『話して楽になった』が信じられない。例えば10万字を費やして形にしたものをまだ『違う』と感じるのに、その場その場の言葉で正しく話せるわけがない。
話せば話すほど拗れて、間違って、ずれていって。後になって、他に言い方があったんじゃないか、あの言い方じゃ伝わらない、きっと誤解された、と後悔する。
「ありがと。話して楽になった」
「はい。それは良かった。貴方のお役に立てて光栄です」
胸に手を当て、真摯な美少年のように微笑む。涼しい面差しを保ちながら、妖夢には、まったく意味が分かっていなかった。
手を振り見送ったのは知らない人。身内に不幸のあった若い女性らしくて、妖夢は霊魂の所在と輪廻について尋ねられた。
差し支えの無い範囲で正確を期した受け答えをして、一応は誠実な対応をしたつもりでいる。それ以上のことは、何もしていない。話して楽になった、誰かに聞いて欲しかったと、あの人は言った。わけがわからない。
何それ? 何か解決したの? いみわかんなーい。
QがあったらAがあるんじゃないの? Qに対するAを与えていないのに、いったい何が解決したの?
魂魄妖夢は、『話して楽になった』を信じない。
だって、そもそも話せるはずが無いんだ。悩みの本当の部分は中々言葉になってくれない。話せるはずが無いものを話すことができたと認識するなんて、それは大きな誤謬じゃないのか。
……なんで、その拙い言葉で『話すことができた』と思うのだろう。……なんで、ほぼ何も答えていないのに解決したみたいになっているんだろう。……なんで、なんで? なんで???
伝わらない。もどかしい。どうせ伝わらないんだから、話しても無駄。話すだけ損失。逆効果。
もしも話せたつもりでいるのなら、貴方の悩みは話せる程度のものだった、ということ? 貴方の悩みは、何の益も無い時間によって風化する程度のものだった、ということ? なんで自分から、貴方自身の魂の価値を落とすような悲しいことをするんだろう。
……所詮、貴方のそれは、ごっこ遊びだったというだけのことですか?
単なる猿真似なのですか? 高尚な人間らしいことがしてみたくなっただけなのですか? 外見だけ真似て満足しましたか? それは良かったですねおめでとう、壁と話しているのと何も変わらなかったでしょうけど、お役に立てたのなら幸いです。
「…………ぽゃーん???」
本当に心の底から、まったく意味が分からない。
妖夢は口を大きく開けっ放しにして、さっきの人が去った方向の路地を見つめていた。
人と話すのが面倒だった。
できっこないから無駄なのに、それなのに! 無駄だって知らないで分かった風になっている人たちがいる! ふざけないでよ。今まで勉強したことと違うじゃんか。
……だから少しだけ、むしゃくしゃしていたんだと思う。
◇
踝の高さくらいまで、ゆっくりと流れる水に浸かっている。
少し、ひんやりと感じるくらいの水温。
──ぱんっ。風船が割れるような音と共に、世界は意外なくらい簡単に壊れる。
「なんてことをしてくれるの……」
と、形の無い闇が喋った。ルーミアの姿は半分くらい崩れている。
「大変そうだね」
「あ、な、た、の、せ、い、だ、よ」
「ちょっと手が滑っただけなのに……」
「ちょっと?」
言葉はいつだって不明瞭で、不正確だ。
「だいぶ、だと思うんだけどね?」
ほら、ルーミアはご機嫌斜めだ。
割ってはいけないものを割った。中身が溢れ出して、あたりは真夜中よりも真っ暗な、本当の真っ黒に塗り込められている。
どばどば。どぼどぼ。溢れる中身が止まらない。大変なことになった。中身の水嵩は、あっという間に膝下くらいまで増えていく。掻き分けて足を進める度に、ちゃぽ、ちゃぽ、と陰鬱に低い音が響いた。
暗い夜道を歩いているのに、何にも躓かないどころか、何にもぶつからない。まるで目に見えないものがそのまま無くなってしまったみたいにして、暗闇の中には障害物が無い。
目に見えないものは、『無い』んだ。
妖夢は、なんとなくで納得する。
たまに、大きな直方体の構造物が佇んでいるのが、陰影としてのみ見て取れた。けれども、妖夢はそれを元々そこにあった建物だとは思わなかった。もう、元いた場所がどこだったか思い出せない。
