見慣れぬ妖怪を捕らえた、との報を聞き現場に駆けつけた龍は仰天した。
その妖怪は、三上山の大百足。近江から遠く離れた信濃にも悪名は伝わっていた。それも、人を襲うなどという生易しいものではなく、醜悪な百足という外見と竜をも喰らうという凶暴性から、人間は寄り付くことすらできず、究極の障害となっていたという話である。
それが、哨戒天狗数人の手に落ちている。それだけ弱っているのだろう。辛うじて人型を保つ妖力は残っているのか、百足のはずの彼女からは人間のような血が流れていた。特に深いのは眉間の矢傷で、全身には細かい擦り傷。足元に目を移すと、足裏が擦り切れているらしく、そこからも出血していた。
矢で射たれて逃亡し、必死の思いで近江から美濃の山脈を走り抜いてここまで到達した。龍は百足についた傷の具合から即座にそこまで推理した。ただそうなると、他の傷には塞がっているものもあるのに、時系列上一番古いはずの眉間の矢傷が全く塞がっていないことが疑問だ。
「ははは。この俺がまさか天狗に捕まるとはな。殺してはくれないか。息をするのすら苦しいんだ」
百足がかすれた声を発した。改めて彼女の顔色や雰囲気を観察すると、外傷こそ酷いがそれで弱っている訳では無さそうである。どうも全身に毒が――いや、大妖にとっての毒なのだから薬というべきか?――が流れているからのようだ。息をするのも苦しいというのもそういうことなのだろう。そして、その薬は矢についていたのだとすれば、矢傷が塞がっていないことにも合点がいく。
哨戒天狗二人の手で中腰に体を押さえつけられた百足少女を見つめながら、龍の心の内には複雑な感情が巻き起こっていた。軛
から解き放たれた人間が妖怪に下す所業を目にしての恐れか、憔悴する妖怪により刺激された加虐心か。正確な言語化は不可能だが、混ざりあった感情のどれもが、こいつは生かしておくべきであると告げていた。
「貴様に対する生殺与奪の権利はこちらにある」
視界の下の方にいる哀れなる妖怪にはそう一言だけ吐き捨てて、哨戒天狗の方へと顔を上げた。
「任務ご苦労様でした。こいつは私室で治療します。私も同行するので、そこまで移送するように」
†
「怪我の調子はどう?」
龍は百足――百々世という名前らしい――に話しかけた。あれから数日経ち、傷は全部塞がった。瀉血
に投薬、加持祈祷、どれが功を奏したのかは分からないが、彼女を蝕んでいた薬も粗方抜けたようだ。
「おかげさまで、と言いたいところだが、本調子では無いな。関節に痛みがある」
百々世は柔軟体操らしきことをしていた。動けるようにはなったようだが、確かにその動きには一々何かを確認するかのようなぎこちなさがある。
「百足の君にとっては全身痛ね。ご愁傷さま」
龍が茶化す。よせやい、と言いたげに百々世は龍を見つめるが、また体操に戻った。
「ところでなんで俺を生かした?」
最もな疑問である。飯綱丸権現といえば、人間からの信仰も厚い大天狗である。折角の大妖怪、首級をかっぱいで人間の味方アピールをした方が天狗の為になるように思える。
「取り引きよ」
そう言って、龍は窓の方を指差す。その先にあるのは飯綱山の斜面だが、禿げて岩肌が露出している場所も見えた。
「この山には鉱脈があるようなの。都合よく洞窟と重なっているから、そこを起点に掘り進めば希少鉱石が手に入る。ただ、天狗は大空の支配者ではあるけれど、地面より下のこととなるとからっきしでね」
龍は百々世の方に向き直った。
「ということで、君に採掘をお願いしたいの。勿論ただとは言わない。衣食住は保証する」
「そりゃやるけどさ。いいこと言っているようで俺の身分はお前らの奴隷じゃないか」
予想外に彼女は聡明だ。ただ、奴隷に堕ちることに文句は言えど、実力行使という形では抗おうとしない。実利をとる性格なのか、今の体調では敵わないという現実が見えているのか。いずれにせよ龍にとって好都合だった。
「そう直球に言われてしまうと否定はしきれないね。極端な話、労働契約というもの自体が本質に搾取的なものなのはそう。ただ、その上で私がしたいことは暴君ごっこではなくて商売なの。君が金の卵を産む鶏であり続ける限り、その地位は保証するよ」
†
百々世が採掘場に足を運んだ初日。龍としては彼女に採掘に慣れてもらいつつ採掘場の整備にも手をつけられれば、くらいに思っていた。
ところが採掘場の整備は早々に目処がつき、更にもう鉱石が集まり始めていた。龍はホクホク顔だった。
「天職じゃない。君は文字通り金を産んでくれる鶏ね」
龍は性格に似合わずハイテンションである。百々世も悪い気はしなかった。
「それはどうも。しかし、奴隷扱いなのに、枷
はしないのだな」
「枷なんかしたら動きづらくてしょうがないじゃない。当たり前よ。もしかして、枷をかける方が好み? そうだったら支給するけど」
「いや。枷が無いことは有り難いのだが、もし俺が逃げ出そうという気を起こしたら君らはどうするのかと思ってね」
随分と無礼な物言いだが、龍は眉一つ動かさず答えた。
「じゃあ、逆に聞くけれど、今逃げ出そうと思っている?」
「思わないな」
「でしょう? 恩義と生活保障というのは最強の枷なの。覚えておくと便利よ」
