***
そこでは決まった時間に飯が来た。こちらの気分が考慮されることはない。いつからそうだったのだろう。もしかしたら初めからだったのかもしれない。屋敷の一室で、そこを出ることは許されていなかった。
おそらく屋敷の主人ではなかった。あどけない感じの。少女と言っていい年齢の人間が私を支配していた。私は本当にかわいがられていた。何を引っ搔いても、何を落っことしてぶちこわしても、一度も折檻を受けたことはない。
人間に寄り縋ると暖かくて居心地がよいので、近づいてみると大抵、勘違いされる。つまり、撫でてくる。抱っこをしてくる。うざったいので噛みついてやって逃げるのだが、あらあら、と言った感じで、やつは全く堪えない。
いかなる自由も許されてはいなかった。例えば、私がその日気は進まず、飯を食わなかったとする。するとやつは騒ぎ立て、なにやら別の建物に連れていかれる。苦くて甘くて香ばしい、ほかの場所では絶対にすることがない香りのする、忌々しいあの建物。そして針で刺される。次の日には、なんだか知らないが無理矢理に元気になっている。飯を喰う気概も戻っている。
私はあれが本当に嫌いだ。体調がよくないのも食欲がないのもこっちの勝手だろうがと言わせていただきたい。どうしてやつの心配などに合わせてやらなければならないのか。
逆に、どれだけ私が何かを喰いたい、本当になんでもいいから喰いたいと思っても、それが定刻でなければ絶対に飯は出てこない。やつが部屋にいる間ずっと、頭よおかしくなりなさいと願いながら大声で鳴いてみても出てくることはない。絶対だ。もう、絶対に絶対なのだ。飯は朝と夜に出てくる。それだけだ。出てこないことはないし、逆に多めに出ることもない。
それに、ここは暇で暇で仕方がない。暇をつぶしたければ何をどうしたって、やつに構う必要が出てくる。やつは何処からともなく、俊敏に動く獲物を召喚する術があるので、私はそれを捕まえて遊ぶ。すぐに飽きる。それはやつの手に合わせただけの、単調な動きしかしないのだ。
私がうまく獲物を捕らえたところで、それは食べられはしないのだという事実も、眉間にしわが寄ってうんざりする。なぜならそれは口に入れてみると単なる毛や羽の塊にすぎないからだ。極めつけは、じょうずだね~などとのたまいながら、やつが頬を摺り寄せて来る。私はそれが一番いやだ。鼓膜を破壊してやろうと渾身の大声を何度もぶつけてやったのだが、効果がありそうではなかった。
まれに、部屋の中を大物の虫が這いまわっているのを見つけて、それを追いかけまわしぶち殺すことは何物にも代えがたい悦楽がある。いつもはそれをたまのおやつとして喰ってやるのだが、それはシャリシャリもちゃもちゃとしていて実に美味なのだが、たまには分けてやっても好かろうと思って、やつの目の前にそれを置いてやったことがある。
やつは大喜びしてそれを喰うべきだったのだが、実際は金切り声を上げて逃げ出した。少ししたら大きな男が数人やってきて、虫を奪っていきやがった。どういう了見なのかと思った。道理が通らない。やつは私の前にいる時を除いていつも毅然としていた。常に何か紙束の相手をしていたし、代わる代わる男が訪ねてきて、お互い神妙な顔で話し合ったりもしていた。あのような無様な声を上げることはまずなかった。恨みもあって、あの馬鹿丸出しの顔と声はよく覚えている。
あと、あれが嫌だ。つるつるとした部屋へ連れていかれて、ぬるま湯に全身を漬からされて、そして泡の出る石で私を真っ白になるまでこすりまくる、あれだ。理解できない。不届きだ。あんなこと許してはいけない。
とはいえ、ひたすら鳴いてみたり、噛みついたり、引っ掻いたりしてやっていると、月日の経つ毎、私が何を望んでいるのかとだんだん理解はしてくるようだった。そして気付けば、奴はもう少女ではなく女になっていた。
気分によっては抱かれてやることもある。尻を撫でさせてやったりもする。最近になるほど、やつは私を愛撫するのがうまい。再三やってきた調教の成果が出たと言えた。どうにかこうにか、私はここを自分のすみかに相応しいと言い訳してやっても、まあよいくらいにはなったかもしれないと、最近やっと感じてきていたのだ。
***
ところでしょせん、私を止められるものはなかった。それは私自身にも、という意味で。ある日逃げることを決めた。理由はわからなかったが、逃げようと決めたら逃げたい理由はいつでもいっぱいあったのだ。部屋には大きな窓があったが、その窓の近くには丁度いい高さの机などがあったりはしない。私がそこから逃げると思っていたのだろう。やつはその窓を開けたりすることもあまりなかった。
私はその機会がやってくるのを待つことにした。本当は直ぐにでも逃げたかったが、一度逃げるのに失敗すると「こいつは逃げようとする」と覚えられてしまう。人間は一度起こったことを防ぐ動きをする生き物だ。であるなら、最も確率の高い時を待ち続けたほうがよい。できれば、万が一失敗したとしても「逃げようとしたわけではない」という心象があれば尚よい。
残念ながらそこまで頭のいい策が考え付いたわけでは無かったし、死ぬまでその機会が訪れないことも十分に考えられた。しかし、私の頭の出来の悪さを差し引いても、この部屋の中で出来ることというのは殊更限られていると思われた。やつは実際神経質な女だ。私がとっちらかすことに対しおおらかで目くじらこそ立てないが、やたらとよく片付いた部屋を好むように見受けられた。寝具と本棚があるだけの。
そして、とうとうその日がやってきた。それは私がここから逃げる決意をして、実に百幾夜もあとのことだった。正直その間に、何度かは逃げる気も失せていたりしたのだが、結局の処、逃げようという時にその機会が巡ってきた格好になった。
その日は窓の外に黄色い蝶が近づいてきて、私はそれを飛び上がりながらぶち殺そうとしていた。当然、窓に隔てられてそれは叶わない。やつが私の目当てがなんなのかを知ると、あら~などと言いながら窓を開けた。
私はその瞬間、やつの背中を駆け上って窓の外へ飛び込んだ。ちょうど顔のあたりに蝶が飛び込んできたので、ばくりと喰ってやった。草の上に着地した。初めての感覚かもしれなかった。すべてがうまくいっていた。
そのまま全速力で屋敷から離れた。やつが私を呼んでいるのが聞こえた。いままで聞いたことのないような必死そうな声だった。おそらく、この声を忘れることはない。或いはそれは嘘で、すぐに忘れる。
そして逃げおおせた。とっくに屋敷が見えなくなってからも、ずいぶん長いこと走っていたような気がするのだが、全く疲れてはいなかった。こんなにもうまくいくと思ってはいなかったが、そうやって、これで気ままに生きていけると思った。この時、私は猫としてはとっくに老いぼれだった。
しかしそれでも、私は外の空気を吸って空を見上げると、これまでになく、体中いっぱいに力がみなぎるのを感じていた。その時から、宙に浮けよと思えば浮くくらいのことはできた。やろうと思えば、あの途轍もない速さで目の前を駆け抜けていった馬車だって力づくで止められるだろうなと確信していた。
窓越しにじゃない。夕焼けを全身に浴びたのは、もしかしたら生涯で初めてだったのかもしれなかった。これができるだけで、今まで我慢して生きてきたのも多少報われてやってもいいだろうという、いい気分になった。
***
数十年気ままに過ごしていたある日、何やら「くぐった」感覚がした。膜を突き破って、今まで居たところとは違うどこかへ来てしまった感じがした。また、戻ることがそう簡単でないのだろう、ということも直感した。確かに私は最近、ちょうど今の寝床に飽きてきて、そろそろこの山もいいかなという感じはしていたが、もう数日はそこで眠ると思っていたので、気分を壊されて憤慨した。
手塩にかけて完全に自分の縄張りに育て上げた山をひょいと取り上げられて、それでもブチ切れない動物が居ると言うならこの目で見てみたいものだ。寝床から暫く歩くと穴ぼこが在って、そこに住んでいたリスの家族を、年を喰った奴からぶち殺して喰うのが本当に好きだった。期間を空けると同じような数に戻っているのが愉快で仕方なかったものだ。自分で棄てるのはよいが、奪われるのはとんと我慢ならない。これを私にした何かがいるなら、そいつは絶対に殺して喰おうと決めた。
ここは、ざっと歩いてみた感じ、控えめに言っても本当に嫌なところだ。不躾な捕食者の臭いがいっぱいする。自分以外に血生臭い感じがするというのは、気色悪くてクソみたいな気分にさせられる。しかし、うまそうな木の実がいっぱい生えている処は気に入った。それを喰って生きている虫たちも丸々と太っていて、どいつもこいつもうまそうだ。
それに、先ほどから力が湧いてくる。あの屋敷から逃げた時のように情緒的なことじゃない。もっと身も蓋もない。いままで自分が生きていた処はきっと空気がすごくすごく薄くて、それで体が自由に動かなかったのだろうと確信するような、そのような感覚だった。
ずっと歩いていると、妙に好戦的で獰猛な狼に遭ったので殺した。ちくりと妖力を感じたので、きっとこいつは何かの手下だったのだろうと、喰いながら思った。味は甘くてうまかった。狼ごときがこんな風に襲ってきてくれるのなら、もうずっとここで寝ていたって、口の中に勝手に飯が入ってくるのと変わらないなと思った。
食後、べちゃべちゃになった口周りからしっぽまで順番に、丁寧に舌でこそぎ取って繕い、毛玉を吐いて綺麗になると、世界の支配者になったように気分がよいのでいつもそうしている。
決めた。この山に棲もう。狼を殺したので、この親玉にとって、私は縄張りを侵した不届き者である。適当に暮らしていれば、向こうから顔を出してくれるはずだったので、ひとまずこうだと欠伸をかまして寝た。
***
何匹目かも忘れたが、今日も狼を殺した。本当に、ちょっと私より大きな体をしている程度のことでいきりちらして、次の息を吸うまでの間に私に喉笛かみちぎられて、うまく呼吸ができず口から間抜けな音と血泡を吐いて死ぬっていうやつを、何度も何度もやっている。懲りたらどうなんだと思うが、私からすれば辟易だとしても、狼どもからすれば毎度初めての経験なのであって、仕方がないとも言えた。
最初は新鮮だったが、味も大してうまくないし飽きた。命を奪って自分のものにするという営みはもっと大きな輝きの中で行われいてほしい。このような倦怠の坩堝の中ではなく。そもそもこの山は狼が多すぎる。狼というのは、こんなにものさばる生き物だっただろうか。土をこねて、はい、狼できましたーと毎日やっている輩が何処かに居るのではないかと邪推したくなってくる。
そのようなだらだらとした気分で毛繕いに取り掛かろうとすると、その辺の茶色い石ころと勘違いしていたものが動き出して私へ礼を言ってきた。雀だ。妙に麗しいというか、扇情的な仕草が特徴の。どうも私が散歩の途中で出くわしたあの狼は、直前にこの雀を殺そうとしていたようだ。狼に殺される鳥なんて間抜けだと思ったが、翼を怪我していた。間抜けに思う理由が変わっただけだ。
しかしこの雀、重ね重ね間抜けだ。私はこいつを助けたわけではないし、己が弱っている以上新たな捕食者になりうる私に話しかけるなどといった愚かな行為はしてはならないはずだ。私は雀が好きだし。ほとんど骨だらけなのだが、それをかみ砕いて咀嚼するのが気分良くて。少なくとも狼などより余程ごちそうだ。
それで、口直しになるだろうなと大口を開けて見せたら、わあと声を上げて飛びのいて、それから私の視界がなくなった。狼狽えていると雀が笑いながら、貴方は今私のことを間抜けだと思っていたでしょうと言った。私は弄ぶのは好きだが、弄ばれるのは我慢ならない。
舐めるな。眼で見えないならば鼻で追うだけだと叫んでみたが、雀は続いて私をなだめすかした。どうも、こいつのこの声は調子が狂う。どんな気分で盛り上がろうとしても、無理矢理に落ち着いてしまうような魔力がある。逆に、こいつが盛り上がりなさいと囃し立てればきっと私は言われるままに踊り狂うのだろうと思われるような、そんな魅力的な声だったのだ。
「ずっと見ていたのよ。あなたって言葉が通じるらしいのに、ずっとただの猫みたいに生活し続けるものだから、面白くて」
「猫なんだから言葉くらい通じるさ。普通のことだろ」
こいつの言い分を聞くことには、妖力を得ることも、言葉を喋るのも普通ではないということだった。そういえば、この山に来てからというもの、言葉の通じるものはずいぶん多い。先程の狼にしたってそうだ。長ったらしく脅しの言葉を並べ立て、私を恐怖の色に染めてやろうと頑張っていた。意思の疎通が完璧にできるようになった相手を喰っているというのは、今までとはどこか違う感覚がある。
雀は続けた。それは所謂「人間性の獲得」というものらしかった。それを皮切りに、ただの動物だったころとは違うものを欲して、その為に生きるようになるものが多いのだという。欲。やりたいこと。私の認識している処の、この縄張りの親玉もその例に漏れないようで、そいつは支配欲の皮がつっぱりまくった暴君だと説明された。
「どうでもいいことをつらつら並べ立てるな。私は好きな時に好きな場所で喰って寝れればいいんだ。私はこのあたりが好きで、邪魔なやつは取って喰う。お前は襲ってくるつもりもなくて、喰わせてもくれないなら興味ないからどっかいけ」
「いやよ。だってあなたはこのまま行けば狼の頭と戦うでしょう。そうしたら、どっちかは死んで、もしかしたらそのどっちかっていうのが狼の方で、あなたがこの山の主になるのかもしれないのよ」
「知らん。その……何? なんとかが襲ってくるというなら殺す。でも主とかいうのはやらないし、ここが飽きたら違うところに行く」
だからぁ、そういうわけにはいかないんだってば、と雀はわざとらしく呆れて見せた。この雀の声が魅力的な程度では我慢ならないくらい、私はいらいらしてきていた。毛繕いもできないまま喋り始めたので、口周りの血が乾き始めているじゃないか。このまま放っておいたら私の誇り高い毛並みがゴワゴワのガビガビになってしまう。
「責任があるのよ。あなたは力があるし。狼と比べてどっちが上かはわからないけれど。それ以外だったらこの山じゃ一番だと思うわ」
「知らないって言ってるんだ。いや、責任か。その言葉は知ってる。人間がよく口にしてた。そんなのは人間たち全体にとって有益だからあるだけの言葉だ。私には関係がない」
「だって、もうただの猫じゃないわ。あなたは妖怪になっちゃったのよ。人間と同じ言葉を喋って、そして、そんなのがいっぱい住んでるここにいる。そうなったらもう、責任という言葉からは逃げられなくなっちゃったんですからね」
「うるさい!もううんざりだ。だったらもうこの山から出ていって、妖怪だのが何にもいないところを探してやるよ。気に入った場所だったけれど、この際仕方ないね。お前みたいなのにずっと纏わりつかれるのと比べればまだましだから」
「そんな処、ここにはないよ。幻想郷の山々はどこも妖怪でいっぱいなんだから」
「げん、なんだって? 雀、お前の言うことはさっきからさっぱりわからない」
「幻想郷。ここ、幻想郷っていうのよ」
「動物が場所を名前なんかで呼ぶな!」
「だめよ。そういうのはちょっとずつ勉強していきましょうね。私が面倒見てあげるから」
そのあと、雀は自分を雀と呼ばれることを嫌がった。自分にはミスティア・ローレライという名前があるのだと胸を張った。いい加減にしろと怒鳴る寸前のところで、雀は口の中からおもむろに蛍を取り出したので面食らった。そいつは雀の友達であり、リグル・ナイトバグと名付けたという。まだ言葉を操るほどの妖力がないが、光のぐあいで意思の疎通を図れるのだと言っていた。
何を言っても無駄だと思った私は雀を無視して毛繕いを始めた。やっぱりだ。時間を空けてしまったのでいつもより手間取る。何も良いことがない。信じられないくらい腹立たしい。しかし、雀は辛抱強くあやすような言葉づかいで私に話しかけ続け、とうとう結局、しばらくして落ち着いてしまった。
***
そうやって何日か、雀と過ごした。雀にはいくらか知り合いがいたが、それらは凡そ、この山におけるはぐれものだった。つまり、狼の支配をいやがり、かといって他に縄張りのあてもなく、そして革命する甲斐性も力もない。その場その場で抵抗や逃亡を繰り返してどうにかこうにか生きている。弱いやつっていうのは同じような生き方をする。幻想郷の外でも中でも。
その内多くは私に対して怯えや不信をたたえた。そんな木っ端どもの中にも、印象に残ったやつも何匹かいた。鼬(いたち)はかまいたちの末っ子で、上二人は狼に喰われたと言っていた。人型化に成功していて、私が来る前まではぐれの中で一番強かったらしい。私が人間態でないのを見て舐めくさった態度をとってきたのでいっぱい蹴った。そのまま喰ってやろうとしたら雀に止められた。
「あんた、いかれてるな」
と鼬は言った。もう一発蹴り入れてやろうとしたが、続けて初対面から非礼だったと詫びを入れてきたので許した。しかし、次に言ったことが、その程度ではたして狼が本当に殺せていたものか怪しいといった旨の不躾な値踏みだったために、やはりいっとう強く蹴り入れた。鼬はおおげさに吹っ飛んで木の幹にぶつかった。それで虫が何匹か降ってきたので、その場にいた連中で食べた。鼬の口には勝手にみのむしが落ちてきていた。
蛇も不遜なやつだった。雀が言うには、はぐれたちが気付かれ辛くなるようにと結界やおまじないをかけてくれている慈悲深い女なのだそうだが、いきなりずるずると不快に私の体中を這いまわってきて殺そうと思った。蛇は気配を覚えるのと、おまじないをかけるのとで、こうすることが都合がいいのだと言った。誰が私におまじないをかけてもいいって許可したというのだろう。やはり殺そうと思った。しかし、私が何かを殺そうとすると、その度に私の視界が奪われるので辟易した。雀が居ない時を狙って一匹ずつ数を減らしていって、最後に雀も背後から喰ってやろうと思った。
翻って、猪はとても利他的だった。雀が私を紹介すると、こちらへおいでと先導して、木の実がいっぱい生えている場所を教えてきた。狼にも見つかっていない穴場だという。甘い香りがしてきて、胃袋がいっぱいに濡れたのを感じてたまらなくなった。猪はなくなってしまわない程度に、少しずつ食べなさいと言った。私が鼻をならすと、雀はお礼くらい言いなさいと私を何回かひっぱたいた。私はこの何日かで、すでに数十発はこれをもらっていたので、最初のうちはいちいち腹を立てていたが、今に至ってはなんとも気にしなくなっていた。
