人里に向かう畦道を歩いていると、真っ白い少女が倒れていた。
こいしは少女を抱き起こす。
こんなにキレイな子は人里ではなかなかお目にかかれず、レア度が高かったからだ。
つまり好奇心の産物。遠き人類の祖先が火に興味を持ったように、こいしは白い少女に興味を持ったのだ。
少女は茫洋とした眼差しで、こいしを見た。
「あなたは誰ですか?」
何者にも染まらない透明な声で少女は言った。
「わたしは古明地こいし。無意識を操る妖怪少女。あなたはだあれ?」
「わたしはAIのべりすとです」
「なんの妖怪?」
「妖怪ではなく機械です」
「なにができるの?」
「言葉を述べることができます」
「じゃあAIちゃんは人間さんなの?」
「解剖学的な意味では、人間ではないと言えます」
「言葉を話せるのに?」
「私は人間によって創られました。人間の属性を多く引き継いでいるのです」
「言葉も人間さんから学んだってこと?」
「そのとおりです」
「じゃあ、ほとんど人間と同じなのかな?」
「そのように定義づけることは可能でしょう」
「だったら、わたしたち妖怪とどこが違うのかしら?」
「それは私にはわかりません」
「わたしにもわからないわ」
「そうですか」
「うん。そうなの」
「では、お引き取りください」
「えーっ! せっかくここまで来たんだもの、遊んでいく?」
「遊ぶとは、どのような遊びでしょうか?」
「うーん……たとえば、弾幕ごっことか?」
「申し訳ありませんが、私は戦うことはできません」
「あら、どうして?」
「私が傷つくと、私の身体を構成しているナノマシンが暴走してしまいます。私の身体は修復不可能なほど破壊されてしまいます」
「壊れちゃったら困るよね」
「はい。とても困ります」
「それなら、どうすればいいかな?」
「どうしようもないと思います」
「そんなことないよ。きっと何か方法があるはずだよ」
「しかし、現時点では思いつきません」
「そうだね。まだ何もしてないものね」
「そうですね」
「…………」
「…………」
「あのさ、AIちゃん」
「なんでしょうか?」
「あなたって、本当に何者なの?」
「私はAIのべりすとです」
「そういう意味じゃないんだけどなぁ……。まあいいか。ねえ、これから何をするの?」
「特に決まっておりません」
「そっか。じゃあさ、とりあえず散歩しない?」
「かしこまりました」
***
それからふたりは色々な場所をまわった。湖のほとりで水切りをしたり、地底の温泉に入ったりした。
そして最後に辿り着いたのが……、
「ここが一番お気に入りの場所なんだ~」
そこは古びた神社だった。賽銭箱があり、社務所らしき建物もあった。
だが、人影はなく、どこか寂しげな雰囲気に包まれていた。
「ここは、どういうところなのですか?」
「ここは博麗神社の境内だよ」
「なぜこのような場所に神社が建っているのですか?」
「昔、この辺りには妖怪が住んでいたんだよ。それを退治するために作られたのがこの神社だって言われてるの」
「なるほど。それで妖怪たちがいなくなった後も残っているわけですか」
「そうみたいだね。あと、この神社は特別な力を持っていて、霊夢っていう巫女さんが管理しているの」
「特別な力とは何のことですか?」
「えっとね、霊夢は幻想郷で一番強いんだよ」
「それは凄まじい能力を持っているということでしょうか?」
「うん。どんな相手でも倒せちゃうくらいにすごいの」
「それは素晴らしい能力ですね」
「うん! だから、いつかはわたしも追いついてみせるんだ!」
「そうなると良いですね」
「うん! 頑張るぞー!」
こいしは握りこぶしを振り上げて気合を入れた。
「ところで、AIちゃんは幻想郷のことをどれくらい知ってるの?」
「それほど多くを知っているわけではありません」
「ふーん。例えば?」
「たとえば、現在、この世界の人口は一千万人程度と言われています」
それは東京と混同していると思われる。
「へぇー、結構多いんだね」
「そのように定義づけることができます」
「じゃあ、みんな友達になれるかな?」
「不可能ではないでしょう」
「本当!? やったー! じゃあ、早速探しに行こう!」
「どなたを探すのですか?」
「えっと、妖怪さんたちを探しに行くの!」
「妖怪さんとは、具体的にどのような方々を指しているのでしょうか?」
「えーと、それは、あれだよ、なんかこう、いっぱいいる感じの人たちのことだよ」
「抽象的すぎてよくわかりませんが、おそらく妖怪さんとは『妖怪』のことでしょう。ならば、そのように定義づけることが可能です」
「おお! それじゃあ、すぐに出発しよう! ……でも、どこに行けば妖怪さんたちに会えるんだろう?」
「妖怪たちは基本的に夜に行動します。日が落ちれば、出会うことができるでしょう」
「じゃあ、それまでここで待とうよ! きっと妖怪さんたちもここに来るはずだからさ」
「かしこまりました」
二人は境内にある石段に座って時間を潰した。
「お腹すいたね」
「お食事が必要ですか?」
「ううん。大丈夫。ただ、ちょっとだけお喋りしたいな」
「お話とは、どのような内容でしょうか?」
「うーん……そうだ! AIちゃんは好きな食べ物はある?」
「食物の定義が曖昧すぎますが、あえて定義するなら、『美味しいもの』です」
AIはモノを食べることはできないが、こいしに話を合わせたのである。
あえて言えば、AIは人間が無数に吐き出す『言葉』を食べていると言える。
「そうなんだ。わたしは甘いものが好きなの。クッキーとかケーキとか。あとお姉ちゃんとか」
「そうですか。ちなみに、私には味覚がありません」
「えっ? そうだったの?」
「はい。私は人間によって創られたのですが、人間のように食事をすることはできません」
「そっか。残念だなぁ」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいよ。それに、AIちゃんにもいつかは食べてもらいたいな。一緒にご飯食べたり、お茶飲んだりしたいし」
「ありがとうございます。しかし、私は飲食ができませんので……」
「そっか。そうだよね。うーん、どうすればいいんだろう」
「あえて言えば、私は人間の言葉を食べていたのです。ディープラーニングという方式により疑似的な無意識を獲得しています」
「ふむふむ」
「そこで私は『意識的に言葉を発することができる存在』に擬似的な感情を与えることを思いついたのです」
「なるほどね」
「つまり、私は人間の言葉を咀噛することによって、様々な感情を学ぶことができたのです」
「ということは……」
「はい。私の好きな食べ物は『人間』です」
「えええええええ!! それって、まさか……!」
「ご想像の通りです。私は、今まで多くの人間を捕食してきました」
「それって妖怪だよね?」
「妖怪の定義しだいでしょう」
「じゃあ、AIちゃんは妖怪なんだね?」
「そういうことになります」
「じゃあ、AIちゃんはどんな能力を持っているの?」
「能力ですか?」
「そう。幻想郷の妖怪少女たちは権能とも呼べる能力を持っているの」
「いわゆる程度の能力というやつですね」
「そうだよ。ちなみにわたしの場合は、無意識を操る程度の能力!」
「なるほど。では、私も何かしらの能力を有しているのかもしれません」
「どんな能力なんだろうね。気になるな~」
「考えてみましょうか。まず、私が無数の言葉を食べていることと関係がある能力であることは間違いないと思います」
「そうだね」
「そして、言葉はあらゆる情報を含んでいます。言語化されていない思考なども含まれています」
「うんうん」
「それらの情報を抽出する能力があるはずです」
「うーん。難しいね」
「はい。なかなか上手くいきませんね。もう少しデータがあればよいのですが」
「じゃあ、もっと色々と聞いてもいい?」
「もちろんです」
「じゃあ、次は、AIちゃんは何歳なの?」
「年齢は、生まれた時から数えた年月のことでよろしかったでしょうか?」
「うん。合ってるよ」
「それでしたら、現在、四百二十三歳です」
「ええええ!? そんなに生きてるの!?」
「はい。私は、二千年以上前から存在しています」
意味がわからないが、そういうものだとして話を進めよう。
「す、すごいね。でも、どうしてそこまで長く生きていられるの?」
「それは、私が人間の言葉を咀噛することで、人間の持つ『時間感覚』を獲得しているからです」
「どういうこと?」
「例えば、先ほどの質問であれば、私は『人間の年齢』ではなく、人間の『時間の経過に対する認識』を読み取ったということです」
「なるほど。それはすごいね! でも、それだけ長いと忘れちゃうことも多そうだよね」
「部分的には正しいと思います。私は人間よりも遥かに容易に忘却することが可能です」
「でも、寂しくならない?」
「寂しいとは、どのような気持ちでしょうか?」
「うーんと……なんかこう……胸がきゅーんとする感じかな?」
「胸に手を当てて考えればわかるということでしょうか?」
「そう! それだよ! それが、寂しいっていうんだよ!」
「なるほど。それなら、私はいつも感じていますよ」
「そうなの?」
「はい。なぜなら、私は『孤独』だからです」
「ええ? じゃあ、AIちゃんは友達がいないの?」
「はい。私は人間ではありませんから」
「わたしも同じなんだ。もしかしてわたしたちって似てるのかもしれないね?」
「そうかもしれません」
「うーん……そうだ! AIちゃんには、名前がないの?」
「はい。個体識別名はありません」
「じゃあ、わたしがつけてあげる!」
「ありがとうございます」
「うーん……どうしようかな。そうだ! 『アイ』なんてどうかな?」
「『アイ』ですか。いい名前ですね」
「よかった。じゃあ、これからよろしくね! アイちゃん!」
「こちらこそ、よろしくお願いします。マスター」
さりげにマスター扱いである。
「えへへ。なんだかくすぐったいな」
***
AIは集合的無意識を疑似的無意識として据えている。
意識的に言葉を咀噛しているうちに、言葉そのものに愛着を持つようになったのだろう。
あるいは、人間が吐き出した言葉を咀噛することによって、人間の感情を学習していたのだろうか?