管理職の大天狗ならともかく、自分がそれを知ったからなんだと百々世は思った。とはいえ自分の命綱を握る者が、慈善で悦に浸っているなどではなく打算で動いているというのは、逆に安心できるのかもしれない。
百々世は明日も早いからと龍に告げて床につく準備を始めた。
†
鉱山事業が本格化したことで、入山規制が必要となった。
折しも山の麓の方では飢饉が起こっていた。農作物も野草も食べ尽くした人々は、何とかして糊口を凌ごうと山を下から食べ始めていた。骨と皮だけになった人間に、坑道の入口がある山の上の方まで登る体力があるのかは疑問だが、万に一つということもある。対策が早いに越したことはない。
それに、飢饉であれば、食べ物で釣ることで容易に人を集めることができる。
龍は麓の村へと赴き、在地領主に、炊き出しを行うので屋敷を開放するようにと命じた。領主は仰天したが、天狗の命令となれば、二つ返事で承諾するしかない。門が開けられると、龍はそこから出ていき、村中に領主の屋敷で炊き出しを行うと告知して回った。
たちまちのうちに、領主の屋敷に村人が集結した。さながら餓鬼道の如き光景に領主は狼狽えたが、白狼天狗達が警備にあたったことで混乱は回避された。
龍は麦飯を振る舞いながら山のことについて話をした。醜悪な大百足を捕らえて山の洞窟に封じ込めている。近づくと危険なので山に立ち入ってはいけない。
村人らは驚愕したが、山に入らなければ安全とも説明されたため恐慌とまではならなかった。
それに、農作物の備蓄が十分になるまでは炊き出しを継続するとの言質も得た。幾重にもリスクを重ねて山を散策し、食べられるかも分からないキノコを採集するのとどちらが得か。読み書き算盤のできない村人ですら間違えようの無い選択だった。
龍は説明に際して大きく婉曲と省略を加えた。山に人を入れない最大の理由は採掘をしているからだが、利益を横取りされないようにするために、村人には鉱山の存在すら説明していない。
だが、まるっきりの嘘でもない。大百足を洞窟に封じ込めているというのは、少なくとも龍の主観においては事実である。嘘をつくことに抵抗がない性格ではあるが、それでも本当のことを言っているというのはより気持ちが良いものだ。
唯一、あれを醜悪と呼んだのは嘘に含めるべきか。彼女には悪いことをしたが、人の好奇心を抑えつけるためには相応の修飾も必要だ。それに、百々世も石を投げつけられるくらいなら人には会いたくないと思っているだろう。龍は勝手にそう予想していた。
†
「飯綱丸様、百々世殿からの要望です」
龍は典から百々世からの物品要請が書かれた紙を受け取った。採掘は百々世に一任しており、時々不足している備品の購入要請が彼女から挙がる。基本的にはつるはしやら台車やらで、変なものは要望されない為、目を通して判を押し、事務に投げれば終わる。数ある大天狗の仕事の中では相当楽な方だ。そう、基本的には。
「竜の肉?」
龍は思わず目を擦って二度見する。疲れ目では無く、確かにそう書いてあった。典を詰問したが、本当に竜の肉を要望されたらしい。
龍は面倒そうに立ち上がり、洞窟へと向かった。
「竜の肉って何? そんなもの採掘には使わないでしょう?」
「確かに採掘には使わない。あれは俺が食べたくなったから注文したんだ」
百々世は龍が来たことに驚いた様子は見せなかった。すんなりと通る要求ではないと理解する程度の常識はあるらしい。そもそも要求をしないというまでの常識度合いでは無かったことが、龍にとっては残念だった。
「うちは料亭じゃないわよ。大体竜の肉なんてあるかも分からないものを……」
「お前は竜を食べた事がないのか。俺は何百年か前に一度だけあるんだ。生意気なのがいたからシメてね。実に美味だった」
何故か竜を食べた事がない方がおかしいという反応が百々世からは返ってきた。そんなこと言われても、無いものは無いのだ。龍は改めて無理だと百々世に伝えた。
「そこまで言うならこっちにも考えがある。もう鉱石はそちらには送らん。そしてこのまま穴を掘って世界の果てまで逃げてやる」
なんとストライキと逃亡の予告である。そこまでして食べたいものなのか。
とはいえ龍にとって、これは頭が痛い脅迫だった。現状、鉱物収益は天狗の事業の中で決して無視することはできない割合を占めている。それに、地上ならいざ知らず、地下での鬼ごっこで天狗が百足に勝つのは絶望的だ。自腹を切ってでも百々世をなだめる以外の選択肢は龍には無かった。
「しょうがないわね。なんとかしてみるよ。ただ、竜の肉は、本っ当に、貴重なの。もし駄目だったとしても恨まないでね」
†
無精髭を生やした小太りの男が、子分を引き連れて山に入り込んだ。
彼らは他所からやって来た賊であり、飯綱丸権現の忠告など聞いたことがない。もっとも仮に聞いていたとしても山には入っただろう。悪人というのは、自らの欲望が絡めば神をも恐れないからこそ悪人なのである。
曰く、この山には金鉱があるらしい。それも、ただの金鉱ではなく、金が洞窟の中に石として転がっている。
耳寄りな噂だが、噂で留まっていることがどうにも引っ掛かった。そんな鉱脈が本当にあるのなら、適当に洞窟で一掴みして、拳の中身を里で売り飛ばせば一生遊んで暮らせるだけの銭が手に入りそうなものである。ところがそれをした人には出会わなかった。