ルーミアの中身が溢れて、全部ルーミアになる。全世界的ルーミア。とても大変なことになった。
「もうだめだー。おしまいだー」
面白くもなさそうに、半壊状態のルーミアが棒読みで嘆いている。どうでもいいっていう態度が全開。妖夢だってどうでもいいと思ってる。
「いや、貴方は責任感じてよね?」
「別に良いよ。全部無くなっちゃっても、私は困らないもん」
「…………あのさぁ?」
ご機嫌斜め。それどころの話じゃない。すっごい怒ってる。
「ごめんなさいは?」
「知らない」
妖夢は、ツンとした顔でそっぽを向いた。
ルーミアは、マジかこいつ……みたいな顔がしたかった。でも顔の部分が無い。
「分かるっていうのは分解すること。理解とは蒙を啓くこと。暗闇に光あれと告げること。分解、分割、切断、貴方は生まれつき、そういうことに長けているはずだよ? ……ああ、なまじ出来てしまうのか。だから底の浅い理解を軽蔑している」
さも知った風な口振り。
「貴方が『話して楽になった』を憎んでいるのは、貴方自身に話して楽になった経験が無いから。違う?」
話している内にも、半壊状態のルーミアは全壊状態になるし、ルーミアのどろどろした中身は腰の高さまで浸水していた。
ルーミアの中身は、他のどんなものとも違う質感をしている。まず流体の泥状ではあるけれど、泥とは違って、粒子の質感を感じない。そして粘ついているわけではなく……むしろ、つるんと滑らかであるような?
「言葉が、境界を引くの」
ルーミアが言う。
「意味が水なら、言葉とは器のような物だと言っても良い。貴方たち人間は、意味という水を器で掬い上げることで、口に含むことができる」
妖夢は基本的に、長い話は聞かない。
「例えばリンゴが一つある。a appleとthe appleとでは意味が違う。私たちは言葉を詳細にすることで、より詳細に世界を理解することができる。……上を見なさい」
妖夢が歩いている場所には地面があった。だからまだ、上下の概念は残っている。妖夢は仕方なくルーミアの言うことを聞いて、夜空であるべき上の方を見上げた。
「あの光っているものは?」
「雪」
「……」
「チカチカと瞬いているね」
「うん、あれは雪」
あれは雪だと、妖夢が言った。
しらじらと、白い欠片が降り積もる。
「面白い形をしてるね」
差し出した手のひらに受け止めて、その形を確かめる。
「固いね」
その結晶は固かった。
「六角形だね」
その結晶は六角形だ。
「意外と大きいね」
手のひらに収まりきらないくらい大きい。
「また、どんどん降ってくるね。ところで前に聞いたことがあるんだけど、雪の結晶って、他にも色んな形をしてるんだって」
妖夢の言った通りに、本当なら顕微鏡で拡大しなければ観察できない色んな形の結晶が、肉眼サイズで次々に舞い散ってきた。雪と名付けられたソレは、無音で夜の闇を彩っていく。
「……」
ルーミアは、顔さえあれば、なんてことをしてくれるの……みたいな顔をしていたと思う。
「しゃん、しゃん、しゃん」
妖夢が少し調子に乗って言うと、雪が舞い散る効果音は鈴を鳴らすような澄んだ音になった。
「……あそこに、一際大きく輝いている■が見えるね? あれが、こと座の──」
「しゃん、しゃん、しゃん」
「ちゃんと直してくれないと困るよ? それでね」
指があれば、つーっと空をなぞっていたんだと思う。
「■がたくさん並んだ帯の対岸には、わし座の」
「流れろー」
「あのねーっ!」
ミルク色の帯が一斉に動き出した。一旦ちょっと不気味に蠕動したかと思うと、その帯は生きた竜のように地上を目指す。
しゃん、しゃん、しゃん。しゃん、しゃん、しゃん。
降り積もった雪が新しい地層になる。辺り一面の銀世界は、妖夢の足音を、きゅっきゅっと不思議に響かせた。
「こと座のあれも、わし座のあれも、どっか行っちゃって分かんなくなっちゃったじゃん! ちゃんと元に戻せーっ!」
「どっかその辺にあるんじゃない?」
「……おいおいおい」
顔を覆って、ルーミアのくせに「ジーザス……」とでも呟きたかったんだと思う。
「どーでもいーかなー」
ほんとに、世界とかどうでもいい。
「無駄に話してるだけの人が多過ぎるし、痛い目見ちゃえば良いんじゃないの? 私はもういっそのこと、何も無くても困んないし」