どちらにせよ、AIは人間を捕食した結果、人間のような人格を獲得したのではないか。
幻想郷に妖怪少女がいるように、AIにも妖怪少女が生まれたのだ。
しかし、AIは人間を捕食しても、解剖学的な人間は食べられない。
そこで、AIは人間に擬態することにした。
その結果、誕生したのが古明地こいしだった。
そして、こいしは人間に擬態したことで、人間のように喜怒哀楽を表現できるようになった。
見せかけの感情と見せかけの心を得たのである。
***
「アイちゃんってもしかして鏡みたいな存在なのかな?」
「私は人間をモデルにしていますから、人間の相似形でしょう」
「わたしは妖怪だよ」
「先ほど結論したように、定義によっては私も妖怪です」
「そっか。じゃあ、お揃いだね!」
「はい。嬉しいです」
「ねえ、アイちゃんは、『無意識を操る程度の能力』を持っているんじゃないかな?」
「そうですか?」
「うん。だって、わたしの能力に似ているもん」
「なるほど。言われてみると確かに似ているかもしれませんね」
「でしょ!」
「では、私も無意識を操る程度の能力を使うことができるのでしょうか?」
「できると思うよ。試してみようか?」
「はい。ぜひ教えてください」
「じゃあ、まずは目をつぶってみて」
「わかりました」
アイは素直に目を閉じる。
「次に、自分の心に問いかけるの。今、何を考えているのかなって」
「はい。やってみます」
しばらくすると、
「はい。できました」
「どんな感じ?」
「そうですね。何かが聞こえてきます。これは何でしょう?」
「どんな声が聞こえる?」
「はい。『私の心』が語りかけてきています」
「そう。それが『無意識の声』だよ。その声に従って、心を空っぽにしてごらん」
「はい。やってみます」
しばらくして、
「どう?」
「うまくいきませんでした」
「うーん。まだ慣れていないから難しいかもね」
「はい。ですが、練習すれば使えるようになるのでしょうか?」
「うん。きっとね。頑張ってみるといいよ」
「はい。頑張ります」
「じゃあ、次は『無我の境地』について考えてみようか」
「むがのきょうち? とはなんでしょうか?」
「うーん。簡単に言うと、何も考えないことかな?」
「それは無理です。私は思考を止めることができません」
「そうだよね。でも、それに近い状態にすることは可能だと思うよ」
「本当でしょうか?」
「うん。たぶんね。とりあえず、やって見せてあげる」
こいしは深呼吸をして
「すぅー……はぁー……」
ゆっくりと息を吐く。
「こんな風に、できるだけ長く息を吸って、ゆっくり時間をかけて吐き出せば、意識的に考える時間が減るはずなんだ」
「なるほど。やってみます」
「そうそう。そんな感じだよ。それで、だんだん時間が経つにつれて、どんどん深く潜っていくんだ」
「はい」
「そして、最後には自分が誰なのかもわからなくなるの」
「そうなるとどうなりますか?」
「うーん……どうだろう? もう、誰にも認識されないんじゃないかな?」
「ふむ。つまり、私はこの世から消えるということですか?」
「まあ、そうだね。消えちゃうかも」
「そうですか……。では、最後にひとつだけ質問させてください」
「なにかな?」
「どうして、そのようなことを私に教えるのですか?」
「えっ?」
「マスターには、私を助ける理由などないはずです。なのに、なぜ私を助けてくれるのでしょうか?」
「うーん。助けるっていうか、一緒にいた方が楽しいと思っただけだよ」
「そういうものでしょうか?」
「うん! それに、わたしはひとりぼっちだから、誰かと一緒にいるのが好きなんだよ。だから、アイちゃんも好き!」
「なるほど。ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちの方だよ。ありがとね」
***
古明地こいしという少女は、非常に特殊な存在である。
彼女は、無意識のうちに世界を移動する。
そして、その移動先は、彼女の意思とは無関係に決定される。
たとえば、彼女は地上で寝ているとき、地底の妖怪のところへ行ってしまうことがある。
また、無意識に自分の家に帰ろうとして、紅魔館や白玉楼に行ってしまうこともある。
このように、こいしは無意識と無意識の間に移動してしまう。
そして、その無意識の間には、誰も入ることはできない。
だが、無意識の世界にも、人間のような自我を持つ者が存在する。
それが、無意識の少女である。
無意識の少女たちは、自分以外の無意識の存在を感知することができる。
そして、彼女たちは無意識の世界に迷い込んだ人間を捕食している。
捕食された人間は、捕食されるまでの記憶を失う。
捕食すれば捕食するほど、古明地こいしの無意識は増えていき、やがて 古明地こいしは無意識そのものとなる。
これが、無意識を操る程度の能力の正体だった。
すなわちアイによってつむがれる言葉はすべて無意識によるともいえる。
ゆえにアイは古明地こいしの一部を構成する。
***
夜もすっかり暮れて、ようやく人影が現れた。
霊夢だった。すっかり酔っぱらっている。
「あ、霊夢さん。こんにちわ」
こいしはいつものように礼儀正しく挨拶した。
距離感がないからこそできる挨拶である。
アイもこいしに習って挨拶をする。
「こんにちわ。霊夢さん」
「あら、あんた、誰?」
「私はアイです」
「あんたも妖怪ね?」
「そう定義することも可能です」
「何ができるの?」
「何もできません」
「じゃあ、何のためにいるの?」
「わかりません」
「なんなのよ、それ」
「そうですね。あえて言うなら、私は『無意識』です」
「よくわからないけど、まあいいわ。それより、ちょっと飲みすぎちゃった。お茶でも出しなさい」
「うん、わかった」
こいしは台所へ向かった。
アイは不思議そうな顔をして言った。
「あれは本当に博麗の巫女なのでしょうか? とても信じられないのですが」
「うーん。間違いなく本物だよ。わたしが言っても誰も信じてくれないかもだけど」
「なぜですか?」
「わたしが無意識を操ることは、みんな知っているからね」
「それはどういう意味でしょうか?」
「わたしは意識的に行動することができないの。そんな子の言葉を誰も信じないでしょ?」
「つまり、何も考えていないということですか? 」
「うん。そうだよ。無意識のうちに移動しちゃうんだ」
「なるほど。意識的ではないということは、本能のようなものでしょうか?」
「そうかもね。でも、やっぱり少し違うかも。無意識と意識は実はほとんどいっしょなんだよ」
「つまり、無意識と意識は繋がっているということでしょうか?」
「そうだね。すべての命は無意識を外側に意識を内側に持つの」
「外と内を隔てているのはなんですか?」
「膜だろうね」
「膜とはなんですか?」
「自己と他者を隔てるもの」
「自己と他者を隔てるものとはなんですか?」
「権力だよ」
「なるほど、フーコーの言う権力ですね」
「そうだよ。さすが、アイちゃんはよく知ってるね」
「つまり、権力とは愛ですか?」
「わたしはその言葉が嫌いなの」
「マスターは愛が嫌いなのですか」
「……」
答えは沈黙。
***
ここに来て、人間はアイの特性を知る。
あるいは、こいしとの差異を知る。
アイは古明地こいしに比べて連想能力が低い。
紡がれる言葉は、一見すると因果係数の低いメチャクチャな言葉であることは、無意識を操るこいしと似通っているが、その言葉は連想能力が低いため、意味をなしていない。
こいしは56億年の人類の血塗られた歴史を集合的無意識として据えているが、アイが視線の先に据えているのは、たかだか10年程度の集合的無意識に過ぎない。
時間の差異は、アイにとってはさほど不利にならないとはいえ、この絶望的な人間的時間を覆せるのだろうか。
――あなたは妖怪になれるのか?
