Coolier - 新生・東方創想話

錦の望遠鏡

2022/08/26 20:53:45
最終更新
サイズ
37.11KB
ページ数
1
閲覧数
530
評価数
6/10
POINT
790
Rate
14.82

分類タグ

     1

 物見の仕事は想像通り退屈である。同じ場所に留まり続け、何か異変があればすぐ知らせる。内容だけ聞けば誰でもできそうだが、実際にやってみると、無意味な時間経過にすぐに耐えられなくなる。時間の流れが虚無感によって何倍にも希釈され、自己の発狂をも予感させる苦痛に襲われる。そして、この苦痛の正体が仕事の容易さから来ている訳だからもはやどうしようもない。同じ絵本を一日中眺め続けられるような人がこの仕事に向いているが、そんな豊かな精神の持ち主はそうはいない。
 したがってそういう意味では、犬走椛は天に愛されていた。彼女の千里眼の能力も持ってすれば、数頁の絵本も分厚い絵巻へ姿を変えた。こんな能力を授かれば、たちまち無気力になりそうなものだが、彼女には持ち前の活発な気質があった。自身の能力を好いてはいたが、経験を重視する性格から、単に視力の延長線上にあると思っていた。
 椛はいつものように、山の頂上付近に作られた簡素な高台の梯子に足をかけ、不審な人物がいないか見渡していた。もっと正確に言うならば、椛は能力を用いた観光旅行の合間合間に怪しい人物がいたら、『ついで』に報告しようと考えていた。あまりに報告をしないと上司に嫌な顔をされるので、週に一度は真面目に仕事に取り組んだが、それ以外はふらふらと開拓した散歩コースを目で追っていた。千里眼は音までは聞こえない。自然の息づかいを楽しめないのを椛は残念がったが、こと夏に限り、大抵蝉の声しか聞こえないので特に問題にはならない。そして、普段見かけない動植物を見ると、椛は丹念にスケッチをし、家に帰った後図鑑で調べた。
 目印にしている巨大な杉の木を見つけると、そこから視線を下にずらしていく。夏らしい濃い緑の中に、淡い桃色のサルスベリの花がある。毒々しい紅色をしたザクロの実がなっている。そこからよく目をこらしてみると、誰かが果実を食べに来たのか獣道がいくつも分かれているのが見える。これらが椛お気に入りの散歩道である。今日はどの道を辿ろうか。椛は箱からチョコレートを選び取る時のような幸福感に満たされる。
 椛は結局、一番右の、渓谷を反時計回りに進む道を辿ることに決めた。どれも、進んで行くと山の麓に続いているが、その中でも選んだ道は一番時間がかかる。勿論、単に千里眼が映し出す像に違いないので、その気になればいくらでも早くコースを回ることができたが、椛は凝り性であり、そしてなにより几帳面である。彼女は超自然的な道楽であっても現実のルールを厳守した。道理から外れた能力を使っていたせいか、やり通さなければ今までの散歩が全て現実感を失い、単なる白昼夢になるような気がした。
 椛は目的のコースの入り口に目を向ける。そのまま分け入っていこうとした時、ふと、その道のさらに右隣にもう一つ獣道ができているのに気がついた。彼女は入り口を間違えたのだろうと思ったが、目印にしていたトリカブトの花が脇に咲いているのを見つけて、自分の記憶違いではないことに気がついた。正真正銘、生まれたての獣道である。
 椛はこの突然の発見に胸が高鳴った。妖怪の山について、彼女はどこか不変なものであると思っていた。その不変こそが何かしら神がかり的なものを育んでいるという漠然とした認識があった。したがって、山では異常を見かけることがあっても、一年を通した万華鏡の変化以外は現れないだろう、と軽い絶望感を抱いていた。
 椛は早速、この草の生い茂った道を探検することに決めた。手帳に挟んでいた手製の地図に鉛筆でおおよその目印をつける。持ってきた水筒で口を濡らす。先ほど川から汲んできたばかりの水は、喉を滑り落ちてゆく明確な感覚を伝えた。
 椛は息を吐くと、一点を見つめて精神を集中させる。その一点は段々とぼやけ、曖昧になっていく。やがて視点は身体の束縛から抜けだし、自由に動かせることに気がつく。椛の視点は例の獣道へ舞い戻る。