木の実を食べていると蛍が大きく光って面食らった。なるべく凶暴さが伝わるように喉をならして抗議してみたが、雀は狼が近づいてきていることを知らせてくれたのだと言った。さっきここは見つかっていない場所と言っていたばかりなのに、これか。とあくびをした。猪が少しまっていなさい、と言ってその場を離れしばらくすると、地面が揺れて大きな音がした。戻ってきた猪は血を浴びていたので、ああ、狼を殺したんだなあ、と思った。そして、ここが見つかっていないのは、近づいた狼が全部猪に殺されちゃうからなのよ、と雀が説明した。
どうも、雑魚と小競り合いをする程度なら難なくこなせる者も少しは居るようで、そんなに悲惨な状況ではなかったようだなと合点した。甘いものを食べたので口直しに狼の死体をつまむかと思い、猪の付けた血の跡を追うと、岸壁に赤いシミがこびりついていた。こんなにしてしまったら食べるところがない。あの体で突っ込まれたら大体の生き物はこうなるのだなと思った。情緒がない。
お前らでは全く狼の頭に敵わないのかと確認すると、そうなのよ、と雀が笑った。続いて、びびっちゃった? と聞いてきたので殴ろうとしたら、蛍が激しく光って目が眩んだ。この野郎!と叫ぶと、続いて目の前が真っ暗になった。悪かったからもうやめろと言うとケラケラ笑っている声が聞こえた。忌々しい事実だが、私はずっとこんな調子でいいように遊ばれている。この二匹の悪戯好きには、もうずっとぐったりしていた。
ここにくるまで、私以外に妖怪というものと出会ったことがなかった。あまり開け広げに言いたいことではないが、人間は猫を管理下に置く生き物であり、だからと言って媚びへつらったことは一度もないとはいえ、その位は私の上にあったという言い方もできる。そして、同じ動物で私に並ぶものはなかった。しかしここにはそういうのが沢山いる。戸惑いがずっとある。私は傍若無人に振る舞いきることのできない環境にどう適応したものかがまだわかっていない。
なので、さっきも述べたように、ずっとぐったりしている、なんだか元気が沸かない。自分以外には何もなく、当然会話を交わす相手もない。聞くことのある声と言えば私に喰われるものの断末魔のみで、それごと血肉を飲み込むと魔王のように気分がよかった。私は残虐に何かを殺すことが好きなわけではない。強いて、ならばそれの何が気分良かったのかということについて、うまく説明はできない。
それが、今はない。「つながり」だ。今の私はたぶん「つながり」というものの中に置かれつつある。それはこの雀によって。寂しいような、うざったいような、欲求が満たされず不満が溜まっていくような、そのような状態にも関わらず事象が不躾に次々と降りかかってくるのを、すべて眠って忘れてしまいたいような、そういう状態にいる。
変化を嫌っているわけではない。だがそれはいつも私が変化を起こす側に立っていたからだ。決して、周囲の激動に流し揉まれることではなく。
あの館に生きていた時のことを思い返してみれば、確かに私はその頃、己が何かを変化させる権利に乏しくはあった。しかしもう、ずいぶん昔のことだ。館を出てからの時間の方がずっと長かった。
岸壁の赤いシミを見つめながらそのように呆けていると、雀が私の前に立って見上げてきた。首を傾げ、怒っちゃったの、とわざとらしく声をうわずらせている。蛍も蛍で、照らす灯りが弱弱しかった。なにか殊勝に思うことがあったのかもしれない。私はうるさいと答えた。私はこの「対等」というものについて、もうすこし考えを巡らせる必要があったのだ。
***
雀は様々なことを私に聞かせた。この小さな山々は幻想郷の中でも端っこの方で、所謂「お山の大将」だとか「井の中の蛙」という生き方を選んだ木っ端妖怪が幅を利かせるしょうもない場所だとか、そのため余りにも情勢が穏やかでない時には管理者とかいうのが調整をしにやって来るらしいとか、幻想郷で「山」といったら本来は「妖怪の山」という大きな山を指していることが大半であり、そこには神々やら大妖怪やらが秩序立って生活しているだとか、そういうことをだ。
こういった話を聞いていると、雀が三回口を開いた頃にはもう眠くなっている。近頃は具合の良い木陰などを見つけるとそこに陣取り、雀に何かお勉強の話をしろと強請るくらいに適応してしまった。雀は子守歌じゃないと叫んで私の顔に翼をぶつけた。そんなことはない、お勉強がしたい、私に責任の何たるかを教えてくれるのではなかったかと言っていると、最後には折れるのである。そして私はすぐに寝る。雀は怒る。雀が翼をぶつけると、それは私にとって丁度愛撫のように心地がいい。
「この山の前の主はさあ、管理者に調伏されちゃったのよね。やりすぎてさ。この山の周りの山からいっぱい略奪して、それでこの山を豊かにしてたの。でもそんなこと許してたら戦いが大きくなっていって、その内幻想郷全体が巻き込まれて包まれちゃうでしょう。それでね」
「調伏っていうのは、なにをされるんだ」
「さあ。でも、とりあえず、ここからはいなくなっちゃったわね。殺されるわけじゃないらしいって話は聞いたことあるけど」
それで、今の狼が主になったわ。狼は先の主の切り込み隊長のようなことをやっていたのだけれど。それは充実していたみたいね。そういうのが上手かったからね、その、なんていうのかしら、采配っていうのが、先の主はね。でも、狼に主は向いてなかった。自ら肉を引き裂けない鬱憤を支配欲で満たすようになったんだと思うわ。あの狼の悍ましいのは、他の生き物を……。私はこの辺りで寝た。
雀が私のことを気に入らないのは、寝てしまう割には、きちんと聞かされたことを覚えているということだった。覚えてないよりはよい筈なのだが、なんだか鼻持ちならない感じでむかつくのだそうだ。ちょうどかわいくない感じの手のかからなさで。雀は誰かを世話していないと死ぬ生き物なのかもしれない。
「私、つてづてに聞いて、気に入ってる言葉があるの。パンとサーカスっていうんだけど」
「パンとサーカス?」
「そう。食べ物と、楽しいことって意味」
「それがなんだって?」
「えっと、よく知らないけれど、パンとサーカスがあれば、みんな納得してくれるって意味らしいわよ。だから、あなたにはパンとサーカスをくれる主になってくれたらいいなって」
「主にはならない。でも、確かにそれはいい。私がやってきたことそのものだ」
パンとサーカスか。食べ物と、楽しいこと。しかし、雀の言っていることはなんだか勝手な気がした。これまで雀は色んな話を聞かせてきたが、それは、自分ではない違う何かから奪って手に入れるものなのだ。きっと、雀の言うところの先の主だって、そうやってそれを自分の山のものどもへと与えていた。それが「もっと大きな何か」にはそぐわなかったために、先の主はいなくなってしまったのだ。
雀は私にそれになれと言っている。それを勝手気ままな話だと思うことには、これといった矛盾がないように思える。しかし、私がそれを口に出すことはなかった。何故なら子守歌にうんうんと言って相槌を打つくらいの気持ちはあっても、意見を戦わせようなどという気は微塵もなかったからだ。
パンとサーカス。パンとサーカス。食べ物と、楽しいこと。確かに、それだけあれば何もいらない。しかし、それを自分のみでなく共同体に広げようとすると、やはりその分話は大きくややこしくなるのだ。それを得るには、それよりも「もっと大きな何か」に目を向けなければならない。
それにそもそも、そんなものは、自分でない何かからただ与えられるだけのモノじゃない。そうだったとすれば、そいつらはきっと只の虚けだ。腑抜けだ。もし与えられているとすれば、それが与えてる方にとって得だからそうするのであって、それに気付いていないということは、間抜けだ。
食べ物と、楽しいこと。途端に、皮肉めいた言葉に思えてきた。しかし、それがあれば大抵満足なのも確かだ。要は、食べ物と、楽しいこと以外にはどんなことがあるのか、それを誰もが考えるべきではないか? ということなのだろう。パンとサーカス。食べ物と、楽しいこと。そしてそれ以外のすべて。
いや、いや。待てよ。雀がその程度のことを見落として私に話すだろうか? そろそろ、私のこの怠惰な態度に対してなんらかの策を打つ頃ではないかと思っていた。実際は、このように私が考えを巡らせることを、雀は望んでいるに違いない。自主的な成熟を目論んでいるのだ。思うつぼだ。忌々しい。そのように思って微睡んでいた眼を開き雀の方を見ると、私の怪訝な様子を目ざとく見抜いたのかどうか、定かではないがきょとんとしていた。
私は気付かれないよう慎重に、それでいて素早く、しっぽで以って雀をはじきたたいた。雀はきゃあと悲鳴をあげてふっとんだ。そのあと怒りまくって、ずっとぴーちくぱーちく鳴いていた。
私たちがなじりあっているのを、蛍と蛇が向かい合って見ていた。その視線が生ぬるい泥濘のようで、不愉快さに自分の顔が歪むのを感じた。蛍は私のそんな怪訝を見透かしたかのように何度か光って、それを見た蛇の方もくすくすと笑っていた。
***
隣山は隣山で、いけ好かない野郎が牛耳っていたのだと鼬が愚痴った。曰く、そこでの暮らしが気に入らずこの山にきて、それでもこっちはこっちで狼と折り合いがつかず、戦ってみたら身内を殺され己だけが生き残ったという経緯だったようだ。
そして、その話の続きで、隣山の「いけ好かない野郎」は最近殺されたのだという。大きな熊が縄張りにやってきて、追い払おうとしたらそのまま喰われたらしい。熊はそのまま山に居ついて、どんなものも食い荒らしているのだという。鼬はそれに関して、口ではざまあみろと言っていたが、実際のところはどうにもつまらなそうな様子であった。そりゃあ、本音を言えば気に入らない奴は己の手でもって殺したかろうな、と私は思った。
なぜこのような話をじっと聞いてやっているのかというと、鼬は大けがをしていた。狼と鉢合わせてしまって、雑魚が三匹程度だったので鼬でもなんとかなったのだが、とはいえそれで得た名誉も大きかったようである。倒れていた鼬を見かけた雀が、猪を連れてくるから鼬を見ていろと言ったので、このように律儀に待ってやっている。自らも翼を怪我しているので、雀のくせに走り去っていくその様を滑稽とあざ笑うつもりだったのに、見慣れ過ぎてなんとも思わなかった。
正確な表現で言うと、鼬に外傷はなく、ただ憔悴していた。鼬は特製の薬を持っていて、これを塗るとどんな傷でもたちどころに治った。兄弟に逃がされたときも、五体満足とはいかずかなりの深手を負ったのだが、その薬のおかげでなんとかなったのだという。しかし、失った血や体力までもが回復するというわけにはいかないようで、ずっとぐったりしていた。
「これのおかげで俺はしぶとく生き残れてる……でも正直言って、生き残れてる、というのが俺にとって相応しい言い方かはわからない。生き残ったんじゃなくて、俺はまた死に損なったんじゃないか?」
続けて、鼬は雀という存在の煩わしさについて語った。ここ最近、私もなんとなく気付いてきてはいたが、妖怪すべてが秩序立って責任というものを重視するわけでは無く、あの雀が異常に神経質で面倒見がよいというだけの話だった。
自分ではない別の何者かと意見が一致するという経験を、ここで初めてした。あの雀はもし人間のつながりの中に居たとしても疎まれるのではないかと思うくらいに機械的で強靭だ。かと思えば悪戯好きで、妙に朗らかで、当たりが好くて、ものの心に付け入るのがうまい。あれのペースに乗せられてしまっているばかりにこの共同体は成立していると言っていい。しぶしぶの、いやいやだ。
お互い、何か別の誰かとつるむというのが、特段好きな方ではないようだ。違いがあるとすれば、鼬にはかつて兄弟という例外があった。私に関して言えば、つるむのが嫌いというのは実のところ的を射てはおらず、単に度を越して孤独を好んでいたのだ。
「だから、不本意だ。死ぬなら死ぬで、その時だ。放っといてくれりゃいいんだ。それをまたあいつは、猪を呼んで俺を運び去って、介抱してやろうっていうんだろ。勝手な奴だ。許せない。道理が通らない。俺のやりたいことじゃない」
聞けば、雀の翼が怪我をしているのも、信条の違いから言い争った末に鼬がやったものだと言うではないか。鼬は雀を治そうとしたが、雀はそれを受け入れなかったのだという。雀は狼にやられたと言っていた。それに、そんなことがあったと言うのに、鼬が倒れているのを見れば助けようとする。有り体に言って、奇特だ。もう、理解しようなどと言う気はさらさら起きない。
思うと鼬の言っていることは、ほとんどこれまで、私が感じてきた不満事の反復句だった。永い独り言は、そこで終わって、鼬はそれきり黙り込んだ。私が何の相槌も打たずに聞いていたので、一頭べらべらと喋っているのが阿保くさくなったのかもしれない。それでも、おそらく私がちゃんと話を聞いていたことくらいは伝わっていただろう。しかしそれは私にとって在り来たりなことではなく、いずれ特別なことだったと表現してもよいのだが、そこまでを鼬が察したとは流石に考えられない。
そうやってしばらく黙りこくっていると、猪を伴って雀が帰ってきた。雀は私たちに、きちんといい子に、仲良くしていたのかと聞いて、それが質問であったならば本来空けるべきだった間も空けないうちに、何か世間話でもしていればいいのに退屈な連中ね、と嘲ってきた。私と鼬は顔を見合わせて、どちらからともなく鼻を鳴らした。仮に仲良く喋るようなことがあったとしても、それをお前に見せてやる義理はないのだ。雀は我々からの見下し切った目線に、からかわれた子供のような調子でもうと怒った。
雀が怒り出すと、なんだかひと段落した感じがする。終わりの時間を告げる鐘のように、眠たくなってくるのだ。猪が鼬を背負ってのしのしと歩いていくのに便乗することにした。背中に揺られていると、もう、意識を奪い去っていく何か魔の手の者が、風よりも早く私の眼路を覆いつくした。
***
だんだんと思い出してきた。つながってきた。あの女。館で私の世話をさせてやっていたあの女だ。あの女は為政にかかわるものだった。あそこに生きていた時からこれまで、気付いていなかった。あれは人を動かし、地域を管理して生きていた。雀から虐待のようにさんざっぱら受け続けた話が夢の中にまで出て来るようになって、ずっと反芻して身の内に染み込んできていたものだから、唐突に理解できたのだ。
思うにあれは気品だったのかもしれない。優雅と言うべき何かを身に纏っていた。そうか、あれに世話を……いや、私は飼われていた。そうか。理解すると意外と悪くない、誇らしい気分になった。誇らしい。これまで、私がもっとも誇らしいと思っていたのは命を喰らって自分のものにする時だった。それはいつも血の匂いがする。かぐわしくて、愛おしい匂い。
私は戸惑いを表出した。いつものように隠し通して澄まし顔でいることもできないほどに。己ではない誰かが優れていることを、己のことのように誇らしく思うだと? この山へ来てからというもの、こんなことがいくつもいくつもある。雀は色んなことをぺらぺらと喋るが、とどのつまり私にこう思ってほしいのだ。「これはもっと良くならないものか」と。何事に対しても。
そしてもはや、私が雀の話に対してうんざりする振りをすることすらなくなった頃、雀の翼は治った。これで他のみんなの上に乗り過ごす暮らしも終わりか、と名残惜しそうにしていた。私の頭の中には鼬の顔が浮かんだ。私ではないものの憂い事だったが、それはいつのまにか私の憂い事にもなっていた。
もっぱら私の背に乗って、ずっとさえずり続けていた雀が飛び去って行くのを見て、私はもっと惜しむ気持ちがあったり、あるいはせいせいしたりすると思ったのだが、ずいぶん薄情なことに何も感じなかった。しかし、それを薄情と感じること自体、以前の私にはなかったものの筈なのだ。
横を見やると蛍が居た。雀と一緒に行かないのかと尋ねると、人間のいるところで見聞を分けてもらって帰ってくるのが、雀のかつての日課だったらしい。そんなことにまでいちいち付き合うことはないのだという。蛍はだんだんと力を付けてきて、妖力のない虫たちを操ったり、多少大雑把な意思なら相手の心に届けたりすることができるようになっていた。
雀がいなくなって感慨はなくとも、一人自由な時間が増えたことには変わりがない。というより、しばらくして、あいつの話をずっと聞いていたばかりにこれまで本当に疲れていたのだと気付いた。それ以前の自分に比べて、まったくと言っていいほど歩き回らなくなっていたのだ。たまに狼が襲ってくるのを惰性で殺してやっていただけで。
そう自覚すると突然、体がなまりになまっているような、骨という骨が音を立てるような、そんな感覚がした。肉球一つ動かすのも、以前より数段精度が落ちているような気がしてしまう。無論大概は気のせいなのであろうが、何しろ野生というのは刹那の動きが生死を分ける場面が散見された。取り戻すのに苦労しそうだ。
大げさに運動をしながら山の中をうろうろしていると、猪と、周りに狸が何匹かいるのを見つけた。私は本当に以前と比べて分別がついてしまったなとうんざりする事実ではあるが、「はぐれ」とわかると私は喰ってはならないという気持ちになる。
狸はこちらを見ると少しおびえたような顔をしたが、私は知らないふりをした。
「私たちが担ごうという神輿に向かって、そんな態度をするものじゃありませんよ」
猪はそうやって狸たちをたしなめた。それでも狸たちは顔を見合わせて少しの間まごまごしていたが、意を決したように私の元まで寄ってきて、脚に頭を摺り寄せてきた。猪の方を見ると、相手をしてやりなさいとでも言うように、首をくいと上げた。
私は思案して、脚を上げて狸たちの頭を少しずつ撫でてやった。猪は私のそんな様子をみて、まあと意外そうな声を上げた。こいつは私が狸たちを蹴っ飛ばしたりするかもしれないと思っていたのだろうか? 私にはもともと、食べるつもりもない相手を痛めつけるような趣味はないのだ。狸たちは殊の外うれしそうにしていた。
「ふうん、そこまで丸くなったのですね。雀の辛抱強さには参りました。それとも、あなたの元々の気質を見抜いていたのかな」
「何を言ってる、私は……」
最後まで言い終わる前に、蛍が激しく明滅した。覚えている。この光り方は敵対者の来訪を意味していることを。私が気付けないことを怪訝に思って鼬に聞いてみたことがあるが、単に狼たちは気配を消すのがずば抜けてうまいのだと言っていた。蛍は虫たちと連絡を取り合って、近くで動くものを把握しているので正確な索敵ができるのだと。
そのような逡巡に気を取られている間に、猪は蹴り飛ばされて吹っ飛んだ。何をぼさっとしていたのだろう。何をおいても考えごとをする頭へと作り替えられてしまったのだろうか?
