ミスティアの屋台に来たリグルは、屋台のそばにのぼりが立っているのを見つけた。珍しいこともあるものだとリグルは思った。まだ遠いので文字は読めない。ミスティアが立てていることを考えると、鳥獣伎楽のライブ告知とかだろうか。
「八目鰻、やめました」
屋台の近くまで来たリグルが読み取ったのぼりの文字列である。「やめました」ってどういうことだ。「とりあえずビールちょうだい」から話を始めようと思っていたが、計画変更だ。
「何なのあれ。あ、それととりあえずビールちょうだい」
ミスティアはビール瓶とグラスを出しつつ、歌姫とも接客とも思えぬ怠そうな声を返した。
「書いてある通りよ。八目鰻は当面出さないわ」
「ここって八目鰻屋台よね? 何で出さないの」
「夏バテなのよ」
答えになっているようでなっていない。確かに今は夏だが、それならば、なおのこと鰻を売り出すべきではなかろうか。
「駄目だよ、鰻を食べて精を付けないと」
「あんたは客だからそんな暢気なこと言えるの。こんな暑い時期に、鰻なんて焼いてらんないわ」
客に対する態度としてどうなんだというのはともかく、言わんとすることは分かった。確かに、夜なのに、熱湯にくぐらせたおしぼりで口を押さえつけられたかのような蒸し暑さだ。炭火を扱うのはさぞ辛かろう。屋台の設備に目を向けると、焼台自体を撤去したのが見えた。本来それが置かれている筈の場所には、八卦炉のような形の突起が二個ついた台が置かれている。香霖堂か河童から仕入れた機械なのだろう。
「大体ね、八目鰻の旬がいつだか知ってる?」
リグルは虫には詳しいが魚に関してはさっぱりだ。ここには常連で年中通っているし、ここの八目鰻は年中美味しい。旬なんて考えたことも無かった。
「正解は冬。それなのに一番不味い季節にそれっぽく出すのはプロとしてどうなの、って話」
「でも今まで夏も出してたじゃん。不味いとは思わなかったよ?」
「牛崎さんって人が養殖しているから、夏場はそこから買っていたのよ。あの人は本物ね。活きが良いのを持ってきてくれるし、八目鰻とは思えない程の大きさまで育てている」
「大きいって、どれくらい?」
リグルの問いに、ミスティアがジェスチャーで答えた。リグルは魚には詳しくは無いが、八目鰻の形くらいは分かる。その上で、牛崎さんとやらが育てている魚、八目鰻というには大きすぎやしないだろうか。ミスティアが話を盛っているというのも大いにあり得るが、それを差し引いて考えても鰻と呼ぶには寸胴すぎる気がする。今まで毎夏食べていた物は、本当は何だったのだろうか? リグルは髪の毛がざわつく感触を覚えたが、気が付かなかったことにして話を続けた。
「逆に、今何なら出せるの?」
「そうね。酒以外だと、枝豆とキャベツとたこわさと……」
「見事に酒のつまみね。枝豆とキャベツと、何だって?」
「たこわさ。タコをワサビで和えた食べ物。知らない?」
「たこってあの空飛んでるやつ? えっ、あれ食べられるの?」
リグルの質問がツボにハマったのかミスティアが爆笑して、数分間会話が中断する羽目になった。
「ぷぷぷ、その、くくっ、たこじゃ、ないわよ。ふー、海の、生き物、らしいわよ。ハハハ」
海の生き物なら幻想郷住民が知らなくても当然である。なんでそんな笑われなければならないのか。ちょっと待て、何でミスティアが知っている?