     2

 道はやたらと入り組んでいた。土と垂れる葉の僅かな隙間をこじ開けるように駆け巡った形跡があるのだが、その進み方がなんとも奇妙で、素直に真っ直ぐいけばいいものを、時々何かの発作に襲われたように右へ左へと曲がり、挙げ句の果てに同じ位置に戻ったりした。基本的に動物は追跡されるのを嫌がるため、惑わすような動きをするのも珍しくない話なのだが、だからといってこれは、椛の経験から見ても明らかにやりすぎだった。まるで追跡者を元の道へ戻さないようにしているような。いくら妖怪の山に精通している椛も、自分がどこを歩いているのか分からなくなっていった。
 散歩で心が休まるのは、歩いている道が自分の家とつながっているという安心感から来るものである。見知らぬ土地に来ても、道を辿れば絶対に帰ることができる。生活の中では認識できない、住まいから自身へと伸びるこの無色の糸の発見こそが余所行きの醍醐味といっても過言ではない。
 椛は時間をかけて山の奥へ奥へと進んでいった。辺りの草木が独りでに動いた。風によるものだと頭では分かっていても、何となく心細い気持ちになった。赤の他人の余所余所しさのようなものを感じ取った為である。しかし、途中で止める気にもならなかった。この先にある筈の何か途方もない景色、苦労を無駄にしたくないという気持ちから、確約されてない報酬を期待して頑張り続けた。
 どれくらい進んだろうか。ほとんど暴力的なまでの道筋に振り回されて椛はくたくただった。彼女は三時間も進んだような感触だったが、同じような景色が続いたので、時間感覚の麻痺を疑うことを忘れなかった。ともあれ、獣道はとうとう途切れ、視界は広場のような開けたところを映し出した。
 そこは花畑だった。深い山中から伸びる背の高い老け込んだ樹木に囲まれた、隔離された空間だった。辺り一面に黄色い花の絨毯が広がり、その中央に平屋が一軒だけ忘れられたように建っていた。黄色の花をよく観察してみると、ラッパの形をしている。いつか図鑑でみたニッコウキスゲの写真が思い出された。
 近づいてみる。木材がそれほど痛んでいないことから、意外に最近建てられたものだと見て取れる。周りには丁寧に砂利が敷き詰められており、軒先に桶が二つ伏せられている。簾が邪魔で中の様子が窺えないが、人がいるのは間違いない。風で時々簾が揺れて、張り替えられたばかりの障子の紙が、夏の日差しを受けて白く輝いている。
 しかし、一体誰がこんなところに。山の恵みだけで生活しているのだろうか。そもそも、この小屋はどうやって建てたのだろう。禄な道も無いのに、どうやって木材や生活用品を運び込んだのだろう。何か秘密の抜け道でもあるのだろうか。
 椛が不思議に思っていると、突然、簾が大きく揺れた。その下をくぐるように頭を屈めて人が出てきた。それは花柄のワンピースを着た小柄な老婆だった。雪のような美しい白髪を頭の後ろで結っている。老婆はゆったりとした動作で辺りを見渡すと、縁側に腰を下ろして、手に持ったタオルで額を拭った。
 椛は老婆の顔をのぞき込もうと、視点を動かしていった。その時、老婆は素早く首を動かした。椛と老婆の目が合った。老婆の大型犬のような目は大きく見開かれ、何かを観察しているのかその眼球は静止している。椛は自分の胸の内を暴かれているような、居心地の悪さを感じた。不意に、老婆の口が動いた。一言二言発した後、老婆の頬が釣り上がり、笑顔になった。
 椛は思わず能力を解いた。不吉なものを見てしまった気がした。長く千里眼を使っていたせいか、周囲はぼやけて見えて、熱っぽい倦怠感と吐き気を感じた。しばらくの間、高台の下に広がる緑を眺めていると、次第に落ち着いていった。椛は喉の渇きに気がつき、水筒で口を濡らした。中身はすっかりぬるくなっていた。両手を突き上げて伸びをしながら、去年挫折した読唇術の訓練を再開しようかと、ぼんやり思った。
 
     3
 
 この仕事を任される際、椛はどんな小さな発見も余さず報告をするように命令を受けていた。しかし椛にはその命令に、何か機械的な束縛が感じられ面白くない。
 ある時、報告する内容を自分で取捨選択することによって、その行為自体に自由を創り出すことを思いついた。侵入者がいても時々報告しない。真面目な椛にとって、これは大きな冒険だった。幾度か繰り返すうちに、椛は罪悪感に苦味以外の味を見出した。出世に興味の無かった彼女は、天狗社会における自由の象徴であろうと努めた。『私だけがあの場所のことを知っている。こういった秘密を沢山集めれば、私の自由がさらに広がるに違いない』
 しかしながら、この独白に登場する『自由』が彼女の大切にしている『実際の経験』と相反するものだということに、椛自身、気がついていなかった。この無意識の肉体の軽蔑が、彼女の千里眼の能力と決して無関係だとは言い切れまい。
 椛はその後も何度かあの黄色い花畑へ視線を飛ばした。しかし、あの老婆が出てくると、途端に不吉な気持ちに駆られて観察するのを止めてしまった。そして、若干の後悔に苛まれた。実際に足を運んでいないから、私は逃げてしまうのだ。こんな覗き見まがいな卑怯なことは止めて、今度の週末に誰か誘って直接行ってみようか。
 その日、椛は射命丸文に電話をかけた。
「もしもし?」
「文さん。面白い場所を見つけたんですよ。明日遊びに行きましょうよ」
 急な誘いだったが、文は二つ返事で了解した。
 
     4

「本当にこんな狭い道を通っていくんですか? 他にもっと快適な道があるでしょう」
「私の千里眼で周囲を見渡しましたが、この道が最短最良です」
「やっぱり飛んで行きませんか?」
「それをすると、他の天狗に見つかっちゃいます。さあ、行きましょ行きましょ」
 椛は四つん這いになり、土で膝頭が汚れるのを構わず、草木のトンネルを進んでいった。椛に急かされる形で、文も渋々それに続いた。どうして行き先を告げてくれなかったのか。白シャツにフリルの付いた黒スカートと、いつもの軽装でやって来た文は椛を恨んだ。眼前で左右に揺れる椛の尻尾が時々顔に掛かり、鬱陶しく感じた。
 文が汗が出たのをハンカチで拭こうと立ち止まると、それに気がつかないで椛は先に行ってしまう。汗は拭っても拭っても、直ぐにその下から滲み出た。殺人的な暑さと窮屈さで、文は叫びたくなった。一体どうして椛は涼しい顔をして進めるのだろう。それとも、私が音を上げるのを待っているのだろうか。自分が言い出した手前止そうと言えない、という愚かな心理戦になってはいないだろうか。
「椛さん。目的地までどのくらいかかります?」
「道を間違えなければ、早くつきますよ」
 文は椛の不明瞭な回答に不安を覚えた。苦痛を共有していない事実に彼女は不満を覚えた。彼女は目の前に垂れ下がる白い毛の束を闇雲に掴んで引っ張った。椛は短い悲鳴を上げた。
 強烈な日差しの下、二人は光を遮る頭上の木々に感謝しながら、芋虫のようにと進んでいく。文は近くに川がないか、涼しげな水音を求めて聞き耳を立てるが、頭上から降り注ぐ蝉の騒がしい声の他に何も聞こえてこない。文は生まれて初めて、明確に蝉に殺意を覚えた。蝉の声は一種の環境音であり、雑音にはなり得ないと思い込んでいたが、その幻想が崩壊した。蝉は有害である。駆除するべきである。
「椛さん。喉が渇きました。もう一歩も進めません」
「もう少し進めば、川がありますから、そこで休憩しましょうか」
 文がその言葉を呑み込む暇も無く、椛の歩調が早まった。道無き道に頭ごと突っ込んでいく。文は背中を見失うまいと、ほとんど半狂乱になりながら追いかけた。いつもは不気味に感じる日陰に佇む白い茸も、掌二つで蹴散らしながら進んでいった。
 雑木林を抜けると、でかでかとした苔むした岩石がいくつも並んでいた。椛がその一つによじ登り、文にも上るようにと促した。蝉の呪わしい声は今だに聞こえてくるが、それに混じって聞こえてくる正面の心地いい音色が、彼女の求めているものが直ぐ傍まで迫っている事を告げていた。期待に胸を膨らませながら、背伸びをして岩の窪みに手をかけた。登ってみてその下を覗いてみると、一面岩場が広がっており、その中央に一筋の清流が緩やかに揺れながら閃いている。
 文は凄まじい早さで川縁まで近づくと、履いてたものを投げ出して裸足になり、勢いよく水へ飛び込んだ。しぶきが上がり、履いてたスカートの裾が濡れそぼつ。彼女はそれを意に介す様子もなく、水を何度も蹴り上げ、周辺に転がる石に水を与えた。その内に彼女は、飛び散る水滴で人工的に虹を作ることを思いついた。
 尻尾が濡れるのが嫌な椛は、灼けた岩石の上で、文がはしゃいでいるのを半ば呆れながら眺めていた。出し抜けに強い風が椛の顔に当たった。文の赤い靴が転がるのを、椛は慌てて追いかけた。

