それはとても蒸し暑い日だった。
ジーワジーワと蝉達の鳴き声が聞こえて来る魔法の森の一角。庭先で読書をするアリスにとって、その蒸し暑さは不快極まりないまのだった。
絹艶のような白くきめ細やかな人形のような柔肌に汗がたらりと垂れる。体内から放出される汗は、彼女の薄手のめかしこんだ洋服もじっとりと濡らしていく。
「……最悪ね」
彼女が何故、わざわざ野外で読書をしているのかと言うと、その原因はその魔導書の仕組みにあった。
端的に言ってしまえば、日光の下でしか文字が浮かび上がらない代物だったのだ。
本来、魔導書を読むのだけが目的であれば、彼女は涼しい空調の効いた屋内で読書を行う。それが通用しないのが今回の研究対象であり、それが彼女の不快指数をぐんぐんと上げていった。
アリスは首元を掻く。
美しい白い肌に、赤い点がいくつか。
虫刺されである。
野外行動の常、それも森の中に居を構えている彼女にとって、虫刺されは切っても切り離せない。本来ならば、こんな事はないはずなのだが、しかし今研究している魔導書の仕組み上、否が応でも虫刺されは発生するのだった。
アリスが一つ溜息を吐き、すっかりぬるくなったアイスティーを一口飲む。
「そろそろ来る頃かしら」
そう彼女が呟くと同時に、箒に乗った黒装束の魔女がやって来る。アリスの予想通りと言ったところか。
「よう、アリス。今日も暑いな。涼みにきたぜ」
黒装束の魔女、霧雨魔理沙は汗だくになりながら、箒から降りる。
「本当に涼みに来ただけ? 寂しい事を言ってくれるものね」
「おいおい、そう拗ねるなよ。お前の顔だって見たかったんだ」
アリスはパタンと魔導書を閉じて、トレーに乗せたティーセット一式を持って、魔理沙と一緒に家の中へと入っていく。
アリスがシンクにティーセット一式を片付けると、ソファーベッドに座り込む。魔理沙は魔女のトレードマークとも言える三角帽子を脱いで、同じようにソファーベッドに座った。
魔理沙が座り込んだのは、アリスの隣。
「しかしこんなに暑いと参るな。お前の家は空調が効いていて助かるぜ」
「貴女の家には空調も無いの? 魔法でいくらでもどうとでもなるでしょうに」
「そうすると、こうしてアリスの家に転がり込む口実が一つ減っちまうからな」
そう言って魔理沙はにかっと笑う。それを見たアリスは、呆れた人ね、と少しだけ嬉しそうに呟いて、そのまま顔を背けてしまった。
アリスにとって、魔理沙が家に転がり込んでくるのはそう珍しいことでもない。一週間のうち、半分以上は家の中で一緒に過ごすし、なんなら睡眠も共にする。朝になると家の仕事があるから、と帰って行ってしまう魔理沙だが、一日置けばまた転がり込んで来て、再び寝食を共にする。
言ってしまえば、半同棲状態なのだ。お互い、あえて口には出さないが、お互いの事を好意的に思い合っているし、恋人として付き合っている事は、言わば二人の中での公然の秘密だった。
だから、隣り合って座った二人は、空調の効いた涼しい部屋で、どちらともなく手を取り合う。よそよそしく、あるいはわざとらしく、遠慮し合うように指を乗せ合い、最終的には指を絡め合って手を繋ぐ。
そうなれば、次にする事は決まっている。二人の中だけのルーティンワーク。絡め合った指先の熱を帯びた感触を感じながら、そっと、アリスが魔理沙の頬に触れる。
「ねえ」
「ああ」
二人は言葉少なに、視線を合わせ合う。
それが合図。
アリスは静かに瞼を閉じると、唇を尖らせ、それを待つ。
魔理沙はやれやれと言った感じで、しかして満更でもなく、そのアリスのピンク色の薄い唇へと自分の唇を重ね合わせる。
ちゅむ、と唇同士の触れ合う軽い水音。
静かにキスをする二人。部屋には空調の魔法音だけが木霊する。
何度も食むように、お互いがお互いの唇を求め合う。ちゅぱ、ちゅむ、と水音がやけに耳に響く。
しばらくして、二人が唇を離すと、お互いに何事も無かったかのように顔を背け合う。まるで仲なんてそんなに良くありませんよ、みたいな澄ました顔をしている。あんなに情熱的に唇を食み合っていたというのに。
こうした奇妙な関係性に二人が身を置いているのには、少し訳がある。浅い訳ではあるのだが。
それはアリスが何気なく口にしたとある言葉だった。
「そう言えば恋って、好きになった方が負けってよく言うわよね。あれって何故かしら」
その言葉がきっかけとなり、お互いがお互いを想い合っているのを口にするのは、二人とも避けるようになっていった。少なくとも日常生活において、ここまでお互いに想い合う二人が甘い言葉を交わす事はない。もちろん例外はある。ベットの上で互いを愛し合っている時は、その限りではない。誰も聞いていない二人だけの夜伽においては、好きだの愛してるだの、ありきたりな甘い言葉を解禁している。
しかし、それだけ二人が愛し合っていたとしても、次の朝になれば、またお互い素っ気ない振りをして、まるで私たちは付き合っていませんよ、別にこいつに惚れてなんていませんよ、みたいな顔をして時間を過ごす。