「何で海産物がここにあるのよ」
「八目鰻の代わりに牛崎さんから買ったのよ。まあ牛崎さんもタコそのものは育てていないらしくて、正確には、アンモナイトっていうタコに近いのね。食べる?」
牛崎さん、本当に何者なのだろうか。そして、この店主は未知の食材のさらにもう一段階得体の知れないものを食べさせようとしている。一周、いや、三周くらい回って気になる。タコ、もといアンモナイトとやらの味とミスティアの頭が。リグルはたこわさを注文した。
予め作り置きしておく類の料理のようで、すぐに小皿に盛られたたこわさがリグルの目の前に現れた。縁が赤く他が白いスライス状の何かに、くすんだ色のたれがかかっている。本物のタコも赤色で、牛崎さんが気を利かせて赤色のアンモナイトを売ってくれたらしい。リグルにとっては、色が赤だろうが黒だろうが何だろうが未知の食材であることは変わらないので、要らない気遣いである。たれはなんとも形容しがたい色合いだが、緑色も見える。これはワサビのもののようで、鼻を抜ける辛味がリグルに刺さった。特段ワサビが好きという訳でもないが、何もかも未知の中で、嗅ぎなれた匂いが暗闇の中の一筋の光となっていた。
リグルはたこわさに箸を伸ばした。
「コリコリしているね。って、辛い!」
「そりゃワサビを入れているからね。もっと味薄くした方が良かった?」
「いや、このくらいの方が酒には合うわね」
予想に反して普通に美味しいということにリグルは安堵していた。で、結局タコとは、アンモナイトとは、何なのか。海産物とか言うので魚のようなものを想像していたのだが、実際にはよく分からないものの輪切りである。食感から予想すると貝の一種なので、貝なのだと思うことにした。もしかしたらミスティアに聞けば調理前のものを見せてくれる可能性はあるが、それは危険だと虫の知らせが囁いていた。
***
「おや、先客の方がいらっしゃいましたか」
「まだ席空いていますよ。どうぞー」
リグルとミスティアがたこわさで盛り上がっていると、もう一人客が来た。ニワタリ神の久侘歌である。ミスティアの屋台は彼女の生活圏から外れてはいるが、同じ鳥類解放運動家としてのよしみで、ときどき帰り道を忘れたふりをして屋台に立ち寄る。ただ常連ではないので、いつまで経ってもミスティアに顔を覚えてもらえていない。常連扱いされず、かつ味の保証があるという店というのは凄く貴重なので、逆に有り難いが。
「おや、たこわさですか。私も頂きましょうか」
「ご存知なのですか?」
「ああ先客さん、始めまして。久侘歌と申します。ええ、漁師の牛崎さんという人と知り合いでして。彼女に振る舞ってもらったことがあるのです。こっちでも食べられるとは」
たまたま来た客がたこわさを知っていたことで、タコを知らない自分は世間知らずなのでは、という疑念がリグルに生まれていたが、それは杞憂だったようだ。ただ今度は牛崎さんという人が物凄い有名人である可能性が浮上し、その人を知らない自分は結局世間知らずなのではという疑惑が発生したが。
「ここの魚も牛崎さんから仕入れているそうです。あっ、私はリグルと申します」
「成程道理で。彼女、三途の川で養殖業をしておりまして。仕事場から幻想郷まで遠いので販路拡大が大変だと愚痴っていたのですよ。上手くいっているようで何よりです」
やたら得体の知れない物を育てている人だなと思っていたが、三途の川の人なのなら納得だ。……え?