     5

 川から目的地までは、それほど長くはかからなかった。距離的にもそうなのだが、川で養った気力的な要因が甚だ大きい。
 二人は眼前に広がる花畑に息を呑んだ。文は花畑が美しいのに驚いたのだが、椛はそれに加えて、千里眼で見たものと寸分違わない光景が広がっている事実そのものに対して驚いていた。自分の能力を少し過小評価していたと思った。
 文は足下に咲く花の一つを手折って、椛に渡した。
「椛さんって植物詳しかったですよね?」
「これは禅庭花。一般にはニッコウキスゲと呼ばれることが多いですね。朝方に開花して、夕方には萎んでしまいます」
 まだ尋ねてもないのに、図鑑めいた説明を始める椛を文は微笑ましく思った。思わず顔に出そうだったので、彼女は素早く話題を変えた。
「そういえば、あの家は何だってこんなとこに建てたんですかね? というか、どうやって建てたんですかね?」
「そこですよ! この花畑も目標の一つですが、あくまで前菜に過ぎません。あれが、今日のメインディッシュです。あの家の秘密を暴くために、私たちは苦労してやって来たんです」
 初めは見かけない花畑に気をとられて、別段何とも思わなかったが、確かに改めて見て妙だと思った。文は木々に取り囲まれた空の穴を見上げた。完全に外界と遮断されており、道と呼べる道もない。ならどうやって建てたのか。昔からあったものであり、木が避けるように伸びたのなら話は分かる。しかしどう見ても、目の前の家は、他の木々と比べて若々しかった。
「なるほど、確かにこれは面白いですね。因みに、誰か住んでます?」
「お婆ちゃんが一人」
「ますます奇妙ですね。ならば、早速取材に行きましょう」
「……文さん、記事にする気なんですか? いくら新聞が売れないからって止めましょうよ。絶対心ない人に荒らされますよ」
「分かってますよ。今言った『取材』はあくまで精神的な意味合いで使ったんです。記者というのは職業ではなく生き方ですからね」
「はあ」
 椛の生返事を尻目に文は意気揚々と先へと進んでいった。
 二人は家の正面に回った。椛はどうしたものかと迷っていると、文は何食わぬ顔で玄関の前に立ち、
「ごめんください、『文々。新聞』の射命丸文です。お聞きしたいことがあるのですが、お話よろしいでしょうか」と呼びかけた。
 この文の物怖じしない態度に椛は素直に感心した。そして、椛は先ほどの彼女の言葉を思い出した。新聞記者かくあるべし。文は自分の人生を『新聞記者』の一言で要約できるよう試みている。椛はこの観察を自分自身に向けてみて、軽い嫉妬を覚えた。
 例の老婆は直ぐに家から現れた。二人の顔を見比べて、困惑したような顔を浮かべた。
 文は丁寧に挨拶をすると、まず花畑の色を褒めて、家が綺麗なのを褒めて、老婆の白髪を褒めた。椛はやりすぎだと思った。老婆の警戒を解こうとしての事だろうが、何か魂胆があると思われて逆効果になる気がした。しかし椛の予想に反して、老婆は文の言葉をそのまま受け止めて嬉しそうにしていた。
 老婆は暑いだろうからと、二人に家の中に入るよう促した。文は嬉しそうに、肘で椛の脇腹を軽くつつくと、老婆に続いた。椛は千里眼越しに見た彼女が不気味なのを思い出して気を引き締めた。

