Coolier - 新生・東方創想話

屠蘇の夢、酒の扉 リマスター版

2022/07/15 23:31:22
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 新年に向けて下したばかりの青空が何処までも広がり、湯葉の様に薄く引き伸ばされた薄雲が漂う。そんな清楚に着飾った寒天とは裏腹に地上に目をやると、艶やかな色彩が網膜に焼き付いているのかと錯覚してしまうほど、煌びやかな着物を着込んで初詣に訪れる参拝客が目に入るだろう。
 日付は一月一日。ここは地元住民に「祇園さん」で親しまれ、全国的にも人で溢れかえり、異様な湿度と熱気に包まれると有名な「祇園祭」の胴元でも知られる東山区祇園町にある八坂神社。ここに訪れた者達は、息を合わせたかのように四条通に面している八坂神社西楼門から八坂神社の階段を上り、順路に沿って参道を歩いて本殿へと向かう。初詣を済ますと、境内にある屋台で甘酒や御神酒を舐め、おみくじの結果で一喜一憂し、お守りを買い求める為に長蛇の列に並び、境内にある屋台で豪遊する。そんな境内はまるで土鍋の許容量を遥かに超える具材が無理に詰め込まれ、新たな創設神話の幕開けにでもなりそうな神秘的な寄せ鍋のようにごった返しており、もはや闇鍋と言っても過言ではない。
 西楼門から西にまっすぐに伸びた西条通、ふやふやと蛇行しながらも南北を貫く東大路通からもひっきりなしに人が押し寄せ、境内と同様に混沌と化していた。
 出店、屋台、福袋、新春初売り、新酒の路上販売、京都美人、お正月雑貨等々。様々なものに目移りをして気分が高揚するのは仕方がないことではあるが、私たちはいましがた炊かれたばかりの小豆と見紛うばかりの人がひしめき合う中から、今作の主人公である彼女たちを見つけなければならない。
 その二人は北から東大路通を下り、八坂神社に向かって歩みを進めていた。しかしながら、人の垣根は想像以上に険しく、周囲の浮き上がる空気とは裏腹に辟易とした面持ちをしている。
「人混みが思っていたよりも凄いわね。これなら雑草をかき分けている方が良いわ」
「同感」
 右の女性は黒い中折れ帽に渋い色合いのダスターコートがよく目立ち、もう片方にいる女性は白い水海月のような帽子をかぶり薄紫が鮮やかなニットのワンピースに黒いストールをマフラー代わりに肩からかけていた。
 この陰鬱たる様相で人混みをかき分ける二人が今作の主人公であり、「秘封倶楽部」に所属する宇佐見蓮子さんとマエリベリー・ハーンさんである。
 秘封倶楽部とは、なにか。
 秘封倶楽部とは、彼女たちが立ち上げた大学のサークルである。彼女たちはそのサークルを本拠地として、好奇心の追い風に行動力で編み上げた帆を張って全国津々浦々駆け巡っている。無論、大学側にサークルを作るにあたり、必要な書類を提出するという野暮なことはしておらず、周囲からは「不良サークル」と言う非常に高い評価を得ている。
 そんなにしてまで何を追い求めているのか。それは現時点において触れてはならない、暴いてはならないとされている「結界」の調査である。結界とは様々な場所、秘匿されている空間、過去にさえも繋がっている「出入口」もしくは「窓」と二人は考えているが、結論は出ていない。だからこそ好奇心が刺激されるのであろう。
 世は科学世紀。
 科学は何処までも幻想を「現実」に塗り替え、塗り残された者は「現実」の影である結界に紛れて跳梁跋扈する。目には映らないだけで、賀茂大橋の下、深緑に支配される鞍馬山、旧酒場が軒を連ねる木屋町にも彼らは居るのだ。
 そんな彼らをまるで大岩をひっくり返して虫を探す子供のように、好奇心のまま暴こうとする二人の女子大生がいた。それが宇佐見さんとハーンさんである。
 今回はそんな秘封俱楽部のお二人と、お屠蘇にまつわる一月一日の物語。
 物語は二人が初詣を終えたところから幕を開ける。



 西楼門の階段上り境内に足を踏み入れると同時に辺り一面を埋め尽くす人の荒波は、秘封倶楽部の二人を人酔いに導くのは容易なことであった。順路に沿って右に進み、本殿前に貼り出された男女年齢順の厄年が書かれた表を意味もなく見つめる頃には、もう彼女たちはうんざりとしていた。
何とか八坂神社本殿の前に辿り着くと、賽銭を投げ入れ厳かな縄を振って鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼。とりあえず思いついた願いを心中で述べたのち、そそくさと逃げるようにして刃物の神様の傍にある参道を通り、八坂神社の東側にある円山公園に避難した。
 彼女たちの耳の奥底では未だに八坂神社で聞いた周囲の喧騒と玉砂利を踏みしめる音が鼓膜の至る所に染み付いており、やや伏し目がちになりながら、円山公園にある観光客向けの茶屋で購入した甘酒をちびちびと飲んでいた。
「ねぇ蓮子。私たちも含めて、有象無象の願いを本当に神様は聞いているのかしら?」
「さぁね。人間でも十人までは同時に人の話が聞けたんだから大丈夫なんじゃない?」
 ハーンさんの問いかけに、宇佐見さんは中折れ帽の座り心地を正しながら、ぶっきらぼうに返事を返す。新年早々、この円山公園及び京都全土に置いて、新年特有の意味もなくなんだかおめでたい雰囲気を微塵も醸し出さないのは、恐らくこの二人だけであろう。
 周りを見渡せば凧揚げをする家族連れに、大学生と思われる浮かれる男性御一行、着物を乱れるのも構わず羽根突きに白熱する男女カップル、連れ添って着物姿で歩く老夫婦、まさに絵に描いたような正月の風景ではありませんか。その風景画をまじまじと眺めたとき、やけに黒々とした着色が悪い箇所があれば、それは恐らく彼女たちだ。
 彼女たちにとっては、鬱蒼と生い茂る草木が我が物顔で支配する森林、湿気が十分に染み渡り濃厚なカビが住みつく廃墟、静寂が潜む荒涼とした神社や寺に足を踏み入れることは造作もないことだが、この異様にガヤガヤとした雑踏の中に踏み入れるのは苦手であった。
 宇佐見さんが顔を上げると、八坂神社の隣にある長楽館の真っすぐと槍の様に伸びた尖塔が目に入る、そうすると彼女はなんと気なしにハーンさんと長楽館でアフタヌーンティーをしたことを思い出し、少しため息をついた。あの古風で鮮麗された洋館作りの内装、季節の食材がふんだんに使われた洋菓子の数々、芳醇な香りを纏った紅茶、騒ぎ立てる者も居らず穏やかに時が流れる空間がどうにも恋しくなり、本能が求める「癒し」を目指して飛び込もうかと思ったが、この後の予定があることを思い出し何とか踏みとどまることが出来た。
「どうして八坂神社の隣に長楽館なんて洋館を建てたのかしら?」
 しかしながら、思いの残留物が話題となって宇佐見さんの口からまろび出る。
「そうねぇ、確か長楽館を建てたのは煙草で儲けた日本人だったと思うけどそれ以外は知らないわ。まぁ、どんな文化でも気にせずに寛容に受け入れて組み合わせるのは日本らしいと思うけど」
 そんなことを話しながら甘酒を舐めていると、どうやら八坂神社の喧騒が円山公園を徐々に浸食しているようで、先程まで見られなかった艶やか着物姿の集団が目につき始めた。それに気付いた二人は「またもやあの人ごみに飲まれるのは面倒だ」と、互いに思いを巡らせると甘酒を飲み干してそそくさと円山公園を後にした。
 彼女たちは八坂神社から一旦距離を取るために、人の流れに逆らいながら知恩院の南門を抜ける。知恩院周辺も参拝客で賑わってはいたが、二人の顔を歪ませるほどではない。そのまま八坂神社近辺を迂回するように鴨川の方に抜けると、二人は目的地である木屋町へと向かう。
 宇佐見さんは道すがら思い出したかのように、ダスターコートの右ポケットから正方形の白い紙包みを取り出した。中には顆粒状のものが入れられているらしく、揺れると砂のようなものがこすれ合う音が聞こえる。不用な誤解を招く恐れがあるので一応説明しておくが、それは法に触れるものではなく、先程甘酒を購入してきた際におまけで渡されたものだ。その紙包みには朱色で解読不能の文字がうねうねと記され、唯一読めるのは黒い筆で「屠蘇散」と書かれている文字だけであった。
「これってあのお屠蘇よね?」
「そう、今日の主役が早々にお出ましね」
 二人は数日前、まだ新年が年明けに向けて準備体操を始めていた頃に記憶は遡る。