「それよりも八目鰻はやっていないのですね。残念です」
魚の出処にリグルは箸を落とすレベルで驚いていたが、久侘歌のつぶやきで我に返った。そうだ。そもそも鰻を食べに来たんじゃないか。
「夏バテしちゃって、鰻を焼くのがしんどくてね」
「そんなこと言っちゃ駄目だよ。八目鰻に期待して初めて暖簾をくぐったお客さんが可愛そうじゃん」
久侘歌はここに来るのは始めてでは無いのですけどね、と訂正しようと口をはさみかけたが、それは野暮だろうと止めた。久侘歌自身の地位よりも、店主の無気力のが由々しき問題だ。
「私のことはお気になさらず。でも、八目鰻屋なのにメインを出すことはできないというのは、確かに良くないですね」
ミスティアは屋台の奥から魚籠を取り出して、手を突っ込んだ。中には八目鰻が入っていた。
「まあ私も良くないとは思っているから、昼に涼むついでに何匹か捕まえて来たのよ。今日はこの姿だけ見て手打ちにはできない?」
「縁起物じゃないんだから。じゃあその分はお金見せるだけね」
リグルによる変化球の返しを聞きつつ、久侘歌は八目鰻を眺めていた。確かに旬のものに比べれば肉付きなどが劣るが、十分食用に値する見た目だ。
「んー、八目鰻の刺身って作れます?」
久侘歌の思わぬ注文に、ミスティアと、ついでにリグルの目が点になった。
「えっ、作れなくはないけど、味と、あと食あたりの保証ができないわよ」
「ただの興味本位なので、味は問いませんよ。健康面のことも心配ご無用です。なんせ私は神様なので」
幻想郷では珍しくもないとはいえ、お客様は神様(物理)だった。ミスティアはいそいそと八目鰻を捌き皿に盛り合わせる。
生の八目鰻の切り身はピンク色をしていた。八目鰻どころか生魚の切り身自体が珍しい幻想郷である。久侘歌とリグルは奇異の物に対する視線を八目鰻に注いでいた。
「それでは」
久侘歌は切り身を口に含んだ。咀嚼に時間がかかっているのかしばらくそのままで、屋台は久侘歌の口以外時が止まったかのように沈黙していた。
「魚ではないですねこれ」
ようやくひと切れ目を呑み込んだ久侘歌が口を開いた。不評だったか。
「かなり固くて独特の歯ごたえがある。魚と思って食べたら残念でしょうが、肉の刺身と思えば悪くない。欲を言えば、川魚特有の臭みを抜くことができれば満点といったところです」
久侘歌の感想を聞いてミスティアも一切れ食べていた。人は、いや人ではなくて神様と妖怪だが、どうしてゲテモノを嬉々として食べるのか、リグルには不思議だった。悪くは無いのだろうが、今日の変な食べ物枠はさっきのたこわさで打ち止めだ。
「確かに悪くないわね。夏は蒲焼きの代わりにこれ出そうかな」
「料理として出すにはもう少し洗練させた方が良いというのと、食中毒の懸念がありますね。今のところ被検体が神一柱と妖怪一人なのでこれはなんとも言えない」
「そっかー、直ぐには無理ね。残念」
ミスティアは気落ちして魚籠を引っ込めた。果たして彼女の性格と鳥頭で八目鰻の刺身は実用化可能なのだろうか。そして、今夏の彼女の商売はどうなるのだろうか。リグルは常連かつ友人として、やはり八目鰻の蒲焼きを出させるために発破をかけるべきと思い直した。
「丑の日には間に合わないからねー。折角のかきいれ時なんだからやっぱ鰻は出すべきだよ」
「ああ、土用の八目鰻というわけですか。ところでお二方、何故土用の丑の日に鰻を食べる風習があるのかご存知ですか?」
久侘歌の問いかけに二人は首を傾げた。由来まで考えたことは確かに無かった。
「平たく言えば、名前に『う』がつくものを食べると健康に良いとされていたのです。栄養学的見地などから掘り下げるともっと色々ありますが」
「じゃあ鰻や八目鰻で無くてもいいのね。暑くないもの無いかな」
「うずらの卵とかどう?」
「何て?」
「すみません。仰ることが良く聞こえませんでした」
冗談のつもりでボケたら、鳥二羽からの反応が冷たい。スズメバチの巣をつついた時並みに生命の危機を感じたので、リグルは慌てて発言を引っ込めた。
「んー、牛と兎はどっちも焼かないと駄目ね」
「梅干しは有りですかね。単品では凄く寂しいですが」
「梅干しと何かかー。あっ、うどん」