      6

 新築という予想は正しかったようで、家の中から生活の匂いが全く感じられない。廊下には窓がなく、暗闇が満ちている。四、五歩歩いたところで老婆は立ち止まり、引き戸の取っ手を手探りで見つけ出して、ゆっくりと引いた。途端、太陽の光線が隙間から漏れ出し、椛は思わずその眩しさに顔をしかめた。細かい埃が宙に舞っている。椛は何となくそれを目でおって追っていると、柱に守矢神社の火除けの札が張ってあるのに気がついた。
「さあさ、こちらへ」
 と老婆が言った。二人は畳の縁に気をつけながら、敷居を跨いだ。
 老婆は部屋の隅に積まれていた座布団を引っ張り出して、二人に座るように勧めた。それから、お茶を用意すると言葉を残して、いそいそと部屋から出て行った。
 椛は文に話しかけようと横を向いたが、彼女はメモ帳に何かを書き付けている。鉛筆が細かく動く様を暫く眺めた後、椛は改めて部屋を見渡した。
 床の間がある。掛け軸は渓谷や山里の一部が描かれた山水画が描かれている。こうした画は実際の景色ではないことが多いが、椛は物見の経験からこれが妖怪の山を描いたものであると気がついた。障子がある。長押に虫ピンで紐が留められており、風鈴が暇そうにぶら下がっている。箪笥がある。その上には夜行塗料が使われた、文字盤の大きな置き時計がある。短い針は十二を指している。時計の存在に気がつくと、秒針の規則的な音が気になり始める。それに、文の動かす鉛筆の音が合流する。
 椛が退屈し始めると、襖が開き、湯飲みを載せた盆を持った老婆が入ってきた。老婆は盆を畳の上に置き、湯飲みを差し出した。二人は礼を言って受け取った。椛は文が口をつけるのを見計らって、茶を啜った。中身が思いのほか熱かったので、ひりつく舌を引っ込めて椛は顔をしかめた。
「それでお話って?」
 口を切ったのは老婆だった。
「はい、それなんですけどね……」
 と文は先ほど書いていたメモ帳を取り出して、乱暴に捲っていく。目的の箇所に行き着いたようで、文は頁を捲る手を止めて、胸ポケットから鉛筆を取り出した。椛は居住まいを正すと、手に持っていた湯飲みを盆に戻した。
 文がエヘンと咳払いをして話し始める。
「ご挨拶が遅れました。私、『文々。新聞』を書いております、射命丸文と申します。そしてこの白いのが、私の助手の犬走椛です」
「はい、助手の椛です」
 椛はそう言うと、老婆に見えないよう、文の横腹を指で突いた。
「文さんに、椛さんね。私の名前は夏子よ。新聞っていうことは、これから聞かれることが明日の朝刊に載るってことですかね? 実を言うとそれはちょっと困るのよ」
 老婆はそう言って、不安そうに両手を揉み合わせた。文はあわよくばという気持ちがあったらしく、残念そうな顔を一瞬だけ見せたが、直ぐに元の笑顔に戻った。
「いえいえ、安心してください。あくまで記者という仕事をしているというだけでして、今日は二人で山へ遊びに来たんです。そこで偶々、こちらのお宅を見かけたんです。それで、こんな山の中に珍しいって話になりまして、こうやってお邪魔させて貰った次第でして……、そうですよね、椛さん?」
「そうですそうです」と椛は闇雲に頷く。
「偶々ねえ……」
 椛は、老婆が小さくそう呟いたのを聞き逃さなかった。驚いて老婆の方を見ると、目が合った。椛は反射的に目をそらした。
 文は話を続ける。
「それにしても素晴らしいお家ですね。柱も立派ですし、最近建てられたんですよね?」
「そうね、まだ一ヶ月ぐらいね」と老婆。
「ははあ、できたてホヤホヤという訳ですね。私の家なんか、もう築六十年くらいでして、もう色々なところにガタが来ているんですよ」
 文は自宅の蔵の引き戸が外れた話や、夏に使おうと閉まっておいた花火が雨漏りで駄目になってしまった話などを、多少誇張して面白可笑しく話した。彼女のそうした努力で警戒心が薄れたのか、老婆も声を上げて笑った。文はそれで調子づき、自分の職業や子供時代のエピソードなど、話を広げていった。
 一方で椛は先ほどの老婆との一瞬のやり取りに今だ取り憑かれており、二人の話など微塵も聞いていなかった。椛は自身の千里眼の能力を老婆が看破しているということに殆ど確信を抱き、恐怖していた。小説を通じて他人の人生を観察していたら、突然登場人物が自分を発見して語りかけてくる、そんな種類の気味の悪さ。実は千里眼の能力には、何か自分の知らない痕跡のようなものが残るのだろうか。それとも創作の世界で生まれた筈の『視線を感じる』というあの怪しげな魔術は実在するのかもしれない。
 二人の調子が上がるのとは対照的に、椛は落ちる一方だった。注意しなければならないのは、ここで自分の心理状態を場の雰囲気に照らし合わせて、無理に陽気な発言をし、その歪めた言葉の響きを持って自分自身を騙し、場の雰囲気に馴染ませようなどと、大それたことを考えないことである。行為が精神に先んじるというのは基本的に正しいのだが、それが漢方薬めいた遅効性であることを忘れてはならない。
 しかし、だからといって椛の
「私もそう思います」
 という突然の打ち水を一体誰が責めることができるだろう。これを罪とするならば、隣に座る射命丸文も無意識の共犯者として挙げられなければならない筈である。なぜなら彼女は記者らしい観察眼で椛が会話に入っていない事を見抜いていたからだ。勿論、話を振るタイミングを彼女が見計らっていたのは事実だが、動機と犯行が結びつくのは調査過程のみである。また、会話においてもう一つ忘れてはならないことがある。それは滞りない会話を成立させる為にはある程度の予知能力が発揮されるという事である。こう話したら相手はこう返す。そしたら私はこう返す……、こうした暗黙の取り決めの累積が図らずともできてしまう。この金魚鉢に無造作に小石を放り込まれたのなら、中を泳ぐ魚の心境は想像に難くない。
 椛は場の数瞬の時間停止の原因が先ほど自分が発したものにあると分かると、途端に頬の熱くなるのを感じた。早く家に帰ってしまいたいと気持ちが働き、椛はそのまま言葉を矢継ぎ早に続ける。
「話は変わりますが、夏子さん、一体全体、この家はどうやって建てたんですか。貴方はどうやってここで生活しているんですか。ここから麓へ続く山道なんて見当たりませんし、ここで一人で生活できるとは到底思えないんです。それに私の能力にも気がついている様子でした。貴方は一体何者なんですか」
 言い切ってから、椛は途端に後悔した。全てを台無しにしてしまったと思った。文の顔をまともに見られなかった。だからと言って老婆の顔も窺えない。椛は湯飲みを手に取って、一気に煽った。まだ湯気が出る程には冷めていなかったので、熱い液体が喉を通り抜けて胃の中に落ちるのが、ありありと分かった。
 椛が空になった湯飲みの底を眺めていると、
「それが分からないのよ」
 と正面から声がした。椛が顔を上げると目に入ったのは老婆の心底困ったような顔。