なぜそうしないのか男が聞いても皆口をつぐんだ。男は、それは自分が賊だからだと思った。素性は隠していたが、無精髭にボロ布を纏った猫背の子鬼のような男を真人間だと認識するのには無理があるだろう。それ自体は自覚していたのでどうということもない。
だが、悪党に見えるからといって露骨に態度を変えてくることは面白くなかった。概ね身内で利益を独占しようという腹なのだろう。そこから上前をはねるくらいなんだ。むしろこれは一種の再分配なのだから、正義はこちらにあるではないか。
森を抜けて開けた場所に出た。微かに坑道の入口に灯された明かりが見える。少なくとも何かしらの鉱脈があるということまでは真実のようだ。そして視界の手前の方には建物がいくつかある。
いや、いくつかなんてものではない。その立地からすると奇妙な程の大集落だ。余程の大事業なのだろう。夜中なので人影は見えない。
宝物は目の前だが、ここで急くのは三流の賊だ。外の目を警戒しつつ、窓から見て死角となる場所を縫うように歩を進める。耳もそばだてているが、今日は晴れているというのに、やけに風が強い。
†
「はい、お待ちかねの竜の肉よ。探すのにだいぶ苦労したんだからね」
龍が笹包に入った肉塊を百々世に投げ渡す。包を突き抜けてくるくらい塩と香草の匂いがきついが、防腐のためにやむを得ないのだろう。
「いちいち自分の苦労を強調する奴はモテないぞ」
結婚願望どころか恋愛願望すら無い龍に対していらぬおせっかいの言葉を投げつつ、百々世は肉を頬張った。
硬いのは干し肉だから良いとして、問題はその味だ。猪のような風味も僅かにするが、根底から異なる。というより、舌が一切経験したことのない味で、百々世は首を傾げた。
「随分とクセがある味だな。なあ龍、これ本当に竜の肉か? 前に食ったのはもっと淡白な味だった気がする」
「行商人から買ったものだから、私では証明ができないのはそうね……。ただ、あんたが竜を食べたのは何百年も前の一度きりだけなのでしょう?」
言われてみればその通りだと百々世は思った。個人的には記憶の中の竜の方が好みの味なのだが、それは美化された記憶というべきものなのだろう。家畜やジビエの味でもないため、入手性の高い他の何かを竜と偽っている可能性も低い。これは、確かに竜なのだ。
それに、一度自分で倒して食べた経験だけで、自他共に認める「竜を喰らうもの」の二つ名を冠する程度には竜というのは希少な生物なのだ。例え質が劣るものとはいえ、竜の肉を見つけてきた龍の努力を認めてやるべきなのかもしれない。
「お前の言うとおりだな。これが、今の竜の味なのだろう。ありがとな。また竜の肉が手に入ったら教えてくれ」
†
灯明の火に青年の影があおられる。油の浪費に家内が良い顔をしていないことを彼は知っていた。
だが、それでも彼は、村の寄合所から持ってきた文書を読む手を止めることは無かった。彼の見立てでは、数日中に長年の疑問に解が与えられるはずなのだ。
この地には、大百足を巡る二つの伝承がある。一つ目の伝承では著名な武士により百足は退治されたことになっており、二つ目の伝承では大天狗により百足は封じ込められている。結末が矛盾しているからにして、少なくとも片方は偽なのだろう。
一つ目が嘘である場合、大百足は今も生きているということなのだから、それを亡き者と偽る楽観的な言説を伝承するべきではないだろう。
二つ目の伝承が嘘ならば、大天狗は大百足の伝説を利用して、山に何かを秘匿していると思われる。真偽の確定こそ自分の使命だと青年は考えていた。
だが、村の文書から読み解く試みは徒労に終わった。結局、二つの伝承がそれぞれ独立に真実ヅラをしていることを再確認しただけだった。
翌朝、寄合所に文書を返却した青年は、龍に話を聞きに山の中に入っていった。
「『いつまで経っても入山禁止』と書いてあっただろう」
龍は困り顔で青年に言った。余所の賊ならまだしも、村の住民が山に入るのは予想外だった。しかも、自分に話があると哨戒天狗から聞き、どんな胆力のある者が験競べにやってきたのかと思えば、自分を呼んでいたのは絵に描いたかのような文弱の徒なのである。
「飯綱丸様、無礼をお詫びいたします。私は、大百足の伝承について、話を伺いに来たのです」
そして、彼は二つある大百足の伝承は矛盾しているのではないかと龍に尋ねた。
「当然の答えになるが、私の話したことの方が正しい。逆に聞くが、大百足の体の一部でも見たことはあるか」
青年は首を横に振った。
「仮に倒されたのならば、その物証は遺すだろう。それが無いということは、大百足は打倒されていないということだ。恐らく功名か恩賞を目的として話を盛ったのだろうな。まあ、結末以外はそっちの伝承も概ね事実だとは思うよ。私の元に来たときのあいつは随分と弱っていたからね」
龍は懐かしむかのように目を伏せて頷いた。大百足が彼女の知り合いというのは真実なのだろう。
だが、弱らせて封じたのではなく、弱った状態で出会ったというのが青年には引っ掛かった。
「弱っていたのなら、飯綱丸様のお力なら容易く倒せたのでは? 本当に大百足は生きているのですか?」
龍は青年の疑り深さに呆れたかのか、気だるげに答えた。