「そういうわけにはいかないでしょうがぁ!」
ルーミアのくせに説教してる。おかしいね。
「壊したんだから責任取れよなぁ……。ちょっとさー、呼び直すだけで良いんだよ? 私、何か難しいこと頼んだ? それをさぁ、なんだよー。もーっ」
いじけてるー。
妖夢は少しルーミアが可哀そうになったので、
「ルーミア」
と、呼んでやった。するとそこにルーミアがいた。
「よしよし。かわいそかわいそ。こわかったね」
半泣きのルーミアの頭を見様見真似で撫でる。これと同じことをされた時、妖夢はまったく意味が分からなくて、幽々子の顔をまじまじと見つめていた。
幽々子はよく、人の子にそうするのと同じことを妖夢にもしていた。妖夢が人間の真似事を始めるようになるまでの間ずっと、ずっと、根気良く。なんだかよく分からなかったけれど、幽々子がそうしているなら、それは良いことだった可能性が高い。妖夢はそういう風に受け取っている。
「よしよし、いい子いい子、えらいえらい。知らんけど」
まったく真心のこもっていない手付きで背中をぽんぽんと叩いたりして慰めて、最後に妖夢は、ルーミアの頭に赤いリボンを結んであげた。
「これでもう大丈夫。余所見しながら飛んでたら、危ないからね」
「……本当だよ。物騒で、出歩けたもんじゃない。辻斬り注意だって、あちこちに触れ回ってやる」
そうして、ルーミアはどこかに飛んで行った。
妖夢は辺りを探し回って、雪の結晶の中から大きいものを三つ見付け出す。特に意味は無いけれど、その
内の二つを並べて置いてみた。たしか今日は、そういう日だったはず。
高い場所まで登って、周りを見下ろしてみた。暗い空に、真っ白な雪の大地、あとはルーミア化を逃れた大雑把な構造物が点在する、それだけの世界だ。あれ全部、妖夢のせいでああなった。大変なことになったと他人事のように思う一方で、それと同じくらい、なんだか楽しいような気持ちが無くもない。
突然、にゅっと開いたスキマの中から八雲紫が出て来た。
「妖夢! 大変なことになっているのよ。霊夢なんか、もうカンカンに怒って飛び出して行ったわ。貴方も来なさい」
「何かあったんですか?」
「見れば分かるでしょ! 真っ暗だし、なんかしゃんしゃん降って来るし!」
「大変ですね」
「……妖夢。貴方、何かしたの?」
「ほぇ? わぇー? ふぁっ???」
「そのアホの顔やめなさいよ腹立つのよ」
「みょん半人前だからわかんないみょん。みょんにもわかるように言ってほしいみょん」
「……何かあった?」
ああ、あったのね。
と、紫は勝手に納得した。
「なんだか、妙に満足そうな顔をしているわ」
「してませんよ。なんで何も解決してないのに満足しなきゃいけないんですか? そういうの、意味が分かりません」
「でも、妙に満足そうな顔をしているのよ」
さも知った風な口振り。さも知った風な表情。八雲紫はだいたいいつも、そんな態度をしている。だからみんなに嫌われてる。
「それ、『話して楽になった』ってやつじゃなくて?」
「……は? 叩き斬りますよ?」
「まあ良いわ。それでね、大変なことになっているのよ。貴方も来て。く、る、の、よ」
「へー、そーなのかー」
他人事のように適当に言って、妖夢は、やっぱりなんだか妙に満足そうな顔をしていた。
正直ちょっと楽しかった。
話せば話すほど拗れて、間違って、ずれていって。後になって、他に言い方があったんじゃないか、あの言い方じゃ伝わらない、きっと誤解された、と後悔する。
「ありがと。話して楽になった」
「はい。それは良かった。貴方のお役に立てて光栄です」
胸に手を当て、真摯な美少年のように微笑む。涼しい面差しを保ちながら、妖夢には、まったく意味が分かっていなかった。
手を振り見送ったのは知らない人。身内に不幸のあった若い女性らしくて、妖夢は霊魂の所在と輪廻について尋ねられた。
差し支えの無い範囲で正確を期した受け答えをして、一応は誠実な対応をしたつもりでいる。それ以上のことは、何もしていない。話して楽になった、誰かに聞いて欲しかったと、あの人は言った。わけがわからない。
何それ? 何か解決したの? いみわかんなーい。
QがあったらAがあるんじゃないの? Qに対するAを与えていないのに、いったい何が解決したの?
