香は下卑た声で笑い続けていた。火種をまき散らし、油を注ぎ、轟々と燃え盛る火中に腕を突っ込みたがる鬼の気質、彼女は感情を逆なでする卑俗な言葉を数多く知っていた。
橙はふらふらと立ち上がった。不思議と悔しくはなかった。萃香が挑発の言葉を連ねるほど、心が凪いでいった。悪辣な台詞を吐く萃香が、なぜだか称賛やねぎらいの声をかけてくれる主たちと重なった。
(この鬼もとても強いんだ。わけわかんないくらい。紫様や藍様たちと同じで。わかってたけど)
そう思うと、ほんのわずかに安堵した。途端に思考が億劫になってきた。何をしたいのか、わからない。だけど、ここでやるべきことは。
――最後に彼女を動かしたのは式の大義だった。もう一度、今度は地を蹴って、真正面から突っ込んだ。
「いいじゃん」
萃香は拳を握り、振りかぶった。その腕が突き出されるとわかった瞬間、橙の意識が飛んだ。
殴雨
殴りつけるような大粒の雨に打たれて目が覚めた。肢体はしびれていて、じんわりと熱を持っていた。意識はしっかりしていて、夢の残滓すらないのにしびれがあるものだから、金縛りを疑った。傍には水筒が転がっていて、中から雨にも負けないほどの強いアルコールのにおいがした。萃香の硬筆に入っている酒と同じにおい、鼻の奥に刺さるそれがことの終わりを告げているようだった。掟に仇なす輩を見張り、そして蹂躙される。そういう事象があった。決して超えるべき壁に立ち向かったわけではない、鬼とはそういうものなのだと腑に落ちた。
ひとつの仕事は終わった。気力はほとんど尽きていたが、橙はつぶやいた。
「……立たなくちゃ」
打ちのめされたどどめ色の衝動が、言霊を介して身体を動かしていた。緩慢によろよろと立ち上がる。しびれた足はそれでも何とか地面を捉えてくれた。水筒を蹴飛ばしてやりたかったが、もう歩けそうにない。なぜ立ち上がれたのかすらわからなかった。
雨が降っている。怒りを慰めるように静かに、力強く降っている。橙はそれが腹立たしくてたまらなかった。
雨は嫌いだ。冷たくて、痛くて、容赦なく、まるで太陽や月の光みたいに容赦なく降り注ぐから。すべてに潤いを、それが正しいのだと、当たり前のように上から下へ落ちてくる雨の音は、慈愛の心得を説くかのように押しつけがましくて、なんとなくいやだ。
空に向けて中指を立てたくなる衝動を抑え込み、橙は結界の穴の隠匿を試みた。鬼が密度を操ってほかのものが入れないように穴を縮めてはいたが、それでもやった。
余計な思考は自然とそぎ落とされた。闇雲に組んでいるとふと結界の解が見える瞬間があった。極限状態に陥り、積み重ねた基本がようやく無意識下でつながったのだ。雨に打たれて、彼女の式は流れ落ちつつあったが、それでも震える手で組み続けた。橙は静かに昂っていた。主たちが作り上げた式を理解した気分になった。
風は凪ぎ、雨は止み、とうとう雲の切れ間から太陽が顔を出した。すでに沈みかけていて、空を夜に明け渡そうとしていた。拙いがようやく穴は塞がった。確かな充足感があって、しばらくは茫然としていた。日差しを浴びた木々や葉が少しずつ乾いていくのを、橙はじっと見つめていた。
そしてふと自分のしたことの無意味さに気づいた。
(あ、私、今、魔が差したんだ)そう思った。
流れ落ちた式は自分では修復不可能だから、主に組みなおしてもらう必要がある。どのように報告するべきか、考えながら八雲の屋敷へ向かった。とはいえ意識はぼやけていて、言葉を組み立てるのに難儀した。謝罪か、言い訳か、愚痴か、正確な報告か、どれかを完成させようとすると水銀のようにどろりと膨張して、わけがわからなくなる。疲弊した身体は歩くたびに一部がとろとろと溶け落ちていくようで、ずいぶんと時間が引き延ばされたように錯覚した。
「もう、夜だ」
結界に隠された八雲邸にたどり着いたのは、とっぷりと夜が更けてからだった。屋敷にはあかりがついていて、橙は虫のようにふらふらとそこへ向かった。玄関の扉を開こうとした手をかけたところで、気配を感じ取ったのか藍が出てきた。濡れ鼠の橙を見て、藍は一瞬目を丸くしたが、すぐに心配のまなざしに変わった。そして口を開こうとしたところで、遮るように橙は言った。
「こんな夜分にすみません。雨に打たれてしまいました」
鬼のことは言わなかった。我ながら他人行儀で軽薄な台詞だと橙は思った。主が望んでいるのは弱音や嘆きの吐露に違いない。歯が折れているから声の調子がおかしくないか、そんなことが気になった。
「ああ、冷えただろう。さ、おはいり」
橙は首を小さく横に振った。玄関を跨ぐ前に報告をしたかった。
「ここ一週間、結界はまったく異常ありませんでした。雨に打たれたのは私の不覚です。申し訳ございません」
道中悩んで、答えが見つからなかった割にはすらすらと言えた。
「そうか、式はすぐに組みなおすよ。と、どうせならその前にお風呂に入ってきなさい。まだ沸いているから」
それから橙は言われるがままに服を脱いで浴室へ入った。風呂は嫌いだったが、水を嫌がるのも面倒だった。
橙とは反対に、紫も藍も風呂は好きだった。八雲邸の浴室はそこそこ広いが、木製で円柱型の浴槽そのものは狭くて、ひとりが入るといっぱいになってしまう。ひのきのにおいがして、ぬるくなったお湯が這うように石造りの床に留まっていた。お湯が足の裏に触れると橙は身震いした。冷たい雨なら嫌いだけど耐えられる。熱くないお湯はどっちつかずで余計気持ち悪かった。それでも風呂に肩までつかると少し落ち着いた。
「はあ」
ため息が反響したように思えた。
広いところにひとりでいると、いろいろ考えてしまう。先ほど口を突いてまろび出た報告を悔やんでいた。異常はなかったかもしれない。鬼が出て、こっぴどくやられたがそれは失敗に含まれてないかもしれない。それでも隠してしまった。風呂から出た後伝えるべきだろうか、いや、もう報告は終えたのだ。たとえ小さな嘘だとしても、一度吐いたら隠し通さなければならない。ああ、本当は全部打ち明けるべきなのだ。猫なで声で、情けなく縋るように。それが正しい。どうせ見透かされているに決まっている。ばれないはずがない。けれども、だからこそ、言えるわけがない。言ってはいけない。その時はちゃんと叱られないといけないのだ。そんな風に思った。
風呂場にあった鏡を見て、顔の打撲痕がまだ残っていることにようやく気づいた。
「だめだな、私」
また肩をすくめて、あざけるように笑ってみた。湯気がその言葉をやんわりと響かせた。
風呂から上がって居間に戻ると藍が食事を用意していた。彼女専用の小さな茶碗に一杯分のご飯と油揚げのみそ汁、そして大根とごぼうの煮物、ちゃぶ台に乗っているそれらから湯気が立っていた。
「残り物だけど、お腹空いただろう?」
藍はそう言ってにこりと笑った。それが橙にはなぜだかわからないがとにかく正しい笑顔に見えた。
橙は箸を手に取り掻っ込むように食べた。久しぶりの食事は素朴で、温かくて、美味かった。いつもの味で、ただ温かいというだけで心が乱された。米の一粒を噛みしめながら、橙はとうとう涙をこぼしてしまった。
「おいしい、です。藍様、これ、とても」
「そうか、そうか」
そのひとしずくは、言葉よりもよっぽど思いがこもっていることを藍は知っていた。だからこれ以上何も聞かなかった。代わりにまたあの正しい笑みを浮かべた。全部わかっていると言いたげで、それでも何も言わず施しをくれる、さながら月明かりのようなおぼろげな魅力を孕んだ表情だった。その傲慢さを感じ取れない橙ではなかったが、雨よりはよっぽど心地よかった。橙は主の真似をして、無理に笑ってみせた。
食事を終えると藍は剥がれた橙の式をつけなおした。髪を梳くように丁寧に組み上げながら、こう言った。
「まずはお疲れ、しばらくは休んでていいよ。そのうち稽古をつけてあげよう。ちょっとレベルアップだ」
「はい、ありがとうございます」
「そうだ、あの報告書、紙ヒコーキの。なかなか面白い発想だと思うぞ。外の世界の鉄の鳥は紫様曰く、人類の憧れを越えて、立派な輸送手段になったらしい。だから式もしっかり載ったのかもしらん」
