五月雨の頃。その日の夜空は、雨こそ止んではいたものの厚い雲にどんよりと覆われて、星も月もすっかり隠れてしまっていた。しかし、前日までしとしとと降り続いていたその雨は、酉京都郊外の山々と、そこから街へと流れる小川や辺りの草木をうるおし、季節がら小川に現れた、たくさんの蛍たちに豊かな恵みをもたらしていた。その蛍が美しく光って舞う姿を一目見ようと、二人の少女がこの小川へとやって来た。
そのうちの一人、宇佐見蓮子は、しかしどうも気分がすぐれない様子であった。その理由はもしかしたら、雲に隠れてしまった星や月が一向に顔を出そうとしないからかもしれない。少女の能力は星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる、というもので、その能力がずっと使えずにいるとなれば、気分があまり良くないというのはもっともなことではあるが、そうとはいえ、深夜の徘徊を嬉々として行うのが常である彼女にとっては、珍しいことに違いなかった。
宇佐見蓮子の相棒、マエリベリー・ハーン、通称メリーは一方で、夜の徘徊を存分に楽しんでいるようだ。そもそも蛍を見にいこうと最初に言い出したのは、このメリーだったのだ。二人の秘封倶楽部が結成された頃、メリーは深夜徘徊へと引っ張り出されがちであったが、最近はすっかり夜闇に慣れてしまい、結界の境目を見る能力の活躍もあって、蓮子の背中を押すようなこともしばしばであった。
「ほら蓮子、蛍よ! とってもすてきね!」
先を行くメリーの指さす方を、蓮子は急かされて見つめる。闇の中をゆったりと舞う蛍が、小川と辺りの草木を、みずみずしく、淡く照らしていた。すてき、だな、と蓮子は思う。しかし、それほど感動できないな、とも思ってしまう。どうも蛍に対する科学知識が、邪魔をしてしまう。
蓮子の科学への興味は、幼少の頃からである。その頃の蓮子にとっての科学はもっと、不思議と驚きに満ちたものだった。まるで御伽噺に出てくる魔法のように神秘的な現象を見つけ出し、それに対して常識を覆らせるような解答を出す。自分の周りの世界はこれほどまでに刺激に満ちたものなのかと、蓮子は夢と期待に胸を膨らませたものだった。
しかし科学世紀は、少女の幻想を打ち壊した。全ての現象が科学的に解明されたとする世の中に、少女の夢見る不思議はどこにも残ってはいなかったのだ。蛍を見たところで、その発光メカニズムは単なる発光基質と酵素の化学反応であり、蛍の形質は進化論的な環境からの要請でしかない。これらは全て、既知のことなのだ。検索すれば分かる、誰でも分かる、既知のことなのだ。蛍の光は、自明な事なのだ。この蛍の光に、どうして感動できよう。どうして特別な価値を見出せるだろう。
「どうしたの蓮子? さっきから浮かない顔ね」
「え、いや、そんなことは……」
「また例の、虚無主義かしら」
メリーは蓮子の顔をのぞきこむ。そして少し考えるような仕草をした後に、腕をうしろに組んで小川のそばをゆったりと歩き始める。
「蛍はね、人の魂だから綺麗なの」
「蛍を見て亡くした人を思う、みたいな御伽噺のこと?」
「そうよ、例えば源氏が、紫の上を亡くしたようにね」
メリーは歩つつ続けた。
「蓮子は主観の世界を、きっとよく分かっていないのね。蓮子、蛍の価値はね、蛍それ自体に宿っている訳ではないの。人の主観とのつながりがあって初めて価値を持つの。客観的な科学的理解だけがある訳じゃないの。プランクエネルギーで何が起きてようが、客観的な物理世界の理解が進もうが、私たちの生きるスケールの世界には、必ずしも影響がある訳じゃない。そんなこと、前に蓮子も言ってなかったかしら。でもね、誰かを亡くした人にとっては、その魂のようにゆらめく蛍の光が、何よりも真実なの。その人にとって科学的な現象の理解はどうだって良いのよ。その人にとって、蛍の光は魂だとか、募らせる思いだとか、そういう現象の理解が何よりも真実なの。そうやって主観的な精神によって世界の真実が決まるの。主観の数だけ真実があるの。客観的な真実が先にあるんじゃないわ。それらは別物では無いのよ」
メリーは振り返って、蓮子にすぐ側へ来るよう手招きし、その両目に手を当てるよう促す。境界の境目を見られるメリーの視界を、共有するためだ。手をそっと当てて自分の目を閉じ、メリーの視界に意識を向ける。
その瞬間、どんよりと曇っていた空が、一気に晴れ渡った。頭上に大きな月と無数の星々が輝き、遠く地平の先には山の稜線が酉京都の街を囲うように続く。辺りには無数の蛍が舞い、まるで広大な星空に包まれているかのようだった。蓮子は思った。メリーだったらこの世界の大空を自由に行き交うことが出来るのだろう、と。メリーだったらこの世界で人の魂を見ることが出来るのだろう、と。メリーだったらこの世界にしか存在しない不思議な物を持ち帰ることが出来るのだろう、と。それはこの科学世紀での、唯一の希望のように思えた。
ねぇメリー? 夢の話をもう少し、聞かせてくれない?