魂魄妖夢は、『話して楽になった』を信じない。
だって、そもそも話せるはずが無いんだ。悩みの本当の部分は中々言葉になってくれない。話せるはずが無いものを話すことができたと認識するなんて、それは大きな誤謬じゃないのか。
……なんで、その拙い言葉で『話すことができた』と思うのだろう。……なんで、ほぼ何も答えていないのに解決したみたいになっているんだろう。……なんで、なんで? なんで???
伝わらない。もどかしい。どうせ伝わらないんだから、話しても無駄。話すだけ損失。逆効果。
もしも話せたつもりでいるのなら、貴方の悩みは話せる程度のものだった、ということ? 貴方の悩みは、何の益も無い時間によって風化する程度のものだった、ということ? なんで自分から、貴方自身の魂の価値を落とすような悲しいことをするんだろう。
……所詮、貴方のそれは、ごっこ遊びだったというだけのことですか?
単なる猿真似なのですか? 高尚な人間らしいことがしてみたくなっただけなのですか? 外見だけ真似て満足しましたか? それは良かったですねおめでとう、壁と話しているのと何も変わらなかったでしょうけど、お役に立てたのなら幸いです。
「…………ぽゃーん???」
本当に心の底から、まったく意味が分からない。
妖夢は口を大きく開けっ放しにして、さっきの人が去った方向の路地を見つめていた。
人と話すのが面倒だった。
できっこないから無駄なのに、それなのに! 無駄だって知らないで分かった風になっている人たちがいる! ふざけないでよ。今まで勉強したことと違うじゃんか。
……だから少しだけ、むしゃくしゃしていたんだと思う。
◇
踝の高さくらいまで、ゆっくりと流れる水に浸かっている。
少し、ひんやりと感じるくらいの水温。
──ぱんっ。風船が割れるような音と共に、世界は意外なくらい簡単に壊れる。
「なんてことをしてくれるの……」
と、形の無い闇が喋った。ルーミアの姿は半分くらい崩れている。
「大変そうだね」
「あ、な、た、の、せ、い、だ、よ」
「ちょっと手が滑っただけなのに……」
「ちょっと?」
言葉はいつだって不明瞭で、不正確だ。
「だいぶ、だと思うんだけどね?」
ほら、ルーミアはご機嫌斜めだ。
割ってはいけないものを割った。中身が溢れ出して、あたりは真夜中よりも真っ暗な、本当の真っ黒に塗り込められている。
どばどば。どぼどぼ。溢れる中身が止まらない。大変なことになった。中身の水嵩は、あっという間に膝下くらいまで増えていく。掻き分けて足を進める度に、ちゃぽ、ちゃぽ、と陰鬱に低い音が響いた。
暗い夜道を歩いているのに、何にも躓かないどころか、何にもぶつからない。まるで目に見えないものがそのまま無くなってしまったみたいにして、暗闇の中には障害物が無い。
目に見えないものは、『無い』んだ。
妖夢は、なんとなくで納得する。
たまに、大きな直方体の構造物が佇んでいるのが、陰影としてのみ見て取れた。けれども、妖夢はそれを元々そこにあった建物だとは思わなかった。もう、元いた場所がどこだったか思い出せない。
ルーミアの中身が溢れて、全部ルーミアになる。全世界的ルーミア。とても大変なことになった。
「もうだめだー。おしまいだー」
面白くもなさそうに、半壊状態のルーミアが棒読みで嘆いている。どうでもいいっていう態度が全開。妖夢だってどうでもいいと思ってる。
「いや、貴方は責任感じてよね?」
「別に良いよ。全部無くなっちゃっても、私は困らないもん」
「…………あのさぁ?」