 〇

 旧型酒を中心に取り扱う店を「旧酒場」と呼ばれ始めて早数十年。そんな旧酒場が軒を連ねる木屋町界隈は、日本屈伸の旧酒場街として有名で日夜酒気に包まれている。
 昨今の京都では近代化が進み、特に上京区、下京区に対しての再開発の力の入れようは凄まじく、上京区は瞬く間に科学世紀に相応しい街並みに塗り替えられていった。
 そして木屋町、河原町通、四条通も例に漏れず、近代化に伴う再開発事業の魔の手が伸びようとした時、京都府は思わぬ伏兵と対峙する。それが木屋町であった。何故か木屋町周辺だけは再開発が思い通りに行かず、京都府の職員からは「酒好きの神様に守護される」と言う噂まで囁かれた。木屋町は京都御所の近くと言うのもあり、どうしても街並みを一新したい京都府は根気強く木屋町と向き合ったのだが、人的、自然的、超常的な問題が次々と巻き起こり、今でも京都府関係者に根強いトラウマを植え付け、語ることすら憚られる「京都 下鴨五里騒動」がきっかけで、木屋町の再開発計画は頓挫してしまい、今も木屋町界隈だけは洗練されていない昔ながらの古い町並みを保ち続けている。
 さて、木屋町を悠然と流れる高瀬川に背を向けて、影が深い石畳みが敷かれた路地に一歩足を踏み入れよう。足元に気を付けながら、木の根っこのように絡み合う木屋町の路地を右往左往していると、やがて影を払うかのように暖かい光を放つ外灯と、その軒先にある小さな御影石の狸がよく目立つ、旧酒場BAR「狸」に辿り着くだろう。
 BAR「狸」の赤茶けた丸い窓ガラスがはめ込まれたドアを引けば、店の中に押し込まれていた旧型酒の匂いと安価な合成煙草の香りが脇をすり抜けて、深い木屋町の夜へ逃げだして行く。明らかに人間にとって有害物質である彼らを見送って店内に入ると、先程見たばかりの秘封俱楽部の二人がカウンターで酒を嗜んでいた。とある騒動がきっかけで、ここの店主と仲良くなった彼女たちは、時間と懐具合を見比べながらこの店によく訪れているのだ。言うなれば、ここは彼女たちにとって「行きつけの店」である。
「旧型酒を飲むと身が清められる気がするわ」
 ハーンさんは少し赤らめた頬に笑みを浮かべながら天狗の赤ら顔と畏怖を詰め込んだ「ブロンズ・ボール」と言う旧酒カクテルを口に含み、その複雑な甘味と苦味の応酬に彼女は更に口角を上げる「新型酒も飲みやすくて良いけど、どうせ飲むならこっちが良いわね」
「それはそう」
 彼女の意見に賛同するかの様に、気取った黒いお猪口に注がれた「にごり酒「饂飩雲」」に宇佐見さんは口をつける。日本酒にも拘らず、その味わいは「初恋の味」と謳われた甘酸っぱい甘さが特徴の乳酸菌飲料とよく似ていた。
 曖昧な光を投げかける照明、音飛びが目立つレコード、琥珀色のカウンター、ぴかぴかに磨き上げられた達磨等々。店内は一見落ち着いた印象を思わせるものの、壁付けの棚や空いたカウンターの隅には模型やお面、本から絵画など雑多なものが多く飾られており、どれもが二人の興味を引く。
 そんな有象無象のコレクションがひしめき合う中で、一際興味を引いたのは「お屠蘇有〼」と言う小さな張り紙であった。
「ねぇメリー、あれって何か分かる?」宇佐見さんはハーンさんのファーストネームである「マエリベリー」の発音が難しいという理由で、彼女のことを「メリー」と言う愛称を付けて呼んでいる。そのことに対して、当初は「どうしてマエリベリーがメリーの語源になるのか」というもっともな疑問を彼女は宇佐見さんにぶつけていたが、付き合いが長引くにつれて何故だか気にならなくなり、今もなお疑問に思いながらもメリーと言う愛称を受け入れていた。
「ええっと、確か「おとそ」よ。ほらお正月に飲む」
「あれってお神酒じゃないの?」
「お神酒とお屠蘇って両方あるのよ、違いはよく知らないけど」
 二人がお屠蘇論争に花を咲かせているとカウンター越しでその話を聞いていた、BAR「狸」の副店主である夜麦さんが合成煙草の煙をもうもうと吹かしつつ、器用に丸渕サングラスのレンズを拭きながら彼女たちの方に振り向く。
「お二人さん、お屠蘇飲みたいの?」そう言うと彼女はサングラスをかけなおし、残り短くなった煙草をカウンターの内側に置いてある灰皿にねじ込む。「あれ正月限定だから、今は作れないんだ、ごめんね」
「お屠蘇ってどんな味なんですか?」
「そうだなぁ、私もここで飲んだのが始めてだったけど結構美味しいよ。店長曰く「四国の薬師寺で修行していた頃に、そこの腐れ住職に教えてもらった」そうで」
「絶対に嘘じゃないですか」宇佐見さんの鋭い指摘に対して夜麦さんはエキセントリックな頭髪を揺らしながら笑って答える。
「絶対に嘘だけど、味は本当に美味しいよ。素材も手作りしてるらしいし」
 そう言うと夜麦さんは何かを思い出したかのように、灰皿の隣にあった「年末年始の予定」と書かれた紙に一通り目を通すと、それを二人の前に差し出した。
「ここ、三が日の間は昼から店開けるからさ。もしお屠蘇が飲みたかったらおいでよ」
 こういう経緯があり、宇佐見さんとハーンさんは八坂神社で初詣を済ませると木屋町へと向かったわけなのだが。この夜「ただお屠蘇を飲むだけではつまらない」と言うことで秘封倶楽部の二人は互いにルールを設けて、お屠蘇のことについて調べることにした。
 期限は三日間、インターネットを使用せずにお屠蘇について調べて、知識を出し尽くした方が負けという知恵比べのようなものであった。何故そのような話の流れになったのか。
 それは単純に、クリスマスを終えて以降、年末年始にやることがなかったからである。