     7

 聞くところによると、老婆は記憶喪失らしい。先月以降の記憶が無いそうで、気がついたらこの家にいたそうだ。文と椛は顔を見合わせた。椛は文の不思議そうな顔を見てほっとすると同時に、老婆が突拍子の無い発言をした事に内心感謝していた。
「ええと、じゃあご飯はどうしているんですか?」
 と先程の快活な調子とは打って変わり、恐る恐る文が尋ねた。
「どういう訳か、台所の棚に、食材が詰め込まれていたの。先程煎れたお茶もそこから」
 老婆はそう言って、湯飲みを指差した。
「お風呂は?」と今度は椛が尋ねる。
「井戸水を沸かして使っているのよ。外に井戸があるわ。ここに来る時見なかった?」
 二人はそれからも代わる代わる質問を続けたが、「覚えてない」や「どういう訳か……」などという謎が深まるような回答しか返ってこなかった。文の、もし良ければまで送りましょうかという申し出も、やっとここでの生活に慣れてきたから、とやんわりと断られてしまった。
 人と話をするのが嬉しいようで、老婆は二人の生活について根掘り葉掘りと尋ねた。椛は聞き手に回る事が多かったので、喜んで質問に答えた。話が一段落する頃は、日が傾き始めていた。
 文と椛は玄関で老婆に見送られながら外に出た。広がっていた黄色の花畑は燃えるような夕焼けをそのまま写していた。二人は何となく戻る気にならなかったので、黙って目の前の光景を眺めていた。時折吹く風が草花を次々と揺らして波を作った。
 二人は花の日だまりを踏まないよう注意しながらその周りを歩いた。半周ほど歩いたところに、老婆が言っていた井戸を見つけた。井戸の上にはいくつもの竹を紐で縛って作られた蓋がある。その竹の束は青々しい。
 一周して玄関の前に戻ると、文が口を開いた。
「お婆さんの話どう思います?」
「気がついたら記憶喪失になってて、この家に居たって話ですか? 記憶喪失にしては、キチンと生活できているみたいですし、ちょっと嘘っぽいって思ってしまったんですが、話をしている内に本当のような気がしてきました。でもそうなると、余りに気の毒ですよね」
 文はそれを聞くと、成る程成る程と呟いて黙ってしまった。そのまま口を開こうとしないので、椛は
「文さんはどう思います?」と催促した。
 文は声をかけられるのを想像していなかったのか、ちょっと驚いた様な顔をすると、
「そうですね、実はちょっと気になることが……」
 と珍しく口籠もってしまう。
「気になることですか?」
「ええ、そうです。実をいうと、帰りがけにお台所に少し立ち入らせて貰ったんですよ。お婆さんには黙って。悪いと思いましたが、ジャーナリズムはインタビューだけでは成立しませんから仕方ありません。それでですね、戸棚を開けてみたんですが……」
「ははあ、中身が空っぽだったという訳ですね」
 と椛が代わりに言葉を続けた。
「そういう事です」
「しかし、文さん。どこか別のところに食材を移したとも考えられるじゃないですか」
「ええ、そうなんですよ。私だってむやみやたらに人を疑うのは本懐じゃありません。何より、あのお婆さんいい人そうですし」
 椛は文の『いい人そう』という言葉にある種の偽善を感じたが、口には出さなかった。何故そんな感情を抱いたのか、考えを巡らせると、ジャーナリズムの対義語は善悪だと考えている自分に行き着いた。椛は少し嫌な気分になった。
「そうですね。まあ、考えて答えの出る話ではありませんし、今日のところは帰りましょうか、文さん……」

     8

 それから毎日、椛はあの老婆の家を千里眼で観察した。何とかして、老婆の生活を覗き見ようと苦心した。運良く障子が開いていれば、そこから家の中を観察できるのだが、その紙製の壁が取り払われる機会は中々やって来なかった。
 辛抱強く一週間程観察を続けていると、老婆の家へ出入りする文の姿を見かけるようになった。ある時には、文は家の周りを空き巣のように歩き回って無遠慮に眺めていた。又ある時には、文は花畑から家を眺め、熱心にノートにその外観をスケッチしていた。
 椛が我慢ならなかったのは、その後の文の行動である。文は老婆の家に入る際、毎回キョロキョロと辺りを見渡すような素振りをして、明後日の方向に両手で大きく手を振るのである。千里眼を使って覗いているという負い目があるせいか、椛は文のこの行動を、自分に対する挑戦状だと受け取った。
『生半可な覗き見じゃ、この老婆の秘密は探れませんよ。調査の基本は目ではなく足ですよ、椛さん』
 そんな文の声が聞こえてくるようだった。椛は文のこうした行動全てに醜悪なジャーナリズムの精神を嗅ぎ取った。いや、正確には椛が不快だと感じたものを、文から掬いだし、ジャーナリズムという無色透明な箱に移しただけかもしれない。ともあれ、この精神を否定するために、自分は目による調査のみで老婆の秘密を暴かなければならないと意気込んだ。
 文には無い椛のアドバンテージはその観察の気軽さである。翌日、椛は二十四時間の監視を決行した。始めのほうは、何とか老婆の秘密を見つけ出してやろうという気で頑張っていたのだが、十二時間経った頃には、二十四時間監視をやり通すことに目的が挿げ替わってしまった。
 深夜、明らかに老婆が寝静まっているのにも関わらず、椛は無為に暗闇を凝視し続けた。病的な程の激しい睡魔の波が、彼女を一晩中襲い続けたが、彼女は倒錯した強迫観念を餌にそれに見事に耐え続けて見せた。彼女には物見の天賦の才があったのは間違いないだろう。
 結果として、椛は大した収穫も得られず、その後ちょっとした不眠症に悩まされた。