「どうも君は私が何か隠しているのかと疑っているようだが、大百足を封じている以上のことは無いよ。弱っているというのと容易く殺すことができるというのはまた別の問題だ。私が出会ったときの、一番衰えた状態ですら、完全に滅するには相当に骨を折らなければならなかっただろう。害を為す妖怪への対処も重要だが、我々の仕事はそれだけではない。払うことができる経費内での最善策が封じ込めだったのだ」
青年は自分の誤りに気がついた。龍は当事者なのだから自分に都合が良いことしか言わない。これ以上質疑応答を重ねたところで、疑問が晴れることは無いだろう。またすきを見て潜入するか。
彼は、解決した素振りだけ見せて踵を返した。
「あいつ、どうせまた来るのでしょうね」
彼が視界から消えてから、龍は呟いた。
†
「お待ちかねのブツよ。前から随分と間が開いてしまったね」
龍が百々世に声をかける。彼女の手にはいつぞやのように、肉塊が入った笹包があった。
「お前って、打算的なようで意外と義理堅いよな」
百々世は採掘の手を止めて龍の元へと向かった。
龍は肉の他に酒も持っているようだった。曰く、彼女は非番らしい。
百々世はまだ仕事があるので酒の方は断ったが、肉は口に入れた。今回のも前回と同じく干し肉のようだが、肉そのものの味より、その調味料の方が百々世は気になった。
「これまで食べた事がない感じの辛味がある粉だな」
「胡椒という名前の香辛料よ。肉の方は行商人から買ったのだけれど、南蛮船との取引で胡椒がいくらか手元にあったから料理してみたの」
なんばんせん。自分が鉱脈を広げている間に龍はまた別の商売を始めていたようだ。
「聞き慣れない単語が多いな。俺が地底住まいを続けている間にそんなに世界は変わったのか」
「世界とは言い得て妙ね。私達の商売相手は海の向こうにまで拡大したの。胡椒も、ここから見て西の果てにある国が、南の果てにある国から持ってきたものを買い付けている」
ここで一旦会話が途切れた。世界の広さに対して余りにも狭い坑道の奥には、風の出入りもない。静寂の中で肉を咀嚼する音と、酒を盃に注いでは喉に流し込む音だけが響いていた。
「それにしても……」
龍が思い出したかのように口を開いた。
「君の家はここでは無い筈だが。随分と帰ってこないものだから、逃げたとか噂になっているんだぞ」
突然口調が変わったことに驚き、百々世は龍の方に振り向いた。龍の顔が赤い。
「物はそっちに出しているのだから大丈夫だろ」
「それはそうなのだが。一応君の監理責任は私にあるから冗談交じりに色々言われるのだよ」
龍がくだを巻く。酔って出てきた愚痴というのもあるのだろうが、龍も何かと苦労しているのだろうと百々世は思った。
それに、龍の話を聞いていたら、俄然外の様子が気になってきた。
その日最後の鉱石の運び出しを終えた百々世は、坑道の中には戻らずに、天狗の集落へと向かった。久しぶりの夕日が眩しかった。
†
あれ以来、龍は竜の肉を手に入れることが出来ていないようだ。坑道の方も、かつてのただの洞窟だった頃の面影は最早無く、蟻の巣か海綿と形容したほうが正確なくらいになっていた。ぼちぼちここでの採掘も打ち止めだろう。
百々世にとっては刑期満了ということだが、龍からまた別の山、幻想郷の妖怪の山という場所で鉱脈を見つけたからどうかと誘われている。百々世は勿論付き合うつもりだ。
まだ見ぬ地下世界に開けた近未来に思いを馳せながら、最後になるであろう道を掘り進めていると、突然、坑道の入口の辺りから崩落音が聞こえた。
ここ数十年、人間が坑道に入り込むことは珍しいことでは無くなっていた。人間の天狗に対する畏れはめっきり無くなり、教えも立て札も無視するようになった。天狗は天狗で涸れかけの鉱脈を秘匿することには労力を払わなくなっていたので、これは当然の帰結であった。
そうして坑道に入った人間がミスを冒したのだろう。掘りに掘った坑道の壁面は、場所によっては相当薄くなっている。当然百々世はちゃんと安全対策をしていたが、そこを無理に掘れば崩落することも有り得る。もう鉱石は残っていないだろうに、無用な努力の無用な犠牲となったのだ。百々世は少しばかりその人間に同情した。
状況の確認の為に百々世は音がした方に向かった。入気坑道を掘っていない坑道における人間の活動可能範囲からして、事故現場は入口周辺だろう。音のした方向もその仮説を裏付けている。
案の定、現場は入口から二十分もかからないくらいの場所であった。そこは崩れた岩で塞がれていたが、岩を叩いた音から判断するに、幸いその壁は薄そうである。特に苦労も無く脱出することができるだろう。
落盤の全体を見るべく下がろうとしたら、かかとに岩石ではないものが触れた。振り返ると、人間の腕が転がっていた。この事故の犠牲者のもののようだ。百々世は目を閉じて心の中で手を合わせた。
そして目を開けてその手を改めて眺めていると、なぜだか食欲が刺激されてきた。人間を食べたことは無いのだが。今日はまだ朝食しか食べていないからだろうか。
その腕を拾って一口かじる。何も味付けのない生の肉は独特の臭みがあったが、旨味も感じ取ることができ、存外に悪くは無い。腕の太さや、みずみずしさがやや乏しい皮膚から判断するに、これは大人のものなのだろう。だからなのか干してもいないのに筋が硬い。だが、これはこれで歯ごたえがある。なるほど人の肉とは竜のような味がするのか。そう百々世は思った。