「良かったです。届いてなかったらどうしようかなって」
「うん、外界の技法を取り入れるのもいいかもしれんな、そういえばしばらく出てないなぁ」
藍はわざとらしく顎に手を当てて、考えるような仕草をした。橙が振り向くと、やおら無邪気な悪戯顔を浮かべて、抑え気味の声でこう言った。
「今度、おいしいものでも食べに行こうか。紫様に内緒で」
それが労いなのだと橙は理解していたが、どうにも素直に喜べず、あいまいに「あはは」と応じるしかなかった。
Rebel Run
「しばらく」というあいまいな休暇をもらった橙は、久しぶりに魚釣りでもしようかと川に来ていた。今日は食いつきが悪かった。雨のあとだから簡単に引っかかると踏んでいたが、甘かったようだ。水は透き通っていて、影みたいなものも見えるのに、食いついてくる気配がなかった。この辺りは餌が豊富なのかもしれないと思ったが、それでも欲張りな魚はいるはずなのだ。運が悪いとしか言いようがなかった。
「警戒してるのかな。一丁前に。はあ、つまんないの」
聞こえるのはせせらぎだけで、あとは何もない。だからどうしても昨日のことを考えてしまう。ずっと隠匿したことに怯えていた。鬼の言葉が浮かんでくる。「嘘はいけないよ」理由も含蓄も、なにひとつないのに確かな重量を持って、心臓を押しつぶそうとしてくる。チルノたちとあの不毛な遊びをしていれば、気も紛れたかもしれないのに。暇つぶしに魚釣りを選んだのは失敗だと思った。
夜を待たず、足早に釣りを切り上げると、とうとう橙は心配になってもう一度あの結界の穴を見に行った。
「あ、やっぱり、か」
完全に直されていた。手を加えた痕跡すらない。きっと全部見透かされていたに違いない。叱られることもなく、何かを背負うでもなく、すべて有耶無耶になった。それがわかると橙はやはり安堵した。そして安堵した自分に気づいてしまうと、とても悲しくなった。鬼に盾突いた大義も、組み上げた拙い式も、嘘をついた意味も、何もなくなってしまった。
近くに転がっていた水筒を拾い上げた。ずっと放置していたが、まだ中身は入っていた。ちゃぷちゃぷと音がして、酸っぱいにおいが鼻を突き刺した。
マヨヒガに戻ると、ふと大嫌いな井戸が目についた。途端に滅茶苦茶にしてやりたくなった。行き場のない悲しみは、熱を持った水銀のように膨張し、ついには暴力として発露した。
まず酒の入った水筒を放り込んだ。釣瓶を殴りつけ、木片が落ちていくひゅうという音を何度も聞いてから、地面から突き出ていた井筒を蹴り壊した。拳が自分の血で濡れ、足先にじんわりとしたしびれを感じた。彼女の癇癪を受け止めた井戸は、二度とあの鳴き声のような音を奏でることはなくなった。
「ふぅう、ふぅうう」
ざまあみろ、お前はもう日の光を拝めない。青い空も写せない。お前は青くなんてない。昼も夜もない、仄暗く、孤独に延々と潤い続けるんだ。ざまあみろ。二度と飲んでやるものか。腐った酒と混ざり合って濁ってしまえ。
拳をちろりとなめてみた。鉄の味がした。唾液と混ぜてそれを飲み込むと、身体に闘志のようなものが漲ってくるのを感じた。
居てもたってもいられなくなり、橙はさながらそれが本能であったかのように走り出した。
それからはひたすら走った。深山颪に身を預けるように山を下り、小川を飛び越え、里に着いた。つまずいて転びそうになったが、手を地面につくとそのまま猫の姿に化け、まるではじめからそのつもりだったかのように四つ足で、服をすり抜けて何食わぬ顔で走り出した。発条のようにしなやかに体を伸ばし、大地を四つの足で柔らかく捉えて、二又の尾を揺らし、里を一瞬で通り過ぎた。じりじりとした熱が心地よい。ただ東へと、太陽を背に、見えてもいない虹を追いかけるように走った。幼いころから走るのは大好きだった。かくれんぼは苦手だった。だから、今はとても充実しているように感じた。
いつの間にか開けた道に出た。その道は乱暴に舗装されていて、博麗神社の近くに来たことに気づいた。神社は幻想郷の最東端にあるらしい。それを思い出した橙は鳥居を潜り抜けて、そのまま境内を突っ切った。竹箒を片手に外に出ていた霊夢がちらと視線を向けたが、すぐに興味をなくしたかのように掃除を再開した。
神社の裏の森に入った。群生するミズナラの木の下を、木漏れ日を避けて駆けた。湿った土をはだしで踏む感覚は少し気持ち悪かった。
風を顔に受け、疲れを気にもせず、鼓動の高鳴りを聞きながら、秒針よりも速く走った。
森を抜けると人里があった。橙はまっすぐ走ったつもりだったが、途中で知らず知らずのうちに曲がってしまったのかもしれない。だがすでに夜になっていたので、方角がわからなくなった。目はよく見えるから、星を見て位置を探ろうかと試みたが、どれも光の粒にしか見えなかった。仕方がないので、橙はまた里を駆け抜けた。
そうしてそれを三度繰り返し、いくら一直線に走ってもそのうち元の場所に戻ってきてしまうことに気づいた。結界のせいかもしれない。とはいえ、それは止まる理由にはならなかった。そういうものなのだと彼女はやたらに納得して、闇雲に走り続けた。
そのうち里でうわさが立った。
闇を駆け抜ける黒い影、死神の使いか。不吉の象徴、不幸の伝播、破滅の知らせ、百鬼夜行の前触れ、どうにも黒猫が走るのは都合が悪いらしく、橙を見た里人たちは面白おかしく、時に怯えながら事実を脚色して流布した。とはいえ何かの実害があったわけではないから巫女も自警団も動かなかった。そもそもたった数日間で流れた根も葉もないうわさである。巫女にしてみれば知りようもない浮世の話だ。
屋根伝いに里をまた抜けようとしていると、一羽の真っ黒なカラスが彼女に合わせて飛びながらこう言った。
「おいお前、うわさになってるぜ。なんでそんなに走るんだってよ」
なんて無粋な奴だと橙は思った。さあねと首をかしげてみせると、カラスはあほうと鳴いてそれきり興味を失ったようにどこかへ飛んで行ってしまった。思い出したのは新聞記者の顔だった。そしてカラスはどいつもこいつも同じだと思った。
うわさについてなんとなくは知っていた。自分のことで誰かが困惑していると思うと面白かった。まるで己がちゃんと妖怪になった気がした。
黒猫の正体が八雲の式だと公になれば、動き出す者はあるだろう。しかし橙はそこまでの考えに至らなかった。そのかわり、なぜ走っているかを考えた。
好奇心なのか、あるいはあの雨の日の充足を得るためかもしれない。今は言葉に表すことができない。誰にも伝えられそうにない。だから走るしかないのかも。
結局橙は思考を諦めた。考えれば立ち止まってしまいそうだった。とにかく夢中に落ちていたかった。妖精のように素晴らしく無知で、鬼のように清々しいほど厭らしく。彼女は走ることに身を委ね、淡い自己破壊を試みていた。
走り始めて一週間が過ぎた。雨は一度も降らなかった。煽るような風だけが幾度も橙の身体を撫でていった。ひときわ太陽が赤くなるころ、橙はふと思った。
(ああもうすぐ、夜が来る。少し休もうかな)
ようやく橙は自分が疲弊していることに気づいた。夕焼けはいつも迷いを与えてくる。誰そ彼と問いかけてくる。立ち止まると、マヨヒガにいた。
橙は地面に倒れ込んだ。変化は解けていた。全身に力が入らない。心臓が悲鳴を上げていた。指先まで燃えるように熱くて、呼吸が苦しかった。これほどのどが渇いているのに、汗がじんわりとにじみ出てきて、それがたまらなく不快だった。素肌をチクチクと刺す若草が少しだけ慰めてくれたように感じた。
「橙、橙! 大丈夫か? 何があった」
何度も聞いたことのある声、うわさの真相を確かめるため、ちょうど藍が来ていたのだ。心配そうに声をかけてくる主に、せめて返事をと口を動かしたが、乾いた唇は言葉を紡げなかった。代わりにのどを逆流してくるものがあった。
「おえ」
少しだけ吐いてしまった。さびしい色をした水様のわずかな吐瀉物、胃が空なのでそれ以上は出なかったが、それでも気持ち悪かった。藍にしてみれば、それが助けを求める叫びに見えたらしかった。橙を横向きに寝かせると慌てたように言った。