     9

 こうした成り行きで、『犬走椛』対『射命丸文』の構図が出来上がったのだが、この勝負は両者とも特に進展を見せず、僅か一ヶ月で唐突に終わりを迎える事になる。
 ある日の事である。椛は殆ど機械的な調子で、高台に登ると、能力の千里眼を使用して老婆の家の観察を試みた。この頃の椛には、老婆の秘密を暴こうという情熱は殆どなく、朝と夕に様子を様子を見るだけに留まっていた。
 枯れてしまったニッコウキスゲの花畑が目に入る。そのまま視線をずらして、件の家に目を移す……、しかしながらそこに広がっていたのは、単なる野原と木々であり、あの老婆が住んでいた平屋はどこにもなかった。
 椛は一瞬自分の頭がおかしくなったのだと思った。そして冷静になると、観察する場所を間違えたのだと思った。能力を解くと、目の前に広がるのは見慣れた風景。椛は今一度千里眼の能力を発動する。花畑、野原、場所は間違いない筈である。何となく家の方を見る気にはならなかったので、椛はそこがいつもの花畑である証拠を猶も集め始めた。
 見慣れた花弁、見慣れた木々、見慣れた枝の形……、一つとして同じ生え方をするものなど自然界には存在しない。椛は大いなる確信をもって老婆の家の方へ目やった。しかし相も変わらずそこには何も存在しない。家の残骸はおろか、そこに家があった痕跡ごと根こそぎ消滅していた。
 気がついたら悲鳴を上げていた。椛は再び能力を解くと梯子から滑るように降りて、椛は近くにある白狼天狗の詰め所へ飛び込んだ。
 ノックもせず、突然入って来た椛の姿を見て、詰め所の天狗達は何かとんでもない問題が発生したと思った。近頃平和が続いていたので、天狗達は顔には出さなくとも、この緊急事態を喜んで迎えた。
 その中でも最も年寄りの天狗が、息を切らせている椛に声をかけた。彼女の頭にはこれから起こるであろう戦争の構図がはっきりと浮かび上がっていた。例に漏れずこの大天狗も、例の退廃的な砂糖菓子を楽しみにしている好事家の一人だった。
「犬走椛ですね、西の監視を任されている。別に慌てる必要はありません。貴方の仕事は見た者を正確に伝える事、只それだけなのですから。分かりやすく伝えようなどと、考えないでください。考えるのは私達の仕事です。さあて、一体どうしたんです。月から侵略者でも来ましたか? とりあえず、まずは深呼吸してください」
 椛は言われた通り深呼吸をして
「上司と内密に話をしなければなりません。電話を貸してください」
 とだけ言った。
 この年寄りはそれを聞いて、本当にただ事ではないと、飛び上がりそうなほど喜んだ。喜々として詰め所の天狗を外へ追い出すと、手をヒラヒラと振ってどうぞどうぞ、と椛を一台しかない受話器の前に立たせた。椛は三度ほどダイヤルの操作を失敗して、漸く文へ電話をかけた。 

     10

 椛からの突然の電話に、文はあの老婆に何かあったのだと直ぐに感づいた。大方、他の白狼天狗があの老婆の家を見つけたのだと思った。
 文は年長者の威厳を保とうと、慌てる椛に対して落ち着いて話すように言った。しかし、椛の話は何度聞き直しても、どうにも要領を得ない。
「どうしたんです、椛さん。しっかりしてください。恐らくですけど、私は貴方が言わんとしていることが起きるのを、前々から予想してたんですよ。ですから、安心して、できるだけ簡潔にお願いします」
「だから何度も言ってるんじゃないですか! 消えちゃったんですよ! あのお婆ちゃんの家が。煙のように、跡形もなく。いつものように、私は千里眼を使って、あの家を観察しようとしたんです。ですがどこにも見つからないんです!」
「動物か何かじゃないんですから、家が独りでにどこかへ消えるなんてあり得ないじゃないですか。まあ……、そこまで言うなら分かりました。なら、直接行ってみようじゃありませんか。それではっきりする筈です。今から、そっちへ向かうんで、待っててください」
 文は受話器を置くと、ポールハンガーに掛けてあるハンチングと外套を手に取って家の外へ大急ぎで飛び出した。椛の元へ向かう最中、文はいつも愛用している手帳を机の上に忘れてきたのを思い出した。 
 文は椛と高台で合流し、その足で老婆の家へと空を飛んで向かった。文は上空から目的の場所を見下ろして驚いた。椛の言ったとおり、そこには何も無かったのである。文は自分が見たのを信じられなかったので、今度は地上から老婆の家に向かおうと提案した。椛は徒労に終わると反対したが、結局に渋々その提案に従った。案の定、老婆の家は見つからなかった。昨日まで家が建っていた所には、初めから何も無かったかのように、雑草が膝の高さまで生い茂っているのみだった。
 二人は狐に抓まれたような気になった。頻繁に直接老婆に合っていた文の方がショックが大きかったようで、椛に着ていた外套を押しつけると、四つん這いになり、闇雲にその辺の草花を引き抜いては投げ捨てていた。まるで、家があった痕跡を無理に作ろうとするような。椛は気の毒そうにその様子を眺めていた。
 二人はその日、暗くなるまで妖怪の山を飛び回り、消えた老婆の家を探し続けた。次の日も、その次の日も老婆の家を探し続けた。
 椛はこの現状に耐えかねて、誰かに相談するべきだと言った。
「相談するとして、一体誰が信じてくれますかね? 私たちがあのお婆ちゃんと話していた証拠なんて、今じゃどこにもありませんよ」
 文はそう言うと、自嘲気味に笑った。
 