 〇
 
 年末年始の過ごし方は概ね二つに分けられる。退屈か、忙しいかだ。
アルバイトもしておらず、大学も正月休みに入るので、秘封俱楽部の二人は前者にあたる。彼女たちは、せっかくの正月なので実家に帰ろうかとも思ったが、正月特有の雑踏に巻き込まれるのは億劫で仕方がなく、それに決して安くはない旅費もかかる。例え実家に帰っても怠惰な生活を送るだけだろうと考えたので止めにしておいた。
 そうなると、次に考えるのはどのようにして正月を過ごすかだが。宇佐見さんとハーンさんは互いに「とりあえず、彼女と過ごしていれば何かしら起こるだろう」と無責任に期待を寄せていた。そして無意識の以心伝心に近い心のやり取りは、思いのほか正確だったのである。
 彼女たちは八坂神社に流れる人の波を迂回して川端通に出ると、南へ下り四条大橋を渡り木屋町へと訪れた。四条大橋から見える鞍馬山、その奥にもそびえる山々は色白に様変わりしている。冬の鴨川と言うのは川上から川下へ風が一直線に吹き抜ける、通称「下鴨おろし」がやって来るので非常に寒々しいのだが、寒さなど意に介していない正月の熱に浮かされた多くの人々が鴨川の土手沿いをぞろぞろと歩いており、その賑わいは鴨川の水量にも引けを取らず、四条大橋を下から揺さぶっているようであった。
 四条河原町交差点に向かって流れ込む人々を交わしながら四条交番の角を曲がり、先斗町から木屋町へと向かう。正月と言うことで昼間から飲酒を堪能する者も多く、木屋町の路地には履いて捨てるほどの酒気と熱気がのさばっており、新年の風に辺りながら涼んでいるめでたい赤ら顔の者も少なくない。そんないつもの光景を横目に見ながら、いつもの決まった道を歩いて行くと、やがて赤い生地に「お屠蘇有〼」と白文字で大きく書かれた幟旗を掲げるBAR「狸」が目を惹いた。一目見るだけで、ここの店主がお屠蘇に対して並々ならぬ熱い想いを持っているのがよく分かるのだが、彼女たちが店の扉を開けてみると、そこでは誰もお屠蘇は啜っておらず、日本酒を舐める客が七割を占めていた。ちなみに残りの三割は夜麦さん特製のぜんざいを堪能している。そんな様子を無言のままカウンター越しから眺めるBAR「狸」の店長である貉氏は「偉丈夫」と言う言葉の意味を体現した風貌を縮ませて、研いだような鋭い眼光を潜めながら何処か憂いに満ちていた。
 入り口付近にある四人掛けのボックス席と、左の壁際に幾つかある二人掛けの席も埋まっており、いつも案内されるカウンター席にも人が詰められている。長方形の店内にこれだけの人が詰め込まれている光景を目にするのは初めてであり、彼女たちは思わず愕然とした。
 みちみちと木箱に詰まった箱寿司のような店内を見て引き返そうとすると、手前にある席にお酒を運んできた夜麦さんと彼女たちは偶然目が合い「ちょっと待ってね」と読み取れるサインを出されたので、暫くその場で待っていると接客が済んだ彼女は「混んでるから二階へ」と二人だけに聞こえる声で囁き、カウンター席の左奥へと案内する。
 店の左奥と言えば、厠しかないと二人は思っていたのだが、厠に繋がる扉付近に飾られている、狸たちが車座になって宴会している様子が描かれたタペストリーの端を夜麦さんが翻すと、そこにはえらく年季の入った階段がのっそりと腰を据えていた。
「狸の隠れ道。こういうの、お客さん好きでしょ?」
「もちろん」
 ハーンさんは好奇心に満ちた表情で口早にそう答えると、階段の手前で靴を脱いで我先にと階段を小気味いい音を鳴らしながら上がっていく。それを追うようにして二人も階段を上がると、階段と部屋を繋ぐガラス戸があるのだが、それはもう既にハーンさんの手により開かれている。
 狸の隠れ道を抜けると、そこには南の側に大きな窓があり、木屋町周辺を一望できる六畳一間の質素な小部屋があった。
 敷かれた畳は日焼けしており、畳を踏みしめる度にギシギシと床は小さな悲鳴を上げて、漂う空気は妙に埃っぽい。夜麦さんは部屋の真ん中を陣取っている古めかしい丸いちゃぶ台を布巾でさっと拭うと、部屋の隅に重なっていた深緑の座布団とひざ掛けをちゃぶ台の近くに二つ並べ、最後には座布団の隣に佇んでいる、小型石油ストーブのスイッチを入れる。
 一方宇佐見さんは、大きな窓から京都の街並みを眺めていた。河原町通りに連なる摩天楼が真新しい空を穿とうとせんばかりに背筋を伸ばし、その足元にはアリの巣よりも複雑怪奇に入り組んでいる古い木屋町の街並みがよく見える。彼女はそれを見て、まるで木屋町界隈だけが時間の流れに取り残されているような不思議な感覚を覚えた。
「ここは団体で来た常連さんや、私と貉さんがたまに休憩に使っている隠し部屋。注文する時はそこにある内線電話を使って。最初に注文聞いておこうか?」
「じゃあ、お屠蘇下さい。蓮子もそれで良い?」
「異議なし。お冷も貰っていいですか?」
「おっけー、お冷とお屠蘇二つね。じゃあ塩胡椒少々お待ちをー」
 夜麦さんは音もなく、少し黄ばんだガラスがはめ込まれた引き戸を閉めると、慌ただしい様子で喧騒が湧き出る一階へと下りて行った。足跡が遠いたことを確認すると、ハーンさんと宇佐見さんの二人は目配せをして、早速調べて来たお屠蘇とそれにまつわる、もしくは関係ありそうなものをまとめたノートを互いに取り出した。
「では早速」
 そう言うと彼女たちは握りこぶしを握り、互いに突き合わせる。互いの瞳が交差して、剣吞な空気が六畳一間に広がる。
一時の静寂、それはぴちぴちと暢気な野鳥の鳴き声が聞こえた時、破かれた。
「じゃんけん、ぽん」
「じゃんけん、ぽん」
 勝者は宇佐見さんだったので、彼女は早速手元にある「秘封倶楽部活動用No.5」と書かれたノートを開き、目を輝かせた。