その妖怪は、三上山の大百足。近江から遠く離れた信濃にも悪名は伝わっていた。それも、人を襲うなどという生易しいものではなく、醜悪な百足という外見と竜をも喰らうという凶暴性から、人間は寄り付くことすらできず、究極の障害となっていたという話である。
それが、哨戒天狗数人の手に落ちている。それだけ弱っているのだろう。辛うじて人型を保つ妖力は残っているのか、百足のはずの彼女からは人間のような血が流れていた。特に深いのは眉間の矢傷で、全身には細かい擦り傷。足元に目を移すと、足裏が擦り切れているらしく、そこからも出血していた。
矢で射たれて逃亡し、必死の思いで近江から美濃の山脈を走り抜いてここまで到達した。龍は百足についた傷の具合から即座にそこまで推理した。ただそうなると、他の傷には塞がっているものもあるのに、時系列上一番古いはずの眉間の矢傷が全く塞がっていないことが疑問だ。
「ははは。この俺がまさか天狗に捕まるとはな。殺してはくれないか。息をするのすら苦しいんだ」
百足がかすれた声を発した。改めて彼女の顔色や雰囲気を観察すると、外傷こそ酷いがそれで弱っている訳では無さそうである。どうも全身に毒が――いや、大妖にとっての毒なのだから薬というべきか?――が流れているからのようだ。息をするのも苦しいというのもそういうことなのだろう。そして、その薬は矢についていたのだとすれば、矢傷が塞がっていないことにも合点がいく。
哨戒天狗二人の手で中腰に体を押さえつけられた百足少女を見つめながら、龍の心の内には複雑な感情が巻き起こっていた。軛
から解き放たれた人間が妖怪に下す所業を目にしての恐れか、憔悴する妖怪により刺激された加虐心か。正確な言語化は不可能だが、混ざりあった感情のどれもが、こいつは生かしておくべきであると告げていた。
「貴様に対する生殺与奪の権利はこちらにある」
視界の下の方にいる哀れなる妖怪にはそう一言だけ吐き捨てて、哨戒天狗の方へと顔を上げた。
「任務ご苦労様でした。こいつは私室で治療します。私も同行するので、そこまで移送するように」
†
「怪我の調子はどう?」
龍は百足――百々世という名前らしい――に話しかけた。あれから数日経ち、傷は全部塞がった。瀉血
に投薬、加持祈祷、どれが功を奏したのかは分からないが、彼女を蝕んでいた薬も粗方抜けたようだ。
「おかげさまで、と言いたいところだが、本調子では無いな。関節に痛みがある」
百々世は柔軟体操らしきことをしていた。動けるようにはなったようだが、確かにその動きには一々何かを確認するかのようなぎこちなさがある。
「百足の君にとっては全身痛ね。ご愁傷さま」
龍が茶化す。よせやい、と言いたげに百々世は龍を見つめるが、また体操に戻った。
「ところでなんで俺を生かした?」
最もな疑問である。飯綱丸権現といえば、人間からの信仰も厚い大天狗である。折角の大妖怪、首級をかっぱいで人間の味方アピールをした方が天狗の為になるように思える。
「取り引きよ」
そう言って、龍は窓の方を指差す。その先にあるのは飯綱山の斜面だが、禿げて岩肌が露出している場所も見えた。
「この山には鉱脈があるようなの。都合よく洞窟と重なっているから、そこを起点に掘り進めば希少鉱石が手に入る。ただ、天狗は大空の支配者ではあるけれど、地面より下のこととなるとからっきしでね」
龍は百々世の方に向き直った。
「ということで、君に採掘をお願いしたいの。勿論ただとは言わない。衣食住は保証する」
「そりゃやるけどさ。いいこと言っているようで俺の身分はお前らの奴隷じゃないか」
予想外に彼女は聡明だ。ただ、奴隷に堕ちることに文句は言えど、実力行使という形では抗おうとしない。実利をとる性格なのか、今の体調では敵わないという現実が見えているのか。いずれにせよ龍にとって好都合だった。
「そう直球に言われてしまうと否定はしきれないね。極端な話、労働契約というもの自体が本質に搾取的なものなのはそう。ただ、その上で私がしたいことは暴君ごっこではなくて商売なの。君が金の卵を産む鶏であり続ける限り、その地位は保証するよ」
†
百々世が採掘場に足を運んだ初日。龍としては彼女に採掘に慣れてもらいつつ採掘場の整備にも手をつけられれば、くらいに思っていた。
ところが採掘場の整備は早々に目処がつき、更にもう鉱石が集まり始めていた。龍はホクホク顔だった。
「天職じゃない。君は文字通り金を産んでくれる鶏ね」
龍は性格に似合わずハイテンションである。百々世も悪い気はしなかった。
「それはどうも。しかし、奴隷扱いなのに、枷
はしないのだな」
「枷なんかしたら動きづらくてしょうがないじゃない。当たり前よ。もしかして、枷をかける方が好み? そうだったら支給するけど」
「いや。枷が無いことは有り難いのだが、もし俺が逃げ出そうという気を起こしたら君らはどうするのかと思ってね」
随分と無礼な物言いだが、龍は眉一つ動かさず答えた。
「じゃあ、逆に聞くけれど、今逃げ出そうと思っている?」
「思わないな」
「でしょう? 恩義と生活保障というのは最強の枷なの。覚えておくと便利よ」
管理職の大天狗ならともかく、自分がそれを知ったからなんだと百々世は思った。とはいえ自分の命綱を握る者が、慈善で悦に浸っているなどではなく打算で動いているというのは、逆に安心できるのかもしれない。
