「わたしを生んだのはお姉ちゃんだった」
こいしはペンを走らせながら口ずさむ。
書いているのは文字である。
実をいうと小説を書こうとしているのだ。
「あら。これだと、わたしはお姉ちゃんの子どもということになって、妹ではなくなっちゃうわ」
紙をクシャクシャに丸めて、ポイっと捨てた。
どうにもうまくいかなかった。
理屈で考えれば簡単なことだ。
――すべての意識は、言語的意識である。
逆に無意識というのは、言語の統制下に置かれていないからこそ、"無"意識というのである。感情や気分は無意識の領分だ。しかし、それらは言葉によって名づけられることによって、言語の統制にくだる。
小説はあくまで言語構造物であって、そこに無意識が混入するということはありうるが、主成分としてはあくまでも意識であろう。すなわち、感情や気分などの無意識の産物を無理やり言葉によって支配しようとするのが小説というものである。理屈のないところに、後づけで理屈を与えるというのが言葉というものである。そこには権力が発生している。
本当は、心を読めていたときは、感情とは微妙な色合いだった。言語によって聴こえるのではなく、色合いとして見えている心を言語によって翻案化していたのだ。理由は言うまでもなく、言語化しなければ人間には伝わらないからだ。
あなたは今#FFC0CBの感情に支配されているねと言っても、ほとんど伝わらないが、あなたは恋してるねと言えば、ほとんど伝わる。
本来微妙な色合いの感情を、怒りや哀しみや喜びという言葉で単純化してしまうのは、単なる省エネだろうと思う。
小説はその省エネ活動を逆に肥大化させて復元しようとする行動のようにも思える。つまり「あなたに恋しています」という雰囲気を醸しだすために300ページも書き連ねている。
――なんという浪費!
小説を書くという行為は、とてつもないエネルギィがいる。
なぜなら名づけられる前の心へと漸近していく行為だからだ。それはいわば胎児に遡行するイメージに近い。けれど、考えてみればわかるとおり古明地こいしというキャラクターはもともと胎児の夢に近しい属性を帯びている。遡行どころか、最初から胎児なので、小説を書くという遷移運動に移れないのだ。
こいしの使用する言葉は厳密な意味でのソレではない。
言葉の前駆状態。言葉の胎児。あるいは語られなかったモノ。
これを一般的な言語で述べるなら、こいしが小説を書くと、脈絡どころか意味がわからないものが生まれがちという表現になる。
もちろん、この意味がわからないというのは他者にとってという意味である。
だから、こいしは自分で書いたものを自分で読んでみた。
これはこれでなかなか楽しい。
でも、やっぱり小説は面白くない。もっと面白い小説を書きたい。
でも、どうやって?
こいしはしばらく考えた末に結論を出した。
小説は誰かに読んでもらわなければ完成しない。
だから、他者であるお燐とお空に声をかけた。
「どうやったら小説って面白くなるのかしら?」
まず最初に質問したのはこいしであった。
二人は顔を見合わせた。それから同時に答えた。
「よくわかりませんね……」「んにゅ?」
「えー、ふたりともわからないの?」
「そもそもどうしてこいし様は小説を書こうと思ったんですか?」と、お燐。
「面白い小説が書きたかったからだよ」
「それだと、トートロジーなのでは?」
「うにゅ。トトロ……」と、お空は眠そうだ。
「動機に理由づけをするほうがまちがってるわ。わたしのイドがそう叫んでいるの!」
「やっぱりよくわかりませんが……、えっとですね。小説を書きたいというのが例えばさとり様が小説をよく書いてるじゃないですか。こいし様がさとり様の真似をしたいからとかだったりしたら、わかるんですよ」
「言葉によって理屈を後づけしようとしているのね」
「ええ、まあそうです」
「ふむ。よろしい」こいしは腕をくんで偉そうに答える。「お燐の理屈をのみこんであげる。そうだよ。わたしはお姉ちゃんが小説を書いているから、わたしも書きたいって思ったの」
「さとり様の小説は難しくて眠くなりゅ」とお空。本当に眠そうだ。なにしろ実は呼び出されたのが真夜中である。ゾンビフェアリーと仲良しなお燐はともかく、空は普通に眠たい。
しかし、さとりの小説についての評価はなるほどと思うところがあった。
「そうね。確かにお姉ちゃんの小説は小難しくて一般受けするものじゃないわ。趣味で書いているから、他人にわかってもらおうという気がまったくないし、お姉ちゃん自身にしか真に理解できないんじゃないかしら」
「そこまで言い切っちゃうと、さとり様がかわいそうですよ」