「と、とにかく水だ。今持ってくる」
水なんて、もうないよ。その呟きが耳に入らなかった藍は井戸のほうへと駆けて行った。
「井戸がっ、橙! 水がないじゃないか! どうなっているんだ!」
壊れた井戸の前で、藍が声を荒らげた。心配と混乱が入り混じったせいで、怒りという形をとったのだ。今、藍は必死で全部の事象を合理的につなげようと頭を回していた。しかし聡明な彼女は、理由の前にまずは苦しみを取り除くことを優先するべきだとも考えていた。だからこそ苛立ちは増すばかりであった。とりあえず急いで戻ってきたが、頭はまだ混乱したままだった。
「何があったんだ! 橙、答え……ああもう、待ってろ! 川で水汲んでくるから」
温厚で、甘く、すべてを認めて許してくれる主が、わけもなく怒っていた。主でさえこんなふうに乱暴に怒るのだとわかると、橙はどす黒い共感を抱いた。藍は目にもとまらぬ速さでその場から立ち去った。
無意義な反抗の駆けっこは初めて混乱のまま終わった。何も得てはいない。うわさはいずれ収束し、藍もすぐに、例えば巫女に追われたとか、適当な理由をはじき出すだろう。そして納得が終われば、いずれは忘れてしまう。ただのありふれた世迷いごとだ。それでも橙はようやく何かを成し遂げた気がしていた。
もう一歩も動けそうにない。それが悔しくてたまらない。熱くて、つらい。頭も痛くて吐き気さえあった。けれども、きっとこの苦しさが必要なのだ。水で満ちていれば、息をしているだけでは、きっと火はつかない。獣から化け物に変わるためには、夜に混じるためにはきっと火が必要なのだ。橙はそう思った。とりあえず今は、だれにも気づかれずに乾いていたかった。
ぼんやりと思考していると、へとへとの身体の内側に籠っているほてりが、炎を象りながらきらきらと光ったように思えた。夜を七つも彷徨い、初夏の日差しを浴び続け、ようやく黄昏が気づかせてくれた愛おしい熱。あまりに頼りなく不格好なそれは、夕焼けと同じ色をしていて、困ったように明滅するのだった。
魔が差すのは夕焼けのせいではないか、と橙は思った。何せ逢魔が時というくらいだ、心の中の魔物が自分の顔色を伺っているに違いない。朝から結界を見てまわって、ここが最後の一か所だというのに、なぜだか点検をおろそかにしてしまった。その場を離れようとしたところで手を抜いたことに気づき、橙はもう一度点検をし直した。
「よし」
声に出して確認した後、橙は大きく伸びをして、目を細めながら空を眺めた。昼に猛威を振るった太陽の足掻きのような、ひときわ強い残光を瞳で受けると、夜が迫ってきているのを感じた。
妖怪の山と人里周辺の結界の点検、これが藍に任された単独での初仕事だった。橙は勝手がわからなかったので、ずいぶんと時間がかかってしまった。一方で単純な仕事なので、一週間もすれば倍以上のペースで終わるだろうという確信もあった。
「あー疲れたなー」
言葉にした途端、身の丈に合わない苦労をした気分になった。マヨヒガに戻ったら秘蔵のマタタビ酒でも飲もうかと考えたが、橙はわざとそのイメージを振り払って、人里へ向かった。
夜になり、冷えた空気が肺に満ちたころ、里に着いた橙はその姿を猫へと変えた。
「やっぱり黒猫はこうじゃなきゃね」
化けるのはあまり得意ではなかった。妖怪に比べて肉体に依存する性質なのも相まって、姿を変えるのはそれなりに疲弊してしまう。しかし、橙にしてみれば猫らしくあることは大切らしかった。少なくとも自分が化け猫である以上、その姿は日常と結びついてなければならないと思っていた。獣と人の姿が曖昧になると、自分を見失うのではないか、そんな恐れを最近抱くようになった。
(たぶん紫様は自分が何の妖怪か忘れちゃったんだ。もしかすると藍様もそうなるかもしれない。あんまりキツネっぽくないし。でもたぶん強いから平気なんだ)
これが今のところ橙が持っている危惧に対する答えであった。
夜の闇に紛れてこそこそと里を歩き回った。垣根から屋根へと飛び移り、三日月を見上げてにゃあと鳴いた。昼間の疲れはまったく取れていないが、合理から外れた行動は猫の気まぐれさを証明してくれているようで、多少の陶酔があった。
幼いころの彼女はかけっこが好きだった。尾が二股に分かれる前から、じっとしているのが苦手で、日がな一日、ねずみやとんぼを追いかけまわし、へとへとになって眠りにつくのが習慣だった。火照った身体を何とか落ち着けようと犬のように激しく息をする様を、ほかの猫たちは体力を無駄使いする間抜けと笑った。しかし、橙は気にすることもなく、走り続けた。そして、たくさん太陽を浴びて、いつの間にかほかの猫より長く生きて、人の形をとるようになり、彼女は妖怪になった。
橙という名を与えられてからはだいぶ落ち着いたようで、最近はむしろ昼寝をしたり、夜中に月を睨めあげて感傷に浸るふりをしたりと、自堕落な生活をむしろ率先して行っていた。自分に落ち着きが足りないことをなんとなく理解していたからだ。
基本的には修行にはまじめに取り組んでいたが、あまりに従順すぎるのも猫らしくないと思い、藍に呼びかけられても寝たふりをしたり、適当な返答をしたりと、振る舞いを変えていた。それでも怒ることはなく、決まって藍は「まったく気まぐれで困るよ」と肩をすくめて笑うのだった。
マヨヒガに戻ってきた橙は、すぐさま屋敷の屋根に飛び乗った。二匹ほど先客がいて、朝日を馬鹿にするかのようにのんきに眠っていた。マヨヒガにはいつもたくさんの猫がいて、橙はいつも統率に失敗していた。彼らは群れることを面倒くさがるが、それでもほかの猫と一緒にいるのが好きらしく、橙が連れてこなくとも日に日に数だけは増えていった。
くあとあくびを一つして、陽光を存分に吸収した茅葺き屋根にごろんと寝そべった。夜中に里を徘徊したから疲れていた。少しの散歩のつもりで、猫の姿で歩き回っているうちに、なぜか睡魔を追い払うことに躍起になって、結局日が昇るまで徘徊してしまったのだ。
睡魔に身を任せようとすると、先に屋根にいた三毛猫がのどが枯れていないことを確かめるかのように「にゃあ」と鳴いた。ふとチルノと遊ぶ約束をしていたことを思い出した。
「あ、あー、まあいいか、いやよくないか」
カエルを凍らせて、解凍するだけの遊び、チルノはそれが楽しくて仕方ないらしいが、共感者はひとりもいなかった。ただ、橙は楽しそうにしているチルノを見るのが好きだった。妖精らしい無邪気な残虐性が、一切の忌憚なく発揮される様がどうにも魅力的に思えた。
しかし、その行為そのものはひどく単純で、見ているだけというのは退屈である。惰性で付き合っているだけなので、行くかどうか迷った。
「行く、かなぁ」
結局、約束は破れないと思い至り、霧の湖に向かった。
案の定、チルノはカエルで遊んでいた。隣にいた大妖精は退屈そうに文句を言っていた。
「ねえ、もうあきたよー、別のことしようよー、ほら橙も来たし」
「ん、あ。よっ来たね。待ってね、あと三回やったらやめるから。そしたら鬼ごっこしよう」
「あはは、チルノはしょうがないなぁ」
橙は肩をすくめて笑った。
チルノの手元には、解凍されて動かないカエルがあった。それをゆっくり地面に降ろすと、ぴくりと足を動かした。
「おっ、頑張れっ。動けっ!」
チルノはもがくカエルをじっと見つめていた。
そして完全に死亡したと見るや否や顔を上げて、心底残念そうに言った。
「あー、だめだったか」
不条理、もしくは理不尽だと橙は思った。チルノの感情が自分の物差しで測りきれなかった。人型をとる前だが、橙とて虫やカエルの類を無意味に弄んだことはある。だから巻き込まれたカエルに対しても、生の尊さだとか、命の重みだとか、そういった情緒を一切抱くことはない。ただそれとは別で、ある一つの言葉が浮かんできた。
チルノが次のカエルを凍らせようとした時、橙は唐突にこう言った。
「もうやめなよ。可哀そうだよ。」
哀れみを覚えたわけではない。人間なら咎めるだろうと思ったからだ。
