穣子と静葉の芋畑は、博麗神社や洩矢神社のある里から東へ、ゆるやかな長い山道を越えた先にあった。そこでは谷に流れる川に、悠久の年月をかけて削られて出来た河岸段丘の緑と、雲一つないカラリとした青空のコントラストを織りなしており、日々農作業に汗を流す秋姉妹の疲れを吹き飛ばしてくれるような美しさがあった。気候というものは山一つ越えただけでもずいぶん変わるものであり、ここから西にある博麗神社などがある里はそこまでここと変わらないものの、北にそびえる山を越えた先は、こちらのカラリとした空気とは一変して、重厚で湿り気のある空気が土地を包んでいる。こちらの土地のカラリとした空気を水彩画に例えると、さしずめ北の土地は厚く塗り重ねられた油彩画のようだった。
穣子は、馬の背中にゆわえつけられた籠を少しゆすり、しっかりと固定してあるのを確かめた。籠の中には自分たちの畑でとれた山芋が入っている。
「それじゃあ、行ってくるわねお姉ちゃん!」
「行ってらっしゃい穣子。気を付けてね。ゆっくり旅を楽しむ気持ちで行ってくればいいわよ。」
静葉はこんにゃく芋を荷車に積み込みながら、笑って言った。秋姉妹は、今静葉が荷車に積み込んでいるこんにゃく芋のほうが、山芋よりもはるかに多く作付けしている。静葉はこれから馬4頭立てで荷車を引かせてこんにゃく芋を大量に運び、やがて谷に流れる川の船着き場に来ると、今度は芋を船に移して、下流の里に運ぶのだ。こんにゃくそのものがそれほど高級な食材ではないので、その原料のこんにゃく芋も重量当たりに高い値はつかない。だから、こうして河川の位置エネルギーを利用した、船での大量輸送がないと、とても採算がとれない商売なのだ。こんにゃく芋を積み込む手を休め、静葉は徐々に姿が小さくなっていく穣子と、馬の尻を見ていた。
「その点、山芋はいいわよね。高値で買い取ってもらえて。それに、今穣子が届けている先方のように、輸送費を上乗せしてでも注文してくれるお客もいるんだから。永遠亭といったかしら。お住まいの人に、よほど山芋が好きな健啖家がいるのかしら。大きなお屋敷だという噂だから、宴会に出したり、従業員の食事にも使われるのかもしれないわね。」
口ではこんなふうに羨ましがっているものの、たくさん働いて、たくさん収穫して、たくさんの経費が掛かり、結局手許にはわずかのお金しか残らないこんにゃく芋栽培を、静葉は気に入っていた。経営者や政治家などは、偉くなったら指のひとはじきや文字の一文字、発する言葉の一言でさえ、大きな利益や損失につながる。農家もこれと同じで、高い利率が見込まれる作物ほど栽培が難しい傾向にあって管理は神経を使うし、盗難のリスクも上がる。それに比べてこんにゃく芋は、一挙手一投足を誰にも責められることなく、仕事の効率的な立ち回りも気にせず、山歩きにも似た気軽さで一日中働いてさえおればよい。だから利率の低い作物を大量に育てていたほうが性に合っているのだ。
私は蘭珠。永遠亭で働く兎のうちの一人で、新薬開発の研究員をしている。はるばる山道を越えて、秋穣子さんが運んできてくれた山芋を、午前中まるまるかけて、仲間の兎たちとともに研究所に運び込んだ。すりおろして麦飯にかけて食べたらさぞうまかろうという見事な山芋だが、これは今開発している抗炎症薬の材料に使われる。いやぁ~それにしても大量の芋は重かった。汗をふきふき、搬入作業の完了を告げにいくと、先輩研究員の小言が始まった。
「ビーカーの並べ方が違うわよ!これがこっちでこれがここで…」
まぁ~た始まった。ビーカーを片づける場所が少し違うからってそれが何だっていうんだ?そもそも、私の仕事が早いので、空いた時間で先輩研究員の汚したビーカーを、私が代わって洗って片づけてやったのだ。より多く、より速く働いている人間には小言を言うくせに、無能な同僚には甘い。コイツは物を数えることすらできないのかと呆れてくる。これでは能力の高い人から順番にやる気をなくしていき、イノベーションなど生まれようもないのだ。
午後からは山芋の皮むきが、今日の主な業務だ。研究員と言っても、新薬の開発のために次はどんな研究の針路を取るのか決定したり、論文を万年筆で華麗に執筆して学会で発表するばかりが仕事ではない。そういうのは歳を食って肩書を持ったベテラン研究員や、ややもすると化学の知識もあやしい天下り研究員がやることだ。私のような若手は、今日やっている山芋の皮むきのように研究材料を研究に使える形まで持っていく雑用仕事や、発酵のために培養している菌や実験動物の世話をしたり、あとは研究所内外の使いッパシリもやらされる。要するに地味な仕事ばかりで、それ自体は誰でもできるし、続けたところで新薬開発のノウハウが身につくかというとそれも疑わしいものだ。午後5時を迎えると、蘭珠をのぞく研究員はそそくさと帰っていった。蘭珠はサービス残業の体を取って、このあと夜が更けるまで個人的な研究にいそしんだ。
新薬の開発はどのように行われるか、皆様はどのようなイメージを持たれるだろうか。機械や建物と同じように設計図を書き、その通りに炭素や水素、その他の元素を組み上げ、ビルドアップしていくのを想像されるかもしれない。しかしその実態は、自然界にある動物や植物から採取された物質をベースとし、そこに発酵や修飾などのプロセスを経て、分子構造が途中まで同じで、そこから何通りにも枝分かれした無数の分子を作り、そのなかから薬として使える分子を見つけていくものだ。つまり、薬物と大それた名前がついていても、自然界に存在している物質、あるいは存在できる物質を抽出しているものなのだ。修飾とは、分子の一部分に別の分子が結合することで、もとの分子の構造を一部変えることである。例えば分子の端にNH3という部分があったとすると、ここに試薬を反応させることでH3C-NH2とし、もとの分子の端にCH3が付与されたことになる。ちなみにCH3が付与された場合、メチル化という。発酵とは、微生物が有機物を外部から栄養として取り込み、代謝をしてエネルギーを得る際に、副次的に同時に生み出される有機物を我々が利用するものである。汚い例えで申し訳ないが、それは微生物のウンコが我々にとっては貴重な資源となっているようなものだ。発酵で有名なのが、幻想郷の内外に愛好者の多い酒を作るアルコール発酵だ。酵母菌がグルコースC6H12O6を、NADHとH⁺、C3H4O3のピルビン酸に分解する。H⁺は呼吸で消費したいところだが、周囲に酸素がない嫌気下では別の方法を取る。酵母菌は脱炭酸酵素によって、ピルビン酸C3H4O3を、CO2とアセトアルデヒドC2H4Oに分解する。そして、さきほどのH⁺とNADHからH⁺を取り出した2H⁺をアセトアルデヒドと結合させると、エタノールC2H6Oが生み出される。こちらが我々を酔っぱらわせるアルコールなわけだが、酵母菌にとって大切なのはこっちじゃあない。NADHからH⁺を失わせて出来たNADのほうだ。こちらで生命活動の源となるエネルギーを持ったATPが作られるからである。
「だから、私たちがやっていることは結局、古代の錬金術師が、金以外のありふれた卑金属を溶かして組み合わせたり、熱したり冷やしたり、硫黄なんかを混ぜたりして、ありとあらゆる試行錯誤の末に、どうにかして金を生み出せないかと四苦八苦したり、魔法使いが毒蛇やら頭蓋骨やらキノコやらを煮詰めたり、腐らせたりして魔術に使ったりするのと、本質的にはあまり変わらないんじゃないかと思うことがあるわ。」
明かりもまばらな夜の薄暗いラボで、こうして一人ひそかに研究を進める時間が、蘭珠の癒しのひと時であった。
朝の紅魔館。調度品でも盗もうとしたのか、コソ泥が侵入を企てていたが、美鈴に捕まって荒縄で縛られていた。コソ泥は充血した目をカッと見開いて、ゼェゼェと荒い息をしている。最近、犯罪を犯して捕まる者の多くがこのように目を見開いて興奮しており、やたら攻撃的で妙に腕っぷしも強いと巷で噂になっている。犯罪を犯すまでいかないでも、街中で歩いていて肩がぶつかっただの、些細なことでよく市民同士が喧嘩になっているのを見かけるようになった。
「よかったわね。私に負けて。他の誰に負けるよりも、あなたの傷は浅くてすんだわ。」美鈴の人形のように整った顔は、彼の視界で煙のように揺らいだ後、弥勒菩薩の仏像のように慈悲に溢れた表情に変わったという。道を誤った者のうちで、早めに誰かに負けて打ちひしがれたものは、その後に案外速やかに正しい道へと戻り、平穏な人生を歩むものだ。しかし、なまじっか力や素質を持ち、頑固な決意と精神的強さを備えたものは、謝った道をそのままずんずんと進み、そこで出会った、道が誤っていることを告げる者たちを、持ち前の力で打倒してしまう。それによってより深い樹海のなかへと遭難してしまうのである。もし紅魔館への招かれざる侵入者が、美鈴に勝って館内を進んだら、最期には咲夜に殺されてしまうだろう。実際、過去に私の隙をついて館内に滑り込んだり、裏口からこそこそと入り込んだ者は、咲夜の白刃の露と消えてしまった。あのキノコ収集家や貧乏巫女は例外なのだ。
「美鈴ー!妹様の相手をしてあげてちょうだい!」
咲夜の差し迫った呼びかけに、美鈴は紅魔館の正門の前からそそくさと中庭にかけつけた。そこにはフランドールと”じゃれあって”、ボロボロにされたメイド妖精たちが死屍累々の体で幾人も横たわっていた。
フランは顔の前にガードを固めてじりじりと距離を詰めて寄ってくる。美鈴はジャブを数発撃つが、ガードにはじかれてしまった。フランは美鈴のジャブの打ち終わりのタイミングにあわせて、ステップインして急激に距離を詰めてきた。美鈴もそれに合わせて時計回りに足を運び、フランの突進を避けることで両者は再びもとの間合いに戻った。フランは舌なめずりをジュルリとしながら、ほくそ笑んだ。
「フフフ。いつまで逃げ回れるかしら?もうタイミングは掴んだわ。次、美鈴が今と同じように打ってきたら、そのときは組み付ける!」
フランは再びガードを上げて、ゆっくりとにじり寄って間合いを詰めた。
ドンッ!