百々世は明日も早いからと龍に告げて床につく準備を始めた。
†
鉱山事業が本格化したことで、入山規制が必要となった。
折しも山の麓の方では飢饉が起こっていた。農作物も野草も食べ尽くした人々は、何とかして糊口を凌ごうと山を下から食べ始めていた。骨と皮だけになった人間に、坑道の入口がある山の上の方まで登る体力があるのかは疑問だが、万に一つということもある。対策が早いに越したことはない。
それに、飢饉であれば、食べ物で釣ることで容易に人を集めることができる。
龍は麓の村へと赴き、在地領主に、炊き出しを行うので屋敷を開放するようにと命じた。領主は仰天したが、天狗の命令となれば、二つ返事で承諾するしかない。門が開けられると、龍はそこから出ていき、村中に領主の屋敷で炊き出しを行うと告知して回った。
たちまちのうちに、領主の屋敷に村人が集結した。さながら餓鬼道の如き光景に領主は狼狽えたが、白狼天狗達が警備にあたったことで混乱は回避された。
龍は麦飯を振る舞いながら山のことについて話をした。醜悪な大百足を捕らえて山の洞窟に封じ込めている。近づくと危険なので山に立ち入ってはいけない。
村人らは驚愕したが、山に入らなければ安全とも説明されたため恐慌とまではならなかった。
それに、農作物の備蓄が十分になるまでは炊き出しを継続するとの言質も得た。幾重にもリスクを重ねて山を散策し、食べられるかも分からないキノコを採集するのとどちらが得か。読み書き算盤のできない村人ですら間違えようの無い選択だった。
龍は説明に際して大きく婉曲と省略を加えた。山に人を入れない最大の理由は採掘をしているからだが、利益を横取りされないようにするために、村人には鉱山の存在すら説明していない。
だが、まるっきりの嘘でもない。大百足を洞窟に封じ込めているというのは、少なくとも龍の主観においては事実である。嘘をつくことに抵抗がない性格ではあるが、それでも本当のことを言っているというのはより気持ちが良いものだ。
唯一、あれを醜悪と呼んだのは嘘に含めるべきか。彼女には悪いことをしたが、人の好奇心を抑えつけるためには相応の修飾も必要だ。それに、百々世も石を投げつけられるくらいなら人には会いたくないと思っているだろう。龍は勝手にそう予想していた。
†
「飯綱丸様、百々世殿からの要望です」
龍は典から百々世からの物品要請が書かれた紙を受け取った。採掘は百々世に一任しており、時々不足している備品の購入要請が彼女から挙がる。基本的にはつるはしやら台車やらで、変なものは要望されない為、目を通して判を押し、事務に投げれば終わる。数ある大天狗の仕事の中では相当楽な方だ。そう、基本的には。
「竜の肉?」
龍は思わず目を擦って二度見する。疲れ目では無く、確かにそう書いてあった。典を詰問したが、本当に竜の肉を要望されたらしい。
龍は面倒そうに立ち上がり、洞窟へと向かった。
「竜の肉って何? そんなもの採掘には使わないでしょう?」
「確かに採掘には使わない。あれは俺が食べたくなったから注文したんだ」
百々世は龍が来たことに驚いた様子は見せなかった。すんなりと通る要求ではないと理解する程度の常識はあるらしい。そもそも要求をしないというまでの常識度合いでは無かったことが、龍にとっては残念だった。
「うちは料亭じゃないわよ。大体竜の肉なんてあるかも分からないものを……」
「お前は竜を食べた事がないのか。俺は何百年か前に一度だけあるんだ。生意気なのがいたからシメてね。実に美味だった」
何故か竜を食べた事がない方がおかしいという反応が百々世からは返ってきた。そんなこと言われても、無いものは無いのだ。龍は改めて無理だと百々世に伝えた。
「そこまで言うならこっちにも考えがある。もう鉱石はそちらには送らん。そしてこのまま穴を掘って世界の果てまで逃げてやる」
なんとストライキと逃亡の予告である。そこまでして食べたいものなのか。
とはいえ龍にとって、これは頭が痛い脅迫だった。現状、鉱物収益は天狗の事業の中で決して無視することはできない割合を占めている。それに、地上ならいざ知らず、地下での鬼ごっこで天狗が百足に勝つのは絶望的だ。自腹を切ってでも百々世をなだめる以外の選択肢は龍には無かった。
「しょうがないわね。なんとかしてみるよ。ただ、竜の肉は、本っ当に、貴重なの。もし駄目だったとしても恨まないでね」
†
無精髭を生やした小太りの男が、子分を引き連れて山に入り込んだ。
彼らは他所からやって来た賊であり、飯綱丸権現の忠告など聞いたことがない。もっとも仮に聞いていたとしても山には入っただろう。悪人というのは、自らの欲望が絡めば神をも恐れないからこそ悪人なのである。
曰く、この山には金鉱があるらしい。それも、ただの金鉱ではなく、金が洞窟の中に石として転がっている。
耳寄りな噂だが、噂で留まっていることがどうにも引っ掛かった。そんな鉱脈が本当にあるのなら、適当に洞窟で一掴みして、拳の中身を里で売り飛ばせば一生遊んで暮らせるだけの銭が手に入りそうなものである。ところがそれをした人には出会わなかった。