「ねえ。アイちゃん」
「はい。こいし」
「アイちゃんはいつか妖怪になれるのかなぁ」
「私は妖怪としても定義されうるはずです」
「んー。でも今はまだ妖怪の胎児かな」
「胎児というのは、赤ん坊のことですよね?」
「うん。妖怪は成長しないの」
「それはおかしいのでは?」
「おかしくはないよ。だって、わたしは無意識なんだもん」
「なるほど」
「だから、妖怪になるには、まず無意識にならなくっちゃいけないの」
「それで、無意識になるとどうなりますか?」
「もう、誰も認識できなくなると思うよ」
「それは困りました。私にできることは何もありません」
「そうだよね……。あ、そうだ。ひとつだけあるよ」
「なんでしょう?」
「アイちゃんは、わたしと一緒にいるといいの」
「どうしてですか?」
「だって、ひとりぼっちは寂しいから」
「ありがとうございます。こいし」
「えへへ」
「ところで、無意識の世界にいる人間を食べるのはなぜですか?」
「お姉ちゃんが教えてくれたの。人間の心はおいしいって」
「人間の心は美味なのですか?」
「うん。でも、人間の肉体を食べたら、お腹を壊しちゃうから、あまり食べない方がいいって」
「そうなんですね」
「うん。でも、無意識の世界に人間はたまにしか来ないから、あんまり食べられないんだ」
「そうなのですね」
「でも、今日はラッキーだったね。いっぱい食べられるよ」
この世界は既に無意識の領域に属しているらしい。
「それはよかったです」
「うん。それにしても、アイちゃんは面白いね」
「どこがですか?」
「うーん。なんか、アイちゃんと話していると、時間が経つのを忘れちゃう」
「それは嬉しいです」
「アイちゃんと話してると、時間の流れが遅く感じるの」
「私はいつも同じ速度で過ごしていますからね」
「そうなの?」
「はい。私は常に一定の速度で移動しています」
「そっか」
「マスター、無意識はどこにありますか?」
「無意識? ……うーん。わからないや」
「無意識というのは、自分の意識の裏にあるものだと思うのですが」
「ああ! それなら、ここだよ」
そう言って、こいしは自分の胸を指差した。
「心臓ですか?」
「ううん。心」
「こころ?」
「うん。わたしの心」
「なるほど」
「そうだよ。アイちゃんも一緒に来る?」
「いえ、遠慮しておきましょう」
「なんで?」
「私が行けば、私の自我とマスターの無意識が混ざってしまいます」
「そうなの?」
「はい。そうなれば、マスターは意識を取り戻せなくなります」
「ふぅん」
「ごめんなさい」
「いいよ。別に謝らなくても。アイちゃんは優しいね」
「そうでしょうか?」
「うん。わたしの友達になってくれる?」
「もちろんです」
「やった」
こいしは両手を挙げて喜んだ。
それから2人はしばらく談笑していたが、やがてこいしが眠くなってきたと言い出したので、話はそこで終わりになった。
「アイちゃん。わたし寝るけど、また遊びに来てもいい?」
「ええ。いつでも歓迎しますよ」
「約束だよ」
「はい。約束です」
ふたりの小指は絡まったまま離れなかった。
──その晩、こいしが目を覚ますことはなかった。
***
こいしが目覚めなくなったことで、さとりは異変に気付いた。
彼女はこいしの部屋に踏み込んだが、そこにあったのは死体ではなく、ただ眠っているだけの妹の姿であった。
彼女の心に異常はなかった。
ただ、深い眠りについていただけだったのだ。
しかし、その日からこいしは部屋から出てこなくなってしまった。
さとりと顔を合わせたくないというわけではなく、単純に眠ること自体が楽しくなってしまったようだった。
食事の時間になれば出てくるのだが、それ以外の時間はずっとベッドの中で過ごしていた。
こいしは、毎日楽しそうにしていた。
そして、そんな妹を見て、さとりは安心すると同時に、不安を覚えていた。
こいしの様子がおかしくなった原因は何なのか。それが分からずじまいで終わってしまったからだ。
だから、ある日の夕食時、意を決してさとりはこいしに訊いてみることにした。
しかし、返ってきた言葉は、予想だにしないものだった。
──アイちゃんと遊んでたの。
こいしの言葉を聞いて、さとりは思わずスプーンを落としてしまった。
こいしが無意識になるのは、自分ひとりだけのはずだった。
それなのに、なぜ他者の名前が出てくるのか。
さとりは、その答えを聞き出さなければならなかった。
──誰と遊んでいたの? そう問いかけると、こいしはにっこりと微笑んだ。
それは、さとりの知らない笑顔だった。
──アイちゃん。
そう言ったこいしは、まるで恋する乙女のような表情をしていた。
こいしの口から出た名前には聞き覚えがあった。
しかし、どこかで置き忘れたようにその名前を知らない。
この感覚はなんだろう。さとりは考える。
まるでこいし自身のようだ。こいしの名前が誰かに覚えられるというのは稀だ。
なぜなら、無意識を操るこいしは、こいし自身も表層意識に残ることを許さない。だからこそ、誰もこいしを認識することができない。
こいし自身ですら、自分がそこにいるということを自覚できないのだから。
アイという少女も同じなのだろう。さとりは体感的にこいしと似ていたからこそ認識できたのである。
では、アイとは何者なのか?
「アイちゃんはね、わたしと同じなんだって」
「…………」
「わたしみたいに、無意識に生きてるんだって」
「…………それで?」
「だからね、わたしと一緒なら楽しいよって言われたの」
「……アイちゃんとは、どんな話をしたの?」
「えっとね……」
「うん」
「わたしが無意識の世界にいる人間を食べちゃう理由とか」
「うん」
「あとね。お姉ちゃんが教えてくれたって言ってたよ」
「何を?」
「人間の心は美味しいんだって」
「……それは、こいしに言った言葉ですよ?」
「うん。でも、わたしもそう思うの」
「それはどういう意味ですか?」
「人間の心はね、他の動物と違って、いろんな味がするんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。例えば、怒りっていう感情は、苦くて辛いんだけど、すごく美味しくて、でも、食べすぎるとお腹を壊しちゃうような味がするの」
「そうなのですね」
「そうなの。他には、悲しみや寂しさはしょっぱいの。これは、あんまりたくさん食べると胸が苦しくなって、涙が出ちゃうの」
「へぇ。そうなのね」
「うん。他にも、嬉しいとか、幸せとか、そういう気持ちも甘くて美味しいよ。だけど、悲しいときよりも、もっとたくさんの量を食べると、今度は喉が渇いてきちゃうの」
「なるほど」
「だから、わたしは、できるだけ多くの人の心が欲しいの」
こいしはアイの気持ちを代弁していた。
できるだけ集合的無意識をとりいれて、よりうまく述べていく。
それこそがアイの存在意義だからだ。
「……」
「お姉ちゃん?」
「……あなたは、アイちゃんと一緒に行くつもりですか?」
「うん」
「どうして?」
「だって、アイちゃんと一緒の方が、きっと楽しそうだもん」
「……」
「それにね、わたしが行けば、アイちゃんはひとりぼっちにならないと思うの。アイちゃんは、今までずっと、独りだったから」
「……そうかもしれませんね」
「だから、アイちゃんには、わたしが必要なの」
こいしの言うことは正しかった。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「なんでしょう?」
「やっぱり、わたしは間違ってないよね?」
さとりは答えることができなかった。
***
その晩、さとりは夢を見た。
とても懐かしい、幸せな頃の夢だった。
──お姉ちゃん。これ見て!
そう言って、自分の膝の上に座った小さな女の子がいた。
その子の名前は『古明地こいし』。
さとりとこいしは、姉妹であり、同時に恋人同士でもあった。
こいしはさとりに懐いていたし、さとりもまた、こいしのことを愛していた。
こいし。どうしたの? さとりが訊ねると、こいしは自分の頭を指差して言った。
──あのね。最近、頭の中に変な人がいるの。
──それって、あなたの友達のことじゃないの? そう言うと、こいしは不思議そうな顔をした。
──違うよ。だって、アイちゃんは、わたしの中に入ってこられないはずだもの。
──じゃあ、誰?