ものすごい衝撃が、ガードしている右腕を襲った。
「!?」
さきほど美鈴のジャブを受けて、直線的な攻撃が来ることに目が慣れていたフランにとって、その衝撃はまるで、今目の前で対峙している美鈴ではなく第三者が、こん棒か何かで横から殴りつけてきたようにすら感じられた。衝撃で揺さぶられた視界が瞬時にもとに戻ると、目の前の美鈴は左足を地面に降ろした。
(み、見えなかった…左足を着地…つまりその足で蹴った?…ミドルキック…)
フランの脳裏にはこのような言葉が断片的に浮かんでは消えた。蹴られた右手にうまく力が入らず、しっかり固めているはずのガードはさしずめ入口の空いた鳥かごのようであった。さっきははじいていた美鈴のジャブが再び飛んでくる。バシッ、バシッと鼻先に当たる。
「ふ…ふんっ!もう格闘技なんて野蛮な遊び、飽きちゃったわッ!こんなお互いが素手で、しかも一対一のルールだなんて、現実の戦闘にちっとも即してないじゃないのッ!格闘技がいくら強くたって、頭のいい人には敵わないのよッ!そうとわかれば、もうこんな門番の美鈴とじゃれてなんかいられない。パチュリー、図書館へ行くわよッ!私にお勉強を教えてちょうだい!」
それを聞いたパチュリーの顔は、みるみるうちにパアッと晴れ上がり、青白かった顔に紅を差したようになった。
「そうでしょう!そうでしょうとも!妹様!ささっ、鉄は熱いうちに打てといいますから、すぐに参りますよ!図書館へお供します!」
パチュリーは軽快な小走りでフランの手を取ると、そのまま図書館に向けてあっという間に二人は消えてしまった。
「あの子、病弱なんじゃなかったっけ?」レミリアはニヤニヤしながら紅茶を啜った。咲夜は紅茶が入ったポットをお盆に載せながら、クスクスと笑った。
ギャラリーとして集まっていた妖精メイドたちも、ぞろぞろと蜘蛛の子を散らすように自分たちの業務に戻っていった。彼女らは今しがたのフランと美鈴の一戦について、思い思いの感想を言い合って楽しんだ。
「美鈴さんの打撃、フランお嬢様は全然対応できていなかったわね。あのまま続けていたら、かわいいお顔がカボチャのように腫れ上がって目も当てられなくなるところだったと思うわ。あそこで辞めたのは、いい潮時ね。」
「でも私は、美鈴さんが徹底してフラン様に近寄らせず、組み付かせなかったのは気になったわ。もし組み付けていれば、フラン様が勝ったかもしれない。だから今の一戦を見ただけでは、まだフラン様が強いという幻想は守られたと思うのよね。」
パチュリーは黒板の前に立ち、ノートを取るフランドールの目の前で、講義していた。人差し指を立てた手を指揮者のように振るったり、話し声に抑揚をつけたりしていて、一見するとまるでミュージカルを演じているようにすら見える。
「デカルト曰く、Cogito Ergo Sum 我思うゆえに我あり。万物あらゆるものが、本当にそこにあるのか、幻ではないのか疑いをかけることはできても、そのように疑っている”我”だけは、少なくともあると言えるでしょう。それに対し、少し時代を下ってメルロポンティは、デカルトが”我”のみが確実に存在するとし、その”我”という、物事を意識し、見ている主体以外は疑うという、なかば”我”への信仰にも似た絶対視は、その意識や視点を立ち上がらせている肉体、身体という視点が欠けていることを指摘しました。人の体は、それまでのその人のあらゆる経験によって作られた形状や運動における特徴、病気の有無、過去そして現在暮らしている環境などによって、一人として同じ体を持っている人はいません。違う体になれば、同じものを見ても違うことを考えるでしょう。つまり、我思うゆえに我あり、の”我”ですら、絶対的なものではなく、外部からの影響を免れ得ないというわけです。これは、現象学の大きなテーマである、”主体が対象を周りから見て、分析によって対象を定義、構成するのではなく、主体が対象になりきり、合一化することで、むしろ対象の立場から全世界を見る”ということにも繋がってきます。たとえば、フラン様が恋愛の映画をご覧になったとします。2回目、3回目と同じ映画を繰り返し観ても、フラン様が持たれる感想の大筋は変わらないことでしょう。でもフラン様がご自身で恋をなさってから、もう一度同じ映画を観たら、今度はどうでしょうか。全く違った感想を抱いたり、今まで何度観ても見落としていたものが見えてくるはずです。これだって、恋をする以前と以降では、肉体が変わっており、肉体の立ち位置が周りから焦点へ、だったのが、焦点から周りへ、へと変わり、それによって意識を立ち上がらせている”我”も変容しているからだと考えることができるのです。」
「確かに、私が物を壊したくなったとき、館の中の家具や壁をいくら壊しても、メイド妖精たちをいじめても、心の中では、前回暴れたときとおんなじだ、つまんないなと思っていたの。それに、門の前で立ちんぼをしている美鈴を見て、今まではつまらない人で何の特技もないんだろうなと、正直思っていたわ。でも今日、ついさっき美鈴と手合わせをして、美鈴の強さには、少なくとも素手の私ではとても敵わないと知ったとき、私は世界がいままでと少し違って見えた。それが楽しくて、嬉しくて、仕方がないの。これって、私がいままで戦いの相手に動かない家具や、やられるがままのメイド妖精ばかり選んで、対等な強さや自分より強い相手との戦いをしてこなかったからだわ。雑魚狩りの経験をもとに、強い相手との戦いもこれの延長線上だろうと予想していた。これはパチュリーが教えてくれたことのなかにあった、外部から焦点への視点で分析をする態度だわ。それに対して、今日初めて強い者と向き合って戦いに挑む人そのものに、私はなりきれたんだわ。これが焦点から世界へと放射状に広がっていく、直観の視点なのね。」
紅魔館は優良な労働環境なので、10時に決まって休憩が入る。門番の美鈴も詰め所へ行って休むことにした。
美鈴は木製の4本足の付いた、背もたれのある椅子を自分のほうへと引き寄せた。次に靴を脱いで、座面の上へと上がり、座面に両足の裏をつま先からかかとまでべったりとつけてしゃがみこんだ。表面にニスを塗った表面処理が施されている座面は少し冷たく、心地よかった。いささか行儀が悪いのは承知しているし、レミリアや咲夜の前ではやらないのだが、こうして詰め所に一人でいるときにはこの姿勢で飯を食べたり、茶をすすったりするのが落ち着くのだ。この癖がついたのも、美鈴が前職の格闘家時代に夏老師(シャーろうし)のもとで修行した日々に身についたものだ。天気の良い日はよく、山稽古と称して屋外でトレーニングを積んだ。山の中腹にある寺までの石段を駆けあがったり、芝生の上でほかの弟子たちと組み手をして汗を流し、お昼には車座になって鍋を囲み、談笑しながら食べた。そのときに尻の下に敷くものを準備するのがだんだん面倒になり、このようにしゃがんで食べるのが通例になった。
ある日夏老師はおもむろに塾生を集め、私にミットを持たせて、羊(ヤン)をその前に立たせた。羊は私の1年後輩で夏老師の塾に入ってきた妹弟子である。その他の塾生は20人ほどいて、体育座りをしながらその様子を眺めていた。夏老師が指示を出す。
「よし。ひとつ蹴ってみ?」
私はミットを持つ両手の腋を締め、ミットを自分の右肩の付近に掲げた。
パァン!
羊の鋭い蹴りが、心地よい音を立てて、私のミットに突き刺さる。フォームも綺麗だ。私はミットを持つ手に手ごたえを感じながら、(塾生を集めて、羊の模範的な蹴りを見せることで、お手本としてみんなに教えるんだな。羊、嬉しいだろうな。プロを志す格闘家の卵といっても、羊はまだ学生の年齢。黒板の前に呼び出されて、ほかの生徒の前で難問を解いてみせるようなものだわ)などと思い立った。すると夏老師が、良く通る声でこう言った。
「もっと思いっきり蹴っていいぞ。」
パァン!
羊は再び蹴りを放った。相変わらず綺麗なフォームだ。ミットを持つ私の手に伝わってくる衝撃も、言われてみれば少し強くなったかな?という程度の印象を受けた。最初の1発目の蹴りから、すでに羊はそこそこ全力で蹴っていたということでもあるのだろう。それなら、夏老師からもっと思いっきり蹴れと言われても、急に威力が強くなるとも考えにくい。この蹴りの直後に、私と羊の間に夏先生がおもむろに歩いて入った。
「お前さ、俺が思いっきり蹴れって言ったら、思いっきり蹴らなきゃ。俺のこと舐めてる?なぁ?」
道場の空気が一気に重苦しくなった。空気に色を付けるとしたら、それまで薄い水色だったものが、赤黒く染まっていくような、そんな印象をその場にいる弟子全員が味わった。この赤黒い空気は、重さもいつもの空気より重い。両肩にずっしりとのしかかってくる。
「舐めてません…」
「それが…思いっきりか!!お前のォ!!!」
パァン!パァン!
夏老師は平手打ちを左右2発、羊に見舞った。そして私の構えるミットを指さし、
「もう一回やってみろお前ェ!?殺すぞこの野郎。」
「ハイ」
美鈴が見た羊の表情は、それまでと一変していた。自分が今までやってきたことを再現するだけでは生き残れない状況に追いやられた人間の、迷いを捨てた顔だった。雪山で遭難した人や、何者かが銃を乱射するテロに巻き込まれた市民も、このような表情をするかもしれないなと思った。彼らは人目も気にせず、どんな恥を晒そうとも生き残ることにだけ集中するだろう。羊は掛け声を発しながら、猛然と蹴りを打ち込んできた。
「オアッシ!」
ドスン!
蹴りのフォームは汚くなったが、威力は上がった。さっきよりずっと圧力を感じる。すかさず夏老師は声をかける。
「蹴れーッ!」
この夏老師の叱咤の声のほうが、まだ羊の蹴りの音や掛け声よりも迫力があった。
「オアッシ!」
ドスン!
「思いっ…きりか!それがお前の!?この野郎!」
パァン!