なぜそうしないのか男が聞いても皆口をつぐんだ。男は、それは自分が賊だからだと思った。素性は隠していたが、無精髭にボロ布を纏った猫背の子鬼のような男を真人間だと認識するのには無理があるだろう。それ自体は自覚していたのでどうということもない。
だが、悪党に見えるからといって露骨に態度を変えてくることは面白くなかった。概ね身内で利益を独占しようという腹なのだろう。そこから上前をはねるくらいなんだ。むしろこれは一種の再分配なのだから、正義はこちらにあるではないか。
森を抜けて開けた場所に出た。微かに坑道の入口に灯された明かりが見える。少なくとも何かしらの鉱脈があるということまでは真実のようだ。そして視界の手前の方には建物がいくつかある。
いや、いくつかなんてものではない。その立地からすると奇妙な程の大集落だ。余程の大事業なのだろう。夜中なので人影は見えない。
宝物は目の前だが、ここで急くのは三流の賊だ。外の目を警戒しつつ、窓から見て死角となる場所を縫うように歩を進める。耳もそばだてているが、今日は晴れているというのに、やけに風が強い。
†
「はい、お待ちかねの竜の肉よ。探すのにだいぶ苦労したんだからね」
龍が笹包に入った肉塊を百々世に投げ渡す。包を突き抜けてくるくらい塩と香草の匂いがきついが、防腐のためにやむを得ないのだろう。
「いちいち自分の苦労を強調する奴はモテないぞ」
結婚願望どころか恋愛願望すら無い龍に対していらぬおせっかいの言葉を投げつつ、百々世は肉を頬張った。
硬いのは干し肉だから良いとして、問題はその味だ。猪のような風味も僅かにするが、根底から異なる。というより、舌が一切経験したことのない味で、百々世は首を傾げた。
「随分とクセがある味だな。なあ龍、これ本当に竜の肉か? 前に食ったのはもっと淡白な味だった気がする」
「行商人から買ったものだから、私では証明ができないのはそうね……。ただ、あんたが竜を食べたのは何百年も前の一度きりだけなのでしょう?」
言われてみればその通りだと百々世は思った。個人的には記憶の中の竜の方が好みの味なのだが、それは美化された記憶というべきものなのだろう。家畜やジビエの味でもないため、入手性の高い他の何かを竜と偽っている可能性も低い。これは、確かに竜なのだ。
それに、一度自分で倒して食べた経験だけで、自他共に認める「竜を喰らうもの」の二つ名を冠する程度には竜というのは希少な生物なのだ。例え質が劣るものとはいえ、竜の肉を見つけてきた龍の努力を認めてやるべきなのかもしれない。
「お前の言うとおりだな。これが、今の竜の味なのだろう。ありがとな。また竜の肉が手に入ったら教えてくれ」
†
灯明の火に青年の影があおられる。油の浪費に家内が良い顔をしていないことを彼は知っていた。
だが、それでも彼は、村の寄合所から持ってきた文書を読む手を止めることは無かった。彼の見立てでは、数日中に長年の疑問に解が与えられるはずなのだ。
この地には、大百足を巡る二つの伝承がある。一つ目の伝承では著名な武士により百足は退治されたことになっており、二つ目の伝承では大天狗により百足は封じ込められている。結末が矛盾しているからにして、少なくとも片方は偽なのだろう。
一つ目が嘘である場合、大百足は今も生きているということなのだから、それを亡き者と偽る楽観的な言説を伝承するべきではないだろう。
二つ目の伝承が嘘ならば、大天狗は大百足の伝説を利用して、山に何かを秘匿していると思われる。真偽の確定こそ自分の使命だと青年は考えていた。
だが、村の文書から読み解く試みは徒労に終わった。結局、二つの伝承がそれぞれ独立に真実ヅラをしていることを再確認しただけだった。
翌朝、寄合所に文書を返却した青年は、龍に話を聞きに山の中に入っていった。
「『いつまで経っても入山禁止』と書いてあっただろう」
龍は困り顔で青年に言った。余所の賊ならまだしも、村の住民が山に入るのは予想外だった。しかも、自分に話があると哨戒天狗から聞き、どんな胆力のある者が験競べにやってきたのかと思えば、自分を呼んでいたのは絵に描いたかのような文弱の徒なのである。
「飯綱丸様、無礼をお詫びいたします。私は、大百足の伝承について、話を伺いに来たのです」
そして、彼は二つある大百足の伝承は矛盾しているのではないかと龍に尋ねた。
「当然の答えになるが、私の話したことの方が正しい。逆に聞くが、大百足の体の一部でも見たことはあるか」
青年は首を横に振った。
「仮に倒されたのならば、その物証は遺すだろう。それが無いということは、大百足は打倒されていないということだ。恐らく功名か恩賞を目的として話を盛ったのだろうな。まあ、結末以外はそっちの伝承も概ね事実だとは思うよ。私の元に来たときのあいつは随分と弱っていたからね」
龍は懐かしむかのように目を伏せて頷いた。大百足が彼女の知り合いというのは真実なのだろう。
だが、弱らせて封じたのではなく、弱った状態で出会ったというのが青年には引っ掛かった。
「弱っていたのなら、飯綱丸様のお力なら容易く倒せたのでは? 本当に大百足は生きているのですか?」
龍は青年の疑り深さに呆れたかのか、気だるげに答えた。
「どうも君は私が何か隠しているのかと疑っているようだが、大百足を封じている以上のことは無いよ。弱っているというのと容易く殺すことができるというのはまた別の問題だ。私が出会ったときの、一番衰えた状態ですら、完全に滅するには相当に骨を折らなければならなかっただろう。害を為す妖怪への対処も重要だが、我々の仕事はそれだけではない。払うことができる経費内での最善策が封じ込めだったのだ」