ご機嫌斜め。それどころの話じゃない。すっごい怒ってる。
「ごめんなさいは?」
「知らない」
妖夢は、ツンとした顔でそっぽを向いた。
ルーミアは、マジかこいつ……みたいな顔がしたかった。でも顔の部分が無い。
「分かるっていうのは分解すること。理解とは蒙を啓くこと。暗闇に光あれと告げること。分解、分割、切断、貴方は生まれつき、そういうことに長けているはずだよ? ……ああ、なまじ出来てしまうのか。だから底の浅い理解を軽蔑している」
さも知った風な口振り。
「貴方が『話して楽になった』を憎んでいるのは、貴方自身に話して楽になった経験が無いから。違う?」
話している内にも、半壊状態のルーミアは全壊状態になるし、ルーミアのどろどろした中身は腰の高さまで浸水していた。
ルーミアの中身は、他のどんなものとも違う質感をしている。まず流体の泥状ではあるけれど、泥とは違って、粒子の質感を感じない。そして粘ついているわけではなく……むしろ、つるんと滑らかであるような?
「言葉が、境界を引くの」
ルーミアが言う。
「意味が水なら、言葉とは器のような物だと言っても良い。貴方たち人間は、意味という水を器で掬い上げることで、口に含むことができる」
妖夢は基本的に、長い話は聞かない。
「例えばリンゴが一つある。a appleとthe appleとでは意味が違う。私たちは言葉を詳細にすることで、より詳細に世界を理解することができる。……上を見なさい」
妖夢が歩いている場所には地面があった。だからまだ、上下の概念は残っている。妖夢は仕方なくルーミアの言うことを聞いて、夜空であるべき上の方を見上げた。
「あの光っているものは?」
「雪」
「……」
「チカチカと瞬いているね」
「うん、あれは雪」
あれは雪だと、妖夢が言った。
しらじらと、白い欠片が降り積もる。
「面白い形をしてるね」
差し出した手のひらに受け止めて、その形を確かめる。
「固いね」
その結晶は固かった。
「六角形だね」
その結晶は六角形だ。
「意外と大きいね」
手のひらに収まりきらないくらい大きい。
「また、どんどん降ってくるね。ところで前に聞いたことがあるんだけど、雪の結晶って、他にも色んな形をしてるんだって」
妖夢の言った通りに、本当なら顕微鏡で拡大しなければ観察できない色んな形の結晶が、肉眼サイズで次々に舞い散ってきた。雪と名付けられたソレは、無音で夜の闇を彩っていく。
「……」
ルーミアは、顔さえあれば、なんてことをしてくれるの……みたいな顔をしていたと思う。
「しゃん、しゃん、しゃん」
妖夢が少し調子に乗って言うと、雪が舞い散る効果音は鈴を鳴らすような澄んだ音になった。
「……あそこに、一際大きく輝いている■が見えるね? あれが、こと座の──」
「しゃん、しゃん、しゃん」
「ちゃんと直してくれないと困るよ? それでね」
指があれば、つーっと空をなぞっていたんだと思う。
「■がたくさん並んだ帯の対岸には、わし座の」
「流れろー」
「あのねーっ!」
ミルク色の帯が一斉に動き出した。一旦ちょっと不気味に蠕動したかと思うと、その帯は生きた竜のように地上を目指す。
しゃん、しゃん、しゃん。しゃん、しゃん、しゃん。
降り積もった雪が新しい地層になる。辺り一面の銀世界は、妖夢の足音を、きゅっきゅっと不思議に響かせた。
「こと座のあれも、わし座のあれも、どっか行っちゃって分かんなくなっちゃったじゃん! ちゃんと元に戻せーっ!」
「どっかその辺にあるんじゃない?」
「……おいおいおい」
顔を覆って、ルーミアのくせに「ジーザス……」とでも呟きたかったんだと思う。