「オアッシ!」
ドスン!
なおも夏老師は羊を罵倒し、ビンタを食らわせ、ミットを蹴らせた。美鈴は徐々に羊の放つ蹴りや掛け声、それに佇まいから放たれるオーラも、夏先生の持つ迫力に近づいてきたことを感じ取っていた。
「オッケー。これさぁ、自分たちでやって欲しいの自分たちで。アドレナリンを自分たちで上げていく。わかった?」
「羊、夏先生はね、あなたが憎くてあんな指導をしたわけじゃないのよ。むしろ、あなたの技術が、他の弟子たちのなかでも特に優れているから、ああやったのよ。」
「私が優れているからですか?」
「そう。聴いて。技術が素晴らしくても、試合で勝てない人は意外にも多くいる。プロ並みの技術を持っているのに、それを発揮せずに埋もれている人は、格闘技の世界に限らず、世の中にごまんといるわ。彼らに足りないものは何だと思う?」
「月並みな返事で悪いですけど、…精神力ですか?」
「だいたい合ってるけど、もう少し踏み込むわね。耐え忍ぶ精神力だけではだめなのよ。黒い雰囲気というか、不穏な空気が支配する空間に直面したときに、おろおろせずに自分の力を発揮できるのかどうか。これが本番の試合では試されるの。不穏な空気というのは、たとえ自分が勝ってもそのあとで何か騒ぎが起きて、自分のプライベートまで巻き込んだドロドロが待っていることが予期されたりとか、周りの人間が味方や中立ではなくて、どこか怪しい目つきで睨んできているとか、誹謗中傷や嫌がらせが試合前に次々と舞い込んできていたりとか、そういうピリピリした、この世が信じられなくなって失望するような、そんな重い空気のことよ。この不穏な空気は、実は実力がある人が正当な手段で階段を駆けあがっていったとしても、必ず一度は立ちふさがってくるわ。そこで、不穏な空気の不気味な圧力による居心地の悪さに耐えきれず、諦めて他の人に道を譲ってしまった人というのが、さっき私が話した、プロ並みの技量を持っているのに表舞台に出てこずに、埋もれてしまった人たちなの。夏先生は今日の稽古で、あなたに言いがかりをつけてビンタを食らわせることで、その不穏な空気を見事に道場のなかに再現して見せたわ。これを乗り越えろというメッセージなのよ。」
羊はうん、うん、とうなずきながら聴いていた。美鈴は続ける。
「技術の追及に耽溺する人の誤りはそこにあるのよ。ある人、仮に甲と呼びましょう。彼がもう一人のライバル乙より10%ほど優れた技術を持っていたとしましょう。でも甲より乙のほうが、不穏な空気に慣れていた結果、乙のほうが良い成績を残したとする。そうすると、後世には乙の技術こそが優れた技術だと伝わる。必ずしも正しい技術を持った者が勝つのではなく、勝った者が使っていた技術が伝播していく。」
「夏先生は、私が甲だと言ったんですね。」
「私が持ったミットに打ち込んだあなたの蹴り、綺麗だったわよ。」
その後しばらく私と羊は夏老師の道場で稽古を積み、羊は別の道場へ移籍した。
数年後、再び私が羊と会ったのは、お互いがプロとなって、対戦相手としてだった。私はすでにデビューして連勝を重ねており、この試合に勝てば次にはタイトルマッチが組まれることになっていた。対する羊は、まだデビュー3戦目で、戦績はこれまで1勝1敗であった。試合前日の記者会見で、私は久しぶりに妹弟子の羊と向かい合ったのである。
(一緒に夏先生の道場で練習していた頃と比べて、少し下顎のラインがくっきりして精悍な顔になったわね。でも相変わらずかわいい顔してるわ。格闘家よりもその容姿を活かした職はいくらでもありそうなのに。)
「それでは、明日の試合に向けての意気込みを一言、両選手からいただきたいと思います。まずは美鈴選手、どうぞ。」
司会に促されたので、何となくテンプレっぽいことを言った。
「相手の羊選手も若くていい選手なので、いい試合をお見せできると思います。この試合は次に組まれるタイトルマッチの前哨戦という位置づけになると思いますので、勝って弾みをつけたいですね。」
「ありがとうございます。続きまして羊選手に伺います。」
「相手はこの試合は勝って当然で次のタイトルマッチにしか眼中にないようにスカしてるけど、何様のつもりですか?明日の試合では下半身不随にして一生車いす生活にしてあげましょうか!」
強い言葉の選択に、記者たちがにわかにざわめいた。美鈴は、羊のこの猟奇的な反応は明日の試合に期待を持たせるための演出なのだろうと思ったが、同時にこんなに興奮して言葉をまくしたてるような子だったかな?という違和感もぬぐい切れなかった。
美鈴と羊の試合が組まれる少し前にさかのぼる。
物語の冒頭でご紹介した、永遠亭の研究員、蘭珠を覚えておいでだろうか。彼女は相変わらず、昼間の業務で抗炎症薬の開発を狙って実験に使われた山芋の余りを使って、独自に何か他の薬が出来ないかと研究を重ねていた。そしてある日、それは出来た。生き物は生命の危機に瀕したとき、巷で言われる「火事場の馬鹿力」、つまり本人が自分でもこんな力が出せると信じられないような大きな力が出せたり、闘争の継続に備えて、戦いで負った傷が素早く治ったり、目に映るヴィジョンが走馬灯のようにゆっくりとスローモーションで流れたりする。生き物が本来持っている能力を、今目の前の危機によって死なないというただひとつの目標のために、100%中の100%発揮するのだ。しかしその状態は、自らの体に負担をかけて痛めつけるので、生命の危機から遠く離れて暮らしている普段は、決して発揮されることはない。生命の危機が差し迫ったそのときだけ、脳から何らかの物質が血中に放出され、全身を駆け巡り、火事場の馬鹿力や異常な回復力、時間がゆっくり流れて見えるほどの集中力などのスイッチが入るのだ。そのスイッチを入れる物質そのもの、あるいはその物質だと体が勘違いするほどに形が似通った分子が、今回山芋から作られたというわけだ。蘭珠は興奮冷めやらぬまま、この日以来ラットにこの新薬を投与して、効果を記録することに没頭した。その結果は以下の通りだ。
1 ラットの筋力が増加する。単独回の投与でも効果はあるが、定期的な継続投与によって筋肉量も伸びていき、筋力の増加はさらに顕著になる。一度増えた筋肉は投与を中断することでゆるやかに元に戻っていくが、投与を再開すると筋肉量が再び増加し、その速度は前回よりも早い。(ただし、前回投与を中断した時点の筋肉量まで増加した後は、成長速度は落ちる。)
2 回復力が増加する。10秒間全力でラットを走らせ、5秒のインターバルの後に再び10秒間の全力疾走をさせるサイクルを繰り返すシャトルランの回数が、新薬を投与したラットのほうが成績が良い。血中の赤血球数、赤血球の酸素運搬能力がともに向上している。また、ラットの前足を意図的に骨折させ、回復して再び走れるようになるまでの日数も、投与したラットは投与されなかったラットの約半分で済んだ。
3 性格が根気強く、貪欲で、他のラットに対する攻撃性を増したものになる。ラットに迷路を走らせ、迷路のゴールにエサを置く実験を行った。回数を重ねるごとに迷路は複雑になる。迷路のゴールにより多く到達するのは新薬を投与されたラットである。また、空腹にした2体のラットを同じケージに入れ、限られた量の餌をケージに挿入してラット2体を闘争させる実験でも、新薬を投与されたラットの攻撃性は高く、9割以上の確率で投与されていないラットを制圧する。また、投与されていないラット同士の闘争と比べて、投与されたラット同士の闘争の時間は平均して5倍であった。
4 投与されたラットのうち、ほぼ全てに何らかの健康被害が見られた。心不全、肝機能障害、腎不全。体内に腫瘍を形成したものも多かった。さらにこれらの疾病とは別に、実験後しばらくは上記1~3の効用で活動量と意欲が高かったものの、ある時期から突如、活動量や食餌量が、新薬を投与されていないラットと比較しても著しく低下した。そのラットが死亡するまで、活動量の回復はなかった。
「名前は…そうね、励磁薬(れいじやく)とでもしておきましょうか。」
蘭珠の脳裏に、上司や同僚のマヌケ面が浮かんだ。この業績を、馬鹿正直にあいつらに報告したら、絶対あいつら自分たちで見つけたことにするよな。この業績は、日中の業務では汚れ仕事ばかりやって、日没にこっそりと実験と研究を繰り返した、私のものなんだ。
そうと決めたら、行動は早かった。蘭珠は永遠亭ラボを退職し、会社を作った。栄養補助食品、いわゆるサプリメントの製造販売をする会社を。しばらくは穏便に、本当に健康食品を作って稼いだ。なかでも乳酸菌を大量に入れた飲料が、不眠や下痢、便秘などの消化器トラブルによく効くと口コミが広がり、ヒット商品となったこともあって、思ったより早く会社は軌道に乗った。そして満を持して励磁薬製造の設備を整え、山芋の自社農場も開墾すると、蘭珠は自らの脚で格闘大会の本社に乗り込み、スポンサードを申し出た。
「いやぁ~。こんな多額の資金を提供していただける企業さんとめぐり合えて、私共は幸せですよ!企業ロゴは会場の目立つところにいくつも載せますし、ポスターにも大きく掲載…」
「そう言っていただけるのはこちらとしても嬉しいんですが、失礼ですけど、せっかく広告でわが社の宣伝をしていただいても、多くの人の目に止まらなければ、あまり意味はないんですよ。最近のおたくの興行、空席が目立つじゃありませんか?お客さんは、より激しく、選手の汗や血とともに、命のかけらが砕けて会場の空気中に舞い上がっているかのような死闘を望んでいるのです。いやなに、私は大手スポンサーにありがちな偉そうな苦言だけを呈しに来たんじゃありません。ちゃんと具体的なアイデアを準備しています。これです。」
蘭珠は小さな筒型の瓶に入った励磁薬と、計画書を机に置いた。