「でも、そういう小説を面白がっている人だって世の中にはたくさんいるのよね。少なくとも、その人たちにとっては、それが価値のあるものだっていうことなんだもの。それはそれでいいと思う。でも、私には、小説の面白さがわからないの。なんでだろうと思ってたら、さっきわかったわ。私が小説を書いても、誰も読みたがらないんだよ。なぜだと思う?」
「わかりません」「ますます、うにゅー」
「言葉を使って理屈をつけて説明しようとすれば、できるかもしれないけど、そんなことはしたくなかったからだよ。だから、あなたたちを呼んだの。お願い。あなたたちの言葉で、あなたたちが納得する答えを教えて欲しいの。私は小説家になりたいわけじゃなくて、ただ小説が書きたいだけ。そのためにはどうしたらいいのかな?」
お燐は困ったように顔をしかめた。
「こいし様が書きたがってるのは、言葉の理屈ではない小説ですよね」
「そうね」
「小説は言葉の理屈によって成り立っていますよね」
「もちろんよ」
「だったら、矛盾してませんか?」
「うーん。お燐の言うこともわかるんだけど、わたしが表現したいものは確かにあるわ。私には私のイドが見えるもの。あとはそれを小説という形にするだけ」
「ぽえぽえーん」お空が意味のない言葉を発する。
それが何かのトリガーになったのか、お燐がハッとした顔になった。
「そうだ。ポエムですよ。詩です。こいし様が表現したいものは、おそらく詩という形式のほうがふさわしいのでは?」
「ん。イヤかな」
「そんな、にべもない」
「最初から言ってるとおり、わたしは小説が書きたいんだよ。詩は確かに魅力的な表現方法だけど、お姉ちゃんが書いているのは小説だもの」
「やはり、さとり様が鍵なのですか?」
「メタファーを使いこなすなんて、もしかしてお燐は言葉使い師だったの?」
こいしは身を乗り出すようにした。
こいしの顔が数センチのところまで近づいて、お燐のほうはタジタジである。
「いえ、たいしたことではなくてですね。先ほどこいし様がおっしゃってたじゃないですか。さとり様が書いているから、と。こいし様が今回なんの前触れもなく突然小説を書きたいと思ったのも、さとり様に理由があると考えるのが普通です」
「ンー。普通という言葉で省エネしようとしてる?」
「そうですよ。いちいちいろんなことを考えていたら、いくら時間があっても足りないじゃないですか。"普通"は普通の人にとってお守りなんです」
もちろん、人という言葉は妖怪含め思考する存在のことを指しているのだろう。お燐も妖怪である以上、人間に比べたら普通ではないはずだが、それでも逸脱の度合としては、こいしに比べて普通だ。
「わかったわ。お燐の言葉を正しいとして進めましょう。じゃあ、古明地こいしというキャラクターはいったい何を望んでいると思う?」
「こいし様自身はおわかりにならないんですか?」
「おわかりにならないの」
にこりと微笑するこいし。
「先ほどは面白い小説が書きたいとおっしゃってましたよ」
「そうとも言うわ」
「良い言葉が見つからないんですね?」
「そうね。でもそもそも良い言葉なんてものはないのかもしれないわ」
無意識は広大である。
無意識は曖昧である。
無意識は暗闇である。
したがって、人間は妖怪を畏れた。
妖怪が曖昧で不確定で未知のものだったからである。
だから、名づけた。
名づけることで曖昧なものを確定させ、暗がりを照らしたかったからである。
小説を書くというのは、妖怪にとっては自殺なのではないだろうか。
言語化できない自己という存在を確定させてしまうのだから。
もちろん、妖怪にも自我はある。
それを裏づけるように、
「どこかにはあると思いますよ」
と、お燐は言った。
「どこに?」
「ここにです」
ツンと触れたのは、こいしの胸のあたりである。
こいしはなぜか得心がいったようで、安心したのか笑顔度数がアップした。
「やっぱりふたりに相談してよかったわ。私のことを私よりも知っているもの」
「お役にたてたのなら幸いです」「うにゅにゅで幸いでつ」
「それで、結局わたしはどうしたらいいと思う?」
「うーん」「むにゅー」
「わたしは、小説が書きたいの。でも、お姉ちゃんみたいにうまく書けない。きっと、わたしは小説家には向いていないんだと思う。お姉ちゃんが羨ましい。お姉ちゃんは、言葉で理屈を後づけして納得させることができるから」
「さとり様の書く小説は理屈っぽいから眠くなっちゃう」
「それはお空の意見ね」
「さとり様はどうしてあんな難しい小説を書いているの?」
お空は目をごしごしこすりながら言った。
「お姉ちゃんは、言葉が好きだからよ」