そのうちの一人、宇佐見蓮子は、しかしどうも気分がすぐれない様子であった。その理由はもしかしたら、雲に隠れてしまった星や月が一向に顔を出そうとしないからかもしれない。少女の能力は星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる、というもので、その能力がずっと使えずにいるとなれば、気分があまり良くないというのはもっともなことではあるが、そうとはいえ、深夜の徘徊を嬉々として行うのが常である彼女にとっては、珍しいことに違いなかった。
宇佐見蓮子の相棒、マエリベリー・ハーン、通称メリーは一方で、夜の徘徊を存分に楽しんでいるようだ。そもそも蛍を見にいこうと最初に言い出したのは、このメリーだったのだ。二人の秘封倶楽部が結成された頃、メリーは深夜徘徊へと引っ張り出されがちであったが、最近はすっかり夜闇に慣れてしまい、結界の境目を見る能力の活躍もあって、蓮子の背中を押すようなこともしばしばであった。
「ほら蓮子、蛍よ! とってもすてきね!」
先を行くメリーの指さす方を、蓮子は急かされて見つめる。闇の中をゆったりと舞う蛍が、小川と辺りの草木を、みずみずしく、淡く照らしていた。すてき、だな、と蓮子は思う。しかし、それほど感動できないな、とも思ってしまう。どうも蛍に対する科学知識が、邪魔をしてしまう。
蓮子の科学への興味は、幼少の頃からである。その頃の蓮子にとっての科学はもっと、不思議と驚きに満ちたものだった。まるで御伽噺に出てくる魔法のように神秘的な現象を見つけ出し、それに対して常識を覆らせるような解答を出す。自分の周りの世界はこれほどまでに刺激に満ちたものなのかと、蓮子は夢と期待に胸を膨らませたものだった。
しかし科学世紀は、少女の幻想を打ち壊した。全ての現象が科学的に解明されたとする世の中に、少女の夢見る不思議はどこにも残ってはいなかったのだ。蛍を見たところで、その発光メカニズムは単なる発光基質と酵素の化学反応であり、蛍の形質は進化論的な環境からの要請でしかない。これらは全て、既知のことなのだ。検索すれば分かる、誰でも分かる、既知のことなのだ。蛍の光は、自明な事なのだ。この蛍の光に、どうして感動できよう。どうして特別な価値を見出せるだろう。
「どうしたの蓮子? さっきから浮かない顔ね」
「え、いや、そんなことは……」
「また例の、虚無主義かしら」
メリーは蓮子の顔をのぞきこむ。そして少し考えるような仕草をした後に、腕をうしろに組んで小川のそばをゆったりと歩き始める。
「蛍はね、人の魂だから綺麗なの」
「蛍を見て亡くした人を思う、みたいな御伽噺のこと?」
「そうよ、例えば源氏が、紫の上を亡くしたようにね」
メリーは歩つつ続けた。
「蓮子は主観の世界を、きっとよく分かっていないのね。蓮子、蛍の価値はね、蛍それ自体に宿っている訳ではないの。人の主観とのつながりがあって初めて価値を持つの。客観的な科学的理解だけがある訳じゃないの。プランクエネルギーで何が起きてようが、客観的な物理世界の理解が進もうが、私たちの生きるスケールの世界には、必ずしも影響がある訳じゃない。そんなこと、前に蓮子も言ってなかったかしら。でもね、誰かを亡くした人にとっては、その魂のようにゆらめく蛍の光が、何よりも真実なの。その人にとって科学的な現象の理解はどうだって良いのよ。その人にとって、蛍の光は魂だとか、募らせる思いだとか、そういう現象の理解が何よりも真実なの。そうやって主観的な精神によって世界の真実が決まるの。主観の数だけ真実があるの。客観的な真実が先にあるんじゃないわ。それらは別物では無いのよ」
メリーは振り返って、蓮子にすぐ側へ来るよう手招きし、その両目に手を当てるよう促す。境界の境目を見られるメリーの視界を、共有するためだ。手をそっと当てて自分の目を閉じ、メリーの視界に意識を向ける。
その瞬間、どんよりと曇っていた空が、一気に晴れ渡った。頭上に大きな月と無数の星々が輝き、遠く地平の先には山の稜線が酉京都の街を囲うように続く。辺りには無数の蛍が舞い、まるで広大な星空に包まれているかのようだった。蓮子は思った。メリーだったらこの世界の大空を自由に行き交うことが出来るのだろう、と。メリーだったらこの世界で人の魂を見ることが出来るのだろう、と。メリーだったらこの世界にしか存在しない不思議な物を持ち帰ることが出来るのだろう、と。それはこの科学世紀での、唯一の希望のように思えた。
ねぇメリー? 夢の話をもう少し、聞かせてくれない?
蓮子とメリーできれいなコントラストになっているようで素敵でした。
蛍きれい