格闘大会の主催側も、これは願ったりかなったりであった。励磁薬を使った選手が早期に引退し、新しい選手が出てきて活躍するサイクルが早くなれば、年功でのギャランティの高騰を抑えることができるし、功労選手に支払う引退後の年金も低く抑えられる。なぜなら励磁薬の後遺症ですぐに亡くなってしまうからである。励磁薬を製造販売する蘭珠の会社との蜜月は始まった。多額の資金を格闘大会主催に提供し、表向きは自社の健康食品の宣伝広告を興行中にラウンドガールが掲げて歩く看板に載せたり、会場の壁やマットに貼りだすことが見返りだが、会社はさらに大きなことを企てていた。励磁薬を希望する選手に安値で配り、励磁薬を使用する選手群とそうでない選手群の2派を作る。そして大会主催側はもし励磁薬を使った選手が試合中に反則をしても見てみぬふりをするし、試合がKOや一本で決まらず、判定に持ち込まれた場合は、励磁薬を使った選手群に所属する選手を贔屓した判定結果になるのである。こうして事実上、格闘大会に所属してチャンピオンを目指す選手は全て励磁薬を使わざるを得なくなる。と、ここまでは前述の、励磁薬の強壮効果によって試合を派手で激しいものにして、格闘大会への集客力を高めつつ、選手の入れ替わりのサイクルも早めるという目的のために行われたことだ。蘭珠の野望はその先にあった。蘭珠が格闘大会で広告を打っている商品は、健康補助食品と栄養ドリンクだ。これらの商品に、選手が注射している量に比べれば少量ではあるものの、励磁薬を混ぜる。これによって一般の市民の何人かも励磁薬を体内に取り込むことになる。さて、励磁薬の効果を思い出してもらいたい。集中力が上がり、筋力が上がり、性格が意欲的かつ執着的になり、そして回復が早くなる。これを使用して一般の仕事に従事するということは、疲れ知らずのスーパー労働者が一時的に誕生することになるのだ。このスーパー労働者の働きぶりが、社会にとって「普通」というコモンセンスになるまで、励磁薬入りの健康補助食品や栄養ドリンクが社会に浸透したならば、それを使っていないシラフの労働者は職場での立場が非常に弱いものになる。そうなってしまえば、市民のほとんどが蘭珠の会社の製品をためらいなく買うことになり、蘭珠は巨大な力を持つことになるだろう。この野望を達成するために、早く全ての選手に励磁薬を蔓延させるのが最初のゴールであった。そのゴールに速やかに到達するために、励磁薬を使った選手と使わなかった選手を戦わせ、もし励磁薬を使わず格闘大会主催と蘭珠の会社の意向にそぐわないままの選手がいたらどういうことになるのかを、見せしめとしてはっきりと可視化させる必要があった。励磁薬を使った選手の役として抜擢されたのが羊であり、使わない選手、つまり生贄としてささげられた選手が紅美鈴だったというわけだ。
協賛企業のロゴがところどころに描かれた白いマットの周囲を、金網がぐるりと取り囲んでいる。いまこの、獰猛な獣を捕えた檻を連想させるリングの中に立っているのは、美鈴と羊、それにレフェリーだけだ。
生涯で初めて羊にテイクダウンを許した美鈴だったが、多少面食らった驚きはあったものの、きわめて冷静だった。
(私の両足は羊の胴から背中にかけて絡みついている。傍目には羊が上になって私が押さえつけられているように見えるけれど、羊から見たら私の顔の位置は遠くて殴りにくいし、それでもなお殴るために身を乗り出したら、私が腕で羊に組み付けるので、スイープ(上下を逆転すること)も狙える展開になるわ。)
美鈴は下から見上げた。羊のスポーツブラ風のコスチュームがかすかに膨らんでしぼんでを繰り返すことで、羊の息遣いが見て取れる。羊の目は大きく見開かれており、その表情の下には様々な感情が少しずつ混じっているようだった。獲物を逃さないように狩りに没入する動物的な感情、自分の意外な力に気が付き、興奮が沸きあがってくる10代の少年のような感情、あるいはクレプトマニア(窃盗癖を伴う精神障害)が万引きをするその瞬間の、背徳感を振り切って快楽を得んとする決意の感情…。
「まだまだ青いわね。」
羊の見開いた眼を見て、美鈴は脅威よりも、この精神状態の相手ならそれほど怖くないと思った。
「ふふっ、さぁ来なさい。」
美鈴の涼しげな顔は、およそ仰向けにされて下の体勢にいる人間のそれには似つかわしくなく、格闘技を無垢な目で見ている観戦歴の浅い客には、奇妙なものに映ったかもしれない。羊は自分の上半身をマットに対して鉛直に保ったまま、握った拳を美鈴に向かって打ち付けた。1発…2発…と振り下ろすたびに、観客から「エイ!」「エイ!」と掛け声が上がる。それはまるで、アイドルのライブで観客がお定まりの振り付けをご機嫌で踊りながら、アイドルが歌う曲に合わせて合いの手を入れ、舞台と客席との一体感に興じるようなものだった。
(格闘技ファンの中には、アイドルオタクのことを見下して、自分たちはアイドルなんかよりもっと硬派で価値の高いものに熱中してるクラスタなんだと思い込んでる人も多いだろうけど、何も変わらないよなぁ~)
そんなことを思いながら、観客の声援をまといつつ頭上から降ってくる拳を、前腕でブロックしたり、顔に当たる瞬間に顔の位置をずらして拳をスリップさせるなどして対処した。ダメージはない。当然だ。羊は自分の上半身を下にいる美鈴の上半身と近づけることで、美鈴に組み付かれるのは避けたい。抱きつかれて密着されたら、もうパウンドは打てないからだ。スイープされる危険も出てくる。なので、羊は今やっているように上半身を前傾させずに鉛直に立ててパウンドを打つが、体重が前方に預けられないので、手だけの軽いパウンドになってしまっていた。
「エイ!」「エイ!」
客席のファンはなおも、羊が放つパウンドのたびに掛け声を上げる。傍から見ている客にとってはこんな膠着している展開にも決着のにおいを感じて興奮するのかと思うと、見る目のなさに呆れるとともに、だからこそ金を払って集まってくれるのかなとも思う。さて、効かないパウンドであるとはいえ、上のポジションを取ってコツコツと手を出し続けている羊のほうが、ジャッジの採点の上では優位に映る。美鈴もそろそろ仕掛けることにした。相変わらず美鈴の両脚はまるでパンを挟むトングのようにがっちりと羊の胴を挟みこんでいたが、左脚をおもむろに解き、羊の右わきの下からスルリと通して自分と羊の上半身の間の空間に持ってきた。そして左足の裏で、羊の右肩を押した。押されれば、無意識に押し返すものだ。羊が本能的に美鈴の左足の裏を右肩で押し返したその瞬間、美鈴の左脚は羊の右肩からフッと離れ、マフラーのように羊の首に巻きついた。ということは、羊からすれば押していたつっかえ棒を急に外されたのと同じことになるので、美鈴をテイクダウンしたときから今までの間、かたくなに鉛直を保っていた上半身が美鈴のほうへと吸い寄せられるように前傾した。美鈴にしてみれば、あとはすでに羊の首の後ろに廻った自分の左脚の上に、自分の右脚を組むだけで良かった。
「ウォーッ!」「キャーッ!」
怒号のような低い歓声と、悲鳴のような甲高い歓声とが入り混じった、厚みのある音の波が、その瞬間にリングを通り抜け、会場の壁に反響して、あたり一帯を包んだ。試合の趨勢がひっくり返ったのを、観客も察知したのだ。
三角締め。美鈴の二本の脚が、まるで大蛇が獲物を仕留めるかのように、いまや羊の首を締め上げていた。観客の反応は打撃への掛け声がリズミカルな合いの手の形を取るのに対し、こちらはギリギリと締め上げる”静”の攻撃であるからか、喋り言葉の形式となるようだ。
「落とせ!」「うわーっ、これもうダメかな!いい感じで攻めてたように見えたのに。」
「あきらめんな!あきらめんなよ!ラウンド終了まであと45秒!耐えろ!」「失神してアヘ顔晒せ~!ワハハ」「落ち着け!極まりきってないからアゴ引けアゴ」
このように実に様々な声が、マット上の二人の耳に入ってくる。正直、どれがセコンドたちの指示の声で、どれがリング近くに陣取って観戦する客のヤジなのか、すぐには判別がつかないくらいだ。…と、美鈴は異変を背中に感じた。自分の体重に加えて羊の体重も少し加わり、じっとりとマットに密着させられていた背中の感触が、ふっと消えたのだ。美鈴は次に自分が味わうことになるシチュエーションとして、自分は無重力を感じることになると即座に予期できた。そう、エレベーターに乗っている人が上昇し、エレベーターが階の位置に合わせて停まるための速度調節のために、上昇の速度が緩められた瞬間に感じる、あの無重力だ。
(私は今、羊に持ち上げられ、マットにたたきつけられようとしている。粗っぽい方法で、私の三角締めを振りほどこうというんだな。そうはいくか。このまま極めてあげるわ。)
こういうときに、相手に自分を持ち上げさせないようにするには定石がある。持ち上げようと踏ん張った相手の脚の裏側をつかむのだ。、腿裏でもアキレス腱でもいいが、膝の裏が一番掴みやすい。こうやることで相手が持ち上げられなくなるメカニズムはごく単純で、紐のついた重いカバンを持ち上げるときに、カバン本体を抱えて持ち上げるのは容易だが、持ち上げようとする人本人が、自分で自分のカバンの紐を踏んづけていたら、いくら軽いカバンでも持ち上がらないのと同じことだ。美鈴は左手を羊の膝の裏に伸ばし、掴んだ。
…はずだった。しかし、事前に予期した悪いシナリオの通り、美鈴は高々と持ち上げられた後に無重力を感じた。美鈴の目線はリングを八方に囲む金網の上端にまで至った。このままだと、この高さからマットに後頭部をしたたかに打ち付けられてしまう。そうなったら、無事でいるか、それとも失神してそのまま負けてしまうかは、まさに運を天に任せるようなものだ。美鈴は試合を続行させることを優先し、今自分が極めかけている三角締めを、ひとまず解くことを選んだ。美鈴は羊の首に絡みつけている両脚をほどき、羊の額を右手で押した。美鈴は着地した。羊はパワーボムが未遂に終わったため、お辞儀のような恰好を一瞬取らされた形となり、すぐに美鈴と向き合った。再び両者が地に脚をつけて立った展開での勝負が始まる。美鈴はたった今三角締めを持ち上げられた際の違和感に、まだ納得がいかなかった。
(私が膝の裏を掴めば、羊は持ち上げられなかったはず…どうして掴めなかった?もし羊が発汗していたせいで滑ったとしても、あんなに摩擦を感じずにヌルッと掴み損ねるなんて、今までなかった…。何か塗ってるんじゃないか?)