 〇

「お屠蘇とはなにか」
 宇佐見さんはもったいぶった口調で見栄を張る。
「平安時代の初期、五二代目天皇である嵯峨天皇のときに中国から日本に伝来したと言われ、平安貴族の間で正月行事の一つとして取り入れられる。どのように伝来したかは所説あるが、私が最も有力と思うのは中国の和唐使として訪れた蘇明氏が薬子と共に「屠白散」という霊薬を持参して、天皇に献上。それが日本の正月における屠蘇文化の始まりという説。ちなみに「屠蘇」と言う名前の由来は、こちらも所説あるものの、総合的に見てみると「悪鬼を屠り、魂を蘇生させる」と解釈されているものが多い。悪鬼とは「病気」のこと「魂」とは体を意味する」
「その根拠、もしくは確証たる理由は?」
「土佐日記と和漢三才図会巻より。和漢三才図会では「屠蘇酒」という項目があり、そこには四方拝を終えたあとに飲まれたという記載がある。土佐日記も概ねそんな感じ。蘇明氏に関してはあまり記述がなく、博士や医者などという呼ばれ方もしているみたい」
 ハーンさんは宇佐見さんの話の内容を咀嚼しながら、自分の手元にあるリングファイルに目を通す。何かぷつぷつと泡が弾けるような独り言を呟いたのち、宇佐見さんに対して笑みを浮かべた。
「ここまでは私の調べたことと概ね一致しているわね」
「やることもなかったから、卒論に四苦八苦する先輩方に混じって一日八時間ぐらい図書館にへばりついていたわ」
 宇佐見さんは図書館にいるとは思えない程に張りつめた雰囲気を思い出し身震いがした。あの室内の空気たるや、暇つぶしの興味本位で図書館を利用していることが露呈すると、「卒論製作者優先主義」を掲げる自警団たちから締め出される恐れがあるからだ。幾つか言葉をハーンさんと交わしてから、彼女は再度手元のノートに目を落とす。
「やっぱりお屠蘇をお正月の風習に入れたのは、嵯峨天皇なのかしら?」
「恐らく。まぁ自分が飲むものだし、私が嵯峨天皇だったら一回飲んでから風習に取り入れるか決めるかな」
 ハーンさんは嵯峨天皇の心境を夢想している間にも、宇佐見さんはお構いなしに話しを続ける。
「お屠蘇の製作者の話に移るけど。個人的には仙人が作った説を推したいんだけど、どうかな?」
「そうよねぇ、私たちとしてはそっちのほうが面白そうだもんね」
「その辺はメリーの目で上手いこと見れないの?この前の信州の時みたいに」
「深い関わりがある物や、もしくはその真に迫る物。それこそお屠蘇の製作者と言われている「華陀」の私物とかがあれば、そこから紐づけられると思うんだけどね」
 ハーンさんはこの科学世紀において、数少ない証明されていないものの一つ「結界」を裸眼で見ること、さらにはその結界の中へ入ることも出来るのだ。「結界」その先は、異世界、過去、変な場所に繋がっているのだが、二人もイマイチ理解は出来てはいない。ちなみに現在の科学力では、現在彼女たちが居る六畳一間では収めることができない程の大金が必要な大掛かりな機械を使用して「結界」を見ることしか出来ず、そんな世界的に貴重且つオカルト的な彼女の目を宇佐見さんは「変な目」と呼んでいる。
「その華佗が仙人だったら?」
「だと良いけどね」
 淀んだ深みから宝物を探りあてたかのようにハーンさんは笑いながら、ノートを一枚めくる。
「後漢の末。世界で初めて麻酔薬を使用して切開手術を行う。一〇〇歳を超えてもなお若々しく、一目見ただけで病気と治療法を見抜き、民衆から「神医」と呼ばれていたなんて、仙人としての要素はばっちりね。権力者に自分の治療法を理解されず、拷問の末に亡くなってしまうところも」
「権力者はいつの時代でも、私たちの反面教師になってくれるからありがたいわ」
 宇佐見さんが三国志時代の権力者、華佗の拷問を指示した魏の国の曹操に対して皮肉をこぼしながらも二人の話は続く。
「でも「仙人が作った薬酒」って持ってこられても、私が天皇なら思わず疑ってしまうかも」
「そう?そんなことないと思うけど。だって」
 ハーンさんが何かを言い終わる前に、ガラス戸の向こうから一階の喧騒と共に階段が大きく音を上げる音が聞こえたので、二人は一旦机の上に広げていたノートや筆記用具を机から下した。その音の主は階段を上がりきると、板張りの床に軽い音を鳴らしながら何かを置いて、音もなくガラス戸を開ける。そこには先程一階のカウンター越しで憂いを纏っていたとは思えない程に、日の出と同じような一点の曇りもない笑顔の貉氏が、腰骨を弓のように張って正座をしていた。
「あけましておめでとう、常連のお二人さん。いやぁ今年に入ってお屠蘇を最初に注文した方として、当店では後世まで語り継がせて貰いますね」
 すれ違う人々、特に警備員全般の警戒心をいたずらに煽る見た目とは裏腹に、落ち着いた口調で新年の挨拶を済ませると、自分の傍らに置いた朱色に染まる食器を持ち上げて畳に一歩足を踏み入れる。二人は座っている態勢で彼の顔を見ようとしたので、やや首を痛めそうになった。
「これは四国の山中にある薬師寺で私が修行していた頃。その寺には、やけに艶めかしい薬師如来坐像がありまして、それに一目惚れをした毛深い色ボケ住職に教えて頂いたお屠蘇でございます」
 そう言うと貉氏は手に持っている鮮やかな朱色のお盆をちゃぶ台の上に置く。お盆の上には、漆塗りの真ん中が丸くくりぬかれた正方形の盃台の上には盃が乗せられ、その隣には銚子が置かれている。そのどれもが夕暮れを流す川面のように豊潤な朱色に染まり、独特な光沢を帯びていた。これがお屠蘇飲む時に使われる屠蘇器である。
「うちのお屠蘇は素材である山椒、ウスバサイシン、防風、シナモン、おけら、桔梗を砕くところから作っており、それを漬け込む為の本味醂と日本酒は京都の酒蔵「珠光酒造」から取り寄せたもの使用しているので、大変美味しいと思います」
 余程注文されたことが嬉しかったのか、その後もお屠蘇について語る貉氏は無邪気な少年のようであった。だが、その喜びもつかの間、一階の騒めきを突き破るほどの声量で貉氏を呼ぶ声が聞こえたので、彼は急いでガラス戸の近くに置いてあった冷水の入ったポットとガラスのコップを机の上に置くと「それではやむぎーが呼んでいるので、これにて」と言い残し、急いで一階へ降りていった。
 貉氏を見送った二人は、早速銚子の上手を持って、鮮やかな盃にお屠蘇を注ぐ。漂う香りは常温にも拘わらず、熱燗のように表情豊かで、どこか古きものの香りがした。それは、初めてきた土地にも拘わらず何処か懐かしさを覚える感覚とよく似ている。
 宇佐見さんとハーンさんは「いただきます」と口をそろえて言うと、まずは一献。
 口の中を陣取る酒の旨味と、味醂の上品な甘味。中々のアルコール度数であるものの口当たりはよく、鼻を抜ける香りは漢方薬のような独特なものを想像していた彼女たちだが、実際には上等な薬草リキュールのように軽やかなものであった。
 二人がこのような感想を抱くのは決して的外れではない。何故なら、お屠蘇とは古来の薬草リキュールの一つだからだ。ちなみに、日本のリキュールの歴史はお屠蘇から始まったと言われている。
「これだけ美味しいなら、正月の文化に取り入れた平安貴族の気持ちが分かるわ」
「確かに、中々の度数なのに飲みやすいから気を付けないとね」
 そう言いながらも宇佐見さんは飲み干した盃にお屠蘇を注ぎ込み嬉々とした笑みを浮かべる。ハーンさんはその様子をみながら、自分の盃に残るお屠蘇に口を付けようとした時、盃に漂うお屠蘇の水面が妙な色合いを放っていることに気付いた。
 ハーンさんはこの光景に思い当たる節があり、興味本位で中心部分を爪先ですっとなぞると、薬研を動かす老人と目が合った。そして、彼女の意識は吸い込まれるようにして、盃の中に落ちていく。