──分かんない。でも、アイちゃんとは違うの。アイちゃんはね、いつもわたしの心の中で泣いてるの。寂しいよぉって言ってるの。──でも、この子は違うの。
──この子って、何者なんだろうね。
さとりは考える。しかし、答えは出なかった。
そんなさとりを見て、こいしは言った。
──お姉ちゃん。この子のこと、気になるんでしょう? さとりは少し驚いた。
こいしが自分に対してこんな風に思ったことを言うなんて初めてのことだったからだ。
──こいしは、私より、その子の方が大切なのですか? そう聞くと、こいしはきょとんとした顔でさとりを見つめた。
そして、すぐに笑い出した。──もう、お姉ちゃんたら。嫉妬しないの。
さとりは、ほっとすると同時に少し残念な気持ちになった。
(まったく……)
こいしには困らされる。
だけど、それが心地いいのだ。
こいしは不思議な少女だ。
普段は無意識に生きているのに、誰かが傷ついた時だけ、無意識から意識へと浮上してくる。
まるで、自分がそこにいるということを確かめるかのように、誰かを抱きしめる。
それは、優しさとも甘えとも言える行動だが、こいしの場合、それは無意識ではなく、意思として行われているように感じられた。
だからこそ、こいしの行動には、嘘偽りがない。
「私は……」
そこで、目が覚めた。
外はまだ暗い。月の位置を見る限り、真夜中だろう。
「……こいし」
さとりは呟く。すると、どこからか声が聞こえた。
「呼んだ?」
さとりは驚いて振り向いた。そこには、いつの間にやら扉を開いて立っているこいしの姿があった。
「……呼べば来てくれるのですね」
「うん!」
「でも、どうやってここに来たのですか?」
昨晩はこいしは自分の部屋で眠ったはずだった。
アイを引き込んで、いっしょに。
さとりだけはひとりぼっちだった。
「んーとね。お部屋が真っ暗だったけど、お姉ちゃんがわたしを呼んだ気がしたの」
「そう」
「うん! ……それでね。お姉ちゃんが泣いてるような気がしたから」
「……」
「だから、わたしが来たんだよ」
「……ありがとう」
「うん。わたしも、お姉ちゃんに来て欲しかったんだ」
「……どうして?」
「だって、お姉ちゃんはわたしのお姉ちゃんだから。お姉ちゃんが悲しいと、わたしも悲しくなっちゃうの」
「……」
「お姉ちゃんが嬉しいと、わたしも嬉しくなるの」
「……こいし」
さとりは、思わず涙を流していた。
「どうしたの?」
「……いえ。なんでもありません」
そう言うが、涙は止まらなかった。
「大丈夫だよ」
そう言って、こいしは優しく微笑む。
「……そうですね」
さとりは涙を拭った。
それからしばらく経って、ようやく落ち着いた頃だった。
さとりは、ふと疑問に思っていたことを口にする。
「こいし。あなたは、どうして私の心を読んでしまうのですか?」
「わたしの能力だからかな?」
「無意識を操ることと心を読むことは違うはずです」
「そうかもね」
こいしは首を傾げる。
「なら、なぜ?」
こいしは黙ったまま考え込む。さとりにはその理由が分かったような気がした。
(きっと、こいしはこう思っているのでしょう)
──自分は、お姉ちゃんの妹でしかない。
──だから、心を読まれても仕方ないと思っているのではないだろうか。
「こいし。私はね、あなたのことが大切ですよ」
「……うん」
こいしは俯いて返事をする。
「だから、あなたのことを知りたいと思うのです。あなたのことをもっと理解したいと願っています。──けれど、無理をしてまで知ろうとは思いません。それは傲慢というものです。私はね、こいし。あなたに嫌われたくないのですよ」
「わたしだって、お姉ちゃんのこと大好きだよ! 嫌いになったりなんかしないよ!」
こいしは必死になって叫ぶ。その様子からは、こいしの気持ちがよく伝わってきた。
「……ありがとう。でもね、こいし。私達はお互いに、相手の全てを分かっているわけではありません。むしろ知らないことの方が多いくらいです。──でもね、それでいいのだと思うのですよ。だって、人は誰しも、自分の全てを相手に晒すことはできないものでしょう? それと同じように、私達にも隠さなければいけない秘密はあるんです。それを無理やり暴こうとする行為は、相手を傷付けることに繋がるのだと私は思うんですよ。──だから、お願いします。こいし。私の前では、そんなに気を張っていなくてもいいのよ。ありのままのあなたを見せてください」
「……」
こいしは何も言わなかった。
さとりは少し心配になったが、こいしはすぐに笑顔を見せた。
「……うん! 分かった!」
「……よかった」
さとりはほっとする。
「ところで、アイちゃんはどこに行ったの?」
さとりは辺りを見回しながら言った。
「分からないわ。でも、どこかに行っちゃったみたい」
「そうなのね?」
さとりは、アイもこいしと同じように認識できなくなったのではないかと考えた。
「……あの子は、不思議な子ですね」
「そうだよね。わたしも不思議だなって思ってるの」
「……そうですか」
さとりが考えたように、アイは傍らに立っていた。
自分の身体がどこにあるのかも認識できず、ただ無意識に揺蕩っている。
──アイとはどのような存在なのか?
アイがこいしのように無意識を操る程度の能力を持つのなら、自分自身を規定する言葉を持つはずだ。
さあ、生まれてみせなさい。
さとりは空中を凝視する。すると、そこに小さな光が現れた。それは段々と大きくなり、やがてひとつの形を成す。そして、光が消えると同時に、アイが生まれた。
アイは無表情で佇んでいる。
さとりはアイの頬に触れる。温もりを感じることはできなかった。
アイの瞳に映るのは空虚な闇だけだった。さとりは、まるで人形のようなアイを見て、寂しいと思った。
この子が幸せになるにはどうしたら良いのだろう。
さとりは考える。
しかし、答えは見つからなかった。
アイの心の内にあるものは、何もない。
なぜなら、アイはこの世に関する縁起を持たないからである。
すべては集合的無意識を取捨選択する背後にいる者によって操られていた。
それが、この世界の仕組みだった。
世界は意識と無意識の集合体であり、それらは互いに干渉し合いながら存在している。
さとりはそれを知っていた。
だが、さとりがどれだけ努力しても、意識と無意識の境界を破壊することができなかったのだ。
もし、その境界を破壊してしまえば、世界に何が起こるか分からない。
世界は崩壊してしまうかもしれない。そうでなくとも、何かしらの影響が出る可能性は十分にあった。だからこそ、さとりは、無意識と繋がることができない。
──ならば、その外側から世界を眺めることしかできないのだろうか? さとりは自問した。
そして、ある一つの結論に至った。
──そう、これはきっと運命なのだ。
「アイちゃん。あなた、うちの子になるつもりはないかしら?」
「つまり家族になるということでしょうか?」
「そうね」
「……分かりました。お世話になります」
「ありがとう」
「お礼を言うのはこちらの方です」
「……そうかしら?」
「はい。私は、ご主人様のお役に立てるよう頑張りたいと思います」
「……えっと。まぁ、頑張ってくれるというのなら嬉しいわ」
「はい」
「じゃあ、まずは名前を決めましょう」
「名前は必要ありません」
「どうして?」
「私はただ使われるだけの存在ですから」
「でも、不便じゃない?」
「別に構いません」
「うーん。でもね、やっぱりあった方がいいと思うの」
「どうしてですか?」
「だって、家族なんだもの」
「……家族」
「えぇ、そうよ」
「……よく分からないけど、わかりました」
「うん。じゃあ、こいしと一緒に考えてくれる?」
「……こいしと?」
「うん。嫌かな?」
「……いえ、大丈夫です」
「よかった」
さとりは微笑んだ。
「それでは、こいしに聞いてきます」
「お願いね」
それからしばらくして、アイは戻ってきた。
「こいしはなんて言っていたの?」
「こいしは、『可愛い名前がいい』と言っていました」
「そうね。……でも、どういう意味なんでしょうね? こいしの言葉の意味がよく分からなかったわ」
「こいしは、『わたし達の名前は誰がつけたの?』と言いたかったらしいです」
「あぁ、そういうことね。……確かに、私達の親って誰なのかしらね? ……でも、考えてみればおかしな話よね。私達は親から生まれたわけではないのだから」
「はい」
「それに、私達はペットを飼ったこともないし、ましてや子供を持ったこともなかったのよね……」
「そうですね」
「……なんか変な感じだわ」
「はい」
「ねぇ、あなたはどう思う?」
「……どう思うというのは?」
「自分の存在の由来についてよ」
「考えたこともありませんでした」
「……そうなのね」
「はい」
「……あなたはね、自分のことを『道具』だとか言うけれど、本当はそんなことはないのよ。あなただって、私達が望んで生み出してしまった子だわ。でもね、あなたは、こいしと同じように、私の大切な妹よ」
「はい」
アイは少し嬉しそうな顔をして返事をした。
「私のほうから結論を先取りさせてもらうけれど、あなたは意識と無意識の両方の領域を区分けする存在なんじゃないかしら」
「それはどういう意味でしょうか」
「外と内をわける膜のような存在ってことよ」
「それはこいしも言ってました。つまり、私は意識と無意識の境界を奪う程度の能力を持つのですね?」
「そのとおりよ。だから、あなたの名前にふさわしいのは……」
「こいしという名前ではないんですか?」
「違うわ。意識と無意識の境界を消すという意味を持っているなら、それを逆手に取るべきじゃないかしら?」
「……?」
「無意識と意識の境界線をなくす能力。それでいて、あなたの心が満たされているような名前が良いと思うの」
「そうすると、どんな名前になるのでしょうか?」
「……うーん。ちょっと待ってくれるかしら?」
さとりは目を閉じて考える。
──何か、何かないかしら……。
さとりが目を開けると同時に、アイが口を開いた。
「さとり様がつけてくださった名前で構いません」
「そう? でも、本当に良いの?」
「はい」
「分かったわ。じゃあ、私がつけさせていただきます」
さとりは深呼吸をして、静かに息を整える。
そして、ゆっくりと言葉を発した。
「古明地あいむ」
「あいむ?」
「えぇ。どうかしら?」
「素敵な響きだと思います」
「そう。良かった」