狼は三匹いた。そのうち二人は人間態で、猪を蹴ったのは女の方だった。男の方はあと一匹の、一際大きい狼を撫でながら、もう片方の手で蛇を握っていた。蛇は逃げろと叫んだが、その瞬間に頭から喰われた。蛇の叫びと共に狸たちは逃げた。だらんと、長く白い体が、男の手から垂れ下がって、そこから血がばたばたと零れ落ちた。明らかにこいつが親玉だった。
逃げろだと? 逃げろもくそもない。そもそも当初、私は向こうからやってくるのを待っていたのだ。それがこの蛇におまじないをかけられてしまったばかりに、このようなことになったのだ。忌々しいことだ。あいつが今あんな死体を晒しているのはあいつの行いが回ってきた結果なのだ。愚かだ。私はこのようなことを一切気にしない。勝手に死んだのだ。私とは関係がないことだ。
「ずいぶん探したよ。この蛇がお前たちの要だったようだな。まったく、艱苦の至りだった。こんなものにずっと手間取らされてきたというのは」
狼の男は、逃げ出した狸の一匹を目敏く、それでいて素早くとっつかまえた。そしてそれを粘土のようにこねると狼になってしまった。ああ。どれだけ殺してもどこからか湧いてくるのも、返り討ちにして喰ってみてもあんまりおいしくないのも、こういうことだったか。はらからをたくさん殺された割には憤慨した様子がこいつらにないのも頷ける。覚えている。さっきあの中で一番最初に、私に寄ってきた狸だ。男が手をかざすとそれが襲ってきたので喉笛を嚙みちぎって殺した。血の味が口の中に広がった。いつも食べていたのと変わらない、香しい。襲ってきたのだから仕方ない。これまでだって機会がなかっただけで、はぐれの中で襲ってきたやつがいたら同じように殺しただろう。普段の行動原理と変わらぬ行動をとったに過ぎない。何ら問題を表明してはいない。私は何も失ってはいない。
向かい合っていると、猪がやってきた。ぴんぴんしていた。猛烈な勢いで女の方へぶつかっていった。雑魚狼ならそれで木っ端微塵になるはずだったが、女は雑魚ではなかったようで、猪の体を受け止めながら視界の外へ押し出されていった。
「お前たち、邪魔なんだ。増やしても増やしても狼が減っていってしまうので、いつまでたっても山の外に意識を向けられない。とはいえ、縄張りにいる身内が歯向かってくるので潰そうというのは、それなりに楽しかったが」
男が、狼を撫でていた方の手をかざすと、狼が襲ってきた。男の方も後ろからやってきた。二匹がかりで私を殺そうというのだろう。
喰うか喰われるか以外のことを考えて相手の命を脅かそうとするのは初めてだったので、勝手が分からずずいぶん余計な怪我をした。
***
結果だけ言うと、そんなに苦戦することもなく狼は殺せた。万全なら無傷で殺せただろうと思うくらい、大したことがなかった。あんな程度の奴にはぐれの連中は手こずって、逃げて、殺されてきたのかと思った。死体を見ながら呆けていると猪が這うようにしてやってきた。あちらも済んだようだ。とどめを刺し損ねていることを考えて猪の来た方を進むと、ただ血だまりがあるだけだった。いつもながら洒脱でない有様だと感じたが、私は己の殺し方にこだわりがあったのだなと、翻って思った。
戻ってくると猪は倒れていた。駆け寄るとまだ眼を空けて息をしていた。
「なんて顔をしてるの」
「顔? どんな顔をしてるっていうんだ」
猪は答えなかった。代わりに、疲れたので寝るだけですから、と言って目をつぶった。それから、もしよかったら木の実か何かを持ってきておいてくれないかしら、とお願いしてきた。図々しいやつだ。私の怪我が大したものではないと安心してそんなことを言っているのだ。
私は本当に気が利いた。頼まれてもいないのに鼬を呼んできて、傷を治させた。その鼬と一緒に、茸やら木の実やらも持ってきてやった。鼬は、まさか自分が居ない間に全部終わってしまうとは、拍子抜けというか、どうもならん、背中がスースーするような感じがするな、と言って、居心地が悪そうにしていた。戦わなかった分を取り返そうとしているのかと思うくらい、指図した分だけ動いた。
「この死体どもはどうするんだ? 喰っちまうのか?」
私は自然と、埋めるつもりでいたので面食らった。鼬にではない。そんな行為に及ぼうとしていた自分に。鼬は、私の顔を見て、なんだよ? 死んじまったらただの肉だろと続けた。まったくその通りだと思ったので、二人で食べてしまうことにした。蛇と狸は私に喰わせろと言うと、鼬はもちろん、飯を選ぶ権利はお前にあるさと答えて、素直に譲ってきた。
全ての死体が私たちの腹に収まったころに、雀が蛍を伴って帰ってきた。蛍はこういう時、その場に居たって役に立つことはないので逃げるように雀に言い聞かされていた。雀はあたりの地面にしみ込んだ黒い血液の量を見て、こちらの被害を訪ねた。蛇と狸が死んだと伝えると、死体のありかを気にしたので、咄嗟に鼬と一緒に埋めたと答えた。鼬の方を見ると、鼬も私と同じことを言った。
雀がその答えに納得したのかは知ったことではない。ただ猪が生きていたことは素直に喜んでいた。そのあと、雀は一晩中歌っていた。私にはそれがどういう歌なのかが分かっていた。暴君が斃れたことを祝う歌じゃない。鎮魂だ。これまで死んでいった、喰われていった、こねられて狼にされていった、遊び殺されてそのまま放置されていった、仲間たちの。
私がそれに対してどんな気持ちを抱いていたのかは自分でもわからない。それからしばらく、かつて狼だったのだろう崩れた肉のような何かが、何度か落ちていた。私は狼から飯を施されている様な胸糞悪い気分になって、今度は本当にそれらを埋めた。彼らは眠ることができたのだろうか。
***
「おい、雀」
「なあに」
「お前はこの山の奴らを大切に思ってるんだと私は考えていた」
「え? その通りだけれど」
「それなら妙なことがある」
「なによ」
「私は狼と戦って勝った。それでこれから、狼に殺される奴もいなくなるわけだろう」
「そうね」
「さっさとそうさせれば良かったんじゃないのか」
「ああ、それね」
「蛇にまじないをかけられた時に思った。誰がそんなことを頼んだんだよって。今もそう思ってる。あの時とは違う意味で。蛇は頭から喰われて死んだよ。私の前で。狸はこねられて狼にされたから、私が殺した。私がお前の話を聞いてうんざりしている間、そういう風に何匹殺されたんだ? あの時の私なら、そんなことに何の感慨もなかったはずだ。でも今は……。だから気になったんだ、お前のやってることは矛盾している。お前は何がしたいんだ」
「別に私が勝手にそうした訳じゃないのよ。みんな、納得してたことだった」
「なんだって?」
「だって、そうでしょ。私たち、狼のことがきらいで、狼にされるのが嫌で、怖くて、逆らって殺されたくなくて、気に入らなくて、はぐれなんて呼ばれながらこそこそ生きてたのよ。そりゃあ、突然強い猫があらわれて、そいつと狼をぶつけようって言ったやつも居たよ。でも、その後は? その猫がまた狼みたいなやつだったらどうするの? それか、もっとひどいやつだったら? 私たちにはあなたを判断する時間が必要だった」
「それで」
「それで、安心したわ。良いも悪いもない。あなたって、どこまで行っても強いだけのただの猫だったから。だからみんなで相談して、あんたを言いくるめて変えちゃうことにした。あなたって何にも知らないから、万が一にも狼の方に転んだりしないように。私たちに有利になるように」
「ふざけるな。それで、それで私はこんな……」
「なによう。いつもみたいに叩いてこないの?」
「ふざけるな……」
「なによう……」
「……」
「私だってねえ、いやだったよ。でも、どうやったって誰かは死ぬんだもの。みんなそれはわかってたよ。だから、誰が死んじゃっても、やっかまないでねって……みんなでね……みんなで……みんなみんなって、ほとんど居なくなっちゃったなあ……」
「……」
「えっとね、どうしてもいやなら、新しい主は鼬がやってもいいって言ってるの」
「あいつが?」
「うん。どうする?」
「私は……」
「うん」
「しばらく考えさせてくれ」
「そっか、わかったよ」
***
突き刺すようなうるさい、本当にうるさい星明りの下だった。鼬が火を焚いて、狸が捕ってきた魚を焼いた。獲物を生きたまま喰らうことに勝る喜びはなくとも、これはこれで心地がいい。
考えさせてくれと言って、一週間くらい経った。鼬にどういうつもりなのか聞いたが、私がやりたがらないなら仕方がないと言うだけだった。彼からすると、特にやることは変わらないのだという。縄張りを主張する。そこにいて害のないやつは放っておく。敵対的な奴がやってきたら殺す。それだけだ。というより、それが普通なのだ。前の狼や、さらにその前の主がおかしいのであって、鼬のやることがこのあたりの山々で日常、起こっている最低限の秩序だ。そして、それは元々私の生き方でもあった筈ではないか。
「それか、お前がその気になるまでの"代わり"って役でも、俺は別に構わない。狼を倒したのはお前だ。そのお前がやりたいっていうなら、俺は言うとおりにするよ」
だいぶん、殊勝に思われた。鼬のちかごろの態度は柔らかくて受容的だ。しかし雀から言わせれば、無理してとんがっていただけで、あれが本来の気質なのだと言う。鼬は以前、ざまあみろとつまらなそうに言っていた時と同じような顔をしている。おそらく私にしかわからない点と点。いつも、大事なことは自分のいない処で起こっていると、きっとそう感じているのだ。
正直になって考えてみても、今更主になるのが嫌とは思わない。特に、鼬がすると考えているようなものであれば猶更。ただ、私は自分がどのような主となって山を導いていくかということまでも考えてしまっている。
しばらく、皆が魚を食べながら喋っている処を呆けて見ていたが、雀がおもむろに立ち上がって、これからの夢を語らないかと言い出した。皆が雀の方を見て、何を言っているのかという顔をした。こいつはいつもこの突拍子のなさで私の躰に風穴を開けて、その中に白けた息を通してきた。
雀はいつも前向きで居たいだけだ。今は落ち込むままに落ち込んでいようだとか、そういうのがない。カラ元気を振りまいて周りの世話をしていれば、そのうち本当に元気になってくると思っている。自分はいつも元気でなければならず、元気でないなら必ず元気を出さねばならないのだと固く信じている。
夢って言ったってどうするんだよ、と皆は思い思い向き合ってどよめいた。それはそうだろう。今まで、必死に生きてきただけだ。夢がなくて悲しいとすら思わない。これまで、そんなものは平気でなかったのだ。誰ともなく、それならお前から手本を見せろと声がかかり、皆が再び雀の方を見た。
「私はねえ、まずは人間化に成功して、そしたら、お店をやろうかな」
「お店?」
「そう。人間はお店っていうのをやってる。価値のある物同士を交換し合う場所。私は何か食べ物を売りたい。そして人間に鳥が食べられないようにしたい」
すぐに、滑稽なことを言っていると思った。人間は、いや、人間はというより、すべての生き物は、食べられるものが増えたからといって、これまで食べていたものを食べなくなったりはしない。もっと言えば、雀はかつて、鳥のみが仲間だったのかもしれないが、今はそうじゃない。猫も蛍も鼬も蛇も狸も猪も鹿も栗鼠も蝙蝠も、雀にとっては仲間になってしまったはずだ。そしてそのどれも、人間は食べるだろう。中には普段は食べたがらないモノもあるかもしれないが、喰うに困ればきっと喰うだろう。
それら全てを己の思うとおりに変えようと言うのだろうか? そもそも、喰う喰われるという営みの中に、所詮は雀も組み込まれているのだ。雀とて何かを喰って生きているではないか。今しがた喰っていた魚が喋りだしたら、こいつは喰わなくなるのだろうか。きっと喰わなくなるのだろうな。
私のそんな怪訝は雀に筒抜けだったらしい。いや、何も、私だけがそう思っていたわけではあるまい。皆、大小の差こそあれ同じようなことを思ったはずだ。そんなもの、どうにもならないと思ったはずなのだ。しかし、雀はむしろこちらが凝り固まった考えに支配されているのだとばかりに、わざとらしく呆れて見せた。
「いいじゃない。食べるのも食べられるのも仕方のないことだけれど、仲間が食べられて悲しいって思うことだって、同じくらい仕方のないことでしょう。私なりの抵抗なのよ。せめて仲間くらいは、手の届く範囲くらいは、って。世界には仕方のないことがいっぱいあるけれど、仕方のないこと同士が絡み合って矛盾していて、どうしようもないこともいっぱいあるわ。あなたって私を頭でっかちと言って鼻で笑う割には、割り切ることができないことに対して免疫がなくてすぐに怒り出してしまうわよね」
蛍は雀の言葉に感じ入ることがあったのか、何度か光って同意を表明した。私は、そうまで意思が固いなら何も言うまいと思った。
そして雀は順番に、これからしたいことはないのか、あるんじゃないのか、探してみろと皆に聞いて回った。猪は特にないと言った。このまま、死ぬまで皆とここを守り暮らせればそれでいいと言った。別に拍子抜けはしない。むしろ清貧で強い言葉だ。鼬や蛍、他の連中も大体、似たようなことを言った。
「それで、あなたは?」
雀は最後に、私にも同じ質問をした。私は何がしたいのだろう。昔と違い、今の自分は「何かを成したい」「何かをもっと良くしたい」と思っていることは確かだ。
「別に」
「別にって、なんかはあるでしょ、なんかはさあ」
「そういえば」
「え?なあに?」
「前に話してた。パンとサーカスについて。お前は、どう思う?もっと大きな何か、あるいは、それ以外のすべてについて」
「全然わからないよ。何を言ってるの?」
「その話を聞いた時、考えていた。それには……それには、それ以外のすべてがある筈だ。それはなんだ?」
「えっと、食べ物と楽しいこと。だけじゃないの?」
私が答えずにいると、やがて雀は別の話を始めた。そうして、夜は過ぎていった。雀が答え合わせを持っていた訳でないなら、今の私の答えはこうだ。それはきっと、皆が自分の中に、自分の力で考え生きていくと固く思っている、その力のことだ。
食べることは他の何かを殺すこと。楽しいことはやりたいこと。こいつらは持っていた。持っていたからこの山の中ではぐれという生き方を選んだ。弱いやつじゃあなかった。こいつらはパンとサーカスを持っていた。
いや、きっと。パンとサーカスという言葉自体、それを与えられるのみの胡乱な生活をなじって使う言葉だったのかもしれない。でも。雀は好きだと言っていた。この言葉を。そうであれば、私は結局、それを与えるものになりたいのだ。パンとサーカスという心の生き方を。
とにかく、ここに来てからというもの、色々ありすぎた。暫くはおとなしく……そうだな、一人でいたい。今は広がった視界を如何に御するのかということだ。それも、もっと考えれば、もっと大きな何か、答えを見つけられるのだろうか?