美鈴は顔の前にガードを上げ、羊と向かい合いながらそう思った。
カン!
ゴングが一回鳴ると、レフェリーが二人の間に割って入った。
(そうか。1ラウンドはこれでタイムアップか。三角締めを私が仕掛けたときに、すでに残り45秒だったもんな。)
羊は背を向けて、自陣のセコンドが待つコーナーへと帰っていった。それを見てレフェリーも二人から離れて行こうとするのを、美鈴が呼び止めた。
「すっごい滑るよ!」
「何が滑るんですか?」
「相手の体だよ!何か油みたいなものが塗られているから、ちゃんとチェックしてよ!」
「わかりました。」
レフェリーは椅子に座って休む羊の額や腕のあたりをペタペタ触ってから、羊のセコンドに何か話しかけた。ぼそぼそと耳打ちするような話しかけ方で、なんだか見ていて感じが悪い。羊のセコンドは、タオルで羊の体を何か所かポンポンと軽く撫でた。
「あんなんで油が取れるかよ、アホが」
美鈴はこう吐き捨てながら、2ラウンド開始のゴングを聞いた。2ラウンド開始後にどのような展開になっていくか、美鈴はあらかじめ予想していた。1ラウンド終了間際に、羊は顔を真っ赤にして、美鈴の三角締めによる窒息地獄に耐え、直後に体内の酸素も足りぬままに、体重58㎏の美鈴を力任せに持ち上げた。呼吸が制限されたなかで、重いものを持つことがどれだけの苦痛かは、経験したことのある人にしかわからないものだろう。頭痛がして思考もまともに廻らないわ、吐き気はしてくるわで散々なものなのだ。だから2ラウンド開始までの1分間の休憩では、羊の呼吸はとても整えられないはず。だから羊は距離を取って、落ち着いた展開で2ラウンドをスタートしたいはずだ。羊は美鈴の思った通り、小さく上体をゆすりながら、けだるそうな雰囲気を漂わせて美鈴と向き合った。
(うん。やっぱりまだ休みたいよな。それじゃあこっちもジャブでも突いて、じっくり時間をかけて料理して
バンッ!
マットを踏む大きな音とともに、1m以上離れて立っていたはずの羊の頭は、美鈴の目の前まで来ていた。1ラウンド目の開始早々にタックルでテイクダウンされたことがどこか美鈴の深層意識に残っていたのだろう、美鈴はタックルに耐えられるように脚をやや前後に開いて、膝を曲げて立っていた。そのため美鈴の頭の高さは、彼女と比べてやや身長の低い羊にとって、パンチを打ち込むのに絶好の高さになっていた。
「やべっ」
羊は踏み込みのスピードそのままに、全体重を乗せた右フックを振ってきた。美鈴はガッチリと左腕を自分の顔の前に固め、ガードして受けた。
ブオッ
風を切る音とほぼ同時に、左腕に衝撃が走る。美鈴の長い腕と小さい顔は、守勢に回ったときにもメリットがある。ガードで頭部がすっぽりと隠れてしまうため、殴ろうとする相手からすると、首を甲羅の中にひっこめた亀を打っているようなものなのだ。美鈴はいつも通り、自慢の強固なガードで羊の右拳を受け止めた。
「あれっ?」
すぐ目の前でにらみつけてくる羊の目が3つに見える。羊の輪郭も、まるで鉛筆で下書きをしたラフスケッチのように2本3本と線がばらついて見える。少し目線を落とすと視界に入るマットや、少し遠くに焦点を合わせると見える金網も、ゆらゆらと波打っている。
美鈴自身の体はというと、まるで酒を痛飲した晩のように、膝に力が入らなくてフラフラする。まさか、ガードの上から効かされるなんて?
戸惑う美鈴に対し、なおも羊は今度は左フックを振り回して当ててくる。観客の興奮は最高潮に達したようで、歓声や大声に混じって羊のパンチの風切り音がせわしなく美鈴の耳に入ってくる。
観客「ウォーッ!!」ブンッ!「羊、すげえ入れ込ん ブンッ! んじゃん!」
「全然見合って時間 ブンッ! しねえなこの試合!」 ブンッ!
このまま亀ガードで耐えていると、そのまま押し切られて倒されてしまいそうだ。
(まず、全段ガードしちゃダメだわ。フットワークを使って空振りさせる。そして、羊は左右のパンチを交互に振ってきているから、動作が右パンチから左パンチ、左パンチから右パンチへと捻転の方向が切り替わる瞬間に、コンパクトなパンチをお見舞いして、勢いを止める。これでいこう。)
それにさ、やられっぱなしで相手のスタミナが切れるまで耐えるなんて、私の性に合わない。日常生活だってそうだ。嫌がらせを受けて、その嫌がらせを気にしないふりをして、目の前の仕事に集中したら、そりゃあ周りからは大人の対応だと称賛されるだろう。でも、それで自分の心が納得するほど、私の精神は成熟してなんかいない。別の言い方をすれば、心が枯れかかってなんかいない。どんな小さな攻撃を受けたって、高性能レーダーで感知して、その場その時間に即座にやり返す。結局これが一番スッキリするんだ。なめんなよ!
ブンッ!
羊の左拳は相変わらず風切り音を立てたが、今度は美鈴の巧みなステップバックによって着弾せずに空を切った。
「シュッ!」
次の右パンチが来る前に、美鈴が短い吐息とともに放った鋭い左のリードブローが、羊の鼻っ柱に突き刺さった。羊は滴り落ちてくる鼻血を気にも留めずに、右を振り回してくる。美鈴は先ほど使ったステップバックで背面の金網に近づいたため、再びステップバックは使えない。美鈴はこの右をガードで受け止めることにしたが、今度はガードの上から効かせられないように工夫した。あえて羊の右半身に自分の体を寄せていきながらパンチを受けることで、羊の右腕が最高速まで加速する前に、自分からガードした左腕でむしろパンチに対して触りに行ったのである。
ガツッ
今度は効かされなかった。
美鈴は左ひざを羊の右わき腹に突き立てた。羊は右のパンチを打った直後なので、その右腕で腹は守れず、膝蹴りをうちごろだった。このようにして美鈴は、左右のパンチを振り回しながら前進してくる羊を、時にはかわし、時にはパンチの威力を殺した巧みな受けをし、羊の動作が右パンチから左パンチ、左パンチから右パンチへと、体の捻転の方向が切り替わるその一瞬を狙って、打撃を一発だけ返していった。決して、2発3発と続けて反撃することはしなかった。
人間というのは、同じリズムかつ同じ順序でイベントが起きるのを数サイクルも続けて経験すると、その流れに体が慣れて、次も同じ法則性を持ってイベントが起きるものとして、体が半自動的に動くものだ。これはきっと、法則性にのっとって事前に動作を決めてしまうことで、脳にかかる負担を減らすという人間に備わった優れた機能によるものだろう。例えば、電車での通勤。初出勤の時には、改札の場所がどこか迷い、自分が乗る電車が来る番線のホームへと続く階段がどれなのか迷い、ホームのどの位置に立って電車の到着を待とうか迷うだろう。しかし翌日にはもう、まるで脳みそを使わずに昨日と同じことが出来て、すんなりと電車に乗れるというわけだ。だがもし、ある日ダイヤの乱れなどのせいで、いつもと違う番線に電車が到着するというアナウンスが流れたとしたらどうだろう。一瞬まごついて、ぎこちなく別の番線へと向かうはずだ。美鈴がこれからやる作戦がまさにこの人間の性質を利用したものだった。羊の体が今馴染みつつあるのは、以下の規則性だ。自分が右のパンチを打つ、美鈴が打撃を一発だけ返してくるので耐える、自分が左のパンチを打つ、美鈴が打撃を一発だけ返してくるので耐える…この繰り返しだ。こちらのパンチは美鈴のガードの上からでも効くので、この展開を続けていれば、相手が先に倒れるのは時間の問題だし、美鈴が反撃を入れてくるタイミングもいつも同じだから、耐えるのも楽になってきた。
「ホラホラ、そんな反撃じゃ効かないよ!」
今や、美鈴が反撃を打ち込むたびに、羊は笑みを浮かべて煽ってくるほどになった。この羊の大胆不敵かつ挑発的な態度に、観客のボルテージはなお一層高まった。
「みろよ!美鈴の反撃は逃げながら打ってるから、浅くて全然効いてねえ!」
「うお~っ、羊強ぇ~っ!」
美鈴は怯えたような表情を浮かべている。羊が、もう幾度目か観客の誰もが数えるのをやめた左のパンチをふるい、美鈴はややよろけながらガードした。そして弱弱しい右ストレートを羊に向かって放つが、もう美鈴の反撃の威力に慣れきってしまっている羊は、悠々を顎を引き、美鈴の右拳を額で受け止めた。羊の目の前には、弱り切った蒼白な面持ちの美鈴の顔が、どうぞ打ってくださいと言わんばかりに差し出されている。
「とどめだ!」
羊は渾身の右フックを打ち込んだ。
バコッ!