「どーでもいーかなー」
ほんとに、世界とかどうでもいい。
「無駄に話してるだけの人が多過ぎるし、痛い目見ちゃえば良いんじゃないの? 私はもういっそのこと、何も無くても困んないし」
「そういうわけにはいかないでしょうがぁ!」
ルーミアのくせに説教してる。おかしいね。
「壊したんだから責任取れよなぁ……。ちょっとさー、呼び直すだけで良いんだよ? 私、何か難しいこと頼んだ? それをさぁ、なんだよー。もーっ」
いじけてるー。
妖夢は少しルーミアが可哀そうになったので、
「ルーミア」
と、呼んでやった。するとそこにルーミアがいた。
「よしよし。かわいそかわいそ。こわかったね」
半泣きのルーミアの頭を見様見真似で撫でる。これと同じことをされた時、妖夢はまったく意味が分からなくて、幽々子の顔をまじまじと見つめていた。
幽々子はよく、人の子にそうするのと同じことを妖夢にもしていた。妖夢が人間の真似事を始めるようになるまでの間ずっと、ずっと、根気良く。なんだかよく分からなかったけれど、幽々子がそうしているなら、それは良いことだった可能性が高い。妖夢はそういう風に受け取っている。
「よしよし、いい子いい子、えらいえらい。知らんけど」
まったく真心のこもっていない手付きで背中をぽんぽんと叩いたりして慰めて、最後に妖夢は、ルーミアの頭に赤いリボンを結んであげた。
「これでもう大丈夫。余所見しながら飛んでたら、危ないからね」
「……本当だよ。物騒で、出歩けたもんじゃない。辻斬り注意だって、あちこちに触れ回ってやる」
そうして、ルーミアはどこかに飛んで行った。
妖夢は辺りを探し回って、雪の結晶の中から大きいものを三つ見付け出す。特に意味は無いけれど、その
内の二つを並べて置いてみた。たしか今日は、そういう日だったはず。
高い場所まで登って、周りを見下ろしてみた。暗い空に、真っ白な雪の大地、あとはルーミア化を逃れた大雑把な構造物が点在する、それだけの世界だ。あれ全部、妖夢のせいでああなった。大変なことになったと他人事のように思う一方で、それと同じくらい、なんだか楽しいような気持ちが無くもない。
突然、にゅっと開いたスキマの中から八雲紫が出て来た。
「妖夢! 大変なことになっているのよ。霊夢なんか、もうカンカンに怒って飛び出して行ったわ。貴方も来なさい」
「何かあったんですか?」
「見れば分かるでしょ! 真っ暗だし、なんかしゃんしゃん降って来るし!」
「大変ですね」
「……妖夢。貴方、何かしたの?」
「ほぇ? わぇー? ふぁっ???」
「そのアホの顔やめなさいよ腹立つのよ」
「みょん半人前だからわかんないみょん。みょんにもわかるように言ってほしいみょん」
「……何かあった?」
ああ、あったのね。
と、紫は勝手に納得した。
「なんだか、妙に満足そうな顔をしているわ」
「してませんよ。なんで何も解決してないのに満足しなきゃいけないんですか? そういうの、意味が分かりません」
「でも、妙に満足そうな顔をしているのよ」
さも知った風な口振り。さも知った風な表情。八雲紫はだいたいいつも、そんな態度をしている。だからみんなに嫌われてる。
「それ、『話して楽になった』ってやつじゃなくて?」
「……は? 叩き斬りますよ?」
「まあ良いわ。それでね、大変なことになっているのよ。貴方も来て。く、る、の、よ」
「へー、そーなのかー」
他人事のように適当に言って、妖夢は、やっぱりなんだか妙に満足そうな顔をしていた。
正直ちょっと楽しかった。