そう言ってミスティアはうどんを茹で始めた。炭火は駄目なのにお湯は良いのかとか、屋台の裏にどんだけ食材あるんだよとか、リグルはたいそう突っ込みたい気分だったが、口を挟む暇なくリグルと久侘歌の前に梅干しうどんが置かれた。
二人はとりあえずうどんを啜る。
「うん、美味しいんだけれど、鰻の代わりにはならないね」
それが二人の総意だった。
***
「というか、炭火は駄目でお湯が大丈夫なの謎なんだけれど」
「うどんは冷ますときに涼むことができるから耐えられるのよ。鰻は作り始めたらずっと暑いから駄目」
最初からこれを聞けば良かったとリグルは思った。つまり鰻を焼くときに暑くなければ良いので、それならリグルには心当たりがある。
「じゃあ涼しいところで屋台を開けばいいじゃん」
「そんなところあったら苦労しないわよ」
「霧の湖」
「あっ」
ミスティアにとってこれは盲点だったらしい。ミスティアは霧の湖にも時々行っているはずだが、気づかないことある? まあミスティアなら仕方ないか。
翌晩。霧の湖のほとりに屋台が立っていた。屋台の側にはのぼりが掲げられており、そこには「八目鰻、はじめました」とある。めでたしめでたし。
屋台に吸血鬼とその従者が訪れた。吸血鬼の方が、近くの洋館の主らしい。
「あら、土用の鰻ね。八目だけれど」
「土用は季節の変わり目なので、そこで鰻のような栄養価の高いものを食べようという健康法ですね。もっともうちでは元々栄養価を考えて食事を作っているので無意味な風習ですが」
「それは無粋というものよ。それらしい日にそれらしい物を食べるという行為自体に意味があるの」
「それに関しては完全に同意します。買って帰りましょうか」
「いらっしゃい」
「八目鰻の蒲焼き、お持ち帰りでお願いしますわ」
「はーい。二枚で良い?」
「いや、館の住民全員分だから……百枚くらいかしらね?」
「いやいや、そんなの無理ですって! とりあえずそちらのお二方の分は焼きますし、八目鰻の仕入先と調理法もお教えしますので、あとはそちらで!」
「八目鰻、やめました」
屋台の近くまで来たリグルが読み取ったのぼりの文字列である。「やめました」ってどういうことだ。「とりあえずビールちょうだい」から話を始めようと思っていたが、計画変更だ。
「何なのあれ。あ、それととりあえずビールちょうだい」
ミスティアはビール瓶とグラスを出しつつ、歌姫とも接客とも思えぬ怠そうな声を返した。
「書いてある通りよ。八目鰻は当面出さないわ」
「ここって八目鰻屋台よね? 何で出さないの」
「夏バテなのよ」
答えになっているようでなっていない。確かに今は夏だが、それならば、なおのこと鰻を売り出すべきではなかろうか。
「駄目だよ、鰻を食べて精を付けないと」
「あんたは客だからそんな暢気なこと言えるの。こんな暑い時期に、鰻なんて焼いてらんないわ」
客に対する態度としてどうなんだというのはともかく、言わんとすることは分かった。確かに、夜なのに、熱湯にくぐらせたおしぼりで口を押さえつけられたかのような蒸し暑さだ。炭火を扱うのはさぞ辛かろう。屋台の設備に目を向けると、焼台自体を撤去したのが見えた。本来それが置かれている筈の場所には、八卦炉のような形の突起が二個ついた台が置かれている。香霖堂か河童から仕入れた機械なのだろう。
「大体ね、八目鰻の旬がいつだか知ってる?」
リグルは虫には詳しいが魚に関してはさっぱりだ。ここには常連で年中通っているし、ここの八目鰻は年中美味しい。旬なんて考えたことも無かった。
「正解は冬。それなのに一番不味い季節にそれっぽく出すのはプロとしてどうなの、って話」
「でも今まで夏も出してたじゃん。不味いとは思わなかったよ?」
「牛崎さんって人が養殖しているから、夏場はそこから買っていたのよ。あの人は本物ね。活きが良いのを持ってきてくれるし、八目鰻とは思えない程の大きさまで育てている」
「大きいって、どれくらい?」
リグルの問いに、ミスティアがジェスチャーで答えた。リグルは魚には詳しくは無いが、八目鰻の形くらいは分かる。その上で、牛崎さんとやらが育てている魚、八目鰻というには大きすぎやしないだろうか。ミスティアが話を盛っているというのも大いにあり得るが、それを差し引いて考えても鰻と呼ぶには寸胴すぎる気がする。今まで毎夏食べていた物は、本当は何だったのだろうか? リグルは髪の毛がざわつく感触を覚えたが、気が付かなかったことにして話を続けた。