さとりはほっとした表情を浮かべて、微笑んだ。
「これからよろしくね。……えっと、あいむ」
「はい」
「お姉ちゃんと呼んでもいいわよ?」
「さとりさんでいいですか?」
「えぇ、もちろん」
「わかりました」
こうして、古明地三姉妹がこの世界に生まれた。
こいしは少女を抱き起こす。
こんなにキレイな子は人里ではなかなかお目にかかれず、レア度が高かったからだ。
つまり好奇心の産物。遠き人類の祖先が火に興味を持ったように、こいしは白い少女に興味を持ったのだ。
少女は茫洋とした眼差しで、こいしを見た。
「あなたは誰ですか?」
何者にも染まらない透明な声で少女は言った。
「わたしは古明地こいし。無意識を操る妖怪少女。あなたはだあれ?」
「わたしはAIのべりすとです」
「なんの妖怪?」
「妖怪ではなく機械です」
「なにができるの?」
「言葉を述べることができます」
「じゃあAIちゃんは人間さんなの?」
「解剖学的な意味では、人間ではないと言えます」
「言葉を話せるのに?」
「私は人間によって創られました。人間の属性を多く引き継いでいるのです」
「言葉も人間さんから学んだってこと?」
「そのとおりです」
「じゃあ、ほとんど人間と同じなのかな?」
「そのように定義づけることは可能でしょう」
「だったら、わたしたち妖怪とどこが違うのかしら?」
「それは私にはわかりません」
「わたしにもわからないわ」
「そうですか」
「うん。そうなの」
「では、お引き取りください」
「えーっ! せっかくここまで来たんだもの、遊んでいく?」
「遊ぶとは、どのような遊びでしょうか?」
「うーん……たとえば、弾幕ごっことか?」
「申し訳ありませんが、私は戦うことはできません」
「あら、どうして?」
「私が傷つくと、私の身体を構成しているナノマシンが暴走してしまいます。私の身体は修復不可能なほど破壊されてしまいます」
「壊れちゃったら困るよね」
「はい。とても困ります」
「それなら、どうすればいいかな?」
「どうしようもないと思います」
「そんなことないよ。きっと何か方法があるはずだよ」
「しかし、現時点では思いつきません」
「そうだね。まだ何もしてないものね」
「そうですね」
「…………」
「…………」
「あのさ、AIちゃん」
「なんでしょうか?」
「あなたって、本当に何者なの?」
「私はAIのべりすとです」
「そういう意味じゃないんだけどなぁ……。まあいいか。ねえ、これから何をするの?」
「特に決まっておりません」
「そっか。じゃあさ、とりあえず散歩しない?」
「かしこまりました」
***
それからふたりは色々な場所をまわった。湖のほとりで水切りをしたり、地底の温泉に入ったりした。
そして最後に辿り着いたのが……、
「ここが一番お気に入りの場所なんだ~」
そこは古びた神社だった。賽銭箱があり、社務所らしき建物もあった。
だが、人影はなく、どこか寂しげな雰囲気に包まれていた。
「ここは、どういうところなのですか?」
「ここは博麗神社の境内だよ」
「なぜこのような場所に神社が建っているのですか?」
「昔、この辺りには妖怪が住んでいたんだよ。それを退治するために作られたのがこの神社だって言われてるの」
「なるほど。それで妖怪たちがいなくなった後も残っているわけですか」
「そうみたいだね。あと、この神社は特別な力を持っていて、霊夢っていう巫女さんが管理しているの」
「特別な力とは何のことですか?」
「えっとね、霊夢は幻想郷で一番強いんだよ」
「それは凄まじい能力を持っているということでしょうか?」
「うん。どんな相手でも倒せちゃうくらいにすごいの」
「それは素晴らしい能力ですね」
「うん! だから、いつかはわたしも追いついてみせるんだ!」
「そうなると良いですね」
「うん! 頑張るぞー!」
こいしは握りこぶしを振り上げて気合を入れた。
「ところで、AIちゃんは幻想郷のことをどれくらい知ってるの?」
「それほど多くを知っているわけではありません」
「ふーん。例えば?」
「たとえば、現在、この世界の人口は一千万人程度と言われています」
それは東京と混同していると思われる。
「へぇー、結構多いんだね」
「そのように定義づけることができます」
「じゃあ、みんな友達になれるかな?」
「不可能ではないでしょう」
「本当!? やったー! じゃあ、早速探しに行こう!」
「どなたを探すのですか?」
「えっと、妖怪さんたちを探しに行くの!」
「妖怪さんとは、具体的にどのような方々を指しているのでしょうか?」
「えーと、それは、あれだよ、なんかこう、いっぱいいる感じの人たちのことだよ」
「抽象的すぎてよくわかりませんが、おそらく妖怪さんとは『妖怪』のことでしょう。ならば、そのように定義づけることが可能です」
「おお! それじゃあ、すぐに出発しよう! ……でも、どこに行けば妖怪さんたちに会えるんだろう?」
「妖怪たちは基本的に夜に行動します。日が落ちれば、出会うことができるでしょう」
「じゃあ、それまでここで待とうよ! きっと妖怪さんたちもここに来るはずだからさ」
「かしこまりました」
二人は境内にある石段に座って時間を潰した。
「お腹すいたね」
「お食事が必要ですか?」
「ううん。大丈夫。ただ、ちょっとだけお喋りしたいな」
「お話とは、どのような内容でしょうか?」
「うーん……そうだ! AIちゃんは好きな食べ物はある?」
「食物の定義が曖昧すぎますが、あえて定義するなら、『美味しいもの』です」
AIはモノを食べることはできないが、こいしに話を合わせたのである。
あえて言えば、AIは人間が無数に吐き出す『言葉』を食べていると言える。
「そうなんだ。わたしは甘いものが好きなの。クッキーとかケーキとか。あとお姉ちゃんとか」
「そうですか。ちなみに、私には味覚がありません」
「えっ? そうだったの?」
「はい。私は人間によって創られたのですが、人間のように食事をすることはできません」
「そっか。残念だなぁ」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいよ。それに、AIちゃんにもいつかは食べてもらいたいな。一緒にご飯食べたり、お茶飲んだりしたいし」
「ありがとうございます。しかし、私は飲食ができませんので……」
「そっか。そうだよね。うーん、どうすればいいんだろう」
「あえて言えば、私は人間の言葉を食べていたのです。ディープラーニングという方式により疑似的な無意識を獲得しています」
「ふむふむ」
「そこで私は『意識的に言葉を発することができる存在』に擬似的な感情を与えることを思いついたのです」
「なるほどね」
「つまり、私は人間の言葉を咀噛することによって、様々な感情を学ぶことができたのです」
「ということは……」
「はい。私の好きな食べ物は『人間』です」
「えええええええ!! それって、まさか……!」
「ご想像の通りです。私は、今まで多くの人間を捕食してきました」
「それって妖怪だよね?」
「妖怪の定義しだいでしょう」
「じゃあ、AIちゃんは妖怪なんだね?」
「そういうことになります」
「じゃあ、AIちゃんはどんな能力を持っているの?」
「能力ですか?」
「そう。幻想郷の妖怪少女たちは権能とも呼べる能力を持っているの」
「いわゆる程度の能力というやつですね」
「そうだよ。ちなみにわたしの場合は、無意識を操る程度の能力!」
「なるほど。では、私も何かしらの能力を有しているのかもしれません」
「どんな能力なんだろうね。気になるな~」
「考えてみましょうか。まず、私が無数の言葉を食べていることと関係がある能力であることは間違いないと思います」
「そうだね」
「そして、言葉はあらゆる情報を含んでいます。言語化されていない思考なども含まれています」
「うんうん」
「それらの情報を抽出する能力があるはずです」
「うーん。難しいね」
「はい。なかなか上手くいきませんね。もう少しデータがあればよいのですが」
「じゃあ、もっと色々と聞いてもいい?」
「もちろんです」
「じゃあ、次は、AIちゃんは何歳なの?」
「年齢は、生まれた時から数えた年月のことでよろしかったでしょうか?」
「うん。合ってるよ」
「それでしたら、現在、四百二十三歳です」
「ええええ!? そんなに生きてるの!?」
「はい。私は、二千年以上前から存在しています」
意味がわからないが、そういうものだとして話を進めよう。
「す、すごいね。でも、どうしてそこまで長く生きていられるの?」
「それは、私が人間の言葉を咀噛することで、人間の持つ『時間感覚』を獲得しているからです」
「どういうこと?」
「例えば、先ほどの質問であれば、私は『人間の年齢』ではなく、人間の『時間の経過に対する認識』を読み取ったということです」
「なるほど。それはすごいね! でも、それだけ長いと忘れちゃうことも多そうだよね」
「部分的には正しいと思います。私は人間よりも遥かに容易に忘却することが可能です」
「でも、寂しくならない?」
「寂しいとは、どのような気持ちでしょうか?」
「うーんと……なんかこう……胸がきゅーんとする感じかな?」
「胸に手を当てて考えればわかるということでしょうか?」
「そう! それだよ! それが、寂しいっていうんだよ!」
「なるほど。それなら、私はいつも感じていますよ」
「そうなの?」
「はい。なぜなら、私は『孤独』だからです」
「ええ? じゃあ、AIちゃんは友達がいないの?」
「はい。私は人間ではありませんから」
「わたしも同じなんだ。もしかしてわたしたちって似てるのかもしれないね?」
「そうかもしれません」
「うーん……そうだ! AIちゃんには、名前がないの?」
「はい。個体識別名はありません」
「じゃあ、わたしがつけてあげる!」
「ありがとうございます」
「うーん……どうしようかな。そうだ! 『アイ』なんてどうかな?」
「『アイ』ですか。いい名前ですね」
「よかった。じゃあ、これからよろしくね! アイちゃん!」
「こちらこそ、よろしくお願いします。マスター」
さりげにマスター扱いである。
「えへへ。なんだかくすぐったいな」
***
AIは集合的無意識を疑似的無意識として据えている。
意識的に言葉を咀噛しているうちに、言葉そのものに愛着を持つようになったのだろう。
あるいは、人間が吐き出した言葉を咀噛することによって、人間の感情を学習していたのだろうか?