 
 ハーンさんの意識はお屠蘇の水面をくぐり抜けて、盃の底へと辿り着く。その底はとある工房へと繋がっていた。
 冷え冷えとした板間に荒い土壁、謎の茶葉のようなものが入った陶器のうつわ、色とりどりの草花、様々な解読不能な文字が書かれた書物等々。そんな混沌とした蓄積物の狭間にハーンさんはちょこんと座っていった。そして、目の前には様々な用途不明の陶器の器具に囲まれた老人が、膝立ちの態勢で顔をしかめながら薬研で何かを懸命にすり潰している。
 そんな様子をみて彼女は「屠蘇の向こう側に住む老人、これはもしや」と思ったとき、ぬっとハーンさんの方に向けて老人が顔を上げた。
「急に人の工房を覗き見するもんじゃない。この老体が驚いて死んだらどうする」
「え、あぁ、ごめんなさい」
 ハーンさんの返答に、老人は可可と笑うと薬研を動かす手を止めて、肩甲骨をばきばきと鳴らしながら居間に腰を下ろす。あまりにも自然だったので違和感を覚えなかったが、彼女は少し遅れて互いに意思疎通がしっかりと取れていることに驚いた。
「えぇっと、私の言葉が分かるんですか?」
「一応な。ちなみにお嬢さんが思っている通り、わしが華佗。こんな老いぼれの工房に何故いるのかは定かではないが、たぶん未来からようこそマエリベリー・ハーンさん」
 まだ片手で数える必要がない程度のやり取りしかしていないはずだが、華佗氏はハーンさんの思考を読み解くように話す。結界越えのプロである彼女ではあるが、結界の先でこの様に友好的な扱いを受けるのは非常に稀有なこともあり、やや戸惑いながらもその視線は彼の手元に向けられる。そこには到底読むことができない漢字のようなものが規則正しく書き記されている竹簡があった。それを名の気なしに眺めていると、華佗氏は何処からともなく湯吞に液体を注ぎ、彼女に差し出た。
「お嬢さん、熱心に見ているがこれは屠蘇の作り方じゃないよ」
「……なんで私の考えていることが分かるんですか?」
「それは君が教えてくれるからさ」
 要領を得ない返答が腑に落ちないままハーンさんはつい差し出された湯呑に口付ける。そして、瞬く間に彼女は顔をしかめた。
 お茶か何かと予想していたが、実際には高濃度なアルコールであり、舌がひりつき、様々な香味が口腔内を蹂躙して鼻と喉をすり抜ける。その液体は胃袋に収まってもなお発熱して胃袋をじわじわと焦がしながら、存在感を嫌と言うほど見せつけた。
「これが原始の屠蘇。味は如何かな?」そう言いながら華佗氏は顔のしわに沿って笑い、彼自身も手元にあった、お屠蘇に口を付けて満足そうにうなずいた。
「結構な、御手前で」
「お土産にするかい?」
「それは遠慮しておきます」
 ちなみにこの場にあるお屠蘇は、科学世紀を迎えた今日において純粋なアルコール類の一種でありであり、かなり高値でやり取りされている。そんな高価なものとはつゆ知らず、飲み干せるか分からない手元の湯吞に目を向けると、その水面はまたもや異様な色に染まり、彼女の好奇心を撫でる。
 少し前と同じように、ハーンさんは爪先で湯呑に入った屠蘇の水面をなぞる。そこは、見慣れない寺院の一角であった。
「それが君の神通力か」
 いつの間にか、目の前に迫っていた華佗氏に驚いて、ハーンさんは思わず湯呑を落としそうになるが、彼はそのことを前もって予見していたかのような動作で、落下していく湯呑を平然と捕まえた。
「気を付けたまえよ。せっかくの召し物が汚れたらどうする」
 そう言いながら、華佗氏はハーンさんの前に湯呑を置く。非常に胡散臭く、こちらの思考を読まれるという気味の悪い能力を持っているが、彼は史実通り悪い人ではないとハーンさんは判断した。
「それをくぐって時間を超えるのか。非常に奇怪で、原理も不明だが、面白い神通力だ」
「分かるんですか?私の力が」
「まぁ、感覚的に」
 そうして二人して湯呑に映る寺院を眺めていると、不意に華佗氏が自作のお屠蘇を、一合の酒が入る程度の白い陶器の壺に入れるとハーンさんに差し出した。
「これを持っていきなさい。この先に絶対に役に立つから」
「はぁ」
 結界の向こう側で何かしらを貰うことには慣れているので、ハーンさんは特に抵抗もなく、その白い陶器の壺を受け取った。
「わしが思うに」そう言って、華佗氏は自分の手元にあるお屠蘇を飲み干し、少しだけ干し柿のような顔になっている「この工房は出発点であり、この寺院は中間点だな」
「この寺院が何処か分かるんですか?」
「君が教えてくれたから何となくではあるが、まぁ上手いこと出来るように仕掛けを作っておこう」
 平然と理解することが困難な言葉を使う華佗氏に対して「どうしてこんなに胡散臭いことしか言わないんだろうか」と疑問に思いながら、ハーンさんは湯呑に映る寺院に目を移す。
「まあ行けば分かるさ。道中気を付けて。それと、絶対に屠蘇を失くすなよ」
「……分かりました。取り敢えず行ってきます」
「うむ、それではまた。」
 華佗氏にお礼の言葉を述べると、ハーンさんは酒気にまみれた湯呑の洞穴へと手を滑り込ませた。