「言葉が?」「うにゅー?」
「そう。お姉ちゃんは自分の無意識を言葉にするのが好きなの。だって、言葉って理屈をつけることができるでしょう」
ふたりは微妙な顔になった。
こいしは持論を続ける。
「小説は物語だけど、同時に言葉の理屈でもあるの。お姉ちゃんはそれに気づいている。だから、言葉を紡いでいくことが楽しくて仕方ないのよ。たとえそれがどんなに難しくても、数学のようにいつか誰かに解かれるものでしょう。だから面白い小説が書けるんじゃないかな?」
「では、こいし様もそうすればいいんじゃないですか?」
「わたしには無理そうかな。わたしは言葉の理屈にそれほど拘ってないから。ううん。言葉の理屈に拘ることができないから。みんなが当然に共有している"普通"がない」
つまるところ、世の大多数は心という不可解をほぼ同一プロトコルによって解析し共有しエンコードしている。
なんというズルさだろう。
こいしは殺意と恋の区別がつかない。
「こいし様は何を考えているの?」とお空。
「さあ。わたしも忘れちゃった」
「うにゅー?」
「でも、少なくとも小説のことじゃないことは確かだよ。小説ことばかりを考えてたら、こんなふうにお話ししたりしないもん。それに、お姉ちゃんが小説を書いてるところを見ていて、ちょっとだけ思ったの。お姉ちゃんが楽しそうだなって。だから――」
こいしはそこで一呼吸置いた。
まるで、自分自身の気持ちを確かめるように時間と空間を停止させた。
「だから、小説を書きたいと思ったんだよ」
「……なるほど」
お燐は感心してるように見えた。こいしの言い分もわかると言いたげだ。確かに、さとりの書いているものは難解だ。だがその反面このうえなく美しい。まるで北欧神話に出てくるワルキューレのように、この世の不条理を切り裂いていく。
ありとあらゆる無意識を屈服させ支配下に置くのはどんなにか力強いことだろう。こいしはさとりの軍門にくだりたいのかもしれない。
「でも、こいし様の書きたい想いを、あたいらが解釈してしまえば、それはこいし様の想いなり動機なりを歪めてしまうことになるのでは?」
お燐はすごく真面目そうな顔をして言った。彼女はさとりやこいしやお空を家族のように大事に思っている。だから、そのように思ってしまうのだろう。
確かに誰が読者であっても、300ページをもって創り出した雰囲気をたった一言に収斂してしまえば、ただのエンコード。劣化である。
本来は微細な、色めく色合いをもって感じ取れる感性が、デジタライズされることによって確定されてしまう。
「それでも……、そうじゃないと伝わらないじゃない」
こいしは微笑する。
慈愛あるいは威嚇。
どのようにも解釈しうるアルカイックスマイルでこたえた。
「こいし様。あたい達には荷が勝ちすぎます」
「どうして?」
「それは……、あたい達にとってはこいし様も大切な存在だからです」
「こいし様のこと好き」とお空は直球勝負。
「ンー。そっかー。わかった。じゃあ、とりあえずもう少し他の人の意見も聞いてみるね」
こいしはひとまずのところ他の人の意見も聞いてみることにしたのだった。
最近できた友達。紅魔館のフランドールのもとへこいしは飛んだ。
「フランちゃん。わたし面白い小説が書きたいの」
突然の友人の来訪に、フランは少しだけ目を細めた。
こいしは無意識の力を使って、いきなり現れて、いきなりの発言だから普通なら驚くはずだ。しかし、フランは驚かない。
「どうしたの。突然」
「面白い小説が書きたいの」
「それは聞いた」
「フランちゃんなら、面白い小説の書き方を知ってるかなって」
「うーん」フランは口元に手をあてて考える仕草をした。「お姉さまの場合は、自分の存在価値を知らしめるのが面白いって思ってるみたい」
「どういうこと?」
こいしはソファに右足を乗り出して、フランに迫る。
ほんのちょっと近づいてしまうだけでキスしてしまう距離になって、フランは顔を赤く染めた。
「近づきすぎ」
「あはは、フランちゃんの恥ずかしがりやさん」
「まったく」少し怒ったフリをしながら「そうね。お姉さまは自分のちからを誇示したいのよ」
「ふうん。じゃあ、お姉ちゃんもそうなのかな」
「さあ、正直、お姉さまは中二病なだけで、あんたのところのお姉さまがそうだとは限らわないわね。陰キャっぽいし」
「そうかも」
「でも、参考にはなった?」
「うん。ありがとう」
「いいのよ」
「ねえ、フランちゃん」こいしは訊ねる。「わたしの小説は、誰かを傷つけちゃうかな?」
「さあ」フランは肩をすくめる。「でも、そんなの気にする必要ある?」
「だって、傷つけたくないもん」