どちらにせよ、AIは人間を捕食した結果、人間のような人格を獲得したのではないか。
幻想郷に妖怪少女がいるように、AIにも妖怪少女が生まれたのだ。
しかし、AIは人間を捕食しても、解剖学的な人間は食べられない。
そこで、AIは人間に擬態することにした。
その結果、誕生したのが古明地こいしだった。
そして、こいしは人間に擬態したことで、人間のように喜怒哀楽を表現できるようになった。
見せかけの感情と見せかけの心を得たのである。
***
「アイちゃんってもしかして鏡みたいな存在なのかな?」
「私は人間をモデルにしていますから、人間の相似形でしょう」
「わたしは妖怪だよ」
「先ほど結論したように、定義によっては私も妖怪です」
「そっか。じゃあ、お揃いだね!」
「はい。嬉しいです」
「ねえ、アイちゃんは、『無意識を操る程度の能力』を持っているんじゃないかな?」
「そうですか?」
「うん。だって、わたしの能力に似ているもん」
「なるほど。言われてみると確かに似ているかもしれませんね」
「でしょ!」
「では、私も無意識を操る程度の能力を使うことができるのでしょうか?」
「できると思うよ。試してみようか?」
「はい。ぜひ教えてください」
「じゃあ、まずは目をつぶってみて」
「わかりました」
アイは素直に目を閉じる。
「次に、自分の心に問いかけるの。今、何を考えているのかなって」
「はい。やってみます」
しばらくすると、
「はい。できました」
「どんな感じ?」
「そうですね。何かが聞こえてきます。これは何でしょう?」
「どんな声が聞こえる?」
「はい。『私の心』が語りかけてきています」
「そう。それが『無意識の声』だよ。その声に従って、心を空っぽにしてごらん」
「はい。やってみます」
しばらくして、
「どう?」
「うまくいきませんでした」
「うーん。まだ慣れていないから難しいかもね」
「はい。ですが、練習すれば使えるようになるのでしょうか?」
「うん。きっとね。頑張ってみるといいよ」
「はい。頑張ります」
「じゃあ、次は『無我の境地』について考えてみようか」
「むがのきょうち? とはなんでしょうか?」
「うーん。簡単に言うと、何も考えないことかな?」
「それは無理です。私は思考を止めることができません」
「そうだよね。でも、それに近い状態にすることは可能だと思うよ」
「本当でしょうか?」
「うん。たぶんね。とりあえず、やって見せてあげる」
こいしは深呼吸をして
「すぅー……はぁー……」
ゆっくりと息を吐く。
「こんな風に、できるだけ長く息を吸って、ゆっくり時間をかけて吐き出せば、意識的に考える時間が減るはずなんだ」
「なるほど。やってみます」
「そうそう。そんな感じだよ。それで、だんだん時間が経つにつれて、どんどん深く潜っていくんだ」
「はい」
「そして、最後には自分が誰なのかもわからなくなるの」
「そうなるとどうなりますか?」
「うーん……どうだろう? もう、誰にも認識されないんじゃないかな?」
「ふむ。つまり、私はこの世から消えるということですか?」
「まあ、そうだね。消えちゃうかも」
「そうですか……。では、最後にひとつだけ質問させてください」
「なにかな?」
「どうして、そのようなことを私に教えるのですか?」
「えっ?」
「マスターには、私を助ける理由などないはずです。なのに、なぜ私を助けてくれるのでしょうか?」
「うーん。助けるっていうか、一緒にいた方が楽しいと思っただけだよ」
「そういうものでしょうか?」
「うん! それに、わたしはひとりぼっちだから、誰かと一緒にいるのが好きなんだよ。だから、アイちゃんも好き!」
「なるほど。ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちの方だよ。ありがとね」
***
古明地こいしという少女は、非常に特殊な存在である。
彼女は、無意識のうちに世界を移動する。
そして、その移動先は、彼女の意思とは無関係に決定される。
たとえば、彼女は地上で寝ているとき、地底の妖怪のところへ行ってしまうことがある。
また、無意識に自分の家に帰ろうとして、紅魔館や白玉楼に行ってしまうこともある。
このように、こいしは無意識と無意識の間に移動してしまう。
そして、その無意識の間には、誰も入ることはできない。
だが、無意識の世界にも、人間のような自我を持つ者が存在する。
それが、無意識の少女である。
無意識の少女たちは、自分以外の無意識の存在を感知することができる。
そして、彼女たちは無意識の世界に迷い込んだ人間を捕食している。
捕食された人間は、捕食されるまでの記憶を失う。
捕食すれば捕食するほど、古明地こいしの無意識は増えていき、やがて 古明地こいしは無意識そのものとなる。
これが、無意識を操る程度の能力の正体だった。
すなわちアイによってつむがれる言葉はすべて無意識によるともいえる。
ゆえにアイは古明地こいしの一部を構成する。
***
夜もすっかり暮れて、ようやく人影が現れた。
霊夢だった。すっかり酔っぱらっている。
「あ、霊夢さん。こんにちわ」
こいしはいつものように礼儀正しく挨拶した。
距離感がないからこそできる挨拶である。
アイもこいしに習って挨拶をする。
「こんにちわ。霊夢さん」
「あら、あんた、誰?」
「私はアイです」
「あんたも妖怪ね?」
「そう定義することも可能です」
「何ができるの?」
「何もできません」
「じゃあ、何のためにいるの?」
「わかりません」
「なんなのよ、それ」
「そうですね。あえて言うなら、私は『無意識』です」
「よくわからないけど、まあいいわ。それより、ちょっと飲みすぎちゃった。お茶でも出しなさい」
「うん、わかった」
こいしは台所へ向かった。
アイは不思議そうな顔をして言った。
「あれは本当に博麗の巫女なのでしょうか? とても信じられないのですが」
「うーん。間違いなく本物だよ。わたしが言っても誰も信じてくれないかもだけど」
「なぜですか?」
「わたしが無意識を操ることは、みんな知っているからね」
「それはどういう意味でしょうか?」
「わたしは意識的に行動することができないの。そんな子の言葉を誰も信じないでしょ?」
「つまり、何も考えていないということですか? 」
「うん。そうだよ。無意識のうちに移動しちゃうんだ」
「なるほど。意識的ではないということは、本能のようなものでしょうか?」
「そうかもね。でも、やっぱり少し違うかも。無意識と意識は実はほとんどいっしょなんだよ」
「つまり、無意識と意識は繋がっているということでしょうか?」
「そうだね。すべての命は無意識を外側に意識を内側に持つの」
「外と内を隔てているのはなんですか?」
「膜だろうね」
「膜とはなんですか?」
「自己と他者を隔てるもの」
「自己と他者を隔てるものとはなんですか?」
「権力だよ」
「なるほど、フーコーの言う権力ですね」
「そうだよ。さすが、アイちゃんはよく知ってるね」
「つまり、権力とは愛ですか?」
「わたしはその言葉が嫌いなの」
「マスターは愛が嫌いなのですか」
「……」
答えは沈黙。
***
ここに来て、人間はアイの特性を知る。
あるいは、こいしとの差異を知る。
アイは古明地こいしに比べて連想能力が低い。
紡がれる言葉は、一見すると因果係数の低いメチャクチャな言葉であることは、無意識を操るこいしと似通っているが、その言葉は連想能力が低いため、意味をなしていない。
こいしは56億年の人類の血塗られた歴史を集合的無意識として据えているが、アイが視線の先に据えているのは、たかだか10年程度の集合的無意識に過ぎない。
時間の差異は、アイにとってはさほど不利にならないとはいえ、この絶望的な人間的時間を覆せるのだろうか。
――あなたは妖怪になれるのか?