チルノは困惑していた。思いもよらなかったというふうに「なんで」と切り返した。
「なんでも何も、意味ないでしょ。九割がた死ぬってわかってるんだから。わざわざ殺す必要もないし、家族がいたら可哀そうだし、このカエルだってチルノに殺されるために生まれてきたんじゃないと思うよ」
正しく生きている人間ならばこう咎めるだろう、というもっともらしい台詞がすらすらと浮かんできた。橙がしゃべるほどチルノは興奮してきて「はあ、意味わかんない」と怒鳴ってからは、売り言葉に買い言葉の喧嘩になっていた。
「もういい! 帰る」
最初に根を上げたのは橙だった。もともとチルノを是正する気などないのだから、熱はすぐに冷めてしまった。捨て台詞を残して、橙はマヨヒガへ帰った。
マヨヒガに戻ると今度は屋敷の中に入って、すぐさま布団に潜り込んだ。ひとりになると先ほどの口喧嘩を冷静に思い返すことができた。自身が発した台詞を思い出すと恥ずかしくて、頬のあたりが熱くなった。
「何してんだろ、私」
チルノは誰かと関わりたくてやっているのではなく、ただ純粋にその遊びが好きなのだ。さして興味もないのに、余計なことは言わないほうが良い。一見不条理な行為であっても、チルノにしてみれば楽しいだけで、それだけで十分ではないか。むしろ邪悪だったのは大妖精かもしれない。彼女はおろおろと戸惑うふりをしながら、途中途中でくすくすと笑っていた。とはいえそれを咎める理由も思いつかない。楽しいならばそれでいいはずなのだ。あの場で楽しくなかったのは自分だけかもしれない。
「明日、謝ろう」
日はまだ高いが寝ることにした。昨日の分の睡眠もまとめてとるつもりで身体を丸めた。
氷解
翌日、橙は結界の点検ついでに湖に足を運んだ。チルノは変わらずカエルを凍らせていて、昨日の今日なので橙が視界に入った時は苦虫を噛んだような顔をした。しかし、橙が開口一番に謝ると、チルノは途端に機嫌がよくなった。チルノに限らず、気持ちを苦から楽へと塗り替えるのは妖精の特技だった。笑いながら「昨日はね、あの後、一匹だけ生き返ったんだ!」と嬉しそうに語って、ほらと掌に乗せたカエルを見せてきた。
「おお、じゃ、確か黄泉蛙五号じゃん。やったね」
「うん、いつぶりかな。覚えてないや」
不服そうにのどを膨らませているカエルを見て、橙はなぜだか可笑しくなって、げらげらと笑った。大妖精もふたりの声につられて笑った。笑っているうちに喧嘩を吹っかけた理由を忘れてしまった。最近梅雨入りしたせいで雨が続いていたから、苛々していたのかもしれない。橙はそんなふうに適当に納得した。
雨が降ると橙はたいてい天性の気まぐれさを失い、ただの天邪鬼になった。やることなすことすべてが不毛に終わるようにむしろ努力する始末であった。主に雨の日だから機嫌が悪いと看破されると、今度は藍に対して普段より一層愛嬌を振りまくようにした。とにかく思いつく限りの自然への反抗を試みて、それが失敗に終わると必ず安堵するのだった。だからすぐに謝れた橙はほっとしていた。
チルノたちと一刻ほど遊んでから橙は仕事に戻った。二回目なのでさすがに点検の速度も上がったが、途中で集中を欠いてしまい、結局夕方までかかってしまった。元来猫というものは飽き性で、楽なほうへと流れたがるのは彼女に限った話ではない。時間の浪費に対して無頓着なのは仕方がなかった。
「あーあ、こんな時間かー」
早めに眠るか、また里を歩くか、それとも夜雀の屋台にでも行ってみるか、どれもピンとこないまま、足は自然とマヨヒガへと向かっていた。
帰り際、鍵の閉め忘れがないかを確かめるような感覚で、一番最初に点検した結界を軽く確認したところ、小さなほつれを見つけた。
「やば、抜けてたかな」
指を突っ込んでみると、ピリピリと拒絶されるような感覚があった。ここは最初の仕事の時に魔が差した場所でもあった。
「私もまだまだだな」
肩をすくめてみたが、疲れた笑みは自分に似合ってない確信があった。そもそも自嘲気味に笑うほど己が優秀ではないことを悟ると、途端に恥ずかしくなった。
気にするような穴でもないが、一応は塞いでおこうと応急処置を施した。とはいえ完全な修復は彼女にはできないから、例えるなら絶縁テープを張って隠す程度の修繕である。自己修復機能も搭載されているはずなので、問題はなかった。
屋敷に戻ってから式用の千代紙に「結界は概ね問題なし」という文言と日付を記載した。そして主の元に届くよう式を組み込んだ。その千代紙も素直に習ったとおりに鳥か人の形に切ればいいものを、思い付きの遊び心で紙ヒコーキにしたものだから、式の組み立てにずいぶん苦戦した。結局、夜中までかかってしまった。これで届かなかったらたまらないと、橙は外へ出て、山を登った。
獣道を駆け抜けて、丑三つ時に守矢神社の境内に着いた。息が切れて、肺が弱音を吐いていたが、膝に手をつき、深呼吸をしてなんとか宥めた。夜の神社は神々しさを失っていて、代わりに禍々しさが際立っていた。生き物の気配は全くない。化け物が一匹残らず食い荒らしたかのようだ。博麗神社に劣らないほどの妖怪神社と聞いていたが、なるほど納得である。新しい発見をしたようで、橙は嬉しくなった。
辺りを見回して、橙は鳥居から紙ヒコーキを飛ばした。報告を載せた式紙はゆらゆらと風に運ばれて、ついに見えなくなった。
井戸水
結界の点検を何度もやっているうちに違和感に気づくようになった。ほつれやひずみが生じているわけではない。しかし、各所で微妙に違う。それは機能的な異常ではなく、商品棚に等間隔に並んでいるはずの雑貨が一つだけずれているような、些細なものだった。
不定形な概念結界は博麗の巫女が張るような頑丈な防護壁とは違い、その強固さはむしろあいまいさにある。だから全く問題ないはずなのだが、橙は無性に腹立たしかった。仕事を邪魔された感覚だ。式の矜持など持ち合わせていないつもりだったが、苛立ちの切っ先を収める鞘も彼女は持っていなかった。誇れるほどの式を組めたのかと問われれば否だが、それが遊戯同然の拙い積み木であっても、他人に蹴り飛ばされるのは癪に障るのだった。
「よおし、見つけ出してやる」
そう口にすると、自然とやる気がわいてきた。犯人捜しのために橙が思いついた手段はごく単純な見張りであった。長丁場になっても大丈夫なよう、食料を買うため里に下りた。こづかいを手に店を回って、乾パンを一袋と大きめの丸い水筒を買った。ついでに革製のひもを買うと、橙は水筒を肩にかけた。ついこの間、紫に見せてもらった古ぼけた写真、そこに写っていた仏頂面の兵隊になった心持だった。その時の紫はほかにもいくつか写真を取り出し、なにやら人類愛について説いていたが、橙にはほとんど伝わらず、飛行機やら鉄砲を構えた兵隊やらを見て、ただ直感的にかっこいいと思うばかりであった。
こづかいはまだ残っていたので、塩でも買おうと思った。水と塩分さえあればある程度は生き延びられる、という聞きかじりの知識を実践に使ってみたかった。塩屋に向かう途中で魚屋があり、足は自然と止まっていた。このにおいには逆らえない。どうしようもなく本能をくすぐった。橙は塩の代替え品としてかつお節を一本買った。
水筒と乾パンの袋をぶら下げ、かつお節はポケットに入らなかったので手に持った。
「はあ、買っちゃった」
先ほどまでは勇ましい兵士の気分だったが、好物を手にした途端、その絵面がピクニックになったようで、橙は少しだけがっかりしながらマヨヒガへ戻った。
東天紅に起こされるのが嫌だったので橙は屋敷につくとすぐに眠り、そしてずいぶんと早く目覚めた。布団を乱雑にたたみ、押し入れに片づけると着替えもせずにつっかけを履いて外へ出た。東雲の空を見上げ、橙は大きく息を吸い込んだ。薄くオレンジ色に染まっていたが、黄昏時に比べると寂しさを感じなかった。もうすぐ、朝が来る。忌々しい太陽が驕慢な笑みを携えて、妖怪の時間を終わらせる。その前に、準備を済ませたかった。一度屋敷に戻って、寝間着から着替えた橙は昨日買ったものを全部持って井戸に向かった。