「誰に気を遣ってるわけ?」
「えっと……」
こいしは言葉に詰まった。
自分がなぜ小説を書き始めたのかを忘れていたからだ。
「わたしが、書きたかったからだよ」
「それなら大丈夫だと思うけど? でもまあ、どうしても心配なら、そういうのもアリかもしれない」
「たとえば?」
「そうね……。たとえば、あなたが今読んでいるお気に入りの本の主人公になりたいと思ったとするじゃない。そのときは、主人公の行動原理や性格が、あなたの小説と似通っていてもいいと思うの。でも、いつか、その主人公は変わるかもしれない。それはきっと、読者にとってはとても不幸なことだけど、仕方がないの。結局のところ、小説は作者と読者の物語なんだもの。その物語を幸せにするかどうかは、読者次第なのよ」
「……なんか、難しいこと言ってる」
「フフッ。ごめんなさい。とにかく、あんたが書きたいように書けばいいのよ」
「うん。ありがとう」
とりあえず抱き着くと、フランは鬼灯のように紅くなるシステムなのだった。
「お礼はいいのよ。友達でしょ?」
こいしを押しのけながらフランは言った。
「そうだね。また来るよ」
こいしは紅魔館をあとにした。
次に、地霊殿へと戻った。さとりの部屋を訪れるのに一秒もかからない。
小説の場面遷移は光よりも速いのである。
「ただいまー!」
いつものように地霊殿の奥まった部屋に、仕事中のさとりがいた。
「お姉ちゃん、帰ってきたよ」
「あら、こいし。どうしたの?」
「面白い小説が書きたいの」
「へぇ、どんな小説?」
「それが思いつかないの」
「そうねぇ……」
「お姉ちゃんは、どうすれば面白くなると思う?」
「こいしは、どうしたいの?」
「わからない」
「じゃあ、わかってからにしなさい」
「うん。わかった」
こいしは自室に戻った。
ベッドに寝転ぶ。天井を見つめながら考える。
面白い小説の書き方。
そもそも、小説を書くということ自体が、小説の書き方の正解ではないのだろう。小説を書こうと思った瞬間に、想いは死ぬ。わたしは死ぬ。死んでしまう。だから、胎児のように何もしないのが正解。ただ揺蕩っているのが正解。
それはわかっているのだけれども。
ときには想いを伝えたくもなる。
胎児が身じろぎするように。
お腹を蹴るように。
時折は。
だから、自分が思うように……。
「自由に書いてみようかな」
こいしはペンを握った。
こいしの所作はナイフを扱う幼児よりも慎重だ。
否、実際にナイフなんかよりも言葉のほうがずっと殺傷性が高いだろう。
最初はおぼつかない足取りの乳飲み子のように。
のたつくミミズのように遅々とした歩みでペンを紙に這わせる。
――まるで自殺してるような気持ち。
小説家が偉いのは300ページも意思を統一できることだ。
こいしの場合は、せいぜい20ページそこそこが限界と思われる。言葉によって自身が収斂することを嫌うこいしは、言葉そのものを避けている節があるからだ。
それにしたって、自分を殺していく創作という活動をなぜ、古明地さとりというキャラクターは成し得るのか。
考えても考えてもわからない。
逆に言えばそれは、さとりであれば300ページも書けば、おぼろげながらも見えてくる象徴的な言葉が、こいしの場合は、たとえ何億ページも費やしてもついぞ見えてこないということなのである。
しかしながら、読者がいれば――、もしも解釈する観測者がいれば、言語化できない心未満も、削りとって心の素描と成すことができるかもしれない。
それは言うまでもなくこいしの歪像である。
読者の中に浮かんだこいしというキャラクターである。
さとりがこいしの小説を読めば必ず現実のこいしは殺されるだろう。
だから――。
こいしは溢れんばかりの殺意を抱いている。
口元は半月のように孤を描き、ペンはナイフを持つように握りしめながら。
「お姉ちゃんを生んだのはわたしだった」
言葉にならない想いを口ずさみながら。
書いている。
数日後。
「お姉ちゃんできたよ! 読んで!」
「ん。面白い小説が書けたのですか?」
「うん」
「では読んでみましょう」
さとりは読み始めて、少しだけ驚く。
おそらく公務に追われ、しかも人間に比して長大な寿命を持つ妖怪にとっては、意識の外側に追いやられている事柄が書いてあったからだ。こいしはそのことに関する無限の言語によっても追いつかない心をそのまま発散させるように書いたのである。
それは、いま古明地さとりの手元に書かれた文字列としてただそこに存在している。
要するに今日という日は、古明地さとりが生まれた日だったのだ。
こいしの小説には、ただ、それだけが書かれてあった。
こいしはペンを走らせながら口ずさむ。