「逆に、今何なら出せるの?」
「そうね。酒以外だと、枝豆とキャベツとたこわさと……」
「見事に酒のつまみね。枝豆とキャベツと、何だって?」
「たこわさ。タコをワサビで和えた食べ物。知らない?」
「たこってあの空飛んでるやつ? えっ、あれ食べられるの?」
リグルの質問がツボにハマったのかミスティアが爆笑して、数分間会話が中断する羽目になった。
「ぷぷぷ、その、くくっ、たこじゃ、ないわよ。ふー、海の、生き物、らしいわよ。ハハハ」
海の生き物なら幻想郷住民が知らなくても当然である。なんでそんな笑われなければならないのか。ちょっと待て、何でミスティアが知っている?
「何で海産物がここにあるのよ」
「八目鰻の代わりに牛崎さんから買ったのよ。まあ牛崎さんもタコそのものは育てていないらしくて、正確には、アンモナイトっていうタコに近いのね。食べる?」
牛崎さん、本当に何者なのだろうか。そして、この店主は未知の食材のさらにもう一段階得体の知れないものを食べさせようとしている。一周、いや、三周くらい回って気になる。タコ、もといアンモナイトとやらの味とミスティアの頭が。リグルはたこわさを注文した。
予め作り置きしておく類の料理のようで、すぐに小皿に盛られたたこわさがリグルの目の前に現れた。縁が赤く他が白いスライス状の何かに、くすんだ色のたれがかかっている。本物のタコも赤色で、牛崎さんが気を利かせて赤色のアンモナイトを売ってくれたらしい。リグルにとっては、色が赤だろうが黒だろうが何だろうが未知の食材であることは変わらないので、要らない気遣いである。たれはなんとも形容しがたい色合いだが、緑色も見える。これはワサビのもののようで、鼻を抜ける辛味がリグルに刺さった。特段ワサビが好きという訳でもないが、何もかも未知の中で、嗅ぎなれた匂いが暗闇の中の一筋の光となっていた。
リグルはたこわさに箸を伸ばした。
「コリコリしているね。って、辛い!」
「そりゃワサビを入れているからね。もっと味薄くした方が良かった?」
「いや、このくらいの方が酒には合うわね」
予想に反して普通に美味しいということにリグルは安堵していた。で、結局タコとは、アンモナイトとは、何なのか。海産物とか言うので魚のようなものを想像していたのだが、実際にはよく分からないものの輪切りである。食感から予想すると貝の一種なので、貝なのだと思うことにした。もしかしたらミスティアに聞けば調理前のものを見せてくれる可能性はあるが、それは危険だと虫の知らせが囁いていた。
***
「おや、先客の方がいらっしゃいましたか」
「まだ席空いていますよ。どうぞー」
リグルとミスティアがたこわさで盛り上がっていると、もう一人客が来た。ニワタリ神の久侘歌である。ミスティアの屋台は彼女の生活圏から外れてはいるが、同じ鳥類解放運動家としてのよしみで、ときどき帰り道を忘れたふりをして屋台に立ち寄る。ただ常連ではないので、いつまで経ってもミスティアに顔を覚えてもらえていない。常連扱いされず、かつ味の保証があるという店というのは凄く貴重なので、逆に有り難いが。
「おや、たこわさですか。私も頂きましょうか」
「ご存知なのですか?」
「ああ先客さん、始めまして。久侘歌と申します。ええ、漁師の牛崎さんという人と知り合いでして。彼女に振る舞ってもらったことがあるのです。こっちでも食べられるとは」
たまたま来た客がたこわさを知っていたことで、タコを知らない自分は世間知らずなのでは、という疑念がリグルに生まれていたが、それは杞憂だったようだ。ただ今度は牛崎さんという人が物凄い有名人である可能性が浮上し、その人を知らない自分は結局世間知らずなのではという疑惑が発生したが。
「ここの魚も牛崎さんから仕入れているそうです。あっ、私はリグルと申します」
「成程道理で。彼女、三途の川で養殖業をしておりまして。仕事場から幻想郷まで遠いので販路拡大が大変だと愚痴っていたのですよ。上手くいっているようで何よりです」
やたら得体の知れない物を育てている人だなと思っていたが、三途の川の人なのなら納得だ。……え?