マヨヒガの井戸はいわくつきだった。水がほとんど枯れていて、ここにたどり着き、そのまま力尽きた迷い人の血が沈殿しているという。汲み上げた液体を飲むと妖怪になってしまうとか。それが根も葉もないうわさだということを橙は知っていたが、うわさの通りのほうがまだ良いとも思っていた。この井戸にはいい思い出がない。風呂を沸かすからと主に水汲みを頼まれたのはいいものの、運ぶ途中でこけてしまい、盛大に水をかぶったことがあった。幸い藍がすぐに式を直してくれたから大した被害はなかったが、そもそも水が嫌いで風呂など入りたくないと思っていた矢先の出来事だったから、とかく嫌な気分になった。橙にしてみれば酸素を失って赤黒く変色した血液のほうがよっぽどありがたかった。
桶で汲み上げた水は、いわくつきとは思えないほど透き通っていて、紺色の空と、とぼけたような自分の顔が映っていた。自身に発破をかけるつもりで橙は恐る恐る顔をつけた。すぐにしっぽの毛が逆立った。冷たくまとわりついてくるようで不快だった。べったりとくっつくのではなく、わずかな動きで流動するのも気持ち悪い。皮膚が少しずつ剝がされていくような感覚があった。
「ぶはっ」
身体を大袈裟に震わせて水滴を飛ばした。さすがに顔を洗ったくらいでは式は剝がれないが、やにわに克服できるようなものでもないと悟った。十分目が覚めたので、一度水を捨てて、再度桶を放り込んだ。つるべが落ちる時の遠ざかっていく音だけは好きだった。戯れに橙はにゃあと鳴いてみる。声はすぐに消えたが、ひゅーという音はずっと長く響いた。汲んだ水を水筒につめると、それを肩にかけてマヨヒガを出た。
木に登る
木々の隙間を縫うように歩いて、半刻ほどで一番最初に見つけたほつれの場所についた。そこは少しだけ開けていて、中心に置いてある毒物を木々が避けているかのような歪な空間である。橙はあたりを見回して身を潜める場所を探した。ふと目に留まった一番太い木の幹を登った。かくして橙の監視が始まった。
紫や藍はもちろんだが、狸の大将や吸血鬼など、強い妖怪は簡単に結界を越えてしまう。さらには外来人が迷い込んでくることもある。粉骨砕身で臨めば橙ですら越えられるのだ。結界の不完全さに薄々感づいてはいたが、橙は不届き者をその目で捉えたかった。
水を一口含んで、ねばついた唾液を洗い流すように飲み込んでから、橙はじっと待った。視線は結界を捉えていたが、どちらかと言えば物音に意識を向けていた。時折聞こえる風で揺れる葉の音以外はまったくの静寂といって良かった。
しばらくすると朝が来た。開けた空間に陽光が注いでいた。真ん中に石でも置いたら、禍々しい化け物が封印されているように見えるかもしれない。そこで橙ははたと気づいた。結界のポイントは実は巧妙に隠されているのだ。若干の違和感は通り過ぎれば気にならない程度で、長くその場に留まると不快になるような、そんな絶妙な近寄りがたさがある。結界から外の空気が入り込んでいるのかもしれない。妖怪を拒絶する科学の毒だ。そう思って試しに大きく深呼吸をしてみたが、新緑のにおいが通り過ぎるばかりであった。
ひとつめの乾パンを取り出して口に含んだ。味の薄いそれを唾液で湿らせながら、舌の上で転がした。適当なところで咀嚼して飲み込むと、すぐに水が欲しくなった。のどを鳴らして水筒の水を飲みたい気分だったが、この調子では昼前に水汲みに戻らなければならないので、ざらついた舌で口内をなめるにとどめた。
かつお節をなめて、味のついた唾液を無理に飲み下すと、ふとこの間釣った川魚のことを思い出した。一尺五寸ほどのそこそこの大物で、おそらくイワナだ。もしくはアマゴ。いずれにせよ以前食べたことある魚には違いなかった。半日ほどかけて釣った中でもひときわ大きい獲物をさっそくその場で塩焼きにしたのだが、食べてみると身が硬い上に脂がのってなくて不味かった。塩もきかせすぎていて、食べ方を考えればよかったと反省したが、そもそも橙は川魚の調理法など塩焼き以外知らなかった。たまらなくなって川の水でのどを潤そうとしたが、それも妙に臭くて不味かった。あの時の昼餉は忘れないだろう。無知と横着と妥協の入り混じった味で、釣りは嫌いではないはずなのに、不毛な時を過ごしたという後悔が残った。かつお節の塩味はそれを思い起こさせた。
ただ今はその時と状況がまったく違う。かつお節はあの川魚に比べればよっぽどうまいし、今回は横着ではなく、効率よく塩分を摂取するための手段であるから、不毛だとは露にも思わなかった。できるだけ無駄を省く。体力も温存し、常に臨戦態勢をとれるようにしておこう。そんな風に考える橙は、その禁欲的な姿勢に半ば酔っていた。畜生だから遊ばない。妖怪だから眠らない。式神だから動かない。そんな具合に見張りの理由を作りはじめた。本来式とは再現性の理屈が先にあって、次に実がなるため、今の橙の行動は真逆である。しかし彼女は己の理をひとりで組み立てるのが楽しくて仕方がなかった。
立派な式でも強い獣でもない自分は、いったい何者なのだろうか。そんな禅問答をしてみたが、妖怪じみた紫や式神らしい藍のことを思い出してみると、やはり自分はまだ何者でもないという結論が似合う気がした。
「チルノは……悩まないだろうなぁ」
妖怪並みの力を持っているとはいえチルノは妖精過ぎる。橙はこの悩みが高尚なものに思えて仕方がなかった。ふと摩多羅神の姿が頭をよぎった。彼女は何者かと問われると、知り合いであろう紫や藍は必ず答えを濁した。「そうねえ、神様でいいのかもしれないわ」「そうだなあ、賢者だよ。紫様と同じ」どうにもしっくりと当てはまらない。橙は考えて、今度は自身の存在論に戻り、そしてまた別の人物を思い浮かべての堂々巡りを繰り返した。たくさんあるはずの時間を無駄に浪費しているという実感は、珍しく彼女の焦燥感をあおった。何かをしなくてはいけない、今やるべきことは留まり続けることなのに。その矛盾した感情が橙の意地をより強固にした。ピクリとも動くものか。狙撃手の心持で木の上から虚空を見つめ続けた。
しかし、その意地が続いたのはほんの数刻であった。太陽が東の空に鎮座するころにはすでに飽きていた。
「あー、よく考えてみると、あんまりおいしくないかも」
何もないと無意識に乾パンをかじり、かつお節をなめてしまうものだから、のどが渇くばかりで、すでに水筒の中身は空になっていた。舌先に最後の一滴を乗せると、唾液と混じって消えてしまった。
「よし」
橙は枝から地面に飛び降りた。着地の瞬間に全身の筋肉で衝撃を緩和すると、発条仕掛けのように膝を伸ばして、間を置かずに走り出した。
Calm Like A Bomb
マヨヒガで水を汲んで戻って来た時には手遅れだった。結界周辺に妖気の残滓があり、何者かが出入りした後であることは自明であった。わずか半刻の間に犯行がなされた事実は、橙をどうしようもなく苛立たせた。
「うそぉ」
落胆の言葉が漏れたあとにため息が続いた。頭を掻きむしりながら地団太を踏んでみたが、もう後の祭りである。まるで目を離す隙を狙っていたかのようだ。何か手掛かりがないか探したところ、新緑に混じってほんのりと酒のにおいがしたので犯人は大方予想がついた。伊吹萃香、外界でも忘られぬ鬼という強大な存在である彼女なら容易く結界を抜けるだろう。動機は不明だが、何せ外にはうまい酒やつまみが山ほどあるという。強靭すぎる肝の臓をひたすら苛め抜くことを生きるよすがとしている欲深な鬼ならば、外へ出ない理由などなかった。
橙はしばし考えた。伊吹の鬼ならば、咎める必要があるだろうか。間違いなく紫は気にも留めないし、藍ですら苦笑を浮かべるだけで済ませるに決まっている。萃香とて一応はご法度と心得ているから、強引にこじ開けてくぐり抜けているだけで、良くないものを持ち込んだり、完全に壊したりするわけではない。
「いや」
だめなものはだめなのだ。自分だけは目をつむるわけにはいかない。たとえ主たちが許しても、体裁の元に悪鬼に噛みつく者が必要なのだ。我々八雲は、幻想郷における正義でなければならない。