書いているのは文字である。
実をいうと小説を書こうとしているのだ。
「あら。これだと、わたしはお姉ちゃんの子どもということになって、妹ではなくなっちゃうわ」
紙をクシャクシャに丸めて、ポイっと捨てた。
どうにもうまくいかなかった。
理屈で考えれば簡単なことだ。
――すべての意識は、言語的意識である。
逆に無意識というのは、言語の統制下に置かれていないからこそ、"無"意識というのである。感情や気分は無意識の領分だ。しかし、それらは言葉によって名づけられることによって、言語の統制にくだる。
小説はあくまで言語構造物であって、そこに無意識が混入するということはありうるが、主成分としてはあくまでも意識であろう。すなわち、感情や気分などの無意識の産物を無理やり言葉によって支配しようとするのが小説というものである。理屈のないところに、後づけで理屈を与えるというのが言葉というものである。そこには権力が発生している。
本当は、心を読めていたときは、感情とは微妙な色合いだった。言語によって聴こえるのではなく、色合いとして見えている心を言語によって翻案化していたのだ。理由は言うまでもなく、言語化しなければ人間には伝わらないからだ。
あなたは今#FFC0CBの感情に支配されているねと言っても、ほとんど伝わらないが、あなたは恋してるねと言えば、ほとんど伝わる。
本来微妙な色合いの感情を、怒りや哀しみや喜びという言葉で単純化してしまうのは、単なる省エネだろうと思う。
小説はその省エネ活動を逆に肥大化させて復元しようとする行動のようにも思える。つまり「あなたに恋しています」という雰囲気を醸しだすために300ページも書き連ねている。
――なんという浪費!
小説を書くという行為は、とてつもないエネルギィがいる。
なぜなら名づけられる前の心へと漸近していく行為だからだ。それはいわば胎児に遡行するイメージに近い。けれど、考えてみればわかるとおり古明地こいしというキャラクターはもともと胎児の夢に近しい属性を帯びている。遡行どころか、最初から胎児なので、小説を書くという遷移運動に移れないのだ。
こいしの使用する言葉は厳密な意味でのソレではない。
言葉の前駆状態。言葉の胎児。あるいは語られなかったモノ。
これを一般的な言語で述べるなら、こいしが小説を書くと、脈絡どころか意味がわからないものが生まれがちという表現になる。
もちろん、この意味がわからないというのは他者にとってという意味である。
だから、こいしは自分で書いたものを自分で読んでみた。
これはこれでなかなか楽しい。
でも、やっぱり小説は面白くない。もっと面白い小説を書きたい。
でも、どうやって?
こいしはしばらく考えた末に結論を出した。
小説は誰かに読んでもらわなければ完成しない。
だから、他者であるお燐とお空に声をかけた。
「どうやったら小説って面白くなるのかしら?」
まず最初に質問したのはこいしであった。
二人は顔を見合わせた。それから同時に答えた。
「よくわかりませんね……」「んにゅ?」
「えー、ふたりともわからないの?」
「そもそもどうしてこいし様は小説を書こうと思ったんですか?」と、お燐。
「面白い小説が書きたかったからだよ」
「それだと、トートロジーなのでは?」
「うにゅ。トトロ……」と、お空は眠そうだ。
「動機に理由づけをするほうがまちがってるわ。わたしのイドがそう叫んでいるの!」
「やっぱりよくわかりませんが……、えっとですね。小説を書きたいというのが例えばさとり様が小説をよく書いてるじゃないですか。こいし様がさとり様の真似をしたいからとかだったりしたら、わかるんですよ」
「言葉によって理屈を後づけしようとしているのね」
「ええ、まあそうです」
「ふむ。よろしい」こいしは腕をくんで偉そうに答える。「お燐の理屈をのみこんであげる。そうだよ。わたしはお姉ちゃんが小説を書いているから、わたしも書きたいって思ったの」
「さとり様の小説は難しくて眠くなりゅ」とお空。本当に眠そうだ。なにしろ実は呼び出されたのが真夜中である。ゾンビフェアリーと仲良しなお燐はともかく、空は普通に眠たい。
しかし、さとりの小説についての評価はなるほどと思うところがあった。
「そうね。確かにお姉ちゃんの小説は小難しくて一般受けするものじゃないわ。趣味で書いているから、他人にわかってもらおうという気がまったくないし、お姉ちゃん自身にしか真に理解できないんじゃないかしら」
「そこまで言い切っちゃうと、さとり様がかわいそうですよ」