「それよりも八目鰻はやっていないのですね。残念です」
魚の出処にリグルは箸を落とすレベルで驚いていたが、久侘歌のつぶやきで我に返った。そうだ。そもそも鰻を食べに来たんじゃないか。
「夏バテしちゃって、鰻を焼くのがしんどくてね」
「そんなこと言っちゃ駄目だよ。八目鰻に期待して初めて暖簾をくぐったお客さんが可愛そうじゃん」
久侘歌はここに来るのは始めてでは無いのですけどね、と訂正しようと口をはさみかけたが、それは野暮だろうと止めた。久侘歌自身の地位よりも、店主の無気力のが由々しき問題だ。
「私のことはお気になさらず。でも、八目鰻屋なのにメインを出すことはできないというのは、確かに良くないですね」
ミスティアは屋台の奥から魚籠を取り出して、手を突っ込んだ。中には八目鰻が入っていた。
「まあ私も良くないとは思っているから、昼に涼むついでに何匹か捕まえて来たのよ。今日はこの姿だけ見て手打ちにはできない?」
「縁起物じゃないんだから。じゃあその分はお金見せるだけね」
リグルによる変化球の返しを聞きつつ、久侘歌は八目鰻を眺めていた。確かに旬のものに比べれば肉付きなどが劣るが、十分食用に値する見た目だ。
「んー、八目鰻の刺身って作れます?」
久侘歌の思わぬ注文に、ミスティアと、ついでにリグルの目が点になった。
「えっ、作れなくはないけど、味と、あと食あたりの保証ができないわよ」
「ただの興味本位なので、味は問いませんよ。健康面のことも心配ご無用です。なんせ私は神様なので」
幻想郷では珍しくもないとはいえ、お客様は神様(物理)だった。ミスティアはいそいそと八目鰻を捌き皿に盛り合わせる。
生の八目鰻の切り身はピンク色をしていた。八目鰻どころか生魚の切り身自体が珍しい幻想郷である。久侘歌とリグルは奇異の物に対する視線を八目鰻に注いでいた。
「それでは」
久侘歌は切り身を口に含んだ。咀嚼に時間がかかっているのかしばらくそのままで、屋台は久侘歌の口以外時が止まったかのように沈黙していた。
「魚ではないですねこれ」
ようやくひと切れ目を呑み込んだ久侘歌が口を開いた。不評だったか。
「かなり固くて独特の歯ごたえがある。魚と思って食べたら残念でしょうが、肉の刺身と思えば悪くない。欲を言えば、川魚特有の臭みを抜くことができれば満点といったところです」
久侘歌の感想を聞いてミスティアも一切れ食べていた。人は、いや人ではなくて神様と妖怪だが、どうしてゲテモノを嬉々として食べるのか、リグルには不思議だった。悪くは無いのだろうが、今日の変な食べ物枠はさっきのたこわさで打ち止めだ。
「確かに悪くないわね。夏は蒲焼きの代わりにこれ出そうかな」
「料理として出すにはもう少し洗練させた方が良いというのと、食中毒の懸念がありますね。今のところ被検体が神一柱と妖怪一人なのでこれはなんとも言えない」
「そっかー、直ぐには無理ね。残念」
ミスティアは気落ちして魚籠を引っ込めた。果たして彼女の性格と鳥頭で八目鰻の刺身は実用化可能なのだろうか。そして、今夏の彼女の商売はどうなるのだろうか。リグルは常連かつ友人として、やはり八目鰻の蒲焼きを出させるために発破をかけるべきと思い直した。