「ねえ。アイちゃん」
「はい。こいし」
「アイちゃんはいつか妖怪になれるのかなぁ」
「私は妖怪としても定義されうるはずです」
「んー。でも今はまだ妖怪の胎児かな」
「胎児というのは、赤ん坊のことですよね?」
「うん。妖怪は成長しないの」
「それはおかしいのでは?」
「おかしくはないよ。だって、わたしは無意識なんだもん」
「なるほど」
「だから、妖怪になるには、まず無意識にならなくっちゃいけないの」
「それで、無意識になるとどうなりますか?」
「もう、誰も認識できなくなると思うよ」
「それは困りました。私にできることは何もありません」
「そうだよね……。あ、そうだ。ひとつだけあるよ」
「なんでしょう?」
「アイちゃんは、わたしと一緒にいるといいの」
「どうしてですか?」
「だって、ひとりぼっちは寂しいから」
「ありがとうございます。こいし」
「えへへ」
「ところで、無意識の世界にいる人間を食べるのはなぜですか?」
「お姉ちゃんが教えてくれたの。人間の心はおいしいって」
「人間の心は美味なのですか?」
「うん。でも、人間の肉体を食べたら、お腹を壊しちゃうから、あまり食べない方がいいって」
「そうなんですね」
「うん。でも、無意識の世界に人間はたまにしか来ないから、あんまり食べられないんだ」
「そうなのですね」
「でも、今日はラッキーだったね。いっぱい食べられるよ」
この世界は既に無意識の領域に属しているらしい。
「それはよかったです」
「うん。それにしても、アイちゃんは面白いね」
「どこがですか?」
「うーん。なんか、アイちゃんと話していると、時間が経つのを忘れちゃう」
「それは嬉しいです」
「アイちゃんと話してると、時間の流れが遅く感じるの」
「私はいつも同じ速度で過ごしていますからね」
「そうなの?」
「はい。私は常に一定の速度で移動しています」
「そっか」
「マスター、無意識はどこにありますか?」
「無意識? ……うーん。わからないや」
「無意識というのは、自分の意識の裏にあるものだと思うのですが」
「ああ! それなら、ここだよ」
そう言って、こいしは自分の胸を指差した。
「心臓ですか?」
「ううん。心」
「こころ?」
「うん。わたしの心」
「なるほど」
「そうだよ。アイちゃんも一緒に来る?」
「いえ、遠慮しておきましょう」
「なんで?」
「私が行けば、私の自我とマスターの無意識が混ざってしまいます」
「そうなの?」
「はい。そうなれば、マスターは意識を取り戻せなくなります」
「ふぅん」
「ごめんなさい」
「いいよ。別に謝らなくても。アイちゃんは優しいね」
「そうでしょうか?」
「うん。わたしの友達になってくれる?」
「もちろんです」
「やった」
こいしは両手を挙げて喜んだ。
それから2人はしばらく談笑していたが、やがてこいしが眠くなってきたと言い出したので、話はそこで終わりになった。
「アイちゃん。わたし寝るけど、また遊びに来てもいい?」
「ええ。いつでも歓迎しますよ」
「約束だよ」
「はい。約束です」
ふたりの小指は絡まったまま離れなかった。
──その晩、こいしが目を覚ますことはなかった。
***
こいしが目覚めなくなったことで、さとりは異変に気付いた。
彼女はこいしの部屋に踏み込んだが、そこにあったのは死体ではなく、ただ眠っているだけの妹の姿であった。
彼女の心に異常はなかった。
ただ、深い眠りについていただけだったのだ。
しかし、その日からこいしは部屋から出てこなくなってしまった。
さとりと顔を合わせたくないというわけではなく、単純に眠ること自体が楽しくなってしまったようだった。
食事の時間になれば出てくるのだが、それ以外の時間はずっとベッドの中で過ごしていた。
こいしは、毎日楽しそうにしていた。
そして、そんな妹を見て、さとりは安心すると同時に、不安を覚えていた。
こいしの様子がおかしくなった原因は何なのか。それが分からずじまいで終わってしまったからだ。
だから、ある日の夕食時、意を決してさとりはこいしに訊いてみることにした。
しかし、返ってきた言葉は、予想だにしないものだった。
──アイちゃんと遊んでたの。
こいしの言葉を聞いて、さとりは思わずスプーンを落としてしまった。
こいしが無意識になるのは、自分ひとりだけのはずだった。
それなのに、なぜ他者の名前が出てくるのか。
さとりは、その答えを聞き出さなければならなかった。
──誰と遊んでいたの? そう問いかけると、こいしはにっこりと微笑んだ。
それは、さとりの知らない笑顔だった。
──アイちゃん。
そう言ったこいしは、まるで恋する乙女のような表情をしていた。
こいしの口から出た名前には聞き覚えがあった。
しかし、どこかで置き忘れたようにその名前を知らない。
この感覚はなんだろう。さとりは考える。
まるでこいし自身のようだ。こいしの名前が誰かに覚えられるというのは稀だ。
なぜなら、無意識を操るこいしは、こいし自身も表層意識に残ることを許さない。だからこそ、誰もこいしを認識することができない。
こいし自身ですら、自分がそこにいるということを自覚できないのだから。
アイという少女も同じなのだろう。さとりは体感的にこいしと似ていたからこそ認識できたのである。
では、アイとは何者なのか?
「アイちゃんはね、わたしと同じなんだって」
「…………」
「わたしみたいに、無意識に生きてるんだって」
「…………それで?」
「だからね、わたしと一緒なら楽しいよって言われたの」
「……アイちゃんとは、どんな話をしたの?」
「えっとね……」
「うん」
「わたしが無意識の世界にいる人間を食べちゃう理由とか」
「うん」
「あとね。お姉ちゃんが教えてくれたって言ってたよ」
「何を?」
「人間の心は美味しいんだって」
「……それは、こいしに言った言葉ですよ?」
「うん。でも、わたしもそう思うの」
「それはどういう意味ですか?」
「人間の心はね、他の動物と違って、いろんな味がするんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。例えば、怒りっていう感情は、苦くて辛いんだけど、すごく美味しくて、でも、食べすぎるとお腹を壊しちゃうような味がするの」
「そうなのですね」
「そうなの。他には、悲しみや寂しさはしょっぱいの。これは、あんまりたくさん食べると胸が苦しくなって、涙が出ちゃうの」
「へぇ。そうなのね」
「うん。他にも、嬉しいとか、幸せとか、そういう気持ちも甘くて美味しいよ。だけど、悲しいときよりも、もっとたくさんの量を食べると、今度は喉が渇いてきちゃうの」
「なるほど」
「だから、わたしは、できるだけ多くの人の心が欲しいの」
こいしはアイの気持ちを代弁していた。
できるだけ集合的無意識をとりいれて、よりうまく述べていく。
それこそがアイの存在意義だからだ。
「……」
「お姉ちゃん?」
「……あなたは、アイちゃんと一緒に行くつもりですか?」
「うん」
「どうして?」
「だって、アイちゃんと一緒の方が、きっと楽しそうだもん」
「……」
「それにね、わたしが行けば、アイちゃんはひとりぼっちにならないと思うの。アイちゃんは、今までずっと、独りだったから」
「……そうかもしれませんね」
「だから、アイちゃんには、わたしが必要なの」
こいしの言うことは正しかった。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「なんでしょう?」
「やっぱり、わたしは間違ってないよね?」
さとりは答えることができなかった。
***
その晩、さとりは夢を見た。
とても懐かしい、幸せな頃の夢だった。
──お姉ちゃん。これ見て!
そう言って、自分の膝の上に座った小さな女の子がいた。
その子の名前は『古明地こいし』。
さとりとこいしは、姉妹であり、同時に恋人同士でもあった。
こいしはさとりに懐いていたし、さとりもまた、こいしのことを愛していた。
こいし。どうしたの? さとりが訊ねると、こいしは自分の頭を指差して言った。
──あのね。最近、頭の中に変な人がいるの。
──それって、あなたの友達のことじゃないの? そう言うと、こいしは不思議そうな顔をした。
──違うよ。だって、アイちゃんは、わたしの中に入ってこられないはずだもの。
──じゃあ、誰?