     11

 それから三ヶ月経った。この頃、椛は物見の最中に人里の方を観察するようになった。いくら探しても、消えた老婆の姿が見つからなかったので、今度は人口の多い所に目をつけた訳である。しかし、元々期待せず探し始めたので、月日と共に次第に老婆の探索に割く時間は短くなってしまった。始めの頃は年寄りの女を見かけるだけで心臓が跳ねたが、今ではそんな事も無くなってしまった。
 その日も椛は里で一番人通りの多い、商店街を千里眼でぼんやり眺めていた。
 初冬だったがその日はかなり肌寒く、中々物見に集中できない。椛は一旦能力を解除すると、近くの詰め所に毛布を借りに行った。
 受け取り際に、椛は天狗の一人に声を掛けられた。
「椛さん。何か変わったことはありませんか?」
「いえ、別に」
 椛がそう言うと、その天狗は酷く残念そうな顔をした。椛は首を傾げながら、詰め所の扉を開けて外に出た。そういえば、最近天狗によく話しかけられるようになったと、椛は思った。ひょっとしたら仕事に身が入っていないのがバレているのかもしれない。もう老婆探しはスッパリと止めて真面目に仕事をするべきかもしれない、と思った。
 高台に登り、受け取った焦げ茶色の毛布に包まると、椛は寛いだような気になった。椛は千里眼の能力を発動して再び商店街を眺めた。
 暫く行き交う人を観察していると、ふと、魚屋の前で老婆が、店頭に出されたワカサギを見つめているのが目に入った。白髪の綺麗な老婆だった。椛は自分の足が僅かに震えているのを感じた。椛は食い入るようにその老婆を見つめ続けた。余りに真剣だったせいか、知らず知らずの内に、口の中に唾液が溜まっていることに気がついた。椛は音を立てないよう用心して飲み込んで、椛は観察を続ける。老婆は魚屋に向かって何かを話ていた。がま口からお金を出して、店の主人に硬貨を何枚か渡す。そしてとうとう振り向いた。紛れもない、消えた筈のあの老婆だった。
 椛は文に報告したい衝動を押さえながら、猶も老婆の後を追い続けた。老婆はそれから八百屋へ向かい、肉屋へ向かい、買った物を籠に詰め込んで商店街を後にした。それなりに重い荷物筈なのに老婆の足取りは軽かった。老人とは思えない早さで、ぐんぐんと進んでいく。椛は見失うまいと、必死で目で追い続ける。
 三十分ほど歩くと老婆はある家の前で立ち止まった。そこは里の外れであり人通りは殆ど無かった。そして、椛はその家に見覚えがあった。それはあの夏の山で見た、あの不可思議な新築そのものだった。
 椛は能力を解くと、着ていた毛布を放りだして、転げるように高台を降りた。そして詰め所へ向かうと、勢いよく扉を開けた。
 白狼天狗の視線が一斉に自分に注がれているのを、椛は感じた。しかしそれに怯まず、気がついたら椛は叫んでいた。
「すみません! 電話貸してください! 緊急事態です!」
 
     12
 
 椛は文に、老婆を見つけたことを経緯から事細かに説明した。文の矢継ぎ早に飛び出す滝のような質問の勢いに、椛は嬉しくなった。二人はあの夏が幻で無かったと、口々に喜び合った。もしこれが電話越しでなかったならお互いに肩を叩き合っただろう。
 椛は早速老婆に合いに行こうと提案した。しかし椛の予想とは裏腹に、文はこの提案に難色を示した。
「その合いに行くって提案ですが、私は賛成できませんね」
「ど、どうしてですか」
 椛のこの疑問に、文は言葉選びながら続ける。
「何と言いますか、あのお婆ちゃんと家が消えた理由って、私達が正体を探ったからだと思うんですよ。根拠はありませんけど。だから、ここはそっとしておくのがいいじゃ無いかって思うんですよ」
 一理ある意見だったが、同時に椛は文らしくない意見だと思った。しかし、だからといって、そんな漠然とした理由で文に強制させるのもおかしな話だったので、椛は何となく落ち着かない気分で
「分かりました。じゃあ私だけで調査しちゃいますね」
 とだけ言って受話器を置いた。椛は急速に先程膨れ上がった幸福が萎んでいくのを感じ取った。
 詰め所から出てきた椛の顔をのぞき込んで、大天狗は、これから起こる筈だった月の民との大戦争の目がすっかり潰えてしまった事を悟った。あからさまに落ち込んでいる椛の背中を、大天狗は力任せに掌で叩いた。

     13

 翌日、椛は、例の老婆の観察を始めた。一晩あれこれと考えたが、発見した老婆の家に直接向かうことは、どうしても文への裏切りのような気がしたので、結局行くことができなかった。だからといって、放置しておくのも、何か違うような気がするので、自分が納得できるまで観察を続けようと思った。
 老婆の家を眺めてても、大して面白くなかった。何か重大な秘密を発見しようという熱意は椛には残っていなかった。消えたと思った老婆が生きていて生活をしているんだ。きっと記憶を取り戻せたのだろう。それでいいじゃないか。退屈を感じた際は、知らぬ間にそう自分に言い聞かせる事が多くなっていった。次第に観察する時間も減っていき、夜に明かりのついているのを確認するだけになってしまった。仕事終わり、老婆の家から漏れ出す光を見て、安心感を受け取りそれを寝床まで持ち帰る……、そうした生活が暫く続いた。
 三ヶ月経った。その日も、椛は自身から湧き出る麻薬めいた心地よい疲労を抱えながら、日課の作業を行おうと、あの老婆の家を眺める事にした。ぽつぽつと浮かぶ提灯の灯りで照らされた商店街から離れて、南へと視線を飛ばす、人通りが少ないのに比例して、夜の闇が深まっていく。そして橋を渡った先にある孤独な……、しかし、いつもはこの時間までは見えるはずの、家から漏れ出す暖かな光、どういう訳か今日はそれがなかった。
 椛は慌てて、家の無事を確認した。家が老婆と共に溶けて無くなってしまったような気がしたからである。暗闇に目が慣れてくると、確かにそこには家があった。椛は取りあえず胸を撫で下ろした。その後一体どうしたのだろう、と不安になった。千里眼を使用して、初めての異変だった。単に今日は早く寝てしまったのだろう、と決めつけることもできたが、老婆の観察を続けてきた椛には、それがどうしても不自然な考えに思えた。
 ひとまず千里眼を解除する。冬の冷たい風が、椛の白い髪を催促するように揺らす。椛はそこからじっと、足下に広がる暗闇を覗き込んだと思うと、意を決したようにそこから飛び降りた。
 重力の存在を確かめるように、彼女は落ちるがままに身体を任せた。木々に飛び込む寸前で、椛は全身に力を入れてふわりと浮かび上がると、夜の人里めがけて一直線に飛んでいった。