羊は糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、自分が今はなった右フックの勢いがまだ残っていたので、コマのようにクルクルと半回転して、潰れたカエルのように腹ばいになってマットにべったりと張り付けられた。
観客「えっ!?」「そっちが倒れるの?何で!?」「滑って転んだだけだろ?」
観客が放つ困惑の声は、やがてざわざわというどよめきに成長していった。その観客の様子は、血生臭い戦いを見に来た者の反応としては全く場違いなもので、どちらかというとマジシャンの見事な手品を見せられたときに近かった。
時を少し戻して、羊がとどめの右拳を打ち込む瞬間を、今度は美鈴の視点から見てみよう。これまでは1発しか反撃を入れてこなかったが、今回は反撃の右ストレートを軽くはなって羊の額に受け止めさせたあと、防御や回避に入るのではなく、間髪を入れずに左フックを放っていたのである。羊はまさか、自分の右拳の外側から、美鈴の左拳が飛んできているとは思いもよらず、夢中で右フックを打ち込むことでとどめを刺しに行った。まんまと罠にかかったというわけだ。後は仕上げとして、美鈴は自分の頭をちょっと下に沈ませてやるだけでよかった。羊の拳は空振りし、時を同じくして美鈴の拳は羊の右こめかみに深々と突き刺さった。そのあと羊がどうなったかは、すでに見たとおりだ。
美鈴はチラッとレフェリーのほうを見た。
「おい、倒れたぞ。もう終わりでいいだろ。お前は両手をブンブン交差させながら、私と羊の間に割って入って、ゴングをかき鳴らすのを要請しろよ。」
そういうメッセージをこめた視線だったし、レフェリーもその意味はくみ取っているはずだったが、彼の表情は無表情が硬く仮面のように維持されたままで、一向に試合を止めようとしない。
「チッ!」
美鈴は顔をゆがめて舌打ちをすると、仕方なく羊の背中の上にまたがり、首に左腕を巻き付け、左手で自分の右腕をつかみ、裸締めの体勢を作った。
(誰がどう見ても勝負ありで、これ以上続けても残酷ななぶり殺しショーにしかならないのに、しばらくそのまま続けさせてから、ようやく試合をしぶしぶストップさせるレフェリーがいる。こいつもその手合いだな。あぁ、お前らの言い分もわかってるよ。客の中には、格闘技を技術の比べあいや真剣勝負の緊張感を味わうために観に来ているわけではない層が少なからずおり、そいつらを満足させるためには、遅いストップもやむなしだというんだろう。奴らは、無抵抗な弱者が一方的に痛めつけられるのを性的興奮とともに観たいのだ。だから、今の羊のように、糸が切れた人形のようにマットに這いつくばったら、そこから2発3発とダメ押しで殴ったり蹴ったり、あるいは絞めたり折ったりしなきゃあ、気が済まないというわけだな。)
2ラウンド開始から今まで、嵐のような激しい打撃の攻防が繰り広げられ、マットはドタバタとひっきりなしに踏み鳴らされ、金網はきしみ、汗や血は飛び散り、観客は怒号のような歓声を立てていた。だがそれらが嘘のように、今は水を打ったように静かだった。
「あぁ…やっと終わる。」
裸締めに捕えたらもう脱出のしようがないから、さすがにレフェリーが止めるかセコンドがタオルを投げ入れる。それで終わり…
ズキッ!
!?!
美鈴は両目に突如、激痛が走った。その激痛のせいで美鈴の締めはゆるみ、羊は体をよじって、背後を取られていた美鈴と正対することができた。
カーン!
2ラウンドが終了したのを告げるゴングが鳴らされ、正対して抱き合いながら寝転んでいる二人は引き離され、それぞれのコーナーへ帰って椅子に座った。いつもはラウンドが終わって椅子に腰かけるとすぐにセコンドが水を飲ませてくれたり、打撃を受けて腫れた部分に冷たく冷やした石を当てて回復につとめてくれるが、作業に入る手を止めて、何かレフェリーに向かって叫んでいる。
「アイポークだろ!」(注:目潰しのこと)
「ちゃんと見ろよ!」
なるほど、今さっき裸締めをかけているときに両目を襲った激痛は、羊が指で私の顔の目のあたりをかきむしったからだったのだ。もちろんこれは反則である。百歩譲ってこれはレフェリーの意図しない見落としだったとして、もう一つ腑に落ちない点がある。裸締めに入る前、完全に美鈴のカウンターパンチを食らって、羊は糸の切れた操り人形のようにマットに沈んだはずだ。それなのにあっという間に息を吹き返して、このような反則で難を逃れたということである。あの回復の早さは、全く説明がつかない…。
・・・だ!ポイントはリードしていると思うけど、この試合は何が起きるかわからないから、気を抜くなよ!」
ハッ、セコンドが指示を出していたのか。あまり耳に入って来なかったけど、まぁとにかく最終の3ラウンド目、がんばるしかない。
カン!
ゴングの乾いた金属音の、全く周りの空気を読むことなく独立して出現する音の調子と、椅子からすっくと立ち上がった姿勢の変化が、美鈴にあるひらめきを与えた。
「羊は何か得体のしれない薬を打っているのでは?」
3ラウンド目は、1,2ラウンドの冒頭のように羊がいきなり仕掛けて来ることはなく、20秒以上もの間、羊と美鈴は1mほどの間合いを隔ててにらみ合っていた。これは両者の心情をそのまま表出していた。羊は1ラウンド冒頭のようにタックルでテイクダウンして攻めたら三角締めで極められかけたし、2ラウンド冒頭のように打撃を振り回しながら猛進したら、ノックアウトされてマットに沈んだ。この2つの恐怖体験を立て続けに味わったことにより、危機回避の本能が働いていた。その本能は、励磁薬を投与した効果による恐れ知らずの蛮勇とせめぎ合う程になり、羊に前進を躊躇させた。美鈴は美鈴で、もう普通の試合なら1ラウンド目の三角締め、2ラウンド目の左フックによるカウンターでのノックアウト、そして直後の裸締めと、都合3回も勝っているはずなのに、まだ試合が続いているという始めて経験する状況に戸惑っていた。また、どうやったら羊を仕留められるのか、思案にふけっているため攻めあぐねているのもあった。打撃は致命傷を与えてもあっという間に回復されるし、締め技や関節技を仕掛けると、目潰しが飛んでくるのだ。美鈴はオーソドックスに構える羊の、前足となっている左脚を、両腕で抱えにいく素振りを見せた。そうしてわずか10数cm間合いを詰めたとき、羊が打ち下ろしの右パンチを狙っているのがわかったので、沈めた目線を再びもとの水準に引き上げ、反応する。二人の間合いは50㎝ほどに縮まった。羊は美鈴に目で反応され、今打ち込んだらまたカウンターされると察知したのか、打つのをやめた。こうして二人とも攻撃を出さず、(出せず?)間合いだけが縮まっていき、やがて美鈴は左手を羊の右わきの下に差し込み、羊もまた美鈴の右わきの下へ自分の左手を差し込み、お互いの胸を密着させて、組み合った。
こうしてお互いに体を密着させていれば、パンチやキックを振り回して加速させて相手に当てることはできない。動きが止まることで思考が明確に意識されるようになってくる。美鈴は羊がドーピングしているという前提で、思考を巡らせてみた。「羊の、時間が経過するごとに消耗するどころかますます強くなっていくパンチ、タックルの瞬発力、反応の異常な速さ、ラウンド間にちょっと座っただけですっかり落ち着きを取り戻す呼吸、痛みを感じていないようなしぶとさ…この試合で幾度となく味わってきた、普段の試合とはまるで違う不自然さは、これで説明がつく。この子、”打って”いるんだわ。この一戦に人生をかける心意気がそうさせているのはわかるわ。でも本当にいいのかしら、そっちに行ってしまって。」
確かにドーピングをすることで、物理的に人体が発揮できる出力は限界まで上げることができる。しかし、限界まで上げた能力で興行を行うことが常態化すれば、客の目だってそれに慣れてしまうだろう。選手が出せる限界のうち7割8割の身体能力で行われる試合を見て、それに十分な刺激と興奮を観客が受け取って満足していたころには、もう戻れなくなる。もしそうなれば会場の客席には閑古鳥が鳴き、もう稼げなくなってしまうのだ。ここで格闘技の興行という枠を少し広げ、人の肉体を資源とする仕事一般について考えてみよう。少ない疲労と身体的投資を元手にして大きく稼ぐことを、肉体労働の洗練だと定義するならば、ドーピングが前提となることは、まさに元手となる投資の高額化を要求されることに他ならないのだ。しかもそれで仮に勝てたとしても、配当が投資の増大に伴って増えていくわけではない。こう考えると、ドーピングは選手一人一人のモラルの問題にとどまらず、業界を構成する選手たちを地獄の自転車操業に陥らせる危険をはらんでいることがお判りいただけるだろう。
「でも私は、そんな業界全体のことをメタに捉えて、労働組合の代表目線で危惧し、あなたに警鐘を鳴らしているわけではないわ。私が心配しているのは、もっとシンプルなこと。あなたはこの先も打ち続けるなら、その末路は…痛っ」
また右目に痛みが走った。またアイポークされたのだ。こう何回も反則をされると、相手を心配する理性とは全く別の部位が自分の脳にあって、マルチタスクで動いているかのように怒りがわいてくる。
バシュッ
美鈴は気が付くと、羊の股間をしたたかに膝で蹴り上げていた。この反則は、男性に対して効果が絶大なのは誰もが知ることだが、実は女性が受けた場合もただでは済まない。相応の苦しみがあるのだ。倒れて体を”く”の字に折り曲げて悶えながら、羊は美鈴を睨みつけてくる。ふつうはここで、反則を犯したほうの選手は申し訳なさそうな素振りを見せるものだが、美鈴は冷酷な表情のまま見下ろした。
レフェリーが血相を変えて美鈴の前に進み出て、胸ポケットからレッドカードを取り出して掲げた。
「故意の反則打撃により、減点1!」
「出すとしたらイエローカードでしょ?警告なしでいきなり減点なんて聞いたことないわよ!向こうの反則は見逃すくせに、なんでこっちはいつもより厳しく取られるのよ!」
美鈴の抗議は聞き入れられず、羊の回復を待ってから試合再開となった。これでドーピングとともに、もう一つの懸念が確信に変わった。この試合、あらゆる裁定が公正に行われることはなく、羊が有利に、私が不利になるように口裏を合わされている。美鈴は試合開始直後から、いや会場入りした直後からうすうす感じていた嫌な気持ちが、気のせいではないと確信した。羊の膝の裏に手をかけたら、何かオイルやクリームのようなものが塗ってあって、滑った。羊の反則はレフェリーに見過ごされ、私の反則は厳しく取られる…。何か自分のコントロールの及ばない領域で、陰謀やたくらみが動いており、自分はその渦中にまんまと巻き込まれつつあるのだ。今の美鈴の心境を表現するとしたら、今にも崩れ落ちそうなつり橋の上で、徒競走をやらされているようなものだろうか。徒競走そのものは、美鈴のコントロールの範疇なのだから、いかようにも勝つことができるが、誰か何者かが徒競走が行われている橋を、彼のさじ加減によって谷底へと落とせるのだとしたら、もはや美鈴にはどうすることもできないのだ。この試合、これまでの展開からして自分がポイントリードしていると、私自身も私のセコンドも思っていたが、この様子だと判定の採点も公平に行われているとはとても考えられない。しかもたった今の減点だ。このまま試合がタイムアップで終われば、おそらく私の負けにされるだろう。
(…買収?高額のファイトマネーが見込まれる試合ならば、レフェリーやジュリー(本部審判)に賄賂を贈ってもなお、手許に収益が残るというやりくりもある。でもこの試合はそんなたいそうなものじゃない。私のタイトルマッチ前哨戦、羊は抜擢された若手選手に過ぎない。私も羊も、ファイトマネーと勝利者ボーナスを合わせても、賄賂になんか使ったら足が出る程度にしか貰えてないはずだわ。それなら羊にパトロンがいて、そいつが買収を?だとしたら、そのパトロンが羊にそこまで入れ込んで執着する理由は?)