もういいだろう。いい加減、変わってしまった自分に戸惑うのはやめにすべきだ。
***
ちかごろ、猪と鼬がいつも一緒にいる。何か深い関係性を築いていっているような、そのような雰囲気だった。きっかけは、猪が人型化に成功したことだ。鼬はその外見が好みで好みで完全にやられてしまったらしく、猪の処へ歩いて行っては拝み倒すような生活を繰り返すようになった。猪はそれを最初は邪険に扱っていたが、だんだんと満更でもなくなり、今は逆に何とも思っていないかのような振る舞いをしている。
どちらも人型ではあるが、猪は猪だし、鼬は鼬だ。子は成せまいと思っていた。蛍は、そういうの本当に無神経だと思うし控えた方がいいと私をなじってきた。雀と違って、蛍は尻尾で叩いたら死にかねないので、代わりにわざわざ雀を探してぶっ叩いてやった。雀は怒った。私と蛍は笑った。蛍は喋れるようになっていた。
雀が言うには、妖怪ならそんなの超えられるらしい。成せなかったとして、だからなんだよという感じだが。きっと、要は愛なんだろう。生き物としての正しさを追求して、悦楽のままに生きてきたと思っていたが、そういえば繁殖に関してはこれまで全く無関心だったと気付いた。しかたない。惹かれる雄なんて見たことなかったし。やっぱり最低でも私より強くないと。
猪と鼬が一緒にいるのを見ると、こういう営みが沢山存在して、それがただただ続いていくというのが、一番良いことなのかもしれないと思う。これまでそんなことを考えたことはなかった。考えたことはなかったが、私も人型になってみたい。なってやりたいことなど無いが、とにかく一度なってみたい。コツとかないのだろうか? なぜ私は人型になれないのだろう。
二人に聞いても、あまり要領のいい答えは得られなかった。猪は、あなたほど力があって、まだ出来てないことの方が私からすれば理不尽でなりませんと言った。鼬は質問に答えたりはせず、お前がそんなことを言い出す日が来るなんて、変われば変わるもんだなと驚いていた。お前にだけは言われたくない。猪の横でデレデレのお前の顔を、お前自身に見せる方法があるならば是非そうしたい。
一番よわっちくて期待してなかった蛍が、強く望んでいるかの問題だろうと言った。今なりたいと思ったばかりでは、望みのイメージが弱くて形にならないのかもしれないと。猪や鼬が言ったことよりは幾分腑に落ちる。そうだとすれば、私は人型になるという点において、今始まりに立ったのだろう。
「じゃあまずは、その夏目漱石が書いたみたいな喋り方から直しましょうよ。自分がなりたい人間の姿をイメージして、相応しそうな感じにしてみたら? 猪みたいな、すんごい美人さんって感じじゃないわよね。私的には、小さい女の子かなあ。生意気そうな感じの」
と雀は言った。夏目漱石とやらがなんなのかは寡聞にして存じ上げないが、馬鹿にされていることだけは分かったのでもう一度ぶっ叩いた。今度は脚で。お腹のいい処に当たったので、雀はうめいて倒れた。蛍は、やれることからやっていくのは大事だよとフォローを入れた。
やれることをやる。やりたいことのために。やりたいこと。人型になることが? それも今は含んでやってよい。しかし普段探している考えごととは違う。山の主になること? それは、やりたいのか? やりたくないのか? 今はこう思う。やりたいし、やりたくないのだ。そして、やり始めてしまえば、恐らく簡単にはやめられない。
私は為政に携わりたいのだろう。この山を導いていくことが、私のやりたいことなのだろう。そして、山に棲む大多数は、私がそうすることに対して肯定的に思われた。これまで具体的な処、何が嫌だったのかを考えていたが、それはやはり責任というものに対する忌避だったのだろう。
鼬の言うような手前勝手な縄張りの主張は、所謂責任というものが伴わない。私がこれまでしてきたこと。しかし、今私がしたいことにはきっと、その責任というものが伴うのだ。自分ではない何かを導く。より良く変えようとする。管理する。その「関係性」という名の渦の中で生きる。
そういう中で、己を律して過ごしていけるんだろうか? 無理だろう。そういったことと全く対極に生きてきた自分には。私はそういうことを悩んできたのだと思う。
「あなた真面目過ぎよ。実は、それって最初に会った時から。動物なら完璧に動物らしく生きてなきゃ気が済まなかったんでしょ。そして今は、頑張って完璧に責任を背負うことに尻込みしてるんでしょ。無駄よ。だって完璧になんてできっこないんだから。この世には矛盾はいっぱい存在してても、完璧なんていうのは存在してないって、私は思うわね」
雀は起き上がってそう言いながら、私の視界を真っ暗にしてきた。私は蛍に喋っていたのに。いや、そもそも、蛍に喋っていたのだって、昔の名残で、ついついうっかりだ。意思疎通ができないからこそ、なんでも独り言の延長線で喋れていたのだ。それが近頃口答えをするようになってしまったので、もうやめるべきなのだが、癖が抜けていないというだけの話だ。
結局その日は一日中、何も見えないままだった。陰湿な報復だ。しかし、突然見えなくなるからびっくりするだけで、鼻だけでもそこまで支障がないことに途中で気付いた。
***
いよいよ今日、鼬に主を変わってくれと伝えに行ったのだが、様子がおかしかった。道中、木がいくつもなぎ倒されていたり、血だまりが散見された。あの山犬は知っている。はぐれの頃は狼と同一視されて嫌われていたが、献身的なやつだった。横腹が食い破られている。いつもの溜まり場に着くと、鼬と猪が死んでいた。
猪は躰が片胸から上しか残っていなかった。絶望と呼ぶにも生温いような、断末魔に歪んだ顔をしていた。そこからは、鼬が一目でやられた時のような美しさの欠片も感じられなかった。断面には一杯に鼬の薬が塗ってあったが、ひび割れるように血液が空しく零れ出していた。鼬はその上に覆いかぶさって倒れていた。背中が引き裂かれていた。薬の入った壺は、空だった。意味が分からなかった。あまりに動揺して、少しの間立ち尽くしてしまった。
雀と蛍を連れてくると、どちらも悲痛を表明した。それはそうだろうなと思った。私は二人を埋めた。雀は、あの傷跡は熊の爪によるものだろうと言った。熊。熊がどこから湧いてくるというんだ。突然現れたって言うのか。
違う。鼬が言っていた。隣山の主が熊に殺されたと。そもそも多分、そいつは食料を求めて隣山へ入ったのだ。隣山も禿山にしてしまったので、今度はここという訳なのだろう。喰うか喰われるかという営みに、二人は負けてしまったのだろう。
そして、二人が居なくなってしまったので、私が山の主ということになる。縄張りを主張できるほどの力を持った妖怪など、この山には他に誰も居ないのだ。私がやらねばならない。そして、その最初の仕事。
殺さねばならない。縄張りを侵した不届き者を。
猪には皆よくしてもらっていた。敵対者を一番積極的に排除していたのは彼女だった。悩みがあれば誰のものであれ聞いてやっていたし、餌場を見付けては仲間に教えまわっていた。鼬だって、昔から態度は横柄でも傷を負えば皆が奴を頼っていたし、頼られれば鼬はなんだかんだ言っても必ずそれに応えた。それに最近はずいぶんと丸くなって、誰もあいつを怖がったりはしなくなっていたのだ。曲がりなりにも主をやっていただけのこともある。
そんな二人の仇を討つということに、山の連中は乗り気だった。力を合わせて奴を殺してやろうという黒い炎に燃え上がった。何しろ、これまで最低二つの山を更地同然に変えてしまったやつだ。放っておけばこの山もそうなってしまう。雀ですら、その火の手からは逃れられはしなかった。
足跡を見てみた処では、人間態ではない。また、命からがら逃げおおせた奴らの供述では、口がきけそうな様子はなかったらしい。その程度の奴に猪と鼬が負けたのか? その疑問には、熊というだけで人間から惧れをもらいやすく、強いのだと雀が答えた。そして大抵の場合、熊の妖怪はその惧れに耐えられず暴虐なものになることが多いとも。
いずれにしても殺す以外の方法を私は持っていないのだが、それを聞いてしまってはある意味では憐れと言える。同情の色が覗いた私の顔を見て、雀は狼狽えた。段々、私の変化に驚くのは私ではなく他人の役になってきたようだ。
皆にまでこのような気持ちで戦ってもらう必要はない。今は復讐心のままにあの熊を押しつぶしてしまった方がよいのだ。効率的な面で言っても、それがいい。
***
熊の暴れぶりを直に見て、すぐに考え直した。皆などというものは、まるでなんの役にもたたない。それはそうだ。こいつら全員集まったって、あの弱い弱い狼たちにもまったく敵わなかったのだ。それの何倍も強いのであろう熊が腕をひとたび振ると、屑が風に吹かれるように誰もが死んでいった。遠巻きに見ていただけだったはずの蛍などは、その余波だけで足が何本か千切れ飛んで地面に叩きつけられていた。
熊が威嚇の声を上げると、視界が赤くなって体中を怖気が通った。私が逃げろと叫ぶまでもなく、復讐心に黒く染まっていたはずの皆の目がみるみる力を無くし、情けない声を上げながら散っていった。誰も居なくなり、私と熊だけが残った。とはいえ、熊はそれなりに手傷を負っていた。鼬と猪も、成す術なくやられたわけでは無いらしい。片目から新鮮な血を滴らせている。
少し殺し合うと、そう猶予もないうちにお互い瀕死になった。私でもなんとか相打ちには持っていけそうだという事実に、どこか安心のようなものを覚えた。きっと最後まで抵抗したのだろう二人に感謝せねばならないと思っていると、熊がこれまでよりも一段早い動きで猛然と襲い掛かってきた。なんと間抜けだったのだろう。この期に及んで他所事を考えるとは。避けるのが間に合わない。だめだ。死んだ。この山はもう終わりだ。
刹那、生きてきたこれまでの記憶が蘇ってきた。事の起こり。あの館から逃げようとさえしなければ、今も安穏無事で暮らしていたのだろうか? だが一度も戻りたいと思ったことはない。それは、あの女がいかに鋭く、そして優れた女であったのか理解できたあの時からも。まさにこの命を散らそうとしている今この瞬間ですらも。
自由に生きた。明日の飯のことなど、絶対に考えなかった。明日が今日になれば、喰いたいものは違うかもしれなかったのだから。飽きればすぐにどんなものでもゴミに変わったし、それを空しく思ったこともない。手塩にかけて育てた縄張りを捨ててきたのも、その生き方の表出にすぎない。
今は何をしている? そんな、これまで捨ててきた縄張りの一つでしかないこの山を、命を懸けて守っている。いや、山というより、そこに暮らす何某か達をだ。そしてそれを果たせず、無力に死にゆくことに悔恨を覚えている。涙すら流している。
しかし私は死ななかった。熊の腕が明後日の方向に振り下ろされた。雀が駆けつけて、熊の視界を奪っていた。雀は、非常時には皆の避難誘導を最優先に動くよう事前に決めてあった。それが済んだということだ。
そうして暫く、有利に戦うことが出来たのだが、やはり持っている力に差があったのか私の方が先に力尽きた。加えて、熊も段々、視界の奪われた状態に対応してきていた。
「ミスティア!」
今度こそ駄目かと思うと、雀の名前を呼ぶ蛍の声が聞こえた。その瞬間、私の視界は奪われた。そして熊の、狼狽えたような叫び声が聞こえた。私は蛍が熊の眼を眩ませたのだと直ぐに理解して、最後の力を振り絞って熊の眼孔を正確に刺し貫いた。
熊は倒れた。それきり、熊は動かなくなった。私も倒れこんで目を閉じた。もう二度と起きることは無いのだろうなと思いながら。
***
「なんだ、もう終わっているじゃないか」
知らない声が聞こえて意識を取り戻すと、雀が蛍を伴ってこちらの様子を伺っていた。蛍は辛うじて息があるようだが、少なくとも意思の疎通が可能な状態ではなさそうに見える。片や、五体満足だった雀はもう、そのまま干からびるのではないかという程に紅涙を絞っていた。気を失ってから、そう大きく時間は経っていないように思える。身なりの良さそうな女が熊の前に立っていた。視界が掠れて正確に物が分かる自信がないが、尻尾が沢山あるように見える。あれは狐の尻尾だろうか。
「あれはお前がやったのか? 見上げた根性だな。あの熊はいくつも山を終わらせてしまうので、私が出向くことになったんだよ。見どころがありそうなら式にしてやろうと思ったのだけれど、死んでしまってはなあ」
狐は近づいてきて私にそう言った。私は来るのが遅いと文句を言った。自分の口から出た声が、あまりに息も絶え絶えだったので笑いそうになったが、それすら満足にできなかった。せき込んで血が出た。喋るごとに命を消費している感覚すらあった。狐は笑いながら私に謝った。
「悪いな。見た処、お前はもうすぐ死ぬだろう。お詫びと言ってはなんだが、お前を私の式にしてやろう。そうすれば助かるぞ」
式というのが何か分からず黙っていると、これから一生私の下に付いて、働いて生きていくのだと狐は説明した。冗談じゃない。小間使いじゃないか。山からも離れねばならない。そんなのはごめんだ。このまま死んだ方がいくらかマシだ。
「なんだその顔は。なあに、そう邪険にしたものじゃないさ。お前はこの山の主だったのだろう。私の仕事はこの幻想郷を管理することなんだ。その手伝いをするっていうことは、大変稀有で代えがたい体験だと思わないか?」
山の主。私はそれを。結局は何も成せなかった。管理。幻想郷を。もっと良くする。それは私のやりたいこと。違う。だめだ、考えがまとまらない。当然だ。これから死のうとしているんだ。今こうしている間にも、血が流れ出て地面に染み込んでいっているのが分かる。条件。そうだ。条件がある。この山を安全に管理しろ。安穏無事にしろ。死んでいない奴らは全員治せ。それが出来るなら式でもなんでもなってやる。きちんと言葉にできているか自信が無かったが、狐にはなんとか伝わったようだ。狐はまた笑った。
「命が助かるっていうのに、条件とはな。やはりお前は面白い。まあ、そのくらいならいいだろう。さあ、少しじっとしているんだ……そら、これで、取り敢えずすぐに死んだりはしないだろう。痛みも軽くなったんじゃないか? これから、私の主人のいる処に連れて行くからな、もう少しの辛抱だ」
狐に担ぎ上げられた私を、雀が見ていた。雀は、どうあれ私の命が助かるならばと思ったのか、何も言わず私を見ていた。ただ翼をはためかせた。別れを告げるように。私は身じろぎすら出来なかったが、雀の眼をじっと見て、それが答えになれば良いと願った。
遠く小さくなっていく雀の姿を見ていたが、狐はずっと喋っていた。そろそろ貴女も部下の一つくらい持てとずっと言われていたのだとか、式となれば通常は元の姿や記憶を失うが、特別に、出来る限りそうならない様に調整してやろうだとか、そういうことを話していた。
今更そんなことを言いやがって。そんなもの、死んだのとそう変わりはないじゃないか。幻想郷の管理者とやらが約束事にどの程度骨を折ってくれるのかも分からない。山は本当に平和を取り戻すのだろうか。私はこれからどうなるのだろうか。この狐の忠実な僕となるのか?
あの館に居た時からこれまで、全く別人と言って良いほど変わってきた私だったが、変わらないものもあった。私は誰の下にも付いたことがない。誰の言うことにも、それが本当に気に入らないものであれば従ったことなどない。
いや、本当にそうだろうか? 私は己に対して誰の指図も受けないと自負があったが、館では結局、己の状況に対してある程度の妥協をしていたではないか。幻想郷へ来たのもそうだ。私を幻想郷へ連れてきた何かは、結局居たのか? 居なかったのか? いずれにしても、それは私の意志とは関係なく起きた。私はその時、地団駄踏んで怒りまくって、それでも結局どうにもならず諦めて、ここで生きていくことにしたのではなかったか。しかも、私はそれらに、薄々気付きながらも生きてきたのではないか。
「あなた真面目過ぎよ。実は、それって最初に会った時から」
雀の言葉を思い出して、どうでもよくなった。どうでもいい。どうでもいいというのは、心地いいモノかもしれない。そして、それに気付くのには少し、いや、かなり、遅かったかもしれない。
思えば私はお前に、本当に大事なことは殆ど何も言ってこなかった気がする。お前が最後、私に何も言わなかったことには納得がある。お前はすでに、私に沢山の言葉をくれてきたのだから。反面私はどうだろう。言葉を伝える力も残っていなかっただけだ。済まない。これは真面目ではない。ただの悔恨だ。許してほしい。私はお前を、悪く思っていやしない。お前は気にしちゃ居ないだろうけれど。
雀はまだ辛うじて見えている。と思う。あまり自信はない。その辺の茶色い石ころと勘違いしてしまっているかもしれない。視野の端から順番に、どんどんとボヤけていっている。
幻想郷を管理するものの一つに、私はきっとなるのだろう。それは楽しいだろうか。空しいだろうか。しかし、どうせそうなるならば、よりよいものに。この山に棲む者たちに、幻想郷に棲む者たちに、パンとサーカス。パンとサーカスを。食べ物と、楽しいことを。そしてそれ以外のすべてを。
何か隙間のようなものを通って景色が変わり、雀の姿が完全に視えなくなったのと同じ辺りで、体中の力が抜けて思い通りにならなくなるのを感じた。ただ、まどろみの中に消えていく己が、次は何に混ざっていくのだろうかと疑問を投げかけるのみだった。
(おわり)
そこでは決まった時間に飯が来た。こちらの気分が考慮されることはない。いつからそうだったのだろう。もしかしたら初めからだったのかもしれない。屋敷の一室で、そこを出ることは許されていなかった。
おそらく屋敷の主人ではなかった。あどけない感じの。少女と言っていい年齢の人間が私を支配していた。私は本当にかわいがられていた。何を引っ搔いても、何を落っことしてぶちこわしても、一度も折檻を受けたことはない。
人間に寄り縋ると暖かくて居心地がよいので、近づいてみると大抵、勘違いされる。つまり、撫でてくる。抱っこをしてくる。うざったいので噛みついてやって逃げるのだが、あらあら、と言った感じで、やつは全く堪えない。