つまるところ、二人とも負けず嫌いなのだ。貴女の事を愛してるなんて、弱味を見せたいと思う相手同士ではないというのもあった。
その癖、相手の事を何より大切に想っているのも事実だ。それらは全て行動に出ている。魔理沙は暑い中、汗をかきながらも箒に乗ってアリスの家にやってくるし、アリスもまた、魔理沙が来れば魔導書の研究を止めて、魔理沙と一緒に時間を過ごす事を選ぶのだから。
お互いに早く夜が来ないかと考えるような、奇妙で素直じゃない関係性は、もう長い事続いている。正直なところ、お互いにもうそろそろ付き合っている事を認めても良いんじゃないかと思っているところもある。しかし、一度始めてしまったものは後にも引けない。二人とも、そういう性質なのだ。素直になれない魔女が二人。そうやって、今日も甘い言葉を交わす事なく、その癖キスだけはやたらと積極的に交わす。
「ねえ、魔理沙」
アリスが口を開く。愛する魔理沙が遊びに来てくれてウキウキの内心を隠すように、出来る限り素っ気ない声で。
「ん?」
「私たち、そろそろいいんじゃないかしら」
「そろそろって?」
魔理沙がニヤニヤと笑む。分かっているのだ。アリスが何を言わんとしているかは。
「……そうね、そろそろ蚊取り線香の取り替えをしておいた方が良いんじゃないかと思って」
「あ、そうだな。私がやっておくよ。アリスは茶でも用意しててくれ」
「あ、えーっと、あ、あ」
愛してる。
たったそれだけの事すら言えない不器用な口は、ぱくぱくと開いたり閉じたり。
「アイスティーでも用意するわね」
こうやって結局日和ってしまう。ベッドの上では、あんなに素直に伝えられるのに。自分が恋愛下手なのか、と考え込む時もあったが、そうではない。単純に、魔法使いというのは、現状を打開するのが苦手な種族なのだ。そもそも停滞と研鑽を好む種族こそが魔法使いなのだから、こんな状況に陥ってしまった事自体がある意味では間違いだったのかもしれない。
「あれ、アリス、首元」
と、魔理沙が立ち上がったアリスの首元を見て、虫刺されの存在に気付く。
「ああ、これね。外で読書してたら虫に食われちゃって」
アリスはそのままキッチンでお茶を淹れる準備を始める。
「野外活動は向いてないわね。不快になるだけだもの」
「そうか? フィールドワークはフィールドワークで、なかなか楽しいぜ」
魔理沙もそう言って、蚊取り線香の取り替えに向かう。背中合わせの二人。やがてカチャカチャと二人とも作業を終えて、アリスはアイスティーを二人分持って、魔理沙は蚊取り線香の取り替えを終えてソファーベッドへと戻ってくる。
「なあ、アリス」
「なあに?」
二人はアイスティーを啜りながら、お互いに手を取り合う。その姿は、誰がどう見ても恋人そのものだ。
「その、す、す……」
「どうしたの?」
アリスは何か言い淀む魔理沙を見て、ニヤニヤと笑む。分かっている。魔理沙が自分の事を好いている事は。だから、本来は聞くまでもない言葉なのだ。だけれど、お互いにそれを待っている。
「すき焼きをするのには流石に暑いか」
「そうね、まだ季節ではないでしょ」
アリスはそう言って魔理沙の咄嗟の言葉を軽く流す。本当は言いたい事も、全て伝わっているのだから、今更話題の突然な転換にも不思議がる事も無い。
ふと、魔理沙がアリスの首元を触る。
「どうしたの。くすぐったいわ」
アリスの赤く腫れ上がった虫刺されを、魔理沙は指でなぞる。
「もう、やめて。痒くなってきちゃうでしょ」
そう言って魔理沙の手を振り払うと、アリスは自分の首をぽりぽりと掻く。その隙を見て、魔理沙は虫刺されがある方とは反対側の首元に噛み付いた。
「んっ……」
アリスがその刺激に艶かしい声を上げる。普段ベッドで上げるような、艶っぽい色めいた声音。
魔理沙がしばらく首元に齧り付いて、アリスの首元を吸い上げると、そこには真っ赤な『虫刺され』が一つ。
「なあ、アリス。少し疲れたから横にならないか?」
魔理沙は顔を真っ赤にさせながら、それでも素っ気ない風にそう告げる。それは閨事の始まりの合図。我慢できないから、と言った雰囲気だ。
「……そうね。私も少し疲れたわ。ベッドに行きましょうか」
アリスもまた、情欲に溶けた顔をしながら、しかして素っ気ない風を装って、二人はベッドへと向かっていく。
普通でいられない時間だけが、二人の間に愛の言葉を許してくれる。
これから気が狂っている体で散々言えなかった言葉を交わし合う二人の魔女が、本当の意味で素直になれるまでには、まだもう少しかかりそうだった。
冒頭のアリスの白肌に関する表現「絹艶のような」だったり、もどかしく素直ないじらしさを表した「お互いに早く夜が来ないかと考えるような」と、とにかく美しい語彙に脱帽…こんな、表現が、使えるようになりてぇ…
ありがとうございました!
二律背反に苦しみながらも現状維持を受け入れてるの大変良いですねかわいいたすかる
このまま十年ぐらいなあなあでいちゃいちゃし続けてほしいですね
良かったです
ひたすらイチャついていて素晴らしかったです
「ねえ」「ああ」じゃないんだよ