羊の体調を心配する気持ちや、羊に肩入れする審判(あるいはもっと根深く、大会主催者本営)の思惑には俄然興味がわいてきた美鈴であったが、その一方でこの試合に対する集中力と、勝利への執念は急速にしぼんでいくのを感じた。だってそうだろう?真剣な仕事ぶりというのは、その仕事を真剣にやることで他者からの尊重と正当な報酬が得られるという強い信頼があって始めて生まれるものだ。もし高い給料を提示されて始めた仕事なのに給料の未払いがあったら仕事をやめたくなる。規則にのっとって正直に仕事をやっていたのに、ルール違反をしている同業者のほうが高い評価を受けたら、仕事をやめたくなる。むしろ、絶対に貢献したくないという気持ちが沸き起こって、上司に向かってパロディ的に小馬鹿にした態度を取ったり、ひどい場合は商材をしまってある倉庫に火をつけたりするものなのだ。これはきっと、真面目に取り組んできた自分の精神的損害を少しでも少なくするための埋め合わせとして、せめて些細な楽しみを、笑いを、自分自身に提供しようという補償の精神からそうさせるのだろう。美鈴の心中にも例外なくそれは起こった。
「この試合の残り時間、思いっきり”楽しんで”やろうっと。」
レフェリーが羊の股間のダメージの回復を確認すると、試合は再開された。再び二人は1mほどの間合いを隔てて向かい合った。羊は反則の禁的攻撃を受けたからか、それまでにも増してぎらぎらとした視線を送ってくる。
「よし。ひとつ蹴ってみ?思いっきり蹴って良いぞ?」
羊の視線が一瞬、ぎょっとしたような驚きに変わった。幻聴かと思ったがそうではない。美鈴が夏老師の声色をまねて、緊迫した試合中にも関わらず、話しかけてきたのである。
(なんのつもり
ドゴッ!
美鈴の左ミドルキックが羊の脇腹めがけて飛んできた。
(こいつ!)
羊はカッとなって自分も左ミドルキックを蹴り返した。
「それが思いっきりかお前のォ!蹴れーッ!」
美鈴はなおもニヤニヤしながら、夏老師のものまねを続ける。声量もまねているので、大歓声の試合中でも、レフェリーや客席前列に陣取った客には、美鈴の声が聞こえていた。
レフェリーは、この女、頭がおかしいのか?というような表情を浮かべ、首をかしげていた。明確な侮蔑の言葉を使っていない以上、イエローカードを出して試合を中断するのもはばかられた。仮に羊が優勢で、もし苦し紛れに美鈴が口プレイしているのであれば、試合を中断するのは美鈴に有利に働くため、羊びいきをしなければならないレフェリーは下手な真似をするわけにはいかなかった。
ドスッ!
ドスッ!
美鈴が蹴り、羊が蹴り、…お互いに示し合わせたかのように左ミドルキックを蹴り合う。観客もセコンドもみんな置き去りにして、二人だけがかつての昔日へタイムスリップしていた。
「姉弟子(ねえ)さん、私は今、あなたを越える!」
羊は美鈴の蹴り足を右腕で抱え込み、右腰を後ろによじりながら後方に引いた。美鈴は右足一本で片足立ちになっていたので、こうされると倒れるしかなかった。二人はマットに倒れ込み、羊が上のポジションになった。
…が、美鈴はただで倒されたわけではなかった。羊の左手首を右手でつかみ、自分の右手首を、羊の背中側から回してきた自分の左手で掴もうとした。もし掴むのに成功し。このまま美鈴が羊の左手首を上方に持ち上げていくと、羊の左肩が脱臼するか、左上腕の骨が折れる。キムラ・ロックだ。余談だがこの技、なぜか料理漫画を読むのが好きな人は皆知っている技だという。うおォン。さて、羊からしてみれば、いくら励磁薬によって痛みが抑えられていようとも、左腕を折られてしまっては勝ち目が薄くなる。キムラで腕を折られないようにするには、捉えられている腕を自分の胴体へひきつけて美鈴の両手の距離を遠くし、美鈴が自分の手首をキャッチするのを防げばよい。こうして、二人は膠着した。美鈴の目の前には羊の顔があった。羊の鼻や顎からしたたる汗が、ときおり美鈴の顔に落ちてくる。ハァハァという息遣いも聞こえてくるし、羊が息を吸うと、密着している二人の胸や腹がすこし接地圧を増し、羊が息を吐くと接地圧が緩んだ。二人の体はこのように膠着していても、口は動かせる。美鈴はさきほどのように口プレイを楽しむことにした。
「あんたがどんな薬使ってるのか知らないけどさ、寿命削ってまですることか?格闘技ってよ?こんなもん、着ぐるみ着て百貨店の屋上でやる子供向けヒーローショーと何が違うんだよ?」
「バカにしてんの?私は命を懸けてる。覚悟が違うのよ」
「バカにしてるよ。私なんか楽に稼げるから格闘技やってるだけで、命削るんなら今すぐやめるわ。」
「全力を尽くして勝ちに行く姿を観客に見せることで感動を与える。これが私たち格闘家の誇りでしょ?」
「笑わせらぁ。反則糞野郎。お前の試合に感化された子供は、将来命を懸けて真剣に空き巣や詐欺をやるようになるだろうなぁ。良くて転売屋ってとこか。ところで羊、まだ処女なのか?」
「はぁ?関係ないでしょ」
「なんで格闘技にかぎらず芸事をやる女の多くが恋愛禁止か教えようか?一発ヤルと、世の中の真実が見えてきて、教える側が弟子を騙せなくなるからなのさ。童貞と処女は高い集中力と一途さがある。でも童卒処女卒すると、力が抜けて修行に身が入らなくなる替わりに、色んな視点で物事を見られるようになるのさ。本人にとっちゃそのほうが良いだろうが、使役する側としちゃ兵隊として使いにくいってわけだ。男も知らないうちに怪しい薬で男みたいな体になっちゃって、この先ガキ産めるのか?」
美鈴は口プレイを重ねるごとに、こんな試合の楽しみ方もあったのかという新鮮な驚きとともに、この悪口雑言は羊にだけではなく、実は自分自身へも向けられていることに気が付いた。怪しい薬を打って、寿命の前借と引き換えに、筋力や回復力得ている羊は言うに及ばないが、自分だって格闘家生活によって身体は酷使されていることに変わりはない。今は若いからいいが、このまま格闘技だけやって年齢を重ねていった先にどんな人生が待っているのか、考えることを避けてきた。毎日肉体や技術の鍛錬に汗を流す日々は、未解決の問題を先送りにしてもなお、毎晩心地よい眠りに誘ってくれる甘美な魔法でもあった。いくら格闘家として業界やファンに名が知れ、給金を貰っていたとしても、モラトリアムにすぎない一面は確かにあったのだ。今日の試合は、確かにそれだけ切り取ってみれば、思い出したくもない不愉快で苦い経験になるのだと思う。しかし、自分の人生の生き方を冷静に再考させてくれる契機となるならば、これくらい印象的な出来事でなければいけないのだろう。だとしたら、この上なくありがたい神からのギフトなのだ。もう格闘家生活はやめよう。若いうちに転職して、手に職を付けるんだ。競技生活をダラダラと続けた結果、腰やひざを壊してみろ。ビッコを引いて歩くようになって、肉体労働もままならない。試合やスパーリングのたびに頭を殴られ続けてみろ。脳みそが傷ついて、寝ても覚めても目の前に靄がかかったような白痴となり、読み書きそろばんも出来なくなるだろう。
美鈴は左半身を持ち上げ、右半身を沈ませて、腰を跳ね上げた。美鈴の上にまたがっている羊からしてみれば、乗っている小舟が波に煽られて転覆するようなものだ。でも左手をマットにつけて支えれば、そこで転覆の回転運動は止まるのだから、対処は造作ない…いや!ダメだ!今マットに手を付くということは、左手首の位置が美鈴に近くなることを意味する。そうなれば美鈴が自分自身の手首をキャッチして、キムラが完成してしまう。スイープされるか、腕を折られるかを天秤にかけたら、スイープされるほうがまだましだ。羊の脳裏には、王手飛車取りという文字が朧げに浮かび、視界に映るものは白いマットに自分の影が落ちる光景から、会場の天井をまばゆく照らすライトの光へと一変した。ひっくり返される瞬間に、羊は美鈴の右手をなかば力ずくで引きはがし、左腕は自由になった。目の前には美鈴の頭がある。
「首ががら空きよ!」
左腕を美鈴の首に巻き付け、締め上げた。ギロチンチョーク。これで試合に終止符を打ってやる!
観客も、見慣れた大技を目にして盛り上がる。
「ギロチンチョークだ!これは深く巻き付いてるぞ!とても脱出できない!」
「あぁー今度こそ極まったわ!」
「これあれでしょ?グラップラー刃牙でトーナメント決勝で刃牙がジャックに勝った技!」
レフェリーが二人に近づき、美鈴に問いかける。
「ギブアップ!?ギブアップ!?」
「ちょっとレフェリー!勝手に試合を止めるんじゃないわよ!?技をかけてるのは私なんだから!」
美鈴は首を絞められつつ、背筋運動をするときのように首を後ろに反らせていた。美鈴の右腕はバンザイのような形にしている。これにより、羊の左肩が羊の首と密着し、固定される。次に美鈴は、自分の左肩を羊の喉元にあてがい、体重をかけた。羊の首は、羊の左肩と、地面と、美鈴の左肩の3点に挟まれて、締め上げられた。美鈴の両腕は羊の体にたすき掛けをするようにがっちりとクラッチされていた。ボンフルーチョーク。美鈴が隠し持っていた奥の手であった。
(苦しい!もうだめだ、ギロチンを極めるのはひとまず諦めよう。美鈴の首に巻き付けている左腕を抜いて…抜けない!美鈴が自分の両腕をたすき掛けにクラッチしているところに、私の左腕も巻き込まれて…い…る…)
美鈴はなおも詰めの手を緩めない。自分の脚から羊の脚をふりほどいて、羊の横たわる左側に両脚を着地した。これでさらに全体重が羊の喉元にかかることになる。
羊は薄れゆく意識の中で、本能的に目潰しをしようとした。だが美鈴の顔は今、自分の左腋の下を通っている。自分の背中側にあるものを、自分の指でかきむしることは出来なかった。
カン!