 〇

 凍てつく風がハーンさんの脇を通り過ぎる。山脈は何処までも連なり、地上に凹凸を刻み込んでいた。
 眼下に広がる景色は夜の底に沈み沈黙を保っている。そんな地上とは裏腹に、頭上では星々が随分と騒がしく光を放ち、やせ細った月はその身を振り絞りながら辛うじて周囲を見渡せる程度に光を投げかけている。
 出てきた場所はハーンさんの予想通り、科学世紀の面影は何処にもなく、久しく失われていた、畏れを孕む夜陰が辺り一面に広がっていた。皆目見当もつかない場所にも思えるが、彼女には少しだけ心当たりがあった。
「ここに蓮子が居たら、もっと確信が持てるんだけど」
 宇佐見さんには月を見れば場所が、星を見れば時間が分かる能力を持っている。彼女曰く「超高度な演算処理が行われている」と豪語しているのだが、そんな世界的に貴重且つオカルト的な彼女の目をハーンさんは「気持ち悪い目」と呼んでいる。
 そんなおかしくも頼りになる親友のことを思いながら、荘厳たる山々に背を向ける。そこには先ほど湯呑の奥で見た小さな寺院が目に映る。
 引き寄せられるように、その寺院の境内にはいると、そこはもう随分と荒れ果てていた。境内は雑草で溢れかえり、石灯籠から落ちた傘は拾われず、屋根はなだらかな坂となるように崩れ落ち、長期に亘り放置されていることがよく分かる。
 一通り見渡すも目ぼしい場所は屋根が崩れた本殿しかなく、念のため「お邪魔します」と声をかけて本殿の板間に足を踏み入れた。歩くたびに小さな悲鳴を上げる床板を気遣いながら、自然と時の流れに蹂躙されて朽ち果てようとする内装を眺めながら本殿の奥へと進む。
 ハーンさんはこの廃寺が何処であるか、確信に近いものを抱いていた。この場所は寂仙、または上仙菩薩と呼ばれる聖人が居た場所だと。
 寂仙とは「日本霊異記」にも記されている人物で、愛媛県の神社の子として生まれた。寂仙は仏門の修行を経た後、数々の霊山を開山させ、数多くの寺を作った。そんな彼が何故お屠蘇に関わってくるのかと言うと、最期に彼が残したと言われる予言がある。
 これから二八年後、国王の御子に生まれ「神野」と名乗るだろう。
 この神野とは、後の五十二代目天皇、嵯峨天皇のことを指し示す。
 ハーンさんは自分の調べた屠蘇のことを思い返しながら、影とかびばかりがうろつく廃寺の廊下を抜けて、天井の板が崩れ落ちてむき出しになった梁を幾度か見送ると、やがて月明りが溜まる中庭に辿り着いた。
 そこには地面に自らの影を垂らしては、その傍にある干上がった池のくぼみに影を注ぎ込んでいる木造の蔵があった。その蔵は幾つもの木材が井の字型に積み重ねられて作られており、遠くから眺めると縞模様にも見える。屋根から落ちた瓦のような物が幾つか地面に放射状に伸びて息を潜め、草木がそれを庇うようにしてその身を伸ばし、朽ちた松の木がその様子をまじまじと眺めている。
 ハーンさんは沓脱石を踏んで中庭に降り、随分と寂しい中庭を渡って木造の蔵に立った。他に目ぼしい場所もないので、蔵を開けてみようと思い、蔵の扉を動かしてみるも鍵のような物がかかっている手ごたえがあった。しかし彼女は諦めず、結界内探索、及び秘封俱楽部活動で培った膂力を腕に込めた。
「持ち主が居たらごめんなさい!」
 そう心中で呟きながら、遠慮なく扉をグイグイ動かしていると、やがて蔵の扉を長年守護してきた鍵は鈍い音を立てながらその役目を終え、パラパラと砂の様に砕けちった。
 ハーンさんは一旦汗を拭うと、恐る恐る蔵の中に一歩足を踏み入れる。蔵の中も寺院同様に荒れ果てていると思いきや、そこは驚くほど整頓され、書物の状態も目を疑うほど保存状態良好に見えたので、つい最近まで誰かが手入れをしているようにも思えたが、床や棚に降り積もる塵たちは長い間ここには誰も立ち入らなかったことを雄弁に語っていた。
 木工品、農具、籠、やけになまめかしい大仏など、様々なものが収められる蔵の中で、ハーンさんは結界の気配だけを頼りに次々と巻物を解いていく。そして、ようやく結界の空気を漂わせる巻物が見つかり、それを解いてみるとやはり彼女の予想通り寂仙のことが書かれているものであった。だが巻末には「結界」の姿はなく、その代わり書かれていたのはやけに黒々とした円のみ。てっきり寂仙が残した言葉が書かれているのだと思っていたので、やや拍子抜けであったが。彼女はこの黒い円に、どこか見覚えがあった。
「まさかね……」
頭では疑いながらも、先週の夜に友人の手にあった黒い酒器が脳裏を過ぎる。
 ハーンさんは右手にあるお屠蘇が入った壺の栓を抜き、黒い円に向けて傾ける。お屠蘇は巻物を濡らすことなく、黒い円に吸い込まれるように注がれると、やがて黒い円に並々と注がれたお屠蘇は巻物の一部となり、その黒い円の表面が彼女を誘うようにぬらりと輝いた。彼女はその誘い乗り、巻物に描かれた黒い円に爪を伝わせると、その部分がぱっくりと割れて、しめやかな瑞々しい床板が見えた。
 そして彼女は、床板に足を降ろす。