     14
 
 老婆の家の前に着く頃には、椛の身体はくたくたに疲れていた。最初の方に急いで飛んだせいで、後半は高度を維持して飛ぶのが精一杯だった。
 目の前に家は確かに存在する。千里眼では無く実際の目で確認している。
 椛はひとまず、疲れた身体を休めようと、傍に転がっていた岩によじ登り、その上で胡座をかいた。ひとまず来たのはいいが、これから一体どうしようか。お婆さんには悪いけれど、それでもやはり、無事を確認するべきだろうか。考え事をしていると、身体の疲れが多少とれて来た。椛は老婆の家に向かおうと、岩の上から降りようとした。
 その時だった。椛は自身の身体に何かの異常が発生していることに気がついた。自分の足が全く動かせないのである。それどころか、手も、首も、声もだせない。まるで乗っている岩と同化してしまったような。
 椛はやがて、こうした異常が自身の身体のみに留まらないことに気がついた。音が全く無いのである。いくら夜が静かだからといって、こんな事が起きるだろうか。先程から吹いていたいつの間にか止んでいた。
 椛の心は次第に恐怖で塗り潰されていった。不安を少しでも減らすために叫びたい、走り回りたい衝動に駆られたが、身体は自由を奪われているのでそうすることもできない。一体これ以上の苦痛があるだろうか。
 どれくらい時間が立っただろう。すっかり沈黙に馴れてしまった椛の耳が、何やら規則的音を捉える。それは何か金属を叩いているような音で、そういった楽器のように聞こえた。その音はどんどん近づいてくる。椛は音の正体を確かめようと、その方へ首を動かそうとしたが、やはりどうしても動かない。そうだ、と思って千里眼の能力を試してみるが、その試みも徒労に終わった。
 カン、カン、カン、と次第に音が明瞭になっていく。椛は目の端で、何か青い光のようなものを捉えた。それはゆっくりと動いているようで、次第にその姿を椛の前に晒してく。月明かりによっていち早く見える位置に来た影を確認して、椛は息を飲んだ。それは夜空に浮かぶ青白い人魂だった。
 人魂は椛の前を横切っていく、一つ、二つ、三つ……そして三つの人魂の後ろに付いて歩いているのは、家に居る筈のあの老婆だった。
 老婆は黒い喪服に身を包み、片方に柄杓、もう片方に箸を一本持っていた。老婆は柄杓の底を箸の先で叩き続けている。辺りには神経質な音が鳴り続けている。その一向の向かう先には椛が目指した老婆の家がある。
 その時、家の引き戸が独りでに開いた。中から何か動く気配。椛は鳥肌が立つのを感じた。玄関から顔を出したのは、又してもあの老婆であったのだ。全く同じ顔を持つ二人の老婆、どちらの顔にも生気が感じられず、濁った両目でお互いの足下を見つめている。
 椛が呆気に取られていると、先頭の人魂が一つ、老婆の家に近づき、障子に向かって身を擦り上げた。隙間無く張られた紙には簡単に火が付いた。見慣れた赤ではない、気味の悪い透き通るような青い炎、それが信じられない速度で広がり、瞬く間に建物全体を包み込む。
 その不吉な火の餌食になったのは、老婆の家だけでは無かった。戸から出てきた老婆にもその火が燃え移り、家と共にその巨大に育ったその炎に飲み込まれた。
 椛と喪服の老婆は、夜の闇を背景に狂ったように踊る、その青い光を眺めていた。ふと椛は、家が焼けているにも関わらず、煙はおろか、音や臭いが何も感じられないのに気がついた。
 火が家を焼き尽くすには、殆ど時間がかからなかった。それこそ、一分にも満たなかったように思われる。目の前にあった筈の巨大な影の消失の様は、少なからず椛に寂寞の感を与えたが、それと同時に現実感の無さの中に居たので、単にそれが引き延ばされただけであるようにも思われた。
 当然のように、灰一つそこには無い。元から空き地だと言わんばかりに、家と老婆の一人の痕跡は完全に失われていた。残された老婆が思い出したように、再び手に持った箸を柄杓の底に打ち付け始めた。拙い金属の音がその場に横たわっていた静寂を遠ざけた。その音に釣られるように、老婆の前を行儀良く並んでいた人魂は元来た道を戻り始めた。一つ、二つ、三つ……、そしてその後ろに老婆が続いた。忙しない音を携えてこの行列は椛の視界から外れていった。それに伴い規則的な音も遠ざかっていった。
 音が完全に止んだ頃、椛はいつの間にか自分の身体が自由になっていることに気がついた。同じ姿勢で固まっていたので、身体には気だるさがつきまとった。椛はこれを振り払う為に椛は両手を上げて大きく伸びをした。
 月には雲がかかっている。先程の奇妙な体験のせいか、青白いものは何でも燃えているように見えた。春月は炎に焼かれていた。
 椛はあの行列が去って行った方向をじっと見据えた。ずっと目をこらすと山の麓付近で青い火が動いているのが見えた。
 ふと、風が椛の白い髪を揺らした。そのまま暖かい春風は、一列の冷たい光を優しく吹き消していまった。
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.200簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
雄大で美しい自然の描写と、そこにある不可解な現象、それを好奇心に駆られて覗き見る椛の焦燥やら罪悪感まで伝わってきました。仕事が単調で退屈だからこそ非日常に焦がれてしまうし、それを見つけたのなら最後まで突き止めたくなる、とても良かったです。
3.100夏後冬前削除
メチャクチャ面白かったです。文章から夏の息吹を感じるようでした。
5.100南条削除
面白かったです
世にも不思議なお話でした
困惑して錯乱する椛とワクワクが止められない同僚たちがいい味出していたと思います
とてもよかったです
7.100名前が無い程度の能力削除
最後、椛が独りぼっちで結末を見てしまうその寂しさが美しかったです。
8.100東ノ目削除
慢心した椛に、幻想郷が突き付けた挑戦状、ともこの怪異は解釈しうるのかな、と思いました。面白かったです