いかなる自由も許されてはいなかった。例えば、私がその日気は進まず、飯を食わなかったとする。するとやつは騒ぎ立て、なにやら別の建物に連れていかれる。苦くて甘くて香ばしい、ほかの場所では絶対にすることがない香りのする、忌々しいあの建物。そして針で刺される。次の日には、なんだか知らないが無理矢理に元気になっている。飯を喰う気概も戻っている。
私はあれが本当に嫌いだ。体調がよくないのも食欲がないのもこっちの勝手だろうがと言わせていただきたい。どうしてやつの心配などに合わせてやらなければならないのか。
逆に、どれだけ私が何かを喰いたい、本当になんでもいいから喰いたいと思っても、それが定刻でなければ絶対に飯は出てこない。やつが部屋にいる間ずっと、頭よおかしくなりなさいと願いながら大声で鳴いてみても出てくることはない。絶対だ。もう、絶対に絶対なのだ。飯は朝と夜に出てくる。それだけだ。出てこないことはないし、逆に多めに出ることもない。
それに、ここは暇で暇で仕方がない。暇をつぶしたければ何をどうしたって、やつに構う必要が出てくる。やつは何処からともなく、俊敏に動く獲物を召喚する術があるので、私はそれを捕まえて遊ぶ。すぐに飽きる。それはやつの手に合わせただけの、単調な動きしかしないのだ。
私がうまく獲物を捕らえたところで、それは食べられはしないのだという事実も、眉間にしわが寄ってうんざりする。なぜならそれは口に入れてみると単なる毛や羽の塊にすぎないからだ。極めつけは、じょうずだね~などとのたまいながら、やつが頬を摺り寄せて来る。私はそれが一番いやだ。鼓膜を破壊してやろうと渾身の大声を何度もぶつけてやったのだが、効果がありそうではなかった。
まれに、部屋の中を大物の虫が這いまわっているのを見つけて、それを追いかけまわしぶち殺すことは何物にも代えがたい悦楽がある。いつもはそれをたまのおやつとして喰ってやるのだが、それはシャリシャリもちゃもちゃとしていて実に美味なのだが、たまには分けてやっても好かろうと思って、やつの目の前にそれを置いてやったことがある。
やつは大喜びしてそれを喰うべきだったのだが、実際は金切り声を上げて逃げ出した。少ししたら大きな男が数人やってきて、虫を奪っていきやがった。どういう了見なのかと思った。道理が通らない。やつは私の前にいる時を除いていつも毅然としていた。常に何か紙束の相手をしていたし、代わる代わる男が訪ねてきて、お互い神妙な顔で話し合ったりもしていた。あのような無様な声を上げることはまずなかった。恨みもあって、あの馬鹿丸出しの顔と声はよく覚えている。
あと、あれが嫌だ。つるつるとした部屋へ連れていかれて、ぬるま湯に全身を漬からされて、そして泡の出る石で私を真っ白になるまでこすりまくる、あれだ。理解できない。不届きだ。あんなこと許してはいけない。
とはいえ、ひたすら鳴いてみたり、噛みついたり、引っ掻いたりしてやっていると、月日の経つ毎、私が何を望んでいるのかとだんだん理解はしてくるようだった。そして気付けば、奴はもう少女ではなく女になっていた。
気分によっては抱かれてやることもある。尻を撫でさせてやったりもする。最近になるほど、やつは私を愛撫するのがうまい。再三やってきた調教の成果が出たと言えた。どうにかこうにか、私はここを自分のすみかに相応しいと言い訳してやっても、まあよいくらいにはなったかもしれないと、最近やっと感じてきていたのだ。
***
ところでしょせん、私を止められるものはなかった。それは私自身にも、という意味で。ある日逃げることを決めた。理由はわからなかったが、逃げようと決めたら逃げたい理由はいつでもいっぱいあったのだ。部屋には大きな窓があったが、その窓の近くには丁度いい高さの机などがあったりはしない。私がそこから逃げると思っていたのだろう。やつはその窓を開けたりすることもあまりなかった。
私はその機会がやってくるのを待つことにした。本当は直ぐにでも逃げたかったが、一度逃げるのに失敗すると「こいつは逃げようとする」と覚えられてしまう。人間は一度起こったことを防ぐ動きをする生き物だ。であるなら、最も確率の高い時を待ち続けたほうがよい。できれば、万が一失敗したとしても「逃げようとしたわけではない」という心象があれば尚よい。
残念ながらそこまで頭のいい策が考え付いたわけでは無かったし、死ぬまでその機会が訪れないことも十分に考えられた。しかし、私の頭の出来の悪さを差し引いても、この部屋の中で出来ることというのは殊更限られていると思われた。やつは実際神経質な女だ。私がとっちらかすことに対しおおらかで目くじらこそ立てないが、やたらとよく片付いた部屋を好むように見受けられた。寝具と本棚があるだけの。
そして、とうとうその日がやってきた。それは私がここから逃げる決意をして、実に百幾夜もあとのことだった。正直その間に、何度かは逃げる気も失せていたりしたのだが、結局の処、逃げようという時にその機会が巡ってきた格好になった。
その日は窓の外に黄色い蝶が近づいてきて、私はそれを飛び上がりながらぶち殺そうとしていた。当然、窓に隔てられてそれは叶わない。やつが私の目当てがなんなのかを知ると、あら~などと言いながら窓を開けた。
私はその瞬間、やつの背中を駆け上って窓の外へ飛び込んだ。ちょうど顔のあたりに蝶が飛び込んできたので、ばくりと喰ってやった。草の上に着地した。初めての感覚かもしれなかった。すべてがうまくいっていた。
そのまま全速力で屋敷から離れた。やつが私を呼んでいるのが聞こえた。いままで聞いたことのないような必死そうな声だった。おそらく、この声を忘れることはない。或いはそれは嘘で、すぐに忘れる。
そして逃げおおせた。とっくに屋敷が見えなくなってからも、ずいぶん長いこと走っていたような気がするのだが、全く疲れてはいなかった。こんなにもうまくいくと思ってはいなかったが、そうやって、これで気ままに生きていけると思った。この時、私は猫としてはとっくに老いぼれだった。
しかしそれでも、私は外の空気を吸って空を見上げると、これまでになく、体中いっぱいに力がみなぎるのを感じていた。その時から、宙に浮けよと思えば浮くくらいのことはできた。やろうと思えば、あの途轍もない速さで目の前を駆け抜けていった馬車だって力づくで止められるだろうなと確信していた。
窓越しにじゃない。夕焼けを全身に浴びたのは、もしかしたら生涯で初めてだったのかもしれなかった。これができるだけで、今まで我慢して生きてきたのも多少報われてやってもいいだろうという、いい気分になった。
***
数十年気ままに過ごしていたある日、何やら「くぐった」感覚がした。膜を突き破って、今まで居たところとは違うどこかへ来てしまった感じがした。また、戻ることがそう簡単でないのだろう、ということも直感した。確かに私は最近、ちょうど今の寝床に飽きてきて、そろそろこの山もいいかなという感じはしていたが、もう数日はそこで眠ると思っていたので、気分を壊されて憤慨した。
手塩にかけて完全に自分の縄張りに育て上げた山をひょいと取り上げられて、それでもブチ切れない動物が居ると言うならこの目で見てみたいものだ。寝床から暫く歩くと穴ぼこが在って、そこに住んでいたリスの家族を、年を喰った奴からぶち殺して喰うのが本当に好きだった。期間を空けると同じような数に戻っているのが愉快で仕方なかったものだ。自分で棄てるのはよいが、奪われるのはとんと我慢ならない。これを私にした何かがいるなら、そいつは絶対に殺して喰おうと決めた。
ここは、ざっと歩いてみた感じ、控えめに言っても本当に嫌なところだ。不躾な捕食者の臭いがいっぱいする。自分以外に血生臭い感じがするというのは、気色悪くてクソみたいな気分にさせられる。しかし、うまそうな木の実がいっぱい生えている処は気に入った。それを喰って生きている虫たちも丸々と太っていて、どいつもこいつもうまそうだ。
それに、先ほどから力が湧いてくる。あの屋敷から逃げた時のように情緒的なことじゃない。もっと身も蓋もない。いままで自分が生きていた処はきっと空気がすごくすごく薄くて、それで体が自由に動かなかったのだろうと確信するような、そのような感覚だった。
ずっと歩いていると、妙に好戦的で獰猛な狼に遭ったので殺した。ちくりと妖力を感じたので、きっとこいつは何かの手下だったのだろうと、喰いながら思った。味は甘くてうまかった。狼ごときがこんな風に襲ってきてくれるのなら、もうずっとここで寝ていたって、口の中に勝手に飯が入ってくるのと変わらないなと思った。
食後、べちゃべちゃになった口周りからしっぽまで順番に、丁寧に舌でこそぎ取って繕い、毛玉を吐いて綺麗になると、世界の支配者になったように気分がよいのでいつもそうしている。
決めた。この山に棲もう。狼を殺したので、この親玉にとって、私は縄張りを侵した不届き者である。適当に暮らしていれば、向こうから顔を出してくれるはずだったので、ひとまずこうだと欠伸をかまして寝た。
***
何匹目かも忘れたが、今日も狼を殺した。本当に、ちょっと私より大きな体をしている程度のことでいきりちらして、次の息を吸うまでの間に私に喉笛かみちぎられて、うまく呼吸ができず口から間抜けな音と血泡を吐いて死ぬっていうやつを、何度も何度もやっている。懲りたらどうなんだと思うが、私からすれば辟易だとしても、狼どもからすれば毎度初めての経験なのであって、仕方がないとも言えた。
最初は新鮮だったが、味も大してうまくないし飽きた。命を奪って自分のものにするという営みはもっと大きな輝きの中で行われいてほしい。このような倦怠の坩堝の中ではなく。そもそもこの山は狼が多すぎる。狼というのは、こんなにものさばる生き物だっただろうか。土をこねて、はい、狼できましたーと毎日やっている輩が何処かに居るのではないかと邪推したくなってくる。
そのようなだらだらとした気分で毛繕いに取り掛かろうとすると、その辺の茶色い石ころと勘違いしていたものが動き出して私へ礼を言ってきた。雀だ。妙に麗しいというか、扇情的な仕草が特徴の。どうも私が散歩の途中で出くわしたあの狼は、直前にこの雀を殺そうとしていたようだ。狼に殺される鳥なんて間抜けだと思ったが、翼を怪我していた。間抜けに思う理由が変わっただけだ。
しかしこの雀、重ね重ね間抜けだ。私はこいつを助けたわけではないし、己が弱っている以上新たな捕食者になりうる私に話しかけるなどといった愚かな行為はしてはならないはずだ。私は雀が好きだし。ほとんど骨だらけなのだが、それをかみ砕いて咀嚼するのが気分良くて。少なくとも狼などより余程ごちそうだ。
それで、口直しになるだろうなと大口を開けて見せたら、わあと声を上げて飛びのいて、それから私の視界がなくなった。狼狽えていると雀が笑いながら、貴方は今私のことを間抜けだと思っていたでしょうと言った。私は弄ぶのは好きだが、弄ばれるのは我慢ならない。
舐めるな。眼で見えないならば鼻で追うだけだと叫んでみたが、雀は続いて私をなだめすかした。どうも、こいつのこの声は調子が狂う。どんな気分で盛り上がろうとしても、無理矢理に落ち着いてしまうような魔力がある。逆に、こいつが盛り上がりなさいと囃し立てればきっと私は言われるままに踊り狂うのだろうと思われるような、そんな魅力的な声だったのだ。
「ずっと見ていたのよ。あなたって言葉が通じるらしいのに、ずっとただの猫みたいに生活し続けるものだから、面白くて」
「猫なんだから言葉くらい通じるさ。普通のことだろ」
こいつの言い分を聞くことには、妖力を得ることも、言葉を喋るのも普通ではないということだった。そういえば、この山に来てからというもの、言葉の通じるものはずいぶん多い。先程の狼にしたってそうだ。長ったらしく脅しの言葉を並べ立て、私を恐怖の色に染めてやろうと頑張っていた。意思の疎通が完璧にできるようになった相手を喰っているというのは、今までとはどこか違う感覚がある。
雀は続けた。それは所謂「人間性の獲得」というものらしかった。それを皮切りに、ただの動物だったころとは違うものを欲して、その為に生きるようになるものが多いのだという。欲。やりたいこと。私の認識している処の、この縄張りの親玉もその例に漏れないようで、そいつは支配欲の皮がつっぱりまくった暴君だと説明された。
「どうでもいいことをつらつら並べ立てるな。私は好きな時に好きな場所で喰って寝れればいいんだ。私はこのあたりが好きで、邪魔なやつは取って喰う。お前は襲ってくるつもりもなくて、喰わせてもくれないなら興味ないからどっかいけ」
「いやよ。だってあなたはこのまま行けば狼の頭と戦うでしょう。そうしたら、どっちかは死んで、もしかしたらそのどっちかっていうのが狼の方で、あなたがこの山の主になるのかもしれないのよ」
「知らん。その……何? なんとかが襲ってくるというなら殺す。でも主とかいうのはやらないし、ここが飽きたら違うところに行く」
だからぁ、そういうわけにはいかないんだってば、と雀はわざとらしく呆れて見せた。この雀の声が魅力的な程度では我慢ならないくらい、私はいらいらしてきていた。毛繕いもできないまま喋り始めたので、口周りの血が乾き始めているじゃないか。このまま放っておいたら私の誇り高い毛並みがゴワゴワのガビガビになってしまう。
「責任があるのよ。あなたは力があるし。狼と比べてどっちが上かはわからないけれど。それ以外だったらこの山じゃ一番だと思うわ」
「知らないって言ってるんだ。いや、責任か。その言葉は知ってる。人間がよく口にしてた。そんなのは人間たち全体にとって有益だからあるだけの言葉だ。私には関係がない」
「だって、もうただの猫じゃないわ。あなたは妖怪になっちゃったのよ。人間と同じ言葉を喋って、そして、そんなのがいっぱい住んでるここにいる。そうなったらもう、責任という言葉からは逃げられなくなっちゃったんですからね」
「うるさい!もううんざりだ。だったらもうこの山から出ていって、妖怪だのが何にもいないところを探してやるよ。気に入った場所だったけれど、この際仕方ないね。お前みたいなのにずっと纏わりつかれるのと比べればまだましだから」
「そんな処、ここにはないよ。幻想郷の山々はどこも妖怪でいっぱいなんだから」
「げん、なんだって? 雀、お前の言うことはさっきからさっぱりわからない」
「幻想郷。ここ、幻想郷っていうのよ」
「動物が場所を名前なんかで呼ぶな!」
「だめよ。そういうのはちょっとずつ勉強していきましょうね。私が面倒見てあげるから」
そのあと、雀は自分を雀と呼ばれることを嫌がった。自分にはミスティア・ローレライという名前があるのだと胸を張った。いい加減にしろと怒鳴る寸前のところで、雀は口の中からおもむろに蛍を取り出したので面食らった。そいつは雀の友達であり、リグル・ナイトバグと名付けたという。まだ言葉を操るほどの妖力がないが、光のぐあいで意思の疎通を図れるのだと言っていた。
何を言っても無駄だと思った私は雀を無視して毛繕いを始めた。やっぱりだ。時間を空けてしまったのでいつもより手間取る。何も良いことがない。信じられないくらい腹立たしい。しかし、雀は辛抱強くあやすような言葉づかいで私に話しかけ続け、とうとう結局、しばらくして落ち着いてしまった。
***
そうやって何日か、雀と過ごした。雀にはいくらか知り合いがいたが、それらは凡そ、この山におけるはぐれものだった。つまり、狼の支配をいやがり、かといって他に縄張りのあてもなく、そして革命する甲斐性も力もない。その場その場で抵抗や逃亡を繰り返してどうにかこうにか生きている。弱いやつっていうのは同じような生き方をする。幻想郷の外でも中でも。
その内多くは私に対して怯えや不信をたたえた。そんな木っ端どもの中にも、印象に残ったやつも何匹かいた。鼬(いたち)はかまいたちの末っ子で、上二人は狼に喰われたと言っていた。人型化に成功していて、私が来る前まではぐれの中で一番強かったらしい。私が人間態でないのを見て舐めくさった態度をとってきたのでいっぱい蹴った。そのまま喰ってやろうとしたら雀に止められた。
「あんた、いかれてるな」
と鼬は言った。もう一発蹴り入れてやろうとしたが、続けて初対面から非礼だったと詫びを入れてきたので許した。しかし、次に言ったことが、その程度ではたして狼が本当に殺せていたものか怪しいといった旨の不躾な値踏みだったために、やはりいっとう強く蹴り入れた。鼬はおおげさに吹っ飛んで木の幹にぶつかった。それで虫が何匹か降ってきたので、その場にいた連中で食べた。鼬の口には勝手にみのむしが落ちてきていた。
蛇も不遜なやつだった。雀が言うには、はぐれたちが気付かれ辛くなるようにと結界やおまじないをかけてくれている慈悲深い女なのだそうだが、いきなりずるずると不快に私の体中を這いまわってきて殺そうと思った。蛇は気配を覚えるのと、おまじないをかけるのとで、こうすることが都合がいいのだと言った。誰が私におまじないをかけてもいいって許可したというのだろう。やはり殺そうと思った。しかし、私が何かを殺そうとすると、その度に私の視界が奪われるので辟易した。雀が居ない時を狙って一匹ずつ数を減らしていって、最後に雀も背後から喰ってやろうと思った。
翻って、猪はとても利他的だった。雀が私を紹介すると、こちらへおいでと先導して、木の実がいっぱい生えている場所を教えてきた。狼にも見つかっていない穴場だという。甘い香りがしてきて、胃袋がいっぱいに濡れたのを感じてたまらなくなった。猪はなくなってしまわない程度に、少しずつ食べなさいと言った。私が鼻をならすと、雀はお礼くらい言いなさいと私を何回かひっぱたいた。私はこの何日かで、すでに数十発はこれをもらっていたので、最初のうちはいちいち腹を立てていたが、今に至ってはなんとも気にしなくなっていた。
木の実を食べていると蛍が大きく光って面食らった。なるべく凶暴さが伝わるように喉をならして抗議してみたが、雀は狼が近づいてきていることを知らせてくれたのだと言った。さっきここは見つかっていない場所と言っていたばかりなのに、これか。とあくびをした。猪が少しまっていなさい、と言ってその場を離れしばらくすると、地面が揺れて大きな音がした。戻ってきた猪は血を浴びていたので、ああ、狼を殺したんだなあ、と思った。そして、ここが見つかっていないのは、近づいた狼が全部猪に殺されちゃうからなのよ、と雀が説明した。