 
 新年に向けて下したばかりの青空が何処までも広がり、湯葉の様に薄く引き伸ばされた薄雲が漂う。そんな清楚に着飾った寒天に合わせるかのように、神聖な空気が地上には満ち満ちている。
 先ほどの畏れを孕む宵闇とは対照的だが、その陽の光で満ちる神秘的な空気の中にも畏れの影が見えるだろう。ここは聖域に最も近しい場所であった。
 辺りは不自然なほど静まり返り、少しの足音も千里先まで届くような気さえする。
 足を置くことすら気が引ける程の木材を使用した板張りの廊下、格子状に組まれた木の間からは雪原にも見える程の見事な白川砂が広がり、立派な木造家屋が目に入った。
 結界の境目を感じながら、音を立てない様にそろそろと足を踏み出すも、鴬張りの廊下はやけに騒がしい。
 寂仙の居たと思われる廃寺の次は、広々とした立派なお屋敷。こうなると、大体の予想はつく。そして結界の境目に近づくにつれて、やや酒気が漂ってくると同時に、人の声もちらほらと響き始めた。
 面倒なことになりそうだ。そうハーンさんが思っていると、不意に左側の扉が空き、中から白衣のようなものをきた男性がぬっと飛び出してきた。
「それみたことか!」そう毒付き逃げようとしたが、男の方が少し素早く、ハーンさんはお屠蘇を持つ右腕を掴まれた。その男は剣吞な空気を纏い、彼女の屠蘇を持っていない方の手を掴む。
「やっと見つけたぞ」その男はしかめっ面でハーンさんを見やる。
明らかに身の危険を感じる風貌の男と対峙して、ハーンさんはどうしたものかと思い、必死にお屠蘇の知識を脳内で紐解いていく。ここまでからの流れとして、この場所もお屠蘇と深い関りがある場所には相違ない。であれば、ここに現状を打破する答えはある。
「私は和唐使として訪れた薬子です「屠白散」を信奉しに参りました」
 これは危険な賭けであった。もしこれが平安時代、一月一日、さらには嵯峨天皇の時代でなければ通らぬ嘘であり、彼女の背筋には玉のような汗が幾つも滑り落ちた。
 しかし、彼女は今作の主人公である。そして、主人公と言うのはご都合主義に導かれるがまま、危機的状況を糸も容易く潜り抜けるものだ。
 切羽詰まった彼女の文言とは裏腹に、男は呆れたような声を出す。
「そんなことは知っておる。だから、早く嵯峨天皇様の元へ行くぞ」
「え?」
「何を呆けておる、ほら歩かんか」
「あぁ、はい」
 その男は嵯峨天皇の居る大極殿が見えるところまで案内をしてくれた。大極殿に向かう道中に「なんで自分のことを知っていたのか」とハーンさんが男に尋ねると「妙な恰好をした薬子が今日訪ねてくる。その者は私がどこに居るのか分からないだろうから、もし見かけたら、私の元まで連れてきてくれ」という指令が、この建物に居る全員に出されていたらしい。
 徐々に濃くなる結界の空気は、大極殿の向こうへと続いている。男は身分がどうたらで途中までしか来られなかったが「粗相がないようにな」と笑顔で彼女を見送ってくれた。
 多くの見張りや、検非違使が居るのかと思いきや、不自然な程に人の気配はなく、一枚板を挟んだ向こう側にあの嵯峨天皇が居るとは到底思えない。
 しかし、ハーンさんが呼びかけると重々しい声で返答があり、記憶の中に点在する「礼儀が正しい」と呼ばれる作法を総動員して嵯峨天皇の前へと歩みを進める。
 しかし、そんな付け焼き刃は必要なかった。
「ようやく来たか」聞き覚えがある声、そして身に覚えのある顔にハーンさんは思わず啞然とした。
「お疲れ様、マエリベリー・ハーンさん」
そこには華佗氏と瓜二つ、と言うよりも華佗氏本人が佇んでいた。
「え、どういうことですか?」
「なに、簡単なことよ」そう言うと、ハーンさんが右手に持っていたお屠蘇がいつの間にか彼の懐にあった「仙人は生まれ変わる術を持っているからな」
 可可と笑う華佗氏は壺の栓を抜き、目の前に置かれている盃に並々とお屠蘇を注ぐ。
「華佗は寂仙として、寂仙は嵯峨として生まれ変わったのよ、これの為にな」そういうと、いや華佗氏は手元にあるお屠蘇を見せつけるかのように左右に振る「さぁ、せっかくだから君も飲んでいきなさい」
 ハーンさんは混乱しながらも、華佗氏の目の前に座る。そして彼は彼女の前に盃を置くと、自分と同じ量のお屠蘇をそこに注ぎ、全ての準備は整った。
 そうして、まずは一献。目の前に注がれたお屠蘇をハーンさんと華佗氏が飲み干す。その旨味、香り、そして美味しさに彼女は思わず鳥肌がたった。彼が作ったお屠蘇の味は先ほどとは比べ物にならない程の進化を遂げていたのだ。
「屠蘇は寝かせた分だけ美味くなるように作った。しかしそれを証明するためには誰かの協力が必要であった、自分が一度死ぬことも分かっていたしな。そんな時に現れたのが君だ。わしの時代の屠蘇を君に持たせたのは、この時代まで熟成させるためだったわけよ」
「あんな短時間でよく私を信じましたね」
「君は随分と屠蘇について調べていたようだし、君の技なら上手く時代を超えられると踏んだのよ。そもそも君の持つ好奇心は、半端な所で君を立ち止まらせたりはしないだろうしな」
「まぁ確かに……」
「わしはな、屠蘇に夢を見た、見果てぬ夢を。その夢をかなえるために仙人にもなった。それをあの曹操とか言う若造は……」
 なにかぷつぷつ呟きながら、華佗氏は飲み干した盃にもう一度お屠蘇を注ぐ。
「何はともあれ、生きているうちに叶わなかった「熟成された屠蘇を飲む夢」が、君が来たことでようやく叶った。感謝するよ、マエリベリーさん。あちらの屠蘇も美味いかね?」
「はい、それはとても」
「それは何より、さてお迎えが着たみたいだぞ」
 華佗氏はハーンさんの手元にある盃に人差し指を向ける。彼女は視線を落とすと、そこには盃の中で宇佐見さんが彼女に声をかけているところであった。
「それでは、ご友人によろしく」
 その言葉が背後から聞こえたかと思いきや、ハーンさんは盃の中へ突き落とされた。