橙は不相応な大義を抱き、己を鼓舞した。鬼と対峙した場面を思い浮かべる。絶対的な暴力に対し、間抜けな忠犬のように命令と心中する腹積もりで立ち向かうことこそ、式のあるべき姿ではないだろうか。勝ち目はなくとも一泡吹かせられたのなら御の字だ。
橙はまた同じ木に登った。そしてひたすら待ち続けた。余計なことを考えず、機械のように仕事に徹した。橙はじっと忍ぶのがあまり得意ではなかったが、それでも二度と動くものかと強い決意でここに留まった。一意専心、瞑想のイメージを脳の内側から引き出すと、意識は白昼夢のそれのように濁った。自然と無駄な思考は混ざり合って灰色となり、時が経つことの苦痛を忘れ去った。その忘却の技法は、久遠を生きた妖怪ならば必ず会得している退屈への抵抗法であった。
はじめに水が尽きた。陽光は枝葉に遮られていたがそれでもじりじりと体力を奪った。ついに汗を掻かなくなった。身体はなぜか冷えている。ひんやりとした幹の感触とまるで同化したかのようだ。彼女は爆弾のようにきわめて静かに、じっと時が来るのを待っていた。
乾パンはまだ残っていたが、かさかさの口を開くのが億劫で食べる気になれなかった。はじめて飢えというものを経験した。空腹はいつまでも同じだけ続いたが、怠惰の代償だと甘んじて受け入れていた。
ついに日が沈んだ。木々を揺らす音も、獣の声もいつの間にか聞こえなくなった。寒い夜はずいぶんと凪いでいるように思えた。睡魔を打ち倒すのは想像よりは容易かったが、むやみに覚醒しているだけで何も考えてはいなかった。目も耳も鼻も眠っているに等しかった。いつの間にか、ただそこにいることだけが目的となっていた。
そうして三度目の夜を迎えた。半覚醒状態のまま、橙はじっと虚空を見つめていた。沈殿し、濁り、あやふやになった意識の中からたまたま掬い上げた思考のひとつが、乾いた唇から言葉となって漏れ出た。
「このままずっとここにいるのかな」
否定する者はなかった。しかし、呼応するように枝葉が少しだけ揺れたかと思うと、間を置かず霧が立ち込めてきた。途端に嗅覚がよみがえり、酒のにおいを嗅ぎ取った。
ほんのり不快な空気と気圧されるほどの妖気、それが酒気に紛れて飽和していった。霧のせいでよく見えなかったが、萃香が間違いなくそこにいた。それを感じ取ると、橙は枝を蹴ってその鬼のいるほうへ遮二無二突っ込んだ。
心臓に爪を立て、喉笛を嚙みちぎる。そのイメージだけは意識が濁る前から描いていた。それが鬼の致命傷になるとも思えないが、少しの痛みとわずかな怯みを与えられたなら上等だ。盾突くことに意義がある。これはルールに基づいた制裁ではない。八雲の式の証明だ。
もう少しで届く、そう感じた刹那、萃香は視線を橙のほうへ向けた。
鬼は笑っていた。
右腕を顔の高さまで振り上げ、拳を握った。防御の構えに見えたが、橙はその腕を食いちぎらん勢いで突っ込むしかなかった。
牙が前腕に突き刺さったかと思うと、萃香はその腕を遠心力に任せて振り下ろした。さながら投擲された球のように橙の身体は宙を舞い、背中から地面に打ち付けられた。
「かはっ」
腕が口から離れる。全身に電気が走ったかのような激痛だった。背面からの衝撃などはじめての経験だったから、痛みは余計鋭く感じられた。歯も何本か折れ、口の中に血の味が残った。
萃香は歯が食い込んだ腕をさすって、にんまりと笑っていた。
「いいねぇ、いいよ、最高にいい。やっぱそうじゃなくちゃなぁ。どうせ隠せやしないんだからさ。あんたらも私もさ。大歓迎だよそういうの。でも不意打ち失敗だねぇ、さあ、さあ次はどうする」
指先は動く。痛みはひどいが、歯を食いしばって考えることはできた。奇襲は失敗だ。そもそもこの奇襲すら勝機ともいえぬぼんやりとした願望に一縷の望みを抱いて身を投げ入れただけで、先のことなど一つも考えてはいなかった。ただ、これ以上痛いのは嫌だなと思った。橙は大の字に寝転がったまま動かなかった。降伏の意、もしくは己が苦痛で動けないと示したつもりだった。
萃香は見透かしたような目で睨みつけながら、へらへらと言った。
「嘘はいけないよ。嘘は、嘘だけはついちゃいけない。あんたらは平気な顔しているけどね、それだけはやっちゃいけないんだ。立ちなよ、まあちょっと休んでもいいけどさ。愚直に、そんで高慢にかかってきなよ、猫らしくさ。ちゃんと油断しててあげるから」
萃香は下卑た声で笑い続けていた。火種をまき散らし、油を注ぎ、轟々と燃え盛る火中に腕を突っ込みたがる鬼の気質、彼女は感情を逆なでする卑俗な言葉を数多く知っていた。
橙はふらふらと立ち上がった。不思議と悔しくはなかった。萃香が挑発の言葉を連ねるほど、心が凪いでいった。悪辣な台詞を吐く萃香が、なぜだか称賛やねぎらいの声をかけてくれる主たちと重なった。
(この鬼もとても強いんだ。わけわかんないくらい。紫様や藍様たちと同じで。わかってたけど)
そう思うと、ほんのわずかに安堵した。途端に思考が億劫になってきた。何をしたいのか、わからない。だけど、ここでやるべきことは。
――最後に彼女を動かしたのは式の大義だった。もう一度、今度は地を蹴って、真正面から突っ込んだ。
「いいじゃん」
萃香は拳を握り、振りかぶった。その腕が突き出されるとわかった瞬間、橙の意識が飛んだ。
殴雨
殴りつけるような大粒の雨に打たれて目が覚めた。肢体はしびれていて、じんわりと熱を持っていた。意識はしっかりしていて、夢の残滓すらないのにしびれがあるものだから、金縛りを疑った。傍には水筒が転がっていて、中から雨にも負けないほどの強いアルコールのにおいがした。萃香の硬筆に入っている酒と同じにおい、鼻の奥に刺さるそれがことの終わりを告げているようだった。掟に仇なす輩を見張り、そして蹂躙される。そういう事象があった。決して超えるべき壁に立ち向かったわけではない、鬼とはそういうものなのだと腑に落ちた。
ひとつの仕事は終わった。気力はほとんど尽きていたが、橙はつぶやいた。
「……立たなくちゃ」
打ちのめされたどどめ色の衝動が、言霊を介して身体を動かしていた。緩慢によろよろと立ち上がる。しびれた足はそれでも何とか地面を捉えてくれた。水筒を蹴飛ばしてやりたかったが、もう歩けそうにない。なぜ立ち上がれたのかすらわからなかった。
雨が降っている。怒りを慰めるように静かに、力強く降っている。橙はそれが腹立たしくてたまらなかった。
雨は嫌いだ。冷たくて、痛くて、容赦なく、まるで太陽や月の光みたいに容赦なく降り注ぐから。すべてに潤いを、それが正しいのだと、当たり前のように上から下へ落ちてくる雨の音は、慈愛の心得を説くかのように押しつけがましくて、なんとなくいやだ。
空に向けて中指を立てたくなる衝動を抑え込み、橙は結界の穴の隠匿を試みた。鬼が密度を操ってほかのものが入れないように穴を縮めてはいたが、それでもやった。
余計な思考は自然とそぎ落とされた。闇雲に組んでいるとふと結界の解が見える瞬間があった。極限状態に陥り、積み重ねた基本がようやく無意識下でつながったのだ。雨に打たれて、彼女の式は流れ落ちつつあったが、それでも震える手で組み続けた。橙は静かに昂っていた。主たちが作り上げた式を理解した気分になった。
風は凪ぎ、雨は止み、とうとう雲の切れ間から太陽が顔を出した。すでに沈みかけていて、空を夜に明け渡そうとしていた。拙いがようやく穴は塞がった。確かな充足感があって、しばらくは茫然としていた。日差しを浴びた木々や葉が少しずつ乾いていくのを、橙はじっと見つめていた。
そしてふと自分のしたことの無意味さに気づいた。
(あ、私、今、魔が差したんだ)そう思った。
流れ落ちた式は自分では修復不可能だから、主に組みなおしてもらう必要がある。どのように報告するべきか、考えながら八雲の屋敷へ向かった。とはいえ意識はぼやけていて、言葉を組み立てるのに難儀した。謝罪か、言い訳か、愚痴か、正確な報告か、どれかを完成させようとすると水銀のようにどろりと膨張して、わけがわからなくなる。疲弊した身体は歩くたびに一部がとろとろと溶け落ちていくようで、ずいぶんと時間が引き延ばされたように錯覚した。
「もう、夜だ」