「丑の日には間に合わないからねー。折角のかきいれ時なんだからやっぱ鰻は出すべきだよ」
「ああ、土用の八目鰻というわけですか。ところでお二方、何故土用の丑の日に鰻を食べる風習があるのかご存知ですか?」
久侘歌の問いかけに二人は首を傾げた。由来まで考えたことは確かに無かった。
「平たく言えば、名前に『う』がつくものを食べると健康に良いとされていたのです。栄養学的見地などから掘り下げるともっと色々ありますが」
「じゃあ鰻や八目鰻で無くてもいいのね。暑くないもの無いかな」
「うずらの卵とかどう?」
「何て?」
「すみません。仰ることが良く聞こえませんでした」
冗談のつもりでボケたら、鳥二羽からの反応が冷たい。スズメバチの巣をつついた時並みに生命の危機を感じたので、リグルは慌てて発言を引っ込めた。
「んー、牛と兎はどっちも焼かないと駄目ね」
「梅干しは有りですかね。単品では凄く寂しいですが」
「梅干しと何かかー。あっ、うどん」
そう言ってミスティアはうどんを茹で始めた。炭火は駄目なのにお湯は良いのかとか、屋台の裏にどんだけ食材あるんだよとか、リグルはたいそう突っ込みたい気分だったが、口を挟む暇なくリグルと久侘歌の前に梅干しうどんが置かれた。
二人はとりあえずうどんを啜る。
「うん、美味しいんだけれど、鰻の代わりにはならないね」
それが二人の総意だった。
***
「というか、炭火は駄目でお湯が大丈夫なの謎なんだけれど」
「うどんは冷ますときに涼むことができるから耐えられるのよ。鰻は作り始めたらずっと暑いから駄目」
最初からこれを聞けば良かったとリグルは思った。つまり鰻を焼くときに暑くなければ良いので、それならリグルには心当たりがある。
「じゃあ涼しいところで屋台を開けばいいじゃん」
「そんなところあったら苦労しないわよ」
「霧の湖」
「あっ」
ミスティアにとってこれは盲点だったらしい。ミスティアは霧の湖にも時々行っているはずだが、気づかないことある? まあミスティアなら仕方ないか。
翌晩。霧の湖のほとりに屋台が立っていた。屋台の側にはのぼりが掲げられており、そこには「八目鰻、はじめました」とある。めでたしめでたし。
屋台に吸血鬼とその従者が訪れた。吸血鬼の方が、近くの洋館の主らしい。
「あら、土用の鰻ね。八目だけれど」
「土用は季節の変わり目なので、そこで鰻のような栄養価の高いものを食べようという健康法ですね。もっともうちでは元々栄養価を考えて食事を作っているので無意味な風習ですが」
「それは無粋というものよ。それらしい日にそれらしい物を食べるという行為自体に意味があるの」
「それに関しては完全に同意します。買って帰りましょうか」
「いらっしゃい」
「八目鰻の蒲焼き、お持ち帰りでお願いしますわ」
「はーい。二枚で良い?」
「いや、館の住民全員分だから……百枚くらいかしらね?」
「いやいや、そんなの無理ですって! とりあえずそちらのお二方の分は焼きますし、八目鰻の仕入先と調理法もお教えしますので、あとはそちらで!」
ミスティアの商売する気のなさが気だるげでよかったです
リグルのツッコミにも笑わされました
あと鰻が食べたくなりました
小話として完成されていて小気味よく読むことができました。