「ねぇ、メリー大丈夫?」
 ハーンさんの意識は六畳一間のBAR「狸」の隠れ家へと舞い戻っていた。彼女は座った状態で後ろ向きに倒れていたようで、宇佐見さんがその様子を心配そうに見下ろしている。
 窓の外には鴨川沿いの喧騒、天に矛先を伸ばす摩天楼、それと相反するかのような木屋町が広がっていた。
「大丈夫よ、蓮子。少し酔いが回ったみたい」
「もう、ほらお冷でも飲んで」
 ハーンさんはゆっくり上体を起こすとやけに頭が重く、胃に違和感を覚えた。結界の中とは言え、その中で起こった事柄は彼女に影響を与える。現実と過去で合計三杯濃厚なアルコールを味わったのだ。ただで済むはずがない。
 宇佐見さんから差し出されたお冷に口をつけながらハーンさんは腕時計を確認すると、お屠蘇を頼んでからまだ数分程しか経ってはいなかった。
「メリーはしばらく休んでなさい」
「はーい」
 ハーンさんは宇佐見さんが心配してくれることが少し嬉しいようで、赤ら顔に少しだけ紅を足しつつ、暫く体調が優れないふりをした。ちなみに、ハーンさんがこの日に体験したことを宇佐見さんと語り合うのはまた別のお話である
 
 ○

 こうして筆者が彼女のたちについて語るべきお屠蘇にまつわる一月一日の物語は終わりを告げる。
 世は科学世紀。
 数字の羅列と数式で覆い隠された裏側では、暗々裏に蠢く幾つのも秘密を世界は抱えている。宇佐見さんとハーンさんの心の奥底から溢れ出る好奇心、そして秘匿されたものを解き明かしたいという願望、夢に似た願いは、これからも様々な物語を生み出していくだろう。
 とある老人が、お屠蘇に幾星霜の年月をかけて夢を見続けたように、これからも永遠に。
 どうもお久しぶりです、鉄骨屋です。この小説は史実に基づいて書かれているように見せかけ、実際にある伝承を元に私がでっち上げたものなので、好き勝手書いたことに関して華佗氏と嵯峨天皇には深くお詫び申し上げます。

 この「屠蘇の夢、酒の扉」は秘封倶楽部民間伝承合同企画「はつもうで」という、合同に寄稿させて頂いたSSです。初めて史実を調べながら書いたので「頭の良い人はこんな風に書いているのか」と感心したことを覚えています。私は頭がよろしくないので、最後には酒と妄想の力を借りて書いてました。
 今回は「お正月だし、なんだかご機嫌な作風で行こう」と言うことで、森見登美彦作「聖なる怠け者の冒険」を参考にさせて頂きました。それに伴い、本文のあちらこちらに不審な点が多くみられます。他にも夜麦氏という某何処かの蛍の妖怪を連想させる名前のキャラも出ていましたね。
 当初は「BAR狸で屠蘇を飲んだ後に、京都の屠蘇にまつわる名所を巡る」といった内容になる予定でしたが、最終的に「酒を媒体としてハーンさんが屠蘇を巡る旅に出る」ことになりました。
 さてさて、思いついただけでは作品にならないのが小説の特徴の一つです。ハーンさんが歴史を巡る舞台を作るのは、普段妄想の京都で遊んでいる私には至難の業で「時代背景とか表現するのめっちゃ大変じゃん」「この時代に何があって何がないんだ?」とか考えると、疑問がさらに疑問を呼びました。しかし、最後には「こんな時代から、今まで生きてる人はいないから、ある程度でっち上げても大丈夫だ」と開き直りました。
 他にも「四国の化け狸」「京都の柳小路」「仙人」「屠蘇の伝来・作り方」云々。色々な要素が組み込まれていますので、気になったら検索してみて下さい。
 ちなみに、登場したお酒にはモチーフがあり、饂飩雲は「讃岐くらうでぃ」、ブロンズ・ボールは「赤割」、珠光は「玉光」でした。どれも実在する美味しいお酒です。ぜび飲んでみて下さいね。
 
 最後に秘封倶楽部民間伝承合同企画「はつもうで」にお招きいただき、誠にありがとうございました。一つの題材を掘り下げ、関連しているものを引っ付けて、大きな物語にしていくと言うのはとても楽しかったです。
 そして読んだことがない方は、ステキな話がぎゅっと詰まった秘封倶楽部民間伝承合同シリーズ(?)を是非読んでみて下さい。きっと心惹かれるものがあります。私は初めてこの合同誌を読んだとき「絶対に参加してみたい」と思いました。そして、まさか現実になるとは夢にも思いませんでした。
 今回は最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 それではまた。
鉄骨屋
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コメント



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1.100東ノ目削除
情景描写が緻密で引き込まれました。良かったです
2.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
4.100Actadust削除
まったりした蓮メリの空気と、語られている伝承がマッチしていてすごく良かったです。楽しませてもらいました。
5.100名前が無い程度の能力削除
不思議との邂逅、気になるものに対してぐいぐい突っ込んでいく彼女たちは素敵ですよね。語り部の視点から見る秘封というのも挑戦的だと感じました。良かったです。
6.100南条削除
面白かったです
メリーのちょっとした時間旅行に酔いしれました
さすが秘封倶楽部は並の好奇心ではないです
7.90めそふ削除
面白かったです。町並みの表現などといった雰囲気の出し方が好きでした