結界に隠された八雲邸にたどり着いたのは、とっぷりと夜が更けてからだった。屋敷にはあかりがついていて、橙は虫のようにふらふらとそこへ向かった。玄関の扉を開こうとした手をかけたところで、気配を感じ取ったのか藍が出てきた。濡れ鼠の橙を見て、藍は一瞬目を丸くしたが、すぐに心配のまなざしに変わった。そして口を開こうとしたところで、遮るように橙は言った。
「こんな夜分にすみません。雨に打たれてしまいました」
鬼のことは言わなかった。我ながら他人行儀で軽薄な台詞だと橙は思った。主が望んでいるのは弱音や嘆きの吐露に違いない。歯が折れているから声の調子がおかしくないか、そんなことが気になった。
「ああ、冷えただろう。さ、おはいり」
橙は首を小さく横に振った。玄関を跨ぐ前に報告をしたかった。
「ここ一週間、結界はまったく異常ありませんでした。雨に打たれたのは私の不覚です。申し訳ございません」
道中悩んで、答えが見つからなかった割にはすらすらと言えた。
「そうか、式はすぐに組みなおすよ。と、どうせならその前にお風呂に入ってきなさい。まだ沸いているから」
それから橙は言われるがままに服を脱いで浴室へ入った。風呂は嫌いだったが、水を嫌がるのも面倒だった。
橙とは反対に、紫も藍も風呂は好きだった。八雲邸の浴室はそこそこ広いが、木製で円柱型の浴槽そのものは狭くて、ひとりが入るといっぱいになってしまう。ひのきのにおいがして、ぬるくなったお湯が這うように石造りの床に留まっていた。お湯が足の裏に触れると橙は身震いした。冷たい雨なら嫌いだけど耐えられる。熱くないお湯はどっちつかずで余計気持ち悪かった。それでも風呂に肩までつかると少し落ち着いた。
「はあ」
ため息が反響したように思えた。
広いところにひとりでいると、いろいろ考えてしまう。先ほど口を突いてまろび出た報告を悔やんでいた。異常はなかったかもしれない。鬼が出て、こっぴどくやられたがそれは失敗に含まれてないかもしれない。それでも隠してしまった。風呂から出た後伝えるべきだろうか、いや、もう報告は終えたのだ。たとえ小さな嘘だとしても、一度吐いたら隠し通さなければならない。ああ、本当は全部打ち明けるべきなのだ。猫なで声で、情けなく縋るように。それが正しい。どうせ見透かされているに決まっている。ばれないはずがない。けれども、だからこそ、言えるわけがない。言ってはいけない。その時はちゃんと叱られないといけないのだ。そんな風に思った。
風呂場にあった鏡を見て、顔の打撲痕がまだ残っていることにようやく気づいた。
「だめだな、私」
また肩をすくめて、あざけるように笑ってみた。湯気がその言葉をやんわりと響かせた。
風呂から上がって居間に戻ると藍が食事を用意していた。彼女専用の小さな茶碗に一杯分のご飯と油揚げのみそ汁、そして大根とごぼうの煮物、ちゃぶ台に乗っているそれらから湯気が立っていた。
「残り物だけど、お腹空いただろう?」
藍はそう言ってにこりと笑った。それが橙にはなぜだかわからないがとにかく正しい笑顔に見えた。
橙は箸を手に取り掻っ込むように食べた。久しぶりの食事は素朴で、温かくて、美味かった。いつもの味で、ただ温かいというだけで心が乱された。米の一粒を噛みしめながら、橙はとうとう涙をこぼしてしまった。
「おいしい、です。藍様、これ、とても」
「そうか、そうか」
そのひとしずくは、言葉よりもよっぽど思いがこもっていることを藍は知っていた。だからこれ以上何も聞かなかった。代わりにまたあの正しい笑みを浮かべた。全部わかっていると言いたげで、それでも何も言わず施しをくれる、さながら月明かりのようなおぼろげな魅力を孕んだ表情だった。その傲慢さを感じ取れない橙ではなかったが、雨よりはよっぽど心地よかった。橙は主の真似をして、無理に笑ってみせた。
食事を終えると藍は剥がれた橙の式をつけなおした。髪を梳くように丁寧に組み上げながら、こう言った。
「まずはお疲れ、しばらくは休んでていいよ。そのうち稽古をつけてあげよう。ちょっとレベルアップだ」
「はい、ありがとうございます」
「そうだ、あの報告書、紙ヒコーキの。なかなか面白い発想だと思うぞ。外の世界の鉄の鳥は紫様曰く、人類の憧れを越えて、立派な輸送手段になったらしい。だから式もしっかり載ったのかもしらん」
「良かったです。届いてなかったらどうしようかなって」
「うん、外界の技法を取り入れるのもいいかもしれんな、そういえばしばらく出てないなぁ」
藍はわざとらしく顎に手を当てて、考えるような仕草をした。橙が振り向くと、やおら無邪気な悪戯顔を浮かべて、抑え気味の声でこう言った。
「今度、おいしいものでも食べに行こうか。紫様に内緒で」
それが労いなのだと橙は理解していたが、どうにも素直に喜べず、あいまいに「あはは」と応じるしかなかった。
Rebel Run
「しばらく」というあいまいな休暇をもらった橙は、久しぶりに魚釣りでもしようかと川に来ていた。今日は食いつきが悪かった。雨のあとだから簡単に引っかかると踏んでいたが、甘かったようだ。水は透き通っていて、影みたいなものも見えるのに、食いついてくる気配がなかった。この辺りは餌が豊富なのかもしれないと思ったが、それでも欲張りな魚はいるはずなのだ。運が悪いとしか言いようがなかった。
「警戒してるのかな。一丁前に。はあ、つまんないの」
聞こえるのはせせらぎだけで、あとは何もない。だからどうしても昨日のことを考えてしまう。ずっと隠匿したことに怯えていた。鬼の言葉が浮かんでくる。「嘘はいけないよ」理由も含蓄も、なにひとつないのに確かな重量を持って、心臓を押しつぶそうとしてくる。チルノたちとあの不毛な遊びをしていれば、気も紛れたかもしれないのに。暇つぶしに魚釣りを選んだのは失敗だと思った。
夜を待たず、足早に釣りを切り上げると、とうとう橙は心配になってもう一度あの結界の穴を見に行った。
「あ、やっぱり、か」
完全に直されていた。手を加えた痕跡すらない。きっと全部見透かされていたに違いない。叱られることもなく、何かを背負うでもなく、すべて有耶無耶になった。それがわかると橙はやはり安堵した。そして安堵した自分に気づいてしまうと、とても悲しくなった。鬼に盾突いた大義も、組み上げた拙い式も、嘘をついた意味も、何もなくなってしまった。
近くに転がっていた水筒を拾い上げた。ずっと放置していたが、まだ中身は入っていた。ちゃぷちゃぷと音がして、酸っぱいにおいが鼻を突き刺した。
マヨヒガに戻ると、ふと大嫌いな井戸が目についた。途端に滅茶苦茶にしてやりたくなった。行き場のない悲しみは、熱を持った水銀のように膨張し、ついには暴力として発露した。
まず酒の入った水筒を放り込んだ。釣瓶を殴りつけ、木片が落ちていくひゅうという音を何度も聞いてから、地面から突き出ていた井筒を蹴り壊した。拳が自分の血で濡れ、足先にじんわりとしたしびれを感じた。彼女の癇癪を受け止めた井戸は、二度とあの鳴き声のような音を奏でることはなくなった。
「ふぅう、ふぅうう」
ざまあみろ、お前はもう日の光を拝めない。青い空も写せない。お前は青くなんてない。昼も夜もない、仄暗く、孤独に延々と潤い続けるんだ。ざまあみろ。二度と飲んでやるものか。腐った酒と混ざり合って濁ってしまえ。
拳をちろりとなめてみた。鉄の味がした。唾液と混ぜてそれを飲み込むと、身体に闘志のようなものが漲ってくるのを感じた。
居てもたってもいられなくなり、橙はさながらそれが本能であったかのように走り出した。
それからはひたすら走った。深山颪に身を預けるように山を下り、小川を飛び越え、里に着いた。つまずいて転びそうになったが、手を地面につくとそのまま猫の姿に化け、まるではじめからそのつもりだったかのように四つ足で、服をすり抜けて何食わぬ顔で走り出した。発条のようにしなやかに体を伸ばし、大地を四つの足で柔らかく捉えて、二又の尾を揺らし、里を一瞬で通り過ぎた。じりじりとした熱が心地よい。ただ東へと、太陽を背に、見えてもいない虹を追いかけるように走った。幼いころから走るのは大好きだった。かくれんぼは苦手だった。だから、今はとても充実しているように感じた。