ゴングの音とともに、レフェリーが右手で美鈴、左手で羊をポンポンと叩いた。
(あぁ、この針の筵のようだった不可解な試合も、とうとう私の勝ちで終わることができた…)
そんな美鈴の安堵の気持ちに冷や水をかけるような一言が、レフェリーから告げられた。
「タイムアップ!判定が出るまでコーナーで待機して。」
「いや、私の勝ちでしょ。その子、落ちたわよ。」
美鈴が指さした先には、脚がピーンと伸びて、両手をキョンシーのように持ち上げて横たわっている羊の姿があった。羊のセコンドたちが駆け寄り、羊の頬を叩いたり、脚を高く持ち上げて頭に血を送ったりして、なんとか意識を取り戻させると、羊は両腕をセコンドの肩にもたれかけ、足を引きずりながら歩いてなんとかコーナーの椅子へと戻っていった。
パチパチパチ…
観客席からは、死闘を演じた二人に対する拍手が沸き起こった。9割ほどの客は、1ラウンドから3ラウンドを通して目まぐるしく展開された攻防に感動して拍手を送っていたが、
「試合終了直前に、もう羊は失神していたのだから、美鈴の一本勝ちでは?」
と首をかしげる目の肥えたファンもいた。
“判定の結果をお伝えいたします。ジャッジ劉、29対28…”
(ホッ。29点ということは、レッドカードをもらった時の減点1だけで、なんとか判定は私が取ったようね。試合の途中で、もしかしたら判定にもつれ込んだら問答無用で負けにされるのかという疑いが頭をよぎったけど、さすがに杞憂だったか…。でも2ラウンドのダウンと3ラウンドのチョークで少なくとも2点リードしてないとおかしいから、やっぱり羊寄りの判定だけど。)
“…羊! ジャッジ黄、28対28、ドロー! ジャッジ呂、30対28、羊! 以上、判定2対0をもちまして、勝者、羊!”
「ヤバいだろ!!」
美鈴の口から、思わずこんな言葉が飛び出た。その時の美鈴の表情はというと、下顎は力なく落ち、鼻の下の人中は長く伸び、眉毛は眼球のはるか上に押し上げられてハの字になっていた。美人の顔も台無しである。心のどこかで、判定だけはちゃんとやってくれるという期待があった。自分が思っていたより世の中は汚いものでもなく、捨てたものではないと思いたかった。しかし現実は、自分が思い描いた嫌な予感がそっくりそのまま的中したのである。このときの美鈴の心境には誰でも心あたりがあるだろう。人は全く予期しない不幸に逢ったときには、意外と前を向いてがんばれる。しかし、自分が予期していた不幸が非常に高い解像度で本当に現実に起こったときの失望感は、その比ではないのである。その心境を如実に表現した変顔のまま、美鈴はキョロキョロと周りを見渡すと、レフェリーは羊の片手を高々と掲げ、羊は泣き崩れた。勝利者トロフィーを渡すためにリングに入ってきたラウンドガールや、客席前列で見ていた客も、もらい泣きをしているのか、指で目元をぬぐったり、洟をすすったりしている。
(オイオイオイ、なに感動物語みたいな空気になってんの?そうか…遠くから観るファンは、リング上で何が起こっているのか、どんな細かい反則や不可解なレフェリングがあったのかなんてわからない。ファンは理解できるのは、試合を遠景として観たその輪郭だけなのだ。今の試合の輪郭とは、デビュー3戦目の若い羊が、タイトルマッチ目前の実力者、紅美鈴を激闘の末見事に下したというドラマだ。反則や贔屓判定を指摘するものは、ドラマに水を差す無粋な逆張り者としか扱われないんだ…)
実際、美鈴の思ったことは正しかった。
観客「ニューヒーロー誕生だ!」「めっちゃ感動したわ。明日から俺もがんばろう!」
そんな大多数の声に混じって、「この試合、いくつかおかしな点があるよ。1ラウンド終了時に美鈴は何か抗議をしていたようだし、2ラウンドに極めかけた裸締めを羊が脱出したときも、急に美鈴が手を緩めたように見えた。何よりも…」こう早口でまくしたてる格闘技通の声は、
「推しが負けたからってグチグチいうなよ!男らしくない!」
という声に、封殺されてしまった。リング上はというと、ファンから祝福されながら花道を帰っていく羊に対し、美鈴は椅子を蹴り飛ばし、マウスピースをマットに投げ捨て、レフェリーを突き飛ばしていた。客席からはブーイングが巻き起こり、美鈴は客席に向かって耳に手を当てて「なになに?聞こえませーん」のポーズをしてみせて煽り、続いて中指を立てた。飲み物のコップや応援グッズの類がリングに向かって投げつけられ、そのなかのいくつかは金網を越えて美鈴の足元へと転がっていった。美鈴が控室に戻ったあとに試合後インタビューが記者によって行われた。羊は病院に直行したために勝利者インタビューは行われず、記事を作るためには敗者の弁を充実させておきたいという気持ちが記者にはあった。翌日の新聞には、インタビューで得られた美鈴の言葉がバッチリと載せられていた。
〇月〇日、文々〇新聞スポーツ欄より抜粋
「試合は判定で負けたことにされたけど、試合後の羊の様子を見てよ。ボロ雑巾みたいにされて、病院に直行だったじゃないの。私はピンピンしてるわよ。いったい勝ったのはどっちなんだって。」
「ジャッジは格闘技を勉強したほうがいい。」
写真は脚をピーンと伸ばして、腕をキョンシーのように上げて、試合終了直後の羊の真似をしながら話す美鈴。インタビュー中にはテーブルの上に置かれた協賛企業提供の栄養ドリンクを指して、「こんなもん飲むな!水を飲め!」と叫ぶ一幕もあった。
美鈴はその記事を読み終わると、クスクスと笑いながらテーブルの上に新聞を置いた。
涼しく、清々しい朝だった。美鈴は自室で茶をすすりながら、物思いにふけっていた。格闘技に限らず他の職業、例えば百姓が仕事を続けるモチベーションは、百姓一人一人によって違うだろう。ある人は、儲けのよく出る作物を選んで作り、大きな収益を出すことに喜びを見出す。またある人は、村の百姓仲間たちとの絆、ふれあいに価値を見出す。仕事中に田舎道で百姓仲間と顔を合わせるたびに、笑顔で再開を祝い、立ち話に30分も1時間も花を咲かせたり、仕事上がりに酒を持ち寄って飲み会をしたり。そういった仕事を通じたコミュニケーションの充実に喜びを見出す。またある人はのんびりしたニート気質で、先祖から受け継いだ農地をそのまま受け継いで、最低限の働きで生きていけることが気に入っている人もいるだろう。でもそんな百姓の中でも、もっとも純度の高い動機は、単純に土いじりが好き、動物や植物が好き、鍬やスコップを振るって力仕事をするのがちっとも憂鬱な重労働に感じず、青空の下のエクササイズをしながらなぜかお金まで入ってくる…そんな境地にいる人だろう。
昨日の試合の負けを持って、私のタイトルマッチの話は消えるだろう。下積みから昨日までコツコツとこの業界でやってきて、チャンピオンとなってその苦労が花開く。そんなキャリア形成というモチベーションは、達成されることなく瓦解した。昨日の試合後に、リング上で判定負けの裁定を聞いた後の、私の不貞腐れた態度。そしてインタビューでの、敗者らしからぬ潔さを欠いた粗暴なふるまい。これを見たファンは呆れてしまって私からすっかり離れるだろうし、格闘技界隈にももう私の居場所はないだろう。これで、仕事を通じた人とのつながりを作るというモチベーションも、私の手から離れて行った。それなのに、この幸せな気持ちは何だ?この、自分を一点の曇りもなく全て肯定している気持ちは?それはきっと、格闘技をやるうえでの究極の喜び、人を壊す喜びと言いたいことを全て言う喜びを味わったからなのだ。2ラウンドに決めた左のクロスカウンター。あぁ!気持ちよかった!試合終了間際の、とっておきのボンフルーチョーク…抵抗していた相手の力が、自分の懐の中で弱り、死んでいくあの感覚!美鈴は数ある格闘技術の中でも特に首を絞める技が好きなのだが、それは手足の長い自分の体型の利を活かした技術であるからという合理的な理由だけではないと確信した。相手の死を、最も間近で観察し、触れ合い、味わえるからだ。臨床医は死に臨む末期の患者を看取るとき、脈拍や呼吸といったバイタルサインが徐々に弱っていく様子に、日常的に接している。でもそれはあくまで、外部的な視点からの数値の認識だ。分析だ。私のように、死につつある相手と体を密着させることで身を共にして、相手の死をじっくりと自分も体験した後に、自分だけがのこのこと現世に帰っていくような濃密な直観は、私のように締め技の達人でなければ味わえないことだろう。
同時に、格闘技をやるうえでの究極の喜びがこのようなものであれば、その再現に人生を費やす必要も感じられなかった。一度登頂した山に2度登る必要はないという結論に達した登山家を誰が責められるだろう?美鈴は格闘技を辞めるにあたって何の未練もなかったが、もしこの、相手を制圧し破壊する純粋な喜びを味わわずして辞めていたら、同じように未練なく辞められていたのかどうかは自信がなかった。こうして紅美鈴は格闘家を辞め、紅魔館で働くようになって今に至るのである。
次作も期待しています!
とても面白かったです。欲を言うならば蘭珠のその後も少し読んでみたいと思いました。
最初から最後までやりたい放題ですがすがしかったです