どうも、雑魚と小競り合いをする程度なら難なくこなせる者も少しは居るようで、そんなに悲惨な状況ではなかったようだなと合点した。甘いものを食べたので口直しに狼の死体をつまむかと思い、猪の付けた血の跡を追うと、岸壁に赤いシミがこびりついていた。こんなにしてしまったら食べるところがない。あの体で突っ込まれたら大体の生き物はこうなるのだなと思った。情緒がない。
お前らでは全く狼の頭に敵わないのかと確認すると、そうなのよ、と雀が笑った。続いて、びびっちゃった? と聞いてきたので殴ろうとしたら、蛍が激しく光って目が眩んだ。この野郎!と叫ぶと、続いて目の前が真っ暗になった。悪かったからもうやめろと言うとケラケラ笑っている声が聞こえた。忌々しい事実だが、私はずっとこんな調子でいいように遊ばれている。この二匹の悪戯好きには、もうずっとぐったりしていた。
ここにくるまで、私以外に妖怪というものと出会ったことがなかった。あまり開け広げに言いたいことではないが、人間は猫を管理下に置く生き物であり、だからと言って媚びへつらったことは一度もないとはいえ、その位は私の上にあったという言い方もできる。そして、同じ動物で私に並ぶものはなかった。しかしここにはそういうのが沢山いる。戸惑いがずっとある。私は傍若無人に振る舞いきることのできない環境にどう適応したものかがまだわかっていない。
なので、さっきも述べたように、ずっとぐったりしている、なんだか元気が沸かない。自分以外には何もなく、当然会話を交わす相手もない。聞くことのある声と言えば私に喰われるものの断末魔のみで、それごと血肉を飲み込むと魔王のように気分がよかった。私は残虐に何かを殺すことが好きなわけではない。強いて、ならばそれの何が気分良かったのかということについて、うまく説明はできない。
それが、今はない。「つながり」だ。今の私はたぶん「つながり」というものの中に置かれつつある。それはこの雀によって。寂しいような、うざったいような、欲求が満たされず不満が溜まっていくような、そのような状態にも関わらず事象が不躾に次々と降りかかってくるのを、すべて眠って忘れてしまいたいような、そういう状態にいる。
変化を嫌っているわけではない。だがそれはいつも私が変化を起こす側に立っていたからだ。決して、周囲の激動に流し揉まれることではなく。
あの館に生きていた時のことを思い返してみれば、確かに私はその頃、己が何かを変化させる権利に乏しくはあった。しかしもう、ずいぶん昔のことだ。館を出てからの時間の方がずっと長かった。
岸壁の赤いシミを見つめながらそのように呆けていると、雀が私の前に立って見上げてきた。首を傾げ、怒っちゃったの、とわざとらしく声をうわずらせている。蛍も蛍で、照らす灯りが弱弱しかった。なにか殊勝に思うことがあったのかもしれない。私はうるさいと答えた。私はこの「対等」というものについて、もうすこし考えを巡らせる必要があったのだ。
***
雀は様々なことを私に聞かせた。この小さな山々は幻想郷の中でも端っこの方で、所謂「お山の大将」だとか「井の中の蛙」という生き方を選んだ木っ端妖怪が幅を利かせるしょうもない場所だとか、そのため余りにも情勢が穏やかでない時には管理者とかいうのが調整をしにやって来るらしいとか、幻想郷で「山」といったら本来は「妖怪の山」という大きな山を指していることが大半であり、そこには神々やら大妖怪やらが秩序立って生活しているだとか、そういうことをだ。
こういった話を聞いていると、雀が三回口を開いた頃にはもう眠くなっている。近頃は具合の良い木陰などを見つけるとそこに陣取り、雀に何かお勉強の話をしろと強請るくらいに適応してしまった。雀は子守歌じゃないと叫んで私の顔に翼をぶつけた。そんなことはない、お勉強がしたい、私に責任の何たるかを教えてくれるのではなかったかと言っていると、最後には折れるのである。そして私はすぐに寝る。雀は怒る。雀が翼をぶつけると、それは私にとって丁度愛撫のように心地がいい。
「この山の前の主はさあ、管理者に調伏されちゃったのよね。やりすぎてさ。この山の周りの山からいっぱい略奪して、それでこの山を豊かにしてたの。でもそんなこと許してたら戦いが大きくなっていって、その内幻想郷全体が巻き込まれて包まれちゃうでしょう。それでね」
「調伏っていうのは、なにをされるんだ」
「さあ。でも、とりあえず、ここからはいなくなっちゃったわね。殺されるわけじゃないらしいって話は聞いたことあるけど」
それで、今の狼が主になったわ。狼は先の主の切り込み隊長のようなことをやっていたのだけれど。それは充実していたみたいね。そういうのが上手かったからね、その、なんていうのかしら、采配っていうのが、先の主はね。でも、狼に主は向いてなかった。自ら肉を引き裂けない鬱憤を支配欲で満たすようになったんだと思うわ。あの狼の悍ましいのは、他の生き物を……。私はこの辺りで寝た。
雀が私のことを気に入らないのは、寝てしまう割には、きちんと聞かされたことを覚えているということだった。覚えてないよりはよい筈なのだが、なんだか鼻持ちならない感じでむかつくのだそうだ。ちょうどかわいくない感じの手のかからなさで。雀は誰かを世話していないと死ぬ生き物なのかもしれない。
「私、つてづてに聞いて、気に入ってる言葉があるの。パンとサーカスっていうんだけど」
「パンとサーカス?」
「そう。食べ物と、楽しいことって意味」
「それがなんだって?」
「えっと、よく知らないけれど、パンとサーカスがあれば、みんな納得してくれるって意味らしいわよ。だから、あなたにはパンとサーカスをくれる主になってくれたらいいなって」
「主にはならない。でも、確かにそれはいい。私がやってきたことそのものだ」
パンとサーカスか。食べ物と、楽しいこと。しかし、雀の言っていることはなんだか勝手な気がした。これまで雀は色んな話を聞かせてきたが、それは、自分ではない違う何かから奪って手に入れるものなのだ。きっと、雀の言うところの先の主だって、そうやってそれを自分の山のものどもへと与えていた。それが「もっと大きな何か」にはそぐわなかったために、先の主はいなくなってしまったのだ。
雀は私にそれになれと言っている。それを勝手気ままな話だと思うことには、これといった矛盾がないように思える。しかし、私がそれを口に出すことはなかった。何故なら子守歌にうんうんと言って相槌を打つくらいの気持ちはあっても、意見を戦わせようなどという気は微塵もなかったからだ。
パンとサーカス。パンとサーカス。食べ物と、楽しいこと。確かに、それだけあれば何もいらない。しかし、それを自分のみでなく共同体に広げようとすると、やはりその分話は大きくややこしくなるのだ。それを得るには、それよりも「もっと大きな何か」に目を向けなければならない。
それにそもそも、そんなものは、自分でない何かからただ与えられるだけのモノじゃない。そうだったとすれば、そいつらはきっと只の虚けだ。腑抜けだ。もし与えられているとすれば、それが与えてる方にとって得だからそうするのであって、それに気付いていないということは、間抜けだ。
食べ物と、楽しいこと。途端に、皮肉めいた言葉に思えてきた。しかし、それがあれば大抵満足なのも確かだ。要は、食べ物と、楽しいこと以外にはどんなことがあるのか、それを誰もが考えるべきではないか? ということなのだろう。パンとサーカス。食べ物と、楽しいこと。そしてそれ以外のすべて。
いや、いや。待てよ。雀がその程度のことを見落として私に話すだろうか? そろそろ、私のこの怠惰な態度に対してなんらかの策を打つ頃ではないかと思っていた。実際は、このように私が考えを巡らせることを、雀は望んでいるに違いない。自主的な成熟を目論んでいるのだ。思うつぼだ。忌々しい。そのように思って微睡んでいた眼を開き雀の方を見ると、私の怪訝な様子を目ざとく見抜いたのかどうか、定かではないがきょとんとしていた。
私は気付かれないよう慎重に、それでいて素早く、しっぽで以って雀をはじきたたいた。雀はきゃあと悲鳴をあげてふっとんだ。そのあと怒りまくって、ずっとぴーちくぱーちく鳴いていた。
私たちがなじりあっているのを、蛍と蛇が向かい合って見ていた。その視線が生ぬるい泥濘のようで、不愉快さに自分の顔が歪むのを感じた。蛍は私のそんな怪訝を見透かしたかのように何度か光って、それを見た蛇の方もくすくすと笑っていた。
***
隣山は隣山で、いけ好かない野郎が牛耳っていたのだと鼬が愚痴った。曰く、そこでの暮らしが気に入らずこの山にきて、それでもこっちはこっちで狼と折り合いがつかず、戦ってみたら身内を殺され己だけが生き残ったという経緯だったようだ。
そして、その話の続きで、隣山の「いけ好かない野郎」は最近殺されたのだという。大きな熊が縄張りにやってきて、追い払おうとしたらそのまま喰われたらしい。熊はそのまま山に居ついて、どんなものも食い荒らしているのだという。鼬はそれに関して、口ではざまあみろと言っていたが、実際のところはどうにもつまらなそうな様子であった。そりゃあ、本音を言えば気に入らない奴は己の手でもって殺したかろうな、と私は思った。
なぜこのような話をじっと聞いてやっているのかというと、鼬は大けがをしていた。狼と鉢合わせてしまって、雑魚が三匹程度だったので鼬でもなんとかなったのだが、とはいえそれで得た名誉も大きかったようである。倒れていた鼬を見かけた雀が、猪を連れてくるから鼬を見ていろと言ったので、このように律儀に待ってやっている。自らも翼を怪我しているので、雀のくせに走り去っていくその様を滑稽とあざ笑うつもりだったのに、見慣れ過ぎてなんとも思わなかった。
正確な表現で言うと、鼬に外傷はなく、ただ憔悴していた。鼬は特製の薬を持っていて、これを塗るとどんな傷でもたちどころに治った。兄弟に逃がされたときも、五体満足とはいかずかなりの深手を負ったのだが、その薬のおかげでなんとかなったのだという。しかし、失った血や体力までもが回復するというわけにはいかないようで、ずっとぐったりしていた。
「これのおかげで俺はしぶとく生き残れてる……でも正直言って、生き残れてる、というのが俺にとって相応しい言い方かはわからない。生き残ったんじゃなくて、俺はまた死に損なったんじゃないか?」
続けて、鼬は雀という存在の煩わしさについて語った。ここ最近、私もなんとなく気付いてきてはいたが、妖怪すべてが秩序立って責任というものを重視するわけでは無く、あの雀が異常に神経質で面倒見がよいというだけの話だった。
自分ではない別の何者かと意見が一致するという経験を、ここで初めてした。あの雀はもし人間のつながりの中に居たとしても疎まれるのではないかと思うくらいに機械的で強靭だ。かと思えば悪戯好きで、妙に朗らかで、当たりが好くて、ものの心に付け入るのがうまい。あれのペースに乗せられてしまっているばかりにこの共同体は成立していると言っていい。しぶしぶの、いやいやだ。
お互い、何か別の誰かとつるむというのが、特段好きな方ではないようだ。違いがあるとすれば、鼬にはかつて兄弟という例外があった。私に関して言えば、つるむのが嫌いというのは実のところ的を射てはおらず、単に度を越して孤独を好んでいたのだ。
「だから、不本意だ。死ぬなら死ぬで、その時だ。放っといてくれりゃいいんだ。それをまたあいつは、猪を呼んで俺を運び去って、介抱してやろうっていうんだろ。勝手な奴だ。許せない。道理が通らない。俺のやりたいことじゃない」
聞けば、雀の翼が怪我をしているのも、信条の違いから言い争った末に鼬がやったものだと言うではないか。鼬は雀を治そうとしたが、雀はそれを受け入れなかったのだという。雀は狼にやられたと言っていた。それに、そんなことがあったと言うのに、鼬が倒れているのを見れば助けようとする。有り体に言って、奇特だ。もう、理解しようなどと言う気はさらさら起きない。
思うと鼬の言っていることは、ほとんどこれまで、私が感じてきた不満事の反復句だった。永い独り言は、そこで終わって、鼬はそれきり黙り込んだ。私が何の相槌も打たずに聞いていたので、一頭べらべらと喋っているのが阿保くさくなったのかもしれない。それでも、おそらく私がちゃんと話を聞いていたことくらいは伝わっていただろう。しかしそれは私にとって在り来たりなことではなく、いずれ特別なことだったと表現してもよいのだが、そこまでを鼬が察したとは流石に考えられない。
そうやってしばらく黙りこくっていると、猪を伴って雀が帰ってきた。雀は私たちに、きちんといい子に、仲良くしていたのかと聞いて、それが質問であったならば本来空けるべきだった間も空けないうちに、何か世間話でもしていればいいのに退屈な連中ね、と嘲ってきた。私と鼬は顔を見合わせて、どちらからともなく鼻を鳴らした。仮に仲良く喋るようなことがあったとしても、それをお前に見せてやる義理はないのだ。雀は我々からの見下し切った目線に、からかわれた子供のような調子でもうと怒った。
雀が怒り出すと、なんだかひと段落した感じがする。終わりの時間を告げる鐘のように、眠たくなってくるのだ。猪が鼬を背負ってのしのしと歩いていくのに便乗することにした。背中に揺られていると、もう、意識を奪い去っていく何か魔の手の者が、風よりも早く私の眼路を覆いつくした。
***
だんだんと思い出してきた。つながってきた。あの女。館で私の世話をさせてやっていたあの女だ。あの女は為政にかかわるものだった。あそこに生きていた時からこれまで、気付いていなかった。あれは人を動かし、地域を管理して生きていた。雀から虐待のようにさんざっぱら受け続けた話が夢の中にまで出て来るようになって、ずっと反芻して身の内に染み込んできていたものだから、唐突に理解できたのだ。
思うにあれは気品だったのかもしれない。優雅と言うべき何かを身に纏っていた。そうか、あれに世話を……いや、私は飼われていた。そうか。理解すると意外と悪くない、誇らしい気分になった。誇らしい。これまで、私がもっとも誇らしいと思っていたのは命を喰らって自分のものにする時だった。それはいつも血の匂いがする。かぐわしくて、愛おしい匂い。
私は戸惑いを表出した。いつものように隠し通して澄まし顔でいることもできないほどに。己ではない誰かが優れていることを、己のことのように誇らしく思うだと? この山へ来てからというもの、こんなことがいくつもいくつもある。雀は色んなことをぺらぺらと喋るが、とどのつまり私にこう思ってほしいのだ。「これはもっと良くならないものか」と。何事に対しても。
そしてもはや、私が雀の話に対してうんざりする振りをすることすらなくなった頃、雀の翼は治った。これで他のみんなの上に乗り過ごす暮らしも終わりか、と名残惜しそうにしていた。私の頭の中には鼬の顔が浮かんだ。私ではないものの憂い事だったが、それはいつのまにか私の憂い事にもなっていた。
もっぱら私の背に乗って、ずっとさえずり続けていた雀が飛び去って行くのを見て、私はもっと惜しむ気持ちがあったり、あるいはせいせいしたりすると思ったのだが、ずいぶん薄情なことに何も感じなかった。しかし、それを薄情と感じること自体、以前の私にはなかったものの筈なのだ。
横を見やると蛍が居た。雀と一緒に行かないのかと尋ねると、人間のいるところで見聞を分けてもらって帰ってくるのが、雀のかつての日課だったらしい。そんなことにまでいちいち付き合うことはないのだという。蛍はだんだんと力を付けてきて、妖力のない虫たちを操ったり、多少大雑把な意思なら相手の心に届けたりすることができるようになっていた。
雀がいなくなって感慨はなくとも、一人自由な時間が増えたことには変わりがない。というより、しばらくして、あいつの話をずっと聞いていたばかりにこれまで本当に疲れていたのだと気付いた。それ以前の自分に比べて、まったくと言っていいほど歩き回らなくなっていたのだ。たまに狼が襲ってくるのを惰性で殺してやっていただけで。
そう自覚すると突然、体がなまりになまっているような、骨という骨が音を立てるような、そんな感覚がした。肉球一つ動かすのも、以前より数段精度が落ちているような気がしてしまう。無論大概は気のせいなのであろうが、何しろ野生というのは刹那の動きが生死を分ける場面が散見された。取り戻すのに苦労しそうだ。
大げさに運動をしながら山の中をうろうろしていると、猪と、周りに狸が何匹かいるのを見つけた。私は本当に以前と比べて分別がついてしまったなとうんざりする事実ではあるが、「はぐれ」とわかると私は喰ってはならないという気持ちになる。
狸はこちらを見ると少しおびえたような顔をしたが、私は知らないふりをした。
「私たちが担ごうという神輿に向かって、そんな態度をするものじゃありませんよ」
猪はそうやって狸たちをたしなめた。それでも狸たちは顔を見合わせて少しの間まごまごしていたが、意を決したように私の元まで寄ってきて、脚に頭を摺り寄せてきた。猪の方を見ると、相手をしてやりなさいとでも言うように、首をくいと上げた。
私は思案して、脚を上げて狸たちの頭を少しずつ撫でてやった。猪は私のそんな様子をみて、まあと意外そうな声を上げた。こいつは私が狸たちを蹴っ飛ばしたりするかもしれないと思っていたのだろうか? 私にはもともと、食べるつもりもない相手を痛めつけるような趣味はないのだ。狸たちは殊の外うれしそうにしていた。
「ふうん、そこまで丸くなったのですね。雀の辛抱強さには参りました。それとも、あなたの元々の気質を見抜いていたのかな」
「何を言ってる、私は……」
最後まで言い終わる前に、蛍が激しく明滅した。覚えている。この光り方は敵対者の来訪を意味していることを。私が気付けないことを怪訝に思って鼬に聞いてみたことがあるが、単に狼たちは気配を消すのがずば抜けてうまいのだと言っていた。蛍は虫たちと連絡を取り合って、近くで動くものを把握しているので正確な索敵ができるのだと。
そのような逡巡に気を取られている間に、猪は蹴り飛ばされて吹っ飛んだ。何をぼさっとしていたのだろう。何をおいても考えごとをする頭へと作り替えられてしまったのだろうか?