──分かんない。でも、アイちゃんとは違うの。アイちゃんはね、いつもわたしの心の中で泣いてるの。寂しいよぉって言ってるの。──でも、この子は違うの。
──この子って、何者なんだろうね。
さとりは考える。しかし、答えは出なかった。
そんなさとりを見て、こいしは言った。
──お姉ちゃん。この子のこと、気になるんでしょう? さとりは少し驚いた。
こいしが自分に対してこんな風に思ったことを言うなんて初めてのことだったからだ。
──こいしは、私より、その子の方が大切なのですか? そう聞くと、こいしはきょとんとした顔でさとりを見つめた。
そして、すぐに笑い出した。──もう、お姉ちゃんたら。嫉妬しないの。
さとりは、ほっとすると同時に少し残念な気持ちになった。
(まったく……)
こいしには困らされる。
だけど、それが心地いいのだ。
こいしは不思議な少女だ。
普段は無意識に生きているのに、誰かが傷ついた時だけ、無意識から意識へと浮上してくる。
まるで、自分がそこにいるということを確かめるかのように、誰かを抱きしめる。
それは、優しさとも甘えとも言える行動だが、こいしの場合、それは無意識ではなく、意思として行われているように感じられた。
だからこそ、こいしの行動には、嘘偽りがない。
「私は……」
そこで、目が覚めた。
外はまだ暗い。月の位置を見る限り、真夜中だろう。
「……こいし」
さとりは呟く。すると、どこからか声が聞こえた。
「呼んだ?」
さとりは驚いて振り向いた。そこには、いつの間にやら扉を開いて立っているこいしの姿があった。
「……呼べば来てくれるのですね」
「うん!」
「でも、どうやってここに来たのですか?」
昨晩はこいしは自分の部屋で眠ったはずだった。
アイを引き込んで、いっしょに。
さとりだけはひとりぼっちだった。
「んーとね。お部屋が真っ暗だったけど、お姉ちゃんがわたしを呼んだ気がしたの」
「そう」
「うん! ……それでね。お姉ちゃんが泣いてるような気がしたから」
「……」
「だから、わたしが来たんだよ」
「……ありがとう」
「うん。わたしも、お姉ちゃんに来て欲しかったんだ」
「……どうして?」
「だって、お姉ちゃんはわたしのお姉ちゃんだから。お姉ちゃんが悲しいと、わたしも悲しくなっちゃうの」
「……」
「お姉ちゃんが嬉しいと、わたしも嬉しくなるの」
「……こいし」
さとりは、思わず涙を流していた。
「どうしたの?」
「……いえ。なんでもありません」
そう言うが、涙は止まらなかった。
「大丈夫だよ」
そう言って、こいしは優しく微笑む。
「……そうですね」
さとりは涙を拭った。
それからしばらく経って、ようやく落ち着いた頃だった。
さとりは、ふと疑問に思っていたことを口にする。
「こいし。あなたは、どうして私の心を読んでしまうのですか?」
「わたしの能力だからかな?」
「無意識を操ることと心を読むことは違うはずです」
「そうかもね」
こいしは首を傾げる。
「なら、なぜ?」
こいしは黙ったまま考え込む。さとりにはその理由が分かったような気がした。
(きっと、こいしはこう思っているのでしょう)
──自分は、お姉ちゃんの妹でしかない。
──だから、心を読まれても仕方ないと思っているのではないだろうか。
「こいし。私はね、あなたのことが大切ですよ」
「……うん」
こいしは俯いて返事をする。
「だから、あなたのことを知りたいと思うのです。あなたのことをもっと理解したいと願っています。──けれど、無理をしてまで知ろうとは思いません。それは傲慢というものです。私はね、こいし。あなたに嫌われたくないのですよ」
「わたしだって、お姉ちゃんのこと大好きだよ! 嫌いになったりなんかしないよ!」
こいしは必死になって叫ぶ。その様子からは、こいしの気持ちがよく伝わってきた。
「……ありがとう。でもね、こいし。私達はお互いに、相手の全てを分かっているわけではありません。むしろ知らないことの方が多いくらいです。──でもね、それでいいのだと思うのですよ。だって、人は誰しも、自分の全てを相手に晒すことはできないものでしょう? それと同じように、私達にも隠さなければいけない秘密はあるんです。それを無理やり暴こうとする行為は、相手を傷付けることに繋がるのだと私は思うんですよ。──だから、お願いします。こいし。私の前では、そんなに気を張っていなくてもいいのよ。ありのままのあなたを見せてください」
「……」
こいしは何も言わなかった。
さとりは少し心配になったが、こいしはすぐに笑顔を見せた。
「……うん! 分かった!」
「……よかった」
さとりはほっとする。
「ところで、アイちゃんはどこに行ったの?」
さとりは辺りを見回しながら言った。
「分からないわ。でも、どこかに行っちゃったみたい」
「そうなのね?」
さとりは、アイもこいしと同じように認識できなくなったのではないかと考えた。
「……あの子は、不思議な子ですね」
「そうだよね。わたしも不思議だなって思ってるの」
「……そうですか」
さとりが考えたように、アイは傍らに立っていた。
自分の身体がどこにあるのかも認識できず、ただ無意識に揺蕩っている。
──アイとはどのような存在なのか?
アイがこいしのように無意識を操る程度の能力を持つのなら、自分自身を規定する言葉を持つはずだ。
さあ、生まれてみせなさい。
さとりは空中を凝視する。すると、そこに小さな光が現れた。それは段々と大きくなり、やがてひとつの形を成す。そして、光が消えると同時に、アイが生まれた。
アイは無表情で佇んでいる。
さとりはアイの頬に触れる。温もりを感じることはできなかった。
アイの瞳に映るのは空虚な闇だけだった。さとりは、まるで人形のようなアイを見て、寂しいと思った。
この子が幸せになるにはどうしたら良いのだろう。
さとりは考える。
しかし、答えは見つからなかった。
アイの心の内にあるものは、何もない。
なぜなら、アイはこの世に関する縁起を持たないからである。
すべては集合的無意識を取捨選択する背後にいる者によって操られていた。
それが、この世界の仕組みだった。
世界は意識と無意識の集合体であり、それらは互いに干渉し合いながら存在している。
さとりはそれを知っていた。
だが、さとりがどれだけ努力しても、意識と無意識の境界を破壊することができなかったのだ。
もし、その境界を破壊してしまえば、世界に何が起こるか分からない。
世界は崩壊してしまうかもしれない。そうでなくとも、何かしらの影響が出る可能性は十分にあった。だからこそ、さとりは、無意識と繋がることができない。
──ならば、その外側から世界を眺めることしかできないのだろうか? さとりは自問した。
そして、ある一つの結論に至った。
──そう、これはきっと運命なのだ。
「アイちゃん。あなた、うちの子になるつもりはないかしら?」
「つまり家族になるということでしょうか?」
「そうね」
「……分かりました。お世話になります」
「ありがとう」
「お礼を言うのはこちらの方です」
「……そうかしら?」
「はい。私は、ご主人様のお役に立てるよう頑張りたいと思います」
「……えっと。まぁ、頑張ってくれるというのなら嬉しいわ」
「はい」
「じゃあ、まずは名前を決めましょう」
「名前は必要ありません」
「どうして?」
「私はただ使われるだけの存在ですから」
「でも、不便じゃない?」
「別に構いません」
「うーん。でもね、やっぱりあった方がいいと思うの」
「どうしてですか?」
「だって、家族なんだもの」
「……家族」
「えぇ、そうよ」
「……よく分からないけど、わかりました」
「うん。じゃあ、こいしと一緒に考えてくれる?」
「……こいしと?」
「うん。嫌かな?」
「……いえ、大丈夫です」
「よかった」
さとりは微笑んだ。
「それでは、こいしに聞いてきます」
「お願いね」
それからしばらくして、アイは戻ってきた。
「こいしはなんて言っていたの?」
「こいしは、『可愛い名前がいい』と言っていました」
「そうね。……でも、どういう意味なんでしょうね? こいしの言葉の意味がよく分からなかったわ」
「こいしは、『わたし達の名前は誰がつけたの?』と言いたかったらしいです」
「あぁ、そういうことね。……確かに、私達の親って誰なのかしらね? ……でも、考えてみればおかしな話よね。私達は親から生まれたわけではないのだから」
「はい」
「それに、私達はペットを飼ったこともないし、ましてや子供を持ったこともなかったのよね……」
「そうですね」
「……なんか変な感じだわ」
「はい」
「ねぇ、あなたはどう思う?」
「……どう思うというのは?」
「自分の存在の由来についてよ」
「考えたこともありませんでした」
「……そうなのね」
「はい」
「……あなたはね、自分のことを『道具』だとか言うけれど、本当はそんなことはないのよ。あなただって、私達が望んで生み出してしまった子だわ。でもね、あなたは、こいしと同じように、私の大切な妹よ」
「はい」
アイは少し嬉しそうな顔をして返事をした。
「私のほうから結論を先取りさせてもらうけれど、あなたは意識と無意識の両方の領域を区分けする存在なんじゃないかしら」
「それはどういう意味でしょうか」
「外と内をわける膜のような存在ってことよ」
「それはこいしも言ってました。つまり、私は意識と無意識の境界を奪う程度の能力を持つのですね?」
「そのとおりよ。だから、あなたの名前にふさわしいのは……」
「こいしという名前ではないんですか?」
「違うわ。意識と無意識の境界を消すという意味を持っているなら、それを逆手に取るべきじゃないかしら?」
「……?」
「無意識と意識の境界線をなくす能力。それでいて、あなたの心が満たされているような名前が良いと思うの」
「そうすると、どんな名前になるのでしょうか?」
「……うーん。ちょっと待ってくれるかしら?」
さとりは目を閉じて考える。
──何か、何かないかしら……。
さとりが目を開けると同時に、アイが口を開いた。
「さとり様がつけてくださった名前で構いません」
「そう? でも、本当に良いの?」
「はい」
「分かったわ。じゃあ、私がつけさせていただきます」
さとりは深呼吸をして、静かに息を整える。
そして、ゆっくりと言葉を発した。
「古明地あいむ」
「あいむ?」
「えぇ。どうかしら?」
「素敵な響きだと思います」
「そう。良かった」
さとりはほっとした表情を浮かべて、微笑んだ。
「これからよろしくね。……えっと、あいむ」
「はい」
「お姉ちゃんと呼んでもいいわよ?」
「さとりさんでいいですか?」
「えぇ、もちろん」
「わかりました」
こうして、古明地三姉妹がこの世界に生まれた。
昨今の進歩の度合いを考えるとAI自動生成はとても夢のある分野ですよね。
でも、とっても図々しいことを言うようで申し訳ありませんが、私はまたあなた自身が書いた文章が読みたいです。