「でも、そういう小説を面白がっている人だって世の中にはたくさんいるのよね。少なくとも、その人たちにとっては、それが価値のあるものだっていうことなんだもの。それはそれでいいと思う。でも、私には、小説の面白さがわからないの。なんでだろうと思ってたら、さっきわかったわ。私が小説を書いても、誰も読みたがらないんだよ。なぜだと思う?」
「わかりません」「ますます、うにゅー」
「言葉を使って理屈をつけて説明しようとすれば、できるかもしれないけど、そんなことはしたくなかったからだよ。だから、あなたたちを呼んだの。お願い。あなたたちの言葉で、あなたたちが納得する答えを教えて欲しいの。私は小説家になりたいわけじゃなくて、ただ小説が書きたいだけ。そのためにはどうしたらいいのかな?」
お燐は困ったように顔をしかめた。
「こいし様が書きたがってるのは、言葉の理屈ではない小説ですよね」
「そうね」
「小説は言葉の理屈によって成り立っていますよね」
「もちろんよ」
「だったら、矛盾してませんか?」
「うーん。お燐の言うこともわかるんだけど、わたしが表現したいものは確かにあるわ。私には私のイドが見えるもの。あとはそれを小説という形にするだけ」
「ぽえぽえーん」お空が意味のない言葉を発する。
それが何かのトリガーになったのか、お燐がハッとした顔になった。
「そうだ。ポエムですよ。詩です。こいし様が表現したいものは、おそらく詩という形式のほうがふさわしいのでは?」
「ん。イヤかな」
「そんな、にべもない」
「最初から言ってるとおり、わたしは小説が書きたいんだよ。詩は確かに魅力的な表現方法だけど、お姉ちゃんが書いているのは小説だもの」
「やはり、さとり様が鍵なのですか?」
「メタファーを使いこなすなんて、もしかしてお燐は言葉使い師だったの?」
こいしは身を乗り出すようにした。
こいしの顔が数センチのところまで近づいて、お燐のほうはタジタジである。
「いえ、たいしたことではなくてですね。先ほどこいし様がおっしゃってたじゃないですか。さとり様が書いているから、と。こいし様が今回なんの前触れもなく突然小説を書きたいと思ったのも、さとり様に理由があると考えるのが普通です」
「ンー。普通という言葉で省エネしようとしてる?」
「そうですよ。いちいちいろんなことを考えていたら、いくら時間があっても足りないじゃないですか。"普通"は普通の人にとってお守りなんです」
もちろん、人という言葉は妖怪含め思考する存在のことを指しているのだろう。お燐も妖怪である以上、人間に比べたら普通ではないはずだが、それでも逸脱の度合としては、こいしに比べて普通だ。
「わかったわ。お燐の言葉を正しいとして進めましょう。じゃあ、古明地こいしというキャラクターはいったい何を望んでいると思う?」
「こいし様自身はおわかりにならないんですか?」
「おわかりにならないの」
にこりと微笑するこいし。
「先ほどは面白い小説が書きたいとおっしゃってましたよ」
「そうとも言うわ」
「良い言葉が見つからないんですね?」
「そうね。でもそもそも良い言葉なんてものはないのかもしれないわ」
無意識は広大である。
無意識は曖昧である。
無意識は暗闇である。
したがって、人間は妖怪を畏れた。
妖怪が曖昧で不確定で未知のものだったからである。
だから、名づけた。
名づけることで曖昧なものを確定させ、暗がりを照らしたかったからである。
小説を書くというのは、妖怪にとっては自殺なのではないだろうか。
言語化できない自己という存在を確定させてしまうのだから。
もちろん、妖怪にも自我はある。
それを裏づけるように、
「どこかにはあると思いますよ」
と、お燐は言った。
「どこに?」
「ここにです」
ツンと触れたのは、こいしの胸のあたりである。
こいしはなぜか得心がいったようで、安心したのか笑顔度数がアップした。
「やっぱりふたりに相談してよかったわ。私のことを私よりも知っているもの」
「お役にたてたのなら幸いです」「うにゅにゅで幸いでつ」
「それで、結局わたしはどうしたらいいと思う?」
「うーん」「むにゅー」
「わたしは、小説が書きたいの。でも、お姉ちゃんみたいにうまく書けない。きっと、わたしは小説家には向いていないんだと思う。お姉ちゃんが羨ましい。お姉ちゃんは、言葉で理屈を後づけして納得させることができるから」
「さとり様の書く小説は理屈っぽいから眠くなっちゃう」
「それはお空の意見ね」
「さとり様はどうしてあんな難しい小説を書いているの?」
お空は目をごしごしこすりながら言った。
「お姉ちゃんは、言葉が好きだからよ」
「言葉が?」「うにゅー?」