いつの間にか開けた道に出た。その道は乱暴に舗装されていて、博麗神社の近くに来たことに気づいた。神社は幻想郷の最東端にあるらしい。それを思い出した橙は鳥居を潜り抜けて、そのまま境内を突っ切った。竹箒を片手に外に出ていた霊夢がちらと視線を向けたが、すぐに興味をなくしたかのように掃除を再開した。
神社の裏の森に入った。群生するミズナラの木の下を、木漏れ日を避けて駆けた。湿った土をはだしで踏む感覚は少し気持ち悪かった。
風を顔に受け、疲れを気にもせず、鼓動の高鳴りを聞きながら、秒針よりも速く走った。
森を抜けると人里があった。橙はまっすぐ走ったつもりだったが、途中で知らず知らずのうちに曲がってしまったのかもしれない。だがすでに夜になっていたので、方角がわからなくなった。目はよく見えるから、星を見て位置を探ろうかと試みたが、どれも光の粒にしか見えなかった。仕方がないので、橙はまた里を駆け抜けた。
そうしてそれを三度繰り返し、いくら一直線に走ってもそのうち元の場所に戻ってきてしまうことに気づいた。結界のせいかもしれない。とはいえ、それは止まる理由にはならなかった。そういうものなのだと彼女はやたらに納得して、闇雲に走り続けた。
そのうち里でうわさが立った。
闇を駆け抜ける黒い影、死神の使いか。不吉の象徴、不幸の伝播、破滅の知らせ、百鬼夜行の前触れ、どうにも黒猫が走るのは都合が悪いらしく、橙を見た里人たちは面白おかしく、時に怯えながら事実を脚色して流布した。とはいえ何かの実害があったわけではないから巫女も自警団も動かなかった。そもそもたった数日間で流れた根も葉もないうわさである。巫女にしてみれば知りようもない浮世の話だ。
屋根伝いに里をまた抜けようとしていると、一羽の真っ黒なカラスが彼女に合わせて飛びながらこう言った。
「おいお前、うわさになってるぜ。なんでそんなに走るんだってよ」
なんて無粋な奴だと橙は思った。さあねと首をかしげてみせると、カラスはあほうと鳴いてそれきり興味を失ったようにどこかへ飛んで行ってしまった。思い出したのは新聞記者の顔だった。そしてカラスはどいつもこいつも同じだと思った。
うわさについてなんとなくは知っていた。自分のことで誰かが困惑していると思うと面白かった。まるで己がちゃんと妖怪になった気がした。
黒猫の正体が八雲の式だと公になれば、動き出す者はあるだろう。しかし橙はそこまでの考えに至らなかった。そのかわり、なぜ走っているかを考えた。
好奇心なのか、あるいはあの雨の日の充足を得るためかもしれない。今は言葉に表すことができない。誰にも伝えられそうにない。だから走るしかないのかも。
結局橙は思考を諦めた。考えれば立ち止まってしまいそうだった。とにかく夢中に落ちていたかった。妖精のように素晴らしく無知で、鬼のように清々しいほど厭らしく。彼女は走ることに身を委ね、淡い自己破壊を試みていた。
走り始めて一週間が過ぎた。雨は一度も降らなかった。煽るような風だけが幾度も橙の身体を撫でていった。ひときわ太陽が赤くなるころ、橙はふと思った。
(ああもうすぐ、夜が来る。少し休もうかな)
ようやく橙は自分が疲弊していることに気づいた。夕焼けはいつも迷いを与えてくる。誰そ彼と問いかけてくる。立ち止まると、マヨヒガにいた。
橙は地面に倒れ込んだ。変化は解けていた。全身に力が入らない。心臓が悲鳴を上げていた。指先まで燃えるように熱くて、呼吸が苦しかった。これほどのどが渇いているのに、汗がじんわりとにじみ出てきて、それがたまらなく不快だった。素肌をチクチクと刺す若草が少しだけ慰めてくれたように感じた。
「橙、橙! 大丈夫か? 何があった」
何度も聞いたことのある声、うわさの真相を確かめるため、ちょうど藍が来ていたのだ。心配そうに声をかけてくる主に、せめて返事をと口を動かしたが、乾いた唇は言葉を紡げなかった。代わりにのどを逆流してくるものがあった。
「おえ」
少しだけ吐いてしまった。さびしい色をした水様のわずかな吐瀉物、胃が空なのでそれ以上は出なかったが、それでも気持ち悪かった。藍にしてみれば、それが助けを求める叫びに見えたらしかった。橙を横向きに寝かせると慌てたように言った。
「と、とにかく水だ。今持ってくる」
水なんて、もうないよ。その呟きが耳に入らなかった藍は井戸のほうへと駆けて行った。
「井戸がっ、橙! 水がないじゃないか! どうなっているんだ!」
壊れた井戸の前で、藍が声を荒らげた。心配と混乱が入り混じったせいで、怒りという形をとったのだ。今、藍は必死で全部の事象を合理的につなげようと頭を回していた。しかし聡明な彼女は、理由の前にまずは苦しみを取り除くことを優先するべきだとも考えていた。だからこそ苛立ちは増すばかりであった。とりあえず急いで戻ってきたが、頭はまだ混乱したままだった。
「何があったんだ! 橙、答え……ああもう、待ってろ! 川で水汲んでくるから」
温厚で、甘く、すべてを認めて許してくれる主が、わけもなく怒っていた。主でさえこんなふうに乱暴に怒るのだとわかると、橙はどす黒い共感を抱いた。藍は目にもとまらぬ速さでその場から立ち去った。
無意義な反抗の駆けっこは初めて混乱のまま終わった。何も得てはいない。うわさはいずれ収束し、藍もすぐに、例えば巫女に追われたとか、適当な理由をはじき出すだろう。そして納得が終われば、いずれは忘れてしまう。ただのありふれた世迷いごとだ。それでも橙はようやく何かを成し遂げた気がしていた。
もう一歩も動けそうにない。それが悔しくてたまらない。熱くて、つらい。頭も痛くて吐き気さえあった。けれども、きっとこの苦しさが必要なのだ。水で満ちていれば、息をしているだけでは、きっと火はつかない。獣から化け物に変わるためには、夜に混じるためにはきっと火が必要なのだ。橙はそう思った。とりあえず今は、だれにも気づかれずに乾いていたかった。
ぼんやりと思考していると、へとへとの身体の内側に籠っているほてりが、炎を象りながらきらきらと光ったように思えた。夜を七つも彷徨い、初夏の日差しを浴び続け、ようやく黄昏が気づかせてくれた愛おしい熱。あまりに頼りなく不格好なそれは、夕焼けと同じ色をしていて、困ったように明滅するのだった。
まだまだ成長段階の未熟者で、それを自分で理解しつつもやはり若さ故に無謀な事を引き起こしてしまう。自分の主人の様な強者達の偉大さを頭では理解している筈なのに、自分だけは彼女達の行為を見過ごしてはいけないと、作中では魔が差したと表現されていましたが、本当にそこまでの描写がめちゃくちゃ好みでした。
そうして結果、己の無力さと主人達の強大さを頭だけではなく体験的にも痛感してしまった橙が主人の全てを受け入れる様な傲慢さに救いを受けて、同時にその傲慢さに自分のささやかな行動は全て何も無かったに等しい扱いを受け、より一層の無力感に襲われるというその非情さ。自身が置かれた状況を未熟で拙いながらも言語化しようとする橙の姿が健気に感じられ、主人の困惑した怒りに対して共感を覚える様になったのはある意味成長と言えるのかもしれません。
あと、個人的には藍が橙に行うフォローも好きでした。一緒にご飯にいく提案をしたり、慰めの言葉なんかよりも笑顔でいてくれたり、なんというか優しくて本当に嬉しいものだけれど、そうであるからこそ、される側苦しくなってしまう様な、そんな藍の行動がとても良かったです。
がんばってる橙がとても素敵でした
やらなくてもいいとわかっているのに意地になってつっかかっていくところも魅力だと思いました
焦ってる藍様もよかったです
楽しませてもらいました。
そういった橙の若さというか未熟さというか
そういうものを楽しめました。
式であろうとしたり八雲のものとしてあろうとしたり獣っぽくあろうとしたり人っぽくあろうとしたり
思い悩みながらそれでも我武者羅に走った橙の
そういったわだかまりがとても表現されていたと思います。