狼は三匹いた。そのうち二人は人間態で、猪を蹴ったのは女の方だった。男の方はあと一匹の、一際大きい狼を撫でながら、もう片方の手で蛇を握っていた。蛇は逃げろと叫んだが、その瞬間に頭から喰われた。蛇の叫びと共に狸たちは逃げた。だらんと、長く白い体が、男の手から垂れ下がって、そこから血がばたばたと零れ落ちた。明らかにこいつが親玉だった。
逃げろだと? 逃げろもくそもない。そもそも当初、私は向こうからやってくるのを待っていたのだ。それがこの蛇におまじないをかけられてしまったばかりに、このようなことになったのだ。忌々しいことだ。あいつが今あんな死体を晒しているのはあいつの行いが回ってきた結果なのだ。愚かだ。私はこのようなことを一切気にしない。勝手に死んだのだ。私とは関係がないことだ。
「ずいぶん探したよ。この蛇がお前たちの要だったようだな。まったく、艱苦の至りだった。こんなものにずっと手間取らされてきたというのは」
狼の男は、逃げ出した狸の一匹を目敏く、それでいて素早くとっつかまえた。そしてそれを粘土のようにこねると狼になってしまった。ああ。どれだけ殺してもどこからか湧いてくるのも、返り討ちにして喰ってみてもあんまりおいしくないのも、こういうことだったか。はらからをたくさん殺された割には憤慨した様子がこいつらにないのも頷ける。覚えている。さっきあの中で一番最初に、私に寄ってきた狸だ。男が手をかざすとそれが襲ってきたので喉笛を嚙みちぎって殺した。血の味が口の中に広がった。いつも食べていたのと変わらない、香しい。襲ってきたのだから仕方ない。これまでだって機会がなかっただけで、はぐれの中で襲ってきたやつがいたら同じように殺しただろう。普段の行動原理と変わらぬ行動をとったに過ぎない。何ら問題を表明してはいない。私は何も失ってはいない。
向かい合っていると、猪がやってきた。ぴんぴんしていた。猛烈な勢いで女の方へぶつかっていった。雑魚狼ならそれで木っ端微塵になるはずだったが、女は雑魚ではなかったようで、猪の体を受け止めながら視界の外へ押し出されていった。
「お前たち、邪魔なんだ。増やしても増やしても狼が減っていってしまうので、いつまでたっても山の外に意識を向けられない。とはいえ、縄張りにいる身内が歯向かってくるので潰そうというのは、それなりに楽しかったが」
男が、狼を撫でていた方の手をかざすと、狼が襲ってきた。男の方も後ろからやってきた。二匹がかりで私を殺そうというのだろう。
喰うか喰われるか以外のことを考えて相手の命を脅かそうとするのは初めてだったので、勝手が分からずずいぶん余計な怪我をした。
***
結果だけ言うと、そんなに苦戦することもなく狼は殺せた。万全なら無傷で殺せただろうと思うくらい、大したことがなかった。あんな程度の奴にはぐれの連中は手こずって、逃げて、殺されてきたのかと思った。死体を見ながら呆けていると猪が這うようにしてやってきた。あちらも済んだようだ。とどめを刺し損ねていることを考えて猪の来た方を進むと、ただ血だまりがあるだけだった。いつもながら洒脱でない有様だと感じたが、私は己の殺し方にこだわりがあったのだなと、翻って思った。
戻ってくると猪は倒れていた。駆け寄るとまだ眼を空けて息をしていた。
「なんて顔をしてるの」
「顔? どんな顔をしてるっていうんだ」
猪は答えなかった。代わりに、疲れたので寝るだけですから、と言って目をつぶった。それから、もしよかったら木の実か何かを持ってきておいてくれないかしら、とお願いしてきた。図々しいやつだ。私の怪我が大したものではないと安心してそんなことを言っているのだ。
私は本当に気が利いた。頼まれてもいないのに鼬を呼んできて、傷を治させた。その鼬と一緒に、茸やら木の実やらも持ってきてやった。鼬は、まさか自分が居ない間に全部終わってしまうとは、拍子抜けというか、どうもならん、背中がスースーするような感じがするな、と言って、居心地が悪そうにしていた。戦わなかった分を取り返そうとしているのかと思うくらい、指図した分だけ動いた。
「この死体どもはどうするんだ? 喰っちまうのか?」
私は自然と、埋めるつもりでいたので面食らった。鼬にではない。そんな行為に及ぼうとしていた自分に。鼬は、私の顔を見て、なんだよ? 死んじまったらただの肉だろと続けた。まったくその通りだと思ったので、二人で食べてしまうことにした。蛇と狸は私に喰わせろと言うと、鼬はもちろん、飯を選ぶ権利はお前にあるさと答えて、素直に譲ってきた。
全ての死体が私たちの腹に収まったころに、雀が蛍を伴って帰ってきた。蛍はこういう時、その場に居たって役に立つことはないので逃げるように雀に言い聞かされていた。雀はあたりの地面にしみ込んだ黒い血液の量を見て、こちらの被害を訪ねた。蛇と狸が死んだと伝えると、死体のありかを気にしたので、咄嗟に鼬と一緒に埋めたと答えた。鼬の方を見ると、鼬も私と同じことを言った。
雀がその答えに納得したのかは知ったことではない。ただ猪が生きていたことは素直に喜んでいた。そのあと、雀は一晩中歌っていた。私にはそれがどういう歌なのかが分かっていた。暴君が斃れたことを祝う歌じゃない。鎮魂だ。これまで死んでいった、喰われていった、こねられて狼にされていった、遊び殺されてそのまま放置されていった、仲間たちの。
私がそれに対してどんな気持ちを抱いていたのかは自分でもわからない。それからしばらく、かつて狼だったのだろう崩れた肉のような何かが、何度か落ちていた。私は狼から飯を施されている様な胸糞悪い気分になって、今度は本当にそれらを埋めた。彼らは眠ることができたのだろうか。
***
「おい、雀」
「なあに」
「お前はこの山の奴らを大切に思ってるんだと私は考えていた」
「え? その通りだけれど」
「それなら妙なことがある」
「なによ」
「私は狼と戦って勝った。それでこれから、狼に殺される奴もいなくなるわけだろう」
「そうね」
「さっさとそうさせれば良かったんじゃないのか」
「ああ、それね」
「蛇にまじないをかけられた時に思った。誰がそんなことを頼んだんだよって。今もそう思ってる。あの時とは違う意味で。蛇は頭から喰われて死んだよ。私の前で。狸はこねられて狼にされたから、私が殺した。私がお前の話を聞いてうんざりしている間、そういう風に何匹殺されたんだ? あの時の私なら、そんなことに何の感慨もなかったはずだ。でも今は……。だから気になったんだ、お前のやってることは矛盾している。お前は何がしたいんだ」
「別に私が勝手にそうした訳じゃないのよ。みんな、納得してたことだった」
「なんだって?」
「だって、そうでしょ。私たち、狼のことがきらいで、狼にされるのが嫌で、怖くて、逆らって殺されたくなくて、気に入らなくて、はぐれなんて呼ばれながらこそこそ生きてたのよ。そりゃあ、突然強い猫があらわれて、そいつと狼をぶつけようって言ったやつも居たよ。でも、その後は? その猫がまた狼みたいなやつだったらどうするの? それか、もっとひどいやつだったら? 私たちにはあなたを判断する時間が必要だった」
「それで」
「それで、安心したわ。良いも悪いもない。あなたって、どこまで行っても強いだけのただの猫だったから。だからみんなで相談して、あんたを言いくるめて変えちゃうことにした。あなたって何にも知らないから、万が一にも狼の方に転んだりしないように。私たちに有利になるように」
「ふざけるな。それで、それで私はこんな……」
「なによう。いつもみたいに叩いてこないの?」
「ふざけるな……」
「なによう……」
「……」
「私だってねえ、いやだったよ。でも、どうやったって誰かは死ぬんだもの。みんなそれはわかってたよ。だから、誰が死んじゃっても、やっかまないでねって……みんなでね……みんなで……みんなみんなって、ほとんど居なくなっちゃったなあ……」
「……」
「えっとね、どうしてもいやなら、新しい主は鼬がやってもいいって言ってるの」
「あいつが?」
「うん。どうする?」
「私は……」
「うん」
「しばらく考えさせてくれ」
「そっか、わかったよ」
***
突き刺すようなうるさい、本当にうるさい星明りの下だった。鼬が火を焚いて、狸が捕ってきた魚を焼いた。獲物を生きたまま喰らうことに勝る喜びはなくとも、これはこれで心地がいい。
考えさせてくれと言って、一週間くらい経った。鼬にどういうつもりなのか聞いたが、私がやりたがらないなら仕方がないと言うだけだった。彼からすると、特にやることは変わらないのだという。縄張りを主張する。そこにいて害のないやつは放っておく。敵対的な奴がやってきたら殺す。それだけだ。というより、それが普通なのだ。前の狼や、さらにその前の主がおかしいのであって、鼬のやることがこのあたりの山々で日常、起こっている最低限の秩序だ。そして、それは元々私の生き方でもあった筈ではないか。
「それか、お前がその気になるまでの"代わり"って役でも、俺は別に構わない。狼を倒したのはお前だ。そのお前がやりたいっていうなら、俺は言うとおりにするよ」
だいぶん、殊勝に思われた。鼬のちかごろの態度は柔らかくて受容的だ。しかし雀から言わせれば、無理してとんがっていただけで、あれが本来の気質なのだと言う。鼬は以前、ざまあみろとつまらなそうに言っていた時と同じような顔をしている。おそらく私にしかわからない点と点。いつも、大事なことは自分のいない処で起こっていると、きっとそう感じているのだ。
正直になって考えてみても、今更主になるのが嫌とは思わない。特に、鼬がすると考えているようなものであれば猶更。ただ、私は自分がどのような主となって山を導いていくかということまでも考えてしまっている。
しばらく、皆が魚を食べながら喋っている処を呆けて見ていたが、雀がおもむろに立ち上がって、これからの夢を語らないかと言い出した。皆が雀の方を見て、何を言っているのかという顔をした。こいつはいつもこの突拍子のなさで私の躰に風穴を開けて、その中に白けた息を通してきた。
雀はいつも前向きで居たいだけだ。今は落ち込むままに落ち込んでいようだとか、そういうのがない。カラ元気を振りまいて周りの世話をしていれば、そのうち本当に元気になってくると思っている。自分はいつも元気でなければならず、元気でないなら必ず元気を出さねばならないのだと固く信じている。
夢って言ったってどうするんだよ、と皆は思い思い向き合ってどよめいた。それはそうだろう。今まで、必死に生きてきただけだ。夢がなくて悲しいとすら思わない。これまで、そんなものは平気でなかったのだ。誰ともなく、それならお前から手本を見せろと声がかかり、皆が再び雀の方を見た。
「私はねえ、まずは人間化に成功して、そしたら、お店をやろうかな」
「お店?」
「そう。人間はお店っていうのをやってる。価値のある物同士を交換し合う場所。私は何か食べ物を売りたい。そして人間に鳥が食べられないようにしたい」
すぐに、滑稽なことを言っていると思った。人間は、いや、人間はというより、すべての生き物は、食べられるものが増えたからといって、これまで食べていたものを食べなくなったりはしない。もっと言えば、雀はかつて、鳥のみが仲間だったのかもしれないが、今はそうじゃない。猫も蛍も鼬も蛇も狸も猪も鹿も栗鼠も蝙蝠も、雀にとっては仲間になってしまったはずだ。そしてそのどれも、人間は食べるだろう。中には普段は食べたがらないモノもあるかもしれないが、喰うに困ればきっと喰うだろう。
それら全てを己の思うとおりに変えようと言うのだろうか? そもそも、喰う喰われるという営みの中に、所詮は雀も組み込まれているのだ。雀とて何かを喰って生きているではないか。今しがた喰っていた魚が喋りだしたら、こいつは喰わなくなるのだろうか。きっと喰わなくなるのだろうな。
私のそんな怪訝は雀に筒抜けだったらしい。いや、何も、私だけがそう思っていたわけではあるまい。皆、大小の差こそあれ同じようなことを思ったはずだ。そんなもの、どうにもならないと思ったはずなのだ。しかし、雀はむしろこちらが凝り固まった考えに支配されているのだとばかりに、わざとらしく呆れて見せた。
「いいじゃない。食べるのも食べられるのも仕方のないことだけれど、仲間が食べられて悲しいって思うことだって、同じくらい仕方のないことでしょう。私なりの抵抗なのよ。せめて仲間くらいは、手の届く範囲くらいは、って。世界には仕方のないことがいっぱいあるけれど、仕方のないこと同士が絡み合って矛盾していて、どうしようもないこともいっぱいあるわ。あなたって私を頭でっかちと言って鼻で笑う割には、割り切ることができないことに対して免疫がなくてすぐに怒り出してしまうわよね」
蛍は雀の言葉に感じ入ることがあったのか、何度か光って同意を表明した。私は、そうまで意思が固いなら何も言うまいと思った。
そして雀は順番に、これからしたいことはないのか、あるんじゃないのか、探してみろと皆に聞いて回った。猪は特にないと言った。このまま、死ぬまで皆とここを守り暮らせればそれでいいと言った。別に拍子抜けはしない。むしろ清貧で強い言葉だ。鼬や蛍、他の連中も大体、似たようなことを言った。
「それで、あなたは?」
雀は最後に、私にも同じ質問をした。私は何がしたいのだろう。昔と違い、今の自分は「何かを成したい」「何かをもっと良くしたい」と思っていることは確かだ。
「別に」
「別にって、なんかはあるでしょ、なんかはさあ」
「そういえば」
「え?なあに?」
「前に話してた。パンとサーカスについて。お前は、どう思う?もっと大きな何か、あるいは、それ以外のすべてについて」
「全然わからないよ。何を言ってるの?」
「その話を聞いた時、考えていた。それには……それには、それ以外のすべてがある筈だ。それはなんだ?」
「えっと、食べ物と楽しいこと。だけじゃないの?」
私が答えずにいると、やがて雀は別の話を始めた。そうして、夜は過ぎていった。雀が答え合わせを持っていた訳でないなら、今の私の答えはこうだ。それはきっと、皆が自分の中に、自分の力で考え生きていくと固く思っている、その力のことだ。
食べることは他の何かを殺すこと。楽しいことはやりたいこと。こいつらは持っていた。持っていたからこの山の中ではぐれという生き方を選んだ。弱いやつじゃあなかった。こいつらはパンとサーカスを持っていた。
いや、きっと。パンとサーカスという言葉自体、それを与えられるのみの胡乱な生活をなじって使う言葉だったのかもしれない。でも。雀は好きだと言っていた。この言葉を。そうであれば、私は結局、それを与えるものになりたいのだ。パンとサーカスという心の生き方を。
とにかく、ここに来てからというもの、色々ありすぎた。暫くはおとなしく……そうだな、一人でいたい。今は広がった視界を如何に御するのかということだ。それも、もっと考えれば、もっと大きな何か、答えを見つけられるのだろうか?
もういいだろう。いい加減、変わってしまった自分に戸惑うのはやめにすべきだ。
***
ちかごろ、猪と鼬がいつも一緒にいる。何か深い関係性を築いていっているような、そのような雰囲気だった。きっかけは、猪が人型化に成功したことだ。鼬はその外見が好みで好みで完全にやられてしまったらしく、猪の処へ歩いて行っては拝み倒すような生活を繰り返すようになった。猪はそれを最初は邪険に扱っていたが、だんだんと満更でもなくなり、今は逆に何とも思っていないかのような振る舞いをしている。
どちらも人型ではあるが、猪は猪だし、鼬は鼬だ。子は成せまいと思っていた。蛍は、そういうの本当に無神経だと思うし控えた方がいいと私をなじってきた。雀と違って、蛍は尻尾で叩いたら死にかねないので、代わりにわざわざ雀を探してぶっ叩いてやった。雀は怒った。私と蛍は笑った。蛍は喋れるようになっていた。
雀が言うには、妖怪ならそんなの超えられるらしい。成せなかったとして、だからなんだよという感じだが。きっと、要は愛なんだろう。生き物としての正しさを追求して、悦楽のままに生きてきたと思っていたが、そういえば繁殖に関してはこれまで全く無関心だったと気付いた。しかたない。惹かれる雄なんて見たことなかったし。やっぱり最低でも私より強くないと。
猪と鼬が一緒にいるのを見ると、こういう営みが沢山存在して、それがただただ続いていくというのが、一番良いことなのかもしれないと思う。これまでそんなことを考えたことはなかった。考えたことはなかったが、私も人型になってみたい。なってやりたいことなど無いが、とにかく一度なってみたい。コツとかないのだろうか? なぜ私は人型になれないのだろう。
二人に聞いても、あまり要領のいい答えは得られなかった。猪は、あなたほど力があって、まだ出来てないことの方が私からすれば理不尽でなりませんと言った。鼬は質問に答えたりはせず、お前がそんなことを言い出す日が来るなんて、変われば変わるもんだなと驚いていた。お前にだけは言われたくない。猪の横でデレデレのお前の顔を、お前自身に見せる方法があるならば是非そうしたい。
一番よわっちくて期待してなかった蛍が、強く望んでいるかの問題だろうと言った。今なりたいと思ったばかりでは、望みのイメージが弱くて形にならないのかもしれないと。猪や鼬が言ったことよりは幾分腑に落ちる。そうだとすれば、私は人型になるという点において、今始まりに立ったのだろう。
「じゃあまずは、その夏目漱石が書いたみたいな喋り方から直しましょうよ。自分がなりたい人間の姿をイメージして、相応しそうな感じにしてみたら? 猪みたいな、すんごい美人さんって感じじゃないわよね。私的には、小さい女の子かなあ。生意気そうな感じの」
と雀は言った。夏目漱石とやらがなんなのかは寡聞にして存じ上げないが、馬鹿にされていることだけは分かったのでもう一度ぶっ叩いた。今度は脚で。お腹のいい処に当たったので、雀はうめいて倒れた。蛍は、やれることからやっていくのは大事だよとフォローを入れた。
やれることをやる。やりたいことのために。やりたいこと。人型になることが? それも今は含んでやってよい。しかし普段探している考えごととは違う。山の主になること? それは、やりたいのか? やりたくないのか? 今はこう思う。やりたいし、やりたくないのだ。そして、やり始めてしまえば、恐らく簡単にはやめられない。
私は為政に携わりたいのだろう。この山を導いていくことが、私のやりたいことなのだろう。そして、山に棲む大多数は、私がそうすることに対して肯定的に思われた。これまで具体的な処、何が嫌だったのかを考えていたが、それはやはり責任というものに対する忌避だったのだろう。
鼬の言うような手前勝手な縄張りの主張は、所謂責任というものが伴わない。私がこれまでしてきたこと。しかし、今私がしたいことにはきっと、その責任というものが伴うのだ。自分ではない何かを導く。より良く変えようとする。管理する。その「関係性」という名の渦の中で生きる。
そういう中で、己を律して過ごしていけるんだろうか? 無理だろう。そういったことと全く対極に生きてきた自分には。私はそういうことを悩んできたのだと思う。
「あなた真面目過ぎよ。実は、それって最初に会った時から。動物なら完璧に動物らしく生きてなきゃ気が済まなかったんでしょ。そして今は、頑張って完璧に責任を背負うことに尻込みしてるんでしょ。無駄よ。だって完璧になんてできっこないんだから。この世には矛盾はいっぱい存在してても、完璧なんていうのは存在してないって、私は思うわね」