青年は自分の誤りに気がついた。龍は当事者なのだから自分に都合が良いことしか言わない。これ以上質疑応答を重ねたところで、疑問が晴れることは無いだろう。またすきを見て潜入するか。
彼は、解決した素振りだけ見せて踵を返した。
「あいつ、どうせまた来るのでしょうね」
彼が視界から消えてから、龍は呟いた。
†
「お待ちかねのブツよ。前から随分と間が開いてしまったね」
龍が百々世に声をかける。彼女の手にはいつぞやのように、肉塊が入った笹包があった。
「お前って、打算的なようで意外と義理堅いよな」
百々世は採掘の手を止めて龍の元へと向かった。
龍は肉の他に酒も持っているようだった。曰く、彼女は非番らしい。
百々世はまだ仕事があるので酒の方は断ったが、肉は口に入れた。今回のも前回と同じく干し肉のようだが、肉そのものの味より、その調味料の方が百々世は気になった。
「これまで食べた事がない感じの辛味がある粉だな」
「胡椒という名前の香辛料よ。肉の方は行商人から買ったのだけれど、南蛮船との取引で胡椒がいくらか手元にあったから料理してみたの」
なんばんせん。自分が鉱脈を広げている間に龍はまた別の商売を始めていたようだ。
「聞き慣れない単語が多いな。俺が地底住まいを続けている間にそんなに世界は変わったのか」
「世界とは言い得て妙ね。私達の商売相手は海の向こうにまで拡大したの。胡椒も、ここから見て西の果てにある国が、南の果てにある国から持ってきたものを買い付けている」
ここで一旦会話が途切れた。世界の広さに対して余りにも狭い坑道の奥には、風の出入りもない。静寂の中で肉を咀嚼する音と、酒を盃に注いでは喉に流し込む音だけが響いていた。
「それにしても……」
龍が思い出したかのように口を開いた。
「君の家はここでは無い筈だが。随分と帰ってこないものだから、逃げたとか噂になっているんだぞ」
突然口調が変わったことに驚き、百々世は龍の方に振り向いた。龍の顔が赤い。
「物はそっちに出しているのだから大丈夫だろ」
「それはそうなのだが。一応君の監理責任は私にあるから冗談交じりに色々言われるのだよ」
龍がくだを巻く。酔って出てきた愚痴というのもあるのだろうが、龍も何かと苦労しているのだろうと百々世は思った。
それに、龍の話を聞いていたら、俄然外の様子が気になってきた。
その日最後の鉱石の運び出しを終えた百々世は、坑道の中には戻らずに、天狗の集落へと向かった。久しぶりの夕日が眩しかった。
†
あれ以来、龍は竜の肉を手に入れることが出来ていないようだ。坑道の方も、かつてのただの洞窟だった頃の面影は最早無く、蟻の巣か海綿と形容したほうが正確なくらいになっていた。ぼちぼちここでの採掘も打ち止めだろう。
百々世にとっては刑期満了ということだが、龍からまた別の山、幻想郷の妖怪の山という場所で鉱脈を見つけたからどうかと誘われている。百々世は勿論付き合うつもりだ。
まだ見ぬ地下世界に開けた近未来に思いを馳せながら、最後になるであろう道を掘り進めていると、突然、坑道の入口の辺りから崩落音が聞こえた。
ここ数十年、人間が坑道に入り込むことは珍しいことでは無くなっていた。人間の天狗に対する畏れはめっきり無くなり、教えも立て札も無視するようになった。天狗は天狗で涸れかけの鉱脈を秘匿することには労力を払わなくなっていたので、これは当然の帰結であった。
そうして坑道に入った人間がミスを冒したのだろう。掘りに掘った坑道の壁面は、場所によっては相当薄くなっている。当然百々世はちゃんと安全対策をしていたが、そこを無理に掘れば崩落することも有り得る。もう鉱石は残っていないだろうに、無用な努力の無用な犠牲となったのだ。百々世は少しばかりその人間に同情した。
状況の確認の為に百々世は音がした方に向かった。入気坑道を掘っていない坑道における人間の活動可能範囲からして、事故現場は入口周辺だろう。音のした方向もその仮説を裏付けている。
案の定、現場は入口から二十分もかからないくらいの場所であった。そこは崩れた岩で塞がれていたが、岩を叩いた音から判断するに、幸いその壁は薄そうである。特に苦労も無く脱出することができるだろう。
落盤の全体を見るべく下がろうとしたら、かかとに岩石ではないものが触れた。振り返ると、人間の腕が転がっていた。この事故の犠牲者のもののようだ。百々世は目を閉じて心の中で手を合わせた。
そして目を開けてその手を改めて眺めていると、なぜだか食欲が刺激されてきた。人間を食べたことは無いのだが。今日はまだ朝食しか食べていないからだろうか。
その腕を拾って一口かじる。何も味付けのない生の肉は独特の臭みがあったが、旨味も感じ取ることができ、存外に悪くは無い。腕の太さや、みずみずしさがやや乏しい皮膚から判断するに、これは大人のものなのだろう。だからなのか干してもいないのに筋が硬い。だが、これはこれで歯ごたえがある。なるほど人の肉とは竜のような味がするのか。そう百々世は思った。
龍も大変なんだと思いました
百々世も絶妙にちょろくてかわいらしかったです