「そう。お姉ちゃんは自分の無意識を言葉にするのが好きなの。だって、言葉って理屈をつけることができるでしょう」
ふたりは微妙な顔になった。
こいしは持論を続ける。
「小説は物語だけど、同時に言葉の理屈でもあるの。お姉ちゃんはそれに気づいている。だから、言葉を紡いでいくことが楽しくて仕方ないのよ。たとえそれがどんなに難しくても、数学のようにいつか誰かに解かれるものでしょう。だから面白い小説が書けるんじゃないかな?」
「では、こいし様もそうすればいいんじゃないですか?」
「わたしには無理そうかな。わたしは言葉の理屈にそれほど拘ってないから。ううん。言葉の理屈に拘ることができないから。みんなが当然に共有している"普通"がない」
つまるところ、世の大多数は心という不可解をほぼ同一プロトコルによって解析し共有しエンコードしている。
なんというズルさだろう。
こいしは殺意と恋の区別がつかない。
「こいし様は何を考えているの?」とお空。
「さあ。わたしも忘れちゃった」
「うにゅー?」
「でも、少なくとも小説のことじゃないことは確かだよ。小説ことばかりを考えてたら、こんなふうにお話ししたりしないもん。それに、お姉ちゃんが小説を書いてるところを見ていて、ちょっとだけ思ったの。お姉ちゃんが楽しそうだなって。だから――」
こいしはそこで一呼吸置いた。
まるで、自分自身の気持ちを確かめるように時間と空間を停止させた。
「だから、小説を書きたいと思ったんだよ」
「……なるほど」
お燐は感心してるように見えた。こいしの言い分もわかると言いたげだ。確かに、さとりの書いているものは難解だ。だがその反面このうえなく美しい。まるで北欧神話に出てくるワルキューレのように、この世の不条理を切り裂いていく。
ありとあらゆる無意識を屈服させ支配下に置くのはどんなにか力強いことだろう。こいしはさとりの軍門にくだりたいのかもしれない。
「でも、こいし様の書きたい想いを、あたいらが解釈してしまえば、それはこいし様の想いなり動機なりを歪めてしまうことになるのでは?」
お燐はすごく真面目そうな顔をして言った。彼女はさとりやこいしやお空を家族のように大事に思っている。だから、そのように思ってしまうのだろう。
確かに誰が読者であっても、300ページをもって創り出した雰囲気をたった一言に収斂してしまえば、ただのエンコード。劣化である。
本来は微細な、色めく色合いをもって感じ取れる感性が、デジタライズされることによって確定されてしまう。
「それでも……、そうじゃないと伝わらないじゃない」
こいしは微笑する。
慈愛あるいは威嚇。
どのようにも解釈しうるアルカイックスマイルでこたえた。
「こいし様。あたい達には荷が勝ちすぎます」
「どうして?」
「それは……、あたい達にとってはこいし様も大切な存在だからです」
「こいし様のこと好き」とお空は直球勝負。
「ンー。そっかー。わかった。じゃあ、とりあえずもう少し他の人の意見も聞いてみるね」
こいしはひとまずのところ他の人の意見も聞いてみることにしたのだった。
最近できた友達。紅魔館のフランドールのもとへこいしは飛んだ。
「フランちゃん。わたし面白い小説が書きたいの」
突然の友人の来訪に、フランは少しだけ目を細めた。
こいしは無意識の力を使って、いきなり現れて、いきなりの発言だから普通なら驚くはずだ。しかし、フランは驚かない。
「どうしたの。突然」
「面白い小説が書きたいの」
「それは聞いた」
「フランちゃんなら、面白い小説の書き方を知ってるかなって」
「うーん」フランは口元に手をあてて考える仕草をした。「お姉さまの場合は、自分の存在価値を知らしめるのが面白いって思ってるみたい」
「どういうこと?」
こいしはソファに右足を乗り出して、フランに迫る。
ほんのちょっと近づいてしまうだけでキスしてしまう距離になって、フランは顔を赤く染めた。
「近づきすぎ」
「あはは、フランちゃんの恥ずかしがりやさん」
「まったく」少し怒ったフリをしながら「そうね。お姉さまは自分のちからを誇示したいのよ」
「ふうん。じゃあ、お姉ちゃんもそうなのかな」
「さあ、正直、お姉さまは中二病なだけで、あんたのところのお姉さまがそうだとは限らわないわね。陰キャっぽいし」
「そうかも」
「でも、参考にはなった?」
「うん。ありがとう」
「いいのよ」
「ねえ、フランちゃん」こいしは訊ねる。「わたしの小説は、誰かを傷つけちゃうかな?」
「さあ」フランは肩をすくめる。「でも、そんなの気にする必要ある?」
「だって、傷つけたくないもん」
「誰に気を遣ってるわけ?」
「えっと……」
こいしは言葉に詰まった。