雀は起き上がってそう言いながら、私の視界を真っ暗にしてきた。私は蛍に喋っていたのに。いや、そもそも、蛍に喋っていたのだって、昔の名残で、ついついうっかりだ。意思疎通ができないからこそ、なんでも独り言の延長線で喋れていたのだ。それが近頃口答えをするようになってしまったので、もうやめるべきなのだが、癖が抜けていないというだけの話だ。
結局その日は一日中、何も見えないままだった。陰湿な報復だ。しかし、突然見えなくなるからびっくりするだけで、鼻だけでもそこまで支障がないことに途中で気付いた。
***
いよいよ今日、鼬に主を変わってくれと伝えに行ったのだが、様子がおかしかった。道中、木がいくつもなぎ倒されていたり、血だまりが散見された。あの山犬は知っている。はぐれの頃は狼と同一視されて嫌われていたが、献身的なやつだった。横腹が食い破られている。いつもの溜まり場に着くと、鼬と猪が死んでいた。
猪は躰が片胸から上しか残っていなかった。絶望と呼ぶにも生温いような、断末魔に歪んだ顔をしていた。そこからは、鼬が一目でやられた時のような美しさの欠片も感じられなかった。断面には一杯に鼬の薬が塗ってあったが、ひび割れるように血液が空しく零れ出していた。鼬はその上に覆いかぶさって倒れていた。背中が引き裂かれていた。薬の入った壺は、空だった。意味が分からなかった。あまりに動揺して、少しの間立ち尽くしてしまった。
雀と蛍を連れてくると、どちらも悲痛を表明した。それはそうだろうなと思った。私は二人を埋めた。雀は、あの傷跡は熊の爪によるものだろうと言った。熊。熊がどこから湧いてくるというんだ。突然現れたって言うのか。
違う。鼬が言っていた。隣山の主が熊に殺されたと。そもそも多分、そいつは食料を求めて隣山へ入ったのだ。隣山も禿山にしてしまったので、今度はここという訳なのだろう。喰うか喰われるかという営みに、二人は負けてしまったのだろう。
そして、二人が居なくなってしまったので、私が山の主ということになる。縄張りを主張できるほどの力を持った妖怪など、この山には他に誰も居ないのだ。私がやらねばならない。そして、その最初の仕事。
殺さねばならない。縄張りを侵した不届き者を。
猪には皆よくしてもらっていた。敵対者を一番積極的に排除していたのは彼女だった。悩みがあれば誰のものであれ聞いてやっていたし、餌場を見付けては仲間に教えまわっていた。鼬だって、昔から態度は横柄でも傷を負えば皆が奴を頼っていたし、頼られれば鼬はなんだかんだ言っても必ずそれに応えた。それに最近はずいぶんと丸くなって、誰もあいつを怖がったりはしなくなっていたのだ。曲がりなりにも主をやっていただけのこともある。
そんな二人の仇を討つということに、山の連中は乗り気だった。力を合わせて奴を殺してやろうという黒い炎に燃え上がった。何しろ、これまで最低二つの山を更地同然に変えてしまったやつだ。放っておけばこの山もそうなってしまう。雀ですら、その火の手からは逃れられはしなかった。
足跡を見てみた処では、人間態ではない。また、命からがら逃げおおせた奴らの供述では、口がきけそうな様子はなかったらしい。その程度の奴に猪と鼬が負けたのか? その疑問には、熊というだけで人間から惧れをもらいやすく、強いのだと雀が答えた。そして大抵の場合、熊の妖怪はその惧れに耐えられず暴虐なものになることが多いとも。
いずれにしても殺す以外の方法を私は持っていないのだが、それを聞いてしまってはある意味では憐れと言える。同情の色が覗いた私の顔を見て、雀は狼狽えた。段々、私の変化に驚くのは私ではなく他人の役になってきたようだ。
皆にまでこのような気持ちで戦ってもらう必要はない。今は復讐心のままにあの熊を押しつぶしてしまった方がよいのだ。効率的な面で言っても、それがいい。
***
熊の暴れぶりを直に見て、すぐに考え直した。皆などというものは、まるでなんの役にもたたない。それはそうだ。こいつら全員集まったって、あの弱い弱い狼たちにもまったく敵わなかったのだ。それの何倍も強いのであろう熊が腕をひとたび振ると、屑が風に吹かれるように誰もが死んでいった。遠巻きに見ていただけだったはずの蛍などは、その余波だけで足が何本か千切れ飛んで地面に叩きつけられていた。
熊が威嚇の声を上げると、視界が赤くなって体中を怖気が通った。私が逃げろと叫ぶまでもなく、復讐心に黒く染まっていたはずの皆の目がみるみる力を無くし、情けない声を上げながら散っていった。誰も居なくなり、私と熊だけが残った。とはいえ、熊はそれなりに手傷を負っていた。鼬と猪も、成す術なくやられたわけでは無いらしい。片目から新鮮な血を滴らせている。
少し殺し合うと、そう猶予もないうちにお互い瀕死になった。私でもなんとか相打ちには持っていけそうだという事実に、どこか安心のようなものを覚えた。きっと最後まで抵抗したのだろう二人に感謝せねばならないと思っていると、熊がこれまでよりも一段早い動きで猛然と襲い掛かってきた。なんと間抜けだったのだろう。この期に及んで他所事を考えるとは。避けるのが間に合わない。だめだ。死んだ。この山はもう終わりだ。
刹那、生きてきたこれまでの記憶が蘇ってきた。事の起こり。あの館から逃げようとさえしなければ、今も安穏無事で暮らしていたのだろうか? だが一度も戻りたいと思ったことはない。それは、あの女がいかに鋭く、そして優れた女であったのか理解できたあの時からも。まさにこの命を散らそうとしている今この瞬間ですらも。
自由に生きた。明日の飯のことなど、絶対に考えなかった。明日が今日になれば、喰いたいものは違うかもしれなかったのだから。飽きればすぐにどんなものでもゴミに変わったし、それを空しく思ったこともない。手塩にかけて育てた縄張りを捨ててきたのも、その生き方の表出にすぎない。
今は何をしている? そんな、これまで捨ててきた縄張りの一つでしかないこの山を、命を懸けて守っている。いや、山というより、そこに暮らす何某か達をだ。そしてそれを果たせず、無力に死にゆくことに悔恨を覚えている。涙すら流している。
しかし私は死ななかった。熊の腕が明後日の方向に振り下ろされた。雀が駆けつけて、熊の視界を奪っていた。雀は、非常時には皆の避難誘導を最優先に動くよう事前に決めてあった。それが済んだということだ。
そうして暫く、有利に戦うことが出来たのだが、やはり持っている力に差があったのか私の方が先に力尽きた。加えて、熊も段々、視界の奪われた状態に対応してきていた。
「ミスティア!」
今度こそ駄目かと思うと、雀の名前を呼ぶ蛍の声が聞こえた。その瞬間、私の視界は奪われた。そして熊の、狼狽えたような叫び声が聞こえた。私は蛍が熊の眼を眩ませたのだと直ぐに理解して、最後の力を振り絞って熊の眼孔を正確に刺し貫いた。
熊は倒れた。それきり、熊は動かなくなった。私も倒れこんで目を閉じた。もう二度と起きることは無いのだろうなと思いながら。
***
「なんだ、もう終わっているじゃないか」
知らない声が聞こえて意識を取り戻すと、雀が蛍を伴ってこちらの様子を伺っていた。蛍は辛うじて息があるようだが、少なくとも意思の疎通が可能な状態ではなさそうに見える。片や、五体満足だった雀はもう、そのまま干からびるのではないかという程に紅涙を絞っていた。気を失ってから、そう大きく時間は経っていないように思える。身なりの良さそうな女が熊の前に立っていた。視界が掠れて正確に物が分かる自信がないが、尻尾が沢山あるように見える。あれは狐の尻尾だろうか。
「あれはお前がやったのか? 見上げた根性だな。あの熊はいくつも山を終わらせてしまうので、私が出向くことになったんだよ。見どころがありそうなら式にしてやろうと思ったのだけれど、死んでしまってはなあ」
狐は近づいてきて私にそう言った。私は来るのが遅いと文句を言った。自分の口から出た声が、あまりに息も絶え絶えだったので笑いそうになったが、それすら満足にできなかった。せき込んで血が出た。喋るごとに命を消費している感覚すらあった。狐は笑いながら私に謝った。
「悪いな。見た処、お前はもうすぐ死ぬだろう。お詫びと言ってはなんだが、お前を私の式にしてやろう。そうすれば助かるぞ」
式というのが何か分からず黙っていると、これから一生私の下に付いて、働いて生きていくのだと狐は説明した。冗談じゃない。小間使いじゃないか。山からも離れねばならない。そんなのはごめんだ。このまま死んだ方がいくらかマシだ。
「なんだその顔は。なあに、そう邪険にしたものじゃないさ。お前はこの山の主だったのだろう。私の仕事はこの幻想郷を管理することなんだ。その手伝いをするっていうことは、大変稀有で代えがたい体験だと思わないか?」
山の主。私はそれを。結局は何も成せなかった。管理。幻想郷を。もっと良くする。それは私のやりたいこと。違う。だめだ、考えがまとまらない。当然だ。これから死のうとしているんだ。今こうしている間にも、血が流れ出て地面に染み込んでいっているのが分かる。条件。そうだ。条件がある。この山を安全に管理しろ。安穏無事にしろ。死んでいない奴らは全員治せ。それが出来るなら式でもなんでもなってやる。きちんと言葉にできているか自信が無かったが、狐にはなんとか伝わったようだ。狐はまた笑った。
「命が助かるっていうのに、条件とはな。やはりお前は面白い。まあ、そのくらいならいいだろう。さあ、少しじっとしているんだ……そら、これで、取り敢えずすぐに死んだりはしないだろう。痛みも軽くなったんじゃないか? これから、私の主人のいる処に連れて行くからな、もう少しの辛抱だ」
狐に担ぎ上げられた私を、雀が見ていた。雀は、どうあれ私の命が助かるならばと思ったのか、何も言わず私を見ていた。ただ翼をはためかせた。別れを告げるように。私は身じろぎすら出来なかったが、雀の眼をじっと見て、それが答えになれば良いと願った。
遠く小さくなっていく雀の姿を見ていたが、狐はずっと喋っていた。そろそろ貴女も部下の一つくらい持てとずっと言われていたのだとか、式となれば通常は元の姿や記憶を失うが、特別に、出来る限りそうならない様に調整してやろうだとか、そういうことを話していた。
今更そんなことを言いやがって。そんなもの、死んだのとそう変わりはないじゃないか。幻想郷の管理者とやらが約束事にどの程度骨を折ってくれるのかも分からない。山は本当に平和を取り戻すのだろうか。私はこれからどうなるのだろうか。この狐の忠実な僕となるのか?
あの館に居た時からこれまで、全く別人と言って良いほど変わってきた私だったが、変わらないものもあった。私は誰の下にも付いたことがない。誰の言うことにも、それが本当に気に入らないものであれば従ったことなどない。
いや、本当にそうだろうか? 私は己に対して誰の指図も受けないと自負があったが、館では結局、己の状況に対してある程度の妥協をしていたではないか。幻想郷へ来たのもそうだ。私を幻想郷へ連れてきた何かは、結局居たのか? 居なかったのか? いずれにしても、それは私の意志とは関係なく起きた。私はその時、地団駄踏んで怒りまくって、それでも結局どうにもならず諦めて、ここで生きていくことにしたのではなかったか。しかも、私はそれらに、薄々気付きながらも生きてきたのではないか。
「あなた真面目過ぎよ。実は、それって最初に会った時から」
雀の言葉を思い出して、どうでもよくなった。どうでもいい。どうでもいいというのは、心地いいモノかもしれない。そして、それに気付くのには少し、いや、かなり、遅かったかもしれない。
思えば私はお前に、本当に大事なことは殆ど何も言ってこなかった気がする。お前が最後、私に何も言わなかったことには納得がある。お前はすでに、私に沢山の言葉をくれてきたのだから。反面私はどうだろう。言葉を伝える力も残っていなかっただけだ。済まない。これは真面目ではない。ただの悔恨だ。許してほしい。私はお前を、悪く思っていやしない。お前は気にしちゃ居ないだろうけれど。
雀はまだ辛うじて見えている。と思う。あまり自信はない。その辺の茶色い石ころと勘違いしてしまっているかもしれない。視野の端から順番に、どんどんとボヤけていっている。
幻想郷を管理するものの一つに、私はきっとなるのだろう。それは楽しいだろうか。空しいだろうか。しかし、どうせそうなるならば、よりよいものに。この山に棲む者たちに、幻想郷に棲む者たちに、パンとサーカス。パンとサーカスを。食べ物と、楽しいことを。そしてそれ以外のすべてを。
何か隙間のようなものを通って景色が変わり、雀の姿が完全に視えなくなったのと同じ辺りで、体中の力が抜けて思い通りにならなくなるのを感じた。ただ、まどろみの中に消えていく己が、次は何に混ざっていくのだろうかと疑問を投げかけるのみだった。
(おわり)
自分が変化してしまったのを自覚した時に、それに対して困惑し戸惑うのは至極当然の営みだと思います。その当惑を自分の中で消化していく行為もまた当然のものでそうした営みを何度も繰り返しながら生き続けていくわけですけど、この橙は生きている大半を精神的な孤独に生きていきてきた訳で、そうした変化と自覚の経験がなかった分、それに対しての耐性がなく激情的なまでになってしまったのだろうなと思いました。
今作の橙は粗暴のようで真面目であると言及されていましたが、実際それをミスティアに言われるまで橙も、読んでいる自分もそれに気付けなかったのはなんというか驚きでした。語り手が橙であり、それ故に彼女の表層心理の表現が殆どであるものの、読者という目線を持って彼女を見る事ができた筈なのに、その本質までに気づく事が出来ずにいたのが悔しいと感じました。と同時に橙の本質が、型に完璧にはまるべきだという真面目さである事に納得を感じました。彼女の行動原理が分かったような気がしてひどくすっきりしたような気分になりました。
その後、裏切られたかのように幸せであった猪と鼬が死んでいて、酷い気分になりました。橙もかつて動物として過ごしてきた中で沢山のものを奪ってきましたが、人間性を獲得し、動物として抜け出していた者達が、口も聞けないような殆ど動物の妖怪にやられたのはひどい皮肉だなと思います。
この作品に出てきた、はぐれの妖怪達はみんな好きになれて、しかし、その別れを経験するのも当然辛く、それでも彼等と関わる事が出来た、橙の深い精神世界を見る事が出来たのは本当に良かったです。ありがとうございました。
この世界でミスティアと再会したとき、橙はどんな風に変わって、あるいは変わってないんだろうか
その小さく自立したコミュニティで過ごしているうちに変わっていく橙の心情の機微が丁寧に綴られており、心地よく読み進めることができました。自身の変化に気づきながら、悩みを抱きつつも流されるように生きている様が素敵でした。彼女は単純な意味でのパンとサーカスなら、少なくとも生まれた時からすでに享受できる立場にあって、それでもそこに甘んじず館から出ていったのは知恵を持つ者ゆえの必然であったように感じました。戦いでは負け知らずで育った彼女ですが、その無知な傲慢さはとても元飼い猫らしくあり、また自然から逸脱した妖怪らしさでもあると思います。そして不遜の態度を崩さないまま、考えて悩んでしまうところが人間的でもありました。食事と居場所があれば自由を、それが手に入れば自然さを、そして次に為政や愛を、知識と力を得てそれを自覚すればするほど、欲しいもの、やりたいことが変わっていくのは自然です。熊と対決して引き分けに終わる部分が印象的でした。あの熊は、ミスティアたちと出会わなかった姿なのかもしれないと。もちろんもともとの気質は違うのですが、お互いが振るう暴力性はとても似ていると感じたのです。ただみんなと良い関係性を築けた橙はとても恵まれていると改めて感じます。きっとこれからも橙は強欲に悩み続けるのでしょうが、そのくらい多面性を持つからこそ藍に気に入られたのかも、なんて思ってしまいました。素晴らしい過去話でした。
孤高を生きる橙が少しずつ変わっていく姿がとてもよかったです
終盤で猪と鼬が死んだときに自然に次の主は自分だと感じている橙に新たな強さを得たのだと感じました
橙の過去ってこうだよなぁと唸りました
総じて、橙の過去を作者様の世界に上手く落とし込んで描いた名作だと思います。
素晴らしい作品をありがとうございました。
それが段々と思考が纏まらずに言葉を矢継ぎ早に投げ掛ける、そんな地の文が多くなっていく。その絆され具合はこの作品の中でずば抜けた対比関係を放っていたに違いない。そうしてやがて、妖獣達との関係性を保持したいという願望や山の統治の行く末への憂慮にまで至る。
これはそもそもにして為政に関わる家で飼われていた時からそうだったのかもしれないが、彼女は最初から一貫して真面目だった。それが人間性という型で括られた時にノブレスオブリージュのような形で内面に影を落とし始めたようにも思える。
熊との戦いは、それが顕著に出ていた。だから逡巡して一人負けしそうになったし、蛍と雀の助力を得てなんとか生き延びる事へとも繋がるし、藍にも頼み事をする立場であろうに条件を出す。だが、それが読者としては自身が人間性を獲得した事に橙がやっと納得したという事実として捉えられ、なんとも愛おしかったのだ。
終盤雀との別れで、橙は『本当に大事なことは殆ど何も言ってこなかった気がする』と言っていたが、その実橙は他の妖獣達に対してその力で安寧を与えていた。それに気付いていないのは本人だけなのに。
彼女が雀を視界で捉えきれなくなったシーンは、意識の混濁か距離の問題かはたまた涙を湛えていたからなのかは文中からは判断出来なかったけれども、曲がりなりにも彼女は山やそこに属する妖獣達が好きだったのだと薄々自覚していそうで、物語の締めとして心地良い物だったに違いない。
個人的な話ではあるが、この物語を雀も蛍も生き延びるのだろうという実感を得ながら読めたのはある意味ではそのキャラクターが謂わば原作のキャラクターだったからで、逆に言えば蛇が死んだ時点で雀と蛍以外は全員死ぬのだろうなあという気分で読み進める事となっていた。
そういう視点で読んだからこそ、その死ぬ妖獣達はそこまでに何かしらの導線を引く役割なのだろうと感じる事が出来たし、それを抜きにしても皆良いキャラクターをしていたようにも思う。そして肉は肉なのだとも。
ともかく良い過去譚をありがとうございました。
橙の段々と代わっていく様が物語の中で自然に表されてて、引っかかることもなく最後まで読み切っちゃいました。
この橙が今後は藍や紫と共にあって何を思っていくのかも見てみたい気もします。
猫のエミュレートが上手かったのが印象的でした。独自味のある個性的な性格が興味深く、周囲に絆されていく様が巧みに描かれていて面白かったです。
原作のキャラクターにあまり寄っていないなと思いつつも、接続を意識したであろうことが感じられた点も良かったです。
飼い猫から野生を経て社会を知って自覚が芽生えた橙の物語として、
橙の物語なのでしょうか、橙の物語としてとても丁寧でそれでいて突き放したような文章。
式となる前の橙がもしこのような過程を経ていたのであれば、
橙は今何を思い何を考えているのか。
できる限り残された人間性でもって何を感じているのかは興味深いところ。
本当に評価に迷う作品ですが
それでも作者の腕力に屈した自覚があるのでこの点数で。
楽しめました。自分でも驚くくらいには。