自分がなぜ小説を書き始めたのかを忘れていたからだ。
「わたしが、書きたかったからだよ」
「それなら大丈夫だと思うけど? でもまあ、どうしても心配なら、そういうのもアリかもしれない」
「たとえば?」
「そうね……。たとえば、あなたが今読んでいるお気に入りの本の主人公になりたいと思ったとするじゃない。そのときは、主人公の行動原理や性格が、あなたの小説と似通っていてもいいと思うの。でも、いつか、その主人公は変わるかもしれない。それはきっと、読者にとってはとても不幸なことだけど、仕方がないの。結局のところ、小説は作者と読者の物語なんだもの。その物語を幸せにするかどうかは、読者次第なのよ」
「……なんか、難しいこと言ってる」
「フフッ。ごめんなさい。とにかく、あんたが書きたいように書けばいいのよ」
「うん。ありがとう」
とりあえず抱き着くと、フランは鬼灯のように紅くなるシステムなのだった。
「お礼はいいのよ。友達でしょ?」
こいしを押しのけながらフランは言った。
「そうだね。また来るよ」
こいしは紅魔館をあとにした。
次に、地霊殿へと戻った。さとりの部屋を訪れるのに一秒もかからない。
小説の場面遷移は光よりも速いのである。
「ただいまー!」
いつものように地霊殿の奥まった部屋に、仕事中のさとりがいた。
「お姉ちゃん、帰ってきたよ」
「あら、こいし。どうしたの?」
「面白い小説が書きたいの」
「へぇ、どんな小説?」
「それが思いつかないの」
「そうねぇ……」
「お姉ちゃんは、どうすれば面白くなると思う?」
「こいしは、どうしたいの?」
「わからない」
「じゃあ、わかってからにしなさい」
「うん。わかった」
こいしは自室に戻った。
ベッドに寝転ぶ。天井を見つめながら考える。
面白い小説の書き方。
そもそも、小説を書くということ自体が、小説の書き方の正解ではないのだろう。小説を書こうと思った瞬間に、想いは死ぬ。わたしは死ぬ。死んでしまう。だから、胎児のように何もしないのが正解。ただ揺蕩っているのが正解。
それはわかっているのだけれども。
ときには想いを伝えたくもなる。
胎児が身じろぎするように。
お腹を蹴るように。
時折は。
だから、自分が思うように……。
「自由に書いてみようかな」
こいしはペンを握った。
こいしの所作はナイフを扱う幼児よりも慎重だ。
否、実際にナイフなんかよりも言葉のほうがずっと殺傷性が高いだろう。
最初はおぼつかない足取りの乳飲み子のように。
のたつくミミズのように遅々とした歩みでペンを紙に這わせる。
――まるで自殺してるような気持ち。
小説家が偉いのは300ページも意思を統一できることだ。
こいしの場合は、せいぜい20ページそこそこが限界と思われる。言葉によって自身が収斂することを嫌うこいしは、言葉そのものを避けている節があるからだ。
それにしたって、自分を殺していく創作という活動をなぜ、古明地さとりというキャラクターは成し得るのか。
考えても考えてもわからない。
逆に言えばそれは、さとりであれば300ページも書けば、おぼろげながらも見えてくる象徴的な言葉が、こいしの場合は、たとえ何億ページも費やしてもついぞ見えてこないということなのである。
しかしながら、読者がいれば――、もしも解釈する観測者がいれば、言語化できない心未満も、削りとって心の素描と成すことができるかもしれない。
それは言うまでもなくこいしの歪像である。
読者の中に浮かんだこいしというキャラクターである。
さとりがこいしの小説を読めば必ず現実のこいしは殺されるだろう。
だから――。
こいしは溢れんばかりの殺意を抱いている。
口元は半月のように孤を描き、ペンはナイフを持つように握りしめながら。
「お姉ちゃんを生んだのはわたしだった」
言葉にならない想いを口ずさみながら。
書いている。
数日後。
「お姉ちゃんできたよ! 読んで!」
「ん。面白い小説が書けたのですか?」
「うん」
「では読んでみましょう」
さとりは読み始めて、少しだけ驚く。
おそらく公務に追われ、しかも人間に比して長大な寿命を持つ妖怪にとっては、意識の外側に追いやられている事柄が書いてあったからだ。こいしはそのことに関する無限の言語によっても追いつかない心をそのまま発散させるように書いたのである。
それは、いま古明地さとりの手元に書かれた文字列としてただそこに存在している。
要するに今日という日は、古明地さとりが生まれた日だったのだ。
こいしの小説には、ただ、それだけが書かれてあった。
どこに収束していくのか全く予想のつかないこの感じ、とても好きです。
お見事でした。